京極家
きょうごくけ @@@LINK=京極家 京極家

京極家
きょうごくけ

鎌倉時代の歌学の3宗家の一つ
ほかに冷泉・二条両家がある。藤原定家の子為家の2男為教 (ためのり) を祖とし,積極的な写実主義により2家と鋭く対立したが,2代為兼の失脚後断絶した。
京極氏
きょうごくし @@@LINK=京極氏 京極氏

京極氏
きょうごくし

近江国(滋賀県)北部の守護大名で,室町幕府の四職 (ししき) 家の一つ
宇多源氏出身。近江国佐々木氏の嫡流で六角氏と同族。高氏のとき室町幕府創立に功をあげ,近江ほか5カ国の守護となる。高詮 (たかあきら) のとき,四職家の一つとなり権勢をふるう。応仁の乱(1467〜77)後衰えたが,高次が豊臣秀吉に仕え再興。江戸時代,大名として各地に転々と封じられ,明治に及んだ。
京極為兼
きょうごくためかね @@@LINK=京極為兼 京極為兼

京極為兼
きょうごくためかね

1254〜1332
鎌倉末期の歌人
藤原定家の孫為教 (ためのり) の子。持明院統の伏見天皇に仕え,両統迭立 (てつりつ) に関与し朝幕間に政敵多く,1298年佐渡,1315年土佐に配流された。この間,'11年『玉葉和歌集』の撰進を命じられ翌年完成。その繊細な感覚的表現と率直な描写は沈滞した鎌倉末期の歌壇に清新の気を示した。

共産主義
きょうさんしゅぎ
communism
@@@LINK=共産主義 共産主義

共産主義
きょうさんしゅぎ
communism

広義には,私有財産を否定して財産の共有を主張する思想をさすが,狭義には,マルクス主義の唱える,社会主義社会の究極的段階である無搾取・無階級の社会を理想とする考え方をさす
マルクスとエンゲルスが資本主義社会を科学的に分析し,その崩壊と共産主義社会の到来の必然性を明らかにして以来,一般的にはマルクス主義を共産主義の意に用いるようになった。
京職
きょうしき @@@LINK=京職 京職

京職
きょうしき

律令官制の一つで,京の一般民政をつかさどる官職
京は中央の朱雀大路 (すざくおおじ) によって,左京と右京に分かれ,それぞれ左京職・右京職が置かれた。京職は国司に準じる職掌で,大夫 (たいふ) 以下の四等官があり,下級官庁として,市を管理する東市司・西市司が付属していた。のち検非違使 (けびいし) 設置により有名無実となった。
行商人
ぎょうしょうにん @@@LINK=行商人 行商人

行商人
ぎょうしょうにん

店舗を持たず,買い手を訪問して売り歩く商人
古代から存在し,中世にはを結成して遠隔地行商に従った。近世以降は店舗商業および商品輸送組織の発展に伴い,その意義を減じたが,近江商人,富山の売薬商人は有名。
共進会
きょうしんかい @@@LINK=共進会 共進会

共進会
きょうしんかい

明治政府が殖産興業のために開いた見本市
内務省が主催して1879年横浜で開いた製茶共進会が最初で,その後年々盛んになり,中央官庁や府県主催で行われた。農産物・生糸・織物などを取り扱い,内国勧業博覧会とともに,産業の発展に貢献した。
行政官
ぎょうせいかん @@@LINK=行政官 行政官

行政官
ぎょうせいかん

明治初期の行政機関。七官の一つ
1868年政体書により設置。神祇・会計・軍務・外国の4官を轄し,天皇補佐,国務・宮中庶務を担当した。翌'69年の官制改革により太政官となる。
京大事件
きょうだいじけん @@@LINK=京大事件 京大事件

京大事件
きょうだいじけん

滝川事件
協調外交
きょうちょうがいこう @@@LINK=協調外交 協調外交

協調外交
きょうちょうがいこう

1924〜27,'29〜31年の期間,外相幣原 (しではら) 喜重郎によって推進された外交政策
イギリス・アメリカとの協調を基本とし,中国における革命の機運に対し,中国の要求の一部を認めることで対処しようとしたもの。加藤高明内閣(第1・2次)以後憲政会・民政党内閣のもとで進められ,田中義一内閣(政友会)の強硬外交(積極外交)と対比される。そのねらいは中国市場の回復と日本の権益を守ろうとするところにあったと考えられるが,軍部右翼から軟弱外交と非難された。
経塚
きょうづか @@@LINK=経塚 経塚

経塚
きょうづか

経文を土中に埋めた塚
経を地下に埋め,末法の後までも伝えようとしたもの。平安中期に始まるといわれる。経を経筒に入れ,刀剣などとともに,地中に設けた石組などの施設に埋めた。藤原道長が1007(寛弘4)年大和金峰山 (きんぷせん) に埋納した経筒が有名。
京都
きょうと @@@LINK=京都 京都

京都
きょうと

京都府南部にある府庁所在地。794(延暦13)年から1868(明治元)年までの帝都
794年桓武天皇のとき,奈良から遷都し,平安京を建設。律令国家の首都として繁栄した。鎌倉時代,経済都市としても発展。室町時代には幕府が置かれ,特に洛北が発展,町衆も勃興し活躍した。応仁の乱(1467〜77)で焦土と化したが町衆の力で復興し,その後,豊臣秀吉は大規模な市街整備を行った。江戸時代には西陣の機業などを中心に繁栄し,江戸・大坂と並んで三都の一つに数えられた。東京遷都とともに帝都としての地位を失ったが,平安京以来の古社寺が多く,観光都市として世界的に有名である。
共同運輸会社
きょうどううんゆがいしゃ @@@LINK=共同運輸会社 共同運輸会社

共同運輸会社
きょうどううんゆがいしゃ

1882年,三菱会社の海運界独占に対抗するために創立された半官半民の運輸会社
品川弥二郎により計画され渋沢栄一らが重役となったが,中心は三井。採算無視の競争を行ったが,政府の調停で1885年三菱会社と合併,日本郵船会社となる。
教導職
きょうどうしょく @@@LINK=教導職 教導職

教導職
きょうどうしょく

明治初期の国民教化官
1872年神祇省に代わった教部省のもとに設置。神官僧侶を任命して準官吏とし,神道信仰を民衆に説いて教化しようとした。しかし信教自由の思想と仏教界側の反対が強くなり,'77年教部省の廃止に伴って消滅した。
共同体
きょうどうたい @@@LINK=共同体 共同体

共同体
きょうどうたい

経済史では,近代資本主義に先行する段階における社会構成体の一つとしてとらえられる
近代以前の社会では,人間の共同生活を営む独自の形態がみられた。日本では,古代の,中世の惣,近世の小家族の結合などに具体的に現れているが,その共同の程度・分野・状態にはさまざまな差異がある。日本の村落においては,農家相互の連帯,したがって村落の社会的結合の異常な強さが,個人対個人の社会関係ではなく,家対家の結びつきとなって示されている。共同と呼ばれる内容にも,結 (ゆい) のような労働作業,共有地や入会漁場のような利用受益,氏神や産土神 (うぶすながみ) の祭りのような祭祀祈願の形などがあり,具体的な姿としての共同体を一定基準によってとらえることは難しい。
協同党
きょうどうとう @@@LINK=協同党 協同党

協同党
きょうどうとう

日本協同党
協同民主党
きょうどうみんしゅとう @@@LINK=協同民主党 協同民主党

協同民主党
きょうどうみんしゅとう

日本協同党後身。1946年5月結成。
京都大番役
きょうとおおばんやく @@@LINK=京都大番役 京都大番役

京都大番役
きょうとおおばんやく

鎌倉幕府御家人役の一つ。京都に勤番して皇居洛中の警固を行った。
京都学連事件
きょうとがくれんじけん @@@LINK=京都学連事件 京都学連事件

京都学連事件
きょうとがくれんじけん

1925〜26年,学生社会科学連合会が弾圧され,治安維持法最初に適用された事件
京都五山
きょうとござん @@@LINK=京都五山 京都五山

京都五山
きょうとござん

鎌倉五山と並び,中世期に最高の寺格をもつ京都の五つの臨済宗寺院
1386年足利義満のとき,天竜・相国・建仁・東福・万寿の5寺とし,南禅寺を五山の上として確定した。室町幕府の保護のもとに栄え,五山文学など文化上の中心的存在をなした。
京都御所
きょうとごしょ @@@LINK=京都御所 京都御所

京都御所
きょうとごしょ

京都市上京区の御苑内にある旧皇居
もと里内裏 (さとだいり) として用いられた土御門 (つちみかど) 東洞院殿の位置で,15世紀後小松天皇以来,正式の皇居となった。室町時代,土地・建物ともにわずかであったが,織田信長の修理,豊臣秀吉と徳川家康の造営を経て整備された。現存する建物は安政年間(1854〜60)の造営。
京都守護
きょうとしゅご @@@LINK=京都守護 京都守護

京都守護
きょうとしゅご

鎌倉初期における幕府の職名
1185年北条時政がはじめて派遣された。京都の治安維持と朝幕間の連絡・交渉が主要な任務。1221年承久の乱のとき,当時の京都守護伊賀光季 (みつすえ) (幕府方)と毛利親広(上皇方)が相争い両者とも討死。乱後はこれに代わって六波羅探題が設置された。
京都守護職
きょうとしゅごしょく @@@LINK=京都守護職 京都守護職

京都守護職
きょうとしゅごしょく

幕末,江戸幕府の職名
尊王攘夷運動による京都の治安の乱れと朝廷の動向に不安を感じた幕府が,1862年に設置したもの。京都所司代の上にあって京都の治安維持と御所警衛にあたった。会津藩主松平容保 (かたもり) が任ぜられ,一時松平慶永に代わったが,まもなく容保が再任された。'67年廃止された。
京都所司代
きょうとしょしだい @@@LINK=京都所司代 京都所司代

京都所司代
きょうとしょしだい

江戸幕府の職名
京都の治安維持,朝廷の監察や連絡,京都町奉行らの統率,京都周辺8カ国の天領における訴訟の処理,西国諸大名の監督などにあたった。室町幕府の侍所所司代に由来し,1600年奥平信昌 (のぶまさ) が初任。ついで板倉勝重・重宗父子が任ぜられて以来,譜代から選任され,老中につぐ要職であった。1867年廃止
京都大学
きょうとだいがく @@@LINK=京都大学 京都大学

京都大学
きょうとだいがく

京都市左京区吉田本町に本部を置く国立総合大学
1897年京都帝国大学として創設。理工科大学をもって出発し,順次各学部が完備。当初より自由主義的学風が強く,1933年には滝川事件がおこった。第二次世界大戦後,三高を統合して京都大学となる。
京都町奉行
きょうとまちぶぎょう @@@LINK=京都町奉行 京都町奉行

京都町奉行
きょうとまちぶぎょう

江戸幕府の職名で,遠国奉行の一つ。
教派神道
きょうはしんとう @@@LINK=教派神道 教派神道

教派神道
きょうはしんとう

1882年以降,国家が公認した神道13派の宗教団体
明治政府は,神社神道(国家神道)以外の神道に対して公認制を設けて統制したが,その公認された神道をいう。神社神道とは異なり,多くは教祖・教会・教典をもち,現実生活における幸福を説いた。神道大教・神理教・大社教・神道修成派・大成教・実行教・扶桑教・御岳教・神習教・禊教・金光教・黒住教・天理教の13教。
教部省
きょうぶしょう @@@LINK=教部省 教部省

教部省
きょうぶしょう

明治初年,寺社・宗教関係をつかさどる中央官庁
1872年神祇省の廃止により設置。神道国教化の理念もと従来宣教使を改めて教導職を置き,国民の教化にあたった。のち政府の宗教政策の転換により '77年内務省に併合された。
刑部省
ぎょうぶしょう @@@LINK=刑部省 刑部省

刑部省
ぎょうぶしょう

①律令制下の中央行政官庁。八省の一つ
②明治初年,司法行政を管轄した中央官庁
訴訟の裁判・刑罰の執行をつかさどった。9世紀初めの嵯峨天皇のとき,検非違使 (けびいし) の設置によりその機能を失った。
1869年刑法官に代わって設置されたが,'71年司法省の新設により廃止。
刑部親王
おさかべしんのう @@@LINK=刑部親王 刑部親王
ぎょうぶしんのう @@@LINK=刑部親王 刑部親王

刑部親王
おさかべしんのう

?〜705
天武天皇第9皇子。大宝律令編者
「忍壁」とも書く。671年父大海人 (おおあま) 皇子(のちの天武天皇)に従って吉野にのがれ,壬申 (じんしん) の乱に活躍した。681年天武天皇の命により記紀編纂にあたり,文武天皇のとき,701年大宝律令を完成した。持統天皇没後,知太政官事に任じられ,国政に参加した。

刑部親王
ぎょうぶしんのう

おさかべしんのう
岐陽方秀
ぎようほうしゅう @@@LINK=岐陽方秀 岐陽方秀

岐陽方秀
ぎようほうしゅう

1363〜1424
室町前期の臨済宗の僧
南禅寺第97代の主で五山文学者。4代将軍足利義持の帰依深く,明使来日の折,博学を称された。主著『碧巌不二抄』『琴川録』など。
享保の改革
きょうほうのかいかく @@@LINK=享保の改革 享保の改革

享保の改革
きょうほうのかいかく

江戸中期,8代将軍徳川吉宗(在職1716〜45)が行った幕政改革の総称
吉宗は紀伊藩主から将軍に就任し,元禄期前後から生じた幕府の財政難の対策を中心に30年間親政を行った。前代の正徳の治までの文治政治を改め,倹約令・武芸奨励で武士の気風を引き締め,相対済し令 (あいたいすましれい) で旗本・御家人の負債を整理した。財政収入増加策として,臨時に諸大名に上げ米 (あげまい) を命じ新田開発・農作物増産・定免法 (じようめんほう) で年貢を増徴し,備荒用に甘藷栽培もすすめた。その他目安箱・足高 (たしだか) の制・公事方 (くじかた) 御定書・米価調節・洋書輸入の禁緩和など新施策を精力的に実施,また株仲間公認による商業資本統制の端を開いた。こうして吉宗の晩年に年貢徴収高は江戸時代最高に達し財政は一時安定した。年貢取立てのきびしさについては,勘定奉行神尾春央 (はるひで) の「胡麻の油と百姓はしぼればしぼるほどとれる」という放言にもうかがえる。しかし商業資本に対しては,これを抑圧する政策と,これに依存し利用する政策がからまっているが,しだいに後者の傾向が強くなっていった。改革の成果は特に財政面でかなりの効果をあげたが,農村が疲弊し,商人が農村に進出,百姓一揆が激化し,江戸時代最初の打ちこわしも発生するなど,封建支配の危機がしだいに表面化していった。
享保の飢饉
きょうほうのききん @@@LINK=享保の飢饉 享保の飢饉

享保の飢饉
きょうほうのききん

1732(享保17)年,イナゴの害を主因として西国一帯におこった飢饉
天明・天保と並んで三大飢饉に数えられる。米価の著しい高騰は翌年の江戸の打ちこわしを誘発したが,幕府の米価の調節と豊作により,3年ほどでおさまった。
京枡
きょうます @@@LINK=京枡 京枡

京枡
きょうます

戦国時代,京都を中心とした地域で使用され,江戸時代から全国標準となった枡
豊臣秀吉が中世以来まちまちであった枡の全国統一をはかるため採用。当時の枡は現在よりやや小さかったが,江戸初期,規格も乱れ,関西の京枡と江戸で製作された京枡が併用されていた。そこで1669年,秀吉制定の枡に統一して新京枡とし,その製造・販売を樽屋に担当させた。
京焼
きょうやき @@@LINK=京焼 京焼

京焼
きょうやき

江戸時代,京都でつくられた陶磁器の粟田焼・御室 (おむろ) 焼・清水 (きよみず) 焼などの総称(楽焼は除く)
17世紀中ごろ野々村仁清 (にんせい) が有田焼・瀬戸焼の手法を導入し,金森宗和 (そうわ) の好みを反映した色絵京焼を完成。ついで出た尾形乾山とともに元禄時代の京焼盛況の素地をつくった。その後一時不振となったが,18世紀後半,清水焼に清水六兵衛・奥田頴川 (えいせん) らが出て京焼の主流となった。
清浦奎吾
きようらけいご @@@LINK=清浦奎吾 清浦奎吾

清浦奎吾
きようらけいご

1850〜1942
明治〜昭和期の官僚政治家
肥後(熊本県)の生まれ。山県有朋直系として法相・農商務相・枢密院議長を歴任し,貴族院・枢密院内に勢力をはった。1924年貴族院を中心に超然内閣を組織したが,第2次護憲運動で攻撃され,5か月で総辞職。晩年重臣に列した。

共和演説事件
きょうわえんぜつじけん @@@LINK=共和演説事件 共和演説事件

共和演説事件
きょうわえんぜつじけん

1898年,第1次大隈重信内閣の文相尾崎行雄の舌禍事件
1898年8月の帝国教育会で来賓として出席した尾崎文相が,金権万能主義の現状を批判し,「日本に共和政治が行われたとすれば三井・三菱は大統領候補となろう」と演説。政党内閣出現に批判的であった山県有朋らはこれを「不敬」であると攻撃し,尾崎は辞職。憲政党は分裂し内閣も崩壊した。
曲亭馬琴
きょくていばきん @@@LINK=曲亭馬琴 曲亭馬琴

曲亭馬琴
きょくていばきん

滝沢馬琴
極東委員会
きょくとういいんかい
Far Eastern Commission @@@LINK=極東委員会 極東委員会

極東委員会
きょくとういいんかい
Far Eastern Commission

略称FEC。第二次世界大戦後,連合国が設けた対日政策決定機関
1945年12月,モスクワでアメリカ・イギリス・ソ連の三国外相会議で設置を決定。1946年2月,ワシントンの旧日本大使館に本部が置かれ,拒否権をもつアメリカ・イギリス・ソ連・中国とフランス・カナダ・オランダ・インド・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピンの11カ国で構成された('49年から13カ国)。政策決定のない場合アメリカが中間指令を出す権限をもっていたため,占領政策は事実上アメリカ政府および連合国軍最高司令官の意図で決定された。'52年サンフランシスコ平和条約の発効により消滅。
極東国際軍事裁判
きょくとうこくさいぐんじさいばん @@@LINK=極東国際軍事裁判 極東国際軍事裁判

極東国際軍事裁判
きょくとうこくさいぐんじさいばん

第二次世界大戦後,連合国側が,日本の指導者の戦争責任を追及した軍事裁判
東京裁判ともいう。ポツダム宣言に基づき,1946年東京市ケ谷の旧陸軍省で開廷。アメリカ・ソ連イギリスなど11人の裁判官により構成され,その結果,'48年11月,戦争謀議や人道に対する罪で東条英機・広田弘毅ら7名に死刑,木戸幸一ら18名に禁錮刑の判決が下された。「平和に対する罪」という法理に基づき,戦争責任を個人が問われたこと,その追及が満州事変にまでさかのぼったことなど,注目すべき点が多いが,事後法という問題や,連合国側の行為が問われなかったことなどの問題点もあった。
玉葉
ぎょくよう @@@LINK=玉葉 玉葉

玉葉
ぎょくよう

平安末期〜鎌倉初期,関白九条兼実 (かねざね) の日記
『玉海』ともいう。66巻。1164年から1203年までの兼実が政務にたずさわった時期にわたり,この時代の政治・社会・公武関係などを知るうえでの第一級史料。
玉葉和歌集
ぎょくようわかしゅう @@@LINK=玉葉和歌集 玉葉和歌集

玉葉和歌集
ぎょくようわかしゅう

鎌倉後期,第14番目の勅撰和歌集
1312年刊。20巻。伏見天皇の命で京極(藤原)為兼が編集。約2800首をおさめ,勅撰集中で最大。歌は清新な叙景歌が多く,感情・感覚の真実性を重んじ,素朴美・官能美を表現。『万葉集』を重視。京極派歌人の和歌が多い。
挙国一致内閣
きょこくいっちないかく @@@LINK=挙国一致内閣 挙国一致内閣

挙国一致内閣
きょこくいっちないかく

国家の危機に際し対立する諸党派が協力してつくる内閣
特に五・一五事件(1932)直後の斎藤実 (まこと) 内閣・岡田啓介内閣をさすことが多い。五・一五事件直後,軍部圧力政党内閣制をやめ,穏健派軍人を首班とした軍部・政党の超党派的内閣が成立。実際には政党排除の傾向をもち,政党の攻撃をうけた。それ以後では二・二六事件('36)後,軍部の干渉のもとに成立した広田弘毅内閣などの例がある。いずれにせよ,実態は各勢力の寄せ集めで,強い政治力を発揮しえなかった。
清沢満之
きよざわまんし @@@LINK=清沢満之 清沢満之

清沢満之
きよざわまんし

1863〜1903
明治時代の宗教思想家
尾張(愛知県)の生まれ。東本願寺で得度 (とくど) をうけ,東大哲学科卒。在学中ヘーゲルに傾倒。門下を集めて1900年東京で浩々洞を組織,翌年機関誌『精神界』を発行して精神主義を提唱し,仏教界の革新運動を推進した。

馭戎慨言
ぎょじゅうがいげん @@@LINK=馭戎慨言 馭戎慨言
からおさめのうれたみごと @@@LINK=馭戎慨言 馭戎慨言

馭戎慨言
ぎょじゅうがいげん

江戸後期,本居宣長の国学書
1777年刊。2巻。正しくは「からおさめのうれたみごと」と読む。宣長の古道説を端的に表現したもので,崇神天皇から徳川家康に至る日本と朝鮮・中国との交渉あげ北条時宗豊臣秀吉の毅然たる態度を賞賛し,中国書籍の虚構批判,日本尊重を説いた。

馭戎慨言
からおさめのうれたみごと

ぎょじゅうがいげん
清洲城
きよすじょう @@@LINK=清洲城 清洲城

清洲城
きよすじょう

愛知県西春日井郡清洲町にあった城
応永年間(1394〜1428)に尾張国守護斯波 (しば) 義重が築城,以後斯波氏の居城となった。1555年以降,織田信長の拠城として繁栄したが,1610年徳川義直が名古屋城を築いて移転し,廃城となった。
キヨソーネ
Edoardo Chiossone @@@LINK=キヨソーネ キヨソーネ

キヨソーネ
Edoardo Chiossone

1832〜98
イタリアの銅版画家
1875年政府の招きで来日。大蔵省紙幣寮(のち印刷局)で紙幣・郵便切手などの製版・印刷の指導にあたった。また明治天皇・西郷隆盛・大久保利通らの銅版肖像画を残している。日本で没した。
清原氏
きよはらうじ @@@LINK=清原氏 清原氏

清原氏
きよはらうじ

①平安初期の皇族賜姓 (しせい) の一つ
平安時代の出羽国の豪族
学問の家柄。天武天皇の皇子舎人 (とねり) 親王子孫。2系統あり,804年御原王 (みはらのおう) 系の夏野 (なつの) が,850年貞代王 (ざだよのおう) 系の有雄が清原真人 (まひと) の姓を賜る。夏野は『令義解』の編纂者として著名。清少納言は,貞代王系に連なる。
代々俘囚 (ふしゆう) の長で,武則 (たけのり) のとき,前九年の役に功あり,以後奥羽地方で勢威をふるったが,のち一族の内紛から後三年の役を誘発源義家介入を招いた。武則の養子清衡以後,藤原氏を称した(奥州藤原氏)。
清原家衡
きよはらのいえひら @@@LINK=清原家衡 清原家衡

清原家衡
きよはらのいえひら

?〜1087
平安中期,奥羽の豪族
武則 (たけのり) の孫。後三年の役で,藤原清衡・源義家と争い,金沢柵で叔父武衡とともに敗死。

清原清衡
きよはらのきよひら @@@LINK=清原清衡 清原清衡

清原清衡
きよはらのきよひら

藤原清衡
清原武則
きよはらのたけのり @@@LINK=清原武則 清原武則

清原武則
きよはらのたけのり

生没年不詳
平安中期の出羽の豪族
俘囚 (ふしゆう) の長。前九年の役(1051〜62)に源頼義・義家を助けて安倍貞任 (さだとう) 征討尽力。功により1063年鎮守府将軍となり,安倍氏の旧領をあわせて奥羽の大勢力となった。
清原武衡
きよはらのたけひら @@@LINK=清原武衡 清原武衡

清原武衡
きよはらのたけひら

?〜1087
平安中期の武将。奥羽の豪族
武則 (たけのり) の子。後三年の役(1083〜87)に際し,甥の家衡を助けて金沢柵に拠り藤原清衡・源義家らに抗戦,敗れて殺された。
清原夏野
きよはらのなつの @@@LINK=清原夏野 清原夏野

清原夏野
きよはらのなつの

782〜837
平安初期の学者
舎人 (とねり) 親王の曽孫小倉王の第5子。右大臣・民部卿となり,京都の西方双ヶ岡 (ならびがおか) に山荘を建て双岡大臣とも称された。藤原緒嗣 (おつぐ) らと『日本後紀』を撰修。また『令義解 (りようのぎげ) 』を撰上し,内裏式の改訂にも参加した。漢詩が『経国集』に収録されている。
清原宣賢
きよはらのぶかた @@@LINK=清原宣賢 清原宣賢

清原宣賢
きよはらのぶかた

1475〜1550
戦国時代の儒者
舟橋宣賢ともいう。吉田(卜部)兼倶 (かねとも) の子で清原宗賢 (むねかた) の養子。明経 (みようぎよう) 道の家学を継ぎ,新古2注の解釈により新生面を開く。また神道では『日本紀神代巻鈔』を著し,御成敗式目の注釈書『式目抄』をも著す。晩年は越前朝倉氏に招かれ,地方文化の興隆に貢献した。

清原元輔
きよはらのもとすけ @@@LINK=清原元輔 清原元輔

清原元輔
きよはらのもとすけ

908〜990
平安中期の歌人。三十六歌仙の一人
清少納言の父。「梨壺の五人」の一人として『万葉集』の研究に従事し,『後撰和歌集』を撰んだ。『拾遺和歌集』以下の勅撰集に約105首をおさめ,家集として『元輔集』がある。

清水寺
きよみずでら @@@LINK=清水寺 清水寺

清水寺
きよみずでら

京都市東山区清水町にある法相宗の寺
798年坂上田村麻呂が延鎮(賢心)を開山として建立。のち興福寺の末寺となり,観音信仰の霊場として繁栄した。争乱や天災によりたびたび焼失し,現在の建物は江戸幕府3代将軍徳川家光が再建したもの。崖 (がけ) にのぞんでの舞台造は有名。
清水焼
きよみずやき @@@LINK=清水焼 清水焼

清水焼
きよみずやき

江戸初期,京都におこった陶磁器。京焼の一つ
京焼のうち,五条坂一帯で焼かれるものをいう。完成者は野々村仁清 (にんせい) で,典雅な色絵の陶器をつくり,近隣の諸窯に影響を与えた。天明(1781〜89)ころに出た奥田頴川 (えいせん) らの影響をうけて中国風の磁器を主体とするようになり,京焼の主流となった。
浄御原令
きよみはらりょう @@@LINK=浄御原令 浄御原令

浄御原令
きよみはらりょう

飛鳥浄御原令
清元節
きよもとぶし @@@LINK=清元節 清元節

清元節
きよもとぶし

江戸後期におこった浄瑠璃の一派
1814年ころ富本節の2代目富本豊太夫が家元と衝突し,清元延寿太夫(初代,1777〜1825)と改名して創始した。歌舞伎の舞踊音楽として富本節より派手で軽快。洒落と粋をもって,語り方を大衆の好みに合わせたので,幕末から明治期にかけて隆盛した。
居留地
きょりゅうち @@@LINK=居留地 居留地

居留地
きょりゅうち

条約を結んだ国が相手国人に一定の限界を設けて居住・営業を許可する地域
安政の五カ国条約ではじめて問題となり,明治初期までに横浜・長崎・神戸・大阪・東京などに置かれた。1899年撤廃。
吉良義央
きらよしなか @@@LINK=吉良義央 吉良義央

吉良義央
きらよしなか

1641〜1702
江戸前・中期の幕臣
上野介 (こうずけのすけ) と称し,江戸幕府の高家 (こうけ) として,儀式・典礼をつかさどった。1701年赤穂藩主浅野長矩 (ながのり) をはずかしめ殿中刃傷に至らしめたことから,翌年12月,赤穂藩牢人によってを討たれた。
キリシタン
christão @@@LINK=キリシタン キリシタン

キリシタン
christão

16世紀以来,カトリックとその信徒に対する呼称
ポルトガル語のchristão(キリスト教徒)に由来し,漢字で「吉利支丹(のち切支丹)」とも書く。ザビエルの布教後,戦国大名や織田信長の保護で西日本に普及。大友宗麟らのキリシタン大名は天正遣欧使節を派遣し,南蛮文化も流行した。豊臣秀吉は1587(天正15)年抑圧に転じて,'96年宣教師ら26人を長崎で処刑した(二十六聖人殉教)。1605年信徒75万。江戸幕府も政治的・思想的理由から, '12年 直轄領に,'13年全国に禁教令を出し,宣教師や高山右近らの信者を国外に追放した。'39年の鎖国後,禁教は徹底したが,一部に隠れキリシタンを生んだ。明治政府も初め五榜の掲示にみられるように禁止していたが,1873年ようやく禁止を解き,信仰を黙認した。
キリシタン大名
キリシタンだいみょう @@@LINK=キリシタン大名 キリシタン大名

キリシタン大名
キリシタンだいみょう

16世紀後半,キリスト教に改宗した大名
九州の大村純忠・大友義鎮(宗麟)・有馬晴信,近畿の高山右近・小西行長・蒲生氏郷 (がもううじさと) らが有名。洗礼をうけ,教名を用い,ローマ字印章などを使用し,その保護でキリスト教が普及。豊臣秀吉・徳川氏禁教令により17世紀中ごろ消滅した。
キリシタン版
キリシタンばん @@@LINK=キリシタン版 キリシタン版

キリシタン版
キリシタンばん

近世初め,キリスト教宣教師などによって発行された活版印刷物
ヴァリニャーニのもたらした活版印刷機により島原で印刷されたのが始まりで,長崎・京都などでも出版された。キリスト教関係や日本古典など多方面にわたり,特に天草版が有名。
切捨御免
きりすてごめん @@@LINK=切捨御免 切捨御免

切捨御免
きりすてごめん

江戸時代,支配階級である武士の特権の一つ
武士に無礼をはたらいた町人・農民を斬り殺しても罰せられない特権。不文律として明治初年まで続いたが,所定の手続きを怠った場合,また斬られた方の非が少ない場合は処罰されることもあった。
キリスト教
キリストきょう @@@LINK=キリスト教 キリスト教

キリスト教
キリストきょう

仏教・イスラム教とともに世界の三大宗教といわれる宗教
イエス=キリストによって開かれ,広い人類愛と神の福音を説いた。長期にわたる迫害を克服し,古代ローマの政治力と結びついて発展,中世ヨーロッパで強盛を極めた。ヘレニズムとともにヨーロッパ文明の一大源流をなす。16世紀の宗教改革によって,これまでのカトリックに対してプロテスタント(新教)がおこった。日本にはザビエルによってカトリック教が伝えられ,キリシタンとして一時期栄えたが,江戸幕府はこれを禁圧し,鎖国を導いた。
キリスト教社会主義
キリストきょうしゃかいしゅぎ @@@LINK=キリスト教社会主義 キリスト教社会主義

キリスト教社会主義
キリストきょうしゃかいしゅぎ

19世紀中ごろのイギリスに始まるキリスト教精神に基づく社会主義
日本では安部磯雄・木下尚江ら初期の社会主義者の大半がキリスト教社会主義者であった。
切妻造
きりづまづくり @@@LINK=切妻造 切妻造

切妻造
きりづまづくり

建築様式の一つで,に本を半開きに伏せたような屋根形式
切り落としたような屋根の両端切妻といい,大阪住吉神社・伊勢神宮出雲大社社殿がこの形式。古代では真屋と呼ばれ,寄棟造よりも格式が上。現在も各地で見ることができる。また切の面に入口のあるのを妻入り,平の面(棟と平行側面)にあるのを平入りという。
桐一葉
きりひとは @@@LINK=桐一葉 桐一葉

桐一葉
きりひとは

明治中期,坪内逍遙の戯曲
1894〜95年,『早稲田文学』に連載。片桐且元と淀君との対立の悲劇を描いた新歌舞伎の代表作。
切米
きりまい @@@LINK=切米 切米

切米
きりまい

江戸時代,旗本御家人・諸藩士に米または金で支給された俸禄
支給をうける武士を切米取蔵米取)という。幕府の場合,蔵米取は春(2月)・夏(5月)・冬(10月)の年3回扶持米をうけた。そのうち春・夏の分を御貸し米,冬の分を御切米と呼んだ。もと蔵米取は軽輩の御家人に限り,ほかは知行地を与えられる知行取であったが,江戸中期ころから知行取も名目化し蔵米取に移行した。
桐生
きりゅう @@@LINK=桐生 桐生

桐生
きりゅう

群馬県東部,渡良瀬 (わたらせ) 川沿岸にある都市。絹織物生産地として著名
江戸時代,機業地として急速に発達。18世紀初頭,京都西陣から高級織物技術を導入し,縮緬 (ちりめん) ・絽 (ろ) ・ (しや) などを生産,やがて西陣に迫るまでになった。明治初年,ジャカード・バッタン力織機を採用して生産を進めた。1921年市制施行
季禄
きろく @@@LINK=季禄 季禄

季禄
きろく

律令制において,在京の官人や大宰府・壱岐 (いき) ・対馬の官人に与えられた俸禄
官職にない者や地方の国司には支給されなかった。1年を春夏・秋冬の2期に分け,2月と8月に官位に応じて絁 (あしぎぬ) ・綿・布・鍬 (くわ) などを支給した。10世紀以後行われなくなった。
記録所
きろくしょ @@@LINK=記録所 記録所

記録所
きろくしょ

②建武政府の政治機関の一つ
①記録荘園券契所の略称。
1334年後醍醐 (ごだいご) 天皇が親政復活を目標として,後三条天皇の政治的意図に沿って再興した。名和長年楠木正成らを寄人 (よりゆうど) とし,一般政務と訴訟にあたらせた。
記録荘園券契所
きろくしょうえんけんけいしょ @@@LINK=記録荘園券契所 記録荘園券契所

記録荘園券契所
きろくしょうえんけんけいしょ

平安中期に設置された令外官 (りようげのかん) の一つ
記録所ともいう。1069(延久元)年に後三条天皇が荘園整理事務のために設置。荘園の証拠書類(券契)を提出させ,寄人がその審理にあたり,1045(寛徳2)年以後の新立荘園と,それ以前でも由来の明らかでないものを停止した。天皇の死後消滅したが,以後たびたび設置された。
義和団事件
ぎわだんじけん @@@LINK=義和団事件 義和団事件

義和団事件
ぎわだんじけん

1899年から1901年にかけて,中国華北におこった排外的な民衆運動
北清事変ともいう。欧米列強の帝国主義的な進出に反抗して,義和団(白蓮教系の秘密結社)を中心として民衆がおこした中国の排外抵抗運動。「扶清滅洋」をスローガンに各国公使館やキリスト教会を襲撃,一時清朝の支持をうけて勢いがあったが,日本を中心としたイギリス・ロシア・アメリカ・フランス・ドイツ・イタリア・オーストリアの8カ国連合軍の出兵により北清事変と呼ばれる国際的事件に拡大,結局連合軍に鎮圧された。清朝は1901年北京議定書に調印。この結果,中国の半植民地化が促進され,ロシアの満州駐兵は日露戦争の原因ともなった。

きん @@@LINK=金 金


きん

第Ⅰ族(銅族)に属する黄金色の金属
砂金洗取による採金は原始的な技術で,日本では原始時代から室町時代まで続いた。記録の上では,701年陸奥国での冶金,749年同国からの黄金貢納が『続日本紀』にみえる。産地は陸前陸中本吉気仙磐井などの諸郡が中心で,10世紀奥州藤原氏が平泉で強勢をふるった時代には産金額も著しく増加した。16世紀になると戦国大名の金銀山開発によって,金の採掘が激増した。金銀は銅銭に比べて高い価値をもつ流通貨幣として通用し,戦国大名は軍用金・恩賞として用いたが,江戸幕府は金山を直轄とし,金座をおいて,大判・小判・一分金などを鋳造・発行した。日宋貿易の発展以来,中世,日本の中国への重要な輸出品となり,幕末の通商条約締結後の金の流出は著名である。日本では1897(明治30)年金本位制が確立した。1931年の金輸出再禁止以来,金本位制は復活していない。しかし,国際通貨としての重要性は変わらない。

ぎん @@@LINK=銀 銀


ぎん

第Ⅰ族(銅族)に属する銀白色の金属
古来15世紀までは,対馬が唯一の産地で,産出も少なく,中国銀を輸入していた。16世紀半ばから戦国大名の開発と銀精錬法の改良で,石見大森(島根県)・但馬 (たじま) (兵庫県)生野銀山をはじめ全国的に開発され,産額は激増し,中国を除く世界銀生産の30%を生産。南蛮貿易など外国貿易で輸出品の首位を占め,ぼう大な量が海外に流出した。しかし,17世紀半ばから産額は減少し,以後江戸幕府は輸出の禁,もしくは制限を加えた。江戸時代は秤量 (ひようりよう) 貨幣として銀座で銀貨を製造。19世紀,世界的な銀の増産で本位貨幣としての地位を失い,日本でも明治維新後採鉱技術の近代化により増産が行われた。
金槐和歌集
きんかいわかしゅう @@@LINK=金槐和歌集 金槐和歌集

金槐和歌集
きんかいわかしゅう

鎌倉前期,源実朝の歌集
『鎌倉右大臣家集』ともいう。1213年刊。1巻。書名の「金」は鎌の偏,「槐」は大臣を示す語。概して新古今調であるが,万葉調の歌は格調高く,独自の風格をもつ。
金閣
きんかく @@@LINK=金閣 金閣

金閣
きんかく

室町前期,足利義満が京都北山に営んだ山荘遺構で,三層の楼閣建築
1397年,義満は莫大な費用を投じて豪華な別荘を建て,彼の死後禅宗寺院鹿苑 (ろくおん) 寺となった。金はその一部で舎利殿 (しやりでん) として建てられ,初層・中層寝殿造,上層は禅宗様の様式による三層の楼閣である。中層・上層の外壁金箔をおいたところから金閣の通称で呼ばれる。1950年放火により焼失したが,その後復原再建された。
銀閣
ぎんかく @@@LINK=銀閣 銀閣

銀閣
ぎんかく

室町中期,8代将軍足利義政が京都東山に造った山荘内の建物
山荘は義政の死後寺院とし,慈照寺となった。閣はこの慈照寺の観音殿をいい,1489年の完成。仏殿書院造の住宅が結合した建築。寺内には義政の持仏堂である東求堂 (とうぐどう) もある。仏間同仁斎 (どうじんさい) と呼ばれる書院などからなり,その庭園とともに東山文化趣向をよく表している。
緊急勅令
きんきゅうちょくれい @@@LINK=緊急勅令 緊急勅令

緊急勅令
きんきゅうちょくれい

大日本帝国憲法の中にある非常立法手段の一つ
議会閉会中,緊急を要する事態に対して,次の会期で議会の承認を求めることを前提に,枢密院の判断を経て,法律と同一の効力をもつ立法が行われた。1927年金融恐慌対策としての田中義一内閣の緊急勅令(支払猶予令)および治安維持法改正や,'36年二・二六事件,'45年ポツダム宣言受諾のときの行政戒厳令などが著名。
禁教令
きんきょうれい @@@LINK=禁教令 禁教令

禁教令
きんきょうれい

近世キリスト教禁制のための法令
最初キリスト教を黙認した豊臣秀吉は,九州征討直後,長崎が教会領となっていることを知り,1587(天正15)年博多で禁教令を発し宣教師を追放,禁教政策に転じた。江戸幕府もはじめキリスト教を放任していたが,1612年天領に,翌年全国に禁教令を布告した。3代将軍徳川家光のとき,さらに強化して大弾圧を行い,やがて鎖国政策となった。
金 玉均
きんぎょくきん @@@LINK=金+玉均 金+玉均

金 玉均
きんぎょくきん

1851〜94
李氏朝鮮末期,親日独立党の政治家
1884年閔 (びん) 妃一派の事大党政権を打倒しようとして,甲申事変をおこしたが,清の反撃によって失敗し,日本に亡命。閔妃側のスパイに誘い出されて上海で暗殺された。
金々先生栄花夢
きんきんせんせいえいがのゆめ @@@LINK=金々先生栄花夢 金々先生栄花夢

金々先生栄花夢
きんきんせんせいえいがのゆめ

江戸後期,恋川春町の黄表紙
1775年刊。黄表紙の先駆をなす。片田舎の青年金村屋金兵衛が諸国見物の途中,粟餅屋の店頭でうたたねをした間に栄達遊蕩を夢みる筋。中国の邯鄲 (かんたん) 説話をアレンジしたもので,洒落本的な「通」を織りまぜ,当時の風俗を描出,好評であった。
金銀比価問題
きんぎんひかもんだい @@@LINK=金銀比価問題 金銀比価問題

金銀比価問題
きんぎんひかもんだい

開国後,幕末貿易における金貨流出などの問題
当時,金との交換比率(比価)が,日本では1:5,外国では1:15であったため,多量の金貨が国外に流出し,日本の経済混乱をいっそう促進し,はげしい攘夷運動がおこる一因となった。
金銀複本位制
きんぎんふくほんいせい @@@LINK=金銀複本位制 金銀複本位制

金銀複本位制
きんぎんふくほんいせい

金貨銀貨両方本位貨幣とする制度
1871年の新貨条例金本位制を採用したが,財政難や,アジア諸国が銀本位であったため,'78年貿易決済にはを用いるようになり,貿易1円銀貨と1円金貨を等価値にした。'97年の金本位制実施まで行われた。
金座
きんざ @@@LINK=金座 金座

金座
きんざ

江戸時代の大判を除く金貨鋳造所
1595年徳川家康が後藤庄三郎光次を江戸に招き小判鋳造にあたらせたのが最初。以後代々後藤家が御金改役(長官)を世襲。勘定奉行の支配のもと地金買入れ,小判・一分金などの金貨鋳造を独占した。初め江戸・京都・佐渡に設置したが,やがて京都・佐渡は廃止,江戸は明治維新まで続いた。
銀座
ぎんざ @@@LINK=銀座 銀座

銀座
ぎんざ

江戸時代の銀貨鋳造所
1601年伏見に設けたのが最初で,'08年京都に移した。同じころ駿府(のち江戸に移す)・大坂・長崎にも設けたが,1791年一時廃止され,江戸のみ再興。大黒常是 (じようぜ) 家が代々御銀改役(長官)を世襲し,勘定奉行の支配のもと丁銀・豆板銀などの銀貨を鋳造した。明治維新後に廃止された。
金城(錦城)
きんじょう @@@LINK=金城(錦城) 金城(錦城)

金城(錦城)
きんじょう

大坂城
金石文
きんせきぶん @@@LINK=金石文 金石文

金石文
きんせきぶん

金属・岩石・瓦・木材などに記された文字や絵画
古墳から出土する刀剣・墓碑銘などが古く,ほかに鏡のまわりに刻まれた鏡銘,仏像の造像銘などがある。漢字伝来以後の歴史的事実を証明する重要な史料である。
金石併用時代
きんせきへいようじだい @@@LINK=金石併用時代 金石併用時代

金石併用時代
きんせきへいようじだい

石器時代から青銅器時代へ移る過渡期
利器の材料として,青銅と石材とが併用された時代をいう。日本では,弥生文化がこれに相当する。しかし,わが国では青銅器が利器としては十分普及せず,同時に鉄器も伝来したので特殊な形をとった。
金属器時代
きんぞくきじだい @@@LINK=金属器時代 金属器時代

金属器時代
きんぞくきじだい

青銅器時代鉄器時代の総称
利器の材料として金属が用いられた時代で,新石器時代の次にあたる。日本では水稲耕作や金属器の利用は生産力を飛躍的に増大させ,社会に階級分化をもたらした。
金属材料研究所
きんぞくざいりょうけんきゅうじょ @@@LINK=金属材料研究所 金属材料研究所

金属材料研究所
きんぞくざいりょうけんきゅうじょ

1922年,本多光太郎東北帝国大学に設立した研究所。
禁中並公家諸法度
きんちゅうならびにくげしょはっと @@@LINK=禁中並公家諸法度 禁中並公家諸法度

禁中並公家諸法度
きんちゅうならびにくげしょはっと

江戸幕府が朝廷および公家を統制するために出した法令
禁中方御条目・公家諸法度ともいう。金地院崇伝 (こんちいんすうでん) が起草。1615(元和元)年発布。17条からなり,内容は「天子は学問を第一と心得べきこと」をはじめ,親王公卿の席次,三公・摂関の任免,改元など諸般にわたっている。
欽定憲法
きんていけんぽう @@@LINK=欽定憲法 欽定憲法

欽定憲法
きんていけんぽう

君主の意志により制定された憲法
国民の総意に基づき憲法制定議会で制定される民定憲法に対していう。大日本帝国憲法がその例。
金 日成
きんにっせい @@@LINK=金+日成 金+日成

金 日成
きんにっせい

1912〜94
朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者
平壌市の生まれ。1930年代には,朝鮮の北部国境地帯と東満州が反日武装闘争の拠点となったが,これを指導し,解放地区を拡大した。'45年8月ソ連の対日参戦とともに,朝鮮人民革命軍を率いて祖国に入り,'46年北朝鮮人民委員会を組織し,土地革命その他重要政策をつぎつぎと実行した。'48年朝鮮民主主義人民共和国の樹立とともに首相,'72年国家主席となる。チュチュ主体思想を唱え,死去するまで最高指導者の地位にあった。
金肥
きんぴ @@@LINK=金肥 金肥

金肥
きんぴ

江戸時代,農家が貨幣で購入した肥料
江戸時代に入り商品作物栽培がさかんになるに伴って,人糞肥・堆肥 (たいひ) などの自給肥料のほかに購入肥料が使われるようになり,油粕 (あぶらかす) ・干鰯 (ほしか) がその代表であった。
禁秘抄
きんぴしょう @@@LINK=禁秘抄 禁秘抄

禁秘抄
きんぴしょう

鎌倉初期,順徳天皇の有職故実 (ゆうそくこじつ) 書
『順徳院御抄』『禁中抄』『建暦御記』ともいう。1221年ごろの成立。2巻本と3巻本とがある。宮中行事・儀式政務などに関する故実・作法を記したもので,後世に至るまで有職故実の基準とされた。
金平浄瑠璃
きんぴらじょうるり @@@LINK=金平浄瑠璃 金平浄瑠璃

金平浄瑠璃
きんぴらじょうるり

江戸前期,江戸に流行した浄瑠璃
江戸の桜井和泉太夫(のち丹波掾)が創始。坂田金時の子金平の武勇談を操 (あやつり) 芝居上演,その豪快粗野な曲が江戸の気風に適合して町人に喜ばれた。初世市川団十郎の荒事 (あらごと) もこの人形の動きから考案されたものという。
金峰山寺
きんぷせんじ @@@LINK=金峰山寺 金峰山寺

金峰山寺
きんぷせんじ

大和国吉野山から大峰山にかけての峰々の諸寺院の総称
金峰山修験本宗の総本山で,修験道の開祖役小角 (えんのおづぬ) の開基と伝えられ,中心は吉野町にある蔵王 (ざおう) 堂。現在まで修験者の行場となっている。平安中期には貴族参詣が流行。中世においてはこの山は弥勒浄土として信仰され,僧徒兵力も強大であった。南北朝の動乱期には南朝の拠点となり,高師直に攻められて焼失。復興後,近世には日光山輪王寺の支配下にはいった。
金本位制
きんほんいせい @@@LINK=金本位制 金本位制

金本位制
きんほんいせい

金を貨幣価値の基準とし,他の貨幣と金との自由な交換(兌換 (だかん) )や,金の自由な輸出入を認める制度
日本では1871(明治4)年の新貨条例で採用したが,貿易決済にはを用い,国内でも実質的には銀本位制に変わった。のち世界的に金本位制が広まり,日本も日清戦争の賠償金を準備金として,'97年の貨幣法で名実ともに採用した。1917年,第一次世界大戦のため金輸出を禁止,'30年に解禁したが世界恐慌の打撃うけ,'31年末,犬養毅内閣が再禁止し,金本位制は事実上停止された。
欽明天皇
きんめいてんのう @@@LINK=欽明天皇 欽明天皇

欽明天皇
きんめいてんのう

510ごろ〜571
6世紀半ばの天皇(在位531〜571 (ごろ) )
継体天皇の皇子。『日本書紀』は即位を540年としているが,『上宮聖徳法王帝説』などは531年即位説をとり対立している。このことから531〜539年までは異母兄の安閑・宣化朝と並立していたと考え,内乱発展したとする学説が出されている。在位中,538年百済 (くだら) の聖明王が仏像・経論を伝え,562年新羅 (しらぎ) のために「任那 (みまな) 日本府」が滅亡するなど,国内・対外関係とも緊張した時期であった。
禁門の変
きんもんのへん @@@LINK=禁門の変 禁門の変

禁門の変
きんもんのへん

1864(元治元)年,京都でおこった長州藩の出兵による兵乱
蛤 (はまぐり) 御門の変・元治甲子の変ともいう。八月十八日の政変(1863)で京都を追われた長州藩は,勢力回復のため藩主父子の無実を訴え,尊攘派7卿の赦免を願ったが許されず,さらに池田屋事件がおこったことから出兵,入京して,薩摩・会津・桑名の藩兵と蛤御門付近で交戦したが敗北長州征討の発端となった。
金融恐慌
きんゆうきょうこう @@@LINK=金融恐慌 金融恐慌

金融恐慌
きんゆうきょうこう

1927年に発生した銀行恐慌
第1次若槻礼次郎内閣が震災手形の処理に着手した際,議会討論から台湾銀行の不良貸付けが暴露され,これを機に鈴木商店・十五銀行などの倒産が続いた。若槻内閣は台湾銀行救済の緊急勅令案を枢密院で否決されたため総辞職,代わった田中義一内閣が日本銀行からの非常貸出しと緊急勅令で3週間の支払猶予令モラトリアム)を発して収拾した。この恐慌で五大銀行優位が確立した。
金融緊急措置令
きんゆうきんきゅうそちれい @@@LINK=金融緊急措置令 金融緊急措置令

金融緊急措置令
きんゆうきんきゅうそちれい

1946年2月,第二次世界大戦終了直後の激しいインフレ収拾策として公布された勅令83号
終戦時流通貨幣量は600億円で,しかも生産力をついてアンバランスであったので,旧憲法緊急勅令を利用して預金を封鎖し,旧円を新円に切り換えた。
金融資本
きんゆうしほん @@@LINK=金融資本 金融資本

金融資本
きんゆうしほん

独占資本主義の段階における資本のあり方
産業資本と銀行資本が一体に結びついて産業を独占的に支配するもの。日本では財閥の形態をとり,その形成は日露戦争(1904〜05)後に始まり,第一次世界大戦以後本格的に成立する。三井三菱住友安田はその典型。財閥解体後,融資系列や企業間の提携の形で再編成された。
金輸出解禁
きんゆしゅつかいきん @@@LINK=金輸出解禁 金輸出解禁

金輸出解禁
きんゆしゅつかいきん

金本位制の基本である金貨地金輸出禁止を解除すること。歴史的には1930年浜口雄幸 (おさち) 内閣解禁をさす
略称金解禁」。第一次世界大戦中の1917年,欧米列国にならい金輸出を禁止した日本は,大戦後列国の解禁後も,戦後恐慌・震災恐慌・シベリア出兵戦費などで経済不安定のため禁止を続けた。しかし金融恐慌('27)ののち,大資本・銀行側の要求もあり,年々強まる輸出不振を脱し為替相場を安定させるため,浜口内閣は'30年1月,金輸出解禁を断行し,日本経済の回復に直結させようとしたが,すでに前年10月から世界大恐慌のにみまわれており効果なく,'31年末には犬養毅内閣が再禁止した。
金輸出再禁止
きんゆしゅつさいきんし @@@LINK=金輸出再禁止 金輸出再禁止

金輸出再禁止
きんゆしゅつさいきんし

1931年12月,犬養毅内閣が行った輸出の再禁止。
禁裏御料
きんりごりょう @@@LINK=禁裏御料 禁裏御料

禁裏御料
きんりごりょう

江戸時代,皇室の所領
江戸初期徳川家康は従来皇室領を整理して1万石を献上秀忠は皇女降誕を祝して1万石,綱吉も1万石献上して3万石となった。
金禄公債
きんろくこうさい @@@LINK=金禄公債 金禄公債

金禄公債
きんろくこうさい

明治政府が秩禄処分により士族に家禄返上の代わりに交付した金券
金禄証書ともいう。1876年金禄公債証書発行条例を公布し,一律に家禄の奉還を命じ,代わりにその大小・種別に応じて公債を交付。支給人員31万3000人,総額1億7400万円。1906年償還を完了。しかし,それまでに一般士族の公債の多くは,高利貸の手に渡った。
空海
くうかい @@@LINK=空海 空海

空海
くうかい

774〜835
平安初期の高僧。真言宗の開祖
讃岐(香川県)の人。父は佐伯氏,母は阿刀 (あと) 氏。幼名は真魚 (まお) 。官人あるいは学者への道を捨て仏道を志し,804年入唐。唐僧恵果らから密教を学び,帰国後真言宗を一宗として確立した。816年,紀伊(和歌山県)の高野山に金剛峰寺 (こんごうぶじ) をつくり,823年には嵯峨天皇から京都の東寺(教王護国寺と名づけた)を与えられた。また讃岐の満濃池を修築し,京都に庶民の教育機関として綜芸種智院 (しゆげいしゆちいん) を建て社会事業につとめた。文学にも才能を発揮し,漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著した。書道では嵯峨天皇・橘逸勢 (たちばなのはやなり) とともに三筆の一人に数えられた。死後弘法大師の号を贈られた。
空華日工集
くうげにっくしゅう @@@LINK=空華日工集 空華日工集

空華日工集
くうげにっくしゅう

南北朝時代,臨済宗の僧義堂周信の日記
正しくは『空華老師日用工夫略集』という。「空華」は周信の別号。彼は朝廷や足利義満,鎌倉公方ともかかわりが深かった。1325〜88年にわたり,当時の政治・社会・思想上の重要な史料。
空也
くうや @@@LINK=空也 空也
こうや @@@LINK=空也 空也

空也
くうや

903〜972
平安前期に浄土信仰を説いた民間布教僧。踊念仏の祖
「こうや」とも読む。諸国を巡り,橋を架け,道を開き井池を造った。常に南無阿弥陀仏の六字名号を唱え,諸人に念仏をすすめ,「市聖 (いちのひじり) 」と呼ばれた。没した寺はのちに六波羅蜜寺と名づけられた。

空也
こうや

くうや
空也上人像
くうやしょうにんぞう @@@LINK=空也上人像 空也上人像

空也上人像
くうやしょうにんぞう

京都市六波羅蜜寺所蔵の鎌倉前期の肖像彫刻
康勝作。平安中期の阿弥陀聖と呼ばれた空也立像。口から南無阿弥陀仏を表す6体の阿弥陀仏を出している。
公営田
くえいでん @@@LINK=公営田 公営田
こうえいでん @@@LINK=公営田 公営田

公営田
くえいでん

平安前期,大宰府管内に置かれた直営田
「こうえいでん」とも読む。極度の租税滞納に対処するため,823年大宰大弐小野岑守 (みねもり) の建議により行われた。管内の良田1万町歩を選び公営田とし,6万余人の徭丁を動員し耕作させた。種子などの諸経費は官が用意し,耕作者は調・庸などを免除されたが,収穫物は大宰府が取得した。

公営田
こうえいでん

くえいでん
久遠寺
くおんじ @@@LINK=久遠寺 久遠寺

久遠寺
くおんじ

山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗総本山
1281年日蓮の有力な信徒である南部(波木井 (はきい) )実長 (さねなが) が建立。1474年,11世日朝のとき現在の地に移り,日意・日伝までの中興の3師によって栄えた。江戸時代には紀州・水戸両家に保護され,勅願所になった。2度の大火をうけたが現在は旧観に復している。
公廨田
くがいでん @@@LINK=公廨田 公廨田
くげでん @@@LINK=公廨田 公廨田

公廨田
くがいでん

律令制において官庁経費を出すための職田
「くげでん」とも読む。国司の職田 (しきでん) も公廨田といった。不輸租田で,平安中期から私有地化した。

公廨田
くげでん

くがいでん
公廨稲
くがいとう @@@LINK=公廨稲 公廨稲

公廨稲
くがいとう

律令制において地方官庁の費用にあてられた出挙 (すいこ) 稲
「くげとう」とも読む。745年諸国の租稲を農民に出挙し,その利益を国衙 (こくが) の費用と官人の俸給にあてた。国司の俸給と化したので,757年分配比率を明確にした。
陸羯南
くがかつなん @@@LINK=陸羯南 陸羯南

陸羯南
くがかつなん

1857〜1907
明治時代の新聞記者・政治評論家
本名は実。陸奥(青森県)の生まれ。司法省法学校中退。1883年太政官文書局,'85年内閣官報局に勤務。欧化政策に反対して官を辞し,'89年新聞『日本』を創刊。藩閥政府・民党のいずれとも妥協せず,国民主義を唱え,国民の統一と国家の独立を主張した。

盟神探湯
くがたち @@@LINK=盟神探湯 盟神探湯

盟神探湯
くがたち

古代の神誓裁判の一形式
沸騰した湯の中に手を入れさせ火傷の有無により正邪を判定する方法。『日本書紀』に氏姓の秩序が乱れたのでこれを正すためにこの方法を用いたとある。中世以後にもこれと同類の湯起請 (ゆぎしよう) が行われた。
愚管抄
ぐかんしょう @@@LINK=愚管抄 愚管抄

愚管抄
ぐかんしょう

鎌倉前期,天台座主 (ざす) 慈円 (じえん) の歴史書
1220年ころ成立。承久の乱後増補。7巻。歴史を動かすものは道理であると考え,道理の盛衰即歴史の盛衰と説き,末法思想によって当時の政治を論じている。日本で初めて歴史哲学を説いたものとして注目され,後世の『神皇正統記』や『読史余論』などに大きな影響を与えた。内容は年代記2巻。他の4巻は神武天皇より順徳天皇までの歴史の叙述で,付録1巻にその思想が述べられている。
公暁
くぎょう @@@LINK=公暁 公暁

公暁
くぎょう

1200〜19
鎌倉前期,鎌倉幕府2代将軍源頼家の第3子
母は賀茂重長の娘。父の死後,鶴岡八幡宮の別当となる。父の死は叔父3代将軍実朝の陰謀によるものと疑い,1219年実朝を鶴岡八幡宮で暗殺。その後すぐに捕らえられて殺された。

公卿
くぎょう @@@LINK=公卿 公卿

公卿
くぎょう

三位以上の貴族と参議をいう
摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣を公 (こう) ,大納言・中納言および三位以上を卿という。朝廷の政治の最高構成員。参議は公卿会議に参加する要職なので四位でも卿といった。
公卿補任
くぎょうぶにん @@@LINK=公卿補任 公卿補任

公卿補任
くぎょうぶにん

神武天皇から1868年までの公卿の補任記録
公卿の氏名・官歴を官職順に列記してその事歴を年ごとに記したもので,10世紀中ごろ編纂され,以後書き継がれたらしい。一部欠けているが,日本史研究の重要文献。
傀儡子
くぐつ @@@LINK=傀儡子 傀儡子

傀儡子
くぐつ

平安時代に人形を使い刀剣芸なども行った旅芸人
のち神社にも所属。中世,摂津西宮えびす社の神輿舁 (しんよかつぎ) が栄え阿波淡路の操 (あやつり) 人形に影響を与え,浄瑠璃人形芝居の原型となった。
公廨田
くがいでん @@@LINK=公廨田 公廨田
くげでん @@@LINK=公廨田 公廨田

公廨田
くがいでん

律令制において官庁経費を出すための職田
「くげでん」とも読む。国司の職田 (しきでん) も公廨田といった。不輸租田で,平安中期から私有地化した。

公廨田
くげでん

くがいでん
公験
くげん @@@LINK=公験 公験

公験
くげん

中世において,土地領有について証拠となる公の書類
私験に対するもの。律令制下においては官庁から下付する証明書を味し,私有地の売買・譲与などにあたって,国司が所有権を公認した承認書をいう。中世には幕府・荘園領主などから与えられ,田畑の譲与・売買のときには所有権の移転を承認するものとして重視された。
箜篌
くご @@@LINK=箜篌 箜篌

箜篌
くご

古代の楽器の一つ
百済 (くだら) 琴ともいう。ハープ系の楽器で,竪箜篌はに抱え,あるいは座し,あるいは立って両手で奏でた。古代アッシリアで用いられ,ペルシア・西域を経て中国に伝わった。日本には,奈良時代に百済から伝来,正倉院に遺片がある。雅楽に用いられた。
久坂玄瑞
くさかげんずい @@@LINK=久坂玄瑞 久坂玄瑞

久坂玄瑞
くさかげんずい

1840〜64
幕末,長州藩の尊攘派志士
吉田松陰の門下で,高杉晋作と双璧をなした。1862年藩論を公武合体から尊王攘夷に一変させた。江戸のイギリス公使館焼打ち事件,下関の外国船砲撃(下関事件)に参加し,大和行幸奏請に尽力。'64年禁門の変で藩兵を率いて上洛したが,負傷して自刃。

草壁皇子
くさかべのおうじ @@@LINK=草壁皇子 草壁皇子

草壁皇子
くさかべのおうじ

662〜689
天武天皇の皇子
日並知 (ひなめし) 皇子ともいう。母は持統天皇。文武・元正両天皇の父。681年皇太子となったが病弱で,686年天武天皇の没後,持統天皇は謀反の疑いで大津皇子を失脚させて皇子の即位を待ったが,689年28歳で病死。

日下部鳴鶴
くさかべめいかく @@@LINK=日下部鳴鶴 日下部鳴鶴

日下部鳴鶴
くさかべめいかく

1838〜1922
明治・大正時代の書家
名は東作。彦根藩士の家に生まれ,明治維新後太政官に勤めたが1879年辞任。中国の書道(唐・六朝)を研究して鳴鶴流を創始,以後公文書は御家流 (おいえりゆう) から唐様に一変した。大久保利通の知遇をうける。

草双紙
くさぞうし @@@LINK=草双紙 草双紙

草双紙
くさぞうし

江戸時代の小説の一種
挿絵を主とする通俗・大衆的読み物の総称で,赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻の順に変遷。寛文(1661〜73)ころより明治初期まで約200年間行われた。10ページ単位で1冊とし,1〜3冊程度でまとまる短編。ページごとに挿絵があり,仮名書きで女性・子供を対象として出発し,のちに成人向きとなった。
草高
くさだか @@@LINK=草高 草高

草高
くさだか

江戸時代,領内の土地から産出する米の総高
草高は検地によって決まる公的な石高と一致しない場合が多く,それより多額であった。幕府が使用したことはなく,地方で用いられたらしい。
草枕
くさまくら @@@LINK=草枕 草枕

草枕
くさまくら

明治後期,夏目漱石の小説
1906年発表。主人公の画工に託して,作者の当時抱いていた芸術観・非人情の考え方を表現した作品。
草間直方
くさまなおかた @@@LINK=草間直方 草間直方

草間直方
くさまなおかた

1753〜1831
江戸後期,大坂の両替商・町人学者
少年時代から大坂の両替商鴻池 (こうのいけ) 家に勤めた。のち別家して鴻池屋伊助を名のって両替商を営み,肥後・南部など諸藩御用となった。その著書『三貨図彙 (ずい) 』(1815)は貨幣・物価・度量衡の研究書として著名である。
草分
くさわけ @@@LINK=草分 草分

草分
くさわけ

その地を最初に切り開いた開拓者
村では,最初に開発・入村した百姓で,名主・庄屋など旧家が多い。町方でも,早くから都市づくりに参加し移住した者を草分町人と呼んだ。
公事
くじ @@@LINK=公事 公事

公事
くじ

②中世〜近世の訴訟・審理・裁判
③荘園制下における雑税
①朝廷の公務・儀式をいう。
江戸時代には主として民事訴訟をいう。公事方御定書の名称もこれに由来する。
土地を対象とする年貢に対し,人間を対象として課せられ,公に奉仕する課役を公事といった。関東御公事など。江戸時代には公事は小物成になったものが多い。
公事方
くじかた @@@LINK=公事方 公事方

公事方
くじかた

江戸幕府において直轄領の訴訟事務を扱った役職
1722年幕府は勘定奉行の定員を4名とし,勝手方2人と公事方2人とに分け職務分掌を明らかにした。
公事方御定書
くじかたおさだめがき @@@LINK=公事方御定書 公事方御定書

公事方御定書
くじかたおさだめがき

江戸中期,8代将軍徳川吉宗の制定した江戸幕府の成文法規集
老中松平乗邑 (のりむら) を主任とし,寺社・町・勘定の三奉行を中心に編纂され,1742年成立。上・下2巻よりなる。上巻は司法警察関係の重要法令81通を収載。下巻は「御定書百箇条」とも呼ばれ,大部分は刑罰規定・刑事訴訟法規定で103カ条。関係者のみ閲覧でき,非公開であった。
旧事紀
くじき @@@LINK=旧事紀 旧事紀

旧事紀
くじき

平安初期,古代伝承に基づき編集された史書
先代旧事本紀』ともいう。10巻。著者不明。神代から推古天皇までの事を記し,特に物部 (もののべ) 氏が自家の事績を強調するため編集させたといわれる。天孫本紀・国造本紀は根拠あるものとして重要。
公事根源
くじこんげん @@@LINK=公事根源 公事根源

公事根源
くじこんげん

室町時代,一条兼良 (かねら) の有職故実 (ゆうそくこじつ) 書
1423年ごろ成立。朝廷の年中行事を月日順序で記し,それぞれの起源や変遷を解説したもの。後世,有職の書として重宝され注釈書も多い。
櫛田民蔵
くしだたみぞう @@@LINK=櫛田民蔵 櫛田民蔵

櫛田民蔵
くしだたみぞう

1885〜1934
大正・昭和初期の経済学者
福島県の生まれ。京大卒。1920年森戸事件を機に東大講師を辞し,大原社会問題研究所に入る。マルクス主義の見地からつぎつぎと論文を発表,第二次世界大戦前の日本のマルクス学の水準を国際的なものに引き上げた。

倶舎宗
くしゃしゅう @@@LINK=倶舎宗 倶舎宗

倶舎宗
くしゃしゅう

南都六宗の一つ
インドの世親の『倶舎論』を研究する学派。小乗仏教に属する。日本には斉明朝(655〜661)のころ法相宗とともに伝来し,以後東大寺・興福寺を中心として講究された。
九条兼実
くじょうかねざね @@@LINK=九条兼実 九条兼実

九条兼実
くじょうかねざね

1149〜1207
鎌倉初期の公卿。九条家の始祖
摂政・関白,従一位太政大臣。関白藤原忠通の3男。慈円の兄。源頼朝の信任を得て,1185年議奏公卿の上首となり,ついで摂政・関白となる。摂関家の勢力を再興させるため,幕府と結び院政を抑えようとしたが,'96年土御門通親 (つちみかどみちちか) に排斥されて失脚。学問・和歌にひいで,その日記『玉葉』は鎌倉初期の重要史料として有名。

九条家
くじょうけ @@@LINK=九条家 九条家

九条家
くじょうけ

藤原北家の分流で,五摂家の一つ
始祖兼実 (かねざね) (藤原忠通の3男)が京都九条殿に住んでいたため,近衛家に対し九条家と呼ばれた。鎌倉幕府とは兼実以来関係が深く,頼経・頼嗣父子は将軍(摂家将軍)となった。
九条道家
くじょうみちいえ @@@LINK=九条道家 九条道家

九条道家
くじょうみちいえ

1193〜1252
鎌倉時代の公卿
摂政・関白。父は良経(兼実 (かねざね) の子),母は源頼朝の妹婿一条能保 (よしやす) の娘。4男頼経を将軍として鎌倉に送り,西園寺公経 (きんつね) と結んで勢力を得,関東申次の職にあって公武間の秘書にあたったが,晩年は幕府に遠ざけられ,失意のうちに死んだ。崇仏家であり,東福寺の開基としても知られる。


くしろ @@@LINK=釧 釧


くしろ

腕輪のこと
縄文時代には主として貝輪が,弥生時代には一部に銅製品も用いられた。古墳時代には,他に石・貝・金・銀・玉製があり,宝器的なものもある。
公出挙
くすいこ @@@LINK=公出挙 公出挙

公出挙
くすいこ

古代,稲などの貸付け制度の一つ。地方豪族の私出挙に対し,政府や国司が行った出挙をいう。
葛生人
くずうじん @@@LINK=葛生人 葛生人

葛生人
くずうじん

栃木県安蘇郡葛生町で発見された更新世人類とされていた。
1950年,石灰岩採石場から左上腕骨・尺骨などの断片が発見されたが,2001年、年代測定の結果、室町時代頃の人骨だということが判明した。
薬子の変
くすこのへん @@@LINK=薬子の変 薬子の変

薬子の変
くすこのへん

平安初期の朝廷内部の紛争
嵯峨天皇の即位した809年,平城上皇の寵愛をうけた藤原薬子が,兄仲成とはかって,上皇の復位と平城京復都を実現しようとしたが,翌810年発覚して鎮圧された。薬子は自殺,仲成は死して式家は没落し,上皇も出家した。これを契機として藤原冬嗣が蔵人頭となって,北家が台頭した。
楠木氏
くすのきし @@@LINK=楠木氏 楠木氏

楠木氏
くすのきし

鎌倉後期から南北朝期の河内(大阪府)の豪族
1331年楠木正成が後醍醐 (ごだいご) 天皇のもとに一族を率いて参じ,鎌倉幕府軍を破ってをあげた。正成は,'36年湊川の戦いで弟正季 (まさすえ) とともに自刃したが,その子正行 (まさつら) ・正時・正儀 (まさのり) は父の遺志をついで南朝の支柱として活躍。正儀は一時北朝に降ったが,南北朝合一後も南朝復活運動を行った。
楠木正成
くすのきまさしげ @@@LINK=楠木正成 楠木正成

楠木正成
くすのきまさしげ

?〜1336
鎌倉末期・南北朝時代の武将
河内国の土豪。1331年元弘の変で後醍醐 (ごだいご) 天皇の鎌倉幕府征討に参加し,河内の赤坂城・千早城で幕府の大軍と戦い活躍。その功により建武新政府のもとで河内守に任じられ,河内・摂津・和泉3国の守護,記録所の寄人 (よりゆうど) となる。'35年建武新政府にそむいた足利尊氏を九州に敗走させたが,翌年大挙東上した尊氏を摂津国湊川 (みなとがわ) に迎え撃って敗死した(湊川の戦い)。
楠木正行
くすのきまさつら @@@LINK=楠木正行 楠木正行

楠木正行
くすのきまさつら

1326?〜48
南北朝時代の武将
正成の長子。正儀 (まさのり) の兄。父の死後,河内・摂津を中心に一族を率いて南朝軍の将として足利軍に対抗。1348年尊氏の部将高師直 (こうのもろなお) ・師泰兄弟の大軍と河内四条畷 (しじようなわて) で戦い,弟正時とともに戦死した。

楠木正儀
くすのきまさのり @@@LINK=楠木正儀 楠木正儀

楠木正儀
くすのきまさのり

生没年不詳
南北朝時代の武将
正成の3男。正行 (まさつら) の弟。正行の死後,楠木氏一族を率いて,南朝方の武力の中心として河内・和泉で活躍。1361年一時京都を占領して南朝を優勢に導き,'67年両朝の和議をはかって失敗。'69年一時足利氏に降ったが,'82年再び南朝に復帰した。
久隅守景
くすみもりかげ @@@LINK=久隅守景 久隅守景

久隅守景
くすみもりかげ

生没年不詳
江戸初期の画家
狩野探幽に学び,その四天王といわれたが,狩野派の形式的描法にあきたらず,自由な絵を描き,狩野派を破門された。代表作に『夕顔棚納涼図』(国宝)。
久世広周
くぜひろちか @@@LINK=久世広周 久世広周

久世広周
くぜひろちか

1819〜64
幕末の政治家
下総(千葉県)関宿藩主。1851年老中となる。安政の大獄のとき大老井伊直弼 (なおすけ) の水戸尾張・越前3侯に対する処分に反対して退任。桜田門外の変('60)後再任され,安藤信正とともに公武合体策を推進したが,'62年坂下門外の変後失脚。

曲舞
くせまい @@@LINK=曲舞 曲舞

曲舞
くせまい

室町初期におこった舞踊
散文的な詞章を謡いながら舞う。常に折烏帽子に直垂 (ひたたれ) ,稚児曲舞・女房曲舞は立烏帽子に水干 (すいかん) 。楽は鼓 (つづみ) ,舞人は通常1人で,祭礼宴席に招かれる。嘉吉年間(1441〜44)にその一派幸若舞 (こうわかまい) がおこり織田・豊臣・徳川3代の保護をうけ発展した。
下文
くだしぶみ @@@LINK=下文 下文

下文
くだしぶみ

古文書の一形式で,一般に上位者から下位者に与えられた文書
公式令 (くしきりよう) に定められた符にかわって平安時代から現れた。弁官下文が最も早く,院・女御・蔵人 (くろうど) の下文,さらに摂関家政所下文 (まんどころくだしぶみ) ・国司下文・留守所下文など広く用いられた。鎌倉幕府では武家の最も重要な文書とされた。様式は,はじめに「下」の字とその下に宛名を記すのが原則。のち袖判 (そではん) (文書の右端〈袖〉にかかれた花押 (かおう) )を加えた下文も現れた。
管玉
くだたま @@@LINK=管玉 管玉

管玉
くだたま

弥生時代から古墳時代にかけてつくられた管状の玉
装飾具として使用。弥生時代のものは長さ1〜2㎝,径3㎜程度の小型のものが多く,古墳時代に入り大型化し,長さ3㎝,径8㎜ほどのものが多くつくられた。碧玉製のものが多い。
九谷焼
くたにやき @@@LINK=九谷焼 九谷焼

九谷焼
くたにやき

江戸初期に加賀(石川県)九谷で始まった赤絵磁器
九谷に良質の陶土が発見され,大聖寺藩主前田利治の保護奨励で,17世紀中ごろ藩営の製陶が始まった。これが古九谷といわれるもので,有田焼との関係が論議されている。一時廃絶したが,19世紀初めに復興各所に開窯されて盛んとなり,現在に至る。
百済
くだら @@@LINK=百済 百済
ひゃくさい @@@LINK=百済 百済

百済
くだら

古代,朝鮮半島南西部にあった国家(350ころ〜660)
「ひゃくさい」とも読む。4世紀中ごろ馬韓50余国を統一して建国。百済は日本にとって大陸交通の要地にあたり,一方百済は,高句麗・新羅 (しらぎ) と対抗するために,軍事的援助を求めて日本に接近し,その間には密接な関係が保たれた。百済からは博士僧侶・技術者などが日本に渡来し大陸の文物が伝わり,古代文化の形成に著しい影響を与えた。欽明朝(531〜571ころ)の仏教公伝などが有名。660年新羅・唐の連合軍に滅ぼされたのち,多くの人びとが日本に渡来した。

百済
ひゃくさい

くだら
百済観音像
くだらかんのんぞう @@@LINK=百済観音像 百済観音像

百済観音像
くだらかんのんぞう

奈良県法隆寺所蔵の飛鳥時代の仏像
百済渡来の所伝のためこの名があるが,百済観音像の称は近代以降につけられたものである。長身で清楚,天衣のひるがえり,流れるような衣紋の線など崇高な神秘性を漂わせている。
百済河成
くだらのかわなり @@@LINK=百済河成 百済河成

百済河成
くだらのかわなり

782〜853
平安初期の画家
百済系渡来人の子孫。朝廷に武官として仕えたが,画技で有名。備中介・播磨介などを歴任した。『今昔物語集』に飛驒工 (ひだのたくみ) との技くらべなどの逸話があるが,確実な作品は現存しない。

口米
くちまい @@@LINK=口米 口米

口米
くちまい

江戸時代,本年貢に対する付加税
米または銀銭で納入。江戸時代以前に収納物の減損を補う場合に徴収されたもある口籾 (くちもみ) が,江戸時代に一般化したもの。納入比率は年代や地域により多様である。江戸前期は代官に事務費として下付し,1725年以後幕府へ納入させるようになった。
具注暦
ぐちゅうれき @@@LINK=具注暦 具注暦

具注暦
ぐちゅうれき

奈良時代より行われた暦の一種
暦日の下にその日の吉凶・禍福・季節の変動などを注記した暦。平安時代に流行し,貴族ばかりでなく庶民の間にも用いられた。現存最古は746(天平18)年のもの。
区町村会
くちょうそんかい @@@LINK=区町村会 区町村会

区町村会
くちょうそんかい

明治初期の地方民会
1872年ころからの公議思想の興隆に対応して,地方官の民情諮問機関として開設された。区会は多く官選の区長・戸長会議であった。町村会は旧来村寄合を変革するという形で開設されたが,議員公選であった。1880年区町村会法が制定され,自治体として育成された。
口寄せ
くちよせ @@@LINK=口寄せ 口寄せ

口寄せ
くちよせ

民間の巫女 (みこ) が神憑 (かみがか) りのうちに死霊を呼び出し,その心境を口語ること。転じて口寄せの巫女をさす
神託を告げる神口 (かみくち) を含めていう場合もあるが,一般には死者の霊を呼び出して語る仏口 (ほとけぐち) が多い。
屈葬
くっそう @@@LINK=屈葬 屈葬

屈葬
くっそう

遺骸の手足を折り曲げた姿勢の埋葬法
縄文時代の一般的な葬法で,弥生時代にも一部行われた。屈葬の理由には,埋葬穴を掘る労力を節約したとか,胎児の姿勢をとり再生の祈りをこめたとか,死者の悪霊のよみがえるのを避けたとか,自然の休息の姿をとったとかの諸説がある。
工藤平助
くどうへいすけ @@@LINK=工藤平助 工藤平助

工藤平助
くどうへいすけ

1734〜1800
江戸中期の経世家・医者
陸奥仙台藩医。服部南郭 (はつとりなんかく) ・青木昆陽に師事し,儒学・蘭学を修め,長崎に遊学し海外情勢に通じ,林子平らと交わりを持った。医学よりも海防・交易を論じ,1783年『赤蝦夷風説考』を老中田沼意次 (おきつぐ) に献上,ロシアとの交易と蝦夷地開発を説き,田沼の政策に影響を与えた。

宮内省
くないしょう @@@LINK=宮内省 宮内省

宮内省
くないしょう

①律令制下の中央行政官庁。八省の一つ
②明治初年に設置された,皇室関係の中央官庁
太政官の右弁官に属し,宮中の経済・庶務をつかさどった。宮内卿以下四等官があり,1職・4寮・13司を轄した。
1869年太政官制で設置され,'85年内閣制度発足により他の行政官庁より独立。第二次世界大戦後宮内府,ついで宮内庁となった。
グナイスト
Rudolf von Gneist @@@LINK=グナイスト グナイスト

グナイスト
Rudolf von Gneist

1816〜95
ドイツの公法学者
ベルリン大学教授。1882年憲法調査のため渡欧した伊藤博文に憲法理論や憲政の運用について講義し,弟子のモッセを推薦。大日本帝国憲法制定に多大な影響を与えた。

狗奴国
くなこく @@@LINK=狗奴国 狗奴国

狗奴国
くなこく

3世紀,邪馬台 (やまたい) 国の南にあったとされる国
『魏志』倭人伝によると,この国は男子を王とし,邪馬台国に戦いをいどみ,女王卑弥呼 (ひみこ) もこの国との抗争中に死んだという。
国後島
くなしりとう @@@LINK=国後島 国後島

国後島
くなしりとう

千島列島の最西端にある島
1786年には最上徳内らの千島探検の根拠地となった。1811年同島に来航したロシア人ゴローウニンの逮捕契機として日露両国の係争地となったが,日露和親条約で日本領として承認された。第二次世界大戦後,ソ連に占領され,ソ連邦崩壊後はロシア連邦に返還を要求している。
国一揆
くにいっき @@@LINK=国一揆 国一揆

国一揆
くにいっき

南北朝〜室町時代にかけて国人国衆など在地小領主を中心とする一揆
守護大名の支配に対し,国人・国衆と呼ばれる在地の有力名主・地侍が自己の領主権を確保しようとして,の土民を指導し,連合して一国的規模で一揆をおこした。1485年の山城国一揆は特に有名で,守護畠山氏の勢力を排除して8年間自治を行った。政治的色彩の濃い土一揆といえよう。
国替
くにがえ @@@LINK=国替 国替

国替
くにがえ

領国を変換すること
①律令制下,国司に任じられた者がその国を望まないとき,希望によって任国をかえること。
②江戸時代,幕府が大名の領国をかえること。転封 (てんぷう) ともいう。豊臣秀吉のときに始まり,江戸幕府成立当初には大名統制策として,戦功や法制上の理由からことに多く行われた。特に譜代大名に多かった。国替に際し家臣伴するが,農民は移動を禁じられていた。
国木田独歩
くにきだどっぽ @@@LINK=国木田独歩 国木田独歩

国木田独歩
くにきだどっぽ

1871〜1908
明治時代の小説家・詩人
本名は哲夫。千葉県の生まれ。東京専門学校(現早稲田大学)在学中洗礼をうけた。初め詩や詩的散文『武蔵野』,また『春の鳥』『牛肉と馬鈴薯』のようなロマン主義的作品を書いた。のち自然主義に近づき『窮死』『竹の木戸』などを発表。晩年,世相批判の傾向を示した。

恭仁京
くにきょう @@@LINK=恭仁京 恭仁京

恭仁京
くにきょう

奈良時代,聖武天皇の740〜744年の間の都
現在の京都府相楽 (そうらく) 郡加茂町付近で,東西700〜800m ,南北1㎞余。740年藤原広嗣の乱後,橘諸兄 (もろえ) のすすめで遷都したが,ばく大な費用を要し,未完成のまま744年難波京に遷都。
国衆
くにしゅう @@@LINK=国衆 国衆

国衆
くにしゅう

国人 (こくじん)
国中公麻呂
くになかのきみまろ @@@LINK=国中公麻呂 国中公麻呂

国中公麻呂
くになかのきみまろ

?〜774
奈良時代の鋳工
造東大寺司次官。百済 (くだら) の渡来人の子孫。金光明寺(のちの東大寺三月堂)・東大寺大仏・法華寺阿弥陀浄土院などの造仏にあたった。
国造
くにのみやつこ @@@LINK=国造 国造

国造
くにのみやつこ

大和政権の地方官
地方有力豪族が任命され,1郡ほどの地域を統治した。姓 (かばね) は直 (あたい) ・臣・君など。大化の改新では中央派遣の国司のもとで,郡司となる者が多かった。
国博士
くにはかせ @@@LINK=国博士 国博士

国博士
くにはかせ

①645年大化の改新の際の政治顧問
律令制下,諸国の国学に置かれた教官
留学先の唐から帰った高向玄理 (たかむこのげんり) ・僧旻 (みん) が任命され,改新政治の政策立案した。
1国1名で,郡司の子弟を教育した。
国役
くにやく @@@LINK=国役 国役

国役
くにやく

貢租の一種
「こくやく」とも読む。平安末期・鎌倉時代には国司が国内の公領・私領に課した夫役をさす。室町時代には守護が国内に賦課した諸役をいう。江戸時代には国役金・国役銀といって,天領・大名領・旗本領の中のある地域に限って幕府が課した臨時の賦課をさす。また江戸の職人に課せられた租税の名称をもさし労役から銀納にかわった。
国譲り神話
くにゆずりしんわ @@@LINK=国譲り神話 国譲り神話

国譲り神話
くにゆずりしんわ

天孫降臨に先だち,大国主命が天照大神 (あまてらすおおみかみ) に国を譲ったという出雲系神話
高天原 (たかまがはら) 系の神々が外交折衝によって大国主命らの出雲の神々の支配権を接収したいきさつが記紀にみえるが,国土統一の道程の反映であり,同時に高天原系を優越させる政治的意図がうかがえる。
公奴婢
くぬひ @@@LINK=公奴婢 公奴婢

公奴婢
くぬひ

律令制における官有賤民
官奴婢 (かんぬひ) ともいわれ,個人所有の私奴婢に対する。大化の改新以前の大和政権所有奴婢が,引き続き律令制の諸官庁に属して官田耕作雑役に従事した。を形成できず良民との結婚は禁止され,売買の対象となった。
久能山
くのうざん @@@LINK=久能山 久能山

久能山
くのうざん

静岡市南部,有度 (うど) 山塊南端の山。徳川家康を祭る東照宮が山頂にある
古くは武田信玄により久能城が築かれたこともある。1616年家康が死ぬと,遺命により久能山上に葬り,翌年日光に改葬。その後廟所 (びようしよ) として東照宮が建てられ,諸大名尊崇を集めた。
久能寺経
くのうじきょう @@@LINK=久能寺経 久能寺経

久能寺経
くのうじきょう

平安後期の装飾経の一つ
30巻。浄土信仰によるもので,1141年鳥羽上皇出家に際し近親の者らが京都安楽寺に納めた。のち静岡久能寺に移されこの名がある。装飾を施した写経は国中に広まった。
久原房之助
くはらふさのすけ @@@LINK=久原房之助 久原房之助

久原房之助
くはらふさのすけ

1869〜1965
明治〜昭和期の実業家・政治家
山口県の生まれ。慶大卒。久原鉱業・日立製作所などを経営。1927年義兄鮎川義介に事業を託して政界に入り,立憲政友会に所属,田中義一内閣の逓信大臣になる。'39年政友会最後の総裁に就任。'40年政党解消を主唱して日本のファシズムを推進した。

忽必烈
フビライ
Khubilai @@@LINK=忽必烈 忽必烈
クビライ @@@LINK=忽必烈 忽必烈

忽必烈
フビライ
Khubilai

1215〜94
モンゴル帝国第5代の汗(在位1260〜94)で,元の初代皇帝(在位1271〜94)
世祖。チンギス汗の孫。1271年大都(北京)に遷都し,国号を元と称した。高麗 (こうらい) を属国とし,'79年南宋を滅ぼす。日本にも入貢を求め,'74年と'81年に遠征軍を送った(元寇)が失敗。またアンナンヴェトナム)・ジャワにも遠征した。

忽必烈
クビライ

フビライ
口分田
くぶんでん @@@LINK=口分田 口分田

口分田
くぶんでん

班田収授法により親王・貴族以下各人に支給され,終身使用・用益を許された田
人(=口)ごとに分けられる田の意。律令制では6歳以上の良民・官戸・公奴婢の男子には2段(23.4アール),女子にはその3分の2,家人・私奴婢は良民男女の3分の1が支給された。口分田は輸租田(官戸・公奴婢の口分田のみは不輸租)で6年ごとに班給され,死亡すると次の班給のとき収公された。公有が原則で売買・質入れなどは認められなかったが,班田制の崩壊とともに平安時代にはしだいに私有化され,名田 (みようでん) が成立する一要因となった。
公方
くぼう @@@LINK=公方 公方

公方
くぼう

「公家の方」の略で,もとは朝廷,武家時代には将軍をさした
「おおやけかた」とも読む。鎌倉末期ごろから将軍の尊称となる。室町時代には将軍のほか,足利基氏の子孫である鎌倉府の主も将軍家の分かれであるため公方と称した。
熊谷直実
くまがいなおざね @@@LINK=熊谷直実 熊谷直実

熊谷直実
くまがいなおざね

1141?〜1208
鎌倉初期の武将
平貞盛の子孫で,武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)に住む。1180年,石橋山の戦いに源頼朝 (よりとも) を攻めたが,のち頼朝に従い,一の谷の戦いで平敦盛 (あつもり) を討ちとるなど,平氏征討に功をたてた。'92年所領争いに敗れて出家し,法然の門に入り蓮生と名のった。

熊沢蕃山
くまざわばんざん @@@LINK=熊沢蕃山 熊沢蕃山

熊沢蕃山
くまざわばんざん

1619〜91
江戸前期の陽明学派の儒学者
字 (あざな) は了介 (りようかい) 。京都の人。中江藤樹に学んだ。岡山藩主池田光政に仕えて,治山・治水・明暦の飢饉対策に功績をあげたが,39歳で職を辞し,各地で講学・講述に従った。『大学或問 (わくもん) 』などの政治批判により幕府ににらまれ,下総(茨城県)古河 (こが) に幽閉され,そこで病死した。

熊襲
くまそ @@@LINK=熊襲 熊襲

熊襲
くまそ

古代,九州中南部に住んでいた種族
南方民族説もあるが,人種・民族の系統は不明。記紀には日本武 (やまとたけるのみこと) や仲哀 (ちゆうあい) 天皇の熊襲征討の説話がみえる。隼人 (はやと) と同種族とも考えられるが不明。
熊野三社
くまのさんしゃ @@@LINK=熊野三社 熊野三社

熊野三社
くまのさんしゃ

和歌山県熊野地方にある熊野本宮大社本宮),熊野速玉 (くまのはやたま) 大社新宮),熊野那智大社那智)3社の総称
熊野三山ともいう。平安中期にはこの地を観音浄土の地とし,平安後期には浄土教の普及によって熊野を阿弥陀浄土と考え,白河・鳥羽上皇など多くの人びとが熊野詣をした。以後院政時代から中世を通じ,皇室・貴族をはじめ武士・庶民に普及,特に山伏の発生に伴って熊野信仰は全国に及び,各地に熊野権現の分祠をみるに至った。
熊野詣
くまのもうで @@@LINK=熊野詣 熊野詣

熊野詣
くまのもうで

和歌山県熊野地方にある熊野三社への参詣
平安中期から上皇を中心とする皇室・貴族が盛んに参詣したが,鎌倉時代以後,武士や庶民の参詣が多くなった。その盛行御師 (おし) ・先達 (せんだつ) の活動に負うところが大きい。
熊本城
くまもとじょう @@@LINK=熊本城 熊本城

熊本城
くまもとじょう

熊本市にある平山城で,1607年に加藤清正が築城
銀杏 (ぎんなん) 城ともいう。応仁・文明年間(1467〜87),菊池一族の出田 (いずた) 氏が築いた千葉 (せんば) 城に始まる。享禄(1528〜32)のころ,鹿子木氏が隈本城を築き,改築・拡張を行い,清正のときに現在の規模となり熊本城と改称した。加藤氏の改易ののち細川氏の居城となった。廃藩置県後の1871年,鎮西鎮台(のち熊本鎮台)が置かれ,九州一円の軍管とされた。神風連の乱鎮圧に功あり,西南戦争には城の大半を焼失していたにもかかわらず,谷干城 (たにたてき) 以下の政府軍が50日余籠城し死守した。日本三大名城の一つ。
熊本洋学校
くまもとようがっこう @@@LINK=熊本洋学校 熊本洋学校

熊本洋学校
くまもとようがっこう

1871(明治4)年,熊本藩が設置した洋式の藩士教育機関
横井小楠に指導された実学党が熊本藩政を握ると,アメリカ軍人ジェーンズを招き,薩摩長州に対抗できる人材養成目標に教育を行った。徳富蘇峰・海老名弾正 (えびなだんじよう) らを育てたが,'76年廃校。生徒の一部は同志社に移った。
組頭
くみがしら @@@LINK=組頭 組頭

組頭
くみがしら

江戸時代の村役人の一つ
年寄・長 (おさ) 百姓などともいう。地方三役の一つで,名主(庄屋)の補佐役。1村に数名おり,村内の本百姓の中から選ばれた。
久米歌・久米舞
くめうた・くめまい @@@LINK=久米歌・久米舞 久米歌・久米舞

久米歌・久米舞
くめうた・くめまい

古代宮廷儀式に演奏された歌舞
天皇に兵士として直属した久米部が歌舞したことに由来する。『古事記』『日本書紀』に所載。歌の内容は狩猟農業の生活に材をとったものや,軍歌らしい面目をもったものなどがある。
久米邦武
くめくにたけ @@@LINK=久米邦武 久米邦武

久米邦武
くめくにたけ

1839〜1931
明治・大正時代の歴史学者
肥前藩出身。1871年岩倉遣外使節に随行し,'78年に「特命全権大使米欧回覧実記」刊行。修史館に転じ「大日本編年史」編纂に従事。のち,東大教授。'91年論文「神道は祭天の古俗」の筆禍事件で東大辞職。

久米桂一郎
くめけいいちろう @@@LINK=久米桂一郎 久米桂一郎

久米桂一郎
くめけいいちろう

1866〜1934
明治〜昭和初期の洋画家
邦武の長男。肥前(佐賀県)の生まれ。パリに留学してラファエル=コランに師事。帰国後黒田清輝とともに印象派を紹介し,明治絵画史に一時期を画し,白馬会をおこした。のち東京美術学校教授。代表作に『裸婦』『鴨川の景』など。
久米正雄
くめまさお @@@LINK=久米正雄 久米正雄

久米正雄
くめまさお

1891〜1952
大正・昭和期の小説家
長野県の生まれ。東大英文科卒。在学中に芥川龍之介・菊池寛らと第3・4次『新思潮』を発刊。その後,夏目漱石に師事した。才気にあふれた新現実派(新思潮派)の作風を示したが,のち通俗小説に転じた。代表作に『破船』『学生時代』など。

雲形肘木
くもがたひじき @@@LINK=雲形肘木 雲形肘木

雲形肘木
くもがたひじき

雲形輪郭をした肘木
法隆寺建築にみえ,美しい渦文の彫刻を施した肘木をさす。雲斗 (くもと) とともに日本独自のもので,法隆寺建築の特徴とされる。
雲助
くもすけ @@@LINK=雲助 雲助

雲助
くもすけ

江戸中期以後の宿場人足の称
助郷役が代銭納になると,宿場人足が日雇いとなり,無宿・無頼の徒が多く採用されたが,悪事をはたらく者もいて,旅行者から嫌われた。
雲斗
くもと @@@LINK=雲斗 雲斗

雲斗
くもと

雲形の彫刻を施した斗 (ます)
法隆寺に用いられ,その特徴とされる。
公文
くもん @@@LINK=公文 公文

公文
くもん

①律令制下の公的な文書
②中世,荘園・国衙 (こくが) 領における荘官の一つ
朝廷に対し国司の出す大計帳・正税帳・朝集帳・調庸帳を特に四度公文 (よどのくもん) という。これが転じて平安・鎌倉時代において,貴族の家で文書を扱う役人をさす言葉としても使われた。
本来,現地にいて必要な文書を保管・作成する者をいうが,検注・年貢徴収なども行った。したがって預所 (あずかりどころ) の代官的な性格と,一方では下司 (げし) と同じく名主的・武士的性格をもつ。
公文所
くもんじょ @@@LINK=公文所 公文所

公文所
くもんじょ

鎌倉幕府の政務機関
平安時代には国衙 (こくが) の公文書を処理する役所をさしたが,1184年源頼朝 (よりとも) により幕府の機関として設置された。一般政務の処理を行い,別当(長官)に大江広元を任命。のち政所 (まんどころ) と改められると,その一部局となり文書などを取り扱った。
蔵入地
くらいりち @@@LINK=蔵入地 蔵入地

蔵入地
くらいりち

江戸時代,将軍・大名の直轄地
御蔵入地・御蔵入領ともいう。将軍・大名の知行地である領地のうち,家臣に知行地として分与した給地を除いた部分をいう。
クラーク
William Smith Clark @@@LINK=クラーク クラーク

クラーク
William Smith Clark

1826〜86
アメリカの科学者・教育家
マサチューセッツ州立農科大学学長時代に開拓使の招きで1876(明治9)年に来日。札幌農学校教頭として約8か月の在職中,キリスト教精神とアメリカ式教育により大きな成果をあげた。弟子に内村鑑三・新渡戸稲造らがいる。別離に際して残した,"Boys,be ambitious!"(少年よ大志を抱け)の言葉は有名。

倉田百三
くらたひゃくぞう @@@LINK=倉田百三 倉田百三

倉田百三
くらたひゃくぞう

1891〜1943
大正・昭和期の劇作家・評論家
広島県の生まれ。一高在学中西田幾多郎 (きたろう) の哲学に傾倒,以後病の中で思索生活を続けた。戯曲『出家とその弟子』,評論集『愛と認識との出発』は青年層にながく影響を与えた。

鞍作鳥
くらつくりのとり @@@LINK=鞍作鳥 鞍作鳥

鞍作鳥
くらつくりのとり

生没年不詳
7世紀の仏像彫刻家
止利仏師ともいう。中国からの渡来人司馬達等 (しばたつと) の孫。北魏様式の仏像にすぐれ,飛鳥寺本尊(飛鳥大仏)をつくった。法隆寺金堂の『釈迦三尊像』は,彼の作といわれる。
蔵米
くらまい @@@LINK=蔵米 蔵米

蔵米
くらまい

江戸時代,幕府の御蔵や大名の蔵屋敷に運ばれ売りさばかれた貢納米
その一部は家臣の俸給として支給され,切米とも呼ばれた。またほかの国産物をあわせて蔵物という。
蔵米取
くらまいとり @@@LINK=蔵米取 蔵米取

蔵米取
くらまいとり

江戸時代の俸禄形態の一つ
切米取ともいい,知行取に対する。
蔵前
くらまえ @@@LINK=蔵前 蔵前

蔵前
くらまえ

東京都台東区南東部,浅草駒形〜柳橋間の地名
江戸時代,隅田川右岸のこの地に幕府の米蔵(御蔵)が並んだので,その周辺をこう呼ぶ。江戸後期の豪商を代表する札差 (ふださし) の店が並んだので有名。
倉本
くらもと @@@LINK=倉本 倉本

倉本
くらもと

室町時代の金融業者
元来は荘園内の収穫物の倉庫の管理者で,多くは寺院や富裕な商人がたずさわった。したがって高利貸を営み土倉を経営する者もあり,鎌倉時代から南北朝時代にかけての借上 (かしあげ) の系列とみてよい。
蔵元
くらもと @@@LINK=蔵元 蔵元

蔵元
くらもと

江戸時代,蔵屋敷の蔵物の保管・出納 (すいとう) を扱った商人
初めは武士である蔵役人が分掌したが,17世紀後期からは豪商が担当し,掛屋・用達を兼ねる者が多く,しだいに蔵屋敷の実権握り,大名財政の死命を制するようになった。
蔵物
くらもの @@@LINK=蔵物 蔵物

蔵物
くらもの

江戸時代,蔵屋敷に収納された諸品の総称
その中心は米であるが,砂糖・紙・畳表などの特産物もあった。蔵元を通じて入札によって売却され,流通網にのった。
倉役
くらやく @@@LINK=倉役 倉役

倉役
くらやく

土倉役
蔵役人
くらやくにん @@@LINK=蔵役人 蔵役人

蔵役人
くらやくにん

江戸時代蔵屋敷において,から派遣された役人
蔵屋敷の四職として,留守居・名代蔵元掛屋があったが,前二者は武士で,これを蔵役人と称した。後二者は立入町人と称し町人があたり,分にとりたてられた。
蔵屋敷
くらやしき @@@LINK=蔵屋敷 蔵屋敷

蔵屋敷
くらやしき

江戸時代,幕府・諸藩が領地からの年貢米や特産物を売りさばくために設けた倉庫兼取引所
大坂・江戸などに設けられたが,特に大坂に集中。構成員は蔵役人・蔵元・掛屋その他からなり,蔵元が領地からの収納・保管,掛屋が商人への売却・代金保管にあたった。掛屋は御用商人が任じられ蔵元を兼ねることが多くなった。
蔵宿
くらやど @@@LINK=蔵宿 蔵宿

蔵宿
くらやど

②江戸前期から加賀藩で藩内に設けた札差に似た制
③江戸時代,大坂の納宿 (おさめやど) の別称
①江戸時代,江戸浅草の札差 (ふださし) の別称。
藩内数か所に知行米を売りさばく町蔵をつくらせ家臣便宜をはかった。その町蔵の管理者を蔵宿という。
納宿とは大坂へ年貢米を運んできた農民が,幕府の御蔵へ納入するまで泊った旅宿をいったが,のち陸揚げ・納入までを請け負うようになった。
倉山田石川麻呂
くらやまだいしかわまろ @@@LINK=倉山田石川麻呂 倉山田石川麻呂

倉山田石川麻呂
くらやまだいしかわまろ

蘇我倉山田石川麻呂
グラント
Ulysses Simpson Grant @@@LINK=グラント グラント

グラント
Ulysses Simpson Grant

1822〜85
アメリカの軍人・政治家。18代大統領(在職1869〜77)
オハイオ州の生まれ。南北戦争のときの北軍総司令官。1879年世界旅行の途中,日本にたちより,琉球帰属問題について日・清両国間に仲介をとろうとした。東アジアが列強により植民地化されようとしている危機を説き,日・清両国が同盟を結ぶことさえ勧告した。

倶利伽羅峠の戦い
くりからとうげのたたかい @@@LINK=倶利伽羅峠の戦い 倶利伽羅峠の戦い

倶利伽羅峠の戦い
くりからとうげのたたかい

砺波 (となみ) 山の戦い
栗橋関
くりはしのせき @@@LINK=栗橋関 栗橋関

栗橋関
くりはしのせき

江戸時代,武蔵(埼玉県)にあった奥州道中の関所
利根川沿岸にあり,現在の埼玉県北葛飾郡栗橋町。江戸周辺の重要な関所の一つ。
厨川白村
くりやがわはくそん @@@LINK=厨川白村 厨川白村

厨川白村
くりやがわはくそん

1880〜1923
大正時代の英文学者・評論家
本名は辰夫。京都の生まれ。東大卒。アメリカ留学後,京大教授となる。評論家としても活躍。その著書『近代文学十講』『近代の恋愛観』などは,当時の文壇や青年層に大きな影響を与えた。

栗山潜鋒
くりやませんぽう @@@LINK=栗山潜鋒 栗山潜鋒

栗山潜鋒
くりやませんぽう

1671〜1706
江戸中期の朱子学者・水戸藩士
山城(京都府)淀に生まれ,山崎闇斎の門人桑名松雲に学んだ。1692年水戸藩主徳川光圀 (みつくに) に招かれ,三宅観瀾 (みやけかんらん) ・安積澹泊 (あさかたんぱく) らと『大日本史』の編纂に従事し,彰考館総裁となった。主著に『保建大記 (ほうけんたいき) 』。

来栖三郎
くるすさぶろう @@@LINK=来栖三郎 来栖三郎

来栖三郎
くるすさぶろう

1886〜1954
昭和期の外交官
神奈川県の生まれ。東京高商(一橋大学)卒業後,外務省に入る。駐独大使として1940年日独伊三国同盟調印。'41年11月には東条英機内閣の東郷外相により日米交渉を進めていた野村吉三郎大使の補佐に当たる特派大使に任ぜられて渡米し,開戦まで交渉を継続させた。
久留米
くるめ @@@LINK=久留米 久留米

久留米
くるめ

福岡県南西部,佐賀県境の筑後川沿岸にある都市
江戸中期以来,久留米絣 (がすり) の特産地。有馬氏21万石の城下町で,筑紫平野の米・菜種の集散地でもあった。1889年市制を施行
久留米絣
くるめがすり @@@LINK=久留米絣 久留米絣

久留米絣
くるめがすり

福岡県久留米地方で産する代表的木綿絣
江戸後期からの特産綿織物の一つで,18世紀末,久留米の井上でんが発明細密絣模様とじょうぶな品質で有名。武士の副業として生産され,明治時代以後改良され発展した。
呉織
くれはとり @@@LINK=呉織 呉織

呉織
くれはとり

呉の国から渡来した機織女工。
黒岩涙香
くろいわるいこう @@@LINK=黒岩涙香 黒岩涙香

黒岩涙香
くろいわるいこう

1862〜1920
明治・大正時代の新聞記者・翻訳家
本名は周六。土佐(高知県)の生まれ。翻訳小説『巌窟王』『噫 (ああ) 無情』で人気を博し,1892年『万朝報』を創刊。日露戦争直前に非戦論から主戦論に転じ,のち護憲運動やシーメンス事件に活躍した。

蔵人
くろうど @@@LINK=蔵人 蔵人

蔵人
くろうど

平安初期に設置された令外官 (りようげのかん) の一つ
本来皇室の用具や文書を預かる役人。810年薬子の変に際し蔵人頭が置かれ重要な官職となった。天皇に近侍し,機密文書の保管詔勅・奏上の取り次ぎ,宮中の諸儀式などを行う。平安後期には,院・摂関家・大臣家にも置かれた。
蔵人所
くろうどどころ @@@LINK=蔵人所 蔵人所

蔵人所
くろうどどころ

平安初期に設置された令外官の一つ
810年薬子の変を機に嵯峨天皇が朝廷の機密保持機関として創設し,藤原冬嗣・巨勢野足 (こせののたり) を蔵人頭に任じたことに始まる。天皇直属の役所として,宮中の諸行事を取り締まった。職員は別当・蔵人頭・五位蔵人・六位蔵人・雑色 (ぞうしき) ・小舎人 (こどねり) などからなり,これにより少納言・侍従の職務は実質を失った。江戸末期まで存続。
蔵人頭
くろうどのとう @@@LINK=蔵人頭 蔵人頭

蔵人頭
くろうどのとう

蔵人所の長官
藤原冬嗣巨勢野足 (こせののたり) が初任。定員は2人で,弁官と近衛中将があてられ,それぞれ頭弁・頭中将と呼ばれた。のち,その上位に別当が置かれたが,常置の職ではない。
黒住教
くろずみきょう @@@LINK=黒住教 黒住教

黒住教
くろずみきょう

江戸末期におこった神道系宗教で,のち教派神道の一派
1814年岡山近在の神官黒住宗忠 (むねただ) (1780〜1850)が開教。天照大神 (あまてらすおおみかみ) を宇宙創造の神とし,積極的に天皇制を支持したので,'76年明治政府が公認し,教派神道の一つとされた。宗教生活の内容を平易に説いたため,明治維新後関西地方に広がった。
黒田清隆
くろだきよたか @@@LINK=黒田清隆 黒田清隆

黒田清隆
くろだきよたか

1840〜1900
明治時代の政治家
薩摩藩出身。1870年開拓使次官,のち長官として北海道の経営に努力し,樺太 (からふと) の放棄を主張,樺太・千島交換条約の締結を推進させた。'76年日朝修好条規を締結。'81年開拓使官有物払下げ事件で世論の攻撃をうけ一時失脚したが,'88年内閣を組織し,大隈重信を外相とし,後藤象二郎逓相として入閣させ大同団結運動を分裂させた。翌'89年大日本帝国憲法発布に際し超然主義を唱えた。その後元老となり,第2次伊藤博文内閣の逓相,枢密院議長などを歴任した。

黒田如水
くろだじょすい @@@LINK=黒田如水 黒田如水

黒田如水
くろだじょすい

黒田孝高 (よしたか)
黒田清輝
くろだせいき @@@LINK=黒田清輝 黒田清輝

黒田清輝
くろだせいき

1866〜1924
明治・大正時代の洋画家
薩摩(鹿児島県)の生まれ。フランスに遊学して初め法律を志したが,ラファエル=コランに師事して絵を学ぶ。1893年帰国し,'96年東京美術学校で洋画を教授。同年明治美術会を脱退して白馬会を創設し,印象派(外光派)を日本に紹介。裸体モデルを日本で初めて使用するなど,日本近代洋画を確立した。官展派の重鎮として活躍し,のち帝国美術院長・貴族院議員を歴任。代表作に『湖畔』『読書』『花野』など。

黒田騒動
くろだそうどう @@@LINK=黒田騒動 黒田騒動

黒田騒動
くろだそうどう

江戸初期,筑前福岡藩におこった御家騒動
2代藩主黒田忠之 (ただゆき) (長政の子)の専制に対し,家老栗山大膳が,失政を理由とする御家取りつぶしをおそれ,苦肉の策として,忠之が幕府への謀反を計画していると直訴 (じきそ) した事件。その結果,忠之に反意がなかったことが判明して除封を免れ,栗山は南部藩にお預けとなった。
黒田長政
くろだながまさ @@@LINK=黒田長政 黒田長政

黒田長政
くろだながまさ

1568〜1623
安土桃山〜江戸時代初期の武将
孝高 (よしたか) の子。豊臣秀吉に仕え朝鮮出兵で活躍。関ケ原の戦い(1600)で東軍に属し,小早川秀秋の内応を画策戦後,豊前(大分県)中津12万石から筑前福岡52万石に封じられ,福岡藩の祖となった。

黒田孝高
くろだよしたか @@@LINK=黒田孝高 黒田孝高

黒田孝高
くろだよしたか

1546〜1604
安土桃山時代の武将
通称官兵衛,号は如水 (じよすい) 。長政の父。播磨(兵庫県)の人。織田信長に協力,のち豊臣秀吉に仕え豊前(大分県)中津12万石を領した。兵略にすぐれ隠居後もなお天下をとる気概をもった。またキリシタン大名としても有名で,洗礼名をドン=シメオンといった。

黒船
くろふね @@@LINK=黒船 黒船

黒船
くろふね

欧米の艦船の呼称
安土桃山時代,南蛮船は船体を黒く塗っていたので黒船といわれたが,おもに幕末に来航した欧米の軍艦をいう。幕末ペリー来航後,諸外国が開国を強要するようになると,黒船は欧米資本主義の強大な圧力の象徴としての意味をもつようになった。
黒本
くろほん @@@LINK=黒本 黒本

黒本
くろほん

江戸中期の草双紙の一つ
表紙が黒色。内容は青本とほぼ同じで,浄瑠璃・歌舞伎に題材を求め,軍記物・仇討物が主。青本が若者向きであったのに対し,成人向きである。
桑名
くわな @@@LINK=桑名 桑名

桑名
くわな

三重県北東部,伊勢湾に臨む港町
木曽川の河口にあって古代から海陸の交通要地。陸上では鈴鹿 (すずか) を越して京都に続き,海上東国への航路が開く。近世桑名藩の城下町,東海道七里の宿駅として繁栄した。1937年市制を施行
桑名藩
くわなはん @@@LINK=桑名藩 桑名藩

桑名藩
くわなはん

江戸時代,三重県北部を領有した藩
関ケ原の戦い後,本多忠勝が15万石で就封。以後久松・奥平,再び久松氏が入封し,明治維新に至る。幕末,藩主久松定敬は京都所司代となり,戊辰 (ぼしん) 戦争では佐幕諸藩の中核として会津藩とともに活躍。官軍に抗し6万石に減封された。
軍記物語
ぐんきものがたり @@@LINK=軍記物語 軍記物語

軍記物語
ぐんきものがたり

中世に流行した,戦乱を中心素材とする戦記文学
平安朝の漢文体の『将門記』『陸奥話記』に始まり,鎌倉期の『保元物語』『平治物語』『平家物語』『源平盛衰記』,室町期の『太平記』『義経記』『曽我物語』などが代表的作品である。明快・動的な和漢混交文で,栄枯盛衰の激しかった中世の世態・人情をよく写しとり,広く国民の間に愛好された。多くの作品が,作者・成立年代不詳であることは多数の人びとの共同製作と考えられる。特に『平家物語』は平曲として語られ広く流布した。江戸時代の文学へ大きな影響を与えた。
郡区町村編制法
ぐんくちょうそんへんせいほう @@@LINK=郡区町村編制法 郡区町村編制法

郡区町村編制法
ぐんくちょうそんへんせいほう

1878(明治11)年に制定された地方行政制度に関する法規。三新法の一つ
従来の画一的な大・小区制を廃止して町村を自治体として復活し,行政区画としての郡を置き,別に東京・京都・大阪に区を設置し,府知事県令—郡・区長—戸長(町村長)という職制を確立した。'88年市制・町村制,'90年府県制・郡制制定により廃止。
軍国主義
ぐんこくしゅぎ @@@LINK=軍国主義 軍国主義

軍国主義
ぐんこくしゅぎ

国の政治・経済・文化全般を軍事に従属させ,戦争または戦争準備のための制度・政策を最高位に置くという思想・体制
日本の場合,明治時代以来,天皇制と不可分に結合して発展。昭和期に入りその傾向は特に著しくなり,ファシズムの確立をみた。第二次世界大戦後,ポツダム宣言に基づく占領政策は,日本軍国主義の除去をめざした。
郡司
ぐんじ @@@LINK=郡司 郡司

郡司
ぐんじ

律令制下,中央から派遣された国司のもとで郡を治める地方官
大領・少領・主政・主帳の四等官よりなり,大化以前の国造 (くにのみやつこ) など地方豪族から任命された。終身世襲の官で,平安時代には,地方の有力者として時に国司に対抗した。
群集墳
ぐんしゅうふん @@@LINK=群集墳 群集墳

群集墳
ぐんしゅうふん

古墳時代後期に出現した小規模な古墳の群集
ふつう「百塚」または「千塚」などと呼ばれ,6世紀後半に出現した。5世紀以来の農業生産力の発展をもとにした家父長制的家族の出現によるものと考えられる。代表例に岩橋千塚(和歌山県)・新沢千塚(奈良県)・吉見百穴(埼玉県)など。
群書類従
ぐんしょるいじゅう @@@LINK=群書類従 群書類従

群書類従
ぐんしょるいじゅう

江戸後期の和学国学)者塙保己一 (はなわほきいち) が編纂した,日本の古書を分類収録した史料叢書
正編は530巻,666冊,1270種。続編1150巻,1185冊,2103種の文献を収め,神祇・帝王・補任・系譜をはじめ貴重な国史・国文史料を25部門に分類。古代から江戸初期に及ぶ広範な史料を,幕府の助成により設立された和学講談所で編集・校訂し,1819年正編刊行。続編は保己一没後の'22年完成。わが国最大の史料叢書。
軍人勅諭
ぐんじんちょくゆ @@@LINK=軍人勅諭 軍人勅諭

軍人勅諭
ぐんじんちょくゆ

1882年,明治天皇が軍人に対して下した訓戒の勅諭
竹橋事件にみられる軍紀のゆるみを正し,自由民権運動の高まりの中で軍人の縦社会の強化をはかる目的により,山県有朋の命で,西周 (にしあまね) らが起草。内容は軍人の守るべき徳目として忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五つをあげ,特に軍人が政治に関与しないように明示している。第二次世界大戦の敗戦まで軍人精神の根本となった。
郡制
ぐんせい @@@LINK=郡制 郡制

郡制
ぐんせい

明治〜大正時代にかけての地方行政制度
古代の郡の名称江戸幕府の復旧策によって残存していたが,1878(明治11)年郡区町村編制法の成立により行政単位として政府の行政浸透の機能を果たした。'90年郡制公布により地方自治体となったが,課税権能をもたず不完全で,単なる行政区画として存続した。
郡代
ぐんだい @@@LINK=郡代 郡代

郡代
ぐんだい

江戸幕府の職名
勘定奉行に所属し,代官と同じく天領の徴税訴訟・民政にあたった。一般に10万石以上の管轄区域に設置され,関東郡代・美濃郡代・西国郡代・飛驒郡代などが有名。
君台観左右帳記
くんだいかんそうちょうき @@@LINK=君台観左右帳記 君台観左右帳記

君台観左右帳記
くんだいかんそうちょうき

室町時代,美術・工芸の秘伝書
諸種の異本がある。能阿弥がほぼととのえたものをの相阿弥が大成したと伝えられている。宋元画家の評価,書院の飾り方式および諸道具の説明の3部からなる。
軍団
ぐんだん @@@LINK=軍団 軍団

軍団
ぐんだん

律令制下,諸国に設置された軍隊
唐の府兵制を模したもので,諸国の正丁 (せいてい) の3分の1を兵士とし,農閑期に交替で10日ずつ勤務させた。1000人以上,600人以上,500人以下を大・中・小団とし国司の管下に置き,その一部は衛士・防人 (さきもり) として,京・九州に送られた。792年奥羽・九州を除き廃止され,健児 (こんでい) 制に改められた。
軍閥
ぐんばつ @@@LINK=軍閥 軍閥

