京極家
きょうごくけ @@@LINK=京極家 京極家

京極家
きょうごくけ

鎌倉時代の歌学の3宗家の一つ
ほかに冷泉・二条両家がある。藤原定家の子為家の2男為教 (ためのり) を祖とし,積極的な写実主義により2家と鋭く対立したが,2代為兼の失脚後断絶した。
京極氏
きょうごくし @@@LINK=京極氏 京極氏

京極氏
きょうごくし

近江国(滋賀県)北部の守護大名で,室町幕府の四職 (ししき) 家の一つ
宇多源氏出身。近江国佐々木氏の嫡流で六角氏と同族。高氏のとき室町幕府創立に功をあげ,近江ほか5カ国の守護となる。高詮 (たかあきら) のとき,四職家の一つとなり権勢をふるう。応仁の乱(1467〜77)後衰えたが,高次が豊臣秀吉に仕え再興。江戸時代,大名として各地に転々と封じられ,明治に及んだ。
京極為兼
きょうごくためかね @@@LINK=京極為兼 京極為兼

京極為兼
きょうごくためかね

1254〜1332
鎌倉末期の歌人
藤原定家の孫為教 (ためのり) の子。持明院統の伏見天皇に仕え,両統迭立 (てつりつ) に関与し朝幕間に政敵多く,1298年佐渡,1315年土佐に配流された。この間,'11年『玉葉和歌集』の撰進を命じられ翌年完成。その繊細な感覚的表現と率直な描写は沈滞した鎌倉末期の歌壇に清新の気を示した。

共産主義
きょうさんしゅぎ
communism
@@@LINK=共産主義 共産主義

共産主義
きょうさんしゅぎ
communism

広義には,私有財産を否定して財産の共有を主張する思想をさすが,狭義には,マルクス主義の唱える,社会主義社会の究極的段階である無搾取・無階級の社会を理想とする考え方をさす
マルクスとエンゲルスが資本主義社会を科学的に分析し,その崩壊と共産主義社会の到来の必然性を明らかにして以来,一般的にはマルクス主義を共産主義の意に用いるようになった。
京職
きょうしき @@@LINK=京職 京職

京職
きょうしき

律令官制の一つで,京の一般民政をつかさどる官職
京は中央の朱雀大路 (すざくおおじ) によって,左京と右京に分かれ,それぞれ左京職・右京職が置かれた。京職は国司に準じる職掌で,大夫 (たいふ) 以下の四等官があり,下級官庁として,市を管理する東市司・西市司が付属していた。のち検非違使 (けびいし) 設置により有名無実となった。
行商人
ぎょうしょうにん @@@LINK=行商人 行商人

行商人
ぎょうしょうにん

店舗を持たず,買い手を訪問して売り歩く商人
古代から存在し,中世にはを結成して遠隔地行商に従った。近世以降は店舗商業および商品輸送組織の発展に伴い,その意義を減じたが,近江商人,富山の売薬商人は有名。
共進会
きょうしんかい @@@LINK=共進会 共進会

共進会
きょうしんかい

明治政府が殖産興業のために開いた見本市
内務省が主催して1879年横浜で開いた製茶共進会が最初で,その後年々盛んになり,中央官庁や府県主催で行われた。農産物・生糸・織物などを取り扱い,内国勧業博覧会とともに,産業の発展に貢献した。
行政官
ぎょうせいかん @@@LINK=行政官 行政官

行政官
ぎょうせいかん

明治初期の行政機関。七官の一つ
1868年政体書により設置。神祇・会計・軍務・外国の4官を轄し,天皇補佐,国務・宮中庶務を担当した。翌'69年の官制改革により太政官となる。
京大事件
きょうだいじけん @@@LINK=京大事件 京大事件

京大事件
きょうだいじけん

滝川事件
協調外交
きょうちょうがいこう @@@LINK=協調外交 協調外交

協調外交
きょうちょうがいこう

1924〜27,'29〜31年の期間,外相幣原 (しではら) 喜重郎によって推進された外交政策
イギリス・アメリカとの協調を基本とし,中国における革命の機運に対し,中国の要求の一部を認めることで対処しようとしたもの。加藤高明内閣(第1・2次)以後憲政会・民政党内閣のもとで進められ,田中義一内閣(政友会)の強硬外交(積極外交)と対比される。そのねらいは中国市場の回復と日本の権益を守ろうとするところにあったと考えられるが,軍部右翼から軟弱外交と非難された。
経塚
きょうづか @@@LINK=経塚 経塚

経塚
きょうづか

経文を土中に埋めた塚
経を地下に埋め,末法の後までも伝えようとしたもの。平安中期に始まるといわれる。経を経筒に入れ,刀剣などとともに,地中に設けた石組などの施設に埋めた。藤原道長が1007(寛弘4)年大和金峰山 (きんぷせん) に埋納した経筒が有名。
京都
きょうと @@@LINK=京都 京都

京都
きょうと

京都府南部にある府庁所在地。794(延暦13)年から1868(明治元)年までの帝都
794年桓武天皇のとき,奈良から遷都し,平安京を建設。律令国家の首都として繁栄した。鎌倉時代,経済都市としても発展。室町時代には幕府が置かれ,特に洛北が発展,町衆も勃興し活躍した。応仁の乱(1467〜77)で焦土と化したが町衆の力で復興し,その後,豊臣秀吉は大規模な市街整備を行った。江戸時代には西陣の機業などを中心に繁栄し,江戸・大坂と並んで三都の一つに数えられた。東京遷都とともに帝都としての地位を失ったが,平安京以来の古社寺が多く,観光都市として世界的に有名である。
共同運輸会社
きょうどううんゆがいしゃ @@@LINK=共同運輸会社 共同運輸会社

共同運輸会社
きょうどううんゆがいしゃ

1882年,三菱会社の海運界独占に対抗するために創立された半官半民の運輸会社
品川弥二郎により計画され渋沢栄一らが重役となったが,中心は三井。採算無視の競争を行ったが,政府の調停で1885年三菱会社と合併,日本郵船会社となる。
教導職
きょうどうしょく @@@LINK=教導職 教導職

教導職
きょうどうしょく

明治初期の国民教化官
1872年神祇省に代わった教部省のもとに設置。神官僧侶を任命して準官吏とし,神道信仰を民衆に説いて教化しようとした。しかし信教自由の思想と仏教界側の反対が強くなり,'77年教部省の廃止に伴って消滅した。
共同体
きょうどうたい @@@LINK=共同体 共同体

共同体
きょうどうたい

経済史では,近代資本主義に先行する段階における社会構成体の一つとしてとらえられる
近代以前の社会では,人間の共同生活を営む独自の形態がみられた。日本では,古代の,中世の惣,近世の小家族の結合などに具体的に現れているが,その共同の程度・分野・状態にはさまざまな差異がある。日本の村落においては,農家相互の連帯,したがって村落の社会的結合の異常な強さが,個人対個人の社会関係ではなく,家対家の結びつきとなって示されている。共同と呼ばれる内容にも,結 (ゆい) のような労働作業,共有地や入会漁場のような利用受益,氏神や産土神 (うぶすながみ) の祭りのような祭祀祈願の形などがあり,具体的な姿としての共同体を一定基準によってとらえることは難しい。
協同党
きょうどうとう @@@LINK=協同党 協同党

協同党
きょうどうとう

日本協同党
協同民主党
きょうどうみんしゅとう @@@LINK=協同民主党 協同民主党

協同民主党
きょうどうみんしゅとう

日本協同党後身。1946年5月結成。
京都大番役
きょうとおおばんやく @@@LINK=京都大番役 京都大番役

京都大番役
きょうとおおばんやく

鎌倉幕府御家人役の一つ。京都に勤番して皇居洛中の警固を行った。
京都学連事件
きょうとがくれんじけん @@@LINK=京都学連事件 京都学連事件

京都学連事件
きょうとがくれんじけん

1925〜26年,学生社会科学連合会が弾圧され,治安維持法最初に適用された事件
京都五山
きょうとござん @@@LINK=京都五山 京都五山

京都五山
きょうとござん

鎌倉五山と並び,中世期に最高の寺格をもつ京都の五つの臨済宗寺院
1386年足利義満のとき,天竜・相国・建仁・東福・万寿の5寺とし,南禅寺を五山の上として確定した。室町幕府の保護のもとに栄え,五山文学など文化上の中心的存在をなした。
京都御所
きょうとごしょ @@@LINK=京都御所 京都御所

京都御所
きょうとごしょ

京都市上京区の御苑内にある旧皇居
もと里内裏 (さとだいり) として用いられた土御門 (つちみかど) 東洞院殿の位置で,15世紀後小松天皇以来,正式の皇居となった。室町時代,土地・建物ともにわずかであったが,織田信長の修理,豊臣秀吉と徳川家康の造営を経て整備された。現存する建物は安政年間(1854〜60)の造営。
京都守護
きょうとしゅご @@@LINK=京都守護 京都守護

京都守護
きょうとしゅご

鎌倉初期における幕府の職名
1185年北条時政がはじめて派遣された。京都の治安維持と朝幕間の連絡・交渉が主要な任務。1221年承久の乱のとき,当時の京都守護伊賀光季 (みつすえ) (幕府方)と毛利親広(上皇方)が相争い両者とも討死。乱後はこれに代わって六波羅探題が設置された。
京都守護職
きょうとしゅごしょく @@@LINK=京都守護職 京都守護職

京都守護職
きょうとしゅごしょく

幕末,江戸幕府の職名
尊王攘夷運動による京都の治安の乱れと朝廷の動向に不安を感じた幕府が,1862年に設置したもの。京都所司代の上にあって京都の治安維持と御所警衛にあたった。会津藩主松平容保 (かたもり) が任ぜられ,一時松平慶永に代わったが,まもなく容保が再任された。'67年廃止された。
京都所司代
きょうとしょしだい @@@LINK=京都所司代 京都所司代

京都所司代
きょうとしょしだい

江戸幕府の職名
京都の治安維持,朝廷の監察や連絡,京都町奉行らの統率,京都周辺8カ国の天領における訴訟の処理,西国諸大名の監督などにあたった。室町幕府の侍所所司代に由来し,1600年奥平信昌 (のぶまさ) が初任。ついで板倉勝重・重宗父子が任ぜられて以来,譜代から選任され,老中につぐ要職であった。1867年廃止
京都大学
きょうとだいがく @@@LINK=京都大学 京都大学

京都大学
きょうとだいがく

京都市左京区吉田本町に本部を置く国立総合大学
1897年京都帝国大学として創設。理工科大学をもって出発し,順次各学部が完備。当初より自由主義的学風が強く,1933年には滝川事件がおこった。第二次世界大戦後,三高を統合して京都大学となる。
京都町奉行
きょうとまちぶぎょう @@@LINK=京都町奉行 京都町奉行

京都町奉行
きょうとまちぶぎょう

江戸幕府の職名で,遠国奉行の一つ。
教派神道
きょうはしんとう @@@LINK=教派神道 教派神道

教派神道
きょうはしんとう

1882年以降,国家が公認した神道13派の宗教団体
明治政府は,神社神道(国家神道)以外の神道に対して公認制を設けて統制したが,その公認された神道をいう。神社神道とは異なり,多くは教祖・教会・教典をもち,現実生活における幸福を説いた。神道大教・神理教・大社教・神道修成派・大成教・実行教・扶桑教・御岳教・神習教・禊教・金光教・黒住教・天理教の13教。
教部省
きょうぶしょう @@@LINK=教部省 教部省

教部省
きょうぶしょう

明治初年,寺社・宗教関係をつかさどる中央官庁
1872年神祇省の廃止により設置。神道国教化の理念もと従来宣教使を改めて教導職を置き,国民の教化にあたった。のち政府の宗教政策の転換により '77年内務省に併合された。
刑部省
ぎょうぶしょう @@@LINK=刑部省 刑部省

刑部省
ぎょうぶしょう

①律令制下の中央行政官庁。八省の一つ
②明治初年,司法行政を管轄した中央官庁
訴訟の裁判・刑罰の執行をつかさどった。9世紀初めの嵯峨天皇のとき,検非違使 (けびいし) の設置によりその機能を失った。
1869年刑法官に代わって設置されたが,'71年司法省の新設により廃止。
刑部親王
おさかべしんのう @@@LINK=刑部親王 刑部親王
ぎょうぶしんのう @@@LINK=刑部親王 刑部親王

刑部親王
おさかべしんのう

?〜705
天武天皇第9皇子。大宝律令編者
「忍壁」とも書く。671年父大海人 (おおあま) 皇子(のちの天武天皇)に従って吉野にのがれ,壬申 (じんしん) の乱に活躍した。681年天武天皇の命により記紀編纂にあたり,文武天皇のとき,701年大宝律令を完成した。持統天皇没後,知太政官事に任じられ,国政に参加した。

刑部親王
ぎょうぶしんのう

おさかべしんのう
岐陽方秀
ぎようほうしゅう @@@LINK=岐陽方秀 岐陽方秀

岐陽方秀
ぎようほうしゅう

1363〜1424
室町前期の臨済宗の僧
南禅寺第97代の主で五山文学者。4代将軍足利義持の帰依深く,明使来日の折,博学を称された。主著『碧巌不二抄』『琴川録』など。
享保の改革
きょうほうのかいかく @@@LINK=享保の改革 享保の改革

享保の改革
きょうほうのかいかく

江戸中期,8代将軍徳川吉宗(在職1716〜45)が行った幕政改革の総称
吉宗は紀伊藩主から将軍に就任し,元禄期前後から生じた幕府の財政難の対策を中心に30年間親政を行った。前代の正徳の治までの文治政治を改め,倹約令・武芸奨励で武士の気風を引き締め,相対済し令 (あいたいすましれい) で旗本・御家人の負債を整理した。財政収入増加策として,臨時に諸大名に上げ米 (あげまい) を命じ新田開発・農作物増産・定免法 (じようめんほう) で年貢を増徴し,備荒用に甘藷栽培もすすめた。その他目安箱・足高 (たしだか) の制・公事方 (くじかた) 御定書・米価調節・洋書輸入の禁緩和など新施策を精力的に実施,また株仲間公認による商業資本統制の端を開いた。こうして吉宗の晩年に年貢徴収高は江戸時代最高に達し財政は一時安定した。年貢取立てのきびしさについては,勘定奉行神尾春央 (はるひで) の「胡麻の油と百姓はしぼればしぼるほどとれる」という放言にもうかがえる。しかし商業資本に対しては,これを抑圧する政策と,これに依存し利用する政策がからまっているが,しだいに後者の傾向が強くなっていった。改革の成果は特に財政面でかなりの効果をあげたが,農村が疲弊し,商人が農村に進出,百姓一揆が激化し,江戸時代最初の打ちこわしも発生するなど,封建支配の危機がしだいに表面化していった。
享保の飢饉
きょうほうのききん @@@LINK=享保の飢饉 享保の飢饉

享保の飢饉
きょうほうのききん

1732(享保17)年,イナゴの害を主因として西国一帯におこった飢饉
天明・天保と並んで三大飢饉に数えられる。米価の著しい高騰は翌年の江戸の打ちこわしを誘発したが,幕府の米価の調節と豊作により,3年ほどでおさまった。
京枡
きょうます @@@LINK=京枡 京枡

京枡
きょうます

戦国時代,京都を中心とした地域で使用され,江戸時代から全国標準となった枡
豊臣秀吉が中世以来まちまちであった枡の全国統一をはかるため採用。当時の枡は現在よりやや小さかったが,江戸初期,規格も乱れ,関西の京枡と江戸で製作された京枡が併用されていた。そこで1669年,秀吉制定の枡に統一して新京枡とし,その製造・販売を樽屋に担当させた。
京焼
きょうやき @@@LINK=京焼 京焼

京焼
きょうやき

江戸時代,京都でつくられた陶磁器の粟田焼・御室 (おむろ) 焼・清水 (きよみず) 焼などの総称(楽焼は除く)
17世紀中ごろ野々村仁清 (にんせい) が有田焼・瀬戸焼の手法を導入し,金森宗和 (そうわ) の好みを反映した色絵京焼を完成。ついで出た尾形乾山とともに元禄時代の京焼盛況の素地をつくった。その後一時不振となったが,18世紀後半,清水焼に清水六兵衛・奥田頴川 (えいせん) らが出て京焼の主流となった。
清浦奎吾
きようらけいご @@@LINK=清浦奎吾 清浦奎吾

清浦奎吾
きようらけいご

1850〜1942
明治〜昭和期の官僚政治家
肥後(熊本県)の生まれ。山県有朋直系として法相・農商務相・枢密院議長を歴任し,貴族院・枢密院内に勢力をはった。1924年貴族院を中心に超然内閣を組織したが,第2次護憲運動で攻撃され,5か月で総辞職。晩年重臣に列した。

共和演説事件
きょうわえんぜつじけん @@@LINK=共和演説事件 共和演説事件

共和演説事件
きょうわえんぜつじけん

1898年,第1次大隈重信内閣の文相尾崎行雄の舌禍事件
1898年8月の帝国教育会で来賓として出席した尾崎文相が,金権万能主義の現状を批判し,「日本に共和政治が行われたとすれば三井・三菱は大統領候補となろう」と演説。政党内閣出現に批判的であった山県有朋らはこれを「不敬」であると攻撃し,尾崎は辞職。憲政党は分裂し内閣も崩壊した。
曲亭馬琴
きょくていばきん @@@LINK=曲亭馬琴 曲亭馬琴

曲亭馬琴
きょくていばきん

滝沢馬琴
極東委員会
きょくとういいんかい
Far Eastern Commission @@@LINK=極東委員会 極東委員会

極東委員会
きょくとういいんかい
Far Eastern Commission

略称FEC。第二次世界大戦後,連合国が設けた対日政策決定機関
1945年12月,モスクワでアメリカ・イギリス・ソ連の三国外相会議で設置を決定。1946年2月,ワシントンの旧日本大使館に本部が置かれ,拒否権をもつアメリカ・イギリス・ソ連・中国とフランス・カナダ・オランダ・インド・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピンの11カ国で構成された('49年から13カ国)。政策決定のない場合アメリカが中間指令を出す権限をもっていたため,占領政策は事実上アメリカ政府および連合国軍最高司令官の意図で決定された。'52年サンフランシスコ平和条約の発効により消滅。
極東国際軍事裁判
きょくとうこくさいぐんじさいばん @@@LINK=極東国際軍事裁判 極東国際軍事裁判

極東国際軍事裁判
きょくとうこくさいぐんじさいばん

第二次世界大戦後,連合国側が,日本の指導者の戦争責任を追及した軍事裁判
東京裁判ともいう。ポツダム宣言に基づき,1946年東京市ケ谷の旧陸軍省で開廷。アメリカ・ソ連イギリスなど11人の裁判官により構成され,その結果,'48年11月,戦争謀議や人道に対する罪で東条英機・広田弘毅ら7名に死刑,木戸幸一ら18名に禁錮刑の判決が下された。「平和に対する罪」という法理に基づき,戦争責任を個人が問われたこと,その追及が満州事変にまでさかのぼったことなど,注目すべき点が多いが,事後法という問題や,連合国側の行為が問われなかったことなどの問題点もあった。
玉葉
ぎょくよう @@@LINK=玉葉 玉葉

玉葉
ぎょくよう

平安末期〜鎌倉初期,関白九条兼実 (かねざね) の日記
『玉海』ともいう。66巻。1164年から1203年までの兼実が政務にたずさわった時期にわたり,この時代の政治・社会・公武関係などを知るうえでの第一級史料。
玉葉和歌集
ぎょくようわかしゅう @@@LINK=玉葉和歌集 玉葉和歌集

玉葉和歌集
ぎょくようわかしゅう

鎌倉後期,第14番目の勅撰和歌集
1312年刊。20巻。伏見天皇の命で京極(藤原)為兼が編集。約2800首をおさめ,勅撰集中で最大。歌は清新な叙景歌が多く,感情・感覚の真実性を重んじ,素朴美・官能美を表現。『万葉集』を重視。京極派歌人の和歌が多い。
挙国一致内閣
きょこくいっちないかく @@@LINK=挙国一致内閣 挙国一致内閣

挙国一致内閣
きょこくいっちないかく

国家の危機に際し対立する諸党派が協力してつくる内閣
特に五・一五事件(1932)直後の斎藤実 (まこと) 内閣・岡田啓介内閣をさすことが多い。五・一五事件直後,軍部圧力政党内閣制をやめ,穏健派軍人を首班とした軍部・政党の超党派的内閣が成立。実際には政党排除の傾向をもち,政党の攻撃をうけた。それ以後では二・二六事件('36)後,軍部の干渉のもとに成立した広田弘毅内閣などの例がある。いずれにせよ,実態は各勢力の寄せ集めで,強い政治力を発揮しえなかった。
清沢満之
きよざわまんし @@@LINK=清沢満之 清沢満之

清沢満之
きよざわまんし

1863〜1903
明治時代の宗教思想家
尾張(愛知県)の生まれ。東本願寺で得度 (とくど) をうけ,東大哲学科卒。在学中ヘーゲルに傾倒。門下を集めて1900年東京で浩々洞を組織,翌年機関誌『精神界』を発行して精神主義を提唱し,仏教界の革新運動を推進した。

馭戎慨言
ぎょじゅうがいげん @@@LINK=馭戎慨言 馭戎慨言
からおさめのうれたみごと @@@LINK=馭戎慨言 馭戎慨言

馭戎慨言
ぎょじゅうがいげん

江戸後期,本居宣長の国学書
1777年刊。2巻。正しくは「からおさめのうれたみごと」と読む。宣長の古道説を端的に表現したもので,崇神天皇から徳川家康に至る日本と朝鮮・中国との交渉あげ北条時宗豊臣秀吉の毅然たる態度を賞賛し,中国書籍の虚構批判,日本尊重を説いた。

馭戎慨言
からおさめのうれたみごと

ぎょじゅうがいげん
清洲城
きよすじょう @@@LINK=清洲城 清洲城

清洲城
きよすじょう

愛知県西春日井郡清洲町にあった城
応永年間(1394〜1428)に尾張国守護斯波 (しば) 義重が築城,以後斯波氏の居城となった。1555年以降,織田信長の拠城として繁栄したが,1610年徳川義直が名古屋城を築いて移転し,廃城となった。
キヨソーネ
Edoardo Chiossone @@@LINK=キヨソーネ キヨソーネ

キヨソーネ
Edoardo Chiossone

1832〜98
イタリアの銅版画家
1875年政府の招きで来日。大蔵省紙幣寮(のち印刷局)で紙幣・郵便切手などの製版・印刷の指導にあたった。また明治天皇・西郷隆盛・大久保利通らの銅版肖像画を残している。日本で没した。
清原氏
きよはらうじ @@@LINK=清原氏 清原氏

清原氏
きよはらうじ

①平安初期の皇族賜姓 (しせい) の一つ
平安時代の出羽国の豪族
学問の家柄。天武天皇の皇子舎人 (とねり) 親王子孫。2系統あり,804年御原王 (みはらのおう) 系の夏野 (なつの) が,850年貞代王 (ざだよのおう) 系の有雄が清原真人 (まひと) の姓を賜る。夏野は『令義解』の編纂者として著名。清少納言は,貞代王系に連なる。
代々俘囚 (ふしゆう) の長で,武則 (たけのり) のとき,前九年の役に功あり,以後奥羽地方で勢威をふるったが,のち一族の内紛から後三年の役を誘発源義家介入を招いた。武則の養子清衡以後,藤原氏を称した(奥州藤原氏)。
清原家衡
きよはらのいえひら @@@LINK=清原家衡 清原家衡

清原家衡
きよはらのいえひら

?〜1087
平安中期,奥羽の豪族
武則 (たけのり) の孫。後三年の役で,藤原清衡・源義家と争い,金沢柵で叔父武衡とともに敗死。

清原清衡
きよはらのきよひら @@@LINK=清原清衡 清原清衡

清原清衡
きよはらのきよひら

藤原清衡
清原武則
きよはらのたけのり @@@LINK=清原武則 清原武則

清原武則
きよはらのたけのり

生没年不詳
平安中期の出羽の豪族
俘囚 (ふしゆう) の長。前九年の役(1051〜62)に源頼義・義家を助けて安倍貞任 (さだとう) 征討尽力。功により1063年鎮守府将軍となり,安倍氏の旧領をあわせて奥羽の大勢力となった。
清原武衡
きよはらのたけひら @@@LINK=清原武衡 清原武衡

清原武衡
きよはらのたけひら

?〜1087
平安中期の武将。奥羽の豪族
武則 (たけのり) の子。後三年の役(1083〜87)に際し,甥の家衡を助けて金沢柵に拠り藤原清衡・源義家らに抗戦,敗れて殺された。
清原夏野
きよはらのなつの @@@LINK=清原夏野 清原夏野

清原夏野
きよはらのなつの

782〜837
平安初期の学者
舎人 (とねり) 親王の曽孫小倉王の第5子。右大臣・民部卿となり,京都の西方双ヶ岡 (ならびがおか) に山荘を建て双岡大臣とも称された。藤原緒嗣 (おつぐ) らと『日本後紀』を撰修。また『令義解 (りようのぎげ) 』を撰上し,内裏式の改訂にも参加した。漢詩が『経国集』に収録されている。
清原宣賢
きよはらのぶかた @@@LINK=清原宣賢 清原宣賢

清原宣賢
きよはらのぶかた

1475〜1550
戦国時代の儒者
舟橋宣賢ともいう。吉田(卜部)兼倶 (かねとも) の子で清原宗賢 (むねかた) の養子。明経 (みようぎよう) 道の家学を継ぎ,新古2注の解釈により新生面を開く。また神道では『日本紀神代巻鈔』を著し,御成敗式目の注釈書『式目抄』をも著す。晩年は越前朝倉氏に招かれ,地方文化の興隆に貢献した。

清原元輔
きよはらのもとすけ @@@LINK=清原元輔 清原元輔

清原元輔
きよはらのもとすけ

908〜990
平安中期の歌人。三十六歌仙の一人
清少納言の父。「梨壺の五人」の一人として『万葉集』の研究に従事し,『後撰和歌集』を撰んだ。『拾遺和歌集』以下の勅撰集に約105首をおさめ,家集として『元輔集』がある。

清水寺
きよみずでら @@@LINK=清水寺 清水寺

清水寺
きよみずでら

京都市東山区清水町にある法相宗の寺
798年坂上田村麻呂が延鎮(賢心)を開山として建立。のち興福寺の末寺となり,観音信仰の霊場として繁栄した。争乱や天災によりたびたび焼失し,現在の建物は江戸幕府3代将軍徳川家光が再建したもの。崖 (がけ) にのぞんでの舞台造は有名。
清水焼
きよみずやき @@@LINK=清水焼 清水焼

清水焼
きよみずやき

江戸初期,京都におこった陶磁器。京焼の一つ
京焼のうち,五条坂一帯で焼かれるものをいう。完成者は野々村仁清 (にんせい) で,典雅な色絵の陶器をつくり,近隣の諸窯に影響を与えた。天明(1781〜89)ころに出た奥田頴川 (えいせん) らの影響をうけて中国風の磁器を主体とするようになり,京焼の主流となった。
浄御原令
きよみはらりょう @@@LINK=浄御原令 浄御原令

浄御原令
きよみはらりょう

飛鳥浄御原令
清元節
きよもとぶし @@@LINK=清元節 清元節

清元節
きよもとぶし

江戸後期におこった浄瑠璃の一派
1814年ころ富本節の2代目富本豊太夫が家元と衝突し,清元延寿太夫(初代,1777〜1825)と改名して創始した。歌舞伎の舞踊音楽として富本節より派手で軽快。洒落と粋をもって,語り方を大衆の好みに合わせたので,幕末から明治期にかけて隆盛した。
居留地
きょりゅうち @@@LINK=居留地 居留地

居留地
きょりゅうち

条約を結んだ国が相手国人に一定の限界を設けて居住・営業を許可する地域
安政の五カ国条約ではじめて問題となり,明治初期までに横浜・長崎・神戸・大阪・東京などに置かれた。1899年撤廃。
吉良義央
きらよしなか @@@LINK=吉良義央 吉良義央

吉良義央
きらよしなか

1641〜1702
江戸前・中期の幕臣
上野介 (こうずけのすけ) と称し,江戸幕府の高家 (こうけ) として,儀式・典礼をつかさどった。1701年赤穂藩主浅野長矩 (ながのり) をはずかしめ殿中刃傷に至らしめたことから,翌年12月,赤穂藩牢人によってを討たれた。
キリシタン
christão @@@LINK=キリシタン キリシタン

キリシタン
christão

16世紀以来,カトリックとその信徒に対する呼称
ポルトガル語のchristão(キリスト教徒)に由来し,漢字で「吉利支丹(のち切支丹)」とも書く。ザビエルの布教後,戦国大名や織田信長の保護で西日本に普及。大友宗麟らのキリシタン大名は天正遣欧使節を派遣し,南蛮文化も流行した。豊臣秀吉は1587(天正15)年抑圧に転じて,'96年宣教師ら26人を長崎で処刑した(二十六聖人殉教)。1605年信徒75万。江戸幕府も政治的・思想的理由から, '12年 直轄領に,'13年全国に禁教令を出し,宣教師や高山右近らの信者を国外に追放した。'39年の鎖国後,禁教は徹底したが,一部に隠れキリシタンを生んだ。明治政府も初め五榜の掲示にみられるように禁止していたが,1873年ようやく禁止を解き,信仰を黙認した。
キリシタン大名
キリシタンだいみょう @@@LINK=キリシタン大名 キリシタン大名

キリシタン大名
キリシタンだいみょう

16世紀後半,キリスト教に改宗した大名
九州の大村純忠・大友義鎮(宗麟)・有馬晴信,近畿の高山右近・小西行長・蒲生氏郷 (がもううじさと) らが有名。洗礼をうけ,教名を用い,ローマ字印章などを使用し,その保護でキリスト教が普及。豊臣秀吉・徳川氏禁教令により17世紀中ごろ消滅した。
キリシタン版
キリシタンばん @@@LINK=キリシタン版 キリシタン版

キリシタン版
キリシタンばん

近世初め,キリスト教宣教師などによって発行された活版印刷物
ヴァリニャーニのもたらした活版印刷機により島原で印刷されたのが始まりで,長崎・京都などでも出版された。キリスト教関係や日本古典など多方面にわたり,特に天草版が有名。
切捨御免
きりすてごめん @@@LINK=切捨御免 切捨御免

切捨御免
きりすてごめん

江戸時代,支配階級である武士の特権の一つ
武士に無礼をはたらいた町人・農民を斬り殺しても罰せられない特権。不文律として明治初年まで続いたが,所定の手続きを怠った場合,また斬られた方の非が少ない場合は処罰されることもあった。
キリスト教
キリストきょう @@@LINK=キリスト教 キリスト教

キリスト教
キリストきょう

仏教・イスラム教とともに世界の三大宗教といわれる宗教
イエス=キリストによって開かれ,広い人類愛と神の福音を説いた。長期にわたる迫害を克服し,古代ローマの政治力と結びついて発展,中世ヨーロッパで強盛を極めた。ヘレニズムとともにヨーロッパ文明の一大源流をなす。16世紀の宗教改革によって,これまでのカトリックに対してプロテスタント(新教)がおこった。日本にはザビエルによってカトリック教が伝えられ,キリシタンとして一時期栄えたが,江戸幕府はこれを禁圧し,鎖国を導いた。
キリスト教社会主義
キリストきょうしゃかいしゅぎ @@@LINK=キリスト教社会主義 キリスト教社会主義

キリスト教社会主義
キリストきょうしゃかいしゅぎ

19世紀中ごろのイギリスに始まるキリスト教精神に基づく社会主義
日本では安部磯雄・木下尚江ら初期の社会主義者の大半がキリスト教社会主義者であった。
切妻造
きりづまづくり @@@LINK=切妻造 切妻造

切妻造
きりづまづくり

建築様式の一つで,に本を半開きに伏せたような屋根形式
切り落としたような屋根の両端切妻といい,大阪住吉神社・伊勢神宮出雲大社社殿がこの形式。古代では真屋と呼ばれ,寄棟造よりも格式が上。現在も各地で見ることができる。また切の面に入口のあるのを妻入り,平の面(棟と平行側面)にあるのを平入りという。
桐一葉
きりひとは @@@LINK=桐一葉 桐一葉

桐一葉
きりひとは

明治中期,坪内逍遙の戯曲
1894〜95年,『早稲田文学』に連載。片桐且元と淀君との対立の悲劇を描いた新歌舞伎の代表作。
切米
きりまい @@@LINK=切米 切米

切米
きりまい

江戸時代,旗本御家人・諸藩士に米または金で支給された俸禄
支給をうける武士を切米取蔵米取)という。幕府の場合,蔵米取は春(2月)・夏(5月)・冬(10月)の年3回扶持米をうけた。そのうち春・夏の分を御貸し米,冬の分を御切米と呼んだ。もと蔵米取は軽輩の御家人に限り,ほかは知行地を与えられる知行取であったが,江戸中期ころから知行取も名目化し蔵米取に移行した。
桐生
きりゅう @@@LINK=桐生 桐生

桐生
きりゅう

群馬県東部,渡良瀬 (わたらせ) 川沿岸にある都市。絹織物生産地として著名
江戸時代,機業地として急速に発達。18世紀初頭,京都西陣から高級織物技術を導入し,縮緬 (ちりめん) ・絽 (ろ) ・ (しや) などを生産,やがて西陣に迫るまでになった。明治初年,ジャカード・バッタン力織機を採用して生産を進めた。1921年市制施行
季禄
きろく @@@LINK=季禄 季禄

季禄
きろく

律令制において,在京の官人や大宰府・壱岐 (いき) ・対馬の官人に与えられた俸禄
官職にない者や地方の国司には支給されなかった。1年を春夏・秋冬の2期に分け,2月と8月に官位に応じて絁 (あしぎぬ) ・綿・布・鍬 (くわ) などを支給した。10世紀以後行われなくなった。
記録所
きろくしょ @@@LINK=記録所 記録所

記録所
きろくしょ

②建武政府の政治機関の一つ
①記録荘園券契所の略称。
1334年後醍醐 (ごだいご) 天皇が親政復活を目標として,後三条天皇の政治的意図に沿って再興した。名和長年楠木正成らを寄人 (よりゆうど) とし,一般政務と訴訟にあたらせた。
記録荘園券契所
きろくしょうえんけんけいしょ @@@LINK=記録荘園券契所 記録荘園券契所

記録荘園券契所
きろくしょうえんけんけいしょ

平安中期に設置された令外官 (りようげのかん) の一つ
記録所ともいう。1069(延久元)年に後三条天皇が荘園整理事務のために設置。荘園の証拠書類(券契)を提出させ,寄人がその審理にあたり,1045(寛徳2)年以後の新立荘園と,それ以前でも由来の明らかでないものを停止した。天皇の死後消滅したが,以後たびたび設置された。
義和団事件
ぎわだんじけん @@@LINK=義和団事件 義和団事件

義和団事件
ぎわだんじけん

1899年から1901年にかけて,中国華北におこった排外的な民衆運動
北清事変ともいう。欧米列強の帝国主義的な進出に反抗して,義和団(白蓮教系の秘密結社)を中心として民衆がおこした中国の排外抵抗運動。「扶清滅洋」をスローガンに各国公使館やキリスト教会を襲撃,一時清朝の支持をうけて勢いがあったが,日本を中心としたイギリス・ロシア・アメリカ・フランス・ドイツ・イタリア・オーストリアの8カ国連合軍の出兵により北清事変と呼ばれる国際的事件に拡大,結局連合軍に鎮圧された。清朝は1901年北京議定書に調印。この結果,中国の半植民地化が促進され,ロシアの満州駐兵は日露戦争の原因ともなった。

きん @@@LINK=金 金


きん

第Ⅰ族(銅族)に属する黄金色の金属
砂金洗取による採金は原始的な技術で,日本では原始時代から室町時代まで続いた。記録の上では,701年陸奥国での冶金,749年同国からの黄金貢納が『続日本紀』にみえる。産地は陸前陸中本吉気仙磐井などの諸郡が中心で,10世紀奥州藤原氏が平泉で強勢をふるった時代には産金額も著しく増加した。16世紀になると戦国大名の金銀山開発によって,金の採掘が激増した。金銀は銅銭に比べて高い価値をもつ流通貨幣として通用し,戦国大名は軍用金・恩賞として用いたが,江戸幕府は金山を直轄とし,金座をおいて,大判・小判・一分金などを鋳造・発行した。日宋貿易の発展以来,中世,日本の中国への重要な輸出品となり,幕末の通商条約締結後の金の流出は著名である。日本では1897(明治30)年金本位制が確立した。1931年の金輸出再禁止以来,金本位制は復活していない。しかし,国際通貨としての重要性は変わらない。

ぎん @@@LINK=銀 銀


ぎん

第Ⅰ族(銅族)に属する銀白色の金属
古来15世紀までは,対馬が唯一の産地で,産出も少なく,中国銀を輸入していた。16世紀半ばから戦国大名の開発と銀精錬法の改良で,石見大森(島根県)・但馬 (たじま) (兵庫県)生野銀山をはじめ全国的に開発され,産額は激増し,中国を除く世界銀生産の30%を生産。南蛮貿易など外国貿易で輸出品の首位を占め,ぼう大な量が海外に流出した。しかし,17世紀半ばから産額は減少し,以後江戸幕府は輸出の禁,もしくは制限を加えた。江戸時代は秤量 (ひようりよう) 貨幣として銀座で銀貨を製造。19世紀,世界的な銀の増産で本位貨幣としての地位を失い,日本でも明治維新後採鉱技術の近代化により増産が行われた。
金槐和歌集
きんかいわかしゅう @@@LINK=金槐和歌集 金槐和歌集

金槐和歌集
きんかいわかしゅう

鎌倉前期,源実朝の歌集
『鎌倉右大臣家集』ともいう。1213年刊。1巻。書名の「金」は鎌の偏,「槐」は大臣を示す語。概して新古今調であるが,万葉調の歌は格調高く,独自の風格をもつ。
金閣
きんかく @@@LINK=金閣 金閣

金閣
きんかく

室町前期,足利義満が京都北山に営んだ山荘遺構で,三層の楼閣建築
1397年,義満は莫大な費用を投じて豪華な別荘を建て,彼の死後禅宗寺院鹿苑 (ろくおん) 寺となった。金はその一部で舎利殿 (しやりでん) として建てられ,初層・中層寝殿造,上層は禅宗様の様式による三層の楼閣である。中層・上層の外壁金箔をおいたところから金閣の通称で呼ばれる。1950年放火により焼失したが,その後復原再建された。
銀閣
ぎんかく @@@LINK=銀閣 銀閣

銀閣
ぎんかく

室町中期,8代将軍足利義政が京都東山に造った山荘内の建物
山荘は義政の死後寺院とし,慈照寺となった。閣はこの慈照寺の観音殿をいい,1489年の完成。仏殿書院造の住宅が結合した建築。寺内には義政の持仏堂である東求堂 (とうぐどう) もある。仏間同仁斎 (どうじんさい) と呼ばれる書院などからなり,その庭園とともに東山文化趣向をよく表している。
緊急勅令
きんきゅうちょくれい @@@LINK=緊急勅令 緊急勅令

緊急勅令
きんきゅうちょくれい

大日本帝国憲法の中にある非常立法手段の一つ
議会閉会中,緊急を要する事態に対して,次の会期で議会の承認を求めることを前提に,枢密院の判断を経て,法律と同一の効力をもつ立法が行われた。1927年金融恐慌対策としての田中義一内閣の緊急勅令(支払猶予令)および治安維持法改正や,'36年二・二六事件,'45年ポツダム宣言受諾のときの行政戒厳令などが著名。
禁教令
きんきょうれい @@@LINK=禁教令 禁教令

禁教令
きんきょうれい

近世キリスト教禁制のための法令
最初キリスト教を黙認した豊臣秀吉は,九州征討直後,長崎が教会領となっていることを知り,1587(天正15)年博多で禁教令を発し宣教師を追放,禁教政策に転じた。江戸幕府もはじめキリスト教を放任していたが,1612年天領に,翌年全国に禁教令を布告した。3代将軍徳川家光のとき,さらに強化して大弾圧を行い,やがて鎖国政策となった。
金 玉均
きんぎょくきん @@@LINK=金+玉均 金+玉均

金 玉均
きんぎょくきん

1851〜94
李氏朝鮮末期,親日独立党の政治家
1884年閔 (びん) 妃一派の事大党政権を打倒しようとして,甲申事変をおこしたが,清の反撃によって失敗し,日本に亡命。閔妃側のスパイに誘い出されて上海で暗殺された。
金々先生栄花夢
きんきんせんせいえいがのゆめ @@@LINK=金々先生栄花夢 金々先生栄花夢

金々先生栄花夢
きんきんせんせいえいがのゆめ

江戸後期,恋川春町の黄表紙
1775年刊。黄表紙の先駆をなす。片田舎の青年金村屋金兵衛が諸国見物の途中,粟餅屋の店頭でうたたねをした間に栄達遊蕩を夢みる筋。中国の邯鄲 (かんたん) 説話をアレンジしたもので,洒落本的な「通」を織りまぜ,当時の風俗を描出,好評であった。
金銀比価問題
きんぎんひかもんだい @@@LINK=金銀比価問題 金銀比価問題

金銀比価問題
きんぎんひかもんだい

開国後,幕末貿易における金貨流出などの問題
当時,金との交換比率(比価)が,日本では1:5,外国では1:15であったため,多量の金貨が国外に流出し,日本の経済混乱をいっそう促進し,はげしい攘夷運動がおこる一因となった。
金銀複本位制
きんぎんふくほんいせい @@@LINK=金銀複本位制 金銀複本位制

金銀複本位制
きんぎんふくほんいせい

金貨銀貨両方本位貨幣とする制度
1871年の新貨条例金本位制を採用したが,財政難や,アジア諸国が銀本位であったため,'78年貿易決済にはを用いるようになり,貿易1円銀貨と1円金貨を等価値にした。'97年の金本位制実施まで行われた。
金座
きんざ @@@LINK=金座 金座

金座
きんざ

江戸時代の大判を除く金貨鋳造所
1595年徳川家康が後藤庄三郎光次を江戸に招き小判鋳造にあたらせたのが最初。以後代々後藤家が御金改役(長官)を世襲。勘定奉行の支配のもと地金買入れ,小判・一分金などの金貨鋳造を独占した。初め江戸・京都・佐渡に設置したが,やがて京都・佐渡は廃止,江戸は明治維新まで続いた。
銀座
ぎんざ @@@LINK=銀座 銀座

銀座
ぎんざ

江戸時代の銀貨鋳造所
1601年伏見に設けたのが最初で,'08年京都に移した。同じころ駿府(のち江戸に移す)・大坂・長崎にも設けたが,1791年一時廃止され,江戸のみ再興。大黒常是 (じようぜ) 家が代々御銀改役(長官)を世襲し,勘定奉行の支配のもと丁銀・豆板銀などの銀貨を鋳造した。明治維新後に廃止された。
金城(錦城)
きんじょう @@@LINK=金城(錦城) 金城(錦城)

金城(錦城)
きんじょう

大坂城
金石文
きんせきぶん @@@LINK=金石文 金石文

金石文
きんせきぶん

金属・岩石・瓦・木材などに記された文字や絵画
古墳から出土する刀剣・墓碑銘などが古く,ほかに鏡のまわりに刻まれた鏡銘,仏像の造像銘などがある。漢字伝来以後の歴史的事実を証明する重要な史料である。
金石併用時代
きんせきへいようじだい @@@LINK=金石併用時代 金石併用時代

金石併用時代
きんせきへいようじだい

石器時代から青銅器時代へ移る過渡期
利器の材料として,青銅と石材とが併用された時代をいう。日本では,弥生文化がこれに相当する。しかし,わが国では青銅器が利器としては十分普及せず,同時に鉄器も伝来したので特殊な形をとった。
金属器時代
きんぞくきじだい @@@LINK=金属器時代 金属器時代

金属器時代
きんぞくきじだい

青銅器時代鉄器時代の総称
利器の材料として金属が用いられた時代で,新石器時代の次にあたる。日本では水稲耕作や金属器の利用は生産力を飛躍的に増大させ,社会に階級分化をもたらした。
金属材料研究所
きんぞくざいりょうけんきゅうじょ @@@LINK=金属材料研究所 金属材料研究所

金属材料研究所
きんぞくざいりょうけんきゅうじょ

1922年,本多光太郎東北帝国大学に設立した研究所。
禁中並公家諸法度
きんちゅうならびにくげしょはっと @@@LINK=禁中並公家諸法度 禁中並公家諸法度

禁中並公家諸法度
きんちゅうならびにくげしょはっと

江戸幕府が朝廷および公家を統制するために出した法令
禁中方御条目・公家諸法度ともいう。金地院崇伝 (こんちいんすうでん) が起草。1615(元和元)年発布。17条からなり,内容は「天子は学問を第一と心得べきこと」をはじめ,親王公卿の席次,三公・摂関の任免,改元など諸般にわたっている。
欽定憲法
きんていけんぽう @@@LINK=欽定憲法 欽定憲法

欽定憲法
きんていけんぽう

君主の意志により制定された憲法
国民の総意に基づき憲法制定議会で制定される民定憲法に対していう。大日本帝国憲法がその例。
金 日成
きんにっせい @@@LINK=金+日成 金+日成

金 日成
きんにっせい

1912〜94
朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者
平壌市の生まれ。1930年代には,朝鮮の北部国境地帯と東満州が反日武装闘争の拠点となったが,これを指導し,解放地区を拡大した。'45年8月ソ連の対日参戦とともに,朝鮮人民革命軍を率いて祖国に入り,'46年北朝鮮人民委員会を組織し,土地革命その他重要政策をつぎつぎと実行した。'48年朝鮮民主主義人民共和国の樹立とともに首相,'72年国家主席となる。チュチュ主体思想を唱え,死去するまで最高指導者の地位にあった。
金肥
きんぴ @@@LINK=金肥 金肥

金肥
きんぴ

江戸時代,農家が貨幣で購入した肥料
江戸時代に入り商品作物栽培がさかんになるに伴って,人糞肥・堆肥 (たいひ) などの自給肥料のほかに購入肥料が使われるようになり,油粕 (あぶらかす) ・干鰯 (ほしか) がその代表であった。
禁秘抄
きんぴしょう @@@LINK=禁秘抄 禁秘抄

禁秘抄
きんぴしょう

鎌倉初期,順徳天皇の有職故実 (ゆうそくこじつ) 書
『順徳院御抄』『禁中抄』『建暦御記』ともいう。1221年ごろの成立。2巻本と3巻本とがある。宮中行事・儀式政務などに関する故実・作法を記したもので,後世に至るまで有職故実の基準とされた。
金平浄瑠璃
きんぴらじょうるり @@@LINK=金平浄瑠璃 金平浄瑠璃

金平浄瑠璃
きんぴらじょうるり

江戸前期,江戸に流行した浄瑠璃
江戸の桜井和泉太夫(のち丹波掾)が創始。坂田金時の子金平の武勇談を操 (あやつり) 芝居上演,その豪快粗野な曲が江戸の気風に適合して町人に喜ばれた。初世市川団十郎の荒事 (あらごと) もこの人形の動きから考案されたものという。
金峰山寺
きんぷせんじ @@@LINK=金峰山寺 金峰山寺

金峰山寺
きんぷせんじ

大和国吉野山から大峰山にかけての峰々の諸寺院の総称
金峰山修験本宗の総本山で,修験道の開祖役小角 (えんのおづぬ) の開基と伝えられ,中心は吉野町にある蔵王 (ざおう) 堂。現在まで修験者の行場となっている。平安中期には貴族参詣が流行。中世においてはこの山は弥勒浄土として信仰され,僧徒兵力も強大であった。南北朝の動乱期には南朝の拠点となり,高師直に攻められて焼失。復興後,近世には日光山輪王寺の支配下にはいった。
金本位制
きんほんいせい @@@LINK=金本位制 金本位制

金本位制
きんほんいせい

金を貨幣価値の基準とし,他の貨幣と金との自由な交換(兌換 (だかん) )や,金の自由な輸出入を認める制度
日本では1871(明治4)年の新貨条例で採用したが,貿易決済にはを用い,国内でも実質的には銀本位制に変わった。のち世界的に金本位制が広まり,日本も日清戦争の賠償金を準備金として,'97年の貨幣法で名実ともに採用した。1917年,第一次世界大戦のため金輸出を禁止,'30年に解禁したが世界恐慌の打撃うけ,'31年末,犬養毅内閣が再禁止し,金本位制は事実上停止された。
欽明天皇
きんめいてんのう @@@LINK=欽明天皇 欽明天皇

欽明天皇
きんめいてんのう

510ごろ〜571
6世紀半ばの天皇(在位531〜571 (ごろ) )
継体天皇の皇子。『日本書紀』は即位を540年としているが,『上宮聖徳法王帝説』などは531年即位説をとり対立している。このことから531〜539年までは異母兄の安閑・宣化朝と並立していたと考え,内乱発展したとする学説が出されている。在位中,538年百済 (くだら) の聖明王が仏像・経論を伝え,562年新羅 (しらぎ) のために「任那 (みまな) 日本府」が滅亡するなど,国内・対外関係とも緊張した時期であった。
禁門の変
きんもんのへん @@@LINK=禁門の変 禁門の変

禁門の変
きんもんのへん

1864(元治元)年,京都でおこった長州藩の出兵による兵乱
蛤 (はまぐり) 御門の変・元治甲子の変ともいう。八月十八日の政変(1863)で京都を追われた長州藩は,勢力回復のため藩主父子の無実を訴え,尊攘派7卿の赦免を願ったが許されず,さらに池田屋事件がおこったことから出兵,入京して,薩摩・会津・桑名の藩兵と蛤御門付近で交戦したが敗北長州征討の発端となった。
金融恐慌
きんゆうきょうこう @@@LINK=金融恐慌 金融恐慌

金融恐慌
きんゆうきょうこう

1927年に発生した銀行恐慌
第1次若槻礼次郎内閣が震災手形の処理に着手した際,議会討論から台湾銀行の不良貸付けが暴露され,これを機に鈴木商店・十五銀行などの倒産が続いた。若槻内閣は台湾銀行救済の緊急勅令案を枢密院で否決されたため総辞職,代わった田中義一内閣が日本銀行からの非常貸出しと緊急勅令で3週間の支払猶予令モラトリアム)を発して収拾した。この恐慌で五大銀行優位が確立した。
金融緊急措置令
きんゆうきんきゅうそちれい @@@LINK=金融緊急措置令 金融緊急措置令

金融緊急措置令
きんゆうきんきゅうそちれい

1946年2月,第二次世界大戦終了直後の激しいインフレ収拾策として公布された勅令83号
終戦時流通貨幣量は600億円で,しかも生産力をついてアンバランスであったので,旧憲法緊急勅令を利用して預金を封鎖し,旧円を新円に切り換えた。
金融資本
きんゆうしほん @@@LINK=金融資本 金融資本

金融資本
きんゆうしほん

独占資本主義の段階における資本のあり方
産業資本と銀行資本が一体に結びついて産業を独占的に支配するもの。日本では財閥の形態をとり,その形成は日露戦争(1904〜05)後に始まり,第一次世界大戦以後本格的に成立する。三井三菱住友安田はその典型。財閥解体後,融資系列や企業間の提携の形で再編成された。
金輸出解禁
きんゆしゅつかいきん @@@LINK=金輸出解禁 金輸出解禁

金輸出解禁
きんゆしゅつかいきん

金本位制の基本である金貨地金輸出禁止を解除すること。歴史的には1930年浜口雄幸 (おさち) 内閣解禁をさす
略称金解禁」。第一次世界大戦中の1917年,欧米列国にならい金輸出を禁止した日本は,大戦後列国の解禁後も,戦後恐慌・震災恐慌・シベリア出兵戦費などで経済不安定のため禁止を続けた。しかし金融恐慌('27)ののち,大資本・銀行側の要求もあり,年々強まる輸出不振を脱し為替相場を安定させるため,浜口内閣は'30年1月,金輸出解禁を断行し,日本経済の回復に直結させようとしたが,すでに前年10月から世界大恐慌のにみまわれており効果なく,'31年末には犬養毅内閣が再禁止した。
金輸出再禁止
きんゆしゅつさいきんし @@@LINK=金輸出再禁止 金輸出再禁止

金輸出再禁止
きんゆしゅつさいきんし

1931年12月,犬養毅内閣が行った輸出の再禁止。
禁裏御料
きんりごりょう @@@LINK=禁裏御料 禁裏御料

禁裏御料
きんりごりょう

江戸時代,皇室の所領
江戸初期徳川家康は従来皇室領を整理して1万石を献上秀忠は皇女降誕を祝して1万石,綱吉も1万石献上して3万石となった。
金禄公債
きんろくこうさい @@@LINK=金禄公債 金禄公債

金禄公債
きんろくこうさい

明治政府が秩禄処分により士族に家禄返上の代わりに交付した金券
金禄証書ともいう。1876年金禄公債証書発行条例を公布し,一律に家禄の奉還を命じ,代わりにその大小・種別に応じて公債を交付。支給人員31万3000人,総額1億7400万円。1906年償還を完了。しかし,それまでに一般士族の公債の多くは,高利貸の手に渡った。
空海
くうかい @@@LINK=空海 空海

空海
くうかい

774〜835
平安初期の高僧。真言宗の開祖
讃岐(香川県)の人。父は佐伯氏,母は阿刀 (あと) 氏。幼名は真魚 (まお) 。官人あるいは学者への道を捨て仏道を志し,804年入唐。唐僧恵果らから密教を学び,帰国後真言宗を一宗として確立した。816年,紀伊(和歌山県)の高野山に金剛峰寺 (こんごうぶじ) をつくり,823年には嵯峨天皇から京都の東寺(教王護国寺と名づけた)を与えられた。また讃岐の満濃池を修築し,京都に庶民の教育機関として綜芸種智院 (しゆげいしゆちいん) を建て社会事業につとめた。文学にも才能を発揮し,漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著した。書道では嵯峨天皇・橘逸勢 (たちばなのはやなり) とともに三筆の一人に数えられた。死後弘法大師の号を贈られた。
空華日工集
くうげにっくしゅう @@@LINK=空華日工集 空華日工集

空華日工集
くうげにっくしゅう

南北朝時代,臨済宗の僧義堂周信の日記
正しくは『空華老師日用工夫略集』という。「空華」は周信の別号。彼は朝廷や足利義満,鎌倉公方ともかかわりが深かった。1325〜88年にわたり,当時の政治・社会・思想上の重要な史料。
空也
くうや @@@LINK=空也 空也
こうや @@@LINK=空也 空也

空也
くうや

903〜972
平安前期に浄土信仰を説いた民間布教僧。踊念仏の祖
「こうや」とも読む。諸国を巡り,橋を架け,道を開き井池を造った。常に南無阿弥陀仏の六字名号を唱え,諸人に念仏をすすめ,「市聖 (いちのひじり) 」と呼ばれた。没した寺はのちに六波羅蜜寺と名づけられた。

空也
こうや

くうや
空也上人像
くうやしょうにんぞう @@@LINK=空也上人像 空也上人像

空也上人像
くうやしょうにんぞう

京都市六波羅蜜寺所蔵の鎌倉前期の肖像彫刻
康勝作。平安中期の阿弥陀聖と呼ばれた空也立像。口から南無阿弥陀仏を表す6体の阿弥陀仏を出している。
公営田
くえいでん @@@LINK=公営田 公営田
こうえいでん @@@LINK=公営田 公営田

公営田
くえいでん

平安前期,大宰府管内に置かれた直営田
「こうえいでん」とも読む。極度の租税滞納に対処するため,823年大宰大弐小野岑守 (みねもり) の建議により行われた。管内の良田1万町歩を選び公営田とし,6万余人の徭丁を動員し耕作させた。種子などの諸経費は官が用意し,耕作者は調・庸などを免除されたが,収穫物は大宰府が取得した。

公営田
こうえいでん

くえいでん
久遠寺
くおんじ @@@LINK=久遠寺 久遠寺

久遠寺
くおんじ

山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗総本山
1281年日蓮の有力な信徒である南部(波木井 (はきい) )実長 (さねなが) が建立。1474年,11世日朝のとき現在の地に移り,日意・日伝までの中興の3師によって栄えた。江戸時代には紀州・水戸両家に保護され,勅願所になった。2度の大火をうけたが現在は旧観に復している。
公廨田
くがいでん @@@LINK=公廨田 公廨田
くげでん @@@LINK=公廨田 公廨田

公廨田
くがいでん

律令制において官庁経費を出すための職田
「くげでん」とも読む。国司の職田 (しきでん) も公廨田といった。不輸租田で,平安中期から私有地化した。

公廨田
くげでん

くがいでん
公廨稲
くがいとう @@@LINK=公廨稲 公廨稲

公廨稲
くがいとう

律令制において地方官庁の費用にあてられた出挙 (すいこ) 稲
「くげとう」とも読む。745年諸国の租稲を農民に出挙し,その利益を国衙 (こくが) の費用と官人の俸給にあてた。国司の俸給と化したので,757年分配比率を明確にした。
陸羯南
くがかつなん @@@LINK=陸羯南 陸羯南

陸羯南
くがかつなん

1857〜1907
明治時代の新聞記者・政治評論家
本名は実。陸奥(青森県)の生まれ。司法省法学校中退。1883年太政官文書局,'85年内閣官報局に勤務。欧化政策に反対して官を辞し,'89年新聞『日本』を創刊。藩閥政府・民党のいずれとも妥協せず,国民主義を唱え,国民の統一と国家の独立を主張した。

盟神探湯
くがたち @@@LINK=盟神探湯 盟神探湯

盟神探湯
くがたち

古代の神誓裁判の一形式
沸騰した湯の中に手を入れさせ火傷の有無により正邪を判定する方法。『日本書紀』に氏姓の秩序が乱れたのでこれを正すためにこの方法を用いたとある。中世以後にもこれと同類の湯起請 (ゆぎしよう) が行われた。
愚管抄
ぐかんしょう @@@LINK=愚管抄 愚管抄

愚管抄
ぐかんしょう

鎌倉前期,天台座主 (ざす) 慈円 (じえん) の歴史書
1220年ころ成立。承久の乱後増補。7巻。歴史を動かすものは道理であると考え,道理の盛衰即歴史の盛衰と説き,末法思想によって当時の政治を論じている。日本で初めて歴史哲学を説いたものとして注目され,後世の『神皇正統記』や『読史余論』などに大きな影響を与えた。内容は年代記2巻。他の4巻は神武天皇より順徳天皇までの歴史の叙述で,付録1巻にその思想が述べられている。
公暁
くぎょう @@@LINK=公暁 公暁

公暁
くぎょう

1200〜19
鎌倉前期,鎌倉幕府2代将軍源頼家の第3子
母は賀茂重長の娘。父の死後,鶴岡八幡宮の別当となる。父の死は叔父3代将軍実朝の陰謀によるものと疑い,1219年実朝を鶴岡八幡宮で暗殺。その後すぐに捕らえられて殺された。

公卿
くぎょう @@@LINK=公卿 公卿

公卿
くぎょう

三位以上の貴族と参議をいう
摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣を公 (こう) ,大納言・中納言および三位以上を卿という。朝廷の政治の最高構成員。参議は公卿会議に参加する要職なので四位でも卿といった。
公卿補任
くぎょうぶにん @@@LINK=公卿補任 公卿補任

公卿補任
くぎょうぶにん

神武天皇から1868年までの公卿の補任記録
公卿の氏名・官歴を官職順に列記してその事歴を年ごとに記したもので,10世紀中ごろ編纂され,以後書き継がれたらしい。一部欠けているが,日本史研究の重要文献。
傀儡子
くぐつ @@@LINK=傀儡子 傀儡子

傀儡子
くぐつ

平安時代に人形を使い刀剣芸なども行った旅芸人
のち神社にも所属。中世,摂津西宮えびす社の神輿舁 (しんよかつぎ) が栄え阿波淡路の操 (あやつり) 人形に影響を与え,浄瑠璃人形芝居の原型となった。
公廨田
くがいでん @@@LINK=公廨田 公廨田
くげでん @@@LINK=公廨田 公廨田

公廨田
くがいでん

律令制において官庁経費を出すための職田
「くげでん」とも読む。国司の職田 (しきでん) も公廨田といった。不輸租田で,平安中期から私有地化した。

公廨田
くげでん

くがいでん
公験
くげん @@@LINK=公験 公験

公験
くげん

中世において,土地領有について証拠となる公の書類
私験に対するもの。律令制下においては官庁から下付する証明書を味し,私有地の売買・譲与などにあたって,国司が所有権を公認した承認書をいう。中世には幕府・荘園領主などから与えられ,田畑の譲与・売買のときには所有権の移転を承認するものとして重視された。
箜篌
くご @@@LINK=箜篌 箜篌

箜篌
くご

古代の楽器の一つ
百済 (くだら) 琴ともいう。ハープ系の楽器で,竪箜篌はに抱え,あるいは座し,あるいは立って両手で奏でた。古代アッシリアで用いられ,ペルシア・西域を経て中国に伝わった。日本には,奈良時代に百済から伝来,正倉院に遺片がある。雅楽に用いられた。
久坂玄瑞
くさかげんずい @@@LINK=久坂玄瑞 久坂玄瑞

久坂玄瑞
くさかげんずい

1840〜64
幕末,長州藩の尊攘派志士
吉田松陰の門下で,高杉晋作と双璧をなした。1862年藩論を公武合体から尊王攘夷に一変させた。江戸のイギリス公使館焼打ち事件,下関の外国船砲撃(下関事件)に参加し,大和行幸奏請に尽力。'64年禁門の変で藩兵を率いて上洛したが,負傷して自刃。

草壁皇子
くさかべのおうじ @@@LINK=草壁皇子 草壁皇子

草壁皇子
くさかべのおうじ

662〜689
天武天皇の皇子
日並知 (ひなめし) 皇子ともいう。母は持統天皇。文武・元正両天皇の父。681年皇太子となったが病弱で,686年天武天皇の没後,持統天皇は謀反の疑いで大津皇子を失脚させて皇子の即位を待ったが,689年28歳で病死。

日下部鳴鶴
くさかべめいかく @@@LINK=日下部鳴鶴 日下部鳴鶴

日下部鳴鶴
くさかべめいかく

1838〜1922
明治・大正時代の書家
名は東作。彦根藩士の家に生まれ,明治維新後太政官に勤めたが1879年辞任。中国の書道(唐・六朝)を研究して鳴鶴流を創始,以後公文書は御家流 (おいえりゆう) から唐様に一変した。大久保利通の知遇をうける。

草双紙
くさぞうし @@@LINK=草双紙 草双紙

草双紙
くさぞうし

江戸時代の小説の一種
挿絵を主とする通俗・大衆的読み物の総称で,赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻の順に変遷。寛文(1661〜73)ころより明治初期まで約200年間行われた。10ページ単位で1冊とし,1〜3冊程度でまとまる短編。ページごとに挿絵があり,仮名書きで女性・子供を対象として出発し,のちに成人向きとなった。
草高
くさだか @@@LINK=草高 草高

草高
くさだか

江戸時代,領内の土地から産出する米の総高
草高は検地によって決まる公的な石高と一致しない場合が多く,それより多額であった。幕府が使用したことはなく,地方で用いられたらしい。
草枕
くさまくら @@@LINK=草枕 草枕

草枕
くさまくら

明治後期,夏目漱石の小説
1906年発表。主人公の画工に託して,作者の当時抱いていた芸術観・非人情の考え方を表現した作品。
草間直方
くさまなおかた @@@LINK=草間直方 草間直方

草間直方
くさまなおかた

1753〜1831
江戸後期,大坂の両替商・町人学者
少年時代から大坂の両替商鴻池 (こうのいけ) 家に勤めた。のち別家して鴻池屋伊助を名のって両替商を営み,肥後・南部など諸藩御用となった。その著書『三貨図彙 (ずい) 』(1815)は貨幣・物価・度量衡の研究書として著名である。
草分
くさわけ @@@LINK=草分 草分

草分
くさわけ

その地を最初に切り開いた開拓者
村では,最初に開発・入村した百姓で,名主・庄屋など旧家が多い。町方でも,早くから都市づくりに参加し移住した者を草分町人と呼んだ。
公事
くじ @@@LINK=公事 公事

公事
くじ

②中世〜近世の訴訟・審理・裁判
③荘園制下における雑税
①朝廷の公務・儀式をいう。
江戸時代には主として民事訴訟をいう。公事方御定書の名称もこれに由来する。
土地を対象とする年貢に対し,人間を対象として課せられ,公に奉仕する課役を公事といった。関東御公事など。江戸時代には公事は小物成になったものが多い。
公事方
くじかた @@@LINK=公事方 公事方

公事方
くじかた

江戸幕府において直轄領の訴訟事務を扱った役職
1722年幕府は勘定奉行の定員を4名とし,勝手方2人と公事方2人とに分け職務分掌を明らかにした。
公事方御定書
くじかたおさだめがき @@@LINK=公事方御定書 公事方御定書

公事方御定書
くじかたおさだめがき

江戸中期,8代将軍徳川吉宗の制定した江戸幕府の成文法規集
老中松平乗邑 (のりむら) を主任とし,寺社・町・勘定の三奉行を中心に編纂され,1742年成立。上・下2巻よりなる。上巻は司法警察関係の重要法令81通を収載。下巻は「御定書百箇条」とも呼ばれ,大部分は刑罰規定・刑事訴訟法規定で103カ条。関係者のみ閲覧でき,非公開であった。
旧事紀
くじき @@@LINK=旧事紀 旧事紀

旧事紀
くじき

平安初期,古代伝承に基づき編集された史書
先代旧事本紀』ともいう。10巻。著者不明。神代から推古天皇までの事を記し,特に物部 (もののべ) 氏が自家の事績を強調するため編集させたといわれる。天孫本紀・国造本紀は根拠あるものとして重要。
公事根源
くじこんげん @@@LINK=公事根源 公事根源

公事根源
くじこんげん

室町時代,一条兼良 (かねら) の有職故実 (ゆうそくこじつ) 書
1423年ごろ成立。朝廷の年中行事を月日順序で記し,それぞれの起源や変遷を解説したもの。後世,有職の書として重宝され注釈書も多い。
櫛田民蔵
くしだたみぞう @@@LINK=櫛田民蔵 櫛田民蔵

櫛田民蔵
くしだたみぞう

1885〜1934
大正・昭和初期の経済学者
福島県の生まれ。京大卒。1920年森戸事件を機に東大講師を辞し,大原社会問題研究所に入る。マルクス主義の見地からつぎつぎと論文を発表,第二次世界大戦前の日本のマルクス学の水準を国際的なものに引き上げた。

倶舎宗
くしゃしゅう @@@LINK=倶舎宗 倶舎宗

倶舎宗
くしゃしゅう

南都六宗の一つ
インドの世親の『倶舎論』を研究する学派。小乗仏教に属する。日本には斉明朝(655〜661)のころ法相宗とともに伝来し,以後東大寺・興福寺を中心として講究された。
九条兼実
くじょうかねざね @@@LINK=九条兼実 九条兼実

九条兼実
くじょうかねざね

1149〜1207
鎌倉初期の公卿。九条家の始祖
摂政・関白,従一位太政大臣。関白藤原忠通の3男。慈円の兄。源頼朝の信任を得て,1185年議奏公卿の上首となり,ついで摂政・関白となる。摂関家の勢力を再興させるため,幕府と結び院政を抑えようとしたが,'96年土御門通親 (つちみかどみちちか) に排斥されて失脚。学問・和歌にひいで,その日記『玉葉』は鎌倉初期の重要史料として有名。

九条家
くじょうけ @@@LINK=九条家 九条家

九条家
くじょうけ

藤原北家の分流で,五摂家の一つ
始祖兼実 (かねざね) (藤原忠通の3男)が京都九条殿に住んでいたため,近衛家に対し九条家と呼ばれた。鎌倉幕府とは兼実以来関係が深く,頼経・頼嗣父子は将軍(摂家将軍)となった。
九条道家
くじょうみちいえ @@@LINK=九条道家 九条道家

九条道家
くじょうみちいえ

1193〜1252
鎌倉時代の公卿
摂政・関白。父は良経(兼実 (かねざね) の子),母は源頼朝の妹婿一条能保 (よしやす) の娘。4男頼経を将軍として鎌倉に送り,西園寺公経 (きんつね) と結んで勢力を得,関東申次の職にあって公武間の秘書にあたったが,晩年は幕府に遠ざけられ,失意のうちに死んだ。崇仏家であり,東福寺の開基としても知られる。


くしろ @@@LINK=釧 釧


くしろ

腕輪のこと
縄文時代には主として貝輪が,弥生時代には一部に銅製品も用いられた。古墳時代には,他に石・貝・金・銀・玉製があり,宝器的なものもある。
公出挙
くすいこ @@@LINK=公出挙 公出挙

公出挙
くすいこ

古代,稲などの貸付け制度の一つ。地方豪族の私出挙に対し,政府や国司が行った出挙をいう。
葛生人
くずうじん @@@LINK=葛生人 葛生人

葛生人
くずうじん

栃木県安蘇郡葛生町で発見された更新世人類とされていた。
1950年,石灰岩採石場から左上腕骨・尺骨などの断片が発見されたが,2001年、年代測定の結果、室町時代頃の人骨だということが判明した。
薬子の変
くすこのへん @@@LINK=薬子の変 薬子の変

薬子の変
くすこのへん

平安初期の朝廷内部の紛争
嵯峨天皇の即位した809年,平城上皇の寵愛をうけた藤原薬子が,兄仲成とはかって,上皇の復位と平城京復都を実現しようとしたが,翌810年発覚して鎮圧された。薬子は自殺,仲成は死して式家は没落し,上皇も出家した。これを契機として藤原冬嗣が蔵人頭となって,北家が台頭した。
楠木氏
くすのきし @@@LINK=楠木氏 楠木氏

楠木氏
くすのきし

鎌倉後期から南北朝期の河内(大阪府)の豪族
1331年楠木正成が後醍醐 (ごだいご) 天皇のもとに一族を率いて参じ,鎌倉幕府軍を破ってをあげた。正成は,'36年湊川の戦いで弟正季 (まさすえ) とともに自刃したが,その子正行 (まさつら) ・正時・正儀 (まさのり) は父の遺志をついで南朝の支柱として活躍。正儀は一時北朝に降ったが,南北朝合一後も南朝復活運動を行った。
楠木正成
くすのきまさしげ @@@LINK=楠木正成 楠木正成

楠木正成
くすのきまさしげ

?〜1336
鎌倉末期・南北朝時代の武将
河内国の土豪。1331年元弘の変で後醍醐 (ごだいご) 天皇の鎌倉幕府征討に参加し,河内の赤坂城・千早城で幕府の大軍と戦い活躍。その功により建武新政府のもとで河内守に任じられ,河内・摂津・和泉3国の守護,記録所の寄人 (よりゆうど) となる。'35年建武新政府にそむいた足利尊氏を九州に敗走させたが,翌年大挙東上した尊氏を摂津国湊川 (みなとがわ) に迎え撃って敗死した(湊川の戦い)。
楠木正行
くすのきまさつら @@@LINK=楠木正行 楠木正行

楠木正行
くすのきまさつら

1326?〜48
南北朝時代の武将
正成の長子。正儀 (まさのり) の兄。父の死後,河内・摂津を中心に一族を率いて南朝軍の将として足利軍に対抗。1348年尊氏の部将高師直 (こうのもろなお) ・師泰兄弟の大軍と河内四条畷 (しじようなわて) で戦い,弟正時とともに戦死した。

楠木正儀
くすのきまさのり @@@LINK=楠木正儀 楠木正儀

楠木正儀
くすのきまさのり

生没年不詳
南北朝時代の武将
正成の3男。正行 (まさつら) の弟。正行の死後,楠木氏一族を率いて,南朝方の武力の中心として河内・和泉で活躍。1361年一時京都を占領して南朝を優勢に導き,'67年両朝の和議をはかって失敗。'69年一時足利氏に降ったが,'82年再び南朝に復帰した。
久隅守景
くすみもりかげ @@@LINK=久隅守景 久隅守景

久隅守景
くすみもりかげ

生没年不詳
江戸初期の画家
狩野探幽に学び,その四天王といわれたが,狩野派の形式的描法にあきたらず,自由な絵を描き,狩野派を破門された。代表作に『夕顔棚納涼図』(国宝)。
久世広周
くぜひろちか @@@LINK=久世広周 久世広周

久世広周
くぜひろちか

1819〜64
幕末の政治家
下総(千葉県)関宿藩主。1851年老中となる。安政の大獄のとき大老井伊直弼 (なおすけ) の水戸尾張・越前3侯に対する処分に反対して退任。桜田門外の変('60)後再任され,安藤信正とともに公武合体策を推進したが,'62年坂下門外の変後失脚。

曲舞
くせまい @@@LINK=曲舞 曲舞

曲舞
くせまい

室町初期におこった舞踊
散文的な詞章を謡いながら舞う。常に折烏帽子に直垂 (ひたたれ) ,稚児曲舞・女房曲舞は立烏帽子に水干 (すいかん) 。楽は鼓 (つづみ) ,舞人は通常1人で,祭礼宴席に招かれる。嘉吉年間(1441〜44)にその一派幸若舞 (こうわかまい) がおこり織田・豊臣・徳川3代の保護をうけ発展した。
下文
くだしぶみ @@@LINK=下文 下文

下文
くだしぶみ

古文書の一形式で,一般に上位者から下位者に与えられた文書
公式令 (くしきりよう) に定められた符にかわって平安時代から現れた。弁官下文が最も早く,院・女御・蔵人 (くろうど) の下文,さらに摂関家政所下文 (まんどころくだしぶみ) ・国司下文・留守所下文など広く用いられた。鎌倉幕府では武家の最も重要な文書とされた。様式は,はじめに「下」の字とその下に宛名を記すのが原則。のち袖判 (そではん) (文書の右端〈袖〉にかかれた花押 (かおう) )を加えた下文も現れた。
管玉
くだたま @@@LINK=管玉 管玉

管玉
くだたま

弥生時代から古墳時代にかけてつくられた管状の玉
装飾具として使用。弥生時代のものは長さ1〜2㎝,径3㎜程度の小型のものが多く,古墳時代に入り大型化し,長さ3㎝,径8㎜ほどのものが多くつくられた。碧玉製のものが多い。
九谷焼
くたにやき @@@LINK=九谷焼 九谷焼

九谷焼
くたにやき

江戸初期に加賀(石川県)九谷で始まった赤絵磁器
九谷に良質の陶土が発見され,大聖寺藩主前田利治の保護奨励で,17世紀中ごろ藩営の製陶が始まった。これが古九谷といわれるもので,有田焼との関係が論議されている。一時廃絶したが,19世紀初めに復興各所に開窯されて盛んとなり,現在に至る。
百済
くだら @@@LINK=百済 百済
ひゃくさい @@@LINK=百済 百済

百済
くだら

古代,朝鮮半島南西部にあった国家(350ころ〜660)
「ひゃくさい」とも読む。4世紀中ごろ馬韓50余国を統一して建国。百済は日本にとって大陸交通の要地にあたり,一方百済は,高句麗・新羅 (しらぎ) と対抗するために,軍事的援助を求めて日本に接近し,その間には密接な関係が保たれた。百済からは博士僧侶・技術者などが日本に渡来し大陸の文物が伝わり,古代文化の形成に著しい影響を与えた。欽明朝(531〜571ころ)の仏教公伝などが有名。660年新羅・唐の連合軍に滅ぼされたのち,多くの人びとが日本に渡来した。