軍閥
ぐんばつ

軍事力を背景として政治的支配力や特権を掌握した軍部勢力
第一次世界大戦までは,「薩摩の海軍,長州の陸軍」が軍閥をつくり統帥 (とうすい) 権の独立と軍部大臣現役武官制によって内閣の死命を制するような政治力をもった。第一次世界大戦後は大正デモクラシーのもと軍閥批判の声が高まり軍閥勢力は後退した。昭和期に入ると,陸軍は皇道派統制派という派閥を形成。皇道派は二・二六事件(1936)後勢力を失い,以後統制派が独占資本・官僚と結びついて軍閥独裁を実現し侵略戦争の拡大をはかったが,敗戦によって消滅した。
郡奉行
こおりぶぎょう @@@LINK=郡奉行 郡奉行
ぐんぶぎょう @@@LINK=郡奉行 郡奉行

郡奉行
こおりぶぎょう

江戸時代,諸藩において農村の行政にあたった役職
百姓の支配,徴税・訴訟などの事務をつかさどった。家老に属し,配下に代官・手代などがおり,城下にある役所で執務した。

郡奉行
ぐんぶぎょう

こおりぶぎょう
軍部大臣現役武官制
ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい @@@LINK=軍部大臣現役武官制 軍部大臣現役武官制

軍部大臣現役武官制
ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい

明治〜昭和期,陸・海軍大臣を現役大・中将に限り任命する制度
1900年山県有朋内閣によって政党勢力を抑えるため法制化された。軍部はこれを利用し軍部大臣の入閣を拒否して,1912年西園寺公望 (きんもち) 内閣を倒したが,第1次護憲運動反撃にあい,'13年山本権兵衛内閣のとき予備役・後備役も認めた。'36年二・二六事件後広田弘毅内閣のとき現役制が復活し,軍閥の専制支配体制が確立した。
群馬事件
ぐんまじけん @@@LINK=群馬事件 群馬事件

群馬事件
ぐんまじけん

1884(明治17)年,群馬県でおこった自由民権運動の激化事件
群馬県自由党急進派は政府の弾圧,自由党幹部の政府との妥協に憤激して,1884年5月,鉄道開通式のため高崎駅に集まる政府高官の襲撃を計画したが,政府が式を延期したため中止。ついで妙義山に挙兵し,高利貸・警察分署などを襲ったが失敗に終わった。
軍務官
ぐんむかん @@@LINK=軍務官 軍務官

軍務官
ぐんむかん

明治初期の軍政機関。七官の一つ
1868年政体書により設置。陸・海軍2局と築造・兵船・兵器・馬政の4司からなり,軍政を担当した。'69年兵部省と改称
軍役
ぐんやく @@@LINK=軍役 軍役

軍役
ぐんやく

武家社会において,家臣が主君に対して負う軍事上の負担
鎌倉時代は,君主からの御恩に対する奉公として,所定の負担義務はあったが,数量的に負担が規定されるのは,貫高制に基づいて知行を配分する戦国期からである。豊臣秀吉は,朝鮮出兵を機に石高制に基づく,統一的な軍役体系を成立させた。江戸幕府もこれを継承し,1616(元和2)年,'33(寛永10)年の軍役令によって知行高に応じた軍役体系を整え,武士はこの規定によって,常時武器と人数を用意することが要求され,参勤交代,幕府の城郭普請や河川改修などの土木手伝いなども軍役とされ,諸大名も家臣に対して類似の軍役規定を定めた。
軍令部
ぐんれいぶ @@@LINK=軍令部 軍令部

軍令部
ぐんれいぶ

明治〜昭和期の旧日本海軍の軍令統轄機関
陸軍の参謀本部にあたる。初め参謀本部ついで海軍省の管下にあった海軍参謀部が,1893年独立して海軍軍令部と改称。軍政機関としての海軍省に対し,天皇に直属して作戦・海防などの任務にあたった。1930年ロンドン海軍軍縮条約に反対し,統帥 (とうすい) 権を干犯するとして政府を攻撃した。'33年軍令部と改称。'45年敗戦とともに廃止された。

げ @@@LINK=解 解



律令に規定されている,下位の官司から上位の官司に出す文書
解状・解文 (げぶみ) ともいう。平安時代以後は官司間だけでなく,一般に上申する場合の文書すべてをいうようになった。尾張国郡司百姓等解文は有名。
芸阿弥
げいあみ @@@LINK=芸阿弥 芸阿弥

芸阿弥
げいあみ

1431〜85
室町時代の画家
名は真芸。父能阿弥,子相阿弥とともに三阿弥といわれる。室町将軍家の書画・骨董の管理を行う。水墨画家としてもすぐれ,周文に似て力強いうえ雅味を加え,水墨画史上重要な地位を占める。また連歌にも長じていた。

桂庵玄樹
けいあんげんじゅ @@@LINK=桂庵玄樹 桂庵玄樹

桂庵玄樹
けいあんげんじゅ

1427〜1508
室町後期の臨済宗の僧。薩南学派の祖
長門 (ながと) の人。1467年入明し『尚書 (しようしよ) 』を学ぶ。'73年帰国後,石見 (いわみ) ・筑後肥前を遍歴し,釈奠 (せきてん) (孔子を祭る典礼)を行い儒書を講じた。'78年薩摩の島津忠昌に招かれ,朱子学を講じ薩南学派をおこした。『大学章句』を初めて出版,四書五経の句読法を一定した「家法倭点」を定め,日本朱子学史上に一時期を画した。また詩文集として『島陰漁唱』などがある。
慶安事件
けいあんじけん @@@LINK=慶安事件 慶安事件

慶安事件
けいあんじけん

江戸前期,由井正雪ら牢人が企てた陰謀事件
慶安の変・由井正雪の乱ともいう。幕府成立当初の武断政治で多くの大名が取りつぶしにあい,生活窮乏の牢人が増加。1651年,3代将軍徳川家光の死を機に,丸橋忠弥 (ちゆうや) らは江戸城を,正雪らは駿府城を奪い,金井半兵衛らは大坂で騒乱をおこして,幕府の政道を改めようとしたが,計画がもれて鎮圧された。幕府はこの事件後牢人対策を重視し,末期 (まつご) 養子の禁を緩和し,大名の改易を減じるなど牢人の発生を防ぐ政策をとり,文治政治転換への一契機となった。
慶安の触書
けいあんのふれがき @@@LINK=慶安の触書 慶安の触書

慶安の触書
けいあんのふれがき

江戸前期,幕府が農民生活を規制するため出した触書
1649(慶安2)年発布。全32条。幕府は幕初以来しばしば農民生活に干渉して触書を出したが,それを集大成したもの。公儀法度の順守・勧農衣食住の規制,その他農民の守るべき心得を細部にわたって規定し,生活統制を行った。江戸時代の農民支配の根本方針が示されている。
慶運
けいうん @@@LINK=慶運 慶運

慶運
けいうん

年不詳
南北朝時代の歌人
浄弁の子。頓阿 (とんあ) ・浄弁・吉田兼好と並んで和歌四天王と称された。二条派の歌人で,物さびて冷徹した主観に支えられた歌風。家集に『慶運法印集』1巻がある。
桂園一枝
けいえんいっし @@@LINK=桂園一枝 桂園一枝

桂園一枝
けいえんいっし

江戸後期,香川景樹の自撰歌集
1830年刊。3巻。小沢蘆庵の「ただごと歌」の主張をさらに発展させ,清新な歌風をもって京都の歌壇に君臨した桂園派の代表作。『古今和歌集』の歌風を理想とし,紀貫之を歌聖と仰ぎ,その実践としてこの集を撰した。
桂園時代
けいえんじだい @@@LINK=桂園時代 桂園時代

桂園時代
けいえんじだい

明治後期〜大正初期にかけて,桂太郎と西園寺公望 (きんもち) が交互に内閣を組織した時代(1901〜13)
「政権のたらいまわし」といわれたが,第3次桂内閣時代に,第1次護憲運動にあって終わりをつげた。
桂園派
けいえんは @@@LINK=桂園派 桂園派

桂園派
けいえんは

江戸後期,香川景樹が主張した和歌の流派
景樹63歳のときに刊行された『桂園一枝』から命名賀茂真淵 (まぶち) らの『万葉集』尊重に対し古今調を主唱し,京坂歌壇に流行。門下には木下幸文・熊谷直好など多士済々であり,明治初年まで続いた。
慶応義塾
けいおうぎじゅく @@@LINK=慶応義塾 慶応義塾

慶応義塾
けいおうぎじゅく

幕末福沢諭吉が創立した私立学校
1858年福沢が江戸鉄砲洲(中央区明石町)の中津藩奥平家の中屋敷内の長屋に開いた一家塾に始まり,初めは蘭書を,'62年ごろからはもっぱら英語を教授した。'68(慶応4)年築地が外人居留地になったため芝新銭座の旧有馬家の中屋敷に新築して移り,慶応義塾改称。「慶応」は年号からとり,「義塾」は共同結社の意味を表したもので,ここに学ぶ者を社中と称した。'71年三田に移転。'90年大学部を設置,日本における最初の私立大学となった。1903年慶応義塾大学と改称。自由主義・功利主義的学風で官学と対抗した。第二次世界大戦後,新制大学として発足
挂甲
けいこう @@@LINK=挂甲 挂甲

挂甲
けいこう

古墳時代中期以降の古代のよろい
「かけよろい」とも読む。小札 (こざね) と呼ぶ小金属をつづり合わせてつくったもので,5世紀ころ朝鮮からとり入れられた。古墳時代の小札には鉄製のほか金銅製のものもあり,8世紀以後には革製のものも現れた。平安時代になると儀礼の武装として用いられ,実用性を失った。
景行天皇
けいこうてんのう @@@LINK=景行天皇 景行天皇

景行天皇
けいこうてんのう

生没年不詳
記紀にみえる,皇室系図で12代目の天皇
みずから熊襲 (くまそ) 征討に出かけ,また皇子日本武尊 (やまとたけるのみこと) にも蝦夷 (えみし) や熊襲 (くまそ) を討たせたという征討説話がある。

稽古館
けいこかん @@@LINK=稽古館 稽古館

稽古館
けいこかん

①江戸時代,彦根藩藩校
②江戸時代,津軽(弘前の藩校
1799年井伊直中が設立。1830年館制を改革して弘道館改称幕末には和学・兵学なども加えた。
1796年津軽永孚らが設立。古学・朱子学のほか幕末には洋学も行った。
経国集
けいこくしゅう @@@LINK=経国集 経国集

経国集
けいこくしゅう

平安初期,最後の勅撰漢詩文集
827年完成。20巻(現存6巻)。淳和 (じゆんな) 天皇の命により良岑安世 (よしみねのやすよ) らの撰。書名は「文章は経国の大業なり」(魏の文帝の語)による。作者は嵯峨天皇・空海ら178人。宗教的・観想的傾向をもつ。平安初期の漢文学隆盛の総決算。
経国美談
けいこくびだん @@@LINK=経国美談 経国美談

経国美談
けいこくびだん

明治前期,矢野竜溪の政治小説
1883〜84年刊。前後2編。立憲改進党の幹部だった著者は,古代ギリシア史に材料を求め,テーベの国家興隆と憂国の志士たちの活動を通じて,自由民権思想を述べ,多くの青年や知識人に影響を与えた。
稽古談
けいこだん @@@LINK=稽古談 稽古談

稽古談
けいこだん

江戸後期,海保青陵 (かいほせいりよう) の経世書
1813年成立。5巻。商品経済の発展を認め,武士の商業を賤 (いや) しむ思想を非難し,武士の俸禄をも一種の売買関係とみなすなど,封建制度のもとで異色の経済論を述べた。また武士の内職専売制の実施を論じた。
稽古堂
けいこどう @@@LINK=稽古堂 稽古堂

稽古堂
けいこどう

①江戸時代,会津藩藩校
②江戸時代,但馬 (たじま) (兵庫県)豊岡藩の藩校
寛文年間(1661〜73)ころ,藩祖保科正之 (まさゆき) が開設。1665年に山崎闇斎招聘。1799年整備拡充して日新館と改称した。
1833年,藩主京極高行が開設。漢学のほか蘭学・国学も行った。
経済安定九原則
けいざいあんていきゅうげんそく @@@LINK=経済安定九原則 経済安定九原則

経済安定九原則
けいざいあんていきゅうげんそく

1948年12月,経済安定政策としてGHQの出した指令
(1)節倹と予算の均衡,(2)徴税強化と脱税の防止,(3)融資の制限,(4)賃金の安定,(5)物価の統制,(6)外国為替の管理強化,(7)輸出のための資材割当て配給制の改善,(8)重要国産原料および製品の増産,(9)食糧集荷計画の改善の9カ条で,インフレ収束を目的として日本国民に耐乏生活を要求した。翌年ドッジ‐ラインの前提となる。
経済協力開発機構
けいざいきょうりょくかいはつきこう @@@LINK=経済協力開発機構 経済協力開発機構

経済協力開発機構
けいざいきょうりょくかいはつきこう

オーイーシーディー(OECD)
経済要録
けいざいようろく @@@LINK=経済要録 経済要録

経済要録
けいざいようろく

江戸後期,佐藤信淵 (のぶひろ) の経世書
1827年刊。15巻。絶対主義的な統一国家のもとで,官営商業・資源開発・海外進出をめざす重商主義的政策を主張した。
経済録
けいざいろく @@@LINK=経済録 経済録

経済録
けいざいろく

江戸中期,太宰春台 (だざいしゆんだい) の経世書
1729年刊。10巻。重農主義的な立場から政治・経済のあり方を説いた。
警察予備隊
けいさつよびたい @@@LINK=警察予備隊 警察予備隊

警察予備隊
けいさつよびたい

1950年8月,警察力を補充する目的で創設された警察隊。自衛隊の前身
朝鮮戦争に際し,在日アメリカ軍が出動した空白を埋めるために,マッカーサー書簡により,第3次吉田茂内閣が設置。首相に直属し,定員7万5000名。日本の再軍備の出発点となった。'52年保安隊,'54年自衛隊に改組発展。
家司
けいし @@@LINK=家司 家司
いえつかさ @@@LINK=家司 家司

家司
けいし

皇族貴族の家政をつかさどる職員
「いえつかさ」とも読む。大宝令に規定があるが,平安中期以後は皇族や貴族が政所 (まんどころ) ・侍所 (さむらいどころ) などの機関を設け職員を置いた。鎌倉・室町幕府の政所・問注所 (もんちゆうじよ) の寄人 (よりゆうど) ,評定衆 (ひようじようしゆう) ・引付 (ひきつけしゆう) の職員も総称して家司といった。

家司
いえつかさ

けいし
刑事訴訟法
けいじそしょうほう @@@LINK=刑事訴訟法 刑事訴訟法

刑事訴訟法
けいじそしょうほう

刑事事件に関する裁判手続きを定めた法律
1880年ボアソナードが治罪法を起草し,'82年施行されていたが,'90年憲法・裁判所構成法の施行に伴って修正の上,刑事訴訟法として制定。1922年ドイツ法学の影響をうけた刑事訴訟法がつくられ,'24年から施行。第二次世界大戦後の'48年,アメリカ・イギリス法の影響をうけた現行法が成立した。
警視庁
けいしちょう @@@LINK=警視庁 警視庁

警視庁
けいしちょう

首都の警察行政をつかさどる官庁
1874年設置。長官(警視総監)は知事から独立して内務大臣指揮監督うけ,東京府の警察・消防衛生などを管理した。1948年都公安委員会のもとで自治体警察になり,'54年都警察の本部となった。
傾斜生産方式
けいしゃせいさんほうしき @@@LINK=傾斜生産方式 傾斜生産方式

傾斜生産方式
けいしゃせいさんほうしき

第二次世界大戦後の〈原材料不足→生産低下→インフレ〉の悪循環をたちきるために行った石炭・鉄鋼重点生産の方式
有沢広巳を委員長とする石炭特別小委員会によって1946年末に構想され,'47年6月片山哲内閣の「経済緊急対策」の中核にすえられた。出炭を強化しつつ鉄鋼部門に重点配炭し,鉄鋼生産の拡大を通じて経済の均衡回復をはかろうとしたもの。'49年ドッジ‐ライン実施まで継続された。
芸術座
げいじゅつざ @@@LINK=芸術座 芸術座

芸術座
げいじゅつざ

大正時代の新劇団
文芸協会解散後,1913年島村抱月・松井須磨子・秋田雨雀らが結成。西欧近代劇を上演し,芸術的成果をめざしながらこれを大衆に紹介。有名な「復活」のほかに「サロメ」「海の夫人」などを上演したが,'18年抱月の死,翌'19年松井の自殺で解散した。
桂昌院
けいしょういん @@@LINK=桂昌院 桂昌院

桂昌院
けいしょういん

1627〜1705
江戸前期,5代将軍徳川綱吉の生母
京都の八百屋の娘。春日局 (かすがのつぼね) に見いだされ,将軍家光の妾となり,阿玉の方といわれた。家光の死後出家し,桂昌院と称した。綱吉の将軍就任(1680)後大奥の実権を握り,僧隆光らを信じ,仏寺造営,生類憐みの令の発令にも関与した。
形象埴輪
けいしょうはにわ @@@LINK=形象埴輪 形象埴輪

形象埴輪
けいしょうはにわ

埴輪の一種。家・動物・人物などをかたどった埴輪の総称。
系図
けいず @@@LINK=系図 系図

系図
けいず

先祖から代々縦横の相互関係を書いた図表
家の果たす役割が大きかった日本では,家の由来を説明するものとして尊重された。武士の間には,戦場で先祖以来の家系を高声で唱える習慣があり,実力主義乱世がしだいに安定して系図尊重の思想が盛んになると,家格を高めようとすることから藤原・源・平3氏との関係をこじつけたものを筆頭に系図が盛んにつくられたが,疑わしいものが多い。
経世秘策
けいせいひさく @@@LINK=経世秘策 経世秘策

経世秘策
けいせいひさく

江戸後期,本多利明の経世書
1789〜1800年ころ成立。上下2巻。積極的な貿易振興による国力増強を説き,一種の重商主義的な富国策を強調した。
継体天皇
けいたいてんのう @@@LINK=継体天皇 継体天皇

継体天皇
けいたいてんのう

450〜531ごろ
5〜6世紀の天皇(在位507〜531)
応神天皇5世の孫。武烈天皇の没後越前(福井県)から大伴金村らに擁立されて即位。在位中に大伴金村が任那 (みまな) 4県を百済 (くだら) に割譲した事件や筑紫国造磐井の乱があった。
契沖
けいちゅう @@@LINK=契沖 契沖

契沖
けいちゅう

1640〜1701
江戸前期の真言宗の僧・国学者
摂津(兵庫県)尼崎に生まれ,11歳で高野山で出家。仏典や『万葉集』の研究に従事し,徳川光圀 (みつくに) の依頼と援助のもとで『万葉代匠記』を著した。宗教道徳にとらわれない古典の解釈や注釈を行い,その復古思想や学問態度は国学発展の基礎となった。

計帳
けいちょう @@@LINK=計帳 計帳

計帳
けいちょう

律令制における調・庸などの徴収のための原簿
四度公文 (よどのくもん) の一つ。毎年,各戸主に戸口の氏名・年齢・性別・課・不課の別を申告させ,国司が国ごとにまとめたもの。正倉院断片が残る。
慶長金銀
けいちょうきんぎん @@@LINK=慶長金銀 慶長金銀

慶長金銀
けいちょうきんぎん

江戸時代最初の金銀貨
17世紀を通じて鋳造。良質・大量で,金銀通貨統一を実現した。金貨に大判・小判・一分金,銀貨に丁銀・豆板銀がある。公定比価は金1両=銀50匁 (もんめ) =銭4貫文。
慶長遣欧使節
けいちょうけんおうしせつ @@@LINK=慶長遣欧使節 慶長遣欧使節

慶長遣欧使節
けいちょうけんおうしせつ

1613(慶長18)年,仙台藩主伊達政宗がヨーロッパに派遣した使節
宣教師ルイス=ソテロのすすめにより,支倉常長 (はせくらつねなが) を正使とする一行約200名を派遣。ノビスパン(メキシコ)を経てスペインに渡り,国王フェリペ3世に謁し,さらにローマにおもむきローマ教皇パウロ5世に謁した。メキシコとの通商を求めたが成功せず,1620年帰国した。
慶長見聞集
けいちょうけんもんしゅう @@@LINK=慶長見聞集 慶長見聞集

慶長見聞集
けいちょうけんもんしゅう

江戸初期の随筆集
『見聞集』ともいう。1614年の著作。10巻。北条氏政の家臣三浦浄心が見聞した江戸の雑事・人情風俗を記す。浄心に仮託した後世の作という説もある。
慶長勅版
けいちょうちょくばん @@@LINK=慶長勅版 慶長勅版

慶長勅版
けいちょうちょくばん

慶長年間(1596〜1615),後陽成天皇により出版された日本最初の木版活字本
文禄・慶長の役(1592〜98)で朝鮮から伝わった活字印刷の技術により,1597〜1603(慶長2〜8)年の間に『古文孝経』『日本書紀』〈神代巻〉,『四書』『職原抄』や医書などを印刷部数は200未満の少部であった。
慶長の役
けいちょうのえき @@@LINK=慶長の役 慶長の役

慶長の役
けいちょうのえき

1597(慶長2)年,豊臣秀吉の2度目の朝鮮出兵(〜'98)。
刑法
けいほう @@@LINK=刑法 刑法

刑法
けいほう

犯罪と刑罰との関係を規定した法律
明治維新後の1870年新律綱領,'73年改定律例が制定されたが,政府は法律制度の近代化のためにボアソナードを招き,その指導のもとにフランス刑法を基礎として草案を作成,'80年公布し,'82年施行。その後ドイツ法体系への転換に伴い,1907年新刑法を制定し,翌年施行した。第二次世界大戦後,'47年の改正で不敬罪・姦通 (かんつう) 罪などが廃止され,さらに'56年より全面的改正作業が始まったが,はげしい反対意見もあり,いまだに実現はしていない。なお,条文の現代用語化については,'95年に実現した。
刑法官
けいほうかん @@@LINK=刑法官 刑法官

刑法官
けいほうかん

明治初期の司法機関政体書による太政官制七官の一つ
1868年設置。監察・裁判・警察をつかさどり,4年を任期とした。政体書の総則では三権分立原則をかかげるが,官制では刑法官は事実上行政官である輔相から独立していない。'69年刑部省改称
鯨油
げいゆ @@@LINK=鯨油 鯨油

鯨油
げいゆ

クジラからとった油
鯨油採取を主目的として,江戸時代,特に後期以降に捕鯨が盛んとなった。安価な灯油として,またウンカ(稲の害虫)駆除の特効薬として用いられた。
KS磁石鋼
ケーエスじしゃくこう @@@LINK=KS磁石鋼 KS磁石鋼

KS磁石鋼
ケーエスじしゃくこう

1916(大正5)年,本多光太郎・高木弘によって発明された特殊鋼
鉄のなかにコバルト・タングステン・クロム炭素を含ませた特殊鋼で,第一次世界大戦のため優良な鉄鋼が輸入できなくなっていた中で,本多住友財閥から研究費の援助をうけて完成。「K・S」の名は住友吉左衛門頭文字からとった。さらに,'34年本多らは新KS磁石鋼(鉄・ニッケル・チタン合金)を発明した。
外宮
げくう @@@LINK=外宮 外宮

外宮
げくう

伊勢神宮の一つ
内宮である皇大 (こうたい) 神宮に対して豊受 (とようけ) 大神宮をいう。穀物の神で,内宮とともに皇室氏神として崇敬された。中世には外宮の禰宜 (ねぎ) 度会氏 (わたらいうじ) が伊勢神道を成立させた。
下戸
げこ @@@LINK=下戸 下戸

下戸
げこ

古代の下層身分の一つ
一般民衆をさす。『魏志』倭人伝によると,邪馬台国 (やまたいこく) には支配層である大人 (たいじん) ,一般民衆である下戸,国家的奴隷である生口 (せいこう) という身分秩序があった。
下剋上
げこくじょう @@@LINK=下剋上 下剋上

下剋上
げこくじょう

南北朝〜戦国時代にかけて,実力ある下位者が上位者をしのぐ風潮をいう
公家武家に,将軍は管領 (かんれい) に,守護は守護代にというように,実権がその下位者に奪われたことをさす。土一揆も下剋上の運動。二条河原落書に「下剋上する成出者(成上り者)」とあるが,嘉吉の乱で守護赤松満祐が将軍足利義教 (よしのり) を殺したこと,また管領細川氏は将軍に代わり,その家宰三好氏が細川氏に代わり,さらにその臣松永氏が三好氏に代わってその実権を奪ったことなどが代表例である。出身の明らかでない北条早雲や斎藤道三が風雲に乗じて実力で戦国大名になったのもこの現れといえる。
華厳宗
けごんしゅう @@@LINK=華厳宗 華厳宗

華厳宗
けごんしゅう

南都六宗の一つ
唐代に法蔵が『華厳経』に基づいて大成し,736年唐僧道璿 (どうせん) が日本に伝えた。奈良中期から盛んになり,東大寺はその根本道場として造られた。
戯作
げさく @@@LINK=戯作 戯作

戯作
げさく

戯作文学のことで,江戸時代の通俗文学
伝統的文学である漢詩文和歌和文などに対し,元禄(1688〜1704)以降の洒落本 (しやれぼん) ・読本 (よみほん) ・黄表紙・滑稽本・人情本などの総称。戯作者として著名なのは,山東京伝・式亭三馬・十返舎一九・為永春水など。幕末以後,仮名垣魯文 (かながきろぶん) などが出たが,政治小説・近代文学の発生とともに衰退した。
下作人
げさくにん @@@LINK=下作人 下作人

下作人
げさくにん

荘園制下,地主化した作人に対して直接耕作者である百姓をいう
鎌倉後期以降作手職が分化して耕作権ではなく地主的な得分権となるにしたがい,彼らの下で実際の耕作にあたるが下作人と呼ばれるようになった。下作人は年貢加地子・作職得分を上納した。
下司
げし @@@LINK=下司 下司

下司
げし

荘園において実際の荘務を行う荘官の一つ
「げす」とも読む。「荘の下司」を略してふつう荘司といった。本来,領主の政所 (まんどころ) などにいて荘務を総轄する上級役人すなわち上司や,預所 (あずかりどころ) などの上級荘官すなわち中司に対していう。一般に在地の有力者が任命される場合が多く,平安末期から世襲化・武士化していく傾向が強かった。
解脱上人
げだつしょうにん @@@LINK=解脱上人 解脱上人

解脱上人
げだつしょうにん

貞慶 (じようけい)
闕所
けっしょ @@@LINK=闕所 闕所

闕所
けっしょ

①鎌倉・室町時代,罪科などで所領を幕府に没収され,知行人のいない土地をさし,のち没収されること自体をいう
②江戸時代,庶民に対する刑罰の一つ
御家人にとって重大な刑罰で,没官領とほぼ同じ性質
死罪・遠島・追放などの付加刑で家財没収のこと。なお,大名以下の武士の所領処分は改易といった。
血税一揆
けつぜいいっき @@@LINK=血税一揆 血税一揆

血税一揆
けつぜいいっき

明治初年におこった徴兵令反対の農民一揆
1873〜74年にかけて,岡山県・鳥取県など主に西日本各地の農民が役場などを襲撃。政府は「徴兵告諭」文中の「血税」という文字が誤解を生んだのだと説明したが,無償で農民の労働力を奪う結果を民衆が感じとったことが最大の原因であった。
血盟団事件
けつめいだんじけん @@@LINK=血盟団事件 血盟団事件

血盟団事件
けつめいだんじけん

1932年,前蔵相井上準之助と三井合名理事長団琢磨を射殺した右翼テロ事件
血盟団は日蓮宗僧侶井上日召 (につしよう) が恐慌下の農村青年を感化して組織した狂信的右翼団体で,「一人一殺主義」で政・財界の要人を暗殺して国家改革をはかろうとしたもの。五・一五事件の発生に影響を与え,軍部台頭の契機となった。
家人
けにん @@@LINK=家人 家人

家人
けにん

①律令制下の賤民の一種
奴婢 (ぬひ) よりは上位の身分で,家庭を営むことが許され,売買は禁じられていた。
②平安時代,有力貴族や武士の棟梁 (とうりよう) に臣従した武士。
③鎌倉時代,幕府に属し関東御家人と称した武士。
④御家人。
下人
げにん @@@LINK=下人 下人

下人
げにん

古代末期〜中世の家内奴隷的隷属民
②江戸時代の年季奉公人
所従 (しよじゆう) と同階級。名主 (みようしゆ) の財産として相続・売買・譲与・質入れなどの対象とされたが,家族を持ち得た。主人の屋敷内,のち外に小屋と多少の土地を与えられ,主家の家事・軍事の雑役や (つくだ) などの耕作に従事した。鎌倉中期以後,生産力の増大,農業経営の変化に伴って,下作人(名子 (なご) ・被官)や自作農になるものもでた。
家事労働や雑役に使われた。
検非違使
けびいし @@@LINK=検非違使 検非違使

検非違使
けびいし

平安初期に設置された令外官 (りようげのかん) の一つ
嵯峨天皇のとき,主として京の治安維持のために置かれた。衛門府の中に置かれ,犯人逮捕を仕事としたが,検非違使庁が設けられるにしたがい,刑部省・弾正台・京職などの仕事を吸収。訴訟・裁判も扱うようになって権威は強大であった。諸国にも置かれたが,武士の勃興によってしだいに形骸化した。
ケプロン
Horace Capron @@@LINK=ケプロン ケプロン

ケプロン
Horace Capron

1804〜85
アメリカの農政家
合衆国農務局長時代の1871(明治4)年,政府(開拓次官黒田清隆)の招きで北海道開拓使顧問として来日。北海道における都市建設,大農経営採用,札幌農学校設立などの指導にあたり,北海道開発の基礎を確立した。'75年「ケプロン報文」を残して帰国。

ケーベル
Raphael Koeber @@@LINK=ケーベル ケーベル

ケーベル
Raphael Koeber

1848〜1923
ドイツの哲学者・音楽家
ロシアの生まれ。モスクワの音楽院卒業後,ドイツの大学で哲学・文学を学ぶ。1893年東大哲学科教授として来日(21年間在職)。日本の哲学が学問として確立する基礎を築いた。西欧的教養への視野を開かせ,学生に深い影響を与えた。また東京音楽学校でピアノを教授。横浜で没した。

家抱
けほう @@@LINK=家抱 家抱

家抱
けほう

江戸時代,農村における譜代の下人
地方によって呼び名が異なり,屋 (かどや) ・庭子 (にわこ) ・名子 (なご) ・被官ともいう。本百姓に隷属し,年貢諸役は主家が責任負担する建前。入会地 (いりあいち) の利用に関しても独立した権利がなかった。商品経済未発達の後進地域にながく存続した。
検見・検見法
けみ・けみほう @@@LINK=検見・検見法 検見・検見法

検見・検見法
けみ・けみほう

室町時代以来の年貢収納法の一つ
検見取 (けみとり) 法ともいい,現地に役人が出向き,坪刈などを行って,作柄良否農民の生活状態を検分し,その年の年貢率()を決めた。この法は実施検分の手数や費用がかかり,また役人の不正や収賄などが行われやすかった。江戸中期以降,定免法 (じようめんほう) が一般化したが,特に大凶作のときには検見が行われた。
解由状
げゆじょう @@@LINK=解由状 解由状

解由状
げゆじょう

律令制下,国司などの任務交代のときの事務引き継ぎ文書
新任者が前任者に不正や渋滞の事実がないことを証明した文書で,前任者はこれを上司に提出して任務完了となった。

げん @@@LINK=元 元


げん

モンゴル帝国第5代皇帝フビライが建国した中国の王朝(1271〜1368)
中国本土・満州・蒙古・チベットにわたる大帝国を形成。都は大都(現北京)。東西交通路が整備され,東西文化が交流したが,1368年明に滅ぼされた。フビライの時代の日本来襲(元寇 (げんこう) )は失敗したが,その後日本との通商はとだえず,建長寺船・天竜寺船の派遣,僧一山一寧 (いつさんいちねい) の渡来などがあった。
玄恵
げんえ @@@LINK=玄恵 玄恵

玄恵
げんえ

?〜1350
南北朝時代の学僧
「玄慧」とも書く。京都の人。天台宗・禅宗・朱子学に通じ,後醍醐 (ごだいご) 天皇の討幕計画,建武の新政に加わり,のち足利尊氏の建武式目制定にも参画。また『太平記』『庭訓往来』など,玄恵に託される作品は多いが疑わしい。

蘐園学派
けんえんがくは @@@LINK=蘐園学派 蘐園学派

蘐園学派
けんえんがくは

江戸中期,荻生徂徠 (おぎゆうそらい) をとする古学派儒学の一派
古文辞学派ともいう。徂徠が江戸茅場 (かやば) 町(東京都中央区)に居住したところから,茅=萱=蘐に通じ,蘐園と称した。古典の文辞の研究によって直接古聖人に接しようとするもので,国学に影響を与えた。思弁より経験,道徳より政治・経済を重んじ,また詩文の創作にも力を入れた。門下に太宰春台 (だざいしゆんだい) ・服部南郭 (はつとりなんかく) らを輩出。しかし,しだいに文人化していった。
蘐園塾
けんえんじゅく @@@LINK=蘐園塾 蘐園塾

蘐園塾
けんえんじゅく

江戸中期,荻生徂徠 (おぎゆうそらい) が江戸茅場町に開いた私塾
顕戒論
けんかいろん @@@LINK=顕戒論 顕戒論

顕戒論
けんかいろん

平安前期,最澄が著した宗論書
820年刊。3巻。大乗戒壇設立に対して南都諸宗が反対したのに論駁し,大乗戒は経論で明示されていることを示した。『山家学生式 (さんげがくしようしき) 』とともに日本天台宗成立に関する重要文献。
喧嘩両成敗
けんかりょうせいばい @@@LINK=喧嘩両成敗 喧嘩両成敗

喧嘩両成敗
けんかりょうせいばい

武家刑法の一つで,喧嘩した者に対し,理非を問わず双方ともに制裁を加えること
鎌倉時代にはこのような規定はなく,室町時代に出現。戦国大名は領内の治安維持や家臣団の統制強化を目的として分国法に規定した。江戸時代にも慣習法として残存したが,その批判論も出て,効力はうすれた。
顕教
けんぎょう @@@LINK=顕教 顕教

顕教
けんぎょう

仏教のうち密教以外のもの
釈迦が平明に説いた教えを顕教とする。空海が『弁顕密二教論』『十住心論』の中で密教に対して用いた語で,南都六宗や天台宗などを顕教としたが,天台ものちに密教化し,台密といわれた。
源空
げんくう @@@LINK=源空 源空

源空
げんくう

法然
元元集
げんげんしゅう @@@LINK=元元集 元元集

元元集
げんげんしゅう

南北朝時代,北畠親房の神道書
1337年ころ成立。8巻。伊勢神道大家村松家行との親交により,『日本書紀』『旧事紀 (くじき) 』『古語拾遺』『延喜式』などから抜粋分類し,自己の見解を加えながら神道および神宮の史的根源を説いた。
乾元大宝
けんげんたいほう @@@LINK=乾元大宝 乾元大宝

乾元大宝
けんげんたいほう

皇朝十二銭の最後の銅銭
958年鋳造。形も小さくも粗悪。これ以後,近世初期までわが国の公的な貨幣鋳造は中絶した。
蹇蹇録
けんけんろく @@@LINK=蹇蹇録 蹇蹇録

蹇蹇録
けんけんろく

明治中期,外務大臣として日清戦争前後の外交の衝にあたった陸奥宗光の回顧録
甲午農民戦争日英通商航海条約改正,三国干渉,下関条約などについて詳細に記録されている。当時の外交を知るための貴重な史料
玄語
げんご @@@LINK=玄語 玄語

玄語
げんご

江戸中期,三浦梅園の哲学書
1775年完成。8巻。儒学洋学の思想を調和して,宇宙の構造を説明する条理の学を述べたもので,自然弁証法論理が含まれている。
元寇
げんこう @@@LINK=元寇 元寇

元寇
げんこう

鎌倉中期,2度にわたる元(蒙古)の日本来襲事件
蒙古襲来,文永・弘安の役ともいう。元のフビライは高麗 (こうらい) を征服し,1268年以降たびたび日本に服属を迫ったが,執権北条時宗が拒否したため,'74(文永11)・'81(弘安4)年の2度にわたり,大軍をもって対馬 (つしま) ・壱岐 (いき) を侵し,さらに北九州に上陸した。しかし西国武士たちの奮戦と暴風によってともに敗退し,第3次遠征計画も未遂に終わった。この間,幕府は沿岸に防塁を構築し,九州に所領をもつ御家人に異国警固番役を課し,鎮西探題を設置したりして防備につとめた。このため軍事的・経済的負担は増大し,御家人の経済的窮乏を招き,また幕府財政をも困窮に導き,幕府の滅亡を早める原因となった。一方,朝廷は敵軍調伏の祈願に専念したので,2度の暴風を神風とみる神国思想が発展する契機となった。
元号
げんごう @@@LINK=元号 元号

元号
げんごう

紀年の一種
年号ともいう。中国の歴史書に始まり,その影響をうけた東洋諸国で行われた。日本では大化改新の「大化」を最初とするが,それ以前にも一部には法興 (ほうこう) などの年号が用いられたらしい。大化以後,奈良時代の四字年号,室町時代の私年号,南北朝の両朝別の年号などあるが,多くは,天皇代替りや,干支 (えと) によって改元された。明治時代以後一世一元制となる。年号には本来,年号使用者は年号制定者の支配に服するという歴史的な意味があるため,民主主義国家として年号の存廃が政治問題化している。1979年,元号法が制定され,元号制定の権限は内閣に与えられた。
元亨釈書
げんこうしゃくしょ @@@LINK=元亨釈書 元亨釈書

元亨釈書
げんこうしゃくしょ

鎌倉後期,虎関師錬 (こかんしれん) の著した日本最初の仏教史書
1322年刊。30巻。中国の『仏祖歴代通載』『仏祖統記』などにならい,400余人の日本の高僧の伝記や史実をまとめたもの。
元弘の変
げんこうのへん @@@LINK=元弘の変 元弘の変

元弘の変
げんこうのへん

1331(元弘元)年,鎌倉幕府征討のため後醍醐 (ごだいご) 天皇が正中の変('24)についで企てた変乱
正中の変失敗後,延暦寺・興福寺などの寺院勢力に働きかけ,計画を進めたが,1331年吉田定房の密告によって六波羅探題に知られた。天皇は笠置城にのがれたが,捕らえられて隠岐 (おき) に流された。幕府は天皇を廃して,持明院統の光厳 (こうごん) 天皇を擁立。しかし楠木正成ら諸国の武士が護良 (もりよし) 親王らとはかり,各地で反幕府活動を続け,'33年天皇は隠岐を脱出し,足利高氏(尊氏)・新田義貞らも挙兵し北条氏が滅び,建武の新政が実現した。
源氏
げんじ @@@LINK=源氏 源氏

源氏
げんじ

平安初期の皇族賜姓 (しせい) の一つ
平氏とともに武家の棟梁 (とうりよう) 。特に清和源氏が有名。清和源氏は清和天皇の孫経基に始まり,満仲以下代々摂津・大和・河内に居住したが,頼義・義家は前九年・後三年の両役に戦功があり,東国に地盤を固めた。義朝のとき平氏に敗れたがその子頼朝は鎌倉に幕府を開いた。村上源氏は村上天皇の孫師房 (もろふさ) を始祖とし,院政期に院近臣として栄えた。
乾字金
けんじきん @@@LINK=乾字金 乾字金

乾字金
けんじきん

江戸中期の金貨
宝永金ともいう。1710〜14年鋳造。勘定奉行荻原重秀は,1695年元禄金銀を鋳造したが,品位が悪く不評であった。そこで乾字金を鋳造して慶長金と同質に復したが,重さはほぼ半分になり嫌われて,物価は下らず経済界は混乱した。新井白石反対で重秀は '12年罷免された。
原史時代
げんしじだい @@@LINK=原史時代 原史時代

原史時代
げんしじだい

文献史料が少なく,社会の様相を知るのに不十分な時代
文字・記録の皆無の時代を先史時代,文献史料の豊富に存在する時代を歴史時代というが,その間の時代をいう。日本では3世紀から7世紀がこの時代に相当するが,現在ではあまり用いられない。
玄室
げんしつ @@@LINK=玄室 玄室

玄室
げんしつ

古墳の内部構造で,横穴式石室で遺骸を納める主室
玄室には,木棺や石棺・陶棺などが安置された。北九州地方には内壁壁画をもつものもある。
原始的蓄積
げんしてきちくせき @@@LINK=原始的蓄積 原始的蓄積

原始的蓄積
げんしてきちくせき

資本主義的生産様式が成立する条件である「資本」発生の歴史的過程
本源的蓄積ともいう。貨幣生産手段資本家に蓄積され,他方に労働力の販売以外に何もない労働者が生じること。明治維新以後の殖産興業政策は,この過程を押し進めようとしたものといえる。
原子爆弾
げんしばくだん @@@LINK=原子爆弾 原子爆弾

原子爆弾
げんしばくだん

ウラニウム・プルトニウムなどの核分裂を利用した爆弾
1945年7月,アメリカは初の実験に成功し,ソ連参戦前の日本降伏をはかって,8月6日に広島,9日長崎に投下し,破壊的打撃を与えた。広島で約20万人,長崎で約10万人の死者を出した。また原爆症の患者を多く出した。'49年ソ連,'52年イギリス,'60年フランス,'64年中国,'74年インドが実験に成功。またさらに巨大な爆発力をもつ水素爆弾も,'52年アメリカ,'53年ソ連,'57年イギリス,'67年中国が実験に成功した。
源氏物語
げんじものがたり @@@LINK=源氏物語 源氏物語

源氏物語
げんじものがたり

平安中期の代表的物語文学
作者は紫式部。11世紀初め完成。全54帖。前半は光源氏を主人公に当時の貴族の華やかな生活を,後半はその子薫大将のひたむきな恋を描く。確かな構想と精緻な心理的手法により,藤原氏全盛時代の貴族社会を虚構化しつつ人間性の真実を描き出した名作。
源氏物語絵巻
げんじものがたりえまき @@@LINK=源氏物語絵巻 源氏物語絵巻

源氏物語絵巻
げんじものがたりえまき

平安末期の代表的絵巻物
国宝。12世紀前半ころ成立。『源氏物語』を絵巻物にしたもので,藤原隆能 (たかよし) の絵。流麗な詞書とあいまって絵巻物中の傑作の一つとされる。現存は12帖分にあたる絵19図。
源氏物語湖月抄
げんじものがたりこげつしょう @@@LINK=源氏物語湖月抄 源氏物語湖月抄

源氏物語湖月抄
げんじものがたりこげつしょう

江戸前期,北村季吟の『源氏物語』の注釈書
1673年刊。60巻。『源氏物語』研究の集大成で,古注集成の画期的な著書
兼寿
けんじゅ @@@LINK=兼寿 兼寿

兼寿
けんじゅ

蓮如
元正天皇
げんしょうてんのう @@@LINK=元正天皇 元正天皇

元正天皇
げんしょうてんのう

680〜748
奈良時代の女帝(在位715〜724)
天武天皇の皇太子草壁皇子の娘。母は元明天皇。文武天皇の姉。聖武天皇の即位までの中継ぎとして元明天皇から譲位された。在位中,『日本書紀』「養老律令」を完成し,三世一身の法を制定した(723)。前半は藤原不比等,後半は長屋王が政局に大きな力をもった。

源信
げんしん @@@LINK=源信 源信
みなもとのまこと @@@LINK=源信 源信

源信
げんしん

942〜1017
平安中期の天台僧
比叡山横川 (よかわ) の恵心 (えしん) 院に住んだので恵心僧都ともいう。大和の当麻 (たいま) の卜部 (うらべ) 氏の出身。9歳で比叡山に登り,良源に師事。顕密 (けんみつ) の学を修め,『往生要集』を著して念仏往生の教えを説き,貴族庶民に大きな影響を与えた。

源信
みなもとのまこと

810〜868
平安前期の公卿
左大臣。嵯峨天皇の皇子。866年応天門の変に際し伴善男 (とものよしお) の陰謀で失脚するところを藤原良房に救われた。

元帥
げんすい @@@LINK=元帥 元帥

元帥
げんすい

明治〜昭和期,陸・海軍大将のうち元帥府に列せられたもの
1898年設けられた元帥府に,功労のあった大将が列せられ,軍事上での天皇の最高顧問となった。1945年,敗戦後廃止された。
遣隋使
けんずいし @@@LINK=遣隋使 遣隋使

遣隋使
けんずいし

飛鳥時代,隋に派遣された公式の使節
聖徳太子が中国の文物・制度を摂取する目的で派遣。第1次の600年は『隋書』のみにみえる。第2次の607年は小野妹子が大使となり,翌年隋使斐世清 (はいせいせい) と帰国。さらに同年妹子が再度派遣され,高向玄理 (たかむこのげんり) ・僧旻 (みん) ・南淵請安 (みなぶちのしようあん) らの留学生・学問僧が同行。帰国後,文化の発展や大化の改新に多大の貢献をなした。614年には犬上御田鍬 (いぬがみのみたすき) を第4次遣隋使として派遣した。
原水爆禁止運動
げんすいばくきんしうんどう @@@LINK=原水爆禁止運動 原水爆禁止運動

原水爆禁止運動
げんすいばくきんしうんどう

核兵器を禁止しようとする世界的な平和運動
1950年のストックホルム‐アピールによる核兵器禁止署名運動は,'54年3月1日のアメリカのビキニ水爆実験で,焼津の漁民が被災した(第五福竜丸事件)のを契機に高まり,3400万人の賛成をえた。'55年8月広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ,以後毎年開かれているが,'63年の社会党の総評系と共産党との内部対立により,原水爆禁止日本国民会議(原水禁)と原水爆禁止日本協議会(原水協)とに分裂した。その後運動統一への気運が高まり,'77年両者間で統一に向けての合意がなされ,現在では原子力の利用そのものに反対する市民運動が展開されている。
憲政会
けんせいかい @@@LINK=憲政会 憲政会

憲政会
けんせいかい

大正〜昭和初期の政党(1916〜27)
1916年加藤高明を総裁とする立憲同志会を中心に諸政党が合同して結成。三菱財閥を背景に政党内閣主義を掲げ,藩閥官僚勢力と対立し,山県有朋ら元老にうとまれた。普選運動の指導権を握り,軍備縮小を唱え,'24年第2次護憲運動の主力となり,清浦奎吾内閣を倒し,加藤を首班とする護憲三派内閣を成立させた。のち単独内閣を組織したが,'27年政友本党と合同して立憲民政党となった。
現生人類
げんせいじんるい @@@LINK=現生人類 現生人類

現生人類
げんせいじんるい

現在の人類の直接の祖先と思われる人類
新人ともいう。第4氷期ごろに出現したといわれるヨーロッパのクロマニヨン人など。彼らはすでに弓矢などの道具を発明し,用途の分化した石器や骨角器を用い,洞窟壁画彫刻なども残した。
憲政党
けんせいとう @@@LINK=憲政党 憲政党

憲政党
けんせいとう

明治時代の政党(1898〜1900)
第3次伊藤博文内閣が第12議会に地租増徴案を提出すると,野党はこれを解散に追い込み,ついで自由・進歩両党は合同して憲政党を結成した。伊藤内閣の倒壊後,大隈重信・板垣退助を中心とするいわゆる隈板 (わいはん) 内閣を組織したが,間もなく憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)に分裂,前者は1900年に解党し立憲政友会に合流した。
憲政の常道
けんせいのじょうどう @@@LINK=憲政の常道 憲政の常道

憲政の常道
けんせいのじょうどう

議院内閣制が制度化されたものではなく,衆議院の多数を占める政党政権を担当する慣例
議会の第一党総辞職後は,第二党に交代する。1924年の加藤高明護憲三派内閣から'32年の犬養毅内閣崩壊まで続いた。
憲政本党
けんせいほんとう @@@LINK=憲政本党 憲政本党

憲政本党
けんせいほんとう

明治時代の政党(1898〜1910)
1898年憲政党分裂により旧進歩党系で組織。党首は大隈重信,幹部には犬養毅・河野広中など。都市商工業者を地盤とし,憲政党(のちの立憲政友会)と対立した。党内でも対立抗争がおこり,大隈引退後,1910年3月,立憲国民党となった。
憲政擁護運動
けんせいようごうんどう @@@LINK=憲政擁護運動 憲政擁護運動

憲政擁護運動
けんせいようごうんどう

護憲運動
検断
けんだん @@@LINK=検断 検断

検断
けんだん

中世,刑事犯人に対する検察・断罪のこと
平安末期,検断権は国衙 (こくが) か荘園領主にあったが,鎌倉時代には,侍所 (さむらいどころ) ・守護・地頭が分有して行使した。守護の検断権は一般に大犯 (だいぼん) 三箇条と呼ばれている。
検地
けんち @@@LINK=検地 検地

検地
けんち

戦国〜江戸時代,土地を実測し,収穫高・耕作人などを決定すること
戦国時代以降,大名は領国の土地生産力と財政および知行制施行の基礎として土地調査を実施した。特に豊臣秀吉は全国統一完了以前からその平定地に奉行を派遣し,土地面積・品等区分をして石盛を行い,収穫高・貢租高・耕作者を決定し,土地・農民を直接支配することになった。江戸時代にも藩主などが国替すると施行した。
検地帳
けんちちょう @@@LINK=検地帳 検地帳

検地帳
けんちちょう

近世,検地の結果を村ごとにまとめて記した土地台帳
水帳ともいう。村単位で,田畑・屋敷地一筆ごとに,所在地・等級・面積・石高・所有者(貢納責任者)を記し,最後に村の総面積・総石高などを記載。幕府・諸藩はこれに基づいて年貢諸役を課した。中世にも荘園国衙 (こくが) の検注帳があったが,豊臣秀吉の太閤検地で様式がととのい,江戸時代の幕府・諸藩が継承した。
検注帳
けんちゅうちょう @@@LINK=検注帳 検注帳

検注帳
けんちゅうちょう

中世の土地台帳
荘園領主年貢・課役徴収のため所領の調査(検注)を行ったが,その結果を記したものをいう。一般に総面積,除田(年貢・公事免除地)・定田(貢納地)数,年貢額などが記載されている。様式は一定していない。
建長寺
けんちょうじ @@@LINK=建長寺 建長寺

建長寺
けんちょうじ

鎌倉市山ノ内にある臨済宗の寺院。鎌倉五山の一つ
1253(建長5)年に執権北条時頼が建立し,宋僧蘭溪道隆を開山とした。寺号は年号をとり,もと刑場であった因縁から地蔵を本尊とする。道隆の禅風を慕い,無学祖元・一山一寧 (いつさんいちねい) などの名僧が相つぎ住持となり,1341年鎌倉五山の第1位となる。16・17世紀,寺運は一時衰えたが,徳川家光・沢庵らの力で復興され,今日に至る。
建長寺船
けんちょうじぶね @@@LINK=建長寺船 建長寺船

建長寺船
けんちょうじぶね

鎌倉末期の対元貿易船
1293・1315年の火災で荒廃した建長寺の再建費用を得るため,1325年幕府の公認により出帆。翌'26年帰朝して銅銭3000貫を寺に納めた。のちの天竜寺船・勘合貿易の先駆となった。
検田使
けんでんし @@@LINK=検田使 検田使

検田使
けんでんし

律令制下,租税の確保のため,荘園に立ち入り,耕地を調査した役人
国司は荘園が不正手段によって課税をのがれるのを防止するため,検田使をつかわした。これに対し,荘園側は不入権獲得により検田使などの地方官吏の荘園内立入禁止をはかった。
源道義
げんどうぎ @@@LINK=源道義 源道義

源道義
げんどうぎ

足利義満
遣唐使
けんとうし @@@LINK=遣唐使 遣唐使

遣唐使
けんとうし

7〜9世紀,日本から唐に派遣された公式の使節
唐の進んだ制度・文物の輸入が目的。630〜894年の間に18回の遣唐使任命があり,そのうち実際に渡海したのは15回(数え方に諸説がある)。一行は大使以下,初期は120人ぐらい,船も1〜2隻であったが,中ごろから500〜600人以上,4隻になった。航路は初め北路,中期に南島路,末期には南路をとった。留学生・学問僧として吉備真備 (きびのまきび) ・玄昉 (げんぼう) ・最澄・空海らがいる。894年菅原道真 (すがわらのみちざね) の建議により中止。以後,中国との正式国交は室町時代の勘合貿易まで中絶された。
元和偃武
げんなえんぶ @@@LINK=元和偃武 元和偃武

元和偃武
げんなえんぶ

江戸初期,大坂夏の陣が終わったのち,世の中が平和になったこと
偃武とは武をやめる意。1615年大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し,元和と改元されてから戦乱もなく,以後江戸末期まで約250年の太平の世が開かれた。
原日本人
げんにほんじん @@@LINK=原日本人 原日本人

原日本人
げんにほんじん

縄文時代,日本に住んでいた人類で,現代日本人の起源と考えられている
縄文時代人については明治時代以来,アイヌ説コロボックル説が提唱されたが,大正時代に現代日本人の祖先と考えられるようになり,人類学者清野謙次によって原日本人と命名された。このでは,現代日本人への変化の要因を,主として混血によるとしている。最近は,混血ではなく,生活の変化によって変わったとし,現代人そのままの祖先とする日本人説が,原日本人説よりも有力である。
顕如
けんにょ @@@LINK=顕如 顕如

顕如
けんにょ

1543〜92
安土桃山時代の浄土真宗の僧
本願寺11世,名は光佐。一向一揆を組織し,反織田信長の大名と結んで,1570〜80年まで信長と戦い(石山合戦),正親町 (おおぎまち) 天皇の仲裁で和睦。のち石山を去ったが,紀伊・和泉を経て '85年再び大坂に帰り,のち秀吉から京都堀川に寺地を与えられ,そこに本願寺をつくった。

建仁寺
けんにんじ @@@LINK=建仁寺 建仁寺

建仁寺
けんにんじ

京都市東山区にある臨済宗の寺院。京都五山の一つ
建仁寺派の本山で,1202年源頼家が創建。栄西 (えいさい) が開山。初め真言・天台・禅の3宗兼学の寺であったが,11世蘭溪道隆のとき禅宗のみの寺院となり,のち京都五山の第3位に列した。
元服
げんぷく @@@LINK=元服 元服

元服
げんぷく

男子の成年式
加冠ともいう。平安時代以降,12〜16歳の男子が成人したことを表すために行ったもので,氏神の社前で衣服を改め,髪を結い,冠を着し,幼名を廃して烏帽子 (えぼし) 名(元服名・実名)を新たにつけた。
言文一致運動
げんぶんいっちうんどう @@@LINK=言文一致運動 言文一致運動

言文一致運動
げんぶんいっちうんどう

文章を話し言葉に近づけ,思想感情を自由に表現するのにふさわしい口語文形成のための文体革新運動
明治維新前後,前島密 (ひそか) ら洋学者によって唱えられ,二葉亭四迷(「だ」調)・山田美妙 (びみよう) (「です」調)・尾崎紅葉(「である」調)らが小説で試み,明治末期に確立した。
元文金銀
げんぶんきんぎん @@@LINK=元文金銀 元文金銀

元文金銀
げんぶんきんぎん

江戸中期の金銀貨
1736(元文元)年幕府が鋳造発行した小判・一分金・丁銀・豆板銀の総称。品位は,金貨が慶長・正徳享保金より悪く元禄金より良質,銀貨は元禄銀より悪い。改鋳の目的は出目 (でめ) による財政収入の増加と物価調整にあり,これにより経済は安定した。
憲兵
けんぺい @@@LINK=憲兵 憲兵

憲兵
けんぺい

明治〜昭和期,旧陸軍の軍事警察官
1881年創設。陸軍大臣の管轄で,主として軍人の軍紀・風紀を取り締まり,また行政警察・司法警察もかねた。'89年憲兵司令部が設置され,全国の憲兵隊を統轄した。特高警察とともに自由主義社会主義を弾圧。1945年,敗戦後廃止された。
源平盛衰記
げんぺいせいすいき @@@LINK=源平盛衰記 源平盛衰記

源平盛衰記
げんぺいせいすいき

鎌倉中期の軍記物語
48巻。作者不詳。内容は『平家物語』を増補したもので,異本の一種とされる。『平家物語』の「語りもの」に対し読み本としたもの。文学的価値は『平家物語』に及ばないが,謡曲・浄瑠璃など後世への影響は大きい。
源平の争乱
げんぺいのそうらん @@@LINK=源平の争乱 源平の争乱

源平の争乱
げんぺいのそうらん

平安末期,源・平両氏の政権争いの戦乱
1156年の保元の乱,'59年の平治の乱で源氏は勢力を失い,平氏政権が成立した。ついで1180〜85年にかけて,治承・寿永の乱が展開された。以仁王 (もちひとおう) ・源頼政挙兵に始まり,源頼朝の挙兵と富士川の戦い('80),源義仲の挙兵と砺波山 (となみやま) の戦い('83)などを経て義仲がまず入京し,平氏は西国に都落ちした。しかし義仲は源義経・範頼 (のりより) により討され(宇治川の合戦など),のち源平両軍による決戦が瀬戸内海沿岸にくりひろげられた。一の谷・屋島・の諸戦でついに平氏は滅亡し,鎌倉幕府の成立によってこの戦乱は終わった。
ケンペル
Engelbert Käempfer @@@LINK=ケンペル ケンペル

ケンペル
Engelbert Käempfer

1651〜1716
江戸前期に来日したドイツの医師・博物学者
オランダ東インド会社の医師として1690年来日。オランダ商館長(甲比丹 (カピタン) )に随従して2回江戸参府を行った。'92年帰国後著述に専念,『日本誌』を著し,日本の見聞を紹介した。

玄昉
げんぼう @@@LINK=玄昉 玄昉

玄昉
げんぼう

?〜746
奈良時代の法相宗の僧
大和(奈良県)の人。716年入唐,法相宗の教学を学び735年帰国。737年僧正となり,橘諸兄 (たちばなのもろえ) のもとで吉備真備 (きびのまきび) とともに政界に権力をふるった。聖武天皇が国分寺を創設したのも玄昉の進言によるところが大きかった。また,九州でおこった藤原広嗣の乱は玄昉と真備を除こうとしたものであった。のち藤原仲麻呂が台頭すると,745年筑紫観世音寺に左遷され,その地で翌年没した。広嗣のに害されたとのうわさが広まった。

憲法十七条
けんぽうじゅうしちじょう @@@LINK=憲法十七条 憲法十七条

憲法十七条
けんぽうじゅうしちじょう

飛鳥時代,聖徳太子が制定した道徳規範を中心とする法令
604年発布。内容は「和を以って貴しとなす」から始まり,官吏服務などの訓戒示し,国家理念と人間の在り方を説いた。天皇中心の中央集権国家の形成を意図したもので,儒教・法家思想をはじめ仏教思想の影響もうかがえる。
建武以来追加
けんむいらいついか @@@LINK=建武以来追加 建武以来追加

建武以来追加
けんむいらいついか

室町幕府の法令集
建武年間(1334〜38)以降,1520年に至るまで,室町幕府が随時必要に応じて制定した追加法令200条余を集めたもの。室町幕府は御成敗式目を根本法典としており,その追加法令をいう。
建武式目
けんむしきもく @@@LINK=建武式目 建武式目

建武式目
けんむしきもく

1336年,足利尊氏が定めた幕府の施政方針
尊氏が幕政の参考にするために,鎌倉幕府の評定衆であった中原章賢 (のりかた) (是円)・真恵兄弟,玄恵 (げんえ) らに諮問し,それに答申した形式をとり,17カ条から成る。幕府政治再開の宣言とでもいうべきもので,当時の社会事情に即応したものが多くみられるが,具体的な法令ではない。室町幕府は,御成敗式目および鎌倉幕府の追加法令を引きついで基本法典としている。
建武年間記
けんむねんかんき @@@LINK=建武年間記 建武年間記

建武年間記
けんむねんかんき

南北朝時代の記録書
『建武令』『建武記』ともいう。著者・成立年代不明。建武新政府の発布した荘園所領に関する法制,雑訴決断所牒,有名な二条河原落書など政務に関する数十カ条を収録。建武の新政の実態を知るうえで重要な史料である。
建武年中行事
けんむねんじゅうぎょうじ @@@LINK=建武年中行事 建武年中行事

建武年中行事
けんむねんじゅうぎょうじ

後醍醐 (ごだいご) 天皇が著した朝廷恒例の年中行事の解説書
1334年ころ成立。3巻。正月の四方拝から歳末の追儺 (ついな) (悪鬼を追い払うための儀式)までの宮中の行事を仮名書きにしたもので,後世の有職 (ゆうそく) 書に大きな影響を与えた。
建武の新政
けんむのしんせい @@@LINK=建武の新政 建武の新政

建武の新政
けんむのしんせい

1334(建武元)〜36(建武3)年にかけて,後醍醐 (ごだいご) 天皇らが鎌倉幕府を倒して行った天皇親政の復古政治
両統迭立 (てつりつ) など幕府の政治干渉に不満をもった後醍醐天皇公家北畠親房ら)や得宗専制に不満をもつ有力御家人(足利高(尊)氏・新田義貞ら),地方武士(楠木正成名和長年ら)などを味方にし正中の変・元弘の変を経て実現。天皇親政の律令政治を理想としたが,現実にそくして公武協調をたてまえとし,中央に記録所・雑訴決断所・恩賞方・武者所を置き,地方には国司と守護を併置した。新政の中心は論功行賞と土地関係の訴訟の処理におかれ,その結果,貴族階級の利益擁護の線の強いことに武士階級は不満を抱いた。また皇居造営などによる課税の増大は農民の不満もまねいた。こうした公武の不和ならびに武士間の反目が深まっていく中で,中先代の乱を機に鎌倉に下った足利尊氏離反があり,新政は崩壊した。このころの世相二条河原落書に示されるような不安な状態にあり,政治も朝令暮改の状態で,1336年後醍醐天皇の吉野還幸から動乱南北朝時代となる。
元明天皇
げんめいてんのう @@@LINK=元明天皇 元明天皇

元明天皇
げんめいてんのう

661〜721
奈良時代の女帝(在位707〜715)
天智天皇第4皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘。持統天皇の異母妹。草壁皇子の妃となり,文武・元正両天皇を生んだ。文武天皇の没後,聖武天皇即位までの中継ぎとして即位した。在位中,和同開珎の鋳造(708),平城京遷都(710),『古事記』『風土記』の編纂などを行った。

倹約令
けんやくれい @@@LINK=倹約令 倹約令

倹約令
けんやくれい

江戸時代,倹約を奨励するため幕府・諸藩が出した法令
日常の生活を質素にし戦時出費に備えるという武家道徳を背景に,幕府・諸藩の財政難打開の消極策として頻発。特に享保の改革・寛政の改革・天保の改革のものが有名である。
硯友社
けんゆうしゃ @@@LINK=硯友社 硯友社

硯友社
けんゆうしゃ

明治中期の文学結社(1885〜1903)
1885年,尾崎紅葉・山田美妙・石橋思案らが結成。のち川上眉山 (びざん) ・巌谷小波 (いわやさざなみ) ・江見水蔭 (すいいん) ・広津柳浪 (りゆうろう) らが参加。機関誌『我楽多 (がらくた) 文庫』を発刊した。江戸文芸の伝統的趣味に近代的写実性を加え,一時文壇の中心勢力となったが,自然主義文学の興隆により衰退。1903年紅葉の死とともに解体した。
玄洋社
げんようしゃ @@@LINK=玄洋社 玄洋社

玄洋社
げんようしゃ

明治〜昭和期の超国家主義団体
福岡県士族が士族反乱の敗退後頭山満 (とうやまみつる) らを中心に結成した向陽社の後身。1881年玄洋社と改称。初め自由民権運動に加わったが,明治20年代以後は対外強硬策を主張する国権論色彩を強めた。1946年GHQ指令により解体
県令
けんれい @@@LINK=県令 県令

県令
けんれい

明治初期の地方長官の名称
戊辰 (ぼしん) 戦争後の明治新政府では,政府の直轄領の府・県と旧来の藩の三治制が行われ,それぞれ知府事・知県事・知藩事(のち藩知事)が中央集権体制の一翼をになっていたが,1871年廃藩置県後は県治条例の公布により,県令と改称された(3府の長官のみ府知事)。'86年地方官官制の公布により府県ともに知事に統一され現在に至る。
建礼門院
けんれいもんいん @@@LINK=建礼門院 建礼門院

建礼門院
けんれいもんいん

1155〜1213
平安末期,高倉天皇の中宮
平清盛の娘で名は徳子。安徳天皇の生母。1171年入内し,翌年高倉天皇の中宮となった。安徳天皇を生み,'81年院号宣下により建礼門院と称した。'85年平氏滅亡に際し,壇の浦で安徳天皇とともに入水したが,源氏に救われ,出家して京都郊外大原の寂光院 (じやつこういん) に入り,余生を送った。『平家物語』の〈大原御幸〉で有名。

建礼門院右京大夫集
けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう @@@LINK=建礼門院右京大夫集 建礼門院右京大夫集

建礼門院右京大夫集
けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう

鎌倉中期,建礼門院右京大夫(生没年不詳)の家集
1232年ころ成立。2巻。歌数約300首。和歌でつづられた平家哀史というべきもの。作者の右京大夫は世尊寺(藤原)伊行 (これゆき) の娘で,1173年ころより建礼門院に出仕。平重盛の2男資盛 (すけもり) との悲恋が美しい叙情に結晶してちりばめられている。
元老
げんろう @@@LINK=元老 元老

元老
げんろう

明治〜昭和期,天皇の最高顧問
藩閥の黒田清隆・伊藤博文・山県有朋・松方正義・井上馨・西郷従道・大山巌・桂太郎と公卿出身の西園寺公望 (きんもち) の9名で,法令に基づく機関ではない。「元老」という名称も正式の官職名ではなく慣用的なもの。政党その他反藩閥勢力に備えて,その支配を維持するために考案された政治運用の方式で,後継内閣首班の推薦,国家の重要内外政務について,天皇・政府に対して意見を述べ,その決定に参与した。元老の筆頭山県は原敬内閣成立まで,かたくなに超然主義を維持し,政党政治拒否を続けた。1940年西園寺の死で消滅。
元老院
げんろういん @@@LINK=元老院 元老院

元老院
げんろういん

明治前期,国会開設以前の立法機関
1875年の大阪会議の結果,太政官の正院・左院・右院のうち,立法部門は左院を廃し元老院を,司法部門は右院に代えて大審院を設置し,三権分立の形がとられた。'78年元老院で憲法草案(日本国憲按)を作成したが,岩倉具視らの不満をかい,'80年修正案も廃棄された。'90年帝国議会開設に伴って廃止。
元禄金銀
げんろくきんぎん @@@LINK=元禄金銀 元禄金銀

元禄金銀
げんろくきんぎん

江戸時代,最初の改鋳金銀貨
幕府の財政難打開のため,勘定吟味役(のち勘定奉行)の荻原重秀の建議で,1695年から慶長金銀を改鋳し,形量はほぼ等しいが品位が劣る貨幣を大量に発行した。これが元禄金銀で,幕府はその改鋳差益分(出目 (でめ) という)で多大な利益を得たが,物価が上がり,経済界が混乱した。
元禄小袖
げんろくこそで @@@LINK=元禄小袖 元禄小袖

元禄小袖
げんろくこそで

元禄時代に流行した小袖
町方の女性が着用し,袖口は小さく,たけは2尺(約75㎝)で,元禄文化を象徴するように華美であった。
元禄時代
げんろくじだい @@@LINK=元禄時代 元禄時代

元禄時代
げんろくじだい

江戸中期,元禄年間(1688〜1704)を中心とした5代将軍徳川綱吉の治世(1680〜1709)の総称
前代までに幕府機構はととのい,藩体制も整備され,幕府支配体制の安定期を迎えていた。綱吉は将軍の権力を強化し,専制的政治を実施した。そのため側用人政治(柳沢吉保ら)も出現。諸藩についで幕府財政に危機が訪れたため,荻原重秀の進言で初めて貨幣が改鋳された(元禄金銀)。一方,産業の発展はめざましく,新田開発や肥料農具の改良で商品生産が増大し,貨幣経済が進展,都市生活も向上した。それとともに新興町人が進出し,京坂地方の町人を担い手として町人文化が開花した。文治政治のもとで朱子学をはじめ,儒学が武士教養として重んじられ,歴史や農学・暦学・和算などが発達し,国学の芽ばえもみられた。
元禄文化
げんろくぶんか @@@LINK=元禄文化 元禄文化

元禄文化
げんろくぶんか

元禄年間(1688〜1704)を中心とした江戸時代前半の町人文化
幕藩体制の安定,産業交通の発展,都市の発達,生活の向上などが背景。大坂を中心とする上方(京都・大坂)の新興町人を担い手とするが,文化全般の面でまだ武家風がかなり強く残っていた。井原西鶴の浮世草子,松尾芭蕉の俳諧,近松門左衛門の人形浄瑠璃,菱川師宣 (もろのぶ) の浮世絵(版画)などが代表的。特に西鶴は町人による最初の町人文学として大坂町人の生活を如実に描き,「浮世」の名称に示されるように現実的な人間性肯定の気風を反映した。また都市の娯楽として人形浄瑠璃と並び歌舞伎も登場し,坂田藤十郎などの人気役者を生んだ。工芸でも野々村仁清 (にんせい) ・尾形乾山の京焼,尾形光琳の装飾画や,友禅染の元禄模様・元禄小袖などが華美な気風に応じて発展した。こうした気風は江戸後期の化政文化になると幕府の統制で失われた。
言論報国会
げんろんほうこくかい @@@LINK=言論報国会 言論報国会

言論報国会
げんろんほうこくかい

大日本言論報国会
ゴア
Goa @@@LINK=ゴア ゴア

ゴア
Goa

インド半島西岸にある港湾都市
1510年ポルトガルのインド総督アルブケルケによって占領され,以後その東洋経営の一大中心地となったが,17世紀以降衰退。1961年インドに奪回された。
新古今和歌集
しんこきんわかしゅう @@@LINK=新古今和歌集 新古今和歌集

新古今和歌集
しんこきんわかしゅう

鎌倉前期,八代集最後の勅撰和歌集
略称『新古今集』。1205年完成。20巻。歌数約1980首。後鳥羽上皇の命で藤原定家・藤原家隆・寂蓮 (じやくれん) らが撰 (えら) び,上皇の親撰。幽玄・妖艶・象徴的ないわゆる新古今調をつくり,万葉・古今とともに三大歌風をなす。本歌取り,体言止め,三句切れなどが特色。
新国劇
しんこくげき @@@LINK=新国劇 新国劇

新国劇
しんこくげき

沢田正二郎が創立した劇団
1917年芸術座を脱退した沢田正二郎が大衆演劇隆盛をめざして,東京新富座で旗上げ公演。初め不成功だったが,「大菩薩峠」「月形半平太」「国定忠治」などの剣劇で人気を集めた。沢田の死後,島田正吾・辰巳柳太郎らが受け継いだが,'87年解散した。
神国思想
しんこくしそう @@@LINK=神国思想 神国思想

神国思想
しんこくしそう

日本は神国であり,神のまもる国だという信仰・思想
鎌倉時代,元寇以後特に盛んとなった。度会家行 (わたらいいえゆき) の反本地垂迹説や北畠親房 (ちかふさ) の『神皇正統記』はこの思想をよく表す。近代では天皇制合理化する思想として発展し,軍国主義体制の精神的支柱となった。
壬午軍乱
じんごぐんらん @@@LINK=壬午軍乱 壬午軍乱

壬午軍乱
じんごぐんらん

1882年7月,朝鮮でおこった反日的クーデタ
閔妃 (びんひ) 政権が日本にならって兵制改革を始めたとき,大院君一派の守旧派がこれに反対し日本公使館を襲撃。日本軍は出兵したが,清国の李鴻章工作で朝鮮との間に済物浦 (さいもつぽ) 条約を締結した。以後閔妃一派は清国に接近し日本の勢力は後退して2年後の甲申事変をひきおこす。
神護寺
じんごじ @@@LINK=神護寺 神護寺

神護寺
じんごじ

京都市右京区にある真言宗の寺
高雄山寺ともいう。和気清麻呂が河内国に創建した神願寺を,その子真綱 (まつな) がこの地に移した。最澄や空海も一時入寺し,空海の弟子が伽藍 (がらん) を造営し真言密教の寺院となった。鎌倉時代に文覚上人が中興。たびたび兵火にあい,現在の建物はほとんど江戸時代の建築であるが,『薬師如来像』『両界曼荼羅図』『平重盛像』『源頼朝像』をはじめ平安・鎌倉時代の文化財を多く蔵する。
神護寺薬師如来像
じんごじやくしにょらいぞう @@@LINK=神護寺薬師如来像 神護寺薬師如来像

神護寺薬師如来像
じんごじやくしにょらいぞう

京都市の神護寺所蔵の平安初期の木造彫刻
延暦年間(782〜806)に和気清麻呂河内国神願寺を立てたときの本尊一木造で,衣紋は翻波 (ほんぱ) 式。立体感があり,弘仁・貞観文化特色をよく表す。
真言宗
しんごんしゅう @@@LINK=真言宗 真言宗

真言宗
しんごんしゅう

平安初期,空海が入唐して学び,帰国後日本に伝えた大乗仏教の一派
『大日経』『金剛頂経』をもとにし,仏の行為(三密)に人間の行為を近づけることによって悟りが得られるとした。悟りの世界を曼荼羅 (まんだら) という。加持祈禱によって現世利益をはかる仏教として平安貴族に信仰されたが,13世紀末に古義と新義とに分裂した。
震災恐慌
しんさいきょうこう @@@LINK=震災恐慌 震災恐慌

震災恐慌
しんさいきょうこう

1923年,関東大震災による恐慌
第一次世界大戦後の恐慌からの回復も不十分のまま,震災にみまわれた日本経済は大打撃をうけ,復興資材の輸入超過で外貨負担は増大した。政府は救済融資のため公債を発行し,その額は1926年には51億円に激増しインフレが続いた。また支払猶予令モラトリアム)・震災手形補償などで事態収拾に努力したが,不景気はおさまらず,金融恐慌へ続いていった。
震災手形
しんさいてがた @@@LINK=震災手形 震災手形

震災手形
しんさいてがた

1923年,関東大震災のために支払えなくなった手形で震災手形割引損失補償令の適用を受けたもの
震災以前に銀行が割引きした手形を日本銀行に一時肩がわり(再割引き)させ,日銀の損失については1億円を限り政府が補償する救済融資。しかし,震災とは関係のない不良手形が相当混入しており,この処理問題から金融恐慌へ発展。
新猿楽記
しんさるがくき @@@LINK=新猿楽記 新猿楽記

新猿楽記
しんさるがくき

平安中期,藤原明衡 (あきひら) の著した随筆
著作年代不詳(1060年ころと推定)。1巻。子女教養読物。当時の猿楽を,武者陰陽師商人など多くの階層観客実態とともに描写。日本演劇の原始形態と当時の社会生活の好史料。
新参衆
しんざんしゅう @@@LINK=新参衆 新参衆

新参衆
しんざんしゅう

戦国時代戦国大名家臣団の一つ
家臣団を親疎の別により一族衆国衆・新参衆に区別したうちの一つで,他国や下層庶民の中から新規に召抱えられたをいう。一族衆などを寄親とし,その寄子として統制に服した。
新詩社
しんししゃ @@@LINK=新詩社 新詩社

新詩社
しんししゃ

明治中期,与謝野鉄幹が結成・主宰した短歌中心の結社(1899〜1908)
正式には「東京新詩社」という。機関誌『明星』を発行し,ロマン主義文芸運動を推進。与謝野晶子・高村光太郎・石川啄木・北原白秋・木下杢太郎 (もくたろう) ・吉井勇・平出修らがいた。
新思潮
しんしちょう @@@LINK=新思潮 新思潮

新思潮
しんしちょう

明治末期・大正期の文芸雑誌
第1次(1907〜08)は小山内薫 (おさないかおる) が創刊。第2次(1910〜11)は小山内・谷崎潤一郎・和辻哲郎らが復刊。第3次(1914)は芥川竜之介・菊池寛・久米正雄・山本有三らが復刊。第4次(1916〜17)は第3次の復刊。東大文科・一高系の同人雑誌として,以後も断続的に刊行された。一般に「新思潮派」とは第3・4次の同人たちで,現実を知的に解釈するところに共通性があった。
神社建築
じんじゃけんちく @@@LINK=神社建築 神社建築

神社建築
じんじゃけんちく

出雲大社本殿の大社造と伊勢神宮本殿の神明造を基本として発達した神社の建築
大社造の系統には,住吉造(住吉神社本殿),春日造(春日神社本殿),大鳥造(大鳥神社本殿)などがあり,神明造の系統には,八幡造(宇佐八幡宮本殿),日吉 (ひえ) 造(日吉神社本殿),権現造(日光東照宮),流 (ながれ) 造(賀茂神社下社本殿)などの諸様式がある。
神社神道
じんじゃしんとう @@@LINK=神社神道 神社神道

神社神道
じんじゃしんとう

明治時代以後の国家神道
維新政府は国家が神社の祭祀をつかさどる制度を確立し官・国幣社 (かん・こくへいしや) をつくり,国家権力によって神社を保護した。国家はこの神道思想をもって天皇権威の強化をねらい,国民教化に利用。1945年敗戦により国家と神社の関係は否定された。
真宗
しんしゅう @@@LINK=真宗 真宗

真宗
しんしゅう

浄土真宗
神獣鏡
しんじゅうきょう @@@LINK=神獣鏡 神獣鏡

神獣鏡
しんじゅうきょう

中国古代の鏡の一形式
背面に,神像と竜・虎の獣形がおもな文様として用いられた。中国で後漢から六朝時代にかけて行われ,日本の古墳からの出土例も多い。大阪府の黄金塚古墳出土の「景初三年」の銘をもつ魏の鏡も神獣鏡である。
心中天網島
しんじゅうてんのあみじま @@@LINK=心中天網島 心中天網島

心中天網島
しんじゅうてんのあみじま

江戸中期,近松門左衛門作の世話物浄瑠璃
1720年大坂竹本座で初演。3段。大坂天満の紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女小春が,恋と義理のために網島大長寺で,夜明けとともに心中をとげた当時の事件をとりあげたもの。
真珠湾攻撃
しんじゅわんこうげき @@@LINK=真珠湾攻撃 真珠湾攻撃

真珠湾攻撃
しんじゅわんこうげき

1941(昭和16)年12月8日,太平洋戦争の発端となった,日本軍によるアメリカ太平洋艦隊の基地ハワイ真珠湾に対する奇襲攻撃
日本は戦艦8隻を撃沈空軍打撃を与える大戦果をあげた。奇襲を怒ったアメリカ国民は,「真珠湾を忘れるな」の合言葉で固く結束し,太平洋戦争の戦意を固めた。
新人会
しんじんかい @@@LINK=新人会 新人会

新人会
しんじんかい

大正末期〜昭和初年にかけて活動した学生団体
1918年,赤松克麿・宮崎竜介ら東京帝大生を中心に結成。吉野作造の指導をうけ,社会の合理的改造をめざし,雑誌『デモクラシー』を発刊。講演会・研究会を開き,普選運動・労働運動に参加,大正デモクラシーを推進した。その後社会主義運動へ接近し,'25年学連事件以後弾圧が続き,'29年解散。
壬申戸籍
じんしんこせき @@@LINK=壬申戸籍 壬申戸籍

壬申戸籍
じんしんこせき

明治初期,政府による最初の全国的戸籍
作成した1872年が壬申の年であるためこの名がある。士族・平民・新平民などの差別的呼称を残していたため,問題とされた。1968年閲覧禁止。
壬申の乱
じんしんのらん @@@LINK=壬申の乱 壬申の乱

壬申の乱
じんしんのらん

672年,天智天皇の没後の皇位継承をめぐる古代最大の内乱
天智天皇の没後,近江の朝廷の天智の皇子大友皇子と,吉野に出家していた皇弟大海人 (おおあま) 皇子との間におこった内乱。大海人皇子は東国の軍隊を動員して大友皇子を破り,翌673年即位して天武天皇となった。この結果,旧豪族が没落し,律令体制が天皇の権威の強大化のもとに整備された。
薪水給与令
しんすいきゅうよれい @@@LINK=薪水給与令 薪水給与令

薪水給与令
しんすいきゅうよれい

1842(天保13)年,江戸幕府が渡来した外国船に燃料・食料を給与するように定めた法令
1825(文政8)年以来の異国船打払令を廃して新たに定めたもので,アヘン戦争で清国が敗れたことと,天保の改革進行が幕府の外交方針変更の背景となった。
真盛
しんせい @@@LINK=真盛 真盛

真盛
しんせい

1443〜95
室町中期の天台宗の僧。真盛派の開祖
紀貫之 (きのつらゆき) の子孫という。伊勢(三重県)の人。厭世思想に富み,『往生要集』に深く教えられて,円頓戒(天台の思想)と称名(念仏)の一致を説いた。また近江に西教寺を建立した。

信西
しんぜい @@@LINK=信西 信西

信西
しんぜい

藤原通憲 (みちのり)
真政大意
しんせいたいい @@@LINK=真政大意 真政大意

真政大意
しんせいたいい

明治前期,加藤弘之の啓蒙書
1870年刊。天賦人権説の立場から,西洋の立憲政体を紹介。政府の職務国民生命・権利・財産の保護と,国民の指導教化にありと説く。のち進化論を奉じ天賦人権説を捨てみずからこの書を絶版にし,『人権新説』('82)を著した。
新石器時代
しんせっきじだい @@@LINK=新石器時代 新石器時代

新石器時代
しんせっきじだい

旧石器時代に続く,石器時代の最も発達した段階
土器・磨製石器を製作し,農耕・牧畜などの生産経済に移行,巨石記念物が築造された時代。日本では縄文時代がこれにあたるが,農耕は晩期までみられず,牧畜は行われていない。
神泉苑
しんせんえん @@@LINK=神泉苑 神泉苑

神泉苑
しんせんえん

平安京内に設けられた池泉式庭園
池・樹木・滝・流れなどがあり,岸辺に豪華な建物をつくった。平安初期の漢詩題材となった。
新撰組
しんせんぐみ @@@LINK=新撰組 新撰組

新撰組
しんせんぐみ

幕末,京都守護職のもと,京都の治安維持にあたった浪士隊
1863年結成され,隊長は近藤勇。尊攘・討幕派弾圧に活躍,特に池田屋事件は有名。鳥羽伏見戦いに敗れて,まもなく四散した。
新撰字鏡
しんせんじきょう @@@LINK=新撰字鏡 新撰字鏡

新撰字鏡
しんせんじきょう

平安初期,現存最古の漢和辞典
9世紀末成立。12巻。僧昌住 (しようじゆう) の著。漢字を偏とによって分類し,2万480余字に発音と意味を記している。古代国語研究・文献解読の貴重な資料。
新撰姓氏録
しんせんしょうじろく @@@LINK=新撰姓氏録 新撰姓氏録

新撰姓氏録
しんせんしょうじろく

平安初期に編集された諸氏族の系譜書
814年完成。30巻。目録1巻。氏姓混乱を正すため,万多 (まんだ) 親王らによって編集された。京畿の1182氏の系譜を,皇別・神別・蕃別(渡来人)にわけて整理した。
新撰莵玖波集
しんせんつくばしゅう @@@LINK=新撰莵玖波集 新撰莵玖波集

新撰莵玖波集
しんせんつくばしゅう

室町後期の連歌
1495年完成。20巻。句数約2000句。正風連歌を確立した宗祇 (そうぎ) が中心となり『莵玖波集以後の連歌を撰す。勅撰に準じるもので,代表的作者に心敬・宗祇・猪苗代兼載 (いなわしろけんさい) らがいる。
神像
しんぞう @@@LINK=神像 神像

神像
しんぞう

神道の神々の像
神道では本来偶像を必要としなかったが,平安時代以降神仏習合思想により仏教の影響で神像をつくるようになった。奈良薬師寺の『僧形八幡』『神功皇后』『仲津姫』の3像が有名。仏像ほど多くない。
新続古今和歌集
しんぞくこきんわかしゅう @@@LINK=新続古今和歌集 新続古今和歌集

新続古今和歌集
しんぞくこきんわかしゅう

室町中期,最後の勅撰和歌集
1439年成立。20巻。歌数2144首。後花園天皇の命で飛鳥井雅世 (あすかいまさよ) 撰。鎌倉時代以後の勅撰集が二条家流・京極家流によって撰進されていた慣例を足利義教の圧力で破る。温雅な歌が多い。
尋尊
じんそん @@@LINK=尋尊 尋尊

尋尊
じんそん

1430〜1508
室町時代の法相宗の僧
一条兼良 (かねよし) の子。興福寺大乗院第27代門跡・大僧正。70年間在院し,多くの記録を残した。日記『尋尊大僧正記』はこの時代の貴重な史料。
新体詩
しんたいし @@@LINK=新体詩 新体詩

新体詩
しんたいし

明治時代,西洋の詩の影響をうけて現れた新詩型
従来の漢詩に対比して,新時代の思想感情を盛るにふさわしい長詩型。1882年の『新体詩抄』に始まり,島崎藤村・土井晩翠・与謝野鉄幹・薄田泣菫 (すすきだきゆうきん) ・蒲原有明 (かんばらありあけ) らによって発展した。
新体詩抄
しんたいししょう @@@LINK=新体詩抄 新体詩抄

新体詩抄
しんたいししょう

明治前期,新体詩の先駆となった詩集
1882年刊。外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎の共著。西洋の詩14編の翻訳と創作詩5編とからなる。形式は七五調
神代史の研究
じんだいしのけんきゅう @@@LINK=神代史の研究 神代史の研究

神代史の研究
じんだいしのけんきゅう

大正時代津田左右吉 (つだそうきち) の歴史書
1924年刊。1巻。日本神話に科学的解釈行い,'40年発禁となった。
新体制運動
しんたいせいうんどう @@@LINK=新体制運動 新体制運動

新体制運動
しんたいせいうんどう

1940〜41年に近衛文麿を中心として,新政治体制を創出しようとした運動
1940年日中戦争のゆきづまりの中で,ドイツのナチス,イタリアのファシスト党の一党独裁体制にならい一国一党的新党の結成が唱えられ,諸政党は解党した。第2次近衛内閣成立後,政党・官僚・軍部・右翼を包含して大政翼賛会が結成され,官僚の支配する国民生活統制の体制が形成された。
信託統治
しんたくとうち @@@LINK=信託統治 信託統治

信託統治
しんたくとうち

国際連合の委託をうけた先進国が非自治地域に行う統治
住民の福祉向上,自治・独立の促進を目的とする。国際連盟下の委任統治制を受け継いだもの。
信長記
しんちょうき @@@LINK=信長記 信長記
のぶながき @@@LINK=信長記 信長記

信長記
しんちょうき

江戸初期,小瀬甫庵 (ほあん) による織田信長伝記
「のぶながき」とも読む。1622年。15巻。信長の生涯の履歴を追い,事件に従って記した。太田資房 (すけふさ) (牛一 (ぎゆういち) )の『信長公記』をもととし,教訓的視点が強く,史料的価値は低いが,近世初期の史論としてみるべきものがある。

信長記
のぶながき

しんちょうき
信長公記
しんちょうこうき @@@LINK=信長公記 信長公記
のぶながこうき @@@LINK=信長公記 信長公記

信長公記
しんちょうこうき

安土桃山時代,太田資房 (すけふさ) (牛一)の著した織田信長の伝記
「のぶながこうき」とも読む。別名『安土記』。1600年ころ完成。16巻。信長に仕えて戦功のあった太田資房が,信長の入洛以前を首巻とし,1568年から'82年本能寺のまで1年1巻,月日をおって信長の事歴を記述した好史料。

信長公記
のぶながこうき

しんちょうこうき
新徴組
しんちょうぐみ @@@LINK=新徴組 新徴組

新徴組
しんちょうぐみ

幕末,幕府が組織した江戸警備隊
幕府は1863年,京都に派遣した浪士隊の大部分を江戸に戻し新徴組として市中の警備にあたらせた。庄内藩に所属。京都残留者が新撰組となる。
神田
しんでん @@@LINK=神田 神田

神田
しんでん

律令制下の神社所有の土地
その収穫は神社の経費にあてられた。不輸租特権が与えられ,売買は禁じられた。平安時代に入ると寄進などによって増加し,神領御厨 (みくりや) と呼ばれる荘園となった。
新田開発
しんでんかいはつ @@@LINK=新田開発 新田開発

新田開発
しんでんかいはつ

荒地を開墾して田畑を造成すること
古代以来墾田と称したが,江戸時代以降は新田または新開といった。江戸前期の耕地面積の増大は,古代における荘園の発展期のそれに比せられ,特に元禄・享保ごろの増加が著しい。開発後一定の年限は年貢が減免され,以後課せられても本田畑より低かった。財政難に苦しんだ幕府・諸藩とも積極的に奨励した。領主の代官みずからが開発する代官見立新田,民間請負による村受・町人受(町人請負新田)・寺社受などの新田があったが,いずれの場合も町人資本の進出が目だった。新田開発の結果,江戸前期1850万石余の石高が,明治初年には3000万石をこえた。
伸展葬
しんてんそう @@@LINK=伸展葬 伸展葬

伸展葬
しんてんそう

を伸ばした姿勢で葬る方法
縄文時代後期にもみられるが,弥生時代以後,一般に行われた。
寝殿造
しんでんづくり @@@LINK=寝殿造 寝殿造

寝殿造
しんでんづくり

平安時代に完成された貴族の邸宅の建築様式
中央に主人が居住する主屋 (しゆおく) としての寝殿を南面して建て,その東西に対 (たい) と呼ぶ副屋,これを吹き通しの廊下(渡殿 (わたどの) )で結んだ。庭には池や築山があり,釣殿・泉殿を池に臨ませた。代表的遺構に京都御所清涼殿などがある。
神道
しんとう @@@LINK=神道 神道

神道
しんとう

日本国有の民族信仰
自然神・氏神をまつる古神道は,8c前半頃まで行われたが律令制によって神祇制度が再編成されて,平安時代に整うに至った。
新東京国際空港
しんとうきょうこくさいくうこう @@@LINK=新東京国際空港 新東京国際空港

新東京国際空港
しんとうきょうこくさいくうこう

千葉県成田市に建設された国内最大級の国際空港
通称「成田空港」。羽田空港の発着回数が限界に達したため,1966年,成田市三里塚地区に建設が着手された。しかし,地元農民を中心とする激しい反対運動のため,開港は'78年と大幅におくれた。
神道五部書
しんとうごぶしょ @@@LINK=神道五部書 神道五部書

神道五部書
しんとうごぶしょ

鎌倉初期,伊勢神道の中心的教典
伊勢神宮外宮の神官度会 (わたらい) 氏によって,内宮に対する外宮の優位を説くため書かれた。反本地垂迹説の立場で,北畠親房 (ちかふさ) の神国思想の根拠となるなどのちの神道説に及ぼした影響は大きい。『天照坐 (あまてらします) 伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『豊受皇太神宮御鎮座本紀』『伊勢二所太神宮宝基本紀』『倭姫命 (やまとひめのみこと) 世記』の5部からなる。
神道大意
しんとうたいい @@@LINK=神道大意 神道大意

神道大意
しんとうたいい

室町後期,吉田兼倶 (かねとも) の著した神道書
両部神道を排し唯一神道を主張した兼倶の教義を明らかにしたもの。
新富座
しんとみざ @@@LINK=新富座 新富座

新富座
しんとみざ

明治時代,東京新富町(現中央区新富)にあった歌舞伎劇場
守田座を1872年浅草猿若町より移し'75年改称。団菊左時代をつくった。関東大震災(1923)で焼失。
新内節
しんないぶし @@@LINK=新内節 新内節

新内節
しんないぶし

江戸中期,浄瑠璃節より分立した一派
豊後節禁止後,富士松節ができ,さらに門下の鶴賀新内と鶴賀若狭掾 (じよう) が創始した。心中物中心で哀れな歌詞,悲痛な節回し,刹那的・退廃的であり,座敷芸として遊里中心に栄えた。
沈 南蘋
しんなんぴん @@@LINK=沈+南蘋 沈+南蘋

沈 南蘋
しんなんぴん

生没年不詳
江戸中期に来日した清代の画家
「ちんなんぴん」とも読み,沈銓 (しんせん) ともいう。1731年,弟子を伴って長崎に渡来し,2年ほど在住して帰国。そのかたい線と強い色彩の花鳥画は日本画壇に影響を及ぼし,関西円山応挙伊藤若冲 (じやくちゆう) ,江戸の谷文晁 (たにぶんちよう) らが感化をうけた。
真如堂縁起絵巻
しんにょどうえんぎえまき @@@LINK=真如堂縁起絵巻 真如堂縁起絵巻

真如堂縁起絵巻
しんにょどうえんぎえまき

室町後期の絵巻物
1524年作。京都真如堂真正極楽寺創建由来と本尊阿弥陀如来の霊験を描く。詞書は後柏原天皇ほか5人。絵は掃頭助 (かもんのすけ) 久国で,装飾的なかたさがあるが,応仁のを描いた好史料。
神人
じにん @@@LINK=神人 神人
じんにん @@@LINK=神人 神人

神人
じにん

平安後期から現れた,神社奉仕の義務をもつ農民・商工業者,下級神職
「じんにん」とも読む。奉仕の代償として課役が免ぜられた。僧兵とともに朝廷に強訴 (ごうそ) することもあった。大山崎離宮八幡宮祇園社の神人は有名。

神人
じんにん

じにん
新皇
しんのう @@@LINK=新皇 新皇

新皇
しんのう

平将門 (たいらのまさかど)
親王
しんのう @@@LINK=親王 親王

親王
しんのう

皇族の称号の一つ
天皇の兄弟と皇子をいう。天皇の姉妹と皇女は内親王。759年から親王宣下がなければ称せなくなった。
神皇正統記
じんのうしょうとうき @@@LINK=神皇正統記 神皇正統記

神皇正統記
じんのうしょうとうき

南北朝時代,北畠親房 (ちかふさ) が著した歴史書
6巻。1339年,常陸 (ひたち) 国(茨城県)小田城で北朝方の包囲の中にあってほとんど記憶に頼りながら記した。神武天皇から後村上天皇に至る歴代略譜を記すとともに,神代から皇位が正当な理由のもとに正統な皇位継承者に伝えられてきたことを証明し,後村上天皇(南朝)の正統性を論じた。大義名分論基調とし,院政の批判,武家政治の評価を一貫した史観で貫いた史論書。
新派劇
しんぱげき @@@LINK=新派劇 新派劇

新派劇
しんぱげき

明治中期,歌舞伎(旧派劇)に対抗して発達した新演劇
角藤定憲 (すどうさだのり) ・川上音二郎らの壮士芝居・書生芝居が源流。日清戦争中に戦争劇で成功,ついで『金色夜叉』や『不如帰 (ほととぎす) 』などの家庭悲劇・花柳界劇へ移った。第二次世界大戦後は花柳章太郎・水谷八重子らの新生新派へ発展。
親藩
しんぱん @@@LINK=親藩 親藩

親藩
しんぱん

江戸時代,大名の家格
江戸時代の大名は徳川将軍との親疎により,親藩・譜代・外様の三つに分けられた。親藩は徳川家康以後徳川の子弟で大名になったものをいい,譜代とともに外様大名を牽制する役割をになった。特に尾張・紀伊・水戸の徳川家を御三家と呼んだ。
新版歌祭文
しんぱんうたざいもん @@@LINK=新版歌祭文 新版歌祭文

新版歌祭文
しんぱんうたざいもん

江戸後期,近松半二作の世話物浄瑠璃
1780年大坂竹本座で初演。3段。大坂油屋の娘お染と丁稚 (でつち) 久松の悲恋中段の野崎村は久松の許嫁お光,養父久作の苦衷など義理人情を描いた傑作。歌舞伎上演は1808(文化5)年。
神風連の乱
じんぷうれんのらん @@@LINK=神風連の乱 神風連の乱

神風連の乱
じんぷうれんのらん

1876(明治9)年,熊本でおこった攘夷主義士族の反乱
敬神党の乱ともいう。神風連は敬神党ともいい,国学を学び神道によって結ばれた太田黒伴雄を中心とする国粋主義・攘夷主義者の徒党。政府の開化(欧化)政策に反対し廃刀令に憤激して挙兵,熊本鎮台を襲い,鎮台司令官・県令を殺害したが,まもなく鎮圧された。
新婦人協会
しんふじんきょうかい @@@LINK=新婦人協会 新婦人協会

新婦人協会
しんふじんきょうかい

大正時代の女性による,社会改造をめざした初の女性運動団体
平塚らいてう・市川房枝・奥むめおらが中心となり1920年に結成。機関誌『女性同盟』を発刊。とくに女子の政治活動を禁じた治安警察法第5条撤廃請願運動では,女子の集会参加を認めさせ,'22年に解散。
神仏混淆
しんぶつこんこう @@@LINK=神仏混淆 神仏混淆

神仏混淆
しんぶつこんこう

神仏習合
神仏習合
しんぶつしゅうごう @@@LINK=神仏習合 神仏習合

神仏習合
しんぶつしゅうごう

神と仏は同じものであるとして,神道と仏教を調和させようとする説
神仏混淆 (こんこう) ともいう。仏教は元来インドでおこったものであるが,日本に伝えられると神道と融合した。奈良時代に神社に神宮寺がつくられ,平安時代になると個々の神をそれぞれ仏と結びつける本地垂迹説が現れ,神社に仏像を置いたり,寺に鳥居をたてたりした。神仏習合は約1000年間行われてきたが,明治初期の神仏分離令によって否定された。
神仏分離
しんぶつぶんり @@@LINK=神仏分離 神仏分離

神仏分離
しんぶつぶんり

維新政府が天皇の神権的権威確立のためにとった宗教政策
1868年,政府は祭政一致の方針に基づき,神仏習合を禁止するため「神仏判然の令」(神仏分離令)を布告。神社から仏像・仏具を,また寺院から神社関係器物を除去し,神社所属の僧侶の還俗 (げんぞく) を命じた。
新聞
しんぶん @@@LINK=新聞 新聞

新聞
しんぶん

マスコミの重要な媒体
17世紀の初期から瓦版 (かわらばん) と呼ぶ1枚刷があったが,幕末,バタビアのオランダ政庁の機関紙を翻訳して『官板バタビヤ新聞』が出た。また外字新聞の翻訳筆写の『横浜新聞』も出された。近代新聞はこれらの官板新聞・筆写新聞を源流とした。定期印刷新聞としては1870年最初の日刊紙『横浜毎日新聞』が登場。ついで『東京日日新聞』『郵便報知新聞』などが創刊された。自由民権運動の高揚は,各紙を政論で特色づけ,'75年の新聞紙条例などの弾圧に抗して政論新聞が続出,ついで政党新聞が出た。また商業新聞もしだいに読者を増やした。これらの新聞が日本の近代化に果たした役割は大きい。特に北海道開拓使官有物払下げ事件における『東京横浜毎日新聞』,護憲運動に際しての『万朝報』,米騒動に際しての『朝日新聞』の活躍は有名。
新聞紙条例
しんぶんしじょうれい @@@LINK=新聞紙条例 新聞紙条例

新聞紙条例
しんぶんしじょうれい

1875(明治8)年に制定された明治政府の新聞・雑誌取締法
民撰議院設立建白を機に民権論がおこり,新聞・雑誌による専制政府攻撃が活発化すると,政府は1875年讒謗律 (ざんぼうりつ) とともに新聞紙条例を公布し,政府や法律に対する新聞の非難を禁じ,違反者には体刑や罰金刑を科した。この法律はその後改正されて,1909年の新聞紙法に継承された。
親兵
しんぺい @@@LINK=親兵 親兵

親兵
しんぺい

明治初年,天皇直属の軍隊である近衛 (このえ) 兵の前身。御親兵ともいう。
神兵隊事件
しんぺいたいじけん @@@LINK=神兵隊事件 神兵隊事件

神兵隊事件
しんぺいたいじけん

1933年7月,未然に発覚した右翼によるクーデタ未遂事件
血盟団事件,五・一五事件などの流れをくみ,大日本生産党・愛国勤労党が中心となり,閣僚・要人を倒して皇族内閣による国家改造を行おうと計画した事件。未然に発覚し検挙され内乱罪適用となったが,刑は免除された。
新編相模国風土記稿
しんぺんさがみのくにふどきこう @@@LINK=新編相模国風土記稿 新編相模国風土記稿

新編相模国風土記稿
しんぺんさがみのくにふどきこう

江戸末期,相模国に関する詳細な地誌
江戸幕府官撰。1841年成立。126巻。
新編追加
しんぺんついか @@@LINK=新編追加 新編追加

新編追加
しんぺんついか

鎌倉幕府の法令集
成立年代・編者不詳。1巻。全361条。御成敗式目制定以後,個々に発令された法令を式目追加というが,これを類別して編集したものをさす。
新編武蔵国風土記稿
しんぺんむさしのくにふどきこう @@@LINK=新編武蔵国風土記稿 新編武蔵国風土記稿

新編武蔵国風土記稿
しんぺんむさしのくにふどきこう

江戸後期,武蔵国に関する詳細な地誌
1810〜28年,林述斎が昌平坂学問所地理局を置いて編纂。265巻。前後18年間40数人によってなり,1830年幕府に献上相模国に関する『新編相模国風土記稿』とともに,地理・歴史の研究資料として価値が高い。
新補地頭
しんぽじとう @@@LINK=新補地頭 新補地頭

新補地頭
しんぽじとう

鎌倉時代,承久の乱(1221)後,新たに補任された地頭
本補地頭に対する語。乱後,鎌倉幕府は上皇方に味方をした公家武士などから没収した所領3000余か所に,御家人を地頭として任命した。その得分(収入)は,先例のない場合は新補率法で定められ,11町につき1町の免田,1段あたり5升の加徴米,山野河海の税の半分などが与えられた。
進歩党
しんぽとう @@@LINK=進歩党 進歩党

進歩党
しんぽとう

①1896年立憲改進党を中心として結成された政党(〜'98)
党首は大隈重信。第2次松方正義内閣の与党となり,大隈は外相に就任。1898年自由党と合同して憲政党を結成し,日本最初の政党内閣といわれる隈板内閣を組織した。
②「日本進歩党」の略称。
新補率法
しんぽりっぽう @@@LINK=新補率法 新補率法

新補率法
しんぽりっぽう

新補地頭の法定得分率。
神本仏迹説
しんぽんぶつじゃくせつ @@@LINK=神本仏迹説 神本仏迹説

神本仏迹説
しんぽんぶつじゃくせつ

神をもととし,はその垂迹であるとする
新町屑糸紡績所
しんまちくずいとぼうせきじょ @@@LINK=新町屑糸紡績所 新町屑糸紡績所

新町屑糸紡績所
しんまちくずいとぼうせきじょ

明治前期の官営模範工場の一つ
1877年群馬県新町に設立し,屑糸・屑繭の利用をはかった。'87年三井に払い下げられた。
新見正興
しんみまさおき @@@LINK=新見正興 新見正興

新見正興
しんみまさおき

1822〜69
江戸末期の幕臣・外交官で,日本最初の遣米使節
旗本の子として生まれ,新見家の養子となった。外国奉行・神奈川奉行を兼任し,1860年日米修好通商条約の批准交換に正使として渡米。帰国後側衆 (そばしゆう) となり,'64年辞職。

人民戦線事件
じんみんせんせんじけん @@@LINK=人民戦線事件 人民戦線事件

人民戦線事件
じんみんせんせんじけん

1937年におこった非共産党系合法左翼弾圧事件
1935年のコミンテルン第7回大会の反ファッショ人民戦線の呼びかけに応え扇動活動を行ったとして,'37年12月,日本無産党委員長加藤勘十,書記長鈴木茂三郎,社会大衆党黒田寿男,その他山川均・大森義太郎・猪俣津南雄・向坂逸郎ら400余名が検挙され,日本無産党・日本労働組合評議会は結社禁止となる。'38年第2次検挙で,その理論的指導者として大内兵衛・有沢広巳・美濃部亮吉ら労農派系学者も逮捕された。
神武景気
じんむけいき @@@LINK=神武景気 神武景気

神武景気
じんむけいき

1955〜57年にかけての好景気のこと
朝鮮特需復興を促された日本経済は,1951年以降の合理化設備投資に'56年に始まった技術革新投資が重なり,さらに世界景気の好調に助けられた輸出のめざましい伸張をによって空前好況となった。
神武天皇
じんむてんのう @@@LINK=神武天皇 神武天皇

神武天皇
じんむてんのう

記紀の伝承にみえる初代天皇
和風諡号は神日本磐余彦 (かむやまといわれひこ) 。瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) の曽孫。日向国(宮崎県)から東征。長髄彦 (ながすねひこ) を討って大和(奈良県)を平定し,辛酉の年に大和の橿原宮に即位。この年が西暦紀元前660年で,日本紀元元年とされる(➡ 讖緯 (しんい) 説)。天皇は127歳で死んだというが,実在とは考えられず,史実ではない。10代崇神天皇(始馭天下之天皇 (はつくにしらすすめらみこと) )と同一視する説もある。
神明造
しんめいづくり @@@LINK=神明造 神明造

神明造
しんめいづくり

伊勢神宮に代表される神社建築の一様式
大社造とともに神社建築の代表で,切妻・平入り,掘立柱,高床式などが特色。屋根には千木・堅魚木 (かつおぎ) 10本を置く。白木造で直線的美を表す。
陣屋
じんや @@@LINK=陣屋 陣屋

陣屋
じんや

江戸時代,代官などの役人が任地に所有していた屋敷
元来は軍隊の駐屯した陣営のこと。また江戸時代,城郭をもたない大名の館も陣屋といった。
新薬師寺
しんやくしじ @@@LINK=新薬師寺 新薬師寺

新薬師寺
しんやくしじ

奈良市高畑町にある華厳宗の寺
747年,光明皇后が行基に命じて建立。本尊『薬師如来像』は平安初期の作で一木造の巨像。本尊をめぐって円壇に,天平末期の代表作である『十二神将像』(塑像)が並んでいる。
辛酉革命
しんゆうかくめい @@@LINK=辛酉革命 辛酉革命

辛酉革命
しんゆうかくめい

中国古代の讖緯 (しんい) 説に基づく思想。
新葉和歌集
しんようわかしゅう @@@LINK=新葉和歌集 新葉和歌集

新葉和歌集
しんようわかしゅう

南北朝時代の準勅撰和歌集
1381年成立。20巻。歌数約1420首。宗良 (むねよし) 親王の撰。『風雅和歌集』など北朝の勅撰集にもれた後醍醐 (ごだいご) 天皇以下南朝廷臣の作を収録した。全般に二条家の亜流を出ないが,戦陣の間から生まれた特色をもつ。南朝の史実研究に重要史料。
親鸞
しんらん @@@LINK=親鸞 親鸞

親鸞
しんらん

1173〜1262
鎌倉初期の僧。浄土真宗(一向宗)の開祖
初め比叡山の学僧として修学したが,やがて法然の門に入る。旧仏教勢力の弾圧をうけ法然に連坐して越後に配流され,のち常陸(茨城県)に移住。20余年の長きにわたって下級武士・農民の間に教えを説き,多くの門弟を育て,晩年京都へ帰る。親鸞の教えの特色は,法然の思想をさらに徹底させた絶対他力の信仰と,悪人正機説である。主著『教行信証』や,弟子唯円 (ゆいえん) が師の語録をまとめた『歎異抄 (たんにしよう) 』によって,その思想をうかがうことができる。

人力車
じんりきしゃ @@@LINK=人力車 人力車

人力車
じんりきしゃ

明治時代の代表的乗物で,人力で引く乗用二輪車
人力・力車ともいう。1869年和泉要助らが発明。文明開化象徴の一つとして普及。関東大震災ののちは中国・東南アジア・アフリカなどにも輸出された。
新律綱領
しんりつこうりょう @@@LINK=新律綱領 新律綱領

新律綱領
しんりつこうりょう

明治初年の刑法
1870年発布。6巻。192条。中国の明・清律を基本として,これに養老律・御定書百箇条などを参考にして編集。刑罰に身分的差別があったが,広く天下に示され,従来秘密主義を破った。'73年の改定律例とともに,'82年の旧刑法施行まで行われた。
新論
しんろん @@@LINK=新論 新論

新論
しんろん

江戸後期,水戸藩士会沢正志斎の著書
2巻。1825年,内外の急迫した時局に対し,神道・儒教思想によって国体・形勢・虜情・守禦・長計の5編にわけ新政策を主張。'57年門人たちが秘かに刊行。幕末尊王攘夷思想の有力な先駆となった。
神話
しんわ @@@LINK=神話 神話

神話
しんわ

日本神話
新和様
しんわよう @@@LINK=新和様 新和様

新和様
しんわよう

鎌倉時代建築様式の一派
和様に大仏様禅宗様を部分的に加味した折衷様式

ず @@@LINK=徒 徒



律令の刑罰の一つ。➡ 五刑

ずい @@@LINK=隋 隋


ずい

中国の統一王朝(581〜618)
北周の外戚の楊堅(文帝)が北周を倒して建国。589年には南朝の陳を征服し,3世紀以来分裂していた中国を統一した。均田制・科挙制・府兵制などを行い,門閥や豪族の勢力を打破して,中央集権の確立をはかった。しかし急激な中央集権化や,煬帝 (ようだい) の大運河の建設,高句麗征討の失敗などにより人民の支持を失い,618年唐の李淵(太祖)に滅ぼされた。日本からは小野妹子らの遣隋使が派遣された。
垂加神道
すいかしんとう @@@LINK=垂加神道 垂加神道

垂加神道
すいかしんとう

江戸前期,山崎闇斎が説いた神道説
朱子学や伊勢・吉川神道の思想をとり入れ大成したもの。皇室中心の考え方で,水戸学や竹内式部の尊王論,幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。
水干
すいかん @@@LINK=水干 水干

水干
すいかん

平安中期から鎌倉時代に着用された狩衣の一種
糊を使わず水張りにして干した絹という意から出た名称。布・絹・綾の類を用い,襟 (えり) をひもで結び合わせ,要所に菊綴 (きくとじ) をつけるのが特色。平安末期から無位の官人の常用服,庶民の晴着となった。
瑞溪周鳳
ずいけいしゅうほう @@@LINK=瑞溪周鳳 瑞溪周鳳

瑞溪周鳳
ずいけいしゅうほう

1391〜1473
室町中期の臨済宗五山文学
和泉国(大阪府)の人。足利義教・義政に信任され,相国寺鹿苑院蔭涼軒に住し,僧録司となる。詩文にすぐれ,また外交史書『善隣国宝記』,日記『臥雲日件録』などの著書がある。
出挙
すいこ @@@LINK=出挙 出挙

出挙
すいこ

古代,農民に対する稲などの利付き貸付制度
春貸しつけて秋に返させた。政府が行う公出挙 (くすいこ) は5割の利息,民間で行う私出挙は10割の利息をとった。公出挙は本来貧農救済を目的としたが,奈良時代以降は貸付が強制され租税化した。
推古天皇
すいこてんのう @@@LINK=推古天皇 推古天皇

推古天皇
すいこてんのう

554〜628
6〜7世紀前期の女帝(在位592〜628)
欽明天皇の皇女,母は蘇我稲目の娘堅塩媛 (きたしひめ) 。敏達 (びたつ) 天皇の皇后となり,592年崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されたのち最初の女帝として即位。甥の聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行った。その治世には冠位十二階,憲法十七条,国史の編纂,法隆寺の建立などがあり,文化史上飛鳥時代と呼ばれる一時代を築いた。

隋書倭国伝
ずいしょわこくでん @@@LINK=隋書倭国伝 隋書倭国伝

隋書倭国伝
ずいしょわこくでん

中国,隋朝の正史隋書』中の倭国に関する
『隋書』は629年唐の魏徴らの撰。巻81の「東夷伝」倭国の条に日本の実情を述べている。600年以来4回の遣隋使や,推古天皇治世の事情を記す。『日本書紀』の記録とは必ずしも一致しない。
随身
ずいじん @@@LINK=随身 随身

随身
ずいじん

平安時代,貴族の外出の際,勅宣によって随従し警衛のにあたった左右近衛府の舎人 (とねり)
その人数は,太上天皇には14人,摂関10人,大臣・大将8人,納言・参議6人で,弓矢を持ち太刀を帯びた。
水稲耕作
すいとうこうさく @@@LINK=水稲耕作 水稲耕作

水稲耕作
すいとうこうさく

稲作の一形態
大陸から前3〜2世紀ころ初めて伝えられた稲作は水稲耕作で,日本の大部分の地域は食料生産段階に入った。初期の状態は唐古 (からこ) ・鍵遺跡登呂 (とろ) 遺跡などの遺構・遺物で推察されている。
水平社
すいへいしゃ @@@LINK=水平社 水平社

水平社
すいへいしゃ

大正・昭和期の部落解放運動の中心組織
大正デモクラシー期の社会運動の発展の中で,不当な差別をうけつづけた被差別部落民は政府の融和事業に満足できず,1922年3月,京都で全国水平社を創立。'23年末までに全国に240余りの地方水平社が結成され,差別事件の糾弾全力を注いだ。その後,労働者・農民運動との結合を深めたが,ファシズムの重圧下に1940年,その活動は停止を余儀なくされた。現在の部落解放同盟の前身
水墨画
すいぼくが @@@LINK=水墨画 水墨画

水墨画
すいぼくが

東洋独自の技法と様式をもった絵画様式。墨絵
墨の濃淡で立体感・色感を表す単色画で,基本的技法には強い墨線を主とする破墨 (はぼく) と柔らかい濃淡の墨色を主とする潑墨 (はつぼく) がある。唐代ごろにおこり,宋・元代に全盛となる。破墨は鎌倉時代に禅僧が輸入。室町時代に如拙・周文のあと雪舟が出て日本的水墨画を完成し,全盛期をむかえた。以後,狩野・海北派らに受け継がれ,潑墨は江戸中期に池大雅・与謝蕪村・浦上玉堂らにより文人画として栄えた。
枢軸国
すうじくこく
axis-power @@@LINK=枢軸国 枢軸国

枢軸国
すうじくこく
axis-power

1936〜45年における日本・ドイツ・イタリアのファシズム3国によるアメリカ・イギリスに対する同盟関係
1936年,ドイツとイタリアの間にベルリン・ローマ枢軸が結成され,翌'37年日本も参加,日独伊防共協定を結んだ。さらに'40年日独伊三国同盟によって完成された。
崇伝
すうでん @@@LINK=崇伝 崇伝

崇伝
すうでん

1569〜1633
江戸初期の臨済宗の禅僧
字 (あざな) は以心。京都の人で,南禅寺の再興に尽力し同寺の長老となり,金地院に住した。金地院 (こんちいん) 崇伝ともいう。1608年徳川家康に仕え,外交および寺社行政を管掌諸宗寺院法度禁中並公家諸法度・武家諸法度を起草し,政治的にも活躍,「黒衣の宰相」といわれたが,家康死後は権力を失った。

金光明最勝王経
こんこうみょうさいしょうおうきょう @@@LINK=金光明最勝王経 金光明最勝王経

金光明最勝王経
こんこうみょうさいしょうおうきょう

奈良時代鎮護国家の経として重んじられた経典
『金光明経』の漢訳。10巻。唐の義浄の訳。この経典が誦される国を四天王が守護すると説き,写経されて諸国の国分寺に置かれた。
金光明四天王護国之寺
こんこうみょうしてんのうごこくのてら @@@LINK=金光明四天王護国之寺 金光明四天王護国之寺

金光明四天王護国之寺
こんこうみょうしてんのうごこくのてら

国分寺
金剛力士像
こんごうりきしぞう @@@LINK=金剛力士像 金剛力士像

金剛力士像
こんごうりきしぞう

伽藍を守護するため寺門に安置された一対の仏像
仁王ともいい,裸体の忿怒 (ふんぬ) の形に表現される。口を開いた方を阿 (あ) 像,口を閉じた方を吽 (うん) 像という。法隆寺の塑造仁王像が最も古く,東大寺南大門の木造(運慶快慶作)は傑作とされる。
今昔物語集
こんじゃくものがたりしゅう @@@LINK=今昔物語集 今昔物語集