百済
ひゃくさい

くだら
百済観音像
くだらかんのんぞう @@@LINK=百済観音像 百済観音像

百済観音像
くだらかんのんぞう

奈良県法隆寺所蔵の飛鳥時代の仏像
百済渡来の所伝のためこの名があるが,百済観音像の称は近代以降につけられたものである。長身で清楚,天衣のひるがえり,流れるような衣紋の線など崇高な神秘性を漂わせている。
百済河成
くだらのかわなり @@@LINK=百済河成 百済河成

百済河成
くだらのかわなり

782〜853
平安初期の画家
百済系渡来人の子孫。朝廷に武官として仕えたが,画技で有名。備中介・播磨介などを歴任した。『今昔物語集』に飛驒工 (ひだのたくみ) との技くらべなどの逸話があるが,確実な作品は現存しない。

口米
くちまい @@@LINK=口米 口米

口米
くちまい

江戸時代,本年貢に対する付加税
米または銀銭で納入。江戸時代以前に収納物の減損を補う場合に徴収されたもある口籾 (くちもみ) が,江戸時代に一般化したもの。納入比率は年代や地域により多様である。江戸前期は代官に事務費として下付し,1725年以後幕府へ納入させるようになった。
具注暦
ぐちゅうれき @@@LINK=具注暦 具注暦

具注暦
ぐちゅうれき

奈良時代より行われた暦の一種
暦日の下にその日の吉凶・禍福・季節の変動などを注記した暦。平安時代に流行し,貴族ばかりでなく庶民の間にも用いられた。現存最古は746(天平18)年のもの。
区町村会
くちょうそんかい @@@LINK=区町村会 区町村会

区町村会
くちょうそんかい

明治初期の地方民会
1872年ころからの公議思想の興隆に対応して,地方官の民情諮問機関として開設された。区会は多く官選の区長・戸長会議であった。町村会は旧来村寄合を変革するという形で開設されたが,議員公選であった。1880年区町村会法が制定され,自治体として育成された。
口寄せ
くちよせ @@@LINK=口寄せ 口寄せ

口寄せ
くちよせ

民間の巫女 (みこ) が神憑 (かみがか) りのうちに死霊を呼び出し,その心境を口語ること。転じて口寄せの巫女をさす
神託を告げる神口 (かみくち) を含めていう場合もあるが,一般には死者の霊を呼び出して語る仏口 (ほとけぐち) が多い。
屈葬
くっそう @@@LINK=屈葬 屈葬

屈葬
くっそう

遺骸の手足を折り曲げた姿勢の埋葬法
縄文時代の一般的な葬法で,弥生時代にも一部行われた。屈葬の理由には,埋葬穴を掘る労力を節約したとか,胎児の姿勢をとり再生の祈りをこめたとか,死者の悪霊のよみがえるのを避けたとか,自然の休息の姿をとったとかの諸説がある。
工藤平助
くどうへいすけ @@@LINK=工藤平助 工藤平助

工藤平助
くどうへいすけ

1734〜1800
江戸中期の経世家・医者
陸奥仙台藩医。服部南郭 (はつとりなんかく) ・青木昆陽に師事し,儒学・蘭学を修め,長崎に遊学し海外情勢に通じ,林子平らと交わりを持った。医学よりも海防・交易を論じ,1783年『赤蝦夷風説考』を老中田沼意次 (おきつぐ) に献上,ロシアとの交易と蝦夷地開発を説き,田沼の政策に影響を与えた。

宮内省
くないしょう @@@LINK=宮内省 宮内省

宮内省
くないしょう

①律令制下の中央行政官庁。八省の一つ
②明治初年に設置された,皇室関係の中央官庁
太政官の右弁官に属し,宮中の経済・庶務をつかさどった。宮内卿以下四等官があり,1職・4寮・13司を轄した。
1869年太政官制で設置され,'85年内閣制度発足により他の行政官庁より独立。第二次世界大戦後宮内府,ついで宮内庁となった。
グナイスト
Rudolf von Gneist @@@LINK=グナイスト グナイスト

グナイスト
Rudolf von Gneist

1816〜95
ドイツの公法学者
ベルリン大学教授。1882年憲法調査のため渡欧した伊藤博文に憲法理論や憲政の運用について講義し,弟子のモッセを推薦。大日本帝国憲法制定に多大な影響を与えた。

狗奴国
くなこく @@@LINK=狗奴国 狗奴国

狗奴国
くなこく

3世紀,邪馬台 (やまたい) 国の南にあったとされる国
『魏志』倭人伝によると,この国は男子を王とし,邪馬台国に戦いをいどみ,女王卑弥呼 (ひみこ) もこの国との抗争中に死んだという。
国後島
くなしりとう @@@LINK=国後島 国後島

国後島
くなしりとう

千島列島の最西端にある島
1786年には最上徳内らの千島探検の根拠地となった。1811年同島に来航したロシア人ゴローウニンの逮捕契機として日露両国の係争地となったが,日露和親条約で日本領として承認された。第二次世界大戦後,ソ連に占領され,ソ連邦崩壊後はロシア連邦に返還を要求している。
国一揆
くにいっき @@@LINK=国一揆 国一揆

国一揆
くにいっき

南北朝〜室町時代にかけて国人国衆など在地小領主を中心とする一揆
守護大名の支配に対し,国人・国衆と呼ばれる在地の有力名主・地侍が自己の領主権を確保しようとして,の土民を指導し,連合して一国的規模で一揆をおこした。1485年の山城国一揆は特に有名で,守護畠山氏の勢力を排除して8年間自治を行った。政治的色彩の濃い土一揆といえよう。
国替
くにがえ @@@LINK=国替 国替

国替
くにがえ

領国を変換すること
①律令制下,国司に任じられた者がその国を望まないとき,希望によって任国をかえること。
②江戸時代,幕府が大名の領国をかえること。転封 (てんぷう) ともいう。豊臣秀吉のときに始まり,江戸幕府成立当初には大名統制策として,戦功や法制上の理由からことに多く行われた。特に譜代大名に多かった。国替に際し家臣伴するが,農民は移動を禁じられていた。
国木田独歩
くにきだどっぽ @@@LINK=国木田独歩 国木田独歩

国木田独歩
くにきだどっぽ

1871〜1908
明治時代の小説家・詩人
本名は哲夫。千葉県の生まれ。東京専門学校(現早稲田大学)在学中洗礼をうけた。初め詩や詩的散文『武蔵野』,また『春の鳥』『牛肉と馬鈴薯』のようなロマン主義的作品を書いた。のち自然主義に近づき『窮死』『竹の木戸』などを発表。晩年,世相批判の傾向を示した。

恭仁京
くにきょう @@@LINK=恭仁京 恭仁京

恭仁京
くにきょう

奈良時代,聖武天皇の740〜744年の間の都
現在の京都府相楽 (そうらく) 郡加茂町付近で,東西700〜800m ,南北1㎞余。740年藤原広嗣の乱後,橘諸兄 (もろえ) のすすめで遷都したが,ばく大な費用を要し,未完成のまま744年難波京に遷都。
国衆
くにしゅう @@@LINK=国衆 国衆

国衆
くにしゅう

国人 (こくじん)
国中公麻呂
くになかのきみまろ @@@LINK=国中公麻呂 国中公麻呂

国中公麻呂
くになかのきみまろ

?〜774
奈良時代の鋳工
造東大寺司次官。百済 (くだら) の渡来人の子孫。金光明寺(のちの東大寺三月堂)・東大寺大仏・法華寺阿弥陀浄土院などの造仏にあたった。
国造
くにのみやつこ @@@LINK=国造 国造

国造
くにのみやつこ

大和政権の地方官
地方有力豪族が任命され,1郡ほどの地域を統治した。姓 (かばね) は直 (あたい) ・臣・君など。大化の改新では中央派遣の国司のもとで,郡司となる者が多かった。
国博士
くにはかせ @@@LINK=国博士 国博士

国博士
くにはかせ

①645年大化の改新の際の政治顧問
律令制下,諸国の国学に置かれた教官
留学先の唐から帰った高向玄理 (たかむこのげんり) ・僧旻 (みん) が任命され,改新政治の政策立案した。
1国1名で,郡司の子弟を教育した。
国役
くにやく @@@LINK=国役 国役

国役
くにやく

貢租の一種
「こくやく」とも読む。平安末期・鎌倉時代には国司が国内の公領・私領に課した夫役をさす。室町時代には守護が国内に賦課した諸役をいう。江戸時代には国役金・国役銀といって,天領・大名領・旗本領の中のある地域に限って幕府が課した臨時の賦課をさす。また江戸の職人に課せられた租税の名称をもさし労役から銀納にかわった。
国譲り神話
くにゆずりしんわ @@@LINK=国譲り神話 国譲り神話

国譲り神話
くにゆずりしんわ

天孫降臨に先だち,大国主命が天照大神 (あまてらすおおみかみ) に国を譲ったという出雲系神話
高天原 (たかまがはら) 系の神々が外交折衝によって大国主命らの出雲の神々の支配権を接収したいきさつが記紀にみえるが,国土統一の道程の反映であり,同時に高天原系を優越させる政治的意図がうかがえる。
公奴婢
くぬひ @@@LINK=公奴婢 公奴婢

公奴婢
くぬひ

律令制における官有賤民
官奴婢 (かんぬひ) ともいわれ,個人所有の私奴婢に対する。大化の改新以前の大和政権所有奴婢が,引き続き律令制の諸官庁に属して官田耕作雑役に従事した。を形成できず良民との結婚は禁止され,売買の対象となった。
久能山
くのうざん @@@LINK=久能山 久能山

久能山
くのうざん

静岡市南部,有度 (うど) 山塊南端の山。徳川家康を祭る東照宮が山頂にある
古くは武田信玄により久能城が築かれたこともある。1616年家康が死ぬと,遺命により久能山上に葬り,翌年日光に改葬。その後廟所 (びようしよ) として東照宮が建てられ,諸大名尊崇を集めた。
久能寺経
くのうじきょう @@@LINK=久能寺経 久能寺経

久能寺経
くのうじきょう

平安後期の装飾経の一つ
30巻。浄土信仰によるもので,1141年鳥羽上皇出家に際し近親の者らが京都安楽寺に納めた。のち静岡久能寺に移されこの名がある。装飾を施した写経は国中に広まった。
久原房之助
くはらふさのすけ @@@LINK=久原房之助 久原房之助

久原房之助
くはらふさのすけ

1869〜1965
明治〜昭和期の実業家・政治家
山口県の生まれ。慶大卒。久原鉱業・日立製作所などを経営。1927年義兄鮎川義介に事業を託して政界に入り,立憲政友会に所属,田中義一内閣の逓信大臣になる。'39年政友会最後の総裁に就任。'40年政党解消を主唱して日本のファシズムを推進した。

忽必烈
フビライ
Khubilai @@@LINK=忽必烈 忽必烈
クビライ @@@LINK=忽必烈 忽必烈

忽必烈
フビライ
Khubilai

1215〜94
モンゴル帝国第5代の汗(在位1260〜94)で,元の初代皇帝(在位1271〜94)
世祖。チンギス汗の孫。1271年大都(北京)に遷都し,国号を元と称した。高麗 (こうらい) を属国とし,'79年南宋を滅ぼす。日本にも入貢を求め,'74年と'81年に遠征軍を送った(元寇)が失敗。またアンナンヴェトナム)・ジャワにも遠征した。

忽必烈
クビライ

フビライ
口分田
くぶんでん @@@LINK=口分田 口分田

口分田
くぶんでん

班田収授法により親王・貴族以下各人に支給され,終身使用・用益を許された田
人(=口)ごとに分けられる田の意。律令制では6歳以上の良民・官戸・公奴婢の男子には2段(23.4アール),女子にはその3分の2,家人・私奴婢は良民男女の3分の1が支給された。口分田は輸租田(官戸・公奴婢の口分田のみは不輸租)で6年ごとに班給され,死亡すると次の班給のとき収公された。公有が原則で売買・質入れなどは認められなかったが,班田制の崩壊とともに平安時代にはしだいに私有化され,名田 (みようでん) が成立する一要因となった。
公方
くぼう @@@LINK=公方 公方

公方
くぼう

「公家の方」の略で,もとは朝廷,武家時代には将軍をさした
「おおやけかた」とも読む。鎌倉末期ごろから将軍の尊称となる。室町時代には将軍のほか,足利基氏の子孫である鎌倉府の主も将軍家の分かれであるため公方と称した。
熊谷直実
くまがいなおざね @@@LINK=熊谷直実 熊谷直実

熊谷直実
くまがいなおざね

1141?〜1208
鎌倉初期の武将
平貞盛の子孫で,武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)に住む。1180年,石橋山の戦いに源頼朝 (よりとも) を攻めたが,のち頼朝に従い,一の谷の戦いで平敦盛 (あつもり) を討ちとるなど,平氏征討に功をたてた。'92年所領争いに敗れて出家し,法然の門に入り蓮生と名のった。

熊沢蕃山
くまざわばんざん @@@LINK=熊沢蕃山 熊沢蕃山

熊沢蕃山
くまざわばんざん

1619〜91
江戸前期の陽明学派の儒学者
字 (あざな) は了介 (りようかい) 。京都の人。中江藤樹に学んだ。岡山藩主池田光政に仕えて,治山・治水・明暦の飢饉対策に功績をあげたが,39歳で職を辞し,各地で講学・講述に従った。『大学或問 (わくもん) 』などの政治批判により幕府ににらまれ,下総(茨城県)古河 (こが) に幽閉され,そこで病死した。

熊襲
くまそ @@@LINK=熊襲 熊襲

熊襲
くまそ

古代,九州中南部に住んでいた種族
南方民族説もあるが,人種・民族の系統は不明。記紀には日本武 (やまとたけるのみこと) や仲哀 (ちゆうあい) 天皇の熊襲征討の説話がみえる。隼人 (はやと) と同種族とも考えられるが不明。
熊野三社
くまのさんしゃ @@@LINK=熊野三社 熊野三社

熊野三社
くまのさんしゃ

和歌山県熊野地方にある熊野本宮大社本宮),熊野速玉 (くまのはやたま) 大社新宮),熊野那智大社那智)3社の総称
熊野三山ともいう。平安中期にはこの地を観音浄土の地とし,平安後期には浄土教の普及によって熊野を阿弥陀浄土と考え,白河・鳥羽上皇など多くの人びとが熊野詣をした。以後院政時代から中世を通じ,皇室・貴族をはじめ武士・庶民に普及,特に山伏の発生に伴って熊野信仰は全国に及び,各地に熊野権現の分祠をみるに至った。
熊野詣
くまのもうで @@@LINK=熊野詣 熊野詣

熊野詣
くまのもうで

和歌山県熊野地方にある熊野三社への参詣
平安中期から上皇を中心とする皇室・貴族が盛んに参詣したが,鎌倉時代以後,武士や庶民の参詣が多くなった。その盛行御師 (おし) ・先達 (せんだつ) の活動に負うところが大きい。
熊本城
くまもとじょう @@@LINK=熊本城 熊本城

熊本城
くまもとじょう

熊本市にある平山城で,1607年に加藤清正が築城
銀杏 (ぎんなん) 城ともいう。応仁・文明年間(1467〜87),菊池一族の出田 (いずた) 氏が築いた千葉 (せんば) 城に始まる。享禄(1528〜32)のころ,鹿子木氏が隈本城を築き,改築・拡張を行い,清正のときに現在の規模となり熊本城と改称した。加藤氏の改易ののち細川氏の居城となった。廃藩置県後の1871年,鎮西鎮台(のち熊本鎮台)が置かれ,九州一円の軍管とされた。神風連の乱鎮圧に功あり,西南戦争には城の大半を焼失していたにもかかわらず,谷干城 (たにたてき) 以下の政府軍が50日余籠城し死守した。日本三大名城の一つ。
熊本洋学校
くまもとようがっこう @@@LINK=熊本洋学校 熊本洋学校

熊本洋学校
くまもとようがっこう

1871(明治4)年,熊本藩が設置した洋式の藩士教育機関
横井小楠に指導された実学党が熊本藩政を握ると,アメリカ軍人ジェーンズを招き,薩摩長州に対抗できる人材養成目標に教育を行った。徳富蘇峰・海老名弾正 (えびなだんじよう) らを育てたが,'76年廃校。生徒の一部は同志社に移った。
組頭
くみがしら @@@LINK=組頭 組頭

組頭
くみがしら

江戸時代の村役人の一つ
年寄・長 (おさ) 百姓などともいう。地方三役の一つで,名主(庄屋)の補佐役。1村に数名おり,村内の本百姓の中から選ばれた。
久米歌・久米舞
くめうた・くめまい @@@LINK=久米歌・久米舞 久米歌・久米舞

久米歌・久米舞
くめうた・くめまい

古代宮廷儀式に演奏された歌舞
天皇に兵士として直属した久米部が歌舞したことに由来する。『古事記』『日本書紀』に所載。歌の内容は狩猟農業の生活に材をとったものや,軍歌らしい面目をもったものなどがある。
久米邦武
くめくにたけ @@@LINK=久米邦武 久米邦武

久米邦武
くめくにたけ

1839〜1931
明治・大正時代の歴史学者
肥前藩出身。1871年岩倉遣外使節に随行し,'78年に「特命全権大使米欧回覧実記」刊行。修史館に転じ「大日本編年史」編纂に従事。のち,東大教授。'91年論文「神道は祭天の古俗」の筆禍事件で東大辞職。

久米桂一郎
くめけいいちろう @@@LINK=久米桂一郎 久米桂一郎

久米桂一郎
くめけいいちろう

1866〜1934
明治〜昭和初期の洋画家
邦武の長男。肥前(佐賀県)の生まれ。パリに留学してラファエル=コランに師事。帰国後黒田清輝とともに印象派を紹介し,明治絵画史に一時期を画し,白馬会をおこした。のち東京美術学校教授。代表作に『裸婦』『鴨川の景』など。
久米正雄
くめまさお @@@LINK=久米正雄 久米正雄

久米正雄
くめまさお

1891〜1952
大正・昭和期の小説家
長野県の生まれ。東大英文科卒。在学中に芥川龍之介・菊池寛らと第3・4次『新思潮』を発刊。その後,夏目漱石に師事した。才気にあふれた新現実派(新思潮派)の作風を示したが,のち通俗小説に転じた。代表作に『破船』『学生時代』など。

雲形肘木
くもがたひじき @@@LINK=雲形肘木 雲形肘木

雲形肘木
くもがたひじき

雲形輪郭をした肘木
法隆寺建築にみえ,美しい渦文の彫刻を施した肘木をさす。雲斗 (くもと) とともに日本独自のもので,法隆寺建築の特徴とされる。
雲助
くもすけ @@@LINK=雲助 雲助

雲助
くもすけ

江戸中期以後の宿場人足の称
助郷役が代銭納になると,宿場人足が日雇いとなり,無宿・無頼の徒が多く採用されたが,悪事をはたらく者もいて,旅行者から嫌われた。
雲斗
くもと @@@LINK=雲斗 雲斗

雲斗
くもと

雲形の彫刻を施した斗 (ます)
法隆寺に用いられ,その特徴とされる。
公文
くもん @@@LINK=公文 公文

公文
くもん

①律令制下の公的な文書
②中世,荘園・国衙 (こくが) 領における荘官の一つ
朝廷に対し国司の出す大計帳・正税帳・朝集帳・調庸帳を特に四度公文 (よどのくもん) という。これが転じて平安・鎌倉時代において,貴族の家で文書を扱う役人をさす言葉としても使われた。
本来,現地にいて必要な文書を保管・作成する者をいうが,検注・年貢徴収なども行った。したがって預所 (あずかりどころ) の代官的な性格と,一方では下司 (げし) と同じく名主的・武士的性格をもつ。
公文所
くもんじょ @@@LINK=公文所 公文所

公文所
くもんじょ

鎌倉幕府の政務機関
平安時代には国衙 (こくが) の公文書を処理する役所をさしたが,1184年源頼朝 (よりとも) により幕府の機関として設置された。一般政務の処理を行い,別当(長官)に大江広元を任命。のち政所 (まんどころ) と改められると,その一部局となり文書などを取り扱った。
蔵入地
くらいりち @@@LINK=蔵入地 蔵入地

蔵入地
くらいりち

江戸時代,将軍・大名の直轄地
御蔵入地・御蔵入領ともいう。将軍・大名の知行地である領地のうち,家臣に知行地として分与した給地を除いた部分をいう。
クラーク
William Smith Clark @@@LINK=クラーク クラーク

クラーク
William Smith Clark

1826〜86
アメリカの科学者・教育家
マサチューセッツ州立農科大学学長時代に開拓使の招きで1876(明治9)年に来日。札幌農学校教頭として約8か月の在職中,キリスト教精神とアメリカ式教育により大きな成果をあげた。弟子に内村鑑三・新渡戸稲造らがいる。別離に際して残した,"Boys,be ambitious!"(少年よ大志を抱け)の言葉は有名。

倉田百三
くらたひゃくぞう @@@LINK=倉田百三 倉田百三

倉田百三
くらたひゃくぞう

1891〜1943
大正・昭和期の劇作家・評論家
広島県の生まれ。一高在学中西田幾多郎 (きたろう) の哲学に傾倒,以後病の中で思索生活を続けた。戯曲『出家とその弟子』,評論集『愛と認識との出発』は青年層にながく影響を与えた。

鞍作鳥
くらつくりのとり @@@LINK=鞍作鳥 鞍作鳥

鞍作鳥
くらつくりのとり

生没年不詳
7世紀の仏像彫刻家
止利仏師ともいう。中国からの渡来人司馬達等 (しばたつと) の孫。北魏様式の仏像にすぐれ,飛鳥寺本尊(飛鳥大仏)をつくった。法隆寺金堂の『釈迦三尊像』は,彼の作といわれる。
蔵米
くらまい @@@LINK=蔵米 蔵米

蔵米
くらまい

江戸時代,幕府の御蔵や大名の蔵屋敷に運ばれ売りさばかれた貢納米
その一部は家臣の俸給として支給され,切米とも呼ばれた。またほかの国産物をあわせて蔵物という。
蔵米取
くらまいとり @@@LINK=蔵米取 蔵米取

蔵米取
くらまいとり

江戸時代の俸禄形態の一つ
切米取ともいい,知行取に対する。
蔵前
くらまえ @@@LINK=蔵前 蔵前

蔵前
くらまえ

東京都台東区南東部,浅草駒形〜柳橋間の地名
江戸時代,隅田川右岸のこの地に幕府の米蔵(御蔵)が並んだので,その周辺をこう呼ぶ。江戸後期の豪商を代表する札差 (ふださし) の店が並んだので有名。
倉本
くらもと @@@LINK=倉本 倉本

倉本
くらもと

室町時代の金融業者
元来は荘園内の収穫物の倉庫の管理者で,多くは寺院や富裕な商人がたずさわった。したがって高利貸を営み土倉を経営する者もあり,鎌倉時代から南北朝時代にかけての借上 (かしあげ) の系列とみてよい。
蔵元
くらもと @@@LINK=蔵元 蔵元

蔵元
くらもと

江戸時代,蔵屋敷の蔵物の保管・出納 (すいとう) を扱った商人
初めは武士である蔵役人が分掌したが,17世紀後期からは豪商が担当し,掛屋・用達を兼ねる者が多く,しだいに蔵屋敷の実権握り,大名財政の死命を制するようになった。
蔵物
くらもの @@@LINK=蔵物 蔵物

蔵物
くらもの

江戸時代,蔵屋敷に収納された諸品の総称
その中心は米であるが,砂糖・紙・畳表などの特産物もあった。蔵元を通じて入札によって売却され,流通網にのった。
倉役
くらやく @@@LINK=倉役 倉役

倉役
くらやく

土倉役
蔵役人
くらやくにん @@@LINK=蔵役人 蔵役人

蔵役人
くらやくにん

江戸時代蔵屋敷において,から派遣された役人
蔵屋敷の四職として,留守居・名代蔵元掛屋があったが,前二者は武士で,これを蔵役人と称した。後二者は立入町人と称し町人があたり,分にとりたてられた。
蔵屋敷
くらやしき @@@LINK=蔵屋敷 蔵屋敷

蔵屋敷
くらやしき

江戸時代,幕府・諸藩が領地からの年貢米や特産物を売りさばくために設けた倉庫兼取引所
大坂・江戸などに設けられたが,特に大坂に集中。構成員は蔵役人・蔵元・掛屋その他からなり,蔵元が領地からの収納・保管,掛屋が商人への売却・代金保管にあたった。掛屋は御用商人が任じられ蔵元を兼ねることが多くなった。
蔵宿
くらやど @@@LINK=蔵宿 蔵宿

蔵宿
くらやど

②江戸前期から加賀藩で藩内に設けた札差に似た制
③江戸時代,大坂の納宿 (おさめやど) の別称
①江戸時代,江戸浅草の札差 (ふださし) の別称。
藩内数か所に知行米を売りさばく町蔵をつくらせ家臣便宜をはかった。その町蔵の管理者を蔵宿という。
納宿とは大坂へ年貢米を運んできた農民が,幕府の御蔵へ納入するまで泊った旅宿をいったが,のち陸揚げ・納入までを請け負うようになった。
倉山田石川麻呂
くらやまだいしかわまろ @@@LINK=倉山田石川麻呂 倉山田石川麻呂

倉山田石川麻呂
くらやまだいしかわまろ

蘇我倉山田石川麻呂
グラント
Ulysses Simpson Grant @@@LINK=グラント グラント

グラント
Ulysses Simpson Grant

1822〜85
アメリカの軍人・政治家。18代大統領(在職1869〜77)
オハイオ州の生まれ。南北戦争のときの北軍総司令官。1879年世界旅行の途中,日本にたちより,琉球帰属問題について日・清両国間に仲介をとろうとした。東アジアが列強により植民地化されようとしている危機を説き,日・清両国が同盟を結ぶことさえ勧告した。

倶利伽羅峠の戦い
くりからとうげのたたかい @@@LINK=倶利伽羅峠の戦い 倶利伽羅峠の戦い

倶利伽羅峠の戦い
くりからとうげのたたかい

砺波 (となみ) 山の戦い
栗橋関
くりはしのせき @@@LINK=栗橋関 栗橋関

栗橋関
くりはしのせき

江戸時代,武蔵(埼玉県)にあった奥州道中の関所
利根川沿岸にあり,現在の埼玉県北葛飾郡栗橋町。江戸周辺の重要な関所の一つ。
厨川白村
くりやがわはくそん @@@LINK=厨川白村 厨川白村

厨川白村
くりやがわはくそん

1880〜1923
大正時代の英文学者・評論家
本名は辰夫。京都の生まれ。東大卒。アメリカ留学後,京大教授となる。評論家としても活躍。その著書『近代文学十講』『近代の恋愛観』などは,当時の文壇や青年層に大きな影響を与えた。

栗山潜鋒
くりやませんぽう @@@LINK=栗山潜鋒 栗山潜鋒

栗山潜鋒
くりやませんぽう

1671〜1706
江戸中期の朱子学者・水戸藩士
山城(京都府)淀に生まれ,山崎闇斎の門人桑名松雲に学んだ。1692年水戸藩主徳川光圀 (みつくに) に招かれ,三宅観瀾 (みやけかんらん) ・安積澹泊 (あさかたんぱく) らと『大日本史』の編纂に従事し,彰考館総裁となった。主著に『保建大記 (ほうけんたいき) 』。

来栖三郎
くるすさぶろう @@@LINK=来栖三郎 来栖三郎

来栖三郎
くるすさぶろう

1886〜1954
昭和期の外交官
神奈川県の生まれ。東京高商(一橋大学)卒業後,外務省に入る。駐独大使として1940年日独伊三国同盟調印。'41年11月には東条英機内閣の東郷外相により日米交渉を進めていた野村吉三郎大使の補佐に当たる特派大使に任ぜられて渡米し,開戦まで交渉を継続させた。
久留米
くるめ @@@LINK=久留米 久留米

久留米
くるめ

福岡県南西部,佐賀県境の筑後川沿岸にある都市
江戸中期以来,久留米絣 (がすり) の特産地。有馬氏21万石の城下町で,筑紫平野の米・菜種の集散地でもあった。1889年市制を施行
久留米絣
くるめがすり @@@LINK=久留米絣 久留米絣

久留米絣
くるめがすり

福岡県久留米地方で産する代表的木綿絣
江戸後期からの特産綿織物の一つで,18世紀末,久留米の井上でんが発明細密絣模様とじょうぶな品質で有名。武士の副業として生産され,明治時代以後改良され発展した。
呉織
くれはとり @@@LINK=呉織 呉織

呉織
くれはとり

呉の国から渡来した機織女工。
黒岩涙香
くろいわるいこう @@@LINK=黒岩涙香 黒岩涙香

黒岩涙香
くろいわるいこう

1862〜1920
明治・大正時代の新聞記者・翻訳家
本名は周六。土佐(高知県)の生まれ。翻訳小説『巌窟王』『噫 (ああ) 無情』で人気を博し,1892年『万朝報』を創刊。日露戦争直前に非戦論から主戦論に転じ,のち護憲運動やシーメンス事件に活躍した。

蔵人
くろうど @@@LINK=蔵人 蔵人

蔵人
くろうど

平安初期に設置された令外官 (りようげのかん) の一つ
本来皇室の用具や文書を預かる役人。810年薬子の変に際し蔵人頭が置かれ重要な官職となった。天皇に近侍し,機密文書の保管詔勅・奏上の取り次ぎ,宮中の諸儀式などを行う。平安後期には,院・摂関家・大臣家にも置かれた。
蔵人所
くろうどどころ @@@LINK=蔵人所 蔵人所

蔵人所
くろうどどころ

平安初期に設置された令外官の一つ
810年薬子の変を機に嵯峨天皇が朝廷の機密保持機関として創設し,藤原冬嗣・巨勢野足 (こせののたり) を蔵人頭に任じたことに始まる。天皇直属の役所として,宮中の諸行事を取り締まった。職員は別当・蔵人頭・五位蔵人・六位蔵人・雑色 (ぞうしき) ・小舎人 (こどねり) などからなり,これにより少納言・侍従の職務は実質を失った。江戸末期まで存続。
蔵人頭
くろうどのとう @@@LINK=蔵人頭 蔵人頭

蔵人頭
くろうどのとう

蔵人所の長官
藤原冬嗣巨勢野足 (こせののたり) が初任。定員は2人で,弁官と近衛中将があてられ,それぞれ頭弁・頭中将と呼ばれた。のち,その上位に別当が置かれたが,常置の職ではない。
黒住教
くろずみきょう @@@LINK=黒住教 黒住教

黒住教
くろずみきょう

江戸末期におこった神道系宗教で,のち教派神道の一派
1814年岡山近在の神官黒住宗忠 (むねただ) (1780〜1850)が開教。天照大神 (あまてらすおおみかみ) を宇宙創造の神とし,積極的に天皇制を支持したので,'76年明治政府が公認し,教派神道の一つとされた。宗教生活の内容を平易に説いたため,明治維新後関西地方に広がった。
黒田清隆
くろだきよたか @@@LINK=黒田清隆 黒田清隆

黒田清隆
くろだきよたか

1840〜1900
明治時代の政治家
薩摩藩出身。1870年開拓使次官,のち長官として北海道の経営に努力し,樺太 (からふと) の放棄を主張,樺太・千島交換条約の締結を推進させた。'76年日朝修好条規を締結。'81年開拓使官有物払下げ事件で世論の攻撃をうけ一時失脚したが,'88年内閣を組織し,大隈重信を外相とし,後藤象二郎逓相として入閣させ大同団結運動を分裂させた。翌'89年大日本帝国憲法発布に際し超然主義を唱えた。その後元老となり,第2次伊藤博文内閣の逓相,枢密院議長などを歴任した。

黒田如水
くろだじょすい @@@LINK=黒田如水 黒田如水

黒田如水
くろだじょすい

黒田孝高 (よしたか)
黒田清輝
くろだせいき @@@LINK=黒田清輝 黒田清輝

黒田清輝
くろだせいき

1866〜1924
明治・大正時代の洋画家
薩摩(鹿児島県)の生まれ。フランスに遊学して初め法律を志したが,ラファエル=コランに師事して絵を学ぶ。1893年帰国し,'96年東京美術学校で洋画を教授。同年明治美術会を脱退して白馬会を創設し,印象派(外光派)を日本に紹介。裸体モデルを日本で初めて使用するなど,日本近代洋画を確立した。官展派の重鎮として活躍し,のち帝国美術院長・貴族院議員を歴任。代表作に『湖畔』『読書』『花野』など。

黒田騒動
くろだそうどう @@@LINK=黒田騒動 黒田騒動

黒田騒動
くろだそうどう

江戸初期,筑前福岡藩におこった御家騒動
2代藩主黒田忠之 (ただゆき) (長政の子)の専制に対し,家老栗山大膳が,失政を理由とする御家取りつぶしをおそれ,苦肉の策として,忠之が幕府への謀反を計画していると直訴 (じきそ) した事件。その結果,忠之に反意がなかったことが判明して除封を免れ,栗山は南部藩にお預けとなった。
黒田長政
くろだながまさ @@@LINK=黒田長政 黒田長政

黒田長政
くろだながまさ

1568〜1623
安土桃山〜江戸時代初期の武将
孝高 (よしたか) の子。豊臣秀吉に仕え朝鮮出兵で活躍。関ケ原の戦い(1600)で東軍に属し,小早川秀秋の内応を画策戦後,豊前(大分県)中津12万石から筑前福岡52万石に封じられ,福岡藩の祖となった。

黒田孝高
くろだよしたか @@@LINK=黒田孝高 黒田孝高

黒田孝高
くろだよしたか

1546〜1604
安土桃山時代の武将
通称官兵衛,号は如水 (じよすい) 。長政の父。播磨(兵庫県)の人。織田信長に協力,のち豊臣秀吉に仕え豊前(大分県)中津12万石を領した。兵略にすぐれ隠居後もなお天下をとる気概をもった。またキリシタン大名としても有名で,洗礼名をドン=シメオンといった。

黒船
くろふね @@@LINK=黒船 黒船

黒船
くろふね

欧米の艦船の呼称
安土桃山時代,南蛮船は船体を黒く塗っていたので黒船といわれたが,おもに幕末に来航した欧米の軍艦をいう。幕末ペリー来航後,諸外国が開国を強要するようになると,黒船は欧米資本主義の強大な圧力の象徴としての意味をもつようになった。
黒本
くろほん @@@LINK=黒本 黒本

黒本
くろほん

江戸中期の草双紙の一つ
表紙が黒色。内容は青本とほぼ同じで,浄瑠璃・歌舞伎に題材を求め,軍記物・仇討物が主。青本が若者向きであったのに対し,成人向きである。
桑名
くわな @@@LINK=桑名 桑名

桑名
くわな

三重県北東部,伊勢湾に臨む港町
木曽川の河口にあって古代から海陸の交通要地。陸上では鈴鹿 (すずか) を越して京都に続き,海上東国への航路が開く。近世桑名藩の城下町,東海道七里の宿駅として繁栄した。1937年市制を施行
桑名藩
くわなはん @@@LINK=桑名藩 桑名藩

桑名藩
くわなはん

江戸時代,三重県北部を領有した藩
関ケ原の戦い後,本多忠勝が15万石で就封。以後久松・奥平,再び久松氏が入封し,明治維新に至る。幕末,藩主久松定敬は京都所司代となり,戊辰 (ぼしん) 戦争では佐幕諸藩の中核として会津藩とともに活躍。官軍に抗し6万石に減封された。
軍記物語
ぐんきものがたり @@@LINK=軍記物語 軍記物語

軍記物語
ぐんきものがたり

中世に流行した,戦乱を中心素材とする戦記文学
平安朝の漢文体の『将門記』『陸奥話記』に始まり,鎌倉期の『保元物語』『平治物語』『平家物語』『源平盛衰記』,室町期の『太平記』『義経記』『曽我物語』などが代表的作品である。明快・動的な和漢混交文で,栄枯盛衰の激しかった中世の世態・人情をよく写しとり,広く国民の間に愛好された。多くの作品が,作者・成立年代不詳であることは多数の人びとの共同製作と考えられる。特に『平家物語』は平曲として語られ広く流布した。江戸時代の文学へ大きな影響を与えた。
郡区町村編制法
ぐんくちょうそんへんせいほう @@@LINK=郡区町村編制法 郡区町村編制法

郡区町村編制法
ぐんくちょうそんへんせいほう

1878(明治11)年に制定された地方行政制度に関する法規。三新法の一つ
従来の画一的な大・小区制を廃止して町村を自治体として復活し,行政区画としての郡を置き,別に東京・京都・大阪に区を設置し,府知事県令—郡・区長—戸長(町村長)という職制を確立した。'88年市制・町村制,'90年府県制・郡制制定により廃止。
軍国主義
ぐんこくしゅぎ @@@LINK=軍国主義 軍国主義

軍国主義
ぐんこくしゅぎ

国の政治・経済・文化全般を軍事に従属させ,戦争または戦争準備のための制度・政策を最高位に置くという思想・体制
日本の場合,明治時代以来,天皇制と不可分に結合して発展。昭和期に入りその傾向は特に著しくなり,ファシズムの確立をみた。第二次世界大戦後,ポツダム宣言に基づく占領政策は,日本軍国主義の除去をめざした。
郡司
ぐんじ @@@LINK=郡司 郡司

郡司
ぐんじ

律令制下,中央から派遣された国司のもとで郡を治める地方官
大領・少領・主政・主帳の四等官よりなり,大化以前の国造 (くにのみやつこ) など地方豪族から任命された。終身世襲の官で,平安時代には,地方の有力者として時に国司に対抗した。
群集墳
ぐんしゅうふん @@@LINK=群集墳 群集墳

群集墳
ぐんしゅうふん

古墳時代後期に出現した小規模な古墳の群集
ふつう「百塚」または「千塚」などと呼ばれ,6世紀後半に出現した。5世紀以来の農業生産力の発展をもとにした家父長制的家族の出現によるものと考えられる。代表例に岩橋千塚(和歌山県)・新沢千塚(奈良県)・吉見百穴(埼玉県)など。
群書類従
ぐんしょるいじゅう @@@LINK=群書類従 群書類従

群書類従
ぐんしょるいじゅう

江戸後期の和学国学)者塙保己一 (はなわほきいち) が編纂した,日本の古書を分類収録した史料叢書
正編は530巻,666冊,1270種。続編1150巻,1185冊,2103種の文献を収め,神祇・帝王・補任・系譜をはじめ貴重な国史・国文史料を25部門に分類。古代から江戸初期に及ぶ広範な史料を,幕府の助成により設立された和学講談所で編集・校訂し,1819年正編刊行。続編は保己一没後の'22年完成。わが国最大の史料叢書。
軍人勅諭
ぐんじんちょくゆ @@@LINK=軍人勅諭 軍人勅諭

軍人勅諭
ぐんじんちょくゆ

1882年,明治天皇が軍人に対して下した訓戒の勅諭
竹橋事件にみられる軍紀のゆるみを正し,自由民権運動の高まりの中で軍人の縦社会の強化をはかる目的により,山県有朋の命で,西周 (にしあまね) らが起草。内容は軍人の守るべき徳目として忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五つをあげ,特に軍人が政治に関与しないように明示している。第二次世界大戦の敗戦まで軍人精神の根本となった。
郡制
ぐんせい @@@LINK=郡制 郡制

郡制
ぐんせい

明治〜大正時代にかけての地方行政制度
古代の郡の名称江戸幕府の復旧策によって残存していたが,1878(明治11)年郡区町村編制法の成立により行政単位として政府の行政浸透の機能を果たした。'90年郡制公布により地方自治体となったが,課税権能をもたず不完全で,単なる行政区画として存続した。
郡代
ぐんだい @@@LINK=郡代 郡代

郡代
ぐんだい

江戸幕府の職名
勘定奉行に所属し,代官と同じく天領の徴税訴訟・民政にあたった。一般に10万石以上の管轄区域に設置され,関東郡代・美濃郡代・西国郡代・飛驒郡代などが有名。
君台観左右帳記
くんだいかんそうちょうき @@@LINK=君台観左右帳記 君台観左右帳記

君台観左右帳記
くんだいかんそうちょうき

室町時代,美術・工芸の秘伝書
諸種の異本がある。能阿弥がほぼととのえたものをの相阿弥が大成したと伝えられている。宋元画家の評価,書院の飾り方式および諸道具の説明の3部からなる。
軍団
ぐんだん @@@LINK=軍団 軍団

軍団
ぐんだん

律令制下,諸国に設置された軍隊
唐の府兵制を模したもので,諸国の正丁 (せいてい) の3分の1を兵士とし,農閑期に交替で10日ずつ勤務させた。1000人以上,600人以上,500人以下を大・中・小団とし国司の管下に置き,その一部は衛士・防人 (さきもり) として,京・九州に送られた。792年奥羽・九州を除き廃止され,健児 (こんでい) 制に改められた。
軍閥
ぐんばつ @@@LINK=軍閥 軍閥

軍閥
ぐんばつ

軍事力を背景として政治的支配力や特権を掌握した軍部勢力
第一次世界大戦までは,「薩摩の海軍,長州の陸軍」が軍閥をつくり統帥 (とうすい) 権の独立と軍部大臣現役武官制によって内閣の死命を制するような政治力をもった。第一次世界大戦後は大正デモクラシーのもと軍閥批判の声が高まり軍閥勢力は後退した。昭和期に入ると,陸軍は皇道派統制派という派閥を形成。皇道派は二・二六事件(1936)後勢力を失い,以後統制派が独占資本・官僚と結びついて軍閥独裁を実現し侵略戦争の拡大をはかったが,敗戦によって消滅した。
郡奉行
こおりぶぎょう @@@LINK=郡奉行 郡奉行
ぐんぶぎょう @@@LINK=郡奉行 郡奉行

郡奉行
こおりぶぎょう

江戸時代,諸藩において農村の行政にあたった役職
百姓の支配,徴税・訴訟などの事務をつかさどった。家老に属し,配下に代官・手代などがおり,城下にある役所で執務した。

郡奉行
ぐんぶぎょう

こおりぶぎょう
軍部大臣現役武官制
ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい @@@LINK=軍部大臣現役武官制 軍部大臣現役武官制

軍部大臣現役武官制
ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい

明治〜昭和期,陸・海軍大臣を現役大・中将に限り任命する制度
1900年山県有朋内閣によって政党勢力を抑えるため法制化された。軍部はこれを利用し軍部大臣の入閣を拒否して,1912年西園寺公望 (きんもち) 内閣を倒したが,第1次護憲運動反撃にあい,'13年山本権兵衛内閣のとき予備役・後備役も認めた。'36年二・二六事件後広田弘毅内閣のとき現役制が復活し,軍閥の専制支配体制が確立した。
群馬事件
ぐんまじけん @@@LINK=群馬事件 群馬事件

群馬事件
ぐんまじけん

1884(明治17)年,群馬県でおこった自由民権運動の激化事件
群馬県自由党急進派は政府の弾圧,自由党幹部の政府との妥協に憤激して,1884年5月,鉄道開通式のため高崎駅に集まる政府高官の襲撃を計画したが,政府が式を延期したため中止。ついで妙義山に挙兵し,高利貸・警察分署などを襲ったが失敗に終わった。
軍務官
ぐんむかん @@@LINK=軍務官 軍務官

軍務官
ぐんむかん

明治初期の軍政機関。七官の一つ
1868年政体書により設置。陸・海軍2局と築造・兵船・兵器・馬政の4司からなり,軍政を担当した。'69年兵部省と改称
軍役
ぐんやく @@@LINK=軍役 軍役

軍役
ぐんやく

武家社会において,家臣が主君に対して負う軍事上の負担
鎌倉時代は,君主からの御恩に対する奉公として,所定の負担義務はあったが,数量的に負担が規定されるのは,貫高制に基づいて知行を配分する戦国期からである。豊臣秀吉は,朝鮮出兵を機に石高制に基づく,統一的な軍役体系を成立させた。江戸幕府もこれを継承し,1616(元和2)年,'33(寛永10)年の軍役令によって知行高に応じた軍役体系を整え,武士はこの規定によって,常時武器と人数を用意することが要求され,参勤交代,幕府の城郭普請や河川改修などの土木手伝いなども軍役とされ,諸大名も家臣に対して類似の軍役規定を定めた。
軍令部
ぐんれいぶ @@@LINK=軍令部 軍令部

軍令部
ぐんれいぶ

明治〜昭和期の旧日本海軍の軍令統轄機関
陸軍の参謀本部にあたる。初め参謀本部ついで海軍省の管下にあった海軍参謀部が,1893年独立して海軍軍令部と改称。軍政機関としての海軍省に対し,天皇に直属して作戦・海防などの任務にあたった。1930年ロンドン海軍軍縮条約に反対し,統帥 (とうすい) 権を干犯するとして政府を攻撃した。'33年軍令部と改称。'45年敗戦とともに廃止された。

げ @@@LINK=解 解



律令に規定されている,下位の官司から上位の官司に出す文書
解状・解文 (げぶみ) ともいう。平安時代以後は官司間だけでなく,一般に上申する場合の文書すべてをいうようになった。尾張国郡司百姓等解文は有名。
芸阿弥
げいあみ @@@LINK=芸阿弥 芸阿弥

芸阿弥
げいあみ

1431〜85
室町時代の画家
名は真芸。父能阿弥,子相阿弥とともに三阿弥といわれる。室町将軍家の書画・骨董の管理を行う。水墨画家としてもすぐれ,周文に似て力強いうえ雅味を加え,水墨画史上重要な地位を占める。また連歌にも長じていた。

桂庵玄樹
けいあんげんじゅ @@@LINK=桂庵玄樹 桂庵玄樹

桂庵玄樹
けいあんげんじゅ

1427〜1508
室町後期の臨済宗の僧。薩南学派の祖
長門 (ながと) の人。1467年入明し『尚書 (しようしよ) 』を学ぶ。'73年帰国後,石見 (いわみ) ・筑後肥前を遍歴し,釈奠 (せきてん) (孔子を祭る典礼)を行い儒書を講じた。'78年薩摩の島津忠昌に招かれ,朱子学を講じ薩南学派をおこした。『大学章句』を初めて出版,四書五経の句読法を一定した「家法倭点」を定め,日本朱子学史上に一時期を画した。また詩文集として『島陰漁唱』などがある。
慶安事件
けいあんじけん @@@LINK=慶安事件 慶安事件

慶安事件
けいあんじけん

江戸前期,由井正雪ら牢人が企てた陰謀事件
慶安の変・由井正雪の乱ともいう。幕府成立当初の武断政治で多くの大名が取りつぶしにあい,生活窮乏の牢人が増加。1651年,3代将軍徳川家光の死を機に,丸橋忠弥 (ちゆうや) らは江戸城を,正雪らは駿府城を奪い,金井半兵衛らは大坂で騒乱をおこして,幕府の政道を改めようとしたが,計画がもれて鎮圧された。幕府はこの事件後牢人対策を重視し,末期 (まつご) 養子の禁を緩和し,大名の改易を減じるなど牢人の発生を防ぐ政策をとり,文治政治転換への一契機となった。
慶安の触書
けいあんのふれがき @@@LINK=慶安の触書 慶安の触書

慶安の触書
けいあんのふれがき

江戸前期,幕府が農民生活を規制するため出した触書
1649(慶安2)年発布。全32条。幕府は幕初以来しばしば農民生活に干渉して触書を出したが,それを集大成したもの。公儀法度の順守・勧農衣食住の規制,その他農民の守るべき心得を細部にわたって規定し,生活統制を行った。江戸時代の農民支配の根本方針が示されている。
慶運
けいうん @@@LINK=慶運 慶運

慶運
けいうん

年不詳
南北朝時代の歌人
浄弁の子。頓阿 (とんあ) ・浄弁・吉田兼好と並んで和歌四天王と称された。二条派の歌人で,物さびて冷徹した主観に支えられた歌風。家集に『慶運法印集』1巻がある。
桂園一枝
けいえんいっし @@@LINK=桂園一枝 桂園一枝

桂園一枝
けいえんいっし

江戸後期,香川景樹の自撰歌集
1830年刊。3巻。小沢蘆庵の「ただごと歌」の主張をさらに発展させ,清新な歌風をもって京都の歌壇に君臨した桂園派の代表作。『古今和歌集』の歌風を理想とし,紀貫之を歌聖と仰ぎ,その実践としてこの集を撰した。
桂園時代
けいえんじだい @@@LINK=桂園時代 桂園時代

桂園時代
けいえんじだい

明治後期〜大正初期にかけて,桂太郎と西園寺公望 (きんもち) が交互に内閣を組織した時代(1901〜13)
「政権のたらいまわし」といわれたが,第3次桂内閣時代に,第1次護憲運動にあって終わりをつげた。
桂園派
けいえんは @@@LINK=桂園派 桂園派

桂園派
けいえんは

江戸後期,香川景樹が主張した和歌の流派
景樹63歳のときに刊行された『桂園一枝』から命名賀茂真淵 (まぶち) らの『万葉集』尊重に対し古今調を主唱し,京坂歌壇に流行。門下には木下幸文・熊谷直好など多士済々であり,明治初年まで続いた。
慶応義塾
けいおうぎじゅく @@@LINK=慶応義塾 慶応義塾

慶応義塾
けいおうぎじゅく

幕末福沢諭吉が創立した私立学校
1858年福沢が江戸鉄砲洲(中央区明石町)の中津藩奥平家の中屋敷内の長屋に開いた一家塾に始まり,初めは蘭書を,'62年ごろからはもっぱら英語を教授した。'68(慶応4)年築地が外人居留地になったため芝新銭座の旧有馬家の中屋敷に新築して移り,慶応義塾改称。「慶応」は年号からとり,「義塾」は共同結社の意味を表したもので,ここに学ぶ者を社中と称した。'71年三田に移転。'90年大学部を設置,日本における最初の私立大学となった。1903年慶応義塾大学と改称。自由主義・功利主義的学風で官学と対抗した。第二次世界大戦後,新制大学として発足
挂甲
けいこう @@@LINK=挂甲 挂甲

挂甲
けいこう

古墳時代中期以降の古代のよろい
「かけよろい」とも読む。小札 (こざね) と呼ぶ小金属をつづり合わせてつくったもので,5世紀ころ朝鮮からとり入れられた。古墳時代の小札には鉄製のほか金銅製のものもあり,8世紀以後には革製のものも現れた。平安時代になると儀礼の武装として用いられ,実用性を失った。
景行天皇
けいこうてんのう @@@LINK=景行天皇 景行天皇

景行天皇
けいこうてんのう

生没年不詳
記紀にみえる,皇室系図で12代目の天皇
みずから熊襲 (くまそ) 征討に出かけ,また皇子日本武尊 (やまとたけるのみこと) にも蝦夷 (えみし) や熊襲 (くまそ) を討たせたという征討説話がある。

稽古館
けいこかん @@@LINK=稽古館 稽古館

稽古館
けいこかん

①江戸時代,彦根藩藩校
②江戸時代,津軽(弘前の藩校
1799年井伊直中が設立。1830年館制を改革して弘道館改称幕末には和学・兵学なども加えた。
1796年津軽永孚らが設立。古学・朱子学のほか幕末には洋学も行った。
経国集
けいこくしゅう @@@LINK=経国集 経国集

経国集
けいこくしゅう

平安初期,最後の勅撰漢詩文集
827年完成。20巻(現存6巻)。淳和 (じゆんな) 天皇の命により良岑安世 (よしみねのやすよ) らの撰。書名は「文章は経国の大業なり」(魏の文帝の語)による。作者は嵯峨天皇・空海ら178人。宗教的・観想的傾向をもつ。平安初期の漢文学隆盛の総決算。
経国美談
けいこくびだん @@@LINK=経国美談 経国美談

経国美談
けいこくびだん

明治前期,矢野竜溪の政治小説
1883〜84年刊。前後2編。立憲改進党の幹部だった著者は,古代ギリシア史に材料を求め,テーベの国家興隆と憂国の志士たちの活動を通じて,自由民権思想を述べ,多くの青年や知識人に影響を与えた。
稽古談
けいこだん @@@LINK=稽古談 稽古談

稽古談
けいこだん

江戸後期,海保青陵 (かいほせいりよう) の経世書
1813年成立。5巻。商品経済の発展を認め,武士の商業を賤 (いや) しむ思想を非難し,武士の俸禄をも一種の売買関係とみなすなど,封建制度のもとで異色の経済論を述べた。また武士の内職専売制の実施を論じた。
稽古堂
けいこどう @@@LINK=稽古堂 稽古堂

稽古堂
けいこどう

①江戸時代,会津藩藩校
②江戸時代,但馬 (たじま) (兵庫県)豊岡藩の藩校
寛文年間(1661〜73)ころ,藩祖保科正之 (まさゆき) が開設。1665年に山崎闇斎招聘。1799年整備拡充して日新館と改称した。
1833年,藩主京極高行が開設。漢学のほか蘭学・国学も行った。
経済安定九原則
けいざいあんていきゅうげんそく @@@LINK=経済安定九原則 経済安定九原則

経済安定九原則
けいざいあんていきゅうげんそく

1948年12月,経済安定政策としてGHQの出した指令
(1)節倹と予算の均衡,(2)徴税強化と脱税の防止,(3)融資の制限,(4)賃金の安定,(5)物価の統制,(6)外国為替の管理強化,(7)輸出のための資材割当て配給制の改善,(8)重要国産原料および製品の増産,(9)食糧集荷計画の改善の9カ条で,インフレ収束を目的として日本国民に耐乏生活を要求した。翌年ドッジ‐ラインの前提となる。
経済協力開発機構
けいざいきょうりょくかいはつきこう @@@LINK=経済協力開発機構 経済協力開発機構

経済協力開発機構
けいざいきょうりょくかいはつきこう

オーイーシーディー(OECD)
経済要録
けいざいようろく @@@LINK=経済要録 経済要録

経済要録
けいざいようろく

江戸後期,佐藤信淵 (のぶひろ) の経世書
1827年刊。15巻。絶対主義的な統一国家のもとで,官営商業・資源開発・海外進出をめざす重商主義的政策を主張した。
経済録
けいざいろく @@@LINK=経済録 経済録

経済録
けいざいろく

江戸中期,太宰春台 (だざいしゆんだい) の経世書
1729年刊。10巻。重農主義的な立場から政治・経済のあり方を説いた。
警察予備隊
けいさつよびたい @@@LINK=警察予備隊 警察予備隊

警察予備隊
けいさつよびたい

1950年8月,警察力を補充する目的で創設された警察隊。自衛隊の前身
朝鮮戦争に際し,在日アメリカ軍が出動した空白を埋めるために,マッカーサー書簡により,第3次吉田茂内閣が設置。首相に直属し,定員7万5000名。日本の再軍備の出発点となった。'52年保安隊,'54年自衛隊に改組発展。
家司
けいし @@@LINK=家司 家司
いえつかさ @@@LINK=家司 家司

家司
けいし

皇族貴族の家政をつかさどる職員
「いえつかさ」とも読む。大宝令に規定があるが,平安中期以後は皇族や貴族が政所 (まんどころ) ・侍所 (さむらいどころ) などの機関を設け職員を置いた。鎌倉・室町幕府の政所・問注所 (もんちゆうじよ) の寄人 (よりゆうど) ,評定衆 (ひようじようしゆう) ・引付 (ひきつけしゆう) の職員も総称して家司といった。

家司
いえつかさ

けいし
刑事訴訟法
けいじそしょうほう @@@LINK=刑事訴訟法 刑事訴訟法

刑事訴訟法
けいじそしょうほう

刑事事件に関する裁判手続きを定めた法律
1880年ボアソナードが治罪法を起草し,'82年施行されていたが,'90年憲法・裁判所構成法の施行に伴って修正の上,刑事訴訟法として制定。1922年ドイツ法学の影響をうけた刑事訴訟法がつくられ,'24年から施行。第二次世界大戦後の'48年,アメリカ・イギリス法の影響をうけた現行法が成立した。
警視庁
けいしちょう @@@LINK=警視庁 警視庁

警視庁
けいしちょう

首都の警察行政をつかさどる官庁
1874年設置。長官(警視総監)は知事から独立して内務大臣指揮監督うけ,東京府の警察・消防衛生などを管理した。1948年都公安委員会のもとで自治体警察になり,'54年都警察の本部となった。
傾斜生産方式
けいしゃせいさんほうしき @@@LINK=傾斜生産方式 傾斜生産方式

傾斜生産方式
けいしゃせいさんほうしき

第二次世界大戦後の〈原材料不足→生産低下→インフレ〉の悪循環をたちきるために行った石炭・鉄鋼重点生産の方式
有沢広巳を委員長とする石炭特別小委員会によって1946年末に構想され,'47年6月片山哲内閣の「経済緊急対策」の中核にすえられた。出炭を強化しつつ鉄鋼部門に重点配炭し,鉄鋼生産の拡大を通じて経済の均衡回復をはかろうとしたもの。'49年ドッジ‐ライン実施まで継続された。
芸術座
げいじゅつざ @@@LINK=芸術座 芸術座

芸術座
げいじゅつざ

大正時代の新劇団
文芸協会解散後,1913年島村抱月・松井須磨子・秋田雨雀らが結成。西欧近代劇を上演し,芸術的成果をめざしながらこれを大衆に紹介。有名な「復活」のほかに「サロメ」「海の夫人」などを上演したが,'18年抱月の死,翌'19年松井の自殺で解散した。
桂昌院
けいしょういん @@@LINK=桂昌院 桂昌院

桂昌院
けいしょういん

1627〜1705
江戸前期,5代将軍徳川綱吉の生母
京都の八百屋の娘。春日局 (かすがのつぼね) に見いだされ,将軍家光の妾となり,阿玉の方といわれた。家光の死後出家し,桂昌院と称した。綱吉の将軍就任(1680)後大奥の実権を握り,僧隆光らを信じ,仏寺造営,生類憐みの令の発令にも関与した。
形象埴輪
けいしょうはにわ @@@LINK=形象埴輪 形象埴輪

形象埴輪
けいしょうはにわ

埴輪の一種。家・動物・人物などをかたどった埴輪の総称。
系図
けいず @@@LINK=系図 系図

系図
けいず

先祖から代々縦横の相互関係を書いた図表
家の果たす役割が大きかった日本では,家の由来を説明するものとして尊重された。武士の間には,戦場で先祖以来の家系を高声で唱える習慣があり,実力主義乱世がしだいに安定して系図尊重の思想が盛んになると,家格を高めようとすることから藤原・源・平3氏との関係をこじつけたものを筆頭に系図が盛んにつくられたが,疑わしいものが多い。
経世秘策
けいせいひさく @@@LINK=経世秘策 経世秘策

経世秘策
けいせいひさく

江戸後期,本多利明の経世書
1789〜1800年ころ成立。上下2巻。積極的な貿易振興による国力増強を説き,一種の重商主義的な富国策を強調した。
継体天皇
けいたいてんのう @@@LINK=継体天皇 継体天皇

継体天皇
けいたいてんのう

450〜531ごろ
5〜6世紀の天皇(在位507〜531)
応神天皇5世の孫。武烈天皇の没後越前(福井県)から大伴金村らに擁立されて即位。在位中に大伴金村が任那 (みまな) 4県を百済 (くだら) に割譲した事件や筑紫国造磐井の乱があった。
契沖
けいちゅう @@@LINK=契沖 契沖

契沖
けいちゅう

1640〜1701
江戸前期の真言宗の僧・国学者
摂津(兵庫県)尼崎に生まれ,11歳で高野山で出家。仏典や『万葉集』の研究に従事し,徳川光圀 (みつくに) の依頼と援助のもとで『万葉代匠記』を著した。宗教道徳にとらわれない古典の解釈や注釈を行い,その復古思想や学問態度は国学発展の基礎となった。

計帳
けいちょう @@@LINK=計帳 計帳

計帳
けいちょう

律令制における調・庸などの徴収のための原簿
四度公文 (よどのくもん) の一つ。毎年,各戸主に戸口の氏名・年齢・性別・課・不課の別を申告させ,国司が国ごとにまとめたもの。正倉院断片が残る。
慶長金銀
けいちょうきんぎん @@@LINK=慶長金銀 慶長金銀

慶長金銀
けいちょうきんぎん

江戸時代最初の金銀貨
17世紀を通じて鋳造。良質・大量で,金銀通貨統一を実現した。金貨に大判・小判・一分金,銀貨に丁銀・豆板銀がある。公定比価は金1両=銀50匁 (もんめ) =銭4貫文。
慶長遣欧使節
けいちょうけんおうしせつ @@@LINK=慶長遣欧使節 慶長遣欧使節

慶長遣欧使節
けいちょうけんおうしせつ

1613(慶長18)年,仙台藩主伊達政宗がヨーロッパに派遣した使節
宣教師ルイス=ソテロのすすめにより,支倉常長 (はせくらつねなが) を正使とする一行約200名を派遣。ノビスパン(メキシコ)を経てスペインに渡り,国王フェリペ3世に謁し,さらにローマにおもむきローマ教皇パウロ5世に謁した。メキシコとの通商を求めたが成功せず,1620年帰国した。
慶長見聞集
けいちょうけんもんしゅう @@@LINK=慶長見聞集 慶長見聞集

慶長見聞集
けいちょうけんもんしゅう

江戸初期の随筆集
『見聞集』ともいう。1614年の著作。10巻。北条氏政の家臣三浦浄心が見聞した江戸の雑事・人情風俗を記す。浄心に仮託した後世の作という説もある。
慶長勅版
けいちょうちょくばん @@@LINK=慶長勅版 慶長勅版

慶長勅版
けいちょうちょくばん

慶長年間(1596〜1615),後陽成天皇により出版された日本最初の木版活字本
文禄・慶長の役(1592〜98)で朝鮮から伝わった活字印刷の技術により,1597〜1603(慶長2〜8)年の間に『古文孝経』『日本書紀』〈神代巻〉,『四書』『職原抄』や医書などを印刷部数は200未満の少部であった。
慶長の役
けいちょうのえき @@@LINK=慶長の役 慶長の役

慶長の役
けいちょうのえき

1597(慶長2)年,豊臣秀吉の2度目の朝鮮出兵(〜'98)。
刑法
けいほう @@@LINK=刑法 刑法

刑法
けいほう

犯罪と刑罰との関係を規定した法律
明治維新後の1870年新律綱領,'73年改定律例が制定されたが,政府は法律制度の近代化のためにボアソナードを招き,その指導のもとにフランス刑法を基礎として草案を作成,'80年公布し,'82年施行。その後ドイツ法体系への転換に伴い,1907年新刑法を制定し,翌年施行した。第二次世界大戦後,'47年の改正で不敬罪・姦通 (かんつう) 罪などが廃止され,さらに'56年より全面的改正作業が始まったが,はげしい反対意見もあり,いまだに実現はしていない。なお,条文の現代用語化については,'95年に実現した。
刑法官
けいほうかん @@@LINK=刑法官 刑法官

刑法官
けいほうかん

明治初期の司法機関政体書による太政官制七官の一つ
1868年設置。監察・裁判・警察をつかさどり,4年を任期とした。政体書の総則では三権分立原則をかかげるが,官制では刑法官は事実上行政官である輔相から独立していない。'69年刑部省改称
鯨油
げいゆ @@@LINK=鯨油 鯨油

鯨油
げいゆ

クジラからとった油
鯨油採取を主目的として,江戸時代,特に後期以降に捕鯨が盛んとなった。安価な灯油として,またウンカ(稲の害虫)駆除の特効薬として用いられた。
KS磁石鋼
ケーエスじしゃくこう @@@LINK=KS磁石鋼 KS磁石鋼

KS磁石鋼
ケーエスじしゃくこう

1916(大正5)年,本多光太郎・高木弘によって発明された特殊鋼
鉄のなかにコバルト・タングステン・クロム炭素を含ませた特殊鋼で,第一次世界大戦のため優良な鉄鋼が輸入できなくなっていた中で,本多住友財閥から研究費の援助をうけて完成。「K・S」の名は住友吉左衛門頭文字からとった。さらに,'34年本多らは新KS磁石鋼(鉄・ニッケル・チタン合金)を発明した。
外宮
げくう @@@LINK=外宮 外宮

外宮
げくう

伊勢神宮の一つ
内宮である皇大 (こうたい) 神宮に対して豊受 (とようけ) 大神宮をいう。穀物の神で,内宮とともに皇室氏神として崇敬された。中世には外宮の禰宜 (ねぎ) 度会氏 (わたらいうじ) が伊勢神道を成立させた。
下戸
げこ @@@LINK=下戸 下戸

下戸
げこ

古代の下層身分の一つ
一般民衆をさす。『魏志』倭人伝によると,邪馬台国 (やまたいこく) には支配層である大人 (たいじん) ,一般民衆である下戸,国家的奴隷である生口 (せいこう) という身分秩序があった。
下剋上
げこくじょう @@@LINK=下剋上 下剋上

下剋上
げこくじょう

南北朝〜戦国時代にかけて,実力ある下位者が上位者をしのぐ風潮をいう
公家武家に,将軍は管領 (かんれい) に,守護は守護代にというように,実権がその下位者に奪われたことをさす。土一揆も下剋上の運動。二条河原落書に「下剋上する成出者(成上り者)」とあるが,嘉吉の乱で守護赤松満祐が将軍足利義教 (よしのり) を殺したこと,また管領細川氏は将軍に代わり,その家宰三好氏が細川氏に代わり,さらにその臣松永氏が三好氏に代わってその実権を奪ったことなどが代表例である。出身の明らかでない北条早雲や斎藤道三が風雲に乗じて実力で戦国大名になったのもこの現れといえる。
華厳宗
けごんしゅう @@@LINK=華厳宗 華厳宗

華厳宗
けごんしゅう

南都六宗の一つ
唐代に法蔵が『華厳経』に基づいて大成し,736年唐僧道璿 (どうせん) が日本に伝えた。奈良中期から盛んになり,東大寺はその根本道場として造られた。
戯作
げさく @@@LINK=戯作 戯作

戯作
げさく

戯作文学のことで,江戸時代の通俗文学
伝統的文学である漢詩文和歌和文などに対し,元禄(1688〜1704)以降の洒落本 (しやれぼん) ・読本 (よみほん) ・黄表紙・滑稽本・人情本などの総称。戯作者として著名なのは,山東京伝・式亭三馬・十返舎一九・為永春水など。幕末以後,仮名垣魯文 (かながきろぶん) などが出たが,政治小説・近代文学の発生とともに衰退した。
下作人
げさくにん @@@LINK=下作人 下作人

下作人
げさくにん

荘園制下,地主化した作人に対して直接耕作者である百姓をいう
鎌倉後期以降作手職が分化して耕作権ではなく地主的な得分権となるにしたがい,彼らの下で実際の耕作にあたるが下作人と呼ばれるようになった。下作人は年貢加地子・作職得分を上納した。
下司
げし @@@LINK=下司 下司

下司
げし

荘園において実際の荘務を行う荘官の一つ
「げす」とも読む。「荘の下司」を略してふつう荘司といった。本来,領主の政所 (まんどころ) などにいて荘務を総轄する上級役人すなわち上司や,預所 (あずかりどころ) などの上級荘官すなわち中司に対していう。一般に在地の有力者が任命される場合が多く,平安末期から世襲化・武士化していく傾向が強かった。
解脱上人
げだつしょうにん @@@LINK=解脱上人 解脱上人

解脱上人
げだつしょうにん

貞慶 (じようけい)
闕所
けっしょ @@@LINK=闕所 闕所

闕所
けっしょ

①鎌倉・室町時代,罪科などで所領を幕府に没収され,知行人のいない土地をさし,のち没収されること自体をいう
②江戸時代,庶民に対する刑罰の一つ
御家人にとって重大な刑罰で,没官領とほぼ同じ性質
死罪・遠島・追放などの付加刑で家財没収のこと。なお,大名以下の武士の所領処分は改易といった。
血税一揆
けつぜいいっき @@@LINK=血税一揆 血税一揆

血税一揆
けつぜいいっき

明治初年におこった徴兵令反対の農民一揆
1873〜74年にかけて,岡山県・鳥取県など主に西日本各地の農民が役場などを襲撃。政府は「徴兵告諭」文中の「血税」という文字が誤解を生んだのだと説明したが,無償で農民の労働力を奪う結果を民衆が感じとったことが最大の原因であった。
血盟団事件
けつめいだんじけん @@@LINK=血盟団事件 血盟団事件

血盟団事件
けつめいだんじけん

1932年,前蔵相井上準之助と三井合名理事長団琢磨を射殺した右翼テロ事件
血盟団は日蓮宗僧侶井上日召 (につしよう) が恐慌下の農村青年を感化して組織した狂信的右翼団体で,「一人一殺主義」で政・財界の要人を暗殺して国家改革をはかろうとしたもの。五・一五事件の発生に影響を与え,軍部台頭の契機となった。
家人
けにん @@@LINK=家人 家人

家人
けにん

①律令制下の賤民の一種
奴婢 (ぬひ) よりは上位の身分で,家庭を営むことが許され,売買は禁じられていた。
②平安時代,有力貴族や武士の棟梁 (とうりよう) に臣従した武士。
③鎌倉時代,幕府に属し関東御家人と称した武士。
④御家人。
下人
げにん @@@LINK=下人 下人

下人
げにん

古代末期〜中世の家内奴隷的隷属民
②江戸時代の年季奉公人
所従 (しよじゆう) と同階級。名主 (みようしゆ) の財産として相続・売買・譲与・質入れなどの対象とされたが,家族を持ち得た。主人の屋敷内,のち外に小屋と多少の土地を与えられ,主家の家事・軍事の雑役や (つくだ) などの耕作に従事した。鎌倉中期以後,生産力の増大,農業経営の変化に伴って,下作人(名子 (なご) ・被官)や自作農になるものもでた。
家事労働や雑役に使われた。
検非違使
けびいし @@@LINK=検非違使 検非違使

検非違使
けびいし

平安初期に設置された令外官 (りようげのかん) の一つ
嵯峨天皇のとき,主として京の治安維持のために置かれた。衛門府の中に置かれ,犯人逮捕を仕事としたが,検非違使庁が設けられるにしたがい,刑部省・弾正台・京職などの仕事を吸収。訴訟・裁判も扱うようになって権威は強大であった。諸国にも置かれたが,武士の勃興によってしだいに形骸化した。
ケプロン
Horace Capron @@@LINK=ケプロン ケプロン

ケプロン
Horace Capron

1804〜85
アメリカの農政家
合衆国農務局長時代の1871(明治4)年,政府(開拓次官黒田清隆)の招きで北海道開拓使顧問として来日。北海道における都市建設,大農経営採用,札幌農学校設立などの指導にあたり,北海道開発の基礎を確立した。'75年「ケプロン報文」を残して帰国。

ケーベル
Raphael Koeber @@@LINK=ケーベル ケーベル

ケーベル
Raphael Koeber

1848〜1923
ドイツの哲学者・音楽家
ロシアの生まれ。モスクワの音楽院卒業後,ドイツの大学で哲学・文学を学ぶ。1893年東大哲学科教授として来日(21年間在職)。日本の哲学が学問として確立する基礎を築いた。西欧的教養への視野を開かせ,学生に深い影響を与えた。また東京音楽学校でピアノを教授。横浜で没した。

家抱
けほう @@@LINK=家抱 家抱

家抱
けほう

江戸時代,農村における譜代の下人
地方によって呼び名が異なり,屋 (かどや) ・庭子 (にわこ) ・名子 (なご) ・被官ともいう。本百姓に隷属し,年貢諸役は主家が責任負担する建前。入会地 (いりあいち) の利用に関しても独立した権利がなかった。商品経済未発達の後進地域にながく存続した。
検見・検見法
けみ・けみほう @@@LINK=検見・検見法 検見・検見法

検見・検見法
けみ・けみほう

室町時代以来の年貢収納法の一つ
検見取 (けみとり) 法ともいい,現地に役人が出向き,坪刈などを行って,作柄良否農民の生活状態を検分し,その年の年貢率()を決めた。この法は実施検分の手数や費用がかかり,また役人の不正や収賄などが行われやすかった。江戸中期以降,定免法 (じようめんほう) が一般化したが,特に大凶作のときには検見が行われた。
解由状
げゆじょう @@@LINK=解由状 解由状

解由状
げゆじょう

律令制下,国司などの任務交代のときの事務引き継ぎ文書
新任者が前任者に不正や渋滞の事実がないことを証明した文書で,前任者はこれを上司に提出して任務完了となった。

げん @@@LINK=元 元


げん

モンゴル帝国第5代皇帝フビライが建国した中国の王朝(1271〜1368)
中国本土・満州・蒙古・チベットにわたる大帝国を形成。都は大都(現北京)。東西交通路が整備され,東西文化が交流したが,1368年明に滅ぼされた。フビライの時代の日本来襲(元寇 (げんこう) )は失敗したが,その後日本との通商はとだえず,建長寺船・天竜寺船の派遣,僧一山一寧 (いつさんいちねい) の渡来などがあった。
玄恵
げんえ @@@LINK=玄恵 玄恵

玄恵
げんえ

?〜1350
南北朝時代の学僧
「玄慧」とも書く。京都の人。天台宗・禅宗・朱子学に通じ,後醍醐 (ごだいご) 天皇の討幕計画,建武の新政に加わり,のち足利尊氏の建武式目制定にも参画。また『太平記』『庭訓往来』など,玄恵に託される作品は多いが疑わしい。

蘐園学派
けんえんがくは @@@LINK=蘐園学派 蘐園学派

蘐園学派
けんえんがくは

江戸中期,荻生徂徠 (おぎゆうそらい) をとする古学派儒学の一派
古文辞学派ともいう。徂徠が江戸茅場 (かやば) 町(東京都中央区)に居住したところから,茅=萱=蘐に通じ,蘐園と称した。古典の文辞の研究によって直接古聖人に接しようとするもので,国学に影響を与えた。思弁より経験,道徳より政治・経済を重んじ,また詩文の創作にも力を入れた。門下に太宰春台 (だざいしゆんだい) ・服部南郭 (はつとりなんかく) らを輩出。しかし,しだいに文人化していった。
蘐園塾
けんえんじゅく @@@LINK=蘐園塾 蘐園塾

蘐園塾
けんえんじゅく

江戸中期,荻生徂徠 (おぎゆうそらい) が江戸茅場町に開いた私塾
顕戒論
けんかいろん @@@LINK=顕戒論 顕戒論

顕戒論
けんかいろん

平安前期,最澄が著した宗論書
820年刊。3巻。大乗戒壇設立に対して南都諸宗が反対したのに論駁し,大乗戒は経論で明示されていることを示した。『山家学生式 (さんげがくしようしき) 』とともに日本天台宗成立に関する重要文献。
喧嘩両成敗
けんかりょうせいばい @@@LINK=喧嘩両成敗 喧嘩両成敗

喧嘩両成敗
けんかりょうせいばい

武家刑法の一つで,喧嘩した者に対し,理非を問わず双方ともに制裁を加えること
鎌倉時代にはこのような規定はなく,室町時代に出現。戦国大名は領内の治安維持や家臣団の統制強化を目的として分国法に規定した。江戸時代にも慣習法として残存したが,その批判論も出て,効力はうすれた。
顕教
けんぎょう @@@LINK=顕教 顕教

顕教
けんぎょう

仏教のうち密教以外のもの
釈迦が平明に説いた教えを顕教とする。空海が『弁顕密二教論』『十住心論』の中で密教に対して用いた語で,南都六宗や天台宗などを顕教としたが,天台ものちに密教化し,台密といわれた。
源空
げんくう @@@LINK=源空 源空

源空
げんくう

法然
元元集
げんげんしゅう @@@LINK=元元集 元元集

元元集
げんげんしゅう

南北朝時代,北畠親房の神道書
1337年ころ成立。8巻。伊勢神道大家村松家行との親交により,『日本書紀』『旧事紀 (くじき) 』『古語拾遺』『延喜式』などから抜粋分類し,自己の見解を加えながら神道および神宮の史的根源を説いた。
乾元大宝
けんげんたいほう @@@LINK=乾元大宝 乾元大宝

乾元大宝
けんげんたいほう

皇朝十二銭の最後の銅銭
958年鋳造。形も小さくも粗悪。これ以後,近世初期までわが国の公的な貨幣鋳造は中絶した。
蹇蹇録
けんけんろく @@@LINK=蹇蹇録 蹇蹇録

蹇蹇録
けんけんろく

明治中期,外務大臣として日清戦争前後の外交の衝にあたった陸奥宗光の回顧録
甲午農民戦争日英通商航海条約改正,三国干渉,下関条約などについて詳細に記録されている。当時の外交を知るための貴重な史料
玄語
げんご @@@LINK=玄語 玄語

玄語
げんご

江戸中期,三浦梅園の哲学書
1775年完成。8巻。儒学洋学の思想を調和して,宇宙の構造を説明する条理の学を述べたもので,自然弁証法論理が含まれている。
元寇
げんこう @@@LINK=元寇 元寇

元寇
げんこう

鎌倉中期,2度にわたる元(蒙古)の日本来襲事件
蒙古襲来,文永・弘安の役ともいう。元のフビライは高麗 (こうらい) を征服し,1268年以降たびたび日本に服属を迫ったが,執権北条時宗が拒否したため,'74(文永11)・'81(弘安4)年の2度にわたり,大軍をもって対馬 (つしま) ・壱岐 (いき) を侵し,さらに北九州に上陸した。しかし西国武士たちの奮戦と暴風によってともに敗退し,第3次遠征計画も未遂に終わった。この間,幕府は沿岸に防塁を構築し,九州に所領をもつ御家人に異国警固番役を課し,鎮西探題を設置したりして防備につとめた。このため軍事的・経済的負担は増大し,御家人の経済的窮乏を招き,また幕府財政をも困窮に導き,幕府の滅亡を早める原因となった。一方,朝廷は敵軍調伏の祈願に専念したので,2度の暴風を神風とみる神国思想が発展する契機となった。
元号
げんごう @@@LINK=元号 元号

元号
げんごう

紀年の一種
年号ともいう。中国の歴史書に始まり,その影響をうけた東洋諸国で行われた。日本では大化改新の「大化」を最初とするが,それ以前にも一部には法興 (ほうこう) などの年号が用いられたらしい。大化以後,奈良時代の四字年号,室町時代の私年号,南北朝の両朝別の年号などあるが,多くは,天皇代替りや,干支 (えと) によって改元された。明治時代以後一世一元制となる。年号には本来,年号使用者は年号制定者の支配に服するという歴史的な意味があるため,民主主義国家として年号の存廃が政治問題化している。1979年,元号法が制定され,元号制定の権限は内閣に与えられた。
元亨釈書
げんこうしゃくしょ @@@LINK=元亨釈書 元亨釈書

元亨釈書
げんこうしゃくしょ

鎌倉後期,虎関師錬 (こかんしれん) の著した日本最初の仏教史書
1322年刊。30巻。中国の『仏祖歴代通載』『仏祖統記』などにならい,400余人の日本の高僧の伝記や史実をまとめたもの。
元弘の変
げんこうのへん @@@LINK=元弘の変 元弘の変

元弘の変
げんこうのへん

1331(元弘元)年,鎌倉幕府征討のため後醍醐 (ごだいご) 天皇が正中の変('24)についで企てた変乱
正中の変失敗後,延暦寺・興福寺などの寺院勢力に働きかけ,計画を進めたが,1331年吉田定房の密告によって六波羅探題に知られた。天皇は笠置城にのがれたが,捕らえられて隠岐 (おき) に流された。幕府は天皇を廃して,持明院統の光厳 (こうごん) 天皇を擁立。しかし楠木正成ら諸国の武士が護良 (もりよし) 親王らとはかり,各地で反幕府活動を続け,'33年天皇は隠岐を脱出し,足利高氏(尊氏)・新田義貞らも挙兵し北条氏が滅び,建武の新政が実現した。
源氏
げんじ @@@LINK=源氏 源氏

源氏
げんじ

平安初期の皇族賜姓 (しせい) の一つ
平氏とともに武家の棟梁 (とうりよう) 。特に清和源氏が有名。清和源氏は清和天皇の孫経基に始まり,満仲以下代々摂津・大和・河内に居住したが,頼義・義家は前九年・後三年の両役に戦功があり,東国に地盤を固めた。義朝のとき平氏に敗れたがその子頼朝は鎌倉に幕府を開いた。村上源氏は村上天皇の孫師房 (もろふさ) を始祖とし,院政期に院近臣として栄えた。
乾字金
けんじきん @@@LINK=乾字金 乾字金

乾字金
けんじきん

江戸中期の金貨
宝永金ともいう。1710〜14年鋳造。勘定奉行荻原重秀は,1695年元禄金銀を鋳造したが,品位が悪く不評であった。そこで乾字金を鋳造して慶長金と同質に復したが,重さはほぼ半分になり嫌われて,物価は下らず経済界は混乱した。新井白石反対で重秀は '12年罷免された。
原史時代
げんしじだい @@@LINK=原史時代 原史時代

原史時代
げんしじだい

文献史料が少なく,社会の様相を知るのに不十分な時代
文字・記録の皆無の時代を先史時代,文献史料の豊富に存在する時代を歴史時代というが,その間の時代をいう。日本では3世紀から7世紀がこの時代に相当するが,現在ではあまり用いられない。
玄室
げんしつ @@@LINK=玄室 玄室

玄室
げんしつ

古墳の内部構造で,横穴式石室で遺骸を納める主室
玄室には,木棺や石棺・陶棺などが安置された。北九州地方には内壁壁画をもつものもある。
原始的蓄積
げんしてきちくせき @@@LINK=原始的蓄積 原始的蓄積

原始的蓄積
げんしてきちくせき

資本主義的生産様式が成立する条件である「資本」発生の歴史的過程
本源的蓄積ともいう。貨幣生産手段資本家に蓄積され,他方に労働力の販売以外に何もない労働者が生じること。明治維新以後の殖産興業政策は,この過程を押し進めようとしたものといえる。
原子爆弾
げんしばくだん @@@LINK=原子爆弾 原子爆弾

原子爆弾
げんしばくだん

ウラニウム・プルトニウムなどの核分裂を利用した爆弾
1945年7月,アメリカは初の実験に成功し,ソ連参戦前の日本降伏をはかって,8月6日に広島,9日長崎に投下し,破壊的打撃を与えた。広島で約20万人,長崎で約10万人の死者を出した。また原爆症の患者を多く出した。'49年ソ連,'52年イギリス,'60年フランス,'64年中国,'74年インドが実験に成功。またさらに巨大な爆発力をもつ水素爆弾も,'52年アメリカ,'53年ソ連,'57年イギリス,'67年中国が実験に成功した。
源氏物語
げんじものがたり @@@LINK=源氏物語 源氏物語

源氏物語
げんじものがたり

平安中期の代表的物語文学
作者は紫式部。11世紀初め完成。全54帖。前半は光源氏を主人公に当時の貴族の華やかな生活を,後半はその子薫大将のひたむきな恋を描く。確かな構想と精緻な心理的手法により,藤原氏全盛時代の貴族社会を虚構化しつつ人間性の真実を描き出した名作。
源氏物語絵巻
げんじものがたりえまき @@@LINK=源氏物語絵巻 源氏物語絵巻

源氏物語絵巻
げんじものがたりえまき

平安末期の代表的絵巻物
国宝。12世紀前半ころ成立。『源氏物語』を絵巻物にしたもので,藤原隆能 (たかよし) の絵。流麗な詞書とあいまって絵巻物中の傑作の一つとされる。現存は12帖分にあたる絵19図。
源氏物語湖月抄
げんじものがたりこげつしょう @@@LINK=源氏物語湖月抄 源氏物語湖月抄

源氏物語湖月抄
げんじものがたりこげつしょう

江戸前期,北村季吟の『源氏物語』の注釈書
1673年刊。60巻。『源氏物語』研究の集大成で,古注集成の画期的な著書
兼寿
けんじゅ @@@LINK=兼寿 兼寿

兼寿
けんじゅ

蓮如
元正天皇
げんしょうてんのう @@@LINK=元正天皇 元正天皇

元正天皇
げんしょうてんのう

680〜748
奈良時代の女帝(在位715〜724)
天武天皇の皇太子草壁皇子の娘。母は元明天皇。文武天皇の姉。聖武天皇の即位までの中継ぎとして元明天皇から譲位された。在位中,『日本書紀』「養老律令」を完成し,三世一身の法を制定した(723)。前半は藤原不比等,後半は長屋王が政局に大きな力をもった。

源信
げんしん @@@LINK=源信 源信
みなもとのまこと @@@LINK=源信 源信

源信
げんしん

942〜1017
平安中期の天台僧
比叡山横川 (よかわ) の恵心 (えしん) 院に住んだので恵心僧都ともいう。大和の当麻 (たいま) の卜部 (うらべ) 氏の出身。9歳で比叡山に登り,良源に師事。顕密 (けんみつ) の学を修め,『往生要集』を著して念仏往生の教えを説き,貴族庶民に大きな影響を与えた。

源信
みなもとのまこと

810〜868
平安前期の公卿
左大臣。嵯峨天皇の皇子。866年応天門の変に際し伴善男 (とものよしお) の陰謀で失脚するところを藤原良房に救われた。

元帥
げんすい @@@LINK=元帥 元帥

元帥
げんすい

明治〜昭和期,陸・海軍大将のうち元帥府に列せられたもの
1898年設けられた元帥府に,功労のあった大将が列せられ,軍事上での天皇の最高顧問となった。1945年,敗戦後廃止された。
遣隋使
けんずいし @@@LINK=遣隋使 遣隋使

遣隋使
けんずいし

飛鳥時代,隋に派遣された公式の使節
聖徳太子が中国の文物・制度を摂取する目的で派遣。第1次の600年は『隋書』のみにみえる。第2次の607年は小野妹子が大使となり,翌年隋使斐世清 (はいせいせい) と帰国。さらに同年妹子が再度派遣され,高向玄理 (たかむこのげんり) ・僧旻 (みん) ・南淵請安 (みなぶちのしようあん) らの留学生・学問僧が同行。帰国後,文化の発展や大化の改新に多大の貢献をなした。614年には犬上御田鍬 (いぬがみのみたすき) を第4次遣隋使として派遣した。
原水爆禁止運動
げんすいばくきんしうんどう @@@LINK=原水爆禁止運動 原水爆禁止運動

原水爆禁止運動
げんすいばくきんしうんどう

核兵器を禁止しようとする世界的な平和運動
1950年のストックホルム‐アピールによる核兵器禁止署名運動は,'54年3月1日のアメリカのビキニ水爆実験で,焼津の漁民が被災した(第五福竜丸事件)のを契機に高まり,3400万人の賛成をえた。'55年8月広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ,以後毎年開かれているが,'63年の社会党の総評系と共産党との内部対立により,原水爆禁止日本国民会議(原水禁)と原水爆禁止日本協議会(原水協)とに分裂した。その後運動統一への気運が高まり,'77年両者間で統一に向けての合意がなされ,現在では原子力の利用そのものに反対する市民運動が展開されている。
憲政会
けんせいかい @@@LINK=憲政会 憲政会

憲政会
けんせいかい

大正〜昭和初期の政党(1916〜27)
1916年加藤高明を総裁とする立憲同志会を中心に諸政党が合同して結成。三菱財閥を背景に政党内閣主義を掲げ,藩閥官僚勢力と対立し,山県有朋ら元老にうとまれた。普選運動の指導権を握り,軍備縮小を唱え,'24年第2次護憲運動の主力となり,清浦奎吾内閣を倒し,加藤を首班とする護憲三派内閣を成立させた。のち単独内閣を組織したが,'27年政友本党と合同して立憲民政党となった。
現生人類
げんせいじんるい @@@LINK=現生人類 現生人類

現生人類
げんせいじんるい

現在の人類の直接の祖先と思われる人類
新人ともいう。第4氷期ごろに出現したといわれるヨーロッパのクロマニヨン人など。彼らはすでに弓矢などの道具を発明し,用途の分化した石器や骨角器を用い,洞窟壁画彫刻なども残した。
憲政党
けんせいとう @@@LINK=憲政党 憲政党

憲政党
けんせいとう

明治時代の政党(1898〜1900)
第3次伊藤博文内閣が第12議会に地租増徴案を提出すると,野党はこれを解散に追い込み,ついで自由・進歩両党は合同して憲政党を結成した。伊藤内閣の倒壊後,大隈重信・板垣退助を中心とするいわゆる隈板 (わいはん) 内閣を組織したが,間もなく憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)に分裂,前者は1900年に解党し立憲政友会に合流した。
憲政の常道
けんせいのじょうどう @@@LINK=憲政の常道 憲政の常道

憲政の常道
けんせいのじょうどう

議院内閣制が制度化されたものではなく,衆議院の多数を占める政党政権を担当する慣例
議会の第一党総辞職後は,第二党に交代する。1924年の加藤高明護憲三派内閣から'32年の犬養毅内閣崩壊まで続いた。
憲政本党
けんせいほんとう @@@LINK=憲政本党 憲政本党

憲政本党
けんせいほんとう

明治時代の政党(1898〜1910)
1898年憲政党分裂により旧進歩党系で組織。党首は大隈重信,幹部には犬養毅・河野広中など。都市商工業者を地盤とし,憲政党(のちの立憲政友会)と対立した。党内でも対立抗争がおこり,大隈引退後,1910年3月,立憲国民党となった。
憲政擁護運動
けんせいようごうんどう @@@LINK=憲政擁護運動 憲政擁護運動

憲政擁護運動
けんせいようごうんどう

護憲運動
検断
けんだん @@@LINK=検断 検断

検断
けんだん

中世,刑事犯人に対する検察・断罪のこと
平安末期,検断権は国衙 (こくが) か荘園領主にあったが,鎌倉時代には,侍所 (さむらいどころ) ・守護・地頭が分有して行使した。守護の検断権は一般に大犯 (だいぼん) 三箇条と呼ばれている。
検地
けんち @@@LINK=検地 検地

検地
けんち

戦国〜江戸時代,土地を実測し,収穫高・耕作人などを決定すること
戦国時代以降,大名は領国の土地生産力と財政および知行制施行の基礎として土地調査を実施した。特に豊臣秀吉は全国統一完了以前からその平定地に奉行を派遣し,土地面積・品等区分をして石盛を行い,収穫高・貢租高・耕作者を決定し,土地・農民を直接支配することになった。江戸時代にも藩主などが国替すると施行した。
検地帳
けんちちょう @@@LINK=検地帳 検地帳

検地帳
けんちちょう

近世,検地の結果を村ごとにまとめて記した土地台帳
水帳ともいう。村単位で,田畑・屋敷地一筆ごとに,所在地・等級・面積・石高・所有者(貢納責任者)を記し,最後に村の総面積・総石高などを記載。幕府・諸藩はこれに基づいて年貢諸役を課した。中世にも荘園国衙 (こくが) の検注帳があったが,豊臣秀吉の太閤検地で様式がととのい,江戸時代の幕府・諸藩が継承した。
検注帳
けんちゅうちょう @@@LINK=検注帳 検注帳

検注帳
けんちゅうちょう

中世の土地台帳
荘園領主年貢・課役徴収のため所領の調査(検注)を行ったが,その結果を記したものをいう。一般に総面積,除田(年貢・公事免除地)・定田(貢納地)数,年貢額などが記載されている。様式は一定していない。
建長寺
けんちょうじ @@@LINK=建長寺 建長寺

建長寺
けんちょうじ

鎌倉市山ノ内にある臨済宗の寺院。鎌倉五山の一つ
1253(建長5)年に執権北条時頼が建立し,宋僧蘭溪道隆を開山とした。寺号は年号をとり,もと刑場であった因縁から地蔵を本尊とする。道隆の禅風を慕い,無学祖元・一山一寧 (いつさんいちねい) などの名僧が相つぎ住持となり,1341年鎌倉五山の第1位となる。16・17世紀,寺運は一時衰えたが,徳川家光・沢庵らの力で復興され,今日に至る。
建長寺船
けんちょうじぶね @@@LINK=建長寺船 建長寺船

建長寺船
けんちょうじぶね

鎌倉末期の対元貿易船
1293・1315年の火災で荒廃した建長寺の再建費用を得るため,1325年幕府の公認により出帆。翌'26年帰朝して銅銭3000貫を寺に納めた。のちの天竜寺船・勘合貿易の先駆となった。
検田使
けんでんし @@@LINK=検田使 検田使

検田使
けんでんし

律令制下,租税の確保のため,荘園に立ち入り,耕地を調査した役人
国司は荘園が不正手段によって課税をのがれるのを防止するため,検田使をつかわした。これに対し,荘園側は不入権獲得により検田使などの地方官吏の荘園内立入禁止をはかった。
源道義
げんどうぎ @@@LINK=源道義 源道義

源道義
げんどうぎ

足利義満
遣唐使
けんとうし @@@LINK=遣唐使 遣唐使

遣唐使
けんとうし

7〜9世紀,日本から唐に派遣された公式の使節
唐の進んだ制度・文物の輸入が目的。630〜894年の間に18回の遣唐使任命があり,そのうち実際に渡海したのは15回(数え方に諸説がある)。一行は大使以下,初期は120人ぐらい,船も1〜2隻であったが,中ごろから500〜600人以上,4隻になった。航路は初め北路,中期に南島路,末期には南路をとった。留学生・学問僧として吉備真備 (きびのまきび) ・玄昉 (げんぼう) ・最澄・空海らがいる。894年菅原道真 (すがわらのみちざね) の建議により中止。以後,中国との正式国交は室町時代の勘合貿易まで中絶された。
元和偃武
げんなえんぶ @@@LINK=元和偃武 元和偃武

元和偃武
げんなえんぶ

江戸初期,大坂夏の陣が終わったのち,世の中が平和になったこと
偃武とは武をやめる意。1615年大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し,元和と改元されてから戦乱もなく,以後江戸末期まで約250年の太平の世が開かれた。
原日本人
げんにほんじん @@@LINK=原日本人 原日本人

原日本人
げんにほんじん

縄文時代,日本に住んでいた人類で,現代日本人の起源と考えられている
縄文時代人については明治時代以来,アイヌ説コロボックル説が提唱されたが,大正時代に現代日本人の祖先と考えられるようになり,人類学者清野謙次によって原日本人と命名された。このでは,現代日本人への変化の要因を,主として混血によるとしている。最近は,混血ではなく,生活の変化によって変わったとし,現代人そのままの祖先とする日本人説が,原日本人説よりも有力である。
顕如
けんにょ @@@LINK=顕如 顕如

顕如
けんにょ

1543〜92
安土桃山時代の浄土真宗の僧
本願寺11世,名は光佐。一向一揆を組織し,反織田信長の大名と結んで,1570〜80年まで信長と戦い(石山合戦),正親町 (おおぎまち) 天皇の仲裁で和睦。のち石山を去ったが,紀伊・和泉を経て '85年再び大坂に帰り,のち秀吉から京都堀川に寺地を与えられ,そこに本願寺をつくった。

建仁寺
けんにんじ @@@LINK=建仁寺 建仁寺

建仁寺
けんにんじ

京都市東山区にある臨済宗の寺院。京都五山の一つ
建仁寺派の本山で,1202年源頼家が創建。栄西 (えいさい) が開山。初め真言・天台・禅の3宗兼学の寺であったが,11世蘭溪道隆のとき禅宗のみの寺院となり,のち京都五山の第3位に列した。
元服
げんぷく @@@LINK=元服 元服

元服
げんぷく

男子の成年式
加冠ともいう。平安時代以降,12〜16歳の男子が成人したことを表すために行ったもので,氏神の社前で衣服を改め,髪を結い,冠を着し,幼名を廃して烏帽子 (えぼし) 名(元服名・実名)を新たにつけた。
言文一致運動
げんぶんいっちうんどう @@@LINK=言文一致運動 言文一致運動

言文一致運動
げんぶんいっちうんどう

文章を話し言葉に近づけ,思想感情を自由に表現するのにふさわしい口語文形成のための文体革新運動
明治維新前後,前島密 (ひそか) ら洋学者によって唱えられ,二葉亭四迷(「だ」調)・山田美妙 (びみよう) (「です」調)・尾崎紅葉(「である」調)らが小説で試み,明治末期に確立した。
元文金銀
げんぶんきんぎん @@@LINK=元文金銀 元文金銀

元文金銀
げんぶんきんぎん

江戸中期の金銀貨
1736(元文元)年幕府が鋳造発行した小判・一分金・丁銀・豆板銀の総称。品位は,金貨が慶長・正徳享保金より悪く元禄金より良質,銀貨は元禄銀より悪い。改鋳の目的は出目 (でめ) による財政収入の増加と物価調整にあり,これにより経済は安定した。
憲兵
けんぺい @@@LINK=憲兵 憲兵

憲兵
けんぺい

明治〜昭和期,旧陸軍の軍事警察官
1881年創設。陸軍大臣の管轄で,主として軍人の軍紀・風紀を取り締まり,また行政警察・司法警察もかねた。'89年憲兵司令部が設置され,全国の憲兵隊を統轄した。特高警察とともに自由主義社会主義を弾圧。1945年,敗戦後廃止された。
源平盛衰記
げんぺいせいすいき @@@LINK=源平盛衰記 源平盛衰記

源平盛衰記
げんぺいせいすいき

鎌倉中期の軍記物語
48巻。作者不詳。内容は『平家物語』を増補したもので,異本の一種とされる。『平家物語』の「語りもの」に対し読み本としたもの。文学的価値は『平家物語』に及ばないが,謡曲・浄瑠璃など後世への影響は大きい。
源平の争乱
げんぺいのそうらん @@@LINK=源平の争乱 源平の争乱

源平の争乱
げんぺいのそうらん

平安末期,源・平両氏の政権争いの戦乱
1156年の保元の乱,'59年の平治の乱で源氏は勢力を失い,平氏政権が成立した。ついで1180〜85年にかけて,治承・寿永の乱が展開された。以仁王 (もちひとおう) ・源頼政挙兵に始まり,源頼朝の挙兵と富士川の戦い('80),源義仲の挙兵と砺波山 (となみやま) の戦い('83)などを経て義仲がまず入京し,平氏は西国に都落ちした。しかし義仲は源義経・範頼 (のりより) により討され(宇治川の合戦など),のち源平両軍による決戦が瀬戸内海沿岸にくりひろげられた。一の谷・屋島・の諸戦でついに平氏は滅亡し,鎌倉幕府の成立によってこの戦乱は終わった。
ケンペル
Engelbert Käempfer @@@LINK=ケンペル ケンペル

ケンペル
Engelbert Käempfer

1651〜1716
江戸前期に来日したドイツの医師・博物学者
オランダ東インド会社の医師として1690年来日。オランダ商館長(甲比丹 (カピタン) )に随従して2回江戸参府を行った。'92年帰国後著述に専念,『日本誌』を著し,日本の見聞を紹介した。

玄昉
げんぼう @@@LINK=玄昉 玄昉

玄昉
げんぼう

?〜746
奈良時代の法相宗の僧
大和(奈良県)の人。716年入唐,法相宗の教学を学び735年帰国。737年僧正となり,橘諸兄 (たちばなのもろえ) のもとで吉備真備 (きびのまきび) とともに政界に権力をふるった。聖武天皇が国分寺を創設したのも玄昉の進言によるところが大きかった。また,九州でおこった藤原広嗣の乱は玄昉と真備を除こうとしたものであった。のち藤原仲麻呂が台頭すると,745年筑紫観世音寺に左遷され,その地で翌年没した。広嗣のに害されたとのうわさが広まった。

憲法十七条
けんぽうじゅうしちじょう @@@LINK=憲法十七条 憲法十七条

憲法十七条
けんぽうじゅうしちじょう

飛鳥時代,聖徳太子が制定した道徳規範を中心とする法令
604年発布。内容は「和を以って貴しとなす」から始まり,官吏服務などの訓戒示し,国家理念と人間の在り方を説いた。天皇中心の中央集権国家の形成を意図したもので,儒教・法家思想をはじめ仏教思想の影響もうかがえる。
建武以来追加
けんむいらいついか @@@LINK=建武以来追加 建武以来追加

建武以来追加
けんむいらいついか

室町幕府の法令集
建武年間(1334〜38)以降,1520年に至るまで,室町幕府が随時必要に応じて制定した追加法令200条余を集めたもの。室町幕府は御成敗式目を根本法典としており,その追加法令をいう。
建武式目
けんむしきもく @@@LINK=建武式目 建武式目

建武式目
けんむしきもく

1336年,足利尊氏が定めた幕府の施政方針
尊氏が幕政の参考にするために,鎌倉幕府の評定衆であった中原章賢 (のりかた) (是円)・真恵兄弟,玄恵 (げんえ) らに諮問し,それに答申した形式をとり,17カ条から成る。幕府政治再開の宣言とでもいうべきもので,当時の社会事情に即応したものが多くみられるが,具体的な法令ではない。室町幕府は,御成敗式目および鎌倉幕府の追加法令を引きついで基本法典としている。
建武年間記
けんむねんかんき @@@LINK=建武年間記 建武年間記

建武年間記
けんむねんかんき

南北朝時代の記録書
『建武令』『建武記』ともいう。著者・成立年代不明。建武新政府の発布した荘園所領に関する法制,雑訴決断所牒,有名な二条河原落書など政務に関する数十カ条を収録。建武の新政の実態を知るうえで重要な史料である。
建武年中行事
けんむねんじゅうぎょうじ @@@LINK=建武年中行事 建武年中行事

建武年中行事
けんむねんじゅうぎょうじ

後醍醐 (ごだいご) 天皇が著した朝廷恒例の年中行事の解説書
1334年ころ成立。3巻。正月の四方拝から歳末の追儺 (ついな) (悪鬼を追い払うための儀式)までの宮中の行事を仮名書きにしたもので,後世の有職 (ゆうそく) 書に大きな影響を与えた。
建武の新政
けんむのしんせい @@@LINK=建武の新政 建武の新政

建武の新政
けんむのしんせい

1334(建武元)〜36(建武3)年にかけて,後醍醐 (ごだいご) 天皇らが鎌倉幕府を倒して行った天皇親政の復古政治
両統迭立 (てつりつ) など幕府の政治干渉に不満をもった後醍醐天皇公家北畠親房ら)や得宗専制に不満をもつ有力御家人(足利高(尊)氏・新田義貞ら),地方武士(楠木正成名和長年ら)などを味方にし正中の変・元弘の変を経て実現。天皇親政の律令政治を理想としたが,現実にそくして公武協調をたてまえとし,中央に記録所・雑訴決断所・恩賞方・武者所を置き,地方には国司と守護を併置した。新政の中心は論功行賞と土地関係の訴訟の処理におかれ,その結果,貴族階級の利益擁護の線の強いことに武士階級は不満を抱いた。また皇居造営などによる課税の増大は農民の不満もまねいた。こうした公武の不和ならびに武士間の反目が深まっていく中で,中先代の乱を機に鎌倉に下った足利尊氏離反があり,新政は崩壊した。このころの世相二条河原落書に示されるような不安な状態にあり,政治も朝令暮改の状態で,1336年後醍醐天皇の吉野還幸から動乱南北朝時代となる。
元明天皇
げんめいてんのう @@@LINK=元明天皇 元明天皇

元明天皇
げんめいてんのう

661〜721
奈良時代の女帝(在位707〜715)
天智天皇第4皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘。持統天皇の異母妹。草壁皇子の妃となり,文武・元正両天皇を生んだ。文武天皇の没後,聖武天皇即位までの中継ぎとして即位した。在位中,和同開珎の鋳造(708),平城京遷都(710),『古事記』『風土記』の編纂などを行った。

倹約令
けんやくれい @@@LINK=倹約令 倹約令

倹約令
けんやくれい

江戸時代,倹約を奨励するため幕府・諸藩が出した法令
日常の生活を質素にし戦時出費に備えるという武家道徳を背景に,幕府・諸藩の財政難打開の消極策として頻発。特に享保の改革・寛政の改革・天保の改革のものが有名である。
硯友社
けんゆうしゃ @@@LINK=硯友社 硯友社

硯友社
けんゆうしゃ

明治中期の文学結社(1885〜1903)
1885年,尾崎紅葉・山田美妙・石橋思案らが結成。のち川上眉山 (びざん) ・巌谷小波 (いわやさざなみ) ・江見水蔭 (すいいん) ・広津柳浪 (りゆうろう) らが参加。機関誌『我楽多 (がらくた) 文庫』を発刊した。江戸文芸の伝統的趣味に近代的写実性を加え,一時文壇の中心勢力となったが,自然主義文学の興隆により衰退。1903年紅葉の死とともに解体した。
玄洋社
げんようしゃ @@@LINK=玄洋社 玄洋社

玄洋社
げんようしゃ

明治〜昭和期の超国家主義団体
福岡県士族が士族反乱の敗退後頭山満 (とうやまみつる) らを中心に結成した向陽社の後身。1881年玄洋社と改称。初め自由民権運動に加わったが,明治20年代以後は対外強硬策を主張する国権論色彩を強めた。1946年GHQ指令により解体
県令
けんれい @@@LINK=県令 県令

県令
けんれい

明治初期の地方長官の名称
戊辰 (ぼしん) 戦争後の明治新政府では,政府の直轄領の府・県と旧来の藩の三治制が行われ,それぞれ知府事・知県事・知藩事(のち藩知事)が中央集権体制の一翼をになっていたが,1871年廃藩置県後は県治条例の公布により,県令と改称された(3府の長官のみ府知事)。'86年地方官官制の公布により府県ともに知事に統一され現在に至る。
建礼門院
けんれいもんいん @@@LINK=建礼門院 建礼門院

建礼門院
けんれいもんいん

1155〜1213
平安末期,高倉天皇の中宮
平清盛の娘で名は徳子。安徳天皇の生母。1171年入内し,翌年高倉天皇の中宮となった。安徳天皇を生み,'81年院号宣下により建礼門院と称した。'85年平氏滅亡に際し,壇の浦で安徳天皇とともに入水したが,源氏に救われ,出家して京都郊外大原の寂光院 (じやつこういん) に入り,余生を送った。『平家物語』の〈大原御幸〉で有名。

建礼門院右京大夫集
けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう @@@LINK=建礼門院右京大夫集 建礼門院右京大夫集

建礼門院右京大夫集
けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう

鎌倉中期,建礼門院右京大夫(生没年不詳)の家集
1232年ころ成立。2巻。歌数約300首。和歌でつづられた平家哀史というべきもの。作者の右京大夫は世尊寺(藤原)伊行 (これゆき) の娘で,1173年ころより建礼門院に出仕。平重盛の2男資盛 (すけもり) との悲恋が美しい叙情に結晶してちりばめられている。
元老
げんろう @@@LINK=元老 元老

元老
げんろう

明治〜昭和期,天皇の最高顧問
藩閥の黒田清隆・伊藤博文・山県有朋・松方正義・井上馨・西郷従道・大山巌・桂太郎と公卿出身の西園寺公望 (きんもち) の9名で,法令に基づく機関ではない。「元老」という名称も正式の官職名ではなく慣用的なもの。政党その他反藩閥勢力に備えて,その支配を維持するために考案された政治運用の方式で,後継内閣首班の推薦,国家の重要内外政務について,天皇・政府に対して意見を述べ,その決定に参与した。元老の筆頭山県は原敬内閣成立まで,かたくなに超然主義を維持し,政党政治拒否を続けた。1940年西園寺の死で消滅。
元老院
げんろういん @@@LINK=元老院 元老院

元老院
げんろういん

明治前期,国会開設以前の立法機関
1875年の大阪会議の結果,太政官の正院・左院・右院のうち,立法部門は左院を廃し元老院を,司法部門は右院に代えて大審院を設置し,三権分立の形がとられた。'78年元老院で憲法草案(日本国憲按)を作成したが,岩倉具視らの不満をかい,'80年修正案も廃棄された。'90年帝国議会開設に伴って廃止。
元禄金銀
げんろくきんぎん @@@LINK=元禄金銀 元禄金銀

元禄金銀
げんろくきんぎん

江戸時代,最初の改鋳金銀貨
幕府の財政難打開のため,勘定吟味役(のち勘定奉行)の荻原重秀の建議で,1695年から慶長金銀を改鋳し,形量はほぼ等しいが品位が劣る貨幣を大量に発行した。これが元禄金銀で,幕府はその改鋳差益分(出目 (でめ) という)で多大な利益を得たが,物価が上がり,経済界が混乱した。
元禄小袖
げんろくこそで @@@LINK=元禄小袖 元禄小袖

元禄小袖
げんろくこそで

元禄時代に流行した小袖
町方の女性が着用し,袖口は小さく,たけは2尺(約75㎝)で,元禄文化を象徴するように華美であった。
元禄時代
げんろくじだい @@@LINK=元禄時代 元禄時代

元禄時代
げんろくじだい

江戸中期,元禄年間(1688〜1704)を中心とした5代将軍徳川綱吉の治世(1680〜1709)の総称
前代までに幕府機構はととのい,藩体制も整備され,幕府支配体制の安定期を迎えていた。綱吉は将軍の権力を強化し,専制的政治を実施した。そのため側用人政治(柳沢吉保ら)も出現。諸藩についで幕府財政に危機が訪れたため,荻原重秀の進言で初めて貨幣が改鋳された(元禄金銀)。一方,産業の発展はめざましく,新田開発や肥料農具の改良で商品生産が増大し,貨幣経済が進展,都市生活も向上した。それとともに新興町人が進出し,京坂地方の町人を担い手として町人文化が開花した。文治政治のもとで朱子学をはじめ,儒学が武士教養として重んじられ,歴史や農学・暦学・和算などが発達し,国学の芽ばえもみられた。
元禄文化
げんろくぶんか @@@LINK=元禄文化 元禄文化

元禄文化
げんろくぶんか

元禄年間(1688〜1704)を中心とした江戸時代前半の町人文化
幕藩体制の安定,産業交通の発展,都市の発達,生活の向上などが背景。大坂を中心とする上方(京都・大坂)の新興町人を担い手とするが,文化全般の面でまだ武家風がかなり強く残っていた。井原西鶴の浮世草子,松尾芭蕉の俳諧,近松門左衛門の人形浄瑠璃,菱川師宣 (もろのぶ) の浮世絵(版画)などが代表的。特に西鶴は町人による最初の町人文学として大坂町人の生活を如実に描き,「浮世」の名称に示されるように現実的な人間性肯定の気風を反映した。また都市の娯楽として人形浄瑠璃と並び歌舞伎も登場し,坂田藤十郎などの人気役者を生んだ。工芸でも野々村仁清 (にんせい) ・尾形乾山の京焼,尾形光琳の装飾画や,友禅染の元禄模様・元禄小袖などが華美な気風に応じて発展した。こうした気風は江戸後期の化政文化になると幕府の統制で失われた。
言論報国会
げんろんほうこくかい @@@LINK=言論報国会 言論報国会

言論報国会
げんろんほうこくかい

大日本言論報国会
ゴア
Goa @@@LINK=ゴア ゴア

ゴア
Goa

インド半島西岸にある港湾都市
1510年ポルトガルのインド総督アルブケルケによって占領され,以後その東洋経営の一大中心地となったが,17世紀以降衰退。1961年インドに奪回された。
新古今和歌集
しんこきんわかしゅう @@@LINK=新古今和歌集 新古今和歌集

新古今和歌集
しんこきんわかしゅう

鎌倉前期,八代集最後の勅撰和歌集
略称『新古今集』。1205年完成。20巻。歌数約1980首。後鳥羽上皇の命で藤原定家・藤原家隆・寂蓮 (じやくれん) らが撰 (えら) び,上皇の親撰。幽玄・妖艶・象徴的ないわゆる新古今調をつくり,万葉・古今とともに三大歌風をなす。本歌取り,体言止め,三句切れなどが特色。
新国劇
しんこくげき @@@LINK=新国劇 新国劇

新国劇
しんこくげき

沢田正二郎が創立した劇団
1917年芸術座を脱退した沢田正二郎が大衆演劇隆盛をめざして,東京新富座で旗上げ公演。初め不成功だったが,「大菩薩峠」「月形半平太」「国定忠治」などの剣劇で人気を集めた。沢田の死後,島田正吾・辰巳柳太郎らが受け継いだが,'87年解散した。
神国思想
しんこくしそう @@@LINK=神国思想 神国思想

神国思想
しんこくしそう

日本は神国であり,神のまもる国だという信仰・思想
鎌倉時代,元寇以後特に盛んとなった。度会家行 (わたらいいえゆき) の反本地垂迹説や北畠親房 (ちかふさ) の『神皇正統記』はこの思想をよく表す。近代では天皇制合理化する思想として発展し,軍国主義体制の精神的支柱となった。
壬午軍乱
じんごぐんらん @@@LINK=壬午軍乱 壬午軍乱

壬午軍乱
じんごぐんらん

1882年7月,朝鮮でおこった反日的クーデタ
閔妃 (びんひ) 政権が日本にならって兵制改革を始めたとき,大院君一派の守旧派がこれに反対し日本公使館を襲撃。日本軍は出兵したが,清国の李鴻章工作で朝鮮との間に済物浦 (さいもつぽ) 条約を締結した。以後閔妃一派は清国に接近し日本の勢力は後退して2年後の甲申事変をひきおこす。
神護寺
じんごじ @@@LINK=神護寺 神護寺

神護寺
じんごじ

京都市右京区にある真言宗の寺
高雄山寺ともいう。和気清麻呂が河内国に創建した神願寺を,その子真綱 (まつな) がこの地に移した。最澄や空海も一時入寺し,空海の弟子が伽藍 (がらん) を造営し真言密教の寺院となった。鎌倉時代に文覚上人が中興。たびたび兵火にあい,現在の建物はほとんど江戸時代の建築であるが,『薬師如来像』『両界曼荼羅図』『平重盛像』『源頼朝像』をはじめ平安・鎌倉時代の文化財を多く蔵する。
神護寺薬師如来像
じんごじやくしにょらいぞう @@@LINK=神護寺薬師如来像 神護寺薬師如来像

神護寺薬師如来像
じんごじやくしにょらいぞう

京都市の神護寺所蔵の平安初期の木造彫刻
延暦年間(782〜806)に和気清麻呂河内国神願寺を立てたときの本尊一木造で,衣紋は翻波 (ほんぱ) 式。立体感があり,弘仁・貞観文化特色をよく表す。
真言宗
しんごんしゅう @@@LINK=真言宗 真言宗

真言宗
しんごんしゅう

平安初期,空海が入唐して学び,帰国後日本に伝えた大乗仏教の一派
『大日経』『金剛頂経』をもとにし,仏の行為(三密)に人間の行為を近づけることによって悟りが得られるとした。悟りの世界を曼荼羅 (まんだら) という。加持祈禱によって現世利益をはかる仏教として平安貴族に信仰されたが,13世紀末に古義と新義とに分裂した。
震災恐慌
しんさいきょうこう @@@LINK=震災恐慌 震災恐慌

震災恐慌
しんさいきょうこう

1923年,関東大震災による恐慌
第一次世界大戦後の恐慌からの回復も不十分のまま,震災にみまわれた日本経済は大打撃をうけ,復興資材の輸入超過で外貨負担は増大した。政府は救済融資のため公債を発行し,その額は1926年には51億円に激増しインフレが続いた。また支払猶予令モラトリアム)・震災手形補償などで事態収拾に努力したが,不景気はおさまらず,金融恐慌へ続いていった。
震災手形
しんさいてがた @@@LINK=震災手形 震災手形

震災手形
しんさいてがた

1923年,関東大震災のために支払えなくなった手形で震災手形割引損失補償令の適用を受けたもの
震災以前に銀行が割引きした手形を日本銀行に一時肩がわり(再割引き)させ,日銀の損失については1億円を限り政府が補償する救済融資。しかし,震災とは関係のない不良手形が相当混入しており,この処理問題から金融恐慌へ発展。
新猿楽記
しんさるがくき @@@LINK=新猿楽記 新猿楽記

新猿楽記
しんさるがくき

平安中期,藤原明衡 (あきひら) の著した随筆
著作年代不詳(1060年ころと推定)。1巻。子女教養読物。当時の猿楽を,武者陰陽師商人など多くの階層観客実態とともに描写。日本演劇の原始形態と当時の社会生活の好史料。
新参衆
しんざんしゅう @@@LINK=新参衆 新参衆

新参衆
しんざんしゅう

戦国時代戦国大名家臣団の一つ
家臣団を親疎の別により一族衆国衆・新参衆に区別したうちの一つで,他国や下層庶民の中から新規に召抱えられたをいう。一族衆などを寄親とし,その寄子として統制に服した。
新詩社
しんししゃ @@@LINK=新詩社 新詩社

新詩社
しんししゃ

明治中期,与謝野鉄幹が結成・主宰した短歌中心の結社(1899〜1908)
正式には「東京新詩社」という。機関誌『明星』を発行し,ロマン主義文芸運動を推進。与謝野晶子・高村光太郎・石川啄木・北原白秋・木下杢太郎 (もくたろう) ・吉井勇・平出修らがいた。
新思潮
しんしちょう @@@LINK=新思潮 新思潮

新思潮
しんしちょう

明治末期・大正期の文芸雑誌
第1次(1907〜08)は小山内薫 (おさないかおる) が創刊。第2次(1910〜11)は小山内・谷崎潤一郎・和辻哲郎らが復刊。第3次(1914)は芥川竜之介・菊池寛・久米正雄・山本有三らが復刊。第4次(1916〜17)は第3次の復刊。東大文科・一高系の同人雑誌として,以後も断続的に刊行された。一般に「新思潮派」とは第3・4次の同人たちで,現実を知的に解釈するところに共通性があった。
神社建築
じんじゃけんちく @@@LINK=神社建築 神社建築

神社建築
じんじゃけんちく

出雲大社本殿の大社造と伊勢神宮本殿の神明造を基本として発達した神社の建築
大社造の系統には,住吉造(住吉神社本殿),春日造(春日神社本殿),大鳥造(大鳥神社本殿)などがあり,神明造の系統には,八幡造(宇佐八幡宮本殿),日吉 (ひえ) 造(日吉神社本殿),権現造(日光東照宮),流 (ながれ) 造(賀茂神社下社本殿)などの諸様式がある。
神社神道
じんじゃしんとう @@@LINK=神社神道 神社神道

神社神道
じんじゃしんとう

明治時代以後の国家神道
維新政府は国家が神社の祭祀をつかさどる制度を確立し官・国幣社 (かん・こくへいしや) をつくり,国家権力によって神社を保護した。国家はこの神道思想をもって天皇権威の強化をねらい,国民教化に利用。1945年敗戦により国家と神社の関係は否定された。
真宗
しんしゅう @@@LINK=真宗 真宗

真宗
しんしゅう

浄土真宗
神獣鏡
しんじゅうきょう @@@LINK=神獣鏡 神獣鏡

神獣鏡
しんじゅうきょう

中国古代の鏡の一形式
背面に,神像と竜・虎の獣形がおもな文様として用いられた。中国で後漢から六朝時代にかけて行われ,日本の古墳からの出土例も多い。大阪府の黄金塚古墳出土の「景初三年」の銘をもつ魏の鏡も神獣鏡である。
心中天網島
しんじゅうてんのあみじま @@@LINK=心中天網島 心中天網島

心中天網島
しんじゅうてんのあみじま

江戸中期,近松門左衛門作の世話物浄瑠璃
1720年大坂竹本座で初演。3段。大坂天満の紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女小春が,恋と義理のために網島大長寺で,夜明けとともに心中をとげた当時の事件をとりあげたもの。
真珠湾攻撃
しんじゅわんこうげき @@@LINK=真珠湾攻撃 真珠湾攻撃

真珠湾攻撃
しんじゅわんこうげき

1941(昭和16)年12月8日,太平洋戦争の発端となった,日本軍によるアメリカ太平洋艦隊の基地ハワイ真珠湾に対する奇襲攻撃
日本は戦艦8隻を撃沈空軍打撃を与える大戦果をあげた。奇襲を怒ったアメリカ国民は,「真珠湾を忘れるな」の合言葉で固く結束し,太平洋戦争の戦意を固めた。
新人会
しんじんかい @@@LINK=新人会 新人会

新人会
しんじんかい

大正末期〜昭和初年にかけて活動した学生団体
1918年,赤松克麿・宮崎竜介ら東京帝大生を中心に結成。吉野作造の指導をうけ,社会の合理的改造をめざし,雑誌『デモクラシー』を発刊。講演会・研究会を開き,普選運動・労働運動に参加,大正デモクラシーを推進した。その後社会主義運動へ接近し,'25年学連事件以後弾圧が続き,'29年解散。
壬申戸籍
じんしんこせき @@@LINK=壬申戸籍 壬申戸籍

壬申戸籍
じんしんこせき

明治初期,政府による最初の全国的戸籍
作成した1872年が壬申の年であるためこの名がある。士族・平民・新平民などの差別的呼称を残していたため,問題とされた。1968年閲覧禁止。
壬申の乱
じんしんのらん @@@LINK=壬申の乱 壬申の乱

壬申の乱
じんしんのらん

672年,天智天皇の没後の皇位継承をめぐる古代最大の内乱
天智天皇の没後,近江の朝廷の天智の皇子大友皇子と,吉野に出家していた皇弟大海人 (おおあま) 皇子との間におこった内乱。大海人皇子は東国の軍隊を動員して大友皇子を破り,翌673年即位して天武天皇となった。この結果,旧豪族が没落し,律令体制が天皇の権威の強大化のもとに整備された。
薪水給与令
しんすいきゅうよれい @@@LINK=薪水給与令 薪水給与令

薪水給与令
しんすいきゅうよれい

1842(天保13)年,江戸幕府が渡来した外国船に燃料・食料を給与するように定めた法令
1825(文政8)年以来の異国船打払令を廃して新たに定めたもので,アヘン戦争で清国が敗れたことと,天保の改革進行が幕府の外交方針変更の背景となった。
真盛
しんせい @@@LINK=真盛 真盛

真盛
しんせい

1443〜95
室町中期の天台宗の僧。真盛派の開祖
紀貫之 (きのつらゆき) の子孫という。伊勢(三重県)の人。厭世思想に富み,『往生要集』に深く教えられて,円頓戒(天台の思想)と称名(念仏)の一致を説いた。また近江に西教寺を建立した。

信西
しんぜい @@@LINK=信西 信西

信西
しんぜい

藤原通憲 (みちのり)
真政大意
しんせいたいい @@@LINK=真政大意 真政大意

真政大意
しんせいたいい

明治前期,加藤弘之の啓蒙書
1870年刊。天賦人権説の立場から,西洋の立憲政体を紹介。政府の職務国民生命・権利・財産の保護と,国民の指導教化にありと説く。のち進化論を奉じ天賦人権説を捨てみずからこの書を絶版にし,『人権新説』('82)を著した。
新石器時代
しんせっきじだい @@@LINK=新石器時代 新石器時代

新石器時代
しんせっきじだい

旧石器時代に続く,石器時代の最も発達した段階
土器・磨製石器を製作し,農耕・牧畜などの生産経済に移行,巨石記念物が築造された時代。日本では縄文時代がこれにあたるが,農耕は晩期までみられず,牧畜は行われていない。
神泉苑
しんせんえん @@@LINK=神泉苑 神泉苑

神泉苑
しんせんえん

平安京内に設けられた池泉式庭園
池・樹木・滝・流れなどがあり,岸辺に豪華な建物をつくった。平安初期の漢詩題材となった。
新撰組
しんせんぐみ @@@LINK=新撰組 新撰組

新撰組
しんせんぐみ

幕末,京都守護職のもと,京都の治安維持にあたった浪士隊
1863年結成され,隊長は近藤勇。尊攘・討幕派弾圧に活躍,特に池田屋事件は有名。鳥羽伏見戦いに敗れて,まもなく四散した。
新撰字鏡
しんせんじきょう @@@LINK=新撰字鏡 新撰字鏡

新撰字鏡
しんせんじきょう

平安初期,現存最古の漢和辞典
9世紀末成立。12巻。僧昌住 (しようじゆう) の著。漢字を偏とによって分類し,2万480余字に発音と意味を記している。古代国語研究・文献解読の貴重な資料。
新撰姓氏録
しんせんしょうじろく @@@LINK=新撰姓氏録 新撰姓氏録

新撰姓氏録
しんせんしょうじろく

平安初期に編集された諸氏族の系譜書
814年完成。30巻。目録1巻。氏姓混乱を正すため,万多 (まんだ) 親王らによって編集された。京畿の1182氏の系譜を,皇別・神別・蕃別(渡来人)にわけて整理した。
新撰莵玖波集
しんせんつくばしゅう @@@LINK=新撰莵玖波集 新撰莵玖波集

新撰莵玖波集
しんせんつくばしゅう

室町後期の連歌
1495年完成。20巻。句数約2000句。正風連歌を確立した宗祇 (そうぎ) が中心となり『莵玖波集以後の連歌を撰す。勅撰に準じるもので,代表的作者に心敬・宗祇・猪苗代兼載 (いなわしろけんさい) らがいる。
神像
しんぞう @@@LINK=神像 神像

神像
しんぞう

神道の神々の像
神道では本来偶像を必要としなかったが,平安時代以降神仏習合思想により仏教の影響で神像をつくるようになった。奈良薬師寺の『僧形八幡』『神功皇后』『仲津姫』の3像が有名。仏像ほど多くない。
新続古今和歌集
しんぞくこきんわかしゅう @@@LINK=新続古今和歌集 新続古今和歌集

新続古今和歌集
しんぞくこきんわかしゅう

室町中期,最後の勅撰和歌集
1439年成立。20巻。歌数2144首。後花園天皇の命で飛鳥井雅世 (あすかいまさよ) 撰。鎌倉時代以後の勅撰集が二条家流・京極家流によって撰進されていた慣例を足利義教の圧力で破る。温雅な歌が多い。
尋尊
じんそん @@@LINK=尋尊 尋尊

尋尊
じんそん

1430〜1508
室町時代の法相宗の僧
一条兼良 (かねよし) の子。興福寺大乗院第27代門跡・大僧正。70年間在院し,多くの記録を残した。日記『尋尊大僧正記』はこの時代の貴重な史料。
新体詩
しんたいし @@@LINK=新体詩 新体詩

新体詩
しんたいし

明治時代,西洋の詩の影響をうけて現れた新詩型
従来の漢詩に対比して,新時代の思想感情を盛るにふさわしい長詩型。1882年の『新体詩抄』に始まり,島崎藤村・土井晩翠・与謝野鉄幹・薄田泣菫 (すすきだきゆうきん) ・蒲原有明 (かんばらありあけ) らによって発展した。
新体詩抄
しんたいししょう @@@LINK=新体詩抄 新体詩抄

新体詩抄
しんたいししょう

明治前期,新体詩の先駆となった詩集
1882年刊。外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎の共著。西洋の詩14編の翻訳と創作詩5編とからなる。形式は七五調
神代史の研究
じんだいしのけんきゅう @@@LINK=神代史の研究 神代史の研究

神代史の研究
じんだいしのけんきゅう

大正時代津田左右吉 (つだそうきち) の歴史書
1924年刊。1巻。日本神話に科学的解釈行い,'40年発禁となった。
新体制運動
しんたいせいうんどう @@@LINK=新体制運動 新体制運動

新体制運動
しんたいせいうんどう

1940〜41年に近衛文麿を中心として,新政治体制を創出しようとした運動
1940年日中戦争のゆきづまりの中で,ドイツのナチス,イタリアのファシスト党の一党独裁体制にならい一国一党的新党の結成が唱えられ,諸政党は解党した。第2次近衛内閣成立後,政党・官僚・軍部・右翼を包含して大政翼賛会が結成され,官僚の支配する国民生活統制の体制が形成された。
信託統治
しんたくとうち @@@LINK=信託統治 信託統治

信託統治
しんたくとうち

国際連合の委託をうけた先進国が非自治地域に行う統治
住民の福祉向上,自治・独立の促進を目的とする。国際連盟下の委任統治制を受け継いだもの。
信長記
しんちょうき @@@LINK=信長記 信長記
のぶながき @@@LINK=信長記 信長記

信長記
しんちょうき

江戸初期,小瀬甫庵 (ほあん) による織田信長伝記
「のぶながき」とも読む。1622年。15巻。信長の生涯の履歴を追い,事件に従って記した。太田資房 (すけふさ) (牛一 (ぎゆういち) )の『信長公記』をもととし,教訓的視点が強く,史料的価値は低いが,近世初期の史論としてみるべきものがある。

信長記
のぶながき

しんちょうき
信長公記
しんちょうこうき @@@LINK=信長公記 信長公記
のぶながこうき @@@LINK=信長公記 信長公記

信長公記
しんちょうこうき

安土桃山時代,太田資房 (すけふさ) (牛一)の著した織田信長の伝記
「のぶながこうき」とも読む。別名『安土記』。1600年ころ完成。16巻。信長に仕えて戦功のあった太田資房が,信長の入洛以前を首巻とし,1568年から'82年本能寺のまで1年1巻,月日をおって信長の事歴を記述した好史料。

信長公記
のぶながこうき

しんちょうこうき
新徴組
しんちょうぐみ @@@LINK=新徴組 新徴組

新徴組
しんちょうぐみ

幕末,幕府が組織した江戸警備隊
幕府は1863年,京都に派遣した浪士隊の大部分を江戸に戻し新徴組として市中の警備にあたらせた。庄内藩に所属。京都残留者が新撰組となる。
神田
しんでん @@@LINK=神田 神田

神田
しんでん

律令制下の神社所有の土地
その収穫は神社の経費にあてられた。不輸租特権が与えられ,売買は禁じられた。平安時代に入ると寄進などによって増加し,神領御厨 (みくりや) と呼ばれる荘園となった。
新田開発
しんでんかいはつ @@@LINK=新田開発 新田開発

新田開発
しんでんかいはつ

荒地を開墾して田畑を造成すること
古代以来墾田と称したが,江戸時代以降は新田または新開といった。江戸前期の耕地面積の増大は,古代における荘園の発展期のそれに比せられ,特に元禄・享保ごろの増加が著しい。開発後一定の年限は年貢が減免され,以後課せられても本田畑より低かった。財政難に苦しんだ幕府・諸藩とも積極的に奨励した。領主の代官みずからが開発する代官見立新田,民間請負による村受・町人受(町人請負新田)・寺社受などの新田があったが,いずれの場合も町人資本の進出が目だった。新田開発の結果,江戸前期1850万石余の石高が,明治初年には3000万石をこえた。
伸展葬
しんてんそう @@@LINK=伸展葬 伸展葬

伸展葬
しんてんそう

を伸ばした姿勢で葬る方法
縄文時代後期にもみられるが,弥生時代以後,一般に行われた。
寝殿造
しんでんづくり @@@LINK=寝殿造 寝殿造

寝殿造
しんでんづくり

平安時代に完成された貴族の邸宅の建築様式
中央に主人が居住する主屋 (しゆおく) としての寝殿を南面して建て,その東西に対 (たい) と呼ぶ副屋,これを吹き通しの廊下(渡殿 (わたどの) )で結んだ。庭には池や築山があり,釣殿・泉殿を池に臨ませた。代表的遺構に京都御所清涼殿などがある。
神道
しんとう @@@LINK=神道 神道

神道
しんとう

日本国有の民族信仰
自然神・氏神をまつる古神道は,8c前半頃まで行われたが律令制によって神祇制度が再編成されて,平安時代に整うに至った。
新東京国際空港
しんとうきょうこくさいくうこう @@@LINK=新東京国際空港 新東京国際空港

新東京国際空港
しんとうきょうこくさいくうこう

千葉県成田市に建設された国内最大級の国際空港
通称「成田空港」。羽田空港の発着回数が限界に達したため,1966年,成田市三里塚地区に建設が着手された。しかし,地元農民を中心とする激しい反対運動のため,開港は'78年と大幅におくれた。
神道五部書
しんとうごぶしょ @@@LINK=神道五部書 神道五部書

神道五部書
しんとうごぶしょ

鎌倉初期,伊勢神道の中心的教典
伊勢神宮外宮の神官度会 (わたらい) 氏によって,内宮に対する外宮の優位を説くため書かれた。反本地垂迹説の立場で,北畠親房 (ちかふさ) の神国思想の根拠となるなどのちの神道説に及ぼした影響は大きい。『天照坐 (あまてらします) 伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『豊受皇太神宮御鎮座本紀』『伊勢二所太神宮宝基本紀』『倭姫命 (やまとひめのみこと) 世記』の5部からなる。
神道大意
しんとうたいい @@@LINK=神道大意 神道大意

神道大意
しんとうたいい

室町後期,吉田兼倶 (かねとも) の著した神道書
両部神道を排し唯一神道を主張した兼倶の教義を明らかにしたもの。
新富座
しんとみざ @@@LINK=新富座 新富座

新富座
しんとみざ

明治時代,東京新富町(現中央区新富)にあった歌舞伎劇場
守田座を1872年浅草猿若町より移し'75年改称。団菊左時代をつくった。関東大震災(1923)で焼失。
新内節
しんないぶし @@@LINK=新内節 新内節

新内節
しんないぶし

江戸中期,浄瑠璃節より分立した一派
豊後節禁止後,富士松節ができ,さらに門下の鶴賀新内と鶴賀若狭掾 (じよう) が創始した。心中物中心で哀れな歌詞,悲痛な節回し,刹那的・退廃的であり,座敷芸として遊里中心に栄えた。
沈 南蘋
しんなんぴん @@@LINK=沈+南蘋 沈+南蘋

沈 南蘋
しんなんぴん

生没年不詳
江戸中期に来日した清代の画家
「ちんなんぴん」とも読み,沈銓 (しんせん) ともいう。1731年,弟子を伴って長崎に渡来し,2年ほど在住して帰国。そのかたい線と強い色彩の花鳥画は日本画壇に影響を及ぼし,関西円山応挙伊藤若冲 (じやくちゆう) ,江戸の谷文晁 (たにぶんちよう) らが感化をうけた。
真如堂縁起絵巻
しんにょどうえんぎえまき @@@LINK=真如堂縁起絵巻 真如堂縁起絵巻

真如堂縁起絵巻
しんにょどうえんぎえまき

室町後期の絵巻物
1524年作。京都真如堂真正極楽寺創建由来と本尊阿弥陀如来の霊験を描く。詞書は後柏原天皇ほか5人。絵は掃頭助 (かもんのすけ) 久国で,装飾的なかたさがあるが,応仁のを描いた好史料。
神人
じにん @@@LINK=神人 神人
じんにん @@@LINK=神人 神人

神人
じにん

平安後期から現れた,神社奉仕の義務をもつ農民・商工業者,下級神職
「じんにん」とも読む。奉仕の代償として課役が免ぜられた。僧兵とともに朝廷に強訴 (ごうそ) することもあった。大山崎離宮八幡宮祇園社の神人は有名。

神人
じんにん

じにん
新皇
しんのう @@@LINK=新皇 新皇

新皇
しんのう

平将門 (たいらのまさかど)
親王
しんのう @@@LINK=親王 親王

親王
しんのう

皇族の称号の一つ
天皇の兄弟と皇子をいう。天皇の姉妹と皇女は内親王。759年から親王宣下がなければ称せなくなった。
神皇正統記
じんのうしょうとうき @@@LINK=神皇正統記 神皇正統記

神皇正統記
じんのうしょうとうき

南北朝時代,北畠親房 (ちかふさ) が著した歴史書
6巻。1339年,常陸 (ひたち) 国(茨城県)小田城で北朝方の包囲の中にあってほとんど記憶に頼りながら記した。神武天皇から後村上天皇に至る歴代略譜を記すとともに,神代から皇位が正当な理由のもとに正統な皇位継承者に伝えられてきたことを証明し,後村上天皇(南朝)の正統性を論じた。大義名分論基調とし,院政の批判,武家政治の評価を一貫した史観で貫いた史論書。
新派劇
しんぱげき @@@LINK=新派劇 新派劇

新派劇
しんぱげき

明治中期,歌舞伎(旧派劇)に対抗して発達した新演劇
角藤定憲 (すどうさだのり) ・川上音二郎らの壮士芝居・書生芝居が源流。日清戦争中に戦争劇で成功,ついで『金色夜叉』や『不如帰 (ほととぎす) 』などの家庭悲劇・花柳界劇へ移った。第二次世界大戦後は花柳章太郎・水谷八重子らの新生新派へ発展。
親藩
しんぱん @@@LINK=親藩 親藩

親藩
しんぱん

江戸時代,大名の家格
江戸時代の大名は徳川将軍との親疎により,親藩・譜代・外様の三つに分けられた。親藩は徳川家康以後徳川の子弟で大名になったものをいい,譜代とともに外様大名を牽制する役割をになった。特に尾張・紀伊・水戸の徳川家を御三家と呼んだ。
新版歌祭文
しんぱんうたざいもん @@@LINK=新版歌祭文 新版歌祭文

新版歌祭文
しんぱんうたざいもん

江戸後期,近松半二作の世話物浄瑠璃
1780年大坂竹本座で初演。3段。大坂油屋の娘お染と丁稚 (でつち) 久松の悲恋中段の野崎村は久松の許嫁お光,養父久作の苦衷など義理人情を描いた傑作。歌舞伎上演は1808(文化5)年。
神風連の乱
じんぷうれんのらん @@@LINK=神風連の乱 神風連の乱

神風連の乱
じんぷうれんのらん

1876(明治9)年,熊本でおこった攘夷主義士族の反乱
敬神党の乱ともいう。神風連は敬神党ともいい,国学を学び神道によって結ばれた太田黒伴雄を中心とする国粋主義・攘夷主義者の徒党。政府の開化(欧化)政策に反対し廃刀令に憤激して挙兵,熊本鎮台を襲い,鎮台司令官・県令を殺害したが,まもなく鎮圧された。
新婦人協会
しんふじんきょうかい @@@LINK=新婦人協会 新婦人協会

新婦人協会
しんふじんきょうかい

大正時代の女性による,社会改造をめざした初の女性運動団体
平塚らいてう・市川房枝・奥むめおらが中心となり1920年に結成。機関誌『女性同盟』を発刊。とくに女子の政治活動を禁じた治安警察法第5条撤廃請願運動では,女子の集会参加を認めさせ,'22年に解散。
神仏混淆
しんぶつこんこう @@@LINK=神仏混淆 神仏混淆

神仏混淆
しんぶつこんこう

神仏習合
神仏習合
しんぶつしゅうごう @@@LINK=神仏習合 神仏習合

神仏習合
しんぶつしゅうごう

神と仏は同じものであるとして,神道と仏教を調和させようとする説
神仏混淆 (こんこう) ともいう。仏教は元来インドでおこったものであるが,日本に伝えられると神道と融合した。奈良時代に神社に神宮寺がつくられ,平安時代になると個々の神をそれぞれ仏と結びつける本地垂迹説が現れ,神社に仏像を置いたり,寺に鳥居をたてたりした。神仏習合は約1000年間行われてきたが,明治初期の神仏分離令によって否定された。
神仏分離
しんぶつぶんり @@@LINK=神仏分離 神仏分離

神仏分離
しんぶつぶんり

維新政府が天皇の神権的権威確立のためにとった宗教政策
1868年,政府は祭政一致の方針に基づき,神仏習合を禁止するため「神仏判然の令」(神仏分離令)を布告。神社から仏像・仏具を,また寺院から神社関係器物を除去し,神社所属の僧侶の還俗 (げんぞく) を命じた。
新聞
しんぶん @@@LINK=新聞 新聞

新聞
しんぶん

マスコミの重要な媒体
17世紀の初期から瓦版 (かわらばん) と呼ぶ1枚刷があったが,幕末,バタビアのオランダ政庁の機関紙を翻訳して『官板バタビヤ新聞』が出た。また外字新聞の翻訳筆写の『横浜新聞』も出された。近代新聞はこれらの官板新聞・筆写新聞を源流とした。定期印刷新聞としては1870年最初の日刊紙『横浜毎日新聞』が登場。ついで『東京日日新聞』『郵便報知新聞』などが創刊された。自由民権運動の高揚は,各紙を政論で特色づけ,'75年の新聞紙条例などの弾圧に抗して政論新聞が続出,ついで政党新聞が出た。また商業新聞もしだいに読者を増やした。これらの新聞が日本の近代化に果たした役割は大きい。特に北海道開拓使官有物払下げ事件における『東京横浜毎日新聞』,護憲運動に際しての『万朝報』,米騒動に際しての『朝日新聞』の活躍は有名。
新聞紙条例
しんぶんしじょうれい @@@LINK=新聞紙条例 新聞紙条例

新聞紙条例
しんぶんしじょうれい

1875(明治8)年に制定された明治政府の新聞・雑誌取締法
民撰議院設立建白を機に民権論がおこり,新聞・雑誌による専制政府攻撃が活発化すると,政府は1875年讒謗律 (ざんぼうりつ) とともに新聞紙条例を公布し,政府や法律に対する新聞の非難を禁じ,違反者には体刑や罰金刑を科した。この法律はその後改正されて,1909年の新聞紙法に継承された。
親兵
しんぺい @@@LINK=親兵 親兵

親兵
しんぺい

明治初年,天皇直属の軍隊である近衛 (このえ) 兵の前身。御親兵ともいう。
神兵隊事件
しんぺいたいじけん @@@LINK=神兵隊事件 神兵隊事件

神兵隊事件
しんぺいたいじけん

1933年7月,未然に発覚した右翼によるクーデタ未遂事件
血盟団事件,五・一五事件などの流れをくみ,大日本生産党・愛国勤労党が中心となり,閣僚・要人を倒して皇族内閣による国家改造を行おうと計画した事件。未然に発覚し検挙され内乱罪適用となったが,刑は免除された。
新編相模国風土記稿
しんぺんさがみのくにふどきこう @@@LINK=新編相模国風土記稿 新編相模国風土記稿

新編相模国風土記稿
しんぺんさがみのくにふどきこう

江戸末期,相模国に関する詳細な地誌
江戸幕府官撰。1841年成立。126巻。
新編追加
しんぺんついか @@@LINK=新編追加 新編追加

新編追加
しんぺんついか

鎌倉幕府の法令集
成立年代・編者不詳。1巻。全361条。御成敗式目制定以後,個々に発令された法令を式目追加というが,これを類別して編集したものをさす。
新編武蔵国風土記稿
しんぺんむさしのくにふどきこう @@@LINK=新編武蔵国風土記稿 新編武蔵国風土記稿

新編武蔵国風土記稿
しんぺんむさしのくにふどきこう

江戸後期,武蔵国に関する詳細な地誌
1810〜28年,林述斎が昌平坂学問所地理局を置いて編纂。265巻。前後18年間40数人によってなり,1830年幕府に献上相模国に関する『新編相模国風土記稿』とともに,地理・歴史の研究資料として価値が高い。
新補地頭
しんぽじとう @@@LINK=新補地頭 新補地頭

新補地頭
しんぽじとう

鎌倉時代,承久の乱(1221)後,新たに補任された地頭
本補地頭に対する語。乱後,鎌倉幕府は上皇方に味方をした公家武士などから没収した所領3000余か所に,御家人を地頭として任命した。その得分(収入)は,先例のない場合は新補率法で定められ,11町につき1町の免田,1段あたり5升の加徴米,山野河海の税の半分などが与えられた。
進歩党
しんぽとう @@@LINK=進歩党 進歩党

進歩党
しんぽとう

①1896年立憲改進党を中心として結成された政党(〜'98)
党首は大隈重信。第2次松方正義内閣の与党となり,大隈は外相に就任。1898年自由党と合同して憲政党を結成し,日本最初の政党内閣といわれる隈板内閣を組織した。
②「日本進歩党」の略称。
新補率法
しんぽりっぽう @@@LINK=新補率法 新補率法

新補率法
しんぽりっぽう

新補地頭の法定得分率。
神本仏迹説
しんぽんぶつじゃくせつ @@@LINK=神本仏迹説 神本仏迹説

神本仏迹説
しんぽんぶつじゃくせつ

神をもととし,はその垂迹であるとする
新町屑糸紡績所
しんまちくずいとぼうせきじょ @@@LINK=新町屑糸紡績所 新町屑糸紡績所

新町屑糸紡績所
しんまちくずいとぼうせきじょ

明治前期の官営模範工場の一つ
1877年群馬県新町に設立し,屑糸・屑繭の利用をはかった。'87年三井に払い下げられた。
新見正興
しんみまさおき @@@LINK=新見正興 新見正興

新見正興
しんみまさおき

1822〜69
江戸末期の幕臣・外交官で,日本最初の遣米使節
旗本の子として生まれ,新見家の養子となった。外国奉行・神奈川奉行を兼任し,1860年日米修好通商条約の批准交換に正使として渡米。帰国後側衆 (そばしゆう) となり,'64年辞職。

人民戦線事件
じんみんせんせんじけん @@@LINK=人民戦線事件 人民戦線事件

人民戦線事件
じんみんせんせんじけん

1937年におこった非共産党系合法左翼弾圧事件
1935年のコミンテルン第7回大会の反ファッショ人民戦線の呼びかけに応え扇動活動を行ったとして,'37年12月,日本無産党委員長加藤勘十,書記長鈴木茂三郎,社会大衆党黒田寿男,その他山川均・大森義太郎・猪俣津南雄・向坂逸郎ら400余名が検挙され,日本無産党・日本労働組合評議会は結社禁止となる。'38年第2次検挙で,その理論的指導者として大内兵衛・有沢広巳・美濃部亮吉ら労農派系学者も逮捕された。
神武景気
じんむけいき @@@LINK=神武景気 神武景気

神武景気
じんむけいき

1955〜57年にかけての好景気のこと
朝鮮特需復興を促された日本経済は,1951年以降の合理化設備投資に'56年に始まった技術革新投資が重なり,さらに世界景気の好調に助けられた輸出のめざましい伸張をによって空前好況となった。
神武天皇
じんむてんのう @@@LINK=神武天皇 神武天皇

神武天皇
じんむてんのう

記紀の伝承にみえる初代天皇
和風諡号は神日本磐余彦 (かむやまといわれひこ) 。瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) の曽孫。日向国(宮崎県)から東征。長髄彦 (ながすねひこ) を討って大和(奈良県)を平定し,辛酉の年に大和の橿原宮に即位。この年が西暦紀元前660年で,日本紀元元年とされる(➡ 讖緯 (しんい) 説)。天皇は127歳で死んだというが,実在とは考えられず,史実ではない。10代崇神天皇(始馭天下之天皇 (はつくにしらすすめらみこと) )と同一視する説もある。
神明造
しんめいづくり @@@LINK=神明造 神明造

神明造
しんめいづくり

伊勢神宮に代表される神社建築の一様式
大社造とともに神社建築の代表で,切妻・平入り,掘立柱,高床式などが特色。屋根には千木・堅魚木 (かつおぎ) 10本を置く。白木造で直線的美を表す。
陣屋
じんや @@@LINK=陣屋 陣屋

陣屋
じんや

江戸時代,代官などの役人が任地に所有していた屋敷
元来は軍隊の駐屯した陣営のこと。また江戸時代,城郭をもたない大名の館も陣屋といった。
新薬師寺
しんやくしじ @@@LINK=新薬師寺 新薬師寺

新薬師寺
しんやくしじ

奈良市高畑町にある華厳宗の寺
747年,光明皇后が行基に命じて建立。本尊『薬師如来像』は平安初期の作で一木造の巨像。本尊をめぐって円壇に,天平末期の代表作である『十二神将像』(塑像)が並んでいる。
辛酉革命
しんゆうかくめい @@@LINK=辛酉革命 辛酉革命

辛酉革命
しんゆうかくめい

中国古代の讖緯 (しんい) 説に基づく思想。
新葉和歌集
しんようわかしゅう @@@LINK=新葉和歌集 新葉和歌集

新葉和歌集
しんようわかしゅう

南北朝時代の準勅撰和歌集
1381年成立。20巻。歌数約1420首。宗良 (むねよし) 親王の撰。『風雅和歌集』など北朝の勅撰集にもれた後醍醐 (ごだいご) 天皇以下南朝廷臣の作を収録した。全般に二条家の亜流を出ないが,戦陣の間から生まれた特色をもつ。南朝の史実研究に重要史料。
親鸞
しんらん @@@LINK=親鸞 親鸞

親鸞
しんらん

1173〜1262
鎌倉初期の僧。浄土真宗(一向宗)の開祖
初め比叡山の学僧として修学したが,やがて法然の門に入る。旧仏教勢力の弾圧をうけ法然に連坐して越後に配流され,のち常陸(茨城県)に移住。20余年の長きにわたって下級武士・農民の間に教えを説き,多くの門弟を育て,晩年京都へ帰る。親鸞の教えの特色は,法然の思想をさらに徹底させた絶対他力の信仰と,悪人正機説である。主著『教行信証』や,弟子唯円 (ゆいえん) が師の語録をまとめた『歎異抄 (たんにしよう) 』によって,その思想をうかがうことができる。

人力車
じんりきしゃ @@@LINK=人力車 人力車

人力車
じんりきしゃ

明治時代の代表的乗物で,人力で引く乗用二輪車
人力・力車ともいう。1869年和泉要助らが発明。文明開化象徴の一つとして普及。関東大震災ののちは中国・東南アジア・アフリカなどにも輸出された。
新律綱領
しんりつこうりょう @@@LINK=新律綱領 新律綱領

新律綱領
しんりつこうりょう

明治初年の刑法
1870年発布。6巻。192条。中国の明・清律を基本として,これに養老律・御定書百箇条などを参考にして編集。刑罰に身分的差別があったが,広く天下に示され,従来秘密主義を破った。'73年の改定律例とともに,'82年の旧刑法施行まで行われた。
新論
しんろん @@@LINK=新論 新論

新論
しんろん

江戸後期,水戸藩士会沢正志斎の著書
2巻。1825年,内外の急迫した時局に対し,神道・儒教思想によって国体・形勢・虜情・守禦・長計の5編にわけ新政策を主張。'57年門人たちが秘かに刊行。幕末尊王攘夷思想の有力な先駆となった。
神話
しんわ @@@LINK=神話 神話

神話
しんわ

日本神話
新和様
しんわよう @@@LINK=新和様 新和様

新和様
しんわよう

鎌倉時代建築様式の一派
和様に大仏様禅宗様を部分的に加味した折衷様式

ず @@@LINK=徒 徒



律令の刑罰の一つ。➡ 五刑

ずい @@@LINK=隋 隋


ずい

中国の統一王朝(581〜618)
北周の外戚の楊堅(文帝)が北周を倒して建国。589年には南朝の陳を征服し,3世紀以来分裂していた中国を統一した。均田制・科挙制・府兵制などを行い,門閥や豪族の勢力を打破して,中央集権の確立をはかった。しかし急激な中央集権化や,煬帝 (ようだい) の大運河の建設,高句麗征討の失敗などにより人民の支持を失い,618年唐の李淵(太祖)に滅ぼされた。日本からは小野妹子らの遣隋使が派遣された。
垂加神道
すいかしんとう @@@LINK=垂加神道 垂加神道

垂加神道
すいかしんとう

江戸前期,山崎闇斎が説いた神道説
朱子学や伊勢・吉川神道の思想をとり入れ大成したもの。皇室中心の考え方で,水戸学や竹内式部の尊王論,幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。
水干
すいかん @@@LINK=水干 水干