今昔物語集
こんじゃくものがたりしゅう

平安後期の説話集
12世紀初めころの成立。編者不詳。天竺 (てんじく) (インド)・震旦 (しんたん) (中国)・本朝(日本)の3部31巻よりなる。仏教説話が多いが,本朝部の後半,世俗編においては,貴族・武士・庶民の姿を躍動的なユーモアを通して描写。和語漢語梵語の和漢混交文で書かれ,のちの説話文学に多大な影響を与えた。
誉田御廟山古墳
こんだごびょうやまこふん @@@LINK=誉田御廟山古墳 誉田御廟山古墳

誉田御廟山古墳
こんだごびょうやまこふん

大阪府羽曳野 (はびきの) 市にある,応神天皇の墳墓といわれる巨大古墳
応神陵古墳ともいう。古墳時代中期の前方後円墳で,全長418m,後円部径267m,前方部幅330m,後円部高さ36m。2重の濠をめぐらし,大山古墳仁徳陵古墳)につぐ日本第2位の大きさを誇っている。数多くの陪冢 (ばいちよう) をもつ。
金地院崇伝
こんちいんすうでん @@@LINK=金地院崇伝 金地院崇伝

金地院崇伝
こんちいんすうでん

崇伝
コンツェルン
Konzern @@@LINK=コンツェルン コンツェルン

コンツェルン
Konzern

商品の生産から販売に至る種々の諸企業が,銀行あるいは持株会社によって支配・統制されている独占資本の最高形態
カルテル・トラストより集中度の高い企業合同の形態で,アメリカのモルガン・ロックフェラー・デュポン,日本では戦前の四大財閥などがその典型。
健児
こんでい @@@LINK=健児 健児

健児
こんでい

平安時代の兵制
792年,桓武天皇のとき,奥羽・佐渡・大宰府管内の諸国を除く軍団の廃止に伴って正規の兵制となった。兵士の質の向上のため郡司・富裕者・有位者の子弟を採用し,その数は国の大小・位置によって異なり20〜200人。1年60日交替で国府などの警備にあたり,徭役は免除された。平安中期以降衰滅。
墾田
こんでん @@@LINK=墾田 墾田

墾田
こんでん

律令制下,公地以外に新しく開かれた田地
原則として輸租田。律令制では土地公有を原則としたが,人口の自然増加などによる口分田不足から,723年に三世一身法,743年に墾田永年私財法が公布され,公地主義の原則が破られた。以後,貴族・寺社などによる私墾田の開発・経営が急増し,太政官符民部省符国司免判などによる不輸租化に伴って荘園が成立した。
墾田永代私有令
こんでんえいたいしゆうれい @@@LINK=墾田永代私有令 墾田永代私有令

墾田永代私有令
こんでんえいたいしゆうれい

墾田永年私財法
墾田永年私財法
こんでんえいねんしざいほう @@@LINK=墾田永年私財法 墾田永年私財法

墾田永年私財法
こんでんえいねんしざいほう

奈良時代,開墾地の永久私有を認めた法令
743(天平15)年発布。723(養老7)年の三世一身法を大幅に改変したもので,位階による開墾面積の制限,百姓の妨げとなる土地の禁止,申請後3年以内に開墾に着手すべきこと,開墾には国司の承認の必要なこと,などの条件をつけ,墾田の永久私有を認めた。有力寺社・貴族・地方豪族はこの法令を利用し盛んに開墾を進め荘園制展開の起点となった。
墾田地系荘園
こんでんちけいしょうえん @@@LINK=墾田地系荘園 墾田地系荘園

墾田地系荘園
こんでんちけいしょうえん

古代荘園領主未開荒野定したのち,開墾してできた荘園
私有地化した口分田の買得・囲い込みや位田・職田などの私有地化により集積した初期荘園。荘域が広く,未開の荒野を多く含んだ。
近藤勇
こんどういさみ @@@LINK=近藤勇 近藤勇

近藤勇
こんどういさみ

1834〜68
江戸末期の幕臣。新撰組隊長
武蔵(東京都)多摩郡調布の人。京都守護職の支配下に属して新撰組を組織し,池田屋事件で長州藩尊攘派志士を襲撃するなど弾圧の先鋒として活躍。1868年鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸に帰り,甲陽鎮撫隊を組織した。甲斐(山梨県)勝沼・下総(千葉県)流山 (ながれやま) で新政府軍と戦って敗れ,捕らわれて板橋で斬首された。

近藤重蔵
こんどうじゅうぞう @@@LINK=近藤重蔵 近藤重蔵

近藤重蔵
こんどうじゅうぞう

1771〜1829
江戸後期の幕臣・北方探検家
本名は守重,号は正斎。江戸の人。1798年蝦夷地 (えぞち) 御用を命ぜられて国後 (くなしり) ・択捉 (えとろふ) 島を探検,択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱をたてた。以後5度蝦夷地を探検。国防・地理・風俗など多くの著述がある。晩年,長男の殺害事件に連坐し改易となり,不遇のうちに没した。

金銅像
こんどうぞう @@@LINK=金銅像 金銅像

金銅像
こんどうぞう

金銅を素材とした仏像
銅に (すず) をまぜたブロンズ像に金メッキを施したもの。天平時代以前の仏像に多い。代表作に飛鳥寺の大仏法隆寺金堂『釈迦三尊像』,薬師寺金堂『薬師三尊像』など。
コンドル
Josiah Conder @@@LINK=コンドル コンドル

コンドル
Josiah Conder

1852〜1920
イギリスの建築家
1877年来日。工部省技師,工部大学校造家学科主任教師として,明治の日本建築界の育成・発展に貢献した。皇居・議事堂・東京帝室博物館・鹿鳴館などを設計。東京で没した。
金春座
こんぱるざ @@@LINK=金春座 金春座

金春座
こんぱるざ

能楽の一流派。大和四座の一つ
「今春」とも書く。鎌倉時代奈良猿楽に始まり大和四中最も古い。祖先が南大和から奈良にのぼり,西京円満寺付近に住していたので,もと円満井 (えまい) 座といった。興福寺春日神社奉仕。奈良で興福寺猿楽の伝統から首座を占めた。室町時代金春禅竹が中興し,今も金春流として続いている。
金春禅竹
こんぱるぜんちく @@@LINK=金春禅竹 金春禅竹

金春禅竹
こんぱるぜんちく

1405〜68
室町中期の能役者・作者。金春座中興の祖
実名は七郎氏信,禅竹は法名。1428年金春大夫となる。世阿弥の女婿として指導をうけ,一休宗純にも師事。幽玄の芸風を加え,金春流の基礎を確立した。理論家としてもすぐれ,芸論も多い。主著『至道要抄』。

根本領主
こんぽんりょうしゅ @@@LINK=根本領主 根本領主

根本領主
こんぽんりょうしゅ

開発領主
困民党
こんみんとう @@@LINK=困民党 困民党

困民党
こんみんとう

明治前期,貧農の組織
借金党・負債党とも呼ばれた。松方財政の影響により農村は深刻な不況に見舞われた。そのため1883〜84年,関東の西部,中部地方の南東部に,負債利子の減免,元金の年賦償却などを要求した農民一揆が組織的・持続的に展開する中で組織された。自由民権運動が激化する中で,'84年秩父事件をおこした。

ざ @@@LINK=座 座



中世,商工業者などの特権的同業組合
平安末期より畿内の貴族・寺社を本所とする手工業者が,課役を負う代わりに仕入れ・販売の独占,関銭の免除などの特権を得て結成。八坂神社の綿座,北野神社 (こうじ) 座などが有名。鎌倉末期より一般商工業者も特権を求めて参加し,一方荘園減少に苦しむ本所も座役を財源とするため座を保護したので,室町時代の商工業・産業の発達に貢献した。しかしその特権を守るための閉鎖性が商工業の発達を妨げるようになると,富国強兵を目ざす戦国大名の楽市・楽座政策によって消滅させられた。
斎院
さいいん @@@LINK=斎院 斎院

斎院
さいいん

京都の賀茂神社に奉仕する未婚の皇女,またはその皇女の居所
「いつきのみや」とも読む。810(弘仁元)年嵯峨天皇の皇女有智子 (うちこ) 内親王に始まり,13世紀初期の後鳥羽天皇の皇女礼子内親王まで続いた。
歳役
さいえき @@@LINK=歳役 歳役

歳役
さいえき

律令制において公民男子に課せられた徭役の一つ
京畿以外の正丁 (せいてい) が年10日間,次丁は年5日間京に出て食糧自弁で労役に従事した。しかし,実際に行われたかは疑わしく,一般に庸を代納したと考えられている。
西園寺公経
さいおんじきんつね @@@LINK=西園寺公経 西園寺公経

西園寺公経
さいおんじきんつね

1171〜1244
鎌倉初期の公卿
妻は源頼朝の姪。4代将軍九条頼経の生母の父。1221年承久の乱には幕府との関係から閉されたが,乱後幕府の支援で太政大臣,関東申次として権威ふるい,西園寺家の基礎を築いた。のち京都北山に西園寺を建て移り住み,以後西園寺氏と称した。

西園寺公望
さいおんじきんもち @@@LINK=西園寺公望 西園寺公望

西園寺公望
さいおんじきんもち

1849〜1940
明治〜昭和期の政治家
公卿出身。明治初頭にフランスに留学し,自由主義思想を知り,帰国後『東洋自由新聞』を発刊。伊藤博文の信任をうけ,各国公使・文相・枢密院議長などを歴任。1903年立憲政友会総裁となり,'06〜08年と'11〜12年の2回内閣を組織。以後元老として首相推薦の任にあたる。パリ講和会議の首席全権もつとめた。

西園寺公望内閣
さいおんじきんもちないかく @@@LINK=西園寺公望内閣 西園寺公望内閣

西園寺公望内閣
さいおんじきんもちないかく

西園寺公望を首班とし立憲政友会を母胎とする内閣
〔第1次〈1906.1〜08.7〉〕日露戦争後の戦後経営にあたり,第3次日韓協約,鉄道国有法,第1次日露協約を成立させた。また日本社会党の結党を承認。〔第2次〈'11.8〜12.12〉〕 財政緊縮を進め,2個師団増設問題で軍部と対立,上原勇作陸相の辞職により総辞職した。
西園寺家
さいおんじけ @@@LINK=西園寺家 西園寺家

西園寺家
さいおんじけ

藤原北家閑院流の家。清華家(摂家につぐ公家の家格)の一つ
琵琶の家として有名。鎌倉初期に4代公経 (きんつね) が京都北山の別荘に西園寺を建て移り住み,以後これが家名となった。代々幕府の後援により太政大臣となり,朝幕間の連絡役をつとめ,また皇室の外戚として勢威をふるった。建武の新政以後衰えたが,近代に入り公望 (きんもち) が出た。
雑賀一揆
さいがいっき @@@LINK=雑賀一揆 雑賀一揆

雑賀一揆
さいがいっき

安土桃山時代,紀伊国(和歌山県)雑賀地方を中心におこった一向一揆
紀の川デルタ雑賀地区の土豪・国人・本願寺門徒らは,織田信長と石山本願寺との間に石山合戦(1570〜80)が始まると,蜂起して信長に抵抗した。鉄砲使用に習練をつみ威力を示したが,'77年信長に敗北。
西海道
さいかいどう @@@LINK=西海道 西海道

西海道
さいかいどう

律令制下の五畿七道の一つ
現在の九州地方。筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬の9国2島をいう。大宰府が西海道諸国を統轄した。
西行
さいぎょう @@@LINK=西行 西行

西行
さいぎょう

1118〜90
平安末期の歌人
藤原秀郷の子孫。 俗名佐藤義清 (のりきよ) 。もと鳥羽法皇に仕えた北面の武士。23歳で出家し,旅の詩人としてほとばしり出る感慨を歌に託し,自然・人生を叙情的に歌った。『新古今和歌集』で一番多く歌がおさめられている。家集に『山家集』1巻。

西教寺
さいきょうじ @@@LINK=西教寺 西教寺

西教寺
さいきょうじ

滋賀県大津市坂本町にある天台宗真盛派の総本山
推古天皇のときの創建と伝えられ,平安時代には源信の念仏道場であったという。1486年真盛が再興したが,1571年織田信長の焼打ちによって焼失し(延暦寺焼打ち),'74年再建。寺内に明智光秀の墓がある。
斎宮
さいぐう @@@LINK=斎宮 斎宮

斎宮
さいぐう

伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女または王女
「いつきのみや」とも読む。崇神天皇の皇女豊鋤入姫 (とよすきいりひめ) 命に始まるという。7世紀後半の天武朝以来この制度が確立し,天皇の代わるたびに斎宮も代わった。14世紀前半の後醍醐 (ごだいご) 天皇の皇女祥子内親王まで75代続き,以後廃絶した。
西宮記
さいぐうき @@@LINK=西宮記 西宮記

西宮記
さいぐうき

平安中期,左大臣源高明の有職 (ゆうそく) 書
「さいきゅうき」とも読む。朝廷の年中行事や儀式,史実や制度を知る重要な史料。
再軍備論争
さいぐんびろんそう @@@LINK=再軍備論争 再軍備論争

再軍備論争
さいぐんびろんそう

第二次世界大戦後,日本国憲法第9条第2項をめぐる,再軍備合憲違憲かの論争
1952年3月6日,参議院予算委員会で,吉田茂首相は「自衛戦力は憲法違反に非ず」と発言し,野党との間に紛糾をおこした。また同年10月,最高裁判所は警察予備隊の違憲訴訟を却下し,'54年12月には憲法9条の政府統一見解が発表されたが,論争は現在も続いている。
在家
ざいけ @@@LINK=在家 在家

在家
ざいけ

②中世,国衙 (こくが) 領・荘園において,在家役収取の対象となった単位
①出家に対し在俗のまま仏道に帰依する者。
もと住居のであったが,中世では農民・屋敷田畑を一括して在家として,領主は財産視した。存在形態は時代・地域により多様で,東国や南九州などに多くみられる。
最恵国待遇条款
さいけいこくたいぐうじょうかん @@@LINK=最恵国待遇条款 最恵国待遇条款

最恵国待遇条款
さいけいこくたいぐうじょうかん

条約締結国の一方が第三国に利益を与えた場合,同等の権利を先の条約締結国の相手方にも与えることを定めた条項
双務的であることが原則であるが,幕末幕府列国と締結した和親条約・修好通商条約は片務的で日本に不利であったので,条約改正の主要目標の一つとなった。陸奥宗光の外交交渉で,通商航海に関するいっさいの事項の相互的無条件主義が達成され,1911年の条約改正で輸出入税・内国税の不平等な最恵国待遇条款が撤廃された。
西光
さいこう @@@LINK=西光 西光

西光
さいこう

?〜1177
平安末期の後白河院の近臣
藤原師光 (もろみつ) のこと。藤原通憲 (みちのり) に仕え,平治の乱(1159)後出家して西光と称した。後白河法皇の寵愛をうけ,'77年藤原成親らと鹿ケ谷 (ししがたに) で平氏打倒のをめぐらし,発覚して平清盛に殺された(鹿ケ谷の陰謀,鹿ケ谷事件)。
在郷軍人会
ざいごうぐんじんかい @@@LINK=在郷軍人会 在郷軍人会

在郷軍人会
ざいごうぐんじんかい

帝国在郷軍人会
最高裁判所
さいこうさいばんしょ @@@LINK=最高裁判所 最高裁判所

最高裁判所
さいこうさいばんしょ

日本国憲法下の司法権の最高機関
民事・刑事・行政すべての司法事件を扱う。1947年東京に設置。旧大審院にあたるが,違憲立法審査権を有し権限ははるかに強い。裁判官は15名で,長官は内閣の指名に基づいて天皇が任命し,ほかは内閣が任命。国民審査に付される。
在郷商人
ざいごうしょうにん @@@LINK=在郷商人 在郷商人

在郷商人
ざいごうしょうにん

江戸中期以後,農村に現れた百姓身分の商人
農村で商品生産が進むと,上層農民の中には,綿菜種などの農産物や生糸・木綿・絹織物などの生産加工物を商う問屋的商人となるものがでてきた。なかには家内手工業の経営者もあり,株仲間を結ぶ都市の特権商人と対抗した。天保の改革における株仲間解散の一因ともなった。
西郷隆盛
さいごうたかもり @@@LINK=西郷隆盛 西郷隆盛

西郷隆盛
さいごうたかもり

1827〜77
幕末・維新期の政治家・軍人
維新三傑の一人。通称吉之助,号は南州。薩摩藩出身。尊王攘夷運動・討幕運動を指導し,薩長連合・王政復古の実現に努力。戊辰 (ぼしん) 戦争に参謀として参加,江戸城無血開城に尽力した。明治新政府の参与・参議となり,廃藩置県を遂行したが,1873年征韓論を唱え,敗れて下野。帰郷して鹿児島に私学校を開設したが,士族に擁立され '77年西南戦争をおこし,敗れ城山で自刃。

西郷従道
さいごうつぐみち @@@LINK=西郷従道 西郷従道

西郷従道
さいごうつぐみち

1843〜1902
明治時代の軍人・政治家
海軍大将・元帥。隆盛の実弟。薩摩藩出身。1869年山県有朋らと渡欧し,兵制を調査・研究。帰国後,陸海軍創設に貢献し,1874年には台湾出兵を指揮した。その後,海軍大臣・内務大臣・枢密顧問官を歴任。のち元老となる。

西国三十三カ所札所詣
さいごくさんじゅうさんかしょふだしょもうで @@@LINK=西国三十三カ所札所詣 西国三十三カ所札所詣

西国三十三カ所札所詣
さいごくさんじゅうさんかしょふだしょもうで

近畿地方にある33カ所の観音霊場を巡拝すること
観音菩薩が33種に化身して民衆を救済するという観音経由来。養老年中(717〜724),長谷寺得道の伝説に発し,986年花山法皇の巡礼に始まると伝える。江戸時代紀伊国和歌山県那智に始まり美濃国岐阜県谷汲山 (たにぐみやま) に終わるコースが一定した。
西国立志編
さいごくりっしへん @@@LINK=西国立志編 西国立志編

西国立志編
さいごくりっしへん

明治初年,中村正直 (まさなお) の翻訳書
1871年刊。13編11冊。原書はイギリス人スマイルズの『自助論(Self Help)』。西洋史上有名な300余人の言行を通して,自主独立の精神を鼓吹し,維新期の青少年の啓蒙に貢献した。
祭祀遺跡
さいしいせき @@@LINK=祭祀遺跡 祭祀遺跡

祭祀遺跡
さいしいせき

古代の祭り儀式が行われた場所,または祭祀に用いられた遺物の出土する場所
境内・山・石なども対象と考えられ,時代も縄文時代から古墳時代にわたっている。なかでも奈良県の三輪山,福岡県の宗像 (むなかた) 神社の沖ノ島遺跡が有名。
最勝寺
さいしょうじ @@@LINK=最勝寺 最勝寺

最勝寺
さいしょうじ

平安末期,鳥羽天皇の発願により京都市東山区岡崎付近に建てられた六勝寺の一つ。
祭政一致
さいせいいっち @@@LINK=祭政一致 祭政一致

祭政一致
さいせいいっち

神を祭ることと政治とは一致するという考え方
古代から政治の基本理念とされ,明治維新にも政治の原理として強調され,天皇神格化の主柱となった。
済生会
さいせいかい @@@LINK=済生会 済生会

済生会
さいせいかい

明治末期の施薬医療機関
増大する社会問題,ことに大逆事件による社会不安などに対処するため,1911年明治天皇の下賜金をもとに政府が中心となって設立した公益法人。貧民救済・巡回診察などを行った。現在は民間団体として,各地に病院・診療所などを経営する。
細石器
さいせっき @@@LINK=細石器 細石器

細石器
さいせっき

旧石器時代最終期の小型の石器
小型の刃器を骨・木・角などに刻まれた溝に数個をはめこんで,組合せ道具の刃に使用された。
西大寺
さいだいじ @@@LINK=西大寺 西大寺

西大寺
さいだいじ

奈良市西大寺町にある真言律宗の総本山。南都七大寺の一つ
765年称徳天皇の勅願により建立。東大寺と並ぶ鎮護国家の寺として栄えたが,平安時代にはたびたびの火災で衰退した。13世紀初め叡尊 (えいそん) が再興して律宗の道場となり,社会事業も行ったが,16世紀初め兵火にあい再び衰えた。
最澄
さいちょう @@@LINK=最澄 最澄

最澄
さいちょう

767〜822
平安初期の高僧。天台宗の開祖
諡号 (しごう) は伝教大師。近江(滋賀県)の人。12歳で出家し,785年比叡山にこもり修行。桓武天皇の信任を得,入唐して天台宗を学んだ。帰国後806年に天台宗を開宗。比叡山に延暦寺をつくり,弟子の養成にあたった。晩年,一乗思想を唱えて法相宗の徳一法師と論争し,比叡山に大乗戒壇をつくろうとして僧綱 (そうごう) と対立。死後7日目に大乗戒壇設立が許可された。著書に『顕戒論』『山家学生式』など。

在庁官人
ざいちょうかんじん @@@LINK=在庁官人 在庁官人

在庁官人
ざいちょうかんじん

平安中期以後,国衙 (こくが) において国司の命により実務にあたった地方役人の総称
遙任 (ようにん) の際,国司は在京して任国には目代を派遣し,その下に在庁官人を置いて事務を委任した。多くは地方豪族が任命され世襲し,しだいに武士化していった。その役所を留守所とも呼ぶ。
斎藤氏
さいとうし @@@LINK=斎藤氏 斎藤氏

斎藤氏
さいとうし

①中世,美濃守護土岐氏の守護代
②戦国時代,美濃の戦国大名
藤原北家魚名の子孫。13世紀中ごろ,美濃の目代として下向。戦国時代,利藤のとき稲葉山城に拠る。のち西村勘九郎(斎藤道三)に滅ぼされた。
守護代斎藤氏を滅ぼした勘九郎が斎藤道三を称す。稲葉山城に拠り守護土岐氏を追い美濃を支配。義竜・竜興と継ぎ,竜興の代に織田信長に滅ぼされた。
斎藤隆夫
さいとうたかお @@@LINK=斎藤隆夫 斎藤隆夫

斎藤隆夫
さいとうたかお

1870〜1949
大正・昭和期の政治家
兵庫県の生まれ。東京専門学校(現早大)卒。憲政会・民政党所属の衆議院議員。軍部ファシズムに抵抗し,二・二六事件(1936)直後の議会で粛軍演説を,'40年には日中戦争処理について反軍演説を行い議会から除名された。'42年の翼賛選挙では非推薦で当選した。第二次世界大戦後,第1次吉田茂内閣の国務大臣となる。

斎藤道三
さいとうどうさん @@@LINK=斎藤道三 斎藤道三

斎藤道三
さいとうどうさん

1494〜1556
戦国時代の武将
もと油売り商人。美濃の西村氏を経て,老臣長井氏を継ぎ,さらに守護代斎藤氏を滅ぼし斎藤秀竜を名のり,稲葉山城に拠って守護土岐氏を追い美濃の実権を握った。晩年,長子義竜と争い敗死。北条早雲とともに成り上がり戦国大名の典型とされる。

斎藤実
さいとうまこと @@@LINK=斎藤実 斎藤実

斎藤実
さいとうまこと

1858〜1936
明治〜昭和期の軍人・政治家
海軍大将。陸奥(岩手県)の生まれ。第1次西園寺公望 (きんもち) 内閣から連続して5内閣の海相を歴任。1919年朝鮮総督,'27年ジュネーヴ海軍軍縮会議全権となる。'32年,五・一五事件後に挙国一致内閣を組織。のち内大臣となり,二・二六事件で暗殺された。

斎藤茂吉
さいとうもきち @@@LINK=斎藤茂吉 斎藤茂吉

斎藤茂吉
さいとうもきち

1882〜1953
大正・昭和期の歌人
本業は精神科医。本名茂吉 (しげよし) 。山形県の生まれ。東大医学部卒。伊藤左千夫に師事し,『アララギ』の編集を担当,島木赤彦らとアララギ派の歌風を確立した。 近代人の生活に根ざした写生・万葉調の歌を詠む。1951年文化勲章受章。著書には歌集『赤光 (しやつこう) 』『あらたま』,歌論『童馬漫語』など。

西都原古墳群
さいとばるこふんぐん @@@LINK=西都原古墳群 西都原古墳群

西都原古墳群
さいとばるこふんぐん

宮崎県西都市にある古墳群
大小330基の古墳が群集し,円墳・方墳・前方後円墳がある。前方後円墳の中には全長219m,後円部径128mにも及ぶ壮大なものもあるが,全長30〜90mほどのものが多い。大部分は5〜6世紀ごろの築造と考えられる。
済南事件
さいなんじけん @@@LINK=済南事件 済南事件

済南事件
さいなんじけん

1928(昭和3)年,中国山東省済南における日中両軍の武力衝突
第2次山東出兵の日本軍は,済南に入城し北伐を再開した国民革命軍の対張作霖軍事行動を妨害し,警戒区域境界線を通過した国民革命軍1兵士を射殺,国民革命軍に総攻撃を加えた。日本政府は第3次山東出兵を声明国民政府国際連盟に提訴したため,'29年協定が成立し,日本は撤兵した。
財閥
ざいばつ @@@LINK=財閥 財閥

財閥
ざいばつ

特定の一族の支配になる日本のコンツェルン型独占資本
江戸時代の高利貸資本や維新後創業した者で政商として保護育成されたものが多く,軍需との関係も深く,封建的な人間関係を残す。三井・三菱(岩崎)・住友・安田の四大財閥のほか,古河・大倉・渋沢・鴻池 (こうのいけ) などがあり,満州事変後にも中島鮎川などの新興財閥が成長した。第二次世界大戦後,占領軍命令で財閥解体が進められ,特定家族の支配は消滅したものの,独占資本としての機能は,大銀行を核とした企業グループ・融資系列の形で残った。
財閥解体
ざいばつかいたい @@@LINK=財閥解体 財閥解体

財閥解体
ざいばつかいたい

第二次世界大戦後,ポツダム宣言に基づく占領政策として,日本に課せられた経済民主化政策の一つ
1945年11月,GHQの財閥解体指令に基づき,政府はまず三井・三菱・住友・安田の4社をはじめ,83社の解体方針を示した。ついで翌年3月に393の制限会社を指定し,持株会社整理委員会を設け,財閥家族の所有株を強制再分配した。また'47年独占禁止法によりカルテルを禁止,その実施機関として公正取引委員会を設置し,さらに過度経済力集中排除法により巨大独占企業の分割・再編に着手したが,占領政策の転換により不徹底に終わった。
催馬楽
さいばら @@@LINK=催馬楽 催馬楽

催馬楽
さいばら

古代民謡の一種
語源は馬子唄説や唐楽からきたものとする説など種々あるが,平安時代に宮廷貴族の間で広く歌われた。歌詞は叙情的小曲風のもので,古代の素朴な恋愛を歌ったものが多い。
サイパン島
サイパンとう
Saipan @@@LINK=サイパン島 サイパン島

サイパン島
サイパンとう
Saipan

西太平洋,マリアナ諸島の一島
1899年ドイツ領,第一次世界大戦後日本の委任統治領となる。太平洋戦争末期の1944年,アメリカ軍が上陸し,激戦ののち日本軍は玉砕,以後日本空襲の基地となった。アメリカの信託統治領を経て,1986年からアメリカの自治領となる。
割符
さいふ @@@LINK=割符 割符

割符
さいふ

中世,遠隔地に金銭を送付するために用いられた為替手形
切符ともいう。鎌倉時代,荘園年貢の運送に多く利用されたが,室町時代には商業取引,貸借の決済の方法として発達。専門に扱う替銭屋割符屋と呼ばれる商人に払い込み,為替手形を組んで送金した。為替 (かわせ(かわし)) ・替銭 (かえせん) ともいい,米を用いるのを替米といった。
西芳寺
さいほうじ @@@LINK=西芳寺 西芳寺

西芳寺
さいほうじ

京都市右京区松尾にある臨済宗の寺
奈良時代の創建,初め西方寺と称した。1339年夢窓疎石が再興し,西芳寺と改め禅院とした。その庭園は疎石のつくった代表的禅宗庭園で,現在一面に苔が繁茂して美しいため「苔寺 (こけでら) 」とも称されて広く鑑賞されている。
斉明天皇
さいめいてんのう @@@LINK=斉明天皇 斉明天皇

斉明天皇
さいめいてんのう

皇極天皇
西面の武士
さいめんのぶし @@@LINK=西面の武士 西面の武士

西面の武士
さいめんのぶし

鎌倉前期,後鳥羽上皇により設置された院の警衛のための武士
院司の一つとして,北面の武士に加えて,院の西のおもてに伺候させた。上皇は討幕計画に伴う兵力充実をはかって,武勇にすぐれたものを補したが,承久の乱(1221)後廃止された。
済物浦条約
さいもっぽじょうやく @@@LINK=済物浦条約 済物浦条約

済物浦条約
さいもっぽじょうやく

1882年壬午事変後,日本・朝鮮の間に結ばれた条約
これにより日本は暴動首謀者の処罰,遺族負傷者に対する見舞金,日本国への損害賠償金,公使館護衛のための軍隊駐留権などを獲得。以後朝鮮における日清両国間の対立が激しくなった。
采覧異言
さいらんいげん @@@LINK=采覧異言 采覧異言

采覧異言
さいらんいげん

江戸中期,新井白石の著した世界地誌
1713年成立。5巻。イタリア人宣教師シドッチを審問して得た知識と中国の地理書から得た知識を比較し,世界の地理・歴史・政治・風俗を紹介したもの。洋学の先駆的意義をもつ。『西洋紀聞』とともに世界知識の吸収に重要な役割を果たした。
左院
さいん @@@LINK=左院 左院

左院
さいん

明治初年,太政官内の立法上の諮問機関
1871(明治4)年,廃藩置県後の太政官制改革により設置され,右院とともに正院に従属。法規の制定・改正をその任務とし,憲法草案・刑法・商法などの起草に着手した。'75年元老院設置により廃止。
佐伯氏
さえきうじ @@@LINK=佐伯氏 佐伯氏

佐伯氏
さえきうじ

古代の有力豪族。大伴氏の一族
姓 (かばね) は連 (むらじ) ,八色 (やくさ) の姓制定のとき,宿禰 (すくね) となった。蝦夷 (えみし) の俘囚 (ふしゆう) 佐伯部を率いて宮内の警衛などにあたり,大伴氏とともに軍事をもって大和政権に仕えた。

さかい @@@LINK=堺 堺


さかい

大阪府中西部,大阪湾に面する都市。中世以来の要港
地名は摂津・和泉・河内3国の境に位置したことに由来する。室町時代,応仁の乱(1467〜77)後,遣明船が入港して以来,勘合貿易の港として発展。戦国時代は南蛮貿易で繁栄し,戦国時代後期には,会合衆 (えごうしゆう) による自治支配が行われた。織田信長矢銭(軍用金)2万貫の要求も拒否したが,のち屈服。豊臣秀吉は大坂城築城とともに住民を大坂へ強制移転させ,そのため微した。江戸時代は直轄地で堺奉行が置かれ,糸割符占有権を与えられた。1889年市制施行。
酒井田柿右衛門
さかいだかきえもん @@@LINK=酒井田柿右衛門 酒井田柿右衛門

酒井田柿右衛門
さかいだかきえもん

初代)1596〜1666
江戸前期の陶工。赤絵の始祖
肥前(佐賀県)有田の人。もと染付白磁を焼いていたが,正保年間(1644〜48)苦心のすえ赤絵を発明。その作品はオランダ人によりヨーロッパにも輸出され,強い影響を与えた。
酒井忠勝
さかいただかつ @@@LINK=酒井忠勝 酒井忠勝

酒井忠勝
さかいただかつ

1587〜1662
江戸前期の老中・大老
関ケ原の戦いに従軍し,1609年讃岐守。3代将軍徳川家光に仕え,'24年老中,'38年大老となった。家光の死後も若い将軍家綱を補佐した。
酒井忠清
さかいただきよ @@@LINK=酒井忠清 酒井忠清

酒井忠清
さかいただきよ

1624〜81
江戸前期の老中・大老
上野 (こうずけ) (群馬県)前橋10万石の藩主,雅楽頭 (うたのかみ) を称し,権勢をふるい,大手門下馬札前に屋敷があったことから「下馬将軍」と呼ばれた。4代将軍徳川家綱のとき,老中・大老となり,保科正之・松平信綱ら老臣の死後,幕政の実権を掌握。家綱死後,皇族将軍を画策し,綱吉が5代将軍となると失脚した。

堺利彦
さかいとしひこ @@@LINK=堺利彦 堺利彦

堺利彦
さかいとしひこ

1870〜1933
明治〜昭和初期の社会主義者
号は枯川 (こせん) 。福岡県の生まれ。一高中退後新聞記者となり,『万朝報 (よろずちようほう) 』ついで『平民新聞』により日露戦争に反対。『平民新聞』に『共産党宣言』を訳載。1908年赤旗事件で入獄,大逆事件('10)ののち出獄し,売文社をつくって暗黒時代をのりきる。'20年日本社会主義同盟を組織。'22年日本共産党創立とともに書記長となる。翌年検挙後は社会民主主義に転じて合法無産政党を支持。'29年普通選挙法による東京市会選挙に最高点で当選した。

堺紡績所
さかいぼうせきじょ @@@LINK=堺紡績所 堺紡績所

堺紡績所
さかいぼうせきじょ

明治初年,大阪府堺に設立された官営模範工場
わが国2番目の洋式紡績工場で,1869年薩摩藩が鹿児島紡績所の分工場として設立し'70年操業開始。'72年官営となり,生産規模が拡大された。'78年民間に払い下げられた。
坂下門外の変
さかしたもんがいのへん @@@LINK=坂下門外の変 坂下門外の変

坂下門外の変
さかしたもんがいのへん

1862年,尊攘派志士による老中安藤信正襲撃事件
公武合体策を推進して和宮 (かずのみや) 降嫁を実現した安藤信正は,尊攘派志士の怒りを招き,水戸・宇都宮浪士ら6名によって江戸城坂下門外で襲撃され負傷した。安藤は老中を罷免され,公武合体運動は退潮した。
酒田
さかた @@@LINK=酒田 酒田

酒田
さかた

山形県北西部,日本海に面し,最上川河口右岸にある港町
17世紀後半,河村瑞賢が貯米場を設けて西廻り航路を開いて以後,庄内米および最上川流域の物産の集散地・積出港として繁栄した。1933年市制施行。
坂田藤十郎
さかたとうじゅうろう @@@LINK=坂田藤十郎 坂田藤十郎

坂田藤十郎
さかたとうじゅうろう

(初代)1647〜1709
江戸前期の歌舞伎俳優
京都芝居座元の子。和事 (わごと) を得意とし,近松門左衛門の脚本を多く演じた。元禄期(1688〜1704)の上方を代表する名優で,江戸の初代市川団十郎の荒事 (あらごと) に対し上方歌舞伎の基礎を築いた。言行録に『耳塵 (じじん) 集』『賢外集』など。

嵯峨天皇
さがてんのう @@@LINK=嵯峨天皇 嵯峨天皇

嵯峨天皇
さがてんのう

786〜842
平安初期の天皇(在位809〜823)
桓武天皇第2皇子。その治世は桓武天皇以来の律令政治再建の努力がいちおうの成果を生んだ時期。宮廷を中心に唐風文化が栄え,『弘仁格式』『新撰姓氏録 (しようじろく) 』などが編纂され,天皇も『凌雲集 (りよううんしゆう) 』に漢詩を残し,三筆の一人に数えられた。薬子 (くすこ) の変を平定し,蔵人頭・検非違使 (けびいし) などの令外官 (りようげのかん) を設け,律令の官制変革を加えた。

坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ @@@LINK=坂上田村麻呂 坂上田村麻呂

坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ

758〜811
平安初期の軍人貴族
渡来人系氏族東 (やまとのあや) 氏の出身。791年征夷大将軍大伴弟麻呂の下で征東副使として蝦夷 (えみし) 征討に参加。797年征夷大将軍となり,胆沢 (いざわ) 城・志波城を築いた。鎮守府を多賀城から胆沢城に移して,律令国家の東北地方経営を発展させた。薬子の変平定にも戦功をあげ,正三位大納言になる。

佐賀の乱
さがのらん @@@LINK=佐賀の乱 佐賀の乱

佐賀の乱
さがのらん

1874(明治7)年,佐賀県でおこった明治政府に対する最初の士族反乱
征韓論に敗れて帰郷した前参議江藤新平らを中心に佐賀の不平士族が「征韓・旧制度復活・攘夷」を唱えて挙兵したが,政府軍に鎮圧された。
佐賀藩
さがはん @@@LINK=佐賀藩 佐賀藩

佐賀藩
さがはん

肥前藩
嵯峨本
さがぼん @@@LINK=嵯峨本 嵯峨本

嵯峨本
さがぼん

江戸初期,本阿弥光悦らによって京都の嵯峨で出版された豪華本
光悦みずから版下を書き,料紙や装丁に美術的な意匠をこらしたもの。
相模太郎
さがみたろう @@@LINK=相模太郎 相模太郎

相模太郎
さがみたろう

北条時宗
坂本
さかもと @@@LINK=坂本 坂本

坂本
さかもと

滋賀県大津市北西部,琵琶湖に面する地区。古代・中世に栄えた港町
比叡山延暦寺・日吉 (ひえ) 神社の門前町としても有名。平安中期以降,延暦寺領荘園の年貢物資の集積地として発展。室町時代には酒屋土倉・問丸 (といまる) なども多く,土一揆に,坂本の馬借が一揆の口火を切るほどであった。江戸時代以降は衰退
坂本竜馬
さかもとりょうま @@@LINK=坂本竜馬 坂本竜馬

坂本竜馬
さかもとりょうま

1835〜67
幕末の志士
土佐藩郷士出身。武市瑞山 (たけちずいざん) らと土佐藩勤王党を指導。のち脱藩し,勝海舟に航海術を学ぶ。藩が尊攘派を弾圧したため,1864年長崎に亀山社中(のち海援隊)を結成,海運に従事しつつ薩摩・長州間を仲介し,'66年薩長連合を実現させた。公議政体論を唱え,大政奉還を実現したが,その後間もなく京都で中岡慎太郎とともに暗殺された。
酒屋
さかや @@@LINK=酒屋 酒屋

酒屋
さかや

中世の酒造業者
鎌倉初期から増加し,室町時代,15世紀初め京都に342軒存在(中興 (なかおき) ・角倉 (すみのくら) は有名)。高利貸を兼ね土倉と並び称された。室町幕府は,これに多額の酒屋役を課して重要な財源とした。そのためいっそうの高利をとり,徳政一揆の攻撃目標となった。
酒屋会議
さかやかいぎ @@@LINK=酒屋会議 酒屋会議

酒屋会議
さかやかいぎ

1882年,全国の酒造業者の代表が酒税軽減のために開いた会議
明治政府が西南戦争後の財政救済と海軍拡張を理由に酒造税を大幅に額したのに対し,各地の酒造業者は,植木枝盛など自由党幹部の指導のもとに,政府の弾圧をはねのけて京都で会議を開いた。自由民権運動と地方商工業者の結びつきとして注目される。
酒屋役
さかややく @@@LINK=酒屋役 酒屋役

酒屋役
さかややく

室町幕府が酒屋に課した税
酒屋は高利貸も兼ね京都の経済界を握っていたが,1393(明徳4)年将軍足利義満が醸造壺数に応じて課税。以来土倉役と並び御料所の少ない幕府の重要財源となった。
相楽総三
さがらそうぞう @@@LINK=相楽総三 相楽総三

相楽総三
さがらそうぞう

1839〜68
幕末の志士
江戸の人。1868年赤報隊を組織し,官軍の先鋒として東山道を進み年貢半減を布告したが,偽官軍とされて処刑された。
主典
さかん @@@LINK=主典 主典

主典
さかん

律令制下,四等官の第4位の官職。
左義長
さぎちょう @@@LINK=左義長 左義長

左義長
さぎちょう

平安時代以来,小正月に行われる火祭り
どんど焼きともいう。平安時代の小正月の宮中の火祭りは陰陽師が奉仕した。近世は民間でも正月14日の夜か15日の朝,子供たちが松飾りなどをたき,餅や団子を焼いて食べ,災難よけのまじないとした。
防人
さきもり @@@LINK=防人 防人

防人
さきもり

律令制において,九州警備に配置された兵士
諸国軍団の兵士から選び,兵部省の支配下に属し,現地では大宰府の管轄下に入った。3年交替で勤務。装備・往復食糧は自弁であった。730年東国兵士に限るようになり,10世紀前半まで続いた。『万葉集』におさめられた防人の歌は有名である。
左京職
さきょうしき @@@LINK=左京職 左京職

左京職
さきょうしき

京職
作手職
さくてしき @@@LINK=作手職 作手職

作手職
さくてしき

荘園における農民の土地に対する権利の一つ
作職作人職百姓職・作所職ともいい,永続化する場合に永作手 (えいさくて) という。初期には耕作権・土地用益権などが未分化のまま含まれていたが,生産力が高まると,加地子得分権としての名主職と,耕作者の権利としての下作職とに分化した。
作人
さくにん @@@LINK=作人 作人

作人
さくにん

荘園制下における農民の一階層
鎌倉時代の荘民には,名田 (みようでん) の所有者である名主層のほかに「百姓」と呼ばれる小農民がいた。これが作人で,荘園領主・名主から耕地をあてがわれ請作 (うけさく) した。しかし単なる小作人ではなく,自己の下に下作人 (げさくにん) と呼ぶ耕作者を隷属させている場合もあった。
冊封体制
さくほうたいせい @@@LINK=冊封体制 冊封体制

冊封体制
さくほうたいせい

中国皇帝が周辺諸国の王・首長に爵位・称号を与えることによって生じる君臣関係
漢委奴国王が漢から金印を,卑弥呼 (ひみこ) が親魏倭王の称号を,倭の五王が安東将軍の称号を,足利義満が日本国王の称号をうけるなど,君臣関係として朝貢した。豊臣秀吉文禄の役における休戦で,明に対しこれを拒否したことは有名である。
佐久間象山
さくましょうざん @@@LINK=佐久間象山 佐久間象山

佐久間象山
さくましょうざん

1811〜64
幕末の朱子学者・蘭学者・兵学者
「ぞうざん」とも読む。信濃(長野県)松代藩士。佐藤一斎に朱子学を学ぶ。のち蘭学に励み,江川太郎左衛門の門に入り洋式砲術を学ぶ。1851年江戸に塾を開き砲術・兵学を教え,西洋技術と東洋精神の融合を説く(東洋の道徳,西洋の芸術)。勝海舟・坂本竜馬・吉田松陰らがその門から輩出。開国論を主張し攘夷論者に京都で刺殺された。

作物作付制限令
さくもつさくつけせいげんれい @@@LINK=作物作付制限令 作物作付制限令

作物作付制限令
さくもつさくつけせいげんれい

田畑勝手作の禁令
桜井錠二
さくらいじょうじ @@@LINK=桜井錠二 桜井錠二

桜井錠二
さくらいじょうじ

1858〜1939
明治〜昭和期の化学者
加賀(石川県)の生まれ。イギリスに留学し,国際的視野から日本の学術の振興・国際交流に尽くした。東大教授として多くの俊英を育て,理論化学の重要性を指摘。理化学研究所・日本学術振興会の創立に尽力した。

桜会
さくらかい @@@LINK=桜会 桜会

桜会
さくらかい

1930(昭和5)年9月につくられた陸軍革新派将校の秘密結社
統帥権干犯問題や浜口雄幸内閣政策に不満をもつ陸軍少壮将校の橋本欣五郎・根本博らが結成。満蒙問題の解決とそのための国家改造を唱え,北一輝・大川周明らと結び,三月事件・十月事件を企てた。十月事件ののち解体したが,一部は統制派となっていった。
佐倉惣五郎
さくらそうごろう @@@LINK=佐倉惣五郎 佐倉惣五郎

佐倉惣五郎
さくらそうごろう

生没年不詳
江戸前期,下総(千葉県)佐倉藩領公津 (こうず) 村の名主で,200余村の百姓一揆の指導者
本名木内惣五郎。佐倉宗吾ともいう。領主堀田氏の重税に反対し将軍に直訴 (じきそ) し,妻子とともに処刑された。江戸時代の代表的義民として広く知られ,物語・歌舞伎・民謡に語り伝えられた。

桜田門外の変
さくらだもんがいのへん @@@LINK=桜田門外の変 桜田門外の変

桜田門外の変
さくらだもんがいのへん

幕末,尊攘派志士による大老井伊直弼 (なおすけ) 暗殺事件
井伊直弼が将軍継嗣問題で徳川慶福 (よしとみ) (家茂 (いえもち) )を継嗣に決定,また勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し,さらに反対派を安政の大獄弾圧したことなどが原因になって,1860年3月,江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士18名によって襲撃され,殺害された。この事件により幕府の威信は失墜し,公武合体運動が推進された。
座繰製糸
ざぐりせいし @@@LINK=座繰製糸 座繰製糸

座繰製糸
ざぐりせいし

幕末から明治初期に普及した生糸の製法
開国後の輸出で生糸需要が増大したのに対応し,木製で繰りわくが歯車で回転し,従来の胴繰りや立作業の手挽きを能率化した。動力人力,まれに水力による。明治中期,機械製糸に移行

さけ @@@LINK=酒 酒


さけ

古来,米など穀物・果実を発酵させてつくるアルコール飲料
5世紀ころ大陸の醸造技術が伝来。鎌倉中期,酒造業者が出現し,質屋を兼ね,室町時代には酒屋役は幕府の重要な財源となる。このころ従来の濁酒 (にごりざけ) のほか清酒 (すみさけ) もつくられ,江戸時代にさらに精製,伊丹・池田・灘などを名産地とし大資本化した。江戸幕府酒造株を定めて醸造高を制限し,課税。明治時代以後,酒造税は地租につぐ財政収入であったため,しだいに増税され,酒屋会議などの反対運動が発生した。
鎖国
さこく @@@LINK=鎖国 鎖国

鎖国
さこく

江戸初期,幕府が対外関係に加えた統制政策
鎖国の内容は結果的にみて,(1)日本人の海外渡航と在外日本人の帰国の禁止,(2)中国・オランダ船のみに貿易許可,(3)貿易港は長崎のみ,の3点。鎖国の目的はキリスト教禁止の徹底であり,それに貿易統制が並行した。貿易ではポルトガル船の貿易独占と貿易による西国大名などの勢力増大を警戒し,貿易の利益を幕府が独占することをねらった。1639年に完成し,1854年まで継続。これにより幕藩体制が完成した。
雑喉場
ざこば @@@LINK=雑喉場 雑喉場

雑喉場
ざこば

江戸時代,大坂の魚市場
蓮如の石山本願寺創建のときに始まるという。1618年,江戸幕府に冥加金を納め,大坂唯一の特権的魚市場となって発展した。大坂では堂島の米市場,天満の青物市場と並び称された。
狭衣物語
さごろもものがたり @@@LINK=狭衣物語 狭衣物語

狭衣物語
さごろもものがたり

平安後期の物語文学
11世紀後半成立。4巻。作者は禖子 (ばいし) 内親王家に仕えた源頼国の娘といわれ,狭衣大将と源氏宮を主人公とする長編悲恋小説。『源氏物語』『宇津保物語』の影響を強くうけている。
佐々木氏
ささきし @@@LINK=佐々木氏 佐々木氏

佐々木氏
ささきし

中世,近江(滋賀県)の守護大名
近江の佐々木庄に住み佐々木氏を称した。源頼朝の挙兵を助け,その功により定綱・高綱ら一族が近江など10数カ国の守護職を得た。定綱の子信綱は承久の乱で功をたてた。信綱の3男泰綱が惣領家の家督を継ぎ,六角氏となり,その弟氏信の流から京極氏がでた。六角・京極両氏は鎌倉末期から室町時代にかけて活躍した。
佐々木高氏
ささきたかうじ @@@LINK=佐々木高氏 佐々木高氏

佐々木高氏
ささきたかうじ

1306〜73
南北朝時代の武将
法号道誉。近江の豪族。初め北条高時に仕え,元弘の変(1331〜33)以後足利尊氏に従う。室町幕府創設に功あり,上総・近江など5カ国の守護を兼ね,幕府の要職についた。和歌・連歌にも長じ,近江猿楽の保護者であった。
佐々木高綱
ささきたかつな @@@LINK=佐々木高綱 佐々木高綱

佐々木高綱
ささきたかつな

?〜1214
鎌倉初期の武将
秀義の4男で,母は源為義の娘。1180年源頼朝の挙兵以来,頼朝に従って軍功をあげる。宇治川の合戦で梶原景季 (かげすえ) と先陣争いをしたことは有名。長門・備前などの守護に補任された。

佐佐木信綱
ささきのぶつな @@@LINK=佐佐木信綱 佐佐木信綱

佐佐木信綱
ささきのぶつな

1872〜1963
明治〜昭和期の歌人・国文学者
号は竹柏園。三重県の生まれ。東大卒。歌風は温雅清新。竹柏会を設立し,『心の花』を機関誌として,和歌革新運動の中心となり,多くの門下を育成。また『万葉集の研究』『日本歌学史』などの文献学的研究にも多大の貢献をなした。1937年,第1回文化勲章受章。

座散乱木遺跡
ざざらぎいせき @@@LINK=座散乱木遺跡 座散乱木遺跡

座散乱木遺跡
ざざらぎいせき

宮城県玉造郡岩出山町にある旧石器時代の遺跡
1981年,火山灰からなる地層から約4万年以上前の尖頭器や楕円形石器打製石斧)などが発見され前期旧石器時代の存在が確認されたが,現在では疑問視されている。
指出
さしだし @@@LINK=指出 指出

指出
さしだし

戦国・安土桃山時代,土地の面積・作人・収穫量などを記載し提出させた検地の一方法
戦国大名が領内の土地,農民の情況を把握するため,面積・等級(上,中,下,下下田)・収穫高・耕作者・貢租高を現地の家臣に命じて書類として上申提出させた。織田・朝倉氏らが早くから実施し,太閤検地の前段階をなした。江戸時代には実測を行った。
猿島
さしま @@@LINK=猿島 猿島

猿島
さしま

茨城県南西部にある町。
左大臣
さだいじん @@@LINK=左大臣 左大臣

左大臣
さだいじん

律令制下,太政官の政務を統轄する長官
一上 (いちのかみ) ともいう。大化の改新の際に阿倍内麻呂が任じられたのが最初。律令制では太政大臣につぎ右大臣よりも上位。明治維新後に復活したが,1885年内閣制度の創設で廃止された。
佐竹氏
さたけし @@@LINK=佐竹氏 佐竹氏

佐竹氏
さたけし

中世,常陸 (ひたち) (茨城県)の大名
清和源氏。源義光の子孫が常陸国久慈郡佐竹郷に土着して佐竹氏を称した。南北朝時代に足利氏に従い,戦国時代には常陸から下野 (しもつけ) ・陸奥にも及ぶ北関東最大の大名として後北条氏と争った。のち豊臣秀吉に従い常陸に54万石余を領したが,関ケ原の戦いで上杉氏と結んで西軍に属し,出羽秋田20万石に転封され幕末に至った。
佐竹義和
さたけよしまさ @@@LINK=佐竹義和 佐竹義和

佐竹義和
さたけよしまさ

1775〜1815
江戸後期,秋田藩第9代の藩主
字 (あざな) は子政,号は泰峨・日新斎など。1785年11歳で襲封。のち右京大夫と称し従四位下侍従となった。天明の飢饉後,勧農政策・殖産興業の推進,職制の整備,人材登用,藩財政の整理,教学の刷新(藩校明道館と郷校の設立)など,藩政の改革を断行し,大いに成果をあげた。
沙汰人
さたにん @@@LINK=沙汰人 沙汰人

沙汰人
さたにん

中世〜近世,沙汰(裁判・命令)を実際にとり行う人
役所の雑掌をいう場合が多い。荘園では年貢徴収などにあたった下級荘官で,主として在地の有力名主が任用された。南北朝時代以後,村結合の中心となったが,近世には地下 (じげ) 役人となり,村の代表者となった。
沙汰未練書
さたみれんしょ @@@LINK=沙汰未練書 沙汰未練書

沙汰未練書
さたみれんしょ

鎌倉後期,幕府の訴訟手続きの解説書
1319年ごろ成立。1巻。著者は不明であるが,幕府訴訟機関の関係者らしい。幕府の複雑な訴訟手続き,訴訟法,法制上の用語解説,事務の仕方,文書様式など法令運用上心要な事項が,初心者にもわかるように平易に解説してある。鎌倉幕府の訴訟制度などを知るうえでの重要な史料。
薩英戦争
さつえいせんそう @@@LINK=薩英戦争 薩英戦争

薩英戦争
さつえいせんそう

幕末,鹿児島湾で行われた薩摩藩とイギリス東洋艦隊との海戦
1862年の生麦事件後,薩英間に紛争が生じたが解決に至らず,翌'63年イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に出動,鹿児島を砲撃した。薩摩藩もこれに応戦したが,勝敗は決しなかった。事件後薩摩藩はイギリスと和解し,開明政策に転じた。
薩戒記
さつかいき @@@LINK=薩戒記 薩戒記

薩戒記
さつかいき

室町中期,公卿中山定親の日記
1418年より'43年に及ぶ。27冊。京都の世情を知るのに便利な史料で,特に正長(1428〜29)の播磨国の土一揆の史料は有名。
雑戸
ざっこ @@@LINK=雑戸 雑戸

雑戸
ざっこ

律令制において,特定の官司に属する特殊手工業者の集団
賤民に準じ,品部 (しなべ) より身分は低い。調の代わりに,一定期間所属官庁に勤務して特殊技術の仕事に従事したり,または特定の手工業品を納めた。多くは課役を免除された。
佐々成政
さっさなりまさ @@@LINK=佐々成政 佐々成政

佐々成政
さっさなりまさ

1539〜1588
安土桃山時代の武将
尾張(愛知県)の人。織田信長に仕え,朝倉義景追討・本願寺一揆鎮圧などに功があり,越中(富山県)を領有した。小牧・長久手の戦いに徳川家康方に加わったが,のち豊臣秀吉に服し,九州征討に従い肥後(熊本県)を領有。入国後ほどなく土豪の反乱にあい,失政を責められ,1588年切腹を命じられた。

雑訴決断所
ざっそけつだんしょ @@@LINK=雑訴決断所 雑訴決断所

雑訴決断所
ざっそけつだんしょ

1333年設置された建武新政府の訴訟機関
記録所とともに新政府の主要政治機関。一般の訴訟,特に所領関係の訴訟の裁決にあたり,鎌倉幕府の引付の機能を引き継ぐ。公武の事務練達者が任用され,最初は3番(組)に分かれ,翌年8番,107人に拡張。各番の長を頭人 (とうにん) ,所員を寄人 (よりゆうど) といった。煩雑な土地関係の審議において不手際が多く,新政への不満の一因となった。
薩長連合
さっちょうれんごう @@@LINK=薩長連合 薩長連合

薩長連合
さっちょうれんごう

幕末,薩摩藩と長州藩との間に結ばれた軍事同盟
薩長同盟ともいう。1865年,幕府が第2次長州征討を決定したころから,薩摩藩では大久保利通らの討幕派が藩論を動かし,薩長両藩の指導層は急速に接近した。翌'66年京都で土佐藩士坂本竜馬らの仲介によって長州藩の木戸孝允,薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛らとの間に,討幕のための秘密軍事同盟が結ばれた。
薩土盟約
さつどめいやく @@@LINK=薩土盟約 薩土盟約

薩土盟約
さつどめいやく

幕末,薩摩藩と土佐藩との間に結ばれた盟約
1867年6月,武力討幕を企てる薩摩藩と大政奉還・公議政体が藩論の土佐藩との間に結ばれたもので,大政奉還による列侯公議政体を打ち出した。しかし,同年10月討幕の密勅降下後破棄された。
薩南学派
さつなんがくは @@@LINK=薩南学派 薩南学派

薩南学派
さつなんがくは

室町中期,桂庵玄樹が薩摩地方でおこした朱子学派の一派
1478年,薩摩国大名島津忠昌が桂庵玄樹を招き,この地で桂庵が出版したわが国最初の新註『大学章句』を,一族に講義させたのがこの門流の初め。当時旧註によっていたわが国では注目すべきことで,この学派から文之玄昌 (ぶんしげんしよう) が出て近世朱子学に影響を与えた。
薩藩旧記
さっぱんきゅうき @@@LINK=薩藩旧記 薩藩旧記

薩藩旧記
さっぱんきゅうき

江戸後期,島津氏史料の集大成
旧記雑録』ともいう。362巻。薩摩の史学者伊地知季安 (すえやす) ・季通 (すえみち) 父子により,文化(1804〜18)末年ごろ編纂開始,80年間を費やして,1897(明治30)年ごろ完成。平安末期から明治期に至る700年間の島津氏史料を年代順に配列した。
札幌農学校
さっぽろのうがっこう @@@LINK=札幌農学校 札幌農学校

札幌農学校
さっぽろのうがっこう

明治前期,北海道開拓の人材養成のための学校。北大農学部の前身
1872年東京に開設された開拓使仮学校に始まり,'75年札幌に移し翌年アメリカ人クラークを招いて開校。キリスト教的教育が進められ,内村鑑三・新渡戸 (にとべ) 造・有島武郎らの人材を生んだ。
薩摩問屋
さつまどいや @@@LINK=薩摩問屋 薩摩問屋

薩摩問屋
さつまどいや

江戸時代,大坂に設けられた薩摩藩産物を扱う荷受問屋
1628年大坂薩摩堀に設置したのが最初。1714年には7軒の問屋があり,'72年株仲間を結成した。
薩摩藩
さつまはん @@@LINK=薩摩藩 薩摩藩

薩摩藩
さつまはん

江戸時代,薩摩・大隅・日向3国73(琉球高含む)万石を領した外様大名
鹿児島藩ともいう。藩主島津氏は鎌倉時代以来の守護。関ケ原の戦い以降徳川氏に服し,琉球12万石をも支配。江戸後期には藩財政が窮迫し,1827年調所広郷 (ずしよひろさと) を中心に藩債整理,砂糖など特産物の増産,専売制の強化を主とする藩政改革を実施し,成功させた。13代藩主斉彬 (なりあきら) は藩営工場を建設し,富国強兵につとめた。幕末には久光を中心に公武合体運動を進めたが,のち大久保利通・西郷隆盛らが出て薩長連合を結び,討幕運動を推進した。
薩摩版
さつまばん @@@LINK=薩摩版 薩摩版

薩摩版
さつまばん

室町後期以後,薩摩国島津氏の領内で出版された出版物
島津忠昌に招かれた桂庵玄樹が朱子新学を講じた結果,1481年はじめて『大学章句』が出版された。江戸時代には『成形図説』も刊行された。
薩摩焼
さつまやき @@@LINK=薩摩焼 薩摩焼

薩摩焼
さつまやき

江戸初期以来,鹿児島地方で生産される陶器
文禄・慶長の役のとき,島津氏により朝鮮から連行された陶工が薩摩で始めたもの。江戸時代を通じて薩摩藩の重要産物の一つとなる。加治木・串木野などが主要生産地。
サトウ
Sir Ernest Mason Satow @@@LINK=サトウ サトウ

サトウ
Sir Ernest Mason Satow

1843〜1929
イギリスの外交官
日本名佐藤愛之助。1862年通訳として来日。公使パークスを助けて活躍し,イギリスの対日政策を薩長討幕派支持に向かわせた。のち転任したが'95年公使として再度来日した。また日本研究家としても著名で,自叙伝『一外交官の見た明治維新』は維新史研究のうえで重要な史料

砂糖
さとう @@@LINK=砂糖 砂糖

砂糖
さとう

ショ糖を主成分とする甘味料
古来の甘味は干柿甘葛などを使用。14世紀に中国から輸入され,薬用として珍重された。16世紀から輸入量も増加し,江戸時代にはサトウキビを原料とする琉球産の砂糖で,薩摩藩は巨利を得た。幕府諸藩も国産を奨励し,薩摩をはじめ九州・四国・紀伊駿河などで甘蔗を栽培・製糖した。また黒糖から白糖にする精製も進んだ。開港後輸入糖に押されたが,台湾領有後政府の保護で発展,第二次世界大戦前には国内需要をほぼ充足した。
茶道
ちゃどう @@@LINK=茶道 茶道
さどう @@@LINK=茶道 茶道

茶道
ちゃどう

茶の湯に村田珠光が禅の心を入れたもので,「茶の湯の道」の略称
客を招いて抹茶 (まつちや) をたて懐石の供応をするのが茶の湯で,鎌倉時代に栄西 (えいさい) が宋よりもたらした。南北朝時代には茶の品種を飲み分ける闘茶の遊技も伝わり,南北朝〜室町初期にかけて茶寄合が行われた。東山文化時代に上流武家の間で一定の作法の優雅な茶の湯も行われ,珠光が閑寂な茶道(侘び茶数寄道 (すきどう) ともいう)を始め,武野紹鷗 (じようおう) ・千利休により大成された。のち利休の子孫は,表千家・裏千家・武者小路の3家に分かれ,その他織部流・遠州流などの諸流も生まれ,今日に至る。

茶道
さどう

ちゃどう
佐藤一斎
さとういっさい @@@LINK=佐藤一斎 佐藤一斎

佐藤一斎
さとういっさい

1772〜1859
江戸後・末期の儒者
美濃(岐阜県)岩村藩士。中井竹山に師事し,林述斎の弟子となった。のち昌平坂学問所の儒官となり,立場上朱子学をとったが,陽明学の影響も濃い。門人に安積艮斎 (あさかごんさい) ・渡辺崋山・佐久間象山らを輩出。著書に『言志四録』『近思録』など。

佐藤栄作内閣
さとうえいさくないかく @@@LINK=佐藤栄作内閣 佐藤栄作内閣

佐藤栄作内閣
さとうえいさくないかく

佐藤栄作(1901〜75)を首班とする自由民主党内閣(1964〜72)
1964年11月,池田勇人内閣の高度経済成長政策のあとをうけて組閣。'72年7月辞任するまでに3次にわたる7年8か月の長期政権であった。この間外交では '65年日韓基本条約,'71年沖縄返還協定に調印し,内政では'67年公害対策基本法を制定し,'71年環境庁を設置した。
佐藤直方
さとうなおかた @@@LINK=佐藤直方 佐藤直方

佐藤直方
さとうなおかた

1650〜1719
江戸中期の朱子学者
備後(広島県)の人。山崎闇斎に学び崎門三傑の一人といわれたが,闇斎の垂加神道に反対し破門された。純粋な朱子学を主張し,福山藩・前橋藩・彦根藩にも招かれた。著者に『排釈録』。

佐藤信淵
さとうのぶひろ @@@LINK=佐藤信淵 佐藤信淵

佐藤信淵
さとうのぶひろ

1769〜1850
江戸後・末期の経世思想家
出羽(秋田県)雄勝郡の人。江戸に出て宇田川玄随に蘭学・本草学を学び,さらに天文・地理・国学・神道などを修めた。農政・物産・海防から兵学・哲学・社会改革論まで,その論説は多方面にわたる。諸国を巡歴して大名に所説を献じた。主著に『農政本論』『経済要録』『宇内 (うだい) 混同秘策』など。

佐藤義清
さとうのりきよ @@@LINK=佐藤義清 佐藤義清

佐藤義清
さとうのりきよ

西行
佐藤春夫
さとうはるお @@@LINK=佐藤春夫 佐藤春夫

佐藤春夫
さとうはるお

1892〜1964
大正・昭和期の小説家・詩人
和歌山県の生まれ。慶大中退。初め叙情詩,のち小説に転じた。芸術至上・唯美主義的趣味とロマン主義的情感に生きた作家。代表作に詩集『殉情詩集』,小説『田園の憂鬱』など。1960年文化勲章受章。

里長
りちょう @@@LINK=里長 里長
さとおさ @@@LINK=里長 里長

里長
りちょう

律令制における地方行政組織の里 (り) の支配者
「さとおさ」とも読む。現地の有力農民から清廉強幹の者が選任された。里内の戸口を検し,農業奨励・課役の催促などにあたった。庸・雑徭は免除された。のち郷里制で郷長と改名された。

里長
さとおさ

りちょう
佐渡金山
さどきんざん @@@LINK=佐渡金山 佐渡金山

佐渡金山
さどきんざん

新潟県佐渡郡相川町にあった金・銀山
平安末期,砂金の産地で知られ,1601年徳川家康の領有となり相川鉱山が開掘されてから産額が増大。江戸幕府直轄の鉱山として佐渡奉行を置き幕府は金・銀を独占した。金を多く産出し,幕府の金・銀貨原料の産地として,その産額の多少が幕府財政に大きな影響を与えた。1869年明治政府の官営になり,'96年三菱に払い下げられ日本有数の金・銀山となった。現在は採掘中止。
里内裏
さとだいり @@@LINK=里内裏 里内裏

里内裏
さとだいり

平安時代,大内裏以外に臨時に置かれた皇居
今内裏ともいう。976年に内裏焼失のとき円融天皇が太政大臣藤原兼通の堀河第を約1年間皇居としたのに始まる。外戚の私第が多く用いられた。白河天皇以後は里内裏が常の皇居となった。1855年京都御所が造営され,明治維新まで皇居となった。
佐渡奉行
さどぶぎょう @@@LINK=佐渡奉行 佐渡奉行

佐渡奉行
さどぶぎょう

江戸幕府の職名。遠国奉行の一つ
老中および勘定奉行の支配に属した。1601年,佐渡を直轄地とするとともに奉行を設置。佐渡金山の管理や北辺の監視にあたった。定員1〜2名。
里見氏
さとみし @@@LINK=里見氏 里見氏

里見氏
さとみし

中世房総半島を領有した戦国大名
清和源氏新田氏の流。上野 (こうずけ) (群馬県)碓氷郡里見郷に住み里見氏を称す。15世紀中ごろ,義実が安房 (あわ) を平定,のち上総・下総に進出し小田原の後北条氏と対抗し,義弘は1564年下総国府台で北条氏康に敗れ下総を失い,以後衰退。のち豊臣秀吉に降り安房9万石を安堵された。関ケ原の戦いのにより常陸 (ひたち) 3万石を加増。その後,大久保忠隣 (ただちか) の罪に縁坐し伯耆 (ほうき) 国(鳥取県)に転封され,嗣子なく1622年断絶した。
里見弴
さとみとん @@@LINK=里見弴 里見弴

里見弴
さとみとん

1888〜1983
大正・昭和期の小説家
本名は山内英夫。神奈川県の生まれ。有島武郎・生馬 (いくま) の弟。学習院を経て東大英文科中退。初め白樺派に属し,その後,吉井勇らと『人間』を創刊した。精細な心理描写,起伏に富んだ会話の妙に優れる。1959年文化勲章受章。代表作に『多情仏心』『安城家の兄弟』など。

里村紹巴
さとむらじょうは @@@LINK=里村紹巴 里村紹巴

里村紹巴
さとむらじょうは

1525〜1602
安土桃山時代の連歌師
本姓は松井。奈良の人。織田信長・明智光秀・豊臣秀吉らのをうけた。門弟に松永貞徳がいる。著書に『連歌至宝抄』『富士見道記』など。子孫は代々連歌師として江戸幕府に仕えた。

真田幸村
さなだゆきむら @@@LINK=真田幸村 真田幸村

真田幸村
さなだゆきむら

1567〜1615
安土桃山〜江戸時代初期の武将
本名は信繁。信濃(長野県)上田城主真田昌幸の2男。上杉景勝に属し,のち豊臣秀吉に仕えた。小田原攻めに功をたて,関ケ原の戦いでは父昌幸とともに西軍に属し,西上しようとする徳川秀忠の大軍を信濃上田で阻止した。戦後,兄信之の助命嘆願により高野山麓に幽居したが,1614年大坂の役がおこると豊臣方に属し奮戦,翌年夏の陣で戦死した。
サヌカイト
sanukite @@@LINK=サヌカイト サヌカイト

サヌカイト
sanukite

四国の讃岐地方(屋島)や奈良県二上山に産する輝石安山岩
讃岐石ともいう。近畿以西で石器時代石器原料として広く使われた。
讃岐典侍日記
さぬきのすけのにっき @@@LINK=讃岐典侍日記 讃岐典侍日記

讃岐典侍日記
さぬきのすけのにっき

平安後期,藤原顕綱の娘の日記
12世紀初めの成立。2巻。1109年ころ,讃岐典侍であった作者が,堀河天皇の発病・病没,それに続く鳥羽天皇の即位など,素直な筆によって綴る。
実隆公記
さねたかこうき @@@LINK=実隆公記 実隆公記

実隆公記
さねたかこうき

室町後期,三条西実隆の日記
1474〜1536年まで,63年間書きつづけられた。内容は戦国争乱期の政治・社会・文化など各方面にわたり,室町時代後半の最も貴重な史料。
佐野常民
さのつねたみ @@@LINK=佐野常民 佐野常民

佐野常民
さのつねたみ

1822〜1902
明治時代の政治家。日本赤十字社の創立者
肥前藩出身。幕末に適々斎塾で蘭学を学び,長崎警備の海軍力充実に貢献した。新政権発足後,兵部省・工部省に出仕。西南戦争のとき,博愛社を設けて両軍傷病兵の看護にあたり,のち日本赤十字社と改称,社長となる。また美術の振興勧業にも尽力した。

佐幕論
さばくろん @@@LINK=佐幕論 佐幕論

佐幕論
さばくろん

幕末幕府政策を支持しその命脈を維持させようとした主張
19世紀中ごろ幕府の崩壊期に入ると,尊王攘夷運動討幕運動に転化して革新的方向を明らかにしてきた。これに対し,幕府独裁の伝統を支持し,保守的性格をもつ佐幕論がおこった。
ザビエル
Francisco de Xavier @@@LINK=ザビエル ザビエル

ザビエル
Francisco de Xavier

1506〜52
スペインのイエズス会宣教師
イエズス会創立者の一人で,1549年日本人アンジローの案内でインドのゴアから鹿児島に到着。領主島津貴久に謁し,初めてキリスト教を伝えた。平戸・山口を経て上京,再び山口に帰り大内義隆の保護をうけ,豊後府内の大友宗麟に謁して,'51年,滞在2年3か月で離日。

左弁官
さべんかん @@@LINK=左弁官 左弁官

左弁官
さべんかん

弁官
佐味田宝塚古墳
さみだたからづかこふん @@@LINK=佐味田宝塚古墳 佐味田宝塚古墳

佐味田宝塚古墳
さみだたからづかこふん

奈良県北葛城 (かつらぎ) 郡河合町にある前方後円墳
4世紀後半の前期古墳。後円部から家屋の絵を描いた鏡や勾玉 (まがたま) ・管玉 (くだたま) ・鍬形石などが発掘された。特に家屋文鏡は有名。

さむらい @@@LINK=侍 侍


さむらい

武器をもって近侍する者,やがて武士一般を称す
本来「さぶらふ」の名詞形で,主君に近侍する意味から転じ,主君を警固する者をさし,さらに武士の台頭とともに武士一般をさした。江戸時代は「士」すなわち武士階級の通称となった。
侍所
さむらいどころ @@@LINK=侍所 侍所

侍所
さむらいどころ

鎌倉・室町幕府の政治機関
①平安時代,親王・摂関家などに置かれた侍の伺候場所および家政機関をいう。
②1180年,源頼朝が御家人統轄などのための機関として設置,のち刑事裁判も加えられた。初代長官(別当)は和田義盛。1213年和田氏滅亡後は執権北条氏が別当を独占した。
③建武新政府の一機関で,頭人 (とうにん) は足利尊氏。職務内容は武者所とほぼ同じ。
④室町幕府も先例にならって設置。京都の警衛や裁判にあたり,長官を所司 (しよし) と呼び,山名・赤松・一色・京極の4氏から交替で就任させた(四職)。
更科紀行
さらしなきこう @@@LINK=更科紀行 更科紀行

更科紀行
さらしなきこう

江戸中期,松尾芭蕉の俳諧紀行文
1688年頃成立。信濃国(長野県)更科に月見に行ったときの紀行文。短編ではあるが,旅情豊かな名編。
更級日記
さらしなにっき @@@LINK=更級日記 更級日記

更級日記
さらしなにっき

平安中期,菅原孝標 (たかすえ) の娘の自伝的文学
1060年ころ完成。1巻。13歳のとき父の任国上総国(千葉県)から帰京する記事に始まり,宮仕え・結婚・夫と死別してからの生活を回想風に記す。非現実的な物語的世界への憧れと浄土欣求 (ごんぐ) の心情が流れている。
猿楽
さるがく @@@LINK=猿楽 猿楽

猿楽
さるがく

古代〜中世にかけて流行した演芸
散楽・申楽・散更 (さるごう) ともいう。狭義には能楽の別称。奈良時代に唐から伝来。平安時代,神楽の余興として宮廷に入った。民間では寺社に隷属し,滑稽な物まねを主とした。鎌倉時代に歌舞的要素を加え猿楽の能に発達,物まねは猿楽の狂言として併行した。室町時代にかけて,丹波・伊勢・近江・大和などで盛んとなり,特に大和四座の一つ結崎 (ゆうさき) 座から観阿弥・世阿弥父子が出て,足利将軍家の保護のもと,田楽能や曲舞 (くせまい) をとり入れ猿楽の能を大成させた。
申楽談儀
さるがくだんぎ @@@LINK=申楽談儀 申楽談儀

申楽談儀
さるがくだんぎ

室町中期の能楽書
世阿弥の能楽に関する秘伝を彼の2男元能 (もとよし) が記した聞書で,1430年成立。秘伝を筆録したもので系統だったものではないが,具体的な事例を中心として話が進められている点に特色をもつ。『風姿花伝』と並んで能楽研究上の重要な史料。
猿蓑
さるみの @@@LINK=猿蓑 猿蓑

猿蓑
さるみの

江戸中期,松尾芭蕉一門の俳諧撰集。芭蕉七部集の一つ
1691年刊。6巻2冊。編者は向井去来・野沢凡兆。発句・連句・俳文の各種にわたって,元禄期の蕉風の成果を世に問うたもの。
沢田正二郎
さわだしょうじろう @@@LINK=沢田正二郎 沢田正二郎

沢田正二郎
さわだしょうじろう

1892〜1929
大正・昭和初期の俳優。新国劇の創始者
東京の生まれ。早大卒。坪内逍遙の文芸協会に学ぶ。松井須磨子の相手役として芸術座で活躍したが,大衆に密着した演劇を求めて,1917年新国劇を創立。剣劇で人気を博した。代表的演目に『月形半平太』『国定忠治』など。

沢宣嘉
さわのぶよし @@@LINK=沢宣嘉 沢宣嘉

沢宣嘉
さわのぶよし

1835〜73
幕末・維新期の公家
三条実美 (さねとみ) らとともに尊攘派公卿として活躍。八月十八日の政変のとき七卿落ちの一人として長州へのがれ,生野の変の首領となる。1867年の王政復古で復権し,参与・外国官知事・初代外務卿などを歴任した。

沢柳事件
さわやなぎじけん @@@LINK=沢柳事件 沢柳事件

沢柳事件
さわやなぎじけん

大正初期(1913〜14),国家権力に対して大学の自治を確立した事件
沢柳政太郎京大総長文部省の内意をうけて,医・理工文科の7教授辞任を要求したのに対し,法科大学教授会が中心となり,頑強に抵抗し,教授の任免に関する教授会の自治と総長の選挙制が確立した。
沢柳政太郎
さわやなぎまさたろう @@@LINK=沢柳政太郎 沢柳政太郎

沢柳政太郎
さわやなぎまさたろう

1865〜1927
明治・大正時代の教育家
信濃(長野県)の生まれ。東大哲学科卒業後,第二・第一高校長,文部次官,東北大・京大総長を歴任。1914年京大事件で退官し,その後民間教育家として成城学園を創立。大正期の自由主義教育運動に貢献した。

早良親王
さわらしんのう @@@LINK=早良親王 早良親王

早良親王
さわらしんのう

?〜785
奈良末期の皇族
光仁天皇第2皇子。桓武天皇の同母弟。781年桓武天皇即位とともに立太子。785年藤原種継暗殺事件に連坐して廃され,淡路に流される途中で絶食して死んだ。のちに大和に移葬して崇道天皇と追号された。


さん @@@LINK=讃 讃


さん

5世紀に中国南朝に朝貢した倭の五王の一人
仁徳(または応神・履中)天皇に定されている。
三阿弥
さんあみ @@@LINK=三阿弥 三阿弥

三阿弥
さんあみ

室町時代,能阿弥(真能)・芸阿弥(真芸)・相阿弥(真相)の父子孫3代をいう
室町幕府に唐絵をもって仕え,水墨画・連歌の発展に貢献した。
散位
さんい @@@LINK=散位 散位

散位
さんい

律令制下,位階があるが職掌のない者をいう
職掌のある職事 (しきじ) と対比される。式部省の散位寮で管轄し,在京の六位以下の散位は交代で散位寮に出向し,地方は国衙 (こくが) に出仕して欠員のある場合に任用された。
三・一運動
さん・いちうんどう @@@LINK=三・一運動 三・一運動

三・一運動
さん・いちうんどう

1919(大正8)年,朝鮮でおこった反日独立運動
万歳事件ともいう。ロシア革命の成功や第一次世界大戦後の民族自決主義の高まりなどにより朝鮮の独立運動が活発化。1919年3月1日,京城(現ソウル)で数千人が「独立万歳」を叫びデモを行い朝鮮各地に拡大朝鮮総督府・朝鮮駐箚軍・警察によって弾圧された。
三・一五事件
さん・いちごじけん @@@LINK=三・一五事件 三・一五事件

三・一五事件
さん・いちごじけん

昭和初期,日本共産党に対する大弾圧事件
1928年2月の第1回普通選挙から,公然と活動を始めた共産党や労農党・日本労働組合評議会・無産青年同盟などの関係者千数百名が,田中義一内閣によって治安維持法違反の容疑で,3月15日未明,全国一斉に検挙された。つづいて労農党・評議会・無産青年同盟は解散を命ぜられ,さらに翌年の大検挙(四・一六事件)により左翼運動は大打撃をうけた。
山陰道
さんいんどう @@@LINK=山陰道 山陰道

山陰道
さんいんどう

律令制における五畿七道の一つ
現在の中国地方日本海沿岸地域をいう。丹波・丹後・但馬 (たじま) ・因幡 (いなば) ・伯耆 (ほうき) ・出雲 (いずも) ・石見 (いわみ) ・隠岐 (おき) の8カ国。
三貨
さんか @@@LINK=三貨 三貨

三貨
さんか

江戸時代,金・銀・(銭)3種の通貨の総称
幕府は1609年に三貨の換算率を金1両に対し銀50匁 (もんめ) ,銭4貫文と公定したが,相場は絶えず変動した。
山槐記
さんかいき @@@LINK=山槐記 山槐記

山槐記
さんかいき

平安末期〜鎌倉初期,内大臣藤原(中山)忠親の日記
山槐は中山右大臣の意。1151〜94年までの記事が現存するが,途中一部欠けている。源平興亡時代の重要な史料で,朝儀研究にも貴重。
山海名産図会
さんかいめいさんずえ @@@LINK=山海名産図会 山海名産図会

山海名産図会
さんかいめいさんずえ

江戸後期,木村兼葭堂 (けんかどう) が著した日本各地の名産の図鑑
1799年刊。5冊。画は蔀 (しとみ) 関月。諸国物産が集散する大坂にあって,各物産の生産地・特色・製法などを図入りで集録したもの。類書日本山海名産図会』より具体的である。
散楽
さんがく @@@LINK=散楽 散楽

散楽
さんがく

奈良時代に伝来した唐の雑芸
奇術・曲芸など滑稽をとしたものが多かった。平安中期以後,猿楽となまり,能の一源流となった。
三角縁神獣鏡
さんかくぶちしんじゅうきょう @@@LINK=三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡

三角縁神獣鏡
さんかくぶちしんじゅうきょう

縁の断面が三角形で,神や獣の文様を刻んだ古墳時代の銅鏡
前期古墳の副葬品として出土する。大阪府和泉市黄金塚古墳出土の銅鏡など,景初三年(239年,『魏志』倭人伝に邪馬台国が朝貢したと伝える年)を鏡の銘文に記すものもある。しかし中国では三角縁神獣鏡は出土せず,中国製か日本製か学説が対立している。多数の同笵 (どうはん) 鏡が各地の前期古墳から出土しており,大和政権が服属した各地の首長に配布したものと考えられている。
山岳仏教
さんがくぶっきょう @@@LINK=山岳仏教 山岳仏教

山岳仏教
さんがくぶっきょう

平安前期,山中を修行研学の場とした天台・真言両宗のこと
天台宗真言宗延暦寺金剛峯寺にみるように深山寺院を建てたので,都城平野に寺院をもつ南都仏教に対してこう呼ばれた。政治から離れ修行に専心するためで,修験道も山岳仏教の一つ。
山家集
さんかしゅう @@@LINK=山家集 山家集

山家集
さんかしゅう

鎌倉初期,西行の私家集
12世紀末の成立。四季・羇旅・恋・雑などの歌を集め,歌数約1570首。特色生活感情を率直・真摯に表現した旅の歌と雑の部にある。
三月事件
さんがつじけん @@@LINK=三月事件 三月事件

三月事件
さんがつじけん

昭和前期,軍部・右翼のクーデタ未遂事件
1931年3月,満蒙への進出,国家改造を唱える桜会の橋本欣五郎中佐や右翼大川周明らが,宇垣一成陸相を首班とする軍部独裁政権樹立を計画したが,宇垣らの反対で失敗。事件は秘密にされ,関係者も処罰されなかったため,のちの十月事件('31),五・一五事件('32)を誘発した。
三月堂
さんがつどう @@@LINK=三月堂 三月堂

三月堂
さんがつどう

奈良市の東大寺法華堂の通称。
三韓
さんかん @@@LINK=三韓 三韓

三韓
さんかん

古代,朝鮮南部に分立した三つの部族国家群,馬韓・辰韓 (しんかん) ・弁韓をいう
いずれも小部族国家に分かれていたが,4世紀ころより馬韓は百済 (くだら) ,辰韓は新羅 (しらぎ) によって統一された。弁韓は分立状態のまま任那 (みまな) となり,新羅の圧迫に対して日本に援助を求め日本の支配下に入ったといわれる。しかし,これについては批判するも出されている。
三管・四職
さんかん・ししき @@@LINK=三管・四職 三管・四職

三管・四職
さんかん・ししき

室町幕府の重職たる管領となる3家と,侍所の所司に選任される4家をいう。
三韓出兵
さんかんしゅっぺい @@@LINK=三韓出兵 三韓出兵

三韓出兵
さんかんしゅっぺい

記紀にみられる神功 (じんぐう) 皇后馬韓弁韓・辰韓出兵の物語
日本の半島侵攻の史実を反映しているのかもしれないが,後代の修飾が多く,信憑 (しんぴよう) 性は乏しい。
三管領
さんかんれい @@@LINK=三管領 三管領

三管領
さんかんれい

室町幕府管領に選任される,斯波 (しば) ・細川畠山の3家のこと
管領は将軍を補佐して政務を総覧する幕府最高役職。初め執事といい高師直 (こうのもろなお) ・仁木頼章らが任ぜられたが,1362年(将軍足利義詮 (よしあきら) ),斯波義将 (よしまさ) のときには管領と改称され,さらに'98年(将軍義持)以後,足利氏一族の斯波・細川・畠山の3氏の中から任命されたので,三管領(三管)と呼び,室町幕府最高の家柄とみなされた。
参議
さんぎ @@@LINK=参議 参議

参議
さんぎ

①奈良時代,令外官 (りようげのかん) の一つ
②明治初年の行政官
③日中戦争中,近衛文麿内閣により設けられた官職
702年設置。大臣 (おおおみ) ・納言につぐ重職で,太政官の政務審議に参加。
1869年,太政官に設置。大臣を補佐して国政に参加し,西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通らが任命された。'85年内閣制度実施により廃止。
1937年内閣参議として設置。内閣の大政に参画した。

参議院
さんぎいん @@@LINK=参議院 参議院

参議院
さんぎいん

日本国憲法下,衆議院と並び国会を構成する立法機関
1947年設置。議員の任期は6年で3年ごとに半数が改選される。比例代表(96人)と選挙区選出(146人)に分けて選挙。戦前の貴族院のあとをうけている形であるが,権限は衆議院よりも弱い。また解散制度はない。
産業革命
さんぎょうかくめい @@@LINK=産業革命 産業革命

産業革命
さんぎょうかくめい

市場の拡大による工場制手工業から機械制大工業への変革
1760〜70年代にイギリスに始まり,19世紀を通じて欧米の主要な資本主義諸国や日本で行われた。日本の産業革命は欧米より遅れて日清戦争(1894〜95)のころ,紡績・製糸・綿織物を中心とする軽工業部門に第1次産業革命が,続いて日露戦争(1904〜05)前後に重工業部門の第2次産業革命が進行した。この時期を通じて日本の資本主義が急速な発展をみせたのは,安くて豊富な労働力による。この安い労働力は,一方で国内市場を狭くするので,資本は海外市場を求め,軍事的・侵略主義的な性格をもった。
三経義疏
さんぎょうぎしょ @@@LINK=三経義疏 三経義疏

三経義疏
さんぎょうぎしょ

飛鳥時代,聖徳太子の著した仏教経典注釈書
7世紀初め成立。8巻。法華・勝鬘 (しようまん) ・維摩 (ゆいま) 3経の注釈であるが,中国の模倣ではなく独自の注釈が目だつ。しかし,偽作説もある。
産業組合
さんぎょうくみあい @@@LINK=産業組合 産業組合

産業組合
さんぎょうくみあい

第二次世界大戦前の農村における協同組合
1900年産業組合法に基づいて,中小農を救済するために組織され,'14年にはほぼ全国町村に普及し,信用・販売・購買・生産などの事業を行った。しかし全員加入の半行政団体の性格が強い。戦時中,農業会に転化し,戦後は農業協同組合に代わった。
産業組合法
さんぎょうくみあいほう @@@LINK=産業組合法 産業組合法

産業組合法
さんぎょうくみあいほう

明治後期,中小生産者層の保護・救済を目的として制定された法律産業組合の根拠法で,1900年公布。
産業合理化
さんぎょうごうりか @@@LINK=産業合理化 産業合理化

産業合理化
さんぎょうごうりか

生産・流通の過程合理化により産業の強化,利潤増大をはかる政策
日本では1930年世界恐慌下に,浜口雄幸内閣が重要産業統制法工業組合法などでカルテル・トラストを奨励,人員整理や労働強化を進めて,能率向上をはかったのが有名。第二次世界大戦後,経済復興や技術革新が叫ばれ,'52年企業合理化促進法を制定。'55年より生産性向上運動が展開された。
産業資本
さんぎょうしほん @@@LINK=産業資本 産業資本

産業資本
さんぎょうしほん

資本主義社会において,生産過程に投入される資本
封建社会の末期に没落した農民や手工業者を賃労働者として雇用し,労働させて彼らに剰余価値の生産を行わせることによって成立した資本であり,この資本の出現により資本主義的生産がはじめて開始された。日本では政府の保護育成策によってつくり出され,1890〜1900年代の産業革命を経て確立した。
産業報国会
さんぎょうほうこくかい @@@LINK=産業報国会 産業報国会

産業報国会
さんぎょうほうこくかい

日中戦争から太平洋戦争にかけて,労働者を戦争に全面協力させるための組織
1938年国家総動員法の制定を機として,政府は労働組合を解消し全労働者を産業報国会に組織。'40年新体制運動の中で全国組織の大日本産業報国会に結集された。
散切り
ざんぎり @@@LINK=散切り 散切り

散切り
ざんぎり

明治初期の断髪
1871(明治4)年の散髪脱刀令以来,文明開化の象徴とされた。
散切物
ざんぎりもの @@@LINK=散切物 散切物

散切物
ざんぎりもの

歌舞伎で明治時代以後の新風俗に題材をとった新しい世話物のこと
断髪した役者が演じたのでこういわれた。河竹黙阿弥の『島鵆月白浪 (しまちどりつきのしらなみ) 』『水天宮利生深川』などを5代目尾上菊五郎が演じた。皮相な世相・流行を追うのみで,内容は古い物語と変わらなかった。
参勤交代
さんきんこうたい @@@LINK=参勤交代 参勤交代

参勤交代
さんきんこうたい

江戸時代,幕府が大名統制のため一定期間諸大名を江戸に参勤させた制度
江戸初期から諸大名が自発的に江戸に参向することはあったが,1635(寛永12)年3代将軍徳川家光の改正した武家諸法度で毎年4月を参勤の時期と定め制度化した。在江戸・在国1年交代(関東の譜代大名は半年交代)が原則で,妻子を人質として江戸に常住させた。往復の旅費や江戸藩邸での出費は大名の財政を苦しめたが,他方江戸の繁栄,交通・経済の発達をうながした。1864年,事実上廃絶。
山家学生式
さんげがくしょうしき @@@LINK=山家学生式 山家学生式

山家学生式
さんげがくしょうしき

平安初期,最澄の著した仏書
818〜819年の成立。1巻。比叡山において天台宗を学ぶ学生のために教育方針と規則を記した教条で,嵯峨天皇に献じ,大乗戒壇建立を申請。そのため南都諸寺院との対立が激化した。
三関
さんげん @@@LINK=三関 三関
さんせき @@@LINK=三関 三関

三関
さんげん

古代,畿内防衛のために置かれた三つの関所
奈良・平安初期のころ,東海・東山・北陸道の要地に設けられた伊勢鈴鹿・美濃不破 (ふわ) ・越前愛発 (あらち) の3関をいう。平安中期以後,愛発関は衰微し近江の逢坂 (おうさか) 関にかわった。平常は国司が警備。平安末期廃止された。

三関
さんせき

さんげん
三権分立
さんけんぶんりつ @@@LINK=三権分立 三権分立

三権分立
さんけんぶんりつ

国家統治権を,立法行政司法の三権に区分し,これら三つの権力作用をなるべく相互の独立した別の国家機関に置き,権力の集中を防ごうとする統治上の原則
イギリスの哲学者ロックが提唱し,18世紀,フランスの啓蒙家モンテスキュー確立。日本では形式的には明治初年の政体書で採用されたが,行政権に重点が置かれ,大日本帝国憲法も三権分立を認めたが,天皇の大権が中心であった。これに対し,現在の日本国憲法では国民主権のもとに,三権分立主義が一歩前進したが,アメリカ式の厳格な三権分立とイギリス式のゆるやかな三権分立が混在しているといわれている。
産語
さんご @@@LINK=産語 産語

産語
さんご

江戸中期,太宰春台が著した政治経済論書
1749年刊。2巻。大坂市中で買い求めたことに託して,古書に模して幕政を論じたもの。衣食足りて礼節を知るという観点から,四民が職分を尽くし富国殖産につとめるべきであるとし,その具体策を書きおよぼしている。
三公
さんこう @@@LINK=三公 三公

三公
さんこう

太政大臣・左大臣・右大臣の総称
律令制の太政官の最高官人のこと。太政大臣は適当な人物がいなければ置かれない(則闕 (そつけつ) の官)ので,そのときは左大臣・右大臣・内大臣をさす。
三后
さんこう @@@LINK=三后 三后

三后
さんこう

太皇太后 (たいこうたいごう) ・皇太后・皇后の総称
皇后は天皇嫡妻,皇太后は天皇の母で后位にのぼった人,太皇太后とは天皇の祖母で后位にのぼった人をさす。
三綱
さんごう @@@LINK=三綱 三綱

三綱
さんごう

古代,寺の諸事を統率する上座・寺主・都維那 (ついな) の3種の役僧の総称
寺内の僧侶を統轄し,寺務を処理し,寺の統治者であったが,のちに別当・座主 (ざす) などが寺の最高の地位につくと,その下に属する役僧の名称となった。
三教指帰
さんごうしいき @@@LINK=三教指帰 三教指帰

三教指帰
さんごうしいき

平安初期,空海の著した寓意小説体の仏教書
成立年代は不詳だが,作者24歳の797年とするのが通説。3巻。初めにつくった『聾瞽指帰 (ろうこしいき) 』を少し修正したもので,出家の理由を記し,儒・仏・道3教の優劣を論じ,密教を最高としている。
三国遺事
さんごくいじ @@@LINK=三国遺事 三国遺事

三国遺事
さんごくいじ

朝鮮三国(新羅 (しらぎ) ・高句麗 (こうくり) ・百済 (くだら) )時代の史書
14世紀初期の成立。5巻。高麗の僧一然の著。三国に関する史実・伝説などを集め,分類したもので,仏教関係の記事が多い。『三国史記』とともに朝鮮古代史研究には重要な文献
三国干渉
さんごくかんしょう @@@LINK=三国干渉 三国干渉

三国干渉
さんごくかんしょう

日清戦争の結果,遼東半島の日本領有に対して行われたロシア・フランス・ドイツ3国の対日干渉
1895年4月,遼東半島の割譲は下関条約で約されたが,南満州進出を企図するロシアはフランス・ドイツを誘い,条約調印の直後,日本に対して清国へ返還することを勧告した。日本はやむなく庫平銀3000万両 (テール) (約4500万円)を代償に受諾したが,政府は「臥薪嘗胆 (がしんしようたん) 」を叫び,全力を対ロシア戦争の準備にそそいだ。また,この干渉後に欧州列強による中国分割が開始された。
三国協商
さんごくきょうしょう
Triple Entente @@@LINK=三国協商 三国協商

三国協商
さんごくきょうしょう
Triple Entente

第一次世界大戦前および大戦中のイギリス・フランス・ロシアの対ドイツ外交軍事体制
1891年露仏同盟,1904年英仏協商,'07年英露協商で成立。条文はないが,三国同盟に対抗し,連合国側の結束に貢献した。アメリカの参戦,革命によるロシアの脱落によって,'17年解消。
三国志
さんごくし @@@LINK=三国志 三国志

三国志
さんごくし

中国三国時代の正史
晋の陳寿の撰。魏志30巻,蜀志15巻,呉志20巻からなる。
三国史記
さんごくしき @@@LINK=三国史記 三国史記

三国史記
さんごくしき

朝鮮三国(新羅 (しらぎ) ・高句麗 (こうくり) ・百済 (くだら) )時代の史書で,朝鮮における現存最古の正史
1145年成立。50巻。編者は高麗の金富軾 (きんふしよく) 。紀伝体で,新羅本紀・高句麗本紀・百済本紀・年表・雑志・列伝などからなる。
三国司家
さんこくしけ @@@LINK=三国司家 三国司家

三国司家
さんこくしけ

国司制度崩壊後も国司と称して,現地を領有した公家
飛驒の姉小路 (あねがこうじ) 家,伊勢の北畠家,土佐の一条家,いずれも国司から戦国大名化した。
三国通覧図説
さんごくつうらんずせつ @@@LINK=三国通覧図説 三国通覧図説

三国通覧図説
さんごくつうらんずせつ

江戸後期,林子平の著した地誌
1785年完成,翌年刊行。図5枚1巻。日本と周辺の朝鮮・琉球・蝦夷 (えぞ) 地3国を図示,特に蝦夷地に重点を置き北辺海防の必要を知らせようとした。『海国兵談』とともに発禁となった。
三国同盟
さんごくどうめい
Triple Alliance @@@LINK=三国同盟 三国同盟

三国同盟
さんごくどうめい
Triple Alliance

①第一次世界大戦前,ドイツ・オーストリア・イタリアの間に結ばれた同盟
フランスに対抗するために1882年成立。三国協商と対抗した。イタリアのイギリス・フランス接近により第一次世界大戦中の1915年に崩壊した。
② ⇨ 日独伊三国同盟
三国防共協定
さんごくぼうきょうきょうてい @@@LINK=三国防共協定 三国防共協定

三国防共協定
さんごくぼうきょうきょうてい

日独伊防共協定」のこと。
三斎市
さんさいいち @@@LINK=三斎市 三斎市

三斎市
さんさいいち

中世〜近世,毎月3回(,1・11・21日)開かれた定期市
鎌倉中期以降,全国的に普及,四日市・六日町など今も地に名残をとどめる。
三社託宣
さんしゃたくせん @@@LINK=三社託宣 三社託宣

三社託宣
さんしゃたくせん

伊勢神宮・石清水八幡宮・春日神社の神名と託宣を一枚の画にして信仰の対象としたもの
3社の神徳である正直・清浄・慈悲の徳目を現す。室町時代,この画をかかげて拝礼する風が公家の間に盛んに行われた。
三十三間堂
さんじゅうさんげんどう @@@LINK=三十三間堂 三十三間堂

三十三間堂
さんじゅうさんげんどう

京都市東山区にある天台宗の寺
正しくは蓮華王院本堂。1164年後白河法皇の勅願により平清盛が創建,1266年再建された。内陣の柱間が33間あるところから三十三間堂という。新和様建築。本尊の『千手観音坐像』と1001体の『千手観音立像』はともに鎌倉時代の湛慶一門の作。
32年テーゼ
さんじゅうにねんテーゼ @@@LINK=32年テーゼ 32年テーゼ

32年テーゼ
さんじゅうにねんテーゼ

1932年5月,コミンテルン西ヨーロッパ‐ビューローにより発表された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと
日本の支配体制が,天皇制・地主的土地所有・独占資本主義の3要素より構成される「絶対君主制」であり,日本の革命の性格を,まずブルジョア民主主義革命を行い,ついで社会主義革命に強行的に転化させると,2段階的に規定した。
三十六歌仙
さんじゅうろっかせん @@@LINK=三十六歌仙 三十六歌仙

三十六歌仙
さんじゅうろっかせん

平安中期,藤原公任 (きんとう) が選んだ当代までの代表的歌人36人の総称
万葉歌人としては柿本人麻呂・山部赤人・大伴家持,六歌仙から小野小町・在原業平・僧正遍昭,古今歌人としては紀貫之・凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね) ・伊勢・素性法師・紀友則・藤原兼輔 (かねすけ) ・壬生忠岑 (みぶのただみね) ・藤原敏行・源宗于 (むねゆき) ・藤原興風 (おきかぜ) ・坂上是則 (さかのうえのこれのり) ,後撰集歌人として平兼盛・中務 (なかつかさ) ・藤原朝忠・藤原敦忠・源公忠 (きんただ) ・斎宮女御・大中臣頼基・源信明 (さねあきら) ・藤原清正・源順 (したごう) ・清原元輔・藤原元真・大中臣能宣 (よしのぶ) ・壬生忠見,拾遺集歌人として藤原高光・小大君 (こおおぎみ) ・源重之・藤原仲文,および猿丸太夫の36人の歌人をいう。また平安中期の歌人36人を選んだものを中古三十六歌仙,鎌倉期の歌人を選んだものを新三十六歌仙という。
三種の神器
さんしゅのじんぎ @@@LINK=三種の神器 三種の神器

三種の神器
さんしゅのじんぎ

皇位の象徴として歴代天皇が継承するといわれる三つの神宝
八咫鏡 (やたのかがみ) ・草薙剣 (くさなぎのつるぎ) ・八坂瓊曲玉 (やさかにのまがたま) の三つで, いずれも瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) 降臨のとき天照大神 (あまてらすおおみかみ) から授けられたという。現在,鏡は伊勢神宮,剣は熱田神宮,玉は鏡・剣の模造品とともに宮中に祭る。
散所
さんじょ @@@LINK=散所 散所

散所
さんじょ

古代・中世に特殊な集団生活を営んでいた一種の賤民
貢租を免除され雑役に仕した。本来その地域をいったが,やがて住民をさすようになった。大寺社など権門勢家に隷属して交通・運搬清掃・狩猟などに従い,あるいは遊芸人として従事した。
三条実美
さんじょうさねとみ @@@LINK=三条実美 三条実美

三条実美
さんじょうさねとみ

1837〜91
幕末・明治前期の尊攘派公卿・宮廷政治家
長州藩と提携し1863年攘夷親征の大和行幸を計画して失敗。八月十八日の政変により長州に七卿落ちした。王政復古後,議定・右大臣を経て太政大臣となった。'84年華族令制定により公爵となり,翌年内閣制度実施に伴い内大臣に就任。
三条天皇
さんじょうてんのう @@@LINK=三条天皇 三条天皇

三条天皇
さんじょうてんのう

976〜1017
平安中期の天皇(在位1011〜16)
冷泉天皇第2皇子で,名は居貞 (おきさだ) 。母は藤原兼家の娘超子。藤原道長が外孫の後一条天皇を立てようとして,退位を強要した。

三条西実隆
さんじょうにしさねたか @@@LINK=三条西実隆 三条西実隆

三条西実隆
さんじょうにしさねたか

1455〜1537
室町後期の公卿・歌人・学者
内大臣公保 (きんやす) の子で,1506年内大臣となったが,'16年出家。一条兼良 (かねよし) のあとをうけ,和漢の学・有職故実 (ゆうそくこじつ) に通じ室町後期最高の文化人とされる。宗祇 (そうぎ) から古今伝授をうけ肖柏 (しようはく) ・宗長らと交友があった。日記にこの時代の基本的史料である『実隆公記』,歌日記『再昌草』などがある。

三職
さんしょく @@@LINK=三職 三職

三職
さんしょく

1867年,王政復古の際新設された新政府最高の3官職
総裁・議定・参与をいう。
三津
さんしん @@@LINK=三津 三津

三津
さんしん

中世,坊津 (ぼうのつ) (薩摩)・那津 (なのつ) (筑前博多)・安濃津 (あのつ) (伊勢津)の3港の総称
古代より栄えた要港で,特に中世対明貿易港として栄え,中国人より三津と称された。安濃津の代わりに堺津(和泉)を数えることもある。
三新法
さんしんぽう @@@LINK=三新法 三新法

三新法
さんしんぽう

明治前期,郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の総称
1878年,地方行政円滑を目的とし,第2回地方官会議・元老院会議を経て成立した,明治政府による最初の地方行政に関する統一的立法。'88年の市制・町村制,'90年の府県制・郡制の実施による地方自治の確立に伴い廃止された。
山水画
さんすいが @@@LINK=山水画 山水画

山水画
さんすいが

自然の風景を描いた絵画
中国では漢代におこり唐代に独立・発展し宋代に完成。日本では『玉虫厨子 (ずし) 』や正倉院御物にみられるように中国の模倣の時代を経て,平安時代に大和絵が成立し,独自の様式をもった。鎌倉・室町時代に宋元の水墨画が輸入されると水墨山水画が栄え,雪舟はその大成者。江戸時代に文人画が南画の影響をうけると再び栄えたが,明治期の富岡鉄斎を最後として衰退した。
山水長巻
さんすいちょうかん @@@LINK=山水長巻 山水長巻

山水長巻
さんすいちょうかん

室町後期,画僧雪舟の描いた山水画
『四季山水図』ともいう。1486年作。1巻。毛利家蔵。国宝。縦40㎝,横約15mの長大な画面に中国の四季の変化を描いたもの。日本水墨画中の傑作として有名。
三世一身法
さんぜいっしんのほう @@@LINK=三世一身法 三世一身法

三世一身法
さんぜいっしんのほう

奈良時代,土地の開墾奨励のため律令政府が出した法令
元正天皇の723(養老7)年発布。人口の増加に応じて耕地をふやすために,新たに溝池を設けて開墾した者には子・孫・曽孫の3代まで田地の保有を許し,旧溝池を利用した者には本人1代限り田地の保有を認めるというもの。この結果,有力者に水田が集まり律令制度の基礎である公地主義崩壊の端緒となった。
三関
さんげん @@@LINK=三関 三関
さんせき @@@LINK=三関 三関

三関
さんげん

古代,畿内防衛のために置かれた三つの関所
奈良・平安初期のころ,東海・東山・北陸道の要地に設けられた伊勢鈴鹿・美濃不破 (ふわ) ・越前愛発 (あらち) の3関をいう。平安中期以後,愛発関は衰微し近江の逢坂 (おうさか) 関にかわった。平常は国司が警備。平安末期廃止された。

三関
さんせき

さんげん
三蹟
さんせき @@@LINK=三蹟 三蹟

三蹟
さんせき

平安中期を代表する3人の能書家,小野道風 (とうふう) ・藤原佐理 (さり) ・藤原行成 (こうぜい) をいう
10世紀から11世紀初めの人。平安初期の雄渾な中国風書道に対して日本風の優雅な和様書道を大成した。筆跡を道風は野蹟,佐理は佐蹟,行成は権蹟と呼ぶ。
三千院
さんぜんいん @@@LINK=三千院 三千院

三千院
さんぜんいん

京都市左京区大原にある天台宗の寺
延暦年間(782〜806),最澄が創建。比叡山から後世各地に移建され,応仁の乱(1467〜77)以後現在地に移った。山門3門跡の一つ。持仏堂の往生極楽院は藤原時代の代表的な阿弥陀堂建築。往生極楽院の『阿弥陀三尊像』は源信の作と伝えられる。
三蔵
みつくら @@@LINK=三蔵 三蔵
さんぞう @@@LINK=三蔵 三蔵

三蔵
みつくら

大和政権の財物を収納した斎蔵 (いみくら) ・内蔵 (うちくら) ・大蔵 (おおくら) の三つの倉庫をいう
「さんぞう」とも読む。斎蔵は神の貢租をおさめ斎部氏 (いんべうじ) が世襲管理した。内蔵は大王家の財物を収納し,東漢氏 (やまとのあやうじ) ・西文氏 (かわちのふみうじ) が事務をつかさどり,大蔵は政府の貢租をおさめ,秦氏 (はたうじ) が事務をつかさどった。ともに蘇我氏が轄したという。

三蔵
さんぞう

みつくら
三大飢饉
さんだいききん @@@LINK=三大飢饉 三大飢饉

三大飢饉
さんだいききん

江戸時代の飢饉のうち,特に享保(1732)・天明(1782〜87)・天保(1830以後数年)の飢饉をいう
その被害は全国に及んだが,特に関東東北地方がひどかった。そのため百姓一揆や打ちこわしが激しくなった。
三代格式
さんだいきゃくしき @@@LINK=三代格式 三代格式

三代格式
さんだいきゃくしき

平安前期に編纂された3格式の総称
弘仁格式』『貞観格式』『延喜格式』のこと。式は弘仁式の一部と延喜式が現存。格は『類聚三代格』によってほぼその内容を知ることができる。
三大事件建白運動
さんだいじけんけんぱくうんどう @@@LINK=三大事件建白運動 三大事件建白運動

三大事件建白運動
さんだいじけんけんぱくうんどう

明治中期の政治運動
井上馨外相の条約改正に対する反対運動などで民権派の運動が活気づくと,1887年片岡健吉らは,言論・集会の自由,地租の軽減,外交失策の回復を主張する建白書を提出。この運動は星亨 (とおる) ・尾崎行雄らに指導され,折りからの大同団結運動と呼応して盛り上がりをみせた。政府は保安条例でこれを弾圧した。
三代実録
さんだいじつろく @@@LINK=三代実録 三代実録

三代実録
さんだいじつろく

日本三代実録
三代集
さんだいしゅう @@@LINK=三代集 三代集

三代集
さんだいしゅう

平安時代,『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の3勅撰和歌集の総称
藤原定家の歌論書『詠歌大概』に「は三代集を出づるべからず」とあり,後世,「詞」(表限方法と考えてよい)についての規範的古典の位置を占めた。
サンディカリスム
syndicalisme @@@LINK=サンディカリスム サンディカリスム

サンディカリスム
syndicalisme

議会主義を排する労働組合の方針
労働組合のゼネストなど直接行動で,政治・経済組織を破壊し,革命を遂行,労働組合中心の新社会建設を主張。19〜20世紀,フランスの労働総同盟中心に展開し,日本では大正時代,大杉栄らによってアナーキズムと結合・発展したが(アナルコ‐サンディカリスム)無産政党の活動とともに衰退した。
三都
さんと @@@LINK=三都 三都

三都
さんと

江戸時代の三大都市,江戸・大坂・京都をいう。いずれも幕府の直轄都市だった。
算道
さんどう @@@LINK=算道 算道

算道
さんどう

律令制下,大学寮の学科の一つ
算博士が算生 (さんしよう) に算数の学を教えた。
山東京伝
さんとうきょうでん @@@LINK=山東京伝 山東京伝

山東京伝
さんとうきょうでん

1761〜1816
江戸後期の戯作者・浮世絵師
本名岩瀬醒 (さむる) ,通称伝蔵。画号北尾政演 (まさのぶ) 。江戸深川の人。多才多芸で商才にも長じ,洒落本・黄表紙・合巻・読本 (よみほん) に名作を残した。寛政の改革で処罰され,以後読本作者に転向した。代表作に黄表紙『江戸生艶気樺焼 (えどうまれうわきのかばやき) 』,洒落本『通言総籬 (つうげんそうまがき) 』『古契三娼』,読本『昔話稲妻表紙 (むかしがたりいなづまそうし) 』,考証的随筆『近世奇跡考』など。

山東出兵
さんとうしゅっぺい @@@LINK=山東出兵 山東出兵

山東出兵
さんとうしゅっぺい

1927〜28年にかけて田中義一内閣が中国山東半島へ出兵した事件
蔣介石の率いる中国国民党革命軍の北伐を阻止し,満州・華北への勢力拡大をねらって3度にわたり出兵。1927年,張作霖政権を援助し,これを利用するため,居留民保護を名目に出兵,北伐の中止で撤兵(第1次)。翌'28年北伐再開に対抗し再度出兵して済南事件をおこし(第2次),事件後も増兵,中国の抗日運動を激化させた。内外からの強い反対により'29年撤兵(第3次)。
山東問題
さんとうもんだい @@@LINK=山東問題 山東問題

山東問題
さんとうもんだい

大正時代,中国山東半島の旧ドイツ権益の日本継承をめぐる問題
日本は第一次世界大戦で同半島を占領,二十一カ条要求で権益の継承を求め,ヴェルサイユ条約でこれを確認させた。しかし,中国の抗日運動の激化や調印拒否にあい,また列国の中国支持によりワシントン会議で還付を決定し,日本は撤兵を承認。しかし,その後国民革命軍の北伐の進行に伴い,1927・28両年に日本は山東出兵を行って中国と対立した。
三度飛脚
さんどびきゃく @@@LINK=三度飛脚 三度飛脚

三度飛脚
さんどびきゃく

江戸時代,毎月3度江戸と上方の間を往復した町飛脚
東海道を6日で走ったので「定六 (じようろく) 」ともいう。
三内丸山遺跡
さんないまるやまいせき @@@LINK=三内丸山遺跡 三内丸山遺跡

三内丸山遺跡
さんないまるやまいせき

縄文時代前〜中期,青森市西部の河岸段丘上にある集落遺跡
1992年以降の調査で,柱穴の深さ1.5m以上,直径1mという6本の柱列や数百棟の住居跡,500個以上の土偶などが出土している。'97年の調査で2列で長さ420mに及ぶ約250基の土壙墓 (どこうぼ) が出土したが,全面発掘でないため遺物や墓の数はもっと増加すると思われる。遺跡の広さが40ha以上という縄文時代最大規模の集落で,一時期の人口500人という推定があるが,反論もある。遺跡の北側斜面の低湿地で発掘された6本の柱列は,六本柱の建物跡であることがわかり,復元されている。しかし水際にあって生活の跡が見られず,その用途は不明。
山王一実神道
さんのういちじつしんとう @@@LINK=山王一実神道 山王一実神道

山王一実神道
さんのういちじつしんとう

神仏習合理論を根本とする神道説
日吉 (ひえ) 神道ともいう。近江日吉神社を中心に天台宗の三諦即一 (さんたいそくいつ) の教理が結びついた神道説。平安時代から唱えられ鎌倉〜南北朝時代に盛行。江戸初期,僧天海がこれを主張し,大いに栄えた。
山王霊験記絵巻
さんのうれいげんきえまき @@@LINK=山王霊験記絵巻 山王霊験記絵巻

山王霊験記絵巻
さんのうれいげんきえまき

比叡山伝記を中心にした日吉山王の霊験談
2種類ある。①鎌倉末期の絵巻物。沼津日枝 (ひえ) 神社蔵。1巻。神社創立の縁起を描く。
②室町初期の絵巻物。京都蓮華寺蔵。2巻。ほかに井上家蔵1巻,生源寺蔵1巻。
散髪脱刀令
さんぱつだっとうれい @@@LINK=散髪脱刀令 散髪脱刀令

散髪脱刀令
さんぱつだっとうれい

明治政府が出した, (まげ) を落とし帯刀しないことを自由にした法令
1871年公布。散髪は文明開化の象徴として武士から商人農民にも普及。当初は半髪・総髪・散切りがあった。脱刀は進まず,'76年の廃刀令で軍人・警察官などのほかは帯刀禁止となった。
三筆
さんぴつ @@@LINK=三筆 三筆

三筆
さんぴつ

平安初期を代表する3人の能書家,空海・嵯峨天皇・橘逸勢 (たちばなのはやなり) の総称
中国風の力強い書風で,空海の『風信帖 (ふうしんじよう) 』が有名。
サン‐フェリペ号事件
サン‐フェリペごうじけん @@@LINK=サンフェリペ号事件 サンフェリペ号事件

サン‐フェリペ号事件
サン‐フェリペごうじけん

安土桃山時代豊臣秀吉スペイン船の積荷没収事件
1596年スペイン船サン‐フェリペ号が暴風雨のため土佐漂着。豊臣秀吉増田長盛を派遣し,積荷と乗組員の所持金すべてを没収した。その時,一船員が「スペインが広大な領土を獲得したのはキリスト教布教と宣教師の手引きによる」と放言。これにより秀吉の禁教政策は強められ,長崎の殉教事件がおこった。
三奉行
さんぶぎょう @@@LINK=三奉行 三奉行

三奉行
さんぶぎょう

江戸時代,寺社奉行・町奉行・勘定奉行の総称
宗教行政・江戸市政・幕府財政のそれぞれの担当者として重んじられた。評定所(江戸幕府最高裁判機関)の主要構成員でもある。
産物会所
さんぶつかいしょ @@@LINK=産物会所 産物会所

産物会所
さんぶつかいしょ

国産会所
サンフランシスコ講和会議
サンフランシスコこうわかいぎ @@@LINK=サンフランシスコ講和会議 サンフランシスコ講和会議

サンフランシスコ講和会議
サンフランシスコこうわかいぎ

1951年9月,サンフランシスコで開かれた対日講和条約締結のための国際会議。日本代表は吉田茂
サンフランシスコ平和条約
サンフランシスコへいわじょうやく @@@LINK=サンフランシスコ平和条約 サンフランシスコ平和条約

サンフランシスコ平和条約
サンフランシスコへいわじょうやく

1951(昭和26)年9月8日,日本と連合国との間で結ばれた第二次世界大戦の講和条約
内容は,7章27カ条,(1)平和,(2)領域,(3)安全,(4)政治及び経済,(5)財産及び請求権,(6)紛争の解決,(7)最終条項,よりなる。日本は全権として,吉田茂首相を送り,連合国側48カ国と調印。翌'52年4月発効。ポツダム宣言に基づき,日本は本州・北海道・九州・四国などを除くいっさいの領土を放棄し,軍備撤廃・賠償支払いなどの義務を負った。なおソ連圏(ソ連・ポーランドチェコスロヴァキア)は調印を拒否。日本国内では全面講和単独講和かで世論が対立した。
産別会議
さんべつかいぎ @@@LINK=産別会議 産別会議

産別会議
さんべつかいぎ

全日本産業別労働組合会議
三浦
さんぽ @@@LINK=三浦 三浦

三浦
さんぽ

室町時代朝鮮で日本船の入港を指定した,薺浦 (せいほ) (乃而浦 (ないじほ) )・富山浦 (ふざんぽ) ・塩浦 (えんぽ) の3港
15世紀初めから16世紀初めまで続いた。李朝では倭寇をしずめるために,日本人の来航者を優遇し,自由に貿易が行われていたが,1426年この三浦に限定し,送使船接待のための倭館が常設され,居留する日本人も多かった。しかし1510年三浦の乱によって薺浦1港に限られるようになった。
三宝院
さんぼういん @@@LINK=三宝院 三宝院