水干
すいかん

平安中期から鎌倉時代に着用された狩衣の一種
糊を使わず水張りにして干した絹という意から出た名称。布・絹・綾の類を用い,襟 (えり) をひもで結び合わせ,要所に菊綴 (きくとじ) をつけるのが特色。平安末期から無位の官人の常用服,庶民の晴着となった。
瑞溪周鳳
ずいけいしゅうほう @@@LINK=瑞溪周鳳 瑞溪周鳳

瑞溪周鳳
ずいけいしゅうほう

1391〜1473
室町中期の臨済宗五山文学
和泉国(大阪府)の人。足利義教・義政に信任され,相国寺鹿苑院蔭涼軒に住し,僧録司となる。詩文にすぐれ,また外交史書『善隣国宝記』,日記『臥雲日件録』などの著書がある。
出挙
すいこ @@@LINK=出挙 出挙

出挙
すいこ

古代,農民に対する稲などの利付き貸付制度
春貸しつけて秋に返させた。政府が行う公出挙 (くすいこ) は5割の利息,民間で行う私出挙は10割の利息をとった。公出挙は本来貧農救済を目的としたが,奈良時代以降は貸付が強制され租税化した。
推古天皇
すいこてんのう @@@LINK=推古天皇 推古天皇

推古天皇
すいこてんのう

554〜628
6〜7世紀前期の女帝(在位592〜628)
欽明天皇の皇女,母は蘇我稲目の娘堅塩媛 (きたしひめ) 。敏達 (びたつ) 天皇の皇后となり,592年崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されたのち最初の女帝として即位。甥の聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行った。その治世には冠位十二階,憲法十七条,国史の編纂,法隆寺の建立などがあり,文化史上飛鳥時代と呼ばれる一時代を築いた。

隋書倭国伝
ずいしょわこくでん @@@LINK=隋書倭国伝 隋書倭国伝

隋書倭国伝
ずいしょわこくでん

中国,隋朝の正史隋書』中の倭国に関する
『隋書』は629年唐の魏徴らの撰。巻81の「東夷伝」倭国の条に日本の実情を述べている。600年以来4回の遣隋使や,推古天皇治世の事情を記す。『日本書紀』の記録とは必ずしも一致しない。
随身
ずいじん @@@LINK=随身 随身

随身
ずいじん

平安時代,貴族の外出の際,勅宣によって随従し警衛のにあたった左右近衛府の舎人 (とねり)
その人数は,太上天皇には14人,摂関10人,大臣・大将8人,納言・参議6人で,弓矢を持ち太刀を帯びた。
水稲耕作
すいとうこうさく @@@LINK=水稲耕作 水稲耕作

水稲耕作
すいとうこうさく

稲作の一形態
大陸から前3〜2世紀ころ初めて伝えられた稲作は水稲耕作で,日本の大部分の地域は食料生産段階に入った。初期の状態は唐古 (からこ) ・鍵遺跡登呂 (とろ) 遺跡などの遺構・遺物で推察されている。
水平社
すいへいしゃ @@@LINK=水平社 水平社

水平社
すいへいしゃ

大正・昭和期の部落解放運動の中心組織
大正デモクラシー期の社会運動の発展の中で,不当な差別をうけつづけた被差別部落民は政府の融和事業に満足できず,1922年3月,京都で全国水平社を創立。'23年末までに全国に240余りの地方水平社が結成され,差別事件の糾弾全力を注いだ。その後,労働者・農民運動との結合を深めたが,ファシズムの重圧下に1940年,その活動は停止を余儀なくされた。現在の部落解放同盟の前身
水墨画
すいぼくが @@@LINK=水墨画 水墨画

水墨画
すいぼくが

東洋独自の技法と様式をもった絵画様式。墨絵
墨の濃淡で立体感・色感を表す単色画で,基本的技法には強い墨線を主とする破墨 (はぼく) と柔らかい濃淡の墨色を主とする潑墨 (はつぼく) がある。唐代ごろにおこり,宋・元代に全盛となる。破墨は鎌倉時代に禅僧が輸入。室町時代に如拙・周文のあと雪舟が出て日本的水墨画を完成し,全盛期をむかえた。以後,狩野・海北派らに受け継がれ,潑墨は江戸中期に池大雅・与謝蕪村・浦上玉堂らにより文人画として栄えた。
枢軸国
すうじくこく
axis-power @@@LINK=枢軸国 枢軸国

枢軸国
すうじくこく
axis-power

1936〜45年における日本・ドイツ・イタリアのファシズム3国によるアメリカ・イギリスに対する同盟関係
1936年,ドイツとイタリアの間にベルリン・ローマ枢軸が結成され,翌'37年日本も参加,日独伊防共協定を結んだ。さらに'40年日独伊三国同盟によって完成された。
崇伝
すうでん @@@LINK=崇伝 崇伝

崇伝
すうでん

1569〜1633
江戸初期の臨済宗の禅僧
字 (あざな) は以心。京都の人で,南禅寺の再興に尽力し同寺の長老となり,金地院に住した。金地院 (こんちいん) 崇伝ともいう。1608年徳川家康に仕え,外交および寺社行政を管掌諸宗寺院法度禁中並公家諸法度・武家諸法度を起草し,政治的にも活躍,「黒衣の宰相」といわれたが,家康死後は権力を失った。

金光明最勝王経
こんこうみょうさいしょうおうきょう @@@LINK=金光明最勝王経 金光明最勝王経

金光明最勝王経
こんこうみょうさいしょうおうきょう

奈良時代鎮護国家の経として重んじられた経典
『金光明経』の漢訳。10巻。唐の義浄の訳。この経典が誦される国を四天王が守護すると説き,写経されて諸国の国分寺に置かれた。
金光明四天王護国之寺
こんこうみょうしてんのうごこくのてら @@@LINK=金光明四天王護国之寺 金光明四天王護国之寺

金光明四天王護国之寺
こんこうみょうしてんのうごこくのてら

国分寺
金剛力士像
こんごうりきしぞう @@@LINK=金剛力士像 金剛力士像

金剛力士像
こんごうりきしぞう

伽藍を守護するため寺門に安置された一対の仏像
仁王ともいい,裸体の忿怒 (ふんぬ) の形に表現される。口を開いた方を阿 (あ) 像,口を閉じた方を吽 (うん) 像という。法隆寺の塑造仁王像が最も古く,東大寺南大門の木造(運慶快慶作)は傑作とされる。
今昔物語集
こんじゃくものがたりしゅう @@@LINK=今昔物語集 今昔物語集

今昔物語集
こんじゃくものがたりしゅう

平安後期の説話集
12世紀初めころの成立。編者不詳。天竺 (てんじく) (インド)・震旦 (しんたん) (中国)・本朝(日本)の3部31巻よりなる。仏教説話が多いが,本朝部の後半,世俗編においては,貴族・武士・庶民の姿を躍動的なユーモアを通して描写。和語漢語梵語の和漢混交文で書かれ,のちの説話文学に多大な影響を与えた。
誉田御廟山古墳
こんだごびょうやまこふん @@@LINK=誉田御廟山古墳 誉田御廟山古墳

誉田御廟山古墳
こんだごびょうやまこふん

大阪府羽曳野 (はびきの) 市にある,応神天皇の墳墓といわれる巨大古墳
応神陵古墳ともいう。古墳時代中期の前方後円墳で,全長418m,後円部径267m,前方部幅330m,後円部高さ36m。2重の濠をめぐらし,大山古墳仁徳陵古墳)につぐ日本第2位の大きさを誇っている。数多くの陪冢 (ばいちよう) をもつ。
金地院崇伝
こんちいんすうでん @@@LINK=金地院崇伝 金地院崇伝

金地院崇伝
こんちいんすうでん

崇伝
コンツェルン
Konzern @@@LINK=コンツェルン コンツェルン

コンツェルン
Konzern

商品の生産から販売に至る種々の諸企業が,銀行あるいは持株会社によって支配・統制されている独占資本の最高形態
カルテル・トラストより集中度の高い企業合同の形態で,アメリカのモルガン・ロックフェラー・デュポン,日本では戦前の四大財閥などがその典型。
健児
こんでい @@@LINK=健児 健児

健児
こんでい

平安時代の兵制
792年,桓武天皇のとき,奥羽・佐渡・大宰府管内の諸国を除く軍団の廃止に伴って正規の兵制となった。兵士の質の向上のため郡司・富裕者・有位者の子弟を採用し,その数は国の大小・位置によって異なり20〜200人。1年60日交替で国府などの警備にあたり,徭役は免除された。平安中期以降衰滅。
墾田
こんでん @@@LINK=墾田 墾田

墾田
こんでん

律令制下,公地以外に新しく開かれた田地
原則として輸租田。律令制では土地公有を原則としたが,人口の自然増加などによる口分田不足から,723年に三世一身法,743年に墾田永年私財法が公布され,公地主義の原則が破られた。以後,貴族・寺社などによる私墾田の開発・経営が急増し,太政官符民部省符国司免判などによる不輸租化に伴って荘園が成立した。
墾田永代私有令
こんでんえいたいしゆうれい @@@LINK=墾田永代私有令 墾田永代私有令

墾田永代私有令
こんでんえいたいしゆうれい

墾田永年私財法
墾田永年私財法
こんでんえいねんしざいほう @@@LINK=墾田永年私財法 墾田永年私財法

墾田永年私財法
こんでんえいねんしざいほう

奈良時代,開墾地の永久私有を認めた法令
743(天平15)年発布。723(養老7)年の三世一身法を大幅に改変したもので,位階による開墾面積の制限,百姓の妨げとなる土地の禁止,申請後3年以内に開墾に着手すべきこと,開墾には国司の承認の必要なこと,などの条件をつけ,墾田の永久私有を認めた。有力寺社・貴族・地方豪族はこの法令を利用し盛んに開墾を進め荘園制展開の起点となった。
墾田地系荘園
こんでんちけいしょうえん @@@LINK=墾田地系荘園 墾田地系荘園

墾田地系荘園
こんでんちけいしょうえん

古代荘園領主未開荒野定したのち,開墾してできた荘園
私有地化した口分田の買得・囲い込みや位田・職田などの私有地化により集積した初期荘園。荘域が広く,未開の荒野を多く含んだ。
近藤勇
こんどういさみ @@@LINK=近藤勇 近藤勇

近藤勇
こんどういさみ

1834〜68
江戸末期の幕臣。新撰組隊長
武蔵(東京都)多摩郡調布の人。京都守護職の支配下に属して新撰組を組織し,池田屋事件で長州藩尊攘派志士を襲撃するなど弾圧の先鋒として活躍。1868年鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸に帰り,甲陽鎮撫隊を組織した。甲斐(山梨県)勝沼・下総(千葉県)流山 (ながれやま) で新政府軍と戦って敗れ,捕らわれて板橋で斬首された。

近藤重蔵
こんどうじゅうぞう @@@LINK=近藤重蔵 近藤重蔵

近藤重蔵
こんどうじゅうぞう

1771〜1829
江戸後期の幕臣・北方探検家
本名は守重,号は正斎。江戸の人。1798年蝦夷地 (えぞち) 御用を命ぜられて国後 (くなしり) ・択捉 (えとろふ) 島を探検,択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱をたてた。以後5度蝦夷地を探検。国防・地理・風俗など多くの著述がある。晩年,長男の殺害事件に連坐し改易となり,不遇のうちに没した。

金銅像
こんどうぞう @@@LINK=金銅像 金銅像

金銅像
こんどうぞう

金銅を素材とした仏像
銅に (すず) をまぜたブロンズ像に金メッキを施したもの。天平時代以前の仏像に多い。代表作に飛鳥寺の大仏法隆寺金堂『釈迦三尊像』,薬師寺金堂『薬師三尊像』など。
コンドル
Josiah Conder @@@LINK=コンドル コンドル

コンドル
Josiah Conder

1852〜1920
イギリスの建築家
1877年来日。工部省技師,工部大学校造家学科主任教師として,明治の日本建築界の育成・発展に貢献した。皇居・議事堂・東京帝室博物館・鹿鳴館などを設計。東京で没した。
金春座
こんぱるざ @@@LINK=金春座 金春座

金春座
こんぱるざ

能楽の一流派。大和四座の一つ
「今春」とも書く。鎌倉時代奈良猿楽に始まり大和四中最も古い。祖先が南大和から奈良にのぼり,西京円満寺付近に住していたので,もと円満井 (えまい) 座といった。興福寺春日神社奉仕。奈良で興福寺猿楽の伝統から首座を占めた。室町時代金春禅竹が中興し,今も金春流として続いている。
金春禅竹
こんぱるぜんちく @@@LINK=金春禅竹 金春禅竹

金春禅竹
こんぱるぜんちく

1405〜68
室町中期の能役者・作者。金春座中興の祖
実名は七郎氏信,禅竹は法名。1428年金春大夫となる。世阿弥の女婿として指導をうけ,一休宗純にも師事。幽玄の芸風を加え,金春流の基礎を確立した。理論家としてもすぐれ,芸論も多い。主著『至道要抄』。

根本領主
こんぽんりょうしゅ @@@LINK=根本領主 根本領主

根本領主
こんぽんりょうしゅ

開発領主
困民党
こんみんとう @@@LINK=困民党 困民党

困民党
こんみんとう

明治前期,貧農の組織
借金党・負債党とも呼ばれた。松方財政の影響により農村は深刻な不況に見舞われた。そのため1883〜84年,関東の西部,中部地方の南東部に,負債利子の減免,元金の年賦償却などを要求した農民一揆が組織的・持続的に展開する中で組織された。自由民権運動が激化する中で,'84年秩父事件をおこした。

ざ @@@LINK=座 座



中世,商工業者などの特権的同業組合
平安末期より畿内の貴族・寺社を本所とする手工業者が,課役を負う代わりに仕入れ・販売の独占,関銭の免除などの特権を得て結成。八坂神社の綿座,北野神社 (こうじ) 座などが有名。鎌倉末期より一般商工業者も特権を求めて参加し,一方荘園減少に苦しむ本所も座役を財源とするため座を保護したので,室町時代の商工業・産業の発達に貢献した。しかしその特権を守るための閉鎖性が商工業の発達を妨げるようになると,富国強兵を目ざす戦国大名の楽市・楽座政策によって消滅させられた。
斎院
さいいん @@@LINK=斎院 斎院

斎院
さいいん

京都の賀茂神社に奉仕する未婚の皇女,またはその皇女の居所
「いつきのみや」とも読む。810(弘仁元)年嵯峨天皇の皇女有智子 (うちこ) 内親王に始まり,13世紀初期の後鳥羽天皇の皇女礼子内親王まで続いた。
歳役
さいえき @@@LINK=歳役 歳役

歳役
さいえき

律令制において公民男子に課せられた徭役の一つ
京畿以外の正丁 (せいてい) が年10日間,次丁は年5日間京に出て食糧自弁で労役に従事した。しかし,実際に行われたかは疑わしく,一般に庸を代納したと考えられている。
西園寺公経
さいおんじきんつね @@@LINK=西園寺公経 西園寺公経

西園寺公経
さいおんじきんつね

1171〜1244
鎌倉初期の公卿
妻は源頼朝の姪。4代将軍九条頼経の生母の父。1221年承久の乱には幕府との関係から閉されたが,乱後幕府の支援で太政大臣,関東申次として権威ふるい,西園寺家の基礎を築いた。のち京都北山に西園寺を建て移り住み,以後西園寺氏と称した。

西園寺公望
さいおんじきんもち @@@LINK=西園寺公望 西園寺公望

西園寺公望
さいおんじきんもち

1849〜1940
明治〜昭和期の政治家
公卿出身。明治初頭にフランスに留学し,自由主義思想を知り,帰国後『東洋自由新聞』を発刊。伊藤博文の信任をうけ,各国公使・文相・枢密院議長などを歴任。1903年立憲政友会総裁となり,'06〜08年と'11〜12年の2回内閣を組織。以後元老として首相推薦の任にあたる。パリ講和会議の首席全権もつとめた。

西園寺公望内閣
さいおんじきんもちないかく @@@LINK=西園寺公望内閣 西園寺公望内閣

西園寺公望内閣
さいおんじきんもちないかく

西園寺公望を首班とし立憲政友会を母胎とする内閣
〔第1次〈1906.1〜08.7〉〕日露戦争後の戦後経営にあたり,第3次日韓協約,鉄道国有法,第1次日露協約を成立させた。また日本社会党の結党を承認。〔第2次〈'11.8〜12.12〉〕 財政緊縮を進め,2個師団増設問題で軍部と対立,上原勇作陸相の辞職により総辞職した。
西園寺家
さいおんじけ @@@LINK=西園寺家 西園寺家

西園寺家
さいおんじけ

藤原北家閑院流の家。清華家(摂家につぐ公家の家格)の一つ
琵琶の家として有名。鎌倉初期に4代公経 (きんつね) が京都北山の別荘に西園寺を建て移り住み,以後これが家名となった。代々幕府の後援により太政大臣となり,朝幕間の連絡役をつとめ,また皇室の外戚として勢威をふるった。建武の新政以後衰えたが,近代に入り公望 (きんもち) が出た。
雑賀一揆
さいがいっき @@@LINK=雑賀一揆 雑賀一揆

雑賀一揆
さいがいっき

安土桃山時代,紀伊国(和歌山県)雑賀地方を中心におこった一向一揆
紀の川デルタ雑賀地区の土豪・国人・本願寺門徒らは,織田信長と石山本願寺との間に石山合戦(1570〜80)が始まると,蜂起して信長に抵抗した。鉄砲使用に習練をつみ威力を示したが,'77年信長に敗北。
西海道
さいかいどう @@@LINK=西海道 西海道

西海道
さいかいどう

律令制下の五畿七道の一つ
現在の九州地方。筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬の9国2島をいう。大宰府が西海道諸国を統轄した。
西行
さいぎょう @@@LINK=西行 西行

西行
さいぎょう

1118〜90
平安末期の歌人
藤原秀郷の子孫。 俗名佐藤義清 (のりきよ) 。もと鳥羽法皇に仕えた北面の武士。23歳で出家し,旅の詩人としてほとばしり出る感慨を歌に託し,自然・人生を叙情的に歌った。『新古今和歌集』で一番多く歌がおさめられている。家集に『山家集』1巻。

西教寺
さいきょうじ @@@LINK=西教寺 西教寺

西教寺
さいきょうじ

滋賀県大津市坂本町にある天台宗真盛派の総本山
推古天皇のときの創建と伝えられ,平安時代には源信の念仏道場であったという。1486年真盛が再興したが,1571年織田信長の焼打ちによって焼失し(延暦寺焼打ち),'74年再建。寺内に明智光秀の墓がある。
斎宮
さいぐう @@@LINK=斎宮 斎宮

斎宮
さいぐう

伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女または王女
「いつきのみや」とも読む。崇神天皇の皇女豊鋤入姫 (とよすきいりひめ) 命に始まるという。7世紀後半の天武朝以来この制度が確立し,天皇の代わるたびに斎宮も代わった。14世紀前半の後醍醐 (ごだいご) 天皇の皇女祥子内親王まで75代続き,以後廃絶した。
西宮記
さいぐうき @@@LINK=西宮記 西宮記

西宮記
さいぐうき

平安中期,左大臣源高明の有職 (ゆうそく) 書
「さいきゅうき」とも読む。朝廷の年中行事や儀式,史実や制度を知る重要な史料。
再軍備論争
さいぐんびろんそう @@@LINK=再軍備論争 再軍備論争

再軍備論争
さいぐんびろんそう

第二次世界大戦後,日本国憲法第9条第2項をめぐる,再軍備合憲違憲かの論争
1952年3月6日,参議院予算委員会で,吉田茂首相は「自衛戦力は憲法違反に非ず」と発言し,野党との間に紛糾をおこした。また同年10月,最高裁判所は警察予備隊の違憲訴訟を却下し,'54年12月には憲法9条の政府統一見解が発表されたが,論争は現在も続いている。
在家
ざいけ @@@LINK=在家 在家

在家
ざいけ

②中世,国衙 (こくが) 領・荘園において,在家役収取の対象となった単位
①出家に対し在俗のまま仏道に帰依する者。
もと住居のであったが,中世では農民・屋敷田畑を一括して在家として,領主は財産視した。存在形態は時代・地域により多様で,東国や南九州などに多くみられる。
最恵国待遇条款
さいけいこくたいぐうじょうかん @@@LINK=最恵国待遇条款 最恵国待遇条款

最恵国待遇条款
さいけいこくたいぐうじょうかん

条約締結国の一方が第三国に利益を与えた場合,同等の権利を先の条約締結国の相手方にも与えることを定めた条項
双務的であることが原則であるが,幕末幕府列国と締結した和親条約・修好通商条約は片務的で日本に不利であったので,条約改正の主要目標の一つとなった。陸奥宗光の外交交渉で,通商航海に関するいっさいの事項の相互的無条件主義が達成され,1911年の条約改正で輸出入税・内国税の不平等な最恵国待遇条款が撤廃された。
西光
さいこう @@@LINK=西光 西光

西光
さいこう

?〜1177
平安末期の後白河院の近臣
藤原師光 (もろみつ) のこと。藤原通憲 (みちのり) に仕え,平治の乱(1159)後出家して西光と称した。後白河法皇の寵愛をうけ,'77年藤原成親らと鹿ケ谷 (ししがたに) で平氏打倒のをめぐらし,発覚して平清盛に殺された(鹿ケ谷の陰謀,鹿ケ谷事件)。
在郷軍人会
ざいごうぐんじんかい @@@LINK=在郷軍人会 在郷軍人会

在郷軍人会
ざいごうぐんじんかい

帝国在郷軍人会
最高裁判所
さいこうさいばんしょ @@@LINK=最高裁判所 最高裁判所

最高裁判所
さいこうさいばんしょ

日本国憲法下の司法権の最高機関
民事・刑事・行政すべての司法事件を扱う。1947年東京に設置。旧大審院にあたるが,違憲立法審査権を有し権限ははるかに強い。裁判官は15名で,長官は内閣の指名に基づいて天皇が任命し,ほかは内閣が任命。国民審査に付される。
在郷商人
ざいごうしょうにん @@@LINK=在郷商人 在郷商人

在郷商人
ざいごうしょうにん

江戸中期以後,農村に現れた百姓身分の商人
農村で商品生産が進むと,上層農民の中には,綿菜種などの農産物や生糸・木綿・絹織物などの生産加工物を商う問屋的商人となるものがでてきた。なかには家内手工業の経営者もあり,株仲間を結ぶ都市の特権商人と対抗した。天保の改革における株仲間解散の一因ともなった。
西郷隆盛
さいごうたかもり @@@LINK=西郷隆盛 西郷隆盛

西郷隆盛
さいごうたかもり

1827〜77
幕末・維新期の政治家・軍人
維新三傑の一人。通称吉之助,号は南州。薩摩藩出身。尊王攘夷運動・討幕運動を指導し,薩長連合・王政復古の実現に努力。戊辰 (ぼしん) 戦争に参謀として参加,江戸城無血開城に尽力した。明治新政府の参与・参議となり,廃藩置県を遂行したが,1873年征韓論を唱え,敗れて下野。帰郷して鹿児島に私学校を開設したが,士族に擁立され '77年西南戦争をおこし,敗れ城山で自刃。

西郷従道
さいごうつぐみち @@@LINK=西郷従道 西郷従道

西郷従道
さいごうつぐみち

1843〜1902
明治時代の軍人・政治家
海軍大将・元帥。隆盛の実弟。薩摩藩出身。1869年山県有朋らと渡欧し,兵制を調査・研究。帰国後,陸海軍創設に貢献し,1874年には台湾出兵を指揮した。その後,海軍大臣・内務大臣・枢密顧問官を歴任。のち元老となる。

西国三十三カ所札所詣
さいごくさんじゅうさんかしょふだしょもうで @@@LINK=西国三十三カ所札所詣 西国三十三カ所札所詣

西国三十三カ所札所詣
さいごくさんじゅうさんかしょふだしょもうで

近畿地方にある33カ所の観音霊場を巡拝すること
観音菩薩が33種に化身して民衆を救済するという観音経由来。養老年中(717〜724),長谷寺得道の伝説に発し,986年花山法皇の巡礼に始まると伝える。江戸時代紀伊国和歌山県那智に始まり美濃国岐阜県谷汲山 (たにぐみやま) に終わるコースが一定した。
西国立志編
さいごくりっしへん @@@LINK=西国立志編 西国立志編

西国立志編
さいごくりっしへん

明治初年,中村正直 (まさなお) の翻訳書
1871年刊。13編11冊。原書はイギリス人スマイルズの『自助論(Self Help)』。西洋史上有名な300余人の言行を通して,自主独立の精神を鼓吹し,維新期の青少年の啓蒙に貢献した。
祭祀遺跡
さいしいせき @@@LINK=祭祀遺跡 祭祀遺跡

祭祀遺跡
さいしいせき

古代の祭り儀式が行われた場所,または祭祀に用いられた遺物の出土する場所
境内・山・石なども対象と考えられ,時代も縄文時代から古墳時代にわたっている。なかでも奈良県の三輪山,福岡県の宗像 (むなかた) 神社の沖ノ島遺跡が有名。
最勝寺
さいしょうじ @@@LINK=最勝寺 最勝寺

最勝寺
さいしょうじ

平安末期,鳥羽天皇の発願により京都市東山区岡崎付近に建てられた六勝寺の一つ。
祭政一致
さいせいいっち @@@LINK=祭政一致 祭政一致

祭政一致
さいせいいっち

神を祭ることと政治とは一致するという考え方
古代から政治の基本理念とされ,明治維新にも政治の原理として強調され,天皇神格化の主柱となった。
済生会
さいせいかい @@@LINK=済生会 済生会

済生会
さいせいかい

明治末期の施薬医療機関
増大する社会問題,ことに大逆事件による社会不安などに対処するため,1911年明治天皇の下賜金をもとに政府が中心となって設立した公益法人。貧民救済・巡回診察などを行った。現在は民間団体として,各地に病院・診療所などを経営する。
細石器
さいせっき @@@LINK=細石器 細石器

細石器
さいせっき

旧石器時代最終期の小型の石器
小型の刃器を骨・木・角などに刻まれた溝に数個をはめこんで,組合せ道具の刃に使用された。
西大寺
さいだいじ @@@LINK=西大寺 西大寺

西大寺
さいだいじ

奈良市西大寺町にある真言律宗の総本山。南都七大寺の一つ
765年称徳天皇の勅願により建立。東大寺と並ぶ鎮護国家の寺として栄えたが,平安時代にはたびたびの火災で衰退した。13世紀初め叡尊 (えいそん) が再興して律宗の道場となり,社会事業も行ったが,16世紀初め兵火にあい再び衰えた。
最澄
さいちょう @@@LINK=最澄 最澄

最澄
さいちょう

767〜822
平安初期の高僧。天台宗の開祖
諡号 (しごう) は伝教大師。近江(滋賀県)の人。12歳で出家し,785年比叡山にこもり修行。桓武天皇の信任を得,入唐して天台宗を学んだ。帰国後806年に天台宗を開宗。比叡山に延暦寺をつくり,弟子の養成にあたった。晩年,一乗思想を唱えて法相宗の徳一法師と論争し,比叡山に大乗戒壇をつくろうとして僧綱 (そうごう) と対立。死後7日目に大乗戒壇設立が許可された。著書に『顕戒論』『山家学生式』など。

在庁官人
ざいちょうかんじん @@@LINK=在庁官人 在庁官人

在庁官人
ざいちょうかんじん

平安中期以後,国衙 (こくが) において国司の命により実務にあたった地方役人の総称
遙任 (ようにん) の際,国司は在京して任国には目代を派遣し,その下に在庁官人を置いて事務を委任した。多くは地方豪族が任命され世襲し,しだいに武士化していった。その役所を留守所とも呼ぶ。
斎藤氏
さいとうし @@@LINK=斎藤氏 斎藤氏

斎藤氏
さいとうし

①中世,美濃守護土岐氏の守護代
②戦国時代,美濃の戦国大名
藤原北家魚名の子孫。13世紀中ごろ,美濃の目代として下向。戦国時代,利藤のとき稲葉山城に拠る。のち西村勘九郎(斎藤道三)に滅ぼされた。
守護代斎藤氏を滅ぼした勘九郎が斎藤道三を称す。稲葉山城に拠り守護土岐氏を追い美濃を支配。義竜・竜興と継ぎ,竜興の代に織田信長に滅ぼされた。
斎藤隆夫
さいとうたかお @@@LINK=斎藤隆夫 斎藤隆夫

斎藤隆夫
さいとうたかお

1870〜1949
大正・昭和期の政治家
兵庫県の生まれ。東京専門学校(現早大)卒。憲政会・民政党所属の衆議院議員。軍部ファシズムに抵抗し,二・二六事件(1936)直後の議会で粛軍演説を,'40年には日中戦争処理について反軍演説を行い議会から除名された。'42年の翼賛選挙では非推薦で当選した。第二次世界大戦後,第1次吉田茂内閣の国務大臣となる。

斎藤道三
さいとうどうさん @@@LINK=斎藤道三 斎藤道三

斎藤道三
さいとうどうさん

1494〜1556
戦国時代の武将
もと油売り商人。美濃の西村氏を経て,老臣長井氏を継ぎ,さらに守護代斎藤氏を滅ぼし斎藤秀竜を名のり,稲葉山城に拠って守護土岐氏を追い美濃の実権を握った。晩年,長子義竜と争い敗死。北条早雲とともに成り上がり戦国大名の典型とされる。

斎藤実
さいとうまこと @@@LINK=斎藤実 斎藤実

斎藤実
さいとうまこと

1858〜1936
明治〜昭和期の軍人・政治家
海軍大将。陸奥(岩手県)の生まれ。第1次西園寺公望 (きんもち) 内閣から連続して5内閣の海相を歴任。1919年朝鮮総督,'27年ジュネーヴ海軍軍縮会議全権となる。'32年,五・一五事件後に挙国一致内閣を組織。のち内大臣となり,二・二六事件で暗殺された。

斎藤茂吉
さいとうもきち @@@LINK=斎藤茂吉 斎藤茂吉

斎藤茂吉
さいとうもきち

1882〜1953
大正・昭和期の歌人
本業は精神科医。本名茂吉 (しげよし) 。山形県の生まれ。東大医学部卒。伊藤左千夫に師事し,『アララギ』の編集を担当,島木赤彦らとアララギ派の歌風を確立した。 近代人の生活に根ざした写生・万葉調の歌を詠む。1951年文化勲章受章。著書には歌集『赤光 (しやつこう) 』『あらたま』,歌論『童馬漫語』など。

西都原古墳群
さいとばるこふんぐん @@@LINK=西都原古墳群 西都原古墳群

西都原古墳群
さいとばるこふんぐん

宮崎県西都市にある古墳群
大小330基の古墳が群集し,円墳・方墳・前方後円墳がある。前方後円墳の中には全長219m,後円部径128mにも及ぶ壮大なものもあるが,全長30〜90mほどのものが多い。大部分は5〜6世紀ごろの築造と考えられる。
済南事件
さいなんじけん @@@LINK=済南事件 済南事件

済南事件
さいなんじけん

1928(昭和3)年,中国山東省済南における日中両軍の武力衝突
第2次山東出兵の日本軍は,済南に入城し北伐を再開した国民革命軍の対張作霖軍事行動を妨害し,警戒区域境界線を通過した国民革命軍1兵士を射殺,国民革命軍に総攻撃を加えた。日本政府は第3次山東出兵を声明国民政府国際連盟に提訴したため,'29年協定が成立し,日本は撤兵した。
財閥
ざいばつ @@@LINK=財閥 財閥

財閥
ざいばつ

特定の一族の支配になる日本のコンツェルン型独占資本
江戸時代の高利貸資本や維新後創業した者で政商として保護育成されたものが多く,軍需との関係も深く,封建的な人間関係を残す。三井・三菱(岩崎)・住友・安田の四大財閥のほか,古河・大倉・渋沢・鴻池 (こうのいけ) などがあり,満州事変後にも中島鮎川などの新興財閥が成長した。第二次世界大戦後,占領軍命令で財閥解体が進められ,特定家族の支配は消滅したものの,独占資本としての機能は,大銀行を核とした企業グループ・融資系列の形で残った。
財閥解体
ざいばつかいたい @@@LINK=財閥解体 財閥解体

財閥解体
ざいばつかいたい

第二次世界大戦後,ポツダム宣言に基づく占領政策として,日本に課せられた経済民主化政策の一つ
1945年11月,GHQの財閥解体指令に基づき,政府はまず三井・三菱・住友・安田の4社をはじめ,83社の解体方針を示した。ついで翌年3月に393の制限会社を指定し,持株会社整理委員会を設け,財閥家族の所有株を強制再分配した。また'47年独占禁止法によりカルテルを禁止,その実施機関として公正取引委員会を設置し,さらに過度経済力集中排除法により巨大独占企業の分割・再編に着手したが,占領政策の転換により不徹底に終わった。
催馬楽
さいばら @@@LINK=催馬楽 催馬楽

催馬楽
さいばら

古代民謡の一種
語源は馬子唄説や唐楽からきたものとする説など種々あるが,平安時代に宮廷貴族の間で広く歌われた。歌詞は叙情的小曲風のもので,古代の素朴な恋愛を歌ったものが多い。
サイパン島
サイパンとう
Saipan @@@LINK=サイパン島 サイパン島

サイパン島
サイパンとう
Saipan

西太平洋,マリアナ諸島の一島
1899年ドイツ領,第一次世界大戦後日本の委任統治領となる。太平洋戦争末期の1944年,アメリカ軍が上陸し,激戦ののち日本軍は玉砕,以後日本空襲の基地となった。アメリカの信託統治領を経て,1986年からアメリカの自治領となる。
割符
さいふ @@@LINK=割符 割符

割符
さいふ

中世,遠隔地に金銭を送付するために用いられた為替手形
切符ともいう。鎌倉時代,荘園年貢の運送に多く利用されたが,室町時代には商業取引,貸借の決済の方法として発達。専門に扱う替銭屋割符屋と呼ばれる商人に払い込み,為替手形を組んで送金した。為替 (かわせ(かわし)) ・替銭 (かえせん) ともいい,米を用いるのを替米といった。
西芳寺
さいほうじ @@@LINK=西芳寺 西芳寺

西芳寺
さいほうじ

京都市右京区松尾にある臨済宗の寺
奈良時代の創建,初め西方寺と称した。1339年夢窓疎石が再興し,西芳寺と改め禅院とした。その庭園は疎石のつくった代表的禅宗庭園で,現在一面に苔が繁茂して美しいため「苔寺 (こけでら) 」とも称されて広く鑑賞されている。
斉明天皇
さいめいてんのう @@@LINK=斉明天皇 斉明天皇

斉明天皇
さいめいてんのう

皇極天皇
西面の武士
さいめんのぶし @@@LINK=西面の武士 西面の武士

西面の武士
さいめんのぶし

鎌倉前期,後鳥羽上皇により設置された院の警衛のための武士
院司の一つとして,北面の武士に加えて,院の西のおもてに伺候させた。上皇は討幕計画に伴う兵力充実をはかって,武勇にすぐれたものを補したが,承久の乱(1221)後廃止された。
済物浦条約
さいもっぽじょうやく @@@LINK=済物浦条約 済物浦条約

済物浦条約
さいもっぽじょうやく

1882年壬午事変後,日本・朝鮮の間に結ばれた条約
これにより日本は暴動首謀者の処罰,遺族負傷者に対する見舞金,日本国への損害賠償金,公使館護衛のための軍隊駐留権などを獲得。以後朝鮮における日清両国間の対立が激しくなった。
采覧異言
さいらんいげん @@@LINK=采覧異言 采覧異言

采覧異言
さいらんいげん

江戸中期,新井白石の著した世界地誌
1713年成立。5巻。イタリア人宣教師シドッチを審問して得た知識と中国の地理書から得た知識を比較し,世界の地理・歴史・政治・風俗を紹介したもの。洋学の先駆的意義をもつ。『西洋紀聞』とともに世界知識の吸収に重要な役割を果たした。
左院
さいん @@@LINK=左院 左院

左院
さいん

明治初年,太政官内の立法上の諮問機関
1871(明治4)年,廃藩置県後の太政官制改革により設置され,右院とともに正院に従属。法規の制定・改正をその任務とし,憲法草案・刑法・商法などの起草に着手した。'75年元老院設置により廃止。
佐伯氏
さえきうじ @@@LINK=佐伯氏 佐伯氏

佐伯氏
さえきうじ

古代の有力豪族。大伴氏の一族
姓 (かばね) は連 (むらじ) ,八色 (やくさ) の姓制定のとき,宿禰 (すくね) となった。蝦夷 (えみし) の俘囚 (ふしゆう) 佐伯部を率いて宮内の警衛などにあたり,大伴氏とともに軍事をもって大和政権に仕えた。

さかい @@@LINK=堺 堺


さかい

大阪府中西部,大阪湾に面する都市。中世以来の要港
地名は摂津・和泉・河内3国の境に位置したことに由来する。室町時代,応仁の乱(1467〜77)後,遣明船が入港して以来,勘合貿易の港として発展。戦国時代は南蛮貿易で繁栄し,戦国時代後期には,会合衆 (えごうしゆう) による自治支配が行われた。織田信長矢銭(軍用金)2万貫の要求も拒否したが,のち屈服。豊臣秀吉は大坂城築城とともに住民を大坂へ強制移転させ,そのため微した。江戸時代は直轄地で堺奉行が置かれ,糸割符占有権を与えられた。1889年市制施行。
酒井田柿右衛門
さかいだかきえもん @@@LINK=酒井田柿右衛門 酒井田柿右衛門

酒井田柿右衛門
さかいだかきえもん

初代)1596〜1666
江戸前期の陶工。赤絵の始祖
肥前(佐賀県)有田の人。もと染付白磁を焼いていたが,正保年間(1644〜48)苦心のすえ赤絵を発明。その作品はオランダ人によりヨーロッパにも輸出され,強い影響を与えた。
酒井忠勝
さかいただかつ @@@LINK=酒井忠勝 酒井忠勝

酒井忠勝
さかいただかつ

1587〜1662
江戸前期の老中・大老
関ケ原の戦いに従軍し,1609年讃岐守。3代将軍徳川家光に仕え,'24年老中,'38年大老となった。家光の死後も若い将軍家綱を補佐した。
酒井忠清
さかいただきよ @@@LINK=酒井忠清 酒井忠清

酒井忠清
さかいただきよ

1624〜81
江戸前期の老中・大老
上野 (こうずけ) (群馬県)前橋10万石の藩主,雅楽頭 (うたのかみ) を称し,権勢をふるい,大手門下馬札前に屋敷があったことから「下馬将軍」と呼ばれた。4代将軍徳川家綱のとき,老中・大老となり,保科正之・松平信綱ら老臣の死後,幕政の実権を掌握。家綱死後,皇族将軍を画策し,綱吉が5代将軍となると失脚した。

堺利彦
さかいとしひこ @@@LINK=堺利彦 堺利彦

堺利彦
さかいとしひこ

1870〜1933
明治〜昭和初期の社会主義者
号は枯川 (こせん) 。福岡県の生まれ。一高中退後新聞記者となり,『万朝報 (よろずちようほう) 』ついで『平民新聞』により日露戦争に反対。『平民新聞』に『共産党宣言』を訳載。1908年赤旗事件で入獄,大逆事件('10)ののち出獄し,売文社をつくって暗黒時代をのりきる。'20年日本社会主義同盟を組織。'22年日本共産党創立とともに書記長となる。翌年検挙後は社会民主主義に転じて合法無産政党を支持。'29年普通選挙法による東京市会選挙に最高点で当選した。

堺紡績所
さかいぼうせきじょ @@@LINK=堺紡績所 堺紡績所

堺紡績所
さかいぼうせきじょ

明治初年,大阪府堺に設立された官営模範工場
わが国2番目の洋式紡績工場で,1869年薩摩藩が鹿児島紡績所の分工場として設立し'70年操業開始。'72年官営となり,生産規模が拡大された。'78年民間に払い下げられた。
坂下門外の変
さかしたもんがいのへん @@@LINK=坂下門外の変 坂下門外の変

坂下門外の変
さかしたもんがいのへん

1862年,尊攘派志士による老中安藤信正襲撃事件
公武合体策を推進して和宮 (かずのみや) 降嫁を実現した安藤信正は,尊攘派志士の怒りを招き,水戸・宇都宮浪士ら6名によって江戸城坂下門外で襲撃され負傷した。安藤は老中を罷免され,公武合体運動は退潮した。
酒田
さかた @@@LINK=酒田 酒田

酒田
さかた

山形県北西部,日本海に面し,最上川河口右岸にある港町
17世紀後半,河村瑞賢が貯米場を設けて西廻り航路を開いて以後,庄内米および最上川流域の物産の集散地・積出港として繁栄した。1933年市制施行。
坂田藤十郎
さかたとうじゅうろう @@@LINK=坂田藤十郎 坂田藤十郎

坂田藤十郎
さかたとうじゅうろう

(初代)1647〜1709
江戸前期の歌舞伎俳優
京都芝居座元の子。和事 (わごと) を得意とし,近松門左衛門の脚本を多く演じた。元禄期(1688〜1704)の上方を代表する名優で,江戸の初代市川団十郎の荒事 (あらごと) に対し上方歌舞伎の基礎を築いた。言行録に『耳塵 (じじん) 集』『賢外集』など。

嵯峨天皇
さがてんのう @@@LINK=嵯峨天皇 嵯峨天皇

嵯峨天皇
さがてんのう

786〜842
平安初期の天皇(在位809〜823)
桓武天皇第2皇子。その治世は桓武天皇以来の律令政治再建の努力がいちおうの成果を生んだ時期。宮廷を中心に唐風文化が栄え,『弘仁格式』『新撰姓氏録 (しようじろく) 』などが編纂され,天皇も『凌雲集 (りよううんしゆう) 』に漢詩を残し,三筆の一人に数えられた。薬子 (くすこ) の変を平定し,蔵人頭・検非違使 (けびいし) などの令外官 (りようげのかん) を設け,律令の官制変革を加えた。

坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ @@@LINK=坂上田村麻呂 坂上田村麻呂

坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ

758〜811
平安初期の軍人貴族
渡来人系氏族東 (やまとのあや) 氏の出身。791年征夷大将軍大伴弟麻呂の下で征東副使として蝦夷 (えみし) 征討に参加。797年征夷大将軍となり,胆沢 (いざわ) 城・志波城を築いた。鎮守府を多賀城から胆沢城に移して,律令国家の東北地方経営を発展させた。薬子の変平定にも戦功をあげ,正三位大納言になる。

佐賀の乱
さがのらん @@@LINK=佐賀の乱 佐賀の乱

佐賀の乱
さがのらん

1874(明治7)年,佐賀県でおこった明治政府に対する最初の士族反乱
征韓論に敗れて帰郷した前参議江藤新平らを中心に佐賀の不平士族が「征韓・旧制度復活・攘夷」を唱えて挙兵したが,政府軍に鎮圧された。
佐賀藩
さがはん @@@LINK=佐賀藩 佐賀藩

佐賀藩
さがはん

肥前藩
嵯峨本
さがぼん @@@LINK=嵯峨本 嵯峨本

嵯峨本
さがぼん

江戸初期,本阿弥光悦らによって京都の嵯峨で出版された豪華本
光悦みずから版下を書き,料紙や装丁に美術的な意匠をこらしたもの。
相模太郎
さがみたろう @@@LINK=相模太郎 相模太郎

相模太郎
さがみたろう

北条時宗
坂本
さかもと @@@LINK=坂本 坂本

坂本
さかもと

滋賀県大津市北西部,琵琶湖に面する地区。古代・中世に栄えた港町
比叡山延暦寺・日吉 (ひえ) 神社の門前町としても有名。平安中期以降,延暦寺領荘園の年貢物資の集積地として発展。室町時代には酒屋土倉・問丸 (といまる) なども多く,土一揆に,坂本の馬借が一揆の口火を切るほどであった。江戸時代以降は衰退
坂本竜馬
さかもとりょうま @@@LINK=坂本竜馬 坂本竜馬

坂本竜馬
さかもとりょうま

1835〜67
幕末の志士
土佐藩郷士出身。武市瑞山 (たけちずいざん) らと土佐藩勤王党を指導。のち脱藩し,勝海舟に航海術を学ぶ。藩が尊攘派を弾圧したため,1864年長崎に亀山社中(のち海援隊)を結成,海運に従事しつつ薩摩・長州間を仲介し,'66年薩長連合を実現させた。公議政体論を唱え,大政奉還を実現したが,その後間もなく京都で中岡慎太郎とともに暗殺された。
酒屋
さかや @@@LINK=酒屋 酒屋

酒屋
さかや

中世の酒造業者
鎌倉初期から増加し,室町時代,15世紀初め京都に342軒存在(中興 (なかおき) ・角倉 (すみのくら) は有名)。高利貸を兼ね土倉と並び称された。室町幕府は,これに多額の酒屋役を課して重要な財源とした。そのためいっそうの高利をとり,徳政一揆の攻撃目標となった。
酒屋会議
さかやかいぎ @@@LINK=酒屋会議 酒屋会議

酒屋会議
さかやかいぎ

1882年,全国の酒造業者の代表が酒税軽減のために開いた会議
明治政府が西南戦争後の財政救済と海軍拡張を理由に酒造税を大幅に額したのに対し,各地の酒造業者は,植木枝盛など自由党幹部の指導のもとに,政府の弾圧をはねのけて京都で会議を開いた。自由民権運動と地方商工業者の結びつきとして注目される。
酒屋役
さかややく @@@LINK=酒屋役 酒屋役

酒屋役
さかややく

室町幕府が酒屋に課した税
酒屋は高利貸も兼ね京都の経済界を握っていたが,1393(明徳4)年将軍足利義満が醸造壺数に応じて課税。以来土倉役と並び御料所の少ない幕府の重要財源となった。
相楽総三
さがらそうぞう @@@LINK=相楽総三 相楽総三

相楽総三
さがらそうぞう

1839〜68
幕末の志士
江戸の人。1868年赤報隊を組織し,官軍の先鋒として東山道を進み年貢半減を布告したが,偽官軍とされて処刑された。
主典
さかん @@@LINK=主典 主典

主典
さかん

律令制下,四等官の第4位の官職。
左義長
さぎちょう @@@LINK=左義長 左義長

左義長
さぎちょう

平安時代以来,小正月に行われる火祭り
どんど焼きともいう。平安時代の小正月の宮中の火祭りは陰陽師が奉仕した。近世は民間でも正月14日の夜か15日の朝,子供たちが松飾りなどをたき,餅や団子を焼いて食べ,災難よけのまじないとした。
防人
さきもり @@@LINK=防人 防人

防人
さきもり

律令制において,九州警備に配置された兵士
諸国軍団の兵士から選び,兵部省の支配下に属し,現地では大宰府の管轄下に入った。3年交替で勤務。装備・往復食糧は自弁であった。730年東国兵士に限るようになり,10世紀前半まで続いた。『万葉集』におさめられた防人の歌は有名である。
左京職
さきょうしき @@@LINK=左京職 左京職

左京職
さきょうしき

京職
作手職
さくてしき @@@LINK=作手職 作手職

作手職
さくてしき

荘園における農民の土地に対する権利の一つ
作職作人職百姓職・作所職ともいい,永続化する場合に永作手 (えいさくて) という。初期には耕作権・土地用益権などが未分化のまま含まれていたが,生産力が高まると,加地子得分権としての名主職と,耕作者の権利としての下作職とに分化した。
作人
さくにん @@@LINK=作人 作人

作人
さくにん

荘園制下における農民の一階層
鎌倉時代の荘民には,名田 (みようでん) の所有者である名主層のほかに「百姓」と呼ばれる小農民がいた。これが作人で,荘園領主・名主から耕地をあてがわれ請作 (うけさく) した。しかし単なる小作人ではなく,自己の下に下作人 (げさくにん) と呼ぶ耕作者を隷属させている場合もあった。
冊封体制
さくほうたいせい @@@LINK=冊封体制 冊封体制

冊封体制
さくほうたいせい

中国皇帝が周辺諸国の王・首長に爵位・称号を与えることによって生じる君臣関係
漢委奴国王が漢から金印を,卑弥呼 (ひみこ) が親魏倭王の称号を,倭の五王が安東将軍の称号を,足利義満が日本国王の称号をうけるなど,君臣関係として朝貢した。豊臣秀吉文禄の役における休戦で,明に対しこれを拒否したことは有名である。
佐久間象山
さくましょうざん @@@LINK=佐久間象山 佐久間象山

佐久間象山
さくましょうざん

1811〜64
幕末の朱子学者・蘭学者・兵学者
「ぞうざん」とも読む。信濃(長野県)松代藩士。佐藤一斎に朱子学を学ぶ。のち蘭学に励み,江川太郎左衛門の門に入り洋式砲術を学ぶ。1851年江戸に塾を開き砲術・兵学を教え,西洋技術と東洋精神の融合を説く(東洋の道徳,西洋の芸術)。勝海舟・坂本竜馬・吉田松陰らがその門から輩出。開国論を主張し攘夷論者に京都で刺殺された。

作物作付制限令
さくもつさくつけせいげんれい @@@LINK=作物作付制限令 作物作付制限令

作物作付制限令
さくもつさくつけせいげんれい

田畑勝手作の禁令
桜井錠二
さくらいじょうじ @@@LINK=桜井錠二 桜井錠二

桜井錠二
さくらいじょうじ

1858〜1939
明治〜昭和期の化学者
加賀(石川県)の生まれ。イギリスに留学し,国際的視野から日本の学術の振興・国際交流に尽くした。東大教授として多くの俊英を育て,理論化学の重要性を指摘。理化学研究所・日本学術振興会の創立に尽力した。

桜会
さくらかい @@@LINK=桜会 桜会

桜会
さくらかい

1930(昭和5)年9月につくられた陸軍革新派将校の秘密結社
統帥権干犯問題や浜口雄幸内閣政策に不満をもつ陸軍少壮将校の橋本欣五郎・根本博らが結成。満蒙問題の解決とそのための国家改造を唱え,北一輝・大川周明らと結び,三月事件・十月事件を企てた。十月事件ののち解体したが,一部は統制派となっていった。
佐倉惣五郎
さくらそうごろう @@@LINK=佐倉惣五郎 佐倉惣五郎

佐倉惣五郎
さくらそうごろう

生没年不詳
江戸前期,下総(千葉県)佐倉藩領公津 (こうず) 村の名主で,200余村の百姓一揆の指導者
本名木内惣五郎。佐倉宗吾ともいう。領主堀田氏の重税に反対し将軍に直訴 (じきそ) し,妻子とともに処刑された。江戸時代の代表的義民として広く知られ,物語・歌舞伎・民謡に語り伝えられた。

桜田門外の変
さくらだもんがいのへん @@@LINK=桜田門外の変 桜田門外の変

桜田門外の変
さくらだもんがいのへん

幕末,尊攘派志士による大老井伊直弼 (なおすけ) 暗殺事件
井伊直弼が将軍継嗣問題で徳川慶福 (よしとみ) (家茂 (いえもち) )を継嗣に決定,また勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し,さらに反対派を安政の大獄弾圧したことなどが原因になって,1860年3月,江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士18名によって襲撃され,殺害された。この事件により幕府の威信は失墜し,公武合体運動が推進された。
座繰製糸
ざぐりせいし @@@LINK=座繰製糸 座繰製糸

座繰製糸
ざぐりせいし

幕末から明治初期に普及した生糸の製法
開国後の輸出で生糸需要が増大したのに対応し,木製で繰りわくが歯車で回転し,従来の胴繰りや立作業の手挽きを能率化した。動力人力,まれに水力による。明治中期,機械製糸に移行

さけ @@@LINK=酒 酒


さけ

古来,米など穀物・果実を発酵させてつくるアルコール飲料
5世紀ころ大陸の醸造技術が伝来。鎌倉中期,酒造業者が出現し,質屋を兼ね,室町時代には酒屋役は幕府の重要な財源となる。このころ従来の濁酒 (にごりざけ) のほか清酒 (すみさけ) もつくられ,江戸時代にさらに精製,伊丹・池田・灘などを名産地とし大資本化した。江戸幕府酒造株を定めて醸造高を制限し,課税。明治時代以後,酒造税は地租につぐ財政収入であったため,しだいに増税され,酒屋会議などの反対運動が発生した。
鎖国
さこく @@@LINK=鎖国 鎖国

鎖国
さこく

江戸初期,幕府が対外関係に加えた統制政策
鎖国の内容は結果的にみて,(1)日本人の海外渡航と在外日本人の帰国の禁止,(2)中国・オランダ船のみに貿易許可,(3)貿易港は長崎のみ,の3点。鎖国の目的はキリスト教禁止の徹底であり,それに貿易統制が並行した。貿易ではポルトガル船の貿易独占と貿易による西国大名などの勢力増大を警戒し,貿易の利益を幕府が独占することをねらった。1639年に完成し,1854年まで継続。これにより幕藩体制が完成した。
雑喉場
ざこば @@@LINK=雑喉場 雑喉場

雑喉場
ざこば

江戸時代,大坂の魚市場
蓮如の石山本願寺創建のときに始まるという。1618年,江戸幕府に冥加金を納め,大坂唯一の特権的魚市場となって発展した。大坂では堂島の米市場,天満の青物市場と並び称された。
狭衣物語
さごろもものがたり @@@LINK=狭衣物語 狭衣物語

狭衣物語
さごろもものがたり

平安後期の物語文学
11世紀後半成立。4巻。作者は禖子 (ばいし) 内親王家に仕えた源頼国の娘といわれ,狭衣大将と源氏宮を主人公とする長編悲恋小説。『源氏物語』『宇津保物語』の影響を強くうけている。
佐々木氏
ささきし @@@LINK=佐々木氏 佐々木氏

佐々木氏
ささきし

中世,近江(滋賀県)の守護大名
近江の佐々木庄に住み佐々木氏を称した。源頼朝の挙兵を助け,その功により定綱・高綱ら一族が近江など10数カ国の守護職を得た。定綱の子信綱は承久の乱で功をたてた。信綱の3男泰綱が惣領家の家督を継ぎ,六角氏となり,その弟氏信の流から京極氏がでた。六角・京極両氏は鎌倉末期から室町時代にかけて活躍した。
佐々木高氏
ささきたかうじ @@@LINK=佐々木高氏 佐々木高氏

佐々木高氏
ささきたかうじ

1306〜73
南北朝時代の武将
法号道誉。近江の豪族。初め北条高時に仕え,元弘の変(1331〜33)以後足利尊氏に従う。室町幕府創設に功あり,上総・近江など5カ国の守護を兼ね,幕府の要職についた。和歌・連歌にも長じ,近江猿楽の保護者であった。
佐々木高綱
ささきたかつな @@@LINK=佐々木高綱 佐々木高綱

佐々木高綱
ささきたかつな

?〜1214
鎌倉初期の武将
秀義の4男で,母は源為義の娘。1180年源頼朝の挙兵以来,頼朝に従って軍功をあげる。宇治川の合戦で梶原景季 (かげすえ) と先陣争いをしたことは有名。長門・備前などの守護に補任された。

佐佐木信綱
ささきのぶつな @@@LINK=佐佐木信綱 佐佐木信綱

佐佐木信綱
ささきのぶつな

1872〜1963
明治〜昭和期の歌人・国文学者
号は竹柏園。三重県の生まれ。東大卒。歌風は温雅清新。竹柏会を設立し,『心の花』を機関誌として,和歌革新運動の中心となり,多くの門下を育成。また『万葉集の研究』『日本歌学史』などの文献学的研究にも多大の貢献をなした。1937年,第1回文化勲章受章。

座散乱木遺跡
ざざらぎいせき @@@LINK=座散乱木遺跡 座散乱木遺跡

座散乱木遺跡
ざざらぎいせき

宮城県玉造郡岩出山町にある旧石器時代の遺跡
1981年,火山灰からなる地層から約4万年以上前の尖頭器や楕円形石器打製石斧)などが発見され前期旧石器時代の存在が確認されたが,現在では疑問視されている。
指出
さしだし @@@LINK=指出 指出

指出
さしだし

戦国・安土桃山時代,土地の面積・作人・収穫量などを記載し提出させた検地の一方法
戦国大名が領内の土地,農民の情況を把握するため,面積・等級(上,中,下,下下田)・収穫高・耕作者・貢租高を現地の家臣に命じて書類として上申提出させた。織田・朝倉氏らが早くから実施し,太閤検地の前段階をなした。江戸時代には実測を行った。
猿島
さしま @@@LINK=猿島 猿島

猿島
さしま

茨城県南西部にある町。
左大臣
さだいじん @@@LINK=左大臣 左大臣

左大臣
さだいじん

律令制下,太政官の政務を統轄する長官
一上 (いちのかみ) ともいう。大化の改新の際に阿倍内麻呂が任じられたのが最初。律令制では太政大臣につぎ右大臣よりも上位。明治維新後に復活したが,1885年内閣制度の創設で廃止された。
佐竹氏
さたけし @@@LINK=佐竹氏 佐竹氏

佐竹氏
さたけし

中世,常陸 (ひたち) (茨城県)の大名
清和源氏。源義光の子孫が常陸国久慈郡佐竹郷に土着して佐竹氏を称した。南北朝時代に足利氏に従い,戦国時代には常陸から下野 (しもつけ) ・陸奥にも及ぶ北関東最大の大名として後北条氏と争った。のち豊臣秀吉に従い常陸に54万石余を領したが,関ケ原の戦いで上杉氏と結んで西軍に属し,出羽秋田20万石に転封され幕末に至った。
佐竹義和
さたけよしまさ @@@LINK=佐竹義和 佐竹義和

佐竹義和
さたけよしまさ

1775〜1815
江戸後期,秋田藩第9代の藩主
字 (あざな) は子政,号は泰峨・日新斎など。1785年11歳で襲封。のち右京大夫と称し従四位下侍従となった。天明の飢饉後,勧農政策・殖産興業の推進,職制の整備,人材登用,藩財政の整理,教学の刷新(藩校明道館と郷校の設立)など,藩政の改革を断行し,大いに成果をあげた。
沙汰人
さたにん @@@LINK=沙汰人 沙汰人

沙汰人
さたにん

中世〜近世,沙汰(裁判・命令)を実際にとり行う人
役所の雑掌をいう場合が多い。荘園では年貢徴収などにあたった下級荘官で,主として在地の有力名主が任用された。南北朝時代以後,村結合の中心となったが,近世には地下 (じげ) 役人となり,村の代表者となった。
沙汰未練書
さたみれんしょ @@@LINK=沙汰未練書 沙汰未練書

沙汰未練書
さたみれんしょ

鎌倉後期,幕府の訴訟手続きの解説書
1319年ごろ成立。1巻。著者は不明であるが,幕府訴訟機関の関係者らしい。幕府の複雑な訴訟手続き,訴訟法,法制上の用語解説,事務の仕方,文書様式など法令運用上心要な事項が,初心者にもわかるように平易に解説してある。鎌倉幕府の訴訟制度などを知るうえでの重要な史料。
薩英戦争
さつえいせんそう @@@LINK=薩英戦争 薩英戦争

薩英戦争
さつえいせんそう

幕末,鹿児島湾で行われた薩摩藩とイギリス東洋艦隊との海戦
1862年の生麦事件後,薩英間に紛争が生じたが解決に至らず,翌'63年イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に出動,鹿児島を砲撃した。薩摩藩もこれに応戦したが,勝敗は決しなかった。事件後薩摩藩はイギリスと和解し,開明政策に転じた。
薩戒記
さつかいき @@@LINK=薩戒記 薩戒記

薩戒記
さつかいき

室町中期,公卿中山定親の日記
1418年より'43年に及ぶ。27冊。京都の世情を知るのに便利な史料で,特に正長(1428〜29)の播磨国の土一揆の史料は有名。
雑戸
ざっこ @@@LINK=雑戸 雑戸

雑戸
ざっこ

律令制において,特定の官司に属する特殊手工業者の集団
賤民に準じ,品部 (しなべ) より身分は低い。調の代わりに,一定期間所属官庁に勤務して特殊技術の仕事に従事したり,または特定の手工業品を納めた。多くは課役を免除された。
佐々成政
さっさなりまさ @@@LINK=佐々成政 佐々成政

佐々成政
さっさなりまさ

1539〜1588
安土桃山時代の武将
尾張(愛知県)の人。織田信長に仕え,朝倉義景追討・本願寺一揆鎮圧などに功があり,越中(富山県)を領有した。小牧・長久手の戦いに徳川家康方に加わったが,のち豊臣秀吉に服し,九州征討に従い肥後(熊本県)を領有。入国後ほどなく土豪の反乱にあい,失政を責められ,1588年切腹を命じられた。

雑訴決断所
ざっそけつだんしょ @@@LINK=雑訴決断所 雑訴決断所

雑訴決断所
ざっそけつだんしょ

1333年設置された建武新政府の訴訟機関
記録所とともに新政府の主要政治機関。一般の訴訟,特に所領関係の訴訟の裁決にあたり,鎌倉幕府の引付の機能を引き継ぐ。公武の事務練達者が任用され,最初は3番(組)に分かれ,翌年8番,107人に拡張。各番の長を頭人 (とうにん) ,所員を寄人 (よりゆうど) といった。煩雑な土地関係の審議において不手際が多く,新政への不満の一因となった。
薩長連合
さっちょうれんごう @@@LINK=薩長連合 薩長連合

薩長連合
さっちょうれんごう

幕末,薩摩藩と長州藩との間に結ばれた軍事同盟
薩長同盟ともいう。1865年,幕府が第2次長州征討を決定したころから,薩摩藩では大久保利通らの討幕派が藩論を動かし,薩長両藩の指導層は急速に接近した。翌'66年京都で土佐藩士坂本竜馬らの仲介によって長州藩の木戸孝允,薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛らとの間に,討幕のための秘密軍事同盟が結ばれた。
薩土盟約
さつどめいやく @@@LINK=薩土盟約 薩土盟約

薩土盟約
さつどめいやく

幕末,薩摩藩と土佐藩との間に結ばれた盟約
1867年6月,武力討幕を企てる薩摩藩と大政奉還・公議政体が藩論の土佐藩との間に結ばれたもので,大政奉還による列侯公議政体を打ち出した。しかし,同年10月討幕の密勅降下後破棄された。
薩南学派
さつなんがくは @@@LINK=薩南学派 薩南学派

薩南学派
さつなんがくは

室町中期,桂庵玄樹が薩摩地方でおこした朱子学派の一派
1478年,薩摩国大名島津忠昌が桂庵玄樹を招き,この地で桂庵が出版したわが国最初の新註『大学章句』を,一族に講義させたのがこの門流の初め。当時旧註によっていたわが国では注目すべきことで,この学派から文之玄昌 (ぶんしげんしよう) が出て近世朱子学に影響を与えた。
薩藩旧記
さっぱんきゅうき @@@LINK=薩藩旧記 薩藩旧記

薩藩旧記
さっぱんきゅうき

江戸後期,島津氏史料の集大成
旧記雑録』ともいう。362巻。薩摩の史学者伊地知季安 (すえやす) ・季通 (すえみち) 父子により,文化(1804〜18)末年ごろ編纂開始,80年間を費やして,1897(明治30)年ごろ完成。平安末期から明治期に至る700年間の島津氏史料を年代順に配列した。
札幌農学校
さっぽろのうがっこう @@@LINK=札幌農学校 札幌農学校

札幌農学校
さっぽろのうがっこう

明治前期,北海道開拓の人材養成のための学校。北大農学部の前身
1872年東京に開設された開拓使仮学校に始まり,'75年札幌に移し翌年アメリカ人クラークを招いて開校。キリスト教的教育が進められ,内村鑑三・新渡戸 (にとべ) 造・有島武郎らの人材を生んだ。
薩摩問屋
さつまどいや @@@LINK=薩摩問屋 薩摩問屋

薩摩問屋
さつまどいや

江戸時代,大坂に設けられた薩摩藩産物を扱う荷受問屋
1628年大坂薩摩堀に設置したのが最初。1714年には7軒の問屋があり,'72年株仲間を結成した。
薩摩藩
さつまはん @@@LINK=薩摩藩 薩摩藩

薩摩藩
さつまはん

江戸時代,薩摩・大隅・日向3国73(琉球高含む)万石を領した外様大名
鹿児島藩ともいう。藩主島津氏は鎌倉時代以来の守護。関ケ原の戦い以降徳川氏に服し,琉球12万石をも支配。江戸後期には藩財政が窮迫し,1827年調所広郷 (ずしよひろさと) を中心に藩債整理,砂糖など特産物の増産,専売制の強化を主とする藩政改革を実施し,成功させた。13代藩主斉彬 (なりあきら) は藩営工場を建設し,富国強兵につとめた。幕末には久光を中心に公武合体運動を進めたが,のち大久保利通・西郷隆盛らが出て薩長連合を結び,討幕運動を推進した。
薩摩版
さつまばん @@@LINK=薩摩版 薩摩版

薩摩版
さつまばん

室町後期以後,薩摩国島津氏の領内で出版された出版物
島津忠昌に招かれた桂庵玄樹が朱子新学を講じた結果,1481年はじめて『大学章句』が出版された。江戸時代には『成形図説』も刊行された。
薩摩焼
さつまやき @@@LINK=薩摩焼 薩摩焼

薩摩焼
さつまやき

江戸初期以来,鹿児島地方で生産される陶器
文禄・慶長の役のとき,島津氏により朝鮮から連行された陶工が薩摩で始めたもの。江戸時代を通じて薩摩藩の重要産物の一つとなる。加治木・串木野などが主要生産地。
サトウ
Sir Ernest Mason Satow @@@LINK=サトウ サトウ

サトウ
Sir Ernest Mason Satow

1843〜1929
イギリスの外交官
日本名佐藤愛之助。1862年通訳として来日。公使パークスを助けて活躍し,イギリスの対日政策を薩長討幕派支持に向かわせた。のち転任したが'95年公使として再度来日した。また日本研究家としても著名で,自叙伝『一外交官の見た明治維新』は維新史研究のうえで重要な史料

砂糖
さとう @@@LINK=砂糖 砂糖

砂糖
さとう

ショ糖を主成分とする甘味料
古来の甘味は干柿甘葛などを使用。14世紀に中国から輸入され,薬用として珍重された。16世紀から輸入量も増加し,江戸時代にはサトウキビを原料とする琉球産の砂糖で,薩摩藩は巨利を得た。幕府諸藩も国産を奨励し,薩摩をはじめ九州・四国・紀伊駿河などで甘蔗を栽培・製糖した。また黒糖から白糖にする精製も進んだ。開港後輸入糖に押されたが,台湾領有後政府の保護で発展,第二次世界大戦前には国内需要をほぼ充足した。
茶道
ちゃどう @@@LINK=茶道 茶道
さどう @@@LINK=茶道 茶道

茶道
ちゃどう

茶の湯に村田珠光が禅の心を入れたもので,「茶の湯の道」の略称
客を招いて抹茶 (まつちや) をたて懐石の供応をするのが茶の湯で,鎌倉時代に栄西 (えいさい) が宋よりもたらした。南北朝時代には茶の品種を飲み分ける闘茶の遊技も伝わり,南北朝〜室町初期にかけて茶寄合が行われた。東山文化時代に上流武家の間で一定の作法の優雅な茶の湯も行われ,珠光が閑寂な茶道(侘び茶数寄道 (すきどう) ともいう)を始め,武野紹鷗 (じようおう) ・千利休により大成された。のち利休の子孫は,表千家・裏千家・武者小路の3家に分かれ,その他織部流・遠州流などの諸流も生まれ,今日に至る。

茶道
さどう

ちゃどう
佐藤一斎
さとういっさい @@@LINK=佐藤一斎 佐藤一斎

佐藤一斎
さとういっさい

1772〜1859
江戸後・末期の儒者
美濃(岐阜県)岩村藩士。中井竹山に師事し,林述斎の弟子となった。のち昌平坂学問所の儒官となり,立場上朱子学をとったが,陽明学の影響も濃い。門人に安積艮斎 (あさかごんさい) ・渡辺崋山・佐久間象山らを輩出。著書に『言志四録』『近思録』など。

佐藤栄作内閣
さとうえいさくないかく @@@LINK=佐藤栄作内閣 佐藤栄作内閣

佐藤栄作内閣
さとうえいさくないかく

佐藤栄作(1901〜75)を首班とする自由民主党内閣(1964〜72)
1964年11月,池田勇人内閣の高度経済成長政策のあとをうけて組閣。'72年7月辞任するまでに3次にわたる7年8か月の長期政権であった。この間外交では '65年日韓基本条約,'71年沖縄返還協定に調印し,内政では'67年公害対策基本法を制定し,'71年環境庁を設置した。
佐藤直方
さとうなおかた @@@LINK=佐藤直方 佐藤直方

佐藤直方
さとうなおかた

1650〜1719
江戸中期の朱子学者
備後(広島県)の人。山崎闇斎に学び崎門三傑の一人といわれたが,闇斎の垂加神道に反対し破門された。純粋な朱子学を主張し,福山藩・前橋藩・彦根藩にも招かれた。著者に『排釈録』。

佐藤信淵
さとうのぶひろ @@@LINK=佐藤信淵 佐藤信淵

佐藤信淵
さとうのぶひろ

1769〜1850
江戸後・末期の経世思想家
出羽(秋田県)雄勝郡の人。江戸に出て宇田川玄随に蘭学・本草学を学び,さらに天文・地理・国学・神道などを修めた。農政・物産・海防から兵学・哲学・社会改革論まで,その論説は多方面にわたる。諸国を巡歴して大名に所説を献じた。主著に『農政本論』『経済要録』『宇内 (うだい) 混同秘策』など。

佐藤義清
さとうのりきよ @@@LINK=佐藤義清 佐藤義清

佐藤義清
さとうのりきよ

西行
佐藤春夫
さとうはるお @@@LINK=佐藤春夫 佐藤春夫

佐藤春夫
さとうはるお

1892〜1964
大正・昭和期の小説家・詩人
和歌山県の生まれ。慶大中退。初め叙情詩,のち小説に転じた。芸術至上・唯美主義的趣味とロマン主義的情感に生きた作家。代表作に詩集『殉情詩集』,小説『田園の憂鬱』など。1960年文化勲章受章。

里長
りちょう @@@LINK=里長 里長
さとおさ @@@LINK=里長 里長

里長
りちょう

律令制における地方行政組織の里 (り) の支配者
「さとおさ」とも読む。現地の有力農民から清廉強幹の者が選任された。里内の戸口を検し,農業奨励・課役の催促などにあたった。庸・雑徭は免除された。のち郷里制で郷長と改名された。

里長
さとおさ

りちょう
佐渡金山
さどきんざん @@@LINK=佐渡金山 佐渡金山

佐渡金山
さどきんざん

新潟県佐渡郡相川町にあった金・銀山
平安末期,砂金の産地で知られ,1601年徳川家康の領有となり相川鉱山が開掘されてから産額が増大。江戸幕府直轄の鉱山として佐渡奉行を置き幕府は金・銀を独占した。金を多く産出し,幕府の金・銀貨原料の産地として,その産額の多少が幕府財政に大きな影響を与えた。1869年明治政府の官営になり,'96年三菱に払い下げられ日本有数の金・銀山となった。現在は採掘中止。
里内裏
さとだいり @@@LINK=里内裏 里内裏

里内裏
さとだいり

平安時代,大内裏以外に臨時に置かれた皇居
今内裏ともいう。976年に内裏焼失のとき円融天皇が太政大臣藤原兼通の堀河第を約1年間皇居としたのに始まる。外戚の私第が多く用いられた。白河天皇以後は里内裏が常の皇居となった。1855年京都御所が造営され,明治維新まで皇居となった。
佐渡奉行
さどぶぎょう @@@LINK=佐渡奉行 佐渡奉行

佐渡奉行
さどぶぎょう

江戸幕府の職名。遠国奉行の一つ
老中および勘定奉行の支配に属した。1601年,佐渡を直轄地とするとともに奉行を設置。佐渡金山の管理や北辺の監視にあたった。定員1〜2名。
里見氏
さとみし @@@LINK=里見氏 里見氏

里見氏
さとみし

中世房総半島を領有した戦国大名
清和源氏新田氏の流。上野 (こうずけ) (群馬県)碓氷郡里見郷に住み里見氏を称す。15世紀中ごろ,義実が安房 (あわ) を平定,のち上総・下総に進出し小田原の後北条氏と対抗し,義弘は1564年下総国府台で北条氏康に敗れ下総を失い,以後衰退。のち豊臣秀吉に降り安房9万石を安堵された。関ケ原の戦いのにより常陸 (ひたち) 3万石を加増。その後,大久保忠隣 (ただちか) の罪に縁坐し伯耆 (ほうき) 国(鳥取県)に転封され,嗣子なく1622年断絶した。
里見弴
さとみとん @@@LINK=里見弴 里見弴

里見弴
さとみとん

1888〜1983
大正・昭和期の小説家
本名は山内英夫。神奈川県の生まれ。有島武郎・生馬 (いくま) の弟。学習院を経て東大英文科中退。初め白樺派に属し,その後,吉井勇らと『人間』を創刊した。精細な心理描写,起伏に富んだ会話の妙に優れる。1959年文化勲章受章。代表作に『多情仏心』『安城家の兄弟』など。

里村紹巴
さとむらじょうは @@@LINK=里村紹巴 里村紹巴

里村紹巴
さとむらじょうは

1525〜1602
安土桃山時代の連歌師
本姓は松井。奈良の人。織田信長・明智光秀・豊臣秀吉らのをうけた。門弟に松永貞徳がいる。著書に『連歌至宝抄』『富士見道記』など。子孫は代々連歌師として江戸幕府に仕えた。

真田幸村
さなだゆきむら @@@LINK=真田幸村 真田幸村

真田幸村
さなだゆきむら

1567〜1615
安土桃山〜江戸時代初期の武将
本名は信繁。信濃(長野県)上田城主真田昌幸の2男。上杉景勝に属し,のち豊臣秀吉に仕えた。小田原攻めに功をたて,関ケ原の戦いでは父昌幸とともに西軍に属し,西上しようとする徳川秀忠の大軍を信濃上田で阻止した。戦後,兄信之の助命嘆願により高野山麓に幽居したが,1614年大坂の役がおこると豊臣方に属し奮戦,翌年夏の陣で戦死した。
サヌカイト
sanukite @@@LINK=サヌカイト サヌカイト

サヌカイト
sanukite

四国の讃岐地方(屋島)や奈良県二上山に産する輝石安山岩
讃岐石ともいう。近畿以西で石器時代石器原料として広く使われた。
讃岐典侍日記
さぬきのすけのにっき @@@LINK=讃岐典侍日記 讃岐典侍日記

讃岐典侍日記
さぬきのすけのにっき

平安後期,藤原顕綱の娘の日記
12世紀初めの成立。2巻。1109年ころ,讃岐典侍であった作者が,堀河天皇の発病・病没,それに続く鳥羽天皇の即位など,素直な筆によって綴る。
実隆公記
さねたかこうき @@@LINK=実隆公記 実隆公記

実隆公記
さねたかこうき

室町後期,三条西実隆の日記
1474〜1536年まで,63年間書きつづけられた。内容は戦国争乱期の政治・社会・文化など各方面にわたり,室町時代後半の最も貴重な史料。
佐野常民
さのつねたみ @@@LINK=佐野常民 佐野常民

佐野常民
さのつねたみ

1822〜1902
明治時代の政治家。日本赤十字社の創立者
肥前藩出身。幕末に適々斎塾で蘭学を学び,長崎警備の海軍力充実に貢献した。新政権発足後,兵部省・工部省に出仕。西南戦争のとき,博愛社を設けて両軍傷病兵の看護にあたり,のち日本赤十字社と改称,社長となる。また美術の振興勧業にも尽力した。

佐幕論
さばくろん @@@LINK=佐幕論 佐幕論

佐幕論
さばくろん

幕末幕府政策を支持しその命脈を維持させようとした主張
19世紀中ごろ幕府の崩壊期に入ると,尊王攘夷運動討幕運動に転化して革新的方向を明らかにしてきた。これに対し,幕府独裁の伝統を支持し,保守的性格をもつ佐幕論がおこった。
ザビエル
Francisco de Xavier @@@LINK=ザビエル ザビエル

ザビエル
Francisco de Xavier

1506〜52
スペインのイエズス会宣教師
イエズス会創立者の一人で,1549年日本人アンジローの案内でインドのゴアから鹿児島に到着。領主島津貴久に謁し,初めてキリスト教を伝えた。平戸・山口を経て上京,再び山口に帰り大内義隆の保護をうけ,豊後府内の大友宗麟に謁して,'51年,滞在2年3か月で離日。

左弁官
さべんかん @@@LINK=左弁官 左弁官

左弁官
さべんかん

弁官
佐味田宝塚古墳
さみだたからづかこふん @@@LINK=佐味田宝塚古墳 佐味田宝塚古墳

佐味田宝塚古墳
さみだたからづかこふん

奈良県北葛城 (かつらぎ) 郡河合町にある前方後円墳
4世紀後半の前期古墳。後円部から家屋の絵を描いた鏡や勾玉 (まがたま) ・管玉 (くだたま) ・鍬形石などが発掘された。特に家屋文鏡は有名。

さむらい @@@LINK=侍 侍


さむらい

武器をもって近侍する者,やがて武士一般を称す
本来「さぶらふ」の名詞形で,主君に近侍する意味から転じ,主君を警固する者をさし,さらに武士の台頭とともに武士一般をさした。江戸時代は「士」すなわち武士階級の通称となった。
侍所
さむらいどころ @@@LINK=侍所 侍所

侍所
さむらいどころ

鎌倉・室町幕府の政治機関
①平安時代,親王・摂関家などに置かれた侍の伺候場所および家政機関をいう。
②1180年,源頼朝が御家人統轄などのための機関として設置,のち刑事裁判も加えられた。初代長官(別当)は和田義盛。1213年和田氏滅亡後は執権北条氏が別当を独占した。
③建武新政府の一機関で,頭人 (とうにん) は足利尊氏。職務内容は武者所とほぼ同じ。
④室町幕府も先例にならって設置。京都の警衛や裁判にあたり,長官を所司 (しよし) と呼び,山名・赤松・一色・京極の4氏から交替で就任させた(四職)。
更科紀行
さらしなきこう @@@LINK=更科紀行 更科紀行

更科紀行
さらしなきこう

江戸中期,松尾芭蕉の俳諧紀行文
1688年頃成立。信濃国(長野県)更科に月見に行ったときの紀行文。短編ではあるが,旅情豊かな名編。
更級日記
さらしなにっき @@@LINK=更級日記 更級日記

更級日記
さらしなにっき

平安中期,菅原孝標 (たかすえ) の娘の自伝的文学
1060年ころ完成。1巻。13歳のとき父の任国上総国(千葉県)から帰京する記事に始まり,宮仕え・結婚・夫と死別してからの生活を回想風に記す。非現実的な物語的世界への憧れと浄土欣求 (ごんぐ) の心情が流れている。
猿楽
さるがく @@@LINK=猿楽 猿楽

猿楽
さるがく

古代〜中世にかけて流行した演芸
散楽・申楽・散更 (さるごう) ともいう。狭義には能楽の別称。奈良時代に唐から伝来。平安時代,神楽の余興として宮廷に入った。民間では寺社に隷属し,滑稽な物まねを主とした。鎌倉時代に歌舞的要素を加え猿楽の能に発達,物まねは猿楽の狂言として併行した。室町時代にかけて,丹波・伊勢・近江・大和などで盛んとなり,特に大和四座の一つ結崎 (ゆうさき) 座から観阿弥・世阿弥父子が出て,足利将軍家の保護のもと,田楽能や曲舞 (くせまい) をとり入れ猿楽の能を大成させた。
申楽談儀
さるがくだんぎ @@@LINK=申楽談儀 申楽談儀

申楽談儀
さるがくだんぎ

室町中期の能楽書
世阿弥の能楽に関する秘伝を彼の2男元能 (もとよし) が記した聞書で,1430年成立。秘伝を筆録したもので系統だったものではないが,具体的な事例を中心として話が進められている点に特色をもつ。『風姿花伝』と並んで能楽研究上の重要な史料。
猿蓑
さるみの @@@LINK=猿蓑 猿蓑

猿蓑
さるみの

江戸中期,松尾芭蕉一門の俳諧撰集。芭蕉七部集の一つ
1691年刊。6巻2冊。編者は向井去来・野沢凡兆。発句・連句・俳文の各種にわたって,元禄期の蕉風の成果を世に問うたもの。
沢田正二郎
さわだしょうじろう @@@LINK=沢田正二郎 沢田正二郎

沢田正二郎
さわだしょうじろう

1892〜1929
大正・昭和初期の俳優。新国劇の創始者
東京の生まれ。早大卒。坪内逍遙の文芸協会に学ぶ。松井須磨子の相手役として芸術座で活躍したが,大衆に密着した演劇を求めて,1917年新国劇を創立。剣劇で人気を博した。代表的演目に『月形半平太』『国定忠治』など。

沢宣嘉
さわのぶよし @@@LINK=沢宣嘉 沢宣嘉

沢宣嘉
さわのぶよし

1835〜73
幕末・維新期の公家
三条実美 (さねとみ) らとともに尊攘派公卿として活躍。八月十八日の政変のとき七卿落ちの一人として長州へのがれ,生野の変の首領となる。1867年の王政復古で復権し,参与・外国官知事・初代外務卿などを歴任した。

沢柳事件
さわやなぎじけん @@@LINK=沢柳事件 沢柳事件

沢柳事件
さわやなぎじけん

大正初期(1913〜14),国家権力に対して大学の自治を確立した事件
沢柳政太郎京大総長文部省の内意をうけて,医・理工文科の7教授辞任を要求したのに対し,法科大学教授会が中心となり,頑強に抵抗し,教授の任免に関する教授会の自治と総長の選挙制が確立した。
沢柳政太郎
さわやなぎまさたろう @@@LINK=沢柳政太郎 沢柳政太郎

沢柳政太郎
さわやなぎまさたろう

1865〜1927
明治・大正時代の教育家
信濃(長野県)の生まれ。東大哲学科卒業後,第二・第一高校長,文部次官,東北大・京大総長を歴任。1914年京大事件で退官し,その後民間教育家として成城学園を創立。大正期の自由主義教育運動に貢献した。

早良親王
さわらしんのう @@@LINK=早良親王 早良親王

早良親王
さわらしんのう

?〜785
奈良末期の皇族
光仁天皇第2皇子。桓武天皇の同母弟。781年桓武天皇即位とともに立太子。785年藤原種継暗殺事件に連坐して廃され,淡路に流される途中で絶食して死んだ。のちに大和に移葬して崇道天皇と追号された。


さん @@@LINK=讃 讃


さん

5世紀に中国南朝に朝貢した倭の五王の一人
仁徳(または応神・履中)天皇に定されている。
三阿弥
さんあみ @@@LINK=三阿弥 三阿弥

三阿弥
さんあみ

室町時代,能阿弥(真能)・芸阿弥(真芸)・相阿弥(真相)の父子孫3代をいう
室町幕府に唐絵をもって仕え,水墨画・連歌の発展に貢献した。
散位
さんい @@@LINK=散位 散位

散位
さんい

律令制下,位階があるが職掌のない者をいう
職掌のある職事 (しきじ) と対比される。式部省の散位寮で管轄し,在京の六位以下の散位は交代で散位寮に出向し,地方は国衙 (こくが) に出仕して欠員のある場合に任用された。
三・一運動
さん・いちうんどう @@@LINK=三・一運動 三・一運動

三・一運動
さん・いちうんどう

1919(大正8)年,朝鮮でおこった反日独立運動
万歳事件ともいう。ロシア革命の成功や第一次世界大戦後の民族自決主義の高まりなどにより朝鮮の独立運動が活発化。1919年3月1日,京城(現ソウル)で数千人が「独立万歳」を叫びデモを行い朝鮮各地に拡大朝鮮総督府・朝鮮駐箚軍・警察によって弾圧された。
三・一五事件
さん・いちごじけん @@@LINK=三・一五事件 三・一五事件

三・一五事件
さん・いちごじけん

昭和初期,日本共産党に対する大弾圧事件
1928年2月の第1回普通選挙から,公然と活動を始めた共産党や労農党・日本労働組合評議会・無産青年同盟などの関係者千数百名が,田中義一内閣によって治安維持法違反の容疑で,3月15日未明,全国一斉に検挙された。つづいて労農党・評議会・無産青年同盟は解散を命ぜられ,さらに翌年の大検挙(四・一六事件)により左翼運動は大打撃をうけた。
山陰道
さんいんどう @@@LINK=山陰道 山陰道

山陰道
さんいんどう

律令制における五畿七道の一つ
現在の中国地方日本海沿岸地域をいう。丹波・丹後・但馬 (たじま) ・因幡 (いなば) ・伯耆 (ほうき) ・出雲 (いずも) ・石見 (いわみ) ・隠岐 (おき) の8カ国。
三貨
さんか @@@LINK=三貨 三貨

三貨
さんか

江戸時代,金・銀・(銭)3種の通貨の総称
幕府は1609年に三貨の換算率を金1両に対し銀50匁 (もんめ) ,銭4貫文と公定したが,相場は絶えず変動した。
山槐記
さんかいき @@@LINK=山槐記 山槐記

山槐記
さんかいき

平安末期〜鎌倉初期,内大臣藤原(中山)忠親の日記
山槐は中山右大臣の意。1151〜94年までの記事が現存するが,途中一部欠けている。源平興亡時代の重要な史料で,朝儀研究にも貴重。
山海名産図会
さんかいめいさんずえ @@@LINK=山海名産図会 山海名産図会

山海名産図会
さんかいめいさんずえ

江戸後期,木村兼葭堂 (けんかどう) が著した日本各地の名産の図鑑
1799年刊。5冊。画は蔀 (しとみ) 関月。諸国物産が集散する大坂にあって,各物産の生産地・特色・製法などを図入りで集録したもの。類書日本山海名産図会』より具体的である。
散楽
さんがく @@@LINK=散楽 散楽

散楽
さんがく

奈良時代に伝来した唐の雑芸
奇術・曲芸など滑稽をとしたものが多かった。平安中期以後,猿楽となまり,能の一源流となった。
三角縁神獣鏡
さんかくぶちしんじゅうきょう @@@LINK=三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡

三角縁神獣鏡
さんかくぶちしんじゅうきょう

縁の断面が三角形で,神や獣の文様を刻んだ古墳時代の銅鏡
前期古墳の副葬品として出土する。大阪府和泉市黄金塚古墳出土の銅鏡など,景初三年(239年,『魏志』倭人伝に邪馬台国が朝貢したと伝える年)を鏡の銘文に記すものもある。しかし中国では三角縁神獣鏡は出土せず,中国製か日本製か学説が対立している。多数の同笵 (どうはん) 鏡が各地の前期古墳から出土しており,大和政権が服属した各地の首長に配布したものと考えられている。
山岳仏教
さんがくぶっきょう @@@LINK=山岳仏教 山岳仏教

山岳仏教
さんがくぶっきょう

平安前期,山中を修行研学の場とした天台・真言両宗のこと
天台宗真言宗延暦寺金剛峯寺にみるように深山寺院を建てたので,都城平野に寺院をもつ南都仏教に対してこう呼ばれた。政治から離れ修行に専心するためで,修験道も山岳仏教の一つ。
山家集
さんかしゅう @@@LINK=山家集 山家集

山家集
さんかしゅう

鎌倉初期,西行の私家集
12世紀末の成立。四季・羇旅・恋・雑などの歌を集め,歌数約1570首。特色生活感情を率直・真摯に表現した旅の歌と雑の部にある。
三月事件
さんがつじけん @@@LINK=三月事件 三月事件

三月事件
さんがつじけん

昭和前期,軍部・右翼のクーデタ未遂事件
1931年3月,満蒙への進出,国家改造を唱える桜会の橋本欣五郎中佐や右翼大川周明らが,宇垣一成陸相を首班とする軍部独裁政権樹立を計画したが,宇垣らの反対で失敗。事件は秘密にされ,関係者も処罰されなかったため,のちの十月事件('31),五・一五事件('32)を誘発した。
三月堂
さんがつどう @@@LINK=三月堂 三月堂

三月堂
さんがつどう

奈良市の東大寺法華堂の通称。
三韓
さんかん @@@LINK=三韓 三韓

三韓
さんかん

古代,朝鮮南部に分立した三つの部族国家群,馬韓・辰韓 (しんかん) ・弁韓をいう
いずれも小部族国家に分かれていたが,4世紀ころより馬韓は百済 (くだら) ,辰韓は新羅 (しらぎ) によって統一された。弁韓は分立状態のまま任那 (みまな) となり,新羅の圧迫に対して日本に援助を求め日本の支配下に入ったといわれる。しかし,これについては批判するも出されている。
三管・四職
さんかん・ししき @@@LINK=三管・四職 三管・四職

三管・四職
さんかん・ししき

室町幕府の重職たる管領となる3家と,侍所の所司に選任される4家をいう。
三韓出兵
さんかんしゅっぺい @@@LINK=三韓出兵 三韓出兵

三韓出兵
さんかんしゅっぺい

記紀にみられる神功 (じんぐう) 皇后馬韓弁韓・辰韓出兵の物語
日本の半島侵攻の史実を反映しているのかもしれないが,後代の修飾が多く,信憑 (しんぴよう) 性は乏しい。
三管領
さんかんれい @@@LINK=三管領 三管領

三管領
さんかんれい

室町幕府管領に選任される,斯波 (しば) ・細川畠山の3家のこと
管領は将軍を補佐して政務を総覧する幕府最高役職。初め執事といい高師直 (こうのもろなお) ・仁木頼章らが任ぜられたが,1362年(将軍足利義詮 (よしあきら) ),斯波義将 (よしまさ) のときには管領と改称され,さらに'98年(将軍義持)以後,足利氏一族の斯波・細川・畠山の3氏の中から任命されたので,三管領(三管)と呼び,室町幕府最高の家柄とみなされた。
参議
さんぎ @@@LINK=参議 参議

参議
さんぎ

①奈良時代,令外官 (りようげのかん) の一つ
②明治初年の行政官
③日中戦争中,近衛文麿内閣により設けられた官職
702年設置。大臣 (おおおみ) ・納言につぐ重職で,太政官の政務審議に参加。
1869年,太政官に設置。大臣を補佐して国政に参加し,西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通らが任命された。'85年内閣制度実施により廃止。
1937年内閣参議として設置。内閣の大政に参画した。

参議院
さんぎいん @@@LINK=参議院 参議院

参議院
さんぎいん

日本国憲法下,衆議院と並び国会を構成する立法機関
1947年設置。議員の任期は6年で3年ごとに半数が改選される。比例代表(96人)と選挙区選出(146人)に分けて選挙。戦前の貴族院のあとをうけている形であるが,権限は衆議院よりも弱い。また解散制度はない。
産業革命
さんぎょうかくめい @@@LINK=産業革命 産業革命

産業革命
さんぎょうかくめい

市場の拡大による工場制手工業から機械制大工業への変革
1760〜70年代にイギリスに始まり,19世紀を通じて欧米の主要な資本主義諸国や日本で行われた。日本の産業革命は欧米より遅れて日清戦争(1894〜95)のころ,紡績・製糸・綿織物を中心とする軽工業部門に第1次産業革命が,続いて日露戦争(1904〜05)前後に重工業部門の第2次産業革命が進行した。この時期を通じて日本の資本主義が急速な発展をみせたのは,安くて豊富な労働力による。この安い労働力は,一方で国内市場を狭くするので,資本は海外市場を求め,軍事的・侵略主義的な性格をもった。
三経義疏
さんぎょうぎしょ @@@LINK=三経義疏 三経義疏

三経義疏
さんぎょうぎしょ

飛鳥時代,聖徳太子の著した仏教経典注釈書
7世紀初め成立。8巻。法華・勝鬘 (しようまん) ・維摩 (ゆいま) 3経の注釈であるが,中国の模倣ではなく独自の注釈が目だつ。しかし,偽作説もある。
産業組合
さんぎょうくみあい @@@LINK=産業組合 産業組合

産業組合
さんぎょうくみあい

第二次世界大戦前の農村における協同組合
1900年産業組合法に基づいて,中小農を救済するために組織され,'14年にはほぼ全国町村に普及し,信用・販売・購買・生産などの事業を行った。しかし全員加入の半行政団体の性格が強い。戦時中,農業会に転化し,戦後は農業協同組合に代わった。
産業組合法
さんぎょうくみあいほう @@@LINK=産業組合法 産業組合法

産業組合法
さんぎょうくみあいほう

明治後期,中小生産者層の保護・救済を目的として制定された法律産業組合の根拠法で,1900年公布。
産業合理化
さんぎょうごうりか @@@LINK=産業合理化 産業合理化

産業合理化
さんぎょうごうりか

生産・流通の過程合理化により産業の強化,利潤増大をはかる政策
日本では1930年世界恐慌下に,浜口雄幸内閣が重要産業統制法工業組合法などでカルテル・トラストを奨励,人員整理や労働強化を進めて,能率向上をはかったのが有名。第二次世界大戦後,経済復興や技術革新が叫ばれ,'52年企業合理化促進法を制定。'55年より生産性向上運動が展開された。
産業資本
さんぎょうしほん @@@LINK=産業資本 産業資本

産業資本
さんぎょうしほん

資本主義社会において,生産過程に投入される資本
封建社会の末期に没落した農民や手工業者を賃労働者として雇用し,労働させて彼らに剰余価値の生産を行わせることによって成立した資本であり,この資本の出現により資本主義的生産がはじめて開始された。日本では政府の保護育成策によってつくり出され,1890〜1900年代の産業革命を経て確立した。
産業報国会
さんぎょうほうこくかい @@@LINK=産業報国会 産業報国会

産業報国会
さんぎょうほうこくかい

日中戦争から太平洋戦争にかけて,労働者を戦争に全面協力させるための組織
1938年国家総動員法の制定を機として,政府は労働組合を解消し全労働者を産業報国会に組織。'40年新体制運動の中で全国組織の大日本産業報国会に結集された。
散切り
ざんぎり @@@LINK=散切り 散切り

散切り
ざんぎり

明治初期の断髪
1871(明治4)年の散髪脱刀令以来,文明開化の象徴とされた。
散切物
ざんぎりもの @@@LINK=散切物 散切物

散切物
ざんぎりもの

歌舞伎で明治時代以後の新風俗に題材をとった新しい世話物のこと
断髪した役者が演じたのでこういわれた。河竹黙阿弥の『島鵆月白浪 (しまちどりつきのしらなみ) 』『水天宮利生深川』などを5代目尾上菊五郎が演じた。皮相な世相・流行を追うのみで,内容は古い物語と変わらなかった。
参勤交代
さんきんこうたい @@@LINK=参勤交代 参勤交代

参勤交代
さんきんこうたい

江戸時代,幕府が大名統制のため一定期間諸大名を江戸に参勤させた制度
江戸初期から諸大名が自発的に江戸に参向することはあったが,1635(寛永12)年3代将軍徳川家光の改正した武家諸法度で毎年4月を参勤の時期と定め制度化した。在江戸・在国1年交代(関東の譜代大名は半年交代)が原則で,妻子を人質として江戸に常住させた。往復の旅費や江戸藩邸での出費は大名の財政を苦しめたが,他方江戸の繁栄,交通・経済の発達をうながした。1864年,事実上廃絶。
山家学生式
さんげがくしょうしき @@@LINK=山家学生式 山家学生式

山家学生式
さんげがくしょうしき

平安初期,最澄の著した仏書
818〜819年の成立。1巻。比叡山において天台宗を学ぶ学生のために教育方針と規則を記した教条で,嵯峨天皇に献じ,大乗戒壇建立を申請。そのため南都諸寺院との対立が激化した。
三関
さんげん @@@LINK=三関 三関
さんせき @@@LINK=三関 三関

三関
さんげん

古代,畿内防衛のために置かれた三つの関所
奈良・平安初期のころ,東海・東山・北陸道の要地に設けられた伊勢鈴鹿・美濃不破 (ふわ) ・越前愛発 (あらち) の3関をいう。平安中期以後,愛発関は衰微し近江の逢坂 (おうさか) 関にかわった。平常は国司が警備。平安末期廃止された。

三関
さんせき

さんげん
三権分立
さんけんぶんりつ @@@LINK=三権分立 三権分立

三権分立
さんけんぶんりつ

国家統治権を,立法行政司法の三権に区分し,これら三つの権力作用をなるべく相互の独立した別の国家機関に置き,権力の集中を防ごうとする統治上の原則
イギリスの哲学者ロックが提唱し,18世紀,フランスの啓蒙家モンテスキュー確立。日本では形式的には明治初年の政体書で採用されたが,行政権に重点が置かれ,大日本帝国憲法も三権分立を認めたが,天皇の大権が中心であった。これに対し,現在の日本国憲法では国民主権のもとに,三権分立主義が一歩前進したが,アメリカ式の厳格な三権分立とイギリス式のゆるやかな三権分立が混在しているといわれている。
産語
さんご @@@LINK=産語 産語

産語
さんご

江戸中期,太宰春台が著した政治経済論書
1749年刊。2巻。大坂市中で買い求めたことに託して,古書に模して幕政を論じたもの。衣食足りて礼節を知るという観点から,四民が職分を尽くし富国殖産につとめるべきであるとし,その具体策を書きおよぼしている。
三公
さんこう @@@LINK=三公 三公

三公
さんこう

太政大臣・左大臣・右大臣の総称
律令制の太政官の最高官人のこと。太政大臣は適当な人物がいなければ置かれない(則闕 (そつけつ) の官)ので,そのときは左大臣・右大臣・内大臣をさす。
三后
さんこう @@@LINK=三后 三后

三后
さんこう

太皇太后 (たいこうたいごう) ・皇太后・皇后の総称
皇后は天皇嫡妻,皇太后は天皇の母で后位にのぼった人,太皇太后とは天皇の祖母で后位にのぼった人をさす。
三綱
さんごう @@@LINK=三綱 三綱

三綱
さんごう

古代,寺の諸事を統率する上座・寺主・都維那 (ついな) の3種の役僧の総称
寺内の僧侶を統轄し,寺務を処理し,寺の統治者であったが,のちに別当・座主 (ざす) などが寺の最高の地位につくと,その下に属する役僧の名称となった。
三教指帰
さんごうしいき @@@LINK=三教指帰 三教指帰

三教指帰
さんごうしいき

平安初期,空海の著した寓意小説体の仏教書
成立年代は不詳だが,作者24歳の797年とするのが通説。3巻。初めにつくった『聾瞽指帰 (ろうこしいき) 』を少し修正したもので,出家の理由を記し,儒・仏・道3教の優劣を論じ,密教を最高としている。
三国遺事
さんごくいじ @@@LINK=三国遺事 三国遺事

三国遺事
さんごくいじ

朝鮮三国(新羅 (しらぎ) ・高句麗 (こうくり) ・百済 (くだら) )時代の史書
14世紀初期の成立。5巻。高麗の僧一然の著。三国に関する史実・伝説などを集め,分類したもので,仏教関係の記事が多い。『三国史記』とともに朝鮮古代史研究には重要な文献
三国干渉
さんごくかんしょう @@@LINK=三国干渉 三国干渉

三国干渉
さんごくかんしょう

日清戦争の結果,遼東半島の日本領有に対して行われたロシア・フランス・ドイツ3国の対日干渉
1895年4月,遼東半島の割譲は下関条約で約されたが,南満州進出を企図するロシアはフランス・ドイツを誘い,条約調印の直後,日本に対して清国へ返還することを勧告した。日本はやむなく庫平銀3000万両 (テール) (約4500万円)を代償に受諾したが,政府は「臥薪嘗胆 (がしんしようたん) 」を叫び,全力を対ロシア戦争の準備にそそいだ。また,この干渉後に欧州列強による中国分割が開始された。
三国協商
さんごくきょうしょう
Triple Entente @@@LINK=三国協商 三国協商

三国協商
さんごくきょうしょう
Triple Entente

第一次世界大戦前および大戦中のイギリス・フランス・ロシアの対ドイツ外交軍事体制
1891年露仏同盟,1904年英仏協商,'07年英露協商で成立。条文はないが,三国同盟に対抗し,連合国側の結束に貢献した。アメリカの参戦,革命によるロシアの脱落によって,'17年解消。
三国志
さんごくし @@@LINK=三国志 三国志

三国志
さんごくし

中国三国時代の正史
晋の陳寿の撰。魏志30巻,蜀志15巻,呉志20巻からなる。
三国史記
さんごくしき @@@LINK=三国史記 三国史記

三国史記
さんごくしき

朝鮮三国(新羅 (しらぎ) ・高句麗 (こうくり) ・百済 (くだら) )時代の史書で,朝鮮における現存最古の正史
1145年成立。50巻。編者は高麗の金富軾 (きんふしよく) 。紀伝体で,新羅本紀・高句麗本紀・百済本紀・年表・雑志・列伝などからなる。
三国司家
さんこくしけ @@@LINK=三国司家 三国司家

三国司家
さんこくしけ

国司制度崩壊後も国司と称して,現地を領有した公家
飛驒の姉小路 (あねがこうじ) 家,伊勢の北畠家,土佐の一条家,いずれも国司から戦国大名化した。
三国通覧図説
さんごくつうらんずせつ @@@LINK=三国通覧図説 三国通覧図説

三国通覧図説
さんごくつうらんずせつ

江戸後期,林子平の著した地誌
1785年完成,翌年刊行。図5枚1巻。日本と周辺の朝鮮・琉球・蝦夷 (えぞ) 地3国を図示,特に蝦夷地に重点を置き北辺海防の必要を知らせようとした。『海国兵談』とともに発禁となった。
三国同盟
さんごくどうめい
Triple Alliance @@@LINK=三国同盟 三国同盟

三国同盟
さんごくどうめい
Triple Alliance

①第一次世界大戦前,ドイツ・オーストリア・イタリアの間に結ばれた同盟
フランスに対抗するために1882年成立。三国協商と対抗した。イタリアのイギリス・フランス接近により第一次世界大戦中の1915年に崩壊した。
② ⇨ 日独伊三国同盟
三国防共協定
さんごくぼうきょうきょうてい @@@LINK=三国防共協定 三国防共協定

三国防共協定
さんごくぼうきょうきょうてい

日独伊防共協定」のこと。
三斎市
さんさいいち @@@LINK=三斎市 三斎市

三斎市
さんさいいち

中世〜近世,毎月3回(,1・11・21日)開かれた定期市
鎌倉中期以降,全国的に普及,四日市・六日町など今も地に名残をとどめる。
三社託宣
さんしゃたくせん @@@LINK=三社託宣 三社託宣

三社託宣
さんしゃたくせん

伊勢神宮・石清水八幡宮・春日神社の神名と託宣を一枚の画にして信仰の対象としたもの
3社の神徳である正直・清浄・慈悲の徳目を現す。室町時代,この画をかかげて拝礼する風が公家の間に盛んに行われた。
三十三間堂
さんじゅうさんげんどう @@@LINK=三十三間堂 三十三間堂

三十三間堂
さんじゅうさんげんどう

京都市東山区にある天台宗の寺
正しくは蓮華王院本堂。1164年後白河法皇の勅願により平清盛が創建,1266年再建された。内陣の柱間が33間あるところから三十三間堂という。新和様建築。本尊の『千手観音坐像』と1001体の『千手観音立像』はともに鎌倉時代の湛慶一門の作。
32年テーゼ
さんじゅうにねんテーゼ @@@LINK=32年テーゼ 32年テーゼ

32年テーゼ
さんじゅうにねんテーゼ

1932年5月,コミンテルン西ヨーロッパ‐ビューローにより発表された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと
日本の支配体制が,天皇制・地主的土地所有・独占資本主義の3要素より構成される「絶対君主制」であり,日本の革命の性格を,まずブルジョア民主主義革命を行い,ついで社会主義革命に強行的に転化させると,2段階的に規定した。
三十六歌仙
さんじゅうろっかせん @@@LINK=三十六歌仙 三十六歌仙

三十六歌仙
さんじゅうろっかせん

平安中期,藤原公任 (きんとう) が選んだ当代までの代表的歌人36人の総称
万葉歌人としては柿本人麻呂・山部赤人・大伴家持,六歌仙から小野小町・在原業平・僧正遍昭,古今歌人としては紀貫之・凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね) ・伊勢・素性法師・紀友則・藤原兼輔 (かねすけ) ・壬生忠岑 (みぶのただみね) ・藤原敏行・源宗于 (むねゆき) ・藤原興風 (おきかぜ) ・坂上是則 (さかのうえのこれのり) ,後撰集歌人として平兼盛・中務 (なかつかさ) ・藤原朝忠・藤原敦忠・源公忠 (きんただ) ・斎宮女御・大中臣頼基・源信明 (さねあきら) ・藤原清正・源順 (したごう) ・清原元輔・藤原元真・大中臣能宣 (よしのぶ) ・壬生忠見,拾遺集歌人として藤原高光・小大君 (こおおぎみ) ・源重之・藤原仲文,および猿丸太夫の36人の歌人をいう。また平安中期の歌人36人を選んだものを中古三十六歌仙,鎌倉期の歌人を選んだものを新三十六歌仙という。
三種の神器
さんしゅのじんぎ @@@LINK=三種の神器 三種の神器

三種の神器
さんしゅのじんぎ

皇位の象徴として歴代天皇が継承するといわれる三つの神宝
八咫鏡 (やたのかがみ) ・草薙剣 (くさなぎのつるぎ) ・八坂瓊曲玉 (やさかにのまがたま) の三つで, いずれも瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) 降臨のとき天照大神 (あまてらすおおみかみ) から授けられたという。現在,鏡は伊勢神宮,剣は熱田神宮,玉は鏡・剣の模造品とともに宮中に祭る。
散所
さんじょ @@@LINK=散所 散所

散所
さんじょ

古代・中世に特殊な集団生活を営んでいた一種の賤民
貢租を免除され雑役に仕した。本来その地域をいったが,やがて住民をさすようになった。大寺社など権門勢家に隷属して交通・運搬清掃・狩猟などに従い,あるいは遊芸人として従事した。
三条実美
さんじょうさねとみ @@@LINK=三条実美 三条実美

三条実美
さんじょうさねとみ

1837〜91
幕末・明治前期の尊攘派公卿・宮廷政治家
長州藩と提携し1863年攘夷親征の大和行幸を計画して失敗。八月十八日の政変により長州に七卿落ちした。王政復古後,議定・右大臣を経て太政大臣となった。'84年華族令制定により公爵となり,翌年内閣制度実施に伴い内大臣に就任。
三条天皇
さんじょうてんのう @@@LINK=三条天皇 三条天皇

三条天皇
さんじょうてんのう

976〜1017
平安中期の天皇(在位1011〜16)
冷泉天皇第2皇子で,名は居貞 (おきさだ) 。母は藤原兼家の娘超子。藤原道長が外孫の後一条天皇を立てようとして,退位を強要した。

三条西実隆
さんじょうにしさねたか @@@LINK=三条西実隆 三条西実隆

三条西実隆
さんじょうにしさねたか

1455〜1537
室町後期の公卿・歌人・学者
内大臣公保 (きんやす) の子で,1506年内大臣となったが,'16年出家。一条兼良 (かねよし) のあとをうけ,和漢の学・有職故実 (ゆうそくこじつ) に通じ室町後期最高の文化人とされる。宗祇 (そうぎ) から古今伝授をうけ肖柏 (しようはく) ・宗長らと交友があった。日記にこの時代の基本的史料である『実隆公記』,歌日記『再昌草』などがある。

三職
さんしょく @@@LINK=三職 三職

三職
さんしょく

1867年,王政復古の際新設された新政府最高の3官職
総裁・議定・参与をいう。
三津
さんしん @@@LINK=三津 三津

三津
さんしん

中世,坊津 (ぼうのつ) (薩摩)・那津 (なのつ) (筑前博多)・安濃津 (あのつ) (伊勢津)の3港の総称
古代より栄えた要港で,特に中世対明貿易港として栄え,中国人より三津と称された。安濃津の代わりに堺津(和泉)を数えることもある。
三新法
さんしんぽう @@@LINK=三新法 三新法

三新法
さんしんぽう

明治前期,郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の総称
1878年,地方行政円滑を目的とし,第2回地方官会議・元老院会議を経て成立した,明治政府による最初の地方行政に関する統一的立法。'88年の市制・町村制,'90年の府県制・郡制の実施による地方自治の確立に伴い廃止された。
山水画
さんすいが @@@LINK=山水画 山水画

山水画
さんすいが

自然の風景を描いた絵画
中国では漢代におこり唐代に独立・発展し宋代に完成。日本では『玉虫厨子 (ずし) 』や正倉院御物にみられるように中国の模倣の時代を経て,平安時代に大和絵が成立し,独自の様式をもった。鎌倉・室町時代に宋元の水墨画が輸入されると水墨山水画が栄え,雪舟はその大成者。江戸時代に文人画が南画の影響をうけると再び栄えたが,明治期の富岡鉄斎を最後として衰退した。
山水長巻
さんすいちょうかん @@@LINK=山水長巻 山水長巻

山水長巻
さんすいちょうかん

室町後期,画僧雪舟の描いた山水画
『四季山水図』ともいう。1486年作。1巻。毛利家蔵。国宝。縦40㎝,横約15mの長大な画面に中国の四季の変化を描いたもの。日本水墨画中の傑作として有名。
三世一身法
さんぜいっしんのほう @@@LINK=三世一身法 三世一身法

三世一身法
さんぜいっしんのほう

奈良時代,土地の開墾奨励のため律令政府が出した法令
元正天皇の723(養老7)年発布。人口の増加に応じて耕地をふやすために,新たに溝池を設けて開墾した者には子・孫・曽孫の3代まで田地の保有を許し,旧溝池を利用した者には本人1代限り田地の保有を認めるというもの。この結果,有力者に水田が集まり律令制度の基礎である公地主義崩壊の端緒となった。
三関
さんげん @@@LINK=三関 三関
さんせき @@@LINK=三関 三関

三関
さんげん

古代,畿内防衛のために置かれた三つの関所
奈良・平安初期のころ,東海・東山・北陸道の要地に設けられた伊勢鈴鹿・美濃不破 (ふわ) ・越前愛発 (あらち) の3関をいう。平安中期以後,愛発関は衰微し近江の逢坂 (おうさか) 関にかわった。平常は国司が警備。平安末期廃止された。

三関
さんせき

さんげん
三蹟
さんせき @@@LINK=三蹟 三蹟

三蹟
さんせき

平安中期を代表する3人の能書家,小野道風 (とうふう) ・藤原佐理 (さり) ・藤原行成 (こうぜい) をいう
10世紀から11世紀初めの人。平安初期の雄渾な中国風書道に対して日本風の優雅な和様書道を大成した。筆跡を道風は野蹟,佐理は佐蹟,行成は権蹟と呼ぶ。
三千院
さんぜんいん @@@LINK=三千院 三千院

三千院
さんぜんいん

京都市左京区大原にある天台宗の寺
延暦年間(782〜806),最澄が創建。比叡山から後世各地に移建され,応仁の乱(1467〜77)以後現在地に移った。山門3門跡の一つ。持仏堂の往生極楽院は藤原時代の代表的な阿弥陀堂建築。往生極楽院の『阿弥陀三尊像』は源信の作と伝えられる。
三蔵
みつくら @@@LINK=三蔵 三蔵
さんぞう @@@LINK=三蔵 三蔵

三蔵
みつくら

大和政権の財物を収納した斎蔵 (いみくら) ・内蔵 (うちくら) ・大蔵 (おおくら) の三つの倉庫をいう
「さんぞう」とも読む。斎蔵は神の貢租をおさめ斎部氏 (いんべうじ) が世襲管理した。内蔵は大王家の財物を収納し,東漢氏 (やまとのあやうじ) ・西文氏 (かわちのふみうじ) が事務をつかさどり,大蔵は政府の貢租をおさめ,秦氏 (はたうじ) が事務をつかさどった。ともに蘇我氏が轄したという。

三蔵
さんぞう

みつくら
三大飢饉
さんだいききん @@@LINK=三大飢饉 三大飢饉

三大飢饉
さんだいききん

江戸時代の飢饉のうち,特に享保(1732)・天明(1782〜87)・天保(1830以後数年)の飢饉をいう
その被害は全国に及んだが,特に関東東北地方がひどかった。そのため百姓一揆や打ちこわしが激しくなった。
三代格式
さんだいきゃくしき @@@LINK=三代格式 三代格式

三代格式
さんだいきゃくしき

平安前期に編纂された3格式の総称
弘仁格式』『貞観格式』『延喜格式』のこと。式は弘仁式の一部と延喜式が現存。格は『類聚三代格』によってほぼその内容を知ることができる。
三大事件建白運動
さんだいじけんけんぱくうんどう @@@LINK=三大事件建白運動 三大事件建白運動

三大事件建白運動
さんだいじけんけんぱくうんどう

明治中期の政治運動
井上馨外相の条約改正に対する反対運動などで民権派の運動が活気づくと,1887年片岡健吉らは,言論・集会の自由,地租の軽減,外交失策の回復を主張する建白書を提出。この運動は星亨 (とおる) ・尾崎行雄らに指導され,折りからの大同団結運動と呼応して盛り上がりをみせた。政府は保安条例でこれを弾圧した。
三代実録
さんだいじつろく @@@LINK=三代実録 三代実録

三代実録
さんだいじつろく

日本三代実録
三代集
さんだいしゅう @@@LINK=三代集 三代集

三代集
さんだいしゅう

平安時代,『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の3勅撰和歌集の総称
藤原定家の歌論書『詠歌大概』に「は三代集を出づるべからず」とあり,後世,「詞」(表限方法と考えてよい)についての規範的古典の位置を占めた。
サンディカリスム
syndicalisme @@@LINK=サンディカリスム サンディカリスム

サンディカリスム
syndicalisme

議会主義を排する労働組合の方針
労働組合のゼネストなど直接行動で,政治・経済組織を破壊し,革命を遂行,労働組合中心の新社会建設を主張。19〜20世紀,フランスの労働総同盟中心に展開し,日本では大正時代,大杉栄らによってアナーキズムと結合・発展したが(アナルコ‐サンディカリスム)無産政党の活動とともに衰退した。
三都
さんと @@@LINK=三都 三都

三都
さんと

江戸時代の三大都市,江戸・大坂・京都をいう。いずれも幕府の直轄都市だった。
算道
さんどう @@@LINK=算道 算道

算道
さんどう

律令制下,大学寮の学科の一つ
算博士が算生 (さんしよう) に算数の学を教えた。
山東京伝
さんとうきょうでん @@@LINK=山東京伝 山東京伝

山東京伝
さんとうきょうでん

1761〜1816
江戸後期の戯作者・浮世絵師
本名岩瀬醒 (さむる) ,通称伝蔵。画号北尾政演 (まさのぶ) 。江戸深川の人。多才多芸で商才にも長じ,洒落本・黄表紙・合巻・読本 (よみほん) に名作を残した。寛政の改革で処罰され,以後読本作者に転向した。代表作に黄表紙『江戸生艶気樺焼 (えどうまれうわきのかばやき) 』,洒落本『通言総籬 (つうげんそうまがき) 』『古契三娼』,読本『昔話稲妻表紙 (むかしがたりいなづまそうし) 』,考証的随筆『近世奇跡考』など。

山東出兵
さんとうしゅっぺい @@@LINK=山東出兵 山東出兵

山東出兵
さんとうしゅっぺい

1927〜28年にかけて田中義一内閣が中国山東半島へ出兵した事件
蔣介石の率いる中国国民党革命軍の北伐を阻止し,満州・華北への勢力拡大をねらって3度にわたり出兵。1927年,張作霖政権を援助し,これを利用するため,居留民保護を名目に出兵,北伐の中止で撤兵(第1次)。翌'28年北伐再開に対抗し再度出兵して済南事件をおこし(第2次),事件後も増兵,中国の抗日運動を激化させた。内外からの強い反対により'29年撤兵(第3次)。
山東問題
さんとうもんだい @@@LINK=山東問題 山東問題

山東問題
さんとうもんだい

大正時代,中国山東半島の旧ドイツ権益の日本継承をめぐる問題
日本は第一次世界大戦で同半島を占領,二十一カ条要求で権益の継承を求め,ヴェルサイユ条約でこれを確認させた。しかし,中国の抗日運動の激化や調印拒否にあい,また列国の中国支持によりワシントン会議で還付を決定し,日本は撤兵を承認。しかし,その後国民革命軍の北伐の進行に伴い,1927・28両年に日本は山東出兵を行って中国と対立した。
三度飛脚
さんどびきゃく @@@LINK=三度飛脚 三度飛脚

三度飛脚
さんどびきゃく

江戸時代,毎月3度江戸と上方の間を往復した町飛脚
東海道を6日で走ったので「定六 (じようろく) 」ともいう。
三内丸山遺跡
さんないまるやまいせき @@@LINK=三内丸山遺跡 三内丸山遺跡

三内丸山遺跡
さんないまるやまいせき

縄文時代前〜中期,青森市西部の河岸段丘上にある集落遺跡
1992年以降の調査で,柱穴の深さ1.5m以上,直径1mという6本の柱列や数百棟の住居跡,500個以上の土偶などが出土している。'97年の調査で2列で長さ420mに及ぶ約250基の土壙墓 (どこうぼ) が出土したが,全面発掘でないため遺物や墓の数はもっと増加すると思われる。遺跡の広さが40ha以上という縄文時代最大規模の集落で,一時期の人口500人という推定があるが,反論もある。遺跡の北側斜面の低湿地で発掘された6本の柱列は,六本柱の建物跡であることがわかり,復元されている。しかし水際にあって生活の跡が見られず,その用途は不明。
山王一実神道
さんのういちじつしんとう @@@LINK=山王一実神道 山王一実神道

山王一実神道
さんのういちじつしんとう

神仏習合理論を根本とする神道説
日吉 (ひえ) 神道ともいう。近江日吉神社を中心に天台宗の三諦即一 (さんたいそくいつ) の教理が結びついた神道説。平安時代から唱えられ鎌倉〜南北朝時代に盛行。江戸初期,僧天海がこれを主張し,大いに栄えた。
山王霊験記絵巻
さんのうれいげんきえまき @@@LINK=山王霊験記絵巻 山王霊験記絵巻

山王霊験記絵巻
さんのうれいげんきえまき

比叡山伝記を中心にした日吉山王の霊験談
2種類ある。①鎌倉末期の絵巻物。沼津日枝 (ひえ) 神社蔵。1巻。神社創立の縁起を描く。
②室町初期の絵巻物。京都蓮華寺蔵。2巻。ほかに井上家蔵1巻,生源寺蔵1巻。
散髪脱刀令
さんぱつだっとうれい @@@LINK=散髪脱刀令 散髪脱刀令

散髪脱刀令
さんぱつだっとうれい

明治政府が出した, (まげ) を落とし帯刀しないことを自由にした法令
1871年公布。散髪は文明開化の象徴として武士から商人農民にも普及。当初は半髪・総髪・散切りがあった。脱刀は進まず,'76年の廃刀令で軍人・警察官などのほかは帯刀禁止となった。
三筆
さんぴつ @@@LINK=三筆 三筆

三筆
さんぴつ

平安初期を代表する3人の能書家,空海・嵯峨天皇・橘逸勢 (たちばなのはやなり) の総称
中国風の力強い書風で,空海の『風信帖 (ふうしんじよう) 』が有名。
サン‐フェリペ号事件
サン‐フェリペごうじけん @@@LINK=サンフェリペ号事件 サンフェリペ号事件

サン‐フェリペ号事件
サン‐フェリペごうじけん

安土桃山時代豊臣秀吉スペイン船の積荷没収事件
1596年スペイン船サン‐フェリペ号が暴風雨のため土佐漂着。豊臣秀吉増田長盛を派遣し,積荷と乗組員の所持金すべてを没収した。その時,一船員が「スペインが広大な領土を獲得したのはキリスト教布教と宣教師の手引きによる」と放言。これにより秀吉の禁教政策は強められ,長崎の殉教事件がおこった。
三奉行
さんぶぎょう @@@LINK=三奉行 三奉行

三奉行
さんぶぎょう

江戸時代,寺社奉行・町奉行・勘定奉行の総称
宗教行政・江戸市政・幕府財政のそれぞれの担当者として重んじられた。評定所(江戸幕府最高裁判機関)の主要構成員でもある。
産物会所
さんぶつかいしょ @@@LINK=産物会所 産物会所

産物会所
さんぶつかいしょ

国産会所
サンフランシスコ講和会議
サンフランシスコこうわかいぎ @@@LINK=サンフランシスコ講和会議 サンフランシスコ講和会議

サンフランシスコ講和会議
サンフランシスコこうわかいぎ

1951年9月,サンフランシスコで開かれた対日講和条約締結のための国際会議。日本代表は吉田茂
サンフランシスコ平和条約
サンフランシスコへいわじょうやく @@@LINK=サンフランシスコ平和条約 サンフランシスコ平和条約

サンフランシスコ平和条約
サンフランシスコへいわじょうやく

1951(昭和26)年9月8日,日本と連合国との間で結ばれた第二次世界大戦の講和条約
内容は,7章27カ条,(1)平和,(2)領域,(3)安全,(4)政治及び経済,(5)財産及び請求権,(6)紛争の解決,(7)最終条項,よりなる。日本は全権として,吉田茂首相を送り,連合国側48カ国と調印。翌'52年4月発効。ポツダム宣言に基づき,日本は本州・北海道・九州・四国などを除くいっさいの領土を放棄し,軍備撤廃・賠償支払いなどの義務を負った。なおソ連圏(ソ連・ポーランドチェコスロヴァキア)は調印を拒否。日本国内では全面講和単独講和かで世論が対立した。
産別会議
さんべつかいぎ @@@LINK=産別会議 産別会議

産別会議
さんべつかいぎ

全日本産業別労働組合会議
三浦
さんぽ @@@LINK=三浦 三浦

三浦
さんぽ

室町時代朝鮮で日本船の入港を指定した,薺浦 (せいほ) (乃而浦 (ないじほ) )・富山浦 (ふざんぽ) ・塩浦 (えんぽ) の3港
15世紀初めから16世紀初めまで続いた。李朝では倭寇をしずめるために,日本人の来航者を優遇し,自由に貿易が行われていたが,1426年この三浦に限定し,送使船接待のための倭館が常設され,居留する日本人も多かった。しかし1510年三浦の乱によって薺浦1港に限られるようになった。
三宝院
さんぼういん @@@LINK=三宝院 三宝院

三宝院
さんぼういん

京都市伏見区にある醍醐 (だいご) 寺の主院。
三宝絵詞
さんぼうえことば @@@LINK=三宝絵詞 三宝絵詞

三宝絵詞
さんぼうえことば

平安中期,源為憲 (ためのり) の著した仏教説話集
3巻。984年に冷泉 (れいぜい) 天皇の皇女尊子 (そんし) 内親王のために進。全巻を仏・法・僧の三宝に分け,上巻は仏の本生説話,中巻は高僧の所伝,下巻は法会の由来を記す。絵詞であるが絵は現存しない。
参謀本部
さんぼうほんぶ @@@LINK=参謀本部 参謀本部

参謀本部
さんぼうほんぶ

明治〜昭和期の日本陸軍の最高軍令機関
1878年陸軍省参謀局が独立して参謀本部となる。参謀本部長(のち参謀総長)は陸軍大臣(軍政機関)から独立し,天皇に直属して,国防・用兵などを統轄した。統帥権独立の名のもとに軍部独走の拠点となった。1945年廃止。
讒謗律
ざんぼうりつ @@@LINK=讒謗律 讒謗律

讒謗律
ざんぼうりつ

1875(明治8)年に制定された明治政府の言論弾圧のための法律
全8カ条。民撰議院設立建白に始まる自由民権運動の高まりの対策として,井上毅 (こわし) らが作成・公布した。事実の有無を問わず,人を讒毀 (ざんき) ・誹謗する者を処罰する法で,政府を批判することが讒謗(悪口)として投獄・罰金処分の対象とされた。同時に制定された新聞紙条例とともに,藩閥専制政治の維持と自由民権運動の圧迫のために利用された。
三浦の乱
さんぽのらん @@@LINK=三浦の乱 三浦の乱

三浦の乱
さんぽのらん

室町後期,朝鮮の三浦でおこった日本人の暴動事件
16世紀初め朝鮮の中宗が即位すると,政治刷新のため日本貿易の制限を強化し,三浦居留の日本人(恒居倭 (こうきよわ) という)を圧迫。1510年日本居留民は対馬の島主宗盛順 (もりのぶ) の応援を得て三浦を襲ったが鎮定された。この結果日本人の三浦居留は認められず,貿易は極度に制限され港も薺浦 (せいほ) 1港に限られ,日朝貿易は衰微した。
三問三答
さんもんさんとう @@@LINK=三問三答 三問三答

三問三答
さんもんさんとう

中世における幕府の訴訟手続きの形式
訴えを提起する者(訴人)は,訴状に証拠書類を添えて問注所の賦 (くばり) 奉行に提出。賦奉行がそれを引付 (ひきつけ) にまわすと,引付は被告(論人)に答弁を求める問状 (といじよう) を発する。問状をうけた論人は陳状(答弁の書)を出してこれに答える。このような訴状・陳状の交換は3度まで行われ,「三問三答の訴陳に (つがう) 」といわれ,この間に幕府が判決を下した。
山門・寺門
さんもん・じもん @@@LINK=山門・寺門 山門・寺門

山門・寺門
さんもん・じもん

10世紀に始まる天台宗の二大分派
比叡山で円仁派と円珍派が争い,993年円珍派は山を下りて分離し園城 (おんじよう) 寺に移った。延暦寺に留まったものを山門園城寺に拠ったものを寺門といい,以来両派は数百年間にわたり対立抗争した。
参与
さんよ @@@LINK=参与 参与

参与
さんよ

1867(慶応3)年,王政復古により設置された官職。明治新政府の三職の一つ
初め公卿と尾張越前薩摩安芸 (あき) ・土佐藩士各3人で,つぎに公卿・諸侯・徴士で構成された。翌1868年政体書による官制で議定とともに議政官上局に属し,事務を分担した。'69年の官制改革で廃止され,職務参議に継承された。
山陽道
さんようどう @@@LINK=山陽道 山陽道

山陽道
さんようどう

律令制における五畿七道の一つ
現在の中国地方の瀬戸内海沿岸をいう。播磨 (はりま) ・美作 (みまさか) ・備前・備中・備後・安芸 (あき) ・周防 (すおう) ・長門の8カ国。
山陵志
さんりょうし @@@LINK=山陵志 山陵志

山陵志
さんりょうし

江戸後期,蒲生君平 (がもうくんぺい) の著書
1808年刊。2巻。歴代天皇陵の荒廃をなげき,各陵を実地踏査して詳細に調査考証したもの。第1巻は大和31か所,河内13か所,和泉3か所など。第2巻は山城38か所。天皇陵の尊崇と復興を唱え,幕末の尊王思想に影響を与えた。
三論宗
さんろんしゅう @@@LINK=三論宗 三論宗

三論宗
さんろんしゅう

南都六宗の一つ
中国の隋代に吉蔵 (きちぞう) が大成。一切皆空・破邪顕正を説く。インドの竜樹の『中論』『十二門論』,その弟子提婆 (だいば) の『百論』によるので三論という。日本では7〜8世紀ころ盛んに講究されたが,やがて衰えた。

し @@@LINK=司 司



律令官制の一つ
省の下で,事務を分掌した。➡ 職 (しき) ・寮 (りよう)
寺院法度
じいんはっと @@@LINK=寺院法度 寺院法度

寺院法度
じいんはっと

諸宗寺院法度
慈雲尊者
じうんそんじゃ @@@LINK=慈雲尊者 慈雲尊者

慈雲尊者
じうんそんじゃ

1718〜1804
江戸中期の真言宗の僧
諱 (いみな) は飲光 (おんこう) 。・密両教の教義戒律梵学に精通し,梵学の研究を集大成した。主著に『十善法話』。
紫衣
しえ @@@LINK=紫衣 紫衣

紫衣
しえ

紫色の袈裟 (けさ)
「しい」とも読む。勅許により高位の僧尼に与えられた法衣。
自衛隊
じえいたい @@@LINK=自衛隊 自衛隊

自衛隊
じえいたい

1954年自衛隊法により発足した事実上の軍隊
警察予備隊(1950)・保安隊('52)の後身で,陸上・海上・航空の3自衛隊で構成される。内閣総理大臣が指揮監督し,防衛庁長官が統轄(文民統制)。他国への攻撃のための出動は禁じられ,直接・間接の侵略や国内の秩序の攪乱に対し出動する。'62年師団制を採用し,'99年の実質兵員約24万。
GHQ
ジーエイチキュー @@@LINK=GHQ GHQ

GHQ
ジーエイチキュー

General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers(連合国軍最高司令官総司令部)の略称。第二次世界大戦後の1945〜52年にかけて設けられた連合軍の対日占領機構
マッカーサー元帥総司令官。司令部は東京日比谷の第一生命ビル内に置かれ,幕僚各局や民政局・経済科学局など,これに極東国際軍事裁判所・国際検事局などが付設された。1946年政策決定機関として極東委員会,司令官の諮問機関として対日理事会が設置された。司令官はのちにリッジウェーにひき継がれ,'52年4月サンフランシスコ平和条約発効とともに解消。
私営田
しえいでん @@@LINK=私営田 私営田

私営田
しえいでん

古代,国家の経営する公営田 (くえいでん) (官田など)に対して在地有力者層が私費で経営する田地
その経営者を私営田領主といい,8世紀末ごろから彼らは古代家族的な家内奴労働力だけでなく,近在の班田農民をも隷属させて大規模な直接経営を行った。11世紀ごろ,田堵 (たと) ・名主 (みようしゆ) 層の成長とともに没落
紫衣事件
しえじけん @@@LINK=紫衣事件 紫衣事件

紫衣事件
しえじけん

江戸初期,幕府が後水尾天皇の高僧への紫衣勅許を無効とした事件
1627年,幕府は,朝廷側を抑えようとして,元和('15〜24)以後に与えられた紫衣着用の勅許を無効とし,これに抗議した大徳寺の沢庵らを流罪とした。天皇は幕府の同意を求めず譲位で抗議し,女帝明正天皇が即位した('29)。これは '15年制定の禁中並公家諸法度に,紫衣勅許は事前に幕府の許可が必要であるということによったもので,これにより朝廷に対する幕府権力の優越性が明確にされた。
慈恵大師
じえだいし @@@LINK=慈恵大師 慈恵大師

慈恵大師
じえだいし

良源
慈円
じえん @@@LINK=慈円 慈円

慈円
じえん

1155〜1225
鎌倉初期の天台宗の僧
諡号 (しごう) は慈鎮。関白藤原忠通の子で,九条兼実の弟。1192年以来4度天台座主 (ざす) に補せられる。兄とともに武家に好意を寄せ源頼朝と交わり,後鳥羽上皇の討幕計画に反対。1220年,史論『愚管抄』を著す。歌道にもすぐれ,家集に『拾玉集』がある。

志賀潔
しがきよし @@@LINK=志賀潔 志賀潔

志賀潔
しがきよし

1870〜1957
明治〜昭和期の細菌学者
宮城県の生まれ。東大卒業後,北里柴三郎の伝染病研究所に入り'97年赤痢菌を発見。のちドイツに留学し,結核治療ワクチンを研究。帰国後,北里研究所部長・京城帝大総長などを歴任した。1944年文化勲章受章。

慈覚大師
じかくだいし @@@LINK=慈覚大師 慈覚大師

慈覚大師
じかくだいし

円仁
四カ国条約
しかこくじょうやく @@@LINK=四カ国条約 四カ国条約

四カ国条約
しかこくじょうやく

1921(大正10)年12月,ワシントン会議において日本・イギリスアメリカフランスの間で結ばれた太平洋問題に関する条約
発効は1923年で,有効期間は10年。太平洋の島々における相互の権利尊重,現状維持をはかったもの。発効とともに日英同盟は廃棄された。
志賀重昂
しがしげたか @@@LINK=志賀重昂 志賀重昂

志賀重昂
しがしげたか

1863〜1927
明治・大正時代の地理学者・評論家
三河(愛知県)の生まれ。札幌農学校卒業後,南洋諸島を巡歴。1888年政教社結成に参加し,雑誌『日本人』に国粋保存主義論陣を張る。著書に『南洋時事』『日本風景論』『世界山水図説』など。

地方三帳
じかたさんちょう @@@LINK=地方三帳 地方三帳

地方三帳
じかたさんちょう

江戸時代,貢租徴収のための基本的な帳簿
取箇郷帳 (おとりかごうちよう) (各村の村高や反別など基本的事項を記載)・御年貢割付帳・御年貢皆済目録 (かいさいもくろく) の3帳をいう。1649年ころ天領でととのえられ,諸藩もならった。郷帳は毎年5月末,割付帳は12月,皆済目録は2月ごろ作成された。
地方三役
じかたさんやく @@@LINK=地方三役 地方三役

地方三役
じかたさんやく

江戸時代,村役人総称
村方三役ともいう。名称は地方により異なるが,名主 (なぬし) (庄屋)・組頭百姓代が一般的。本百姓中から互選されるのが原則だが,世襲輪番制もあった。郷村制の自治的な機能を残しつつ,幕藩体制の末端機構に組みこまれ,代官など地方役人のもとで村の行政にあたった。名主は領主命令を伝え村単位の年貢納入,1名。組頭は名主を補佐,数名を置く。百姓代は村民の代表で年貢割当てなどに立ち会い,名主・組頭の仕事を監視し,1ないし数名。元禄(1688〜1704)以後の設置が多い。
地方書
じかたしょ @@@LINK=地方書 地方書

地方書
じかたしょ

江戸時代,農政全般について記した書物の総称
田制・税法を中心にして記述し,検地・年貢石盛・新田開発など農村生活の全般にわたり論述。17世紀末より現れ,農学者や村役人による著述が多く,江戸時代の農村研究の重要史料。『地方凡例録』『地方落穂集』『田園類説』『民間省要』などは有名。
地方知行制度
じかたちぎょうせいど @@@LINK=地方知行制度 地方知行制度

地方知行制度
じかたちぎょうせいど

江戸時代,家臣主君の土地を知行地として分与される制度
江戸前期から,大名は家臣に地方知行を認めつつ,城下町に集住させて家臣を知行地から切り離し,知行権にも制約を加えたので,実質的には地方知行が減少した。知行地には代官を派遣し,家臣には俸禄としての年貢米のみ支給する俸禄制移行した。この知行制の俸禄制への移行とともに藩主権力が強化され,藩体制がととのった。
地方凡例録
じかたはんれいろく @@@LINK=地方凡例録 地方凡例録

地方凡例録
じかたはんれいろく

江戸時代後期,代表的地方書
高崎藩士大石久敬 (きゆうけい) の著。1792年の作。11巻。検地・石盛小作制度・諸税・地方帳簿・慣例・取扱法など,農政関係一般にわたる豊富な内容をもち,民政研究上不可欠の史料。
私学校
しがっこう @@@LINK=私学校 私学校

私学校
しがっこう

征韓論に破れて帰郷した西郷隆盛が,1874年6月鹿児島に設立した学校
銃隊学校・砲隊学校からなり,県下に136分校をもった。青少年に軍事・思想教育を行い,県令大山綱良 (つなよし) も支持し,県内の区長・市長警察官に至るまで私学校の幹部でうめ,西南戦争までの鹿児島県の県政中央政府とは無関係に私学校党によって行われた。
志賀直哉
しがなおや @@@LINK=志賀直哉 志賀直哉

志賀直哉
しがなおや

1883〜1971
大正・昭和期の小説家
宮城県の生まれ。学習院を経て東大英文科中退。武者小路実篤らと1910年『白樺』を創刊,白樺派の代表作家であり,短編小説の日本的完成者とされる。 鋭い感受性,強烈な自我意識,簡潔的確な独特のリアリズムは他に比類がない。1949年文化勲章受章。代表作に『暗夜行路』『城の崎にて』『和解』など。

志賀島
しかのしま @@@LINK=志賀島 志賀島

志賀島
しかのしま

福岡市東区志賀島,博多湾の東側突端にある島
『万葉集』にもよまれた景勝地。1784年百姓甚兵衛によって島の海辺に近い田の中から「漢委奴国王」の金印が発掘された。
紫香楽宮
しがらきのみや @@@LINK=紫香楽宮 紫香楽宮

紫香楽宮
しがらきのみや

奈良時代,聖武天皇が一時遷都した都
「信楽宮」とも書き,甲賀宮ともいう。現在の滋賀県甲賀郡信楽町。740年の藤原広嗣の乱後,皇居を恭仁 (くに) 京に移した天皇は,742年紫香楽の地に離宮を造ってしばしば行幸し,翌743年にはこの地で大仏造立を発願。745年1月ここを都としたが,不評のため同年5月平城京に帰った。
信楽焼
しがらきやき @@@LINK=信楽焼 信楽焼

信楽焼
しがらきやき

滋賀県南部,信楽地方で産する陶器
質がで,赤褐色のものが多い。室町時代の茶の湯の流行で,茶道の道具を焼くようになった。
地借
じがり @@@LINK=地借 地借

地借
じがり

江戸時代,都市の借地人
借地に家を建てて住む町人で,店借 (たながり) と同じく人別帳に記載されるが一人前扱いされず,町政への発言権もなかった。
詞花和歌集
しかわかしゅう @@@LINK=詞花和歌集 詞花和歌集

詞花和歌集
しかわかしゅう

平安後期,第6番目の勅撰和歌集。八代集の一つ
1144年崇徳上皇の命により藤原顕輔 (あきすけ) が編纂,'51年ころ成立。10巻。『後撰和歌集』以後の歌約400首をおさめる。平淡で沈潜した歌風。三代集の伝統脱出への試みがみられる。

しき @@@LINK=式 式


しき

律令や格の施行細則のこと。➡ 格式 (きやくしき)

しき @@@LINK=職 職


しき

「つかさ」という国語に相当する語で,職務や職掌の意味
①律令官制の中宮職・大膳職・左右京職・摂津職など。
②中世,荘園制の発展に伴い,地頭職・預所 (あずかりどころ) 職・下司 (げし) 職など,職務に付随した土地用益権をも意味するようになり,さらにその収益権のみをさすようになった。

敷石式住居
しきいししきじゅうきょ @@@LINK=敷石式住居 敷石式住居

敷石式住居
しきいししきじゅうきょ

縄文時代中期末〜後期に行われた住居の一形式
床面に平らなを敷き並べたもので,概して円形をなし,一方に張り出し部を有するものもある。関東地方南西部から中部地方に分布している。
式家
しきけ @@@LINK=式家 式家

式家
しきけ

藤原四家の一つ
不比等の3男宇合 (うまかい) が。奈良後期から平安初期にかけて広嗣・百川 (ももかわ) ・種継・緒嗣などが出て他家をしのいだが,810年薬子・仲成らがおこした薬子の変以後ふるわなくなった。
私擬憲法
しぎけんぽう @@@LINK=私擬憲法 私擬憲法

私擬憲法
しぎけんぽう

明治前期の憲法私案の総称
幕末維新期に西周 (にしあまね) 案・青木周蔵案などがあるが,主として自由民権運動発展期,1880年国会期成同盟大会で憲法見込案をつくるよう決議してから翌年にかけて民間で作成された私案。自由党系案はアメリカ・フランス風で,植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」,立志社の「日本憲法見込案」など。一院制・主権在民・基本的人権の保障を規定した。立憲改進党系案の「交詢社憲法案」などはイギリス風の立憲君主制を基調とする。その他君主権よりも人民の権利を優先するとした東京五日市の農民らによる「五日市憲法」や,天皇主権の「国憲意見」などもある。
直参
じきさん @@@LINK=直参 直参

直参
じきさん

江戸時代,旗本・御家人の総称
将軍直属の家臣の意で,三河以来の徳川家の臣のうち大名とならなかった者(1万石以下)で構成。将軍との主従関係では大名に相当するとし,家禄は少ないが誇りをもった。享保年間(1716〜36)約2万2000余名。
信貴山縁起絵巻
しぎさんえんぎえまき @@@LINK=信貴山縁起絵巻 信貴山縁起絵巻

信貴山縁起絵巻
しぎさんえんぎえまき

平安後期の絵巻物
3巻。信貴山に毘沙門天を祭った僧命蓮 (みようれん) に関する奇跡談を描いたもの。大和絵の流暢な筆致と躍動的な人物表現の巧妙さは絵巻物の傑作とされている。鳥羽僧正画ともいわれるが不詳。奈良県生駒郡の信貴山朝護孫子寺蔵。国宝。
四季山水図巻
しきさんすいずかん @@@LINK=四季山水図巻 四季山水図巻

四季山水図巻
しきさんすいずかん

山水長巻
職事官
しきじかん @@@LINK=職事官 職事官

職事官
しきじかん

律令制下,位階があって官職についている者
これに対して位階はもっているが官職のない者を散位・散官といって区別した。
式子内親王
しきしないしんのう @@@LINK=式子内親王 式子内親王

式子内親王
しきしないしんのう

?〜1201
平安末期・鎌倉前期の女流歌人
後白河天皇の第3皇女。賀茂斎院 (さいいん) となり,のちに出家。特に恋歌にすぐれ,和泉式部以後の女流歌人の第一人者。歌は『千載 (せんざい) 和歌集』『新古今和歌集』みえ,また家集『式子内親王集』がある。

直訴
じきそ @@@LINK=直訴 直訴

直訴
じきそ

所定の手続きを経ないで直接に領主へ訴え出ること
越訴 (おつそ) の一種。江戸時代,農民運動の一形態としてみられる。五人組に断って村役人へ申し出,その奥印を得て訴えるのが順序であるが,それをしないで将軍・大名などに直接訴えるもの。極刑に処せられた。下総佐倉惣五郎が有名。
式亭三馬
しきていさんば @@@LINK=式亭三馬 式亭三馬

式亭三馬
しきていさんば

1776〜1822
江戸後期の滑稽本作者
本名菊地泰輔,通称西宮太助。別号四季山人・本町庵など多数。江戸浅草の人。洒落本・黄表紙・合巻・読本 (よみほん) も書いたが,日常会話の応酬を写実的に描き,江戸庶民の生態を鋭くスケッチした滑稽本『浮世風呂』『浮世床』が特に有名。十返舎一九 (じつぺんしやいつく) とともに滑稽本の二大作家。

職田
しきでん @@@LINK=職田 職田

職田
しきでん

律令制で,内外の官人に支給された田地
職分田ともいう。原則として不輸租田。太政大臣は40町,左右大臣30町,大納言20町,大宰帥 (だざいのそつ) 10町,大宰府官人6町以下,国司2.6町以下,郡司6町以下。職を離れれば返還した。律令制の衰退とともに私有地化した。
式内社
しきないしゃ @@@LINK=式内社 式内社

式内社
しきないしゃ

平安中期,延喜式神名帳に記載された神社
式社・官社ともいう。神祇官が奉幣する官幣 (かんぺい) 社と国司が奉幣する国幣 (こくへい) 社の別がある。ほかの神社(式外社)と区別した待遇をうけた。全国で3132座。
式年遷宮
しきねんせんぐう @@@LINK=式年遷宮 式年遷宮

式年遷宮
しきねんせんぐう

一定の年数を経過するごとに神殿を造営し,神体を移すこと
伊勢神宮では奈良時代以降20年目,出雲大社では60年目というように,多くの神社で現在でも行っている。
四季農戒書
しきのうかいしょ @@@LINK=四季農戒書 四季農戒書

四季農戒書
しきのうかいしょ

江戸初期,農政書
上杉景勝の重臣直江兼続 (かねつぐ) (1560〜1619)の。1年間の農家労働・生活について,その細部にわたっての教訓の書。
職封
しきふ @@@LINK=職封 職封

職封
しきふ

律令制下,大納言以上の官職に対して与えられた封禄の一つ
大化以来の食封 (じきふ) が大宝令では,位封・職封・功封に区分された。太政大臣に3000戸,左右大臣2000戸,大納言800戸の職封が与えられ,封戸 (ふこ) の租の半分(739年より全部)・庸・調の全部が支給された。のち中納言(200戸〈のち400戸〉)・参議(80戸)にも与えられた。
食封
じきふ @@@LINK=食封 食封

食封
じきふ

律令制下,皇族・高位高官者・寺社などに与えられた封禄の一つ
大化の改新のとき,私地私民を廃止した代償として大夫以上に支給したのが始まりで,大宝令で完備。一定数の郷戸を封戸 (ふこ) に指定して,その租の半分,庸・調の全部および仕丁 (しちよう) を支給した。律令貴族の重要な経済的基盤で,一部の封戸はのち荘園化した。
式部省
しきぶしょう @@@LINK=式部省 式部省

式部省
しきぶしょう

律令官制の八省の一つ
太政官の左弁官に属し,文官の名簿の管理・考課・選叙,位記・礼式,位禄・季禄支給,朝集・学校・試験など人事・儀式・教育全般についてつかさどった。職員には卿 (かみ) 以下四等官があり,平安時代以降,卿は親王から,輔 (すけ) は日野・菅原・大江家などの儒学者をあてる慣例が生まれた。
直播
じきまき @@@LINK=直播 直播

直播
じきまき

種もみを直接水田にまいて,田植えをしない農法
「じかまき」とも読む。弥生時代から行われていたが,田植えが始まってからあまり見られなくなった。
式目追加
しきもくついか @@@LINK=式目追加 式目追加

式目追加
しきもくついか

鎌倉幕府が御成敗式目を補充・改廃するために発布した法令
御成敗式目は「本条」または「本式目」といわれる。式目追加を集めたものに「新編追加」「新式目」「侍所沙汰篇」などがある。
四鏡
しきょう @@@LINK=四鏡 四鏡

四鏡
しきょう

平安後期〜南北朝時代,『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』の4歴史物語の総称
鏡とは時世をうつし出すものので,歴史書のこと。
職・寮
しき・りょう・し @@@LINK=職・寮 職・寮

職・寮
しき・りょう・し

律令官制の八省の下に置かれた多数官庁の名称
それぞれの役所機構大小によって,と呼ばれた。たとえば大膳職 (だいぜんしき) ・図書寮 (ずしよりよう) ・内礼司など。その間に上下の関係はない。職員四等官に分かれ,技術者や駆使丁がいた。
地下請
じげうけ @@@LINK=地下請 地下請

地下請
じげうけ

百姓請
地下掟
じげおきて @@@LINK=地下掟 地下掟

地下掟
じげおきて

村掟
地下・地下人
じげ・じげにん @@@LINK=地下・地下人 地下・地下人

地下・地下人
じげ・じげにん

一般には宮中に仕える人びと以外の者
本来は「殿上」の対語で,昇殿を許されない官人をさし,通常六位以下の者。平安時代以後,家格の固定化により公家の「堂上 (とうしよう) 」に対して農民を中心として武家を含む公家以外の人びとの称呼となった。
重野安繹
しげのやすつぐ @@@LINK=重野安繹 重野安繹

重野安繹
しげのやすつぐ

1827〜1910
明治時代の歴史学者
薩摩藩出身。造士館から昌平坂学問所に学ぶ。1875年以降修史局で『大日本編年史』の編纂を主宰。'88年東大教授となる。国史科の設置に尽力し,実証主義史学の基礎を築いた。著書に『国史眼』『国史綜覧稿』など。

重光葵
しげみつまもる @@@LINK=重光葵 重光葵

重光葵
しげみつまもる

1887〜1957
大正・昭和期の外交官・政治家
大分県の生まれ。東大卒。駐華公使在任中,1931年上海で爆弾を投ぜられて負傷し片足を失う。中国・ソ連・イギリス各大使を経て東条英機内閣の外相,小磯国昭・東久邇宮稔彦 (ひがしくにのみやなるひこ) 両内閣の外相・大東亜相を歴任。終戦の際,政府代表として降伏文書に調印した。第二次世界大戦後,A級戦犯として禁錮7年の判決をうけ,'50年仮釈放。'52年日本改進党総裁に迎えられ,その後自由民主党に参加。第1〜3次鳩山一郎内閣の外相として日ソ国交回復,日本の国連加盟を実現した。

四国艦隊下関砲撃事件
しこくかんたいしものせきほうげきじけん @@@LINK=四国艦隊下関砲撃事件 四国艦隊下関砲撃事件

四国艦隊下関砲撃事件
しこくかんたいしものせきほうげきじけん

幕末,長州藩による外国船砲撃に対する四国連合艦隊の報復砲撃事件
下関事件ともいう。1863年,文久の打払令によって長州藩が下関海峡通過中のアメリカ・フランス・オランダ船を砲撃したので,翌'64年イギリスを加えた四国連合艦隊は下関砲台を攻撃し,長州藩を屈伏させた。これにより長州藩は攘夷の不可能を認識し,以後イギリスに接近した。
色丹
しこたん @@@LINK=色丹 色丹

色丹
しこたん

北海道根室半島沖にある島。
自作農創設特別措置法
じさくのうそうせつとくべつそちほう @@@LINK=自作農創設特別措置法 自作農創設特別措置法

自作農創設特別措置法
じさくのうそうせつとくべつそちほう

1946年10月21日公布された農地改革の中心法律
この法と農地調整法による改革は第2次農地改革といわれ,在村地主小作地保有量は1町歩まで,不在地主の全所有地は国が強制買収小作農は優先的に土地買い,残った小作地の小作料は金納化された。
地侍
じざむらい @@@LINK=地侍 地侍

地侍
じざむらい

南北朝〜戦国時代の在郷土着の武士
有力名主で農業経営を行う一方,小領主化し,惣の指導者,土一揆の主勢力となり,下剋上の原動力であった。やがて戦国大名の家臣として城下町に住むか,郷士として農村にとどまった。
地子
ちし @@@LINK=地子 地子
じし @@@LINK=地子 地子

地子
ちし

古代〜近世にかけての土地使用料
「じし」とも読む。律令制下では,公田を公民に貸与して得る賃租料のこと。荘園制のもとでは,畑や屋敷など田以外の土地に課せられる賦課をいう。荘園領主に納めるのを本地子,作人が名主(地主)に納めるのを加地子といった。近世においては,おもに市街地に課せられる租税で,一般に銀および銭納であった。地方によっては,小作料を地子と称した。

地子
じし

ちし
鹿ケ谷の陰謀
ししがたにのいんぼう @@@LINK=鹿ケ谷の陰謀 鹿ケ谷の陰謀

鹿ケ谷の陰謀
ししがたにのいんぼう

平安末期の1177年,京都郊外の鹿ケ谷でなされた平氏打倒の謀議事件
鹿ケ谷事件ともいう。後白河法皇近臣藤原成親・藤原成経・西光・僧俊寛らが中心となったが,密告により発覚し,西光は死罪,成親は備前国に配流後殺害され,ほかは薩摩国鬼界ケ島に流された。
四職
ししき @@@LINK=四職 四職