三宝院
さんぼういん

京都市伏見区にある醍醐 (だいご) 寺の主院。
三宝絵詞
さんぼうえことば @@@LINK=三宝絵詞 三宝絵詞

三宝絵詞
さんぼうえことば

平安中期,源為憲 (ためのり) の著した仏教説話集
3巻。984年に冷泉 (れいぜい) 天皇の皇女尊子 (そんし) 内親王のために進。全巻を仏・法・僧の三宝に分け,上巻は仏の本生説話,中巻は高僧の所伝,下巻は法会の由来を記す。絵詞であるが絵は現存しない。
参謀本部
さんぼうほんぶ @@@LINK=参謀本部 参謀本部

参謀本部
さんぼうほんぶ

明治〜昭和期の日本陸軍の最高軍令機関
1878年陸軍省参謀局が独立して参謀本部となる。参謀本部長(のち参謀総長)は陸軍大臣(軍政機関)から独立し,天皇に直属して,国防・用兵などを統轄した。統帥権独立の名のもとに軍部独走の拠点となった。1945年廃止。
讒謗律
ざんぼうりつ @@@LINK=讒謗律 讒謗律

讒謗律
ざんぼうりつ

1875(明治8)年に制定された明治政府の言論弾圧のための法律
全8カ条。民撰議院設立建白に始まる自由民権運動の高まりの対策として,井上毅 (こわし) らが作成・公布した。事実の有無を問わず,人を讒毀 (ざんき) ・誹謗する者を処罰する法で,政府を批判することが讒謗(悪口)として投獄・罰金処分の対象とされた。同時に制定された新聞紙条例とともに,藩閥専制政治の維持と自由民権運動の圧迫のために利用された。
三浦の乱
さんぽのらん @@@LINK=三浦の乱 三浦の乱

三浦の乱
さんぽのらん

室町後期,朝鮮の三浦でおこった日本人の暴動事件
16世紀初め朝鮮の中宗が即位すると,政治刷新のため日本貿易の制限を強化し,三浦居留の日本人(恒居倭 (こうきよわ) という)を圧迫。1510年日本居留民は対馬の島主宗盛順 (もりのぶ) の応援を得て三浦を襲ったが鎮定された。この結果日本人の三浦居留は認められず,貿易は極度に制限され港も薺浦 (せいほ) 1港に限られ,日朝貿易は衰微した。
三問三答
さんもんさんとう @@@LINK=三問三答 三問三答

三問三答
さんもんさんとう

中世における幕府の訴訟手続きの形式
訴えを提起する者(訴人)は,訴状に証拠書類を添えて問注所の賦 (くばり) 奉行に提出。賦奉行がそれを引付 (ひきつけ) にまわすと,引付は被告(論人)に答弁を求める問状 (といじよう) を発する。問状をうけた論人は陳状(答弁の書)を出してこれに答える。このような訴状・陳状の交換は3度まで行われ,「三問三答の訴陳に (つがう) 」といわれ,この間に幕府が判決を下した。
山門・寺門
さんもん・じもん @@@LINK=山門・寺門 山門・寺門

山門・寺門
さんもん・じもん

10世紀に始まる天台宗の二大分派
比叡山で円仁派と円珍派が争い,993年円珍派は山を下りて分離し園城 (おんじよう) 寺に移った。延暦寺に留まったものを山門園城寺に拠ったものを寺門といい,以来両派は数百年間にわたり対立抗争した。
参与
さんよ @@@LINK=参与 参与

参与
さんよ

1867(慶応3)年,王政復古により設置された官職。明治新政府の三職の一つ
初め公卿と尾張越前薩摩安芸 (あき) ・土佐藩士各3人で,つぎに公卿・諸侯・徴士で構成された。翌1868年政体書による官制で議定とともに議政官上局に属し,事務を分担した。'69年の官制改革で廃止され,職務参議に継承された。
山陽道
さんようどう @@@LINK=山陽道 山陽道

山陽道
さんようどう

律令制における五畿七道の一つ
現在の中国地方の瀬戸内海沿岸をいう。播磨 (はりま) ・美作 (みまさか) ・備前・備中・備後・安芸 (あき) ・周防 (すおう) ・長門の8カ国。
山陵志
さんりょうし @@@LINK=山陵志 山陵志

山陵志
さんりょうし

江戸後期,蒲生君平 (がもうくんぺい) の著書
1808年刊。2巻。歴代天皇陵の荒廃をなげき,各陵を実地踏査して詳細に調査考証したもの。第1巻は大和31か所,河内13か所,和泉3か所など。第2巻は山城38か所。天皇陵の尊崇と復興を唱え,幕末の尊王思想に影響を与えた。
三論宗
さんろんしゅう @@@LINK=三論宗 三論宗

三論宗
さんろんしゅう

南都六宗の一つ
中国の隋代に吉蔵 (きちぞう) が大成。一切皆空・破邪顕正を説く。インドの竜樹の『中論』『十二門論』,その弟子提婆 (だいば) の『百論』によるので三論という。日本では7〜8世紀ころ盛んに講究されたが,やがて衰えた。

し @@@LINK=司 司



律令官制の一つ
省の下で,事務を分掌した。➡ 職 (しき) ・寮 (りよう)
寺院法度
じいんはっと @@@LINK=寺院法度 寺院法度

寺院法度
じいんはっと

諸宗寺院法度
慈雲尊者
じうんそんじゃ @@@LINK=慈雲尊者 慈雲尊者

慈雲尊者
じうんそんじゃ

1718〜1804
江戸中期の真言宗の僧
諱 (いみな) は飲光 (おんこう) 。・密両教の教義戒律梵学に精通し,梵学の研究を集大成した。主著に『十善法話』。
紫衣
しえ @@@LINK=紫衣 紫衣

紫衣
しえ

紫色の袈裟 (けさ)
「しい」とも読む。勅許により高位の僧尼に与えられた法衣。
自衛隊
じえいたい @@@LINK=自衛隊 自衛隊

自衛隊
じえいたい

1954年自衛隊法により発足した事実上の軍隊
警察予備隊(1950)・保安隊('52)の後身で,陸上・海上・航空の3自衛隊で構成される。内閣総理大臣が指揮監督し,防衛庁長官が統轄(文民統制)。他国への攻撃のための出動は禁じられ,直接・間接の侵略や国内の秩序の攪乱に対し出動する。'62年師団制を採用し,'99年の実質兵員約24万。
GHQ
ジーエイチキュー @@@LINK=GHQ GHQ

GHQ
ジーエイチキュー

General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers(連合国軍最高司令官総司令部)の略称。第二次世界大戦後の1945〜52年にかけて設けられた連合軍の対日占領機構
マッカーサー元帥総司令官。司令部は東京日比谷の第一生命ビル内に置かれ,幕僚各局や民政局・経済科学局など,これに極東国際軍事裁判所・国際検事局などが付設された。1946年政策決定機関として極東委員会,司令官の諮問機関として対日理事会が設置された。司令官はのちにリッジウェーにひき継がれ,'52年4月サンフランシスコ平和条約発効とともに解消。
私営田
しえいでん @@@LINK=私営田 私営田

私営田
しえいでん

古代,国家の経営する公営田 (くえいでん) (官田など)に対して在地有力者層が私費で経営する田地
その経営者を私営田領主といい,8世紀末ごろから彼らは古代家族的な家内奴労働力だけでなく,近在の班田農民をも隷属させて大規模な直接経営を行った。11世紀ごろ,田堵 (たと) ・名主 (みようしゆ) 層の成長とともに没落
紫衣事件
しえじけん @@@LINK=紫衣事件 紫衣事件

紫衣事件
しえじけん

江戸初期,幕府が後水尾天皇の高僧への紫衣勅許を無効とした事件
1627年,幕府は,朝廷側を抑えようとして,元和('15〜24)以後に与えられた紫衣着用の勅許を無効とし,これに抗議した大徳寺の沢庵らを流罪とした。天皇は幕府の同意を求めず譲位で抗議し,女帝明正天皇が即位した('29)。これは '15年制定の禁中並公家諸法度に,紫衣勅許は事前に幕府の許可が必要であるということによったもので,これにより朝廷に対する幕府権力の優越性が明確にされた。
慈恵大師
じえだいし @@@LINK=慈恵大師 慈恵大師

慈恵大師
じえだいし

良源
慈円
じえん @@@LINK=慈円 慈円

慈円
じえん

1155〜1225
鎌倉初期の天台宗の僧
諡号 (しごう) は慈鎮。関白藤原忠通の子で,九条兼実の弟。1192年以来4度天台座主 (ざす) に補せられる。兄とともに武家に好意を寄せ源頼朝と交わり,後鳥羽上皇の討幕計画に反対。1220年,史論『愚管抄』を著す。歌道にもすぐれ,家集に『拾玉集』がある。

志賀潔
しがきよし @@@LINK=志賀潔 志賀潔

志賀潔
しがきよし

1870〜1957
明治〜昭和期の細菌学者
宮城県の生まれ。東大卒業後,北里柴三郎の伝染病研究所に入り'97年赤痢菌を発見。のちドイツに留学し,結核治療ワクチンを研究。帰国後,北里研究所部長・京城帝大総長などを歴任した。1944年文化勲章受章。

慈覚大師
じかくだいし @@@LINK=慈覚大師 慈覚大師

慈覚大師
じかくだいし

円仁
四カ国条約
しかこくじょうやく @@@LINK=四カ国条約 四カ国条約

四カ国条約
しかこくじょうやく

1921(大正10)年12月,ワシントン会議において日本・イギリスアメリカフランスの間で結ばれた太平洋問題に関する条約
発効は1923年で,有効期間は10年。太平洋の島々における相互の権利尊重,現状維持をはかったもの。発効とともに日英同盟は廃棄された。
志賀重昂
しがしげたか @@@LINK=志賀重昂 志賀重昂

志賀重昂
しがしげたか

1863〜1927
明治・大正時代の地理学者・評論家
三河(愛知県)の生まれ。札幌農学校卒業後,南洋諸島を巡歴。1888年政教社結成に参加し,雑誌『日本人』に国粋保存主義論陣を張る。著書に『南洋時事』『日本風景論』『世界山水図説』など。

地方三帳
じかたさんちょう @@@LINK=地方三帳 地方三帳

地方三帳
じかたさんちょう

江戸時代,貢租徴収のための基本的な帳簿
取箇郷帳 (おとりかごうちよう) (各村の村高や反別など基本的事項を記載)・御年貢割付帳・御年貢皆済目録 (かいさいもくろく) の3帳をいう。1649年ころ天領でととのえられ,諸藩もならった。郷帳は毎年5月末,割付帳は12月,皆済目録は2月ごろ作成された。
地方三役
じかたさんやく @@@LINK=地方三役 地方三役

地方三役
じかたさんやく

江戸時代,村役人総称
村方三役ともいう。名称は地方により異なるが,名主 (なぬし) (庄屋)・組頭百姓代が一般的。本百姓中から互選されるのが原則だが,世襲輪番制もあった。郷村制の自治的な機能を残しつつ,幕藩体制の末端機構に組みこまれ,代官など地方役人のもとで村の行政にあたった。名主は領主命令を伝え村単位の年貢納入,1名。組頭は名主を補佐,数名を置く。百姓代は村民の代表で年貢割当てなどに立ち会い,名主・組頭の仕事を監視し,1ないし数名。元禄(1688〜1704)以後の設置が多い。
地方書
じかたしょ @@@LINK=地方書 地方書

地方書
じかたしょ

江戸時代,農政全般について記した書物の総称
田制・税法を中心にして記述し,検地・年貢石盛・新田開発など農村生活の全般にわたり論述。17世紀末より現れ,農学者や村役人による著述が多く,江戸時代の農村研究の重要史料。『地方凡例録』『地方落穂集』『田園類説』『民間省要』などは有名。
地方知行制度
じかたちぎょうせいど @@@LINK=地方知行制度 地方知行制度

地方知行制度
じかたちぎょうせいど

江戸時代,家臣主君の土地を知行地として分与される制度
江戸前期から,大名は家臣に地方知行を認めつつ,城下町に集住させて家臣を知行地から切り離し,知行権にも制約を加えたので,実質的には地方知行が減少した。知行地には代官を派遣し,家臣には俸禄としての年貢米のみ支給する俸禄制移行した。この知行制の俸禄制への移行とともに藩主権力が強化され,藩体制がととのった。
地方凡例録
じかたはんれいろく @@@LINK=地方凡例録 地方凡例録

地方凡例録
じかたはんれいろく

江戸時代後期,代表的地方書
高崎藩士大石久敬 (きゆうけい) の著。1792年の作。11巻。検地・石盛小作制度・諸税・地方帳簿・慣例・取扱法など,農政関係一般にわたる豊富な内容をもち,民政研究上不可欠の史料。
私学校
しがっこう @@@LINK=私学校 私学校

私学校
しがっこう

征韓論に破れて帰郷した西郷隆盛が,1874年6月鹿児島に設立した学校
銃隊学校・砲隊学校からなり,県下に136分校をもった。青少年に軍事・思想教育を行い,県令大山綱良 (つなよし) も支持し,県内の区長・市長警察官に至るまで私学校の幹部でうめ,西南戦争までの鹿児島県の県政中央政府とは無関係に私学校党によって行われた。
志賀直哉
しがなおや @@@LINK=志賀直哉 志賀直哉

志賀直哉
しがなおや

1883〜1971
大正・昭和期の小説家
宮城県の生まれ。学習院を経て東大英文科中退。武者小路実篤らと1910年『白樺』を創刊,白樺派の代表作家であり,短編小説の日本的完成者とされる。 鋭い感受性,強烈な自我意識,簡潔的確な独特のリアリズムは他に比類がない。1949年文化勲章受章。代表作に『暗夜行路』『城の崎にて』『和解』など。

志賀島
しかのしま @@@LINK=志賀島 志賀島

志賀島
しかのしま

福岡市東区志賀島,博多湾の東側突端にある島
『万葉集』にもよまれた景勝地。1784年百姓甚兵衛によって島の海辺に近い田の中から「漢委奴国王」の金印が発掘された。
紫香楽宮
しがらきのみや @@@LINK=紫香楽宮 紫香楽宮

紫香楽宮
しがらきのみや

奈良時代,聖武天皇が一時遷都した都
「信楽宮」とも書き,甲賀宮ともいう。現在の滋賀県甲賀郡信楽町。740年の藤原広嗣の乱後,皇居を恭仁 (くに) 京に移した天皇は,742年紫香楽の地に離宮を造ってしばしば行幸し,翌743年にはこの地で大仏造立を発願。745年1月ここを都としたが,不評のため同年5月平城京に帰った。
信楽焼
しがらきやき @@@LINK=信楽焼 信楽焼

信楽焼
しがらきやき

滋賀県南部,信楽地方で産する陶器
質がで,赤褐色のものが多い。室町時代の茶の湯の流行で,茶道の道具を焼くようになった。
地借
じがり @@@LINK=地借 地借

地借
じがり

江戸時代,都市の借地人
借地に家を建てて住む町人で,店借 (たながり) と同じく人別帳に記載されるが一人前扱いされず,町政への発言権もなかった。
詞花和歌集
しかわかしゅう @@@LINK=詞花和歌集 詞花和歌集

詞花和歌集
しかわかしゅう

平安後期,第6番目の勅撰和歌集。八代集の一つ
1144年崇徳上皇の命により藤原顕輔 (あきすけ) が編纂,'51年ころ成立。10巻。『後撰和歌集』以後の歌約400首をおさめる。平淡で沈潜した歌風。三代集の伝統脱出への試みがみられる。

しき @@@LINK=式 式


しき

律令や格の施行細則のこと。➡ 格式 (きやくしき)

しき @@@LINK=職 職


しき

「つかさ」という国語に相当する語で,職務や職掌の意味
①律令官制の中宮職・大膳職・左右京職・摂津職など。
②中世,荘園制の発展に伴い,地頭職・預所 (あずかりどころ) 職・下司 (げし) 職など,職務に付随した土地用益権をも意味するようになり,さらにその収益権のみをさすようになった。

敷石式住居
しきいししきじゅうきょ @@@LINK=敷石式住居 敷石式住居

敷石式住居
しきいししきじゅうきょ

縄文時代中期末〜後期に行われた住居の一形式
床面に平らなを敷き並べたもので,概して円形をなし,一方に張り出し部を有するものもある。関東地方南西部から中部地方に分布している。
式家
しきけ @@@LINK=式家 式家

式家
しきけ

藤原四家の一つ
不比等の3男宇合 (うまかい) が。奈良後期から平安初期にかけて広嗣・百川 (ももかわ) ・種継・緒嗣などが出て他家をしのいだが,810年薬子・仲成らがおこした薬子の変以後ふるわなくなった。
私擬憲法
しぎけんぽう @@@LINK=私擬憲法 私擬憲法

私擬憲法
しぎけんぽう

明治前期の憲法私案の総称
幕末維新期に西周 (にしあまね) 案・青木周蔵案などがあるが,主として自由民権運動発展期,1880年国会期成同盟大会で憲法見込案をつくるよう決議してから翌年にかけて民間で作成された私案。自由党系案はアメリカ・フランス風で,植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」,立志社の「日本憲法見込案」など。一院制・主権在民・基本的人権の保障を規定した。立憲改進党系案の「交詢社憲法案」などはイギリス風の立憲君主制を基調とする。その他君主権よりも人民の権利を優先するとした東京五日市の農民らによる「五日市憲法」や,天皇主権の「国憲意見」などもある。
直参
じきさん @@@LINK=直参 直参

直参
じきさん

江戸時代,旗本・御家人の総称
将軍直属の家臣の意で,三河以来の徳川家の臣のうち大名とならなかった者(1万石以下)で構成。将軍との主従関係では大名に相当するとし,家禄は少ないが誇りをもった。享保年間(1716〜36)約2万2000余名。
信貴山縁起絵巻
しぎさんえんぎえまき @@@LINK=信貴山縁起絵巻 信貴山縁起絵巻

信貴山縁起絵巻
しぎさんえんぎえまき

平安後期の絵巻物
3巻。信貴山に毘沙門天を祭った僧命蓮 (みようれん) に関する奇跡談を描いたもの。大和絵の流暢な筆致と躍動的な人物表現の巧妙さは絵巻物の傑作とされている。鳥羽僧正画ともいわれるが不詳。奈良県生駒郡の信貴山朝護孫子寺蔵。国宝。
四季山水図巻
しきさんすいずかん @@@LINK=四季山水図巻 四季山水図巻

四季山水図巻
しきさんすいずかん

山水長巻
職事官
しきじかん @@@LINK=職事官 職事官

職事官
しきじかん

律令制下,位階があって官職についている者
これに対して位階はもっているが官職のない者を散位・散官といって区別した。
式子内親王
しきしないしんのう @@@LINK=式子内親王 式子内親王

式子内親王
しきしないしんのう

?〜1201
平安末期・鎌倉前期の女流歌人
後白河天皇の第3皇女。賀茂斎院 (さいいん) となり,のちに出家。特に恋歌にすぐれ,和泉式部以後の女流歌人の第一人者。歌は『千載 (せんざい) 和歌集』『新古今和歌集』みえ,また家集『式子内親王集』がある。

直訴
じきそ @@@LINK=直訴 直訴

直訴
じきそ

所定の手続きを経ないで直接に領主へ訴え出ること
越訴 (おつそ) の一種。江戸時代,農民運動の一形態としてみられる。五人組に断って村役人へ申し出,その奥印を得て訴えるのが順序であるが,それをしないで将軍・大名などに直接訴えるもの。極刑に処せられた。下総佐倉惣五郎が有名。
式亭三馬
しきていさんば @@@LINK=式亭三馬 式亭三馬

式亭三馬
しきていさんば

1776〜1822
江戸後期の滑稽本作者
本名菊地泰輔,通称西宮太助。別号四季山人・本町庵など多数。江戸浅草の人。洒落本・黄表紙・合巻・読本 (よみほん) も書いたが,日常会話の応酬を写実的に描き,江戸庶民の生態を鋭くスケッチした滑稽本『浮世風呂』『浮世床』が特に有名。十返舎一九 (じつぺんしやいつく) とともに滑稽本の二大作家。

職田
しきでん @@@LINK=職田 職田

職田
しきでん

律令制で,内外の官人に支給された田地
職分田ともいう。原則として不輸租田。太政大臣は40町,左右大臣30町,大納言20町,大宰帥 (だざいのそつ) 10町,大宰府官人6町以下,国司2.6町以下,郡司6町以下。職を離れれば返還した。律令制の衰退とともに私有地化した。
式内社
しきないしゃ @@@LINK=式内社 式内社

式内社
しきないしゃ

平安中期,延喜式神名帳に記載された神社
式社・官社ともいう。神祇官が奉幣する官幣 (かんぺい) 社と国司が奉幣する国幣 (こくへい) 社の別がある。ほかの神社(式外社)と区別した待遇をうけた。全国で3132座。
式年遷宮
しきねんせんぐう @@@LINK=式年遷宮 式年遷宮

式年遷宮
しきねんせんぐう

一定の年数を経過するごとに神殿を造営し,神体を移すこと
伊勢神宮では奈良時代以降20年目,出雲大社では60年目というように,多くの神社で現在でも行っている。
四季農戒書
しきのうかいしょ @@@LINK=四季農戒書 四季農戒書

四季農戒書
しきのうかいしょ

江戸初期,農政書
上杉景勝の重臣直江兼続 (かねつぐ) (1560〜1619)の。1年間の農家労働・生活について,その細部にわたっての教訓の書。
職封
しきふ @@@LINK=職封 職封

職封
しきふ

律令制下,大納言以上の官職に対して与えられた封禄の一つ
大化以来の食封 (じきふ) が大宝令では,位封・職封・功封に区分された。太政大臣に3000戸,左右大臣2000戸,大納言800戸の職封が与えられ,封戸 (ふこ) の租の半分(739年より全部)・庸・調の全部が支給された。のち中納言(200戸〈のち400戸〉)・参議(80戸)にも与えられた。
食封
じきふ @@@LINK=食封 食封

食封
じきふ

律令制下,皇族・高位高官者・寺社などに与えられた封禄の一つ
大化の改新のとき,私地私民を廃止した代償として大夫以上に支給したのが始まりで,大宝令で完備。一定数の郷戸を封戸 (ふこ) に指定して,その租の半分,庸・調の全部および仕丁 (しちよう) を支給した。律令貴族の重要な経済的基盤で,一部の封戸はのち荘園化した。
式部省
しきぶしょう @@@LINK=式部省 式部省

式部省
しきぶしょう

律令官制の八省の一つ
太政官の左弁官に属し,文官の名簿の管理・考課・選叙,位記・礼式,位禄・季禄支給,朝集・学校・試験など人事・儀式・教育全般についてつかさどった。職員には卿 (かみ) 以下四等官があり,平安時代以降,卿は親王から,輔 (すけ) は日野・菅原・大江家などの儒学者をあてる慣例が生まれた。
直播
じきまき @@@LINK=直播 直播

直播
じきまき

種もみを直接水田にまいて,田植えをしない農法
「じかまき」とも読む。弥生時代から行われていたが,田植えが始まってからあまり見られなくなった。
式目追加
しきもくついか @@@LINK=式目追加 式目追加

式目追加
しきもくついか

鎌倉幕府が御成敗式目を補充・改廃するために発布した法令
御成敗式目は「本条」または「本式目」といわれる。式目追加を集めたものに「新編追加」「新式目」「侍所沙汰篇」などがある。
四鏡
しきょう @@@LINK=四鏡 四鏡

四鏡
しきょう

平安後期〜南北朝時代,『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』の4歴史物語の総称
鏡とは時世をうつし出すものので,歴史書のこと。
職・寮
しき・りょう・し @@@LINK=職・寮 職・寮

職・寮
しき・りょう・し

律令官制の八省の下に置かれた多数官庁の名称
それぞれの役所機構大小によって,と呼ばれた。たとえば大膳職 (だいぜんしき) ・図書寮 (ずしよりよう) ・内礼司など。その間に上下の関係はない。職員四等官に分かれ,技術者や駆使丁がいた。
地下請
じげうけ @@@LINK=地下請 地下請

地下請
じげうけ

百姓請
地下掟
じげおきて @@@LINK=地下掟 地下掟

地下掟
じげおきて

村掟
地下・地下人
じげ・じげにん @@@LINK=地下・地下人 地下・地下人

地下・地下人
じげ・じげにん

一般には宮中に仕える人びと以外の者
本来は「殿上」の対語で,昇殿を許されない官人をさし,通常六位以下の者。平安時代以後,家格の固定化により公家の「堂上 (とうしよう) 」に対して農民を中心として武家を含む公家以外の人びとの称呼となった。
重野安繹
しげのやすつぐ @@@LINK=重野安繹 重野安繹

重野安繹
しげのやすつぐ

1827〜1910
明治時代の歴史学者
薩摩藩出身。造士館から昌平坂学問所に学ぶ。1875年以降修史局で『大日本編年史』の編纂を主宰。'88年東大教授となる。国史科の設置に尽力し,実証主義史学の基礎を築いた。著書に『国史眼』『国史綜覧稿』など。

重光葵
しげみつまもる @@@LINK=重光葵 重光葵

重光葵
しげみつまもる

1887〜1957
大正・昭和期の外交官・政治家
大分県の生まれ。東大卒。駐華公使在任中,1931年上海で爆弾を投ぜられて負傷し片足を失う。中国・ソ連・イギリス各大使を経て東条英機内閣の外相,小磯国昭・東久邇宮稔彦 (ひがしくにのみやなるひこ) 両内閣の外相・大東亜相を歴任。終戦の際,政府代表として降伏文書に調印した。第二次世界大戦後,A級戦犯として禁錮7年の判決をうけ,'50年仮釈放。'52年日本改進党総裁に迎えられ,その後自由民主党に参加。第1〜3次鳩山一郎内閣の外相として日ソ国交回復,日本の国連加盟を実現した。

四国艦隊下関砲撃事件
しこくかんたいしものせきほうげきじけん @@@LINK=四国艦隊下関砲撃事件 四国艦隊下関砲撃事件

四国艦隊下関砲撃事件
しこくかんたいしものせきほうげきじけん

幕末,長州藩による外国船砲撃に対する四国連合艦隊の報復砲撃事件
下関事件ともいう。1863年,文久の打払令によって長州藩が下関海峡通過中のアメリカ・フランス・オランダ船を砲撃したので,翌'64年イギリスを加えた四国連合艦隊は下関砲台を攻撃し,長州藩を屈伏させた。これにより長州藩は攘夷の不可能を認識し,以後イギリスに接近した。
色丹
しこたん @@@LINK=色丹 色丹

色丹
しこたん

北海道根室半島沖にある島。
自作農創設特別措置法
じさくのうそうせつとくべつそちほう @@@LINK=自作農創設特別措置法 自作農創設特別措置法

自作農創設特別措置法
じさくのうそうせつとくべつそちほう

1946年10月21日公布された農地改革の中心法律
この法と農地調整法による改革は第2次農地改革といわれ,在村地主小作地保有量は1町歩まで,不在地主の全所有地は国が強制買収小作農は優先的に土地買い,残った小作地の小作料は金納化された。
地侍
じざむらい @@@LINK=地侍 地侍

地侍
じざむらい

南北朝〜戦国時代の在郷土着の武士
有力名主で農業経営を行う一方,小領主化し,惣の指導者,土一揆の主勢力となり,下剋上の原動力であった。やがて戦国大名の家臣として城下町に住むか,郷士として農村にとどまった。
地子
ちし @@@LINK=地子 地子
じし @@@LINK=地子 地子

地子
ちし

古代〜近世にかけての土地使用料
「じし」とも読む。律令制下では,公田を公民に貸与して得る賃租料のこと。荘園制のもとでは,畑や屋敷など田以外の土地に課せられる賦課をいう。荘園領主に納めるのを本地子,作人が名主(地主)に納めるのを加地子といった。近世においては,おもに市街地に課せられる租税で,一般に銀および銭納であった。地方によっては,小作料を地子と称した。

地子
じし

ちし
鹿ケ谷の陰謀
ししがたにのいんぼう @@@LINK=鹿ケ谷の陰謀 鹿ケ谷の陰謀

鹿ケ谷の陰謀
ししがたにのいんぼう

平安末期の1177年,京都郊外の鹿ケ谷でなされた平氏打倒の謀議事件
鹿ケ谷事件ともいう。後白河法皇近臣藤原成親・藤原成経・西光・僧俊寛らが中心となったが,密告により発覚し,西光は死罪,成親は備前国に配流後殺害され,ほかは薩摩国鬼界ケ島に流された。
四職
ししき @@@LINK=四職 四職

四職
ししき

室町幕府侍所 (さむらいどころ) の所司 (しよし) に任じられる家柄の4氏
「ししょく」とも読む。所司は初め今川・細川・山名ら有力諸将から選ばれたが,1398年からは山名・赤松・一色・京極の4氏に定まり,四職と呼んだ。武士進退,京都の警備などをつかさどり,三管領につぐ重職。応仁の乱(1467〜77)後名目化し置かれなくなった。
時事新報
じじしんぽう @@@LINK=時事新報 時事新報

時事新報
じじしんぽう

明治〜昭和期の新聞
1882年福沢諭吉が創刊。当時政治論を主とした新聞の中で不偏不党の立場に立って報道を行い,やがて『東京日日新聞』『大阪朝日新聞』などと並ぶ有力紙となる。1936年『東京日日新聞』に合併廃刊。
地子銭
じしせん @@@LINK=地子銭 地子銭

地子銭
じしせん

地子 (ちし)
寺社奉行
じしゃぶぎょう @@@LINK=寺社奉行 寺社奉行

寺社奉行
じしゃぶぎょう

江戸時代,幕府の職名
定員はおよそ4名で,全国の寺社・寺社領の人民・僧侶・神職などを支配。三奉行中最も地位が高く,譜代大名から選任された。評定所の構成員。
時宗
じしゅう @@@LINK=時宗 時宗

時宗
じしゅう

鎌倉中期,一遍によって開かれた浄土教の一派
臨命終時宗ともいう。すなわち日常の一瞬を臨終のときと考え,常に怠らず称名念仏することを説いた。一遍が諸国を行脚 (あんぎや) して念仏踊を行いつつ教化したので遊行宗と呼ばれ,その僧を遊行聖といって一所不住を原則としたが,一遍の死後,弟子たちは一所に道場を構える者が多くなった。関東を中心に武士・庶民に信仰され,鎌倉末期〜室町初期に盛ん。信者には阿弥号を称する者が多い。本山は神奈川県藤沢市の清浄光 (しようじようこう) 寺(遊行寺)。
時習館
じしゅうかん @@@LINK=時習館 時習館

時習館
じしゅうかん

江戸時代,熊本藩の藩校
1754年藩主細川重賢 (しげかた) が創設。朱子学以外の学派も教え,庶民の子弟でも入学の機会を与えるなど,他の藩校の模範となった
慈照寺
じしょうじ @@@LINK=慈照寺 慈照寺

慈照寺
じしょうじ

銀閣
治承・寿永の乱
じしょう・じゅえいのらん @@@LINK=治承・寿永の乱 治承・寿永の乱

治承・寿永の乱
じしょう・じゅえいのらん

源平の争乱
四条畷の戦い
しじょうなわてのたたかい @@@LINK=四条畷の戦い 四条畷の戦い

四条畷の戦い
しじょうなわてのたたかい

南北朝時代,河内国(大阪府)四条畷で行われた楠木正行 (まさつら) と高師直 (こうのもろなお) らとの戦い
1348年一挙に吉野皇居を突くため出撃した北朝方の師直らの大軍を,南朝方正行が河内国の四条畷に迎え討ち,奮戦したが敗死。この後吉野はおち,後村上天皇賀名生 (あのう) に移った。
四条派
しじょうは @@@LINK=四条派 四条派

四条派
しじょうは

江戸後期に創始された日本画の流派
開祖の呉春(松村月溪)が京都四条通りに住んでいたのでこの名がある。呉春は円山応挙に学んだが,応挙の死後,円山派より叙情的な四条派を開き,京都画壇の主流を占め,系譜は現代まで続く。
資人
しじん @@@LINK=資人 資人

資人
しじん

律令制における下級官人
親王や上級貴族に仕え,雑役・護衛にあたった。よみでは「とねり」。
地震研究所
じしんけんきゅうじょ @@@LINK=地震研究所 地震研究所

地震研究所
じしんけんきゅうじょ

1925年設立された東大の付属研究機関
関東大震災を契機として,長岡半太郎らの尽力により新設された。初代所長は末広恭二。
紫宸殿
ししんでん @@@LINK=紫宸殿 紫宸殿

紫宸殿
ししんでん

平安京内裏の正殿
「ししいでん」とも読む。南殿 (なでん) ・前殿とも呼ばれ,即位・朝賀など大小の儀式が行われた。入母屋造・檜皮葺 (ひわだぶき) の建物で,殿舎の中央に御帳台,前庭には左近の桜,右近の橘があった。現在の京都御所は江戸末期のものだが古制を残している。
私出挙
しすいこ @@@LINK=私出挙 私出挙

私出挙
しすいこ

出挙の一種で,地方豪族などが貸付けた。
静岡事件
しずおかじけん @@@LINK=静岡事件 静岡事件

静岡事件
しずおかじけん

1886年,静岡県でおこった自由民権運動最後の激化事件
静岡県の旧自由党員が政府転覆のため箱根離宮落成式臨席の政府高官の暗殺を計画,発覚し百余名が逮捕された。彼らの中には銀行を襲撃した者もあったので国事犯であることを隠すため,25名が強盗罪として処罰された。
賤ケ岳の戦い
しずがたけのたたかい @@@LINK=賤ケ岳の戦い 賤ケ岳の戦い

賤ケ岳の戦い
しずがたけのたたかい

安土桃山時代,近江国(滋賀県)賤ケ岳で行われた豊臣秀吉柴田勝家を破った合戦
本能寺の変後,両者織田信長の後継者の地位を争い,1583年琵琶湖北方において合戦。秀吉旗下の福島正則加藤清正らのいわゆる七本槍が奮戦し勝家を撃破した。勝家は越前北庄にのがれ自刃。以後秀吉の声望が高まった。
閑谷学校
しずたにがっこう @@@LINK=閑谷学校 閑谷学校

閑谷学校
しずたにがっこう

江戸時代,岡山藩の郷学
閑谷黌 (しずたにこう) ともいう。1668年藩主池田光政が村々に設置した手習所のうち閑谷村の手習所に始まり,のち125か所の施設を併合。農村子弟を教育した。郷学の最も早い例。1870年廃校。現在,岡山県備前市に津田永忠の建設した遺構がある。
四姓
しせい @@@LINK=四姓 四姓

四姓
しせい

源・平・藤原・橘の有力4氏
奈良時代から鎌倉時代にかけての有力な氏。源・平・橘は,7世紀以後皇族から臣籍降下した氏に与えられた姓。
氏姓制度
しせいせいど @@@LINK=氏姓制度 氏姓制度

氏姓制度
しせいせいど

大和政権の氏を単位とする政治・社会の組織
支配階級を構成する豪族の同族集団である氏の社会的地位を姓 (かばね) によって政治的に秩序づけた制度。中央には臣 (おみ) ・連 (むらじ) の姓を有する大豪族と皇室の部民を管理する伴造 (とものみやつこ) や造 (みやつこ) などの姓を有する小豪族とがあり,皇室を中心に政権を形成。地方には公 (きみ) ・直 (あたい) などの姓を有する国造 (くにのみやつこ) と県主 (あがたぬし) ・稲置 (いなぎ) などの氏があり,国・県 (あがた) を支配した。4世紀以来,大和政権の発展とともにしだいに整備されたが,大化の改新によって廃止された。また,この時期に発展した文化が古墳文化と飛鳥文化である。
市制・町村制
しせい・ちょうそんせい @@@LINK=市制・町村制 市制・町村制

市制・町村制
しせい・ちょうそんせい

1888(明治21)年制定された地方自治制
モッセ助言と内相山県有朋推進により制定。自由民権運動の要求にこたえる面と,立憲制開始の前に官僚支配の末端機構としての自治体を育てあげ,中央の政争が地方に波及しないようにする面の二つの狙いをもっている。自治権は弱かった。
史籍集覧
しせきしゅうらん @@@LINK=史籍集覧 史籍集覧

史籍集覧
しせきしゅうらん

明治中期,平安時代から江戸末期に至る記録・編集物を収集した叢書
旧岡崎藩儒者近藤瓶城 (へいじよう) が独力で収集,出版したもので,467冊。総目解題1冊。歴史・地理法制文学・美術・宗教など各方面のものを集め,『国史大系』『群書類従』を補う重要文献。
支石墓
しせきぼ @@@LINK=支石墓 支石墓

支石墓
しせきぼ

弥生時代,北九州地方に行われた墳墓の一形式
数個の石塊を並べて上の大形の板石を支え,その下に遺骸を置いた。埋葬は甕棺 (かめかん) をうめたものが多く,福岡県須玖 (すぐ) 支石墓のように,銅鏡・銅剣銅鉾 (どうほこ) ・玉類を出土するものもあり,当時の小地域の首長や有力者の墓と考えられている。
自然経済
しぜんけいざい @@@LINK=自然経済 自然経済

自然経済
しぜんけいざい

自給自足経済
②実物経済
家族または何らかの人間集団が,その生活で心要とするすべての財貨をその集団内部でみずから取得する経済。
貨幣を用いないで物と物とを直接交換する経済。
自然主義
しぜんしゅぎ @@@LINK=自然主義 自然主義

自然主義
しぜんしゅぎ

19世紀後半,フランスにおこった文芸思潮で,人間を形成する遺伝と環境を観察分析し,ありのままの人生をとらえて,病弊を解明しようとするもの
日本では1900年ころから小杉天外や永井荷風が手法を試み,島崎藤村の『破戒』や田山花袋の『蒲団 (ふとん) 』によって文壇主流となった。つづいて正宗白鳥・岩野泡鳴・徳田秋声らの作品や,島村抱月らの評論が現れ,明治末期に全盛を誇ったが,自我の追求をめざしながら社会的視野を失い,私小説への道を開いた。
泗川の戦い
しせんのたたかい @@@LINK=泗川の戦い 泗川の戦い

泗川の戦い
しせんのたたかい

1598年,慶長の役における一戦闘
慶長の再征にさいし,明・朝鮮の大軍が日本軍を攻撃したが,慶尚南道の泗川城において島津義弘らが奮戦し,城を守った。この勝利により日本軍の撤兵が容易になった。
地蔵信仰
じぞうしんこう @@@LINK=地蔵信仰 地蔵信仰

地蔵信仰
じぞうしんこう

平安中期から行われた地蔵菩薩に対する信仰
地獄に落ちたとき,地蔵に助けてもらって極楽に入れてもらおうという後世信仰と,地蔵によって危難をのがれたり,現世利益を得ようとする現世信仰の2種がある。平安時代は後世信仰が強かったが,時代が下るとともに現世利益的となり,民衆の間に広まった。
士族
しぞく @@@LINK=士族 士族

士族
しぞく

明治維新後に旧武士に与えられた身分呼称
1869年版籍奉還とともに旧武士とその家族は華族の下,平民の上位として士族とされた。'70年旧足軽以下の士族は卒族としたが,'72年これを廃して世襲の卒は士族に,一代限りの卒は平民に属させた。'73年初めには士族40万8000余戸,189万余人であった。一部は官界・軍部などの指導者となったが大部分は没落。一部は士族反乱や自由民権運動に参加した。1947年戸籍法改正により廃止。
氏族社会
しぞくしゃかい @@@LINK=氏族社会 氏族社会

氏族社会
しぞくしゃかい

同一血縁または血縁と信じる人びとの集団である氏族を基礎とする社会
原始社会に広くみられる社会組織で,共同生活を行い,重要事項は集団員全員の会議によって決定。また,同一氏族内の婚姻は禁止された(族外婚)。
士族授産
しぞくじゅさん @@@LINK=士族授産 士族授産

士族授産
しぞくじゅさん

明治初期の士族救済政策
廃藩置県・徴兵令・秩禄処分などで失業し窮乏した士族の生活を救い,その反抗をやわらげるため,政府は北海道屯田兵 (とんでんへい) などの開墾移住や授産資金貸付けなどを進めた。士族の多くは農業や商工業に従事し,農業では成功する者もあったが,商工業では「士族の商法」と言われたように自負心だけ強く知識経験がないので大部分が失敗した。
士族の反乱
しぞくのはんらん @@@LINK=士族の反乱 士族の反乱

士族の反乱
しぞくのはんらん

明治初年におこった不平士族による反乱
廃藩置県・徴兵令施行秩禄処分など,近代化のための諸政策が進むにつれて,封建的特権を失った士族の多くは経済的にも没落し,政府への不満は高まった。これに征韓論問題も加わり,1874年の佐賀の乱,'76年神風連の乱秋月の乱・萩の乱と各地で反乱がおこったが,'77年西南戦争後は武力反抗は終わり自由民権運動の形で反政府運動を続けた。
事大党
じだいとう @@@LINK=事大党 事大党

事大党
じだいとう

李氏朝鮮末期の保守的党派
明治初期,日本と結んで政治を革新しようとする独立党に対し,保守的政治家は清国を背景にして王妃の閔妃 (びんひ) を中心に権勢温存をはかった。この勢力が事大党で,1884年甲申事変ののち優勢であったが,日清戦争に清が敗北し,閔妃が暗殺されるとともに衰え,親露派に変わる者も多かった。
時代物
じだいもの @@@LINK=時代物 時代物

時代物
じだいもの

江戸時代,歌舞伎・浄瑠璃・小説の分類
世話物に対し,江戸およびそれ以前の武将の軍記などを描いたもの。たとえば近松門左衛門国性爺合戦』,竹田出雲『菅原伝授手習鑑』など。
下地
したじ @@@LINK=下地 下地

下地
したじ

中世,収益を意味する上分に対し,それらの収益を実現するための対象となる土地をいう
したがって田畑・山林・塩浜などが含まれる。
下地中分
したじちゅうぶん @@@LINK=下地中分 下地中分

下地中分
したじちゅうぶん

中世,荘園を地頭と荘園領主で分割支配すること
鎌倉時代の中ごろから地頭はしばしば年貢を納めなかったり,土地を横領したりして,荘園領主との間に争論が絶えなかった。その解決法として荘園そのもの(下地)を折半して,互いにその領有を認めて侵犯しないようにした。これには幕府の裁決(強制中分)と両者の自主的和解(和与中分)による場合とがある。鎌倉中期以降急速に増加し,地頭請とともに地頭の荘園支配権を強化し,荘園制崩壊を促した。
師団
しだん @@@LINK=師団 師団

師団
しだん

①旧陸軍の兵力編成単位
②陸上自衛隊の兵力編成単位
1888年師団司令部条例を公布対外戦争主眼として従来の鎮台を改編。師団司令部をもち,独立して作戦しうる戦略単位として編成。師団数は,日清戦争までは7,以後増設され,第二次世界大戦の敗戦時には約200個師団が各地に散在していた。
1962年従来の管区隊を師団に改編。

しち @@@LINK=質 質


しち

債務返済の証拠(担保)として債権者に渡す財産(人・動産・不動産)
返済期限を過ぎると債権者の所有となった(質流れ)。古代,出挙 (すいこ) の形で質をとる例があるが,貨幣経済が普及した鎌倉時代以後,高利貸業者(借上・土倉酒屋)が現れて質をとった。江戸時代,質屋のほか,御用商人や札差 (ふださし) が年貢俸禄などを担保に大名・旗本らに金融をし,農村では田畑永代売買は禁止されたが,富農が貧農の田畑を担保にして金融をし,貧富の差を増大させた。また武士間では人質,庶民では質奉公なども行われた。
七卿落ち
しちきょうおち @@@LINK=七卿落ち 七卿落ち

七卿落ち
しちきょうおち

幕末尊攘派の7人の公家が失脚して京都から長州にのがれた事件
1863(文久3)年八月十八日の政変により公武合体派が優勢になったので,三条実美 (さねとみ) ・沢宣嘉 (のぶよし) ・東久世通禧 (みちとみ) ら尊攘派の7公家が京都を脱出,海路周防 (すおう) (山口県)三田尻へのがれた。長州と結ぶ尊攘派勢力は一時朝廷から一掃された。
七支刀
しちしとう @@@LINK=七支刀 七支刀

七支刀
しちしとう

石上神宮七支刀 (いそのかみじんぐうしちしとう)
七条仏所
しちじょうぶっしょ @@@LINK=七条仏所 七条仏所

七条仏所
しちじょうぶっしょ

平安・鎌倉時代,京都七条にあった仏像の製作所
平安中期,仏師定朝の子覚助に始まるという。鎌倉時代に奈良仏師系統をひく運慶一派がここで活躍。湛慶・快慶らの名匠を輩出した。また,ここの仏師を慶派ともいう。
七大寺
しちだいじ @@@LINK=七大寺 七大寺

七大寺
しちだいじ

南都七大寺
七道
しちどう @@@LINK=七道 七道

七道
しちどう

律令制における地方行政区画。➡ 五畿七道
七堂伽藍
しちどうがらん @@@LINK=七堂伽藍 七堂伽藍

七堂伽藍
しちどうがらん

寺院における主要堂宇の総称
「七」は数量を表すのではなく,必要なものがみな備わっているという意味。鎌倉時代以来の用語らしく,内容は一定していないが,金堂・講堂・塔・食堂 (じきどう) ・鐘楼・経蔵・僧坊など。
質流地禁止令
しちながれちきんしれい @@@LINK=質流地禁止令 質流地禁止令

質流地禁止令
しちながれちきんしれい

江戸中期,質流れの形で田畑が売買されるのを禁じた法令
1722年,8代将軍徳川吉宗が農民層の分解を阻止しようとして出したが,質地騒動がおこったので,'23年撤回した。
七博士意見書
しちはかせいけんしょ @@@LINK=七博士意見書 七博士意見書

七博士意見書
しちはかせいけんしょ

日露戦争前,東京帝国大学教授戸水寛人 (とみずひろんど) ら7博士の主戦論運動
戸水をはじめ東京帝国大学教授富井政章・金井延 (のぶる) ,学習院教授中村進午らは義和団事件後の対ロシア強硬外交を主張し,日露戦争前の1903年には開戦論を展開,政府に建議し,新聞・雑誌への執筆遊説を行った。また日露講和条約調印にも反対を唱えたので,政府は戸水を休職とした。これに対し,東京帝国大学教授陣は言論・研究の自由の侵害だとして強く抗議したので撤回された(戸水事件)。
七福神
しちふくじん @@@LINK=七福神 七福神

七福神
しちふくじん

中世に盛行した福神信仰の7神をいう
恵比須(日本の神)・大黒天・毘沙門天・弁財天(以上,インドの神)・布袋 (ほてい) ・福禄寿・寿老人(以上,中国の伝説的高士)の総称。民間信仰と現世利益神道・仏教・道教の諸神仏を集めたもの。
七分積金
しちぶつみきん @@@LINK=七分積金 七分積金

七分積金
しちぶつみきん

江戸後期,寛政改革一環として老中松平定信が実施した政策
1791年定信は,江戸の町人が負担した町入用の倹約を命じ,倹約分の2分を町人に,1分を各町で積み立て,残りの7分を毎年江戸町会所に積み立てさせ,幕府も2万両を補助して,窮民救済・不時の災害にあてさせた。この政策は定信失脚後も受け継がれ,明治維新後東京府庁・市役所建築などの資金となった。
私鋳銭
しちゅうせん @@@LINK=私鋳銭 私鋳銭

私鋳銭
しちゅうせん

民間で私的に鋳造された貨幣
私鋳銭は律で厳禁され,鋳銭者は処刑された。鎌倉室町時代には官鋳銭がなく宋銭・明銭が通用し,その私鋳銭が多く出た。品質が悪く鐚銭 (びたせん) と呼ばれ,通用に際し,撰銭 (えりぜに) が行われた。江戸幕府も私鋳銭を厳禁した。
四注造
しちゅうづくり @@@LINK=四注造 四注造

四注造
しちゅうづくり

屋根形式の一種
寄棟 (よせむね) 造ともいう。一般に,前後梯形台形),左右が二等辺三角形で構成される屋根の形。古墳時代家形埴輪にもみえ唐招提寺金堂・東大寺大仏殿・平安京大極殿など重要建造物に多い。
仕丁
しちょう @@@LINK=仕丁 仕丁

仕丁
しちょう

律令制における労役の一つ
1里(50戸)に正丁2人の割で,3年交替に中央官庁の労役に従事した。奈良時代の諸造営事業の重要な労働力であった。費用はその里の共同負担で,実際は相当長期間にわたったので逃亡する者もあった。
慈鎮
じちん @@@LINK=慈鎮 慈鎮

慈鎮
じちん

慈円
実学
じつがく @@@LINK=実学 実学

実学
じつがく

日常生活に役立つ学問
朱子学などの理論的・思弁的学問に対して,読み・書き・そろばんなど庶民の日常生活に必要な知識・教科をさした。8代将軍徳川吉宗は漢訳洋書輸入のをゆるめた。蘭学の輸入は実学の発展に拍車をかけ,医学・農業・本草学・軍事・産業と直接結びつき,その科学性・合理性とあいまって著しく普及した。民衆の啓蒙に役立ち,文明開化期に全盛となった。
漆器
しっき @@@LINK=漆器 漆器

漆器
しっき

漆 (うるし) 塗りの工芸品
福井県鳥浜貝塚から出土した縄文時代前期の遺物が最古。中国の技術を導入しつつ独自に発達し,古代では宮廷の工房で螺鈿 (らでん) ・蒔絵 (まきえ) の名品が製作され,特に蒔絵は中国のものよりすぐれ,輸出された。平安末期から漆工が独立,鎌倉時代には,高蒔絵や宋の堆朱 (ついしゆ) をまねた鎌倉彫などが創出された。東山・桃山・元禄時代は漆芸が進歩し,江戸時代は特に蒔絵が発達。幕府諸藩の保護で各地に特産品を生み,現在に至る。近代化をしりぞけ,伝統的技法を守るものが多い。木地に漆を塗り加工するが,その範囲は茶器をはじめ食器・調度品・仏像・建築物に及んでいる。
志筑忠雄
しづきただお @@@LINK=志筑忠雄 志筑忠雄

志筑忠雄
しづきただお

1760〜1806
江戸中期の天文学者
長崎の人。通詞となったが辞し,本木良永に天文学を学び,研究に没頭,『暦象新書』『求力論』『八円儀』などを翻訳・著述。力学伝来後,数年にして西欧の地動説・星雲説に比すべき研究を展開した。

十訓抄
じっきんしょう @@@LINK=十訓抄 十訓抄

十訓抄
じっきんしょう

鎌倉中期の説話集
1252年刊。3巻。作者は六波羅二﨟左衛門 (ろくはらにろうざえもん) といわれるが,伝記不明。年少者の修養のため朋友・思慮・勘忍など10の儒教的教訓をあげて,その教訓にあたる説話を集めているが,概して常識的・微温的。
執権
しっけん @@@LINK=執権 執権

執権
しっけん

鎌倉幕府で将軍を補佐して幕政を統轄する職
鎌倉時代,初め政所 (まんどころ) 別当 (べつとう) を執権と称し,1203年北条時政が大江広元とともに別当となった。'13年侍所別当和田義盛を滅ぼしたのち,北条義時は政所・侍所の別当を兼任して幕政の主導権を握り,執権と称した。以後北条氏が世襲し,幕政を完全に掌握した。
執権政治
しっけんせいじ @@@LINK=執権政治 執権政治

執権政治
しっけんせいじ

鎌倉時代,執権北条氏が実権を掌握した政治体制
源頼朝の死後,外戚北条氏は畠山・比企・和田らの有力御家人を倒し政所 (まんどころ) の別当 (べつとう) と侍所の別当を兼ね,執権と称した。3代将軍源実朝死後,京都から単に名目上の藤原(摂家)将軍・皇族親王)将軍を迎え,執権北条氏が幕政の実権を握った。承久の乱(1221)後,北条泰時は連署・評定衆を設け,御成敗式目を制定。その孫時頼は引付を設置し,執権政治を名実ともに強固なものとし全盛期を迎えた。元寇後は北条氏嫡流の得宗による専制が進み,執権の地位は相対的に低下した。やがて内管領が実権を握り,政策上の失敗などから御家人層は離反し,1333年幕府が滅亡して執権政治は終わった。
実語教
じつごきょう @@@LINK=実語教 実語教

実語教
じつごきょう

平安末期から明治初期に至る約700年間使用された道徳教科書
弘法大師作と伝えられるが,作者・作年代とも不明。五言絶句48連。「山高きが故に貴からず」で始まり,行動によって獲得された知識の価値を不朽のものとし,また学問の必要性を説く。江戸時代に刊本となり,寺子屋の発達に伴い普及。
執金剛神像
しっこんごうしんぞう @@@LINK=執金剛神像 執金剛神像

執金剛神像
しっこんごうしんぞう

仏法や伽藍を守護する仏像
金剛力士の別称。外敵防御の姿勢で,右手に金剛杵 (しよ) を持ち,左手は拳にして腰をおし忿怒 (ふんぬ) の相をなす。東大寺三月堂の執金剛神像は天平時代の塑像 (そぞう) で, (よろい) や衣に美しい彩色が残っている。
十刹
じっさつ @@@LINK=十刹 十刹

十刹
じっさつ

中世,禅宗寺院の格式。
執事
しつじ @@@LINK=執事 執事

執事
しつじ

鎌倉・室町幕府の職名
①鎌倉幕府の問注所の長官で,三善康信が任じられて以後世襲。
②鎌倉幕府の政所 (まんどころ) の次官で別当 (べつとう) を補佐。二階堂氏が世襲。
③室町幕府の将軍補佐役。
④室町幕府の政所・問注所の長官。伊勢氏(政所),町野・太田両氏(問注所)が世襲。
⑤関東管領の補佐役。のち管領が公方 (くぼう) と称され,執事を管領と改めた。




執政
しっせい @@@LINK=執政 執政

執政
しっせい

①摂政・関白の別称
②1932年3月満州事変後誕生した満州国の元首
江戸幕府では老中・諸藩家老などの通称。明治初年では地方官職の称となった。
のちに皇帝に改められた。満州国の樹立には関東軍ならびにこれに協力した日本人からなる自治指導部があたったが,建国後は執政に清朝最後の皇帝溥儀 (ふぎ) を,国務総理や各部大臣にも満州人をすえた。しかし実権は日系官吏が握った。
質地
しっち @@@LINK=質地 質地

質地
しっち

金銭貸借のとき,担保物件として入れた田畑
律令制下では墾田入れされた。鎌倉時代以降は土地私有のため盛行し,江戸時代田畑永代売買禁止令のため,金融手段として質地が行われた。質地季明けとともに旧主に戻されるが,大部分質流れした。
質地騒動
しっちそうどう @@@LINK=質地騒動 質地騒動

質地騒動
しっちそうどう

1722年,幕府の出した質流し禁令契機としておこった農民騒動
1722年の越後(新潟県)頸城 (くびき) 地方,翌年2月羽前(山形県)長瀞 (ながとろ) の例が著名前者は幕府の禁令を曲解して農民が扇動にのったもの,後者は禁令を公示しない村役人に対する反感も手伝い質入人が質入地を実力で取り戻そうとしたもの。いずれの場合も幕府は弾圧するとともに,'23年10月禁令を撤回した。
十返舎一九
じっぺんしゃいっく @@@LINK=十返舎一九 十返舎一九

十返舎一九
じっぺんしゃいっく

1765〜1831
江戸後期の滑稽本作者
本名重田貞一,通称与七。駿河(静岡県)の下級武士の子。滑稽本『東海道中膝栗毛』の好評以来,「膝栗毛物」を多作。ほかに黄表紙『化物太平記』,人情本『清談峰初花』など。

次丁
じてい @@@LINK=次丁 次丁

次丁
じてい

律令制で,老丁と比較的軽い身体障害者・病人
調の負担は,正丁 (せいてい) の2分の1であった。
幣原外交
しではらがいこう @@@LINK=幣原外交 幣原外交

幣原外交
しではらがいこう

協調外交
幣原喜重郎
しではらきじゅうろう @@@LINK=幣原喜重郎 幣原喜重郎

幣原喜重郎
しではらきじゅうろう

1872〜1951
大正・昭和期の外交官・政治家
大阪の生まれ。岩崎弥太郎の女婿。東大卒。外務次官・駐米大使を経てワシントン会議の全権委員となる。1924年以来,加藤高明・第1・2次若槻礼次郎・浜口雄幸各内閣の外相として協調外交を推進,'30年ロンドン海軍軍縮条約を締結した。第二次世界大戦後,'45年10月内閣を組織し日本国憲法の制定にあたる。翌'46年5月吉田茂内閣の国務相。のち衆議院議長となり,在任中に死去。
幣原喜重郎内閣
しではらきじゅうろうないかく @@@LINK=幣原喜重郎内閣 幣原喜重郎内閣

幣原喜重郎内閣
しではらきじゅうろうないかく

第二次世界大戦後,幣原喜重郎を首班とする内閣(1945〜46)
1945年10月,東久邇宮稔彦 (ひがしくにのみやなるひこ) 内閣のあとをうけて組閣。GHQの指示のもと,日本国憲法草案の作成,公職追放,労働組合法制定,選挙法改正などを実施した。'46年4月総辞職。
私田
しでん @@@LINK=私田 私田

私田
しでん

律令制下,私的に耕作使用する権利が認められた土地
公田に対するもの。位田・賜田・職田などのほか,口分田もこれに当たった。輸租田不輸租田の別があった。
藤原道綱の母
ふじわらのみちつなのはは @@@LINK=藤原道綱の母 藤原道綱の母

藤原道綱の母
ふじわらのみちつなのはは

936?〜995
平安中期の女流文学者・歌人
関白藤原兼家の妻。『蜻蛉 (かげろう) 日記』の作者として有名。
藤原道長
ふじわらのみちなが @@@LINK=藤原道長 藤原道長

藤原道長
ふじわらのみちなが

966〜1027
平安中期の公卿
関白兼家の5男。兄の関白道隆・道兼の死後,一族の勢力争いを抑えて政権を独占し,左大臣から摂政になった。彰子ら4人の娘を一条・三条・後一条・後朱雀 (ごすざく) 4天皇の中宮とし,3天皇の外戚として権勢並ぶものなく,摂関政治の最盛期を現出した。1017年,子頼通 (よりみち) に摂政を譲り太政大臣となった。晩年は出家して法成寺 (ほうじようじ) を建立。関白にはならなかったが,「御堂関白」といわれ,日記に『御堂関白記』がある。

藤原通憲
ふじわらのみちのり @@@LINK=藤原通憲 藤原通憲

藤原通憲
ふじわらのみちのり

1106〜59
平安末期の公卿・学者
出家して信西と称した。実兼の子。保元の乱(1156)後,平清盛と結んで後白河上皇側近として活躍。藤原信頼・源義朝に対抗したため,'59年平治の乱で殺された。著書に『本朝世紀』『法曹類林』『日本紀註』など。

藤原宮子
ふじわらのみやこ @@@LINK=藤原宮子 藤原宮子

藤原宮子
ふじわらのみやこ

?〜754
奈良時代,文武天皇の夫人
不比等の長女。聖武天皇の母。藤原氏が出した最初の天皇の生母。737年玄昉 (げんぼう) の法話を聞き,長年の病が癒えた。これが玄昉の政界に進出する契機となった。

藤原武智麻呂
ふじわらのむちまろ @@@LINK=藤原武智麻呂 藤原武智麻呂

藤原武智麻呂
ふじわらのむちまろ

680〜737
奈良時代の公卿。南家の祖
南家の名は,武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅の南方にあったため。左大臣。正一位。不比等の長男。温和淡白な性格で仏法を敬した。737年疫病のためほかの3兄弟とともに死亡した。

藤原基経
ふじわらのもとつね @@@LINK=藤原基経 藤原基経

藤原基経
ふじわらのもとつね

836〜891
平安前期の公卿
摂政・関白。通称堀河太政大臣。長良 (ながら) の子。叔父良房の養子となってしだいに昇進。884年陽成天皇に代えて光孝天皇を立て,事実上最初の関白となり,887年阿衡事件以後名実ともに関白となった。『日本文徳天皇実録』の撰修を主宰

藤原元命
ふじわらのもとなが @@@LINK=藤原元命 藤原元命

藤原元命
ふじわらのもとなが

生没年不詳
平安中期の受領 (ずりよう)
経臣 (つねおみ) の子。尾張の国守在任中,官物を横領,重税を課したため,988年郡司・百姓らから「尾張国郡司百姓等解文」によって31カ条にわたる非政を訴えられ,989年解任された。
藤原基衡
ふじわらのもとひら @@@LINK=藤原基衡 藤原基衡

藤原基衡
ふじわらのもとひら

生没年不詳
平安末期の陸奥国の豪族。奥州藤原氏第2代
清衡の子。父のあとを継いで出羽国押領使となり,京都文化を移植し,毛越寺 (もうつじ) を再建遺骸はミイラとして中尊寺金色堂に納められている。

藤原百川
ふじわらのももかわ @@@LINK=藤原百川 藤原百川

藤原百川
ふじわらのももかわ

732〜779
奈良末期の公卿
参議。式家の宇合 (うまかい) の8男。吉備真備 (きびのまきび) の反対を抑えて北家の永手らとともに光仁天皇を擁立し,道鏡を下野薬師寺に追放した。山部親王(桓武天皇)を皇太子に立てるなど,政治的手腕示し,藤原氏勢力の回復につとめた。

藤原師輔
ふじわらのもろすけ @@@LINK=藤原師輔 藤原師輔

藤原師輔
ふじわらのもろすけ

908〜960
平安中期の公卿
右大臣。通称九条右大臣。関白忠平の2男。娘安子が村上天皇の皇后となり,冷泉 (れいぜい) ・円融の2天皇を生み,兄実頼をこえて摂関家の主流となった。著書に『九条年中行事』,日記『九暦 (きゆうれき) 』など。

藤原師光
ふじわらのもろみつ @@@LINK=藤原師光 藤原師光

藤原師光
ふじわらのもろみつ

西光
藤原保則
ふじわらのやすのり @@@LINK=藤原保則 藤原保則

藤原保則
ふじわらのやすのり

825〜895
平安前期の公卿
参議。貞雄の子。866年以来,備中・備前の国司として治績をあげ,878年には出羽俘囚の乱を鎮圧。その後,伊予守・大宰大弐としての功績により参議,民部卿にまで累進した。この時代の代表的な良吏。

藤原泰衡
ふじわらのやすひら @@@LINK=藤原泰衡 藤原泰衡

藤原泰衡
ふじわらのやすひら

1155〜89
平安末期の陸奥国の豪族。奥州藤原氏第4代
秀衡の2男。父の死後陸奥国押領使となり,遺言に抗しきれず源義経をかくまったが,頼朝の圧迫により義経を攻め殺した。1189年頼朝に攻められ敗死,奥州藤原氏は滅亡した。

藤原良房
ふじわらのよしふさ @@@LINK=藤原良房 藤原良房

藤原良房
ふじわらのよしふさ

804〜872
平安前期の公卿
摂政。冬嗣の2男。承和の変(842)ののち,大納言・右大臣・太政大臣を経て,858年清和天皇の即位とともに実質的に皇族以外で最初の摂政となった。866年応天門の変で大納言伴善男らを政界から追放。その直後正式に摂政となり,摂関政治の基礎を確立した。

藤原頼嗣
ふじわらのよりつぐ @@@LINK=藤原頼嗣 藤原頼嗣

藤原頼嗣
ふじわらのよりつぐ

1239〜56
鎌倉幕府5代将軍(在職1244〜52)
父頼経のあとに鎌倉へ送られた藤原(摂家)将軍。のちに執権北条時頼に廃され,皇族親王)将軍として宗尊 (むねたか) 親王が迎えられるに及び,帰京。不遇のうちに死んだ。
藤原頼経
ふじわらのよりつね @@@LINK=藤原頼経 藤原頼経

藤原頼経
ふじわらのよりつね

1218〜56
鎌倉幕府4代将軍(在職1226〜44)
関白道家の子。母は西園寺公経 (きんつね) の娘。3代将軍源実朝暗殺後,頼朝の遠縁として幕府の求めにより鎌倉へ送られた藤原(摂家)将軍。執権北条氏の権勢のもとでの形式上の将軍にすぎず,長じて職を子頼嗣に譲って出家。不遇のうちに死んだ。
藤原頼長
ふじわらのよりなが @@@LINK=藤原頼長 藤原頼長

藤原頼長
ふじわらのよりなが

1120〜56
平安後期の公卿
左大臣。忠実の2男。博識多才で,父の寵愛を得て兄の忠通から氏長者の地位を奪った。のち鳥羽法皇の信任を失ったため,1156年保元の乱をおこしたが敗死。日記に『台記』。

藤原頼通
ふじわらのよりみち @@@LINK=藤原頼通 藤原頼通

藤原頼通
ふじわらのよりみち

992〜1074
平安中期の公卿
摂政・関白。道長の長男。通称宇治殿。後一条・後朱雀 (ごすざく) ・後冷泉 (ごれいぜい) の3代,約50年間摂関として道長に続く全盛期を現出した。しかし後冷泉天皇に入内した娘寛子に皇子がなく,外戚関係のない後三条天皇即位により苦境にたち,弟教通 (のりみち) に関白をゆずり隠退。1052年宇治の別荘を寺に改め,平等院とした。

藤原文化
ふじわらぶんか @@@LINK=藤原文化 藤原文化

藤原文化
ふじわらぶんか

平安中期〜後期にかけての優美な貴族文化
国風文化別称
藤原四家
ふじわらよんけ @@@LINK=藤原四家 藤原四家

藤原四家
ふじわらよんけ

奈良時代,藤原不比等の4子から分かれた南家(武智麻呂 (むちまろ) )・北家(房前 (ふささき) )・京家(麻呂)・式家(宇合 (うまかい) )の4家
北家のみが,のち摂関家として栄えた。
婦人解放運動
ふじんかいほううんどう @@@LINK=婦人解放運動 婦人解放運動

婦人解放運動
ふじんかいほううんどう

女性を封建的な家族制度から解放男女平等の実現をめざす運動
治末期,平塚らいてう(明 (はる) )らの青鞜 (せいとう) 社は『青鞜』を発行して女性解放情熱をよびさました。第一次世界大戦後,労働者・農民の解放によって初めて女性が解放されると主張する,働く女性の運動が高まった。
婦人矯風会
ふじんきょうふうかい @@@LINK=婦人矯風会 婦人矯風会

婦人矯風会
ふじんきょうふうかい

明治〜昭和期のキリスト教婦人団体
アメリカの禁酒運動に影響され,1886年矢島楫子 (かじこ) らが東京婦人矯風会を組織。'93年全国的組織となり,禁酒・一夫一婦制・廃娼などの運動を推進。第一次世界大戦後は婦人参政権運動・平和運動にも参加した。
婦人参政権運動
ふじんさんせいけんうんどう @@@LINK=婦人参政権運動 婦人参政権運動

婦人参政権運動
ふじんさんせいけんうんどう

女性の政治参加,特に選挙権を要求する運動
明治末期の景山福田)英子らの治安警察法第5条(婦人の政治活動を禁止)撤廃運動に始まり,1920年平塚らいてう(明 (はる) )らの新婦人協会,'24年婦人参政権獲得期成同盟会が結成され,たびたび議会請願を行った。'30年婦人公民権法案が衆議院可決をみたが,翌年貴族院否決。第二次世界大戦後,'45年婦人参政権が確立し,翌年の総選挙から行使され,39名の女性代議士が誕生した。
婦人参政権獲得期成同盟会
ふじんさんせいけんかくとくきせいどうめいかい @@@LINK=婦人参政権獲得期成同盟会 婦人参政権獲得期成同盟会

婦人参政権獲得期成同盟会
ふじんさんせいけんかくとくきせいどうめいかい

大正・昭和期の女性参政権運動のための組織
女性参政権運動の大同団結のために1924年久布白落実 (くぶしろおちみ) ・市川房枝らにより創立。翌年婦選獲得同盟と改称。'40年に解散。
普選運動
ふせんうんどう @@@LINK=普選運動 普選運動

普選運動
ふせんうんどう

明治・大正期,普通選挙の実施をめざした政治運動。「普通選挙運動」の
1892年大井憲太郎が普通選挙期成同盟会を設立したのに始まる。'97年普通選挙同盟会が結成され,普選請願書を衆議院に提出(1900)。大逆事件を契機として運動は弾圧され一時沈滞したが,大正期に入り,大正デモクラシー発展とともに再び活発となる。'19年普選期成大会が開催され,翌'20年には普選デモが東京で行われた。このような大衆運動と世論の高まりの中で,'25(大正14)年加藤高明内閣は治安維持法と引きかえに普通選挙法を成立させた。
不戦条約
ふせんじょうやく @@@LINK=不戦条約 不戦条約

不戦条約
ふせんじょうやく

1928年8月27日,パリで締結された戦争放棄に関する条約
ケロッグ‐ブリアン協定,パリ不戦条約ともいう。アメリカ国務長官ケロッグ,フランス外相ブリアンが提唱。日本・イギリス・ドイツなど15カ国(のち63カ国)が調印した。日本では,条約第1条の「人民の名において」の国体憲法に反するとして野党民政党の反対や枢密院で問題となり,田中義一内閣はこの一句は日本に適用されないとの留保条件をつけてようやく批准をとりつけた。
扶桑略記
ふそうりゃくき @@@LINK=扶桑略記 扶桑略記

扶桑略記
ふそうりゃくき

平安末期,延暦寺の僧皇円の著した歴史書
30巻。神武天皇から堀河天皇までの漢文編年体の史書。仏教関係の記事が多く,六国史にない記述も少なくない。2〜6巻,20〜30巻までの計16巻と神武天皇から平城天皇に至る抄本が現存する。
蕪村七部集
ぶそんしちぶしゅう @@@LINK=蕪村七部集 蕪村七部集

蕪村七部集
ぶそんしちぶしゅう

江戸後期,与謝蕪村一門の俳書
1809年刊。与謝蕪村が主宰した俳書7種を2巻に編集したもの。編者は菊舎太兵衛ら。天明俳諧特色をよく示している。
譜代
ふだい @@@LINK=譜代 譜代

譜代
ふだい

世襲的に同じ主家に奉公する者をいう
「譜第」とも書く。中世以来の呼称であるが,江戸時代,農村で名子・被官家抱 (けほう) などの奉公人を譜代下人といい,また関ケ原の戦い(1600)以前から徳川氏に仕えていた大名を譜代大名という。
譜代大名
ふだいだいみょう @@@LINK=譜代大名 譜代大名

譜代大名
ふだいだいみょう

江戸時代,大名の家格
関ケ原の戦い(1600)以前から徳川家に属した家臣。幕府の要職を占め,外様大名牽制の目的で親藩と並んで要地に配置されたが,石高は5万石以下が多く,最高は井伊氏の35万石。18世紀末には,大名総数264家中136家を占めた。
二上山
にじょうさん @@@LINK=二上山 二上山
ふたがみやま @@@LINK=二上山 二上山

二上山
にじょうさん

大阪府と奈良県との境の金剛山地北端に位置する山
「ふたがみやま」とも読む。雄岳・雌岳2峰に分かれる。雄岳の頂上には大津皇子の墓と伝えられる墓所がある。平安時代,この山の落日は,阿弥陀来迎の印象を与えたという。

二上山
ふたがみやま

にじょうさん
札差
ふださし @@@LINK=札差 札差

札差
ふださし

江戸時代,旗本・御家人の蔵米を受け取り,その換金を請け負った商人
浅草の蔵前に住み,蔵宿ともいう。委託販売の手数料は米100俵につき金3分。のち蔵米を担保に旗本・御家人に金融を行い,江戸中期以後は多額の高利貸付けで旗本・御家人の死命を制するほどになった。
二葉亭四迷
ふたばていしめい @@@LINK=二葉亭四迷 二葉亭四迷

二葉亭四迷
ふたばていしめい

1864〜1909
明治時代の小説家・翻訳家
本名長谷川辰之助。東京の生まれ。東京外国語学校露語科中退。坪内逍遙と交わり文学を志す。リアリズム論『小説総論』,言文一致体の日本近代写実主義小説の先駆『浮雲』,翻訳『あひびき』『めぐりあひ』などにより近代文学に大きな影響を与えた。のち朝日新聞社特派員としてロシアに渡り,帰国途中ベンガル湾上で没した。ほかに『其面影』『平凡』など。

武断政治
ぶだんせいじ @@@LINK=武断政治 武断政治

武断政治
ぶだんせいじ

江戸初期,初代将軍徳川家康から秀忠・家光までの幕府政治の傾向
17世紀前半はまだ戦国時代の気風が残り,家康・秀忠・家光3代の政治は,おもに武力を背景に外様大名などの諸勢力を制圧することにあった。大名改易減封などの処分もその例で,このような政治支配を武断政治という。4代将軍家綱の時代から文治政治に転換するが,のちの享保改革寛政の改革・天保の改革など,幕藩体制の強化をはかる諸改革も武断的傾向を有した。
府知事
ふちじ @@@LINK=府知事 府知事

府知事
ふちじ

明治時代以後の近代国家の地方長官
1869年の版籍奉還直後,・県の長官を知事の長官を知藩事といったが,'71年の県治条例により県に (かみ) を置くことにし,県の知事の称号を改めたので,一般に府知事・県令と称した。
扶持米
ふちまい @@@LINK=扶持米 扶持米

扶持米
ふちまい

江戸時代,幕府や諸藩の家臣に俸禄として支給された米
知行地を与えられない下級武士に支給された。幕府や諸藩の財政難に伴い扶持米を減額されることもあり(半知借上),生活困窮者は扶持米を抵当商人から金融をうけるなど,生活に苦しんだ。
府中
ふちゅう @@@LINK=府中 府中

府中
ふちゅう

律令時代の国府の所在地
中世以後も土豪豪族が居住して地方の中心地となり,近世の城下町などに発展した所が多い。東京・千葉岐阜三重・京都・徳島などに地名が残っている。なかでも武田氏の甲府(甲斐国・山梨県),大友氏の府内(豊後国・大分県),今川氏の駿府(駿河国・静岡県)は有名。
仏印進駐
ふついんしんちゅう @@@LINK=仏印進駐 仏印進駐

仏印進駐
ふついんしんちゅう

太平洋戦争直前の1940〜41年,日本軍によって行われたフランス領インドシナ占領
フランスの対独降伏に乗じた日本軍は,列国の蔣介石援助ルートを断ち切るため,フランスのヴィシー政権に迫って,1940年9月北部仏印に進駐。翌年7月,対英米戦も辞さない決意で南部仏印にも進駐した。アメリカを中心とするABCD包囲陣は,対日資産凍結・石油禁輸などでこれを牽制し,日米関係は最悪の事態に突入した。
普通選挙期成同盟会
ふつうせんきょきせいどうめいかい @@@LINK=普通選挙期成同盟会 普通選挙期成同盟会

普通選挙期成同盟会
ふつうせんきょきせいどうめいかい

明治・大正時代に普選運動を行った政治団体
①1892年大井憲太郎が東洋自由党内に設立。'94年解党により消滅した。
②1899年河野広中・中村太八郎・片山潜らにより創立,まもなく普通選挙同盟会と改名。1911年政府の圧力により解散。
③1918年中村・大井らが復興。'19年普選期成大会を開催するなど普選運動の中心となり活動した。
普通選挙法
ふつうせんきょほう @@@LINK=普通選挙法 普通選挙法

普通選挙法
ふつうせんきょほう

1925(大正14)年,護憲三派(第1次加藤高明内閣のときに改正された衆議院議員選挙の通称
納税制限を撤廃し,25歳以上の男子に選挙権,30歳以上の男子に被選挙権を認めた。1928年の第1回普通選挙では,有権者は前回の約4倍に増加し,無産政党も8議席を獲得した。
物価統制令
ぶっかとうせいれい @@@LINK=物価統制令 物価統制令

物価統制令
ぶっかとうせいれい

1946年3月3日,ポツダム勅令に基づいて公布された物価統制に関する法令
戦時中の物価統制の諸法令のあとを継ぎ,商品ごとに公定価格を決定し,また価を低く抑えて物価体系をつくり,賃金の上昇を防ぎ,インフレ防止をはかった。
仏教
ぶっきょう @@@LINK=仏教 仏教

仏教
ぶっきょう

キリスト教・イスラム教とともに世界の三大宗教の一つ
前6世紀ごろインドの釈迦(ゴータマ=シッダールタ)によって開かれた宗教。生老病死による愛欲の人間的苦悩を八正道 (はつしようどう) (涅槃 (ねはん) に達するための方法)を行うことによって克服し,覚者=仏陀となることができると説く。釈迦の死後,何回か仏典の結集 (けつじゆう) (遺法の散逸や異説の発生を防ぐため行う仏典の整理統一事業)が行われた。マウリヤ朝のアショーカ王の保護により前3世紀に盛んとなりセイロン(スリランカ)などに広まり(南伝仏教),紀元前後には中国にも伝わった。クシャーナ朝のカニシカ王の保護により2世紀ごろますます栄え,利他行為を重んじ万人を救済しようとする大乗仏教がおこり,中央アジア・中国・朝鮮を経て,6世紀前半日本にも伝えられた(北伝仏教)。以後,日本の社会・文化に多大の影響を与えることとなった。
仏教公伝
ぶっきょうこうでん @@@LINK=仏教公伝 仏教公伝

仏教公伝
ぶっきょうこうでん

仏教が初めて百済 (くだら) の聖明王から日本に伝えられたこと
年代について『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』などは538(戊午)年とし,『日本書紀』は552(壬申)年とするが,538年説が有力。私的にはもっと早く,継体朝(507〜531)ころ渡来人などにより伝えられた。公伝に際し,蘇我氏は仏教を崇拝物部 (もののべ) 氏は排斥を主張し,両氏対立をいっそう激化させた。
仏光寺派
ぶっこうじは @@@LINK=仏光寺派 仏光寺派

仏光寺派
ぶっこうじは

真宗十派の一つ
鎌倉末期,本願寺派の中から覚如の弟子了源がおこした。山科仏光寺を本山とする。
復古神道
ふっこしんとう @@@LINK=復古神道 復古神道

復古神道
ふっこしんとう

江戸中期以降,平田篤胤がひらいた神道説
古典の研究により,儒教・仏教などの外来思想の影響をうけない古代日本の純粋な精神(古道)への復古を主張した神道説。賀茂真淵 (まぶち) ・本居宣長らは古神道を唱えたが,平田篤胤 (あつたね) はこれを継承して宗教的に体系づけた。幕末から明治維新にかけて尊王攘夷運動・廃仏毀釈運動などに与えた影響は大きい。
物産会所
ぶっさんかいしょ @@@LINK=物産会所 物産会所

物産会所
ぶっさんかいしょ

国産会所
仏師
ぶっし @@@LINK=仏師 仏師

仏師
ぶっし

仏像をつくる工人
奈良時代には造仏所に所属,平安時代には有力寺院に属し,仏師の機構がととのい,工房である仏所がつくられた。
仏像
ぶつぞう @@@LINK=仏像 仏像

仏像
ぶつぞう

仏教において礼拝の対象としてつくられた彫刻
仏教では,はじめ偶像をつくらなかったが,ガンダーラ美術においてギリシアの神像彫刻の影響をうけてはじめて仏像がつくられた。中国などに伝播し,百済から日本に仏教が伝来したときは仏像を伴っていた。仏像は経典と儀軌 (ぎき) (儀式のきまり)によって造形され,一般に如来・菩薩・明王・天の4部に大別される。如来は仏で,すべて出家の姿で法衣をつけるだけであり,装身具はない。菩薩は如来に従って法を学ぶもので,温顔・上半身裸体,下半身に裳 (も) をつけ冠を戴 (いただ) き,胸飾や腕釧 (うでくしろ) などの装身具をつける。明王は密教の理論によって如来の真意を奉じて悪を破砕 (はさい) する使者なので,焔髪・怒眼,牙をむき,武器をもち忿怒 (ふんぬ) の形相をする。天はバラモン教や民間信仰の神々を仏教の守護神としたもので,四天王・十二神将など種類が多い。如来と菩薩の三尊〔釈迦如来と文珠・普賢菩薩:阿弥陀如来と観音・勢至菩薩:薬師如来と日光・月光菩薩〕の組合せが多くみられる。素材から鋳造による金銅像・粘土製の塑像・漆を用いた乾漆像・木像(一木造・寄木造)・石像などがあり,姿勢から立像・結跏趺座 (けつかふざ) 像・半跏趺座像・倚像 (いぞう) (両足を平行に垂下)などの区別がある。
仏足石歌
ぶっそくせきか @@@LINK=仏足石歌 仏足石歌

仏足石歌
ぶっそくせきか

31文字の短歌形式(5・7・5・7・7)に7音1句を加えた形の和歌の一種
奈良の薬師寺の仏足石のの石碑に刻まれているところからづけられた。仏足石とは釈迦の足跡を形取った石。この歌体の歌は『万葉集』中にもみえる。
仏哲
ぶってつ @@@LINK=仏哲 仏哲

仏哲
ぶってつ

生没年不詳
8世紀の林邑 (りんゆう) の僧
南インドで菩提僊那に学び,僊那とともに唐に行き,さらにともに736年来日。752年東大寺の大仏開眼供養にも参列。林邑 (りんゆう) 楽を伝えたという。
武道伝来記
ぶどうでんらいき @@@LINK=武道伝来記 武道伝来記

武道伝来記
ぶどうでんらいき

江戸中期,井原西鶴の浮世草子
1687年刊。8巻8冊。傍題に「諸国敵打」とあり,序文に「中古武道の忠義諸国に高名の敵 (かたき) うち其はたらき聞伝えて」とあるように,諸国の有名な敵討話32編をまとめた西鶴武家物の一つ。『武家義理物語』の前作
風土記
ふどき @@@LINK=風土記 風土記

風土記
ふどき

奈良初期,最古の地誌
713年元明天皇が諸国に編集を命じ,各地の産物・地理・地名の由来・伝承などを漢文で記載。現存するのは常陸 (ひたち) ・出雲・播磨・豊後・肥前の5風土記で,出雲だけが完本。奈良時代の貴重な史料である。
太占
ふとまに @@@LINK=太占 太占

太占
ふとまに

古代の占いの一種
鹿の肩甲骨を焼き,ひびわれの形によって吉凶や神意を判断した。北アジアの諸民族に広くみられる。古代日本でも行われたことは『魏志』倭人伝や記紀神話にもみえ,遺跡からも遺物が出土する。
蒲団
ふとん @@@LINK=蒲団 蒲団

蒲団
ふとん

明治後期,田山花袋 (かたい) の短編小説
1907年発表。自然主義文学の代表作空前の大胆さ,赤裸々な告白的描写で大きな反響を呼んだ。私小説の源流をここにみる見方もある。
府内
ふない @@@LINK=府内 府内

府内
ふない

大分市の旧名
古代の豊後国府の所在地。戦国時代には大友氏の城下町となる。大友宗麟キリシタン保護により,コレジオ(大学)・教会堂・病院などが建てられ,南蛮貿易も栄えて九州におけるキリシタンの一大中心地となる。人口も20万人を数えた。江戸時代には府内藩(大給松平氏)の城下町として繁栄。明治時代,大分と改称され,現在は県庁所在地。
船成金
ふななりきん @@@LINK=船成金 船成金

船成金
ふななりきん

成金
舟橋宣賢
ふなばしのぶかた @@@LINK=舟橋宣賢 舟橋宣賢

舟橋宣賢
ふなばしのぶかた

清原宣賢
舟橋蒔絵硯箱
ふなばしまきえのすずりばこ @@@LINK=舟橋蒔絵硯箱 舟橋蒔絵硯箱

舟橋蒔絵硯箱
ふなばしまきえのすずりばこ

江戸初期,本阿弥光悦作の蒔絵硯箱
不入
ふにゅう @@@LINK=不入 不入

不入
ふにゅう

不輸・不入
府藩県三治制
ふはんけんさんちせい @@@LINK=府藩県三治制 府藩県三治制

府藩県三治制
ふはんけんさんちせい

府・藩・県が併置された明治初年の地方行政制度
1868年政体書により,幕府の直轄地を府・県として知事を置き,藩は従来どおり大名が統治した。翌年版籍奉還により藩も国の行政区画となり三治制は確立したが,'71年の廃藩置県により藩は廃止され府県制となった。

ふひと @@@LINK=史 史


ふひと

大和政権の姓 (かばね) の一つ
政権の文筆活動にたずさわった職名がそのまま姓となった。渡来人に多い。阿知使主 (あちのおみ) の子孫東漢氏 (やまとのあやうじ) ,王仁 (わに) の子孫西文氏 (かわちのふみうじ) は有名で,わが国学問の発達に貢献した。
忽必烈
フビライ
Khubilai @@@LINK=忽必烈 忽必烈
クビライ @@@LINK=忽必烈 忽必烈

忽必烈
フビライ
Khubilai

1215〜94
モンゴル帝国第5代の汗(在位1260〜94)で,元の初代皇帝(在位1271〜94)
世祖。チンギス汗の孫。1271年大都(北京)に遷都し,国号を元と称した。高麗 (こうらい) を属国とし,'79年南宋を滅ぼす。日本にも入貢を求め,'74年と'81年に遠征軍を送った(元寇)が失敗。またアンナンヴェトナム)・ジャワにも遠征した。

忽必烈
クビライ

フビライ
部分的核実験停止条約
ぶぶんてきかくじっけんていしじょうやく @@@LINK=部分的核実験停止条約 部分的核実験停止条約

部分的核実験停止条約
ぶぶんてきかくじっけんていしじょうやく

1963年8月5日調印された地上核爆発の停止条約
正式には「大気圏内・宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約」という。1958年以来のアメリカ・イギリス・ソ連3国の話し合いが実を結び,モスクワで,地下実験を除く核兵器の実験的爆発停止を調印。日本は8月14日に調印。その後,米ソは地下核実験制限条約(TTBT)を'74年に,平和目的地下核実験制限条約(PNET)を'76年に調印した。
不平士族
ふへいしぞく @@@LINK=不平士族 不平士族

不平士族
ふへいしぞく

明治新政府の開明政策に不満をもった士族
新政府による開明政策が推し進められる中で,国民は華族・士族・平民の三身分となり,士族・平民間の法的な身分上の差異はなくなった。さらに廃藩置県徴兵令秩禄処分廃刀令などにより,旧来の特権がうばわれ,生活を脅かされたことや西郷隆盛ら征韓派の政府追放などが士族の不満の原因となった。皮肉にも西郷らの説く征韓論の背景には「内乱をこいねがい候心を外に移すこと」があった。
富本銭
ふほんせん @@@LINK=富本銭 富本銭

富本銭
ふほんせん

日本最古と考えられる古代の銅銭
すでに1969年以降平城京跡や藤原京跡などで出土していたが,'97年に始まった奈良県高市郡明日香村の飛鳥池遺跡の本格的発掘調査の結果,'98年に数点出土した。調査続行の結果,約3300点もの富本銭の鋳型片が出土し,鋳造の年代が7世紀後半にさかのぼること,同遺跡で鋳造されたものであることが確認された。和同開珎よりも古い日本最古の貨幣で,『日本書紀』に683(天武12)年使用を命じたとある銅銭に相当する可能性が高まった。'98年に同遺跡から天武朝のものと見られる「天皇」と書かれた最古の木簡など,5000点以上の木簡が出土して注目された。
文氏
ふみうじ @@@LINK=文氏 文氏

文氏
ふみうじ

大和政権時代,渡来人阿知使主 (あちのおみ) ・王仁 (わに) の子孫の総称
応神天皇時代に渡来,政権に文筆で仕えた。阿知使主は東漢氏 (やまとのあやうじ) (これが分裂した一つに東文氏 (やまとのふみうじ) がある),王仁は西文氏 (かわちのふみうじ) のとなった。
踏絵
ふみえ @@@LINK=踏絵 踏絵

踏絵
ふみえ

江戸時代,幕府がキリシタン摘発に用いた画像
キリスト,マリアの画像や木版・銅版画像(板踏絵)をいい,それを踏むことができない者は信徒とみなされた。踏絵を踏ませることを絵踏といった。1629年長崎奉行の考案といわれ,九州をはじめ信徒の多い地方で実施。18世紀中ごろには形式化し長崎周辺でも正月の行事となった。1858年日米修好通商条約締結により廃止。
踏車
ふみぐるま @@@LINK=踏車 踏車

踏車
ふみぐるま

江戸前期以降,低所から高所用水を汲みあげた灌漑用具
水車と似ているが,水力で動かすのではなく足で踏んで車を回し水を汲み上げた。寛文年間(1661〜73)に作られ,江戸後期には従来竜骨車に代わった。西日本では大正・昭和まで使用された。
部民
べのたみ @@@LINK=部民 部民
ぶみん @@@LINK=部民 部民
べみん @@@LINK=部民 部民

部民
べのたみ

大和政権における大王家や豪族の私有民
所有する豪族・職業名・地名にちなんで「何々」と呼んだ。大部分農民で,一部に特殊技術を有する者もあった。豪族に貢物労役を出したが,奴婢 (ぬひ) と異なり家族生活を営んだ。大王家の部民は品部 (ともべ) ・名代 (なしろ) ・子代 (こしろ) の民といい,伴造 (とものみやつこ) に統率された。豪族に属するものが部曲 (かきべ) 。大化の改新公民となったが,天智天皇が復活,のち天武天皇が再廃止した。品部の一部は未解放のまま律令の品部 (しなべ) ・雑戸 (ざつこ) となった。

部民
ぶみん

べのたみ

部民
べみん

べのたみ
夫役
ぶやく @@@LINK=夫役 夫役

夫役
ぶやく

支配者が被支配者から徴収した労働課役
人夫役の意味で,「賦役」とも書く。律令制の歳役・雑徭 (ぞうよう) ,荘園制下における領主の佃 (つくだ) の耕作やその他の労役,武家社会における武士の軍役・警固役,戦国大名が農民に課した陣夫・詰夫,江戸時代の国役・助郷役など,これらはみな夫役といえるが,時代が下るにしたがって,しだいに物納・金納化した。
フューザン会
フューザンかい @@@LINK=フューザン会 フューザン会

フューザン会
フューザンかい

大正初期の美術団体
後期印象派の人びとの最初グループ斎藤与里岸田劉生・高村光太郎・万鉄五郎ら33名で1912年に結成翌年解散したが,個性的表現を唱えた最初の革新的運動であった。
不輸租田
ふゆそでん @@@LINK=不輸租田 不輸租田

不輸租田
ふゆそでん

律令制において田租を免除された田
神田・寺田・職田・勅旨田・国司の公廨田 (くがいでん) などがこれにあたり,寺社の用途料や官人の俸禄の一部とされた。のちには本来輸租田である位田・功田・墾田なども不輸租田となり,荘園が,これをもとにしだいに成立した。
不輸・不入
ふゆ・ふにゅう @@@LINK=不輸・不入 不輸・不入

不輸・不入
ふゆ・ふにゅう

国家権力による荘園に対する干渉を拒否できる特権
不輸は租税の免除。不入は検田使の荘園立入りを拒否できる権利であるが,のちには国家警察権の行使をも排除できる権利にまで拡大された。寺田・神田などを除いては,本来荘園は租税を納める輸租田であったが,9世紀ごろから不輸権,11世紀頃からは不入権をも得るようになった。これらの権利は,太政官符・民部省符,あるいは国司免判により承認された。
扶余
ふよ @@@LINK=扶余 扶余

扶余
ふよ

古代,朝鮮半島南西部にあった百済 (くだら) の旧都
②前1〜後5世紀,中国東北部から朝鮮半島北部にかけて住んだツングース系狩猟農耕民,またその国名
538〜660年間の百済の都城である半月城があった。仏教中心の文化が栄えた。
1〜3世紀が全盛期。5世紀末,支族高句麗に圧迫されて消滅した。

部落解放運動
ぶらくかいほううんどう @@@LINK=部落解放運動 部落解放運動

部落解放運動
ぶらくかいほううんどう

明治時代から現在に至る被差別部落の解放運動
幕藩体制下で最下層の賤民(穢多・非人)として極度の差別と抑圧のもとにあえいでいた被差別部落の人びとは,1871年の解放令で制度上は解放されたが,社会的・経済的・身分的差別はなくならなかった。大正デモクラシーの発展に伴い,1922年全国水平社が結成され,人間の尊厳と平等・自由を掲げ,一切の抑圧や差別と闘い,すべての人間解放をめざす決意表明。社会運動とも結合し'25年第4回大会以後次第に無産運動や社会主義運動と連携し全国的統一組織として成長。第二次世界大戦後,'46年部落解放全国委員会が発足し運動を推進。'55年部落解放同盟と改組。'60年以降独占資本を差別の元凶とし,平和・独立・民主主義を実現する運動を進めたが,内部で対立がおこり,反主流派は'70年に部落解放同盟正常化全国連絡会議を結成,のち全国部落解放運動連合会に改組。
プラザ合意
プラザごうい @@@LINK=プラザ合意 プラザ合意

プラザ合意
プラザごうい

1985年にニューヨークのプラザホテルで開かれた先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議での合意のこと
ドル高を是正するために,各国がドル売りの協調介入をすることで合意した。この後,円高・ドル安がすすんだ。
フランシスコ派
フランシスコは
Franciscans @@@LINK=フランシスコ派 フランシスコ派

フランシスコ派
フランシスコは
Franciscans

安土桃山〜江戸時代初期,日本伝道に従事したカトリック教団
イタリアの聖フランシスコ(1182〜1226)が1209年創設。1593年スペイン使節が来日し,布教活動を行った。サン‐フェリペ号事件を契機豊臣秀吉と衝突し,二十六聖人殉教がおこった。
振売
ふりうり @@@LINK=振売 振売

振売
ふりうり

平安〜江戸時代の呼び売り行商
店舗を持つ棚売・異なり日帰りか1泊ぐらいの範囲で町々を売り歩いた。平安末期から盛んとなり,中世には座の特権を侵すとして圧迫されたが,戦国大名から保護され,江戸時代には免札が与えられた。
風流
ふりゅう @@@LINK=風流 風流

風流
ふりゅう

古代末期〜近世初期に流行した拍子 (はやし) 物の一つ
芸能としての風流は和漢故事を仕組んだミュージカル風のものと考えられ,元来ははなやかな風情ある「作り物」,祭礼の「練りもの」(のちの山車 (だし) )であったが,やがて「拍子物」として,手振り・踊りを伴った。寺院の遊宴歌舞であった延年の舞にとり入れられ,能楽の形成に大きな役割をもつ。安土桃山時代念仏踊もこの一種で,歌舞伎成立に影響を与えた。
古河市兵衛
ふるかわいちべえ @@@LINK=古河市兵衛 古河市兵衛

古河市兵衛
ふるかわいちべえ

1832〜1903
明治時代の実業家
京都の生まれ。1858年小野組番頭古河太郎左衛門の養子となり,小野組の生糸買付主任になる。'74年小野組破産ののち,独立して阿仁・院内・足尾鉱山その他の鉱山経営を進め,古河財閥を築いた。

古田織部
ふるたおりべ @@@LINK=古田織部 古田織部

古田織部
ふるたおりべ

1544〜1615
安土桃山〜江戸時代初期の武将・茶人・外様大名。織部流の祖
通称佐介。美濃(岐阜県)の人。織田信長・豊臣秀吉に仕え,山城(京都府)3万5000石を領した。千利休に茶を学び,利休死後,一派をなし,2代将軍徳川秀忠に点茶の方式を伝授。大坂の役で豊臣方に内通したとして自刃させられた。

古人大兄皇子
ふるひとのおおえのおうじ @@@LINK=古人大兄皇子 古人大兄皇子

古人大兄皇子
ふるひとのおおえのおうじ

?〜645
7世紀前期の皇族
舒明天皇の皇子で,中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ) の異母兄。母は蘇我馬子の娘。有力な天皇候補者であったが,大化の改新で蘇我氏が滅亡すると出家して吉野に入った。謀反の疑いで中大兄皇子に殺された。
フルベッキ
Guido Herman Fridolin Verbeck @@@LINK=フルベッキ フルベッキ

フルベッキ
Guido Herman FridolinVerbeck

1830〜98
幕末・明治初期,アメリカの宣教師
オランダの生まれ。1859年来日。長崎で伝道し,洋学所で英語を教授。'69年開成学校(大学南校)頭取となり政府顧問として教育・法制調査にあたる。従来オランダ医学に代わるドイツ医学の採用,ナポレオン法典の翻訳紹介など大きく貢献した。
プレ縄文文化
プレじょうもんぶんか @@@LINK=プレ縄文文化 プレ縄文文化

プレ縄文文化
プレじょうもんぶんか

先土器文化
フロイス
Luis Frois @@@LINK=フロイス フロイス

フロイス
Luis Frois

1532〜97
安土桃山時代に来日したポルトガルのイエズス会宣教師
1563年来日。'64年入京し足利義輝に,'69年織田信長に謁見。畿内・九州で布教活動に従事し,それを克明に記録した。豊臣秀吉のバテレン追放令後,九州を転々とし,いったんマカオに退き,のち再び来日。『日本史』『日欧風習対照(覚書)』を著し,長崎で没した。

浮浪
ふろう @@@LINK=浮浪 浮浪

浮浪
ふろう

律令制において,本籍を離れて他国に流浪している者
令では他郷で調を出す者を浮浪,出さない者を逃亡 (とうぼう) と区別しているが,実際はほとんど差はなかった。ともに厳禁されていたが,課役の過重などでしだいに増大,その多くは荘園に流入した。
ブロック経済政策
ブロックけいざいせいさく @@@LINK=ブロック経済政策 ブロック経済政策

ブロック経済政策
ブロックけいざいせいさく

独占資本主義諸国が恐慌克服のため,自国を中心に勢力範囲を結合して設定した閉鎖的経済
世界恐慌後,イギリスやフランスがとった政策で,本国と属領間で特恵関税を設け,商品市場を確保しあい景気変動に対応した。1932年,オタワで開かれたイギリス帝国経済会議で決定。フランスもこれにならった。
プロレタリア文学
プロレタリアぶんがく @@@LINK=プロレタリア文学 プロレタリア文学

プロレタリア文学
プロレタリアぶんがく

大正末期・昭和初期の文学運動
プロレタリアート(労働者・農民)の立場から,その思想や生活を描き現実を発展させようとする文学運動で,第一次世界大戦後の労働運動・社会主義の発展に伴って現れた。1921年創刊の『種蒔く人』に始まり『文芸戦線』『戦旗』などを中心に展開。葉山嘉樹 (よしき) ・徳永直 (すなお) ・小林多喜二・中野重治・青野季吉 (すえきち) ・蔵原惟人 (これひと) ・宮本顕治らがその中心となった。'34年ころ弾圧によって組織は解体。第二次世界大戦後,民主主義文学として復活した。
不破関
ふわのせき @@@LINK=不破関 不破関

不破関
ふわのせき

古代,三関の一つで,現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあった関所
美濃国と近江国の境。壬申 (じんしん) の乱(672)に大海人 (おおあま) 皇子がここに本営を置いた。平城京遷都後,その重要性は薄れ789年廃止。しかし平安時代にも朝廷の大事には固関 (こげん) 使(勅使)が発遣され,万一の事態に備えた。
文永の役
ぶんえいのえき @@@LINK=文永の役 文永の役

文永の役
ぶんえいのえき

1274(文永11)年10月におこった元の日本来襲事件。
文学界
ぶんがくかい @@@LINK=文学界 文学界

文学界
ぶんがくかい

①明治中期の文芸雑誌
②昭和期の文芸雑誌
1893年創刊。日本ロマン主義文学の母体となる。同人は北村透谷・島崎藤村・星野天知・平田禿木 (とくぼく) ・戸川秋骨らで,樋口一葉も寄稿した。透谷の評論,藤村の新体詩,一葉の小説などが特に有名。'98年1月,58号をもって廃刊となった。
1933年創刊。宇野浩二・川端康成・武田麟太郎・小林秀雄らの同人雑誌として発足したが,一時廃刊となり,第二次世界大戦後の'47年復刊。その後同人は解散し,文藝春秋社より文芸雑誌として刊行され,現在に至る。
文化勲章
ぶんかくんしょう @@@LINK=文化勲章 文化勲章

文化勲章
ぶんかくんしょう

科学・文芸など文化の発達にすぐれた功績をあげた者に授与される勲章
勲章が軍務国務に関係した者に与える観念が強かったことを反省して,1937年制定。第二次世界大戦後は '46年より文部大臣の推薦,内閣の決定で,毎年11月3日の「文化の日」に授与される。
文化財保護法
ぶんかざいほごほう @@@LINK=文化財保護法 文化財保護法

文化財保護法
ぶんかざいほごほう

1950年制定された,文化財の保護活用をはかるための法律
法隆寺金堂の炎上事件を契機に制定された。施行にともない,国宝・重要文化財などを指定・管理するための文化財保護委員会がつくられたが,1968年文化庁に発展的解消した。
文華秀麗集
ぶんかしゅうれいしゅう @@@LINK=文華秀麗集 文華秀麗集

文華秀麗集
ぶんかしゅうれいしゅう

平安初期の勅撰漢詩集
818年成立。3巻。嵯峨天皇の勅により藤原冬嗣・菅原清公 (きよとも) らが編纂した。作者28名,作詩148首。『凌雲集 (りよううんしゆう) 』にもれた作品をとり,年代順・官位順の配列を排し,新しく11の部門に分類し収録した点に特色がある。
文化政治
ぶんかせいじ @@@LINK=文化政治 文化政治

文化政治
ぶんかせいじ

大正時代三・一運動後第3代朝鮮総督となった斎藤実が行った朝鮮統治政策
憲兵警察制度を廃止し,朝鮮人の言論・集会の自由を制限付きで認め,朝鮮語による新聞・雑誌発行を許可するなど,今までの抑圧的な政治を改め「文化政治」を標榜したが,武力的支配の本質は変わらなかった。
分割相続
ぶんかつそうぞく @@@LINK=分割相続 分割相続

分割相続
ぶんかつそうぞく

被相続人の財産を数人の相続者が分割して相続すること
単独相続に対していう。律令社会で行われた分割相続が鎌倉時代の武家社会でも行われたが,鎌倉末期から所領細分化を防ぐために惣領の単独相続へと移っていった。
文化・文政時代
ぶんか・ぶんせいじだい @@@LINK=文化・文政時代 文化・文政時代

文化・文政時代
ぶんか・ぶんせいじだい

江戸後期,文化・文政年間(1804〜30)を中心に寛政の改革後(1793)から天保の改革(1841)に至る時代
大御所時代ともいい,徳川家斉が11代将軍・大御所として君臨した。寛政の改革の遺風は19世紀初めで消滅し,家斉の豪奢側近の放漫政策が展開。財政難対策には倹約令のほか貨幣改鋳,町人の御用金賦課が行われたが,幕藩財政一般が窮迫し,士風は退廃した。商品経済が農村に深く浸透して貧富の差が増大し,幕藩体制の経済的基盤はすでに崩壊しはじめ,百姓一揆・打ちこわしが頻発した。諸藩はこの時期に専売制を強化して財政難に対処した。一方,対外的にはロシア船・イギリス船の近海出没で海防問題が注目され,幕府の北辺調査,異国船打払令発布となる。また文化面ではこの時期に化政文化が展開した。
文官任用令
ぶんかんにんようれい @@@LINK=文官任用令 文官任用令

文官任用令
ぶんかんにんようれい

大日本帝国憲法下における文官(武官以外の官吏)任用資格に関する勅令
1893年公布。'99年政党勢力の官界への進出を阻止するため,第2次山県有朋内閣は文官任用の枠をきびしくした。しかし,第1次護憲運動で成立した第1次山本権兵衛内閣は1913年再改正を行い,自由任用の枠を拡大。第二次世界大戦後の '46年廃止された。
文官分限令
ぶんかんぶんげんれい @@@LINK=文官分限令 文官分限令

文官分限令
ぶんかんぶんげんれい

大日本帝国憲法下における官吏身分および職分の保障に関する勅令
1899年公布政党勢力の官界への進出を阻止するため,第2次山県有朋内閣が文官任用令改正と同時に制定した。親任官公使政務官および法令で定めてある官吏以外の一般の文官の進退分限に関する規定。第二次世界大戦後,1946年官吏分限令と改称,'48年国家公務員法施行により廃止
文久三年の政変
ぶんきゅうさんねんのせいへん @@@LINK=文久三年の政変 文久三年の政変

文久三年の政変
ぶんきゅうさんねんのせいへん

八月十八日の政変
文久の打払令
ぶんきゅうのうちはらいれい @@@LINK=文久の打払令 文久の打払令

文久の打払令
ぶんきゅうのうちはらいれい

幕末の異国船打払令
1863(文久3)年5月10日を開始期日として発令長州藩を中心とする尊攘派志士・公家朝廷を動かし,上洛中の14代将軍徳川家茂 (いえもち) に攘夷決行を強要し,打払令の発令を得た。同日長州藩は下関海峡を航行するアメリカ・フランスオランダ艦船を積極的に砲撃翌年四国艦隊下関砲撃事件を招くことになった。
文鏡秘府論
ぶんきょうひふろん @@@LINK=文鏡秘府論 文鏡秘府論

文鏡秘府論
ぶんきょうひふろん

平安初期,空海の詩論書
820年ころ成立。6巻。中国の六朝・唐などの詩論を参考にして成ったもので,日本人最初の詩論。詩は形式より内容に重きを置くべしと論じている。
文芸協会
ぶんげいきょうかい @@@LINK=文芸協会 文芸協会

文芸協会
ぶんげいきょうかい

1906(明治39)年,島村抱月を中心に結成された文化運動団体
1909年からは坪内逍遙を会長とする純然たる新劇団体となる。シェイクスピア・イプセンの作品を上演,松井須磨子らを育成した。'13年内部対立により解散。
文芸戦線
ぶんげいせんせん @@@LINK=文芸戦線 文芸戦線

文芸戦線
ぶんげいせんせん

昭和初期のプロレタリア文学雑誌
1924年創刊。'28年全日本無産者芸術連盟(ナップ)結成後は青野季吉 (すえきち) ・前田河広一郎・平林たい子・葉山嘉樹 (よしき) ら中心の,社会民主主義派の機関誌となり,'32年廃刊。
分国
ぶんこく @@@LINK=分国 分国

分国
ぶんこく

①平安中期以後の知行国
②室町時代の大名の領国
関東御分国など。
封建領主に成長した守護大名や戦国大名の領国をいう。戦国大名が分国支配のために制定した法令を分国法という。
分国法
ぶんこくほう @@@LINK=分国法 分国法

分国法
ぶんこくほう

室町〜戦国時代,戦国大名が領国(分国)統治のために制定した法令や規則
家法,国法または戦国家法ともいう。御成敗式目を母法としたものが多く,大名の家の私的な家訓がそのまま領国内の法とされた。領国内の秩序を厳格に維持するためのきびしい刑罰規定,特に喧嘩両成敗や大幅の連坐制などが注目される。「大内家壁書」が最も早く成立し,ほかに今川氏の「今川仮名目録」,伊達氏の「塵芥 (じんかい) 集」,結城氏の「結城家法度」,武田氏の「甲州法度之次第」,長宗我部氏の「長宗我部元親百箇条」などがある。
豊後節
ぶんごぶし @@@LINK=豊後節 豊後節

豊後節
ぶんごぶし

江戸中期におこった浄瑠璃の一派
宝永(1704〜11)ころ一中節の流祖都太夫一中の門人宮古路豊後掾 (みやこじぶんごのじよう) (?〜1740)が始め,享保年間(1716〜36)江戸に下った。内容は世話物中心で,濃艶な曲調,扇情的な語り方のため禁止されたが,人や名を変えて分派が出た。常磐津・清元・富本を豊後三派と呼ぶ。写実的な義太夫節に対し歌謡的である。
文正草子
ぶんしょうそうし @@@LINK=文正草子 文正草子

文正草子
ぶんしょうそうし

室町中期の御伽 (おとぎ) 草子
15世紀後半の成立。2巻。作者不詳。常陸 (ひたち) 国(茨城県)の塩焼の文正が,よい塩を売って長者となり,2人の娘が,都の中将の北の方,帝の女御となり,自分も大納言に立身出世したという物語。無名賤民でも実力・機会があれば貴族になり得るという下剋上的風潮の反映をみることができる。
文人画
ぶんじんが @@@LINK=文人画 文人画

文人画
ぶんじんが

江戸時代,文人が余技に描いた絵
文人画は技巧にとらわれず気韻生動を重んじる。南画と同義に用いられることもあるが,文人画は身分的立場からの呼称であり,南画は様式上(北宗画に対し)からの呼称である。日本の文人画は江戸中期ころから盛んになり,池大雅・与謝蕪村らが確立した。
文政の改革
ぶんせいのかいかく @@@LINK=文政の改革 文政の改革

文政の改革
ぶんせいのかいかく

江戸後期の1827(文政10)年,幕府が関東農村の治安維持を強化した改革
関東全域の農村40〜50か村ずつで組合村を結成,寄場惣代 (よせばそうだい) を置き,関東取締出役に直属させ,これを強化した。関東は天領旗本領大名領寺社領が入りまじり,取締りの不備に乗じ博徒・無宿者らが横行したため,これらの取締りとともに江戸周辺農村の一揆防止が目的であった。
分銭
ぶんせん @@@LINK=分銭 分銭

分銭
ぶんせん

室町時代銭納年貢
鎌倉末期以降,貨幣経済進展につれ,未納の年貢=分米 (ぶんまい) を銭に換算して納める銭納=分銭が広まった。その後豊臣秀吉統一により,公式には石高制となり分銭は廃止された。
分地制限令
ぶんちせいげんれい @@@LINK=分地制限令 分地制限令

分地制限令
ぶんちせいげんれい

江戸幕府が農民の分割相続による田畑の細分化を制限した法令
本百姓を維持し貢租を確保しようとしたもので,田畑永代売買禁止令とともに農政の基本政策の一つ。1673年以降,たびたび発令された。'73年令では名主(庄屋)は高20石,その他の百姓は10石以上の田畑所有者以外分地を禁じたが,守られなかった。
文治政治
ぶんちせいじ @@@LINK=文治政治 文治政治

文治政治
ぶんちせいじ

江戸中期,4代将軍徳川家綱から5代綱吉・6代家宣 (いえのぶ) ・7代家継までの儒教徳治主義に基づいた幕府政治体制
幕府創設期の武力を背景に大名らを制圧する武断政治に対する語。家綱の襲職は1651年で,すでに関ケ原の戦いから50年が経過し,世代の交代で戦国の遺風も薄れ,武士も文官的要素が重んじられるなど時代の転換期を迎えていた。このような中で新生活倫理として儒教の徳治主義が登場,武断政治で強化された将軍権力を文治政治の権威づけでいっそう高揚することになった。慶安事件後の処置として牢人の再就職斡旋をとりあげ,末期 (まつご) 養子の禁を緩和している。大名の改易が激減し,殉死を禁じたのもその現れである。綱吉も儒学奨励策で将軍の権威づけにつとめ,家宣・家継の正徳の治では新井白石参政,最高潮に達したが,形式主義に陥り8代吉宗の享保の改革で武断的傾向に復帰した。
分付百姓
ぶんづけひゃくしょう @@@LINK=分付百姓 分付百姓

分付百姓
ぶんづけひゃくしょう

江戸時代の隷属農民の一種
初期の検地帳記載に,名請人 (なうけにん) のほかにさらに「何々分」という肩書をもった百姓。畿内などの先進地帯には少なく,後進地帯に多い。高は持っていても身分的には本百姓に隷属した。なお譜代隷農を分付という地方もある。中期以後減少した。
文展
ぶんてん @@@LINK=文展 文展

文展
ぶんてん

文部省美術展覧会」の略称
1907年黒田清輝・正木直彦らの建議により政府が開設した官展。各派総合の美術展として美術振興に貢献したが,官展としての限界が現れた。'19年帝国美術院創立により帝展にかわる。のち新文展('37〜44)となり,第二次世界大戦後,日展に継承された。
文保の和談
ぶんぽうのわだん @@@LINK=文保の和談 文保の和談

文保の和談
ぶんぽうのわだん

鎌倉末期,大覚寺・持明院両統の皇位継承争いに対して幕府の行った申し入れ
鎌倉末期より両統の争いが激しくなったため,1317(文保元)年幕府は朝廷践祚 (せんそ) ・立太子は両統の和談によるようにとの通告を行い,大覚寺統の後宇多,持明院統の伏見両上皇の間で協議された。ここで,(1)つぎは尊治 (たかはる) 親王(後醍醐 (ごだいご) 天皇)が即位する,(2)在位期間は10年とする,(3)皇太子を選ぶ,という3項目について話し合われたが,(3)について両統間で一致をみず対立は解消しなかった。
文明一統記
ぶんめいいっとうき @@@LINK=文明一統記 文明一統記

文明一統記
ぶんめいいっとうき

室町中期,一条兼良 (かねよし) の政治論書
1479(文明11)年ころ刊。1巻。9代将軍足利義尚 (よしひさ) のために著した修養書。孝行・正直・慈悲などについて記し,政道への心構えを説く。その態度は貴族化した足利氏に好意的であり,兼良の武家観がよく表れている。
文明開化
ぶんめいかいか @@@LINK=文明開化 文明開化

文明開化
ぶんめいかいか

明治初年,政府の西洋近代文明の摂取による近代化政策から生じた社会風潮
明治政府は富国強兵・殖産興業の政策をとり,欧米の近代的技術・制度・風俗習慣などを積極的に移入した。近代的工場・鉄道・郵便制度・銀行制度・学制・散髪廃刀などはその例である。しかしこうした傾向は「日本橋近辺の文明開化」といわれるように東京など大都市中心のものであり,また,無批判な西洋文明崇拝は日本文化への劣等感を生み,日本の伝統文化を旧習として退ける行き過ぎもみられた。
文明論之概略
ぶんめいろんのがいりゃく @@@LINK=文明論之概略 文明論之概略

文明論之概略
ぶんめいろんのがいりゃく

明治初期,福沢諭吉の代表的啓蒙書
1875年刊。6冊。古今東西の文明の発達を概観し,自国自主独立には,進んだ西洋文明を摂取し,これをとして自国の文明の発達をはかることが急務であると説いた。
文屋康秀
ふんやのやすひで @@@LINK=文屋康秀 文屋康秀

文屋康秀
ふんやのやすひで

生没年不詳
平安前期の歌人。六歌仙の一人
伝記不詳。『古今和歌集』『後撰和歌集』に数首おさめられている。

文室綿麻呂
ふんやのわたまろ @@@LINK=文室綿麻呂 文室綿麻呂

文室綿麻呂
ふんやのわたまろ

765〜823
平安初期の公卿
薬子 (くすこ) の変(810)で平城上皇側についたため捕らえられたが,許され坂上田村麻呂とともに乱の鎮圧に功を立てた。811年征夷将軍として蝦夷 (えみし) を征討。818年中納言に進んだ。

文楽
ぶんらく @@@LINK=文楽 文楽

文楽
ぶんらく

人形浄瑠璃(操 (あやつり) 人形芝居)およびその劇場である文楽座
寛政の末(1800年ころ),淡路の植村文楽軒が大坂道頓堀東に人形浄瑠璃の劇場を創設。以後大坂を転々としたが,'72年正式に文楽座を名乗った。現在国立劇場小劇場などで上演されている。
文禄・慶長の役
ぶんろく・けいちょうのえき @@@LINK=文禄・慶長の役 文禄・慶長の役

文禄・慶長の役
ぶんろく・けいちょうのえき

1592(文禄元)〜98(慶長3)年,豊臣秀吉が2度にわたり朝鮮に侵略した戦争
全国を統一した秀吉は諸大名の領土拡張欲とその統制のため,朝鮮に明征服の道案内を求め,これが拒否されると,1592年3月,肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正を先鋒に出兵。平壌(ピョンヤン)付近まで進出したが,明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着。'93年4月,小西が講和を斡旋し停戦(文禄の役)。'96年大坂城に来た明使の書中に秀吉を日本国王に封じるという言があり,秀吉は大いに怒り'97年再度出兵を命じた。明の援軍等のため初めから苦戦を続け,'98年秀吉の死を契機として撤兵(慶長の役)。この両役は,朝鮮の国土と人々に多大な被害をあたえ,豊臣政権衰亡を早めることになった。文化的には強制連行された多数の朝鮮人陶工により窯業の発達がもたらされた。