四職
ししき

室町幕府侍所 (さむらいどころ) の所司 (しよし) に任じられる家柄の4氏
「ししょく」とも読む。所司は初め今川・細川・山名ら有力諸将から選ばれたが,1398年からは山名・赤松・一色・京極の4氏に定まり,四職と呼んだ。武士進退,京都の警備などをつかさどり,三管領につぐ重職。応仁の乱(1467〜77)後名目化し置かれなくなった。
時事新報
じじしんぽう @@@LINK=時事新報 時事新報

時事新報
じじしんぽう

明治〜昭和期の新聞
1882年福沢諭吉が創刊。当時政治論を主とした新聞の中で不偏不党の立場に立って報道を行い,やがて『東京日日新聞』『大阪朝日新聞』などと並ぶ有力紙となる。1936年『東京日日新聞』に合併廃刊。
地子銭
じしせん @@@LINK=地子銭 地子銭

地子銭
じしせん

地子 (ちし)
寺社奉行
じしゃぶぎょう @@@LINK=寺社奉行 寺社奉行

寺社奉行
じしゃぶぎょう

江戸時代,幕府の職名
定員はおよそ4名で,全国の寺社・寺社領の人民・僧侶・神職などを支配。三奉行中最も地位が高く,譜代大名から選任された。評定所の構成員。
時宗
じしゅう @@@LINK=時宗 時宗

時宗
じしゅう

鎌倉中期,一遍によって開かれた浄土教の一派
臨命終時宗ともいう。すなわち日常の一瞬を臨終のときと考え,常に怠らず称名念仏することを説いた。一遍が諸国を行脚 (あんぎや) して念仏踊を行いつつ教化したので遊行宗と呼ばれ,その僧を遊行聖といって一所不住を原則としたが,一遍の死後,弟子たちは一所に道場を構える者が多くなった。関東を中心に武士・庶民に信仰され,鎌倉末期〜室町初期に盛ん。信者には阿弥号を称する者が多い。本山は神奈川県藤沢市の清浄光 (しようじようこう) 寺(遊行寺)。
時習館
じしゅうかん @@@LINK=時習館 時習館

時習館
じしゅうかん

江戸時代,熊本藩の藩校
1754年藩主細川重賢 (しげかた) が創設。朱子学以外の学派も教え,庶民の子弟でも入学の機会を与えるなど,他の藩校の模範となった
慈照寺
じしょうじ @@@LINK=慈照寺 慈照寺

慈照寺
じしょうじ

銀閣
治承・寿永の乱
じしょう・じゅえいのらん @@@LINK=治承・寿永の乱 治承・寿永の乱

治承・寿永の乱
じしょう・じゅえいのらん

源平の争乱
四条畷の戦い
しじょうなわてのたたかい @@@LINK=四条畷の戦い 四条畷の戦い

四条畷の戦い
しじょうなわてのたたかい

南北朝時代,河内国(大阪府)四条畷で行われた楠木正行 (まさつら) と高師直 (こうのもろなお) らとの戦い
1348年一挙に吉野皇居を突くため出撃した北朝方の師直らの大軍を,南朝方正行が河内国の四条畷に迎え討ち,奮戦したが敗死。この後吉野はおち,後村上天皇賀名生 (あのう) に移った。
四条派
しじょうは @@@LINK=四条派 四条派

四条派
しじょうは

江戸後期に創始された日本画の流派
開祖の呉春(松村月溪)が京都四条通りに住んでいたのでこの名がある。呉春は円山応挙に学んだが,応挙の死後,円山派より叙情的な四条派を開き,京都画壇の主流を占め,系譜は現代まで続く。
資人
しじん @@@LINK=資人 資人

資人
しじん

律令制における下級官人
親王や上級貴族に仕え,雑役・護衛にあたった。よみでは「とねり」。
地震研究所
じしんけんきゅうじょ @@@LINK=地震研究所 地震研究所

地震研究所
じしんけんきゅうじょ

1925年設立された東大の付属研究機関
関東大震災を契機として,長岡半太郎らの尽力により新設された。初代所長は末広恭二。
紫宸殿
ししんでん @@@LINK=紫宸殿 紫宸殿

紫宸殿
ししんでん

平安京内裏の正殿
「ししいでん」とも読む。南殿 (なでん) ・前殿とも呼ばれ,即位・朝賀など大小の儀式が行われた。入母屋造・檜皮葺 (ひわだぶき) の建物で,殿舎の中央に御帳台,前庭には左近の桜,右近の橘があった。現在の京都御所は江戸末期のものだが古制を残している。
私出挙
しすいこ @@@LINK=私出挙 私出挙

私出挙
しすいこ

出挙の一種で,地方豪族などが貸付けた。
静岡事件
しずおかじけん @@@LINK=静岡事件 静岡事件

静岡事件
しずおかじけん

1886年,静岡県でおこった自由民権運動最後の激化事件
静岡県の旧自由党員が政府転覆のため箱根離宮落成式臨席の政府高官の暗殺を計画,発覚し百余名が逮捕された。彼らの中には銀行を襲撃した者もあったので国事犯であることを隠すため,25名が強盗罪として処罰された。
賤ケ岳の戦い
しずがたけのたたかい @@@LINK=賤ケ岳の戦い 賤ケ岳の戦い

賤ケ岳の戦い
しずがたけのたたかい

安土桃山時代,近江国(滋賀県)賤ケ岳で行われた豊臣秀吉柴田勝家を破った合戦
本能寺の変後,両者織田信長の後継者の地位を争い,1583年琵琶湖北方において合戦。秀吉旗下の福島正則加藤清正らのいわゆる七本槍が奮戦し勝家を撃破した。勝家は越前北庄にのがれ自刃。以後秀吉の声望が高まった。
閑谷学校
しずたにがっこう @@@LINK=閑谷学校 閑谷学校

閑谷学校
しずたにがっこう

江戸時代,岡山藩の郷学
閑谷黌 (しずたにこう) ともいう。1668年藩主池田光政が村々に設置した手習所のうち閑谷村の手習所に始まり,のち125か所の施設を併合。農村子弟を教育した。郷学の最も早い例。1870年廃校。現在,岡山県備前市に津田永忠の建設した遺構がある。
四姓
しせい @@@LINK=四姓 四姓

四姓
しせい

源・平・藤原・橘の有力4氏
奈良時代から鎌倉時代にかけての有力な氏。源・平・橘は,7世紀以後皇族から臣籍降下した氏に与えられた姓。
氏姓制度
しせいせいど @@@LINK=氏姓制度 氏姓制度

氏姓制度
しせいせいど

大和政権の氏を単位とする政治・社会の組織
支配階級を構成する豪族の同族集団である氏の社会的地位を姓 (かばね) によって政治的に秩序づけた制度。中央には臣 (おみ) ・連 (むらじ) の姓を有する大豪族と皇室の部民を管理する伴造 (とものみやつこ) や造 (みやつこ) などの姓を有する小豪族とがあり,皇室を中心に政権を形成。地方には公 (きみ) ・直 (あたい) などの姓を有する国造 (くにのみやつこ) と県主 (あがたぬし) ・稲置 (いなぎ) などの氏があり,国・県 (あがた) を支配した。4世紀以来,大和政権の発展とともにしだいに整備されたが,大化の改新によって廃止された。また,この時期に発展した文化が古墳文化と飛鳥文化である。
市制・町村制
しせい・ちょうそんせい @@@LINK=市制・町村制 市制・町村制

市制・町村制
しせい・ちょうそんせい

1888(明治21)年制定された地方自治制
モッセ助言と内相山県有朋推進により制定。自由民権運動の要求にこたえる面と,立憲制開始の前に官僚支配の末端機構としての自治体を育てあげ,中央の政争が地方に波及しないようにする面の二つの狙いをもっている。自治権は弱かった。
史籍集覧
しせきしゅうらん @@@LINK=史籍集覧 史籍集覧

史籍集覧
しせきしゅうらん

明治中期,平安時代から江戸末期に至る記録・編集物を収集した叢書
旧岡崎藩儒者近藤瓶城 (へいじよう) が独力で収集,出版したもので,467冊。総目解題1冊。歴史・地理法制文学・美術・宗教など各方面のものを集め,『国史大系』『群書類従』を補う重要文献。
支石墓
しせきぼ @@@LINK=支石墓 支石墓

支石墓
しせきぼ

弥生時代,北九州地方に行われた墳墓の一形式
数個の石塊を並べて上の大形の板石を支え,その下に遺骸を置いた。埋葬は甕棺 (かめかん) をうめたものが多く,福岡県須玖 (すぐ) 支石墓のように,銅鏡・銅剣銅鉾 (どうほこ) ・玉類を出土するものもあり,当時の小地域の首長や有力者の墓と考えられている。
自然経済
しぜんけいざい @@@LINK=自然経済 自然経済

自然経済
しぜんけいざい

自給自足経済
②実物経済
家族または何らかの人間集団が,その生活で心要とするすべての財貨をその集団内部でみずから取得する経済。
貨幣を用いないで物と物とを直接交換する経済。
自然主義
しぜんしゅぎ @@@LINK=自然主義 自然主義

自然主義
しぜんしゅぎ

19世紀後半,フランスにおこった文芸思潮で,人間を形成する遺伝と環境を観察分析し,ありのままの人生をとらえて,病弊を解明しようとするもの
日本では1900年ころから小杉天外や永井荷風が手法を試み,島崎藤村の『破戒』や田山花袋の『蒲団 (ふとん) 』によって文壇主流となった。つづいて正宗白鳥・岩野泡鳴・徳田秋声らの作品や,島村抱月らの評論が現れ,明治末期に全盛を誇ったが,自我の追求をめざしながら社会的視野を失い,私小説への道を開いた。
泗川の戦い
しせんのたたかい @@@LINK=泗川の戦い 泗川の戦い

泗川の戦い
しせんのたたかい

1598年,慶長の役における一戦闘
慶長の再征にさいし,明・朝鮮の大軍が日本軍を攻撃したが,慶尚南道の泗川城において島津義弘らが奮戦し,城を守った。この勝利により日本軍の撤兵が容易になった。
地蔵信仰
じぞうしんこう @@@LINK=地蔵信仰 地蔵信仰

地蔵信仰
じぞうしんこう

平安中期から行われた地蔵菩薩に対する信仰
地獄に落ちたとき,地蔵に助けてもらって極楽に入れてもらおうという後世信仰と,地蔵によって危難をのがれたり,現世利益を得ようとする現世信仰の2種がある。平安時代は後世信仰が強かったが,時代が下るとともに現世利益的となり,民衆の間に広まった。
士族
しぞく @@@LINK=士族 士族

士族
しぞく

明治維新後に旧武士に与えられた身分呼称
1869年版籍奉還とともに旧武士とその家族は華族の下,平民の上位として士族とされた。'70年旧足軽以下の士族は卒族としたが,'72年これを廃して世襲の卒は士族に,一代限りの卒は平民に属させた。'73年初めには士族40万8000余戸,189万余人であった。一部は官界・軍部などの指導者となったが大部分は没落。一部は士族反乱や自由民権運動に参加した。1947年戸籍法改正により廃止。
氏族社会
しぞくしゃかい @@@LINK=氏族社会 氏族社会

氏族社会
しぞくしゃかい

同一血縁または血縁と信じる人びとの集団である氏族を基礎とする社会
原始社会に広くみられる社会組織で,共同生活を行い,重要事項は集団員全員の会議によって決定。また,同一氏族内の婚姻は禁止された(族外婚)。
士族授産
しぞくじゅさん @@@LINK=士族授産 士族授産

士族授産
しぞくじゅさん

明治初期の士族救済政策
廃藩置県・徴兵令・秩禄処分などで失業し窮乏した士族の生活を救い,その反抗をやわらげるため,政府は北海道屯田兵 (とんでんへい) などの開墾移住や授産資金貸付けなどを進めた。士族の多くは農業や商工業に従事し,農業では成功する者もあったが,商工業では「士族の商法」と言われたように自負心だけ強く知識経験がないので大部分が失敗した。
士族の反乱
しぞくのはんらん @@@LINK=士族の反乱 士族の反乱

士族の反乱
しぞくのはんらん

明治初年におこった不平士族による反乱
廃藩置県・徴兵令施行秩禄処分など,近代化のための諸政策が進むにつれて,封建的特権を失った士族の多くは経済的にも没落し,政府への不満は高まった。これに征韓論問題も加わり,1874年の佐賀の乱,'76年神風連の乱秋月の乱・萩の乱と各地で反乱がおこったが,'77年西南戦争後は武力反抗は終わり自由民権運動の形で反政府運動を続けた。
事大党
じだいとう @@@LINK=事大党 事大党

事大党
じだいとう

李氏朝鮮末期の保守的党派
明治初期,日本と結んで政治を革新しようとする独立党に対し,保守的政治家は清国を背景にして王妃の閔妃 (びんひ) を中心に権勢温存をはかった。この勢力が事大党で,1884年甲申事変ののち優勢であったが,日清戦争に清が敗北し,閔妃が暗殺されるとともに衰え,親露派に変わる者も多かった。
時代物
じだいもの @@@LINK=時代物 時代物

時代物
じだいもの

江戸時代,歌舞伎・浄瑠璃・小説の分類
世話物に対し,江戸およびそれ以前の武将の軍記などを描いたもの。たとえば近松門左衛門国性爺合戦』,竹田出雲『菅原伝授手習鑑』など。
下地
したじ @@@LINK=下地 下地

下地
したじ

中世,収益を意味する上分に対し,それらの収益を実現するための対象となる土地をいう
したがって田畑・山林・塩浜などが含まれる。
下地中分
したじちゅうぶん @@@LINK=下地中分 下地中分

下地中分
したじちゅうぶん

中世,荘園を地頭と荘園領主で分割支配すること
鎌倉時代の中ごろから地頭はしばしば年貢を納めなかったり,土地を横領したりして,荘園領主との間に争論が絶えなかった。その解決法として荘園そのもの(下地)を折半して,互いにその領有を認めて侵犯しないようにした。これには幕府の裁決(強制中分)と両者の自主的和解(和与中分)による場合とがある。鎌倉中期以降急速に増加し,地頭請とともに地頭の荘園支配権を強化し,荘園制崩壊を促した。
師団
しだん @@@LINK=師団 師団

師団
しだん

①旧陸軍の兵力編成単位
②陸上自衛隊の兵力編成単位
1888年師団司令部条例を公布対外戦争主眼として従来の鎮台を改編。師団司令部をもち,独立して作戦しうる戦略単位として編成。師団数は,日清戦争までは7,以後増設され,第二次世界大戦の敗戦時には約200個師団が各地に散在していた。
1962年従来の管区隊を師団に改編。

しち @@@LINK=質 質


しち

債務返済の証拠(担保)として債権者に渡す財産(人・動産・不動産)
返済期限を過ぎると債権者の所有となった(質流れ)。古代,出挙 (すいこ) の形で質をとる例があるが,貨幣経済が普及した鎌倉時代以後,高利貸業者(借上・土倉酒屋)が現れて質をとった。江戸時代,質屋のほか,御用商人や札差 (ふださし) が年貢俸禄などを担保に大名・旗本らに金融をし,農村では田畑永代売買は禁止されたが,富農が貧農の田畑を担保にして金融をし,貧富の差を増大させた。また武士間では人質,庶民では質奉公なども行われた。
七卿落ち
しちきょうおち @@@LINK=七卿落ち 七卿落ち

七卿落ち
しちきょうおち

幕末尊攘派の7人の公家が失脚して京都から長州にのがれた事件
1863(文久3)年八月十八日の政変により公武合体派が優勢になったので,三条実美 (さねとみ) ・沢宣嘉 (のぶよし) ・東久世通禧 (みちとみ) ら尊攘派の7公家が京都を脱出,海路周防 (すおう) (山口県)三田尻へのがれた。長州と結ぶ尊攘派勢力は一時朝廷から一掃された。
七支刀
しちしとう @@@LINK=七支刀 七支刀

七支刀
しちしとう

石上神宮七支刀 (いそのかみじんぐうしちしとう)
七条仏所
しちじょうぶっしょ @@@LINK=七条仏所 七条仏所

七条仏所
しちじょうぶっしょ

平安・鎌倉時代,京都七条にあった仏像の製作所
平安中期,仏師定朝の子覚助に始まるという。鎌倉時代に奈良仏師系統をひく運慶一派がここで活躍。湛慶・快慶らの名匠を輩出した。また,ここの仏師を慶派ともいう。
七大寺
しちだいじ @@@LINK=七大寺 七大寺

七大寺
しちだいじ

南都七大寺
七道
しちどう @@@LINK=七道 七道

七道
しちどう

律令制における地方行政区画。➡ 五畿七道
七堂伽藍
しちどうがらん @@@LINK=七堂伽藍 七堂伽藍

七堂伽藍
しちどうがらん

寺院における主要堂宇の総称
「七」は数量を表すのではなく,必要なものがみな備わっているという意味。鎌倉時代以来の用語らしく,内容は一定していないが,金堂・講堂・塔・食堂 (じきどう) ・鐘楼・経蔵・僧坊など。
質流地禁止令
しちながれちきんしれい @@@LINK=質流地禁止令 質流地禁止令

質流地禁止令
しちながれちきんしれい

江戸中期,質流れの形で田畑が売買されるのを禁じた法令
1722年,8代将軍徳川吉宗が農民層の分解を阻止しようとして出したが,質地騒動がおこったので,'23年撤回した。
七博士意見書
しちはかせいけんしょ @@@LINK=七博士意見書 七博士意見書

七博士意見書
しちはかせいけんしょ

日露戦争前,東京帝国大学教授戸水寛人 (とみずひろんど) ら7博士の主戦論運動
戸水をはじめ東京帝国大学教授富井政章・金井延 (のぶる) ,学習院教授中村進午らは義和団事件後の対ロシア強硬外交を主張し,日露戦争前の1903年には開戦論を展開,政府に建議し,新聞・雑誌への執筆遊説を行った。また日露講和条約調印にも反対を唱えたので,政府は戸水を休職とした。これに対し,東京帝国大学教授陣は言論・研究の自由の侵害だとして強く抗議したので撤回された(戸水事件)。
七福神
しちふくじん @@@LINK=七福神 七福神

七福神
しちふくじん

中世に盛行した福神信仰の7神をいう
恵比須(日本の神)・大黒天・毘沙門天・弁財天(以上,インドの神)・布袋 (ほてい) ・福禄寿・寿老人(以上,中国の伝説的高士)の総称。民間信仰と現世利益神道・仏教・道教の諸神仏を集めたもの。
七分積金
しちぶつみきん @@@LINK=七分積金 七分積金

七分積金
しちぶつみきん

江戸後期,寛政改革一環として老中松平定信が実施した政策
1791年定信は,江戸の町人が負担した町入用の倹約を命じ,倹約分の2分を町人に,1分を各町で積み立て,残りの7分を毎年江戸町会所に積み立てさせ,幕府も2万両を補助して,窮民救済・不時の災害にあてさせた。この政策は定信失脚後も受け継がれ,明治維新後東京府庁・市役所建築などの資金となった。
私鋳銭
しちゅうせん @@@LINK=私鋳銭 私鋳銭

私鋳銭
しちゅうせん

民間で私的に鋳造された貨幣
私鋳銭は律で厳禁され,鋳銭者は処刑された。鎌倉室町時代には官鋳銭がなく宋銭・明銭が通用し,その私鋳銭が多く出た。品質が悪く鐚銭 (びたせん) と呼ばれ,通用に際し,撰銭 (えりぜに) が行われた。江戸幕府も私鋳銭を厳禁した。
四注造
しちゅうづくり @@@LINK=四注造 四注造

四注造
しちゅうづくり

屋根形式の一種
寄棟 (よせむね) 造ともいう。一般に,前後梯形台形),左右が二等辺三角形で構成される屋根の形。古墳時代家形埴輪にもみえ唐招提寺金堂・東大寺大仏殿・平安京大極殿など重要建造物に多い。
仕丁
しちょう @@@LINK=仕丁 仕丁

仕丁
しちょう

律令制における労役の一つ
1里(50戸)に正丁2人の割で,3年交替に中央官庁の労役に従事した。奈良時代の諸造営事業の重要な労働力であった。費用はその里の共同負担で,実際は相当長期間にわたったので逃亡する者もあった。
慈鎮
じちん @@@LINK=慈鎮 慈鎮

慈鎮
じちん

慈円
実学
じつがく @@@LINK=実学 実学

実学
じつがく

日常生活に役立つ学問
朱子学などの理論的・思弁的学問に対して,読み・書き・そろばんなど庶民の日常生活に必要な知識・教科をさした。8代将軍徳川吉宗は漢訳洋書輸入のをゆるめた。蘭学の輸入は実学の発展に拍車をかけ,医学・農業・本草学・軍事・産業と直接結びつき,その科学性・合理性とあいまって著しく普及した。民衆の啓蒙に役立ち,文明開化期に全盛となった。
漆器
しっき @@@LINK=漆器 漆器

漆器
しっき

漆 (うるし) 塗りの工芸品
福井県鳥浜貝塚から出土した縄文時代前期の遺物が最古。中国の技術を導入しつつ独自に発達し,古代では宮廷の工房で螺鈿 (らでん) ・蒔絵 (まきえ) の名品が製作され,特に蒔絵は中国のものよりすぐれ,輸出された。平安末期から漆工が独立,鎌倉時代には,高蒔絵や宋の堆朱 (ついしゆ) をまねた鎌倉彫などが創出された。東山・桃山・元禄時代は漆芸が進歩し,江戸時代は特に蒔絵が発達。幕府諸藩の保護で各地に特産品を生み,現在に至る。近代化をしりぞけ,伝統的技法を守るものが多い。木地に漆を塗り加工するが,その範囲は茶器をはじめ食器・調度品・仏像・建築物に及んでいる。
志筑忠雄
しづきただお @@@LINK=志筑忠雄 志筑忠雄

志筑忠雄
しづきただお

1760〜1806
江戸中期の天文学者
長崎の人。通詞となったが辞し,本木良永に天文学を学び,研究に没頭,『暦象新書』『求力論』『八円儀』などを翻訳・著述。力学伝来後,数年にして西欧の地動説・星雲説に比すべき研究を展開した。

十訓抄
じっきんしょう @@@LINK=十訓抄 十訓抄

十訓抄
じっきんしょう

鎌倉中期の説話集
1252年刊。3巻。作者は六波羅二﨟左衛門 (ろくはらにろうざえもん) といわれるが,伝記不明。年少者の修養のため朋友・思慮・勘忍など10の儒教的教訓をあげて,その教訓にあたる説話を集めているが,概して常識的・微温的。
執権
しっけん @@@LINK=執権 執権

執権
しっけん

鎌倉幕府で将軍を補佐して幕政を統轄する職
鎌倉時代,初め政所 (まんどころ) 別当 (べつとう) を執権と称し,1203年北条時政が大江広元とともに別当となった。'13年侍所別当和田義盛を滅ぼしたのち,北条義時は政所・侍所の別当を兼任して幕政の主導権を握り,執権と称した。以後北条氏が世襲し,幕政を完全に掌握した。
執権政治
しっけんせいじ @@@LINK=執権政治 執権政治

執権政治
しっけんせいじ

鎌倉時代,執権北条氏が実権を掌握した政治体制
源頼朝の死後,外戚北条氏は畠山・比企・和田らの有力御家人を倒し政所 (まんどころ) の別当 (べつとう) と侍所の別当を兼ね,執権と称した。3代将軍源実朝死後,京都から単に名目上の藤原(摂家)将軍・皇族親王)将軍を迎え,執権北条氏が幕政の実権を握った。承久の乱(1221)後,北条泰時は連署・評定衆を設け,御成敗式目を制定。その孫時頼は引付を設置し,執権政治を名実ともに強固なものとし全盛期を迎えた。元寇後は北条氏嫡流の得宗による専制が進み,執権の地位は相対的に低下した。やがて内管領が実権を握り,政策上の失敗などから御家人層は離反し,1333年幕府が滅亡して執権政治は終わった。
実語教
じつごきょう @@@LINK=実語教 実語教

実語教
じつごきょう

平安末期から明治初期に至る約700年間使用された道徳教科書
弘法大師作と伝えられるが,作者・作年代とも不明。五言絶句48連。「山高きが故に貴からず」で始まり,行動によって獲得された知識の価値を不朽のものとし,また学問の必要性を説く。江戸時代に刊本となり,寺子屋の発達に伴い普及。
執金剛神像
しっこんごうしんぞう @@@LINK=執金剛神像 執金剛神像

執金剛神像
しっこんごうしんぞう

仏法や伽藍を守護する仏像
金剛力士の別称。外敵防御の姿勢で,右手に金剛杵 (しよ) を持ち,左手は拳にして腰をおし忿怒 (ふんぬ) の相をなす。東大寺三月堂の執金剛神像は天平時代の塑像 (そぞう) で, (よろい) や衣に美しい彩色が残っている。
十刹
じっさつ @@@LINK=十刹 十刹

十刹
じっさつ

中世,禅宗寺院の格式。
執事
しつじ @@@LINK=執事 執事

執事
しつじ

鎌倉・室町幕府の職名
①鎌倉幕府の問注所の長官で,三善康信が任じられて以後世襲。
②鎌倉幕府の政所 (まんどころ) の次官で別当 (べつとう) を補佐。二階堂氏が世襲。
③室町幕府の将軍補佐役。
④室町幕府の政所・問注所の長官。伊勢氏(政所),町野・太田両氏(問注所)が世襲。
⑤関東管領の補佐役。のち管領が公方 (くぼう) と称され,執事を管領と改めた。




執政
しっせい @@@LINK=執政 執政

執政
しっせい

①摂政・関白の別称
②1932年3月満州事変後誕生した満州国の元首
江戸幕府では老中・諸藩家老などの通称。明治初年では地方官職の称となった。
のちに皇帝に改められた。満州国の樹立には関東軍ならびにこれに協力した日本人からなる自治指導部があたったが,建国後は執政に清朝最後の皇帝溥儀 (ふぎ) を,国務総理や各部大臣にも満州人をすえた。しかし実権は日系官吏が握った。
質地
しっち @@@LINK=質地 質地

質地
しっち

金銭貸借のとき,担保物件として入れた田畑
律令制下では墾田入れされた。鎌倉時代以降は土地私有のため盛行し,江戸時代田畑永代売買禁止令のため,金融手段として質地が行われた。質地季明けとともに旧主に戻されるが,大部分質流れした。
質地騒動
しっちそうどう @@@LINK=質地騒動 質地騒動

質地騒動
しっちそうどう

1722年,幕府の出した質流し禁令契機としておこった農民騒動
1722年の越後(新潟県)頸城 (くびき) 地方,翌年2月羽前(山形県)長瀞 (ながとろ) の例が著名前者は幕府の禁令を曲解して農民が扇動にのったもの,後者は禁令を公示しない村役人に対する反感も手伝い質入人が質入地を実力で取り戻そうとしたもの。いずれの場合も幕府は弾圧するとともに,'23年10月禁令を撤回した。
十返舎一九
じっぺんしゃいっく @@@LINK=十返舎一九 十返舎一九

十返舎一九
じっぺんしゃいっく

1765〜1831
江戸後期の滑稽本作者
本名重田貞一,通称与七。駿河(静岡県)の下級武士の子。滑稽本『東海道中膝栗毛』の好評以来,「膝栗毛物」を多作。ほかに黄表紙『化物太平記』,人情本『清談峰初花』など。

次丁
じてい @@@LINK=次丁 次丁

次丁
じてい

律令制で,老丁と比較的軽い身体障害者・病人
調の負担は,正丁 (せいてい) の2分の1であった。
幣原外交
しではらがいこう @@@LINK=幣原外交 幣原外交

幣原外交
しではらがいこう

協調外交
幣原喜重郎
しではらきじゅうろう @@@LINK=幣原喜重郎 幣原喜重郎

幣原喜重郎
しではらきじゅうろう

1872〜1951
大正・昭和期の外交官・政治家
大阪の生まれ。岩崎弥太郎の女婿。東大卒。外務次官・駐米大使を経てワシントン会議の全権委員となる。1924年以来,加藤高明・第1・2次若槻礼次郎・浜口雄幸各内閣の外相として協調外交を推進,'30年ロンドン海軍軍縮条約を締結した。第二次世界大戦後,'45年10月内閣を組織し日本国憲法の制定にあたる。翌'46年5月吉田茂内閣の国務相。のち衆議院議長となり,在任中に死去。
幣原喜重郎内閣
しではらきじゅうろうないかく @@@LINK=幣原喜重郎内閣 幣原喜重郎内閣

幣原喜重郎内閣
しではらきじゅうろうないかく

第二次世界大戦後,幣原喜重郎を首班とする内閣(1945〜46)
1945年10月,東久邇宮稔彦 (ひがしくにのみやなるひこ) 内閣のあとをうけて組閣。GHQの指示のもと,日本国憲法草案の作成,公職追放,労働組合法制定,選挙法改正などを実施した。'46年4月総辞職。
私田
しでん @@@LINK=私田 私田

私田
しでん

律令制下,私的に耕作使用する権利が認められた土地
公田に対するもの。位田・賜田・職田などのほか,口分田もこれに当たった。輸租田不輸租田の別があった。
藤原道綱の母
ふじわらのみちつなのはは @@@LINK=藤原道綱の母 藤原道綱の母

藤原道綱の母
ふじわらのみちつなのはは

936?〜995
平安中期の女流文学者・歌人
関白藤原兼家の妻。『蜻蛉 (かげろう) 日記』の作者として有名。
藤原道長
ふじわらのみちなが @@@LINK=藤原道長 藤原道長

藤原道長
ふじわらのみちなが

966〜1027
平安中期の公卿
関白兼家の5男。兄の関白道隆・道兼の死後,一族の勢力争いを抑えて政権を独占し,左大臣から摂政になった。彰子ら4人の娘を一条・三条・後一条・後朱雀 (ごすざく) 4天皇の中宮とし,3天皇の外戚として権勢並ぶものなく,摂関政治の最盛期を現出した。1017年,子頼通 (よりみち) に摂政を譲り太政大臣となった。晩年は出家して法成寺 (ほうじようじ) を建立。関白にはならなかったが,「御堂関白」といわれ,日記に『御堂関白記』がある。

藤原通憲
ふじわらのみちのり @@@LINK=藤原通憲 藤原通憲

藤原通憲
ふじわらのみちのり

1106〜59
平安末期の公卿・学者
出家して信西と称した。実兼の子。保元の乱(1156)後,平清盛と結んで後白河上皇側近として活躍。藤原信頼・源義朝に対抗したため,'59年平治の乱で殺された。著書に『本朝世紀』『法曹類林』『日本紀註』など。

藤原宮子
ふじわらのみやこ @@@LINK=藤原宮子 藤原宮子

藤原宮子
ふじわらのみやこ

?〜754
奈良時代,文武天皇の夫人
不比等の長女。聖武天皇の母。藤原氏が出した最初の天皇の生母。737年玄昉 (げんぼう) の法話を聞き,長年の病が癒えた。これが玄昉の政界に進出する契機となった。

藤原武智麻呂
ふじわらのむちまろ @@@LINK=藤原武智麻呂 藤原武智麻呂

藤原武智麻呂
ふじわらのむちまろ

680〜737
奈良時代の公卿。南家の祖
南家の名は,武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅の南方にあったため。左大臣。正一位。不比等の長男。温和淡白な性格で仏法を敬した。737年疫病のためほかの3兄弟とともに死亡した。

藤原基経
ふじわらのもとつね @@@LINK=藤原基経 藤原基経

藤原基経
ふじわらのもとつね

836〜891
平安前期の公卿
摂政・関白。通称堀河太政大臣。長良 (ながら) の子。叔父良房の養子となってしだいに昇進。884年陽成天皇に代えて光孝天皇を立て,事実上最初の関白となり,887年阿衡事件以後名実ともに関白となった。『日本文徳天皇実録』の撰修を主宰

藤原元命
ふじわらのもとなが @@@LINK=藤原元命 藤原元命

藤原元命
ふじわらのもとなが

生没年不詳
平安中期の受領 (ずりよう)
経臣 (つねおみ) の子。尾張の国守在任中,官物を横領,重税を課したため,988年郡司・百姓らから「尾張国郡司百姓等解文」によって31カ条にわたる非政を訴えられ,989年解任された。
藤原基衡
ふじわらのもとひら @@@LINK=藤原基衡 藤原基衡

藤原基衡
ふじわらのもとひら

生没年不詳
平安末期の陸奥国の豪族。奥州藤原氏第2代
清衡の子。父のあとを継いで出羽国押領使となり,京都文化を移植し,毛越寺 (もうつじ) を再建遺骸はミイラとして中尊寺金色堂に納められている。

藤原百川
ふじわらのももかわ @@@LINK=藤原百川 藤原百川

藤原百川
ふじわらのももかわ

732〜779
奈良末期の公卿
参議。式家の宇合 (うまかい) の8男。吉備真備 (きびのまきび) の反対を抑えて北家の永手らとともに光仁天皇を擁立し,道鏡を下野薬師寺に追放した。山部親王(桓武天皇)を皇太子に立てるなど,政治的手腕示し,藤原氏勢力の回復につとめた。

藤原師輔
ふじわらのもろすけ @@@LINK=藤原師輔 藤原師輔

藤原師輔
ふじわらのもろすけ

908〜960
平安中期の公卿
右大臣。通称九条右大臣。関白忠平の2男。娘安子が村上天皇の皇后となり,冷泉 (れいぜい) ・円融の2天皇を生み,兄実頼をこえて摂関家の主流となった。著書に『九条年中行事』,日記『九暦 (きゆうれき) 』など。

藤原師光
ふじわらのもろみつ @@@LINK=藤原師光 藤原師光

藤原師光
ふじわらのもろみつ

西光
藤原保則
ふじわらのやすのり @@@LINK=藤原保則 藤原保則

藤原保則
ふじわらのやすのり

825〜895
平安前期の公卿
参議。貞雄の子。866年以来,備中・備前の国司として治績をあげ,878年には出羽俘囚の乱を鎮圧。その後,伊予守・大宰大弐としての功績により参議,民部卿にまで累進した。この時代の代表的な良吏。

藤原泰衡
ふじわらのやすひら @@@LINK=藤原泰衡 藤原泰衡

藤原泰衡
ふじわらのやすひら

1155〜89
平安末期の陸奥国の豪族。奥州藤原氏第4代
秀衡の2男。父の死後陸奥国押領使となり,遺言に抗しきれず源義経をかくまったが,頼朝の圧迫により義経を攻め殺した。1189年頼朝に攻められ敗死,奥州藤原氏は滅亡した。

藤原良房
ふじわらのよしふさ @@@LINK=藤原良房 藤原良房

藤原良房
ふじわらのよしふさ

804〜872
平安前期の公卿
摂政。冬嗣の2男。承和の変(842)ののち,大納言・右大臣・太政大臣を経て,858年清和天皇の即位とともに実質的に皇族以外で最初の摂政となった。866年応天門の変で大納言伴善男らを政界から追放。その直後正式に摂政となり,摂関政治の基礎を確立した。

藤原頼嗣
ふじわらのよりつぐ @@@LINK=藤原頼嗣 藤原頼嗣

藤原頼嗣
ふじわらのよりつぐ

1239〜56
鎌倉幕府5代将軍(在職1244〜52)
父頼経のあとに鎌倉へ送られた藤原(摂家)将軍。のちに執権北条時頼に廃され,皇族親王)将軍として宗尊 (むねたか) 親王が迎えられるに及び,帰京。不遇のうちに死んだ。
藤原頼経
ふじわらのよりつね @@@LINK=藤原頼経 藤原頼経

藤原頼経
ふじわらのよりつね

1218〜56
鎌倉幕府4代将軍(在職1226〜44)
関白道家の子。母は西園寺公経 (きんつね) の娘。3代将軍源実朝暗殺後,頼朝の遠縁として幕府の求めにより鎌倉へ送られた藤原(摂家)将軍。執権北条氏の権勢のもとでの形式上の将軍にすぎず,長じて職を子頼嗣に譲って出家。不遇のうちに死んだ。
藤原頼長
ふじわらのよりなが @@@LINK=藤原頼長 藤原頼長

藤原頼長
ふじわらのよりなが

1120〜56
平安後期の公卿
左大臣。忠実の2男。博識多才で,父の寵愛を得て兄の忠通から氏長者の地位を奪った。のち鳥羽法皇の信任を失ったため,1156年保元の乱をおこしたが敗死。日記に『台記』。

藤原頼通
ふじわらのよりみち @@@LINK=藤原頼通 藤原頼通

藤原頼通
ふじわらのよりみち

992〜1074
平安中期の公卿
摂政・関白。道長の長男。通称宇治殿。後一条・後朱雀 (ごすざく) ・後冷泉 (ごれいぜい) の3代,約50年間摂関として道長に続く全盛期を現出した。しかし後冷泉天皇に入内した娘寛子に皇子がなく,外戚関係のない後三条天皇即位により苦境にたち,弟教通 (のりみち) に関白をゆずり隠退。1052年宇治の別荘を寺に改め,平等院とした。

藤原文化
ふじわらぶんか @@@LINK=藤原文化 藤原文化

藤原文化
ふじわらぶんか

平安中期〜後期にかけての優美な貴族文化
国風文化別称
藤原四家
ふじわらよんけ @@@LINK=藤原四家 藤原四家

藤原四家
ふじわらよんけ

奈良時代,藤原不比等の4子から分かれた南家(武智麻呂 (むちまろ) )・北家(房前 (ふささき) )・京家(麻呂)・式家(宇合 (うまかい) )の4家
北家のみが,のち摂関家として栄えた。
婦人解放運動
ふじんかいほううんどう @@@LINK=婦人解放運動 婦人解放運動

婦人解放運動
ふじんかいほううんどう

女性を封建的な家族制度から解放男女平等の実現をめざす運動
治末期,平塚らいてう(明 (はる) )らの青鞜 (せいとう) 社は『青鞜』を発行して女性解放情熱をよびさました。第一次世界大戦後,労働者・農民の解放によって初めて女性が解放されると主張する,働く女性の運動が高まった。
婦人矯風会
ふじんきょうふうかい @@@LINK=婦人矯風会 婦人矯風会

婦人矯風会
ふじんきょうふうかい

明治〜昭和期のキリスト教婦人団体
アメリカの禁酒運動に影響され,1886年矢島楫子 (かじこ) らが東京婦人矯風会を組織。'93年全国的組織となり,禁酒・一夫一婦制・廃娼などの運動を推進。第一次世界大戦後は婦人参政権運動・平和運動にも参加した。
婦人参政権運動
ふじんさんせいけんうんどう @@@LINK=婦人参政権運動 婦人参政権運動

婦人参政権運動
ふじんさんせいけんうんどう

女性の政治参加,特に選挙権を要求する運動
明治末期の景山福田)英子らの治安警察法第5条(婦人の政治活動を禁止)撤廃運動に始まり,1920年平塚らいてう(明 (はる) )らの新婦人協会,'24年婦人参政権獲得期成同盟会が結成され,たびたび議会請願を行った。'30年婦人公民権法案が衆議院可決をみたが,翌年貴族院否決。第二次世界大戦後,'45年婦人参政権が確立し,翌年の総選挙から行使され,39名の女性代議士が誕生した。
婦人参政権獲得期成同盟会
ふじんさんせいけんかくとくきせいどうめいかい @@@LINK=婦人参政権獲得期成同盟会 婦人参政権獲得期成同盟会

婦人参政権獲得期成同盟会
ふじんさんせいけんかくとくきせいどうめいかい

大正・昭和期の女性参政権運動のための組織
女性参政権運動の大同団結のために1924年久布白落実 (くぶしろおちみ) ・市川房枝らにより創立。翌年婦選獲得同盟と改称。'40年に解散。
普選運動
ふせんうんどう @@@LINK=普選運動 普選運動

普選運動
ふせんうんどう

明治・大正期,普通選挙の実施をめざした政治運動。「普通選挙運動」の
1892年大井憲太郎が普通選挙期成同盟会を設立したのに始まる。'97年普通選挙同盟会が結成され,普選請願書を衆議院に提出(1900)。大逆事件を契機として運動は弾圧され一時沈滞したが,大正期に入り,大正デモクラシー発展とともに再び活発となる。'19年普選期成大会が開催され,翌'20年には普選デモが東京で行われた。このような大衆運動と世論の高まりの中で,'25(大正14)年加藤高明内閣は治安維持法と引きかえに普通選挙法を成立させた。
不戦条約
ふせんじょうやく @@@LINK=不戦条約 不戦条約

不戦条約
ふせんじょうやく

1928年8月27日,パリで締結された戦争放棄に関する条約
ケロッグ‐ブリアン協定,パリ不戦条約ともいう。アメリカ国務長官ケロッグ,フランス外相ブリアンが提唱。日本・イギリス・ドイツなど15カ国(のち63カ国)が調印した。日本では,条約第1条の「人民の名において」の国体憲法に反するとして野党民政党の反対や枢密院で問題となり,田中義一内閣はこの一句は日本に適用されないとの留保条件をつけてようやく批准をとりつけた。
扶桑略記
ふそうりゃくき @@@LINK=扶桑略記 扶桑略記

扶桑略記
ふそうりゃくき

平安末期,延暦寺の僧皇円の著した歴史書
30巻。神武天皇から堀河天皇までの漢文編年体の史書。仏教関係の記事が多く,六国史にない記述も少なくない。2〜6巻,20〜30巻までの計16巻と神武天皇から平城天皇に至る抄本が現存する。
蕪村七部集
ぶそんしちぶしゅう @@@LINK=蕪村七部集 蕪村七部集

蕪村七部集
ぶそんしちぶしゅう

江戸後期,与謝蕪村一門の俳書
1809年刊。与謝蕪村が主宰した俳書7種を2巻に編集したもの。編者は菊舎太兵衛ら。天明俳諧特色をよく示している。
譜代
ふだい @@@LINK=譜代 譜代

譜代
ふだい

世襲的に同じ主家に奉公する者をいう
「譜第」とも書く。中世以来の呼称であるが,江戸時代,農村で名子・被官家抱 (けほう) などの奉公人を譜代下人といい,また関ケ原の戦い(1600)以前から徳川氏に仕えていた大名を譜代大名という。
譜代大名
ふだいだいみょう @@@LINK=譜代大名 譜代大名

譜代大名
ふだいだいみょう

江戸時代,大名の家格
関ケ原の戦い(1600)以前から徳川家に属した家臣。幕府の要職を占め,外様大名牽制の目的で親藩と並んで要地に配置されたが,石高は5万石以下が多く,最高は井伊氏の35万石。18世紀末には,大名総数264家中136家を占めた。
二上山
にじょうさん @@@LINK=二上山 二上山
ふたがみやま @@@LINK=二上山 二上山

二上山
にじょうさん

大阪府と奈良県との境の金剛山地北端に位置する山
「ふたがみやま」とも読む。雄岳・雌岳2峰に分かれる。雄岳の頂上には大津皇子の墓と伝えられる墓所がある。平安時代,この山の落日は,阿弥陀来迎の印象を与えたという。

二上山
ふたがみやま

にじょうさん
札差
ふださし @@@LINK=札差 札差

札差
ふださし

江戸時代,旗本・御家人の蔵米を受け取り,その換金を請け負った商人
浅草の蔵前に住み,蔵宿ともいう。委託販売の手数料は米100俵につき金3分。のち蔵米を担保に旗本・御家人に金融を行い,江戸中期以後は多額の高利貸付けで旗本・御家人の死命を制するほどになった。
二葉亭四迷
ふたばていしめい @@@LINK=二葉亭四迷 二葉亭四迷

二葉亭四迷
ふたばていしめい

1864〜1909
明治時代の小説家・翻訳家
本名長谷川辰之助。東京の生まれ。東京外国語学校露語科中退。坪内逍遙と交わり文学を志す。リアリズム論『小説総論』,言文一致体の日本近代写実主義小説の先駆『浮雲』,翻訳『あひびき』『めぐりあひ』などにより近代文学に大きな影響を与えた。のち朝日新聞社特派員としてロシアに渡り,帰国途中ベンガル湾上で没した。ほかに『其面影』『平凡』など。

武断政治
ぶだんせいじ @@@LINK=武断政治 武断政治

武断政治
ぶだんせいじ

江戸初期,初代将軍徳川家康から秀忠・家光までの幕府政治の傾向
17世紀前半はまだ戦国時代の気風が残り,家康・秀忠・家光3代の政治は,おもに武力を背景に外様大名などの諸勢力を制圧することにあった。大名改易減封などの処分もその例で,このような政治支配を武断政治という。4代将軍家綱の時代から文治政治に転換するが,のちの享保改革寛政の改革・天保の改革など,幕藩体制の強化をはかる諸改革も武断的傾向を有した。
府知事
ふちじ @@@LINK=府知事 府知事

府知事
ふちじ

明治時代以後の近代国家の地方長官
1869年の版籍奉還直後,・県の長官を知事の長官を知藩事といったが,'71年の県治条例により県に (かみ) を置くことにし,県の知事の称号を改めたので,一般に府知事・県令と称した。
扶持米
ふちまい @@@LINK=扶持米 扶持米

扶持米
ふちまい

江戸時代,幕府や諸藩の家臣に俸禄として支給された米
知行地を与えられない下級武士に支給された。幕府や諸藩の財政難に伴い扶持米を減額されることもあり(半知借上),生活困窮者は扶持米を抵当商人から金融をうけるなど,生活に苦しんだ。
府中
ふちゅう @@@LINK=府中 府中

府中
ふちゅう

律令時代の国府の所在地
中世以後も土豪豪族が居住して地方の中心地となり,近世の城下町などに発展した所が多い。東京・千葉岐阜三重・京都・徳島などに地名が残っている。なかでも武田氏の甲府(甲斐国・山梨県),大友氏の府内(豊後国・大分県),今川氏の駿府(駿河国・静岡県)は有名。
仏印進駐
ふついんしんちゅう @@@LINK=仏印進駐 仏印進駐

仏印進駐
ふついんしんちゅう

太平洋戦争直前の1940〜41年,日本軍によって行われたフランス領インドシナ占領
フランスの対独降伏に乗じた日本軍は,列国の蔣介石援助ルートを断ち切るため,フランスのヴィシー政権に迫って,1940年9月北部仏印に進駐。翌年7月,対英米戦も辞さない決意で南部仏印にも進駐した。アメリカを中心とするABCD包囲陣は,対日資産凍結・石油禁輸などでこれを牽制し,日米関係は最悪の事態に突入した。
普通選挙期成同盟会
ふつうせんきょきせいどうめいかい @@@LINK=普通選挙期成同盟会 普通選挙期成同盟会

普通選挙期成同盟会
ふつうせんきょきせいどうめいかい

明治・大正時代に普選運動を行った政治団体
①1892年大井憲太郎が東洋自由党内に設立。'94年解党により消滅した。
②1899年河野広中・中村太八郎・片山潜らにより創立,まもなく普通選挙同盟会と改名。1911年政府の圧力により解散。
③1918年中村・大井らが復興。'19年普選期成大会を開催するなど普選運動の中心となり活動した。
普通選挙法
ふつうせんきょほう @@@LINK=普通選挙法 普通選挙法

普通選挙法
ふつうせんきょほう

1925(大正14)年,護憲三派(第1次加藤高明内閣のときに改正された衆議院議員選挙の通称
納税制限を撤廃し,25歳以上の男子に選挙権,30歳以上の男子に被選挙権を認めた。1928年の第1回普通選挙では,有権者は前回の約4倍に増加し,無産政党も8議席を獲得した。
物価統制令
ぶっかとうせいれい @@@LINK=物価統制令 物価統制令

物価統制令
ぶっかとうせいれい

1946年3月3日,ポツダム勅令に基づいて公布された物価統制に関する法令
戦時中の物価統制の諸法令のあとを継ぎ,商品ごとに公定価格を決定し,また価を低く抑えて物価体系をつくり,賃金の上昇を防ぎ,インフレ防止をはかった。
仏教
ぶっきょう @@@LINK=仏教 仏教

仏教
ぶっきょう

キリスト教・イスラム教とともに世界の三大宗教の一つ
前6世紀ごろインドの釈迦(ゴータマ=シッダールタ)によって開かれた宗教。生老病死による愛欲の人間的苦悩を八正道 (はつしようどう) (涅槃 (ねはん) に達するための方法)を行うことによって克服し,覚者=仏陀となることができると説く。釈迦の死後,何回か仏典の結集 (けつじゆう) (遺法の散逸や異説の発生を防ぐため行う仏典の整理統一事業)が行われた。マウリヤ朝のアショーカ王の保護により前3世紀に盛んとなりセイロン(スリランカ)などに広まり(南伝仏教),紀元前後には中国にも伝わった。クシャーナ朝のカニシカ王の保護により2世紀ごろますます栄え,利他行為を重んじ万人を救済しようとする大乗仏教がおこり,中央アジア・中国・朝鮮を経て,6世紀前半日本にも伝えられた(北伝仏教)。以後,日本の社会・文化に多大の影響を与えることとなった。
仏教公伝
ぶっきょうこうでん @@@LINK=仏教公伝 仏教公伝

仏教公伝
ぶっきょうこうでん

仏教が初めて百済 (くだら) の聖明王から日本に伝えられたこと
年代について『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』などは538(戊午)年とし,『日本書紀』は552(壬申)年とするが,538年説が有力。私的にはもっと早く,継体朝(507〜531)ころ渡来人などにより伝えられた。公伝に際し,蘇我氏は仏教を崇拝物部 (もののべ) 氏は排斥を主張し,両氏対立をいっそう激化させた。
仏光寺派
ぶっこうじは @@@LINK=仏光寺派 仏光寺派

仏光寺派
ぶっこうじは

真宗十派の一つ
鎌倉末期,本願寺派の中から覚如の弟子了源がおこした。山科仏光寺を本山とする。
復古神道
ふっこしんとう @@@LINK=復古神道 復古神道

復古神道
ふっこしんとう

江戸中期以降,平田篤胤がひらいた神道説
古典の研究により,儒教・仏教などの外来思想の影響をうけない古代日本の純粋な精神(古道)への復古を主張した神道説。賀茂真淵 (まぶち) ・本居宣長らは古神道を唱えたが,平田篤胤 (あつたね) はこれを継承して宗教的に体系づけた。幕末から明治維新にかけて尊王攘夷運動・廃仏毀釈運動などに与えた影響は大きい。
物産会所
ぶっさんかいしょ @@@LINK=物産会所 物産会所

物産会所
ぶっさんかいしょ

国産会所
仏師
ぶっし @@@LINK=仏師 仏師

仏師
ぶっし

仏像をつくる工人
奈良時代には造仏所に所属,平安時代には有力寺院に属し,仏師の機構がととのい,工房である仏所がつくられた。
仏像
ぶつぞう @@@LINK=仏像 仏像

仏像
ぶつぞう

仏教において礼拝の対象としてつくられた彫刻
仏教では,はじめ偶像をつくらなかったが,ガンダーラ美術においてギリシアの神像彫刻の影響をうけてはじめて仏像がつくられた。中国などに伝播し,百済から日本に仏教が伝来したときは仏像を伴っていた。仏像は経典と儀軌 (ぎき) (儀式のきまり)によって造形され,一般に如来・菩薩・明王・天の4部に大別される。如来は仏で,すべて出家の姿で法衣をつけるだけであり,装身具はない。菩薩は如来に従って法を学ぶもので,温顔・上半身裸体,下半身に裳 (も) をつけ冠を戴 (いただ) き,胸飾や腕釧 (うでくしろ) などの装身具をつける。明王は密教の理論によって如来の真意を奉じて悪を破砕 (はさい) する使者なので,焔髪・怒眼,牙をむき,武器をもち忿怒 (ふんぬ) の形相をする。天はバラモン教や民間信仰の神々を仏教の守護神としたもので,四天王・十二神将など種類が多い。如来と菩薩の三尊〔釈迦如来と文珠・普賢菩薩:阿弥陀如来と観音・勢至菩薩:薬師如来と日光・月光菩薩〕の組合せが多くみられる。素材から鋳造による金銅像・粘土製の塑像・漆を用いた乾漆像・木像(一木造・寄木造)・石像などがあり,姿勢から立像・結跏趺座 (けつかふざ) 像・半跏趺座像・倚像 (いぞう) (両足を平行に垂下)などの区別がある。
仏足石歌
ぶっそくせきか @@@LINK=仏足石歌 仏足石歌

仏足石歌
ぶっそくせきか

31文字の短歌形式(5・7・5・7・7)に7音1句を加えた形の和歌の一種
奈良の薬師寺の仏足石のの石碑に刻まれているところからづけられた。仏足石とは釈迦の足跡を形取った石。この歌体の歌は『万葉集』中にもみえる。
仏哲
ぶってつ @@@LINK=仏哲 仏哲

仏哲
ぶってつ

生没年不詳
8世紀の林邑 (りんゆう) の僧
南インドで菩提僊那に学び,僊那とともに唐に行き,さらにともに736年来日。752年東大寺の大仏開眼供養にも参列。林邑 (りんゆう) 楽を伝えたという。
武道伝来記
ぶどうでんらいき @@@LINK=武道伝来記 武道伝来記

武道伝来記
ぶどうでんらいき

江戸中期,井原西鶴の浮世草子
1687年刊。8巻8冊。傍題に「諸国敵打」とあり,序文に「中古武道の忠義諸国に高名の敵 (かたき) うち其はたらき聞伝えて」とあるように,諸国の有名な敵討話32編をまとめた西鶴武家物の一つ。『武家義理物語』の前作
風土記
ふどき @@@LINK=風土記 風土記

風土記
ふどき

奈良初期,最古の地誌
713年元明天皇が諸国に編集を命じ,各地の産物・地理・地名の由来・伝承などを漢文で記載。現存するのは常陸 (ひたち) ・出雲・播磨・豊後・肥前の5風土記で,出雲だけが完本。奈良時代の貴重な史料である。
太占
ふとまに @@@LINK=太占 太占

太占
ふとまに

古代の占いの一種
鹿の肩甲骨を焼き,ひびわれの形によって吉凶や神意を判断した。北アジアの諸民族に広くみられる。古代日本でも行われたことは『魏志』倭人伝や記紀神話にもみえ,遺跡からも遺物が出土する。
蒲団
ふとん @@@LINK=蒲団 蒲団

蒲団
ふとん

明治後期,田山花袋 (かたい) の短編小説
1907年発表。自然主義文学の代表作空前の大胆さ,赤裸々な告白的描写で大きな反響を呼んだ。私小説の源流をここにみる見方もある。
府内
ふない @@@LINK=府内 府内

府内
ふない

大分市の旧名
古代の豊後国府の所在地。戦国時代には大友氏の城下町となる。大友宗麟キリシタン保護により,コレジオ(大学)・教会堂・病院などが建てられ,南蛮貿易も栄えて九州におけるキリシタンの一大中心地となる。人口も20万人を数えた。江戸時代には府内藩(大給松平氏)の城下町として繁栄。明治時代,大分と改称され,現在は県庁所在地。
船成金
ふななりきん @@@LINK=船成金 船成金

船成金
ふななりきん

成金
舟橋宣賢
ふなばしのぶかた @@@LINK=舟橋宣賢 舟橋宣賢

舟橋宣賢
ふなばしのぶかた

清原宣賢
舟橋蒔絵硯箱
ふなばしまきえのすずりばこ @@@LINK=舟橋蒔絵硯箱 舟橋蒔絵硯箱

舟橋蒔絵硯箱
ふなばしまきえのすずりばこ

江戸初期,本阿弥光悦作の蒔絵硯箱
不入
ふにゅう @@@LINK=不入 不入

不入
ふにゅう

不輸・不入
府藩県三治制
ふはんけんさんちせい @@@LINK=府藩県三治制 府藩県三治制

府藩県三治制
ふはんけんさんちせい

府・藩・県が併置された明治初年の地方行政制度
1868年政体書により,幕府の直轄地を府・県として知事を置き,藩は従来どおり大名が統治した。翌年版籍奉還により藩も国の行政区画となり三治制は確立したが,'71年の廃藩置県により藩は廃止され府県制となった。

ふひと @@@LINK=史 史


ふひと

大和政権の姓 (かばね) の一つ
政権の文筆活動にたずさわった職名がそのまま姓となった。渡来人に多い。阿知使主 (あちのおみ) の子孫東漢氏 (やまとのあやうじ) ,王仁 (わに) の子孫西文氏 (かわちのふみうじ) は有名で,わが国学問の発達に貢献した。
忽必烈
フビライ
Khubilai @@@LINK=忽必烈 忽必烈
クビライ @@@LINK=忽必烈 忽必烈

忽必烈
フビライ
Khubilai

1215〜94
モンゴル帝国第5代の汗(在位1260〜94)で,元の初代皇帝(在位1271〜94)
世祖。チンギス汗の孫。1271年大都(北京)に遷都し,国号を元と称した。高麗 (こうらい) を属国とし,'79年南宋を滅ぼす。日本にも入貢を求め,'74年と'81年に遠征軍を送った(元寇)が失敗。またアンナンヴェトナム)・ジャワにも遠征した。

忽必烈
クビライ

フビライ
部分的核実験停止条約
ぶぶんてきかくじっけんていしじょうやく @@@LINK=部分的核実験停止条約 部分的核実験停止条約

部分的核実験停止条約
ぶぶんてきかくじっけんていしじょうやく

1963年8月5日調印された地上核爆発の停止条約
正式には「大気圏内・宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約」という。1958年以来のアメリカ・イギリス・ソ連3国の話し合いが実を結び,モスクワで,地下実験を除く核兵器の実験的爆発停止を調印。日本は8月14日に調印。その後,米ソは地下核実験制限条約(TTBT)を'74年に,平和目的地下核実験制限条約(PNET)を'76年に調印した。
不平士族
ふへいしぞく @@@LINK=不平士族 不平士族

不平士族
ふへいしぞく

明治新政府の開明政策に不満をもった士族
新政府による開明政策が推し進められる中で,国民は華族・士族・平民の三身分となり,士族・平民間の法的な身分上の差異はなくなった。さらに廃藩置県徴兵令秩禄処分廃刀令などにより,旧来の特権がうばわれ,生活を脅かされたことや西郷隆盛ら征韓派の政府追放などが士族の不満の原因となった。皮肉にも西郷らの説く征韓論の背景には「内乱をこいねがい候心を外に移すこと」があった。
富本銭
ふほんせん @@@LINK=富本銭 富本銭

富本銭
ふほんせん

日本最古と考えられる古代の銅銭
すでに1969年以降平城京跡や藤原京跡などで出土していたが,'97年に始まった奈良県高市郡明日香村の飛鳥池遺跡の本格的発掘調査の結果,'98年に数点出土した。調査続行の結果,約3300点もの富本銭の鋳型片が出土し,鋳造の年代が7世紀後半にさかのぼること,同遺跡で鋳造されたものであることが確認された。和同開珎よりも古い日本最古の貨幣で,『日本書紀』に683(天武12)年使用を命じたとある銅銭に相当する可能性が高まった。'98年に同遺跡から天武朝のものと見られる「天皇」と書かれた最古の木簡など,5000点以上の木簡が出土して注目された。
文氏
ふみうじ @@@LINK=文氏 文氏

文氏
ふみうじ

大和政権時代,渡来人阿知使主 (あちのおみ) ・王仁 (わに) の子孫の総称
応神天皇時代に渡来,政権に文筆で仕えた。阿知使主は東漢氏 (やまとのあやうじ) (これが分裂した一つに東文氏 (やまとのふみうじ) がある),王仁は西文氏 (かわちのふみうじ) のとなった。
踏絵
ふみえ @@@LINK=踏絵 踏絵

踏絵
ふみえ

江戸時代,幕府がキリシタン摘発に用いた画像
キリスト,マリアの画像や木版・銅版画像(板踏絵)をいい,それを踏むことができない者は信徒とみなされた。踏絵を踏ませることを絵踏といった。1629年長崎奉行の考案といわれ,九州をはじめ信徒の多い地方で実施。18世紀中ごろには形式化し長崎周辺でも正月の行事となった。1858年日米修好通商条約締結により廃止。
踏車
ふみぐるま @@@LINK=踏車 踏車

踏車
ふみぐるま

江戸前期以降,低所から高所用水を汲みあげた灌漑用具
水車と似ているが,水力で動かすのではなく足で踏んで車を回し水を汲み上げた。寛文年間(1661〜73)に作られ,江戸後期には従来竜骨車に代わった。西日本では大正・昭和まで使用された。
部民
べのたみ @@@LINK=部民 部民
ぶみん @@@LINK=部民 部民
べみん @@@LINK=部民 部民

部民
べのたみ

大和政権における大王家や豪族の私有民
所有する豪族・職業名・地名にちなんで「何々」と呼んだ。大部分農民で,一部に特殊技術を有する者もあった。豪族に貢物労役を出したが,奴婢 (ぬひ) と異なり家族生活を営んだ。大王家の部民は品部 (ともべ) ・名代 (なしろ) ・子代 (こしろ) の民といい,伴造 (とものみやつこ) に統率された。豪族に属するものが部曲 (かきべ) 。大化の改新公民となったが,天智天皇が復活,のち天武天皇が再廃止した。品部の一部は未解放のまま律令の品部 (しなべ) ・雑戸 (ざつこ) となった。

部民
ぶみん

べのたみ

部民
べみん

べのたみ
夫役
ぶやく @@@LINK=夫役 夫役

夫役
ぶやく

支配者が被支配者から徴収した労働課役
人夫役の意味で,「賦役」とも書く。律令制の歳役・雑徭 (ぞうよう) ,荘園制下における領主の佃 (つくだ) の耕作やその他の労役,武家社会における武士の軍役・警固役,戦国大名が農民に課した陣夫・詰夫,江戸時代の国役・助郷役など,これらはみな夫役といえるが,時代が下るにしたがって,しだいに物納・金納化した。
フューザン会
フューザンかい @@@LINK=フューザン会 フューザン会

フューザン会
フューザンかい

大正初期の美術団体
後期印象派の人びとの最初グループ斎藤与里岸田劉生・高村光太郎・万鉄五郎ら33名で1912年に結成翌年解散したが,個性的表現を唱えた最初の革新的運動であった。
不輸租田
ふゆそでん @@@LINK=不輸租田 不輸租田

不輸租田
ふゆそでん

律令制において田租を免除された田
神田・寺田・職田・勅旨田・国司の公廨田 (くがいでん) などがこれにあたり,寺社の用途料や官人の俸禄の一部とされた。のちには本来輸租田である位田・功田・墾田なども不輸租田となり,荘園が,これをもとにしだいに成立した。
不輸・不入
ふゆ・ふにゅう @@@LINK=不輸・不入 不輸・不入

不輸・不入
ふゆ・ふにゅう

国家権力による荘園に対する干渉を拒否できる特権
不輸は租税の免除。不入は検田使の荘園立入りを拒否できる権利であるが,のちには国家警察権の行使をも排除できる権利にまで拡大された。寺田・神田などを除いては,本来荘園は租税を納める輸租田であったが,9世紀ごろから不輸権,11世紀頃からは不入権をも得るようになった。これらの権利は,太政官符・民部省符,あるいは国司免判により承認された。
扶余
ふよ @@@LINK=扶余 扶余

扶余
ふよ

古代,朝鮮半島南西部にあった百済 (くだら) の旧都
②前1〜後5世紀,中国東北部から朝鮮半島北部にかけて住んだツングース系狩猟農耕民,またその国名
538〜660年間の百済の都城である半月城があった。仏教中心の文化が栄えた。
1〜3世紀が全盛期。5世紀末,支族高句麗に圧迫されて消滅した。

部落解放運動
ぶらくかいほううんどう @@@LINK=部落解放運動 部落解放運動

部落解放運動
ぶらくかいほううんどう

明治時代から現在に至る被差別部落の解放運動
幕藩体制下で最下層の賤民(穢多・非人)として極度の差別と抑圧のもとにあえいでいた被差別部落の人びとは,1871年の解放令で制度上は解放されたが,社会的・経済的・身分的差別はなくならなかった。大正デモクラシーの発展に伴い,1922年全国水平社が結成され,人間の尊厳と平等・自由を掲げ,一切の抑圧や差別と闘い,すべての人間解放をめざす決意表明。社会運動とも結合し'25年第4回大会以後次第に無産運動や社会主義運動と連携し全国的統一組織として成長。第二次世界大戦後,'46年部落解放全国委員会が発足し運動を推進。'55年部落解放同盟と改組。'60年以降独占資本を差別の元凶とし,平和・独立・民主主義を実現する運動を進めたが,内部で対立がおこり,反主流派は'70年に部落解放同盟正常化全国連絡会議を結成,のち全国部落解放運動連合会に改組。
プラザ合意
プラザごうい @@@LINK=プラザ合意 プラザ合意

プラザ合意
プラザごうい

1985年にニューヨークのプラザホテルで開かれた先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議での合意のこと
ドル高を是正するために,各国がドル売りの協調介入をすることで合意した。この後,円高・ドル安がすすんだ。
フランシスコ派
フランシスコは
Franciscans @@@LINK=フランシスコ派 フランシスコ派

フランシスコ派
フランシスコは
Franciscans

安土桃山〜江戸時代初期,日本伝道に従事したカトリック教団
イタリアの聖フランシスコ(1182〜1226)が1209年創設。1593年スペイン使節が来日し,布教活動を行った。サン‐フェリペ号事件を契機豊臣秀吉と衝突し,二十六聖人殉教がおこった。
振売
ふりうり @@@LINK=振売 振売

振売
ふりうり

平安〜江戸時代の呼び売り行商
店舗を持つ棚売・異なり日帰りか1泊ぐらいの範囲で町々を売り歩いた。平安末期から盛んとなり,中世には座の特権を侵すとして圧迫されたが,戦国大名から保護され,江戸時代には免札が与えられた。
風流
ふりゅう @@@LINK=風流 風流

風流
ふりゅう

古代末期〜近世初期に流行した拍子 (はやし) 物の一つ
芸能としての風流は和漢故事を仕組んだミュージカル風のものと考えられ,元来ははなやかな風情ある「作り物」,祭礼の「練りもの」(のちの山車 (だし) )であったが,やがて「拍子物」として,手振り・踊りを伴った。寺院の遊宴歌舞であった延年の舞にとり入れられ,能楽の形成に大きな役割をもつ。安土桃山時代念仏踊もこの一種で,歌舞伎成立に影響を与えた。
古河市兵衛
ふるかわいちべえ @@@LINK=古河市兵衛 古河市兵衛

古河市兵衛
ふるかわいちべえ

1832〜1903
明治時代の実業家
京都の生まれ。1858年小野組番頭古河太郎左衛門の養子となり,小野組の生糸買付主任になる。'74年小野組破産ののち,独立して阿仁・院内・足尾鉱山その他の鉱山経営を進め,古河財閥を築いた。

古田織部
ふるたおりべ @@@LINK=古田織部 古田織部

古田織部
ふるたおりべ

1544〜1615
安土桃山〜江戸時代初期の武将・茶人・外様大名。織部流の祖
通称佐介。美濃(岐阜県)の人。織田信長・豊臣秀吉に仕え,山城(京都府)3万5000石を領した。千利休に茶を学び,利休死後,一派をなし,2代将軍徳川秀忠に点茶の方式を伝授。大坂の役で豊臣方に内通したとして自刃させられた。

古人大兄皇子
ふるひとのおおえのおうじ @@@LINK=古人大兄皇子 古人大兄皇子

古人大兄皇子
ふるひとのおおえのおうじ

?〜645
7世紀前期の皇族
舒明天皇の皇子で,中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ) の異母兄。母は蘇我馬子の娘。有力な天皇候補者であったが,大化の改新で蘇我氏が滅亡すると出家して吉野に入った。謀反の疑いで中大兄皇子に殺された。
フルベッキ
Guido Herman Fridolin Verbeck @@@LINK=フルベッキ フルベッキ

フルベッキ
Guido Herman FridolinVerbeck

1830〜98
幕末・明治初期,アメリカの宣教師
オランダの生まれ。1859年来日。長崎で伝道し,洋学所で英語を教授。'69年開成学校(大学南校)頭取となり政府顧問として教育・法制調査にあたる。従来オランダ医学に代わるドイツ医学の採用,ナポレオン法典の翻訳紹介など大きく貢献した。
プレ縄文文化
プレじょうもんぶんか @@@LINK=プレ縄文文化 プレ縄文文化

プレ縄文文化
プレじょうもんぶんか

先土器文化
フロイス
Luis Frois @@@LINK=フロイス フロイス

フロイス
Luis Frois

1532〜97
安土桃山時代に来日したポルトガルのイエズス会宣教師
1563年来日。'64年入京し足利義輝に,'69年織田信長に謁見。畿内・九州で布教活動に従事し,それを克明に記録した。豊臣秀吉のバテレン追放令後,九州を転々とし,いったんマカオに退き,のち再び来日。『日本史』『日欧風習対照(覚書)』を著し,長崎で没した。

浮浪
ふろう @@@LINK=浮浪 浮浪

浮浪
ふろう

律令制において,本籍を離れて他国に流浪している者
令では他郷で調を出す者を浮浪,出さない者を逃亡 (とうぼう) と区別しているが,実際はほとんど差はなかった。ともに厳禁されていたが,課役の過重などでしだいに増大,その多くは荘園に流入した。
ブロック経済政策
ブロックけいざいせいさく @@@LINK=ブロック経済政策 ブロック経済政策

ブロック経済政策
ブロックけいざいせいさく

独占資本主義諸国が恐慌克服のため,自国を中心に勢力範囲を結合して設定した閉鎖的経済
世界恐慌後,イギリスやフランスがとった政策で,本国と属領間で特恵関税を設け,商品市場を確保しあい景気変動に対応した。1932年,オタワで開かれたイギリス帝国経済会議で決定。フランスもこれにならった。
プロレタリア文学
プロレタリアぶんがく @@@LINK=プロレタリア文学 プロレタリア文学

プロレタリア文学
プロレタリアぶんがく

大正末期・昭和初期の文学運動
プロレタリアート(労働者・農民)の立場から,その思想や生活を描き現実を発展させようとする文学運動で,第一次世界大戦後の労働運動・社会主義の発展に伴って現れた。1921年創刊の『種蒔く人』に始まり『文芸戦線』『戦旗』などを中心に展開。葉山嘉樹 (よしき) ・徳永直 (すなお) ・小林多喜二・中野重治・青野季吉 (すえきち) ・蔵原惟人 (これひと) ・宮本顕治らがその中心となった。'34年ころ弾圧によって組織は解体。第二次世界大戦後,民主主義文学として復活した。
不破関
ふわのせき @@@LINK=不破関 不破関

不破関
ふわのせき

古代,三関の一つで,現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあった関所
美濃国と近江国の境。壬申 (じんしん) の乱(672)に大海人 (おおあま) 皇子がここに本営を置いた。平城京遷都後,その重要性は薄れ789年廃止。しかし平安時代にも朝廷の大事には固関 (こげん) 使(勅使)が発遣され,万一の事態に備えた。
文永の役
ぶんえいのえき @@@LINK=文永の役 文永の役

文永の役
ぶんえいのえき

1274(文永11)年10月におこった元の日本来襲事件。
文学界
ぶんがくかい @@@LINK=文学界 文学界

文学界
ぶんがくかい

①明治中期の文芸雑誌
②昭和期の文芸雑誌
1893年創刊。日本ロマン主義文学の母体となる。同人は北村透谷・島崎藤村・星野天知・平田禿木 (とくぼく) ・戸川秋骨らで,樋口一葉も寄稿した。透谷の評論,藤村の新体詩,一葉の小説などが特に有名。'98年1月,58号をもって廃刊となった。
1933年創刊。宇野浩二・川端康成・武田麟太郎・小林秀雄らの同人雑誌として発足したが,一時廃刊となり,第二次世界大戦後の'47年復刊。その後同人は解散し,文藝春秋社より文芸雑誌として刊行され,現在に至る。
文化勲章
ぶんかくんしょう @@@LINK=文化勲章 文化勲章

文化勲章
ぶんかくんしょう

科学・文芸など文化の発達にすぐれた功績をあげた者に授与される勲章
勲章が軍務国務に関係した者に与える観念が強かったことを反省して,1937年制定。第二次世界大戦後は '46年より文部大臣の推薦,内閣の決定で,毎年11月3日の「文化の日」に授与される。
文化財保護法
ぶんかざいほごほう @@@LINK=文化財保護法 文化財保護法

文化財保護法
ぶんかざいほごほう

1950年制定された,文化財の保護活用をはかるための法律
法隆寺金堂の炎上事件を契機に制定された。施行にともない,国宝・重要文化財などを指定・管理するための文化財保護委員会がつくられたが,1968年文化庁に発展的解消した。
文華秀麗集
ぶんかしゅうれいしゅう @@@LINK=文華秀麗集 文華秀麗集

文華秀麗集
ぶんかしゅうれいしゅう

平安初期の勅撰漢詩集
818年成立。3巻。嵯峨天皇の勅により藤原冬嗣・菅原清公 (きよとも) らが編纂した。作者28名,作詩148首。『凌雲集 (りよううんしゆう) 』にもれた作品をとり,年代順・官位順の配列を排し,新しく11の部門に分類し収録した点に特色がある。
文化政治
ぶんかせいじ @@@LINK=文化政治 文化政治

文化政治
ぶんかせいじ

大正時代三・一運動後第3代朝鮮総督となった斎藤実が行った朝鮮統治政策
憲兵警察制度を廃止し,朝鮮人の言論・集会の自由を制限付きで認め,朝鮮語による新聞・雑誌発行を許可するなど,今までの抑圧的な政治を改め「文化政治」を標榜したが,武力的支配の本質は変わらなかった。
分割相続
ぶんかつそうぞく @@@LINK=分割相続 分割相続

分割相続
ぶんかつそうぞく

被相続人の財産を数人の相続者が分割して相続すること
単独相続に対していう。律令社会で行われた分割相続が鎌倉時代の武家社会でも行われたが,鎌倉末期から所領細分化を防ぐために惣領の単独相続へと移っていった。
文化・文政時代
ぶんか・ぶんせいじだい @@@LINK=文化・文政時代 文化・文政時代

文化・文政時代
ぶんか・ぶんせいじだい

江戸後期,文化・文政年間(1804〜30)を中心に寛政の改革後(1793)から天保の改革(1841)に至る時代
大御所時代ともいい,徳川家斉が11代将軍・大御所として君臨した。寛政の改革の遺風は19世紀初めで消滅し,家斉の豪奢側近の放漫政策が展開。財政難対策には倹約令のほか貨幣改鋳,町人の御用金賦課が行われたが,幕藩財政一般が窮迫し,士風は退廃した。商品経済が農村に深く浸透して貧富の差が増大し,幕藩体制の経済的基盤はすでに崩壊しはじめ,百姓一揆・打ちこわしが頻発した。諸藩はこの時期に専売制を強化して財政難に対処した。一方,対外的にはロシア船・イギリス船の近海出没で海防問題が注目され,幕府の北辺調査,異国船打払令発布となる。また文化面ではこの時期に化政文化が展開した。
文官任用令
ぶんかんにんようれい @@@LINK=文官任用令 文官任用令

文官任用令
ぶんかんにんようれい

大日本帝国憲法下における文官(武官以外の官吏)任用資格に関する勅令
1893年公布。'99年政党勢力の官界への進出を阻止するため,第2次山県有朋内閣は文官任用の枠をきびしくした。しかし,第1次護憲運動で成立した第1次山本権兵衛内閣は1913年再改正を行い,自由任用の枠を拡大。第二次世界大戦後の '46年廃止された。
文官分限令
ぶんかんぶんげんれい @@@LINK=文官分限令 文官分限令

文官分限令
ぶんかんぶんげんれい

大日本帝国憲法下における官吏身分および職分の保障に関する勅令
1899年公布政党勢力の官界への進出を阻止するため,第2次山県有朋内閣が文官任用令改正と同時に制定した。親任官公使政務官および法令で定めてある官吏以外の一般の文官の進退分限に関する規定。第二次世界大戦後,1946年官吏分限令と改称,'48年国家公務員法施行により廃止
文久三年の政変
ぶんきゅうさんねんのせいへん @@@LINK=文久三年の政変 文久三年の政変

文久三年の政変
ぶんきゅうさんねんのせいへん

八月十八日の政変
文久の打払令
ぶんきゅうのうちはらいれい @@@LINK=文久の打払令 文久の打払令

文久の打払令
ぶんきゅうのうちはらいれい

幕末の異国船打払令
1863(文久3)年5月10日を開始期日として発令長州藩を中心とする尊攘派志士・公家朝廷を動かし,上洛中の14代将軍徳川家茂 (いえもち) に攘夷決行を強要し,打払令の発令を得た。同日長州藩は下関海峡を航行するアメリカ・フランスオランダ艦船を積極的に砲撃翌年四国艦隊下関砲撃事件を招くことになった。
文鏡秘府論
ぶんきょうひふろん @@@LINK=文鏡秘府論 文鏡秘府論

文鏡秘府論
ぶんきょうひふろん

平安初期,空海の詩論書
820年ころ成立。6巻。中国の六朝・唐などの詩論を参考にして成ったもので,日本人最初の詩論。詩は形式より内容に重きを置くべしと論じている。
文芸協会
ぶんげいきょうかい @@@LINK=文芸協会 文芸協会

文芸協会
ぶんげいきょうかい

1906(明治39)年,島村抱月を中心に結成された文化運動団体
1909年からは坪内逍遙を会長とする純然たる新劇団体となる。シェイクスピア・イプセンの作品を上演,松井須磨子らを育成した。'13年内部対立により解散。
文芸戦線
ぶんげいせんせん @@@LINK=文芸戦線 文芸戦線

文芸戦線
ぶんげいせんせん

昭和初期のプロレタリア文学雑誌
1924年創刊。'28年全日本無産者芸術連盟(ナップ)結成後は青野季吉 (すえきち) ・前田河広一郎・平林たい子・葉山嘉樹 (よしき) ら中心の,社会民主主義派の機関誌となり,'32年廃刊。
分国
ぶんこく @@@LINK=分国 分国

分国
ぶんこく

①平安中期以後の知行国
②室町時代の大名の領国
関東御分国など。
封建領主に成長した守護大名や戦国大名の領国をいう。戦国大名が分国支配のために制定した法令を分国法という。
分国法
ぶんこくほう @@@LINK=分国法 分国法

分国法
ぶんこくほう

室町〜戦国時代,戦国大名が領国(分国)統治のために制定した法令や規則
家法,国法または戦国家法ともいう。御成敗式目を母法としたものが多く,大名の家の私的な家訓がそのまま領国内の法とされた。領国内の秩序を厳格に維持するためのきびしい刑罰規定,特に喧嘩両成敗や大幅の連坐制などが注目される。「大内家壁書」が最も早く成立し,ほかに今川氏の「今川仮名目録」,伊達氏の「塵芥 (じんかい) 集」,結城氏の「結城家法度」,武田氏の「甲州法度之次第」,長宗我部氏の「長宗我部元親百箇条」などがある。
豊後節
ぶんごぶし @@@LINK=豊後節 豊後節

豊後節
ぶんごぶし

江戸中期におこった浄瑠璃の一派
宝永(1704〜11)ころ一中節の流祖都太夫一中の門人宮古路豊後掾 (みやこじぶんごのじよう) (?〜1740)が始め,享保年間(1716〜36)江戸に下った。内容は世話物中心で,濃艶な曲調,扇情的な語り方のため禁止されたが,人や名を変えて分派が出た。常磐津・清元・富本を豊後三派と呼ぶ。写実的な義太夫節に対し歌謡的である。
文正草子
ぶんしょうそうし @@@LINK=文正草子 文正草子

文正草子
ぶんしょうそうし

室町中期の御伽 (おとぎ) 草子
15世紀後半の成立。2巻。作者不詳。常陸 (ひたち) 国(茨城県)の塩焼の文正が,よい塩を売って長者となり,2人の娘が,都の中将の北の方,帝の女御となり,自分も大納言に立身出世したという物語。無名賤民でも実力・機会があれば貴族になり得るという下剋上的風潮の反映をみることができる。
文人画
ぶんじんが @@@LINK=文人画 文人画

文人画
ぶんじんが

江戸時代,文人が余技に描いた絵
文人画は技巧にとらわれず気韻生動を重んじる。南画と同義に用いられることもあるが,文人画は身分的立場からの呼称であり,南画は様式上(北宗画に対し)からの呼称である。日本の文人画は江戸中期ころから盛んになり,池大雅・与謝蕪村らが確立した。
文政の改革
ぶんせいのかいかく @@@LINK=文政の改革 文政の改革

文政の改革
ぶんせいのかいかく

江戸後期の1827(文政10)年,幕府が関東農村の治安維持を強化した改革
関東全域の農村40〜50か村ずつで組合村を結成,寄場惣代 (よせばそうだい) を置き,関東取締出役に直属させ,これを強化した。関東は天領旗本領大名領寺社領が入りまじり,取締りの不備に乗じ博徒・無宿者らが横行したため,これらの取締りとともに江戸周辺農村の一揆防止が目的であった。
分銭
ぶんせん @@@LINK=分銭 分銭

分銭
ぶんせん

室町時代銭納年貢
鎌倉末期以降,貨幣経済進展につれ,未納の年貢=分米 (ぶんまい) を銭に換算して納める銭納=分銭が広まった。その後豊臣秀吉統一により,公式には石高制となり分銭は廃止された。
分地制限令
ぶんちせいげんれい @@@LINK=分地制限令 分地制限令

分地制限令
ぶんちせいげんれい

江戸幕府が農民の分割相続による田畑の細分化を制限した法令
本百姓を維持し貢租を確保しようとしたもので,田畑永代売買禁止令とともに農政の基本政策の一つ。1673年以降,たびたび発令された。'73年令では名主(庄屋)は高20石,その他の百姓は10石以上の田畑所有者以外分地を禁じたが,守られなかった。
文治政治
ぶんちせいじ @@@LINK=文治政治 文治政治

文治政治
ぶんちせいじ

江戸中期,4代将軍徳川家綱から5代綱吉・6代家宣 (いえのぶ) ・7代家継までの儒教徳治主義に基づいた幕府政治体制
幕府創設期の武力を背景に大名らを制圧する武断政治に対する語。家綱の襲職は1651年で,すでに関ケ原の戦いから50年が経過し,世代の交代で戦国の遺風も薄れ,武士も文官的要素が重んじられるなど時代の転換期を迎えていた。このような中で新生活倫理として儒教の徳治主義が登場,武断政治で強化された将軍権力を文治政治の権威づけでいっそう高揚することになった。慶安事件後の処置として牢人の再就職斡旋をとりあげ,末期 (まつご) 養子の禁を緩和している。大名の改易が激減し,殉死を禁じたのもその現れである。綱吉も儒学奨励策で将軍の権威づけにつとめ,家宣・家継の正徳の治では新井白石参政,最高潮に達したが,形式主義に陥り8代吉宗の享保の改革で武断的傾向に復帰した。
分付百姓
ぶんづけひゃくしょう @@@LINK=分付百姓 分付百姓

分付百姓
ぶんづけひゃくしょう

江戸時代の隷属農民の一種
初期の検地帳記載に,名請人 (なうけにん) のほかにさらに「何々分」という肩書をもった百姓。畿内などの先進地帯には少なく,後進地帯に多い。高は持っていても身分的には本百姓に隷属した。なお譜代隷農を分付という地方もある。中期以後減少した。
文展
ぶんてん @@@LINK=文展 文展

文展
ぶんてん

文部省美術展覧会」の略称
1907年黒田清輝・正木直彦らの建議により政府が開設した官展。各派総合の美術展として美術振興に貢献したが,官展としての限界が現れた。'19年帝国美術院創立により帝展にかわる。のち新文展('37〜44)となり,第二次世界大戦後,日展に継承された。
文保の和談
ぶんぽうのわだん @@@LINK=文保の和談 文保の和談

文保の和談
ぶんぽうのわだん

鎌倉末期,大覚寺・持明院両統の皇位継承争いに対して幕府の行った申し入れ
鎌倉末期より両統の争いが激しくなったため,1317(文保元)年幕府は朝廷践祚 (せんそ) ・立太子は両統の和談によるようにとの通告を行い,大覚寺統の後宇多,持明院統の伏見両上皇の間で協議された。ここで,(1)つぎは尊治 (たかはる) 親王(後醍醐 (ごだいご) 天皇)が即位する,(2)在位期間は10年とする,(3)皇太子を選ぶ,という3項目について話し合われたが,(3)について両統間で一致をみず対立は解消しなかった。
文明一統記
ぶんめいいっとうき @@@LINK=文明一統記 文明一統記

文明一統記
ぶんめいいっとうき

室町中期,一条兼良 (かねよし) の政治論書
1479(文明11)年ころ刊。1巻。9代将軍足利義尚 (よしひさ) のために著した修養書。孝行・正直・慈悲などについて記し,政道への心構えを説く。その態度は貴族化した足利氏に好意的であり,兼良の武家観がよく表れている。
文明開化
ぶんめいかいか @@@LINK=文明開化 文明開化

文明開化
ぶんめいかいか

明治初年,政府の西洋近代文明の摂取による近代化政策から生じた社会風潮
明治政府は富国強兵・殖産興業の政策をとり,欧米の近代的技術・制度・風俗習慣などを積極的に移入した。近代的工場・鉄道・郵便制度・銀行制度・学制・散髪廃刀などはその例である。しかしこうした傾向は「日本橋近辺の文明開化」といわれるように東京など大都市中心のものであり,また,無批判な西洋文明崇拝は日本文化への劣等感を生み,日本の伝統文化を旧習として退ける行き過ぎもみられた。
文明論之概略
ぶんめいろんのがいりゃく @@@LINK=文明論之概略 文明論之概略

文明論之概略
ぶんめいろんのがいりゃく

明治初期,福沢諭吉の代表的啓蒙書
1875年刊。6冊。古今東西の文明の発達を概観し,自国自主独立には,進んだ西洋文明を摂取し,これをとして自国の文明の発達をはかることが急務であると説いた。
文屋康秀
ふんやのやすひで @@@LINK=文屋康秀 文屋康秀

文屋康秀
ふんやのやすひで

生没年不詳
平安前期の歌人。六歌仙の一人
伝記不詳。『古今和歌集』『後撰和歌集』に数首おさめられている。

文室綿麻呂
ふんやのわたまろ @@@LINK=文室綿麻呂 文室綿麻呂

文室綿麻呂
ふんやのわたまろ

765〜823
平安初期の公卿
薬子 (くすこ) の変(810)で平城上皇側についたため捕らえられたが,許され坂上田村麻呂とともに乱の鎮圧に功を立てた。811年征夷将軍として蝦夷 (えみし) を征討。818年中納言に進んだ。

文楽
ぶんらく @@@LINK=文楽 文楽

文楽
ぶんらく

人形浄瑠璃(操 (あやつり) 人形芝居)およびその劇場である文楽座
寛政の末(1800年ころ),淡路の植村文楽軒が大坂道頓堀東に人形浄瑠璃の劇場を創設。以後大坂を転々としたが,'72年正式に文楽座を名乗った。現在国立劇場小劇場などで上演されている。
文禄・慶長の役
ぶんろく・けいちょうのえき @@@LINK=文禄・慶長の役 文禄・慶長の役

文禄・慶長の役
ぶんろく・けいちょうのえき

1592(文禄元)〜98(慶長3)年,豊臣秀吉が2度にわたり朝鮮に侵略した戦争
全国を統一した秀吉は諸大名の領土拡張欲とその統制のため,朝鮮に明征服の道案内を求め,これが拒否されると,1592年3月,肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正を先鋒に出兵。平壌(ピョンヤン)付近まで進出したが,明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着。'93年4月,小西が講和を斡旋し停戦(文禄の役)。'96年大坂城に来た明使の書中に秀吉を日本国王に封じるという言があり,秀吉は大いに怒り'97年再度出兵を命じた。明の援軍等のため初めから苦戦を続け,'98年秀吉の死を契機として撤兵(慶長の役)。この両役は,朝鮮の国土と人々に多大な被害をあたえ,豊臣政権衰亡を早めることになった。文化的には強制連行された多数の朝鮮人陶工により窯業の発達がもたらされた。

べ @@@LINK=部 部



部民 (べのたみ)
平安京
へいあんきょう @@@LINK=平安京 平安京

平安京
へいあんきょう

平安時代から明治初年まで,千年余の間の帝都
桓武天皇は和気清麻呂の提案によって,山背国葛野 (かどの) 郡の地(現京都市)に新都を造営し,794年長岡京から遷都。規模は南北約5.3km,東西約4.6kmで条坊制を採用した。中央を南北に走る朱雀大路 (すざくおおじ) によって左・右両京に分けたが,右京はあまり発展しなかった。
平安時代
へいあんじだい @@@LINK=平安時代 平安時代

平安時代
へいあんじだい

794年に行われた桓武天皇の平安遷都から鎌倉幕府成立までの約400年間
政治史的には律令政治の最後の時代といわれる延喜・天暦の治までを前期,摂関政治や院政の行われた10世紀後半以後を後期とする。文化史的には前期の弘仁・貞観文化では唐文化の影響が強く,漢詩文や天台・真言の密教美術が栄えた。遣唐使廃止(894)後の後期になると,和歌・日記・物語文学や寝殿造など国風文化が栄えた。経済史的には班田制は前期で崩壊して荘園が全国的に広がり,国衙領も変化して荘園・公領制の時代となり,荘園の中から勃興した武士階級により鎌倉時代へと移行した。
平曲
へいきょく @@@LINK=平曲 平曲

平曲
へいきょく

中世,『平家物語』を琵琶の伴奏による語り物としたときの名称
『徒然草』によると,鎌倉初期,生仏 (しようぶつ) に始まり,南北朝時代,覚一によって中興された。階級を超え,広い地域に流行し,15世紀中ごろ,京都に琵琶法師が500〜600人いたという。
平家納経
へいけのうきょう @@@LINK=平家納経 平家納経

平家納経
へいけのうきょう

厳島 (いつくしま) 神社に奉納された,平家一門の手による写経
別名『厳島納経』。『法華経』など32巻と清盛の願文1巻。1164年,清盛が一門の現当2世(現在と未来)にわたる繁栄を祈って発願。経巻は荘厳・善美を尽くしたもので装飾経中の逸品である。
平家没官領
へいけもっかんりょう @@@LINK=平家没官領 平家没官領

平家没官領
へいけもっかんりょう

平家滅亡の際,朝廷に没収された平家一門の所領500余の荘園をいう
その大部分が平家追討の勲功の賞として,源頼朝に与えられた。鎌倉幕府の経済的基礎である関東御領の大部分がこの没官領であり,その内容は荘園の本家職・領家職であった。
平家物語
へいけものがたり @@@LINK=平家物語 平家物語

平家物語
へいけものがたり

鎌倉前期の軍記物語
成立年代未詳。流布本は12巻。作者は信濃前司行長 (しなののぜんじゆきなが) 説が有力。古代貴族社会から武家社会へと移行する変革期のありさまを,平家の盛衰興亡を軸とし,多くのエピソードを混じえながら描く。物語には仏教的無常観に基づく感傷性が濃くにじみでているが,また新興武士階級の生活倫理が生き生きとした人間像を通して語られている。軍記物語の代表作。後世へ大きな影響を与えた。
平氏
へいし @@@LINK=平氏 平氏

平氏
へいし

平安前期の賜姓貴族の一つ
桓武・仁明 (にんみよう) ・文徳・光孝の諸平氏がある。なかでも桓武天皇の皇子葛原 (かづらはら) 親王の系統の桓武平氏が最も有力で,源氏と並び武士の棟梁となった。親王の孫高望 (たかもち) に始まり,子孫は多く東国に土着したが,貞盛の子孫が伊勢を本拠とし(伊勢平氏),院政武力として活躍。清盛の時に平氏政権を樹立したが,その死後源氏に滅ぼされた。支流に北条・千葉・畠山・三浦・和田などの諸氏がある。
平氏政権
へいしせいけん @@@LINK=平氏政権 平氏政権

平氏政権
へいしせいけん

平安末期の平治の乱(1159)後に平清盛が樹立した政権
藤原氏の摂関政治を踏襲して貴族化し,清盛は娘徳子を入内させて天皇の外戚となった。多くの知行国や荘園を所有し,日宋貿易を開拓して政治的・経済的基盤を強化した。しかし後白河院・貴族・寺院勢力の反感を招き,一般武士からも遊離して,清盛の死後,1183年に源義仲に都を追われて没落し,'85年壇の浦の戦いで源氏の軍勢に敗れて滅んだ。
平治の乱
へいじのらん @@@LINK=平治の乱 平治の乱

平治の乱
へいじのらん

平安末期,平氏の全盛期を迎える契機となった内乱
保元 (ほうげん) の乱(1156)後,平清盛は後白河上皇の近臣藤原通憲 (みちのり) (信西)と結んで権勢を張った。これに不満な源義朝は'59(平治元)年,藤原信頼と結んで,清盛の熊野参詣中に兵。上皇を幽閉し,通憲を殺したが,急いで帰京した清盛に敗れ,信頼は斬罪,義朝も東国へのがれる途中尾張で家来に殺された。
平治物語
へいじものがたり @@@LINK=平治物語 平治物語

平治物語
へいじものがたり

鎌倉初期の軍記物語。平治の乱(1159年)を動的に描く
作者不詳。源義朝の嫡男悪源太義平が生き生きと描かれる。構想和漢混交文の文体において説話集的な性格がみられ,『今昔物語集』と『平家物語』とをつなぐ位置にある。
平治物語絵巻
へいじものがたりえまき @@@LINK=平治物語絵巻 平治物語絵巻

平治物語絵巻
へいじものがたりえまき

平治の乱に取材した鎌倉中期の絵巻物
住吉慶恩の作といわれ,「三条殿焼討の巻」「信西獄門の巻」「六波羅行幸の巻」の3巻が現存。細かくゆきとどいた描写,洗練された大和絵技法は絵巻物中でも圧巻で,鎌倉絵巻の最高峰の一つといわれる。
兵士役
へいしやく @@@LINK=兵士役 兵士役

兵士役
へいしやく

律令制下の兵役
中世荘園において,荘園領主名主 (みようしゆ) を中心とする武士団に,年貢輸送の警備,本家・領家の警衛宿直などにあたらせた警固役
諸国の正丁 (せいてい) の3分の1を徴集して軍団を編成。その中から選ばれた衛士 (えじ) は1年間都で,また防人 (さきもり) は3年間北九州で警固のにあたった。兵役中は調雑徭 (ぞうよう) を免除されたが,装備と食料の一部は兵士を出した戸の負担とされた。公民にはかなりきびしい負担だったため律令制の推移とともに解体し,健児 (こんでい) の制へと引き継がれた。
兵士役で貴族に武器をもって供侍する者を「侍 (さむらい) 」と呼んだ。
平城京
へいじょうきょう @@@LINK=平城京 平城京

平城京
へいじょうきょう

710年から784年までの都城。現在の奈良市街西方にあたる
「へいぜいきょう」とも読む。元明天皇の710年,藤原京から遷都。唐の長安の都城制を模倣し,東西南北に走る大路・小路によって整然と区画され,東西約4.3km,南北約4.8kmの長方形で,東に外京,右京に北辺があった。大内裏から南に走る朱雀大路 (すざくおおじ) の幅は約83m。市 (いち) は左・右京に東西2市を置き交易の中心とした。盛時の推定人口は約20万人。784年長岡京遷都後急速に荒廃した。
平城天皇
へいぜいてんのう @@@LINK=平城天皇 平城天皇

平城天皇
へいぜいてんのう

774〜824
平安初期の天皇(在位806〜809)
桓武天皇の皇子。809年,病気のため弟の嵯峨天皇に譲位。810年薬子 (くすこ) の変によって出家し,以後死ぬまで平城旧宮に住んだ。「奈良の帝」ともいう。在位は短かったが,参議廃止,観察使設置などを行った。

平地住居
へいちじゅうきょ @@@LINK=平地住居 平地住居

平地住居
へいちじゅうきょ

地表床面とする住居
竪穴住居高床建築に対する概念などでつくった場合は別として,発見が困難である。
兵農分離
へいのうぶんり @@@LINK=兵農分離 兵農分離

兵農分離
へいのうぶんり

中世末期〜近世初期にかけて,武士と農民の身分的・階級的分離がはっきりしたことをさす
中世まで,武士は有力名主 (みようしゆ) として平素は農業経営の主体となり,また室町時代以来土一揆が頻発して農民は武器をおびて行動するなど,武士と農民の区別がしにくかった。しかし農業生産力の向上という背景の中で,武士はしだいに支配者たる地位を強化し,特に戦国の群雄割拠の中で,武士の城下町居住の傾向が生じた。豊臣秀吉は全国統一と土地・人民の掌握のため検地・刀狩を行い,武士と農民の身分を明瞭に区別し規定した。かくて農民は土地にしばりつけられ,支配階級に対し年貢を納めることを任務とするようになり,武士は大名の家臣として行政・軍事上の任務を負うことになり,江戸時代の四民(士農工商)の区分の基礎を形成した。
兵範記
へいはんき @@@LINK=兵範記 兵範記
ひょうはんき @@@LINK=兵範記 兵範記

兵範記
へいはんき

平安末期,兵部卿平信範 (のぶのり) の日記
「ひょうはんき」とも読み,『人車記』ともいう。1132〜71年の記事があり,保元の乱・高倉天皇即位など,当時の政治・社会情勢を知るうえで重要な史料。

兵範記
ひょうはんき

へいはんき
平民
へいみん @@@LINK=平民 平民

平民
へいみん

明治初年,江戸時代の農・工・商身分の者に与えられた身分呼称
1869年版籍奉還の際,封建的身分制度を廃止し,華族・士族の下位に設定。翌年苗字使用を許可し,さらに '71年穢多 (えた) ・非人の称を廃し平民に編入したが,差別は依然としてなくならなかった。
平民宰相
へいみんさいしょう @@@LINK=平民宰相 平民宰相

平民宰相
へいみんさいしょう

原敬 (はらたかし)
平民社
へいみんしゃ @@@LINK=平民社 平民社

平民社
へいみんしゃ

明治後期の社会主義の結社
日露戦争直前の1903年,非戦論を唱えて,幸徳秋水・堺利彦らが結成。平民主義・社会主義・平和主義を掲げ,機関紙『平民新聞』発行のほか社会主義関係図書の出版,演説会などを行い,社会主義活動の中心となったが,政府の弾圧により'05年解散。'07年再興したが,同年解散。
平民主義
へいみんしゅぎ @@@LINK=平民主義 平民主義

平民主義
へいみんしゅぎ

明治中期,徳富蘇主張した思想
蘇峰は人民味方をみずからもって任じ,1887年創設した出版社を民友社と名づけた。またその機関誌『国民之友』で政府の推進する貴族的欧化主義を批判し,平民(地方実業家「田舎紳士」)による下からの近代化を唱えた。
平民新聞
へいみんしんぶん @@@LINK=平民新聞 平民新聞

平民新聞
へいみんしんぶん

明治後期の社会主義新聞
①週刊『平民新聞』。1903年,幸徳秋水・堺利彦らが平民社から発行。平民主義・社会主義・平和主義を掲げ,日露戦争に対して非戦論を高唱し,しばしば発禁処分をうけ,'05年,第64号で廃刊となった。
②日刊『平民新聞』。再興平民社および日本社会党機関紙。'07年1月,西川光二郎・幸徳・堺らが,前年再興された平民社より発行。日本社会党の禁止に伴い,4月,第75号で廃刊となった。
平和五原則
へいわごげんそく @@@LINK=平和五原則 平和五原則

平和五原則
へいわごげんそく

1954年6月,インドのネルー首相と中国の周恩来首相とが共同声明した,領土・主権の相互尊重,相互不可侵,相互内政不干渉,平等互恵,平和共存の五原則
ジュネーヴ会議の休会中,米・ソ二つの世界の対立の中で非同盟のアジア・アフリカ民族の立場から掲げた平和の原則。
平和十原則
へいわじゅうげんそく @@@LINK=平和十原則 平和十原則

平和十原則
へいわじゅうげんそく

1955年のアジア‐アフリカ会議で確認された平和の原則
インドネシアのバンドンに集まった非同盟の立場をとる中立主義の29カ国の代表の間で,反帝国主義・反植民地主義と平和共存旗印にした「バンドン十原則」が採択された。
碧蹄館の戦い
へきていかんのたたかい @@@LINK=碧蹄館の戦い 碧蹄館の戦い

碧蹄館の戦い
へきていかんのたたかい

1593年,文禄の役中の合戦
漢城(現ソウル)北方20kmの地の碧蹄館で,明の援軍李如松 (りじよしよう) の南下攻撃を小早川隆景・宇喜多秀家らの日本軍が鉄砲隊で迎撃して勝ち,これにより竜山で停戦協定の機会をつくった。
北京議定書
ペキンぎていしょ @@@LINK=北京議定書 北京議定書

北京議定書
ペキンぎていしょ

1901年,義和団事件(北清事変)鎮圧後,列国と清国との間で結ばれた最終議定書
ドイツ・オーストリアベルギー・スペイン・アメリカ・フランス・イタリア・日本・オランダ・ロシア・イギリスの11カ国代表と清国との間で調印。これにより列国は多額の賠償金と軍隊の北京常駐を認めさせた。
北京原人
ペキンげんじん @@@LINK=北京原人 北京原人

北京原人
ペキンげんじん

中国,北京の南西,周口店の石灰岩洞窟より発見された旧石器時代人
1927年出土した大臼歯を人と類人猿の中間型とし,カナダの学者ブラックが「シナントロプス‐ペキネンシス」と命名。打製石器・骨角器を用い,火を使用した。更新世中期に定され,その後も多くの人骨が出土した。
平群氏
へぐりうじ @@@LINK=平群氏 平群氏

平群氏
へぐりうじ

古代,中央の有力豪族
武内宿禰 (たけしうちのすくね) を祖とし,大和国平群(現奈良県生駒郡平群町)の地を本拠とした。姓 (かばね) は臣 (おみ) 。5世紀後半,真鳥 (まとり) のとき大臣 (おおおみ) となり雄略天皇を補佐勢力を誇ったが,大伴金村に敗退し,以後不振となった。
別木庄左衛門
べつきしょうざえもん @@@LINK=別木庄左衛門 別木庄左衛門

別木庄左衛門
べつきしょうざえもん

?〜1652
江戸前期の牢人蜂起の指導者
戸次庄左衛門」とも書く。牢人軍学者で,慶安事件の翌1652年,牢人林戸左衛門らと反乱挙兵を計画。仲間の密告で発覚し,未然に捕らえられ処刑された(承応事件)。

別子銅山
べっしどうざん @@@LINK=別子銅山 別子銅山

別子銅山
べっしどうざん

愛媛県北東部,新居浜市にあった鉱山。江戸時代以来栄えた
1687年に発見,'91年開坑。大坂の泉屋(住友)が経営して,江戸時代最高の産銅額を示した。明治維新後も西洋技術が導入され産銅が多く,住友財閥を形成するもととなった。1973年閉山。1907・'25年に大規模な争議があった。
別当
べっとう @@@LINK=別当 別当

別当
べっとう

本官のある者が別に職を担当する意であるが,のちには専任の長官をもさした
蔵人所 (くろうどどころ) ・検非違使 (けびいし) などの令外官 (りようげのかん) や,院庁の長官,鎌倉幕府の侍所 (さむらいどころ) ・政所 (まんどころ) の長官がその例。
紅花
べにばな @@@LINK=紅花 紅花

紅花
べにばな

紅色染料の原料
双子葉類・キク科。古代に中国から輸入され,以来各地で栽培された。江戸時代商品作物として四木三草の一つにあげられ,出羽最上・陸奥仙台が特産地として有名。衣料染料や口紅の原料となった。
部民
べのたみ @@@LINK=部民 部民
ぶみん @@@LINK=部民 部民
べみん @@@LINK=部民 部民

部民
べのたみ

大和政権における大王家や豪族の私有民
所有する豪族・職業名・地名にちなんで「何々」と呼んだ。大部分農民で,一部に特殊技術を有する者もあった。豪族に貢物労役を出したが,奴婢 (ぬひ) と異なり家族生活を営んだ。大王家の部民は品部 (ともべ) ・名代 (なしろ) ・子代 (こしろ) の民といい,伴造 (とものみやつこ) に統率された。豪族に属するものが部曲 (かきべ) 。大化の改新公民となったが,天智天皇が復活,のち天武天皇が再廃止した。品部の一部は未解放のまま律令の品部 (しなべ) ・雑戸 (ざつこ) となった。

部民
ぶみん

べのたみ

部民
べみん

べのたみ
ヘボン
James Curtis Hepburn @@@LINK=ヘボン ヘボン

ヘボン
James Curtis Hepburn

1815〜1911
アメリカの宣教師・語学者・医学者
1859年来日。横浜で伝道と医療活動に従事し,ローマ字による日本語の表記法(ヘボン式)を工夫。'67年日本最初の和英辞典『和英語林集成』を完成。また私塾英和学院(現明治学院大学)を開いた。'92年帰国。

部民
べのたみ @@@LINK=部民 部民
ぶみん @@@LINK=部民 部民
べみん @@@LINK=部民 部民

部民
べのたみ

大和政権における大王家や豪族の私有民
所有する豪族・職業名・地名にちなんで「何々」と呼んだ。大部分農民で,一部に特殊技術を有する者もあった。豪族に貢物労役を出したが,奴婢 (ぬひ) と異なり家族生活を営んだ。大王家の部民は品部 (ともべ) ・名代 (なしろ) ・子代 (こしろ) の民といい,伴造 (とものみやつこ) に統率された。豪族に属するものが部曲 (かきべ) 。大化の改新公民となったが,天智天皇が復活,のち天武天皇が再廃止した。品部の一部は未解放のまま律令の品部 (しなべ) ・雑戸 (ざつこ) となった。

部民
ぶみん

べのたみ

部民
べみん

べのたみ
ペリー
Matthew Calbraith Perry @@@LINK=ペリー ペリー

ペリー
Matthew Calbraith Perry

1794〜1858
アメリカの海軍軍人
東インド艦隊司令官として,1853(嘉永6)年4隻の軍艦を率いて浦賀に入港し,幕府に大統領フィルモアからの国書を提出して開国を要求。翌'54年,7隻で再度来日し,武力背景に日米和親条約を締結。日本の開国を実現させた。

ベルツ
Erwin von Bälz @@@LINK=ベルツ ベルツ

ベルツ
Erwin von Bälz

1849〜1913
ドイツの医学者
ライプチヒ大学卒。1876年来日。東大教授・宮内省御用掛(侍医)をつとめ,ドイツ医学を紹介。ツツガムシ病・脚気の研究などで医学界に貢献した。『ベルツの日記』(息子トク=ベルツ編)がある。

弁円
べんえん @@@LINK=弁円 弁円

弁円
べんえん

円爾 (えんに)
弁官
べんかん @@@LINK=弁官 弁官

弁官
べんかん

律令制における太政官の要職
太政官と諸官司・諸国との連絡は弁官を経由して行われた。左弁官と右弁官に分かれ,大・中・少弁各1名とその下に大・小の史が置かれた。左弁官は中務 (なかつかさ) ・式部・治部・民部を,右弁官は兵部 (びようぶ) ・刑部 (ぎようぶ) ・大蔵・宮内各省を管轄した。
弁韓
べんかん @@@LINK=弁韓 弁韓

弁韓
べんかん

2〜3世紀ころ,朝鮮半島東南部にいた部族集団
弁辰ともいう。馬韓・辰韓とともに三韓の一つ。4〜6世紀になっても小国の分立状態が続き,加羅(伽耶 (かや) )として大和政権とも密接な関係をもった。
弁慶
べんけい @@@LINK=弁慶 弁慶

弁慶
べんけい

?〜1189
鎌倉初期の僧兵
源義経の従臣で,武蔵坊と号す。『吾妻鏡』にその名がみえるほか,『平家物語』『源平盛衰記』に活動の一部を記すだけで事績は明らかでない。むしろ室町時代の『義経記』『弁慶物語』などによって国民的英雄・豪傑に創作され知られるようになった。

遍昭
へんじょう @@@LINK=遍昭 遍昭

遍昭
へんじょう

816〜890
平安前期の歌人。六歌仙の一人
俗名良岑宗貞 (よしみねのむねさだ) 。安世(『経国集』の編者)の子。仁明 (にんみよう) 天皇に寵愛され蔵人頭 (くろうどのとう) にのぼったが,天皇の死後出家。円仁の門に入り僧正となった。歌風は軽妙流麗で,機智にあふれた秀歌が多い。家集に『遍昭集』。

変動為替相場制
へんどうかわせそうばせい @@@LINK=変動為替相場制 変動為替相場制

変動為替相場制
へんどうかわせそうばせい

外国為替相場を市場における需要・供給の状態に任せて変動させる制度
第二次世界大戦後は,IMF体制の下で固定相場制がとられてきたが,1971年のドル‐ショック契機に動揺し,'73年に日本を含む先進主要国は変動為替相場制へ移行した。
編年体
へんねんたい @@@LINK=編年体 編年体

編年体
へんねんたい

歴史上の事件を,すべて年月にかけて記していく歴史叙述の方法
紀伝体に比べて,総体的な流れはわかりやすいが,個々の事象について関連してとらえにくい。六国史後半が,年表日誌のようになっているのは,編年体の悪い例。

ほ @@@LINK=保 保



②平安京における条坊の単位
①律令制の末端行政組織。五保ともいう。
1坊は16町に分かれ,その4町(128戸)ごとを1保として保刀禰 (ほとね) (保長)を置いた。
③平安末期から中世にかけての国衙 (こくが) 領内の行政単位。


帆足万里
ほあしばんり @@@LINK=帆足万里 帆足万里

帆足万里
ほあしばんり

1778〜1852
江戸後・末期の儒者・蘭学者
豊後(大分県)日出 (ひじ) 藩の家老の子で,藩校の教授となり,のち家老として藩政改革を担当。辞任後オランダ語を独習して西洋の自然科学を学び,『窮理通』8巻を著した。ほかに『入学新論』『東潜夫論』など。

ボアソナード
Gustave Emile Boissonade @@@LINK=ボアソナード ボアソナード

ボアソナード
Gustave Emile Boissonade

1825〜1910
フランスの法学者。御雇外国人の一人
パリ大学助教授。1873〜95年の間滞日し,司法省法学校で法学教育に従事し,フランス法に基づいて旧刑法・治罪法を編纂。しかし,ボアソナードの起草した民法草案には反論が出て,民法典論争に発展した。また'87年井上馨の条約改正案に対し反対の意見書を提出し,反対運動に影響を与えた。
保安条例
ほあんじょうれい @@@LINK=保安条例 保安条例

保安条例
ほあんじょうれい

1887(明治20)年公布された反政府運動弾圧法規
井上馨の条約改正案反対を契機として,自由民権運動家を中心に言論の自由・地租軽減・外交の挽回を要求する三大事件建白運動が激化した。政府は,内相山県有朋,警視総監三島通庸 (みちつね) らが中心となり,これに対抗するため保安条例を公布し,秘密の結社・集会の禁止,内乱の陰謀・治安妨害の恐れある者の皇居外3里の地への退去を命じ,尾崎行雄・片岡健吉・星亨 (とおる) ・中江兆民ら570名を追放した。
保安隊
ほあんたい @@@LINK=保安隊 保安隊

保安隊
ほあんたい

警察予備隊の後身
ポイント
point @@@LINK=ポイント ポイント

ポイント
point

槍先型の尖頭器
旧石器時代末期に細石器が使われる直前に主として使用された。
宝永銀
ほうえいぎん @@@LINK=宝永銀 宝永銀

宝永銀
ほうえいぎん

江戸中期,幕府が鋳造した銀貨
1706(宝永3)年から鋳造し,元禄以来の金銀貨の不足を補おうとしたが,品質が悪く経済界を混乱させたので,やがてその流通を停止した。宝字丁銀宝字豆板銀永字銀三宝銀四宝銀などがあった。
防衛庁
ぼうえいちょう @@@LINK=防衛庁 防衛庁

防衛庁
ぼうえいちょう

自衛隊を管理・運営する官庁
防衛庁設置法に基づき,1954年7月設置。長官は国務大臣で,陸・海・空の3自衛隊を統轄する。
宝永通宝
ほうえいつうほう @@@LINK=宝永通宝 宝永通宝

宝永通宝
ほうえいつうほう

江戸中期,幕府鋳造した銅銭
1708(宝永5)年勘定奉行荻原重秀の建策により鋳造した10文銭。鋳造高の5割を幕府に上納させ幕府の財源収入をはかったが,大銭のため持ち運びに不便で評判が悪く,翌年鋳造を中止した。
貿易・為替の自由化
ぼうえき・かわせのじゆうか @@@LINK=貿易・為替の自由化 貿易・為替の自由化

貿易・為替の自由化
ぼうえき・かわせのじゆうか

外国貿易や外国為替の取引に対する統制を排除して自由にすること
戦後は,「外国為替及び外国貿易管理法」(1949)によって,外貨予算制度のもとで輸入を制限してきた。しかし,貿易・為替の自由化の気運が高まり,1960年に「貿易・為替自由化計画大綱」が発表されて,自由化が大きく進展した。貿易自由化率は'60年には40%であったが,'62年には80%台,'63年には90%台へと上昇し,また貿易以外の為替取引の面でも,海外渡航の規制緩和などが実施されるなど自由化が進展した。そして'64年,わが国のIMF8条国への移行に伴って,外貨予算制度は廃止され,'80年には為替取引が原則自由となった。アメリカによる農産物の輸入自由化要求があり,'88年には牛肉オレンジの輸入自由化を決定し,'93年には米市場の部分開放を決定した。
貿易摩擦
ぼうえきまさつ @@@LINK=貿易摩擦 貿易摩擦

貿易摩擦
ぼうえきまさつ

日米間の貿易収支の不均衡による経済的紛争のこと
当初繊維,鉄鋼などにすぎなかった対米輸出の品目は,高度経済成長に伴い,自動車・カラーテレビ・VTR・半導体など広範囲に広がり,1960年代以降の恒常的な貿易不均衡となってアメリカの膨大な貿易赤字の原因ともなった。アメリカはこの貿易不均衡を是正するため,日本の市場開放を求め,'89年から日米構造協議が開催された。ここでは日米貿易不均衡の原因が両国の経済構造にあるとして,アメリカは構造的な障壁を解明し,日本市場の透明性と開放を求めた。
法皇
ほうおう @@@LINK=法皇 法皇

法皇
ほうおう

出家した上皇の呼び名
「太上法皇」の略。平安中期,宇多上皇に始まり,江戸時代の霊元法皇にまで至る。特に白河・鳥羽・後白河の3法皇は院政の中心人物として有名。
法王帝説
ほうおうていせつ @@@LINK=法王帝説 法王帝説

法王帝説
ほうおうていせつ

上宮 (じようぐう) 聖徳法王帝説
報恩講
ほうおんこう @@@LINK=報恩講 報恩講

報恩講
ほうおんこう

仏教各宗で祖師の忌日に報恩のために行う仏事
平安末期からみられるが,新義真言宗および浄土真宗のものがよく知られている。
法界寺
ほうかいじ @@@LINK=法界寺 法界寺

法界寺
ほうかいじ

京都市伏見区日野西大道町にある真言宗の寺
「ほっかいじ」とも読む。日野薬師ともいう。1051年に日野資業 (すけなり) が別荘の中に創建。当時の伽藍 (がらん) はほとんど焼失してしまったが,残る阿弥陀堂と壁画,『阿弥陀如来像』は平安時代の浄土教芸術の代表作として著名である。
法界寺阿弥陀堂
ほうかいじあみだどう @@@LINK=法界寺阿弥陀堂 法界寺阿弥陀堂

法界寺阿弥陀堂
ほうかいじあみだどう

京都市伏見区にある法界寺の阿弥陀堂
平安中期の浄土教芸術の代表的建築で,この壁画と『阿弥陀如来像』はともに創立以来といわれる。平等・大原三千院のものとともに今日に残る阿弥陀堂建築の傑作の一つ。
法起寺
ほっきじ @@@LINK=法起寺 法起寺
ほうきじ @@@LINK=法起寺 法起寺

法起寺
ほっきじ

奈良県生駒郡斑鳩 (いかるが) 町,法隆寺の東北方にある古寺
「ほうきじ」とも読み,岡本寺ともいう。聖徳太子の岡本宮を白鳳時代ころに寺に改めたものといわれる。この寺の三重塔はわが国最大のもの。本尊は『十一面観音』。伽藍 (がらん) 配置は法隆寺式であるが,塔・金堂の配置が法隆寺と反対で塔が東にある。

法起寺
ほうきじ

ほっきじ
宝篋印塔
ほうきょういんとう @@@LINK=宝篋印塔 宝篋印塔

宝篋印塔
ほうきょういんとう

供養塔の一種
中に『宝篋印荼羅尼経』を納めたのでこの名がある。蓋の四隅に馬耳状の飾りがあるのが特色で,それが垂直に近く立っているのは中世のもので,外側にはり出しているのは近世のものである。
防共協定
ぼうきょうきょうてい @@@LINK=防共協定 防共協定

防共協定
ぼうきょうきょうてい

日独防共協定
方形造
ほうぎょうづくり @@@LINK=方形造 方形造

方形造
ほうぎょうづくり

屋根の一形式
「宝形造」とも書く。平面は方形で,四方から一点に集まる四角すい状の屋根の形。阿弥陀堂建築に多い。
法均尼
ほうきんに @@@LINK=法均尼 法均尼

法均尼
ほうきんに

和気広虫 (わけのひろむし)
方形周溝墓
ほうけいしゅうこうぼ @@@LINK=方形周溝墓 方形周溝墓

方形周溝墓
ほうけいしゅうこうぼ

弥生時代後期〜古墳時代前期につくられた墓制の一種
溝を方形にめぐらし,中央部に土壙を掘って遺体を埋葬した。鏡・太刀・玉などの副葬品を伴うもの,遺体も数体あったり,壺棺にいれたものもある。1964年東京都八王子市の宇津木遺跡で最初に確認されて以来,各地で発見された。一般の共同体成員の墓とは区別され,古墳に一歩近づいた墓制で,古墳との関係が問題にされている。
封建遺制
ほうけんいせい @@@LINK=封建遺制 封建遺制

封建遺制
ほうけんいせい

資本主義社会の中に残存する封建社会の制度的特質
市民革命の不徹底な国では,地主農民の間に身分的な隷属関係が残る。明治時代以後の日本を近代国家だとする立場労農派)からは,寄生地主制は封建遺制とみられる。日本では特に家族主義的な身分秩序が,明治民法の家族制度に規定され,また各種の支配関係の中に,擬制として利用された。
封建社会
ほうけんしゃかい @@@LINK=封建社会 封建社会

封建社会
ほうけんしゃかい

古代社会に続き,近代社会に先行する社会で,封建制度を中軸とする社会
日本では,封建制度の始期について諸説があるが,太閤検地成立説を除いて,始期をいずれに求めるかによって,室町・江戸時代の評価が違ってくる。(1)鎌倉時代に成立した封建制度が,その後しだいに純化・発展して江戸時代に完成したとする純粋封建制説。(2)いったん成立した封建制度は15〜16世紀に解体し,それを江戸幕府が再編成したとする再編成説などがあるが,一般的には,(3)鎌倉・室町時代を前期封建社会,江戸時代を後期封建社会と区分して考えている。後期封建社会は世界史的にも特徴的な「完全な封建制」といわれる幕藩体制をさす。前期封建社会にあっては,兵農は未分離で,荘園制を基盤とする封建社会であるが,後期は,兵農が分離し,郷村制の上の封建社会である。封建的身分関係も前期はさほどではなく,後期で確立され強固なものとなった。また前期は朝廷・公家の権力も残存し,封建権力も分権的であったが,後期は武家の単独政権であり,幕府による中央集権の権力は強大であった。水田も前期は山際やわき水のあるところにつくられたが,後期は大河川の平野部が開田された。そして城下町が形成され,武士は城下町に集住し,そこでは商品貨幣経済が行われた。このように前期と後期では,顕著な相違がある。
封建制度
ほうけんせいど @@@LINK=封建制度 封建制度

封建制度
ほうけんせいど

土地を媒介として成立する政治的あるいは社会的な制度
わが国における封建制度の概念規定については,以下のような諸説がある。(1)中国周代に天子天下諸国に分け,国ごとに諸侯をおき,分権的に統治させた行政支配の形態で,つぎの秦代の郡県制度と対立する概念。江戸時代の儒学者が日本の近世社会を封建制度と理解した。(2)ヨーロッパの7〜8世紀のフランク王国などに発達したフューダリズム(feudalism)の概念で,土地の恩給制度と主従制度が結合したところに生まれる政治社会。明治時代以降,日本に西洋史学が導入されると,主君を頂点としてピラミッド的に身分秩序が構成される点が(1)に相似しているので,フューダリズムを封建制度と訳し,以後,封建制度を土地の恩給を媒介として成立する主従制度とする法制史的な概念が成立し,一般にはこの意味で理解する場合が多い。
保建大記
ほうけんたいき @@@LINK=保建大記 保建大記

保建大記
ほうけんたいき

江戸前期に水戸藩の朱子学者栗山潜鋒 (せんぼう) が著した史書
1689年成立。2巻。1123(保安4)年から'92(建久3)年までの皇室の衰退武家興隆を叙述したもの。
保元の乱
ほうげんのらん @@@LINK=保元の乱 保元の乱

保元の乱
ほうげんのらん

平安末期の内乱
皇位継承問題をめぐり崇徳上皇と後白河天皇の対立が激化し,一方摂関家でも,藤原忠通・頼長兄弟が摂関の地位をめぐって対立していた。鳥羽法皇の死をきっかけとして1156(保元元)年,上皇方は頼長・源為義・源為朝・平忠正を,天皇方は忠通・源義朝・平清盛を用いて戦い,天皇方が勝った。上皇は讃岐に流され,頼長は戦死,為義・忠正は斬首された。この内乱で皇室・摂関家の内紛に武士が活躍し,武士の政界進出を促すことになった。
保元物語
ほうげんものがたり @@@LINK=保元物語 保元物語

保元物語
ほうげんものがたり

保元の乱(1156年)を主題とした鎌倉初期の軍記物語
3巻。著者・成立年ともに不詳。源為朝の活躍を中心に,保元の乱の様子を和漢混交文でリアルに描写している。勇壮な軍戦記物語の始祖として後世の文学に影響を与えた。
房戸
ぼうこ @@@LINK=房戸 房戸

房戸
ぼうこ

律令制下,地方行政の末端組織。➡ 郷戸・房戸
奉公
ほうこう @@@LINK=奉公 奉公

奉公
ほうこう

封建社会において,従者が主家に奉仕する義務。
方広寺
ほうこうじ @@@LINK=方広寺 方広寺

方広寺
ほうこうじ

京都市東山区にある天台宗の寺
豊臣秀吉が1589年に創建。大仏殿には6丈3尺(約19m)の木像大仏を安置したが,慶長の地震で破壊。徳川家康は豊臣秀頼に再建を命じ1612年完了。'14年の供養に際し,鐘銘の「国家安康」が大坂の役の原因となった。
法興寺
ほうこうじ @@@LINK=法興寺 法興寺

法興寺
ほうこうじ

飛鳥寺
豊国祭礼図屛風
ほうこくさいれいずびょうぶ @@@LINK=豊国祭礼図屛風 豊国祭礼図屛風

豊国祭礼図屛風
ほうこくさいれいずびょうぶ

京都の豊国神社所蔵の,近世初期の風俗
狩野内膳。豊国神社の祭礼が描かれ,当時の京都町衆を中心とする市井の風俗を知る貴重な資料。
豊国神社
ほうこくじんじゃ @@@LINK=豊国神社 豊国神社

豊国神社
ほうこくじんじゃ

京都市東山区にある豊臣秀吉を祭る神社
「とよくにじんじゃ」とも読む。秀吉の(1598)の翌年に方広寺の鎮守という名目で建てられ,完成後,豊国大明神の神号を贈られた。本殿拝殿とを石間 (いしのま) でつなぐ豪華で神式霊廟建築。極楽門は有名である。豊臣氏滅亡後,徳川氏によって破壊されたが,明治に入って再興
防穀令
ぼうこくれい @@@LINK=防穀令 防穀令

防穀令
ぼうこくれい

1889(明治22)年,朝鮮政府による大豆・米の輸出禁止令
凶作のためであるが,日本人商人は打撃をうけ,日本政府は朝鮮進出の口実とし賠償を要求した。翌1890年解除されたが,両国間の紛争甲午農民戦争へと続く。
放氏
ほうし @@@LINK=放氏 放氏

放氏
ほうし

古代,氏人を氏から追放すること
氏のため不都合な行為があったとき,氏上一族から除名し氏人としての特権を取り上げた。特に藤原氏の放氏は有名で,氏神春日神社,氏寺の興福寺に非礼を働いたと訴えられた氏人に適用された。
宝治合戦
ほうじかっせん @@@LINK=宝治合戦 宝治合戦

宝治合戦
ほうじかっせん

1247(宝治1)年,鎌倉で行われた北条時頼と三浦泰村との合戦
三浦氏の乱・宝治の乱ともいう。北条氏と三浦氏は協調的関係を続け幕政に重きをなしてきた。泰村も北条泰時の女婿として勢力をふるったが,執権時頼の外祖父安達景盛父子と対立し,北条氏とも疎遠になった。'47年時頼・景盛の陰謀により一族は反抗したが敗亡。これ以後,北条氏の独裁体制が確立した。
奉書
ほうしょ @@@LINK=奉書 奉書

奉書
ほうしょ

古文書の一形式で,上位の人の意をうけて,その命令を伝える文書
綸旨 (りんじ) ・院宣 (いんぜん) ・令旨 (りようじ) ・御教書 (みきようじよ) ・下知状 (げちじよう) など。鎌倉幕府以後には,政所 (まんどころ) ・侍所の頭人の出すものも奉書といい,江戸時代には将軍の内書を添えて出すものもいう。用紙としては越前産のきめの細かい紙が有名で,この紙自身も奉書(奉書紙ともいう)と呼ばれる。
北条顕時
ほうじょうあきとき @@@LINK=北条顕時 北条顕時

北条顕時
ほうじょうあきとき

1248〜1301
鎌倉後期の武将
実時 (さねとき) の子。金沢氏を称していたので金沢顕時ともいう。幕府の引付衆・評定衆を歴任。父実時のを継ぎ,好学で書籍書写につとめ金沢文庫の維持に尽力した。その蔵書は現在同文庫に収められている。
北条氏綱
ほうじょううじつな @@@LINK=北条氏綱 北条氏綱

北条氏綱
ほうじょううじつな

1486〜1541
戦国時代の武将
早雲の子。江戸城・河越城を攻略。鉄砲を用い,関東南部に勢威をはり後北条氏の基礎を固めた。小田原はその中心として繁栄。また元人の子孫で日本に帰化した陳外郎を招き,薬種をつくらせた。

北条氏政
ほうじょううじまさ @@@LINK=北条氏政 北条氏政

北条氏政
ほうじょううじまさ

1538〜90
安土桃山時代の戦国大名
氏康の嫡子。甲斐(山梨県)の武田信玄と交戦,常陸 (ひたち) (茨城県)の佐竹氏を制圧。'82年織田・徳川両氏とともに武田勝頼を滅ぼした。'90年全国征覇をめざす豊臣秀吉に包囲され,小田原城に籠城ののち降伏,自刃させられた。

北条氏康
ほうじょううじやす @@@LINK=北条氏康 北条氏康

北条氏康
ほうじょううじやす

1515〜71
戦国時代の武将
氏綱の子。1551年武蔵(埼玉県)河越で扇谷 (おうぎがやつ) ・山内両上杉氏・古河 (こが) 公方足利晴氏の大軍を撃破し(河越の戦い),武田信玄・今川義元らとしばしば交戦。のち武田・今川両氏と和を結び,関東南部を平定し,後北条氏最盛期を現出した。また和歌好み足利学校復興を援助した。

方丈記
ほうじょうき @@@LINK=方丈記 方丈記

方丈記
ほうじょうき

鎌倉前期,鴨長明の随筆文学
1212年成立。治承・寿永(1177〜85)の動乱や大火・辻風・地震などの天変地異を体験して世の無常を感じた長明が,京都日野山に方1丈の庵を結び,有為転変の世・閑居隠遁の心を綴ったもの。『枕草子』『徒然草』と並ぶ随筆文学の傑作
宝生座
ほうしょうざ @@@LINK=宝生座 宝生座

宝生座
ほうしょうざ

能楽の一流派
もと春日神社・興福寺に奉仕した外山 (とび) で,大和四座の一つ。足利氏に仕え,室町中期,蓮阿弥(世阿弥)により中興された。のち徳川家にも奉仕し,11代徳川家斉のころ将軍や三卿の後援で特に盛んとなった。加賀前田氏の庇護による加賀宝生もある。流儀は写実的で優雅。現在,宝生流という。
北条貞時
ほうじょうさだとき @@@LINK=北条貞時 北条貞時

北条貞時
ほうじょうさだとき

1271〜1311
鎌倉幕府の9代執権
1284年父時宗の死後,14歳で執権に就任したが,外祖父安達泰盛に頼った。'85年の霜月騒動後,内管領の平頼綱が幕府の実権を握ったが,'93年貞時は頼綱を倒して(平禅門の乱)実権を取り戻し,得宗専制体制を確立させた。'97年,御家人を救済するために永仁の徳政令を出した。

北条実時
ほうじょうさねとき @@@LINK=北条実時 北条実時

北条実時
ほうじょうさねとき

1224〜76
鎌倉中期の武将
金沢 (かねさわ) 実時ともいう。北条義時の孫。引付衆・評定衆を歴任して執権経時 (つねとき) ・時頼を補佐した。武蔵六浦庄金沢郷(現横浜市金沢区)に住み,学問を好み多くの書籍を収集し金沢文庫を設けた。
北条氏
ほうじょうし @@@LINK=北条氏 北条氏

北条氏
ほうじょうし

①鎌倉幕府の執権家
桓武平氏の一流で,平貞盛の子孫時家が伊豆国北条に住み北条氏を称した。時政は女婿源頼朝の幕府創設を助け,頼朝死後執権として幕政を握り,義時・泰時の代には有力な御家人を倒し,京都から藤原(摂家)将軍・皇族親王)将軍を迎え,執権政治を確立した。連署・六波羅探題などの要職,諸国守護を一族で多数占めたが,1333年幕府とともに滅亡した。
②相模の戦国大名。
法成寺
ほうじょうじ @@@LINK=法成寺 法成寺

法成寺
ほうじょうじ

京都市上京区鴨川の西岸にあった寺
通称京極御堂・御堂。藤原道長が病のため出家して,1020年造営。道長はここで没した。'58年に焼失し,再建ののちも再三の失火天災で廃滅した。
北条重時
ほうじょうしげとき @@@LINK=北条重時 北条重時

北条重時
ほうじょうしげとき

1198〜1261
鎌倉中期の武将
義時の3男。極楽寺を始めたので「極楽寺殿」ともいう。兄泰時を補佐して幕府の要職を歴任。1230年六波羅探題として上洛し,'47年宝治合戦ののち,執権時頼に招かれて鎌倉に帰り連署となる。その家訓『極楽寺殿御消息』は有名である。

北条早雲
ほうじょうそううん @@@LINK=北条早雲 北条早雲

北条早雲
ほうじょうそううん

1432〜1519
戦国時代の武将。小田原に拠って栄えた後北条氏の祖
伊勢新九郎長氏 (ながうじ) といい,出身は京都・伊勢(三重県)・備後(広島県)の諸説がある。今川氏を頼って駿府に下り,1491年堀越公方足利政知 (まさとも) の子茶々丸を殺して伊豆韮山 (にらやま) に移った。'95年小田原の大森藤頼を追って小田原城に入り,後北条氏発展の基礎を築いた。

北条高時
ほうじょうたかとき @@@LINK=北条高時 北条高時

北条高時
ほうじょうたかとき

1303〜33
鎌倉幕府第14代執権(在職1316〜26)
貞時の子。1316年幼くして執権となったが,実権は妻の父秋田時顕や内管領長崎高資 (たかすけ) らに握られて政治は乱れた。この政治的混乱と元寇後の社会的動揺の中で正中・元弘の変がおこり,高時は後醍醐 (ごだいご) 天皇を隠岐に流し光厳天皇を擁立した。しかし,'33年新田義貞に鎌倉を攻められて一族とともに自殺した。

北条時房
ほうじょうときふさ @@@LINK=北条時房 北条時房

北条時房
ほうじょうときふさ

1175〜1240
鎌倉前期の武将
時政の子。義時の弟。泰時の叔父。奥州征討,畠山重忠討滅和田義盛の乱鎮定などに従い,1221年承久の乱には泰時とともに幕府軍を率いて入京。乱後,六波羅探題となる。'24年泰時のもとで初めて連署となり幕政を補佐した。
北条時政
ほうじょうときまさ @@@LINK=北条時政 北条時政

北条時政
ほうじょうときまさ

1138〜1215
鎌倉幕府創業の功臣で,初代執権(在職1203〜05)
時方の子。伊豆の住人。流人であった源頼朝を助けて幕府創立に尽くす。娘政子を頼朝に配し外戚として勢威をふるった。頼朝の死後,2代将軍頼家を謀殺し実朝を擁立。政治的実権を握り執権と称す。1205年後妻牧ノ方の陰謀事件(実朝を廃して,時政の女婿平賀朝雅 (ともまさ) を将軍に立てようとしたもの)に関係して隠退し出家した。

北条時宗
ほうじょうときむね @@@LINK=北条時宗 北条時宗

北条時宗
ほうじょうときむね

1251〜84
鎌倉幕府第8代執権(在職1268〜84)
時頼の長子。相模太郎と称す。1264年連署,翌年相模守に任ぜられ,'68年18歳で執権となる。元寇に際し,元使を斬り西国の防備を固め積極的に対外強硬策をとり,元軍来襲に際しては在九州の非御家人をも動員し国難に対処した。国内政治においては武家社会の動揺の中で得宗専制への動きをみせた。また禅宗を信じ,無学祖元を宋より招き円覚寺を建立した。

北条時行
ほうじょうときゆき @@@LINK=北条時行 北条時行

北条時行
ほうじょうときゆき

?〜1353
鎌倉末期〜南北朝初期の武将
高時の子。鎌倉幕府滅亡のとき信濃国(長野県)にのがれていたが,1335年京都の西園寺公宗 (きんむね) と通謀して中先代の乱をおこす。足利直義 (ただよし) の軍を破って鎌倉を占領したが,足利尊氏に敗れた。のち南朝の新田義興に従ったが,捕らえられて斬られた。

北条時頼
ほうじょうときより @@@LINK=北条時頼 北条時頼

北条時頼
ほうじょうときより

1227〜63
鎌倉幕府第5代執権(在職1246〜56)
父は時氏。泰時の孫。母は安達景盛の娘(松下禅尼)。1246年執権,'49年相模守となる。前将軍九条頼経と名越 (なごえ) 光時の陰謀を防ぎ,'47年宝治合戦では三浦氏を滅ぼすなど北条得宗家の力を強化した。さらに引付を設置し,また宗尊 (むねたか) 親王を将軍に迎えて北条氏の権力確保につとめた。出家して最明寺殿といわれたのちも幕政に参与。また禅宗を信仰し,蘭渓道隆に帰依し,建長寺を創建した。

北条政子
ほうじょうまさこ @@@LINK=北条政子 北条政子

北条政子
ほうじょうまさこ

1157〜1225
鎌倉初期,源頼朝の妻。北条時政の娘
伊豆配流中の頼朝と結婚し,頼家・実朝を生む。頼朝の死後,父時政・弟義時とともに幕府政治を掌握。牧氏の陰謀(実朝を廃して,時政の女婿平賀朝雅 (ともまさ) を将軍に立てようとしたもの)を察知して時政を隠退させ,実朝死後は4代将軍として京都から九条頼経を迎え,みずから後見人となる。「尼将軍」といわれ,承久の乱(1221)に際しては御家人の動揺を抑えて幕府の危機を救う役目を果たした。

北条政村
ほうじょうまさむら @@@LINK=北条政村 北条政村

北条政村
ほうじょうまさむら

1205〜73
鎌倉幕府第7代執権(在職1264〜68)
義時の子。泰時の異母弟。母伊賀氏と陰謀を企て,藤原実雅の将軍擁立により,実権掌握をはかったが失敗。泰時の助けで事なきを得て,のち評定衆・引付衆・連署を歴任し,1264年執権となる。'68年時宗が執権になるにおよび再び連署となった。和歌にすぐれ,『新勅撰和歌集』『続千載和歌集』などに収められている。
北条光時
ほうじょうみつとき @@@LINK=北条光時 北条光時

北条光時
ほうじょうみつとき

名越 (なごえ) 光時
北条泰時
ほうじょうやすとき @@@LINK=北条泰時 北条泰時

北条泰時
ほうじょうやすとき

1183〜1242
鎌倉幕府第3代執権(在職1224〜42)
義時の長子。法名観阿。1211年修理亮,ついで駿河守・武蔵守に任官。晩年左京権大夫を兼任する。'21年承久の乱に幕府軍の大将として上洛し,叔父時房とともに初代六波羅探題となる。'24年義時死後執権を継ぎ,翌'25年評定衆を設置して合議体制を展開。'32年御成敗式目を制定するなど,武家政権確立につとめた。

北条義時
ほうじょうよしとき @@@LINK=北条義時 北条義時

北条義時
ほうじょうよしとき

1163〜1224
鎌倉幕府第2代執権(在職1205〜24)
時政の嫡子。江馬小四郎と称し,徳宗と号した。源頼朝の挙兵に父とともに従う。1204年相模守,翌'05年時政の後妻牧ノ方の陰謀事件(実朝を廃して,時政の女婿平賀朝雅 (ともまさ) を将軍に立てようとしたもの)で父を隠退させ執権となる。さらに '13年和田義盛を倒して侍所別当も兼ね,'19年将軍源実朝暗殺ののちは,姉政子とはかって藤原(摂家)将軍を迎え,政治的実権を握った。'21年の承久の乱には軍勢を上洛させて大勝し,後鳥羽上皇以下3上皇の配流を強行した。

奉書船
ほうしょせん @@@LINK=奉書船 奉書船

奉書船
ほうしょせん

江戸初期,幕府の老中奉書により海外渡航を許された船
幕府は1631年に海外渡航には,従来の朱印状のほかに老中奉書を必要とすることとして制限をきびしくした。'33年には,奉書船以外の海外渡航を禁止した。
坊主
ぼうず @@@LINK=坊主 坊主

坊主
ぼうず

僧房(僧侶の住居)の主をいう
真宗で一坊の主僧・住持を坊主といったが,室町時代以後僧侶一般の呼称となる。
紡錘車
ぼうすいしゃ @@@LINK=紡錘車 紡錘車

紡錘車
ぼうすいしゃ

糸をつむぐとき,糸によりをかけるための道具
円板形の石製か土製の器具。中央の穴に糸巻棒をさして回転させる。弥生時代に始まり,古墳時代には碧玉製・滑石製のものが用いられた。
放賤従良
ほうせんじゅうりょう @@@LINK=放賤従良 放賤従良

放賤従良
ほうせんじゅうりょう

律令制において賤身分を免除して良民とすること
賤民はその所有主意志によって解放されれば良民となれたが,特に官戸・公奴婢 (くぬひ) は一定年齢になると良民になれた。789年以後は良賤間の出生児は良民に入れられた。
奉天会戦
ほうてんかいせん @@@LINK=奉天会戦 奉天会戦

奉天会戦
ほうてんかいせん

1905年,日露戦争における最大・最後の陸戦
クロポトキンの率いるロシア軍32万を,大山巌指揮の日本軍25万が奉天(現瀋陽)で撃破し,奉天を占領したものの,兵力・弾薬を消耗し尽くした。日本政府および軍首脳はこれ以上補給線を延ばすことを不利とし,講和への努力を始めた。
報徳記
ほうとくき @@@LINK=報徳記 報徳記

報徳記
ほうとくき

江戸末期,二宮尊徳の伝記
1856年成立。8巻。富田高慶 (たかよし) が,尊徳の節約貯蓄を中心とする報徳仕法を彼の伝記をとおして正しく伝えるため著したもので,尊徳の思想が具体的に記されている。
法然
ほうねん @@@LINK=法然 法然

法然
ほうねん

1133〜1212
平安末期〜鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖
諱 (いみな) を源空という。美作 (みまさか) (岡山県)の人。初め叡山で天台教学を学んだが,末法の世の救いは念仏以外にないことを悟り,1175年専修念仏を説いて浄土宗を開いた。この他力易行の教えは武士・農民間に受け入れられ九条兼実など貴族にも帰依する者があったが,旧仏教側の弾圧が激しく,1207年土佐に流された。のち許され京都に帰り'12年没した。主著に『選択 (せんじやく) 本願念仏集』。

法然上人絵伝
ほうねんしょうにんえでん @@@LINK=法然上人絵伝 法然上人絵伝

法然上人絵伝
ほうねんしょうにんえでん

浄土宗の始祖法然の行状と門弟たちの伝記を描いた絵巻物
数種類があり,いずれも上人を仰し浄土宗布教の方便となった。鎌倉末期作の京都知恩院蔵の48巻本は絵巻物中の最長編で,「勅修御伝」と呼ばれ有名。
坊津
ぼうのつ @@@LINK=坊津 坊津

坊津
ぼうのつ

鹿児島県南西部,薩摩半島南西岸にある港町
古来南方海上交通の要地として発達。室町時代,島津氏の中国貿易・琉球貿易の根拠地となり,特に15世紀末以後遣明船の寄港によりいっそう栄え,三津 (さんしん) の一つに数えられた。江戸時代,長崎が貿易港となると衰えた。
宝物集
ほうぶつしゅう @@@LINK=宝物集 宝物集

宝物集
ほうぶつしゅう

鎌倉初期,平康頼の仏教説話集
康頼は,俊寛らと平家討滅をはかって捕らえられ鬼界ケ島に流され(鹿ケ谷陰謀),許されて帰京したのち執筆。『大鏡』にならって問答体をとり,仏教が第一の宝物である理を説話によって説いた。
方墳
ほうふん @@@LINK=方墳 方墳

方墳
ほうふん

墳丘の平面が方形の古墳
円墳や前方後円墳より遅れて出現。7世紀に多い。新しいものは各辺を方位に合わせているが,これは内部の横穴式石室を南面させるためと考えられている。
法隆寺
ほうりゅうじ @@@LINK=法隆寺 法隆寺

法隆寺
ほうりゅうじ

奈良県生駒郡斑鳩 (いかるが) 町にある古寺
7世紀初め,聖徳太子の創建と伝えられる。現存伽藍 (がらん) については明治時代から再建説と非再建説とがあり,紛争が続いたが,若草伽藍の発見によって現在は再建説に傾いている。しかし金堂・五重塔・中門・回廊は飛鳥時代の様式を伝え,世界最古の木造建築として世界遺産にも登録されている。伽藍配置は東に金堂,西に五重塔がある法隆寺式で,金堂には『釈迦三尊像』『薬師如来像』があり,いずれも本尊とされている。奈良時代には「法隆学問寺」といわれ,仏教の学問的研究を行っていた。『玉虫厨子』などの美術品を所蔵している。
法隆寺五重塔
ほうりゅうじごじゅうのとう @@@LINK=法隆寺五重塔 法隆寺五重塔

法隆寺五重塔
ほうりゅうじごじゅうのとう

奈良の法隆寺西院にある,飛鳥時代建築様式を伝える木造建築
勾欄は卍くずし・雲形肘木 (ひじき) ・人字形割束 (わりづか) を用いるなど独特の様式がみられる。総高32.5m。心柱下に仏舎利,初層に白鳳時代塑像群がある。
法隆寺金堂
ほうりゅうじこんどう @@@LINK=法隆寺金堂 法隆寺金堂

法隆寺金堂
ほうりゅうじこんどう

奈良の法隆寺西院の中心建築
飛鳥様式。東西に並び,二重基壇上に重層入母屋造。『釈迦三尊像』『薬師如来像』などをおさめる。内部壁画は有名であるが,1949(昭和24)年焼失損傷し,'68年復元した。
法隆寺金堂壁画
ほうりゅうじこんどうへきが @@@LINK=法隆寺金堂壁画 法隆寺金堂壁画

法隆寺金堂壁画
ほうりゅうじこんどうへきが

奈良の法隆寺金堂内部の四周に描かれた壁画。浄土の仏・菩薩・羅漢を描いた
白鳳時代の作。大壁4面は諸仏の浄土を,小壁8面は単独の菩薩を描き,インドのアジャンタの壁画と並ぶ。1949年火災により焼損した。'68年復元。金堂壁画の焼損がきっかけで、1950年文化財保護法が公布された。
法隆寺釈迦三尊像
ほうりゅうじしゃかさんぞんぞう @@@LINK=法隆寺釈迦三尊像 法隆寺釈迦三尊像

法隆寺釈迦三尊像
ほうりゅうじしゃかさんぞんぞう

奈良法隆寺本尊で,飛鳥時代の代表的仏像彫刻の一つ
623年聖徳太子の菩提を弔うため鞍作止利 (くらつくりのとり) につくらせたという。北魏様式。杏仁 (きようにん) 形の目をもち古拙 (こせつ) の微笑アルカイック‐スマイル)を口もとに浮かべる。
法隆寺薬師如来像
ほうりゅうじやくしにょらいぞう @@@LINK=法隆寺薬師如来像 法隆寺薬師如来像

法隆寺薬師如来像
ほうりゅうじやくしにょらいぞう

奈良法隆寺金堂本尊で,飛鳥彫刻の一つ
北魏様式。光背銘によると聖徳太子推古天皇用明天皇の病気平癒を祈って607年に法隆寺を建ててこのを造ったとある。最近,天武・持統朝とするもある。
法隆寺夢違観音像
ほうりゅうじゆめちがいかんのんぞう @@@LINK=法隆寺夢違観音像 法隆寺夢違観音像

法隆寺夢違観音像
ほうりゅうじゆめちがいかんのんぞう

夢違観音
法隆寺夢殿
ほうりゅうじゆめどの @@@LINK=法隆寺夢殿 法隆寺夢殿

法隆寺夢殿
ほうりゅうじゆめどの

奈良の法隆寺東院伽藍の中心をなす八角堂で,天平建築の代表作
聖徳太子の斑鳩 (いかるが) のあとに太子没後,約1世紀たって僧行信がその冥福を祈って建てた。高い基壇の上に立ち,屋頂に露盤を飾る。鎌倉期に大修理を加えた。
法隆寺夢殿救世観音像
ほうりゅうじゆめどのぐぜかんのんぞう @@@LINK=法隆寺夢殿救世観音像 法隆寺夢殿救世観音像

法隆寺夢殿救世観音像
ほうりゅうじゆめどのぐぜかんのんぞう

奈良法隆寺夢殿本尊で,飛鳥彫刻の代表作の一つ
一木で,をぬり金箔を押す。北魏様式。金銅透彫の宝冠も彫金術の進歩を示している。
法輪寺
ほうりんじ @@@LINK=法輪寺 法輪寺

法輪寺
ほうりんじ

①奈良県生駒郡斑鳩 (いかるが) 町,法隆寺の東北方にある寺
②京都市西京区嵐山,大堰川右岸中腹にある真言宗御室派の寺
聖徳太子の子山背大兄王らが創建した寺とのがあり,白鳳時代建立。法隆寺と同様の伽藍 (がらん) 配置であった。1944年三重塔雷火により焼失,'75年再建された。
行基創建,空海再建と伝える。智慧を授けるという『虚空蔵菩薩』を祭る。
宝暦事件
ほうれきじけん @@@LINK=宝暦事件 宝暦事件

宝暦事件
ほうれきじけん

江戸中期,尊王論者竹内式部が処罰された事件
山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部が,京都で公家に大義名分を説いたので,幕府は1758(宝暦8)年式部を捕らえて追放した。
俸禄制度
ほうろくせいど @@@LINK=俸禄制度 俸禄制度

俸禄制度
ほうろくせいど

江戸時代の知行制度
武士たる資格は元来領地を支配することであったが,江戸前期以降武士はしだいに知行高に応じ蔵米を俸禄として領主から支給されるに至り,土地の支配権は領主権の中に吸収された。一部に地方 (じかた) 知行が残ったがそれも名目化し,俸禄が武士の家禄として世襲され,その大小によって身分格式が規定された。
慕帰絵詞
ぼきえことば @@@LINK=慕帰絵詞 慕帰絵詞

慕帰絵詞
ぼきえことば

南北朝時代,本願寺3世覚如の一代を描いた絵巻物
『慕帰絵』ともいう。10巻。西本願寺蔵。「慕帰」とは覚如の帰寂(の死ぬこと)を慕う意味で,覚如の子慈俊が選述し,絵は藤原隆章・隆昌が描き,1351年成立。土佐派の特色研究と生活文化史上の貴重な史料
朴 泳孝
ぼくえいこう @@@LINK=朴+泳孝 朴+泳孝

朴 泳孝
ぼくえいこう

1861〜1939
李氏朝鮮末期の親日政治家
壬午 (じんご) 軍乱後金玉均らとともに来日。明治天皇見し,各所を見学する中で,日本にを採り朝鮮の改革を図ろうと決意する。帰国後独立党を率いて事大党と争い,1884年金玉均らと甲申事変をおこしたが失敗し,日本に亡命。のち韓国併合を推進した。
北槎聞略
ほくさぶんりゃく @@@LINK=北槎聞略 北槎聞略

北槎聞略
ほくさぶんりゃく

江戸後期,大黒屋光太夫のロシア漂泊を記した桂川甫周の著書
1794年成立。11巻。光太夫以下17人乗組の廻米船がアリューシャン列島に漂着,ペテルブルクで女王エカチェリーナ2世に謁し,根室に帰着するまでの10年間の記録。
北山抄
ほくざんしょう @@@LINK=北山抄 北山抄

北山抄
ほくざんしょう

平安後期,藤原公任 (きんとう) の有職故実 (ゆうそくこじつ) 書
11世紀初めの成立。10巻。年中行事太政官などの官吏の事務などを記す。『西宮記 (さいぐうき) 』とともに,朝廷行事儀式などの権威書である。
北宗画
ほくしゅうが @@@LINK=北宗画 北宗画

北宗画
ほくしゅうが

中国,山水画における二大様式の一つ
明の董其昌 (とうきしよう) らによって南画に対する流派として名づけられた。唐の李思訓に始まるといわれ,宋代に全盛期現出。水墨画もあるが多くは極彩色で描かれ,写実的で細密な画風。日本では室町時代の水墨画がその影響をうけた。
北清事変
ほくしんじへん @@@LINK=北清事変 北清事変

北清事変
ほくしんじへん

1900年,中国の義和団の乱に対する列国の出兵事件。
北朝
ほくちょう @@@LINK=北朝 北朝

北朝
ほくちょう

南北朝対立時代,足利尊氏が擁立した京都の持明院統の朝廷(1336〜92)
光明・崇光 (すこう) ・後光厳・後円融・後小松の5代の天皇が続き,後小松天皇のとき,1392年南北朝合体が行われ,南朝の後亀山天皇より神器をうけた。以後北朝が皇位を継承して現在に至る。
北伐
ほくばつ @@@LINK=北伐 北伐