べ @@@LINK=部 部



部民 (べのたみ)
平安京
へいあんきょう @@@LINK=平安京 平安京

平安京
へいあんきょう

平安時代から明治初年まで,千年余の間の帝都
桓武天皇は和気清麻呂の提案によって,山背国葛野 (かどの) 郡の地(現京都市)に新都を造営し,794年長岡京から遷都。規模は南北約5.3km,東西約4.6kmで条坊制を採用した。中央を南北に走る朱雀大路 (すざくおおじ) によって左・右両京に分けたが,右京はあまり発展しなかった。
平安時代
へいあんじだい @@@LINK=平安時代 平安時代

平安時代
へいあんじだい

794年に行われた桓武天皇の平安遷都から鎌倉幕府成立までの約400年間
政治史的には律令政治の最後の時代といわれる延喜・天暦の治までを前期,摂関政治や院政の行われた10世紀後半以後を後期とする。文化史的には前期の弘仁・貞観文化では唐文化の影響が強く,漢詩文や天台・真言の密教美術が栄えた。遣唐使廃止(894)後の後期になると,和歌・日記・物語文学や寝殿造など国風文化が栄えた。経済史的には班田制は前期で崩壊して荘園が全国的に広がり,国衙領も変化して荘園・公領制の時代となり,荘園の中から勃興した武士階級により鎌倉時代へと移行した。
平曲
へいきょく @@@LINK=平曲 平曲

平曲
へいきょく

中世,『平家物語』を琵琶の伴奏による語り物としたときの名称
『徒然草』によると,鎌倉初期,生仏 (しようぶつ) に始まり,南北朝時代,覚一によって中興された。階級を超え,広い地域に流行し,15世紀中ごろ,京都に琵琶法師が500〜600人いたという。
平家納経
へいけのうきょう @@@LINK=平家納経 平家納経

平家納経
へいけのうきょう

厳島 (いつくしま) 神社に奉納された,平家一門の手による写経
別名『厳島納経』。『法華経』など32巻と清盛の願文1巻。1164年,清盛が一門の現当2世(現在と未来)にわたる繁栄を祈って発願。経巻は荘厳・善美を尽くしたもので装飾経中の逸品である。
平家没官領
へいけもっかんりょう @@@LINK=平家没官領 平家没官領

平家没官領
へいけもっかんりょう

平家滅亡の際,朝廷に没収された平家一門の所領500余の荘園をいう
その大部分が平家追討の勲功の賞として,源頼朝に与えられた。鎌倉幕府の経済的基礎である関東御領の大部分がこの没官領であり,その内容は荘園の本家職・領家職であった。
平家物語
へいけものがたり @@@LINK=平家物語 平家物語

平家物語
へいけものがたり

鎌倉前期の軍記物語
成立年代未詳。流布本は12巻。作者は信濃前司行長 (しなののぜんじゆきなが) 説が有力。古代貴族社会から武家社会へと移行する変革期のありさまを,平家の盛衰興亡を軸とし,多くのエピソードを混じえながら描く。物語には仏教的無常観に基づく感傷性が濃くにじみでているが,また新興武士階級の生活倫理が生き生きとした人間像を通して語られている。軍記物語の代表作。後世へ大きな影響を与えた。
平氏
へいし @@@LINK=平氏 平氏

平氏
へいし

平安前期の賜姓貴族の一つ
桓武・仁明 (にんみよう) ・文徳・光孝の諸平氏がある。なかでも桓武天皇の皇子葛原 (かづらはら) 親王の系統の桓武平氏が最も有力で,源氏と並び武士の棟梁となった。親王の孫高望 (たかもち) に始まり,子孫は多く東国に土着したが,貞盛の子孫が伊勢を本拠とし(伊勢平氏),院政武力として活躍。清盛の時に平氏政権を樹立したが,その死後源氏に滅ぼされた。支流に北条・千葉・畠山・三浦・和田などの諸氏がある。
平氏政権
へいしせいけん @@@LINK=平氏政権 平氏政権

平氏政権
へいしせいけん

平安末期の平治の乱(1159)後に平清盛が樹立した政権
藤原氏の摂関政治を踏襲して貴族化し,清盛は娘徳子を入内させて天皇の外戚となった。多くの知行国や荘園を所有し,日宋貿易を開拓して政治的・経済的基盤を強化した。しかし後白河院・貴族・寺院勢力の反感を招き,一般武士からも遊離して,清盛の死後,1183年に源義仲に都を追われて没落し,'85年壇の浦の戦いで源氏の軍勢に敗れて滅んだ。
平治の乱
へいじのらん @@@LINK=平治の乱 平治の乱

平治の乱
へいじのらん

平安末期,平氏の全盛期を迎える契機となった内乱
保元 (ほうげん) の乱(1156)後,平清盛は後白河上皇の近臣藤原通憲 (みちのり) (信西)と結んで権勢を張った。これに不満な源義朝は'59(平治元)年,藤原信頼と結んで,清盛の熊野参詣中に兵。上皇を幽閉し,通憲を殺したが,急いで帰京した清盛に敗れ,信頼は斬罪,義朝も東国へのがれる途中尾張で家来に殺された。
平治物語
へいじものがたり @@@LINK=平治物語 平治物語

平治物語
へいじものがたり

鎌倉初期の軍記物語。平治の乱(1159年)を動的に描く
作者不詳。源義朝の嫡男悪源太義平が生き生きと描かれる。構想和漢混交文の文体において説話集的な性格がみられ,『今昔物語集』と『平家物語』とをつなぐ位置にある。
平治物語絵巻
へいじものがたりえまき @@@LINK=平治物語絵巻 平治物語絵巻

平治物語絵巻
へいじものがたりえまき

平治の乱に取材した鎌倉中期の絵巻物
住吉慶恩の作といわれ,「三条殿焼討の巻」「信西獄門の巻」「六波羅行幸の巻」の3巻が現存。細かくゆきとどいた描写,洗練された大和絵技法は絵巻物中でも圧巻で,鎌倉絵巻の最高峰の一つといわれる。
兵士役
へいしやく @@@LINK=兵士役 兵士役

兵士役
へいしやく

律令制下の兵役
中世荘園において,荘園領主名主 (みようしゆ) を中心とする武士団に,年貢輸送の警備,本家・領家の警衛宿直などにあたらせた警固役
諸国の正丁 (せいてい) の3分の1を徴集して軍団を編成。その中から選ばれた衛士 (えじ) は1年間都で,また防人 (さきもり) は3年間北九州で警固のにあたった。兵役中は調雑徭 (ぞうよう) を免除されたが,装備と食料の一部は兵士を出した戸の負担とされた。公民にはかなりきびしい負担だったため律令制の推移とともに解体し,健児 (こんでい) の制へと引き継がれた。
兵士役で貴族に武器をもって供侍する者を「侍 (さむらい) 」と呼んだ。
平城京
へいじょうきょう @@@LINK=平城京 平城京

平城京
へいじょうきょう

710年から784年までの都城。現在の奈良市街西方にあたる
「へいぜいきょう」とも読む。元明天皇の710年,藤原京から遷都。唐の長安の都城制を模倣し,東西南北に走る大路・小路によって整然と区画され,東西約4.3km,南北約4.8kmの長方形で,東に外京,右京に北辺があった。大内裏から南に走る朱雀大路 (すざくおおじ) の幅は約83m。市 (いち) は左・右京に東西2市を置き交易の中心とした。盛時の推定人口は約20万人。784年長岡京遷都後急速に荒廃した。
平城天皇
へいぜいてんのう @@@LINK=平城天皇 平城天皇

平城天皇
へいぜいてんのう

774〜824
平安初期の天皇(在位806〜809)
桓武天皇の皇子。809年,病気のため弟の嵯峨天皇に譲位。810年薬子 (くすこ) の変によって出家し,以後死ぬまで平城旧宮に住んだ。「奈良の帝」ともいう。在位は短かったが,参議廃止,観察使設置などを行った。

平地住居
へいちじゅうきょ @@@LINK=平地住居 平地住居

平地住居
へいちじゅうきょ

地表床面とする住居
竪穴住居高床建築に対する概念などでつくった場合は別として,発見が困難である。
兵農分離
へいのうぶんり @@@LINK=兵農分離 兵農分離

兵農分離
へいのうぶんり

中世末期〜近世初期にかけて,武士と農民の身分的・階級的分離がはっきりしたことをさす
中世まで,武士は有力名主 (みようしゆ) として平素は農業経営の主体となり,また室町時代以来土一揆が頻発して農民は武器をおびて行動するなど,武士と農民の区別がしにくかった。しかし農業生産力の向上という背景の中で,武士はしだいに支配者たる地位を強化し,特に戦国の群雄割拠の中で,武士の城下町居住の傾向が生じた。豊臣秀吉は全国統一と土地・人民の掌握のため検地・刀狩を行い,武士と農民の身分を明瞭に区別し規定した。かくて農民は土地にしばりつけられ,支配階級に対し年貢を納めることを任務とするようになり,武士は大名の家臣として行政・軍事上の任務を負うことになり,江戸時代の四民(士農工商)の区分の基礎を形成した。
兵範記
へいはんき @@@LINK=兵範記 兵範記
ひょうはんき @@@LINK=兵範記 兵範記

兵範記
へいはんき

平安末期,兵部卿平信範 (のぶのり) の日記
「ひょうはんき」とも読み,『人車記』ともいう。1132〜71年の記事があり,保元の乱・高倉天皇即位など,当時の政治・社会情勢を知るうえで重要な史料。

兵範記
ひょうはんき

へいはんき
平民
へいみん @@@LINK=平民 平民

平民
へいみん

明治初年,江戸時代の農・工・商身分の者に与えられた身分呼称
1869年版籍奉還の際,封建的身分制度を廃止し,華族・士族の下位に設定。翌年苗字使用を許可し,さらに '71年穢多 (えた) ・非人の称を廃し平民に編入したが,差別は依然としてなくならなかった。
平民宰相
へいみんさいしょう @@@LINK=平民宰相 平民宰相

平民宰相
へいみんさいしょう

原敬 (はらたかし)
平民社
へいみんしゃ @@@LINK=平民社 平民社

平民社
へいみんしゃ

明治後期の社会主義の結社
日露戦争直前の1903年,非戦論を唱えて,幸徳秋水・堺利彦らが結成。平民主義・社会主義・平和主義を掲げ,機関紙『平民新聞』発行のほか社会主義関係図書の出版,演説会などを行い,社会主義活動の中心となったが,政府の弾圧により'05年解散。'07年再興したが,同年解散。
平民主義
へいみんしゅぎ @@@LINK=平民主義 平民主義

平民主義
へいみんしゅぎ

明治中期,徳富蘇主張した思想
蘇峰は人民味方をみずからもって任じ,1887年創設した出版社を民友社と名づけた。またその機関誌『国民之友』で政府の推進する貴族的欧化主義を批判し,平民(地方実業家「田舎紳士」)による下からの近代化を唱えた。
平民新聞
へいみんしんぶん @@@LINK=平民新聞 平民新聞

平民新聞
へいみんしんぶん

明治後期の社会主義新聞
①週刊『平民新聞』。1903年,幸徳秋水・堺利彦らが平民社から発行。平民主義・社会主義・平和主義を掲げ,日露戦争に対して非戦論を高唱し,しばしば発禁処分をうけ,'05年,第64号で廃刊となった。
②日刊『平民新聞』。再興平民社および日本社会党機関紙。'07年1月,西川光二郎・幸徳・堺らが,前年再興された平民社より発行。日本社会党の禁止に伴い,4月,第75号で廃刊となった。
平和五原則
へいわごげんそく @@@LINK=平和五原則 平和五原則

平和五原則
へいわごげんそく

1954年6月,インドのネルー首相と中国の周恩来首相とが共同声明した,領土・主権の相互尊重,相互不可侵,相互内政不干渉,平等互恵,平和共存の五原則
ジュネーヴ会議の休会中,米・ソ二つの世界の対立の中で非同盟のアジア・アフリカ民族の立場から掲げた平和の原則。
平和十原則
へいわじゅうげんそく @@@LINK=平和十原則 平和十原則

平和十原則
へいわじゅうげんそく

1955年のアジア‐アフリカ会議で確認された平和の原則
インドネシアのバンドンに集まった非同盟の立場をとる中立主義の29カ国の代表の間で,反帝国主義・反植民地主義と平和共存旗印にした「バンドン十原則」が採択された。
碧蹄館の戦い
へきていかんのたたかい @@@LINK=碧蹄館の戦い 碧蹄館の戦い

碧蹄館の戦い
へきていかんのたたかい

1593年,文禄の役中の合戦
漢城(現ソウル)北方20kmの地の碧蹄館で,明の援軍李如松 (りじよしよう) の南下攻撃を小早川隆景・宇喜多秀家らの日本軍が鉄砲隊で迎撃して勝ち,これにより竜山で停戦協定の機会をつくった。
北京議定書
ペキンぎていしょ @@@LINK=北京議定書 北京議定書

北京議定書
ペキンぎていしょ

1901年,義和団事件(北清事変)鎮圧後,列国と清国との間で結ばれた最終議定書
ドイツ・オーストリアベルギー・スペイン・アメリカ・フランス・イタリア・日本・オランダ・ロシア・イギリスの11カ国代表と清国との間で調印。これにより列国は多額の賠償金と軍隊の北京常駐を認めさせた。
北京原人
ペキンげんじん @@@LINK=北京原人 北京原人

北京原人
ペキンげんじん

中国,北京の南西,周口店の石灰岩洞窟より発見された旧石器時代人
1927年出土した大臼歯を人と類人猿の中間型とし,カナダの学者ブラックが「シナントロプス‐ペキネンシス」と命名。打製石器・骨角器を用い,火を使用した。更新世中期に定され,その後も多くの人骨が出土した。
平群氏
へぐりうじ @@@LINK=平群氏 平群氏

平群氏
へぐりうじ

古代,中央の有力豪族
武内宿禰 (たけしうちのすくね) を祖とし,大和国平群(現奈良県生駒郡平群町)の地を本拠とした。姓 (かばね) は臣 (おみ) 。5世紀後半,真鳥 (まとり) のとき大臣 (おおおみ) となり雄略天皇を補佐勢力を誇ったが,大伴金村に敗退し,以後不振となった。
別木庄左衛門
べつきしょうざえもん @@@LINK=別木庄左衛門 別木庄左衛門

別木庄左衛門
べつきしょうざえもん

?〜1652
江戸前期の牢人蜂起の指導者
戸次庄左衛門」とも書く。牢人軍学者で,慶安事件の翌1652年,牢人林戸左衛門らと反乱挙兵を計画。仲間の密告で発覚し,未然に捕らえられ処刑された(承応事件)。

別子銅山
べっしどうざん @@@LINK=別子銅山 別子銅山

別子銅山
べっしどうざん

愛媛県北東部,新居浜市にあった鉱山。江戸時代以来栄えた
1687年に発見,'91年開坑。大坂の泉屋(住友)が経営して,江戸時代最高の産銅額を示した。明治維新後も西洋技術が導入され産銅が多く,住友財閥を形成するもととなった。1973年閉山。1907・'25年に大規模な争議があった。
別当
べっとう @@@LINK=別当 別当

別当
べっとう

本官のある者が別に職を担当する意であるが,のちには専任の長官をもさした
蔵人所 (くろうどどころ) ・検非違使 (けびいし) などの令外官 (りようげのかん) や,院庁の長官,鎌倉幕府の侍所 (さむらいどころ) ・政所 (まんどころ) の長官がその例。
紅花
べにばな @@@LINK=紅花 紅花

紅花
べにばな

紅色染料の原料
双子葉類・キク科。古代に中国から輸入され,以来各地で栽培された。江戸時代商品作物として四木三草の一つにあげられ,出羽最上・陸奥仙台が特産地として有名。衣料染料や口紅の原料となった。
部民
べのたみ @@@LINK=部民 部民
ぶみん @@@LINK=部民 部民
べみん @@@LINK=部民 部民

部民
べのたみ

大和政権における大王家や豪族の私有民
所有する豪族・職業名・地名にちなんで「何々」と呼んだ。大部分農民で,一部に特殊技術を有する者もあった。豪族に貢物労役を出したが,奴婢 (ぬひ) と異なり家族生活を営んだ。大王家の部民は品部 (ともべ) ・名代 (なしろ) ・子代 (こしろ) の民といい,伴造 (とものみやつこ) に統率された。豪族に属するものが部曲 (かきべ) 。大化の改新公民となったが,天智天皇が復活,のち天武天皇が再廃止した。品部の一部は未解放のまま律令の品部 (しなべ) ・雑戸 (ざつこ) となった。

部民
ぶみん

べのたみ

部民
べみん

べのたみ
ヘボン
James Curtis Hepburn @@@LINK=ヘボン ヘボン

ヘボン
James Curtis Hepburn

1815〜1911
アメリカの宣教師・語学者・医学者
1859年来日。横浜で伝道と医療活動に従事し,ローマ字による日本語の表記法(ヘボン式)を工夫。'67年日本最初の和英辞典『和英語林集成』を完成。また私塾英和学院(現明治学院大学)を開いた。'92年帰国。

部民
べのたみ @@@LINK=部民 部民
ぶみん @@@LINK=部民 部民
べみん @@@LINK=部民 部民

部民
べのたみ

大和政権における大王家や豪族の私有民
所有する豪族・職業名・地名にちなんで「何々」と呼んだ。大部分農民で,一部に特殊技術を有する者もあった。豪族に貢物労役を出したが,奴婢 (ぬひ) と異なり家族生活を営んだ。大王家の部民は品部 (ともべ) ・名代 (なしろ) ・子代 (こしろ) の民といい,伴造 (とものみやつこ) に統率された。豪族に属するものが部曲 (かきべ) 。大化の改新公民となったが,天智天皇が復活,のち天武天皇が再廃止した。品部の一部は未解放のまま律令の品部 (しなべ) ・雑戸 (ざつこ) となった。

部民
ぶみん

べのたみ

部民
べみん

べのたみ
ペリー
Matthew Calbraith Perry @@@LINK=ペリー ペリー

ペリー
Matthew Calbraith Perry

1794〜1858
アメリカの海軍軍人
東インド艦隊司令官として,1853(嘉永6)年4隻の軍艦を率いて浦賀に入港し,幕府に大統領フィルモアからの国書を提出して開国を要求。翌'54年,7隻で再度来日し,武力背景に日米和親条約を締結。日本の開国を実現させた。

ベルツ
Erwin von Bälz @@@LINK=ベルツ ベルツ

ベルツ
Erwin von Bälz

1849〜1913
ドイツの医学者
ライプチヒ大学卒。1876年来日。東大教授・宮内省御用掛(侍医)をつとめ,ドイツ医学を紹介。ツツガムシ病・脚気の研究などで医学界に貢献した。『ベルツの日記』(息子トク=ベルツ編)がある。

弁円
べんえん @@@LINK=弁円 弁円

弁円
べんえん

円爾 (えんに)
弁官
べんかん @@@LINK=弁官 弁官

弁官
べんかん

律令制における太政官の要職
太政官と諸官司・諸国との連絡は弁官を経由して行われた。左弁官と右弁官に分かれ,大・中・少弁各1名とその下に大・小の史が置かれた。左弁官は中務 (なかつかさ) ・式部・治部・民部を,右弁官は兵部 (びようぶ) ・刑部 (ぎようぶ) ・大蔵・宮内各省を管轄した。
弁韓
べんかん @@@LINK=弁韓 弁韓

弁韓
べんかん

2〜3世紀ころ,朝鮮半島東南部にいた部族集団
弁辰ともいう。馬韓・辰韓とともに三韓の一つ。4〜6世紀になっても小国の分立状態が続き,加羅(伽耶 (かや) )として大和政権とも密接な関係をもった。
弁慶
べんけい @@@LINK=弁慶 弁慶

弁慶
べんけい

?〜1189
鎌倉初期の僧兵
源義経の従臣で,武蔵坊と号す。『吾妻鏡』にその名がみえるほか,『平家物語』『源平盛衰記』に活動の一部を記すだけで事績は明らかでない。むしろ室町時代の『義経記』『弁慶物語』などによって国民的英雄・豪傑に創作され知られるようになった。

遍昭
へんじょう @@@LINK=遍昭 遍昭

遍昭
へんじょう

816〜890
平安前期の歌人。六歌仙の一人
俗名良岑宗貞 (よしみねのむねさだ) 。安世(『経国集』の編者)の子。仁明 (にんみよう) 天皇に寵愛され蔵人頭 (くろうどのとう) にのぼったが,天皇の死後出家。円仁の門に入り僧正となった。歌風は軽妙流麗で,機智にあふれた秀歌が多い。家集に『遍昭集』。

変動為替相場制
へんどうかわせそうばせい @@@LINK=変動為替相場制 変動為替相場制

変動為替相場制
へんどうかわせそうばせい

外国為替相場を市場における需要・供給の状態に任せて変動させる制度
第二次世界大戦後は,IMF体制の下で固定相場制がとられてきたが,1971年のドル‐ショック契機に動揺し,'73年に日本を含む先進主要国は変動為替相場制へ移行した。
編年体
へんねんたい @@@LINK=編年体 編年体

編年体
へんねんたい

歴史上の事件を,すべて年月にかけて記していく歴史叙述の方法
紀伝体に比べて,総体的な流れはわかりやすいが,個々の事象について関連してとらえにくい。六国史後半が,年表日誌のようになっているのは,編年体の悪い例。

ほ @@@LINK=保 保



②平安京における条坊の単位
①律令制の末端行政組織。五保ともいう。
1坊は16町に分かれ,その4町(128戸)ごとを1保として保刀禰 (ほとね) (保長)を置いた。
③平安末期から中世にかけての国衙 (こくが) 領内の行政単位。


帆足万里
ほあしばんり @@@LINK=帆足万里 帆足万里

帆足万里
ほあしばんり

1778〜1852
江戸後・末期の儒者・蘭学者
豊後(大分県)日出 (ひじ) 藩の家老の子で,藩校の教授となり,のち家老として藩政改革を担当。辞任後オランダ語を独習して西洋の自然科学を学び,『窮理通』8巻を著した。ほかに『入学新論』『東潜夫論』など。

ボアソナード
Gustave Emile Boissonade @@@LINK=ボアソナード ボアソナード

ボアソナード
Gustave Emile Boissonade

1825〜1910
フランスの法学者。御雇外国人の一人
パリ大学助教授。1873〜95年の間滞日し,司法省法学校で法学教育に従事し,フランス法に基づいて旧刑法・治罪法を編纂。しかし,ボアソナードの起草した民法草案には反論が出て,民法典論争に発展した。また'87年井上馨の条約改正案に対し反対の意見書を提出し,反対運動に影響を与えた。
保安条例
ほあんじょうれい @@@LINK=保安条例 保安条例

保安条例
ほあんじょうれい

1887(明治20)年公布された反政府運動弾圧法規
井上馨の条約改正案反対を契機として,自由民権運動家を中心に言論の自由・地租軽減・外交の挽回を要求する三大事件建白運動が激化した。政府は,内相山県有朋,警視総監三島通庸 (みちつね) らが中心となり,これに対抗するため保安条例を公布し,秘密の結社・集会の禁止,内乱の陰謀・治安妨害の恐れある者の皇居外3里の地への退去を命じ,尾崎行雄・片岡健吉・星亨 (とおる) ・中江兆民ら570名を追放した。
保安隊
ほあんたい @@@LINK=保安隊 保安隊

保安隊
ほあんたい

警察予備隊の後身
ポイント
point @@@LINK=ポイント ポイント

ポイント
point

槍先型の尖頭器
旧石器時代末期に細石器が使われる直前に主として使用された。
宝永銀
ほうえいぎん @@@LINK=宝永銀 宝永銀

宝永銀
ほうえいぎん

江戸中期,幕府が鋳造した銀貨
1706(宝永3)年から鋳造し,元禄以来の金銀貨の不足を補おうとしたが,品質が悪く経済界を混乱させたので,やがてその流通を停止した。宝字丁銀宝字豆板銀永字銀三宝銀四宝銀などがあった。
防衛庁
ぼうえいちょう @@@LINK=防衛庁 防衛庁

防衛庁
ぼうえいちょう

自衛隊を管理・運営する官庁
防衛庁設置法に基づき,1954年7月設置。長官は国務大臣で,陸・海・空の3自衛隊を統轄する。
宝永通宝
ほうえいつうほう @@@LINK=宝永通宝 宝永通宝

宝永通宝
ほうえいつうほう

江戸中期,幕府鋳造した銅銭
1708(宝永5)年勘定奉行荻原重秀の建策により鋳造した10文銭。鋳造高の5割を幕府に上納させ幕府の財源収入をはかったが,大銭のため持ち運びに不便で評判が悪く,翌年鋳造を中止した。
貿易・為替の自由化
ぼうえき・かわせのじゆうか @@@LINK=貿易・為替の自由化 貿易・為替の自由化

貿易・為替の自由化
ぼうえき・かわせのじゆうか

外国貿易や外国為替の取引に対する統制を排除して自由にすること
戦後は,「外国為替及び外国貿易管理法」(1949)によって,外貨予算制度のもとで輸入を制限してきた。しかし,貿易・為替の自由化の気運が高まり,1960年に「貿易・為替自由化計画大綱」が発表されて,自由化が大きく進展した。貿易自由化率は'60年には40%であったが,'62年には80%台,'63年には90%台へと上昇し,また貿易以外の為替取引の面でも,海外渡航の規制緩和などが実施されるなど自由化が進展した。そして'64年,わが国のIMF8条国への移行に伴って,外貨予算制度は廃止され,'80年には為替取引が原則自由となった。アメリカによる農産物の輸入自由化要求があり,'88年には牛肉オレンジの輸入自由化を決定し,'93年には米市場の部分開放を決定した。
貿易摩擦
ぼうえきまさつ @@@LINK=貿易摩擦 貿易摩擦

貿易摩擦
ぼうえきまさつ

日米間の貿易収支の不均衡による経済的紛争のこと
当初繊維,鉄鋼などにすぎなかった対米輸出の品目は,高度経済成長に伴い,自動車・カラーテレビ・VTR・半導体など広範囲に広がり,1960年代以降の恒常的な貿易不均衡となってアメリカの膨大な貿易赤字の原因ともなった。アメリカはこの貿易不均衡を是正するため,日本の市場開放を求め,'89年から日米構造協議が開催された。ここでは日米貿易不均衡の原因が両国の経済構造にあるとして,アメリカは構造的な障壁を解明し,日本市場の透明性と開放を求めた。
法皇
ほうおう @@@LINK=法皇 法皇

法皇
ほうおう

出家した上皇の呼び名
「太上法皇」の略。平安中期,宇多上皇に始まり,江戸時代の霊元法皇にまで至る。特に白河・鳥羽・後白河の3法皇は院政の中心人物として有名。
法王帝説
ほうおうていせつ @@@LINK=法王帝説 法王帝説

法王帝説
ほうおうていせつ

上宮 (じようぐう) 聖徳法王帝説
報恩講
ほうおんこう @@@LINK=報恩講 報恩講

報恩講
ほうおんこう

仏教各宗で祖師の忌日に報恩のために行う仏事
平安末期からみられるが,新義真言宗および浄土真宗のものがよく知られている。
法界寺
ほうかいじ @@@LINK=法界寺 法界寺

法界寺
ほうかいじ

京都市伏見区日野西大道町にある真言宗の寺
「ほっかいじ」とも読む。日野薬師ともいう。1051年に日野資業 (すけなり) が別荘の中に創建。当時の伽藍 (がらん) はほとんど焼失してしまったが,残る阿弥陀堂と壁画,『阿弥陀如来像』は平安時代の浄土教芸術の代表作として著名である。
法界寺阿弥陀堂
ほうかいじあみだどう @@@LINK=法界寺阿弥陀堂 法界寺阿弥陀堂

法界寺阿弥陀堂
ほうかいじあみだどう

京都市伏見区にある法界寺の阿弥陀堂
平安中期の浄土教芸術の代表的建築で,この壁画と『阿弥陀如来像』はともに創立以来といわれる。平等・大原三千院のものとともに今日に残る阿弥陀堂建築の傑作の一つ。
法起寺
ほっきじ @@@LINK=法起寺 法起寺
ほうきじ @@@LINK=法起寺 法起寺

法起寺
ほっきじ

奈良県生駒郡斑鳩 (いかるが) 町,法隆寺の東北方にある古寺
「ほうきじ」とも読み,岡本寺ともいう。聖徳太子の岡本宮を白鳳時代ころに寺に改めたものといわれる。この寺の三重塔はわが国最大のもの。本尊は『十一面観音』。伽藍 (がらん) 配置は法隆寺式であるが,塔・金堂の配置が法隆寺と反対で塔が東にある。

法起寺
ほうきじ

ほっきじ
宝篋印塔
ほうきょういんとう @@@LINK=宝篋印塔 宝篋印塔

宝篋印塔
ほうきょういんとう

供養塔の一種
中に『宝篋印荼羅尼経』を納めたのでこの名がある。蓋の四隅に馬耳状の飾りがあるのが特色で,それが垂直に近く立っているのは中世のもので,外側にはり出しているのは近世のものである。
防共協定
ぼうきょうきょうてい @@@LINK=防共協定 防共協定

防共協定
ぼうきょうきょうてい

日独防共協定
方形造
ほうぎょうづくり @@@LINK=方形造 方形造

方形造
ほうぎょうづくり

屋根の一形式
「宝形造」とも書く。平面は方形で,四方から一点に集まる四角すい状の屋根の形。阿弥陀堂建築に多い。
法均尼
ほうきんに @@@LINK=法均尼 法均尼

法均尼
ほうきんに

和気広虫 (わけのひろむし)
方形周溝墓
ほうけいしゅうこうぼ @@@LINK=方形周溝墓 方形周溝墓

方形周溝墓
ほうけいしゅうこうぼ

弥生時代後期〜古墳時代前期につくられた墓制の一種
溝を方形にめぐらし,中央部に土壙を掘って遺体を埋葬した。鏡・太刀・玉などの副葬品を伴うもの,遺体も数体あったり,壺棺にいれたものもある。1964年東京都八王子市の宇津木遺跡で最初に確認されて以来,各地で発見された。一般の共同体成員の墓とは区別され,古墳に一歩近づいた墓制で,古墳との関係が問題にされている。
封建遺制
ほうけんいせい @@@LINK=封建遺制 封建遺制

封建遺制
ほうけんいせい

資本主義社会の中に残存する封建社会の制度的特質
市民革命の不徹底な国では,地主農民の間に身分的な隷属関係が残る。明治時代以後の日本を近代国家だとする立場労農派)からは,寄生地主制は封建遺制とみられる。日本では特に家族主義的な身分秩序が,明治民法の家族制度に規定され,また各種の支配関係の中に,擬制として利用された。
封建社会
ほうけんしゃかい @@@LINK=封建社会 封建社会

封建社会
ほうけんしゃかい

古代社会に続き,近代社会に先行する社会で,封建制度を中軸とする社会
日本では,封建制度の始期について諸説があるが,太閤検地成立説を除いて,始期をいずれに求めるかによって,室町・江戸時代の評価が違ってくる。(1)鎌倉時代に成立した封建制度が,その後しだいに純化・発展して江戸時代に完成したとする純粋封建制説。(2)いったん成立した封建制度は15〜16世紀に解体し,それを江戸幕府が再編成したとする再編成説などがあるが,一般的には,(3)鎌倉・室町時代を前期封建社会,江戸時代を後期封建社会と区分して考えている。後期封建社会は世界史的にも特徴的な「完全な封建制」といわれる幕藩体制をさす。前期封建社会にあっては,兵農は未分離で,荘園制を基盤とする封建社会であるが,後期は,兵農が分離し,郷村制の上の封建社会である。封建的身分関係も前期はさほどではなく,後期で確立され強固なものとなった。また前期は朝廷・公家の権力も残存し,封建権力も分権的であったが,後期は武家の単独政権であり,幕府による中央集権の権力は強大であった。水田も前期は山際やわき水のあるところにつくられたが,後期は大河川の平野部が開田された。そして城下町が形成され,武士は城下町に集住し,そこでは商品貨幣経済が行われた。このように前期と後期では,顕著な相違がある。
封建制度
ほうけんせいど @@@LINK=封建制度 封建制度

封建制度
ほうけんせいど

土地を媒介として成立する政治的あるいは社会的な制度
わが国における封建制度の概念規定については,以下のような諸説がある。(1)中国周代に天子天下諸国に分け,国ごとに諸侯をおき,分権的に統治させた行政支配の形態で,つぎの秦代の郡県制度と対立する概念。江戸時代の儒学者が日本の近世社会を封建制度と理解した。(2)ヨーロッパの7〜8世紀のフランク王国などに発達したフューダリズム(feudalism)の概念で,土地の恩給制度と主従制度が結合したところに生まれる政治社会。明治時代以降,日本に西洋史学が導入されると,主君を頂点としてピラミッド的に身分秩序が構成される点が(1)に相似しているので,フューダリズムを封建制度と訳し,以後,封建制度を土地の恩給を媒介として成立する主従制度とする法制史的な概念が成立し,一般にはこの意味で理解する場合が多い。
保建大記
ほうけんたいき @@@LINK=保建大記 保建大記

保建大記
ほうけんたいき

江戸前期に水戸藩の朱子学者栗山潜鋒 (せんぼう) が著した史書
1689年成立。2巻。1123(保安4)年から'92(建久3)年までの皇室の衰退武家興隆を叙述したもの。
保元の乱
ほうげんのらん @@@LINK=保元の乱 保元の乱

保元の乱
ほうげんのらん

平安末期の内乱
皇位継承問題をめぐり崇徳上皇と後白河天皇の対立が激化し,一方摂関家でも,藤原忠通・頼長兄弟が摂関の地位をめぐって対立していた。鳥羽法皇の死をきっかけとして1156(保元元)年,上皇方は頼長・源為義・源為朝・平忠正を,天皇方は忠通・源義朝・平清盛を用いて戦い,天皇方が勝った。上皇は讃岐に流され,頼長は戦死,為義・忠正は斬首された。この内乱で皇室・摂関家の内紛に武士が活躍し,武士の政界進出を促すことになった。
保元物語
ほうげんものがたり @@@LINK=保元物語 保元物語

保元物語
ほうげんものがたり

保元の乱(1156年)を主題とした鎌倉初期の軍記物語
3巻。著者・成立年ともに不詳。源為朝の活躍を中心に,保元の乱の様子を和漢混交文でリアルに描写している。勇壮な軍戦記物語の始祖として後世の文学に影響を与えた。
房戸
ぼうこ @@@LINK=房戸 房戸

房戸
ぼうこ

律令制下,地方行政の末端組織。➡ 郷戸・房戸
奉公
ほうこう @@@LINK=奉公 奉公

奉公
ほうこう

封建社会において,従者が主家に奉仕する義務。
方広寺
ほうこうじ @@@LINK=方広寺 方広寺

方広寺
ほうこうじ

京都市東山区にある天台宗の寺
豊臣秀吉が1589年に創建。大仏殿には6丈3尺(約19m)の木像大仏を安置したが,慶長の地震で破壊。徳川家康は豊臣秀頼に再建を命じ1612年完了。'14年の供養に際し,鐘銘の「国家安康」が大坂の役の原因となった。
法興寺
ほうこうじ @@@LINK=法興寺 法興寺

法興寺
ほうこうじ

飛鳥寺
豊国祭礼図屛風
ほうこくさいれいずびょうぶ @@@LINK=豊国祭礼図屛風 豊国祭礼図屛風

豊国祭礼図屛風
ほうこくさいれいずびょうぶ

京都の豊国神社所蔵の,近世初期の風俗
狩野内膳。豊国神社の祭礼が描かれ,当時の京都町衆を中心とする市井の風俗を知る貴重な資料。
豊国神社
ほうこくじんじゃ @@@LINK=豊国神社 豊国神社

豊国神社
ほうこくじんじゃ

京都市東山区にある豊臣秀吉を祭る神社
「とよくにじんじゃ」とも読む。秀吉の(1598)の翌年に方広寺の鎮守という名目で建てられ,完成後,豊国大明神の神号を贈られた。本殿拝殿とを石間 (いしのま) でつなぐ豪華で神式霊廟建築。極楽門は有名である。豊臣氏滅亡後,徳川氏によって破壊されたが,明治に入って再興
防穀令
ぼうこくれい @@@LINK=防穀令 防穀令

防穀令
ぼうこくれい

1889(明治22)年,朝鮮政府による大豆・米の輸出禁止令
凶作のためであるが,日本人商人は打撃をうけ,日本政府は朝鮮進出の口実とし賠償を要求した。翌1890年解除されたが,両国間の紛争甲午農民戦争へと続く。
放氏
ほうし @@@LINK=放氏 放氏

放氏
ほうし

古代,氏人を氏から追放すること
氏のため不都合な行為があったとき,氏上一族から除名し氏人としての特権を取り上げた。特に藤原氏の放氏は有名で,氏神春日神社,氏寺の興福寺に非礼を働いたと訴えられた氏人に適用された。
宝治合戦
ほうじかっせん @@@LINK=宝治合戦 宝治合戦

宝治合戦
ほうじかっせん

1247(宝治1)年,鎌倉で行われた北条時頼と三浦泰村との合戦
三浦氏の乱・宝治の乱ともいう。北条氏と三浦氏は協調的関係を続け幕政に重きをなしてきた。泰村も北条泰時の女婿として勢力をふるったが,執権時頼の外祖父安達景盛父子と対立し,北条氏とも疎遠になった。'47年時頼・景盛の陰謀により一族は反抗したが敗亡。これ以後,北条氏の独裁体制が確立した。
奉書
ほうしょ @@@LINK=奉書 奉書

奉書
ほうしょ

古文書の一形式で,上位の人の意をうけて,その命令を伝える文書
綸旨 (りんじ) ・院宣 (いんぜん) ・令旨 (りようじ) ・御教書 (みきようじよ) ・下知状 (げちじよう) など。鎌倉幕府以後には,政所 (まんどころ) ・侍所の頭人の出すものも奉書といい,江戸時代には将軍の内書を添えて出すものもいう。用紙としては越前産のきめの細かい紙が有名で,この紙自身も奉書(奉書紙ともいう)と呼ばれる。
北条顕時
ほうじょうあきとき @@@LINK=北条顕時 北条顕時

北条顕時
ほうじょうあきとき

1248〜1301
鎌倉後期の武将
実時 (さねとき) の子。金沢氏を称していたので金沢顕時ともいう。幕府の引付衆・評定衆を歴任。父実時のを継ぎ,好学で書籍書写につとめ金沢文庫の維持に尽力した。その蔵書は現在同文庫に収められている。
北条氏綱
ほうじょううじつな @@@LINK=北条氏綱 北条氏綱

北条氏綱
ほうじょううじつな

1486〜1541
戦国時代の武将
早雲の子。江戸城・河越城を攻略。鉄砲を用い,関東南部に勢威をはり後北条氏の基礎を固めた。小田原はその中心として繁栄。また元人の子孫で日本に帰化した陳外郎を招き,薬種をつくらせた。

北条氏政
ほうじょううじまさ @@@LINK=北条氏政 北条氏政

北条氏政
ほうじょううじまさ

1538〜90
安土桃山時代の戦国大名
氏康の嫡子。甲斐(山梨県)の武田信玄と交戦,常陸 (ひたち) (茨城県)の佐竹氏を制圧。'82年織田・徳川両氏とともに武田勝頼を滅ぼした。'90年全国征覇をめざす豊臣秀吉に包囲され,小田原城に籠城ののち降伏,自刃させられた。

北条氏康
ほうじょううじやす @@@LINK=北条氏康 北条氏康

北条氏康
ほうじょううじやす

1515〜71
戦国時代の武将
氏綱の子。1551年武蔵(埼玉県)河越で扇谷 (おうぎがやつ) ・山内両上杉氏・古河 (こが) 公方足利晴氏の大軍を撃破し(河越の戦い),武田信玄・今川義元らとしばしば交戦。のち武田・今川両氏と和を結び,関東南部を平定し,後北条氏最盛期を現出した。また和歌好み足利学校復興を援助した。

方丈記
ほうじょうき @@@LINK=方丈記 方丈記

方丈記
ほうじょうき

鎌倉前期,鴨長明の随筆文学
1212年成立。治承・寿永(1177〜85)の動乱や大火・辻風・地震などの天変地異を体験して世の無常を感じた長明が,京都日野山に方1丈の庵を結び,有為転変の世・閑居隠遁の心を綴ったもの。『枕草子』『徒然草』と並ぶ随筆文学の傑作
宝生座
ほうしょうざ @@@LINK=宝生座 宝生座

宝生座
ほうしょうざ

能楽の一流派
もと春日神社・興福寺に奉仕した外山 (とび) で,大和四座の一つ。足利氏に仕え,室町中期,蓮阿弥(世阿弥)により中興された。のち徳川家にも奉仕し,11代徳川家斉のころ将軍や三卿の後援で特に盛んとなった。加賀前田氏の庇護による加賀宝生もある。流儀は写実的で優雅。現在,宝生流という。
北条貞時
ほうじょうさだとき @@@LINK=北条貞時 北条貞時

北条貞時
ほうじょうさだとき

1271〜1311
鎌倉幕府の9代執権
1284年父時宗の死後,14歳で執権に就任したが,外祖父安達泰盛に頼った。'85年の霜月騒動後,内管領の平頼綱が幕府の実権を握ったが,'93年貞時は頼綱を倒して(平禅門の乱)実権を取り戻し,得宗専制体制を確立させた。'97年,御家人を救済するために永仁の徳政令を出した。

北条実時
ほうじょうさねとき @@@LINK=北条実時 北条実時

北条実時
ほうじょうさねとき

1224〜76
鎌倉中期の武将
金沢 (かねさわ) 実時ともいう。北条義時の孫。引付衆・評定衆を歴任して執権経時 (つねとき) ・時頼を補佐した。武蔵六浦庄金沢郷(現横浜市金沢区)に住み,学問を好み多くの書籍を収集し金沢文庫を設けた。
北条氏
ほうじょうし @@@LINK=北条氏 北条氏

北条氏
ほうじょうし

①鎌倉幕府の執権家
桓武平氏の一流で,平貞盛の子孫時家が伊豆国北条に住み北条氏を称した。時政は女婿源頼朝の幕府創設を助け,頼朝死後執権として幕政を握り,義時・泰時の代には有力な御家人を倒し,京都から藤原(摂家)将軍・皇族親王)将軍を迎え,執権政治を確立した。連署・六波羅探題などの要職,諸国守護を一族で多数占めたが,1333年幕府とともに滅亡した。
②相模の戦国大名。
法成寺
ほうじょうじ @@@LINK=法成寺 法成寺

法成寺
ほうじょうじ

京都市上京区鴨川の西岸にあった寺
通称京極御堂・御堂。藤原道長が病のため出家して,1020年造営。道長はここで没した。'58年に焼失し,再建ののちも再三の失火天災で廃滅した。
北条重時
ほうじょうしげとき @@@LINK=北条重時 北条重時

北条重時
ほうじょうしげとき

1198〜1261
鎌倉中期の武将
義時の3男。極楽寺を始めたので「極楽寺殿」ともいう。兄泰時を補佐して幕府の要職を歴任。1230年六波羅探題として上洛し,'47年宝治合戦ののち,執権時頼に招かれて鎌倉に帰り連署となる。その家訓『極楽寺殿御消息』は有名である。

北条早雲
ほうじょうそううん @@@LINK=北条早雲 北条早雲

北条早雲
ほうじょうそううん

1432〜1519
戦国時代の武将。小田原に拠って栄えた後北条氏の祖
伊勢新九郎長氏 (ながうじ) といい,出身は京都・伊勢(三重県)・備後(広島県)の諸説がある。今川氏を頼って駿府に下り,1491年堀越公方足利政知 (まさとも) の子茶々丸を殺して伊豆韮山 (にらやま) に移った。'95年小田原の大森藤頼を追って小田原城に入り,後北条氏発展の基礎を築いた。

北条高時
ほうじょうたかとき @@@LINK=北条高時 北条高時

北条高時
ほうじょうたかとき

1303〜33
鎌倉幕府第14代執権(在職1316〜26)
貞時の子。1316年幼くして執権となったが,実権は妻の父秋田時顕や内管領長崎高資 (たかすけ) らに握られて政治は乱れた。この政治的混乱と元寇後の社会的動揺の中で正中・元弘の変がおこり,高時は後醍醐 (ごだいご) 天皇を隠岐に流し光厳天皇を擁立した。しかし,'33年新田義貞に鎌倉を攻められて一族とともに自殺した。

北条時房
ほうじょうときふさ @@@LINK=北条時房 北条時房

北条時房
ほうじょうときふさ

1175〜1240
鎌倉前期の武将
時政の子。義時の弟。泰時の叔父。奥州征討,畠山重忠討滅和田義盛の乱鎮定などに従い,1221年承久の乱には泰時とともに幕府軍を率いて入京。乱後,六波羅探題となる。'24年泰時のもとで初めて連署となり幕政を補佐した。
北条時政
ほうじょうときまさ @@@LINK=北条時政 北条時政

北条時政
ほうじょうときまさ

1138〜1215
鎌倉幕府創業の功臣で,初代執権(在職1203〜05)
時方の子。伊豆の住人。流人であった源頼朝を助けて幕府創立に尽くす。娘政子を頼朝に配し外戚として勢威をふるった。頼朝の死後,2代将軍頼家を謀殺し実朝を擁立。政治的実権を握り執権と称す。1205年後妻牧ノ方の陰謀事件(実朝を廃して,時政の女婿平賀朝雅 (ともまさ) を将軍に立てようとしたもの)に関係して隠退し出家した。

北条時宗
ほうじょうときむね @@@LINK=北条時宗 北条時宗

北条時宗
ほうじょうときむね

1251〜84
鎌倉幕府第8代執権(在職1268〜84)
時頼の長子。相模太郎と称す。1264年連署,翌年相模守に任ぜられ,'68年18歳で執権となる。元寇に際し,元使を斬り西国の防備を固め積極的に対外強硬策をとり,元軍来襲に際しては在九州の非御家人をも動員し国難に対処した。国内政治においては武家社会の動揺の中で得宗専制への動きをみせた。また禅宗を信じ,無学祖元を宋より招き円覚寺を建立した。

北条時行
ほうじょうときゆき @@@LINK=北条時行 北条時行

北条時行
ほうじょうときゆき

?〜1353
鎌倉末期〜南北朝初期の武将
高時の子。鎌倉幕府滅亡のとき信濃国(長野県)にのがれていたが,1335年京都の西園寺公宗 (きんむね) と通謀して中先代の乱をおこす。足利直義 (ただよし) の軍を破って鎌倉を占領したが,足利尊氏に敗れた。のち南朝の新田義興に従ったが,捕らえられて斬られた。

北条時頼
ほうじょうときより @@@LINK=北条時頼 北条時頼

北条時頼
ほうじょうときより

1227〜63
鎌倉幕府第5代執権(在職1246〜56)
父は時氏。泰時の孫。母は安達景盛の娘(松下禅尼)。1246年執権,'49年相模守となる。前将軍九条頼経と名越 (なごえ) 光時の陰謀を防ぎ,'47年宝治合戦では三浦氏を滅ぼすなど北条得宗家の力を強化した。さらに引付を設置し,また宗尊 (むねたか) 親王を将軍に迎えて北条氏の権力確保につとめた。出家して最明寺殿といわれたのちも幕政に参与。また禅宗を信仰し,蘭渓道隆に帰依し,建長寺を創建した。

北条政子
ほうじょうまさこ @@@LINK=北条政子 北条政子

北条政子
ほうじょうまさこ

1157〜1225
鎌倉初期,源頼朝の妻。北条時政の娘
伊豆配流中の頼朝と結婚し,頼家・実朝を生む。頼朝の死後,父時政・弟義時とともに幕府政治を掌握。牧氏の陰謀(実朝を廃して,時政の女婿平賀朝雅 (ともまさ) を将軍に立てようとしたもの)を察知して時政を隠退させ,実朝死後は4代将軍として京都から九条頼経を迎え,みずから後見人となる。「尼将軍」といわれ,承久の乱(1221)に際しては御家人の動揺を抑えて幕府の危機を救う役目を果たした。

北条政村
ほうじょうまさむら @@@LINK=北条政村 北条政村

北条政村
ほうじょうまさむら

1205〜73
鎌倉幕府第7代執権(在職1264〜68)
義時の子。泰時の異母弟。母伊賀氏と陰謀を企て,藤原実雅の将軍擁立により,実権掌握をはかったが失敗。泰時の助けで事なきを得て,のち評定衆・引付衆・連署を歴任し,1264年執権となる。'68年時宗が執権になるにおよび再び連署となった。和歌にすぐれ,『新勅撰和歌集』『続千載和歌集』などに収められている。
北条光時
ほうじょうみつとき @@@LINK=北条光時 北条光時

北条光時
ほうじょうみつとき

名越 (なごえ) 光時
北条泰時
ほうじょうやすとき @@@LINK=北条泰時 北条泰時

北条泰時
ほうじょうやすとき

1183〜1242
鎌倉幕府第3代執権(在職1224〜42)
義時の長子。法名観阿。1211年修理亮,ついで駿河守・武蔵守に任官。晩年左京権大夫を兼任する。'21年承久の乱に幕府軍の大将として上洛し,叔父時房とともに初代六波羅探題となる。'24年義時死後執権を継ぎ,翌'25年評定衆を設置して合議体制を展開。'32年御成敗式目を制定するなど,武家政権確立につとめた。

北条義時
ほうじょうよしとき @@@LINK=北条義時 北条義時

北条義時
ほうじょうよしとき

1163〜1224
鎌倉幕府第2代執権(在職1205〜24)
時政の嫡子。江馬小四郎と称し,徳宗と号した。源頼朝の挙兵に父とともに従う。1204年相模守,翌'05年時政の後妻牧ノ方の陰謀事件(実朝を廃して,時政の女婿平賀朝雅 (ともまさ) を将軍に立てようとしたもの)で父を隠退させ執権となる。さらに '13年和田義盛を倒して侍所別当も兼ね,'19年将軍源実朝暗殺ののちは,姉政子とはかって藤原(摂家)将軍を迎え,政治的実権を握った。'21年の承久の乱には軍勢を上洛させて大勝し,後鳥羽上皇以下3上皇の配流を強行した。

奉書船
ほうしょせん @@@LINK=奉書船 奉書船

奉書船
ほうしょせん

江戸初期,幕府の老中奉書により海外渡航を許された船
幕府は1631年に海外渡航には,従来の朱印状のほかに老中奉書を必要とすることとして制限をきびしくした。'33年には,奉書船以外の海外渡航を禁止した。
坊主
ぼうず @@@LINK=坊主 坊主

坊主
ぼうず

僧房(僧侶の住居)の主をいう
真宗で一坊の主僧・住持を坊主といったが,室町時代以後僧侶一般の呼称となる。
紡錘車
ぼうすいしゃ @@@LINK=紡錘車 紡錘車

紡錘車
ぼうすいしゃ

糸をつむぐとき,糸によりをかけるための道具
円板形の石製か土製の器具。中央の穴に糸巻棒をさして回転させる。弥生時代に始まり,古墳時代には碧玉製・滑石製のものが用いられた。
放賤従良
ほうせんじゅうりょう @@@LINK=放賤従良 放賤従良

放賤従良
ほうせんじゅうりょう

律令制において賤身分を免除して良民とすること
賤民はその所有主意志によって解放されれば良民となれたが,特に官戸・公奴婢 (くぬひ) は一定年齢になると良民になれた。789年以後は良賤間の出生児は良民に入れられた。
奉天会戦
ほうてんかいせん @@@LINK=奉天会戦 奉天会戦

奉天会戦
ほうてんかいせん

1905年,日露戦争における最大・最後の陸戦
クロポトキンの率いるロシア軍32万を,大山巌指揮の日本軍25万が奉天(現瀋陽)で撃破し,奉天を占領したものの,兵力・弾薬を消耗し尽くした。日本政府および軍首脳はこれ以上補給線を延ばすことを不利とし,講和への努力を始めた。
報徳記
ほうとくき @@@LINK=報徳記 報徳記

報徳記
ほうとくき

江戸末期,二宮尊徳の伝記
1856年成立。8巻。富田高慶 (たかよし) が,尊徳の節約貯蓄を中心とする報徳仕法を彼の伝記をとおして正しく伝えるため著したもので,尊徳の思想が具体的に記されている。
法然
ほうねん @@@LINK=法然 法然

法然
ほうねん

1133〜1212
平安末期〜鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖
諱 (いみな) を源空という。美作 (みまさか) (岡山県)の人。初め叡山で天台教学を学んだが,末法の世の救いは念仏以外にないことを悟り,1175年専修念仏を説いて浄土宗を開いた。この他力易行の教えは武士・農民間に受け入れられ九条兼実など貴族にも帰依する者があったが,旧仏教側の弾圧が激しく,1207年土佐に流された。のち許され京都に帰り'12年没した。主著に『選択 (せんじやく) 本願念仏集』。

法然上人絵伝
ほうねんしょうにんえでん @@@LINK=法然上人絵伝 法然上人絵伝

法然上人絵伝
ほうねんしょうにんえでん

浄土宗の始祖法然の行状と門弟たちの伝記を描いた絵巻物
数種類があり,いずれも上人を仰し浄土宗布教の方便となった。鎌倉末期作の京都知恩院蔵の48巻本は絵巻物中の最長編で,「勅修御伝」と呼ばれ有名。
坊津
ぼうのつ @@@LINK=坊津 坊津

坊津
ぼうのつ

鹿児島県南西部,薩摩半島南西岸にある港町
古来南方海上交通の要地として発達。室町時代,島津氏の中国貿易・琉球貿易の根拠地となり,特に15世紀末以後遣明船の寄港によりいっそう栄え,三津 (さんしん) の一つに数えられた。江戸時代,長崎が貿易港となると衰えた。
宝物集
ほうぶつしゅう @@@LINK=宝物集 宝物集

宝物集
ほうぶつしゅう

鎌倉初期,平康頼の仏教説話集
康頼は,俊寛らと平家討滅をはかって捕らえられ鬼界ケ島に流され(鹿ケ谷陰謀),許されて帰京したのち執筆。『大鏡』にならって問答体をとり,仏教が第一の宝物である理を説話によって説いた。
方墳
ほうふん @@@LINK=方墳 方墳

方墳
ほうふん

墳丘の平面が方形の古墳
円墳や前方後円墳より遅れて出現。7世紀に多い。新しいものは各辺を方位に合わせているが,これは内部の横穴式石室を南面させるためと考えられている。
法隆寺
ほうりゅうじ @@@LINK=法隆寺 法隆寺

法隆寺
ほうりゅうじ

奈良県生駒郡斑鳩 (いかるが) 町にある古寺
7世紀初め,聖徳太子の創建と伝えられる。現存伽藍 (がらん) については明治時代から再建説と非再建説とがあり,紛争が続いたが,若草伽藍の発見によって現在は再建説に傾いている。しかし金堂・五重塔・中門・回廊は飛鳥時代の様式を伝え,世界最古の木造建築として世界遺産にも登録されている。伽藍配置は東に金堂,西に五重塔がある法隆寺式で,金堂には『釈迦三尊像』『薬師如来像』があり,いずれも本尊とされている。奈良時代には「法隆学問寺」といわれ,仏教の学問的研究を行っていた。『玉虫厨子』などの美術品を所蔵している。
法隆寺五重塔
ほうりゅうじごじゅうのとう @@@LINK=法隆寺五重塔 法隆寺五重塔

法隆寺五重塔
ほうりゅうじごじゅうのとう

奈良の法隆寺西院にある,飛鳥時代建築様式を伝える木造建築
勾欄は卍くずし・雲形肘木 (ひじき) ・人字形割束 (わりづか) を用いるなど独特の様式がみられる。総高32.5m。心柱下に仏舎利,初層に白鳳時代塑像群がある。
法隆寺金堂
ほうりゅうじこんどう @@@LINK=法隆寺金堂 法隆寺金堂

法隆寺金堂
ほうりゅうじこんどう

奈良の法隆寺西院の中心建築
飛鳥様式。東西に並び,二重基壇上に重層入母屋造。『釈迦三尊像』『薬師如来像』などをおさめる。内部壁画は有名であるが,1949(昭和24)年焼失損傷し,'68年復元した。
法隆寺金堂壁画
ほうりゅうじこんどうへきが @@@LINK=法隆寺金堂壁画 法隆寺金堂壁画

法隆寺金堂壁画
ほうりゅうじこんどうへきが

奈良の法隆寺金堂内部の四周に描かれた壁画。浄土の仏・菩薩・羅漢を描いた
白鳳時代の作。大壁4面は諸仏の浄土を,小壁8面は単独の菩薩を描き,インドのアジャンタの壁画と並ぶ。1949年火災により焼損した。'68年復元。金堂壁画の焼損がきっかけで、1950年文化財保護法が公布された。
法隆寺釈迦三尊像
ほうりゅうじしゃかさんぞんぞう @@@LINK=法隆寺釈迦三尊像 法隆寺釈迦三尊像

法隆寺釈迦三尊像
ほうりゅうじしゃかさんぞんぞう

奈良法隆寺本尊で,飛鳥時代の代表的仏像彫刻の一つ
623年聖徳太子の菩提を弔うため鞍作止利 (くらつくりのとり) につくらせたという。北魏様式。杏仁 (きようにん) 形の目をもち古拙 (こせつ) の微笑アルカイック‐スマイル)を口もとに浮かべる。
法隆寺薬師如来像
ほうりゅうじやくしにょらいぞう @@@LINK=法隆寺薬師如来像 法隆寺薬師如来像

法隆寺薬師如来像
ほうりゅうじやくしにょらいぞう

奈良法隆寺金堂本尊で,飛鳥彫刻の一つ
北魏様式。光背銘によると聖徳太子推古天皇用明天皇の病気平癒を祈って607年に法隆寺を建ててこのを造ったとある。最近,天武・持統朝とするもある。
法隆寺夢違観音像
ほうりゅうじゆめちがいかんのんぞう @@@LINK=法隆寺夢違観音像 法隆寺夢違観音像

法隆寺夢違観音像
ほうりゅうじゆめちがいかんのんぞう

夢違観音
法隆寺夢殿
ほうりゅうじゆめどの @@@LINK=法隆寺夢殿 法隆寺夢殿

法隆寺夢殿
ほうりゅうじゆめどの

奈良の法隆寺東院伽藍の中心をなす八角堂で,天平建築の代表作
聖徳太子の斑鳩 (いかるが) のあとに太子没後,約1世紀たって僧行信がその冥福を祈って建てた。高い基壇の上に立ち,屋頂に露盤を飾る。鎌倉期に大修理を加えた。
法隆寺夢殿救世観音像
ほうりゅうじゆめどのぐぜかんのんぞう @@@LINK=法隆寺夢殿救世観音像 法隆寺夢殿救世観音像

法隆寺夢殿救世観音像
ほうりゅうじゆめどのぐぜかんのんぞう

奈良法隆寺夢殿本尊で,飛鳥彫刻の代表作の一つ
一木で,をぬり金箔を押す。北魏様式。金銅透彫の宝冠も彫金術の進歩を示している。
法輪寺
ほうりんじ @@@LINK=法輪寺 法輪寺

法輪寺
ほうりんじ

①奈良県生駒郡斑鳩 (いかるが) 町,法隆寺の東北方にある寺
②京都市西京区嵐山,大堰川右岸中腹にある真言宗御室派の寺
聖徳太子の子山背大兄王らが創建した寺とのがあり,白鳳時代建立。法隆寺と同様の伽藍 (がらん) 配置であった。1944年三重塔雷火により焼失,'75年再建された。
行基創建,空海再建と伝える。智慧を授けるという『虚空蔵菩薩』を祭る。
宝暦事件
ほうれきじけん @@@LINK=宝暦事件 宝暦事件

宝暦事件
ほうれきじけん

江戸中期,尊王論者竹内式部が処罰された事件
山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部が,京都で公家に大義名分を説いたので,幕府は1758(宝暦8)年式部を捕らえて追放した。
俸禄制度
ほうろくせいど @@@LINK=俸禄制度 俸禄制度

俸禄制度
ほうろくせいど

江戸時代の知行制度
武士たる資格は元来領地を支配することであったが,江戸前期以降武士はしだいに知行高に応じ蔵米を俸禄として領主から支給されるに至り,土地の支配権は領主権の中に吸収された。一部に地方 (じかた) 知行が残ったがそれも名目化し,俸禄が武士の家禄として世襲され,その大小によって身分格式が規定された。
慕帰絵詞
ぼきえことば @@@LINK=慕帰絵詞 慕帰絵詞

慕帰絵詞
ぼきえことば

南北朝時代,本願寺3世覚如の一代を描いた絵巻物
『慕帰絵』ともいう。10巻。西本願寺蔵。「慕帰」とは覚如の帰寂(の死ぬこと)を慕う意味で,覚如の子慈俊が選述し,絵は藤原隆章・隆昌が描き,1351年成立。土佐派の特色研究と生活文化史上の貴重な史料
朴 泳孝
ぼくえいこう @@@LINK=朴+泳孝 朴+泳孝

朴 泳孝
ぼくえいこう

1861〜1939
李氏朝鮮末期の親日政治家
壬午 (じんご) 軍乱後金玉均らとともに来日。明治天皇見し,各所を見学する中で,日本にを採り朝鮮の改革を図ろうと決意する。帰国後独立党を率いて事大党と争い,1884年金玉均らと甲申事変をおこしたが失敗し,日本に亡命。のち韓国併合を推進した。
北槎聞略
ほくさぶんりゃく @@@LINK=北槎聞略 北槎聞略

北槎聞略
ほくさぶんりゃく

江戸後期,大黒屋光太夫のロシア漂泊を記した桂川甫周の著書
1794年成立。11巻。光太夫以下17人乗組の廻米船がアリューシャン列島に漂着,ペテルブルクで女王エカチェリーナ2世に謁し,根室に帰着するまでの10年間の記録。
北山抄
ほくざんしょう @@@LINK=北山抄 北山抄

北山抄
ほくざんしょう

平安後期,藤原公任 (きんとう) の有職故実 (ゆうそくこじつ) 書
11世紀初めの成立。10巻。年中行事太政官などの官吏の事務などを記す。『西宮記 (さいぐうき) 』とともに,朝廷行事儀式などの権威書である。
北宗画
ほくしゅうが @@@LINK=北宗画 北宗画

北宗画
ほくしゅうが

中国,山水画における二大様式の一つ
明の董其昌 (とうきしよう) らによって南画に対する流派として名づけられた。唐の李思訓に始まるといわれ,宋代に全盛期現出。水墨画もあるが多くは極彩色で描かれ,写実的で細密な画風。日本では室町時代の水墨画がその影響をうけた。
北清事変
ほくしんじへん @@@LINK=北清事変 北清事変

北清事変
ほくしんじへん

1900年,中国の義和団の乱に対する列国の出兵事件。
北朝
ほくちょう @@@LINK=北朝 北朝

北朝
ほくちょう

南北朝対立時代,足利尊氏が擁立した京都の持明院統の朝廷(1336〜92)
光明・崇光 (すこう) ・後光厳・後円融・後小松の5代の天皇が続き,後小松天皇のとき,1392年南北朝合体が行われ,南朝の後亀山天皇より神器をうけた。以後北朝が皇位を継承して現在に至る。
北伐
ほくばつ @@@LINK=北伐 北伐

北伐
ほくばつ

中国の辛亥 (しんがい) 革命以来孫文らが北方軍閥政権を倒すため企てた戦争
特に1926〜28年の蔣介石中心の国民革命軍によるものが有名。蔣は共産勢力に弾圧を加えて南京政府を樹立。革命軍の分裂により中断したが,'28年再開し,張作霖を追って北京を占領。北伐を完成し,万里の長城以南の中国本土を統一した。
穂首刈
ほくびがり @@@LINK=穂首刈 穂首刈

穂首刈
ほくびがり

弥生時代から奈良時代まで行われたの刈り方
石包丁を用いてだけを摘みとる方法である。のち鉄製のが普及して根刈が行われるようになると衰えた。
北面の武士
ほくめんのぶし @@@LINK=北面の武士 北面の武士

北面の武士
ほくめんのぶし

1095年,白河上皇院政時代に設置された院司
御所北面で院の警衛にあたった。員数は不定。四〜六位の者が任命され,上皇に直属し院政を支える武力となる。この設置が武士の中央進出の契機となった。
北陸道
ほくりくどう @@@LINK=北陸道 北陸道

北陸道
ほくりくどう

律令制における五畿七道の一つ
大化の改新で若狭・越の2国,天武天皇のころ越を前・中・後の3国に分け佐渡を合わせて5国,のち越前から能登・加賀を分けて7国にした。現在の福井・石川・富山・新潟県にあたる。
北嶺
ほくれい @@@LINK=北嶺 北嶺

北嶺
ほくれい

延暦寺の別称。
朴烈事件
ぼくれつじけん @@@LINK=朴烈事件 朴烈事件

朴烈事件
ぼくれつじけん

1923年におこった,朴烈夫妻の大逆計画事件
朝鮮の無政府主義者朴烈が,妻金子文子と天皇暗殺のため爆弾を入手したとして逮捕。両名の獄内優遇問題で政治問題化し野党の立憲政友会が政府(第1次若槻礼次郎内閣)を攻撃した。金子は獄内で自殺,朴は第二次世界大戦後釈放された。
捕鯨
ほげい @@@LINK=捕鯨 捕鯨

捕鯨
ほげい

クジラを捕ること
戦国時代,紀伊・土佐・長門・肥前など西国地方で銛 (もり) による突取 (つきとり) 捕鯨が行われ,江戸時代,網取捕鯨を考案。網取法は鯨を岸に追いあげ,網船の張った網に追い込み,銛を打ち込み縄で縛った。浦全体の共同作業が特色。鯨油採取が主目的であった。明治時代以後,ノルウェー式捕鯨業に代わる。近年,クジラ資源の保護という立場からきびしい捕獲制限がとられている。
母系制
ぼけいせい @@@LINK=母系制 母系制

母系制
ぼけいせい

家族の系統が母方で受け継がれる制度
小規模な農耕社会にみられ,わが国の原始社会がこれに該当するとされる。結婚形態は族外婚・妻問い婚。原始氏族の崩壊によって父系制が成立するが,生産方法の大きな変化に基づくものであろう。
法華経
ほけきょう @@@LINK=法華経 法華経

法華経
ほけきょう

仏教経典の一つ
『妙法蓮華経』の略称。8巻。鳩摩羅什 (くまらじゆう) の漢訳本が広く流布。聖徳太子が講義し,奈良時代には,成仏不可能とされた女人救済の唯一の経として,法華滅罪之寺(国分尼寺)も建てられ,『金光明最勝王経』『仁王 (にんのう) 経』とともに護国三経の一つとなった。天台宗・日蓮宗の根本経典。
法華経義疏
ほけきょうぎしょ @@@LINK=法華経義疏 法華経義疏

法華経義疏
ほけきょうぎしょ

聖徳太子の著したといわれる『三経義疏 (さんぎようぎしよ) 』の一つ。太子自筆とされている。
干鰯
ほしか @@@LINK=干鰯 干鰯

干鰯
ほしか

江戸時代,鰊・鰯などの乾燥肥料で,油粕とともに金肥(購入肥料)の中心
商品作物,特に木綿栽培の肥料として多く利用された。初めは九州・北国ものが多かったが,元禄(1688〜1704)ころから九十九里三陸方面で発達,幕末は松前ものが支配し,商業的農業の発達をもたらした。
星亨
ほしとおる @@@LINK=星亨 星亨

星亨
ほしとおる

1850〜1901
明治時代の政治家
東京の生まれ。陸奥宗光の保護で官界に入る。自由党に属し大同団結運動など反政府運動に活躍したが転じて伊藤博文と結び1900年立憲政友会を結成。汚職(東京市疑獄事件)で非難され暗殺された。

保科正之
ほしなまさゆき @@@LINK=保科正之 保科正之

保科正之
ほしなまさゆき

1611〜72
江戸前期の親藩大名
2代将軍徳川秀忠の4男。保科家を継ぎ,のち陸奥(福島県)会津藩23万石(松平家)の祖となった。1651年家光の死後,その遺命で新将軍家綱の後見として幕政を担当。藩主としては殖産興業・新田開発につとめ,朱子学を重んじ,名君と称された。

保守合同
ほしゅごうどう @@@LINK=保守合同 保守合同

保守合同
ほしゅごうどう

1955年11月15日,自由党と日本民主党が合同して自由民主党を結成したこと
1955年2月の総選挙で左・右両派社会党が躍進し,10月に統一工作の結果,再び日本社会党が結成されると,これに刺激されて,同年11月,保守勢力が結集された。初代総裁は鳩山一郎
戊戌夢物語
ぼじゅつゆめものがたり @@@LINK=戊戌夢物語 戊戌夢物語

戊戌夢物語
ぼじゅつゆめものがたり

江戸後期,幕府の鎖国政策を批判した高野長英の著書
1838年起稿。'37年のモリソン号事件の際,夢の中で知識人らの討議を聞いたという形式で,世界の大勢を論じ,異国船打払いの無謀を警告した。渡辺崋山の『慎機論』とともに蛮社の獄の原因となった。
戊申詔書
ぼしんしょうしょ @@@LINK=戊申詔書 戊申詔書

戊申詔書
ぼしんしょうしょ

1908年(戊申の年)10月に発布された国民教化のための詔書
赤旗事件ののち,保守勢力は第2次桂太郎内閣を組織させ,個人主義的享楽主義と社会主義の抑制を意図して発布。階級的協調奢侈の戒めを説き,教育勅語とともに道徳教育の基本方針とした。'48年の国会失効が確認された。
戊辰戦争
ぼしんせんそう @@@LINK=戊辰戦争 戊辰戦争

戊辰戦争
ぼしんせんそう

1868(戊辰の年)〜69年にかけて行われた明治新政府と旧幕府側との内戦の総称
戊辰の役ともいう。小御所会議における徳川慶喜 (よしのぶ) に対する辞官・納地の決定に憤激した幕臣および会津・桑名の藩兵らは1868年1月,京都南部の鳥羽・伏見で薩摩・長州藩を中心とした新政府軍(官軍)と戦い敗れた(鳥羽・伏見の戦い)。つづいて新政府軍(官軍)は江戸に向かって進撃したが,徳川方は戦争を回避し,江戸城を明け渡した。旧幕臣の主戦派および東北・越後の諸藩は,彰義隊・奥羽越列藩同盟を組織して新政府軍(官軍)に抵抗,しかし,9月末までに内戦はほとんど終了した。その後,榎本武揚 (たけあき) らが箱館の五稜郭で抵抗したが,翌年鎮圧され反政府軍攻略は終了した。
細井平洲
ほそいへいしゅう @@@LINK=細井平洲 細井平洲

細井平洲
ほそいへいしゅう

1728〜1801
江戸中・後期の折衷学派の儒学者
尾張(愛知県)の豪農に生まれ,京都・長崎に遊学し,江戸に塾を開いた。出羽(山形県)米沢藩主上杉治憲 (はるのり) (鷹山)に招かれ,藩校興譲館の設立と藩政改革に協力。のち尾張藩に招かれ藩校明倫堂の督学となった。

細川勝元
ほそかわかつもと @@@LINK=細川勝元 細川勝元

細川勝元
ほそかわかつもと

1430〜73
室町中期の武将
1445年以降3度管領となる。将軍足利義政,畠山・斯波 (しば) 氏らの後嗣をめぐる争いで山名持豊(宗全)と対立。'67年応仁の乱では,東軍の主将として将軍義政を擁し,畠山政長・斯波義敏らを後援し,持豊を主将とする西軍と戦ったが乱中に病死した。禅に帰依,竜安寺をおこした。

細川ガラシャ
ほそかわガラシャ @@@LINK=細川ガラシャ 細川ガラシャ

細川ガラシャ
ほそかわガラシャ

1563〜1600
安土桃山時代の細川忠興の妻
明智光秀の娘。名はたま。本能寺の変後離縁したが,のち豊臣秀吉の命により復縁。熱心なキリシタン信徒で,ガラシャはその洗礼名。関ケ原の戦いに際し,石田三成が人質にしようとしたのを拒み自刃した。

細川氏
ほそかわし @@@LINK=細川氏 細川氏

細川氏
ほそかわし

南北朝〜室町時代の有力な守護大名。室町幕府の三管領家の一つ
足利氏の一支族。足利義季 (よしすえ) が三河国八名郡細川郷に住み姓とした。足利尊氏の挙兵に従って功をたて,讃岐・阿波を中心に河内・和泉など畿内周辺の地を領国として活躍,頼之が将軍足利義満を補佐して管領となって以来勢力を固めた。勝元は応仁の乱(1467〜77)に東軍の主将として活躍したが,乱後細川氏は衰えた。のち一族の藤孝(幽斎)・忠興父子は,関ケ原の戦い(1600)後徳川家康に仕え,忠興の子忠利が肥後国熊本に封ぜられた。以来有力な外様大名として14代続き,明治維新に至る。
細川重賢
ほそかわしげかた @@@LINK=細川重賢 細川重賢

細川重賢
ほそかわしげかた

1720〜85
江戸中期の肥後(熊本県)熊本藩主。「肥後の鳳凰」と称された名君
号は銀台。1747年熊本藩54万石を襲封。藩政の改革にを尽くし,質素倹約の励行養蚕・植林の奨励,租税軽減などを行い,城内に藩校時習館を設立した。

細川忠興
ほそかわただおき @@@LINK=細川忠興 細川忠興

細川忠興
ほそかわただおき

1563〜1645
安土桃山〜江戸時代前期の武将・外様大名
幽斎の子。織田信長に従い,丹後(京都府)宮津12万石の城主となった。関ケ原の戦いでは徳川家康の東軍に属し,豊前(福岡県)小倉39万石を領した。のち肥後(熊本県)に転封,隠居して三斎と号した。利休門下七哲の一人で,茶道・和歌・有職 (ゆうそく) にすぐれ,『三斎茶書』を著した。

細川晴元
ほそかわはるもと @@@LINK=細川晴元 細川晴元

細川晴元
ほそかわはるもと

1514〜63
室町後期の武将
同族の細川高国を破って細川管領家を継いだが,家臣の執事三好長慶の下剋上 (げこくじよう) のために1549年京都を追われ,細川管領家は事実上滅亡した。

細川政元
ほそかわまさもと @@@LINK=細川政元 細川政元

細川政元
ほそかわまさもと

1466〜1507
室町後期の武将
管領。勝元の子。応仁の乱(1467〜77)後,足利将軍家の衰微に乗じ,1493年足利義澄 (よしずみ) を擁して,将軍義稙 (よしたね) ・畠山政長らと争い,義澄を11代将軍として権勢をふるった。のち家督争いに巻き込まれ殺された。

細川護熙内閣
ほそかわもりひろないかく @@@LINK=細川護熙内閣 細川護熙内閣

細川護熙内閣
ほそかわもりひろないかく

日本新党の細川護熙(1938〜  )代表を首班とする連立内閣(1993.8〜94.4)
1993年7月の衆議院選挙で自由民主党が過半数を割り,反自民,非共産の8党が連立を組んで成立したため,自由民主党の長期政権が終わり,55年体制は崩壊した。細川首相は記者会見で先の戦争を侵略戦争と言明し,8月15日の全国戦没者追悼式では国の加害責任に言及した。細川内閣はウルグアイ‐ラウンドに従ってコメの部分開放に踏み切り,政治改革として衆議院小選挙区比例代表並立制を導入した。しかしバブル経済崩壊による不況対策には有効な政策を打ち出せず,'94年佐川急便グループからの資金提供問題を追及され,窮地に陥り辞任した。
細川幽斎
ほそかわゆうさい @@@LINK=細川幽斎 細川幽斎

細川幽斎
ほそかわゆうさい

1534〜1610
安土桃山〜江戸時代初期の武将・歌人
名は藤孝。足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らに仕え,丹後(京都府)田辺城主となった。武家故実に精通,和歌をよくし三条西実枝 (さんじようにしさねき) から古今伝授をうけ,『幽斎翁聞書』『耳底記』『詠歌大概抄』など著書も多い。

細川頼之
ほそかわよりゆき @@@LINK=細川頼之 細川頼之

細川頼之
ほそかわよりゆき

1329〜92
南北朝時代の武将
足利尊氏に従って功をたて,阿波・讃岐の守護となる。1367年2代将軍義詮 (よしあきら) の遺命で管領となり,3代将軍義満を補佐,楠木正儀 (まさのり) の吉野攻撃を援助して,南朝勢力に大打撃を与えた。のち諸将とあわず一時讃岐に帰ったが,'91年明徳の乱で山名氏清を諸将とともに討ち,室町政権の基礎を確立した。

菩提寺
ぼだいじ @@@LINK=菩提寺 菩提寺

菩提寺
ぼだいじ

先祖の位牌を安置して追善供養をし,自身の仏事をも修める寺
檀那寺ともいう。古くは一門の寺,氏寺を意味した。江戸時代には藩主領内に菩提寺を設けて保護を加えた。
菩提僊那
ぼだいせんな @@@LINK=菩提僊那 菩提僊那

菩提僊那
ぼだいせんな

?〜760
南インドの僧
婆羅門僧正ともいう。唐を経て,736年仏哲を伴って来日。東大寺大仏の開眼供養の導師をつとめた。
菩多尼訶経
ぼたにかきょう @@@LINK=菩多尼訶経 菩多尼訶経

菩多尼訶経
ぼたにかきょう

江戸後期,宇田川榕庵の植物学書
1822年刊。1冊。西洋植物学の紹介・普及を目的とした最初の著述要旨経文にまねて仕立て,読誦するようにつくった折り本の小本。
牡丹花肖柏
ぼたんかしょうはく @@@LINK=牡丹花肖柏 牡丹花肖柏

牡丹花肖柏
ぼたんかしょうはく

肖柏
渤海
ぼっかい @@@LINK=渤海 渤海

渤海
ぼっかい

中国東北部・沿海州・朝鮮半島北部を支配した靺鞨 (まつかつ) 人の国家(698〜926)
靺鞨系高麗人の大祚栄 (だいそえい) が建国。唐・新羅 (しらぎ) を牽制するために727年日本に朝貢。のちには貿易を得ることを目的として,前後34回来日。日本もこれに対して送使を派遣した。毛皮ニンジン・薬などを日本へ輸出し,絹・綿・工芸品などを日本から輸入。唐文化で渤海を経由して日本に伝わったものもあった。926年契丹に滅ぼされた。
法起寺
ほっきじ @@@LINK=法起寺 法起寺
ほうきじ @@@LINK=法起寺 法起寺

法起寺
ほっきじ

奈良県生駒郡斑鳩 (いかるが) 町,法隆寺の東北方にある古寺
「ほうきじ」とも読み,岡本寺ともいう。聖徳太子の岡本宮を白鳳時代ころに寺に改めたものといわれる。この寺の三重塔はわが国最大のもの。本尊は『十一面観音』。伽藍 (がらん) 配置は法隆寺式であるが,塔・金堂の配置が法隆寺と反対で塔が東にある。

法起寺
ほうきじ

ほっきじ
北家
ほっけ @@@LINK=北家 北家

北家
ほっけ

藤原四家の一つ
不比等 (ふひと) の2男房前 (ふささき) が。平安時代,冬嗣が蔵人頭 (くろうどのとう) となり北家隆盛の基礎をつくり,子良房は臣下として最初の摂政,その養子基経は関白となった。以後皇室との姻戚関係を重ね他氏排斥にも成功し,摂関地位を独占した。道長・頼通父子の時に最も繁栄。鎌倉時代に五摂家に分立した。
法華一揆
ほっけいっき @@@LINK=法華一揆 法華一揆

法華一揆
ほっけいっき

室町後期,京都を中心におこった日蓮宗(法華宗)信徒の一揆
日蓮宗は一向宗とともに,特に京都の町衆の中に多く信者を獲得し,不惜身命・謗法禁断を唱え,他宗と戦い,布教に励んだ。1532年には細川晴元と結んで一向宗の山科本願寺を焼き,京の町政を握った。しかし,'36年天文法華の乱で衰えた。
法華寺
ほっけじ @@@LINK=法華寺 法華寺

法華寺
ほっけじ

奈良市法華寺町にある真言律宗の尼寺
正しくは「法華滅罪之寺」という。奈良時代,藤原不比等邸跡に光明皇后が総国分尼寺として創建。貞観時代(859〜877)の木彫『十一面観音像』を本尊とする。
法華宗
ほっけしゅう @@@LINK=法華宗 法華宗

法華宗
ほっけしゅう

日蓮宗
法華神道
ほっけしんとう @@@LINK=法華神道 法華神道

法華神道
ほっけしんとう

神仏習合の現れで,日蓮宗の神道思想
日蓮は天台宗を学んだが,この思想の根本には山王一実神道説(神仏習合理論を根本とする神道説)があり,釈迦が『法華経』を説いたとき日本の神も同座していたといい,神道の中で『法華経』を重んじることを説いた。
法華堂
ほっけどう @@@LINK=法華堂 法華堂

法華堂
ほっけどう

法華経』を講じる建物。東大寺の法華堂が有名。
法華滅罪之寺
ほっけめつざいのてら @@@LINK=法華滅罪之寺 法華滅罪之寺

法華滅罪之寺
ほっけめつざいのてら

法華寺
北国廻船
ほっこくかいせん @@@LINK=北国廻船 北国廻船

北国廻船
ほっこくかいせん

北前船 (きたまえぶね)
法勝寺
ほっしょうじ @@@LINK=法勝寺 法勝寺

法勝寺
ほっしょうじ

平安末期,白河天皇の発願により京都市東山区岡崎付近に建てられた六勝寺の一つ。
発心集
ほっしんしゅう @@@LINK=発心集 発心集

発心集
ほっしんしゅう

鎌倉前期の仏教説話集。鴨長明の編といわれる
成立年代不詳。全8巻。菩提心を発して往生を遂げた説話を中心にして編集。ほかに見せるというよりは自己の信仰生活を内面化する手段として説話を集めたと思われる。『方丈記』と相通じるものがある。
法相宗
ほっそうしゅう @@@LINK=法相宗 法相宗

法相宗
ほっそうしゅう

南都六宗の一つ
唯識 (ゆいしき) を主張。653年入唐した道昭が玄奘 (げんじよう) から学び伝え,のちに玄昉 (げんぼう) もこれを広めた。元興寺・興福寺を中心に栄え法隆寺でも行われた。薬師寺が大本山。鎌倉時代に貞慶(解脱)が現れ,戒律の復興につとめた。
法曹至要抄
ほっそうしようしょう @@@LINK=法曹至要抄 法曹至要抄

法曹至要抄
ほっそうしようしょう

平安末期〜鎌倉初期成立の法律書
3巻。著者坂上明兼とも,その孫明基ともいう。罪科・禁制・売買・負債などの条下裁判に必要な各事項をたて,律令・格式を引いて,要語の解釈や注を加えたもの。源実朝の求めに応じたものともいわれる。
堀田正俊
ほったまさとし @@@LINK=堀田正俊 堀田正俊

堀田正俊
ほったまさとし

1634〜84
江戸前期の幕府大老
若年寄・老中を経て,5代将軍徳川綱吉の擁立に尽力し,その功で大老となり,下総(茨城県)古河 (こが) 藩主(13万石)となった。剛直な性格のため将軍や側近から反感をもたれ,1684年江戸城中で若年寄稲葉正休 (まさやす) に刺殺された。

堀田正睦
ほったまさよし @@@LINK=堀田正睦 堀田正睦

堀田正睦
ほったまさよし

1810〜64
幕末の政治家
下総佐倉藩主。初名正篤 (まさひろ) 。開明的な藩主で,蘭学に関心深く蘭癖 (らんぺき) と称され,洋式兵制を採用。1841〜43年老中となり水野忠邦の天保の改革を支えた。'55年再任され,阿部正弘にかわり老中首座としてハリスと日米修好通商条約の交渉にあたる。'58年条約の勅許を得るため上京したが失敗。将軍継嗣問題では朝幕融和を目ざして一橋慶喜 (よしのぶ) を支持したため,紀伊派の井伊直弼 (なおすけ) の大老就任後罷免された。

ポツダム宣言
ポツダムせんげん
Potsdam Declaration
@@@LINK=ポツダム宣言 ポツダム宣言

ポツダム宣言
ポツダムせんげん
Potsdam Declaration

第二次世界大戦末期の1945年7月,アメリカ・イギリス・中国3国により発表された,ヨーロッパの戦後処理と対日戦争終結のための宣言
正しくは「米・英・中三国宣言」という。ソ連は対日参戦と同時に参加。アメリカ大統領トルーマン,イギリス首相チャーチル(途中からアトリー),ソ連首相スターリンの3巨頭がベルリン郊外のポツダムで会談,中国の蔣介石総統の同意を得て発表した。日本軍国主義者・戦争指導勢力の除去,連合軍による軍事占領,カイロ宣言に基づく領土制限,民主化の促進,戦犯の処罰などを条件に,無条件降伏の最後の機会であることを通告。日本は8月14日にスイスを通じて受諾を通知。翌15日に日本国内に受諾を公表し,終戦。この宣言の内容が日本の占領政策の基本になった。
坊ちゃん
ぼっちゃん @@@LINK=坊ちゃん 坊ちゃん

坊ちゃん
ぼっちゃん

明治後期,夏目漱石の短編小説
1906年『ホトトギス』に発表した。江戸っ子気質の主人公が中学教師として松山(愛媛県)に赴任し,そこでいろいろな騒動にまきこまれるありさまを軽妙に描いている。
北方領土問題
ほっぽうりょうどもんだい @@@LINK=北方領土問題 北方領土問題

北方領土問題
ほっぽうりょうどもんだい

歯舞 (はぼまい) 諸島・色丹 (しこたん) ・国後 (くなしり) ・択捉 (えとろふ) 島の帰属問題
1945年のヤルタ会談での秘密協定により,ソ連は千島の領有を主張し,日本は ‘51年のサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄したが南千島は固有の領土として返還を要求。'56年の日ソ共同宣言で歯舞諸島・色丹島は日ソの平和条約締結後,日本に引き渡されるとした。しかし'60年1月日米新安全保障条約が調印されると,ソ連は在日外国軍が撤退しない限り返還しないと声明。問題は未解決である。
ポーツマス条約
ポーツマスじょうやく @@@LINK=ポーツマス条約 ポーツマス条約

ポーツマス条約
ポーツマスじょうやく

1905(明治38)年9月5日,アメリカ北部の軍港ポーツマスで調印された日露戦争の講和条約
アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの斡旋により,日本全権小村寿太郎とロシア全権ウィッテとの間で調印。韓国における日本の政治・経済・軍事上の利益の承認,旅順・大連の租借権,南満州の鉄道の日本への譲渡,樺太 (からふと) の北緯50度以南の譲渡,沿海州・カムチャツカ半島での漁業権の承認などを決めた。しかし賠償金はなく,国民の不満は日比谷焼打ち事件などをひきおこした。
穂積陳重
ほづみのぶしげ @@@LINK=穂積陳重 穂積陳重

穂積陳重
ほづみのぶしげ

1856〜1926
明治・大正時代の法学者。最初の法学博士
八束 (やつか) の兄。伊予宇和島藩出身。東大教授となり,貴族院議員・枢密院議長などを歴任。1893年法典調査会主査委員として民法などの編纂にあたり,立法事業に大きな功績を残した。代表的著作として『法律進化論』など。

穂積八束
ほづみやつか @@@LINK=穂積八束 穂積八束

穂積八束
ほづみやつか

1860〜1912
明治時代の憲法学者
陳重 (のぶしげ) の弟。伊予(愛媛県)の生まれ。東大教授・貴族院議員を歴任。旧民法の公布をめぐって賛否両論(民法典論争)がおこったとき,「民法出デテ忠孝亡ブ」という論文を発表し,反対論の立役者となった。

不如帰
ほととぎす @@@LINK=不如帰 不如帰

不如帰
ほととぎす

明治後期,徳富蘆花の長編小説
1898年11月〜99年5月,『国民新聞』に連載。結核にかかった妻が,の出征中に病気感染を理由に離縁されるという封建的家族制度下の悲劇を扱う。
ホトトギス

ホトトギス

明治期以来の俳句雑誌
1897年,子規派の俳誌として松山で創刊され,翌年東京に移されて以来高浜虚子が編集。一時虚子は小説に熱を入れ,夏目漱石たち余裕派の作品を掲載。虚子の俳句復帰後,俳壇の中心勢力となり幾多の俊秀を輩出した。1959年虚子没後,子の年尾が主宰し,年尾没後は孫の稲畑汀子が継承,'80年1000号に達し,現在も刊行中。
堀川学派
ほりかわがくは @@@LINK=堀川学派 堀川学派

堀川学派
ほりかわがくは

江戸中期の儒学の一派
古義学派ともいう。伊藤仁斎・東涯父子が京都堀川に古義堂を開設したので,この名がある。当時盛んであった朱子学や陽明学に対し,『孔子』『孟子』の原典にあたり古聖賢の真髄を究めようとしたもので,蘐園 (けんえん) 学派と対立した。門人も多く,江戸中期の盛時には全国儒者の過半数を占めたといわれる。
堀川塾
ほりかわじゅく @@@LINK=堀川塾 堀川塾

堀川塾
ほりかわじゅく

古義堂
堀河天皇
ほりかわてんのう @@@LINK=堀河天皇 堀河天皇

堀河天皇
ほりかわてんのう

1079〜1107
平安後期の天皇(在位1086〜1107)
白河天皇第2皇子。名は善仁 (たるひと) 。初めは父白河上皇の院政,のちに関白藤原師通 (もろみち) に補佐されて政務に励み,「末代の賢王」と称せられた。和歌・音楽(笙 (しよう) の笛)にもすぐれていた。

堀越公方
ほりごえくぼう @@@LINK=堀越公方 堀越公方

堀越公方
ほりごえくぼう

足利政知 (まさとも) の異称
堀越御所ともいう。永享(1438〜39)で足利持氏滅亡後,幕府から鎌倉公方とされた足利成氏が,1455年幕府にそむいて下総国古河 (こが) に拠ったので,成氏追討のため,'57年8代将軍義政は弟政知を関東に下向させ,伊豆国田方郡堀越に居館を定め,古河公方成氏に対抗した。'91年政知没後,子の茶々丸があとを継いだが,北条早雲に攻められて断絶した。
ポルトガル
Portugal @@@LINK=ポルトガル ポルトガル

ポルトガル
Portugal

南ヨーロッパ,イベリア半島南西部にある共和国
12世紀に王国となり,15世紀末,インド航路を開き,ゴア・マラッカ根拠にする東洋貿易で繁栄。1543年,種子島に来航し,鉄砲を伝え貿易を開始した。おもに中国の生糸・絹織物と日本銀との貿易で巨利を獲得。1639年江戸幕府の鎖国政策の推進により来航を禁止された。その後変遷ののち,1910年共和国となった。
本阿弥光悦
ほんあみこうえつ @@@LINK=本阿弥光悦 本阿弥光悦

本阿弥光悦
ほんあみこうえつ

1558〜1637
安土桃山〜江戸時代初期の工芸家
京都の上層町衆。家業の刀剣鑑定のほかに,書道では寛永の三筆と称され,漆芸では蒔絵 (まきえ) に斬新な作風を示し,楽焼 (らくやき) の系統の陶芸は品格高く,さらには絵画・作庭・茶道など幅広い芸術活動を行った。また角倉了以と協力して『嵯峨本』といわれる古典を刊行。晩年徳川家康から洛北鷹ケ峰の地を与えられ工芸に専念した。

本願寺
ほんがんじ @@@LINK=本願寺 本願寺

本願寺
ほんがんじ

浄土真宗の本山
浄土真宗開祖親鸞の死後,京都東山大谷の地にを移し,御影堂を建てたのが始まりで,鎌倉末期より本願寺と称した。15世紀中ごろの8代蓮如 (れんによ) は中興の祖といわれ教団組織を拡大し,16世紀後半11代顕如 (けんによ) のとき,勢力絶大で織田信長に対抗した(石山合戦)。顕如没後,子の教如が弟の准如に跡を譲るが,徳川家康から京都東六条に寺地を寄進され寺を建てた。以後准如側を西本願寺(本願寺派),教如側を東本願寺(大谷派)と呼び,勢力は二分された。
本願寺光佐
ほんがんじこうさ @@@LINK=本願寺光佐 本願寺光佐

本願寺光佐
ほんがんじこうさ

顕如 (けんによ)
本家
ほんけ @@@LINK=本家 本家

本家
ほんけ

平安中期以後,寄進地系荘園が盛行して以来の最高の領有者をいう
寄進者から名目上の領主権を寄進された領家が,さらに年貢の一部を上位者に寄進した場合,これを本家と呼んだ。摂関家や女院等が多かった。
凡下
ぼんげ @@@LINK=凡下 凡下

凡下
ぼんげ

鎌倉時代,侍身分に属さない一般庶民の呼称
甲乙人 (こうおつにん) ともいう。御家人・非御家人などの侍とは厳重に区別され,また最下層の下人・所従・奴婢 (ぬひ) とも区別された。幕府法では,侍と凡下は刑法その他において異なる待遇をうけている。室町時代以降は地下人とか土民と呼ばれた。
本渓湖製鉄所
ほんけいこせいてつじょ @@@LINK=本渓湖製鉄所 本渓湖製鉄所

本渓湖製鉄所
ほんけいこせいてつじょ

1910年,大倉財閥が設立した満州最初の製鉄所
奉天省本渓湖に日中合弁で設立。同地は12か所の鉄山と,炭田をもつ絶好の立地条件で,順調に発展した。'37年鮎川義介の満州重工業開発会社に吸収され,'44年昭和製鋼所などと合同して満州製鉄会社となる。'45年敗戦によりソ連接収,のち中国に移管され,中国を代表する鉄鋼コンビナートに発展した。
本佐録
ほんさろく @@@LINK=本佐録 本佐録

本佐録
ほんさろく

江戸初期,本多正信の政治論書
1巻。正信著と伝えられるが不詳。2代将軍徳川秀忠から政治の要点を尋ねられた著者が,政治の心得,大名の統制,農民支配など7カ条を記したもの。
本山・末寺
ほんざん・まつじ @@@LINK=本山・末寺 本山・末寺

本山・末寺
ほんざん・まつじ

仏教の一宗派の根本道場を本山または本寺といい,これに属する寺院を末寺という
平安初期から用いられたが,特に江戸時代には幕府の寺院統制策として制度化され,本山の末寺に対する支配強化がはかられた。
本地垂迹説
ほんじすいじゃくせつ @@@LINK=本地垂迹説 本地垂迹説

本地垂迹説
ほんじすいじゃくせつ

本地である仏が衆生救済のため,仮に日本の神となって現れたと説く神仏習合思想
奈良時代に成立し,平安時代に発展し,両部神道・山王一実神道となった。この思想により,僧形八幡像・神宮寺などがつくられた。鎌倉時代には,神を本地とする反本地垂迹説も現れたが,明治初期の神仏分離令まで存続した。
本地物
ほんじもの @@@LINK=本地物 本地物

本地物
ほんじもの

室町時代〜江戸時代にかけて本地垂迹思想の影響によってつくられた小説・物語類
室町時代の御伽 (おとぎ) 草子や江戸時代の説経節・浄瑠璃・黄表紙などを通じて神仏寺社の由縁を内容とするものをいう。
本所
ほんじょ @@@LINK=本所 本所

本所
ほんじょ

室町時代の座の保護者
寄進地系荘園において,本家・領家のうち領主権の実質を握っていたもの。
座の手工業者商人から座銭をとり,財源とするかわりに,商品の製造・販売に独占的権利を与えた。

本所法
ほんじょほう @@@LINK=本所法 本所法

本所法
ほんじょほう

荘園の本所である寺院や貴族が定めた成文法 荘園制の発展とともに成長したもので,本所の家務に関する家務法と,荘園内に発達した荘園法に分けられる。家務法は寺院に発達し,荘園法は領主の徴税権・裁判権をおもな内容とし,本所ごとに内容が異なるものが多い。
本陣
ほんじん @@@LINK=本陣 本陣

本陣
ほんじん

江戸時代,主要街道の宿場に置かれた大名・宮家・公家・幕臣用の宿舎
参勤交代の制によって発達し,宏壮な建築で,経営は休泊料や諸種の補助によった。本陣だけで収容しきれない場合に備えて脇本陣も設けられた。
本草学
ほんぞうがく @@@LINK=本草学 本草学

本草学
ほんぞうがく

平安時代〜江戸時代の薬物学
薬用を目的に動・植・鉱物を研究。中国におこり,古代に渡来し,漢方医学と並んで発展した。平安時代には『倭名類聚抄』など本草書の著述がある。江戸初期に明の『本草綱目』が紹介されて以来儒学者・医者の間で盛行。貝原益軒の『大和本草』,稲生若水 (いのうじやくすい) の『庶物類纂』,小野蘭山の『本草綱目啓蒙』などを生んだ。江戸後期,蘭学・オランダ医学の発展とともに博物学の傾向を強め,動物・植物・鉱物・薬物の諸学に分化した。
本多光太郎
ほんだこうたろう @@@LINK=本多光太郎 本多光太郎

本多光太郎
ほんだこうたろう

1870〜1954
明治〜昭和期の物理学者
愛知県の生まれ。東大卒。長岡半太郎の指導で磁気ひずみの実験的研究を行い,ドイツ留学後,鉄鋼および鉄合金の物理冶金学的研究に進み,KS鋼(1917),新KS鋼('33)を発明。'22年金属材料研究所を設立し,初代所長となる。鉄鋼学の世界的権威者。'31〜41年,東北大総長。'37年,第1回文化勲章受章。

本多忠勝
ほんだただかつ @@@LINK=本多忠勝 本多忠勝

本多忠勝
ほんだただかつ

1548〜1610
江戸初期の譜代大名
通称平八郎。三河(愛知県)の人。徳川家譜代ので,井伊直政・榊原 (さかきばら) 康政・酒井忠次とともに徳川四天王の一人。家康の江戸入府後,上総 (かずさ) (千葉県)大多喜城主,のち伊勢(三重県)桑名城主となった。勇猛な性格で,主として軍事面で家康を支えた。『本多平八郎絵姿屛風』は若き忠勝を描いたというが確証はない。

本多利明
ほんだとしあき @@@LINK=本多利明 本多利明

本多利明
ほんだとしあき

1743〜1821
江戸後期の経世思想家
越後(新潟県)の人。江戸に出て天文学・数学・剣術を学び,24歳のとき江戸音羽に塾を開いた。一方蘭学を学び諸国を歴遊して,民間人として初めて蝦夷 (えぞ) 地に渡り,地理・物産を調査した。西洋事情にも通じ,貿易の促進,蝦夷地の開発,商工業奨励など積極的な重商主義的思想を説いた。主著に『西域物語』『経世秘策』など。

本多平八郎
ほんだへいはちろう @@@LINK=本多平八郎 本多平八郎

本多平八郎
ほんだへいはちろう

本多忠勝
本多正純
ほんだまさずみ @@@LINK=本多正純 本多正純

本多正純
ほんだまさずみ

1565〜1637
江戸初期の譜代大名
正信の子。三河(愛知県)の人。徳川家康・秀忠に仕え,幕府の実力者として大いに権勢をふるった。豊臣氏滅亡や武家諸法度の制定に参画。下野(栃木県)宇都宮城主(15万5000石)となったが,辣腕 (らつわん) のため周囲のねたみを買い,反対派の策謀で改易となり失脚した。

本多正信
ほんだまさのぶ @@@LINK=本多正信 本多正信

本多正信
ほんだまさのぶ

1538〜1616
江戸初期の譜代大名
三河(愛知県)の人。徳川家康・秀忠に仕えて信任を得,幕政に参画して忠勤を励んだ。『本佐録』はその著書といわれている。

本朝皇胤紹運録
ほんちょうこういんしょううんろく @@@LINK=本朝皇胤紹運録 本朝皇胤紹運録

本朝皇胤紹運録
ほんちょうこういんしょううんろく

室町時代に編纂された皇室系図
皇室系図中最も権威あるもの。洞院(藤原)満季 (みつすえ) が後小松天皇の勅命により撰進。その後塙保己一 (はなわほきいち) の『群書類従』によって増補された。
本朝書籍目録
ほんちょうしょじゃくもくろく @@@LINK=本朝書籍目録 本朝書籍目録

本朝書籍目録
ほんちょうしょじゃくもくろく

中世(13世紀ころ)に編纂された,日本でできた書物の現存最古の総目録
『仁和寺書籍目録』ともいう。編者未詳。神事・帝紀・公事・氏族・地理・管絃などの20部門に分類し,書名・巻数・著書を記す。漢籍のみの集録など不備な点もあるが貴重な史料
本朝世紀
ほんちょうせいき @@@LINK=本朝世紀 本朝世紀

本朝世紀
ほんちょうせいき

平安後期の歴史書
藤原通憲 (みちのり) (信西)が鳥羽法皇の命をうけ,六国史につぐ国史の編纂を企図したもの。現在大部分は欠けて巻数は不明,935年から1153年までのものが断続して現存する。平安中・末期の研究上貴重な史料。
本朝通鑑
ほんちょうつがん @@@LINK=本朝通鑑 本朝通鑑

本朝通鑑
ほんちょうつがん

江戸前期,幕命で編修された歴史書
3代将軍徳川家光の命により林羅山が編修し献じた『本朝編年録』を,子の鵞峯 (がほう) が拡充追加し,1670年4代将軍家綱に献じた。310巻。宋の司馬光の『資治通鑑 (しじつがん) 』にならった漢文・編年体で,神代から17世紀初めの後陽成天皇までを記述。独断を避け厳密な考証につとめ,儒学の実証的合理主義による歴史書の先駆をなす。
本朝文粋
ほんちょうもんずい @@@LINK=本朝文粋 本朝文粋

本朝文粋
ほんちょうもんずい

平安中期の漢詩文集
14巻。藤原明衡 (あきひら) 編。9世紀以来の文人・名家の漢詩文427編を中国の『文選』にならって集録したもの。当時の漢文学の水準を知るだけでなく,宮廷史料としても重要である。
本田畑
ほんでんぱた @@@LINK=本田畑 本田畑

本田畑
ほんでんぱた

江戸前期,検地を経て年貢高を定められた田畑
以後開発された新田に対していう。1726(享保11)年の新検地条目で,元禄(1688〜1704)以前の検地帳記載の田畑を本田畑,元禄〜享保年間(1716〜36)を古新田,享保以後を新田とした。本田畑は一般に租率が重く,商品作物などの作付制限がきびしかった。
本土空襲
ほんどくうしゅう @@@LINK=本土空襲 本土空襲

本土空襲
ほんどくうしゅう

太平洋戦争中,アメリカ軍爆撃機による日本本土への空襲
1942年4月,空母から発進したB25爆撃機による空襲が最初。ついでサイパン島陥落('44)以後,同島を基地とする大型爆撃機B29が,本土の軍需工場を,さらに大都市を無差別に空襲,焼夷弾による焼土戦術をとった。とくに'45年3月10日の東京大空襲では東京の下町地区を中心に夜間焼夷弾爆撃が行われ,死者約10万,約100万人が焼けだされた。
本途物成
ほんとものなり @@@LINK=本途物成 本途物成

本途物成
ほんとものなり

江戸時代,田畑に課せられた年貢
本年貢ともいう。最も基本的な租税で,納が原則。その額は村高(貢租率)を乗じ村単位で納入した。課方法には検見 (けみ) 法と定免 (じようめん) 法とがあり,四公六民ないし五公五民標準であった。
本能寺の変
ほんのうじのへん @@@LINK=本能寺の変 本能寺の変

本能寺の変
ほんのうじのへん

1582(天正10)年,明智光秀が主君織田信長を滅ぼした戦い
5月29日,信長は中国地方の毛利攻めにみずから出陣しようとして安土城を発ち,30日京都本能寺に宿泊した。かねて怨みを含んでいた部将明智光秀は丹波から中国地方に進撃を命じられていたが,急に反転し,信長を本能寺に襲い自殺させた(6月2日未明)。妙覚寺にいた織田信忠も奮戦ののち自殺。信長の天下統一の事業はここに挫折した。
翻波式
ほんぱしき @@@LINK=翻波式 翻波式

翻波式
ほんぱしき

平安初期の木彫技法
仏像衣文ひだの表現に翻転するような感じを与える技法を使う。すなわち断面が,丸くふくらんだ大波の間に三角波のような鋭い小波をいれた彫り方。代表例として,法華寺の「十一面観音像」,室生寺の「弥勒堂釈迦如来像」など。
本百姓
ほんびゃくしょう @@@LINK=本百姓 本百姓

本百姓
ほんびゃくしょう

江戸時代,農村における年貢負担者
高持 (たかもち) 百姓ともいう。村内に田畑・屋敷をもち,検地帳に記載され,年貢納入の責任をもつ百姓で,小作人などの水呑百姓(無高 (むだか) )に対する。一人前の百姓として村寄合で発言でき,村の自治に参与した。地方三役なども本百姓中から選出された。
本補地頭
ほんぽじとう @@@LINK=本補地頭 本補地頭

本補地頭
ほんぽじとう

鎌倉幕府から,御家人本来の所領・所職を地頭職補任の形で安堵された地頭
1185(文治元)年以来の地頭をさす。それぞれの来歴があるから得分形態・職権内容ともその土地ごとの先例によるため差異があり一定していない。この点,収益の比率が規定された承久(1219〜22)以後の新補地頭に対する概念といえる。
本間家
ほんまけ @@@LINK=本間家 本間家

本間家
ほんまけ

江戸時代,羽後(山形県)酒田の豪農商
廻船問屋として,庄内・最上地方の米・・漆・蠟・紅花・からむしなどの産物大坂で販売し,また大坂の商品を庄内・出羽地方に販売して巨利を得た。18世紀末には24万石の大地主となり,庄内藩はじめ近隣諸藩にも財政的に大きな影響力をもった。明治時代以後は典型的な寄生地主となった。
本物返
ほんもつかえし @@@LINK=本物返 本物返

本物返
ほんもつかえし

中世〜近世において,売ったときの価格相当の物品=米布帛(本物)を返せば,いつでも買い戻しうる売買方法
「ほんものかえし」とも読む。銭で売買する場合を本銭 (ほんせん) 返という。田畑の売買に行われ,室町時代には徳政の対象になった。江戸時代には質入れと同一視され,いつでも買い戻せることから田畑永代売買禁止令にふれず,事実上の売買として盛んに行われた。
本門寺
ほんもんじ @@@LINK=本門寺 本門寺

本門寺
ほんもんじ

東京都大田区池上にある日蓮宗大本山
日蓮に帰依した鎌倉幕府の工匠池上兄弟が1283〜84年ころ創建。日蓮入滅の地として崇敬が集まったが,江戸初期に不受不施派となって幕府圧迫をうけた。その後諸大名や歴代将軍の保護をうけ栄えたが,第二次世界大戦で多くを焼失した。
本領安堵
ほんりょうあんど @@@LINK=本領安堵 本領安堵

本領安堵
ほんりょうあんど

中世将軍御家人先祖伝来の土地の領有権を保証すること
鎌倉時代,御家人の多くは開発領主子孫として,先祖伝来の私領を領有していたが,幕府はその土地の領有権を承認して御家人との間に封建的主従関係を結んだ。
本両替
ほんりょうがえ @@@LINK=本両替 本両替

本両替
ほんりょうがえ

江戸時代,金銀の取扱いを主とした両替商
金銀の両替のほか預金・貸付け・為替・手形発行などを行った。大坂では十人両替のもと120軒の本両替があり,江戸・京都でも発達した。
毎日新聞
まいにちしんぶん @@@LINK=毎日新聞 毎日新聞

毎日新聞
まいにちしんぶん

明治時代以来の日本の代表的全国新聞
1888年『大阪毎日新聞』として発足。1906年東京へ進出。'11年『東京日日新聞』を合併し,'43年『毎日新聞』と改称。『朝日新聞』に対抗して発展したが,'77年経営悪化により,発行は新たに設立した新会社に引き継がれた。
前島密
まえじまひそか @@@LINK=前島密 前島密

前島密
まえじまひそか

1835〜1919
明治時代,近代郵便制度の創設者
越後高田藩出身。旧姓上野。江戸に出て1866年幕臣前島家を継ぐ。'69年明治政府に出仕し,'71年駅逓頭として近代的郵便制度の創設に尽力した。明治十四年の政変で大隈重信とともに下野し,立憲改進党に参加。のち貴族院議員となった。

前田玄以
まえだげんい @@@LINK=前田玄以 前田玄以

前田玄以
まえだげんい

1539〜1602
安土桃山時代の武将。豊臣家五奉行の一人
美濃(岐阜県)の人。もと比叡山の。織田信長に仕え,本能寺の変(1582)後織田信雄から京都の奉行に任ぜられた。のち豊臣秀吉に仕え,丹波(京都府)に5万石を領した。民政を担当,京都寺社を管轄した。関ケ原の戦い(1600)には西軍に属したが,東軍に内応して情報を伝え,戦後徳川家康から領地を安堵された。

前田氏
まえだし @@@LINK=前田氏 前田氏

前田氏
まえだし

江戸時代の加賀藩主
尾張出身の利家が織田信長・豊臣秀吉に仕え,賤ケ岳 (しずがたけ) の戦い(1583)後金沢に居城を築いた。江戸時代には越中・能登・加賀102万石を領し,最大の外様大名であったが,松平姓を賜り幕府と親しい関係を結んだ。元禄時代に名君綱紀を出し,後期には11代将軍徳川家斉の息女溶姫を正室に迎えるため建てた赤門(現在,東京都文京区本郷の東大にある門)などで有名。
前田青邨
まえだせいそん @@@LINK=前田青邨 前田青邨

前田青邨
まえだせいそん

1885〜1977
大正・昭和期の日本画家
岐阜県の生まれ。安田靫彦 (ゆきひこ) らの紅児会に参加,第6回文展で画名を知られる。のち院展で活躍し,帝展会員・東京芸大教授を経て日本画壇の中心となる。明快でのびのびした筆法で独自の画風を確立晩年まで気力・画技ともに充実した作品を発表した。1955年文化勲章受章。代表作に『京名所八題』『洞窟の頼朝』など。

前田綱紀
まえだつなのり @@@LINK=前田綱紀 前田綱紀

前田綱紀
まえだつなのり

1643〜1724
江戸中期の加賀(石川県)藩主
1645年,3歳で家督を継いだ。義父の会津藩主保科正之の援助を得て改作法の実施・貧民救済などを行い,民政に尽力し「中興の英主」といわれた。また学問を奨励し,木下順庵・室鳩巣 (むろきゆうそう) らを招き,古書・古文書の収集保存・刊行を行い,学問の発達にも貢献。名君の一人として有名。

前田利家
まえだとしいえ @@@LINK=前田利家 前田利家

前田利家
まえだとしいえ

1538〜99
安土桃山時代の武将。加賀(石川県)藩主前田家の祖
幼名犬千代,のち孫四郎・又左衛門 (またざえもん) と称した。尾張(愛知県)の人。織田信長に仕え,桶狭間 (おけはざま) ・姉川・長篠の戦いなどに功をたて,1583年賤ケ岳 (しずがたけ) の戦い後,豊臣秀吉に仕え,加賀の尾山城(金沢城)に移った。五大老の一人として,秀吉の死後秀頼の守り役となり,徳川家康と並び大事を決した。

前田利常
まえだとしつね @@@LINK=前田利常 前田利常

前田利常
まえだとしつね

1593〜1658
江戸前期の加賀(石川県)藩主
利家の第4子。徳川将軍家と婚姻を結ぶなどして藩政初期の因難な時期を調整,内政では殖産興業や改作法などで農村支配の基礎を築いた。晩年孫の綱紀を後見した。
前田正名
まえだまさな @@@LINK=前田正名 前田正名

前田正名
まえだまさな

1850〜1921
明治時代の経済官僚。殖産興業政策の推進者
薩摩藩出身。フランスに留学。帰国後大蔵省に入り,1884年「興業意見」を編集して太政官に提出。のち山梨県知事・東京農学校長・農商務次官・貴族院勅選議員などを歴任し,死後男爵に叙せられた。
前野良沢
まえのりょうたく @@@LINK=前野良沢 前野良沢

前野良沢
まえのりょうたく

1723〜1803
江戸中期の蘭学者
豊前(大分県)中津藩医。青木昆陽に蘭学を学んだ。1771年杉田玄白らと江戸小塚原で死刑囚の解剖を見て,『ターヘル‐アナトミア』の正確さに驚き,玄白らと翻訳,1774年『解体新書』として刊行した。

前橋製糸所
まえばしせいしじょ @@@LINK=前橋製糸所 前橋製糸所

前橋製糸所
まえばしせいしじょ

明治初年,前橋藩が設立した製糸工場
1870年,スイス人技師の指導により製糸を開始。日本最初の器械製糸を行う。廃藩置県で群馬県に移管,のち民間に払い下げられた。
前原一誠
まえばらいっせい @@@LINK=前原一誠 前原一誠

前原一誠
まえばらいっせい

1834〜76
明治初期の政治家
長州藩出身。吉田松陰の松下村塾で学び,尊王攘夷運動に参加。明治新政府では,参議・兵部大輔を歴任したが木戸孝允らと見が合わず1870年下野し帰郷。'76年萩の乱をおこし,敗れ処刑された。

澳門
マカオ
Macao @@@LINK=澳門 澳門

澳門
マカオ
Macao

中国,広東 (カントン) 省南部にあるポルトガル領港市
16世紀中ごろより,ポルトガルの植民地となり,日明貿易の根拠地となったが,日本の朱印船貿易オランダ進出により,しだいにさびれた。19世紀後半,完全にポルトガル領となったが,1999年12月20日中国に返還された。
勾玉
まがたま @@@LINK=勾玉 勾玉

勾玉
まがたま

縄文時代〜古墳時代にかけて使われた装飾用玉類の一つ
「曲玉」とも書く。湾曲した玉の一端に穴があけてあり,日本で独自に発達した。硬玉・ガラス・めのうなどでつくられた。

まき @@@LINK=牧 牧


まき

牛馬の飼育地
大宝令に厩牧令が規定され,延喜式には御牧(勅旨牧)・諸国牧・近都牧の3種があり,牛馬を飼育し,皇室や政府・軍団や駅馬・伝馬供給源となった。平安時代には貴族の私牧が,鎌倉時代以降は軍馬・運輸の必要から各地に牧ができた。江戸時代も盛んに行われ,幕府の公牧(佐倉など),南部藩の牧馬,松江藩の牧牛などが有名。
巻上法・輪積法
まきあげほう・わづみほう @@@LINK=巻上法・輪積法 巻上法・輪積法

巻上法・輪積法
まきあげほう・わづみほう

土器の成形法
粘土紐状に長くのばし,から巻きあげていく方法が巻上法,粘土のを順次積み上げる方法が輪積法
真木和泉
まきいずみ @@@LINK=真木和泉 真木和泉

真木和泉
まきいずみ

真木保臣 (やすおみ)
蒔絵
まきえ @@@LINK=蒔絵 蒔絵

蒔絵
まきえ

日本独自の漆工芸の技法
漆で模様を描き,金・銀・スズなどの金属粉や色粉を蒔き,絵模様を表したもの。平安時代から発達,鎌倉時代に高蒔絵や平蒔絵がおこり,室町時代には幸阿弥・五十嵐両家が代々足利将軍家の御用蒔絵師として活躍した。桃山時代に豪華な高台寺蒔絵が現れ,江戸初期には本阿弥光悦や尾形光琳らによって栄えたが,江戸末期には形式化し質的に低下した。
巻狩
まきがり @@@LINK=巻狩 巻狩

巻狩
まきがり

狩猟の一種
多人数で四方から狩場を囲み,獲物を中に取りこめて狩る方法で,特に中世において武技鍛錬としてしばしば行われた。
牧野富太郎
まきのとみたろう @@@LINK=牧野富太郎 牧野富太郎

牧野富太郎
まきのとみたろう

1862〜1957
明治〜昭和期の植物学者
土佐(高知県)の生まれ。独学で植物分類学を習得。全国山野の植物を採集研究し,日本人として初めて日本の植物に学名をつけた(2500余種)。1951年最初の文化功労者となり,死後 '57年文化勲章を受章。主著に『日本植物図鑑』など。