北伐
ほくばつ

中国の辛亥 (しんがい) 革命以来孫文らが北方軍閥政権を倒すため企てた戦争
特に1926〜28年の蔣介石中心の国民革命軍によるものが有名。蔣は共産勢力に弾圧を加えて南京政府を樹立。革命軍の分裂により中断したが,'28年再開し,張作霖を追って北京を占領。北伐を完成し,万里の長城以南の中国本土を統一した。
穂首刈
ほくびがり @@@LINK=穂首刈 穂首刈

穂首刈
ほくびがり

弥生時代から奈良時代まで行われたの刈り方
石包丁を用いてだけを摘みとる方法である。のち鉄製のが普及して根刈が行われるようになると衰えた。
北面の武士
ほくめんのぶし @@@LINK=北面の武士 北面の武士

北面の武士
ほくめんのぶし

1095年,白河上皇院政時代に設置された院司
御所北面で院の警衛にあたった。員数は不定。四〜六位の者が任命され,上皇に直属し院政を支える武力となる。この設置が武士の中央進出の契機となった。
北陸道
ほくりくどう @@@LINK=北陸道 北陸道

北陸道
ほくりくどう

律令制における五畿七道の一つ
大化の改新で若狭・越の2国,天武天皇のころ越を前・中・後の3国に分け佐渡を合わせて5国,のち越前から能登・加賀を分けて7国にした。現在の福井・石川・富山・新潟県にあたる。
北嶺
ほくれい @@@LINK=北嶺 北嶺

北嶺
ほくれい

延暦寺の別称。
朴烈事件
ぼくれつじけん @@@LINK=朴烈事件 朴烈事件

朴烈事件
ぼくれつじけん

1923年におこった,朴烈夫妻の大逆計画事件
朝鮮の無政府主義者朴烈が,妻金子文子と天皇暗殺のため爆弾を入手したとして逮捕。両名の獄内優遇問題で政治問題化し野党の立憲政友会が政府(第1次若槻礼次郎内閣)を攻撃した。金子は獄内で自殺,朴は第二次世界大戦後釈放された。
捕鯨
ほげい @@@LINK=捕鯨 捕鯨

捕鯨
ほげい

クジラを捕ること
戦国時代,紀伊・土佐・長門・肥前など西国地方で銛 (もり) による突取 (つきとり) 捕鯨が行われ,江戸時代,網取捕鯨を考案。網取法は鯨を岸に追いあげ,網船の張った網に追い込み,銛を打ち込み縄で縛った。浦全体の共同作業が特色。鯨油採取が主目的であった。明治時代以後,ノルウェー式捕鯨業に代わる。近年,クジラ資源の保護という立場からきびしい捕獲制限がとられている。
母系制
ぼけいせい @@@LINK=母系制 母系制

母系制
ぼけいせい

家族の系統が母方で受け継がれる制度
小規模な農耕社会にみられ,わが国の原始社会がこれに該当するとされる。結婚形態は族外婚・妻問い婚。原始氏族の崩壊によって父系制が成立するが,生産方法の大きな変化に基づくものであろう。
法華経
ほけきょう @@@LINK=法華経 法華経

法華経
ほけきょう

仏教経典の一つ
『妙法蓮華経』の略称。8巻。鳩摩羅什 (くまらじゆう) の漢訳本が広く流布。聖徳太子が講義し,奈良時代には,成仏不可能とされた女人救済の唯一の経として,法華滅罪之寺(国分尼寺)も建てられ,『金光明最勝王経』『仁王 (にんのう) 経』とともに護国三経の一つとなった。天台宗・日蓮宗の根本経典。
法華経義疏
ほけきょうぎしょ @@@LINK=法華経義疏 法華経義疏

法華経義疏
ほけきょうぎしょ

聖徳太子の著したといわれる『三経義疏 (さんぎようぎしよ) 』の一つ。太子自筆とされている。
干鰯
ほしか @@@LINK=干鰯 干鰯

干鰯
ほしか

江戸時代,鰊・鰯などの乾燥肥料で,油粕とともに金肥(購入肥料)の中心
商品作物,特に木綿栽培の肥料として多く利用された。初めは九州・北国ものが多かったが,元禄(1688〜1704)ころから九十九里三陸方面で発達,幕末は松前ものが支配し,商業的農業の発達をもたらした。
星亨
ほしとおる @@@LINK=星亨 星亨

星亨
ほしとおる

1850〜1901
明治時代の政治家
東京の生まれ。陸奥宗光の保護で官界に入る。自由党に属し大同団結運動など反政府運動に活躍したが転じて伊藤博文と結び1900年立憲政友会を結成。汚職(東京市疑獄事件)で非難され暗殺された。

保科正之
ほしなまさゆき @@@LINK=保科正之 保科正之

保科正之
ほしなまさゆき

1611〜72
江戸前期の親藩大名
2代将軍徳川秀忠の4男。保科家を継ぎ,のち陸奥(福島県)会津藩23万石(松平家)の祖となった。1651年家光の死後,その遺命で新将軍家綱の後見として幕政を担当。藩主としては殖産興業・新田開発につとめ,朱子学を重んじ,名君と称された。

保守合同
ほしゅごうどう @@@LINK=保守合同 保守合同

保守合同
ほしゅごうどう

1955年11月15日,自由党と日本民主党が合同して自由民主党を結成したこと
1955年2月の総選挙で左・右両派社会党が躍進し,10月に統一工作の結果,再び日本社会党が結成されると,これに刺激されて,同年11月,保守勢力が結集された。初代総裁は鳩山一郎
戊戌夢物語
ぼじゅつゆめものがたり @@@LINK=戊戌夢物語 戊戌夢物語

戊戌夢物語
ぼじゅつゆめものがたり

江戸後期,幕府の鎖国政策を批判した高野長英の著書
1838年起稿。'37年のモリソン号事件の際,夢の中で知識人らの討議を聞いたという形式で,世界の大勢を論じ,異国船打払いの無謀を警告した。渡辺崋山の『慎機論』とともに蛮社の獄の原因となった。
戊申詔書
ぼしんしょうしょ @@@LINK=戊申詔書 戊申詔書

戊申詔書
ぼしんしょうしょ

1908年(戊申の年)10月に発布された国民教化のための詔書
赤旗事件ののち,保守勢力は第2次桂太郎内閣を組織させ,個人主義的享楽主義と社会主義の抑制を意図して発布。階級的協調奢侈の戒めを説き,教育勅語とともに道徳教育の基本方針とした。'48年の国会失効が確認された。
戊辰戦争
ぼしんせんそう @@@LINK=戊辰戦争 戊辰戦争

戊辰戦争
ぼしんせんそう

1868(戊辰の年)〜69年にかけて行われた明治新政府と旧幕府側との内戦の総称
戊辰の役ともいう。小御所会議における徳川慶喜 (よしのぶ) に対する辞官・納地の決定に憤激した幕臣および会津・桑名の藩兵らは1868年1月,京都南部の鳥羽・伏見で薩摩・長州藩を中心とした新政府軍(官軍)と戦い敗れた(鳥羽・伏見の戦い)。つづいて新政府軍(官軍)は江戸に向かって進撃したが,徳川方は戦争を回避し,江戸城を明け渡した。旧幕臣の主戦派および東北・越後の諸藩は,彰義隊・奥羽越列藩同盟を組織して新政府軍(官軍)に抵抗,しかし,9月末までに内戦はほとんど終了した。その後,榎本武揚 (たけあき) らが箱館の五稜郭で抵抗したが,翌年鎮圧され反政府軍攻略は終了した。
細井平洲
ほそいへいしゅう @@@LINK=細井平洲 細井平洲

細井平洲
ほそいへいしゅう

1728〜1801
江戸中・後期の折衷学派の儒学者
尾張(愛知県)の豪農に生まれ,京都・長崎に遊学し,江戸に塾を開いた。出羽(山形県)米沢藩主上杉治憲 (はるのり) (鷹山)に招かれ,藩校興譲館の設立と藩政改革に協力。のち尾張藩に招かれ藩校明倫堂の督学となった。

細川勝元
ほそかわかつもと @@@LINK=細川勝元 細川勝元

細川勝元
ほそかわかつもと

1430〜73
室町中期の武将
1445年以降3度管領となる。将軍足利義政,畠山・斯波 (しば) 氏らの後嗣をめぐる争いで山名持豊(宗全)と対立。'67年応仁の乱では,東軍の主将として将軍義政を擁し,畠山政長・斯波義敏らを後援し,持豊を主将とする西軍と戦ったが乱中に病死した。禅に帰依,竜安寺をおこした。

細川ガラシャ
ほそかわガラシャ @@@LINK=細川ガラシャ 細川ガラシャ

細川ガラシャ
ほそかわガラシャ

1563〜1600
安土桃山時代の細川忠興の妻
明智光秀の娘。名はたま。本能寺の変後離縁したが,のち豊臣秀吉の命により復縁。熱心なキリシタン信徒で,ガラシャはその洗礼名。関ケ原の戦いに際し,石田三成が人質にしようとしたのを拒み自刃した。

細川氏
ほそかわし @@@LINK=細川氏 細川氏

細川氏
ほそかわし

南北朝〜室町時代の有力な守護大名。室町幕府の三管領家の一つ
足利氏の一支族。足利義季 (よしすえ) が三河国八名郡細川郷に住み姓とした。足利尊氏の挙兵に従って功をたて,讃岐・阿波を中心に河内・和泉など畿内周辺の地を領国として活躍,頼之が将軍足利義満を補佐して管領となって以来勢力を固めた。勝元は応仁の乱(1467〜77)に東軍の主将として活躍したが,乱後細川氏は衰えた。のち一族の藤孝(幽斎)・忠興父子は,関ケ原の戦い(1600)後徳川家康に仕え,忠興の子忠利が肥後国熊本に封ぜられた。以来有力な外様大名として14代続き,明治維新に至る。
細川重賢
ほそかわしげかた @@@LINK=細川重賢 細川重賢

細川重賢
ほそかわしげかた

1720〜85
江戸中期の肥後(熊本県)熊本藩主。「肥後の鳳凰」と称された名君
号は銀台。1747年熊本藩54万石を襲封。藩政の改革にを尽くし,質素倹約の励行養蚕・植林の奨励,租税軽減などを行い,城内に藩校時習館を設立した。

細川忠興
ほそかわただおき @@@LINK=細川忠興 細川忠興

細川忠興
ほそかわただおき

1563〜1645
安土桃山〜江戸時代前期の武将・外様大名
幽斎の子。織田信長に従い,丹後(京都府)宮津12万石の城主となった。関ケ原の戦いでは徳川家康の東軍に属し,豊前(福岡県)小倉39万石を領した。のち肥後(熊本県)に転封,隠居して三斎と号した。利休門下七哲の一人で,茶道・和歌・有職 (ゆうそく) にすぐれ,『三斎茶書』を著した。

細川晴元
ほそかわはるもと @@@LINK=細川晴元 細川晴元

細川晴元
ほそかわはるもと

1514〜63
室町後期の武将
同族の細川高国を破って細川管領家を継いだが,家臣の執事三好長慶の下剋上 (げこくじよう) のために1549年京都を追われ,細川管領家は事実上滅亡した。

細川政元
ほそかわまさもと @@@LINK=細川政元 細川政元

細川政元
ほそかわまさもと

1466〜1507
室町後期の武将
管領。勝元の子。応仁の乱(1467〜77)後,足利将軍家の衰微に乗じ,1493年足利義澄 (よしずみ) を擁して,将軍義稙 (よしたね) ・畠山政長らと争い,義澄を11代将軍として権勢をふるった。のち家督争いに巻き込まれ殺された。

細川護熙内閣
ほそかわもりひろないかく @@@LINK=細川護熙内閣 細川護熙内閣

細川護熙内閣
ほそかわもりひろないかく

日本新党の細川護熙(1938〜  )代表を首班とする連立内閣(1993.8〜94.4)
1993年7月の衆議院選挙で自由民主党が過半数を割り,反自民,非共産の8党が連立を組んで成立したため,自由民主党の長期政権が終わり,55年体制は崩壊した。細川首相は記者会見で先の戦争を侵略戦争と言明し,8月15日の全国戦没者追悼式では国の加害責任に言及した。細川内閣はウルグアイ‐ラウンドに従ってコメの部分開放に踏み切り,政治改革として衆議院小選挙区比例代表並立制を導入した。しかしバブル経済崩壊による不況対策には有効な政策を打ち出せず,'94年佐川急便グループからの資金提供問題を追及され,窮地に陥り辞任した。
細川幽斎
ほそかわゆうさい @@@LINK=細川幽斎 細川幽斎

細川幽斎
ほそかわゆうさい

1534〜1610
安土桃山〜江戸時代初期の武将・歌人
名は藤孝。足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らに仕え,丹後(京都府)田辺城主となった。武家故実に精通,和歌をよくし三条西実枝 (さんじようにしさねき) から古今伝授をうけ,『幽斎翁聞書』『耳底記』『詠歌大概抄』など著書も多い。

細川頼之
ほそかわよりゆき @@@LINK=細川頼之 細川頼之

細川頼之
ほそかわよりゆき

1329〜92
南北朝時代の武将
足利尊氏に従って功をたて,阿波・讃岐の守護となる。1367年2代将軍義詮 (よしあきら) の遺命で管領となり,3代将軍義満を補佐,楠木正儀 (まさのり) の吉野攻撃を援助して,南朝勢力に大打撃を与えた。のち諸将とあわず一時讃岐に帰ったが,'91年明徳の乱で山名氏清を諸将とともに討ち,室町政権の基礎を確立した。

菩提寺
ぼだいじ @@@LINK=菩提寺 菩提寺

菩提寺
ぼだいじ

先祖の位牌を安置して追善供養をし,自身の仏事をも修める寺
檀那寺ともいう。古くは一門の寺,氏寺を意味した。江戸時代には藩主領内に菩提寺を設けて保護を加えた。
菩提僊那
ぼだいせんな @@@LINK=菩提僊那 菩提僊那

菩提僊那
ぼだいせんな

?〜760
南インドの僧
婆羅門僧正ともいう。唐を経て,736年仏哲を伴って来日。東大寺大仏の開眼供養の導師をつとめた。
菩多尼訶経
ぼたにかきょう @@@LINK=菩多尼訶経 菩多尼訶経

菩多尼訶経
ぼたにかきょう

江戸後期,宇田川榕庵の植物学書
1822年刊。1冊。西洋植物学の紹介・普及を目的とした最初の著述要旨経文にまねて仕立て,読誦するようにつくった折り本の小本。
牡丹花肖柏
ぼたんかしょうはく @@@LINK=牡丹花肖柏 牡丹花肖柏

牡丹花肖柏
ぼたんかしょうはく

肖柏
渤海
ぼっかい @@@LINK=渤海 渤海

渤海
ぼっかい

中国東北部・沿海州・朝鮮半島北部を支配した靺鞨 (まつかつ) 人の国家(698〜926)
靺鞨系高麗人の大祚栄 (だいそえい) が建国。唐・新羅 (しらぎ) を牽制するために727年日本に朝貢。のちには貿易を得ることを目的として,前後34回来日。日本もこれに対して送使を派遣した。毛皮ニンジン・薬などを日本へ輸出し,絹・綿・工芸品などを日本から輸入。唐文化で渤海を経由して日本に伝わったものもあった。926年契丹に滅ぼされた。
法起寺
ほっきじ @@@LINK=法起寺 法起寺
ほうきじ @@@LINK=法起寺 法起寺

法起寺
ほっきじ

奈良県生駒郡斑鳩 (いかるが) 町,法隆寺の東北方にある古寺
「ほうきじ」とも読み,岡本寺ともいう。聖徳太子の岡本宮を白鳳時代ころに寺に改めたものといわれる。この寺の三重塔はわが国最大のもの。本尊は『十一面観音』。伽藍 (がらん) 配置は法隆寺式であるが,塔・金堂の配置が法隆寺と反対で塔が東にある。

法起寺
ほうきじ

ほっきじ
北家
ほっけ @@@LINK=北家 北家

北家
ほっけ

藤原四家の一つ
不比等 (ふひと) の2男房前 (ふささき) が。平安時代,冬嗣が蔵人頭 (くろうどのとう) となり北家隆盛の基礎をつくり,子良房は臣下として最初の摂政,その養子基経は関白となった。以後皇室との姻戚関係を重ね他氏排斥にも成功し,摂関地位を独占した。道長・頼通父子の時に最も繁栄。鎌倉時代に五摂家に分立した。
法華一揆
ほっけいっき @@@LINK=法華一揆 法華一揆

法華一揆
ほっけいっき

室町後期,京都を中心におこった日蓮宗(法華宗)信徒の一揆
日蓮宗は一向宗とともに,特に京都の町衆の中に多く信者を獲得し,不惜身命・謗法禁断を唱え,他宗と戦い,布教に励んだ。1532年には細川晴元と結んで一向宗の山科本願寺を焼き,京の町政を握った。しかし,'36年天文法華の乱で衰えた。
法華寺
ほっけじ @@@LINK=法華寺 法華寺

法華寺
ほっけじ

奈良市法華寺町にある真言律宗の尼寺
正しくは「法華滅罪之寺」という。奈良時代,藤原不比等邸跡に光明皇后が総国分尼寺として創建。貞観時代(859〜877)の木彫『十一面観音像』を本尊とする。
法華宗
ほっけしゅう @@@LINK=法華宗 法華宗

法華宗
ほっけしゅう

日蓮宗
法華神道
ほっけしんとう @@@LINK=法華神道 法華神道

法華神道
ほっけしんとう

神仏習合の現れで,日蓮宗の神道思想
日蓮は天台宗を学んだが,この思想の根本には山王一実神道説(神仏習合理論を根本とする神道説)があり,釈迦が『法華経』を説いたとき日本の神も同座していたといい,神道の中で『法華経』を重んじることを説いた。
法華堂
ほっけどう @@@LINK=法華堂 法華堂

法華堂
ほっけどう

法華経』を講じる建物。東大寺の法華堂が有名。
法華滅罪之寺
ほっけめつざいのてら @@@LINK=法華滅罪之寺 法華滅罪之寺

法華滅罪之寺
ほっけめつざいのてら

法華寺
北国廻船
ほっこくかいせん @@@LINK=北国廻船 北国廻船

北国廻船
ほっこくかいせん

北前船 (きたまえぶね)
法勝寺
ほっしょうじ @@@LINK=法勝寺 法勝寺

法勝寺
ほっしょうじ

平安末期,白河天皇の発願により京都市東山区岡崎付近に建てられた六勝寺の一つ。
発心集
ほっしんしゅう @@@LINK=発心集 発心集

発心集
ほっしんしゅう

鎌倉前期の仏教説話集。鴨長明の編といわれる
成立年代不詳。全8巻。菩提心を発して往生を遂げた説話を中心にして編集。ほかに見せるというよりは自己の信仰生活を内面化する手段として説話を集めたと思われる。『方丈記』と相通じるものがある。
法相宗
ほっそうしゅう @@@LINK=法相宗 法相宗

法相宗
ほっそうしゅう

南都六宗の一つ
唯識 (ゆいしき) を主張。653年入唐した道昭が玄奘 (げんじよう) から学び伝え,のちに玄昉 (げんぼう) もこれを広めた。元興寺・興福寺を中心に栄え法隆寺でも行われた。薬師寺が大本山。鎌倉時代に貞慶(解脱)が現れ,戒律の復興につとめた。
法曹至要抄
ほっそうしようしょう @@@LINK=法曹至要抄 法曹至要抄

法曹至要抄
ほっそうしようしょう

平安末期〜鎌倉初期成立の法律書
3巻。著者坂上明兼とも,その孫明基ともいう。罪科・禁制・売買・負債などの条下裁判に必要な各事項をたて,律令・格式を引いて,要語の解釈や注を加えたもの。源実朝の求めに応じたものともいわれる。
堀田正俊
ほったまさとし @@@LINK=堀田正俊 堀田正俊

堀田正俊
ほったまさとし

1634〜84
江戸前期の幕府大老
若年寄・老中を経て,5代将軍徳川綱吉の擁立に尽力し,その功で大老となり,下総(茨城県)古河 (こが) 藩主(13万石)となった。剛直な性格のため将軍や側近から反感をもたれ,1684年江戸城中で若年寄稲葉正休 (まさやす) に刺殺された。

堀田正睦
ほったまさよし @@@LINK=堀田正睦 堀田正睦

堀田正睦
ほったまさよし

1810〜64
幕末の政治家
下総佐倉藩主。初名正篤 (まさひろ) 。開明的な藩主で,蘭学に関心深く蘭癖 (らんぺき) と称され,洋式兵制を採用。1841〜43年老中となり水野忠邦の天保の改革を支えた。'55年再任され,阿部正弘にかわり老中首座としてハリスと日米修好通商条約の交渉にあたる。'58年条約の勅許を得るため上京したが失敗。将軍継嗣問題では朝幕融和を目ざして一橋慶喜 (よしのぶ) を支持したため,紀伊派の井伊直弼 (なおすけ) の大老就任後罷免された。

ポツダム宣言
ポツダムせんげん
Potsdam Declaration
@@@LINK=ポツダム宣言 ポツダム宣言

ポツダム宣言
ポツダムせんげん
Potsdam Declaration

第二次世界大戦末期の1945年7月,アメリカ・イギリス・中国3国により発表された,ヨーロッパの戦後処理と対日戦争終結のための宣言
正しくは「米・英・中三国宣言」という。ソ連は対日参戦と同時に参加。アメリカ大統領トルーマン,イギリス首相チャーチル(途中からアトリー),ソ連首相スターリンの3巨頭がベルリン郊外のポツダムで会談,中国の蔣介石総統の同意を得て発表した。日本軍国主義者・戦争指導勢力の除去,連合軍による軍事占領,カイロ宣言に基づく領土制限,民主化の促進,戦犯の処罰などを条件に,無条件降伏の最後の機会であることを通告。日本は8月14日にスイスを通じて受諾を通知。翌15日に日本国内に受諾を公表し,終戦。この宣言の内容が日本の占領政策の基本になった。
坊ちゃん
ぼっちゃん @@@LINK=坊ちゃん 坊ちゃん

坊ちゃん
ぼっちゃん

明治後期,夏目漱石の短編小説
1906年『ホトトギス』に発表した。江戸っ子気質の主人公が中学教師として松山(愛媛県)に赴任し,そこでいろいろな騒動にまきこまれるありさまを軽妙に描いている。
北方領土問題
ほっぽうりょうどもんだい @@@LINK=北方領土問題 北方領土問題

北方領土問題
ほっぽうりょうどもんだい

歯舞 (はぼまい) 諸島・色丹 (しこたん) ・国後 (くなしり) ・択捉 (えとろふ) 島の帰属問題
1945年のヤルタ会談での秘密協定により,ソ連は千島の領有を主張し,日本は ‘51年のサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄したが南千島は固有の領土として返還を要求。'56年の日ソ共同宣言で歯舞諸島・色丹島は日ソの平和条約締結後,日本に引き渡されるとした。しかし'60年1月日米新安全保障条約が調印されると,ソ連は在日外国軍が撤退しない限り返還しないと声明。問題は未解決である。
ポーツマス条約
ポーツマスじょうやく @@@LINK=ポーツマス条約 ポーツマス条約

ポーツマス条約
ポーツマスじょうやく

1905(明治38)年9月5日,アメリカ北部の軍港ポーツマスで調印された日露戦争の講和条約
アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの斡旋により,日本全権小村寿太郎とロシア全権ウィッテとの間で調印。韓国における日本の政治・経済・軍事上の利益の承認,旅順・大連の租借権,南満州の鉄道の日本への譲渡,樺太 (からふと) の北緯50度以南の譲渡,沿海州・カムチャツカ半島での漁業権の承認などを決めた。しかし賠償金はなく,国民の不満は日比谷焼打ち事件などをひきおこした。
穂積陳重
ほづみのぶしげ @@@LINK=穂積陳重 穂積陳重

穂積陳重
ほづみのぶしげ

1856〜1926
明治・大正時代の法学者。最初の法学博士
八束 (やつか) の兄。伊予宇和島藩出身。東大教授となり,貴族院議員・枢密院議長などを歴任。1893年法典調査会主査委員として民法などの編纂にあたり,立法事業に大きな功績を残した。代表的著作として『法律進化論』など。

穂積八束
ほづみやつか @@@LINK=穂積八束 穂積八束

穂積八束
ほづみやつか

1860〜1912
明治時代の憲法学者
陳重 (のぶしげ) の弟。伊予(愛媛県)の生まれ。東大教授・貴族院議員を歴任。旧民法の公布をめぐって賛否両論(民法典論争)がおこったとき,「民法出デテ忠孝亡ブ」という論文を発表し,反対論の立役者となった。

不如帰
ほととぎす @@@LINK=不如帰 不如帰

不如帰
ほととぎす

明治後期,徳富蘆花の長編小説
1898年11月〜99年5月,『国民新聞』に連載。結核にかかった妻が,の出征中に病気感染を理由に離縁されるという封建的家族制度下の悲劇を扱う。
ホトトギス

ホトトギス

明治期以来の俳句雑誌
1897年,子規派の俳誌として松山で創刊され,翌年東京に移されて以来高浜虚子が編集。一時虚子は小説に熱を入れ,夏目漱石たち余裕派の作品を掲載。虚子の俳句復帰後,俳壇の中心勢力となり幾多の俊秀を輩出した。1959年虚子没後,子の年尾が主宰し,年尾没後は孫の稲畑汀子が継承,'80年1000号に達し,現在も刊行中。
堀川学派
ほりかわがくは @@@LINK=堀川学派 堀川学派

堀川学派
ほりかわがくは

江戸中期の儒学の一派
古義学派ともいう。伊藤仁斎・東涯父子が京都堀川に古義堂を開設したので,この名がある。当時盛んであった朱子学や陽明学に対し,『孔子』『孟子』の原典にあたり古聖賢の真髄を究めようとしたもので,蘐園 (けんえん) 学派と対立した。門人も多く,江戸中期の盛時には全国儒者の過半数を占めたといわれる。
堀川塾
ほりかわじゅく @@@LINK=堀川塾 堀川塾

堀川塾
ほりかわじゅく

古義堂
堀河天皇
ほりかわてんのう @@@LINK=堀河天皇 堀河天皇

堀河天皇
ほりかわてんのう

1079〜1107
平安後期の天皇(在位1086〜1107)
白河天皇第2皇子。名は善仁 (たるひと) 。初めは父白河上皇の院政,のちに関白藤原師通 (もろみち) に補佐されて政務に励み,「末代の賢王」と称せられた。和歌・音楽(笙 (しよう) の笛)にもすぐれていた。

堀越公方
ほりごえくぼう @@@LINK=堀越公方 堀越公方

堀越公方
ほりごえくぼう

足利政知 (まさとも) の異称
堀越御所ともいう。永享(1438〜39)で足利持氏滅亡後,幕府から鎌倉公方とされた足利成氏が,1455年幕府にそむいて下総国古河 (こが) に拠ったので,成氏追討のため,'57年8代将軍義政は弟政知を関東に下向させ,伊豆国田方郡堀越に居館を定め,古河公方成氏に対抗した。'91年政知没後,子の茶々丸があとを継いだが,北条早雲に攻められて断絶した。
ポルトガル
Portugal @@@LINK=ポルトガル ポルトガル

ポルトガル
Portugal

南ヨーロッパ,イベリア半島南西部にある共和国
12世紀に王国となり,15世紀末,インド航路を開き,ゴア・マラッカ根拠にする東洋貿易で繁栄。1543年,種子島に来航し,鉄砲を伝え貿易を開始した。おもに中国の生糸・絹織物と日本銀との貿易で巨利を獲得。1639年江戸幕府の鎖国政策の推進により来航を禁止された。その後変遷ののち,1910年共和国となった。
本阿弥光悦
ほんあみこうえつ @@@LINK=本阿弥光悦 本阿弥光悦

本阿弥光悦
ほんあみこうえつ

1558〜1637
安土桃山〜江戸時代初期の工芸家
京都の上層町衆。家業の刀剣鑑定のほかに,書道では寛永の三筆と称され,漆芸では蒔絵 (まきえ) に斬新な作風を示し,楽焼 (らくやき) の系統の陶芸は品格高く,さらには絵画・作庭・茶道など幅広い芸術活動を行った。また角倉了以と協力して『嵯峨本』といわれる古典を刊行。晩年徳川家康から洛北鷹ケ峰の地を与えられ工芸に専念した。

本願寺
ほんがんじ @@@LINK=本願寺 本願寺

本願寺
ほんがんじ

浄土真宗の本山
浄土真宗開祖親鸞の死後,京都東山大谷の地にを移し,御影堂を建てたのが始まりで,鎌倉末期より本願寺と称した。15世紀中ごろの8代蓮如 (れんによ) は中興の祖といわれ教団組織を拡大し,16世紀後半11代顕如 (けんによ) のとき,勢力絶大で織田信長に対抗した(石山合戦)。顕如没後,子の教如が弟の准如に跡を譲るが,徳川家康から京都東六条に寺地を寄進され寺を建てた。以後准如側を西本願寺(本願寺派),教如側を東本願寺(大谷派)と呼び,勢力は二分された。
本願寺光佐
ほんがんじこうさ @@@LINK=本願寺光佐 本願寺光佐

本願寺光佐
ほんがんじこうさ

顕如 (けんによ)
本家
ほんけ @@@LINK=本家 本家

本家
ほんけ

平安中期以後,寄進地系荘園が盛行して以来の最高の領有者をいう
寄進者から名目上の領主権を寄進された領家が,さらに年貢の一部を上位者に寄進した場合,これを本家と呼んだ。摂関家や女院等が多かった。
凡下
ぼんげ @@@LINK=凡下 凡下

凡下
ぼんげ

鎌倉時代,侍身分に属さない一般庶民の呼称
甲乙人 (こうおつにん) ともいう。御家人・非御家人などの侍とは厳重に区別され,また最下層の下人・所従・奴婢 (ぬひ) とも区別された。幕府法では,侍と凡下は刑法その他において異なる待遇をうけている。室町時代以降は地下人とか土民と呼ばれた。
本渓湖製鉄所
ほんけいこせいてつじょ @@@LINK=本渓湖製鉄所 本渓湖製鉄所

本渓湖製鉄所
ほんけいこせいてつじょ

1910年,大倉財閥が設立した満州最初の製鉄所
奉天省本渓湖に日中合弁で設立。同地は12か所の鉄山と,炭田をもつ絶好の立地条件で,順調に発展した。'37年鮎川義介の満州重工業開発会社に吸収され,'44年昭和製鋼所などと合同して満州製鉄会社となる。'45年敗戦によりソ連接収,のち中国に移管され,中国を代表する鉄鋼コンビナートに発展した。
本佐録
ほんさろく @@@LINK=本佐録 本佐録

本佐録
ほんさろく

江戸初期,本多正信の政治論書
1巻。正信著と伝えられるが不詳。2代将軍徳川秀忠から政治の要点を尋ねられた著者が,政治の心得,大名の統制,農民支配など7カ条を記したもの。
本山・末寺
ほんざん・まつじ @@@LINK=本山・末寺 本山・末寺

本山・末寺
ほんざん・まつじ

仏教の一宗派の根本道場を本山または本寺といい,これに属する寺院を末寺という
平安初期から用いられたが,特に江戸時代には幕府の寺院統制策として制度化され,本山の末寺に対する支配強化がはかられた。
本地垂迹説
ほんじすいじゃくせつ @@@LINK=本地垂迹説 本地垂迹説

本地垂迹説
ほんじすいじゃくせつ

本地である仏が衆生救済のため,仮に日本の神となって現れたと説く神仏習合思想
奈良時代に成立し,平安時代に発展し,両部神道・山王一実神道となった。この思想により,僧形八幡像・神宮寺などがつくられた。鎌倉時代には,神を本地とする反本地垂迹説も現れたが,明治初期の神仏分離令まで存続した。
本地物
ほんじもの @@@LINK=本地物 本地物

本地物
ほんじもの

室町時代〜江戸時代にかけて本地垂迹思想の影響によってつくられた小説・物語類
室町時代の御伽 (おとぎ) 草子や江戸時代の説経節・浄瑠璃・黄表紙などを通じて神仏寺社の由縁を内容とするものをいう。
本所
ほんじょ @@@LINK=本所 本所

本所
ほんじょ

室町時代の座の保護者
寄進地系荘園において,本家・領家のうち領主権の実質を握っていたもの。
座の手工業者商人から座銭をとり,財源とするかわりに,商品の製造・販売に独占的権利を与えた。

本所法
ほんじょほう @@@LINK=本所法 本所法

本所法
ほんじょほう

荘園の本所である寺院や貴族が定めた成文法 荘園制の発展とともに成長したもので,本所の家務に関する家務法と,荘園内に発達した荘園法に分けられる。家務法は寺院に発達し,荘園法は領主の徴税権・裁判権をおもな内容とし,本所ごとに内容が異なるものが多い。
本陣
ほんじん @@@LINK=本陣 本陣

本陣
ほんじん

江戸時代,主要街道の宿場に置かれた大名・宮家・公家・幕臣用の宿舎
参勤交代の制によって発達し,宏壮な建築で,経営は休泊料や諸種の補助によった。本陣だけで収容しきれない場合に備えて脇本陣も設けられた。
本草学
ほんぞうがく @@@LINK=本草学 本草学

本草学
ほんぞうがく

平安時代〜江戸時代の薬物学
薬用を目的に動・植・鉱物を研究。中国におこり,古代に渡来し,漢方医学と並んで発展した。平安時代には『倭名類聚抄』など本草書の著述がある。江戸初期に明の『本草綱目』が紹介されて以来儒学者・医者の間で盛行。貝原益軒の『大和本草』,稲生若水 (いのうじやくすい) の『庶物類纂』,小野蘭山の『本草綱目啓蒙』などを生んだ。江戸後期,蘭学・オランダ医学の発展とともに博物学の傾向を強め,動物・植物・鉱物・薬物の諸学に分化した。
本多光太郎
ほんだこうたろう @@@LINK=本多光太郎 本多光太郎

本多光太郎
ほんだこうたろう

1870〜1954
明治〜昭和期の物理学者
愛知県の生まれ。東大卒。長岡半太郎の指導で磁気ひずみの実験的研究を行い,ドイツ留学後,鉄鋼および鉄合金の物理冶金学的研究に進み,KS鋼(1917),新KS鋼('33)を発明。'22年金属材料研究所を設立し,初代所長となる。鉄鋼学の世界的権威者。'31〜41年,東北大総長。'37年,第1回文化勲章受章。

本多忠勝
ほんだただかつ @@@LINK=本多忠勝 本多忠勝

本多忠勝
ほんだただかつ

1548〜1610
江戸初期の譜代大名
通称平八郎。三河(愛知県)の人。徳川家譜代ので,井伊直政・榊原 (さかきばら) 康政・酒井忠次とともに徳川四天王の一人。家康の江戸入府後,上総 (かずさ) (千葉県)大多喜城主,のち伊勢(三重県)桑名城主となった。勇猛な性格で,主として軍事面で家康を支えた。『本多平八郎絵姿屛風』は若き忠勝を描いたというが確証はない。

本多利明
ほんだとしあき @@@LINK=本多利明 本多利明

本多利明
ほんだとしあき

1743〜1821
江戸後期の経世思想家
越後(新潟県)の人。江戸に出て天文学・数学・剣術を学び,24歳のとき江戸音羽に塾を開いた。一方蘭学を学び諸国を歴遊して,民間人として初めて蝦夷 (えぞ) 地に渡り,地理・物産を調査した。西洋事情にも通じ,貿易の促進,蝦夷地の開発,商工業奨励など積極的な重商主義的思想を説いた。主著に『西域物語』『経世秘策』など。

本多平八郎
ほんだへいはちろう @@@LINK=本多平八郎 本多平八郎

本多平八郎
ほんだへいはちろう

本多忠勝
本多正純
ほんだまさずみ @@@LINK=本多正純 本多正純

本多正純
ほんだまさずみ

1565〜1637
江戸初期の譜代大名
正信の子。三河(愛知県)の人。徳川家康・秀忠に仕え,幕府の実力者として大いに権勢をふるった。豊臣氏滅亡や武家諸法度の制定に参画。下野(栃木県)宇都宮城主(15万5000石)となったが,辣腕 (らつわん) のため周囲のねたみを買い,反対派の策謀で改易となり失脚した。

本多正信
ほんだまさのぶ @@@LINK=本多正信 本多正信

本多正信
ほんだまさのぶ

1538〜1616
江戸初期の譜代大名
三河(愛知県)の人。徳川家康・秀忠に仕えて信任を得,幕政に参画して忠勤を励んだ。『本佐録』はその著書といわれている。

本朝皇胤紹運録
ほんちょうこういんしょううんろく @@@LINK=本朝皇胤紹運録 本朝皇胤紹運録

本朝皇胤紹運録
ほんちょうこういんしょううんろく

室町時代に編纂された皇室系図
皇室系図中最も権威あるもの。洞院(藤原)満季 (みつすえ) が後小松天皇の勅命により撰進。その後塙保己一 (はなわほきいち) の『群書類従』によって増補された。
本朝書籍目録
ほんちょうしょじゃくもくろく @@@LINK=本朝書籍目録 本朝書籍目録

本朝書籍目録
ほんちょうしょじゃくもくろく

中世(13世紀ころ)に編纂された,日本でできた書物の現存最古の総目録
『仁和寺書籍目録』ともいう。編者未詳。神事・帝紀・公事・氏族・地理・管絃などの20部門に分類し,書名・巻数・著書を記す。漢籍のみの集録など不備な点もあるが貴重な史料
本朝世紀
ほんちょうせいき @@@LINK=本朝世紀 本朝世紀

本朝世紀
ほんちょうせいき

平安後期の歴史書
藤原通憲 (みちのり) (信西)が鳥羽法皇の命をうけ,六国史につぐ国史の編纂を企図したもの。現在大部分は欠けて巻数は不明,935年から1153年までのものが断続して現存する。平安中・末期の研究上貴重な史料。
本朝通鑑
ほんちょうつがん @@@LINK=本朝通鑑 本朝通鑑

本朝通鑑
ほんちょうつがん

江戸前期,幕命で編修された歴史書
3代将軍徳川家光の命により林羅山が編修し献じた『本朝編年録』を,子の鵞峯 (がほう) が拡充追加し,1670年4代将軍家綱に献じた。310巻。宋の司馬光の『資治通鑑 (しじつがん) 』にならった漢文・編年体で,神代から17世紀初めの後陽成天皇までを記述。独断を避け厳密な考証につとめ,儒学の実証的合理主義による歴史書の先駆をなす。
本朝文粋
ほんちょうもんずい @@@LINK=本朝文粋 本朝文粋

本朝文粋
ほんちょうもんずい

平安中期の漢詩文集
14巻。藤原明衡 (あきひら) 編。9世紀以来の文人・名家の漢詩文427編を中国の『文選』にならって集録したもの。当時の漢文学の水準を知るだけでなく,宮廷史料としても重要である。
本田畑
ほんでんぱた @@@LINK=本田畑 本田畑

本田畑
ほんでんぱた

江戸前期,検地を経て年貢高を定められた田畑
以後開発された新田に対していう。1726(享保11)年の新検地条目で,元禄(1688〜1704)以前の検地帳記載の田畑を本田畑,元禄〜享保年間(1716〜36)を古新田,享保以後を新田とした。本田畑は一般に租率が重く,商品作物などの作付制限がきびしかった。
本土空襲
ほんどくうしゅう @@@LINK=本土空襲 本土空襲

本土空襲
ほんどくうしゅう

太平洋戦争中,アメリカ軍爆撃機による日本本土への空襲
1942年4月,空母から発進したB25爆撃機による空襲が最初。ついでサイパン島陥落('44)以後,同島を基地とする大型爆撃機B29が,本土の軍需工場を,さらに大都市を無差別に空襲,焼夷弾による焼土戦術をとった。とくに'45年3月10日の東京大空襲では東京の下町地区を中心に夜間焼夷弾爆撃が行われ,死者約10万,約100万人が焼けだされた。
本途物成
ほんとものなり @@@LINK=本途物成 本途物成

本途物成
ほんとものなり

江戸時代,田畑に課せられた年貢
本年貢ともいう。最も基本的な租税で,納が原則。その額は村高(貢租率)を乗じ村単位で納入した。課方法には検見 (けみ) 法と定免 (じようめん) 法とがあり,四公六民ないし五公五民標準であった。
本能寺の変
ほんのうじのへん @@@LINK=本能寺の変 本能寺の変

本能寺の変
ほんのうじのへん

1582(天正10)年,明智光秀が主君織田信長を滅ぼした戦い
5月29日,信長は中国地方の毛利攻めにみずから出陣しようとして安土城を発ち,30日京都本能寺に宿泊した。かねて怨みを含んでいた部将明智光秀は丹波から中国地方に進撃を命じられていたが,急に反転し,信長を本能寺に襲い自殺させた(6月2日未明)。妙覚寺にいた織田信忠も奮戦ののち自殺。信長の天下統一の事業はここに挫折した。
翻波式
ほんぱしき @@@LINK=翻波式 翻波式

翻波式
ほんぱしき

平安初期の木彫技法
仏像衣文ひだの表現に翻転するような感じを与える技法を使う。すなわち断面が,丸くふくらんだ大波の間に三角波のような鋭い小波をいれた彫り方。代表例として,法華寺の「十一面観音像」,室生寺の「弥勒堂釈迦如来像」など。
本百姓
ほんびゃくしょう @@@LINK=本百姓 本百姓

本百姓
ほんびゃくしょう

江戸時代,農村における年貢負担者
高持 (たかもち) 百姓ともいう。村内に田畑・屋敷をもち,検地帳に記載され,年貢納入の責任をもつ百姓で,小作人などの水呑百姓(無高 (むだか) )に対する。一人前の百姓として村寄合で発言でき,村の自治に参与した。地方三役なども本百姓中から選出された。
本補地頭
ほんぽじとう @@@LINK=本補地頭 本補地頭

本補地頭
ほんぽじとう

鎌倉幕府から,御家人本来の所領・所職を地頭職補任の形で安堵された地頭
1185(文治元)年以来の地頭をさす。それぞれの来歴があるから得分形態・職権内容ともその土地ごとの先例によるため差異があり一定していない。この点,収益の比率が規定された承久(1219〜22)以後の新補地頭に対する概念といえる。
本間家
ほんまけ @@@LINK=本間家 本間家

本間家
ほんまけ

江戸時代,羽後(山形県)酒田の豪農商
廻船問屋として,庄内・最上地方の米・・漆・蠟・紅花・からむしなどの産物大坂で販売し,また大坂の商品を庄内・出羽地方に販売して巨利を得た。18世紀末には24万石の大地主となり,庄内藩はじめ近隣諸藩にも財政的に大きな影響力をもった。明治時代以後は典型的な寄生地主となった。
本物返
ほんもつかえし @@@LINK=本物返 本物返

本物返
ほんもつかえし

中世〜近世において,売ったときの価格相当の物品=米布帛(本物)を返せば,いつでも買い戻しうる売買方法
「ほんものかえし」とも読む。銭で売買する場合を本銭 (ほんせん) 返という。田畑の売買に行われ,室町時代には徳政の対象になった。江戸時代には質入れと同一視され,いつでも買い戻せることから田畑永代売買禁止令にふれず,事実上の売買として盛んに行われた。
本門寺
ほんもんじ @@@LINK=本門寺 本門寺

本門寺
ほんもんじ

東京都大田区池上にある日蓮宗大本山
日蓮に帰依した鎌倉幕府の工匠池上兄弟が1283〜84年ころ創建。日蓮入滅の地として崇敬が集まったが,江戸初期に不受不施派となって幕府圧迫をうけた。その後諸大名や歴代将軍の保護をうけ栄えたが,第二次世界大戦で多くを焼失した。
本領安堵
ほんりょうあんど @@@LINK=本領安堵 本領安堵

本領安堵
ほんりょうあんど

中世将軍御家人先祖伝来の土地の領有権を保証すること
鎌倉時代,御家人の多くは開発領主子孫として,先祖伝来の私領を領有していたが,幕府はその土地の領有権を承認して御家人との間に封建的主従関係を結んだ。
本両替
ほんりょうがえ @@@LINK=本両替 本両替

本両替
ほんりょうがえ

江戸時代,金銀の取扱いを主とした両替商
金銀の両替のほか預金・貸付け・為替・手形発行などを行った。大坂では十人両替のもと120軒の本両替があり,江戸・京都でも発達した。
毎日新聞
まいにちしんぶん @@@LINK=毎日新聞 毎日新聞

毎日新聞
まいにちしんぶん

明治時代以来の日本の代表的全国新聞
1888年『大阪毎日新聞』として発足。1906年東京へ進出。'11年『東京日日新聞』を合併し,'43年『毎日新聞』と改称。『朝日新聞』に対抗して発展したが,'77年経営悪化により,発行は新たに設立した新会社に引き継がれた。
前島密
まえじまひそか @@@LINK=前島密 前島密

前島密
まえじまひそか

1835〜1919
明治時代,近代郵便制度の創設者
越後高田藩出身。旧姓上野。江戸に出て1866年幕臣前島家を継ぐ。'69年明治政府に出仕し,'71年駅逓頭として近代的郵便制度の創設に尽力した。明治十四年の政変で大隈重信とともに下野し,立憲改進党に参加。のち貴族院議員となった。

前田玄以
まえだげんい @@@LINK=前田玄以 前田玄以

前田玄以
まえだげんい

1539〜1602
安土桃山時代の武将。豊臣家五奉行の一人
美濃(岐阜県)の人。もと比叡山の。織田信長に仕え,本能寺の変(1582)後織田信雄から京都の奉行に任ぜられた。のち豊臣秀吉に仕え,丹波(京都府)に5万石を領した。民政を担当,京都寺社を管轄した。関ケ原の戦い(1600)には西軍に属したが,東軍に内応して情報を伝え,戦後徳川家康から領地を安堵された。

前田氏
まえだし @@@LINK=前田氏 前田氏

前田氏
まえだし

江戸時代の加賀藩主
尾張出身の利家が織田信長・豊臣秀吉に仕え,賤ケ岳 (しずがたけ) の戦い(1583)後金沢に居城を築いた。江戸時代には越中・能登・加賀102万石を領し,最大の外様大名であったが,松平姓を賜り幕府と親しい関係を結んだ。元禄時代に名君綱紀を出し,後期には11代将軍徳川家斉の息女溶姫を正室に迎えるため建てた赤門(現在,東京都文京区本郷の東大にある門)などで有名。
前田青邨
まえだせいそん @@@LINK=前田青邨 前田青邨

前田青邨
まえだせいそん

1885〜1977
大正・昭和期の日本画家
岐阜県の生まれ。安田靫彦 (ゆきひこ) らの紅児会に参加,第6回文展で画名を知られる。のち院展で活躍し,帝展会員・東京芸大教授を経て日本画壇の中心となる。明快でのびのびした筆法で独自の画風を確立晩年まで気力・画技ともに充実した作品を発表した。1955年文化勲章受章。代表作に『京名所八題』『洞窟の頼朝』など。

前田綱紀
まえだつなのり @@@LINK=前田綱紀 前田綱紀

前田綱紀
まえだつなのり

1643〜1724
江戸中期の加賀(石川県)藩主
1645年,3歳で家督を継いだ。義父の会津藩主保科正之の援助を得て改作法の実施・貧民救済などを行い,民政に尽力し「中興の英主」といわれた。また学問を奨励し,木下順庵・室鳩巣 (むろきゆうそう) らを招き,古書・古文書の収集保存・刊行を行い,学問の発達にも貢献。名君の一人として有名。

前田利家
まえだとしいえ @@@LINK=前田利家 前田利家

前田利家
まえだとしいえ

1538〜99
安土桃山時代の武将。加賀(石川県)藩主前田家の祖
幼名犬千代,のち孫四郎・又左衛門 (またざえもん) と称した。尾張(愛知県)の人。織田信長に仕え,桶狭間 (おけはざま) ・姉川・長篠の戦いなどに功をたて,1583年賤ケ岳 (しずがたけ) の戦い後,豊臣秀吉に仕え,加賀の尾山城(金沢城)に移った。五大老の一人として,秀吉の死後秀頼の守り役となり,徳川家康と並び大事を決した。

前田利常
まえだとしつね @@@LINK=前田利常 前田利常

前田利常
まえだとしつね

1593〜1658
江戸前期の加賀(石川県)藩主
利家の第4子。徳川将軍家と婚姻を結ぶなどして藩政初期の因難な時期を調整,内政では殖産興業や改作法などで農村支配の基礎を築いた。晩年孫の綱紀を後見した。
前田正名
まえだまさな @@@LINK=前田正名 前田正名

前田正名
まえだまさな

1850〜1921
明治時代の経済官僚。殖産興業政策の推進者
薩摩藩出身。フランスに留学。帰国後大蔵省に入り,1884年「興業意見」を編集して太政官に提出。のち山梨県知事・東京農学校長・農商務次官・貴族院勅選議員などを歴任し,死後男爵に叙せられた。
前野良沢
まえのりょうたく @@@LINK=前野良沢 前野良沢

前野良沢
まえのりょうたく

1723〜1803
江戸中期の蘭学者
豊前(大分県)中津藩医。青木昆陽に蘭学を学んだ。1771年杉田玄白らと江戸小塚原で死刑囚の解剖を見て,『ターヘル‐アナトミア』の正確さに驚き,玄白らと翻訳,1774年『解体新書』として刊行した。

前橋製糸所
まえばしせいしじょ @@@LINK=前橋製糸所 前橋製糸所

前橋製糸所
まえばしせいしじょ

明治初年,前橋藩が設立した製糸工場
1870年,スイス人技師の指導により製糸を開始。日本最初の器械製糸を行う。廃藩置県で群馬県に移管,のち民間に払い下げられた。
前原一誠
まえばらいっせい @@@LINK=前原一誠 前原一誠

前原一誠
まえばらいっせい

1834〜76
明治初期の政治家
長州藩出身。吉田松陰の松下村塾で学び,尊王攘夷運動に参加。明治新政府では,参議・兵部大輔を歴任したが木戸孝允らと見が合わず1870年下野し帰郷。'76年萩の乱をおこし,敗れ処刑された。

澳門
マカオ
Macao @@@LINK=澳門 澳門

澳門
マカオ
Macao

中国,広東 (カントン) 省南部にあるポルトガル領港市
16世紀中ごろより,ポルトガルの植民地となり,日明貿易の根拠地となったが,日本の朱印船貿易オランダ進出により,しだいにさびれた。19世紀後半,完全にポルトガル領となったが,1999年12月20日中国に返還された。
勾玉
まがたま @@@LINK=勾玉 勾玉

勾玉
まがたま

縄文時代〜古墳時代にかけて使われた装飾用玉類の一つ
「曲玉」とも書く。湾曲した玉の一端に穴があけてあり,日本で独自に発達した。硬玉・ガラス・めのうなどでつくられた。

まき @@@LINK=牧 牧


まき

牛馬の飼育地
大宝令に厩牧令が規定され,延喜式には御牧(勅旨牧)・諸国牧・近都牧の3種があり,牛馬を飼育し,皇室や政府・軍団や駅馬・伝馬供給源となった。平安時代には貴族の私牧が,鎌倉時代以降は軍馬・運輸の必要から各地に牧ができた。江戸時代も盛んに行われ,幕府の公牧(佐倉など),南部藩の牧馬,松江藩の牧牛などが有名。
巻上法・輪積法
まきあげほう・わづみほう @@@LINK=巻上法・輪積法 巻上法・輪積法

巻上法・輪積法
まきあげほう・わづみほう

土器の成形法
粘土紐状に長くのばし,から巻きあげていく方法が巻上法,粘土のを順次積み上げる方法が輪積法
真木和泉
まきいずみ @@@LINK=真木和泉 真木和泉

真木和泉
まきいずみ

真木保臣 (やすおみ)
蒔絵
まきえ @@@LINK=蒔絵 蒔絵

蒔絵
まきえ

日本独自の漆工芸の技法
漆で模様を描き,金・銀・スズなどの金属粉や色粉を蒔き,絵模様を表したもの。平安時代から発達,鎌倉時代に高蒔絵や平蒔絵がおこり,室町時代には幸阿弥・五十嵐両家が代々足利将軍家の御用蒔絵師として活躍した。桃山時代に豪華な高台寺蒔絵が現れ,江戸初期には本阿弥光悦や尾形光琳らによって栄えたが,江戸末期には形式化し質的に低下した。
巻狩
まきがり @@@LINK=巻狩 巻狩

巻狩
まきがり

狩猟の一種
多人数で四方から狩場を囲み,獲物を中に取りこめて狩る方法で,特に中世において武技鍛錬としてしばしば行われた。
牧野富太郎
まきのとみたろう @@@LINK=牧野富太郎 牧野富太郎

牧野富太郎
まきのとみたろう

1862〜1957
明治〜昭和期の植物学者
土佐(高知県)の生まれ。独学で植物分類学を習得。全国山野の植物を採集研究し,日本人として初めて日本の植物に学名をつけた(2500余種)。1951年最初の文化功労者となり,死後 '57年文化勲章を受章。主著に『日本植物図鑑』など。

牧野伸顕
まきののぶあき @@@LINK=牧野伸顕 牧野伸顕

牧野伸顕
まきののぶあき

1861〜1949
大正・昭和期の政治家
大久保利通の2男。薩摩(鹿児島県)の生まれ。ロンドン日本大使館在任中,伊藤博文の知遇を得て外交官から政界に入り,文部大臣・枢密顧問官・パリ講和会議全権・宮内大臣・内大臣などを歴任。親英米派の重鎮であったため,二・二六事件(1936)で襲撃され難を逃れたが,引退した。

真木保臣
まきやすおみ @@@LINK=真木保臣 真木保臣

真木保臣
まきやすおみ

1813〜64
幕末の尊攘派志士
和泉守と称す。筑後の久留米水天宮の神官出身。会沢正志斎と交わり尊王攘夷運動に活躍。寺田屋事件に関係し,1863年八月十八日の政変で長州に走り,翌年尊攘派挽回のため長州藩兵を率い上洛。禁門の変をおこしたが,敗れ自刃した。
枕草子
まくらのそうし @@@LINK=枕草子 枕草子

枕草子
まくらのそうし

平安中期の代表的随筆集
作者は清少納言。10世紀末〜11世紀初めころの成立。中宮定子に仕えた宮廷生活を回想した部分や自分の感想を述べた部分など軽妙な機知と鋭利な観察の筆を走らせている。平安時代の美的感性の一つの典型をうちだした。『源氏物語』と並び平安女流文学の双璧とされる。
枕草子春曙抄
まくらのそうししゅんしょしょう @@@LINK=枕草子春曙抄 枕草子春曙抄

枕草子春曙抄
まくらのそうししゅんしょしょう

江戸前期,北村季吟の『枕草子注釈
1674年刊。12清少納言の伝記考証本文語句の詳細な注釈,本文成立の事情など,近代に至るまで『枕草子』研究の定本であった。
正岡子規
まさおかしき @@@LINK=正岡子規 正岡子規

正岡子規
まさおかしき

1867〜1902
明治時代の俳人・歌人
本名は常規 (つねのり) 。松山の生まれ。東大国文科を中退し,日本新聞社に入社。写生を主張して俳句を革新し,俳誌『ホトトギス』を指導,高弟に高浜虚子・河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう) らがいる。また万葉調・写生に基づく和歌の革新を唱え,伊藤左千夫・長塚節らを門下に擁し,のちのアララギ派の基礎をつくった。著書に『歌よみに与ふる書』『病牀六尺』など。

真崎甚三郎
まさきじんざぶろう @@@LINK=真崎甚三郎 真崎甚三郎

真崎甚三郎
まさきじんざぶろう

1876〜1956
昭和期の軍人
陸軍大将。佐賀県の生まれ。荒木貞夫とならぶ,皇道派首領として権力があったが,統制派の進出により教育総監を更迭され,このため相沢事件がおこった。二・二六事件後の粛軍人事で予備役に編入された。第二次世界大戦後,戦犯として2年間収監された。

正宗白鳥
まさむねはくちょう @@@LINK=正宗白鳥 正宗白鳥

正宗白鳥
まさむねはくちょう

1879〜1962
明治〜昭和期の小説家
本名は忠夫。岡山県の生まれ。東京専門学校(現早稲田大学)卒。1908年発表の小説『何処へ』以来自然主義作家として平凡な生活を虚無的な筆致で描く。戯曲・文芸批評にも異色を示した。'50年文化勲章受章。ほかに『入江のほとり』『牛部屋の臭ひ』など。

増田長盛
ましたながもり @@@LINK=増田長盛 増田長盛
ますだながもり @@@LINK=増田長盛 増田長盛

増田長盛
ましたながもり

1545〜1615
安土桃山時代の武将
尾張(愛知県)の人。少年時代から豊臣秀吉に仕え,長じて五奉行の一人に任ぜられ,特に検地奉行として尽力。文禄の役には兵站 (へいたん) にあたり,和議を進めた。文吏派大名の実力者。大和(奈良県)郡山に20万石を与えられた。関ケ原の戦い(1600)には西軍に属し,戦後高野山に追放され,ついで武蔵(埼玉県)岩槻に流された。

増田長盛
ますだながもり

ましたながもり
マーシャル‐プラン
Marshall plan @@@LINK=マーシャルプラン マーシャルプラン

マーシャル‐プラン
Marshall plan

1947年6月,アメリカが提案したヨーロッパ経済復興援助計画
発案者の国務長官マーシャルの名によって命名トルーマン大統領のソ連圏の封じこめ政策を具体化する面をもち,ソ連・東欧諸国は参加せず,'48年から西側16カ国で発足。'51年末に打ち切られるまで,114億ドルの援助を行った。
増鏡
ますかがみ @@@LINK=増鏡 増鏡

増鏡
ますかがみ

南北朝時代の歴史物語。四鏡の最後
14世紀中ごろの成立。20章。作者不詳(二条良基が有力)。1180年後鳥羽天皇生誕から1333年後醍醐 (ごだいご) 天皇の隠岐 (おき) からの帰還まで,15代約150年間の史書。王朝と幕府との内乱衝突を描くことが主題文体は擬古文で『源氏物語』などを借用したといわれ,流麗優雅である。
益田四郎時貞
ますだしろうときさだ @@@LINK=益田四郎時貞 益田四郎時貞

益田四郎時貞
ますだしろうときさだ

天草四郎時貞
増田長盛
ましたながもり @@@LINK=増田長盛 増田長盛
ますだながもり @@@LINK=増田長盛 増田長盛

増田長盛
ましたながもり

1545〜1615
安土桃山時代の武将
尾張(愛知県)の人。少年時代から豊臣秀吉に仕え,長じて五奉行の一人に任ぜられ,特に検地奉行として尽力。文禄の役には兵站 (へいたん) にあたり,和議を進めた。文吏派大名の実力者。大和(奈良県)郡山に20万石を与えられた。関ケ原の戦い(1600)には西軍に属し,戦後高野山に追放され,ついで武蔵(埼玉県)岩槻に流された。

増田長盛
ますだながもり

ましたながもり
磨製石器
ませいせっき @@@LINK=磨製石器 磨製石器

磨製石器
ませいせっき

石を磨いてつくりあげた石器
打製石器に対するで,この技術は新石器時代のもの。日本では縄文時代に磨製の石斧や石剣がみられ,弥生時代には石包丁が現れた。
町会所
まちかいしょ @@@LINK=町会所 町会所

町会所
まちかいしょ

江戸時代,自治的な市政事務をとる所
大坂では惣会所の下にあり,町年寄が出勤して事務をとったが,江戸では町名主の玄関間がそれにあてられた。
町衆
まちしゅう @@@LINK=町衆 町衆

町衆
まちしゅう

室町時代,都市において自治・自衛的な共同体をつくり地域的な集団生活を営んだ商工業者
「ちょうしゅう」とも読む。特に京都の町衆が有名で,室町衆・三条町衆など町名を冠して町衆と呼ばれた。南北朝内乱期から室町初期にみられ,応仁の乱(1467〜77)以後,土倉・酒屋などを中心とする商工業者が指導権を握り,自衛のため団結行動した。1532年の法華一揆の主体も日蓮宗の信者の町衆であった。文化的には公家の影響をうけることが多く,能・狂言小唄・風流 (ふりゆう) などは町衆を主体とした芸能である。
町代
まちだい @@@LINK=町代 町代

町代
まちだい

江戸時代の町役人
「ちょうだい」とも読む。正しくは「町年寄の手代」。町年寄は家業をもつため常時町会所に出勤することが困難なので,かわりに執務した有給の補助員。各家ごとに十数名置かれ,業務を分担した。
町年寄
まちどしより @@@LINK=町年寄 町年寄

町年寄
まちどしより

江戸時代の町役人
①江戸の市政をつかさどった役職
②大坂の市政をつかさどった役職
町奉行支配下に奈良屋・樽屋・喜多村の3家が世襲。名主 (なぬし) 以下を支配し,法令の伝達,町名主の進退,株仲間の受理,諸税の収納などにあたった。また拝領地の地代収入などいろいろな特権が与えられた。
惣年寄の下で市政一切を処理した。町人の選挙で決められ,ほとんど無給の名誉職で,江戸の町名主にあたる。
町名主
まちなぬし @@@LINK=町名主 町名主

町名主
まちなぬし

江戸時代の町役人
正しくは名主。江戸の市政の中心。町年寄の下にあり,職務法令の伝達,人別改,願書訴状の奥書,治安の維持など町政全般に及んだ。世襲で他業を許されず,町から給料をうけた。二百数十名おり1人で数町を支配大坂の町年寄に相当した。
町飛脚
まちびきゃく @@@LINK=町飛脚 町飛脚

町飛脚
まちびきゃく

江戸時代の民間経営の飛脚
1663年,江戸・大坂・京都の三都商人が三都間を往復する飛脚業を始め,書状・金銭などを運んだ。東海道往復に6日を要したので「定六 (じようろく) 」,また毎月2の日に3回大坂を発したので「三度屋(三度飛脚)」とも呼ばれた。
町火消
まちびけし @@@LINK=町火消 町火消

町火消
まちびけし

江戸時代の町方の消防組織
1718年から,町奉行大岡忠相 (ただすけ) が町人自衛の店火消を発展させ,「いろは48組」など約1万人の消防組を編成,町の費用で江戸の消防にあたらせた。組ごとに纒 (まとい) をもち,武家の定火消・大名火消の領域にも進出し活動した。
町奉行
まちぶぎょう @@@LINK=町奉行 町奉行

町奉行
まちぶぎょう

江戸幕府の職名
江戸の町人を支配し,行政・司法・警察事務をつかさどった。老中の支配に属し,定員は2名で南北に分かれ,月番制をとった。その配下には与力 (よりき) ・同心がいた。寺社奉行・勘定奉行と並んで三奉行と称し,評定所一座を構成して幕府の重要事項の裁決機関としての機能を果たした。
町役人
まちやくにん @@@LINK=町役人 町役人

町役人
まちやくにん

江戸時代,町奉行のもとで町方の民政を行った役職
身分は町人で,名称は都市によって異なるが,江戸では町年寄・名主・月行事など,大坂では惣年寄・町年寄・町代などといった。由緒ある豪家の世襲や互選などで任じられた。
松井須磨子
まついすまこ @@@LINK=松井須磨子 松井須磨子

松井須磨子
まついすまこ

1886〜1919
明治・大正時代の新劇女優
本名小林正子。長野県の生まれ。1909年文芸協会に入り『ハムレット』のオフェリアなど情熱的演技で名声を博す。'13年師の島村抱月と恋愛して脱会,ともに芸術座を組織。『復活』のカチューシャで全国的人気を得る。抱月の後を追い翌年自殺した。

松浦鎮信
まつらしげのぶ @@@LINK=松浦鎮信 松浦鎮信
まつうらしげのぶ @@@LINK=松浦鎮信 松浦鎮信

松浦鎮信
まつらしげのぶ

(初代)1549〜1614
戦国〜江戸初期の外様大名。肥前(長崎県)平戸藩主
隆信の長子。豊臣秀吉に従い,文禄・慶長の役に参加。関ケ原の戦い(1600)では西軍の誘いに応ぜず,のち徳川家康により肥前松浦郡・彼杵 (そのき) 郡・壱岐の所領を安堵された。'09年オランダ船の誘致に成功し,平戸貿易の最盛期を築いた。

松浦鎮信
まつうらしげのぶ

まつらしげのぶ
松岡映丘
まつおかえいきゅう @@@LINK=松岡映丘 松岡映丘

松岡映丘
まつおかえいきゅう

1881〜1938
明治〜昭和期の日本画家
民俗学者柳田国男の弟。兵庫県の生まれ。1904年東京美術学校日本画科卒。橋本雅邦らに師事。'16年平福百穂 (ひやくすい) らと金鈴社を結成し大和絵の復興に尽くした。代表作に『平治の重盛』など。

松岡洋右
まつおかようすけ @@@LINK=松岡洋右 松岡洋右

松岡洋右
まつおかようすけ

1880〜1946
昭和期の外交官・政治家
山口県の生まれ。オレゴン州立大卒。外交官を歴任したのち,南満州鉄道株式会社(満鉄)副総裁に就任。帰国後,政友会から衆議院議員に当選。1933年国際連盟総会で首席全権として連盟脱退を声明した。満鉄総裁を経て,'40年第2次近衛文麿内閣の外相となり,日独伊三国同盟を締結。'41年ドイツ・イタリア訪問の帰途日ソ中立条約を結び,日米交渉に反対し,近衛首相と対立した。第二次世界大戦後,A級戦犯として審理中,獄中で病死した。

松尾芭蕉
まつおばしょう @@@LINK=松尾芭蕉 松尾芭蕉

松尾芭蕉
まつおばしょう

1644〜94
江戸前期の俳人
名は宗房 (むねふさ) ,別号は桃青・風羅坊など。伊賀(三重県)上野の生まれ。もと伊賀上野の藤堂藩士。武士身分を捨てて町人の世界に入った。江戸で談林派などの俳諧を学び,のち「さび」「しおり」「細み」などを根本理念とした蕉風を開拓。俳諧を芸術として確立した。蕉門十哲をはじめ,多くのすぐれた門弟を輩出させ,各地に旅し,名句と紀行文を残した。その句風は『猿蓑』など「芭蕉七部集」にうかがうことができる。紀行文では『奥の細道』が著名。

マッカーサー
Douglas MacArthur @@@LINK=マッカーサー マッカーサー

マッカーサー
Douglas MacArthur

1880〜1964
アメリカの軍人
1930年陸軍参謀総長,太平洋戦争中,米極東指令官として対日戦を指揮したが,日本軍にフィリピンを占領される。'42年,連合国軍南西太平洋軍司令官となり,戦争終結後,'45年連合国最高司令官として日本占領政策を推進した。朝鮮戦争の勃発で国連軍司令官となったが,強硬策を主張したため '51年トルーマン大統領に罷免された。

松方財政
まつかたざいせい @@@LINK=松方財政 松方財政

松方財政
まつかたざいせい

明治中期,大蔵卿松方正義による財政政策
松方は1881年から大蔵卿(のち大蔵大臣)として,紙幣整理・兌換制度の確立,日本銀行の設立,官営事業払下げなど財政確立政策を進めた。西南戦争後のインフレに対してきびしいデフレ政策をとったため,重税と物価低落により,商業的農業農村工業を圧迫し,中小地主の中には没落して小作人や労働者となる者も出たが,この時期に産業資本確立の基盤が形成された。
松方正義
まつかたまさよし @@@LINK=松方正義 松方正義

松方正義
まつかたまさよし

1835〜1924
明治・大正時代の政治家
薩摩藩出身。明治十四年の政変ののち,大隈重信に代わって大蔵卿となり,いわゆる松方財政を推進し,また金本位制の実施など,日本資本主義の発展と経済的基盤の確立に大きな役割を果たした。1891年と'96年には内閣を組織し,第1次内閣では,蛮勇演説問題で議会解散総選挙品川弥二郎内相の選挙干渉があり,第2次内閣は大隈重信と連立し(松隈内閣),金本位制を確立した。1900年元老に列せられた。
松川事件
まつかわじけん @@@LINK=松川事件 松川事件

松川事件
まつかわじけん

1949年8月17日,福島県下,東北本線松川駅と金谷川駅間でおこった列車転覆事件
この事故で,乗務員3名が死亡し,犯人として近くの東芝松川工場の労組員11名と国鉄労組員9名が逮捕された。1950年,福島地裁で死刑5人を含む有罪判決があったが,'63年最高裁は全員無罪を確定した。この間,作家広津和郎らによる裁判批判が展開された。
松倉重政
まつくらしげまさ @@@LINK=松倉重政 松倉重政

松倉重政
まつくらしげまさ

?〜1630
江戸初期の肥前(長崎県)島原藩主
関ケ原の戦い・大坂の役の功により1616年肥前島原4万石を領有。領内は旧領主有馬晴信時代からキリシタン信徒が多く,重政は信仰弾圧と重税迫害を加え,島原の乱の原因をつくった。またキリシタンの本拠地ルソン遠征も計画した。

末期養子
まつごようし @@@LINK=末期養子 末期養子

末期養子
まつごようし

江戸時代の武家で,嗣子のない当主が重病危篤に際し,急いで願い出た相続人(養子)
急養子ともいう。幕府は当初これを許可しなかったが,そのため大名家が断絶して牢人発生の因ともなったので,1651年養父が17歳以上50歳以下の場合は末期養子を認めた。
松崎慊堂
まつざきこうどう @@@LINK=松崎慊堂 松崎慊堂

松崎慊堂
まつざきこうどう

1771〜1844
江戸後期の朱子学者
肥後(熊本県)の農家に生まれ,15歳のとき江戸の昌平坂学問所に入り,林述斎に学んだ。博学と考証学的学風で知られ,のち遠江 (とおとうみ) (静岡県)掛川藩の儒官となった。蛮社の獄で門人渡辺崋山の赦免に尽くした。

松崎天神縁起絵巻
まつざきてんじんえんぎえまき @@@LINK=松崎天神縁起絵巻 松崎天神縁起絵巻

松崎天神縁起絵巻
まつざきてんじんえんぎえまき

鎌倉末期の絵巻物
14世紀ころ成立。6巻。作者不詳。菅原道真 (みちざね) の一代記と,死後神としての霊験談および松崎天神(現防府天満宮)創建の由来を描く。濃厚豊麗な色彩と的確な描線力作。山口県防府天満宮蔵。重要文化財
末寺
まつじ @@@LINK=末寺 末寺

末寺
まつじ

本寺に属する寺院。
末子相続
まっしそうぞく @@@LINK=末子相続 末子相続

末子相続
まっしそうぞく

末子が親の地位・財産・祭祀権などを継承すること
長子相続に対するもの。5世紀ごろまで大王位にも末子相続が認められている。
松下嘉兵衛
まつしたかへい @@@LINK=松下嘉兵衛 松下嘉兵衛

松下嘉兵衛
まつしたかへい

1538〜98
戦国時代の武将
長則の子。今川義元に仕えたころ,のちの豊臣秀吉が一時その下に寄食した。徳川家康に仕え,のち秀吉に迎えられ,1590年小田原征討に従軍して,遠江 (とおとうみ) (静岡県)久能城主となった。
松下見林
まつしたけんりん @@@LINK=松下見林 松下見林

松下見林
まつしたけんりん

1637〜1703
江戸前期の儒医・歴史学者
大坂の人。古林見宜 (けんき) に医学を学び,算数・経学にも通じた。21歳で京都にのぼり国史の研究に没頭,『日本三代実録』の校訂や『異称日本伝』を編纂した。和漢古典にくわしく,蔵書は10万巻余といわれる。晩年讃岐(香川県)高松藩に仕えた。
松下禅尼
まつしたぜんに @@@LINK=松下禅尼 松下禅尼

松下禅尼
まつしたぜんに

生没年不詳
鎌倉中期,安達景盛 (あだちかげもり) の娘で,北条時氏(泰時の子)の妻
4代執権経時・5代時頼らの生母としてその教育に尽くす。『徒然草』に,みずから障子の切張りをして質素倹約を説いたという逸話がある。
松平容保
まつだいらかたもり @@@LINK=松平容保 松平容保

松平容保
まつだいらかたもり

1835〜93
幕末の会津藩主
1852年襲封。'62年幕政改革で京都守護職となり,会津藩兵を率い,八月十八日の政変・禁門の変で尊王攘夷派を京都から一掃,長州藩の反撃を退けるなど公武合体派の重鎮として活動した。'68年鳥羽・伏見の戦いに敗れ,会津に帰国。奥羽越列藩同盟の中心として会津若松城で抗戦したが降伏。のち許され日光東照宮宮司となる。

松平定信
まつだいらさだのぶ @@@LINK=松平定信 松平定信

松平定信
まつだいらさだのぶ

1758〜1829
江戸後期の幕府老中で,寛政の改革の実施者
号は白河楽翁。田安宗武の子。1783年白河藩主となり,天明の飢饉を切り抜け名声を高めた。'87年老中首座となり,11代将軍徳川家斉 (いえなり) を補佐して寛政の改革を断行したが,尊号一件や大奥の改革が原因で'93年辞職。晩年は著述に専念し,『宇下人言 (うげのひとこと) 』『花月草紙』『国本論』などを著した。

松平氏
まつだいらし @@@LINK=松平氏 松平氏

松平氏
まつだいらし

徳川家康までの徳川氏の本姓
三河(愛知県)松平郷の土豪に入婿した親氏から9代目の家康が,1566年新田氏の一族得川氏の子孫と称し「徳川」を名のった。以後,将軍家・御三家・御三卿以外の親藩大名が旧姓の松平を称した。
松平春嶽
まつだいらしゅんがく @@@LINK=松平春嶽 松平春嶽

松平春嶽
まつだいらしゅんがく

松平慶永 (よしなが)
松平信綱
まつだいらのぶつな @@@LINK=松平信綱 松平信綱

松平信綱
まつだいらのぶつな

1596〜1662
江戸前期の幕府老中。武蔵(埼玉県)川越藩主
三河(愛知県)の人。3代将軍徳川家光に仕え1633年老中となり,島原の乱('37〜38)を鎮定し,川越6万石(のち7万5000石)の藩主となった。家光死後は若い将軍家綱を補佐し,由井正雪の乱(慶安事件)の鎮定,江戸大火の処理など幕藩体制の確立に尽力した。

松平康英
まつだいらやすひで @@@LINK=松平康英 松平康英

松平康英
まつだいらやすひで

1768〜1808
江戸後期の長崎奉行
1807年長崎奉行に就任。翌 '08年,イギリスの軍艦フェートン号の長崎港乱入・暴行に対し,防備不十分で強硬策をとり得ず,いたずらに暴行を許した責任をとり,イギリス艦退去後,ただちに切腹自殺した。

松平慶永
まつだいらよしなが @@@LINK=松平慶永 松平慶永

松平慶永
まつだいらよしなが

1828〜90
幕末の越前藩主
号は春嶽。田安家出身。1838年襲封。横井小楠らを起用して藩政改革に功をあげ,将軍継嗣問題では一橋派の中心として活動,安政の大獄で隠居・謹慎処分をうける。'62年の幕政改革で政事総裁職となり公武合体に努力。'64年一時京都守護職となる。'67年大政奉還にあたり山内豊信らと徳川氏擁護につとめたが実現できなかった。王政復古で議定,のち民部卿・大蔵卿などを歴任した。

松永尺五
まつながせきご @@@LINK=松永尺五 松永尺五