牧野伸顕
まきののぶあき @@@LINK=牧野伸顕 牧野伸顕

牧野伸顕
まきののぶあき

1861〜1949
大正・昭和期の政治家
大久保利通の2男。薩摩(鹿児島県)の生まれ。ロンドン日本大使館在任中,伊藤博文の知遇を得て外交官から政界に入り,文部大臣・枢密顧問官・パリ講和会議全権・宮内大臣・内大臣などを歴任。親英米派の重鎮であったため,二・二六事件(1936)で襲撃され難を逃れたが,引退した。

真木保臣
まきやすおみ @@@LINK=真木保臣 真木保臣

真木保臣
まきやすおみ

1813〜64
幕末の尊攘派志士
和泉守と称す。筑後の久留米水天宮の神官出身。会沢正志斎と交わり尊王攘夷運動に活躍。寺田屋事件に関係し,1863年八月十八日の政変で長州に走り,翌年尊攘派挽回のため長州藩兵を率い上洛。禁門の変をおこしたが,敗れ自刃した。
枕草子
まくらのそうし @@@LINK=枕草子 枕草子

枕草子
まくらのそうし

平安中期の代表的随筆集
作者は清少納言。10世紀末〜11世紀初めころの成立。中宮定子に仕えた宮廷生活を回想した部分や自分の感想を述べた部分など軽妙な機知と鋭利な観察の筆を走らせている。平安時代の美的感性の一つの典型をうちだした。『源氏物語』と並び平安女流文学の双璧とされる。
枕草子春曙抄
まくらのそうししゅんしょしょう @@@LINK=枕草子春曙抄 枕草子春曙抄

枕草子春曙抄
まくらのそうししゅんしょしょう

江戸前期,北村季吟の『枕草子注釈
1674年刊。12清少納言の伝記考証本文語句の詳細な注釈,本文成立の事情など,近代に至るまで『枕草子』研究の定本であった。
正岡子規
まさおかしき @@@LINK=正岡子規 正岡子規

正岡子規
まさおかしき

1867〜1902
明治時代の俳人・歌人
本名は常規 (つねのり) 。松山の生まれ。東大国文科を中退し,日本新聞社に入社。写生を主張して俳句を革新し,俳誌『ホトトギス』を指導,高弟に高浜虚子・河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう) らがいる。また万葉調・写生に基づく和歌の革新を唱え,伊藤左千夫・長塚節らを門下に擁し,のちのアララギ派の基礎をつくった。著書に『歌よみに与ふる書』『病牀六尺』など。

真崎甚三郎
まさきじんざぶろう @@@LINK=真崎甚三郎 真崎甚三郎

真崎甚三郎
まさきじんざぶろう

1876〜1956
昭和期の軍人
陸軍大将。佐賀県の生まれ。荒木貞夫とならぶ,皇道派首領として権力があったが,統制派の進出により教育総監を更迭され,このため相沢事件がおこった。二・二六事件後の粛軍人事で予備役に編入された。第二次世界大戦後,戦犯として2年間収監された。

正宗白鳥
まさむねはくちょう @@@LINK=正宗白鳥 正宗白鳥

正宗白鳥
まさむねはくちょう

1879〜1962
明治〜昭和期の小説家
本名は忠夫。岡山県の生まれ。東京専門学校(現早稲田大学)卒。1908年発表の小説『何処へ』以来自然主義作家として平凡な生活を虚無的な筆致で描く。戯曲・文芸批評にも異色を示した。'50年文化勲章受章。ほかに『入江のほとり』『牛部屋の臭ひ』など。

増田長盛
ましたながもり @@@LINK=増田長盛 増田長盛
ますだながもり @@@LINK=増田長盛 増田長盛

増田長盛
ましたながもり

1545〜1615
安土桃山時代の武将
尾張(愛知県)の人。少年時代から豊臣秀吉に仕え,長じて五奉行の一人に任ぜられ,特に検地奉行として尽力。文禄の役には兵站 (へいたん) にあたり,和議を進めた。文吏派大名の実力者。大和(奈良県)郡山に20万石を与えられた。関ケ原の戦い(1600)には西軍に属し,戦後高野山に追放され,ついで武蔵(埼玉県)岩槻に流された。

増田長盛
ますだながもり

ましたながもり
マーシャル‐プラン
Marshall plan @@@LINK=マーシャルプラン マーシャルプラン

マーシャル‐プラン
Marshall plan

1947年6月,アメリカが提案したヨーロッパ経済復興援助計画
発案者の国務長官マーシャルの名によって命名トルーマン大統領のソ連圏の封じこめ政策を具体化する面をもち,ソ連・東欧諸国は参加せず,'48年から西側16カ国で発足。'51年末に打ち切られるまで,114億ドルの援助を行った。
増鏡
ますかがみ @@@LINK=増鏡 増鏡

増鏡
ますかがみ

南北朝時代の歴史物語。四鏡の最後
14世紀中ごろの成立。20章。作者不詳(二条良基が有力)。1180年後鳥羽天皇生誕から1333年後醍醐 (ごだいご) 天皇の隠岐 (おき) からの帰還まで,15代約150年間の史書。王朝と幕府との内乱衝突を描くことが主題文体は擬古文で『源氏物語』などを借用したといわれ,流麗優雅である。
益田四郎時貞
ますだしろうときさだ @@@LINK=益田四郎時貞 益田四郎時貞

益田四郎時貞
ますだしろうときさだ

天草四郎時貞
増田長盛
ましたながもり @@@LINK=増田長盛 増田長盛
ますだながもり @@@LINK=増田長盛 増田長盛

増田長盛
ましたながもり

1545〜1615
安土桃山時代の武将
尾張(愛知県)の人。少年時代から豊臣秀吉に仕え,長じて五奉行の一人に任ぜられ,特に検地奉行として尽力。文禄の役には兵站 (へいたん) にあたり,和議を進めた。文吏派大名の実力者。大和(奈良県)郡山に20万石を与えられた。関ケ原の戦い(1600)には西軍に属し,戦後高野山に追放され,ついで武蔵(埼玉県)岩槻に流された。

増田長盛
ますだながもり

ましたながもり
磨製石器
ませいせっき @@@LINK=磨製石器 磨製石器

磨製石器
ませいせっき

石を磨いてつくりあげた石器
打製石器に対するで,この技術は新石器時代のもの。日本では縄文時代に磨製の石斧や石剣がみられ,弥生時代には石包丁が現れた。
町会所
まちかいしょ @@@LINK=町会所 町会所

町会所
まちかいしょ

江戸時代,自治的な市政事務をとる所
大坂では惣会所の下にあり,町年寄が出勤して事務をとったが,江戸では町名主の玄関間がそれにあてられた。
町衆
まちしゅう @@@LINK=町衆 町衆

町衆
まちしゅう

室町時代,都市において自治・自衛的な共同体をつくり地域的な集団生活を営んだ商工業者
「ちょうしゅう」とも読む。特に京都の町衆が有名で,室町衆・三条町衆など町名を冠して町衆と呼ばれた。南北朝内乱期から室町初期にみられ,応仁の乱(1467〜77)以後,土倉・酒屋などを中心とする商工業者が指導権を握り,自衛のため団結行動した。1532年の法華一揆の主体も日蓮宗の信者の町衆であった。文化的には公家の影響をうけることが多く,能・狂言小唄・風流 (ふりゆう) などは町衆を主体とした芸能である。
町代
まちだい @@@LINK=町代 町代

町代
まちだい

江戸時代の町役人
「ちょうだい」とも読む。正しくは「町年寄の手代」。町年寄は家業をもつため常時町会所に出勤することが困難なので,かわりに執務した有給の補助員。各家ごとに十数名置かれ,業務を分担した。
町年寄
まちどしより @@@LINK=町年寄 町年寄

町年寄
まちどしより

江戸時代の町役人
①江戸の市政をつかさどった役職
②大坂の市政をつかさどった役職
町奉行支配下に奈良屋・樽屋・喜多村の3家が世襲。名主 (なぬし) 以下を支配し,法令の伝達,町名主の進退,株仲間の受理,諸税の収納などにあたった。また拝領地の地代収入などいろいろな特権が与えられた。
惣年寄の下で市政一切を処理した。町人の選挙で決められ,ほとんど無給の名誉職で,江戸の町名主にあたる。
町名主
まちなぬし @@@LINK=町名主 町名主

町名主
まちなぬし

江戸時代の町役人
正しくは名主。江戸の市政の中心。町年寄の下にあり,職務法令の伝達,人別改,願書訴状の奥書,治安の維持など町政全般に及んだ。世襲で他業を許されず,町から給料をうけた。二百数十名おり1人で数町を支配大坂の町年寄に相当した。
町飛脚
まちびきゃく @@@LINK=町飛脚 町飛脚

町飛脚
まちびきゃく

江戸時代の民間経営の飛脚
1663年,江戸・大坂・京都の三都商人が三都間を往復する飛脚業を始め,書状・金銭などを運んだ。東海道往復に6日を要したので「定六 (じようろく) 」,また毎月2の日に3回大坂を発したので「三度屋(三度飛脚)」とも呼ばれた。
町火消
まちびけし @@@LINK=町火消 町火消

町火消
まちびけし

江戸時代の町方の消防組織
1718年から,町奉行大岡忠相 (ただすけ) が町人自衛の店火消を発展させ,「いろは48組」など約1万人の消防組を編成,町の費用で江戸の消防にあたらせた。組ごとに纒 (まとい) をもち,武家の定火消・大名火消の領域にも進出し活動した。
町奉行
まちぶぎょう @@@LINK=町奉行 町奉行

町奉行
まちぶぎょう

江戸幕府の職名
江戸の町人を支配し,行政・司法・警察事務をつかさどった。老中の支配に属し,定員は2名で南北に分かれ,月番制をとった。その配下には与力 (よりき) ・同心がいた。寺社奉行・勘定奉行と並んで三奉行と称し,評定所一座を構成して幕府の重要事項の裁決機関としての機能を果たした。
町役人
まちやくにん @@@LINK=町役人 町役人

町役人
まちやくにん

江戸時代,町奉行のもとで町方の民政を行った役職
身分は町人で,名称は都市によって異なるが,江戸では町年寄・名主・月行事など,大坂では惣年寄・町年寄・町代などといった。由緒ある豪家の世襲や互選などで任じられた。
松井須磨子
まついすまこ @@@LINK=松井須磨子 松井須磨子

松井須磨子
まついすまこ

1886〜1919
明治・大正時代の新劇女優
本名小林正子。長野県の生まれ。1909年文芸協会に入り『ハムレット』のオフェリアなど情熱的演技で名声を博す。'13年師の島村抱月と恋愛して脱会,ともに芸術座を組織。『復活』のカチューシャで全国的人気を得る。抱月の後を追い翌年自殺した。

松浦鎮信
まつらしげのぶ @@@LINK=松浦鎮信 松浦鎮信
まつうらしげのぶ @@@LINK=松浦鎮信 松浦鎮信

松浦鎮信
まつらしげのぶ

(初代)1549〜1614
戦国〜江戸初期の外様大名。肥前(長崎県)平戸藩主
隆信の長子。豊臣秀吉に従い,文禄・慶長の役に参加。関ケ原の戦い(1600)では西軍の誘いに応ぜず,のち徳川家康により肥前松浦郡・彼杵 (そのき) 郡・壱岐の所領を安堵された。'09年オランダ船の誘致に成功し,平戸貿易の最盛期を築いた。

松浦鎮信
まつうらしげのぶ

まつらしげのぶ
松岡映丘
まつおかえいきゅう @@@LINK=松岡映丘 松岡映丘

松岡映丘
まつおかえいきゅう

1881〜1938
明治〜昭和期の日本画家
民俗学者柳田国男の弟。兵庫県の生まれ。1904年東京美術学校日本画科卒。橋本雅邦らに師事。'16年平福百穂 (ひやくすい) らと金鈴社を結成し大和絵の復興に尽くした。代表作に『平治の重盛』など。

松岡洋右
まつおかようすけ @@@LINK=松岡洋右 松岡洋右

松岡洋右
まつおかようすけ

1880〜1946
昭和期の外交官・政治家
山口県の生まれ。オレゴン州立大卒。外交官を歴任したのち,南満州鉄道株式会社(満鉄)副総裁に就任。帰国後,政友会から衆議院議員に当選。1933年国際連盟総会で首席全権として連盟脱退を声明した。満鉄総裁を経て,'40年第2次近衛文麿内閣の外相となり,日独伊三国同盟を締結。'41年ドイツ・イタリア訪問の帰途日ソ中立条約を結び,日米交渉に反対し,近衛首相と対立した。第二次世界大戦後,A級戦犯として審理中,獄中で病死した。

松尾芭蕉
まつおばしょう @@@LINK=松尾芭蕉 松尾芭蕉

松尾芭蕉
まつおばしょう

1644〜94
江戸前期の俳人
名は宗房 (むねふさ) ,別号は桃青・風羅坊など。伊賀(三重県)上野の生まれ。もと伊賀上野の藤堂藩士。武士身分を捨てて町人の世界に入った。江戸で談林派などの俳諧を学び,のち「さび」「しおり」「細み」などを根本理念とした蕉風を開拓。俳諧を芸術として確立した。蕉門十哲をはじめ,多くのすぐれた門弟を輩出させ,各地に旅し,名句と紀行文を残した。その句風は『猿蓑』など「芭蕉七部集」にうかがうことができる。紀行文では『奥の細道』が著名。

マッカーサー
Douglas MacArthur @@@LINK=マッカーサー マッカーサー

マッカーサー
Douglas MacArthur

1880〜1964
アメリカの軍人
1930年陸軍参謀総長,太平洋戦争中,米極東指令官として対日戦を指揮したが,日本軍にフィリピンを占領される。'42年,連合国軍南西太平洋軍司令官となり,戦争終結後,'45年連合国最高司令官として日本占領政策を推進した。朝鮮戦争の勃発で国連軍司令官となったが,強硬策を主張したため '51年トルーマン大統領に罷免された。

松方財政
まつかたざいせい @@@LINK=松方財政 松方財政

松方財政
まつかたざいせい

明治中期,大蔵卿松方正義による財政政策
松方は1881年から大蔵卿(のち大蔵大臣)として,紙幣整理・兌換制度の確立,日本銀行の設立,官営事業払下げなど財政確立政策を進めた。西南戦争後のインフレに対してきびしいデフレ政策をとったため,重税と物価低落により,商業的農業農村工業を圧迫し,中小地主の中には没落して小作人や労働者となる者も出たが,この時期に産業資本確立の基盤が形成された。
松方正義
まつかたまさよし @@@LINK=松方正義 松方正義

松方正義
まつかたまさよし

1835〜1924
明治・大正時代の政治家
薩摩藩出身。明治十四年の政変ののち,大隈重信に代わって大蔵卿となり,いわゆる松方財政を推進し,また金本位制の実施など,日本資本主義の発展と経済的基盤の確立に大きな役割を果たした。1891年と'96年には内閣を組織し,第1次内閣では,蛮勇演説問題で議会解散総選挙品川弥二郎内相の選挙干渉があり,第2次内閣は大隈重信と連立し(松隈内閣),金本位制を確立した。1900年元老に列せられた。
松川事件
まつかわじけん @@@LINK=松川事件 松川事件

松川事件
まつかわじけん

1949年8月17日,福島県下,東北本線松川駅と金谷川駅間でおこった列車転覆事件
この事故で,乗務員3名が死亡し,犯人として近くの東芝松川工場の労組員11名と国鉄労組員9名が逮捕された。1950年,福島地裁で死刑5人を含む有罪判決があったが,'63年最高裁は全員無罪を確定した。この間,作家広津和郎らによる裁判批判が展開された。
松倉重政
まつくらしげまさ @@@LINK=松倉重政 松倉重政

松倉重政
まつくらしげまさ

?〜1630
江戸初期の肥前(長崎県)島原藩主
関ケ原の戦い・大坂の役の功により1616年肥前島原4万石を領有。領内は旧領主有馬晴信時代からキリシタン信徒が多く,重政は信仰弾圧と重税迫害を加え,島原の乱の原因をつくった。またキリシタンの本拠地ルソン遠征も計画した。

末期養子
まつごようし @@@LINK=末期養子 末期養子

末期養子
まつごようし

江戸時代の武家で,嗣子のない当主が重病危篤に際し,急いで願い出た相続人(養子)
急養子ともいう。幕府は当初これを許可しなかったが,そのため大名家が断絶して牢人発生の因ともなったので,1651年養父が17歳以上50歳以下の場合は末期養子を認めた。
松崎慊堂
まつざきこうどう @@@LINK=松崎慊堂 松崎慊堂

松崎慊堂
まつざきこうどう

1771〜1844
江戸後期の朱子学者
肥後(熊本県)の農家に生まれ,15歳のとき江戸の昌平坂学問所に入り,林述斎に学んだ。博学と考証学的学風で知られ,のち遠江 (とおとうみ) (静岡県)掛川藩の儒官となった。蛮社の獄で門人渡辺崋山の赦免に尽くした。

松崎天神縁起絵巻
まつざきてんじんえんぎえまき @@@LINK=松崎天神縁起絵巻 松崎天神縁起絵巻

松崎天神縁起絵巻
まつざきてんじんえんぎえまき

鎌倉末期の絵巻物
14世紀ころ成立。6巻。作者不詳。菅原道真 (みちざね) の一代記と,死後神としての霊験談および松崎天神(現防府天満宮)創建の由来を描く。濃厚豊麗な色彩と的確な描線力作。山口県防府天満宮蔵。重要文化財
末寺
まつじ @@@LINK=末寺 末寺

末寺
まつじ

本寺に属する寺院。
末子相続
まっしそうぞく @@@LINK=末子相続 末子相続

末子相続
まっしそうぞく

末子が親の地位・財産・祭祀権などを継承すること
長子相続に対するもの。5世紀ごろまで大王位にも末子相続が認められている。
松下嘉兵衛
まつしたかへい @@@LINK=松下嘉兵衛 松下嘉兵衛

松下嘉兵衛
まつしたかへい

1538〜98
戦国時代の武将
長則の子。今川義元に仕えたころ,のちの豊臣秀吉が一時その下に寄食した。徳川家康に仕え,のち秀吉に迎えられ,1590年小田原征討に従軍して,遠江 (とおとうみ) (静岡県)久能城主となった。
松下見林
まつしたけんりん @@@LINK=松下見林 松下見林

松下見林
まつしたけんりん

1637〜1703
江戸前期の儒医・歴史学者
大坂の人。古林見宜 (けんき) に医学を学び,算数・経学にも通じた。21歳で京都にのぼり国史の研究に没頭,『日本三代実録』の校訂や『異称日本伝』を編纂した。和漢古典にくわしく,蔵書は10万巻余といわれる。晩年讃岐(香川県)高松藩に仕えた。
松下禅尼
まつしたぜんに @@@LINK=松下禅尼 松下禅尼

松下禅尼
まつしたぜんに

生没年不詳
鎌倉中期,安達景盛 (あだちかげもり) の娘で,北条時氏(泰時の子)の妻
4代執権経時・5代時頼らの生母としてその教育に尽くす。『徒然草』に,みずから障子の切張りをして質素倹約を説いたという逸話がある。
松平容保
まつだいらかたもり @@@LINK=松平容保 松平容保

松平容保
まつだいらかたもり

1835〜93
幕末の会津藩主
1852年襲封。'62年幕政改革で京都守護職となり,会津藩兵を率い,八月十八日の政変・禁門の変で尊王攘夷派を京都から一掃,長州藩の反撃を退けるなど公武合体派の重鎮として活動した。'68年鳥羽・伏見の戦いに敗れ,会津に帰国。奥羽越列藩同盟の中心として会津若松城で抗戦したが降伏。のち許され日光東照宮宮司となる。

松平定信
まつだいらさだのぶ @@@LINK=松平定信 松平定信

松平定信
まつだいらさだのぶ

1758〜1829
江戸後期の幕府老中で,寛政の改革の実施者
号は白河楽翁。田安宗武の子。1783年白河藩主となり,天明の飢饉を切り抜け名声を高めた。'87年老中首座となり,11代将軍徳川家斉 (いえなり) を補佐して寛政の改革を断行したが,尊号一件や大奥の改革が原因で'93年辞職。晩年は著述に専念し,『宇下人言 (うげのひとこと) 』『花月草紙』『国本論』などを著した。

松平氏
まつだいらし @@@LINK=松平氏 松平氏

松平氏
まつだいらし

徳川家康までの徳川氏の本姓
三河(愛知県)松平郷の土豪に入婿した親氏から9代目の家康が,1566年新田氏の一族得川氏の子孫と称し「徳川」を名のった。以後,将軍家・御三家・御三卿以外の親藩大名が旧姓の松平を称した。
松平春嶽
まつだいらしゅんがく @@@LINK=松平春嶽 松平春嶽

松平春嶽
まつだいらしゅんがく

松平慶永 (よしなが)
松平信綱
まつだいらのぶつな @@@LINK=松平信綱 松平信綱

松平信綱
まつだいらのぶつな

1596〜1662
江戸前期の幕府老中。武蔵(埼玉県)川越藩主
三河(愛知県)の人。3代将軍徳川家光に仕え1633年老中となり,島原の乱('37〜38)を鎮定し,川越6万石(のち7万5000石)の藩主となった。家光死後は若い将軍家綱を補佐し,由井正雪の乱(慶安事件)の鎮定,江戸大火の処理など幕藩体制の確立に尽力した。

松平康英
まつだいらやすひで @@@LINK=松平康英 松平康英

松平康英
まつだいらやすひで

1768〜1808
江戸後期の長崎奉行
1807年長崎奉行に就任。翌 '08年,イギリスの軍艦フェートン号の長崎港乱入・暴行に対し,防備不十分で強硬策をとり得ず,いたずらに暴行を許した責任をとり,イギリス艦退去後,ただちに切腹自殺した。

松平慶永
まつだいらよしなが @@@LINK=松平慶永 松平慶永

松平慶永
まつだいらよしなが

1828〜90
幕末の越前藩主
号は春嶽。田安家出身。1838年襲封。横井小楠らを起用して藩政改革に功をあげ,将軍継嗣問題では一橋派の中心として活動,安政の大獄で隠居・謹慎処分をうける。'62年の幕政改革で政事総裁職となり公武合体に努力。'64年一時京都守護職となる。'67年大政奉還にあたり山内豊信らと徳川氏擁護につとめたが実現できなかった。王政復古で議定,のち民部卿・大蔵卿などを歴任した。

松永尺五
まつながせきご @@@LINK=松永尺五 松永尺五

松永尺五
まつながせきご

1592〜1657
江戸前期の朱子学者
貞徳の子。京都の人。藤原惺窩 (せいか) の門に入った。幼くしてをよくし,13歳のとき豊臣秀頼の前で経書を講じたといわれる。京都に私塾講習堂・尺五堂を設け,5000人の門弟が集まり,木下順庵・貝原益軒ら有能な人材を多く輩出した。

松永貞徳
まつながていとく @@@LINK=松永貞徳 松永貞徳

松永貞徳
まつながていとく

1571〜1653
江戸前期の連歌・俳諧師貞門派の始祖
別号に長頭丸 (ちようずまる) ・逍遊軒 (しようゆうけん) など。京都の人。連歌師松永永種 (えいしゆ) の子として生まれ,幼くして細川幽斎・里村紹巴 (じようは) らから和歌・連歌を学んだ。のち山崎宗鑑の俳諧連歌とは別の貞門派俳諧をおこした。『油糟 (あぶらかす) 』『淀川』『御傘 (ごさん) 』によって式目を唱え,俳諧による滑稽を説いた。門下に北村季吟らがいる。

松永久秀
まつながひさひで @@@LINK=松永久秀 松永久秀

松永久秀
まつながひさひで

1510〜77
戦国時代の武将
阿波(徳島県)の人。初め三好長慶 (ながよし) に仕え家老となったが,その死後主家三好氏を滅ぼし,13代将軍足利義輝を襲い自殺させ,筒井順慶と戦って東大寺大仏殿を焼打ちした。1568年織田信長が入京すると降伏したが,のちそむき信貴山で敗死。三好長慶とともに下剋上の典型的人物といわれる。

末法思想
まっぽうしそう @@@LINK=末法思想 末法思想

末法思想
まっぽうしそう

釈迦入滅後,しだいに仏教が衰え,釈迦の教えが行われなくなる時代が来るという仏教的史観
教(教説)・行(実践)・証(結果)のそろっている正法の時代1000年(一説に500年),教・行のみの像 (ぞう) 法1000年,ついで教のみの末法万年がやってくるという。日本では平安中期,1052(永承7)年に末法に入ったと信じられ,折からの戦乱疫病などの社会不安とあいまって,浄土信仰が盛んになり,鎌倉仏教発生の要因ともなった。
末法灯明記
まっぽうとうみょうき @@@LINK=末法灯明記 末法灯明記

末法灯明記
まっぽうとうみょうき

平安時代仏教
1巻。末法においては破戒無戒僧尼も擁護されるべきだと述べている。本書思想が仏界に与えた影響は大きい。最澄撰と伝えられるが,最澄の他の著作と思想的矛盾があり,平安中期の偽作らしい。
松前藩
まつまえはん @@@LINK=松前藩 松前藩

松前藩
まつまえはん

江戸時代,蝦夷 (えぞ) 地(北海道)松前周辺を領有した外様小藩
福山藩ともいう。藩主は15世紀中ごろから北海道南部に勢力をはった武田氏(蠣崎 (かきざき) 氏)が。徳川家康から蝦夷地での交易権を得,福山(松前)に居城し松前氏を称した。産米がないため石高はなかった(のち5万石格)が,アイヌの漁獲物を交易して利益を得た。江戸後期と幕末に,ロシア対策と箱館開港などから2度天領となったため,陸奥(福島県)梁川 (やながわ) などに移封された。
松前奉行
まつまえぶぎょう @@@LINK=松前奉行 松前奉行

松前奉行
まつまえぶぎょう

江戸後期,蝦夷 (えぞ) 地(北海道)松前に置かれた遠国奉行
レザノフの北辺襲撃に対応し,1807年蝦夷地全域は幕府直轄領となり,'02年から設けられていた箱館奉行を改称し松前に新設定員も4名に増員され,蝦夷地支配と北辺警備にあたった。'21年蝦夷地を松前藩に返還して廃止。
松村月溪
まつむらげっけい @@@LINK=松村月溪 松村月溪

松村月溪
まつむらげっけい

呉春
松本萩
まつもとはぎ @@@LINK=松本萩 松本萩

松本萩
まつもとはぎ

萩焼の一流派。
松浦氏
まつらし @@@LINK=松浦氏 松浦氏

松浦氏
まつらし

中世〜近世,九州の肥前地方を領有した大名
鎌倉時代から室町末期にかけて発展し,武士団の党的結合によって松浦党と呼ばれて団結していた。初め少弐氏,つづいて大内氏竜造寺氏に属したが,豊臣秀吉の九州征伐で秀吉に降り,関ケ原の戦い(1600)で徳川方につき平戸6万石の藩主となった。
松浦鎮信
まつらしげのぶ @@@LINK=松浦鎮信 松浦鎮信
まつうらしげのぶ @@@LINK=松浦鎮信 松浦鎮信

松浦鎮信
まつらしげのぶ

(初代)1549〜1614
戦国〜江戸初期の外様大名。肥前(長崎県)平戸藩主
隆信の長子。豊臣秀吉に従い,文禄・慶長の役に参加。関ケ原の戦い(1600)では西軍の誘いに応ぜず,のち徳川家康により肥前松浦郡・彼杵 (そのき) 郡・壱岐の所領を安堵された。'09年オランダ船の誘致に成功し,平戸貿易の最盛期を築いた。

松浦鎮信
まつうらしげのぶ

まつらしげのぶ
松浦宮物語
まつらのみやものがたり @@@LINK=松浦宮物語 松浦宮物語

松浦宮物語
まつらのみやものがたり

鎌倉初期に成立したと思われる物語文学
作者・成立年代不詳。文体・構想は『宇津保物語』を模し,舞台を中国(唐)にまで広げた伝奇的・神仙的な物語。
万里小路宣房
までのこうじのぶふさ @@@LINK=万里小路宣房 万里小路宣房

万里小路宣房
までのこうじのぶふさ

1258〜?
鎌倉末期・南北朝時代の公卿
藤原宣房ともいう。後醍醐 (ごだいご) 天皇即位後,その親政を補佐し,吉田定房・北畠親房とともに「のちの三房」といわれた。1324年正中の変に際し勅使として鎌倉におもむき日野俊基らの釈放につとめ,'31年元弘の変では官爵を削られたが,建武新政府にも登用され,雑訴決断所の頭人となり政界に復帰した。
曲直瀬道三
まなせどうさん @@@LINK=曲直瀬道三 曲直瀬道三

曲直瀬道三
まなせどうさん

1507〜94
戦国〜安土桃山時代の医者
曲直瀬正盛 (しようせい) ともいう。字は一溪。京都の人。幼くして僧となり,近江(滋賀県)天光寺・京都相国寺に住んだ。田代三喜 (さんき) に李朱医学を学び,1546年還俗 (げんぞく) し医療に活躍。正親町 (おおぎまち) 天皇の侍医となり,織田信長・足利義輝・細川晴元・三好長慶・松永久秀・毛利元就らに厚遇され,豊臣秀吉・徳川家康にも重じられた。わが国医学中興の祖といわれる。

間部詮勝
まなべあきかつ @@@LINK=間部詮勝 間部詮勝

間部詮勝
まなべあきかつ

1802〜84
幕末の政治家で,越前(福井県)鯖江 (さばえ) 藩主
1814年襲封。大坂城代・京都所司代を歴任し,'40〜'43年老中。'58年井伊直弼 (なおすけ) の大老就任後老中に再任され,将軍継嗣問題条約勅許問題などに奔走。安政の大獄で尊攘派を弾圧し梅田雲浜 (うんぴん) らを逮捕した。'62年,老中在職中の追罰をうけ封され,謹慎を命じられた。

間部詮房
まなべあきふさ @@@LINK=間部詮房 間部詮房

間部詮房
まなべあきふさ

1666〜1720
江戸中期の6代将軍徳川家宣・7代家継の側用人
初め猿楽師喜多七太夫の弟子。1684年家宣の小姓となり,家宣の将軍就任(1709)後側用人に登用され,老中格上野(群馬県)高崎藩主となった。家宣死後も家継に仕え,新井白石の活躍を助け,政局にあたった。吉宗が8代将軍になると左遷され,越後(新潟県)村上藩に移封された。

間引
まびき @@@LINK=間引 間引

間引
まびき

江戸時代の農村で行われた嬰児殺し
出産前の堕胎を「おろす」というのに対して,出生直後に嬰児を圧殺などで殺すことをいった。農村労働力の減少,道徳上の見地から厳禁されたが効果なく,人口停滞の原因にもなった。
真人
まひと @@@LINK=真人 真人

真人
まひと

684年,天武天皇が制定した八色の姓 (やくさのかばね) の第1位
皇族出身の諸氏に与えられた。皇親勢力重視を示し,天皇権力を確立するために新設された。
間宮林蔵
まみやりんぞう @@@LINK=間宮林蔵 間宮林蔵

間宮林蔵
まみやりんぞう

1775〜1844
江戸後・末期の北方探検家
常陸 (ひたち) (茨城県)の人。伊能忠敬 (ただたか) に測量術を学んだ。1803年幕命で西蝦夷 (えぞ) 地を巡見し,'08年には樺太 (からふと) から海峡(間宮海峡)を渡って黒竜江下流を踏査し,樺太が島であることを確認し,幕府に復命した。そのようすは著書『東韃 (とうだつ) 地方紀行』に詳しく記されている。なお,シーボルト事件の密告者としても知られる。

豆板銀
まめいたぎん @@@LINK=豆板銀 豆板銀

豆板銀
まめいたぎん

江戸幕府の銀貨
小玉銀ともいわれ,形は一定せず,豆形で5匁 (もんめ) (約17g)内外。丁銀とともに秤量貨幣。豆板銀が鋳造されたことにより,従来の丁銀の切遣いは不要となった。品質は同時につくられた丁銀と同じであった。
マリア‐ルース号事件
マリア‐ルースごうじけん @@@LINK=マリアルース号事件 マリアルース号事件

マリア‐ルース号事件
マリア‐ルースごうじけん

1872(明治5)年,横浜港でおこったペルー船マリア‐ルース号の中国人苦力(クーリー)売買に関する事件
逃亡した苦力から虐待の事実が明らかになったので,神奈川県庁に臨時法廷を開き,ペルー船を抑留,船長を取り調べた。その結果,苦力全員の釈放を決定したが,ペルー政府がこれに抗議し,ロシア皇帝の仲裁で日本側の勝訴となる。これを契機に国内の芸娼妓人身売買が問題化し,芸娼妓解放令が出された。
マルコ=ポーロ
Marco Polo @@@LINK=マルコ=ポーロ マルコ=ポーロ

マルコ=ポーロ
Marco Polo

1254〜1324
イタリアの旅行者
1271年父・叔父とともに東方旅行に出発,中央アジアを経て元の上都開平に入り世祖(フビライ)に謁した。17年間元朝に仕え,この間中国各地を旅行し見聞を広めた。『東方見聞録』の著者として有名である。
丸橋忠弥
まるばしちゅうや @@@LINK=丸橋忠弥 丸橋忠弥

丸橋忠弥
まるばしちゅうや

?〜1651
江戸前期の牢人で,慶安事件の首謀者の一人
宝蔵院流の槍の達人で,江戸お茶の水に道場を開いた。1651年由井正雪の反幕府の陰謀に参加したが,未然に発覚して捕らえられ磔刑となった。

円山応挙
まるやまおうきょ @@@LINK=円山応挙 円山応挙

円山応挙
まるやまおうきょ

1733〜95
江戸中期の画家。円山派を創始,近世写生画の祖
丹波(京都府)の農家に生まれ,狩野派を学び,元の写実画や西洋画の遠近法も習得。写生画を大成し,「写形純熟すれば気韻生動す」と説いて当時の精神主義の画人と対立した。親しみやすい画風で,代表作に『七難七福図巻』『保津川図屛風』『雪松図屛風』『群獣図屛風』など。

円山派
まるやまは @@@LINK=円山派 円山派

円山派
まるやまは

江戸中期以後の写生風日本画の流派
円山応挙が開いた流派で,長沢蘆雪 (ろせつ) ・山口素絢 (そけん) らを輩出し,京都の画壇で大きな勢力をもった。平明でわかりやすい画風であったが,しだいに技巧的となり形式化した。明治期に入り,洋画の画風をとり入れ発展を続けた。
マレー
David Murray @@@LINK=マレー マレー

マレー
David Murray

1830〜1905
アメリカの教育家。御雇外国人の一人
1873年来日。'78年の帰国まで文部省学監として,文部大輔田中不二麿を助けて教育制度の整備に尽力した。

満済
まんさい @@@LINK=満済 満済

満済
まんさい

1378〜1435
室町中期の真言宗の僧
醍醐 (だいご) 寺座主・三宝院門跡。足利義満の養子となり,幕府の最高顧問として政治に参画,黒衣の宰相と呼ばれた。その日記『満済准后 (じゆごう) 日記』は当時の史料として重要。

万載狂歌集
まんざいきょうかしゅう @@@LINK=万載狂歌集 万載狂歌集

万載狂歌集
まんざいきょうかしゅう

江戸後期,四方赤良 (よものあから) (大田南畝)・朱楽菅江 (あけらかんこう) (山崎景貫)ら編の狂歌集
1783年刊。17巻2冊。古今の作者230余人を四季・離別・羇旅など部類別に配列。狂歌の熱狂的流行の端をなした。奇抜軽快・滑稽味・享楽味・率直平明の天明狂歌の特色を顕著に表している。
卍崩しの勾欄
まんじくずしのこうらん @@@LINK=卍崩しの勾欄 卍崩しの勾欄

卍崩しの勾欄
まんじくずしのこうらん

飛鳥建築にみえる勾欄の一形式
法隆寺独特のもので勾欄にという字をくずした形の透かし彫りがあり,これを人字形割束 (わりづか) で支えている。系譜は中国の雲崗 (うんこう) ,西域インドに求められている。
満州国
まんしゅうこく @@@LINK=満州国 満州国

満州国
まんしゅうこく

1932(昭和7)年,中国東北部に建国された日本の傀儡 (かいらい) 国家(〜'45)
1931年関東軍は満州事変をおこして,'32年3月清国の廃帝溥儀 (ふぎ) を執政に迎えて満州国を建国。'34年から帝政となる。首都は長春(新京)。「五族協和(日・満・漢・蒙・朝)」による「王道楽土」建設をスローガンとする独立国の体裁であるが,関東軍司令官の指導のもと,日本人が行政機関の要職を独占し,農工商各部門で特権を有し経済開発も日本の新興財閥の手に握られた。'45年8月,対日参戦したソ連軍に占領され満州国は崩壊した。
満州事変
まんしゅうじへん @@@LINK=満州事変 満州事変

満州事変
まんしゅうじへん

1931(昭和6)年9月の奉天郊外でおこった柳条湖事件に始まる日本の満州に対する軍事行動(〜'33)
満州市場は日本の対外投資の7割に達しており,特に工業製品の重要な輸出市場であるとともに,農産資源や鉄・石炭・アルミ原料の供給地でもあった。政府・軍部は「満蒙は日本の生命線」と宣伝。'31年9月18日関東軍による南満州鉄道爆破事件を中国側の行為として,関東軍は軍事行動を展開。第2次若槻礼次郎内閣の不拡大方針に反して,東三省(奉天・吉林・黒竜江の3省)を武力占領し,満州国として独立させ,さらに熱河省を占領した。国際連盟は中国側の提訴に応じ,リットン調査団を派遣し,柳条湖事件は日本の自衛行動と認めず,満州国も否定する報告書に基づく対日勧告を採択した。日本は連盟を脱退し,連盟やアメリカとの対立を深めていった。
満州某重大事件
まんしゅうぼうじゅうだいじけん @@@LINK=満州某重大事件 満州某重大事件

満州某重大事件
まんしゅうぼうじゅうだいじけん

張作霖爆殺事件
饅頭屋宗二
まんじゅうやそうじ @@@LINK=饅頭屋宗二 饅頭屋宗二

饅頭屋宗二
まんじゅうやそうじ

1498〜1581
戦国時代の歌人
号は林逸。奈良の町人。牡丹花肖柏から古今伝授をうけた。著書として『源氏物語林逸抄』,唐宋詩文の抄写などがある。また『饅頭屋本節用集』は彼の刊行という。

万寿寺
まんじゅじ @@@LINK=万寿寺 万寿寺

万寿寺
まんじゅじ

京都市東山区にある臨済宗の寺
東福寺派で京都五山の第5位。1097年白河上皇が建てた六条御堂を,1261年改名した。1434年火災にあい,再興されて東福寺の末寺となっている。
万多親王
まんだしんのう @@@LINK=万多親王 万多親王

万多親王
まんだしんのう

788〜830
平安初期の皇族
桓武天皇の皇子。『新撰姓氏録』の編者の一人。

茨田堤
まんだのつつみ @@@LINK=茨田堤 茨田堤

茨田堤
まんだのつつみ

記紀の記事にみえ,仁徳天皇の頃,淀川の氾濫を防ぐため,秦氏一族に築かせた堤防という
その後平安初期にかけ,たびたび決壊したので修理を重ねた。大阪府枚方市から大阪市の野田に至る淀川左岸にあったという。
曼荼羅
まんだら @@@LINK=曼荼羅 曼荼羅

曼荼羅
まんだら

密教で修行や儀式の際に掛けた絵図
梵語mandalaの音訳で「曼陀羅」とも書く。元来は本質・心髄を有するものの意で,転じて道場・壇などと訳した。密教では,大日如来を中心とし諸尊を一定の方式に基づいて図示したもので,金剛界・胎蔵界の両曼荼羅がある。
満鉄
まんてつ @@@LINK=満鉄 満鉄

満鉄
まんてつ

南満州鉄道株式会社
政所
まんどころ @@@LINK=政所 政所

政所
まんどころ

古代,親王・貴族の家政事務機関
②鎌倉・室町両幕府の政治機関
平安中期から権門勢家に置かれ,おもに寄進地系荘園の事務を処理した。摂関時代には摂関家の政所が政治的実権をもった。
1190年源頼朝が権大納言兼右近衛大将に任ぜられると,公家にならい,翌年公文所を政所と改めた。一般政務にあたり,別当は公家出身の大江広元,のち北条氏が世襲した。室町幕府ではおもに財政・訴訟を担当し,執事の職は初め二階堂氏,のち伊勢氏が世襲した。


政所下文
まんどころくだしぶみ @@@LINK=政所下文 政所下文

政所下文
まんどころくだしぶみ

政所の家司が,家政や荘園事務に関して出した私文書
摂関政治とともに,政所下文が,国政上のほとんどの事務を処理鎌倉幕府の政所下文も同じ形式で,政務財政はこれで処理されるようになった。
万年通宝
まんねんつうほう @@@LINK=万年通宝 万年通宝

万年通宝
まんねんつうほう

皇朝十二銭の一つ。760年鋳造。
満濃池
まんのういけ @@@LINK=満濃池 満濃池

満濃池
まんのういけ

香川県西部,満濃町にある,奈良時代に築かれた日本屈指の大溜池
8世紀初頭につくられ,9世紀になって空海が再興,修築した。明治期にも修造され,1959年には大修築が完成し,大溜池となっている。
万福寺
まんぷくじ @@@LINK=万福寺 万福寺

万福寺
まんぷくじ

京都府宇治市にある黄檗 (おうばく) 宗の大本山
1659年,明の僧隠元が創建。以後も中国僧が多く住み,日本の仏教界に寄与した。建築は明の禅寺にならったもので,黄檗様という。鉄眼道光の『黄檗版一切経』の版木を蔵す。
万宝山事件
まんぽうざんじけん @@@LINK=万宝山事件 万宝山事件

万宝山事件
まんぽうざんじけん

昭和初期の1931年7月,中国満州(東北地方)の長春西北の万宝山付近でおきた,朝鮮人農民と中国人農民との衝突事件
日本の支援で入植した朝鮮人農民が開墾のため水路造成工事を始めると,水害を恐れる中国人農民が水路を埋め立て朝鮮人農民と衝突,中国や日本の警察が出動した。朝鮮各地で朝鮮人のデモ,中国人襲撃,焼打ちなど暴動がおきた。日本の満州侵略の口実の一つとなった。
万葉仮名
まんようがな @@@LINK=万葉仮名 万葉仮名

万葉仮名
まんようがな

国語の音を漢字本来の意味とは関係なく音や訓をかりて1字1音で表したもの
たとえば「なら」を「寧楽」と記した。早くから用いられたが,奈良時代にもっぱら使用され,『万葉集』『古事記』はこれで記されている。平安時代,これから草仮名を経て平仮名が生まれた。
万葉考
まんようこう @@@LINK=万葉考 万葉考

万葉考
まんようこう

江戸中期,賀茂真淵 (まぶち) の『万葉集』注釈書
万葉集考ともいう。1760年刊。20巻・別記6巻・他1巻,24冊。総論において『万葉集』の評論をし,ついで集中より6巻を選び本文の批評と注釈を施した。独創的見解が多く,近世の『万葉集』研究の先駆をなす。
万葉集
まんようしゅう @@@LINK=万葉集 万葉集

万葉集
まんようしゅう

奈良時代,現存最古の歌集
8世紀後半の成立。20巻。編者未詳だが大伴家持 (やかもち) が中心といわれている。仁徳天皇から淳仁天皇の759年まで,和歌約4500首をおさめる。配列法は雑歌 (ぞうか) ・相聞 (そうもん) ・挽歌 (ばんか) などの分類法をとり,歌体は長歌・短歌・旋頭歌 (せどうか) ・仏足石歌などの形式がある。万葉仮名で記される。作者は天皇から防人 (さきもり) ・農民に至る広範なもので,作品の時代は一般につぎの4期に分けられる。第1期は壬申の乱(672)までの時代で,素朴な歌が多く,代表歌人として額田王 (ぬかだのおおきみ) がいる。第2期は平城京遷都(710)までで,柿本人麻呂らが出て最盛期を迎えた。第3期は733年まで,山部赤人・山上憶良 (やまのうえのおくら) ・大伴旅人らが活動した。第4期は759年まで,大伴家持・大伴坂上郎女 (おおとものさかのうえのいらつめ) らが出,歌風も繊細・優麗へと移っていった。
万葉集古義
まんようしゅうこぎ @@@LINK=万葉集古義 万葉集古義

万葉集古義
まんようしゅうこぎ

江戸後期,鹿持雅澄 (かもちまさずみ) の『万葉集』全巻の注釈書
19世紀前半の成立。141冊。本文の注釈のほかに,さらに枕詞 (まくらことば) ・人物伝・品物・地名など広範にわたって解釈を行った。従来の諸注釈を集大成したもの。
万葉代匠記
まんようだいしょうき @@@LINK=万葉代匠記 万葉代匠記

万葉代匠記
まんようだいしょうき

江戸中期,僧契沖の『万葉集』注釈書
20巻。徳川光圀 (みつくに) が下河辺長流 (しもこうべちようりゆう) に『万葉集』の注釈を依頼したが,長流が契沖を推薦し,契沖が師に代わって記したのでその名がある。精密な文献的考証に基づいた国学発展上の画期的名著。初稿本(1688年成立)と精選本('90年成立)とがある。
三池炭鉱
みいけたんこう @@@LINK=三池炭鉱 三池炭鉱

三池炭鉱
みいけたんこう

福岡県大牟田市を中心とする九州第一の炭鉱
江戸時代に柳川藩・三池藩が経営,1873年明治政府が没収してから洋式技術による官営の近代的炭鉱となった。'88年三井に払い下げられ,以後三井財閥の重要な収入源となった。第二次世界大戦後,労働争議が活発化,1959〜60年三井三池争議がおこった。'97年廃鉱。
三井寺
みいでら @@@LINK=三井寺 三井寺

三井寺
みいでら

園城寺 (おんじようじ)
御内人
みうちびと @@@LINK=御内人 御内人

御内人
みうちびと

鎌倉後期,幕府の執権北条氏の得宗家(惣領家)の家臣
御内方 (みうちかた) ・得宗被官 (とくそうひかん) ・御内之ともいう。長崎氏らはその代表である。一般の御家人を外様といい,御内人と外様との対立が霜月騒動をおこした。
三浦按針
みうらあんじん @@@LINK=三浦按針 三浦按針

三浦按針
みうらあんじん

江戸初期に来日したイギリス人ウィリアム=アダムズの日本名。
三浦氏
みうらし @@@LINK=三浦氏 三浦氏

三浦氏
みうらし

中世,相模国の豪族。坂東八平氏の一つ
系図に異同があるが桓武平氏の一流。源義家に従い代々源氏に属す。義明のとき相模大介 (だいすけ) となり,これ以後三浦介と称した。頼朝挙兵に参加,戦功によって子義澄 (よしずみ) は相模国守護となる。鎌倉幕府創業以来の重臣として幕政に重きをなしたが,泰村のとき,執権北条時頼の挑発をうけて一族は滅亡(宝治合戦)。のち支族によって再興されたが,義同 (よしあつ) のとき北条早雲によって滅ぼされた。
三浦環
みうらたまき @@@LINK=三浦環 三浦環

三浦環
みうらたまき

1884〜1946
明治〜昭和期の声楽家
東京の生まれ。東京音楽学校卒。ドイツ留学後,1911年帝国劇場専属のソプラノ歌手として日本で最初のオペラを上演。のちヨーロッパ・アメリカ各地にオペラ『蝶々夫人』をもって巡演し,世界的名声を博した。

三浦梅園
みうらばいえん @@@LINK=三浦梅園 三浦梅園

三浦梅園
みうらばいえん

1723〜89
江戸中期の哲学者
豊後(大分県)の人。長崎に遊学,天文学を学んだ。儒書にも親しんだが,論理・数理・物理・倫理などを総称する「条理」の学説を説き,自然弁証法的論理を展開した。著書に『玄語 (げんご) 』『贅語 (ぜいご) 』『敢語』『価原』など。

三浦周行
みうらひろゆき @@@LINK=三浦周行 三浦周行

三浦周行
みうらひろゆき

1871〜1931
明治〜昭和期の歴史学者。日本法制史の研究に貢献した
島根県の生まれ。東大卒。東大史料編纂員を経て,京大教授となる。精密な史料考証と新史料の開拓では斯界第1人者。法制史の大家で,また地方史研究にも尽力し,『堺市史』を編んだ。主著に『法制史の研究』など。
三浦泰村
みうらやすむら @@@LINK=三浦泰村 三浦泰村

三浦泰村
みうらやすむら

?〜1247
鎌倉中期の武将
義村の子。承久の乱(1221)で戦功をたて,北条氏との姻戚関係を基盤に勢力を拡大,1238年評定衆となる。やがて北条時頼・安達景盛の三浦氏排斥の企てに反抗し,'47年一族とともに挙兵,戦って敗死した(宝治合戦)。

三浦義澄
みうらよしずみ @@@LINK=三浦義澄 三浦義澄

三浦義澄
みうらよしずみ

1127〜1200
鎌倉初期の武将
義明の子。三浦介 (みうらのすけ) という。1180年源頼朝の挙兵に応じて立ったが敗れ,安房に渡って頼朝に従う。平家追討軍にあって壇の浦の戦いに功あり,のち鎌倉幕府の重臣となった。

三浦義村
みうらよしむら @@@LINK=三浦義村 三浦義村

三浦義村
みうらよしむら

?〜1239
鎌倉前期の武将
義澄 (よしずみ) の子。源頼朝挙兵に際し父に従って各地を転戦。鎌倉幕府成立後,梶原景時を排撃し,1213年和田義盛の反乱では北条氏を助け,承久の乱(1221)でも北条泰時の軍に従って戦功をたて,泰時の信任を得る。'25年評定衆となり,御成敗式目の制定にも参加した。

三重の大一揆
みえのだいいっき @@@LINK=三重の大一揆 三重の大一揆

三重の大一揆
みえのだいいっき

明治前期,三重県におこった地租改正反対の農民一揆
伊勢暴動ともいう。1876年12月,下飯野郡魚見村で戸長区長に地価決定の不満を訴え拒絶されたことにを発して暴動がおこり,全県下に広がり,愛知岐阜・堺各県に波及した。この大一揆に対し,県令は大阪・名古屋鎮台に出兵を請い,23日ようやく鎮定した。
見返り美人
みかえりびじん @@@LINK=見返り美人 見返り美人

見返り美人
みかえりびじん

江戸前期,菱川師宣浮世絵代表作
三方原の戦い
みかたがはらのたたかい @@@LINK=三方原の戦い 三方原の戦い

三方原の戦い
みかたがはらのたたかい

1572年,遠江 (とおとうみ) (静岡県)三方原で行われた武田信玄徳川家康との合戦
信玄は上洛しようとして遠江に侵入し,浜松城に迫った。家康織田信長援軍を得て三方原にを出し戦ったが,大敗してかろうじて浜松城に逃げ帰った。しかし信玄は浜松城を攻めず帰国し,翌1573年三河侵入の途中病死した。家康一代の難戦といわれた。
三河一向一揆
みかわいっこういっき @@@LINK=三河一向一揆 三河一向一揆

三河一向一揆
みかわいっこういっき

戦国時代,徳川家康に反抗して三河(愛知県)岡崎周辺でおこった一向宗門徒の一揆
三河領国化を進めた家康の農民収奪に対抗し,門徒・農民が反徳川土豪層と結んで1563年一揆をおこした。家康は苦戦したが鎮圧に成功し,以後徳川氏による三河支配は安定した。
三河物語
みかわものがたり @@@LINK=三河物語 三河物語

三河物語
みかわものがたり

江戸初期,大久保彦左衛門忠教 (ただたか) の著書
1622年頃成立。徳川氏累代の仁政や譜代の功績,それに自己の体験を記した自伝の3巻よりなる。徳川氏の興起や当時の武士生活を知る重要史料。
三木清
みききよし @@@LINK=三木清 三木清

三木清
みききよし

1897〜1945
大正・昭和期の哲学者・論家
兵庫県の生まれ。京大哲学科を出てドイツ・パリに留学。1925年帰国後,法政大学教授となる。ヒューマニズムの立場からマルクス主義に接近し知識人に多大の影響を与えた。共産党同調者として検挙され,教職を去りジャーナリズムに活躍。治安維持法によって再度検挙され ‘45年9月獄死した。著書に『パスカルに於ける人間の研究』『哲学入門』『人生論ノート』など。

三木武夫内閣
みきたけおないかく @@@LINK=三木武夫内閣 三木武夫内閣

三木武夫内閣
みきたけおないかく

三木武夫(1907〜88)を首班とした自由民主党内閣(1974.12〜76.12)
田中角栄内閣のあとをうけて組閣。物価鎮静・公害問題に対処したが,財政逼迫で苦しむ。ロッキード事件の徹底解明をめぐって党内主流派と対立,総選挙で自民党は敗北し,福田赳夫 (たけお) 内閣に代わった。
御木本幸吉
みきもとこうきち @@@LINK=御木本幸吉 御木本幸吉

御木本幸吉
みきもとこうきち

1858〜1954
明治〜昭和期の真珠養殖事業家。ミキモトパールの名で有名
三重県の生まれ。1893年に三重県英虞 (あご) に真珠養殖場を開き,'93年半円真珠,1905年真円真珠の養殖に成功。海外に輸出し世界市場の60%を占めるに至り,「真珠王」と称された。

御教書
みきょうじょ @@@LINK=御教書 御教書

御教書
みきょうじょ

平安時代,貴族の家司 (けいし) が主人の命をうけて,出した奉書形式の私文書
摂関政治とともに公文書の性格をもつようになり,のちには鎌倉将軍もこの形式を用い,袖判などして,その証とした。
三国湊
みくにみなと @@@LINK=三国湊 三国湊

三国湊
みくにみなと

日本海沿岸の港町で,現在の福井県坂井郡三国町
中世,興福寺領河口・坪江庄の年貢産物の搬出港として発達。戦国時代,北陸の物資輸送の要港となり,近世北国第一の港と称された。
御厨
みくりや @@@LINK=御厨 御厨

御厨
みくりや

古代〜中世における伊勢神宮領
元来は,供物調度を収納するをさしたが,のちそれらを貢納する土地をさした。平安末期からは実質的に荘園と等しく,もっぱら伊勢神宮の神領を御厨といい,全国的に分布した。賀茂社領をさす場合もある。
巫女
みこ @@@LINK=巫女 巫女

巫女
みこ

古代,神に仕え神託を告げた女性
シャーマンの系統。邪馬台国 (やまたいこく) の女王卑弥呼 (ひみこ) や垂仁天皇の皇女倭姫命 (やまとひめのみこと) などが有名。伊勢神宮斎宮など純粋性こそ失ったが広く後世に残っている。
御子代部
みこしろべ @@@LINK=御子代部 御子代部

御子代部
みこしろべ

子代・名代
粛慎
みしはせ @@@LINK=粛慎 粛慎

粛慎
みしはせ

『日本書紀』の「欽明紀」「斉明紀」にでてくる北方民族
「斉明紀」の阿倍比羅夫征討は有名だが,実在した民族ではないらしい。中国では戦国時代(前403〜前221)に東北辺境の異民族をさした名称らしいが,晋代(265〜419)になると東北異民族の来朝貢献にこの語を用いた。「みしはせ」の読み方についても未詳
三島通庸
みしまみちつね @@@LINK=三島通庸 三島通庸

三島通庸
みしまみちつね

1835〜88
明治前期の官僚
薩摩藩出身。1882年福島県令,翌年栃木県令を兼任。福島事件・加波山事件を誘発し,「自由党と火つけ泥棒はわが県にはおかない」と民権派を弾圧。'85年警視総監となり,保安条例を執行し,三大事件建白運動を弾圧した。

三島由紀夫
みしまゆきお @@@LINK=三島由紀夫 三島由紀夫

三島由紀夫
みしまゆきお

1925〜70
昭和期の小説家・劇作家
東京の生まれ。東大卒。『仮面の告白』(1949)で注目をあび,以後『潮騒』『金閣寺』などをはじめ,古典主義的な美意識に支えられた多くの作品を著す。自衛隊に体験入隊後,「楯の会」を組織し,'70年11月,東京市ケ谷の自衛隊で決起を訴え割腹自決した。

水鏡
みずかがみ @@@LINK=水鏡 水鏡

水鏡
みずかがみ

鎌倉初期の歴史物語。四鏡の第3番目
12世紀後半の成立。3巻。中山忠親の著といわれる。『大鏡』記載以前の神武〜仁明 (にんみよう) 天皇まで54代の皇代記風の編年体史書。『扶桑略記 (ふそうりやつき) 』から素材を得,仏教的歴史観が強い。
水城
みずき @@@LINK=水城 水城

水城
みずき

7世紀,大化の改新政府が筑紫国に設けた堤
663年の白村江 (はくそんこう) の戦いに敗れた翌年・新羅 (しらぎ) の来攻に備え,大宰府の北部に設けた。全長約1㎞で,水をたたえた。現在,遺跡が福岡県太宰府市から大野城市にわたって残存する。
水帳
みずちょう @@@LINK=水帳 水帳

水帳
みずちょう

検地帳
水野忠邦
みずのただくに @@@LINK=水野忠邦 水野忠邦

水野忠邦
みずのただくに

1794〜1851
江戸後期の幕府老中で,天保の改革の中心人物
もと肥前(長崎県)唐津藩主,のち望んで遠江(静岡県)浜松藩主に転じた。寺社奉行・京都所司代などを歴任し,1839年老中主座となった。12代将軍徳川家慶 (いえよし) のもと'41年より天保の改革を断行。きびしい施政で反感を買い,'43年上知令の失敗を機に免職。のち再任されたが,鳥居耀蔵らの不正のかどで隠居し,晩年は不遇に終わった。

水呑百姓
みずのみびゃくしょう @@@LINK=水呑百姓 水呑百姓

水呑百姓
みずのみびゃくしょう

江戸時代の小作・零細農民
帳外 (ちようはずれ) ・無高百姓ともいう。本百姓の田畑を借りて耕作したり,出稼ぎ・日雇いに従事した。本百姓からの没落や,名子・被官(隷属農民)などの解放から生じた。
美豆良
みずら @@@LINK=美豆良 美豆良

美豆良
みずら

古代における男子の髪形の一つ
髪を頭上で左右に分けてたらし,耳もとで結束したもので,肩のあたりまで長くたれる「下げ美豆良」と耳のあたりで短く結ぶ「上げ美豆良」がある。古墳時代の埴輪男子像によって具体的に知ることができる。
禊・祓
みそぎ・はらい @@@LINK=禊・祓 禊・祓

禊・祓
みそぎ・はらい

とは身体についた (けがれ) を水で払い除くこと。儀式により身体や環境の穢を払うこと
ともに神を祭るときに清潔さを要求することからおこった民族宗教的行事
屯田
みた @@@LINK=屯田 屯田

屯田
みた

大化の改新以前の大王家直轄地
中央派遣の田令 (たづかい) により管理され,耕作民は田部 (たべ) ・钁丁 (くわよぼろ) と呼ばれた。収穫物を屯倉 (みやけ) におさめた。畿内に多かったが,大化の改新で廃止され,律令制下では官田となった。
三田育種場
みたいくしゅじょう @@@LINK=三田育種場 三田育種場

三田育種場
みたいくしゅじょう

1877年,内務省が内外種苗の導入・試作・増殖配布を行うため,東京三田に設置した機関
当時盛んだった西洋農法輸入の一環として,外国の種苗・農具の導入に特に重点が置かれたが,1886年民間に払い下げられた。
三鷹事件
みたかじけん @@@LINK=三鷹事件 三鷹事件

三鷹事件
みたかじけん

1949年7月15日,国鉄中央線三鷹駅でおこった無人電車の暴走事件
多数の死傷者が出て,共産党員ら国鉄労組員10名が起訴された。国鉄の行政整理をめぐってこの前後におこった下山事件・松川事件と同じく労組側はねつ造事件だと非難したが,国鉄労組は打撃をうけ,労働攻勢は挫折した。
みだれ髪
みだれがみ @@@LINK=みだれ髪 みだれ髪

みだれ髪
みだれがみ

明治後期,与謝野晶子の処女歌集
1901年刊。封建的因習に抗し,人間の情熱と恋愛,特に女性の官能的解放を自由奔放に歌いあげ,ロマン主義運動に大きく拍車をかけた作品。
道草
みちくさ @@@LINK=道草 道草

道草
みちくさ

大正時代,夏目漱石の小説
1915年刊。作者の自伝的作品。
道師
みちのし @@@LINK=道師 道師

道師
みちのし

684年,天武天皇が制定した八色の姓 (やくさのかばね) の一つ
臣 (おみ) ・連 (むらじ) より上の第5位に置かれたが,具体的実例はなく不明。特殊技術者の薬師 (くすし) ・画師 (えし) などに与えた姓であるという説もある。
三井
みつい @@@LINK=三井 三井

三井
みつい

江戸時代の商業・高利貸資本家。近代の四大財閥の一つ
江戸初期,三井高俊が伊勢(三重県)松坂で酒造業・質屋として基礎を築き,その子高利の代の17世紀末江戸へ進出。両替商として御用両替,呉服商として「現銀掛値なし」による新商法で発展した。明治時代以後は,藩閥政府と結び政商として成長し,商業・金融から産業へと重心を移し,一大コンツェルンを築いたが,第二次世界大戦後,財閥解体により解体・分割された。1952年ごろから,三井銀行(現さくら銀行)を中心に系列企業の再結集が進められ,三井グループを形成している。
三井銀行
みついぎんこう @@@LINK=三井銀行 三井銀行

三井銀行
みついぎんこう

近代日本の代表的民間銀行で,1876年最初の普通銀行として設立
五大銀行の筆頭として大正・昭和初期に金融独占体制確立に大きな役割を果たした。1943年第一銀行と合併し帝国銀行となったが,'48年分離し,'54年から再び三井銀行と改称した。'90年太陽神戸銀行と合併し,のちさくら銀行と改称。三井グループの中核金融機関。
三井三池争議
みついみいけそうぎ @@@LINK=三井三池争議 三井三池争議

三井三池争議
みついみいけそうぎ

1959年から翌年にかけて,三井三池炭鉱でおこった戦後最大の労働争議
石炭業界の不況背景に,福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で,1959年12月解雇1200名余りの発表があり,'60年1月25日経営者側のロックアウトに対し,合理化に反対する労組は無期限ストに突入した。労使双方死力を尽くして戦い,「総資本対総労働の対決」と称された。組合分裂により282日間も争議が続いたが,中央労働委員会(中労委)の斡旋で,11月1日ようやく終結以後石炭産業は斜陽化した。
三岡八郎
みつおかはちろう @@@LINK=三岡八郎 三岡八郎

三岡八郎
みつおかはちろう

由利公正 (ゆりきみまさ)
三ケ日人
みっかびじん @@@LINK=三ケ日人 三ケ日人

三ケ日人
みっかびじん

静岡県引佐 (いなさ) 郡三ケ日町で発見された旧石器時代人
など7片の骨が更新世後期の石灰岩の地層から発見され,ホモ‐サピエンス(新人)に属するものと考えられている。
密教
みっきょう @@@LINK=密教 密教

密教
みっきょう

仏教の一派で,秘密仏教の意
顕教に対する語。インドのグプタ王朝(4〜6世紀)のときに,仏教が衰勢を挽回しようとしてバラモン教の思想をとり入れて密教をつくった。やがて中国に伝えられ,日本にも入った。空海が804年に入唐して密教を学び,帰国してから真言宗(東密)を伝えた。加持祈禱を行い即身成仏・現世利益を説いたので,藤原氏などの貴族の信仰を得て,その生活にとり入れた。
密教美術
みっきょうびじゅつ @@@LINK=密教美術 密教美術

密教美術
みっきょうびじゅつ

密教に関する仏教美術の総称
平安初期から密教寺院で発達した。修法の本尊としての絵画・彫刻や,荘厳な法具がつくられた。画像は特に重要視され儀軌 (ぎき) にのっとってつくられた。金剛・胎蔵の両界曼荼羅 (まんだら) をはじめ,不動・降三世・軍荼利 (ぐんだり) ・大威徳金剛夜叉の五大尊や,愛染明王などの明王像が描かれた。
三蔵
みつくら @@@LINK=三蔵 三蔵
さんぞう @@@LINK=三蔵 三蔵

三蔵
みつくら

大和政権の財物を収納した斎蔵 (いみくら) ・内蔵 (うちくら) ・大蔵 (おおくら) の三つの倉庫をいう
「さんぞう」とも読む。斎蔵は神の貢租をおさめ斎部氏 (いんべうじ) が世襲管理した。内蔵は大王家の財物を収納し,東漢氏 (やまとのあやうじ) ・西文氏 (かわちのふみうじ) が事務をつかさどり,大蔵は政府の貢租をおさめ,秦氏 (はたうじ) が事務をつかさどった。ともに蘇我氏が轄したという。

三蔵
さんぞう

みつくら
箕作阮甫
みつくりげんぽ @@@LINK=箕作阮甫 箕作阮甫

箕作阮甫
みつくりげんぽ

1799〜1863
江戸後・末期の医師・洋学者
美作 (みまさか) (岡山県)津山の人。津山藩主の侍医。京都で医学を学び,のち江戸で宇田川玄真に蘭学を学んだ。幕府天文方の翻訳掛となり,蕃書調所の創設に際し,教授となった。外交交渉(日米和親条約)にも参加した。『外科必読』『産科簡明』をはじめ多数の著書がある。

箕作麟祥
みつくりりんしょう @@@LINK=箕作麟祥 箕作麟祥

箕作麟祥
みつくりりんしょう

1846〜97
明治時代の法学者
美作 (みまさか) (岡山県)津山藩出身。江戸の藩邸に生まれる。祖父阮甫 (げんぽ) に蘭学を学び蕃書調所・開成所に勤務。フランス留学を経て明治政府に出仕し,司法制度の確立・法典編纂に尽力した。また明六社の有力メンバーで,和仏法律学校(現法政大学)長もつとめた。

密陀絵
みつだえ @@@LINK=密陀絵 密陀絵

密陀絵
みつだえ

密陀僧 (みつだそう) (一酸化鉛)を用いて描かれた一種の油絵
この方法は中国では唐代から用いられ,日本でも奈良時代に伝えられ,正倉院に密陀絵盆などが遺存する。平安時代以後衰微し,桃山〜江戸時代に復興した。
ミッドウェー海戦
ミッドウェーかいせん @@@LINK=ミッドウェー海戦 ミッドウェー海戦

ミッドウェー海戦
ミッドウェーかいせん

太平洋戦争中の1942年6月,日本海軍がアメリカ軍と交戦し大損害をうけた海戦
珊瑚 (さんご) 海海戦(1942)後,日本海軍はアメリカ艦隊に決戦をいどみ,ミッドウェー島に迫ったが,日本の連合艦隊の主力は壊滅的打撃をうけた。これ以後,日本軍は太平洋での制海権・制空権を失い,劣勢に転じ,太平洋戦争の戦局は大きく転換した。
三葉葵
みつばあおい @@@LINK=三葉葵 三葉葵

三葉葵
みつばあおい

徳川家の家紋
三菱
みつびし @@@LINK=三菱 三菱

三菱
みつびし

近代の四大財閥の一つ
海運業界に独占的地歩を確立した三菱会社は,高島炭坑の買収,東京海上火災保険の創設長崎造船所の払下げ,三菱銀行の設立などにより,昭和初頭には三菱財閥として,直系10社とその子・孫会社ならびに日本郵船・明治生命などの独立会社系列からなる複雑なコンツェルン形態をととのえた。第二次世界大戦を通じてますますその支配の規模を拡大したが,敗戦後財閥解体により解体された。'54年に商事部門が合同して三菱商事ができ,三菱銀行を中心に三菱グループが再編成され,'64年には三菱重工が再建された。
三菱会社
みつびしがいしゃ @@@LINK=三菱会社 三菱会社

三菱会社
みつびしがいしゃ

日本郵船会社の前身で,岩崎弥太郎の経営した海運会社
岩崎は廃藩置県に際し九十九 (つくも) 商会の船を土佐藩から安価に譲りうけ,三菱商会を創設。のち郵便汽船三菱会社と改称しながら,台湾出兵・西南戦争で政府の大きな援助のもとに巨利を博した。のち共同運輸会社との激烈な競争が展開される中,政府の調停により,1885年共同運輸と合併し,日本郵船会社となる。
三菱銀行
みつびしぎんこう @@@LINK=三菱銀行 三菱銀行

三菱銀行
みつびしぎんこう

三菱グループの中核金融機関で,戦前の五大銀行の一つ
三菱の三大事業である海運・保険・造船の基礎の上に郵便汽船三菱会社が,1880年三菱為替店を設置。のち九州の第百九十九銀行を買収し,'95年三菱合資会社銀行部として開業。1919年三菱銀行に改組,以後三菱財閥の重工業化に伴い大規模な産業金融を展開。敗戦後三菱財閥は解体し,千代田銀行と改称,サンフランシスコ平和条約締結後の1953年,旧社名に復し,三菱銀行を中心とするコンツェルンの再編成が行われた。'96年東京銀行と合併し,東京三菱銀行と改称。
御堂関白記
みどうかんぱくき @@@LINK=御堂関白記 御堂関白記

御堂関白記
みどうかんぱくき

平安中期,藤原道長の日記
全30巻。998〜1021年に至る14巻が現存。自筆の原本があり,藤原氏全盛期の重要な史料。漢文で書かれている。
水戸学
みとがく @@@LINK=水戸学 水戸学

水戸学
みとがく

江戸時代に水戸藩で『大日本史』編修事業を中心としておこった学風
前期と後期に区別される。前期は2代藩主徳川光圀 (みつくに) のもとに安積澹泊 (あさかたんぱく) ・栗山潜鋒 (くりやませんぽう) らの『大日本史』編修について大義名分を明らかにし,皇室尊崇を説いた時期。後期は徳川斉昭 (なりあき) を中心に藤田幽谷の『正名論』,藤田東湖の『弘道館記述義』,会沢正志斎の『新論』などの思想によって代表される尊王攘夷論となり,単なる歴史学から抜けだし実践的な政治運動へと展開した。しかし将軍家親類という立場からも,討幕論にまで発展せず,不徹底は免れなかった。
水戸藩
みとはん @@@LINK=水戸藩 水戸藩

水戸藩
みとはん

江戸時代,常陸 (ひたち) (茨城県)茨城郡を領有した徳川氏の親藩。尾張・紀伊と並んで御三家の一つ
徳川家康の子頼房が1609年入封し初代藩主。最初25万石,のち35万石で,廃藩置県に至った。2代光圀 (みつくに) は彰考館を設立し『大日本史』編修事業にあたり,大義名分を重んずる水戸学をおこした。9代斉昭 (なりあき) の代には尊王攘夷論を唱導し,藤田東湖・会沢正志斎らは代表的学者として,藩政の改革にも参画。斉昭死後,尊攘派と佐幕派に藩内が二分し,深刻な対立を生じ(天狗党の乱),戊辰 (ぼしん) 戦争では将軍慶喜 (よしのぶ) が水戸家出身であるため苦境に立った。
水戸光圀
みとみつくに @@@LINK=水戸光圀 水戸光圀

水戸光圀
みとみつくに

徳川光圀
水無瀬三吟百韻
みなせさんぎんひゃくいん @@@LINK=水無瀬三吟百韻 水無瀬三吟百韻

水無瀬三吟百韻
みなせさんぎんひゃくいん

室町後期,宗祇 (そうぎ) ・肖柏・宗長3人の詠んだ百韻の連歌
1488年後鳥羽天皇を祭る水無瀬宮(大阪府島本町)に奉詠した百句の連歌。その描き出す世界は清澄・温雅なうちにも気品をもち,連歌の模範とされる。
湊川の戦い
みなとがわのたたかい @@@LINK=湊川の戦い 湊川の戦い

湊川の戦い
みなとがわのたたかい

1336年,摂津国湊川で行われた南北朝の内乱初期の戦い
九州から東上した足利尊氏・直義 (ただよし) の軍が,摂津国兵庫の湊川で,これを迎撃した新田義貞・楠木正成の軍を破った戦い。正成は弟正季 (まさすえ) と自刃,義貞は京都に敗走し,尊氏は入京し北朝の光明天皇を擁立した。後醍醐 (ごだいご) 天皇は吉野にのがれて,南北朝対立の発端となった。
港町
みなとまち @@@LINK=港町 港町

港町
みなとまち

主として中世以降,港を中心として発達した町
古代より対外交通や貢租(のちには荘園年貢)輸送の要港はあったが,商品流通の増大した鎌倉末期以降に,市・問丸 (といまる) の発生,商工人・船頭・人夫などの定住をみて,都市的発展をした。堺など自治を得た自由都市も出現。江戸時代,東廻り・西廻り航路の開発などで各地に現れた。博多・堺・兵庫・尾道・桑名・敦賀・小浜・酒田などが有名。
南淵請安
みなぶちのしょうあん @@@LINK=南淵請安 南淵請安

南淵請安
みなぶちのしょうあん

生没年不詳
7世紀前期の渡来人系の学問僧
608年,遣隋使小野妹子に従って学問僧として隋に留学。640年帰国。中大兄 (なかのおおえ) 皇子や中臣鎌足に中国の新知識を教え,大化の改新に貢献した。
水俣病
みなまたびょう @@@LINK=水俣病 水俣病

水俣病
みなまたびょう

熊本県の水俣湾周辺地域で発生した有機水銀中毒で,わが国の代表的な公害病
新日本窒素肥料(現チッソ)水俣工場でアセトアルデヒド製造工程から生まれたメチル水銀を含んだ工場廃水が水俣湾にたれ流され,汚染された魚介類を摂取したことが原因とされる。1956年に最初の患者が公式確認された。その後,新潟県阿賀野川流域にも昭和電工鹿瀬工場からの排水が原因で多数の有機水銀中毒患者が発生しはじめ,'65年公式に確認された。これを新潟水俣病という。しかし,政府が水俣病を公害病と認定したのは'68年であった。新潟水俣病の患者・遺族らは,'67年昭和電工を相手に訴訟をおこし,熊本水俣病の患者・遺族らも,'69年にチッソを相手に訴えをおこした。新潟水俣病訴訟は'71年に患者側勝訴で確定し,熊本水俣病訴訟も'73年に熊本地裁において患者側の勝訴となった。
南満州鉄道株式会社
みなみまんしゅうてつどうかぶしきがいしゃ @@@LINK=南満州鉄道株式会社 南満州鉄道株式会社

南満州鉄道株式会社
みなみまんしゅうてつどうかぶしきがいしゃ

日露戦争(1904〜05)後,日本の満州経営の中核となった半官半民の国策会社
略称「満鉄」。ポーツマス条約により獲得した旅順〜長春間の東清鉄道,奉天〜安東県間の鉄道とその支線,鉄道付属地,撫順・煙台炭坑などの付属事業を経営するため,1906年11月26日,資本金2億円で設立。本社は大連。初代総裁は後藤新平。'35年満州国に売却されたが,'45年ソ連が接収。ヤルタ協定により中ソ合弁で経営されたが,'52年中国に返還された。
南村梅軒
みなみむらばいけん @@@LINK=南村梅軒 南村梅軒

南村梅軒
みなみむらばいけん

生没年不詳
室町末期の儒者。海南学派の祖
周防 (すおう) (山口県)の人。周防の大内義隆に仕えた後,16世紀中ごろ土佐(高知県)に行き,弘岡城主吉良宣経に仕え儒書・武経を講じた。禅にも通じ,儒禅一致に立つ儒教道徳を説き,その門から谷時中らが出た。
源実朝
みなもとのさねとも @@@LINK=源実朝 源実朝

源実朝
みなもとのさねとも

1192〜1219
鎌倉幕府第3代将軍(在職1203〜19)
頼朝の2男。兄頼家が伊豆に幽閉されたあと将軍になる。すでに政治の実権は北条氏に移っていたため,官位の昇進のみを望み,右大臣となる。その拝賀のため鶴岡八幡宮に参ったとき,頼家の子公暁 (くぎよう) に殺され,源氏将軍は3代で絶えた。万葉調の歌人として聞こえ,家集に『金槐和歌集』がある。

源順
みなもとのしたごう @@@LINK=源順 源順

源順
みなもとのしたごう

911〜983
平安前期の歌人
嵯峨源氏。挙 (こぞる) の子。『後撰和歌集』の撰者の一人で,梨壺の五人の一人。詩文もすぐれ,また百科全書『倭名類聚抄 (わみようるいじゆうしよう) 』の著者として有名。三十六歌仙の一人。家集『源順集』。

源高明
みなもとのたかあきら @@@LINK=源高明 源高明

源高明
みなもとのたかあきら

914〜982
平安中期の公卿
左大臣。醍醐 (だいご) 天皇の皇子で,920年源姓を賜った。藤原氏に警戒され,969年安和 (あんな) の変で大宰府に左遷された。3年後許されて帰京。その著『西宮記 (さいぐうき) 』は朝儀の典拠となった。

源為朝
みなもとのためとも @@@LINK=源為朝 源為朝

源為朝
みなもとのためとも

1139〜77
平安末期の武将
為義の第8子で,鎮西八郎と呼ばれる。豪勇射術にすぐれ,保元の乱(1156)に父とともに崇徳上皇方に加わり奪戦したが敗れ,伊豆大島に流された。のち追討をうけたという。

源為義
みなもとのためよし @@@LINK=源為義 源為義

源為義
みなもとのためよし

1096〜1156
平安後期の武将
義親の子。義朝の父。1156年保元の乱のとき,崇徳上皇方につき,その子義朝や平清盛と戦って敗北。乱後,義朝が助命嘆願したが許されず,斬られた。

源親行
みなもとのちかゆき @@@LINK=源親行 源親行

源親行
みなもとのちかゆき

生没年不詳
鎌倉初期の公卿・文学者
光行の子。歌道に通じ,幕府和歌所の奉行となる。父とともに『源氏物語』を研究して河内本を完成し,また『万葉集』の校合にも尽力した。『東関紀行』の作者ともいわれるが疑わしい。
源経基
みなもとのつねもと @@@LINK=源経基 源経基

源経基
みなもとのつねもと

?〜961
平安前期の武将。清和源氏の祖
清和天皇の孫。六孫王ともいう。武蔵介。平将門 (まさかど) 征討を命じられたが,その下向中に乱が終結した。ついで小野好古に従い藤原純友の乱を鎮定した。諸国の受領 (ずりよう) を歴任し,のち鎮守府将軍となり,清和源氏勃興の基礎を築いた。

源融
みなもとのとおる @@@LINK=源融 源融

源融
みなもとのとおる

822〜895
平安前期の公卿
左大臣。嵯峨天皇の皇子。陽成天皇廃位のとき帝位を望み藤原基経にはばまれ,以後不振。豪奢な邸宅河原院(東六条院)をつくり,河原左大臣といわれ,風流の生活を送った。

源範頼
みなもとののりより @@@LINK=源範頼 源範頼

源範頼
みなもとののりより

生没年未詳
平安末期・鎌倉初期の武将
義朝の第6子。頼朝の異母弟。蒲冠者 (かばのかんじや) ともいう。頼朝の命により弟義経とともに源義仲を討ち,平氏追討に功績があった。1193年頼朝の疑いをうけ,伊豆に流された。

源信
げんしん @@@LINK=源信 源信
みなもとのまこと @@@LINK=源信 源信

源信
げんしん

942〜1017
平安中期の天台僧
比叡山横川 (よかわ) の恵心 (えしん) 院に住んだので恵心僧都ともいう。大和の当麻 (たいま) の卜部 (うらべ) 氏の出身。9歳で比叡山に登り,良源に師事。顕密 (けんみつ) の学を修め,『往生要集』を著して念仏往生の教えを説き,貴族庶民に大きな影響を与えた。

源信
みなもとのまこと

810〜868
平安前期の公卿
左大臣。嵯峨天皇の皇子。866年応天門の変に際し伴善男 (とものよしお) の陰謀で失脚するところを藤原良房に救われた。

源通親
みなもとのみちちか @@@LINK=源通親 源通親

源通親
みなもとのみちちか

土御門 (つちみかど) 通親
源満仲
みなもとのみつなか @@@LINK=源満仲 源満仲

源満仲
みなもとのみつなか

912〜997
平安中期の受領 (ずりよう) ・武将
経基の長男。摂関家に接近し,安和の変(969)では密告者となった。諸国の受領を歴任し,鎮守府将軍となり清和源氏発展の基礎を築いた。摂津守のとき,摂津の多田に住み,多田院を創設したので多田満仲ともいう。

源光行
みなもとのみつゆき @@@LINK=源光行 源光行

源光行
みなもとのみつゆき

1163〜1244
鎌倉時代の文学者
藤原俊成から『源氏物語』の口伝うけ,その注釈書『水原抄』をつくり,その子親行とともに『源氏物語』の諸本の校合に従事して河内本を完成した。和歌にすぐれ,『海道記』の作者ともいう。

源行家
みなもとのゆきいえ @@@LINK=源行家 源行家

源行家
みなもとのゆきいえ

?〜1186
平安末期の武将
為義の第10子。平治の乱(1159)後,熊野新宮におり,新宮十郎と号した。以仁王 (もちひとおう) の令旨 (りようじ) を諸国の源氏に伝え,源義仲とともに入京。のち源義経と結び頼朝打倒を企てたが失敗し,和泉国で殺された。
源義家
みなもとのよしいえ @@@LINK=源義家 源義家

源義家
みなもとのよしいえ

1039〜1106
平安後期の武将
石清水八幡宮で元服し,通称八幡太郎。頼義の長男。前九年の役(1051〜62)のとき,父に従って活躍し,以後諸国の受領を歴任し,のち大江匡房 (まさふさ) に兵法を学んだ。'83年陸奥守兼鎮守府将軍として後三年の役を鎮定。乱後,朝廷が私闘とみなして恩賞を与えなかったので,義家が私財をもって将士をねぎらったので臣従する者多く,源氏が東国に地盤を築く基をつくった。'98年武士として初めて院の昇殿を許可された。

源義親
みなもとのよしちか @@@LINK=源義親 源義親

源義親
みなもとのよしちか

?〜1108
平安後期の武将
義家の2男。対馬守在任中の1101年九州で反し,隠岐 (おき) へ配流された。のち出雲国で再び反し,白河法皇の命によって平正盛により誅せられた。その結果,源氏は一時衰えた。

源義経
みなもとのよしつね @@@LINK=源義経 源義経

源義経
みなもとのよしつね

1159〜89
平安末期の武将
幼名牛若丸・源九郎。義朝の9男。母は常盤で,頼朝の異母弟。平治の乱(1159)後捕らえられ,鞍馬寺に預けられた。のち陸奥の藤原秀衡に保護されて成人。1180年兄頼朝の挙兵に応じて黄瀬川の戦いに参加,以後源義仲・平家追討に最大の功績をあげた。後白河上皇に接近したことなどから頼朝と不和になり,叔父行家とともに挙兵したが失敗。平泉に潜行していたが,秀衡の死後,頼朝の圧力に屈した泰衡に攻められて自害した。

源義朝
みなもとのよしとも @@@LINK=源義朝 源義朝

源義朝
みなもとのよしとも

1123〜60
平安末期の武将
為義の長男。頼朝の父。1156年保元の乱に後白河天皇方につき,功により左馬頭 (さまのかみ) となった。乱後平清盛と対立し,'59年平治の乱をおこしたが敗れ,東国への敗走中,尾張で家人の長田忠致 (おさだただむね) に殺された。

源義仲
みなもとのよしなか @@@LINK=源義仲 源義仲

源義仲
みなもとのよしなか

1154〜84
平安末期の武将
義賢の子。頼朝の従弟。木曽義仲ともいう。1180年以仁王 (もちひとおう) の令旨 (りようじ) をうけ挙兵。'83年越中国(富山県)砺波 (となみ) 山で平維盛 (これもり) を破って(砺波山の戦い)入京,旭 (あさひ) 将軍といわれ,'84年征夷大将軍となった。粗暴なふるまいが多く,後白河法皇の策謀により,頼朝の命をうけた範頼 (のりより) ・義経に瀬田宇治で破れ(宇治川の合戦),近江国粟津 (あわづ) で敗死した。

源義平
みなもとのよしひら @@@LINK=源義平 源義平

源義平
みなもとのよしひら

1141〜60
平安末期の武将
義朝の長子。15歳で叔父義賢 (よしかた) (義仲の父)を討ち,武勇の誉れ高く,悪源太と号した。1159年平治の乱では父のもとで勇戦したが敗れ,京都市中に潜伏して平清盛父子をねらったが,捕らえられ六条河原で斬られた。

源頼家
みなもとのよりいえ @@@LINK=源頼家 源頼家

源頼家
みなもとのよりいえ

1182〜1204
鎌倉幕府第2代将軍(在職1202〜03)
頼朝の長子。母は北条政子。幼名万寿。1199年,父の死により家督を継いだが,間もなく北条氏によって13人の合議制がしかれ権力を失う。1202年征夷大将軍となり,'03年外戚の比企能員 (ひきよしかず) と結んで北条氏征討をはかったが失敗,能員は殺され,頼家は伊豆修禅寺に幽閉され,翌年北条氏により殺された。

源頼朝
みなもとのよりとも @@@LINK=源頼朝 源頼朝

源頼朝
みなもとのよりとも

1147〜99
鎌倉幕府の創立者で,初代将軍(在職1192〜99)
義朝の3男。母は熱田大宮司藤原季範 (すえのり) の娘。1159年平治の乱で伊豆に配流。'80年以仁王 (もちひとおう) の令旨 (りようじ) をうけて平氏追討の兵をあげ,鎌倉を本拠に東国武士を組織し東国政権を樹立。'85年壇の浦の戦いで平氏を滅ぼし,同年全国に守護・地頭を設置する勅許をうける。'90年右近衛大将,'92年,後白河法皇の死後,征夷大将軍に任じられ,名実ともに武士の統轄者となり,武家政治の創始者となった。

源頼朝像
みなもとのよりともぞう @@@LINK=源頼朝像 源頼朝像

源頼朝像
みなもとのよりともぞう

鎌倉初期,源頼朝の肖像画
京都神護寺にある5画像の一つ。当時の写実的傾向を代表する作品。『平重盛像』とともに藤原隆信の筆と伝えられる。
源頼信
みなもとのよりのぶ @@@LINK=源頼信 源頼信

源頼信
みなもとのよりのぶ

968〜1048
平安中期の受領・武将
満仲の3男。頼光の弟。各地の受領 (ずりよう) を歴任し,藤原道長に仕えた。甲斐守のとき戦わずして平忠常の乱(1028〜31)を鎮定。乱後,鎮守府将軍となり,源氏の東国進出の基礎をつくった。

源頼政
みなもとのよりまさ @@@LINK=源頼政 源頼政

源頼政
みなもとのよりまさ

1104〜80
平安末期の武将・歌人
通称源三位 (げんさんみ) 入道。摂津源氏の仲政の子。保元の乱では後白河天皇方で参戦。平治の乱には当初源義朝に従ったが,のち平清盛側に参加。源氏衰退の時期にも公卿に列した。1180年以仁王 (もちひとおう) の令旨 (りようじ) を奉じて諸国の源氏にさきがけて平家追討の挙兵をしたが宇治で敗死。和歌にもすぐれ,『新古今和歌集』『千載和歌集』に作品が収載され,家集に『源三位頼政卿集』。

源頼光
みなもとのよりみつ @@@LINK=源頼光 源頼光

源頼光
みなもとのよりみつ

948〜1021
平安中期の武将
満仲の長男。摂津守など受領 (ずりよう) を歴任。藤原道長に仕え,土御門殿の新造に際し,家具・調度を多数献上した。武名高く,大江山の酒呑童子(鬼)退治伝説もある。

源頼義
みなもとのよりよし @@@LINK=源頼義 源頼義

源頼義
みなもとのよりよし

988〜1075
平安中期の武将
頼信の長男。名将の誉れ高く,1031年,父とともに平忠常の乱を平らげ,陸奥守のとき前九年の役(1051〜62)で安倍頼時父子を討ち,源氏の基盤を東国に固めた。また鎌倉に石清水八幡宮を勧請し,源氏の氏神とした。

美濃紙
みのがみ @@@LINK=美濃紙 美濃紙

美濃紙
みのがみ

和紙の一種で,美濃国(岐阜県)で産する紙の総称
楮 (こうぞ) を原料とし白色良質。奈良時代から生産が行われ,平安時代には官営紙屋があり,室町時代から商品として発展,江戸時代には全国的特産物となった。特に美濃紙と称するのは書院紙で,写本や障子紙に用いられる。
身延山
みのぶさん @@@LINK=身延山 身延山

身延山
みのぶさん

山梨県南西部に位置する,身延山地中の山
山腹に日蓮宗総本山の久遠寺 (くおんじ) がある。
美濃部達吉
みのべたつきち @@@LINK=美濃部達吉 美濃部達吉

美濃部達吉
みのべたつきち

1873〜1948
明治〜昭和期の憲法学者
兵庫県の生まれ。東大卒。ヨーロッパに留学し,帰国後,東大教授となる。ドイツ人法学者イェリネックの影響をうけ天皇機関説を主張し,天皇主権説の上杉慎吉らと論争。1932年退官後,貴族院議員となる。'35年天皇機関説問題おこり,美濃部は貴族院議員を辞職し,その著書は発禁となった。主著に『憲法撮要 (けんぽうさつよう) 』など。
壬生忠岑
みぶのただみね @@@LINK=壬生忠岑 壬生忠岑

壬生忠岑
みぶのただみね

生没年不詳
平安前期の歌人。三十六歌仙の一人
右衛門府生。『古今和歌集』撰者の一人で,4人の撰者のうちでは身分がいちばん低かった。身の不遇を訴えた歌が多く,家集に『忠岑集』6巻がある。

身分制度
みぶんせいど @@@LINK=身分制度 身分制度

身分制度
みぶんせいど

身分とは国家権力によって設定された政治的差別で,近代以前の社会(特に封建社会)において,政治的に社会秩序を維持するべく設けられた制度
経済的な差別で,移ることも可能な階級とは異なり,身分は出生によって所属する社会層が決まり,法によって規定され,個人の努力で移ることは不可能である。日本においては邪馬台国 (やまたいこく) の大人 (たいじん) ・下戸にすでにみられ,氏姓制度や律令国家の官人,良・の別などが定められている。鎌倉・室町時代にも武士の進出という過渡期で明瞭ではないが,身分の別は存在した。江戸時代には支配階級の身分として「士」があり,その下に農・工・商を設けて身分制度は完成した。さらに公家僧侶賤民などを設け,それぞれさらに細かい身分階層に分けられて,勝手にかわることはできなかった。明治維新で四民平等となったが,皇族華族士族平民が存在した。第二次世界大戦後の新憲法でもごくわずかの皇族が残っている。
身分法令三箇条
みぶんほうれいさんかじょう @@@LINK=身分法令三箇条 身分法令三箇条

身分法令三箇条
みぶんほうれいさんかじょう

安土桃山時代豊臣秀吉身分を固定させるために定めた3カ条の法令
身分統制令ともいう。秀吉は全国統一を完了した翌1591年,武士農民商人転業,農民の移転を禁じ,厳罰をもって臨み,兵農・商農の分離を確立した。武士は主従関係を確立し,自由任官を禁じた。封建的身分関係を明確・厳正に規定した。
任那
みまな @@@LINK=任那 任那

任那
みまな

古代の朝鮮半島南部にあった加羅(加耶 (かや) )諸国の一つで,金官国をさす
『日本書紀』では加羅諸国の総称として用いられる場合が多い。日本は任那(加羅諸国)の独立を援助するため,軍事・外交施設を置いたが,新羅 (しらぎ) の侵略,大和政権内部の動揺,外交上の不手際などがあり,562年欽明天皇のとき,新羅に滅ぼされ,その後たびたび復興がはかられたがいずれも失敗した。
任那日本府
みまなにほんふ @@@LINK=任那日本府 任那日本府

任那日本府
みまなにほんふ

大和政権時代,朝廷が朝鮮半島南部の加羅諸国の経営のために任那に設けたと伝えられる政庁
日本府は『日本書紀』欽明紀にみえるが,その存否をめぐって学界では意見が分かれている。
宮川長春
みやがわちょうしゅん @@@LINK=宮川長春 宮川長春

宮川長春
みやがわちょうしゅん

1682〜1752
江戸中期の浮世絵師。宮川派の祖
尾張(愛知県)宮川村の生まれ。土佐派・菱川派を学び,肉筆の美人画に長じ,描線と彩色に卓越した技量を示した。日光東照宮修繕のとき,狩野春賀と報酬のことで争い追放された。代表作に『風俗図巻』など。

屯倉
みやけ @@@LINK=屯倉 屯倉

屯倉
みやけ

大化の改新以前の大王家の直轄地
初め貢納物や収穫物の倉庫をいい,のち土地・人民を含む名称となった。屯倉の耕作民を田部 (たべ) と呼ぶ。耕作・徴税には戸籍がつくられ,律令の班田制,戸籍による農民支配の先駆となった。大化の改新で廃止された。
三宅観瀾
みやけかんらん @@@LINK=三宅観瀾 三宅観瀾

三宅観瀾
みやけかんらん

1674〜1718
江戸中期の儒学者
京都の人。一説美濃(岐阜県)の人。浅見絅斎 (けいさい) ・木下順庵に学び,崎門 (きもん) 学派十哲の一人。水戸藩の徳川光圀 (みつくに) に招かれ,『大日本史』の編纂にあたり,のち新井白石の推挙で幕府の儒臣となった。

三宅尚斎
みやけしょうさい @@@LINK=三宅尚斎 三宅尚斎

三宅尚斎
みやけしょうさい

1662〜1741
江戸中期の朱子学者
播磨(兵庫県)明石の人。京都に出て医学を学び,山崎闇斎の門に入った。佐藤直方・浅見絅斎 (けいさい) とともに崎門 (きもん) 三傑の一人。江戸で武蔵(埼玉県)忍藩主の阿部氏に仕官したが,主君に直言して忍城内に幽閉された。のち放免され,京都に塾を開いた。

三宅雪嶺
みやけせつれい @@@LINK=三宅雪嶺 三宅雪嶺

三宅雪嶺
みやけせつれい

1860〜1945
明治〜昭和期の評論家・思想家
本名は雄二郎。石川県の生まれ。東大卒。1888年,欧化主義に対し政教社を組織,志賀重昂 (しげたか) らと雑誌『日本人』を創刊し国粋主義を唱えた。その後も藩閥政府に対し在野的立場を堅持して時事評論に活躍した。著書に『同時代史』など。

都良香
みやこのよしか @@@LINK=都良香 都良香

都良香
みやこのよしか

834〜879
平安前期の漢詩人・学者
文章博士。文才に富み詩歌のほかに多くの詔勅・勅符を起草し,『日本文徳天皇実録』編纂にも参加した。詩文集に『都氏 (とし) 文集』があり,その漢詩は『和漢朗詠集』などにも収録されている。

宮座
みやざ @@@LINK=宮座 宮座

宮座
みやざ

中世,村落の祭祀組織
年齢・家格を基準に構成され,神事は輪番の神主・頭屋 (とうや) (=神霊宿)が中心で行う。座員資格を株といい,長老はオトナ衆(年寄衆)と呼ばれた。15世紀ころ郷村制成立の精神的中核となり近畿地方を中心に盛行した。小農民自立化に伴い封鎖的株座から氏子全員参加の村座へと移行していった。
宮崎安貞
みやざきやすさだ @@@LINK=宮崎安貞 宮崎安貞

宮崎安貞
みやざきやすさだ

1623〜97
江戸前期の農学者
広島藩士の子。初め福岡藩に仕えていたが,数年で致仕し,農業技術研究のため諸国を遍歴。帰郷後はみずから村民とともに農耕に従事し,指導と振興につとめた。また私財を投じて開墾を行った。1697年刊の『農業全書』10巻は,40年にわたる彼の体験や中国の農書などに基づく増産技術書で,明治時代に至るまで農政全般に影響を与えた。

宮崎友禅
みやざきゆうぜん @@@LINK=宮崎友禅 宮崎友禅

宮崎友禅
みやざきゆうぜん

生没年不詳
江戸中期の画工。友禅染の発明者
京都の人。活躍期は天和〜元禄(1681〜1704)ころ。光琳風の絵をかき,扇の絵や模様染の下絵をかいた。友禅染は手描きで思いのままの模様を描く手法で,以後染物ははなやかで多様になった。
宮沢喜一内閣
みやざわきいちないかく @@@LINK=宮沢喜一内閣 宮沢喜一内閣

宮沢喜一内閣
みやざわきいちないかく

宮沢喜一(1919〜2007)を首班とする自由民主党単独内閣(1991.11〜93.8)
1992年,海部俊樹内閣政権から引き継いだPKO協力法案を成立させ,自衛隊をカンボジアに派遣した。しかし,佐川急便事件で政治不信が高まり,バブル経済崩壊後の不況からも脱することができない中,衆議院総選挙で過半数割れし,宮沢内閣は'93年7月総辞職したため,55年体制は崩壊した。そして翌月細川護煕連立内閣が成立した。
宮沢賢治
みやざわけんじ @@@LINK=宮沢賢治 宮沢賢治

宮沢賢治
みやざわけんじ

1896〜1933
大正・昭和期の詩人・童話作家
岩手県の生まれ。盛岡高等農林学校卒。農民指導に献身するかたわら,宇宙感覚をもつ,宗教と自然科学とのまじりあう想像力豊かな詩・童話を多数著したが,その作品は生前ほとんど認められなかった。代表作に詩集『春と修羅』,童話『風の又三郎』など。

宮田用水
みやたようすい @@@LINK=宮田用水 宮田用水

宮田用水
みやたようすい

愛知県北部の宮田から木曽川の水を引いて尾北・尾西地域を灌漑した用水
愛知県の沿海部は内海性の気候降雨量が少ないため,米作農業の発展のためには灌漑用水施設を不可欠とした。濃尾平野では,木曽川から引水する宮田用水や木津用水により水田化が進められた。現在では濃尾用水の一部となっている。
宮本武蔵
みやもとむさし @@@LINK=宮本武蔵 宮本武蔵

宮本武蔵
みやもとむさし

1584〜1645
江戸初期の兵法家・剣術家・画家
出身は美作 (みまさか) (岡山県)英田 (あいだ) 郡宮本村の豪士といわれる。実像は詳らかではないが,二天一流(二刀流)を開き,巌流 (がんりゆう) 島の決闘をはじめ,剣術の達人として後世の実録・芝居講談などによって広く知られる。二天と号し,著書に『五輪書』『極意書』『自戒書』などがある。また水墨画にも名品を残した。

宮本百合子
みやもとゆりこ @@@LINK=宮本百合子 宮本百合子

宮本百合子
みやもとゆりこ

1899〜1951
大正・昭和期の小説家
旧姓は中条。東京の生まれ。日本女子大中退。18歳で『貧しき人々の群』を発表,『伸子』でその地位を確立した。ソ連滞在の後,日本共産党に入り宮本顕治と再婚,以後弾圧に抗しプロレタリア作家として活躍した。戦後の作品に『播州平野』『風知草』『道標』など。

明雲
みょううん @@@LINK=明雲 明雲

明雲
みょううん

?〜1183
平安末期の天台宗の僧
天台座主 (ざす) 。源顕通の子。後白河法皇に戒を授けた。比叡山の衆徒の強訴により,加賀守藤原師高が配流された事件の責任を問われて伊豆に流されたが,途中,叡山の衆徒がこれを妨げて朝廷に赦免を強要した。源義仲が法住寺を攻めた,流矢にあたり没した。
明恵
みょうえ @@@LINK=明恵 明恵

明恵
みょうえ

高弁
冥加金
みょうがきん @@@LINK=冥加金 冥加金

冥加金
みょうがきん

江戸時代,幕府・諸藩から特に営業を許された商工業者などの上納金
各種の商工業・漁業や株仲間から保護や特権に対するお礼として幕府・諸藩に納めた献金であるが,のちには定率で年々賦課され一種の租税と化した。
妙喜庵待庵
みょうきあんたいあん @@@LINK=妙喜庵待庵 妙喜庵待庵

妙喜庵待庵
みょうきあんたいあん

京都府乙訓 (おとくに) 郡大山崎町の禅院妙喜庵にある茶室
利休作。現存する桃山時代室中最も著名。2畳隅炉,次間1畳つきの草庵風茶室で,山崎の戦いのとき,利休が豊臣秀吉のために茶をたてたといわれる。
明経道
みょうぎょうどう @@@LINK=明経道 明経道

明経道
みょうぎょうどう

律令制下の大学の一学科
儒教の経書専攻で,科目は『周易』『尚書』『周礼 (しゆらい) 』『儀礼』『礼記』『毛詩』『春秋左氏伝』および『孝経』『論語』。令制では学生の必修科目であったが,平安中期には,明経道から分かれた紀伝道が発達したため,しだいに衰えた。
苗字帯刀
みょうじたいとう @@@LINK=苗字帯刀 苗字帯刀

苗字帯刀
みょうじたいとう

江戸時代,武士階級の特権
武士以外は正式には苗字(=名字)を称することが許されなかったが,特別の功労のあった庶民に限り許可(苗字帯刀御免)された。苗字のみの許可は帯刀より例が多く世襲されたが,帯刀は1代限りであった。
名主
みょうしゅ @@@LINK=名主 名主
なぬし @@@LINK=名主 名主

名主
みょうしゅ

平安後期〜中世において,荘園・国衙 (こくが) 領の年貢・公事 (くじ) の対象とされた名田 (みようでん) の所有者
平安中期の田堵 (たと) についで現れ,みずから農業経営を行うと同時に一部の名田を作人などに耕作させた地主的存在。農民の階層分化に伴い,武士化して荘官となる者もあり,また作人・下人なども名主職を得て名主化する者もいた。鎌倉中期以降,名主の地位は一種の得分権となり,相伝・譲与・売買の対象となった。しかし,名主単位の賦課という荘園的支配体制は,太閤検地によって廃止されるまで存続した。

名主
なぬし

江戸時代,村方三役(地方三役 (じかたさんやく) )の筆頭
関西の庄屋にあたる。村の責任者で郡代・代官の命をうけ,年貢割当て・宗門改・触の伝達などの村政一般を管掌。その地位は世襲からしだいに一代限りとなり,選挙・推薦で定め,代官がこれを任命した。また町方では町名主がいた。
明星派
みょうじょうは @@@LINK=明星派 明星派

明星派
みょうじょうは

明治後期,与謝野鉄幹主宰の新詩社の機関誌明星』(1900〜08)に拠った詩歌同人の呼称
華麗なロマン主義で詩歌界を風靡。主要同人に与謝野晶子高村光太郎石川啄木北原白秋木下杢太郎 (もくたろう) らがいた。
妙心寺
みょうしんじ @@@LINK=妙心寺 妙心寺

妙心寺
みょうしんじ

京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の大本山
1337年花園上皇の離宮を寺とし,関山慧玄 (かんざんえげん) を開山に迎えた。3代将軍足利義満のとき,寺領・末寺を没収され一時衰えたが,戦国末期に諸大名が帰依し,臨済宗中最大を誇る。
明珍
みょうちん @@@LINK=明珍 明珍

明珍
みょうちん

平安後期から江戸時代まで続いた甲冑師の家
代々甲冑をつくるのを各地で業としたが,室町時代から鐔 (つば) も製作。武田信玄に仕えた17代信家は鐔工名人として中興のといわれた。
妙貞問答
みょうていもんどう @@@LINK=妙貞問答 妙貞問答

妙貞問答
みょうていもんどう

江戸初期のキリスト教教義書
1605年日本人イエズス会士ファビアンの著。3巻のうち2巻が現存。妙秀・幽貞2人の尼の問答形式で神道・儒教・仏教を排撃し,キリスト教の教義を説いた。日本人による最初の伝道書といわれる。
名田
みょうでん @@@LINK=名田 名田

名田
みょうでん

平安中期〜中世,荘園・公領制のもとにおける地主的な土地所有の一形態
名田とは請負耕作者の名を付した田地の意味で,律令制の解体に伴って成長した有力な農民である田堵 (たと) が田に対する耕作権を主張したところに成立。中世を通じて荘園・国衙 (こくが) 領の構成単位で,年貢・公事 (くじ) 賦課の対象となった。
名簿
みょうぶ @@@LINK=名簿 名簿

名簿
みょうぶ

姓名を記した書付
平安中期以降,地方武士などが中央の権門勢家と主従関係を結ぶ場合,名簿を提出することでその証とした。名簿の提出=主従関係の成立とみる学説がある。
明法道
みょうぼうどう @@@LINK=明法道 明法道

明法道
みょうぼうどう

律令制度下の大学で律令を講究する学科
令では特に規定はないが,730年独立。平安初期に盛んになったが,中期以降文章(紀伝)道が盛んとなり貴族の必修教養になるにつれて衰えた。12世紀ころから中原・坂上 (さかのうえ) 氏の家学となった。
三善清行
みよしきよゆき @@@LINK=三善清行 三善清行

三善清行
みよしきよゆき

847〜918
平安前期の漢学者・公卿
名は「きよつら」とも読む。文章博士から参議・宮内卿に昇進した。914年醍醐 (だいご) 天皇の命により『意見封事十二箇条』を提出した。詩文に長じ,明法・算道にも明るく,『延喜格式』の編集に参加。ほかに『智証大師(円珍)伝』『藤原保則伝』などの著もある。

三善清行意見封事十二箇条
みよしきよゆきいけんふうじじゅうにかじょう @@@LINK=三善清行意見封事十二箇条 三善清行意見封事十二箇条

三善清行意見封事十二箇条
みよしきよゆきいけんふうじじゅうにかじょう

意見封事十二箇条
三好氏
みよしし @@@LINK=三好氏 三好氏

三好氏
みよしし

中世,阿波国の豪族
清和源氏の一流。阿波の守護で三好郡に住み三好氏を称した。室町時代に四国の守護細川氏の家臣となり,戦国時代に入り長慶のとき,主家の管領細川氏の衰退に乗じて幕政の実権を掌握したが,まもなく家臣松永久秀に実権を奪われた。のち織田信長に滅ぼされた。
三好長慶
みよしながよし @@@LINK=三好長慶 三好長慶

三好長慶
みよしながよし

1523〜64
戦国末期の武将
管領細川晴元の執事として,和泉・河内・摂津を支配し,ついで将軍足利義輝を京都から追放。1552年には主人である晴元を退け,管領にかわる権力をふるい,近畿8カ国を支配したが,晩年は家臣の松永久秀に実権を奪われた。

三善康連
みよしやすつら @@@LINK=三善康連 三善康連

三善康連
みよしやすつら

1192〜1256
鎌倉中期の政治家
康信の子。評定衆・問注所執事などをつとめ,御成敗式目の起草にあたった。
三善康信
みよしやすのぶ @@@LINK=三善康信 三善康信

三善康信
みよしやすのぶ

1140〜1221
鎌倉前期,公家出身の政治家で,初代問注所執事
法名善信 (ぜんしん) 。母は源頼朝の乳母の妹。伊豆に流罪中であった頼朝に京都の動静を報じ,1184年問注所が設置されると鎌倉に招かれて執事(長官)になる。法律に通じた官僚として幕府の基礎強化に尽くす。1221年執事を子康連に譲って隠退した。

ミルン
John Milne @@@LINK=ミルン ミルン

ミルン
John Milne

1850〜1913
イギリスの鉱山技師・地震学者
1876年来日。工部大学校・東京大学で鉱山学・地質学を担当。また地震計を考案し,日本地震学会を創設した。'95年帰国。

弥勒信仰
みろくしんこう @@@LINK=弥勒信仰 弥勒信仰

弥勒信仰
みろくしんこう

弥勒菩薩に対する信仰
弥勒浄土である兜率天 (とそつてん) で天人のために説法しているが,56億7000万年ののち,この世に現れて衆生を救済するとされている。そこから弥勒の兜率天に往生しようとする上生信仰と,弥勒の下生に合わせて現世に再生したいという下生信仰とが盛んとなった。上生信仰は古代に行われ,下生信仰は中世〜近世に行われた。
三輪山
みわやま @@@LINK=三輪山 三輪山

三輪山
みわやま

奈良県桜井市にある山
この山を神体とする大神 (おおみわ) 神社がある。記紀には,この三輪山の神(大物主神 (おおものぬしのかみ) )が人間の姿をして女のところへ通うという三輪山伝説がみえる。標高467m。山の姿は美しく,奈良盆地南東のシンボル的な山で,『万葉集』などにも詠まれている。

みん @@@LINK=明 明


みん

中国の統一王朝(1368〜1644)
1368年,朱元璋 (しゆげんしよう) (太祖)が元を滅ぼして建国。皇帝独裁制を強化し,15世紀初めには成祖永楽帝が出て最盛期を現出した。中期以後,政治の腐敗ならびに北方民族や倭寇 (わこう) の侵略に悩まされ(北虜南倭),1644年李自成の乱によって滅亡した。日本に倭寇の鎮圧をしばしば求め,15世紀初頭足利義満のときから勘合貿易が開かれた。これは朝貢という形の統制貿易であった。ついで豊臣秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役)を行ったときには,朝鮮側に援軍を送り危機に瀕していた明国の財政はますます窮迫した。

みん @@@LINK=旻 旻


みん

?〜653
7世紀の渡来系学問僧で,大化の改新の政治顧問
608年遣隋使小野妹子 (おののいもこ) に従い学問僧として渡隋し,632年帰国。645年大化の改新に際し高向玄理 (たかむこのげんり) とともに国博士に任命され,改新政府の政策立案した。

民間省要
みんかんせいよう @@@LINK=民間省要 民間省要

民間省要
みんかんせいよう

江戸中期の農政書
3編15巻。武蔵川崎宿(神奈川県川崎市)の名主で,のち幕臣に登用された田中丘隅 (きゆうぐ) の著。経験をもとにして民政上の事実や意見を詳細に記述し,当時の末端支配機構の実態などをよく伝えている。
民権自由論
みんけんじゆうろん @@@LINK=民権自由論 民権自由論

民権自由論
みんけんじゆうろん

明治前期,植木枝盛の啓蒙書
1879年刊。人民は国家主人であり,君主政府は人民の自由権利を保護するための手段にすぎないと,民権思想を平易に説いたもの。自由民権運動の理論的指導書として大きな影響を与えた。
民権論
みんけんろん @@@LINK=民権論 民権論

民権論
みんけんろん

明治前期,自由民権運動の指導理論
国権拡張を主張する国権論に対し,人民の権利伸張を第一に主張する考え。自由民権運動期,中江兆民・植木枝盛らが主唱。国権論と妥協・結合するところもあり,1890年代以後衰退した。
民事訴訟法
みんじそしょうほう @@@LINK=民事訴訟法 民事訴訟法

民事訴訟法
みんじそしょうほう

私法上の権利保護や違法な行政処分の取消・変更を求める訴訟手続きを定めた法律
六法の一つ。1890年ドイツ法を模範として制定し,'91年より施行。1926年に全面的な改正が行われ('29年施行),第二次世界大戦後,英米法的見地からの改正がなされた。
民主社会党
みんしゅしゃかいとう @@@LINK=民主社会党 民主社会党

民主社会党
みんしゅしゃかいとう

1960年1月24日,日本社会党右派が分裂結成した政党
委員長西尾末広,最高顧問片山哲マルクス主義を排し,民主社会主義を掲げて,資本主義と左右の全体主義に対決することを主張。全日本労働総同盟(同盟)を支持基盤とする。'70年民社党と改称。'94年新進党結成に伴い解党。
民主自由党
みんしゅじゆうとう @@@LINK=民主自由党 民主自由党

民主自由党
みんしゅじゆうとう

戦後の保守政党の一つ(1948〜50)
1948年3月15日,日本民主党内の幣原 (しではら) 喜重郎系の同志クラブと日本自由党とが合同結成。総裁は吉田茂。第2・3次吉田内閣の与党となる。'50年に日本民主党連立派を加えて自由党と改称した。
民政党
みんせいとう @@@LINK=民政党 民政党

民政党
みんせいとう

立憲民政党
明銭
みんせん @@@LINK=明銭 明銭

明銭
みんせん

室町時代,中国の明からもたらされた銭貨
永楽通宝・洪武通宝・宣徳通宝が有名。日明貿易により輸入され,貨幣鋳造が行われなかった当時の日本では,これらが基準貨幣として流通した。
民撰議院設立建白書
みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ @@@LINK=民撰議院設立建白書 民撰議院設立建白書

民撰議院設立建白書
みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ

明治初年,自由民権運動のきっかけとなった国会開設要求の意見書
1873(明治6)年征韓論に敗れ辞職した板垣退助・後藤象二郎らは愛国公党を組織し,翌 '74年1月太政官左院に,有司専制政治を批判し民撰議院(国会)の設立を建白したので国会開設論・民権論は全国に広がった。政府は大阪会議を開いて世論緩和をはかる一方,新聞紙条例・讒謗律 (ざんぼうりつ) を制定してこれを弾圧した。
民俗学
みんぞくがく @@@LINK=民俗学 民俗学

民俗学
みんぞくがく

民間伝承・風習祭礼などの研究から民衆の生活文化を研究する学問
イギリスではフォークロア,ドイツではフォルクスクンデと呼ばれ,民間伝承を意味する。日本では柳田国男によって創始され,体系化された。歴史学や民族学(文化人類学)と重なる領域も多い。
民族主義
みんぞくしゅぎ @@@LINK=民族主義 民族主義

民族主義
みんぞくしゅぎ

「ナショナリズム(nationalism)」の訳で,近代的な民族国家の形成と発展をめざす思想や運動
強国の場合,利己的な排外主義になりやすい。現代では植民地・従属国の自立の運動をもさす。日本では幕末の攘夷論に端を発し,自由民権運動における国権回復・条約改正の要求として高揚するが,その後国家主義的色彩を強くし,昭和期には,超国家主義の出現をみた。
明兆
みんちょう @@@LINK=明兆 明兆

明兆
みんちょう

1352〜1431
室町初期,水墨画の代表的画僧
淡路の人。京都東福寺の殿司 (でんす) の役にあったので兆殿司ともいう。宋・元の各種画法を総合し強い墨線と濃い色彩が特色。代表作に『五百羅漢図』(東福寺蔵),『聖一国師像』など。

民党
みんとう @@@LINK=民党 民党

民党
みんとう

明治時代の初期議会において藩閥政府に反対した政党総称
吏党に対する語。帝国議会開設(1890)前後から日清戦争開戦('94)のころまで,反政府的立場(野党)をとった自由党立憲改進党の総で,特定の政党をさすものではない。
民部省
みんぶしょう @@@LINK=民部省 民部省

民部省
みんぶしょう

①律令官制の八省の一つ
②明治初年,民政関係の中央官庁
太政官の左弁官に属し,諸国の戸籍・賦役・田・山川・道路など一般政務をつかさどった。下に主計寮・主税寮があり,律令国家の中枢機関。
1869年設置。'71年に廃止され,大蔵省に吸収,のち内務省に引き継がれた。
民部省札
みんぶしょうさつ @@@LINK=民部省札 民部省札

民部省札
みんぶしょうさつ

1869年,高額の太政官札を補うため民部省が発行した小額紙幣
2分・1分・2朱・1朱の4種で,総発行額は750万両。不換紙幣価値は下落した。1879年に回収された。
民法
みんぽう @@@LINK=民法 民法

民法
みんぽう

市民社会の私法体系の基礎をなす法律
ボアソナードの指導でフランス民法を模範として1890年に公布された民法は,民法典論争により延期派が断行派を制し,施行に至らなかった。そして改めてドイツ民法を模範として'98年に施行され(明治民法),第二次世界大戦の終わりまで行われた。敗戦後,新憲法施行に伴い,個人の尊重,家父長的家族制度の解体をはかり,民法の親族・相続両編を大改正し,1948年に施行された。現在,'95年の法制審議会答申をうけて法改正が図られている。
民法典論争
みんぽうてんろんそう @@@LINK=民法典論争 民法典論争

民法典論争
みんぽうてんろんそう

明治中期,1890年公布の民法をめぐって行われた論争
1893年1月から施行されることになっていた民法に対し,伝統的な風習道徳を破壊する危険があるとの反対論がおこり,論争がやかましくなった結果,'92年の第3議会は民法・商法の施行延期を決定した。それはフランス法学派とドイツ法学派,自由主義と国家主義の対立でもあった。
民本主義
みんぽんしゅぎ @@@LINK=民本主義 民本主義

民本主義
みんぽんしゅぎ

大正時代のデモクラシーの思想
第一次世界大戦後の自由主義・民主主義の台頭につれて,吉野作造が主唱。吉野は天皇君主制の容認前提に,主権在民の観念にたつ民主主義と区別し,政治の目的を「民衆の福利」に置き,民衆の世論による憲政運用を主張した。具体的には普通選挙法・政党内閣制実現の主張となり,大正デモクラシー運動の中心理論となった。
民約訳解
みんやくやくかい @@@LINK=民約訳解 民約訳解

民約訳解
みんやくやくかい

明治中期,中江兆民の翻訳書
1882年刊。ルソーの『民約論(社会契約論)』を翻訳・解説したもので,初め兆民が主宰した仏学塾発行の『政理叢談』に連載原著完訳ではなく,初めから3分の1までの漢訳であるが,その流麗な訳文注解はよくルソーの主権在民天賦人権論を伝え,自由民権運動の理論的指導書となった。
民友社
みんゆうしゃ @@@LINK=民友社 民友社

民友社
みんゆうしゃ

1887(明治20)年,徳富蘇峰が創立した思想結社・出版社(〜1929)
1887年に雑誌『国民之友』,'90年『国民新聞』を発行。平民主義を唱えて明治20年代の思想界・文学界に大きな影響を与えた。社員に山路愛山・徳冨蘆花 (ろか) らがいた。
向井去来
むかいきょらい @@@LINK=向井去来 向井去来

向井去来
むかいきょらい

1651〜1704
江戸中期の俳人。蕉門十哲の一人
長崎の生まれ。8歳のとき上洛し,のち京都嵯峨野に落柿舎 (らくししや) を営んだ。関西における蕉門の中心となり,『猿蓑』を編纂,ほかに『去来抄』『伊勢紀行』などの著書がある。

無学祖元
むがくそげん @@@LINK=無学祖元 無学祖元

無学祖元
むがくそげん

1226〜86
鎌倉中期に来日した宋の禅僧で,鎌倉円覚寺の開山
臨済宗の僧。勅諡は仏光禅師・円満常照国師。1279年北条時宗の招きで来朝。建長寺の住持,ついで円覚寺開山となり,建長・円覚両寺を管した。在住8年,日本臨済宗の基礎を固め,禅と武士との密接な結びつきを確立した。

無関普門
むかんふもん @@@LINK=無関普門 無関普門

無関普門
むかんふもん

1212〜91
鎌倉後期の臨済宗の僧。南禅寺の開山
無関は号。勅諡は仏心禅師・大明国師。信濃の人。円爾弁円弟子。入宋し,12年ののち帰国。亀山上皇帰依うけ,亀山離宮を賜り,太平興国南禅寺とした。
武蔵七党
むさししちとう @@@LINK=武蔵七党 武蔵七党

武蔵七党
むさししちとう

平安末期〜中世にかけて武蔵国に存在した同族的武士団の総称
七党とは村山・横山・猪俣 (いのまた) ・児玉・丹・西・野与をいい,野与の代わりに私市 (きさい) を入れる場合もある。いずれも武蔵に土着した国司の子孫で,各党は数十の小族に分かれて独立しながら一つの党として結合し,大武士団には発展せず,のち源氏の家人となっていった。
無産政党
むさんせいとう @@@LINK=無産政党 無産政党

無産政党
むさんせいとう

大正・昭和前期の資産の無い階級(労働者・農民ら)を基盤とする社会主義政党の総称
普通選挙法の成立後の1925年12月,農民労働党が結成されたが,即日禁止。その後再三離合集散を重ねた。'32年に成立した社会大衆党は支持が多かった。
武者所
むしゃどころ @@@LINK=武者所 武者所

武者所
むしゃどころ

①上皇の御所を警備する武士の詰所
②建武政府の中央機関の一つ
武者ともいう。
建武の新政に際し設置され,京都の警備をおもな任務とした。新田義貞を頭人 (とうにん) (長官)として,新田氏一族を中心に有力武士64名の6番交代制で構成された。
武者小路実篤
むしゃのこうじさねあつ @@@LINK=武者小路実篤 武者小路実篤

武者小路実篤
むしゃのこうじさねあつ

1885〜1976
明治〜昭和期の小説家
華族出身。東京の生まれ。学習院より東大社会学科に進んだが中退。1910年志賀直哉らと『白樺』を創刊。自己の伸張を目ざす楽天的人道主義者で,「新しき村」の建設に取り組み,画業にも力を入れた。'51年文化勲章受章。代表作に『お目出たき人』『友情』『その妹』など。

無住一円
むじゅういちえん @@@LINK=無住一円 無住一円

無住一円
むじゅういちえん

1226〜1312
鎌倉後期の臨済宗の僧
鎌倉の人。若くして諸宗兼学。のち円爾弁円に師事して法を継ぎ,尾張長母寺を建て,尾張・伊勢の教化につとめた。著書が多く,なかでも説話集『沙石集』が著名。

無宿
むしゅく @@@LINK=無宿 無宿

無宿
むしゅく

江戸時代,住居や生業が一定せず,人別帳にも無記載の浮浪人
非人・乞食を含む場合もある。天明の大飢饉以後急増。幕府はその取締りに苦心し,寛政改革では石川島に人足寄場を設けるなど無宿者の更生につとめた。
無尽
むじん @@@LINK=無尽 無尽

無尽
むじん

の一種で,庶民の間の相互金融の仕組み
鎌倉時代には無利子頼母子 (たのもし) という互助法があったが,室町時代には土倉担保をとり,利子をとったものを無尽といった。江戸時代に最も盛んとなり,寺社の修復にも利用された。一定の掛金を出し,入札の上で講中の者が抽籤により落札する。落札者は以後掛銭のみを出し,全員が落札すれば解散する。大正時代に無尽会社となり,多くは1951年の相互銀行法によって相互銀行に移行し,現在は第二地方銀行に分類される。
無政府主義
むせいふしゅぎ @@@LINK=無政府主義 無政府主義

無政府主義
むせいふしゅぎ

アナーキズム
夢窓疎石
むそうそせき @@@LINK=夢窓疎石 夢窓疎石

夢窓疎石
むそうそせき

1275〜1351
鎌倉末期・南北朝時代の臨済宗の僧
伊勢(三重県)の人。初め天台・真言を修学したが,のち禅宗に転じ,後醍醐 (ごだいご) 天皇・足利尊氏らの篤信をうけた。甲斐恵林 (えりん) 寺・京都天竜寺などを開き,春屋妙葩 (しゆんおくみようは) をはじめすぐれた僧を多数養成し,臨済禅最盛のもとを開いた。また天竜寺・西芳寺・瑞泉寺(鎌倉)などの造園にすぐれた技術を残し,『夢中問答』ほか著書も多い。

無足人
むそくにん @@@LINK=無足人 無足人

無足人
むそくにん

中世〜近世の家臣で,知行地をもたない者
鎌倉・室町時代,所領のない武士をいい,戦国・江戸時代には扶持米をうける軽輩の武士を呼ぶようになった。また農村内においては,郷士別称藤堂藩)などに用いられ,人足役を減免されている上級農民をさしたが,一方肥前唐津藩では,本百姓に対し,土地をもたない百姓を無足人といった。
無高百姓
むだかびゃくしょう @@@LINK=無高百姓 無高百姓

無高百姓
むだかびゃくしょう

水呑百姓
無著・世親像
むちゃく・せしんぞう @@@LINK=無著・世親像 無著・世親像

無著・世親像
むちゃく・せしんぞう

奈良興福寺にある鎌倉時代の肖像彫刻
1208年ごろ,奈良仏師運慶の指揮下に一門子弟が制作。インドに生まれ法相宗の祖師と仰がれる無著・世親兄弟の木像で,写実を極め,同時代の肖像彫刻中,傑作といわれる。
夢中問答集
むちゅうもんどうしゅう @@@LINK=夢中問答集 夢中問答集

夢中問答集
むちゅうもんどうしゅう

室町前期,夢窓疎石の著書
『夢中問答』ともいう。1344年刊。3巻。足利直義 (ただよし) に対し禅について80余項目にわたり懇切丁寧に説いたもの。平易ながら深妙な禅の精神を示し,戦争の罪悪人民への善政を強調した。
ムッソリーニ
Benito Mussolini @@@LINK=ムッソリーニ ムッソリーニ

ムッソリーニ
Benito Mussolini

1883〜1945
イタリアのファシズム政治家
初め社会主義運動に従事したが,1919年ファシスト党を結成。政権を掌握し,ファシズム政治を行った。エチオピア戦争など対外侵略を行い,日本・ドイツと枢軸国を形成して,第二次世界大戦を誘発。'43年敗戦で失脚し,'45年パルチザンに銃殺された。
陸奥宗光
むつむねみつ @@@LINK=陸奥宗光 陸奥宗光

陸奥宗光
むつむねみつ

1844〜97
明治時代の政治家・外交官
紀伊藩出身。海援隊に加わり,尊王攘夷運動に参加。1872年明治新政府の租税頭として地租改正の実施にあたり,初期議会では政党工作に腕をふるう。第2次伊藤博文内閣の外相として,'94年7月日英通商航海条約を締結し,領事裁判権の撤廃と税権の一部回復に成功。ひきつづき日清戦争前後の外交にあたり,下関講和会議に伊藤首相とともに全権として出席した。

陸奥留守職
むつるすしき @@@LINK=陸奥留守職 陸奥留守職

陸奥留守職
むつるすしき

鎌倉幕府の奥州統治機関
源頼朝が奥州藤原氏征服の翌1190年,伊沢家景を任じ,人びとの訴訟を聞き,幕府に報告することを命じたのに始まる。その後も代々伊沢氏(留守氏)が世襲した。
陸奥話記
むつわき @@@LINK=陸奥話記 陸奥話記

陸奥話記
むつわき

平安後期,前九年の役(1051〜62)の合戦を記した軍記物語
乱後ほどなく成立。1巻。作者不詳。追討軍の悪戦苦闘経過を漢文体でくわしく書いている。合戦に関する記録類を整理したもので,史料的価値は高い。軍記物語の先駆をなす。
無土器文化
むどきぶんか @@@LINK=無土器文化 無土器文化

無土器文化
むどきぶんか

先土器文化
棟別銭
むなべちせん @@@LINK=棟別銭 棟別銭

棟別銭
むなべちせん

室町時代,家屋の棟数を標準に課し,貨幣で納めさせた臨時税
「むねべちせん」とも読む。重要行事や建築などのため,特定の国郡あるいは全国に課した。段銭とともに室町幕府の重要な財源となり,のち臨時的なものからしだいに恒常化した。
無二念打払令
むにねんうちはらいれい @@@LINK=無二念打払令 無二念打払令

無二念打払令
むにねんうちはらいれい

異国船打払令
宗尊親王
むねたかしんのう @@@LINK=宗尊親王 宗尊親王

宗尊親王
むねたかしんのう

1242〜74
鎌倉幕府第6代将軍(在職1252〜66)
後嵯峨天皇の第2皇子。1252年,10歳で最初の皇族(親王)将軍として鎌倉に下向し,征夷大将軍となる。'66年謀反の疑いで京都に追われた。和歌にすぐれ,『柳葉和歌集』『初心愚草』などがある。

宗良親王
むねよししんのう @@@LINK=宗良親王 宗良親王

宗良親王
むねよししんのう

1311〜?
南北朝時代の皇族
後醍醐 (ごだいご) 天皇の皇子。幼少で出家し天台座主 (ざす) (尊澄法親王)となる。1331年天皇の討幕計画に加わって(元弘の変)讃岐に流された。建武の新政瓦解後,'38年北畠親房らと東国に下る途中遠江 (とおとうみ) に漂着。信濃を中心に中部地方で活躍した。また『新葉和歌集』の撰者で,家集に『李花集』がある。

村請
むらうけ @@@LINK=村請 村請

村請
むらうけ

江戸時代,年貢・諸役を村単位で請け負い,村の責任で全額納入すること
このため,村の運営の実務を担当する村役人役割が重要となった。
村掟
むらおきて @@@LINK=村掟 村掟

村掟
むらおきて

中世から近世の村落における自治法規
村極 (むらぎめ) ・村定 (むらさだめ) ともいう。郷村制発達とともに現れ,入会地 (いりあいち) ・用水の管理,農作をはじめ,道徳的規制も惣 (そう) 百姓約束によって定められ,制裁規定も伴った。江戸時代には領主の規制をうけるようになった。
村方三役
むらかたさんやく @@@LINK=村方三役 村方三役

村方三役
むらかたさんやく

地方三役
村方騒動
むらかたそうどう @@@LINK=村方騒動 村方騒動

村方騒動
むらかたそうどう

江戸中期以後,村の内部でおこった民主的改革運動
小百姓水呑百姓は,村役人の年貢および村費の徴収などについての不正を追及,村役人の改選・村政の民主的運営を要求した。地主と小百姓・水呑百姓との対立の現れである。
村上源氏
むらかみげんじ @@@LINK=村上源氏 村上源氏

村上源氏
むらかみげんじ

村上天皇の皇族賜姓の一つ
村上天皇の孫師房 (もろふさ) を始祖とし,貴族として栄えた。大臣大将となるものも多く,白河院政の時代に摂関家を圧倒することもあった。
村上天皇
むらかみてんのう @@@LINK=村上天皇 村上天皇

村上天皇
むらかみてんのう

926〜967
平安前期の天皇(在位946〜967)
醍醐 (だいご) 天皇の第14皇子。関白藤原忠平の死後,関白を置かず親政を行った。954年諸臣に意見封事を提出させ,その治世は「天暦の治」といわれたが,律令体制は崩壊し,地方政治は乱れていた。

紫式部
むらさきしきぶ @@@LINK=紫式部 紫式部

紫式部
むらさきしきぶ

978?〜1016?
平安中期の代表的女流文学者で,『源氏物語』の作者
父は越前守藤原為時で和歌・詩文に長じていた。紫式部の名は,『源氏物語』の紫の上と,兄が式部丞であったことにちなむが,実名は不明。夫藤原宣孝 (のぶたか) に死別後,一条天皇の中宮彰子 (しようし) に仕え,その前後に『源氏物語』の筆をとり始めた。当時の才女としては清少納言の才智,和泉式部の情熱に比し,内省的な人柄であったらしい。著書はほかに『紫式部日記』『紫式部集』など。

紫式部日記
むらさきしきぶにっき @@@LINK=紫式部日記 紫式部日記

紫式部日記
むらさきしきぶにっき

平安中期,紫式部の日記文学
2巻。1008〜10年の中宮彰子 (しようし) への宮仕え中の日記。文章は優雅な仮名文で,作者の性格・交友(和泉式部・清少納言)・人生観など鋭い見方が随所にみられる。『源氏物語』理解のために有効である。また当時の風俗儀式を知る好史料。
紫式部日記絵巻
むらさきしきぶにっきえまき @@@LINK=紫式部日記絵巻 紫式部日記絵巻

紫式部日記絵巻
むらさきしきぶにっきえまき

鎌倉初期,『紫式部日記』を題材とした絵巻物
詞を九条良経(兼実の子),絵を藤原信実が描いたと伝えられる。現存4巻(詞23段。絵24段)。国宝。

むらじ @@@LINK=連 連


むらじ

古代の姓 (かばね) の一つ
臣 (おみ) とともに伴造 (とものみやつこ) 系の中央の最有力豪族に多い。その中から大伴・物部氏のように大連 (おおむらじ) が出て,大臣 (おおおみ) とともに国政轄した。684年天武天皇が制定した八色の姓 (やくさのかばね) では,有力な連は宿禰 (すくね) ・朝臣 (あそん) になり,その他の連は第7位に下がった。
村高
むらだか @@@LINK=村高 村高

村高
むらだか

江戸時代の一村の石高の総計,公定生産高
村は課税単位であり,村高に(貢租率,免四つ半は4割5分)をかけるとその村の年貢が算出された。村高に計上されている土地を高請地という。
村田銃
むらたじゅう @@@LINK=村田銃 村田銃

村田銃
むらたじゅう

明治前期,村田経芳 (つねよし) が開発した歩兵銃
明治初期,陸軍では多種多様の外国小銃が使用されていたので,村田は国産化による改良統一を企て,フランスやオランダの銃を模範として1880(明治13)年完成,13年式村田銃として陸軍が採用。改良された18年式・22年式(連発式)は日清戦争の際威力を発揮した。
村田珠光
むらたじゅこう @@@LINK=村田珠光 村田珠光

村田珠光
むらたじゅこう

1423〜1502
室町中期の茶人
奈良の称名寺の僧で,禅の精神を茶の湯に加味し,精神的深みのある四畳半の茶室作法(侘 (わ) び茶)を創始。8代将軍足利義政の茶道師範をしたと伝えられる。

村田清風
むらたせいふう @@@LINK=村田清風 村田清風

村田清風
むらたせいふう

1783〜1855
幕末の長州藩士で,藩政改革の指導者
通称亀之助,名は順之,のち清風。号を松斎という。明倫館に学ぶ。天保初年(1830)の大一揆以来,改革派の指導者として,下級武士・富農・富商を基盤に,士民救済の借金の年賦返済法や越荷方 (こしにかた) の拡大など,財政整理・殖産興業・兵制改革を行い,幕末,長州藩の討幕運動の基礎をつくった。

村田春海
むらたはるみ @@@LINK=村田春海 村田春海

村田春海
むらたはるみ

1746〜1811
江戸中・後期の歌人・国学者
通称平四郎。号は琴後翁 (ことじりのおきな) ・錦織斎 (にしごりのやのあるじ) など。江戸の人。賀茂真淵 (まぶち) の門に入り,縣門十二大家の一人。加藤千蔭とともに江戸派歌風の双璧と称され,和歌・国学・漢学に通じ,書をよくし文章もすぐれていた。著書に家集『琴後集』,『和学大概』など。

村八分
むらはちぶ @@@LINK=村八分 村八分

村八分
むらはちぶ

江戸時代の村の農民に対する制裁
村ばね・村はぶきともいう。放火殺人・共同作業の怠慢・盗みなどの非行によって,葬式と火事の二分を除いたほかは,村民から絶交される処分。入会 (いりあい) 権などを失い,事実上村生活が不可能になった。
村明細帳
むらめいさいちょう @@@LINK=村明細帳 村明細帳

村明細帳
むらめいさいちょう

江戸時代の村方文書
村鑑帳・村差出帳・村差出明細帳ともいい,石高・家数・人数・寺社などを記した村勢一覧のようなもの。幕府の巡見使の派遣,領主役人の回村,領主変更の場合などに差し出された。江戸中期以降形式がととのえられ,明治初年まで続いた。
村役人
むらやくにん @@@LINK=村役人 村役人

村役人
むらやくにん

地方 (じかた) 三役
室生犀星
むろうさいせい @@@LINK=室生犀星 室生犀星

室生犀星
むろうさいせい

1889〜1962
大正・昭和期の詩人・小説家
本名は照道。石川県の生まれ。『愛の詩集』『抒情小曲集』で詩人としての地歩を固め,のち『性に目覚める頃』で小説家としても活躍した。庶民の感情・生活などを独特の筆致でリアルに描いた。

室生寺
むろうじ @@@LINK=室生寺 室生寺

室生寺
むろうじ

奈良県宇陀郡室生村にある真言宗室生寺派の大本山
俗に「女人高野」といわれる。平安初期,室生竜穴神の神宮寺として興福寺の僧賢璟 (けんけい) と弟子修円が建立。伽藍 (がらん) は山岳寺院の常として自由に配置されている。金堂と五重塔は平安初期の遺構。金堂には帝釈天曼荼羅 (たいしやくてんまんだら) の板絵や『釈迦如来像』などがあり,弥勒堂の『釈迦如来像』も有名。五重塔は高さ16m余の小塔で,ゆるやかな勾配の檜皮 (ひわだ) 屋根を持っている。
室鳩巣
むろきゅうそう @@@LINK=室鳩巣 室鳩巣

室鳩巣
むろきゅうそう

1658〜1734
江戸中期の朱子学者
江戸の人。木下順庵の門下で,新井白石と並ぶ秀才。1711年白石の推薦で幕府の儒官となった。のち徳川吉宗の侍講となり,その知識は享保の改革の政策に活用された。著作に『駿台雑話』『六諭衍義大意 (りくゆえんぎたいい) 』など。

室津
むろつ @@@LINK=室津 室津

室津
むろつ

古来播磨国の港町で,現在の兵庫県揖保 (いぼ) 郡御津町室津
古代には瀬戸内海の良港として五泊の一つに数えられた。中世以降,瀬戸内航路の寄港地として繁栄。江戸時代にはオランダ朝鮮使節や西国大名の上陸地であった。明治時代以後,大型船の寄港に適さないため衰えた。
室町時代
むろまちじだい @@@LINK=室町時代 室町時代

室町時代
むろまちじだい

広義では1338年足利尊氏の室町幕府創設から,1573年幕府滅亡までの約240年間をさす
足利時代ともいう。1336年建武式目制定を成立期とする説,狭義では南北朝時代・戦国時代を除き,1392年南北朝合体から,1477年応仁の乱終結までをさす説などもある。この時代は,政治上では幕府権力が弱体で,台頭してきた守護大名に支えられ,経済上では商業が発達し,商人が勃興した。社会上では,郷村制の成立で結集した庶民の力が土一揆となって発揚されるようになり,文化上では,武家文化が公家文化を圧倒し,水墨画のように宋・元文化の日本化も進められた。さらに,武士・商人・農民の支持を得て,能・狂言・茶道・連歌・御伽 (おとぎ) 草子のような新文化が出現するようになった。
室町殿
むろまちどの @@@LINK=室町殿 室町殿

室町殿
むろまちどの

花の御所
室町幕府
むろまちばくふ @@@LINK=室町幕府 室町幕府

室町幕府
むろまちばくふ

1338年,足利尊氏が京都に樹立した武家政権(〜1573)
1336年,尊氏は北朝の光明天皇を擁し,吉野の南朝と対立。'38年征夷大将軍に任ぜられる。3代将軍義満が京都室町に花の御所と呼ばれる邸宅を造ったのでこの名がある。職制はだいたい鎌倉幕府の継承で,三管四職を中心とする有力守護大名の連合政権的性格が強い。3代義満のとき南北朝の合体に成功,全国統一を実現し,幕府の最盛期を現出したが,その後守護大名の台頭による抗争と反乱土一揆などが相つぎ,応仁の乱(1467〜77)以降著しく弱体化し,戦国時代にはまったく有名無実となり,1573(天正元)年,15代義昭 (よしあき) が織田信長に追放されて滅亡した。
明月記
めいげつき @@@LINK=明月記 明月記

明月記
めいげつき

鎌倉時代の歌人藤原定家の日記
『照光記』ともいう。異本が多いが,国書刊行会本には1180〜1235年間の記録がおさめられている。朝廷の政権争い・公武関係・歌道・人情風俗などの記述があり,鎌倉前期の重要史料の一つ。
明衡往来
めいこうおうらい @@@LINK=明衡往来 明衡往来

明衡往来
めいこうおうらい

平安時代,藤原明衡 (あきひら) の著した往来物
『雲州消息』ともいう。11世紀の成立。2巻本と3巻本がある。現存最古の往来物で,正月から12月までの進書・返書を200余通集めた男子用の模範手紙集。文例集・手習い本として江戸時代まで使用された。
明治維新
めいじいしん @@@LINK=明治維新 明治維新

明治維新
めいじいしん

19世紀後半,幕藩体制がその内部矛盾と欧米資本主義の外圧によって崩壊し,日本資本主義と近代天皇制国家形成の起点となった政治的・経済的・社会的変革
明治維新の始期については,国内的条件を第一義として,1840年代の天保期をあてるものと,国際的条件を重視して,ペリー来航の時期をあてるものとがある。終期については,(1)'71年の廃藩置県から,'73年の地租改正に至る封建的領主制の崩壊,(2)'77年の西南戦争による封建的勢力の敗退,(3)'84年の秩父事件(資本主義的な階級的対立の出発点として),(4)'89年の大日本帝国憲法の成立から,翌年の帝国議会の開設に至る近代天皇制国家の成立まで,とする諸説があり,(1)(2)(4)が有力である。この変革は,農民や都市貧民の世直し一揆や外圧の危機の中で,下級武士(特に西南雄藩の)と豪農層が結びついて推進したものと考えられるが,これを絶対主義の成立とみるか,ブルジョア革命とみるかの論争がある。それは日本資本主義の構造や性格,第二次世界大戦までの日本近代史の意義を考える上でも大きな分岐点となっている。
明治憲法
めいじけんぽう @@@LINK=明治憲法 明治憲法

明治憲法
めいじけんぽう

大日本帝国憲法
明治時代
めいじじだい @@@LINK=明治時代 明治時代

明治時代
めいじじだい

1868年の明治新政府の発足から,1912年明治天皇の崩御に至るまでの44年間をさす
この時代の日本国民は,国内政治・国際政治において大きな変革を経験した。世界の各国進歩からとり残されていた鎖国下の封建日本は,この半世紀間に欧米諸国にならって立憲制を採用し,資本主義体制を確立して近代国家へと発展した。日清・日露両戦争に勝ち,アジア大陸の一角朝鮮植民地を得て列強の一つとして強大な軍備をもち,他国を脅かす存在となった。しかし明治末年には政治・経済上の行きづまりをみせ,国際的にはアメリカと対立するに至った。
明治十四年の政変
めいじじゅうよねんのせいへん @@@LINK=明治十四年の政変 明治十四年の政変

明治十四年の政変
めいじじゅうよねんのせいへん

1881(明治14)年10月,参議大隈重信らを追放した政変
国会開設請願運動が高まると政府も立憲政体への移行を決意したが,その時期をめぐり漸進論の伊藤博文・井上馨(長州藩出身)と即時国会開設論の大隈重信(肥前藩出身)が対立。このような中,開拓使官有物払下げ事件がおこると,民権派の背後に大隈の薩長派打倒の策動があるとして,伊藤らは岩倉具視らと結び大隈らを罷免するとともに,払下げを中止し,国会開設の勅諭を出して民権派の反撃のほこ先をかわした。
明治大学
めいじだいがく @@@LINK=明治大学 明治大学

明治大学
めいじだいがく

東京都千代田区神田に本部を置く私立大学
1881年創立の明治法律学校がその前身。
明治天皇
めいじてんのう @@@LINK=明治天皇 明治天皇

明治天皇
めいじてんのう

1852〜1912
明治時代の天皇(在位1867〜1912)
孝明天皇の皇子。1867年即位。討幕派に擁されて王政復古を実現。旧江戸城を皇居として統治権を総轄し,軍人勅諭・大日本帝国憲法・教育勅語などを制定し,神聖不可侵の天皇の権威を確立した。また資本主義発達をはかり,日清・日露両戦争に勝ち,条約改正・韓国併合などを行って強力な明治国家を確立した。陵墓は京都府の伏見桃山陵。

明治美術会
めいじびじゅつかい @@@LINK=明治美術会 明治美術会

明治美術会
めいじびじゅつかい

1889年,浅井忠・小山正太郎らが結成した日本最初の洋画団体(〜1901)
画風は暗い色調の写実主義で,脂 (やに) 派・旧派と呼ばれた。のち,黒田清輝・久米桂一郎らは脱退して白馬会を結成し対立。以後美術会は衰え,1901年解散後は太平洋画会へと受け継がれた。
明治法律学校
めいじほうりつがっこう @@@LINK=明治法律学校 明治法律学校

明治法律学校
めいじほうりつがっこう

1881年,岸本辰雄・矢代操らが設立した私立学校
はじめ東京有楽町,'86年駿河台に移転法律行政経済財政教授を目的とした。1903年専門学校令により明治大学改称
明治用水
めいじようすい @@@LINK=明治用水 明治用水

明治用水
めいじようすい

明治三大用水の一つで,矢作 (やはぎ) 川を水源とし愛知県安城・西尾両市を中心とする灌漑用水
1827年,豪農都築弥四郎が計画を出願。明治維新後,商人岡本兵松・豪農伊予田与八郎が計画を継ぎ,愛知県の援助を得て '79年着工,'84年開通。さらに拡張され,1926年に今日の用水が完成した。灌漑される安城・西尾両市の約1万町歩は代表的先進農業地域となり,日本のデンマークとして知られていた。
明徳の乱
めいとくのらん @@@LINK=明徳の乱 明徳の乱

明徳の乱
めいとくのらん

1391(元中8・明徳2)年,山名氏清・満幸らが室町幕府に対しておこした反乱
山名氏は山陰および山城紀伊・和泉に一族合わせて11カ国の守護職をもち六分一衆 (ろくぶんのいちしゆう) と呼ばれていたが,3代将軍足利義満は山名一族の分裂を巧みに利用し,氏清らを挑発した。氏清らが挙兵すると,義満は細川・畠山・大内氏らに征討させ,氏清は敗死。乱後山名氏は但馬・伯耆 (ほうき) の守護に転落し,室町幕府の将軍の権威が確立した。
冥途の飛脚
めいどのひきゃく @@@LINK=冥途の飛脚 冥途の飛脚

冥途の飛脚
めいどのひきゃく

江戸中期,近松門左衛門作の世話物浄瑠璃
1711年大坂竹本座で初演。3段。大坂の飛脚屋亀屋忠兵衛が新町の遊女梅川への恋のために,為替金を使い込み,駆け落ちしたが捕らえられる。近松59歳の円熟した筆致珠玉の名編となり,また作品全体がリズム感にあふれ,音曲的要素にも富んでいる。歌舞伎でもとりあげられ,『恋飛脚大和往来』と改題されて上演。
伽羅先代萩
めいぼくせんだいはぎ @@@LINK=伽羅先代萩 伽羅先代萩

伽羅先代萩
めいぼくせんだいはぎ

江戸中期,奈河亀輔 (ながわかめすけ) 作の時代物歌舞伎脚本
1777年大坂で初演。伊達騒動をテーマにし,時代を鎌倉に仮託している。乳人の政岡が,わが子を犠牲にして主君を守る忠節を描く。
明倫館
めいりんかん @@@LINK=明倫館 明倫館

明倫館
めいりんかん

江戸時代,長州藩の藩校
1719年,藩主毛利吉元が萩に創設(幕末山口にもできる)。昌平坂学問所にならって儒学教育を主としたが,幕末の藩主敬親 (たかちか) が改革し,西洋医学・西洋兵学を研究する洋学研究所を付設。同藩の活動の原動力になった。
明倫堂
めいりんどう @@@LINK=明倫堂 明倫堂

明倫堂
めいりんどう

①江戸時代,尾張藩の藩校
②江戸時代,加賀藩の藩校
1748年藩主徳川宗勝が創設し,'49年明倫堂と命名。'83年藩主宗睦 (むねちか) のとき学制を改革し,学舎増設。細井平洲が督学となった。
1792年藩主前田治脩 (はるなが) が創設。一部を庶民教育に開放した。
明暦の大火
めいれきのたいか @@@LINK=明暦の大火 明暦の大火

明暦の大火
めいれきのたいか

1657(明暦3)年1月,江戸でおこった大火事
振袖火事ともいう。本郷本妙寺から出火して江戸市街の6割を焼き,死者10万余人を出した。江戸城本丸はじめ大名屋敷も多く焼亡したので,幕府は大名藩邸や寺社を郊外に移し,火除地を設け,本所・深川に市街地拡大隅田川大橋両国橋)をかけた。
明六雑誌
めいろくざっし @@@LINK=明六雑誌 明六雑誌

明六雑誌
めいろくざっし

明治初期,明六社から発行された総合的啓蒙雑誌(1874〜75)
森有礼・西周 (にしあまね) ・中村正直・福沢諭吉ら明六社同人の機関誌。政治・経済・法律・宗教・教育・風俗などあらゆる分野に論陣をはり,啓蒙思想の紹介・宣伝に貢献した。翌1875年新聞紙条例・讒謗律 (ざんぼうりつ) の発布により言論の自由が制限されたのを契機に43号で廃刊となった。
明六社
めいろくしゃ @@@LINK=明六社 明六社

明六社
めいろくしゃ

1873(明治6)年,森有礼らによって組織された最初の近代的な学会
啓蒙活動を目的とし,社員には,福沢諭吉・西周 (にしあまね) ・津田真道・神田孝平・加藤弘之 (ひろゆき) ら主として旧幕府の開成所出身の洋学者を集めており,機関誌『明六雑誌』を発行した。1875年讒謗律 (ざんぼうりつ) ・新聞紙条例が発布されると,雑誌は廃刊し,社は明六会となり,帝国学士院先駆となった。
明和事件
めいわじけん @@@LINK=明和事件 明和事件

明和事件
めいわじけん

1767(明和4)年,江戸幕府による尊王論者弾圧事件
江戸で大義名分を主張し尊王論を唱えた山県大弐 (やまがただいに) とその門人藤井右門が幕府からにらまれ,1766年上野 (こうずけ) (群馬県)小幡藩の内紛にことよせて(大弐は同藩家老と親しかった)捕らえられ,ともに不敬罪として死罪となった。さらに宝暦事件で追放された竹内式部も,この事件に連坐し八丈島へ遠島に処せられた。
目付
めつけ @@@LINK=目付 目付

目付
めつけ

江戸幕府の職名
戦国時代の家臣に対する監察官に由来する。江戸幕府の若年寄の耳目として旗本や御家人の監察にあたった。1617年に設けられ,定員10名。諸藩にも同様の制度があった。
メーデー
May Day @@@LINK=メーデー メーデー

メーデー
May Day

毎年5月1日に行われる労働者の祭典
1886年5月1日,アメリカの労働者がストとデモにより8時間労働要求を貫徹したが,その日を記念して,'89年の第2インターナショナル大会で全世界に拡大することを決定。日本では1905年平民社が5月1日に茶話会開き,'20年5月2日最初のメーデーが東京上野で行われた。'36年以後弾圧で中絶したが,第二次世界大戦後の '46年盛大に復活。'52年には皇居前広場で警官隊とデモ隊の衝突事件がおきた。
メーデー事件
メーデーじけん @@@LINK=メーデー事件 メーデー事件

メーデー事件
メーデーじけん

1952年5月1日の第23回メーデーのとき,皇居前広場でデモ隊と警官隊が衝突した事件
サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約の発効4日目,両条約に対する国民の不満と国会で審議中の破壊活動防止法反対などが,メーデー会場としての皇居前広場の使用を禁止した政府への怒りと結びついての爆発。デモ隊6000人と警官隊5000人が衝突し,デモ隊の死者2人を含む多数の死傷者を出す「のメーデー」となった。騒乱罪で起訴されたが,暴力行為のみで有罪となった。
目安箱
めやすばこ @@@LINK=目安箱 目安箱

目安箱
めやすばこ

江戸中期,享保の改革で8代将軍徳川吉宗が設置した投書箱
1721年吉宗は政治改革の参考にするため広く各層の意見を聴取しようと,江戸城竜ノ口評定所前に投書箱を設置した。これにより小石川養生所の設置,江戸市中町火消の制などが定められ,以後歴代将軍もこれをうけついだ。

めん @@@LINK=免 免


めん

江戸時代の年貢の賦課率
免合 (めんあい) ・免相ともいう。本来は収穫高のうち生産者に残される部分の意。「免四つ半」といえば4割5分を示す。通常五つ前後が多いが,時期・豊凶・地域により異なる。免の決定には江戸初期には検見 (けみ) 法を用い,享保(1716〜36)ころより定免法 (じようめんほう) を用いた。
綿織物
めんおりもの @@@LINK=綿織物 綿織物

綿織物
めんおりもの

綿糸を原料とする織物の総称
室町時代以後,朝鮮産の綿布を輸入,また15世紀末から中国系綿種の栽培で綿布製造が始まる。三河地方は特に有名。江戸時代,庶民衣料として重視され,摂津和泉河内後期には尾張などの諸国で生産された。開国後,安価な工場製の輸入品に押されたが,明治維新後,安価な外国綿花を輸入し綿紡・綿織が発展。明治20年代の産業革命で大陸に進出し,大正期には世界市場に進出した。
免田
めんでん @@@LINK=免田 免田

免田
めんでん

荘園において,領主への年貢・公事 (くじ) を免除された田
地頭・公文 (くもん) などの荘官に与えられる給田も免田の一種。このほか,鋳物師免とか薬師免などいろいろある。公事のみ免除される場合は雑役免田といった。

も @@@LINK=裳 裳



上代〜平安時代,女性が下半身にまとった衣服
上裳表面に,下裳内面に着用。数枚重ねることもある。平安時代の十二単 (じゆうにひとえ) では背面につけた。
蒙古襲来
もうこしゅうらい @@@LINK=蒙古襲来 蒙古襲来

蒙古襲来
もうこしゅうらい

元寇
蒙古襲来絵巻
もうこしゅうらいえまき @@@LINK=蒙古襲来絵巻 蒙古襲来絵巻

蒙古襲来絵巻
もうこしゅうらいえまき

鎌倉末期の絵巻物
13世紀末の成立。2巻。御物。肥後の御家人竹崎季長 (すえなが) が元寇のときの戦功を描かせたもので,戦記絵巻名品。絵は土佐長隆のといわれるが不詳。精密な描写で史料的価値が高い。
毛 沢東
もうたくとう @@@LINK=毛+沢東 毛+沢東

毛 沢東
もうたくとう

1893〜1976
中国の政治家・思想家。初代中華人民共和国主席(在職1949〜59)
湖南省の生まれ。1921年中国共産党創立に参加。'31年瑞金 (ずいきん) の中華ソビエト共和国臨時政府の主席となる。'35年抗日救国統一戦線に関する「8・1宣言」を発表。第2次国共合作後,国民党と協力して抗日戦を展開し,第二次世界大戦後,'49年中華人民共和国が成立すると初代国家主席に選ばれた。'66年文化大革命をおこし,劉少奇らを走資派として排除,'76年死に至るまで大きな指導権をもっていた。著書に『新民主主義論』『矛盾論・実践論』など。
毛越寺
もうつじ @@@LINK=毛越寺 毛越寺

毛越寺
もうつじ

岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺
平安前期円仁の創建という。1108年藤原基衡が再建したがのち焼失。庭園は平安末期の浄土式庭園の遺構として有名。中尊寺とともに奥州藤原氏の栄華を示す。
間人
もうど @@@LINK=間人 間人

間人
もうど

江戸時代の隷属農民
「亡土」「間男」などとも書き,古代の良・賤民の中間,または田地を所有しない階級。江戸時代,無高で高持百姓に隷属し,村の祭や寄合などに参加する権利がなく,夫役負担も軽かった。身分が固定したため,高持になっても身分を脱することは困難で,一般に水呑百姓といわれた。
毛利氏
もうりし @@@LINK=毛利氏 毛利氏

毛利氏
もうりし

戦国〜江戸時代の中国地方の大名
祖先は相模国に住し,毛利姓を名のり,源頼朝に仕える。のち安芸 (あき) 国の国人として元就 (もとなり) が機に乗じ中国地方10カ国を平定支配した。孫輝元は豊臣秀吉と和し,五大老の一人となり広島城を本拠とし,周防 (すおう) ・安芸など7カ国120万石余を領有。関ケ原の戦い(1600)に西軍に属したため周防・長門2国(山口県)に減封され萩城を築いて移る。幕末に早くから討幕運動を行った。
毛利敬親
もうりたかちか @@@LINK=毛利敬親 毛利敬親

毛利敬親
もうりたかちか

1819〜71
幕末の長州藩主
別名慶親 (よしちか) 。1837年家督を継ぐ。村田清風らを登用し,藩政改革を行い,雄藩藩主として重きをなす。初め公武合体策,のち藩論が尊王攘夷に転じると尊王攘夷運動の中心におしたてられた。'64年の禁門の変,第1次長州征討では敬親父子は官位を奪われ謝罪したが,薩長連合以後,討幕の中核となり,'67年10月14日,薩摩藩主とともに討幕の密勅をうけた。新政権発足後の '69年,薩摩・土佐・肥前3藩主とともに率先して版籍を奉還し,山口藩知事となった。

毛利輝元
もうりてるもと @@@LINK=毛利輝元 毛利輝元

毛利輝元
もうりてるもと

1553〜1625
安土桃山時代・江戸初期の武将
元就 (もとなり) の孫。中国地方10カ国120万石を領有。織田信長に対抗して石山本願寺を助けたが,備中(岡山県)高松城攻めののち,豊臣秀吉と和睦。秀吉に臣従し,五大老の一人となった。関ケ原の戦いでは西軍の主将となり,敗れて周防 (すおう) ・長門2カ国37万石に減封された。

毛利元就
もうりもとなり @@@LINK=毛利元就 毛利元就

毛利元就
もうりもとなり

1497〜1571
戦国時代の武将
もと安芸国(広島県)の土豪。1555年,長子隆元 (たかもと) ・2男元春と協力し,陶晴賢 (すえはるかた) を厳島 (いつくしま) に討ち滅ぼした(厳島の戦い)。ついで周防 (すおう) ・長門より備中・備後・石見 (いわみ) を平定。正親町 (おおぎまち) 天皇献金を行い,'66年には出雲尼子 (あまこ) 氏を滅ぼし,中国10カ国を支配する大名となった。

最上氏
もがみし @@@LINK=最上氏 最上氏

最上氏
もがみし

戦国〜江戸時代の武将の家
足利氏一族の斯波 (しば) 氏出身。室町時代,斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し,以後最上氏を称した。1590年豊臣秀吉に服属。関ケ原の戦い(1600)には東軍に参加し,57万石をうけた。のち内紛により5000石となり高家に列した。
最上徳内
もがみとくない @@@LINK=最上徳内 最上徳内

最上徳内
もがみとくない

1755〜1836
江戸後期の北方探検家
羽前(山形県)楯岡の農家出身。江戸に出て本多利明に天文・測量などを学び,1785年利明にかわり幕府の蝦夷 (えぞ) 地探検に参加,択捉 (えとろふ) ・得撫 (うるつぷ) 島を調査した。'90年幕府普請役(隠密)となり,1808年まで9回蝦夷地に渡った。著書に『蝦夷草紙』など。

黙庵
もくあん @@@LINK=黙庵 黙庵

黙庵
もくあん

生没年不詳
南北朝時代の画僧
初期の水墨画家で,嘉暦年間(1326〜29)ころ元に渡り,同地で没したという。牧谿 (もつけい) 風の人物花鳥図を得意とした。代表作に『布袋 (ほてい) 図』など。
木食応其
もくじきおうご @@@LINK=木食応其 木食応其

木食応其
もくじきおうご

1536〜1608
安土桃山時代の真言宗の僧
近江(滋賀県)の人。武士出身。1573年高野山で入道し,米麦飯を食さず仏道に励む木食修行を行う。'85年豊臣秀吉の高野山攻めに際して和議にあたり,また秀吉の方広寺建立に協力するなどして,秀吉の信任を得た。文人として有名で,里村紹巴 (じようは) に連歌を学んだ。
木製農具
もくせいのうぐ @@@LINK=木製農具 木製農具

木製農具
もくせいのうぐ

弥生時代に多い木製の農具
耕具として木鍬木鋤,水田面をならす「えぶり」,脱穀用の木臼・竪杵 (たてぎね) など。耕具は古墳時代鉄製が現れた。
目代
もくだい @@@LINK=目代 目代

目代
もくだい

平安・鎌倉時代の国司の代官で,私設の役人
遙任 (ようにん) ・知行国制が発達すると国司の子弟・家人が目代として任国に下り,在庁官人を率いて国務を代行するようになった。鎌倉時代以降,国司制度の衰退とともに消滅した。
木版印刷
もくはんいんさつ @@@LINK=木版印刷 木版印刷

木版印刷
もくはんいんさつ

木の板に字や絵を彫刻した木版を使う印刷法
中国で始まり,日本では奈良時代の百万塔陀羅尼がはじめとされる。仏教の経典を木版刷にすることが多く,室町時代に中国版式の五山版が新しく発展。近世初期,朝鮮の技術が入り,江戸時代に最盛期をむかえた。
モース
Edward Sylvester Morse @@@LINK=モース モース

モース
Edward Sylvester Morse

1838〜1925
アメリカの動物学者。御雇外国人の一人
1877年東京大学に招かれ,動物学・生理学を教授。日本に初めてダーウィンの進化論を紹介した。また江の島臨海実験所を設立し,大森貝塚をはじめ各地古墳を発掘するなど,日本の生物学・人類学・考古学の発展に大きく貢献した。

百舌鳥古墳群
もずこふんぐん @@@LINK=百舌鳥古墳群 百舌鳥古墳群

百舌鳥古墳群
もずこふんぐん

大阪府堺市の東部にある古墳群
仁徳・履中・反正の3陵と伝えられる大古墳をはじめ,大型の前方後円墳,小型の円墳・方墳が散在している。
持株会社整理委員会
もちかぶかいしゃせいりいいんかい @@@LINK=持株会社整理委員会 持株会社整理委員会

持株会社整理委員会
もちかぶかいしゃせいりいいんかい

第二次世界大戦後,GHQ指令で財閥解体のため設置された機関
1946年4月,持株会社整理委員会令が公布され,8月に発足(〜'51)。三井合名・三菱合資・住友合資・安田保善社などの持株会社を解体し,その所有株式を譲り受け公開処分した。
以仁王
もちひとおう @@@LINK=以仁王 以仁王

以仁王
もちひとおう

1151〜80
平安後期の皇族
後白河天皇第3皇子。1180年源頼政のすすめで平氏征討の令旨 (りようじ) を発して挙兵したが,平氏の攻撃をうけ園城寺にのがれ,さらに奈良に向かう途中,宇治平等院で死した。しかし王の令旨は諸国の源氏に伝えられ,源平合戦の口火となった。

木棺
もっかん @@@LINK=木棺 木棺

木棺
もっかん

死者を埋葬するための木製の棺
縄文晩期に板材を組み合わせてつくった組合式木棺が,稲作文化の一要素として伝来した。古墳時代には,丸太をくり抜いてつくった割竹 (わりたけ) 式木棺がつくられた。割竹式木棺は古墳前期の初めから盛行し,いちおう後期まで続いたが6世紀以後の例は少ない。7世紀以降は釘や飾鋲を用いた長方形の,かぶせ蓋でおおった箱式木棺も行われた。
木簡
もっかん @@@LINK=木簡 木簡

木簡
もっかん

古代,木片に文書などを墨書したもの
7〜10世紀に紙と並んで文書や帳簿,また貢進物の荷札などとして使用された。藤原宮跡・平城宮跡・長屋王邸跡その他から多く発掘出土し,古代史研究の新しい史料として注目されている。呪符・巡礼札などの宗教的用途のものは中世以降も用いられた。
モッセ
Albert Mosse @@@LINK=モッセ モッセ

モッセ
Albert Mosse

1846〜1925
ドイツの法学者。御雇外国人の一人
グナイストの高弟で,憲法調査のために滞独中の伊藤博文を指導。1886年内閣および内務省顧問として来日。大日本帝国憲法の起草に協力。また '88年発布の市制・町村制の原案を起草し地方自治制度の創設に貢献した。'90年に帰国。
本居宣長
もとおりのりなが @@@LINK=本居宣長 本居宣長

本居宣長
もとおりのりなが

1730〜1801
江戸中期の国学者・歌人で,国学の大成者
伊勢(三重県)松坂の商家の生まれ。京都で医・儒学を学び,松坂に帰り小児科医を開業。遊学中に契沖の著書を読み,国学に関心を深め,また賀茂真淵 (まぶち) の学風を慕い,1763年松坂に泊った真淵に面会し入門。以後文通による指導を受け,'98年までかかって『古事記』を実証的に研究し,大著『古事記伝』を完成,日本固有の古代精神の中に真理(古道)を求めた。また国文学の本質を「もののあわれ」とし,儒学的・仏教的な理解を極度に排斥した。宣長の学問は分化・継承され,長男春庭 (はるにわ) ,養子太平,門人伴信友らは文学・語学・歴史学を継ぎ,平田篤胤 (あつたね) は古道説を神学的に発展させた。『玉勝間』『秘本玉くしげ』『直毘霊 (なおびのみたま) 』など著書も多い。

本木昌造
もときしょうぞう @@@LINK=本木昌造 本木昌造

本木昌造
もときしょうぞう

1824〜75
幕末・維新期の蘭学者で,わが国の鉛活字の創始者
長崎の通詞出身。1851年鉛の流し込み活字を使い,自著『蘭和通弁』を印刷。のち長崎製鉄所へ勤め,わが国で初めて鉄橋の架設に成功。'72年には東京活版所を開設,『横浜毎日新聞』を印刷した。

本木良永
もときよしなが @@@LINK=本木良永 本木良永

本木良永
もときよしなが

1735〜94
江戸中期の蘭学者
「りょうえい」とも読む。長崎のオランダ通詞。著書には『阿蘭陀地球図説』など天文・地理の訳著書が多く,特に『太陽窮理了解説』は日本で地動説を説明した最初のものとして有名。

元田永孚
もとだながざね @@@LINK=元田永孚 元田永孚

元田永孚
もとだながざね

1818〜91
明治時代の儒学者
熊本藩出身。藩校時習館に学び,横井小楠の感化をうける。1871年宮内省に出仕,侍講として明治天皇の教育にあたった。この間,『幼学綱要』を編集,教育勅語を起草し,儒教による天皇制国家思想の形成に寄与した。

物忌
ものいみ @@@LINK=物忌 物忌

物忌
ものいみ

陰陽道の禁忌の一種
暦の上の定まった日や,占って定められた日に,外出せず,他人が家に入ることも許さず,けがれを避けること。平安時代に盛んに行われたが,室町時代には衰えた。
桃生城
ものうじょう @@@LINK=桃生城 桃生城

桃生城
ものうじょう

奈良時代,蝦夷 (えみし) に対して陸奥に置かれた城柵
8世紀半ば陸奥の浮浪人を使って築城。浮浪人を柵戸(屯田農民)とし,諸国の兵士を移住させた。宮城県石巻市北方の桃生郡河北町から桃生町にかけて造営された。
物語文学
ものがたりぶんがく @@@LINK=物語文学 物語文学

物語文学
ものがたりぶんがく

平安時代,貴族社会の成熟と仮名の発達につれ,飛躍的に発展した散文文学の一ジャンル
『竹取物語』に始まる伝奇的要素の強いものと,『伊勢物語』のように和歌の詞書から発展した歌物語の2系統が,『宇津保物語』『落窪物語』としだいに現実生活に密着したものとなり,『源氏物語』に至って完成した。その後も『狭衣 (さごろも) 物語』以下の擬古物語が書かれたが,やがて武士勢力の成長を背景として,軍記物・説話文学などに分化した。
物くさ太郎
ものくさたろう @@@LINK=物くさ太郎 物くさ太郎

物くさ太郎
ものくさたろう

室町時代の御伽 (おとぎ) 草子
成立年・作者不詳。2巻。信濃の物くさ太郎という怠け者が,和歌・連歌によって立身出世する物語。中世の庶民の積極的なユーモアをうかがわせる物語である。
物成
ものなり @@@LINK=物成 物成

物成
ものなり

江戸時代の年貢
鎌倉時代からの用語で江戸時代に一般化した。山野河海用益生産にかかる雑税を小物成 (こものなり) というのに対し,田畑の生産物にかかるものを本途 (ほんと) 物成といい,原則として米納であった。のち代銀納もあらわれ,物成銀ともいう。
物部氏
もののべうじ @@@LINK=物部氏 物部氏

物部氏
もののべうじ

古代の中央豪族。大伴氏とともに大和政権の軍事をつかさどった
伴造 (とものみやつこ) から成長し,姓 (かばね) は連 (むらじ) 。5世紀ころから大連となり,勢力をふるった。麁鹿火 (あらかひ) ・尾輿 (おこし) ・守屋は有名。大伴氏の失脚後栄えたが,大王位継承・仏教受容問題で蘇我氏と対立し,587年蘇我氏に滅ぼされた。子孫に漢詩人石上宅嗣 (いそのかみのやかつぐ) がいる。
物部麁鹿火
もののべのあらかひ @@@LINK=物部麁鹿火 物部麁鹿火

物部麁鹿火
もののべのあらかひ

?〜536
6世紀前期の中央豪族
武烈〜宣化天皇期の大連 (おおむらじ) として,大伴金村とともに国政を指導。筑紫の国造 (くにのみやつこ) 磐井 (いわい) の反乱(527〜528)を鎮定し,物部氏の勢力を発展させた。
物部尾輿
もののべのおこし @@@LINK=物部尾輿 物部尾輿

物部尾輿
もののべのおこし

生没年不詳
7世紀前期の中央豪族
欽明天皇のとき,大連 (おおむらじ) となり,大伴金村の朝鮮政策を攻撃して失脚させ,以後大連を独占。仏教受容問題をめぐって,排仏を主張し,崇仏を主張する蘇我稲目 (いなめ) と対立した。
物部守屋
もののべのもりや @@@LINK=物部守屋 物部守屋

物部守屋
もののべのもりや

?〜587
6世紀後期の中央豪族
尾輿 (おこし) の子。572年敏達 (びだつ) 天皇の大連 (おおむらじ) として国政参与。仏教受容問題をめぐり崇仏派の蘇我馬子 (うまこ) と対立。587年用明天皇没後,穴穂部皇子 (あなほべのおうじ) を擁立しようとしたが失敗,馬子に滅ぼされた。以後物部氏はまったく衰退した。

問民苦使
もみくし @@@LINK=問民苦使 問民苦使

問民苦使
もみくし

古代諸国を巡回して民衆疾苦を察するため派遣された使節
「もんみんくし」とも読む。(1)奈良時代,橘奈良麻呂の翌758年派遣。(2)平安初期,桓武天皇のとき派遣。地方民の陳情をうけつけ,国司郡司の行政状況などを調査した。
紅葉山文庫
もみじやまぶんこ @@@LINK=紅葉山文庫 紅葉山文庫

紅葉山文庫
もみじやまぶんこ

江戸城内の紅葉山にあった,幕府の蔵書をおさめた文庫
徳川家康が金沢文庫を模して江戸城内に富士見亭を建て,収集した文書記録をおさめた。のち家光が紅葉山に移した。保管を担当した書物奉行の青木昆陽・近藤重蔵らは,この文庫の本で研究した。明治時代以後,内閣文庫に移り,現在は国立公文書館に収容されている。
木綿・綿
もめん・わた @@@LINK=木綿・綿 木綿・綿

木綿・綿
もめん・わた

木綿種子に付着する毛状の繊維,またそれからつくった糸・織物
鎌倉・室町前期には朝鮮からの貴重な輸入品であったが,室町後期に大陸から綿の種が渡来し,木綿栽培が西日本から普及した。元禄期(1688〜1704)には畿内が中心で,東北・北陸を除く各地に商品作物として発展。綿花から綿(実綿)をとり糸を紡ぎ(繰綿),綿布を織る。家内工業で商品化し,大坂問屋集散。麻にかわり庶民の衣服として普及したが,開国後輸入綿布が増大し,明治時代以後,短繊維で割高な日本綿花は外国綿花におされ衰亡した。
桃山文化
ももやまぶんか @@@LINK=桃山文化 桃山文化

桃山文化
ももやまぶんか

織田信長豊臣秀吉時代(16世紀後半)の文化
国内の統一,海外雄飛の風潮の反映として現実的・豪壮華麗・自由清新な点を特色とする。壮大な城郭建築として安土城・大坂城・伏見城・二条城などがあり,邸宅に聚楽第 (じゆらくだい) がある。絵画・工芸では書院造の装飾を中心に障壁画が発展し,狩野永徳・狩野山楽・海北友松 (かいほうゆうしよう) ・長谷川等伯らが出た。芸では茶道能楽三味線浄瑠璃阿国 (おくに) 歌舞伎が発達し,南蛮文化として,鉄砲の普及とキリシタン伝道や生活文化への影響がある。また庶民性の前進も見落とせない特色である。
モラトリアム

モラトリアム

支払猶予令
森有礼
もりありのり @@@LINK=森有礼 森有礼

森有礼
もりありのり

1847〜89
明治前期の政治家。近代教育制度の基礎を確立した
薩摩藩出身。藩命でイギリス・アメリカに留学し,帰国後,新政府に出仕し学校取調掛・清国公使・イギリス公使などを歴任。1873年明六社を設立し,啓蒙活動に力を注いだ。'85年には第1次伊藤博文内閣の文相となり,ドイツの教育思想を背景に学校令を制定し,国家主義的教育制度の確立をはかったが,欧化主義者とみなされ国粋主義者の反感をうけ,'89年2月11日,憲法発布の日の朝襲撃をうけ,翌日死去。

森鷗外
もりおうがい @@@LINK=森鷗外 森鷗外

森鷗外
もりおうがい

1862〜1922
明治・大正時代の文学者・軍医夏目漱石と並ぶ文豪
本名は林太郎石見(島根県)津和野の生まれ。東大医学部卒業後,軍医となりドイツに留学。帰国後『舞姫』『即興詩人』などの創作・翻訳,ヨーロッパ文芸の紹介・啓蒙に活躍した。明治末期自然主義文学に対抗し,晩年は歴史小説・史伝を著した。代表作に『青年』『』『阿部一族』『大塩平八郎』『高瀬舟』『渋江抽斎』など。その間,軍医総監を経て陸軍省医務局長をつとめた。
モリソン号事件
モリソンごうじけん @@@LINK=モリソン号事件 モリソン号事件

モリソン号事件
モリソンごうじけん

1837(天保8)年,アメリカ船モリソン号に対する砲撃事件
日本人漂流民を送還し通商を求めて浦賀に来航したモリソン号を,幕府は異国船打払令によって砲撃し,さらに鹿児島の山川でも薩摩藩が砲撃を加えた。高野長英・渡辺崋山らは『戊戌 (ぼじゆつ) 夢物語』『慎機論』などを著してこの事件を批判,蛮社のの原因となった。
森田座
もりたざ @@@LINK=森田座 森田座

森田座
もりたざ

江戸の歌舞伎劇場。江戸三座の一つ
「守田座」とも書く。1660年に森田太郎兵衛が江戸木挽 (こびき) 町に創設。11代目勘弥が森田を守田に改めた。明治時代に入り新富座となった。
森戸事件
もりとじけん @@@LINK=森戸事件 森戸事件

森戸事件
もりとじけん

1920(大正9)年,東大助教授森戸辰男の筆禍事件
東大経済学部機関誌『経済学研究』創刊号に発表した森戸の論文「クロポトキンの社会思想に関する研究」が危険思想とされ,森戸と編集署名人大内兵衛助教授が休職となり起訴された。学問・思想の自由を圧迫した事件の一つ。
萩焼
はぎやき @@@LINK=萩焼 萩焼

萩焼
はぎやき

江戸初期以来,長門(山口県)萩地方で産する陶器
毛利輝元が文禄・慶長の役の際,朝鮮から李勺光 (りしやくこう) ・李敬の兄弟を連れ帰り,城下に住まわせて茶器を焼かせたことに始まる。深川萩・松本萩の2系統があり現在に及ぶ。
萩原朔太郎
はぎわらさくたろう @@@LINK=萩原朔太郎 萩原朔太郎

萩原朔太郎
はぎわらさくたろう

1886〜1942
大正・昭和期の詩人
群馬県の生まれ。慶大予科中退。北原白秋に師事し,詩集『月に吠える』『青猫』などで近代人の病的な憂鬱・寂寥感を表現。音楽性に富む口語自由詩を確立した。また詩論『詩の原理』などの著書もある。

白隠慧鶴
はくいんえかく @@@LINK=白隠慧鶴 白隠慧鶴

白隠慧鶴
はくいんえかく

1685〜1768
江戸中期の臨済宗の僧。臨済宗中興の祖
駿河(静岡県)の人。15歳のとき出家し,以来修行に励んだ。生涯百姓・町人の中にあり,平易な禅を説き広めた。京都の妙心寺第一座。著書に『槐安国語 (かいあんこくご) 』など。
パグウォッシュ会議
パグウォッシュかいぎ @@@LINK=パグウォッシュ会議 パグウォッシュ会議

パグウォッシュ会議
パグウォッシュかいぎ

カナダのパグウォッシュで開催された世界の科学者たちによる軍縮と国際協力などに関する会議
1955年7月7日のラッセル‐アインシュタイン宣言に基づき,第1回会議がパグウォッシュで開かれ,以後,不定期に世界各地で開催されている。
白氏文集
はくしもんじゅう @@@LINK=白氏文集 白氏文集

白氏文集
はくしもんじゅう

中国,唐の詩人白居易(白楽天)の詩文集
9世紀前半の成立。75巻,現存71巻。3840編以上の詩文をおさめる。平明で感傷的な作風が当時の日本の貴族の好みと合致したため,『文選』とともに最も愛誦され,単に『文集』といえばこれをさした。
パークス
Sir Harry Smith Parkes @@@LINK=パークス パークス

パークス
Sir Harry Smith Parkes

1828〜85
幕末・維新期,イギリスの外交官
1865年,オールコックの後任の駐日公使として赴任。フランス公使ロッシュが幕府を援助して徳川慶喜 (よしのぶ) の幕政改革を指導したのに対し,パークスは薩摩・長州の武力討幕派を援助し,明治維新変革に大きな役割を演じた。戊辰戦争では局外中立の立場で江戸無血開城に尽力。'83年清国公使に転じ北京で客死。

白村江の戦い
はくそんこうのたたかい @@@LINK=白村江の戦い 白村江の戦い
はくすきのえのたたかい @@@LINK=白村江の戦い 白村江の戦い

白村江の戦い
はくそんこうのたたかい

663年,朝鮮南西部の白村江(錦江)で行われた日本軍と唐・新羅 (しらぎ) 連合軍との海戦
「はくすきのえのたたかい」とも読む。中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ) が斉明天皇の百済 (くだら) 救援を継承。錦江河口で戦ったが日本軍は敗れ,百済は完全に滅亡した。以後日本は半島から撤退した。

白村江の戦い
はくすきのえのたたかい

はくそんこうのたたかい
薄葬令
はくそうれい @@@LINK=薄葬令 薄葬令

薄葬令
はくそうれい

646年,大化の改新の一政策として出された中央豪族の大規模な墳墓を規制する法令
身分地位に応じて,の規模や役民の動員数,日数や喪葬用品を規定。令制に継承された。
白村江の戦い
はくそんこうのたたかい @@@LINK=白村江の戦い 白村江の戦い
はくすきのえのたたかい @@@LINK=白村江の戦い 白村江の戦い

白村江の戦い
はくそんこうのたたかい

663年,朝鮮南西部の白村江(錦江)で行われた日本軍と唐・新羅 (しらぎ) 連合軍との海戦
「はくすきのえのたたかい」とも読む。中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ) が斉明天皇の百済 (くだら) 救援を継承。錦江河口で戦ったが日本軍は敗れ,百済は完全に滅亡した。以後日本は半島から撤退した。

白村江の戦い
はくすきのえのたたかい

はくそんこうのたたかい
白丁
はくてい @@@LINK=白丁 白丁

白丁
はくてい

律令制下,諸官庁・国衙 (こくが) ・神社・駅などに配属されて雑務にあたった無位無官の者
はくちょう」とも読む。白丁から舎人 (とねり) になり下級官人になる場合があった。
白馬会
はくばかい @@@LINK=白馬会 白馬会

白馬会
はくばかい

明治後期の洋画団体
1896年黒田清輝・久米桂一郎らが明治美術会の官僚的な空気に反発して結成。白馬(どぶろく)を飲んで談論したので白馬会という。自由平等な会員組織で,その展覧会には完成品のほか習作や画稿なども発表した。会員には和田英作・藤島武二・岡田三郎助らがいる。1911年解散。
幕藩体制
ばくはんたいせい @@@LINK=幕藩体制 幕藩体制

幕藩体制
ばくはんたいせい

江戸時代,幕府が諸藩を従え将軍および諸大名の強い領主権のもとに全国の土地・人民を支配した政治体制
16世紀後半の織豊政権を準備段階とし,17世紀前期に幕藩体制が確立した。しかし,18世紀には,封建制度の矛盾がしだいに表面化して動揺を示し,19世紀,封建危機がいよいよ高まる中で幕威がゆらぎ,外国勢力の圧迫も加わり,薩摩・長州両藩を中心とする討幕勢力のために幕府は倒れ,幕藩体制は事実上崩壊した。また,廃藩置県によって完全に消滅した。幕府は旗本・御家人の強力な軍事力と全国の主要都市や鉱山を直轄地(天領)として経済力を握り,大名知行制によって藩主の自主性を認め地方分権的ではあったが,武家諸法度で強力に大名を統制した。京都所司代の設置と禁中並公家諸法度により朝廷を監視し,諸宗寺院法度で寺院を統制,さらに檀家制度で民衆を寺院にしばりつけた。幕藩体制を支えた土地制度・農村構造については,郷村制を土台とする大名知行制であり,検地によって兵農分離が行われた。武士は城下町に,農民は農村にしばりつけ,農民統制と農民支配を強固にし,城下町では貨幣経済を,農村では自給自足の現物経済を展開させた。士農工商を中核とした身分制度のもとに,長男相続の家族制度を固め,封建教学として儒学,ことに朱子学を重んじた。しかし,この幕藩体制も,現物経済と商品・貨幣経済の異地域同時の併存から,商品・貨幣経済の発展により矛盾が激化して大きく動揺し,崩壊に至った。
幕府
ばくふ @@@LINK=幕府 幕府

幕府
ばくふ

鎌倉・室町・江戸時代の武家政治の政府
もと中国で出征中の将軍の幕営を称し,日本では近衛大将・近衛府の唐名。源頼朝が1190年右近衛大将となったことから鎌倉の居所を幕府と呼んだ。以後武家政治の首長である征夷大将軍の居所の称となったが,江戸後期から,武家政治の政府・政権そのものをさすようになり,歴史概念としてもこの意味で用いられている。
白鳳文化
はくほうぶんか @@@LINK=白鳳文化 白鳳文化

白鳳文化
はくほうぶんか

645年大化の改新から710年平城京遷都までの文化
白鳳は天武天皇の年号というが不明。初唐の影響をうけ清新潑剌のがある。薬師寺東塔,同寺金堂の『薬師三尊像』,同寺東院堂の『聖観音像』,法隆寺五重塔・金堂とその壁画,大友皇子以下の漢詩,柿本人麻呂 (かきのもとのひとまろ) ・山部赤人 (やまべのあかひと) などの万葉歌人の和歌などは,この文化の代表的なものである。国際的背景としては、後年になると唐を通じてインドのグプタ文化の波及がうかがえる。
幕末遣外使節
ばくまつけんがいしせつ @@@LINK=幕末遣外使節 幕末遣外使節

幕末遣外使節
ばくまつけんがいしせつ

幕末,江戸幕府が外国に派遣した公式使節
ほとんどが外交上の交渉・手続きが目的で8回(うち1回中止)派遣。特に1860年,日米修好通商条約の批准書交換を行うため最初に派遣したのが有名。正使新見正興 (しんみまさおき) ,副使村垣範正 (のりまさ) ,目付小栗忠順 (ただまさ) らが,アメリカ軍艦に便乗し太平洋を横断。勝海舟を艦長とする幕府軍艦咸臨 (かんりん) 丸がこれに同行した。
ハーグ密使事件
ハーグみっしじけん @@@LINK=ハーグ密使事件 ハーグ密使事件

ハーグ密使事件
ハーグみっしじけん

1907年,オランダのハーグで開催中の万国平和会議に韓国皇帝が独立の回復を訴えた事件
韓国は1905年の第2次日韓協約(日韓保護条約)により外交権を日本に奪われ,保護国とされたので,韓国の排日派をハーグに送り,日本の韓国支配の無効を訴えようとしたが,韓国に外交権のないことを理由に拒否された。この事件により皇帝は退位させられ,内政権を奪う第3次日韓協約が締結された。
白鷺城
しらさぎじょう @@@LINK=白鷺城 白鷺城
はくろじょう @@@LINK=白鷺城 白鷺城

白鷺城
しらさぎじょう

姫路城

白鷺城
はくろじょう

姫路城
箱式石棺
はこしきせっかん @@@LINK=箱式石棺 箱式石棺

箱式石棺
はこしきせっかん

板石を箱形に組み合わせ,上部を板石で蓋をした棺
弥生時代から古墳時代にかけて行われ,特に弥生時代,北九州に盛行した。
函館
はこだて @@@LINK=函館 函館

函館
はこだて

北海道渡島 (おしま) 半島南部,津軽海峡に面する商工業都市
1869年以前は「箱館」と書く。江戸時代に松前藩が置かれ,その支配と幕府の箱館奉行所支配との時期があったが,1854年日米和親条約による開港翌年から幕府直轄領となった。戊辰 (ぼしん) 戦争の際,榎本武揚 (えのもとたけあき) が五稜郭に籠城して官軍に抵抗した(五稜郭の戦い)。1922年市制施行。
箱館奉行
はこだてぶぎょう @@@LINK=箱館奉行 箱館奉行

箱館奉行
はこだてぶぎょう

江戸幕府の職名。箱館に置かれた遠国 (おんごく) 奉行
1802年2月,蝦夷 (えぞ) 地奉行が設置され,同年5月箱館奉行と改称('07年松前奉行と改称)。老中の支配に属し,蝦夷地の防備などをつかさどった。'22年廃止。'54年再び設置され,明治維新後,箱館裁判所設置('68年)まで存続した。
箱根関
はこねのせき @@@LINK=箱根関 箱根関

箱根関
はこねのせき

江戸時代,東海道箱根山中に設けられた関所
鎌倉時代,東海道の道筋足柄道から移ってのち関が設けられたというが詳細不明。江戸時代,1618年箱根宿が設けられたのに伴い,翌年関所が置かれ,江戸の防備として特に「入り鉄砲に出女」をきびしく取り締まった。小田原藩の管理で明暮六ツ時(現在の6時)に門を開閉する例であった。1869年廃止。現在神奈川県足柄下郡箱根町に復元
箱根用水
はこねようすい @@@LINK=箱根用水 箱根用水

箱根用水
はこねようすい

江戸前期,箱根芦ノ湖の水を駿河(静岡県)に導いた灌漑用水
箱根の湖尻峠にトンネルを掘り,芦ノ湖の水を駿河の駿東郡深良 (ふから) 村など数か村の灌漑用水としたもので現存する。深良村名主大庭源之丞 (おおばげんのじよう) が奔走し,江戸の豪商友野与右衛門が協力,箱根神社別当らの援助もうけ,1666年着工し,'70年完成した。
間重富
はざましげとみ @@@LINK=間重富 間重富

間重富
はざましげとみ

1756〜1816
江戸後期の天文・暦学者
大坂の町人で,麻田剛立 (あさだごうりゆう) に師事して天文・暦数を学んだ。幕府の改暦事業に推挙され高橋至時 (よしとき) とともに寛政暦を完成。その後も天文方御用をつとめ,天文観測器械を考案・改良した。

土師器
はじき @@@LINK=土師器 土師器

土師器
はじき

古墳時代〜平安時代にかけてつくられた赤褐色素焼土器の総称
弥生土器の系統をひき,これにつながるものである。簡単なかまどで,800℃内外の温度で焼いた。良質の粘土を用いているが,装飾はほとんどない。須恵器の普及後も日用的な煮沸具として利用された。
箸墓古墳
はしはかこふん @@@LINK=箸墓古墳 箸墓古墳

箸墓古墳
はしはかこふん

奈良県桜井市にある日本最古級の古墳時代の前方後円墳
3世紀後半に築造され,墳丘の全長約280m。前方部がばち形に広がる形態や特殊器台形埴輪をもつことなどから,定型化した最初の前方後円墳と評価されている。被葬者倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと) といわれ,宮内庁が管理している。
羽柴秀吉
はしばひでよし @@@LINK=羽柴秀吉 羽柴秀吉

羽柴秀吉
はしばひでよし

豊臣秀吉
橋本雅邦
はしもとがほう @@@LINK=橋本雅邦 橋本雅邦

橋本雅邦
はしもとがほう

1835〜1908
明治時代の日本画家
江戸の人。狩野雅信に絵を学ぶ。フェノロサ・岡倉天心らと東京美術学校創立に参加し教授となり,のち日本美術院をおこした。穏健で保守的な作風だが気迫は充実している。代表作に『白雲紅樹図』『竜虎図屛風』など。

橋本関雪
はしもとかんせつ @@@LINK=橋本関雪 橋本関雪

橋本関雪
はしもとかんせつ

1883〜1945
大正・昭和期の日本画家
兵庫県の生まれ。竹内栖鳳 (せいほう) に師事。自尊心が強く,非妥協的な性格から画壇で孤立し,中国の古典・古画を研究し独自の画風を開く。また元明石藩の儒学者であった父海関の影響をうけ,詩・書にもすぐれた。代表作に『玄猿』『寒山拾得』など。

橋本欣五郎
はしもときんごろう @@@LINK=橋本欣五郎 橋本欣五郎

橋本欣五郎
はしもときんごろう

1890〜1957
昭和期の陸軍軍人
岡山県の生まれ。陸大卒。桜会の首領として1931年三月事件・十月事件を企図。二・二六事件後予備役となったが,以後も国家主義運動に参加し,大戦中は翼賛政治会代議士副会長としてファシズムを推進した。第二次世界大戦後,A級戦犯として終身禁錮刑に処せられた。

橋本左内
はしもとさない @@@LINK=橋本左内 橋本左内

橋本左内
はしもとさない

1834〜59
幕末の志士
福井藩士。号は景岳。藩医の家に生まれ,大坂で緒方洪庵に医学・蘭学を学ぶ。将軍継嗣問題がおこると,藩主松平慶永 (よしなが) の命によって,一橋(徳川)慶喜 (よしのぶ) を立てるため京都で運動した。統一国家の樹立や日露提携論を唱えるなど,若年にして名声を得た。1858年安政の大獄で捕らえられ,江戸小塚原で刑死。

橋本宗吉
はしもとそうきち @@@LINK=橋本宗吉 橋本宗吉

橋本宗吉
はしもとそうきち

1763〜1836
江戸後期の蘭学者
大坂の人。号は曇斎 (どんさい) 。大槻玄沢に医学・蘭学を学び,大坂で医を開業し,オランダ医書の翻訳と語学を教授した。「エレキテル」を実験し,日本における電気学の先駆者となった。

馬借
ばしゃく @@@LINK=馬借 馬借

馬借
ばしゃく

鎌倉末期より現れた駄馬を用いる運送業者
初めは都市近郊の農民が農閑期に従事。なかに商人を兼ねる者も出たが,多くは転落農民で問丸 (といまる) の統制下にあった。京への出入口にあたる大津・坂本・淀・木津などの交通の要地に集団的に居住した。馬借はその機動力を駆使して,しばしば土一揆の中心となった。
馬借一揆
ばしゃくいっき @@@LINK=馬借一揆 馬借一揆

馬借一揆
ばしゃくいっき

室町時代,馬借が中心となり蜂起した一揆
馬借は集団で居住して地域連合性も強く,機動性にも富んで土一揆の有力な戦力となり,徳政・新関撤廃などを要求した。1418年大津馬借の祇園社乱入,'26年坂本馬借の京都乱入や '28年正長の土一揆,'85年山城国一揆などにも参加した。
馬車鉄道
ばしゃてつどう @@@LINK=馬車鉄道 馬車鉄道

馬車鉄道
ばしゃてつどう

鉄道馬車
芭蕉七部集
ばしょうしちぶしゅう @@@LINK=芭蕉七部集 芭蕉七部集

芭蕉七部集
ばしょうしちぶしゅう

江戸中期,松尾芭蕉とその一門の俳諧選集
俳諧七部集』ともいう。7部12冊。1774年に小型本2冊にまとまったものが流布。選定者は佐久間柳居 (りゆうきよ) 。芭蕉一代の選集の中から『冬の日』『春の日』『曠野 (あらの) 』『ひさご』『猿蓑』『炭俵』『続猿蓑』の7部を代表に選んで,その作風変遷示し蕉風俳諧修行のよりどころとしたもので,儒学の七経になぞらえた蕉風の聖典である。
長谷川等伯
はせがわとうはく @@@LINK=長谷川等伯 長谷川等伯

長谷川等伯
はせがわとうはく

1539〜1610
安土桃山〜江戸時代初期の画家。長谷川派の始祖
能登(石川県)の人。狩野派を学び雪舟や中国の牧谿 (もつけい) に傾倒して古典的水墨画を復興金碧障壁画にも傑作を残した。また『等伯画説』は日本最古の画論書といえよう。代表作に『猿猴 (えんこう) 図屛風』『楓図』など。

長谷川如是閑
はせがわにょぜかん @@@LINK=長谷川如是閑 長谷川如是閑

長谷川如是閑
はせがわにょぜかん

1875〜1969
明治〜昭和期の評論家
本名万次郎。東京の生まれ。東京法学院(現中央大学)卒。1903年,陸羯南の新聞『日本』に入社,'06年の雑誌『日本及日本人』の創刊にも参加。その後,大阪朝日新聞社員として,自由主義・デモクラシー思想による論説を展開。1919年雑誌『我等』創刊に参加した。'48年文化勲章受章。

支倉常長
はせくらつねなが @@@LINK=支倉常長 支倉常長

支倉常長
はせくらつねなが

1571〜1622
江戸初期の仙台藩士。慶長遣欧使節の正使
通称六右衛門。藩主伊達政宗の命により,1613(慶長18)年遣欧使節としてノビスパン(メキシコ)からスペインに渡り,国王フェリペ3世に政宗の信書を呈した。ついでローマに行きローマ教皇パウロ5世に謁見,通商を要請したが成功せず,'20年帰国した。帰国後は,キリシタン禁制のため不遇のうちに没す。

長谷寺
はせでら @@@LINK=長谷寺 長谷寺

長谷寺
はせでら

奈良県桜井市大字初瀬にある真言宗豊山派の総本山
起源は奈良時代と伝えられる。平安時代に観音霊場として栄え,中世天照大神 (あまてらすおおみかみ) の本地として信仰された。1564年松永久秀により壊滅したが,'87年豊臣秀吉が再興近世,新義真言宗豊山派の総本山として繁栄。西国三十三札所の第8番にあたる。
秦氏
はたうじ @@@LINK=秦氏 秦氏

秦氏
はたうじ

古代,渡来人系の有力豪族
秦 (しん) の始皇帝を始祖とする弓月君 (ゆづきのきみ) の子孫と称し,5世紀応神天皇の代に渡来。淀川中流から京都盆地にかけ勢力を有した。養蚕・機織技術を伝え,秦部 (はたべ) を統率し,6世紀以後大和政権の財政事務を担当した。また長岡京・平安京造営にも活躍した。秦河勝 (はたのかわかつ) が京都太秦 (うずまさ) に建てた広隆寺は有名。
畠山氏
はたけやまし @@@LINK=畠山氏 畠山氏

畠山氏
はたけやまし

中世,武蔵国秩父の豪族
②南北朝・室町時代の有力な守護大名
秩父氏ともいい,重能 (しげよし) のとき畠山庄の荘司となり畠山氏と称す。その子重忠は初め平氏に従い,のち源頼朝の有力御家人となったが,1205年北条時政・義時のために滅ぼされた。
畠山重忠の妻が重忠死後足利氏に嫁し,その子孫が再興した。室町幕府3代将軍義満のとき,河内・越中・能登・紀伊の守護となり,三管領の一つとなる。のち義就 (よしなり) と政長とで家督争いがおき,応仁の乱の一因をつくった。乱後衰え,織田信長のときに滅亡した。
畠山重忠
はたけやましげただ @@@LINK=畠山重忠 畠山重忠

畠山重忠
はたけやましげただ

1164〜1205
鎌倉時代の武将
武蔵国畠山荘司,重能 (しげよし) の子。母は三浦義明の娘。1180年石橋山の戦いには,父が平氏の人質となっていたため,源頼朝に敵対し,衣笠三浦氏を攻めたが,のち服属。平氏追討・奥州征討に功あり,頼朝の信頼厚く頼家の補佐を託された。のち北条氏と対立し,その挑発にあい1205年武蔵二俣川で義時と戦い敗死した。
畠山政長
はたけやままさなが @@@LINK=畠山政長 畠山政長

畠山政長
はたけやままさなが

1442〜93
室町時代の武将
幕府の管領。持国の養子となったが,持国に実子義就 (よしなり) が生まれ,これと家督を争った。細川勝元・山名宗全の援助をうけ家督をついだが,のち義就は宗全と結び政長を攻めたので,応仁の乱の一因となった。その後細川政元と対立し河内国大阪府)正覚寺城を囲まれ自殺した。

畠山義就
はたけやまよしなり @@@LINK=畠山義就 畠山義就

畠山義就
はたけやまよしなり

?〜1490
室町時代の武将
管領持国の子。持国は甥政長を養子としたが,のちに妾腹の義就に家督を与えようとしたので,一族が二分して争った。義就は山名宗全の援助をうけ,管領政長は細川勝元に頼って相争い,応仁の乱の一因をつくった。

旅籠
はたご @@@LINK=旅籠 旅籠

旅籠
はたご

江戸時代の庶民の旅館
多くは農家兼業で,専業にしているのは東海道の宿場くらいであった。初めは食料持参で木賃を旅籠に払う宿泊のみであったが,次第に食事の提供を行うようになり,旅人給仕売春などを行う飯盛女も置かれた。
秦佐八郎
はたさはちろう @@@LINK=秦佐八郎 秦佐八郎

秦佐八郎
はたさはちろう

1873〜1938
明治〜昭和期の細菌学者
島根県の生まれ。三高(現京都大学)卒。北里柴三郎の伝染病研究所で細菌学の研究に従ったのち,ドイツに留学。フランクフルトでエールリッヒの指導により,1910年梅毒の特効薬サルバルサンを発見。化学療法への道を開いた。

秦河勝
はたのかわかつ @@@LINK=秦河勝 秦河勝

秦河勝
はたのかわかつ

生没年不詳
7世紀前期の官人
山背(のち山城,京都府)を本拠とする渡来系氏族秦氏出身。聖徳太子に信任され,氏寺として広隆寺を創建した。
バタビア
Batavia @@@LINK=バタビア バタビア

バタビア
Batavia

ジャワ島にあった旧オランダ領東インドの首府で,現在のインドネシア首都ジャカルタ」の旧名
初めジャカルタと称していたが,16世紀オランダの東洋進出に伴いバタビアと改称。以後オランダ東インド会社のアジア進出の根拠地となる。鎖国前には日本からの移民もあった。
バタビヤ新聞
バタビヤしんぶん @@@LINK=バタビヤ新聞 バタビヤ新聞

バタビヤ新聞
バタビヤしんぶん

江戸末期に幕府蕃書調所が発行した新聞
官板バタビヤ新聞ともいう。1862年1・2月,木版活字で印刷された冊子型の新聞で,ジャワのオランダ政庁が提供した世界ニュースの抄訳。「新聞」とついた名称の最初のもので,同年8・9月に改称された洋書調所より『官板海外新聞』となった。
旗本
はたもと @@@LINK=旗本 旗本

旗本
はたもと

江戸時代,将軍直属の家臣で,1万石未満,将軍に謁見(御目見 (おめみえ) )できる者
御家人とともに幕府の常備軍的性格をもち,江戸に居住。両者を直参 (じきさん) と総称。原則として知行地を有したが,その多くは幕府の代官が支配し,俸禄米だけを収納した。町奉行・遠国 (おんごく) 奉行など,役方・番方に分かれ幕府の役職についたが,非役の者は3000石以上を寄合 (よりあい) ,未満を小普請 (こぶしん) と呼んだ。俗に「旗本八万騎」と称されるが,享保年間(1716〜36)に旗本約5000,御家人約1万7000,それにそれぞれの家臣を含めて約8万人であった。
鉢かづき
はちかづき @@@LINK=鉢かづき 鉢かづき

鉢かづき
はちかづき

室町時代の御伽 (おとぎ) 草子
2巻。作者不詳。継子いじめ物語で,鉢を頭からかぶせられた姫の流浪を描く。
八月十八日の政変
はちがつじゅうはちにちのせいへん @@@LINK=八月十八日の政変 八月十八日の政変

八月十八日の政変
はちがつじゅうはちにちのせいへん

1863(文久3)年8月18日,公武合体派による京都からの尊攘派追放事件
長州藩を中心とする尊攘派が朝廷を動かし,挙兵討幕の手段として攘夷親征大和行幸を出させたことに対し,公武合体派の薩摩藩が京都守護職松平容保 (かたもり) らとはかって,8月18日未明,機先を制して御所を警固して朝議を一変し,急進派公家参内を禁じた。長州藩は御所警衛のを解かれ,三条実美 (さねとみ) ら尊攘派の公家は長州藩へのがれた(七卿落ち)。尊攘派勢力は一時衰退した。
八虐
はちぎゃく @@@LINK=八虐 八虐

八虐
はちぎゃく

律令制における8種類の重罪
律の規定によれば,謀反 (むへん) ・謀大逆・謀叛 (むほん) ・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義の8罪をいう。天皇・国家・神祇・尊属に対する罪で重刑に処せられた。唐制にならって定められたが,多少の違いがある。
八条宮智仁親王
はちじょうのみやとしひとしんのう @@@LINK=八条宮智仁親王 八条宮智仁親王

八条宮智仁親王
はちじょうのみやとしひとしんのう

1579〜1629
江戸初期の皇族
後陽成天皇の四親王家の一つ,桂宮初代となり,別邸として桂離宮を造営した。
蜂須賀氏
はちすかし @@@LINK=蜂須賀氏 蜂須賀氏

蜂須賀氏
はちすかし

戦国〜江戸時代の大名
尾張の小土豪出身。正勝・家政父子が織田信長,豊臣秀吉に仕え,功を立て1585年阿波国に封じられ,家政の子至鎮 (よししげ) のとき徳川家康に仕え大坂の役の功により淡路を加封された。代々25万7000石,徳島城主。幕末には公武合体派に加わった。明治維新後侯爵となる。
八・八艦隊
はち・はちかんたい @@@LINK=八・八艦隊 八・八艦隊

八・八艦隊
はち・はちかんたい

大正時代,対米作戦のため整備されようとした海軍艦隊の拡張計画
日露戦争後,日米関係が悪化したので,日本海軍が対米太平洋作戦から艦隊整備の必要に迫られ計画したもの。巨砲・高速度戦艦8隻・巡洋艦8隻を中心勢力とするもので,1910年建艦計画がたてられ,歴代海相が要求,'20年予算が承認されたが,ワシントン海軍軍縮会議の結果実現しなかった。
八幡愚童訓
はちまんぐどうくん @@@LINK=八幡愚童訓 八幡愚童訓

八幡愚童訓
はちまんぐどうくん

八幡の神徳を平易に説いた,子供を対象とする訓話の書
同名の書が2種ある。①快元のという奥書があるが,真偽不詳。元寇に関する記述は史料として貴重である。
②成立年・著者不詳だが,吉田兼倶 (かねとも) の著とも推定され,室町時代に成立したもの。
八幡信仰
はちまんしんこう @@@LINK=八幡信仰 八幡信仰

八幡信仰
はちまんしんこう

八幡神に対する信仰
本来九州の宇佐八幡宮に対する信仰で,奈良時代からおこり,中世に普及。宇佐八幡宮が東大寺建立に貢献したことから860年には石清水八幡宮に祭られ,都の守護神として広く敬された。平安時代には祭神に応神天皇・神功 (じんぐう) 皇后を加え,伊勢神宮につぐ宗廟となった。のち清和源氏の氏神となり,武神として崇敬され全国各地に分祀された。源頼朝は鶴岡八幡宮を源氏の守護神とした。
八幡造
はちまんづくり @@@LINK=八幡造 八幡造

八幡造
はちまんづくり

大分県宇佐八幡宮にみられる神社建築の一様式
神明造 (しんめいづくり) の本殿のまえに流造を一棟置き,両者 (あい) の間で連結する様式。八幡社の建築が多い。
八文字屋本
はちもんじやぼん @@@LINK=八文字屋本 八文字屋本

八文字屋本
はちもんじやぼん

江戸中期,京都で出版された浮世草子
京都の書店主八文字屋自笑 (じしよう) と江島其磧 (えじまきせき) らが1701年から出版。『傾城 (けいせい) 色三味線』など,井原西鶴文辞をまねた,気質物 (かたぎもの) ・好色物を中心とするものだが大当たりとなり,広く流布した。
始馭天下之天皇
はつくにしらすすめらみこと @@@LINK=始馭天下之天皇 始馭天下之天皇

始馭天下之天皇
はつくにしらすすめらみこと

初めて国を治めた天皇の意
「御肇国天皇」とも書く。神武天皇と崇神天皇がともにこのをもっている。神武天皇は実在と考えられず,崇神天皇が実在の最初の天皇であろう。記紀によると,崇神天皇は天照大神 (あまてらすおおみかみ) を祭り四道将軍を派遣し,溝池を開き,租税制度を確立したとされるが,このようなところから,この名が生まれたのであろう。
抜歯
ばっし @@@LINK=抜歯 抜歯

抜歯
ばっし

前歯を抜去する風習
成人や婚姻などの儀礼に関係があるとされる。縄文時代に始まり弥生時代に継承されたが,特に縄文晩期に盛行した。犬歯・第1小臼歯などを左右対称的に抜歯する場合が多い。
八省
はっしょう @@@LINK=八省 八省

八省
はっしょう

律令制の中央行政組織
太政官の下で政務を分担した。
八省院
はっしょういん @@@LINK=八省院 八省院

八省院
はっしょういん

朝堂院
服部南郭
はっとりなんかく @@@LINK=服部南郭 服部南郭

服部南郭
はっとりなんかく

1683〜1759
江戸中期の儒学者・漢学者・詩人
京都の人。荻生徂徠 (おぎゆうそらい) の門に入り,古文辞学を修めた。詩文にも長じ,著書に『唐詩選諺解 (げんかい) 』『大東世語』など。

服部嵐雪
はっとりらんせつ @@@LINK=服部嵐雪 服部嵐雪

服部嵐雪
はっとりらんせつ

1654〜1707
江戸前・中期の俳人
通称彦兵衛。蕉門十哲の一人で,榎本其角と称された高弟。江戸浜町に雪中庵を結び,その派を雪門と称した。温雅で洗練された俳風。著書に『杜撰 (ずさん) 集』『俳諧つるいちご』『其袋』など。

発微算法
はつびさんぽう @@@LINK=発微算法 発微算法

発微算法
はつびさんぽう

江戸前期,関孝和の和算
1674年刊。連立多元高次方程式の解法など,すぐれた数学理論を含んでいる。
破提宇子
はでうす @@@LINK=破提宇子 破提宇子

破提宇子
はでうす

江戸初期のキリシタン教理批判の書物
1620年刊。転びイルマンファビアンの著。その後の日本におけるキリスト教排斥の理論的根拠となった。
伴天連
バテレン @@@LINK=伴天連 伴天連

伴天連
バテレン

安土桃山〜江戸時代中期,キリシタン宣教師のうちの司祭
司祭以外の宣教師をイルマンという。ポルトガル語padre(パードレ:「神父」の意)の転訛。ザビエルをはじめとし,トルレス,ビレラ,フロイス,カブラルオルガンチノコエリョヴァリニャーニソテロなどが有名。
伴天連追放令
バテレンついほうれい @@@LINK=伴天連追放令 伴天連追放令

伴天連追放令
バテレンついほうれい

1587年,豊臣秀吉が出した宣教師の追放令
キリスト教布教を禁止するため,バテレンに対し20日以内に国外への退去を命じたが,貿易は認めたためあまり励行されなかった。1596年の宣教師・信者26人の処刑後は励行された。
鳩山一郎
はとやまいちろう @@@LINK=鳩山一郎 鳩山一郎

鳩山一郎
はとやまいちろう

1883〜1959
大正・昭和期の政治家
東京の生まれ。東大卒業後弁護士を開業。1915年政友会代議士となり,以後犬養毅・斎藤実 (まこと) 両内閣の文相を歴任。この間滝川事件をおこした。敗戦後の '45年日本自由党を結成し,初代総裁に就任したが,'46年公職追放となった。'51年追放解除後吉田茂派と抗争して,'54年日本民主党を結成した。その後,首相に就任して,日ソ国交回復と日本の国連加盟を実現した。

鳩山一郎内閣
はとやまいちろうないかく @@@LINK=鳩山一郎内閣 鳩山一郎内閣

鳩山一郎内閣
はとやまいちろうないかく

鳩山一郎を首班とする保守党内閣(1954〜56)
〔第1次〈1954.12〜55.3〉〕 第5次吉田茂内閣のあとをうけて,日本民主党総裁として組閣。〔第2次〈'55.3〜55.11〉〕 日ソ国交回復交渉を開始。'55年11月保守合同によりいったん総辞職した。〔第3次〈'55.11〜56.12〉〕 保守合同で自由民主党内閣を組織しモスクワを訪問。'56年10月,国交回復の日ソ共同宣言に調印し,国際連合加盟を実現させた。また内政では新教育委員会法案を強行成立させ,以後教育委員会は公選制から任命制になり,教育への国家統制が強まった。
花園院宸記
はなぞのいんしんき @@@LINK=花園院宸記 花園院宸記

花園院宸記
はなぞのいんしんき

鎌倉南北朝時代花園天皇の日記
1310年より'32年の記録。47巻。記事の内容は両統迭立 (てつりつ) の経過,正中・元弘の変の事情などで,鎌倉末期の朝幕関係上の重要史料である。
花園天皇
はなぞのてんのう @@@LINK=花園天皇 花園天皇

花園天皇
はなぞのてんのう

1297〜1348
鎌倉末期の天皇(在位1308〜18)
伏見天皇の第2皇子。在位当時は両統迭立 (てつりつ) の時代で,持明院統に属し,在位11年で大覚寺統の後醍醐 (ごだいご) 天皇に譲位した。和漢の学にすぐれ,和歌をよくし『風雅和歌集』の撰者でもある。その日記が『花園院宸記』。

花の御所
はなのごしょ @@@LINK=花の御所 花の御所

花の御所
はなのごしょ

京都室町にあった足利将軍家の邸宅
室町殿ともいう。1378年3代将軍足利義満が北小路北,室町東に造営。四季の花がいろいろ植えられ,華麗を誇りこの名称があり,室町幕府の名称の由来となる。
花畠教場
はなばたけきょうじょう @@@LINK=花畠教場 花畠教場

花畠教場
はなばたけきょうじょう

江戸前期に設立された岡山藩藩校
1641年藩主池田光政が創設した最古の藩校。家中の長子8歳から20歳まで,および庶民子弟でも20歳以上の学術品行のすぐれた者の入学を許した。のち岡山藩学校改称
英一蝶
はなぶさいっちょう @@@LINK=英一蝶 英一蝶

英一蝶
はなぶさいっちょう

1652〜1724
江戸前・中期の画家
大坂の人。初め多賀朝湖といい,江戸に出て狩野安信に絵を学び,軽妙なで風俗画を描いた。また俳諧を松尾芭蕉に学び諸芸にも通じた。1698年幕府の忌諱にふれて12年間三宅島に流罪となり,のち許されて江戸に帰り,英一蝶と改名。代表作に『四季日待巻』など。
塙保己一
はなわほきいち @@@LINK=塙保己一 塙保己一

塙保己一
はなわほきいち

1746〜1821
江戸中・後期の国学者・文献学者
号は温故堂。武蔵(埼玉県)保木野村の農家に生まれ,5歳のときに失明。学問に志し,国学・儒学・神道・医学を学び,賀茂真淵 (まぶち) の門に入った。1793年幕府に願い出て和学講談所を設立し,屋代弘賢 (やしろひろかた) らを育成した。『群書類従』を完成,『続群書類従』編集途上没した。ほかに『武家名目抄』など。

埴輪
はにわ @@@LINK=埴輪 埴輪

埴輪
はにわ

古墳の頂部や周囲に並べられた土師器 (はじき) の総称
語義は埴土でつくった円筒ということ。大別して円筒埴輪と形象埴輪がある。円筒埴輪は古墳を聖域として画す意味をもち,墳土の土留めの役目をはたした。のちに家や盾・馬・人物などの形象埴輪が発達した。
馬場辰猪
ばばたつい @@@LINK=馬場辰猪 馬場辰猪

馬場辰猪
ばばたつい

1850〜88
明治前期の思想家
土佐藩出身。慶応義塾に学び,イギリスに2度留学。帰国後,1881年自由党結成に参加。主著『天賦人権論』をはじめ,『自由新聞』などにより民権思想の紹介・普及に努力した。板垣退助の洋行に反対し,'83年脱党。のち渡米し,フィラデルフィアで客死した。

ばはん船
ばはんせん @@@LINK=ばはん船 ばはん船

ばはん船
ばはんせん

戦国安土桃山時代海賊行為密貿易を行った船
「ばはん」の語源は不明だが,海賊行為を意味するらしい。戦国時代以後の用語で,倭寇が「八幡大菩薩」のを立てたためともいわれる。豊臣秀吉の国内統一後衰退した。
バブル経済
バブルけいざい @@@LINK=バブル経済 バブル経済

バブル経済
バブルけいざい

1986〜91年にかけての好景気のこと
超低金利が長く続き,過剰資金が投機目的で株式や土地に集中してこれらの価格を異常につり上げ,経済が実体以上に泡(バブル bubble)のように膨張した。1989年以降日銀が金融引締めに転じたため,株価や地価が急落し,バブルは崩壊した。その結果,景気が極端に悪化し,銀行などの金融機関が不良債権をかかえこみ,銀行・証券会社の大型倒産があいついだ。
歯舞諸島
はぼまいしょとう @@@LINK=歯舞諸島 歯舞諸島

歯舞諸島
はぼまいしょとう

北海道根室半島沖,千島列島南端の島々。第二次世界大戦後,ソ連の占領下に置かれている
1956年10月調印された日ソ共同宣言では,歯舞色丹は北海道の一部であるとのわが国の主張により,日ソ平和条約締結後は日本に引き渡されることが明記された。しかし'60年の日米新安全保障条約の調印に際し,ソ連は在日外国軍が撤退しない限り返還しないと声明。現在未解決である。
浜口雄幸
はまぐちおさち @@@LINK=浜口雄幸 浜口雄幸

浜口雄幸
はまぐちおさち

1870〜1931
大正・昭和期の政治家
高知県の生まれ。東大卒業後,大蔵省入省。1913年立憲同志会に入党,のち憲政会幹部となり,加藤高明内閣の蔵相,第1次若槻礼次郎内閣の内相を歴任。'27年立憲民政党総裁に就任し,'29年組閣。「ライオン宰相」の異名をもち人気があった。'30年東京駅で右翼に狙撃され重傷を負い,翌年死去した。

浜口雄幸内閣
はまぐちおさちないかく @@@LINK=浜口雄幸内閣 浜口雄幸内閣

浜口雄幸内閣
はまぐちおさちないかく

浜口雄幸を首班とする立憲民政党内閣(1929〜31)
1929(昭和4)年7月,立憲政友会の田中義一内閣のあとをうけて組閣。経済政策として財政緊縮・産業合理化(重要産業統制法)・金解禁,外交政策として協調外交・軍縮促進などを行った。しかし,世界恐慌の影響で金解禁に失敗して不況は深刻化し,またロンドン海軍軍縮条約調印・批准は右翼・軍部の反感をかった。'30年浜口首相が東京駅で右翼青年に狙撃されて重傷を負い,翌年4月,内閣は総辞職した。
蛤御門の変
はまぐりごもんのへん @@@LINK=蛤御門の変 蛤御門の変

蛤御門の変
はまぐりごもんのへん

禁門の変
浜田彦蔵
はまだひこぞう @@@LINK=浜田彦蔵 浜田彦蔵

浜田彦蔵
はまだひこぞう

1837〜97
幕末・明治時代の通訳・貿易商
通称アメリカ彦蔵。播磨(兵庫県)の人。1850年海難にあいアメリカ船に救われ渡米,帰化しジョセフ=ヒコと改名した。'59年アメリカ領事館通訳として帰国,'65年『海外新聞』を発行。また貿易にも従事した。

浜田弥兵衛
はまだやひょうえ @@@LINK=浜田弥兵衛 浜田弥兵衛

浜田弥兵衛
はまだやひょうえ

生没年不詳
江戸初期の貿易商人。末次船の船長
台湾を占領して朱印船貿易を妨害するオランダをこらしめるため,1628年武装船員400余人を同行して台湾に向かったが,かえって抑留された。しかし,機略をもって総督ヌイツを脅迫し,人質・賠償金をとり帰国した。
浜松中納言物語
はままつちゅうなごんものがたり @@@LINK=浜松中納言物語 浜松中納言物語

浜松中納言物語
はままつちゅうなごんものがたり

平安中期の物語文学
11世紀中ごろの成立。現存5巻。作者は菅原孝標女 (たかすえのむすめ) といわれる。『源氏物語』の影響下に,舞台を中国にまで広げ,夢幻のロマン的世界を描いた。行きづまった貴族社会の意識を反映しているといえよう。
林鵞峯
はやしがほう @@@LINK=林鵞峯 林鵞峯

林鵞峯
はやしがほう

1618〜80
江戸前期の朱子学者
羅山の子。春斎と称す。羅山・松永貞徳に学び,特に日本歴史に通じた。3代将軍徳川家光に儒学を講じ,礼制制定,訴訟・外交の諮問にあずかった。父羅山と『本朝通鑑』を編集。
林氏
はやしし @@@LINK=林氏 林氏

林氏
はやしし

林家 (りんけ)
林子平
はやししへい @@@LINK=林子平 林子平

林子平
はやししへい

1738〜93
江戸中・後期の経世思想家。寛政の三奇人の一人
仙台藩士。数度にわたり長崎に遊学。オランダ人から海外事情を学び,ロシアの南下の情報をきき,『三国通覧図説』『海国兵談』を著し,「江戸の日本橋より唐・オランダまで,境なしの水路なり」と海防の急務を説いた。しかし1792年幕府により世論を惑わすものとして版木を没収され,禁錮刑に処せられ,翌年不遇のうちに没した。

林述斎
はやしじゅっさい @@@LINK=林述斎 林述斎

林述斎
はやしじゅっさい

1768〜1841
江戸後期の朱子学者・大学頭
美濃(岐阜県)岩村藩主松平乗蘊 (のりもり) の第3子。のち,林信敬 (のぶたか) の養子となり,林家を継いだ。寛政の三博士とともに松平定信の教育行政にあたった。昌平坂学問所規模を広げ,異学のを推進し,朱子学の再興につとめた。ほかに『徳川実紀』編集などの業績がある。

林銑十郎内閣
はやしせんじゅうろうないかく @@@LINK=林銑十郎内閣 林銑十郎内閣

林銑十郎内閣
はやしせんじゅうろうないかく

陸軍大将林銑十郎(1876〜1943)を首班とする内閣(1937.2〜37.5)
広田弘毅内閣総辞職後,陸軍の反対で組閣に失敗した宇垣一成に代わって成立。「祭政一致」の方針をかかげたほかは無策であった。総選挙で大敗ののち軍部からも見放され4か月後に総辞職した。
林信篤
はやしのぶあつ @@@LINK=林信篤 林信篤

林信篤
はやしのぶあつ

林鳳岡 (ほうこう)
林芙美子
はやしふみこ @@@LINK=林芙美子 林芙美子

林芙美子
はやしふみこ

1903〜51
昭和期の小説家
山口県の生まれ。尾道高女卒業後上京し,女工・女給などをしながら文学に努力。1928年『放浪記』を発表,'30年に出版されベストセラーとなった。庶民の哀感詩情豊かに描く作風。戦後の代表作に『晩菊』『浮雲』など。

林鳳岡
はやしほうこう @@@LINK=林鳳岡 林鳳岡

林鳳岡
はやしほうこう

1644〜1732
江戸中期の朱子学者
名は信篤 (のぶあつ) 。鵞峯の子。1680年林家を継ぎ,徳川綱吉・家宣 (いえのぶ) ・家継・吉宗に仕えた。『武徳大成記』を編集。'90年綱吉の命で湯島に聖堂を移し,翌年大学頭に任じられた。以後大学頭の職は代々林家の世襲となった。

林有造
はやしゆうぞう @@@LINK=林有造 林有造

林有造
はやしゆうぞう

1842〜1921
明治・大正時代の政治家
土佐藩出身。征韓論に敗れて下野し,板垣退助らと立志社を結成。西南戦争に高知で呼応して投獄され,出獄後愛国公党をおこす。1887年には三大事件建白で政府と対抗,保安条例違反に問われた。のち衆議院議員に9回連続当選し,逓相・農商務相などを歴任した。
林羅山
はやしらざん @@@LINK=林羅山 林羅山

林羅山
はやしらざん

1583〜1657
江戸前期の朱子学者。林家の祖
名は信勝,晩年出家して道春 (どうしゆん) と称した。京都の人。建仁寺で儒仏を学んだが,僧にならず藤原惺窩 (せいか) に師事。徳川家康から家綱まで4代の将軍に仕え,侍講となり,儀式・典礼・法令の調査制定や文書の起草にあたり,儒教的封建教学を樹立した。幕命により『本朝通鑑』を編集,ほかに『羅山文集』『本朝神社考』など。

隼人
はやと @@@LINK=隼人 隼人

隼人
はやと

古代,九州南部に住んだ一種族
熊襲 (くまそ) と同族説もあるが系統不明。大和政権の九州征討に反抗し,異民族視された。律令制では衛門府隼人司に属し,朝廷の儀式の際の歌舞や宮門の警衛にあたった。しばしば反乱をおこしたが,720年大伴旅人に平定され,以後完全に服属した。
葉山嘉樹
はやまよしき @@@LINK=葉山嘉樹 葉山嘉樹

葉山嘉樹
はやまよしき

1894〜1945
大正末期・昭和初期のプロレタリア文学作家
福岡県の生まれ。早大中退後,船員生活を体験し,労働運動に参加。『淫売婦』『海に生くる人々』などを発表し『文芸戦線』に参加,初期プロレタリア文学運動の代表的作家となる。戦後,満州から引き揚げる途中病死した。

駅馬
えきば @@@LINK=駅馬 駅馬
はゆま @@@LINK=駅馬 駅馬

駅馬
えきば

律令制下の駅制において,駅家 (えきか) に常置して官吏(駅使)の乗用に用いた馬
「はゆま」ともいう。全国の諸道30里(約16㎞)ごとに駅家をおいて,大路の駅には20頭,中路には10頭,小路には5頭の馬が常置された。駅馬を利用するには駅鈴 (えきれい) を必要とした。

駅馬
はゆま

えきば

はらい @@@LINK=祓 祓


はらい

儀式により身体環境の穢 (けがれ) を払い去ること。
原城
はらじょう @@@LINK=原城 原城

原城
はらじょう

長崎県南高来 (たかき) 郡南有馬町にあった城
平山城。1496年有馬貴純 (たかすみ) の築城と伝えられる。島原の乱に際し原城跡が一揆軍の本拠となった。
原敬
はらたかし @@@LINK=原敬 原敬

原敬
はらたかし

1856〜1921
明治・大正時代の政党政治家。初めて本格的政党内閣を組織した
陸奥(岩手県)の生まれ。大阪毎日新聞社長を経て,立憲政友会の創立に参画。伊藤内閣の逓相,西園寺公望 (きんもち) 内閣の内相などを歴任し,1914年政友会総裁となる。'18年米騒動のため倒れた寺内正毅内閣のあとをうけて政友会を中心に組閣。爵位をもたない初の首相として「平民宰相」と呼ばれ,支持をうけたが,党利党略をはかったと批判され,'21年11月,東京駅頭で刺殺された。『原敬日記』は政治史の重要史料。

原敬内閣
はらたかしないかく @@@LINK=原敬内閣 原敬内閣

原敬内閣
はらたかしないかく

原敬を首班とする立憲政友会内閣(1918〜21)
1918年9月,米騒動で倒れた寺内正毅内閣のあとをうけて組閣。陸軍海軍外務の3相を除く他の大臣を政友会で占めた最初の本格的政党内閣。交通機関整備・教育奨励・産業貿易振興・国防充実の四大政綱を掲げ積極政策をとった。その財源は巨額の公債発行と増税であった。選挙法を改正して納税資格を3円以上としたが,普選運動には冷淡。ヴェルサイユ条約調印や国際連盟加盟を行うが,シベリア出兵継続や朝鮮の三・一運動には武力弾圧を行うなど「力の政治」を進めた。疑獄事件が頻発し,国民の批判が高まる中,21年11月原首相が暗殺されて総辞職。
原田直次郎
はらだなおじろう @@@LINK=原田直次郎 原田直次郎

原田直次郎
はらだなおじろう

1863〜99
明治時代の洋画家
江戸の生まれ。東京外語学校卒業後,高橋由一に絵を学び,ドイツに留学。1889年明治美術会創立に参加し,また本郷に画塾鐘美館をつくり,和田英作らを育てた。代表作に『靴屋のおやじ』『騎竜観音』など。

原田孫七郎
はらだまごしちろう @@@LINK=原田孫七郎 原田孫七郎

原田孫七郎
はらだまごしちろう

生没年不詳
安土桃山時代の貿易商人。豊臣秀吉の南方経略に活躍した
長崎の貿易商原田喜右衛門の手代。ルソン・高山国(台湾)に往来し,マニラに居住,スペイン語に通じた。秀吉に南海攻略をすすめ,その使者としてマニラ・高山国に入貢を要求する親書を持参した。
原坦山
はらたんざん @@@LINK=原坦山 原坦山

原坦山
はらたんざん

1819〜92
幕末・明治期の曹洞宗の僧。仏教学者
平藩出身。昌平坂学問所で儒学を修め,また医学を研究。出家して仏教の科学的・体系的解明を志し,その先駆者となった。1879年東大インド哲学科の最初の講師となり,のち曹洞宗管長代理,曹洞宗大学林(現駒沢大学)総監などを歴任した。
原マルチノ
はらマルチノ
Martino @@@LINK=原マルチノ 原マルチノ

原マルチノ
はらマルチノ
Martino

?〜1629
安土桃山時代の天正遣欧使節の副使
肥前(長崎県)の人で,大村純忠一族という。マルチノは洗礼名。1582年伊東マンショ千々石 (ちぢわ) ミゲル・中浦ジュリアンらと渡欧。4人のうち最も語学にすぐれ,日誌をラテン語で記したり,ゴアで演説を行った。'90年帰国後天草の修道院に入り,イルマンとして長崎で伝道に従事したが,その間キリシタン関係書の翻訳や出版を行い,1614年禁教令によりマカオに追放され,同地で没した。
パリ講和会議
パリこうわかいぎ @@@LINK=パリ講和会議 パリ講和会議

パリ講和会議
パリこうわかいぎ

1919(大正8)年1〜6月,パリで開かれた第一次世界大戦の講和会議
連合国32カ国が参加し,日本からは西園寺公望 (きんもち) が全権として出席。アメリカ大統領ウィルソンの提起した14カ条,フランスのドイツ再起不能政策を中心として展開され,大いに難航した。しかし,ヴェルサイユ条約以下4条約が調印され,国際連盟の創設が決定された。
ハリス
Townsend Harris @@@LINK=ハリス ハリス

ハリス
Townsend Harris

1804〜78
幕末,アメリカの外交官
1856年初代駐日総領事として下田に着任。'57年下田条約を締結,ついで '58年幕府を説得して日米修好通商条約調印に成功した。翌年公使となり,'62年辞任し,帰国。

磔茂左衛門
はりつけもざえもん @@@LINK=磔茂左衛門 磔茂左衛門

磔茂左衛門
はりつけもざえもん

生没年不詳
江戸前期の義民
上野 (こうずけ) (群馬県)利根郡月夜野村の農民。沼田藩主真田信利の重税に反対し,江戸に出て将軍徳川綱吉に書状で直訴 (じきそ) したといわれ,信利は改易となった。茂左衛門も磔刑に処せられ,義民として語り継がれてきたが,確証はない。

播磨国一揆
はりまのくにいっき @@@LINK=播磨国一揆 播磨国一揆

播磨国一揆
はりまのくにいっき

室町中期,播磨におこった国一揆
1429年国人や農民たちが,「国中侍あらしむべからず」と称し,守護赤松方の武士の支配排除を目的として蜂起したという。『薩戒記』にその記事がみえる。
ハリマン満鉄買収計画
ハリマンまんてつばいしゅうけいかく @@@LINK=ハリマン満鉄買収計画 ハリマン満鉄買収計画

ハリマン満鉄買収計画
ハリマンまんてつばいしゅうけいかく

1905年,アメリカ鉄道王ハリマン(1848〜1909)が世界一周交通計画の一部に,日本が日露戦争で獲得した南満州鉄道を加えようとした買収計画
首相桂太郎と満鉄共同経営につき予備調印(桂・ハリマン協定)をしたが,外相小村寿太郎の反対で中止された。
バルチック艦隊
バルチックかんたい @@@LINK=バルチック艦隊 バルチック艦隊

バルチック艦隊
バルチックかんたい

バルト海(Baltic Sea)に根拠を置いたロシアの主力艦隊
日露戦争に際し極東に派遣されたが,日本海海戦で壊滅的な打撃をうけた。
春の除目
はるのじもく @@@LINK=春の除目 春の除目

春の除目
はるのじもく

除目
原ノ辻遺跡
はるのつじいせき @@@LINK=原ノ辻遺跡 原ノ辻遺跡

原ノ辻遺跡
はるのつじいせき

長崎県壱岐郡芦辺町・石田町にある弥生時代の集落遺跡
1951年以降調査が行われ,『魏志倭人伝に見える「一支国 (いきこく) 」の中心集落であることが確認されている。南北約850m,東西約350mの範囲に3重の楕円形環濠をめぐらし,内部の面積は約25ha。中心部にはで囲んだ中核施設がある。環濠外の墓地からは中国鏡など副葬品が豊富に出土し,王族墓と見られる。中国の硬貨朝鮮半島土器・ガラス製品などが大量に出土している。'96年の調査で弥生中期の船着き場跡と見られる堤防状遺構が見つかった。長さ約12m,幅は最大で約11mある。築造には今までにない高度な土木技術が使われており,大陸から技術を導入したものと考えられている。
ハル‐ノート
Hull-note @@@LINK=ハルノート ハルノート

ハル‐ノート
Hull-note

太平洋戦争開戦直前の1941年11月26日,日米交渉の最終段階におけるアメリカ側の提案
アメリカ国務長官ハルが日本に覚書を提出。その内容は,中国・フランス領インドシナからの撤兵満州国否認日独伊三国同盟廃棄など,満州事変以前の状態に戻すことを要求。日本はアメリカの最後通牒とみなして,開戦を決意した。
ハルマ和解
ハルマわげ @@@LINK=ハルマ和解 ハルマ和解

ハルマ和解
ハルマわげ

江戸後期に刊行された最初の蘭和辞書
1796年江戸で刊行。13冊本と27冊本の2種ある。オランダの書籍商ハルマの『蘭仏辞典』を稲村三伯が中心となりオランダ通詞石井恒右衛門らの協力を得て翻訳。語数約8万語。長崎でもオランダ商館長ズーフが同じ蘭仏辞典からさらに詳しい蘭和辞典を編纂したので,区別して前者を「江戸ハルマ」,後者を「ズーフハルマ」とも呼んでいる。

はん @@@LINK=藩 藩


はん

江戸時代,大名の支配した領域およびその支配機構の総称
幕藩体制下の行政単位。諸藩は幕府に服属したが,一定限度政治的・経済的に独立した主体性をもっていた。その成立には相異があるが,共通した藩政組織をもち,城下町を中心に集権的政治を行った。藩の財政的基盤は,農民から徴収された現物貢租が主要なもの。明治維新後,版籍奉還・廃藩置県を経て解体された。
版画
はんが @@@LINK=版画 版画

版画
はんが

木版印刷による絵画
中国からの伝来技術で仏画類は古代末期から存在した。室町後期の東山文化で御伽 (おとぎ) 草子が大流行し,江戸時代の町人文化で木版印刷本が普及すると,挿絵の必要からますます発展し,元禄文化の浮世絵版画で絵画として独立。のち多色摺 (ずり) の錦絵となり,技法的にも独自の発達を示した。
半跏思惟像
はんかしいぞう @@@LINK=半跏思惟像 半跏思惟像

半跏思惟像
はんかしいぞう

仏像彫刻の一形式
「はんかしゆいぞう」とも読む。半跏趺座して思考する仏像の意味で,中宮寺・広隆寺の両弥勒菩薩 (みろくぼさつ) 像が有名である。
番頭
ばんとう @@@LINK=番頭 番頭
ばんがしら @@@LINK=番頭 番頭

番頭
ばんとう

輪番で勤務する際の責任者
②江戸時代,商家の使用人のうちで最高の業務支配人
平安時代以降,荘園領主は夫役の交替,年貢・公事 (くじ) 徴収のため荘園内をいくつかの番に分け,有力名主に給田あるいは給米を与えて番頭として統制させた。このことから集落の長のようになり,室町時代の惣村結合の中心となった。
丁稚 (でつち) ・手代を経たのち,この地位についた。


番頭
ばんがしら

戦国〜江戸時代,大名の職制
大名の家中は,家老・番頭・物頭・徒頭馬廻・足軽・中間の8階級に分かれるが,軍隊編成を行い,士卒を預って指揮する部将をいう。
番方
ばんかた @@@LINK=番方 番方

番方
ばんかた

江戸幕府の職制による区分
番方は武官で,城の警備や将軍の身辺の護衛,殿中要所の警衛にあたった。その頭が番頭で,下に番士がいる。たとえば大番・書院番・小姓番など。
藩翰譜
はんかんふ @@@LINK=藩翰譜 藩翰譜

藩翰譜
はんかんふ

江戸中期,新井白石の著した歴史書
1701年甲府城主徳川綱豊(のちの6代将軍家宣 (いえのぶ) )の命により,諸大名の家譜・系図を編集したもので,'02年完成。全13巻。関ケ原の戦い以降の大名337家を親藩譜代・外様に分けて記載。天保年間(1830〜44)に出版された。
判金
はんきん @@@LINK=判金 判金

判金
はんきん

江戸時代金貨
通常大(10両)という。金をのばした板金より出た語とも,金貨に記された金座後藤の書判から出た語ともいう。江戸時代以前からあったが,1601年慶長大判の鋳造以降制度的に確立した。日常取引はされず贈答用に用いられた。
盤珪永琢
ばんけいえいたく @@@LINK=盤珪永琢 盤珪永琢

盤珪永琢
ばんけいえいたく

1622〜93
江戸前期の臨済宗
「ようたく」とも読む。播磨(兵庫県)の人。儒学をよくし,岡山藩主池田光政,肥前(長崎県)平戸藩主松浦鎮信 (まつらしげのぶ) らの帰依をうけた。のち京都の妙心寺の住持となり,讃岐(香川県)丸亀伊予(愛媛県)大洲 (おおず) ・平戸・美濃(岐阜県)・尾張(愛知県)などで教化につとめた。
藩校
はんこう @@@LINK=藩校 藩校

藩校
はんこう

江戸時代,諸大名が設置した藩営の学校
「藩学」ともいう。主として藩士の子弟を教育する機関で,漢籍・国学・医術・武芸など一般教養を教授した。江戸中期以降その数は急速に増加し,江戸時代を通じ二百数十校を数える。幕末には蘭学・英学・洋式砲術などを採用。代表的なものとして岡山藩花畠教場,会津藩日新館,米沢藩興譲館,長州藩明倫館,熊本藩時習館,薩摩藩造士館などがある
万国平和会議
ばんこくへいわかいぎ @@@LINK=万国平和会議 万国平和会議

万国平和会議
ばんこくへいわかいぎ

ロシア皇帝ニコライ2世の提唱によりオランダハーグで開かれた国際平和会議
ハーグ平和会議ともいう。1899年と1907年の2回にわたって開催され,第1回は26カ国,第2回は44カ国が参加した。第2回の会期中,韓国皇帝の密使が来て,韓国の日本による支配の実状と独立を訴えるという事件があった。
万国郵便連合条約
ばんこくゆうびんれんごうじょうやく @@@LINK=万国郵便連合条約 万国郵便連合条約

万国郵便連合条約
ばんこくゆうびんれんごうじょうやく

1874年,スイスベルンの国際会議で22カ国参加のもとで締結された条約
郵便物交換上の国際協力を目的とする。1875年一般郵便同盟が設立され,日本は'77年に参加。1906年万国郵便連合に改組,現行条約は '47年に締結され,国際連合の専門機関となる。'64年の新条約に基づき国名の表示として“Nippon”を採用することとした。
万歳事件
ばんざいじけん @@@LINK=万歳事件 万歳事件

万歳事件
ばんざいじけん

三・一運動
藩札
はんさつ @@@LINK=藩札 藩札

藩札
はんさつ

江戸時代,藩で発行された紙幣
ふつう藩内のみ通用で幕府の許可を得て発行された。金札・銀札・銭札・米札などの種類がある。1661年,越前藩が最初に発行した。財政難救済を目的に乱発したため,価値下落の弊害があり,幕府はしばしば禁止・制限した。江戸後期には専売品買上げに流通を強制したため,藩札の相場が下落して,百姓一揆も発生。幕末には大半の藩をはじめ旗本・代官領でも発行された。1871(明治4)年廃藩置県で廃止,翌年から新紙幣との交換が行われたが,明治政府の大きな負担となった。
蛮社の獄
ばんしゃのごく @@@LINK=蛮社の獄 蛮社の獄

蛮社の獄
ばんしゃのごく

江戸後期,幕府が蘭学者に加えた弾圧事件
渡辺崋山・高野長英・小関三英ら蘭学者は尚歯 (しようし) 会(世人は蛮学社中と称した)を組織し,モリソン号事件に際し,崋山が『慎機論』を,長英が『戊戌 (ぼじゆつ) 夢物語』を著し,幕府の異国船打払令を批判した。目付の鳥居耀蔵 (ようぞう) の告発によって,幕府は1839年崋山・長英ら26人を逮捕,処罰した。幕政批判を封じ,蘭学を封建支配強化に役だたせようとした幕府当局の意図が反映されている。
反射炉
はんしゃろ @@@LINK=反射炉 反射炉

反射炉
はんしゃろ

幕末,鉄製大砲鋳造のため幕府諸藩が建造した溶鉱炉
炉内で熱を反射させて高熱を得,金属を溶かすところからこの名がある。1850〜51年肥前藩の建造成功が最初で,幕府では '54年江川太郎左衛門が伊豆韮山 (にらやま) に築造を開始。薩摩藩・水戸藩・長州藩鳥取藩などでも建造された。
蕃薯考
ばんしょこう @@@LINK=蕃薯考 蕃薯考

蕃薯考
ばんしょこう

江戸中期,青木昆陽の著した甘藷栽培法の研究書
1巻。凶作時の食料として甘藷(さつまいも)に注目,小石川薬園で試植研究し,1735年著述。上書して将軍徳川吉宗の採択を得て,'35年一部簡略化して刊行諸国に配付され,甘藷の普及の機縁となった。
蕃書調所
ばんしょしらべしょ @@@LINK=蕃書調所 蕃書調所

蕃書調所
ばんしょしらべしょ

幕末,江戸幕府の洋学校兼外交文書翻訳所
1854年,日米和親条約締結後,幕府に洋学校設立おこり,洋学所を '56年蕃書調所と改称して翌年開校。英学・蘭学や科学技術などを教授し,はじめ幕臣のみ,のち藩士や町人の入学を許した。のち洋書調所('62)・開成所('63)などを経て大学南校(のち東京大学)となった。
蛮書和解御用掛
ばんしょわげごようがかり @@@LINK=蛮書和解御用掛 蛮書和解御用掛

蛮書和解御用掛
ばんしょわげごようがかり

江戸後期,幕府外交文書翻訳にあたった職員
蕃書和解御用掛」とも書く。1811年天文方高橋景保の建議により新設馬場貞由 (ていゆう) ・大槻玄沢ら洋学者を集め,『ショメル百科事典』(『厚生新編』)などの翻訳にあたった。
半済
はんぜい @@@LINK=半済 半済

半済
はんぜい

室町幕府が軍費支出のため荘園・公領の年貢半分を武士に与えた制度
1352年,足利尊氏が近江・美濃・尾張3国の荘園半分を兵粮料所とし,1年の期間で武士に管理させたのが始まり。1年間だけ年貢の半分を武士に与え,半分を荘園領主・国主に納入するのを原則としたが実際は下地の分割が行われた。武士は半済を口実として荘園・国衙 (こくが) 領を侵略し守護大名の領国一円支配を進めた。
藩政改革
はんせいかいかく @@@LINK=藩政改革 藩政改革

藩政改革
はんせいかいかく

江戸時代,諸藩で行われた政治経済的諸制度の改革
幕府の享保・寛政・天保の三大改革に合致する時期に行われ,藩財政の立て直しや封建制度の矛盾の克服を目的としている。改革の内容は諸藩によって異なるが,初期藩政の確立期には,本百姓経営の創設と維持,新田開発や殖産興業による民政の重視などがあげられ,加賀藩の改作法,宇和島藩の鬮持法 (くじもちほう) ,それに土佐藩野中兼山の新田開発策などがその例である。寛政期(1789〜1801)の改革は,参勤交代の制や都市生活の奢侈 (しやし) による財政支出の増大に対する改革で,年貢の増徴,特産物中心の殖産興業の推進や専売制の強化につとめた。米沢藩・会津藩・長州藩・熊本藩などでその例がみられ,米沢の上杉治憲 (はるのり) ,秋田の佐竹義和 (よしまさ) ,熊本の細川重賢 (しげかた) などは近世の名君として知られている。幕末期の改革は,深刻な藩財政の立て直しのため,独自に国産会所を設けて商品流通を独占するなど重商主義的な政策で財政的危機をのりきろうとする傾向が強く,長州の村田清風,薩摩の調所広郷 (ずしよひろさと) などの天保期(1830〜44)の改革者があげられる。なお安政期(1854〜60)の改革は,対外貿易・海防への関心が高かった。
反正天皇
はんぜいてんのう @@@LINK=反正天皇 反正天皇

反正天皇
はんぜいてんのう

生没年不詳
5世紀中ごろの天皇
仁徳天皇の皇子。『宋書』倭国伝にみえる倭の五王の一人「珍 (ちん) (彌 (み) )」は仁徳・反正天皇にあてる2説がある。
版籍奉還
はんせきほうかん @@@LINK=版籍奉還 版籍奉還

版籍奉還
はんせきほうかん

1869(明治2)年,諸藩主が土地・人民を天皇に返上するという形式で,封建的割拠体制を打破した政策
維新政府は中央集権体制を確立するため,大久保利通・木戸孝允・板垣退助・大隈重信らの間で計画を進め,薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主を説き,その結果,4藩主が版(土地)・籍(人民)の奉還を願い出て他藩主もこれにならった。政府は従来の諸藩主を知藩事に任命し,したがって旧藩主と人民の封建的関係は存続したが,これにより封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出した。
藩専売
はんせんばい @@@LINK=藩専売 藩専売

藩専売
はんせんばい

専売制
反戦論
はんせんろん @@@LINK=反戦論 反戦論

反戦論
はんせんろん

明治〜昭和期,社会主義やキリスト教などの平和主義の立場から唱えられた戦争反対の主張
日清戦争にはみられないが,日露戦争以後の侵略戦争にはたえず反戦運動が展開されている。特に日露戦争における幸徳秋水堺利彦・内村鑑三ら平民社の反戦論は有名。
伴大納言絵巻
ばんだいなごんえまき @@@LINK=伴大納言絵巻 伴大納言絵巻
とものだいなごんえまき @@@LINK=伴大納言絵巻 伴大納言絵巻

伴大納言絵巻
ばんだいなごんえまき

平安末期の絵巻物
国宝。12世紀後半の成立。3巻。土佐光長筆といわれる。866年大納言伴善男 (とものよしお) が応天門に放火し,これを左大臣源信 (まこと) のしわざと告発したが,真相が露見して流罪に処せられたという応天門の変を描いた。物語の展開も描写もすぐれている。

伴大納言絵巻
とものだいなごんえまき

ばんだいなごんえまき
半知借上
はんちかりあげ @@@LINK=半知借上 半知借上

半知借上
はんちかりあげ

江戸時代,藩における財政救済法
御借上・上米・半知・借知ともいう。諸藩主が家臣の知行俸禄を継続的に削減すること。はなはだしいときは俸禄の半ばにも達したので半知といった。江戸中期以降一般化したために武士層は貧窮化していった。
班田使
はんでんし @@@LINK=班田使 班田使

班田使
はんでんし

律令制下,畿内の口分田の班給収公のために民部省から派遣された官人
畿内以外では国司が班給を行った。729〜844年までに8回任命されている。
班田収授法
はんでんしゅうじゅのほう @@@LINK=班田収授法 班田収授法

班田収授法
はんでんしゅうじゅのほう

律令制下,一定年齢に達した人民に口分田を分け与える法
中国の均田法にならったもので,大化の改新で実施方針が示された。大宝令田令に規定された律令土地制度の根本法。6年ごとに班田を行い,6歳以上の良民の男子には2段,女子にはその3分の2,官戸・公奴婢 (くぬひ) は良民と同額,家人・私奴婢には良民の3分の1の口分田を与え,死亡するとつぎの班給のときに収公した。この法は田地の集中を防ぎ,公民制を維持し,国家の租税収入確保を目的とするものであったが,902年を最後として廃絶した。
番頭
ばんとう @@@LINK=番頭 番頭
ばんがしら @@@LINK=番頭 番頭

番頭
ばんとう

輪番で勤務する際の責任者
②江戸時代,商家の使用人のうちで最高の業務支配人
平安時代以降,荘園領主は夫役の交替,年貢・公事 (くじ) 徴収のため荘園内をいくつかの番に分け,有力名主に給田あるいは給米を与えて番頭として統制させた。このことから集落の長のようになり,室町時代の惣村結合の中心となった。
丁稚 (でつち) ・手代を経たのち,この地位についた。


番頭
ばんがしら

戦国〜江戸時代,大名の職制
大名の家中は,家老・番頭・物頭・徒頭馬廻・足軽・中間の8階級に分かれるが,軍隊編成を行い,士卒を預って指揮する部将をいう。
反動恐慌
はんどうきょうこう @@@LINK=反動恐慌 反動恐慌

反動恐慌
はんどうきょうこう

戦後恐慌
坂東の大学
ばんどうのだいがく @@@LINK=坂東の大学 坂東の大学

坂東の大学
ばんどうのだいがく

足利学校
坂東八平氏
ばんどうはちへいし @@@LINK=坂東八平氏 坂東八平氏

坂東八平氏
ばんどうはちへいし

平安中期〜鎌倉時代にかけて勢力のあった,桓武平氏平高望 (たかもち) の子孫である関東地方の豪族
千葉・上総・三浦(和田)・土肥・秩父(畠山)・大庭・梶原・長尾の8氏をいう。いずれも源頼朝につかえた有力御家人として有名。
バンドン会議
バンドンかいぎ @@@LINK=バンドン会議 バンドン会議

バンドン会議
バンドンかいぎ

アジア‐アフリカ会議
反日運動
はんにちうんどう @@@LINK=反日運動 反日運動

反日運動
はんにちうんどう

排日運動①
伴信友
ばんのぶとも @@@LINK=伴信友 伴信友

伴信友
ばんのぶとも

1773〜1846
江戸後・末期の国学者
若狭(福井県)小浜藩士。本居宣長没後の門人。古寺社の古文書・記録を採集し,歴史・古典の正確・精密な考証は国学者中最高とされた。主著に『長等 (ながら) の山風』『比古婆衣 (ひこばえ) 』『神社私考』など。

藩閥政治
はんばつせいじ @@@LINK=藩閥政治 藩閥政治

藩閥政治
はんばつせいじ

明治時代,薩・長・土・肥4藩(特に薩長)出身者が派閥をつくり,政治権力を独占したことに対する呼び名
明治維新に中心的役割を果たした薩摩・長州・土佐・肥前4藩の出身者が,特に廃藩置県後は政府の中心となっていたが,征韓論をめぐり分裂し,明治十四年の政変以後は薩長出身官僚が実権を握った。これに対し民権派は藩閥専制として政府を攻撃した。日清戦争(1894〜95)後,政党勢力が伸長し,第1次護憲運動では「閥族打破」が叫ばれ,1918年原敬内閣の成立以後藩閥政治は衰退した。
反本地垂迹説
はんほんじすいじゃくせつ @@@LINK=反本地垂迹説 反本地垂迹説

反本地垂迹説
はんほんじすいじゃくせつ

本地垂迹説を逆にした神仏習合思想
元寇以後,民族的自覚高揚神国思想発展により,神こそ本地で,仏はその化身であると説く。伊勢神道唯一神道は,この思想に基づく。
板門店
はんもんてん @@@LINK=板門店 板門店

板門店
はんもんてん

大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国との境界の非武装中立地帯にある村
朝鮮戦争(1950〜53)の停戦協定が,1953年7月ここで調印された。
蛮勇演説
ばんゆうえんぜつ @@@LINK=蛮勇演説 蛮勇演説

蛮勇演説
ばんゆうえんぜつ

1891年12月,第2議会における海相樺山資紀 (すけのり) の演説
薩摩藩出身の海相樺山は民党の軍艦建造費削減要求に対して,薩長藩閥政府擁護の演説を行い,議場は混乱し,削減案は可決されて議会解散となった。
万里集九
ばんりしゅうく @@@LINK=万里集九 万里集九

万里集九
ばんりしゅうく

1428〜?
室町中期の禅僧
名は「周九」とも書く。梅花無尽蔵と号す。京都相国寺に学び,応仁の乱をさけて美濃(岐阜県)鵜沼に庵室を結ぶ。のち太田道灌に招かれ江戸に遊ぶ。漢詩文に長じ,文集『梅花無尽蔵』がある。
飛雲閣
ひうんかく @@@LINK=飛雲閣 飛雲閣

飛雲閣
ひうんかく

京都西本願寺にある近世の住宅建築で,書院造の典型
豊臣秀吉の建てた聚楽第の遺構と伝えられてきたが,異説も多い。近年の研究では江戸前期(元和〜寛永)の造立と考えられている。3層の建物で,西本願寺境内の滄浪 (そうろう) 池に臨む。建物の細部にも豪華な装飾を施してある。
比叡山
ひえいざん @@@LINK=比叡山 比叡山

比叡山
ひえいざん

京都市北東部と滋賀県との境にある山
山上に延暦寺がある。
日吉神社
ひえじんじゃ @@@LINK=日吉神社 日吉神社

日吉神社
ひえじんじゃ

滋賀県大津市坂本にある神社延暦寺の守護神
平安時代以降朝廷の崇敬厚く,特に院政時代,延暦寺僧兵がこの神社の神輿 (みこし) を奉じて,しばしば朝廷に強訴 (ごうそ) した。本殿日吉造神社建築
稗田阿礼
ひえだのあれ @@@LINK=稗田阿礼 稗田阿礼

稗田阿礼
ひえだのあれ

生没年不詳
7世紀半〜8世紀初めの舎人 (とねり) で,『古事記』編纂者の一人
天武天皇の命により『帝紀』『旧辞』を誦習。それを712年元明天皇の命で太安万侶 (おおのやすまろ) が筆録したのが『古事記』であるという。
日吉造
ひえづくり @@@LINK=日吉造 日吉造

日吉造
ひえづくり

滋賀県大津市の日吉神社本殿にみられる神社建築の一様式
神明造の屋根にそりをつけ,正面の屋根を長くし,正面・側面にひさしをつけているのが特徴。
菱垣廻船
ひがきかいせん @@@LINK=菱垣廻船 菱垣廻船

菱垣廻船
ひがきかいせん

江戸時代,大坂〜江戸の間を運航した廻船
船の側面に積荷保護のために檜 (ひのき) か竹を交叉して菱形の垣をつくったためこの名がある。17世紀初め,堺の商人が大坂から綿・油などを江戸に廻送したのが始まり。17世紀末に二十四組問屋・十組問屋に従属した。18世紀初めから船足の早い樽廻船におされ始め,天保の株仲間解散で急速に衰退した。
非核三原則
ひかくさんげんそく @@@LINK=非核三原則 非核三原則

非核三原則
ひかくさんげんそく

核兵器を「持たず,作らず,持ち込ませず」という核兵器に関するわが国の基本政策
1968年に佐藤栄作首相が発言し,さらに沖縄返還交渉の過程で明確化された。このうち「持ち込ませず」については,米軍の核兵器持ち込みを確認する手だてが日本側にないため,持ち込まれているという疑惑がもたれた。
東インド会社
ひがしインドがいしゃ @@@LINK=東インド会社 東インド会社

東インド会社
ひがしインドがいしゃ

17〜18世紀にかけて西欧諸国が東洋経営のために設立した特許会社
イギリスは1600〜1858年,オランダは1602〜1799年,フランスは1604〜67年の間存続。貿易権のみならず軍事権ももっていた。江戸時代の日蘭貿易もオランダの東インド会社が行い,その総督政庁はバタビア(ジャカルタ)にあった。
東久邇宮稔彦内閣
ひがしくにのみやなるひこないかく @@@LINK=東久邇宮稔彦内閣 東久邇宮稔彦内閣

東久邇宮稔彦内閣
ひがしくにのみやなるひこないかく

太平洋戦争終結直後,皇族陸軍大将東久邇宮稔彦(1887〜1990)を首班とする内閣(1945.8〜45.10)
「一億総懺悔」を唱え,敗戦処理に当たったが,経済再建に無策で,また民主化諸政策の遂行を怠り,GHQ圧力により総辞職した。
東市
ひがしのいち @@@LINK=東市 東市

東市
ひがしのいち

古代西市とともに置かれた官営場。
東本願寺
ひがしほんがんじ @@@LINK=東本願寺 東本願寺

東本願寺
ひがしほんがんじ

京都市下京区にある浄土真宗大谷派の本山
正しくは本願寺。通称「お東」。11世顕如 (けんによ) の死後,長男教如 (きようによ) がいったん隠退し,3男准如 (じゆんによ) が12世となったが,1602年徳川家康が教如に寺地を寄付して寺を建てさせ,教如を東本願寺12世としたことから本願寺が東西に二分し,現在に至った。
東廻り航路
ひがしまわりこうろ @@@LINK=東廻り航路 東廻り航路

東廻り航路
ひがしまわりこうろ

江戸時代,日本海沿岸から津軽海峡を経て太平洋を南下し,江戸に至る航路
元来奥州諸藩の蔵米輸送は川舟で北上川・阿武隈川河口に下り,廻船で下総銚子まで運び,また川舟で利根川・江戸川経由で江戸に送った。1670年,幕命河村瑞賢が外海江戸廻りの直航コースを開き,相模三崎から江戸に入る航路を開発,費用・損害を軽減し,大いに利用度を高めた。
東山山荘
ひがしやまさんそう @@@LINK=東山山荘 東山山荘

東山山荘
ひがしやまさんそう

銀閣
東山文化
ひがしやまぶんか @@@LINK=東山文化 東山文化

東山文化
ひがしやまぶんか

室町中期,8代将軍足利義政の東山山荘の銀閣を象徴とする文化
北山文化のあとをうけ,室町期の産業経済の進展を背景に,庶民の台頭が著しい世相を反映。さらに,応仁の乱などの戦乱からの上流武家の逃避的生活をも反映している。「わび」「さび」の文化がその最大の特色で,能楽・立花・茶道・水墨画・書院造・茶室建築などにすぐれたものが多い。代表的文化人としては金春禅竹 (こんぱるぜんちく) ・村田珠光・雪舟等・能阿弥・相阿弥などがあげられる。また,造園芸術が進み,西芳寺・竜安寺などの名園がつくられた。しかし東山文化は,隠遁的な特色のみならず,御伽 (おとぎ) 草子や狂言・『閑吟集』などにみられるように,庶民の生活に材をとるものが多く,民衆的性格が強く,近世の町人文化の源流をなしている。さらに戦乱をさけて地方に下向する貴族・僧侶などによって,文化が地方(たとえば山口・大分など)に波及したことも見落とせない。
被官
ひかん @@@LINK=被官 被官

被官
ひかん

「被管」とも書く。①律令制下,上級官庁に直属する下級官庁
③近世,地主に隷属してその土地を耕作する下層農民
下級官人を上級官人の被官ともいった。
②中世,守護大名や戦国大名に仕える武士で給分をもらう下級武士をいう。
名子・被官と並称され,被官百姓とも呼んだ。



引付衆
ひきつけしゅう @@@LINK=引付衆 引付衆

引付衆
ひきつけしゅう

鎌倉・室町両幕府の職名。所領関係の訟訴所務沙汰)を管轄した
1249年執権北条時頼のときに裁判の円滑公平を目的として設置された。評定衆から選任された引付頭人のもとに所属し,右筆(奉行)とともに引付方を組織して訴訟審理にあたった。初め3番,のち5番に組織され交替で勤務。室町幕府もこの制を継承した。
ビキニ被爆事件
ビキニひばくじけん @@@LINK=ビキニ被爆事件 ビキニ被爆事件

ビキニ被爆事件
ビキニひばくじけん

第五福竜丸事件
引目鉤鼻
ひきめかぎはな @@@LINK=引目鉤鼻 引目鉤鼻

引目鉤鼻
ひきめかぎはな

平安時代,大和絵の人物顔面描写の一技法
下ぶくれの顔に細い一線を引いただけで目を表し,鼻も同じような細い線で小さく鉤状に描く。『源氏物語絵巻』や『扇面古写経』などにみられる。
飛脚
ひきゃく @@@LINK=飛脚 飛脚

飛脚
ひきゃく

馬または徒歩で書類金銀などの小荷物を運送する脚夫
律令制で駅馬 (えきば) を設け中央と地方を結んだのに始まり,鎌倉時代には鎌倉飛脚・六波羅飛脚が京都〜鎌倉間を早馬 (はやうま) で連絡した。江戸時代には飛脚制度が発達し,幕府公用の継 (つぎ) 飛脚,諸大名の大名飛脚のほか,民間の町飛脚が普及。五街道をはじめ主要都市間を連絡し,また町飛脚を請け負う飛脚問屋もできた。1871(明治4)年官営郵便制度の発足で廃止された。
比企能員
ひきよしかず @@@LINK=比企能員 比企能員

比企能員
ひきよしかず

?〜1203
鎌倉初期の武将
武蔵国(埼玉県)比企郡の豪族。源頼朝の挙兵以来,戦功があり信任も厚く,1189年奥州征討の北陸道軍の大将となる。妻は源頼家の乳母,娘若狭局 (わかさのつぼね) は頼家の長子一幡を生み,頼家の外戚として権勢を得て,北条氏と対立。1203年北条時政に謀殺された。

比丘
びく @@@LINK=比丘 比丘

比丘
びく

出家得度 (とくど) して具足戒をうけた男子の僧侶
具足戒は通常250戒。出家して十戒を守っているが,具足戒をうけない者は沙弥 (しやみ) という。なお,女子の場合は比丘尼という。
樋口一葉
ひぐちいちよう @@@LINK=樋口一葉 樋口一葉

樋口一葉
ひぐちいちよう

1872〜96
明治時代の女流小説家
本名は奈津 (なつ) (なつ,夏子)。東京の生まれ。父の死後母と妹をかかえ貧窮の生活に苦闘した。その間和歌・小説を学び,文語体ではあるが,叙情的・写実的に庶民,特に女性の悲しみを描いた。文筆生活4年,『にごりえ』『たけくらべ』などの名作,日記を残し,病死した。

火消
ひけし @@@LINK=火消 火消

火消
ひけし

江戸時代の消防組織
三都をはじめ各都市に発達。江戸には幕府定火消,武家の大名火消,町方の町火消があった。1650年火消役が置かれ,旗本を頭に与力・同心で組織された定火消は '58年設置された。享保の改革のとき,定火消とは別に,町火消が組織された。
非御家人
ひごけにん @@@LINK=非御家人 非御家人

非御家人
ひごけにん

鎌倉時代,将軍と主従関係を結んだ御家人に対し,それ以外の武士をいう
幕府に対し奉公の義務はなく,保護もうけなかった。しかし文永・弘安の役に際し,異国警固番役を守護の下でつとめ,しだいに幕府の支配下にはいった。
彦根城
ひこねじょう @@@LINK=彦根城 彦根城

彦根城
ひこねじょう

滋賀県彦根市にある代表的平山城
金亀 (こんぎ) 城ともいう。17世紀初め,井伊直継(直勝)が築き,以後彦根藩井伊氏の居城となった。関ケ原の戦い後,直継の父直政が封ぜられた佐和山城が山城で不便なため西南の彦根山に移築したもので,現存の三重の天守閣は大津城から移築したという。琵琶湖に面し,その水を堀に利用している。
彦根屛風
ひこねびょうぶ @@@LINK=彦根屛風 彦根屛風

彦根屛風
ひこねびょうぶ

江戸初期の代表的風俗画
彦根藩主の井伊家所蔵なのでこの名がある。国宝。狩野派手法で室内で遊ぶ男女を琴棋書画の構図で描く。また服飾の描写が精巧で,江戸初期の貴重な風俗資料である。
比古婆衣
ひこばえ @@@LINK=比古婆衣 比古婆衣

比古婆衣
ひこばえ

江戸後期,伴信友 (ばんのぶとも) の随筆
20巻。歴史・文学・民俗など多方面にわたり論じている。
土方与志
ひじかたよし @@@LINK=土方与志 土方与志

土方与志
ひじかたよし

1898〜1959
大正・昭和期の演出家
東京の生まれ。東大卒。小山内薫 (おさないかおる) に師事。渡欧して演出を学び,帰国後,1924年小山内と築地小劇場を創設。'29年には新築地劇団を結成したが,のち弾圧のためモスクワに亡命。'41年帰国し投獄された。第二次世界大戦後出獄して演劇学校を設立し後進の指導にあたった。

菱川師宣
ひしかわもろのぶ @@@LINK=菱川師宣 菱川師宣

菱川師宣
ひしかわもろのぶ

?〜1694
江戸前期の浮世絵師
俗称吉兵衛,剃髪して友竹と号した。安房 (あわ) (千葉県)の人。初め縫箔刺繡 (ぬいはくししゆう) を業としたが,のち絵画を専業とした。土佐派・狩野派を学び,桃山時代以来の風俗画の長所を集めて,浮世絵という新様式を大成した。肉筆に『見返り美人』などの傑作があるが,むしろ墨摺 (ずり) 版画の開発により浮世絵を大衆化した功績が大きい。
菱田春草
ひしだしゅんそう @@@LINK=菱田春草 菱田春草

菱田春草
ひしだしゅんそう

1874〜1911
明治時代の日本画家
長野県の生まれ。東京美術学校卒。橋本雅邦門下の逸材。描線をやめ,洋画技法による没線描法で日本画の革新に努力した。代表作として前期に『水鏡』,後期に『落葉』『黒き猫』など。


ひじり @@@LINK=聖 聖


ひじり

平安中期以後,正規の寺院から離れ,隠遁修行し民衆教化につとめた僧侶
上人ともいう。貴族化した天台・真言の寺院を離れ,浄土信仰のため「別所」と称する仏堂で念仏した僧侶たちをいった。また山林で修行し法験をつんだ山伏や,遊行した乞食僧もさした。
美人画
びじんが @@@LINK=美人画 美人画

美人画
びじんが

江戸時代,浮世絵の中心題材となった女性美を主題とする絵
初期は肉筆画。17世紀後半,菱川師宣らが版画として普及させ,技術も進歩した。18世紀後半の鈴木春信以後,多色摺 (ずり) の錦絵に発展,喜多川歌麿・鳥居清長らが出て全盛期を迎えたが,幕末に沈滞した。
肥前藩
ひぜんはん @@@LINK=肥前藩 肥前藩

肥前藩
ひぜんはん

江戸時代,肥前(佐賀県)佐賀地方を領した外様藩
佐賀藩ともいう。藩主鍋島 (なべしま) 氏。藩祖鍋島直茂 (なおしげ) は,1590年竜造寺隆信に代わってこの地を支配し,石高35万7000石,長崎警固の任にあたった。藩財政は享保年間(1716〜36)から窮乏し,1801年藩主治茂が財政の立て直しをはかったが,'08年フェートン号事件幕府から処罰されたのちは特に窮迫した。藩主直正は,封建的農村秩序の再編成(均田制),殖産興業による財政収入の増加(陶磁器の専売制),反射炉など洋式軍事工業の開設につとめた。尊王攘夷運動には消極的態度を示したが,維新政府では,大隈重信・江藤新平・大木喬任 (たかとう) ・副島種臣 (そえじまたねおみ) らが活躍し,藩閥勢力を形成した。
非戦論
ひせんろん @@@LINK=非戦論 非戦論

非戦論
ひせんろん

明治時代,日露戦争反対する主張
『万朝報 (よろずちようほう) 』が中心であったが,社主黒岩涙香 (るいこう) が主戦論に転じたため堺利彦・幸徳秋水・内村鑑三らは1903年退社。堺・幸徳らは『平民新聞』により社会主義の立場から,内村はキリスト教の立場から戦争批判を続けた。
鐚銭
びたせん @@@LINK=鐚銭 鐚銭

鐚銭
びたせん

中世〜近世に流通した粗悪な銭貨の総称
室町末期,劣悪な私鋳銭が急増し,天正(1573〜92)ころから,それら悪銭を「鐚」と呼んだ。中世には撰銭の対象となり,使用価値を低くして流通していた。江戸幕府はとくに劣悪な銭と永楽銭を除く通用銭をすべて鐚銭と規定した。寛永通宝が大量に流通するようになると,次第に姿を消した。
直垂
ひたたれ @@@LINK=直垂 直垂

直垂
ひたたれ

布製の上半身衣で,袴と合わせて用いた
平安時代は男子の常服であったが,武士が鎧下に着用し,鎌倉時代に武士の出仕服となった。室町時代,公家の出仕服,さらに江戸時代に武士の礼装となった。烏帽子 (えぼし) を着用し,袖に括紐 (くくりひも) ,胸に胸紐をつけた。袴は切袴と長袴があり,江戸城中では,大名の大礼服として大 (だいもん) (大形の紋を染めた直垂)を着用した。
敏達天皇
びだつてんのう @@@LINK=敏達天皇 敏達天皇

敏達天皇
びだつてんのう

538?〜585
6世紀後期の天皇(在位572〜585)
欽明天皇第2皇子。治世中伽耶(加羅,任那 (みまな) )の奪回を策したが失敗。国内では仏教受容をめぐって蘇我馬子・物部守屋の対立が激化した。

左甚五郎
ひだりじんごろう @@@LINK=左甚五郎 左甚五郎

左甚五郎
ひだりじんごろう

生没年不詳
江戸前期の大工の棟梁
京都の禁裏大工に弟子入りしたが,元和(1615〜24)のころ江戸に出て,徳川家の大工棟梁甲良 (こうら) 宗広の女婿となったと伝えられる。日光東照宮・上野寛永寺の普請に参加,また禁裏大工棟梁となり,知恩院再建に尽力したという。晩年は高松藩棟梁となり,同地で死んだという。
備中鍬
びっちゅうぐわ @@@LINK=備中鍬 備中鍬

備中鍬
びっちゅうぐわ

江戸時代盛んに使用された荒起こし用の打ち鍬
鍬を軽くするため刃が数本に分かれ,刃と柄との角度が大きい。備中鍬の使用により深耕が可能となり開墾が進み,生産力の増大をもたらした。形により窓鍬・三本鍬・万能などともいう。
ビッドル
James Biddle @@@LINK=ビッドル ビッドル

ビッドル
James Biddle

1783〜1848
江戸末期に来日したアメリカの海軍提督
1846年,東インド艦隊司令長官として,軍艦2隻を率いて浦賀に来航。アメリカは初めて公式に開国を要求したが,幕府に拒否され,退去した。
悲田院
ひでんいん @@@LINK=悲田院 悲田院

悲田院
ひでんいん

古代,貧窮者・孤児の救済施設
最初,聖徳太子が四天王寺に設けたと伝える。723年興福寺に施薬院とともに設けられ,730年光明皇后により平城京の左・右京に設置され,諸国諸寺にも設けられるようになった。
尾藤二洲
びとうじしゅう @@@LINK=尾藤二洲 尾藤二洲

尾藤二洲
びとうじしゅう

1747〜1813
江戸後期の朱子学者
伊予(愛媛県)の人。大坂に出て,初め古文辞学,のち朱子学を学んだ。柴野栗山にすすめて松平定信に寛政異学の禁を行わせ,1791年には昌平坂学問所の儒官となり朱子学の振興につとめた。柴野栗山・古賀精里と並び寛政の三博士と称された。著書に『正学指掌』『静寄余録』など。

人返しの法
ひとがえしのほう @@@LINK=人返しの法 人返しの法

人返しの法
ひとがえしのほう

江戸後期,天保の改革一環として老中水野忠邦が出した帰農令
人返し令ともいう。1843(天保14)年発令。農村の窮が江戸に流入するのを禁じ,江戸に流入した農民も長年商売し妻子をもち江戸人別帳に記載された者以外は帰農させた。減少した農村人口の増大貢租増加をはかり,封建社会再建をめざしたが実効は少なかった。
一橋家
ひとつばしけ @@@LINK=一橋家 一橋家

一橋家
ひとつばしけ

江戸時代,御三卿 (ごさんきよう) の一つ
8代将軍徳川吉宗の4男宗尹 (むねただ) が初代。江戸城一橋門内に住み,10万石を給せられた。11代将軍家斉は一橋家出身。徳川慶喜 (よしのぶ) は水戸家から出て一橋家を継ぎ15代将軍となった。
一橋派
ひとつばしは @@@LINK=一橋派 一橋派

一橋派
ひとつばしは

幕末将軍継嗣問題のとき,一橋慶喜 (よしのぶ) を推し,紀州派に対抗した一派
13代将軍家定の継嗣を決めるに際し,徳川斉昭 (なりあき) ・松平慶永 (よしなが) らは雄藩連合による難局打開を意図し,幕政改革のため諸侯声望のあった一橋慶喜を推した。しかし紀州派の巨頭井伊直弼 (なおすけ) の大老就任で紀伊藩主徳川慶福が継嗣に決定,一橋派は徹底的に弾圧された。
一橋慶喜
ひとつばしよしのぶ @@@LINK=一橋慶喜 一橋慶喜

一橋慶喜
ひとつばしよしのぶ

徳川慶喜 (よしのぶ)
人掃
ひとばらい @@@LINK=人掃 人掃

人掃
ひとばらい

1592年,豊臣秀次が実施した戸口調査
「人払」とも書く。1村ごとの戸数・人数・性別老幼などを調査記録し,提出させた。目的は,戸口を把握して農民の逃散を禁じ,封建制基盤を確保するため。朝鮮侵略のための動員準備ともいう。
ヒトラー
Adolf Hitler @@@LINK=ヒトラー ヒトラー

ヒトラー
Adolf Hitler

1889〜1945
ドイツの独裁政治家。ナチス党首
オーストリアの下級官吏の家に生まれ,第一次世界大戦に参加。敗戦後,ドイツ労働者党(のちのナチス)に加入し,1921年同党党首となる。世界恐慌後のナチ党の躍進により,'33年首相,'34年総統に就任し,以来徹底したファシズム政治体制を確立した。対外侵略を行い,日本・イタリアと枢軸陣営を形成して,'39年第二次世界大戦に突入。'45年にドイツ降伏直前に自殺。主著に『わが闘争』。

非人
ひにん @@@LINK=非人 非人

非人
ひにん

穢多 (えた) とともに江戸時代の賤民身分。
肥君猪手
ひのきみのいて @@@LINK=肥君猪手 肥君猪手

肥君猪手
ひのきみのいて

生没年不詳
702年の筑前(福岡県)の戸籍に現れる地方豪族
肥君は肥後国(熊本県)球磨郡地方の豪族であるが,正倉院に伝わる筑前国嶋郡川辺里戸籍に嶋郡の大領(長官)猪手の名がみえ,37名の奴婢 (ぬひ) を含め124名の郷戸主で,現存史料中の最大戸。
日野家
ひのけ @@@LINK=日野家 日野家

日野家
ひのけ

平安時代以来の貴族の家
本姓は藤原。藤原家宗が山城国宇治郡日野に法界寺を創立し,のち資業 (すけなり) が日野法界寺薬師堂を建立してから日野氏と称するようになった。室町時代には足利将軍家の縁戚となり,権力をふるった。8代将軍義政の夫人富子は有名。
日野資朝
ひのすけとも @@@LINK=日野資朝 日野資朝

日野資朝
ひのすけとも

1290〜1332
鎌倉末期の公卿
後醍醐 (ごだいご) 天皇の信任を得,討幕計画の中心として日野俊基らと活躍。1324年計画がもれて捕らえられ(正中の変),佐渡に流された。のち元弘の変の関係者処刑に関連して,佐渡で斬られた。

日野俊基
ひのとしもと @@@LINK=日野俊基 日野俊基

日野俊基
ひのとしもと

?〜1332
鎌倉末期の公卿
後醍醐 (ごだいご) 天皇の信任を得,日野資朝 (すけとも) らとともに討幕計画に参加。1324年正中の変では捕らえられたが許された。'31年元弘の変のとき,再び討幕をはかって捕らえられ,翌年鎌倉で斬られた。

日野富子
ひのとみこ @@@LINK=日野富子 日野富子

日野富子
ひのとみこ

1440〜96
室町幕府8代将軍足利義政の夫人
日野家に生まれ,16歳で義政に嫁し,2女を生んだ。初め男子なく,義政が弟義視 (よしみ) を後継者と決めた直後義尚 (よしひさ) を生み,実子義尚を将軍にするため,山名宗全を後援者として応仁の乱を引き起こした。また京都の周囲に新関を設け,米相場・賄賂・高利貸などを行って,義政をこえる勢力をもったといわれる。

火の柱
ひのはしら @@@LINK=火の柱 火の柱

火の柱
ひのはしら

明治後期,木下尚江 (なおえ) の長編小説
1904年『毎日新聞』に連載された社会主義文学の代表作。日露戦争をめぐりキリスト教社会主義の立場からの非戦運動を主題として主人公篠田長二が,資本主義社会の悪と闘い,結局官憲に捕らえられるという筋。作者の理想を生き生きと描き出した作品。
日比谷焼打ち事件
ひびややきうちじけん @@@LINK=日比谷焼打ち事件 日比谷焼打ち事件

日比谷焼打ち事件
ひびややきうちじけん

1905年9月5日,ポーツマス条約に反対しておこった民衆の暴動事件
東京日比谷公園の国民大会は賠償金のないことなどを不満とする国家主義者の指導に始まったが,戦争による生活苦にあえぐ民衆は条約破棄を叫んで暴徒化し,内相官邸・警察署・交番・政府系新聞社を襲った。政府は戒厳令をしいて軍隊を出動させ鎮圧した。しかし,暴動は横浜名古屋・大阪・神戸など各地に波及した。
美福門院
びふくもんいん @@@LINK=美福門院 美福門院

美福門院
びふくもんいん

1117〜60
平安後期,鳥羽天皇の皇后
近衛天皇の母。藤原長実の娘で名は得子 (とくし) 。鳥羽上皇の寵愛をうけ,近衛天皇を位につけるために崇徳天皇の退位を上皇にすすめた。1149年に女院 (によいん) となり,1155年近衛天皇の死後,皇位を後白河天皇に譲らせるよう鳥羽法皇にすすめ,保元の乱の原因になったという。

日振島
ひぶりじま @@@LINK=日振島 日振島

日振島
ひぶりじま

愛媛県南部,豊後水道にある島
藤原純友の乱の根拠地となる。
秘府略
ひふりゃく @@@LINK=秘府略 秘府略

秘府略
ひふりゃく

平安初期の百科事典
831年成立。1000巻。現存2巻。滋野 (しげの) 貞主の著。1500種以上の漢籍を事物別に分類したもの。
悲母観音図
ひぼかんのんず @@@LINK=悲母観音図 悲母観音図

悲母観音図
ひぼかんのんず

明治時代狩野芳崖の代表作
1888年死の直前完成漢画手法に洋画手法が加味された観音像の名画。人間の母性愛を象徴する。
秘本玉くしげ
ひほんたまくしげ @@@LINK=秘本玉くしげ 秘本玉くしげ

秘本玉くしげ
ひほんたまくしげ

江戸後期,国学者本居宣長の著書
1787年完成。2巻。紀伊藩主徳川治貞の諮問に応え,政治・経済・百姓一揆についての自己の思想を述べたもの。
卑弥呼
ひみこ @@@LINK=卑弥呼 卑弥呼

卑弥呼
ひみこ

生没年不詳
3世紀前半,『魏志』倭人伝に記された邪馬台国 (やまたいこく) の女王
2世紀後半,男王統治の倭国に大乱がおこり,王に立てられた卑弥呼は,この内乱をしずめ30余国を統属した。呪術的宗教の巫女で夫をもたず,男弟の補佐でシャーマニズムの神権政治を行った。239年魏に朝貢し,親魏倭王の称号をうけた。3世紀中ごろ没し,径100余歩の墓に葬られ,奴婢 (ぬひ) 100余人を殉葬したという。
姫路城
ひめじじょう @@@LINK=姫路城 姫路城

姫路城
ひめじじょう

兵庫県姫路市本町にある城
白鷺 (はくろ(しらさぎ)) 城ともいう。1333年元弘の変に際し赤松則村が姫山に挙兵し,その子貞範が '46年に山上に城を築いたという。天正年間(1573〜92)に赤松氏の重臣小寺宗円が中国征討の将豊臣秀吉に居城の姫路城を提供。秀吉はここで毛利氏と対陣した。関ケ原の戦い(1600)後,池田輝政が入封し,大修理を行い,'09年完成。天守・櫓・門・白壁と城郭建築の美しさをよく表し,現存城郭建築中の傑作といわれる。世界文化遺産の一つに登録されている。
百済
くだら @@@LINK=百済 百済
ひゃくさい @@@LINK=百済 百済

百済
くだら

古代,朝鮮半島南西部にあった国家(350ころ〜660)
「ひゃくさい」とも読む。4世紀中ごろ馬韓50余国を統一して建国。百済は日本にとって大陸交通の要地にあたり,一方百済は,高句麗・新羅 (しらぎ) と対抗するために,軍事的援助を求めて日本に接近し,その間には密接な関係が保たれた。百済からは博士僧侶・技術者などが日本に渡来し大陸の文物が伝わり,古代文化の形成に著しい影響を与えた。欽明朝(531〜571ころ)の仏教公伝などが有名。660年新羅・唐の連合軍に滅ぼされたのち,多くの人びとが日本に渡来した。

百済
ひゃくさい

くだら
百姓
ひゃくしょう @@@LINK=百姓 百姓

百姓
ひゃくしょう

①律令制下の公民
②中世以降の農民
大化以前は「ひゃくせい」と読み,姓 (かばね) をもつ者の総称。大化の改新以後,公民=班田農民。
中世,荘園制下で,農民は百姓・凡下・土民・地下人 (じげにん) などと呼ばれ,武士・商工業者の発生に伴い,農民をさすようになった。近世,農民は検地により土地に縛られ農奴化し,田地を持つ本百姓と持たない水呑 (みずのみ) に分化した。
百姓一揆
ひゃくしょういっき @@@LINK=百姓一揆 百姓一揆

百姓一揆
ひゃくしょういっき

江戸時代,領主に対する農民の集団的反抗運動
江戸時代を通じて3200余件を数えるが,享保(1716〜36)前後から増加し,天明・天保・慶応の三つのピークがある。原因としては,領主の増税や専売制の施行などへの反対がおもで,のちになると藩と結ぶ豪商への反感なども出てくる。種類には逃散 (ちようさん) ・越訴 (おつそ) ・強訴 (ごうそ) などがあるが,集団で鍬・鎌・竹槍などを持って領主に直訴する強訴が次第に増大した。村役人層を先頭に立てた農民全体の惣百姓的なものが多いが,のちには零細農民を主力とするものもおこった。極刑に処せられた指導者も多く出たが,しだいに農民の要求がいれられて成功率が高くなった。分散的なものからしだいに多くの村々を連合した組織的・大規模なものとなり,戦闘力も強く,他藩に波及する傾向もでてきた。しかし全国的なものとはならず,組織力にも欠ける面が多かった。したがって封建制度に直接決定的な打撃を与えるに至らなかったが,支配体制を突き崩す原動力となった。
百姓請
ひゃくしょううけ @@@LINK=百姓請 百姓請

百姓請
ひゃくしょううけ

荘園の管理・年貢徴収などを郷村名主百姓が請け負う制度
地下請 (じげうけ) ともいう。南北朝時代以降,畿内やその周辺村落郷村制)の発達が進み,守護勢力を排除しようとする荘園領主と,守護に対抗して村落を支配しようとする主・百姓が結びついて百姓請の制度が生まれた。
百姓代
ひゃくしょうだい @@@LINK=百姓代 百姓代

百姓代
ひゃくしょうだい

江戸時代,名主・組頭とともに地方 (じかた) 三役
本百姓から有力な者1〜3名が選出され,農民の利益代表者として年貢米出納や村入用の割当てなどに立ち合った。地方三役のうちでは名主・組頭より出現が遅く,村政運営を監視する目付役。多くは五人組頭から選出され無給であった。
百姓囊
ひゃくしょうぶくろ @@@LINK=百姓囊 百姓囊

百姓囊
ひゃくしょうぶくろ

江戸中期,西川如見の教訓書
1721年完成,'31年刊。5巻。農民心得を記したもので,農民に対し重農抑商を説いた。
百万町歩開墾計画
ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく @@@LINK=百万町歩開墾計画 百万町歩開墾計画

百万町歩開墾計画
ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく

722年,口分田の不足を補うため政府の企てた開墾計画
食糧官給・農具貸与で,百姓を1人10日間ずつ使役して良田百万町歩を開墾しようとしたが,施行実態は不明。翌年三世一身法が施行された。軍糧確保のため陸奥地方だけを対象とする施策であったとするもある。
百万塔陀羅尼
ひゃくまんとうだらに @@@LINK=百万塔陀羅尼 百万塔陀羅尼

百万塔陀羅尼
ひゃくまんとうだらに

奈良時代後期,百万塔に納められた印刷した呪文
現存する世界最古の印刷物。恵美押勝 (えみのおしかつ) の鎮定後,戦死者の冥福を祈るため道鏡のすすめで764年称徳天皇が発願,770年完成。100万基の木造三重小塔(高さ約21.5㎝)内に木版印刷した『陀羅尼』(呪文)1部ずつを納め,南都十大寺に10万基ずつ寄進した。法隆寺に一部現存する。
百寮訓要抄
ひゃくりょうくんようしょう @@@LINK=百寮訓要抄 百寮訓要抄

百寮訓要抄
ひゃくりょうくんようしょう

南北朝時代,二条良基有職故実 (ゆうそくこじつ) 書
14世紀後半の成立。1巻。良基足利義満所望により記したもの。朝廷諸官の官位昇進・補任など令外官 (りようげのかん) をも含め,の官職制度を仮名文で平易に説明した。
百錬抄
ひゃくれんしょう @@@LINK=百錬抄 百錬抄

百錬抄
ひゃくれんしょう

鎌倉後期に成立した漢文編年体史書
百練抄」とも書く。17巻。冷泉天皇より後深草天皇に至る968〜1259年,約3世紀間の記録。編者は不詳であるが,朝廷との関係の深い人らしく,京都の事情を知る史料として重要。
白虎隊
びゃっこたい @@@LINK=白虎隊 白虎隊

白虎隊
びゃっこたい

戊辰 (ぼしん) 戦争に際し,会津藩で組織された少年隊
会津藩が年齢別に編成した玄武・青竜・朱雀・白虎の4隊の1つで,最年少の16〜17歳の藩士の子弟で編成。1868年会津戦争に際し,いっしょに奮戦して多くは戦死。残る生存者も新政府軍が城下に放った火炎を城の陥落と誤解し,飯盛山で自刃した。
日向
ひゅうが @@@LINK=日向 日向

日向
ひゅうが

宮崎県の旧国名
記紀伝承によれば皇室発祥地で,瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) がこの地の高千穂峰降臨神武天皇がこの地から東征し,大和地方を平定したという。西都原などの古墳群が存在し古くからの文化の発達がうかがわれる。
ヒュースケン
Hendrik C. J. Heusken @@@LINK=ヒュースケン ヒュースケン

ヒュースケン
Hendrik C. J. Heusken

1832〜61
幕末,駐日アメリカ公使館通訳として活躍したオランダ人
1856年アメリカ総領事ハリスに従い来日。対日交渉に活躍しイギリス・プロシアの対日条約締結に際し通訳をつとめたが,'60年12月(新暦では'61年)攘夷派の浪人に暗殺された。日本滞在記に“Memoires de Voyage”がある。

兵衛府
ひょうえふ @@@LINK=兵衛府 兵衛府

兵衛府
ひょうえふ

律令制下,六衛府の一つ。
兵庫
ひょうご @@@LINK=兵庫 兵庫

兵庫
ひょうご

摂津国港町で,現在の神戸港西部にあたる
平家物語』に大輪田泊とみえる。別名兵庫島とも呼ばれ,日宋貿易のために平清盛が大規模な築港を行った。室町時代勘合貿易拠点となる。戦国時代にはに繁栄を奪われたが,豊臣秀吉および江戸幕府直轄地幕領は1769年)となってから再び繁栄。近世西廻り航路の要港となり,1867年開港。
兵庫造船所
ひょうごぞうせんじょ @@@LINK=兵庫造船所 兵庫造船所

兵庫造船所
ひょうごぞうせんじょ

明治初期の官営工場。川崎造船所の前身
1869年金沢藩士らが創設した加州製鉄所に始まる。'71年工部省に引き継がれ官営となる。'87年民間(川崎正蔵)に払下げ
評定衆
ひょうじょうしゅう @@@LINK=評定衆 評定衆

評定衆
ひょうじょうしゅう

鎌倉・室町両幕府の職名
1225年執権北条泰時が,叔父時房を連署としたのち,裁判その他一般の政務を合議する職として創設。人員ははじめ11名,その後15名程度。北条氏一門のほかに大江氏ら文筆家出身の有力者,三浦氏ら有力御家人で構成された。室町幕府もこれを設けたが,応仁の(1467〜77)以後有名無実となった。
評定所
ひょうじょうしょ @@@LINK=評定所 評定所

評定所
ひょうじょうしょ

江戸幕府の最高裁決機関
老中と寺社・町・勘定の三奉行を中心に,大目付・目付も参加し,各奉行の権限をこえた事項や大名・旗本からの訴訟など重要政務を裁断した。江戸城和田倉門外にあり,享保の改革以後目安箱がこの門前に置かれた。
病牀六尺
びょうしょうろくしゃく @@@LINK=病牀六尺 病牀六尺

病牀六尺
びょうしょうろくしゃく

明治後期,正岡子規の随筆
1902年刊。子規が結核闘病の中で没するまでの5か月間に執筆された日記的随筆。極度の肉体の苦痛にもかかわらず,心の余裕を得て達観境地にあったことを示す文章である。
平等院
びょうどういん @@@LINK=平等院 平等院

平等院
びょうどういん

京都府宇治市にある寺院
関白藤原頼通 (よりみち) が,末法初年にあたる1052年,宇治川のほとりにあった自分の別荘を寺にしたもの。源平合戦以来しばしば戦火にあい,境内には鳳凰堂・観音堂を残すのみである。
平等院鳳凰堂
びょうどういんほうおうどう @@@LINK=平等院鳳凰堂 平等院鳳凰堂

平等院鳳凰堂
びょうどういんほうおうどう

京都府宇治市にある平等院阿弥陀堂
藤原頼通 (よりみち) が末法初年にあたり造営,1053年完成。中堂左右翼廊・尾廊があり,鳳凰を広げた形に似ているので,鳳凰堂といわれる。屋上にも鳳凰の飾りがある。池畔に建ち,本尊定朝作の寄木造の『阿弥陀如来像』で,壁画や壁間の『飛天菩薩像』など極楽浄土を思わせ,浄土教芸術の粋を示している。
日傭取
ひようとり @@@LINK=日傭取 日傭取

日傭取
ひようとり

江戸時代の日雇労働者
日用稼 (ひようかせぎ) ともいい,「日用取」とも書く。仕事は鳶口車力・米つき・かるこ(問屋などの荷を運ぶ)など力仕事が多かった。江戸では町々より日傭取を管理する日用座にその人別帳を差し出し,そこから日用札をうけ取って登録された者のみ働くことができた。
瓢鮎図
ひょうねんず @@@LINK=瓢鮎図 瓢鮎図

瓢鮎図
ひょうねんず

室町初期,画僧如拙 (じよせつ) の水墨画
京都妙心寺退蔵院所蔵。1410年ごろ足利義持の求めで描いたもの。ひょうたんで鮎魚 (なまず) をつかまえるという禅宗の公案の一つを図示した禅機画で,水墨山水画の最初名作
兵範記
へいはんき @@@LINK=兵範記 兵範記
ひょうはんき @@@LINK=兵範記 兵範記

兵範記
へいはんき

平安末期,兵部卿平信範 (のぶのり) の日記
「ひょうはんき」とも読み,『人車記』ともいう。1132〜71年の記事があり,保元の乱・高倉天皇即位など,当時の政治・社会情勢を知るうえで重要な史料。

兵範記
ひょうはんき

へいはんき
兵部省
ひょうぶしょう @@@LINK=兵部省 兵部省

兵部省
ひょうぶしょう

①律令官制の八省の一つ
②明治初年,軍事関係を担当した中央官庁
太政官の右弁官に属し,兵馬・造兵・鼓吹 (くすい) ・主船・主鷹 (しゆよう) の5司を管轄し,武官の考課選叙などの人事管理と,衛士・防人 (さきもり) などの軍事一般をつかさどった。
1869年設置されたが,'72年に陸軍省と海軍省に改められた。
兵粮米
ひょうろうまい @@@LINK=兵粮米 兵粮米

兵粮米
ひょうろうまい

中世において,軍隊動員に際し,兵粮として一般からとりたてる米
1180年源氏挙兵に際し,平清盛が諸国に課したのが初例。'85年源頼朝は地頭に段別5升の兵粮米徴収権を与える勅許を得ている。南北朝時代に室町幕府が武士に与えた兵粮料所や,南朝方が徴収した朝用分なども兵粮米としての性質をもつ。
火除地
ひよけち @@@LINK=火除地 火除地

火除地
ひよけち

江戸中期,火災のとき延焼防止と避難のために設けられた空地
8代将軍徳川吉宗が1717年,護持が焼けたときその焼地を火除地にあて,その後も柳原・佐久間町など市中の人家密集地域に大小の火除地を設置した。一般に焼地を火除地とすることが多かった。
平泉
ひらいずみ @@@LINK=平泉 平泉

平泉
ひらいずみ

岩手県南部,北上川中流域にある町。平安後期,奥州藤原氏の本拠地として栄えた
1094年藤原清衡が居館を構えて以来,藤原3代の栄華の都として繁栄。京の藤原文化が移入され,中尊寺・毛越 (もうつ) 寺・無量光院などが建てられたが,藤原氏滅亡とともに荒廃した。
平出遺跡
ひらいでいせき @@@LINK=平出遺跡 平出遺跡

平出遺跡
ひらいでいせき

長野県塩尻市宗賀平出にある縄文時代中期から平安初期にかけての集落遺跡
縄文中期の竪穴17,古墳後期から平安初期にかけての竪穴49がある。地方の庶民が平安初期まで竪穴住居に住んでいたことがわかる。
平賀源内
ひらがげんない @@@LINK=平賀源内 平賀源内

平賀源内
ひらがげんない

1728〜79
江戸中期の本草学者・科学者・戯作者
名は国倫 (くにとも) 。福内鬼外 (ふくちきがい) ・風来山人などと号した。讃岐(香川県)の人。医学・本草学を修め,江戸でエレキテル(摩擦起電機)・寒暖計・火浣布 (かかんふ) の発明,また洋(蘭)画にもすぐれ多才を示した。幕府への仕官がかなわず,晩年は世をすねて戯作にふけった。誤って人を殺し,獄中で絶食死した。著書に本草学の『物類品隲 (ぶつるいひんしつ) 』『神農本草経図』,滑稽本『風流志道軒伝』『放屁論』,浄瑠璃『神霊矢口渡』など。

平賀朝雅
ひらがともまさ @@@LINK=平賀朝雅 平賀朝雅

平賀朝雅
ひらがともまさ

?〜1205
鎌倉初期の武将
執権北条時政の後妻牧氏の女婿。1203年将軍源頼家とはかって北条氏を滅ぼそうとした比企能員 (ひきよしかず) を追討し,京都守護,翌 '04年伊賀・伊勢の守護となる。'05年時政は牧氏とはかって将軍源実朝を殺し,朝雅を将軍に立てようとしたが失敗,時政は執権を退いて出家した。朝雅は北条義時の命をうけた在京御家人に射殺された。

平仮名
ひらがな @@@LINK=平仮名 平仮名

平仮名
ひらがな

仮名
平賀譲
ひらがゆずる @@@LINK=平賀譲 平賀譲

平賀譲
ひらがゆずる

1878〜1943
大正・昭和期の造船学者・軍人
海軍造船中将。広島県の生まれ。東大卒業後海軍に入る。軍縮会議の時期に高速戦艦・8インチ砲装備巡洋艦などの新鋭艦を設計。退役後,東大教授から総長となり「平賀粛学」を行い,河合栄治郎・土方成美両教授を休職処分とした。

平櫛田中
ひらぐしでんちゅう @@@LINK=平櫛田中 平櫛田中

平櫛田中
ひらぐしでんちゅう

1872〜1979
大正・昭和期の彫刻家
本名倬太郎 (たくたろう) 。岡山県の生まれ。東京美術学校で高村光雲に師事。日本美術院同人として活躍。木彫を中心とした伝統彫刻の代表作に『天心先生』『鏡獅子』などがある。日本美術学校教授,日本芸術院会員を歴任。1962年文化勲章受章。

平城
ひらじろ @@@LINK=平城 平城

平城
ひらじろ

安土桃山〜江戸初期,大名の領国支配のため,平野につくられた城
軍事上のみならず,政治・経済上の中心となったため大規模になり,鉄砲の使用に備えて壮大・堅固となり,天守閣も設けられた。
平田篤胤
ひらたあつたね @@@LINK=平田篤胤 平田篤胤

平田篤胤
ひらたあつたね

1776〜1843
江戸後期の国学者。国学四大人 (うし) の一人
秋田藩士の子。本居宣長没後の門人となった。宣長の古道説を継承し,それを体系化し復古神道を唱えた。しだいに国学の学問的態度から離れ,神道的宗教的色彩が強く,実践的であった。幕末の尊王攘夷論者に大きな影響を与え,明治初頭の教学にも重要な役割を果たした。著書に『古史徴』『古道大意』など。

平塚らいてう
ひらつからいちょう @@@LINK=平塚らいてう 平塚らいてう

平塚らいてう
ひらつからいちょう

1886〜1971
明治〜昭和期の女性運動家
本名明 (はる) 。東京の生まれ。日本女子大卒。1911年女性だけの近代文学グループ青鞜 (せいとう) 社を結成し,機関誌『青鞜』を発刊。'20年女性解放を目的とした日本最初の女性団体新婦人協会を設立し,女性参政権を要求するなど女性運動の先駆をなす。第二次世界大戦後は平和運動に尽力した。著書自伝『元始,女性は太陽であった』がある。

平戸
ひらど @@@LINK=平戸 平戸

平戸
ひらど

長崎県北西部,平戸島にある中心港市
古くからの貿易港で,遣唐使船の寄港地でもあったが,1550年ポルトガル船の入港以来,領主松浦 (まつら) 氏の保護により,対外貿易の一大中心地となった。1641年オランダ商館の長崎移転後は衰退し,単なる漁港となる。1955年市制を施行
平戸焼
ひらどやき @@@LINK=平戸焼 平戸焼

平戸焼
ひらどやき

江戸時代,平戸藩で焼かれた陶磁器
慶長の役後の1598年,藩主松浦鎮信 (まつらしげのぶ) が朝鮮から連れ帰った陶工巨関に始まる。初め朝鮮風陶器を焼いたが,17世紀中ごろ天草の白磁土を混用し,南京風の白磁器を生産した。
平沼騏一郎内閣
ひらぬまきいちろうないかく @@@LINK=平沼騏一郎内閣 平沼騏一郎内閣

平沼騏一郎内閣
ひらぬまきいちろうないかく

枢密院議長平沼騏一郎(1867〜1952)を首班とする内閣(1939.1〜39.8)
1939年1月,第1次近衛文麿内閣のあとをうけて組閣。日独軍事同盟の締結に意を注ぎ五相会議(首相・蔵相・外相・陸相・海相による会議)を開いて討議したが,陸・海軍の対立は激しく,独ソ不可侵条約の成立で「欧州情勢は複雑怪奇」として総辞職し,同盟は未成立に終わった。
平野
ひらの @@@LINK=平野 平野

平野
ひらの

大阪府南東部にある一区で,戦国時代以来の商業都市
堺とともに自治都市として栄えた。この地の末吉氏は朱印船貿易に活躍し,ルソン・東京 (トンキン) などと貿易を行い有名。
平野国臣
ひらのくにおみ @@@LINK=平野国臣 平野国臣

平野国臣
ひらのくにおみ

1828〜64
幕末の尊攘派志士
福岡藩士。脱藩して尊王攘夷運動に活躍し,寺田屋事件で失敗して投獄された。翌1863年出獄し,八月十八日の政変後,但馬(兵庫県)で豪農を組織し,沢宣嘉 (さわのぶよし) と生野の変をおこしたが,捕らえられ刑死した。

平野屋
ひらのや @@@LINK=平野屋 平野屋

平野屋
ひらのや

江戸時代大坂の豪商
1670年鴻池 (こうのいけ) 屋・天王寺屋などとともに十人両替に任命され,御用両替となった。代々五兵衛を名のり,大坂の経済界に活躍した。
平福百穂
ひらふくひゃくすい @@@LINK=平福百穂 平福百穂

平福百穂
ひらふくひゃくすい

1877〜1933
明治〜昭和期の日本画家
本名貞蔵。秋田県の生まれ。東京美術学校卒。1900年理想派に対抗する自然派の无声 (むせい) 会結成に参加。近代写実派に属し,またアララギ派の歌人でもあり,『平民新聞』や『国民新聞』に挿絵や時評をのせた。'32年東京美術学校教授となる。代表作に『予譲』『荒磯』など。

平山城
ひらやまじろ @@@LINK=平山城 平山城

平山城
ひらやまじろ

安土桃山時代,平野のなかの起伏を利用して築かれた城
中世の自然の険を利用した山城から江戸時代の交通の便利な平野につくられた平城への移行期に現れた城で,安土桃山時代に多く築かれた。
肥料
ひりょう @@@LINK=肥料 肥料

肥料
ひりょう

作物の生長を促すもの
こやしともいう。古代から刈草を田に踏みこむ刈敷 (かりしき) が主肥。それに平安末期より木草灰・厩肥 (きゆうひ) ・堆肥が加わり,人糞は補助的に使用された。江戸時代,都市・商品作物の発展は多量の施肥と肥料購入を可能にし,油粕干鰯 (ほしか) などの金肥(購入肥料)が使用された。明治中期以後大豆粕,末期からは化学肥料が用いられるようになった。
ビレラ
Gaspar Vilela @@@LINK=ビレラ ビレラ

ビレラ
Gaspar Vilela

1525〜72
戦国時代,ポルトガルのイエズス会宣教師
1556年に来日し,'59年イルマンのロレンソらを伴い九州から上京。'60年13代将軍足利義輝から許可を得て,京都・奈良・堺で布教活動を行い,フロイス・アルメイダらがこれを援助した。'71年ゴアに帰り,翌年同地で没した。

広沢真臣
ひろさわさねおみ @@@LINK=広沢真臣 広沢真臣

広沢真臣
ひろさわさねおみ

1833〜71
幕末・維新期の政治家
長州藩士。藩の安政改革に活動し,尊攘討幕運動に尽力。明治新政府では,参議・民部大輔 (たゆう) などを歴任し,木戸孝允とともに長州を代表して版籍奉還を推進したが,1871年暗殺された。

広瀬淡窓
ひろせたんそう @@@LINK=広瀬淡窓 広瀬淡窓

広瀬淡窓
ひろせたんそう

1782〜1856
江戸後・末期の古学者・教育家
豊後(大分県)日田の人。蘐園 (けんえん) 学派の亀井南冥に学んだ。1807年私塾を開いたが,塾生激増のため '13年咸宜 (かんぎ) 園を開いた。門弟は4000人といわれ,厳格な指導法により教育に専念した。「敬天修徳」を説き,著書に『淡窓詩話』『自新録』などがある。

広田弘毅内閣
ひろたこうきないかく @@@LINK=広田弘毅内閣 広田弘毅内閣

広田弘毅内閣
ひろたこうきないかく

広田弘毅(1878〜1948)を首班とする挙国一致内閣(1936〜37)
二・二六事件後の1936年3月,近衛文麿の組閣辞退により,前外相の広田が組閣。軍部の圧力に屈し「庶政一新・広義国防」をスローガンに軍部大臣現役武官制を復活し,五相会議(首相・蔵相・外相・陸相・海相による会議)を開き従来の対ソ戦略の上に対英米の南進路線を強化する国策を定め,軍備大拡張を推進。外交では,日独防共協定締結,華北分離工作を進めるなど準戦時体制を確立。軍部と政党の対立から崩壊した。
広津和郎
ひろつかずお @@@LINK=広津和郎 広津和郎

広津和郎
ひろつかずお

1891〜1968
大正・昭和期の小説家
柳浪の子。東京の生まれ。早大英文科卒。批判的リアリズムによって知識人の生き方を追求する小説と批評を書き,戦時下では散文精神を説いて,抵抗姿勢を示した。戦後は松川裁判批判で活躍。代表作に『神経病時代』『松川裁判』など。

広津柳浪
ひろつりゅうろう @@@LINK=広津柳浪 広津柳浪

広津柳浪
ひろつりゅうろう

1861〜1928
明治時代の小説家
本名直人 (なおと) 。肥前(長崎県)の生まれ。東大中退。1889年硯友社同人となり,日清戦争を契機とする文壇の新気運の中で深刻小説・悲惨小説を書いて注目された。代表作に『黒蜥蜴 (とかげ) 』『変目伝』『今戸心中』など。

琵琶湖疏水
びわこそすい @@@LINK=琵琶湖疏水 琵琶湖疏水

琵琶湖疏水
びわこそすい

明治中期に完成された,琵琶湖と京都を結ぶ運河
1890年,水運・灌漑・水力発電の目的で,京都府が田辺朔郎 (さくろう) に測量・監督を依嘱して造った。大津から賀茂川までの1105m。日本人による設計・施工は土木工学の発達上画期的意義があり,京都開発に大きく貢献した。
檜皮葺
ひわだぶき @@@LINK=檜皮葺 檜皮葺

檜皮葺
ひわだぶき

ヒノキの皮で,屋根をふいたもの
寝殿造神社寺院建物に多く用いられた。
琵琶法師
びわほうし @@@LINK=琵琶法師 琵琶法師

琵琶法師
びわほうし

中世,琵琶を弾き,語り物を語ることを業とした盲目の僧形の芸人
平安時代から現れ,中世,『保元物語』『平治物語』『平家物語』などを弾き語った。叙事文学(軍記物)の創作形成に貢献した。
貧窮問答歌
ひんきゅうもんどうか @@@LINK=貧窮問答歌 貧窮問答歌

貧窮問答歌
ひんきゅうもんどうか

奈良時代,『万葉集』巻5にある山上憶良 (やまのうえのおくら) の歌
筑前守として在任していた731年ころの作で,長歌・短歌おのおの一首ずつからなる。当時の律令体制下の公民の貧しさをリアルに表現した異色の和歌
閔妃
びんひ @@@LINK=閔妃 閔妃

閔妃
びんひ

1851〜95
李氏朝鮮末期,李太王(高宗)の王妃
1866年王妃となり,'73年大院君(李太王の父)を引退させて閔氏政権樹立。'82年壬午事変ののち,清と接近し,'84年甲申事変後は閔氏=事大党全盛期となる。日清戦争後,勢力を失墜し,反日親露政策をとり,'95年日本公使らの扇動による日本駐留軍の手で,漢城(現ソウル)景福宮で殺害された(乙未 (いつび) の政変)。

貧乏物語
びんぼうものがたり @@@LINK=貧乏物語 貧乏物語

貧乏物語
びんぼうものがたり

大正時代,河上肇の経済評論
1917年刊。『大阪朝日新聞』に連載。貧乏人の現状,原因・救済などを論じたもので,まだマルクス主義の立場をとっておらず,イギリス経済学のマルサス主義により,貧乏の根絶は奢侈の廃止によって達成できると主張している。のちマルクス主義の立場から『第二貧乏物語』が書かれた。

ふ @@@LINK=符 符



令制に定められた,上位の官庁が下位の官庁に出す公文書
太政官符が有名で,単に官符ともいわれた。中世以後は形式化した。明治維新の王政復古以降復活し,太政官布告と呼ばれるようになった。

ぶ @@@LINK=分 分



江戸時代の金貨の単位
1両の4分の1。

ぶ @@@LINK=武 武



倭王武
ファシズム
fascism @@@LINK=ファシズム ファシズム

ファシズム
fascism

20世紀の独占資本主義の段階に現れた特殊な全体主義的思想・運動・体制
ムッソリーニが1921年ファシスタ党を組織し発展させて以来,同様な傾向のものをさし,第二次世界大戦におけるドイツ・イタリア・日本がファシズムの典型とされた。日本ではドイツ・イタリアのような下からの大衆運動という方式がとれず,軍部・官僚などの国家機構によって推進された点から,「上からのファシズム」とされている。本来,権力行使機関である既存の国家組織がそのまま転用されて,新たな政治使命を付与されたもので,その国家機構を支えているものが天皇制であり,政治の主要部を占めたのが軍部であった。軍部による対外侵略が国家改造に先行し,いわゆるファシズム体制は'40年の大政翼賛会の発足で成立したと考えられる。
ファビアン
Fabian @@@LINK=ファビアン ファビアン

ファビアン
Fabian

1565〜1621
安土桃山〜江戸時代初期の日本人のイエズス会イルマン
本名は不明。加賀(石川県)出身。もと禅僧。1583年ころキリシタンとなり,'92年キリシタン版『平家物語』を編纂。1605年護教書『妙貞問答』を著し,翌年林羅山と宗論を行った。のち棄教し,'20年『破提宇子 (はでうす) 』を著し,キリスト教を批判した。
分一銭
ぶいちせん @@@LINK=分一銭 分一銭

分一銭
ぶいちせん

室町幕府収入の一つ
債権債務額の5分の1ないしは10分の1の手数料幕府に納入すれば,債権者徳政適用を免かれ,債務者は債務が破棄される。この手数料を分一銭という。
分一徳政
ぶいちとくせい @@@LINK=分一徳政 分一徳政

分一徳政
ぶいちとくせい

室町時代の徳政
債権者・債務者のいずれか分一銭を幕府納入した権利を認める徳政令
フィルモア
Millard Fillmore @@@LINK=フィルモア フィルモア

フィルモア
Millard Fillmore

1800〜74
アメリカの第13代大統領(在職1850〜53)
ペリーを日本に派遣し,開国を求める国書を江戸幕府に提出した。
風雅和歌集
ふうがわかしゅう @@@LINK=風雅和歌集 風雅和歌集

風雅和歌集
ふうがわかしゅう

南北朝時代,第17番目の勅撰和歌集
1346年成立。20巻。歌数約2200首。花園院(北朝)の監修,光厳院の撰。二条家流の形式的な歌風を排し,京極家流の写実性と感覚性を重視し,内観的傾向をもつ。『玉葉和歌集』とともに中世におけるユニークな勅撰集。
風姿花伝
ふうしかでん @@@LINK=風姿花伝 風姿花伝

風姿花伝
ふうしかでん

室町中期,世阿弥元清の能楽書
『花伝書』ともいう。1400〜02年ころ完成。年来稽古条々・物学 (ものまね) 条々・問答条々・神儀・奥儀・花修・別紙口伝の7編からなり,能における「花」「幽玄」について述べ,能作論・演出法などを記した。亡父観阿弥の意見に自己の思索体験を加えたもので,能楽研究の根本資料。日本の代表的芸術論。
富寿神宝
ふうじゅしんぽう @@@LINK=富寿神宝 富寿神宝

富寿神宝
ふうじゅしんぽう

皇朝十二銭の一つ。
風信帖
ふうしんじょう @@@LINK=風信帖 風信帖

風信帖
ふうしんじょう

平安初期,空海の書状集で,唐風書道の代表的作品
812年ころ成立。最澄に送った返書3通を集めたもので,冒頭の「風信雲書……」から名づけられた。濶達の中に枯淡筆致が味わわれ,王羲之 (おうぎし) ・顔真卿 (がんしんけい) の影響が認められる。教王護国寺(東寺)。国宝。
風俗画
ふうぞくが @@@LINK=風俗画 風俗画

風俗画
ふうぞくが

衣食住などの日常生活を主題とした絵画
平安末期扇面古写経の下絵にすでにみられたが,安土桃山時代武家町衆の趣味をうけて装飾画の新しい分野として盛んになった。江戸時代の浮世絵にも風俗画が多い。
プゥチャーチン
Evfimii Vasilievich Putyatin @@@LINK=プゥチャーチン プゥチャーチン

プゥチャーチン
Evfimii Vasilievich Putyatin

1803〜83
江戸末期に来日したロシアの海軍軍人・政治家
1853・'54年条約締結のため長崎に来航。'55年下田で日露和親条約を締結した。'57・'58年にも来日して日露修好通商条約を締結。帰国後,文部大臣となった。最終締結の日露交渉に際しては,日本の国情に理解を示し,誠実な態度で臨んだ。
フェートン号事件
フェートンごうじけん @@@LINK=フェートン号事件 フェートン号事件

フェートン号事件
フェートンごうじけん

1808(文化5)年,イギリス軍艦の長崎侵入事件
イギリス軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に侵入し,オランダ商館員2名を捕らえて人質にし,薪水・食糧を強要して退去した。事件後,長崎奉行松平康英 (やすひで) は切腹。幕府は海防を強化し,1825年異国船打払令を発した。
フェノロサ
Ernest Francisco Fenollosa @@@LINK=フェノロサ フェノロサ

フェノロサ
Ernest Francisco Fenollosa

1853〜1908
アメリカの思想家・東洋美術史家・日本美術研究家。御雇外国人の一人
1878(明治11)年来日し,東京大学で哲学を講義した。その間日本美術に関心をもち,流行文人画洋画を排し正統派狩野派土佐派)を推して日本画復興のきっかけをつくった。'87年東京美術学校設立に尽力し,岡倉天心らと日本美術運動の中心となった。'90年帰国後,ボストン美術館東洋部長となり,日本美術を欧米に紹介した。

フォンタネージ
Antonio Fontanesi @@@LINK=フォンタネージ フォンタネージ

フォンタネージ
Antonio Fontanesi

1818〜82
イタリアの画家。御雇外国人の一人
1876(明治9)年政府の招きにより来日し,工部大学校付属美術学校の教授として正規の洋画を教授。多くの学生を指導し明治前期の洋画界の発展に貢献した。門下に浅井忠・小山正太郎らがいる。'78年病気のため帰国。
深川セメント製造所
ふかがわセメントせいぞうしょ @@@LINK=深川セメント製造所 深川セメント製造所

深川セメント製造所
ふかがわセメントせいぞうしょ

明治初期,東京深川に設けられた官営模範工場
化学工業育成のため,1872年内務省土木寮が設立。9万3000余円で工場を整備,のち工部省に移管され'77年深川工作分局と改称した。'84年,25年賦6万3000円で浅野総一郎に払い下げられ,浅野セメント会社となった。
深川萩
ふかがわはぎ @@@LINK=深川萩 深川萩

深川萩
ふかがわはぎ

萩焼一派
舞楽
ぶがく @@@LINK=舞楽 舞楽

舞楽
ぶがく

平安初期に日本化した雅楽を伴奏として演じる舞踊
神楽の人長舞・久米舞・五節舞などわが国古来のものと,唐舞・高麗舞など外国から伝来のものとがある。寺社や宮廷で行われ,現在宮内庁楽部・春日神社などで保存されている。
富嶽三十六景
ふがくさんじゅうろっけい @@@LINK=富嶽三十六景 富嶽三十六景

富嶽三十六景
ふがくさんじゅうろっけい

江戸後期,富士山を描いた葛飾北斎浮世絵版画
洋画的手法をも吸収した北斎が,奇抜な構図誇張ある力強い筆法で富士山をいろいろの季節や場所から描き分けた傑作。はじめ36図であったが,のち裏富士は10図を加えて46枚の画集となった。特に夏富士を描いた『凱風快晴』(赤富士)と,ダイナミックな構図に遠近法をとり入れた『神奈川沖浪裏』は有名
不課口
ふかこう @@@LINK=不課口 不課口

不課口
ふかこう

律令制において,課役や兵役負担を負わない者。➡ 課口・不課口
武鑑
ぶかん @@@LINK=武鑑 武鑑

武鑑
ぶかん

江戸時代,大名・旗本の名簿
大名の本国・居城・石高・家系・家紋や旗本の知行所・職務などが中心で,1647年刊の『正保武鑑』から形式が整い,年号を付して逐次改版して刊行された。
不換紙幣
ふかんしへい @@@LINK=不換紙幣 不換紙幣

不換紙幣
ふかんしへい

正貨と兌換 (だかん) する保証がされていない紙幣
明治初年の太政官札国立銀行券も兌換券として発行されたが,信用不足や制度改正で不換紙幣となりインフレを激化させた。1882年以来日本銀行だけが兌換銀行券の発行権を与えられ,不換紙幣は徐々に整理された。現在の紙幣は,1942年施行の日本銀行法により管理通貨制度が採用され不換紙幣となっている。
溥儀
ふぎ @@@LINK=溥儀 溥儀

溥儀
ふぎ

1906〜67
中国,清朝最後の皇帝(在位1908〜12),満州国皇帝(在位1934〜45)
姓は愛新覚羅。3歳で即位し宣統帝となったが,辛亥革命で退位。のち1924年馮玉祥 (ふう(ひよう)ぎよくしよう) により,北京紫金城を追われて天津の日本租界に住む。'32年満州国執政として日本軍部にかつぎ出され,'34年皇帝となる。敗戦後は戦犯としてソ連に抑留された。'59年釈放され北京に戻る。
富貴寺
ふきじ @@@LINK=富貴寺 富貴寺

富貴寺
ふきじ

大分県豊後高田市にある天台宗の寺
718年仁聞 (にんもん) 法師の建立と伝える。阿弥陀堂(大堂)は平安後期の作。堂内には仏・菩薩などを極彩色で描いた浄土来迎図の壁画がある。本尊は藤原時代の阿弥陀如来像。国東 (くにさき) 半島にはほかにもこの時代の遺構が多い。
奉行
ぶぎょう @@@LINK=奉行 奉行

奉行
ぶぎょう

鎌倉〜江戸時代の武家の職名。元来は上司の命令を奉じて事を執行すること,転じてその担当者をいう
平安時代宮廷儀式などに際し臨時に定められた役。
②鎌倉幕府が臨時または常置して政務を分掌させた職名。鎮西奉行など。
③安土桃山時代,豊臣政権の政務担当者(五奉行)。
④江戸幕府の職制。三奉行(寺社・勘定・町)・遠国奉行などがある。



武教小学
ぶきょうしょうがく @@@LINK=武教小学 武教小学

武教小学
ぶきょうしょうがく

江戸前期,山鹿素行の著書
1665年刊。武士道の入門書。
不空羂索観音像
ふくうけんじゃくかんのんぞう @@@LINK=不空羂索観音像 不空羂索観音像

不空羂索観音像
ふくうけんじゃくかんのんぞう

六観音菩薩像の一種
「羂」は,「」はで,ともに漁猟道具。不空羂索観音は大悲心でもれなく衆生を救うという。東大寺法華(三月)堂本尊は3目8臂像で,天平時代の代表的彫刻。広隆寺講堂には奈良時代の木造の不空羂索観音像がある。
福岡孝弟
ふくおかたかちか @@@LINK=福岡孝弟 福岡孝弟

福岡孝弟
ふくおかたかちか

1835〜1919
明治時代の政治家
土佐藩出身。後藤象二郎らと徳川慶喜 (よしのぶ) に大政奉還を建議。明治新政府の参与となり五箇条の誓文の起草に参画し,公議政体論立場から加筆修正した。また政体書の起草にも参加。1875年元老院議官となり,のち参議・枢密顧問官などを歴任した。

福沢諭吉
ふくざわゆきち @@@LINK=福沢諭吉 福沢諭吉

福沢諭吉
ふくざわゆきち

1834〜1901
明治時代の啓蒙思想家
豊前中津藩士出身。緒方洪庵に蘭学を学び,のち英学を修める。1860〜67年に,3度にわたり欧米を視察し,'68年家塾を慶応義塾と名づけた。『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを著し自由主義・功利主義を主張し明六社にも参画。官民調和を唱え,'82年『時事新報』を創刊し,しだいに国権伸長論に傾き日清戦争では主戦論を展開。自叙伝に『福翁自伝』。

福島事件
ふくしまじけん @@@LINK=福島事件 福島事件

福島事件
ふくしまじけん

1882(明治15)年,福島県でおこった自由民権運動への弾圧事件
自由党の勢力が盛んな福島県の県令三島通庸 (みちつね) は,県会の反対を無視して強制労働を含む大道路工事をおこし,県会議長河野広中ら自由党員や農民と衝突した。政府および三島は政府転覆を企てたとの理由で,河野以下約2000人を逮捕,民権勢力に打撃を与えた。
福島正則
ふくしままさのり @@@LINK=福島正則 福島正則

福島正則
ふくしままさのり

1561〜1624
安土桃山〜江戸時代初期の武将・外様大名
尾張(愛知県)の人。幼時から豊臣秀吉に仕え,1583年賤ケ岳の戦いでは七本槍の一人となり,尾張清洲24万石を領した。関ケ原の戦いでは東軍に属して活躍し安芸 (あき) ・備後(いずれも広島県)49万石を領有。しかし豊臣系の大名のため幕府に警戒され,1619年居城広島城の無届修築を理由に信濃(長野県)川中島4万5000石に封され,不遇のうちに死んだ。

福神信仰
ふくじんしんこう @@@LINK=福神信仰 福神信仰

福神信仰
ふくじんしんこう

室町時代以来の七福神に対する民間信仰
商工業の発展に伴い経済的利益を求めるようになると,をもたらす神として信仰が盛んとなる。七福神の中でも,特に恵美須・大黒の信仰が中心。大黒はインドの神が大国主 (おおくにぬし) 命と習合したもの。恵美須は,市場・商業の神として商工業者が敬した。
副葬品
ふくそうひん @@@LINK=副葬品 副葬品

副葬品
ふくそうひん

死者に添えて埋葬する器物
死者生前使用の装身具・武具や土器・陶器,また死者が死後使用すると信じられた仮器が多い。縄文時代はほとんどないが,弥生時代に入ると鏡や銅剣など,古墳時代には鏡・鉄製武器・馬具・玉類などが副葬された。副葬品の種類や数から,被葬者の性格や権力の大きさを知ることができる。
福田赳夫内閣
ふくだたけおないかく @@@LINK=福田赳夫内閣 福田赳夫内閣

福田赳夫内閣
ふくだたけおないかく

福田赳夫(1905〜95)を首班とする自由民主党内閣(1976.12〜78.12)
外交では日本の国際収支の大幅な黒字に対する貿易摩擦に苦心したが,1978年に日中平和友好条約に調印し,ASEAN(アセアン。東南アジア諸国連合)諸国歴訪など一定の成果をあげた。内政では,石油危機後の構造的不況の克服を課題としたが,景気回復は難航した。
福田徳三
ふくだとくぞう @@@LINK=福田徳三 福田徳三

福田徳三
ふくだとくぞう

1874〜1930
明治・大正時代の経済学者
東京の生まれ。ドイツ留学後はおもに母校東京高商(現一橋大学)の教授として,日本の経済学を開拓。また自由主義者として吉野作造らと黎明会を組織し,雑誌『解放』を編集,民本主義運動を指導した。主著に『日本経済史論』など。

福田英子
ふくだひでこ @@@LINK=福田英子 福田英子

福田英子
ふくだひでこ

景山英子
賜田
しでん @@@LINK=賜田 賜田

賜田
しでん

律令制下,功労ある人物に与えられた田
功田とは別に戦功者・政治上の功労者・高位高官者に与えられたが,功田と区別がつかない場合もある。輸租田であったが,しだいに不輸租田化し,永代私領となることも多く,荘園発達の一因となった。
寺田
じでん @@@LINK=寺田 寺田

寺田
じでん

律令制下,寺院に与えられた田地
不輸租田で,個人の寄進や墾田開発,買得などにより急速にふえ,政府の制限も効果なく,荘園制発達の一因となった。
四天王
してんのう @@@LINK=四天王 四天王

四天王
してんのう

仏教の守護神
持国天・増長天・広目天・多聞天。東大寺戒壇院の四天王像は天平美術名作とされる。
四天王寺
してんのうじ @@@LINK=四天王寺 四天王寺

四天王寺
してんのうじ

大阪市天王寺区元町にある寺
聖徳太子が四天王を本尊として建立。中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式伽藍 (がらん) 配置を持つ。当初遺構は存在しないが,位置はもとのまま。平安末期には法皇貴族参詣が多く,中世以降は太子信仰により庶民に信仰された。
四天王寺式伽藍配置
してんのうじしきがらんはいち @@@LINK=四天王寺式伽藍配置 四天王寺式伽藍配置

四天王寺式伽藍配置
してんのうじしきがらんはいち

伽藍配置の一つ。
私度
しど @@@LINK=私度 私度

私度
しど

政府の許可を得ず僧になること
律令では僧尼になるのに政府の許可を要し,私度を禁止したが,僧になると公民の負担を免れるので,奈良時代になると勝手に僧になる者が現れた。これを私度僧という。
地頭
じとう @@@LINK=地頭 地頭

地頭
じとう

中世,荘園・国衙 (こくが) 領における荘官・下司 (げし) などの権限や得分を継承した一種の管理者
平氏がその家人を地頭に補任したことがあるが,公的なものとして制度化されたのは,鎌倉時代,1185年全国的に地頭設置の勅許を源頼朝が得たことによる。頼朝は地頭職補任の形で御家人の所領を安堵・給与することにより全国的な支配を実現した。地頭には御家人本来の所領を安堵された本補地頭と,恩賞として新たに与えられた新恩地頭がある。承久の乱(1221)後,全国的に設置された新補率法地頭(新補地頭)も新恩地頭の一種。権限は警察権・徴税権・下地管理権が考えられるが,一定しない。13世紀ころより地頭請・下地中分 (したじちゆうぶん) などにより,しだいに荘園を侵略し在地領主化していった。南北朝の動乱期に守護の大名化が進展すると,地頭の多くは有力守護の被官となった。
地頭請
じとううけ @@@LINK=地頭請 地頭請

地頭請
じとううけ

鎌倉時代,地頭が荘園領主に対し,年貢進納を請け負う制度
鎌倉幕府によって設置された地頭は,その権限を利用して年貢の不法抑留を企てることが多く,領主側との紛争が絶えなかったので,これを避けるため本家・領家側は,荘園の管理を全面的に地頭に委ね,そのかわり一定額の年貢進納を請け負わせる方法をとった。請所 (うけしよ) は荘園に限らず国衙領 (こくがりよう) でも行われたが,契約による請料も守られない場合が多く,これにより地頭は事実上の支配権を握り,荘園侵略を進め,在地領主化していった。
四等官
しとうかん @@@LINK=四等官 四等官

四等官
しとうかん

律令制における各官庁幹部職員の4階級
省では卿・輔・丞・録,国司では守・介・掾・目のように,用字は官庁で異なる。しかし,読み方は長官 (かみ) (事務統轄)・次官 (すけ) (長官補佐)・判官 (じよう) (一般事務)・主典 (さかん) (書記)とまったく同じである。
地頭職
じとうしき @@@LINK=地頭職 地頭職

地頭職
じとうしき

地頭としての職権とそれに付随する得分の権利をいう。
四道将軍
しどうしょうぐん @@@LINK=四道将軍 四道将軍

四道将軍
しどうしょうぐん

崇神天皇により,国土を平定するために,4地域に派遣された記紀伝承上の4人の皇族将軍
北陸に大彦命 (おおひこのみこと) ,東海に武渟川別命 (たけぬなかわわけのみこと) ,西海吉備津彦命 (きびつひこのみこと) ,丹波に丹波道主命 (たんばのみちぬしのみこと) を派遣。大和政権の国土統一という歴史事実を背景として生まれたこの伝承のために,崇神天皇は御肇国天皇 (はつくにしらすすめらみこと) と呼ばれたらしい。
祠堂銭
しどうせん @@@LINK=祠堂銭 祠堂銭

祠堂銭
しどうせん

鎌倉・室町時代,死者の供養や祠堂(位牌を安置する堂)の修理のため寺に寄進された金銭
特に室町時代に盛ん。おもに禅寺で,これをもとでに金融を行ったが,低利のため徳政令からは除外された。江戸時代には祠堂金(銀)と呼ばれ特定寺院に許され,高利で,寺院の重要な財源となった。
持統天皇
じとうてんのう @@@LINK=持統天皇 持統天皇

持統天皇
じとうてんのう

645〜702
7世紀後半の女帝(在位686〜697)
天智天皇の皇女で,天武天皇の皇后。天武天皇死後,即位しないで執政,皇太子草壁 (くさかべ) 皇子が没するとみずから即位。在位中,飛鳥浄御原 (あすかきよみはら) 令の施行(689),庚寅年籍の作成(690),藤原京遷都(694)など,律令国家体制の整備につとめた。

私度僧
しどそう @@@LINK=私度僧 私度僧

私度僧
しどそう

律令制下,政府許可を得ず得度した僧尼
シドッチ
Giovanni Battista Sidotti @@@LINK=シドッチ シドッチ

シドッチ
Giovanni Battista Sidotti

1668〜1714
江戸中期に来日したイタリアのイエズス会宣教師
1708年大隅(鹿児島県)屋久島に潜入,捕らえられて江戸小石川の切支丹屋敷に監禁され,5年後に牢死。この間新井白石に審問され,キリスト教や西洋事情を説明した。白石はこの知識から『采覧異言 (さいらんいげん) 』『西洋紀聞』を著述した。

四度使
よどのつかい @@@LINK=四度使 四度使
しどのつかい @@@LINK=四度使 四度使

四度使
よどのつかい

律令制において,国司が地方行政の状況を中央政府に報告するため上京させる4使の使者
「しどのつかい」とも読む。大帳使・正税使 (しようぜいし) ・貢調使・朝集使の4使の総称。大帳使は計帳,正税使は正税帳,貢調使は調帳,朝集使は国政一般報告書を太政官に提出した。

四度使
しどのつかい

よどのつかい
寺内町
じないちょう @@@LINK=寺内町 寺内町

寺内町
じないちょう

中世末期,おもに一向宗(浄土真宗)寺院の境内に発達した集落
「じないまち」とも読む。他宗や領主攻撃から守るために,周囲に・土塁を設け,域内に僧侶・商工業者が区域を定めて居住し,ある程度の自治を有した。越前吉崎・石山本願寺・大和今井・和泉貝塚などが著名。
品川硝子製造所
しながわガラスせいぞうしょ @@@LINK=品川硝子製造所 品川硝子製造所

品川硝子製造所
しながわガラスせいぞうしょ

明治初期,東京品川に設立された官営模範工場
1873年丹羽正庸が品川に日本で初めての洋式ガラス工場興業社を建てたが,経営に失敗。'76年政府が買収し,工部省硝子製造所として発足。'85年西村勝三らに払い下げられた。
品川弥二郎
しながわやじろう @@@LINK=品川弥二郎 品川弥二郎

品川弥二郎
しながわやじろう

1843〜1900
明治時代の政治家
長州藩下級武士出身。子爵。吉田松陰に師事し,尊王攘夷運動に参加。1870年イギリス・ドイツに留学し,帰国後内務・農商務の要職を歴任。'83年三菱の海運独占を破るため共同運輸会社を設立。'91年第1次松方正義内閣の内相となり,翌年第2回総選挙には大干渉を行い,民党に圧力をかけた。

信濃前司行長
しなののぜんじゆきなが @@@LINK=信濃前司行長 信濃前司行長

信濃前司行長
しなののぜんじゆきなが

生没年不詳
鎌倉時代の廷臣
『平家物語』の作者に擬せられている。
品部
しなべ @@@LINK=品部 品部
ともべ @@@LINK=品部 品部

品部
しなべ

律令制下の最下層の公民
氏姓社会の品部 (ともべ) の系譜をひき,大化の改新(645)後,良民とされた特殊技術者。漆部司の漆部,図書寮 (ずしよりよう) の紙戸などのように朝廷の諸官司に属し物品を生産した。

品部
ともべ

大化前代、大和政権や大王家が所有した部
伴造 (とものみやつこ) の統率下のもとに,特定の職業・技術をもって貢納し,また賦役を負担した。
神人
じにん @@@LINK=神人 神人
じんにん @@@LINK=神人 神人

神人
じにん

平安後期から現れた,神社奉仕の義務をもつ農民・商工業者,下級神職
「じんにん」とも読む。奉仕の代償として課役が免ぜられた。僧兵とともに朝廷に強訴 (ごうそ) することもあった。大山崎離宮八幡宮祇園社の神人は有名。

神人
じんにん

じにん
地主制
じぬしせい @@@LINK=地主制 地主制

地主制
じぬしせい

農業経営形態の一種
幕藩体制の解体過程を通じて形成され,地租改正によって日本農業の支配的なしくみとなり,第二次世界大戦後農地改革によって解体した。手作地主と寄生地主に分けられる。手作地主は数名の年季奉公人傭し,季節的には日雇労働の補助を要する点で自作農とは異なるが,その経営規模は5〜6町歩を限界として多くは2〜3町歩である。幕末〜明治前期の農民運動指導者である豪農は多く手作地主である。寄生地主制は,松方財政のデフレを経て発展し,東北の千町歩地主を頂点に全国に広まった。
私奴婢
しぬひ @@@LINK=私奴婢 私奴婢

私奴婢
しぬひ

律令制における五色の賤 (ごしきのせん) の一つ
最下層の賤民で,官有公奴婢 (くぬひ) に対して私有の奴婢である。土地や財産と同じように売買・譲渡された。良民の3分の1の口分田を与えられ,農耕や手工業に使役された。納税の義務はなかった。
私年号
しねんごう @@@LINK=私年号 私年号

私年号
しねんごう

公式のもの以外に寺社や私人が用いた年号
大化前後の白鳳・法興など。狭義の私年号としては,平安末期の保寿が最初とされる。中世以降支配権力が動揺した時期に,地方豪族や寺社などが使用した。
自然真営道
じねんしんえいどう @@@LINK=自然真営道 自然真営道

自然真営道
じねんしんえいどう

江戸中期,安藤昌益の著書
「しぜんしんえいどう」とも読む。101巻。うち現存15巻。生産に従事しない支配階級武士)を痛烈に批判し,「耕さずして食うべからず」と述べた。の理想は農業基調とする階級のない万人平等の社会で,商業をも否定した。
士農工商
しのうこうしょう @@@LINK=士農工商 士農工商

士農工商
しのうこうしょう

江戸時代の基本的身分で,武士農民職人商人のこと
四民ともいう。武支配階級として苗字・帯刀などの特権をもち,被支配階級のうち民は年貢納入により武士の生活を支える生産者として上位に,職人はさまざまな手業品の生産のゆえに次位に,人は非生産的で利を求めるので下位とされた。農工商の序列は武士の職業観を示す言いならわしで法的な差別はない。むしろ封建社会の基本的な支配関係は武士・農民間にあるので,両者には政治的統制が強く及ぶのに対し,工商は派生的で制約が少なく一括して町人と呼ばれた。豊臣秀吉が推進した兵農分離政策が江戸幕府で完成され,職業世襲による身分制が固定化された。しかし商品経済の進展の中で大名をしのぐ経済力をもつ商人が現れ,また江戸後期になると,武士が困窮して町人と養子縁組する者が現れるなど,動揺がみられた。なお四民の下には賤民として穢多 (えた) ・非人と呼ばれた人びとが置かれた。
死の灰
しのはい @@@LINK=死の灰 死の灰

死の灰
しのはい

原水爆実験などの核爆発によって生じる放射性の灰。
市舶司
しはくし @@@LINK=市舶司 市舶司

市舶司
しはくし

中国の唐・宋・元・明代にわたり設置された海上貿易事務を行う役所
宋代に制度が整備され,広州(広東)・泉州・寧波 (ニンポー) (明州,慶元とも呼ばれた)などに置かれた。寧波は特に日本と関係が深い。清代にはこれに代わって海関が設けられた。
司馬江漢
しばこうかん @@@LINK=司馬江漢 司馬江漢

司馬江漢
しばこうかん

1747〜1818
江戸後期の洋画家
本名安藤勝三郎。江戸の人。初め美人画を描いたが,蘭書によりわが国最初の銅版画を作製し,油絵による風景画も試みた。西洋事情にも関心をもち,鎖国や封建的身分制度にも批判的であった。代表作に『不忍池図』など。

斯波氏
しばし @@@LINK=斯波氏 斯波氏

斯波氏
しばし

鎌倉・室町時代の豪族で,室町幕府の三管領家の一つ
足利氏の支流。祖足利家氏が陸奥斯波郡に下って斯波氏を称す。その曽孫高経は足利尊氏に従い越前・若狭の守護となり,その子義将 (よしまさ) が管領となって以後三管領の一つとなって権勢をふるった。のち義廉 (よしかど) ・義敏の家督争いは応仁の乱の一因となった。乱後は分国の越前は朝倉氏,遠江 (とおとうみ) は今川氏,尾張は織田氏らの守護代に奪われ,1561年織田信長に追われて滅んだ。
志波城
しわじょう @@@LINK=志波城 志波城
しばじょう @@@LINK=志波城 志波城

志波城
しわじょう

平安初期,蝦夷 (えみし) 経略の前進根拠地として設けられた城柵
「しばじょう」とも読む。現在の岩手県紫波郡にあたる。803年坂上田村麻呂が築城。前年胆沢城 (いさわじよう) を築き蝦夷支配の拠点を確立し,さらに北進してこの城を築き鎮守府の前進基地とした。立地条件が悪く10年ほどで廃された。

志波城
しばじょう

しわじょう
柴田勝家
しばたかついえ @@@LINK=柴田勝家 柴田勝家

柴田勝家
しばたかついえ

?〜1583
安土桃山時代の武将
尾張(愛知県)の人。斯波氏一族。織田信長に仕え,猛将のが高く,朝倉氏滅亡後,北陸の経営にあたった。本能寺の変(1582)後,豊臣秀吉と勢力争い,滝川一益・織田信孝らと結んだ。'83年賤ケ岳の戦いに敗れ,越前北庄(福井市)の居城で自刃。

柴田鳩翁
しばたきゅうおう @@@LINK=柴田鳩翁 柴田鳩翁

柴田鳩翁
しばたきゅうおう

1783〜1839
江戸後期の石門心学者
京都の人。幼くして両親を失い,一時講釈師をしていたが,石門心学を学んだ。のち失明したが,没するまで京都を中心に13カ国で教化活動につとめ,巧みな話術で講義を行い,その普及に力があった。著書に『鳩翁道話』。

柴田是真
しばたぜしん @@@LINK=柴田是真 柴田是真

柴田是真
しばたぜしん

1807〜91
幕末・明治期の日本画家・漆芸家
江戸の生まれ。絵は四条派をよくし,蒔絵 (まきえ) は明治の第一人者。意匠力にすぐれ,常に独創的製作を主張し,のち帝室技芸員に選ばれた。代表作に『茨木童子図額』『瀑布図屛風』など。

司馬達等
しばたっと @@@LINK=司馬達等 司馬達等

司馬達等
しばたっと

生没年不詳
6世紀に来日した百済 (くだら) 系の渡来人
『扶桑略記』には,522年渡来,仏教公伝以前に大和国高市郡坂田原に草堂を建て,仏像を礼拝したと伝える。蘇我氏と結んだ崇仏派の中心人物として活躍した。
柴野栗山
しばのりつざん @@@LINK=柴野栗山 柴野栗山

柴野栗山
しばのりつざん

1736〜1807
江戸後期の朱子学者
讃岐(香川県)の人。昌平坂学問所に学んだのち,京都で国学を修めた。松平定信が老中になるに及び昌平坂学問所の儒官となり,寛政異学の禁を建議。博識で詩文に通じ,尾藤二洲・古賀精里とともに寛政の三博士の一人に数えられる。

斯波義将
しばよしまさ @@@LINK=斯波義将 斯波義将

斯波義将
しばよしまさ

1350〜1410
室町初期の武将
高経の4男。1379年細川頼之 (よりゆき) を退けて管領となって以来,将軍足利義満・義持の側近として幕政にあたり,幕府の基礎を固めた。応永の乱(1399)にも功あり,越前・越中・能登・信濃などの守護を兼ねた。

支払猶予令
しはらいゆうよれい @@@LINK=支払猶予令 支払猶予令

支払猶予令
しはらいゆうよれい

法律によって,債務者に一定期間債務支払の停止を認める法令
通称「モラトリアム(moratorium)」。恐慌・戦争などに際し,経済の急激な変動混乱を避けるため実施。1923年関東大震災の際,第2次山本権兵衛内閣が発布。ついで,'27年金融恐慌の際,田中義一内閣が発布し銀行は全国一斉に休業した。
師範学校令
しはんがっこうれい @@@LINK=師範学校令 師範学校令

師範学校令
しはんがっこうれい

1886年,文部大臣森有礼が制定した学校令の一つ
教員養成を目的とした師範学校官立高等県立の尋常の2種に分けた。教員として順良信愛・威重の気質を備えることが要請され,寄宿舎制をとり厳格な教育が行われた。
地引網
じびきあみ @@@LINK=地引網 地引網

地引網
じびきあみ

漁業用の引網の一種で,2本の引綱,左右の袖網と一つの袋網からなる
海岸に拠点をおき,魚群の来遊を待って網を張り,浜に引き寄せてとる。戦国時代から発達し江戸時代には各地で行われ,九十九里浜の鰯地引は有名。機動力に乏しいので現在は衰えた。
四府駕輿丁座
しふかよちょうざ @@@LINK=四府駕輿丁座 四府駕輿丁座

四府駕輿丁座
しふかよちょうざ

駕輿丁座
渋川春海
しぶかわはるみ @@@LINK=渋川春海 渋川春海

渋川春海
しぶかわはるみ

1639〜1715
江戸中期の天文学者・暦学者
京都の人。「しゅんかい」とも読み,安井(保井)算哲ともいい,晩年に渋川と改姓。幕府の碁師の家に生まれ,初め家業を継いだが,岡田章意らに天文暦学を学んだ。平安時代以来使用されてきた宣明 (せんみよう) 暦に誤りのあることを発見,中国元代の授時暦をもととして日本人による最初の暦貞享 (じようきよう) 暦を1684(貞享元)年に完成し,幕府に採用された。初代の幕府天文方となった。
渋沢栄一
しぶさわえいいち @@@LINK=渋沢栄一 渋沢栄一

渋沢栄一
しぶさわえいいち

1840〜1931
明治〜昭和期の実業家
武蔵(埼玉県)の豪農出身。幕臣となり幕末に渡欧。新政権成立後は大蔵省に出仕,1873年退官後は第一国立銀行・王子製紙など数多くの近代企業の設立に参画し,渋沢財閥を形成。実業界に指導的役割を果たした。晩年は社会事業にも尽力し,済生会・慈恵会活動に参与,協調会を創設。また東京商科大学(現一橋大学)創設など実業教育にも貢献した。

治部省
じぶしょう @@@LINK=治部省 治部省

治部省
じぶしょう

律令官制の八省の一つ
太政官の左弁官に属し,五位以上の貴族の氏姓・相続・婚姻や,祥瑞・葬礼・陵墓・僧尼・外交などをつかさどり,氏姓に関する訴訟を扱った。長官は卿 (かみ) で,管轄下には雅楽 (うた) 寮・玄蕃寮・諸陵司・喪儀司などがあった。
紙幣整理
しへいせいり @@@LINK=紙幣整理 紙幣整理

紙幣整理
しへいせいり

明治政府による各種紙幣を整理した政策
明治初年に乱発された旧藩札や太政官札民部省札・新政府紙幣などの整理をいう。1881年からの松方財政によって,'82年日本銀行を設立し,'85年から兌換紙幣を発行。'99年不換紙幣の回収消却を完遂した。
シベリア出兵
シベリアしゅっぺい @@@LINK=シベリア出兵 シベリア出兵

シベリア出兵
シベリアしゅっぺい

1918(大正7)年,ロシア革命の干渉を目的として,日本・イギリス・アメリカ・フランスがチェコ軍救出の名目でシベリアに出兵した事件(〜'22)
日本はこの機会にシベリア進出をくわだて,協定を上まわる7万3000の大軍を派遣し,バイカル以東のシベリアを占領。アメリカ・イギリス軍撤退後も,日本はそのまま駐兵し,さらに尼港事件後,その賠償の保障として北樺太 (からふと) も占領した。しかし革命軍の反撃,国内の反対,列国の非難などにより1922年ワシントン会議で撤兵を宣言し,同年10月終了。'25年日ソ国交樹立で北樺太からも撤退した。多数の犠牲者,10億円の戦費を費やした。
司法省
しほうしょう @@@LINK=司法省 司法省

司法省
しほうしょう

1871年設置された司法行政事務をつかさどる中央行政機関
初代司法卿は江藤新平。司法大臣は諸般の司法行政事務のほか,検事局や裁判所の人事・行政監督権など大きな力をもっていた。1947年法務庁の設置により廃止。
四木三草
しぼくさんそう @@@LINK=四木三草 四木三草

四木三草
しぼくさんそう

江戸時代の商品作物で,民間必需のもの
四木とは桑・漆 (うるし) ・茶・楮 (こうぞ) ,三草は麻・藍・紅花 (べにばな) 。各藩で栽培を奨励し,藩営専売のもとに統制されることが多かった。漆は会津,茶は山城,藍は阿波,紅花は出羽・陸奥が有名。
シーボルト
Philipp Franz von Siebold @@@LINK=シーボルト シーボルト

シーボルト
Philipp Franz von Siebold

1796〜1866
江戸後期に来日した,ドイツの医師・博物学者
1823年オランダ商館医として長崎に来日。鳴滝塾を開いて高野長英・小関三英らに医学など西欧諸科学を教授,洋学の発展に貢献した。'28年シーボルト事件をおこし追放されたが,'58年日蘭通商条約締結で追放が解除され,'59年再来日。幕府の外交顧問となった。'62年帰国。主著に『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』など。

シーボルト事件
シーボルトじけん @@@LINK=シーボルト事件 シーボルト事件

シーボルト事件
シーボルトじけん

江戸後期,幕府の洋学者弾圧事件の一つ
1828年ドイツ人医師シーボルトの帰国のさい,所持品中に禁制品の日本地図などが発見され,贈主の幕府天文方・書物奉行高橋景保ほか数十名の関係者が処分され,シーボルトは国外追放,再渡航禁止の処罰をうけた。シーボルトが樺太 (からふと) 東岸の資料を求めていた友人の景保に『世界周航記』などを贈り,景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図を贈っていた。
資本主義
しほんしゅぎ
capitalism
@@@LINK=資本主義 資本主義

資本主義
しほんしゅぎ
capitalism

生産手段をもつ資本家が生産手段をもたない労働者の労働力を買い入れて,市場目当ての商品生産を行い,資本のための剰余価値を生産する近代特有の経済体制
日本では,幕末の開港貿易を契機として商業高利貸資本の蓄積が行われ,明治政府による上からの殖産興業政策に促されて成長し,政商資本・銀行資本を形成し,官営事業の払下げ,紙幣整理を通じて,それが産業資本へ転化して,資本主義が軌道にのった。欧米で18世紀から始まった産業革命が,日本では1870年代から急速に行われ,日清戦争をはさむ1880〜90年代には軽工業を中心とする第1次産業革命が,日露戦争をはさむ1890〜1900年代には重工業を中心とする第2次産業革命が行われた。日露戦争後の1907年以降続いた恐慌の中で三井・三菱・住友・安田などがコンツェルン体制を整えはじめ,第一次世界大戦後の恐慌を通じて独占資本主義の本格的な成立をみた。資本の海外輸出も盛んに行われ,朝鮮・満州に製鉄所が建設され,紡績資本が中国へ積極的に進出した。昭和初年におこった金融恐慌は日本の資本主義を危機に追いこんだが,それは大戦後のインフレによる不健全な経済政策と関連があった。政府は金解禁によって世界市場へ復帰しようとし,産業合理化政策によって企業の利潤の増大をはかったが,折からおこった世界恐慌の影響で社会的な不安が激化した。そこで,政府は '31年重要産業統制法を制定して,国家による経済統制のきっかけをつくり,資本の集中独占化を促進した。こうして芽生えた国家独占資本は満州事変以降急速に成長したが,それは常に軍事的要求と結びつきながら発展し,日中戦争前後には財閥が帝国主義的侵略戦争の先頭に立つに至った。第二次世界大戦後は外資導入,外国資本との技術提携により,重化学工業を中心に急速に復興し,1970年代には経済大国になる一方で,公害などが大きな社会問題となった。
島井宗室
しまいそうしつ @@@LINK=島井宗室 島井宗室

島井宗室
しまいそうしつ

?〜1615
安土桃山〜江戸時代初期の博多の豪商・茶人
対明・朝鮮貿易に従事し巨利を得て,大友氏ほか九州大名の銀主(金主ともいう。大名に金を貸す町人)となり,神屋宗湛などとともに博多町人の代表。豊臣秀吉とも親交があり,朝鮮出兵の兵糧米の調達などをつとめ,博多復興にも尽力した。

島木赤彦
しまぎあかひこ @@@LINK=島木赤彦 島木赤彦

島木赤彦
しまぎあかひこ

1876〜1926
明治・大正時代の歌人
本名は久保田俊彦。長野県の生まれ。伊藤左千夫に師事,写生の歌風に徹しアララギ派の指導者となる。主著に歌集『太虗 (たいきよ) 集』,歌論『歌道小見』など。

島崎藤村
しまざきとうそん @@@LINK=島崎藤村 島崎藤村

島崎藤村
しまざきとうそん

1872〜1943
明治〜昭和期の小説家・詩人
本名は春樹。長野県の生まれ。明治学院卒。1893年『文学界』創刊に参加。初めロマン主義詩人として『若菜集』などを出す。のち小説に転じ1906年『破戒』を発表,自然主義作家と目された。ほかに『春』『家』『新生』『夜明け前』など。

島地黙雷
しまじもくらい @@@LINK=島地黙雷 島地黙雷

島地黙雷
しまじもくらい

1838〜1911
幕末・明治時代の浄土真宗の僧
周防(山口県)専照寺に生まれる。1872年より外遊して海外の宗教情勢を視察。神道の国教化に反対し,信教の自由獲得につとめた。本願寺の改革に参加し,西本願寺幹部として宗門の発展に尽力した。

島田組
しまだぐみ @@@LINK=島田組 島田組

島田組
しまだぐみ

江戸時代〜明治初期にかけての金融業者
京都の富商で,江戸幕府の為替御用達であった。明治維新に際し新政府を援助し,三井・小野組とともに政府の為替方を命じられ,官費出納事務に従事。為替会社の経営にも参加した。1874年,政府の為替方統制強化により閉店。
島田三郎
しまださぶろう @@@LINK=島田三郎 島田三郎

島田三郎
しまださぶろう

1852〜1923
明治・大正時代のジャーナリスト・政治家
旗本の子として江戸に生まれ,のち島田家の養子となる。1874年『横浜毎日新聞』の主筆となり,自由民権論を鼓吹。'82年立憲改進党に参加し,'90年の第1回衆議院選挙以降,14回連続当選。足尾鉱毒事件・シーメンス事件・普選運動で政・財界の不正を攻撃した。

島津氏
しまづし @@@LINK=島津氏 島津氏

島津氏
しまづし

平安末期以来の雄族で,中世南九州の守護大名,のち薩摩藩主
鎌倉時代,源頼朝の御家人として,島津庄地頭,薩摩国守護を世襲。室町時代には薩摩・大隅・日向3国の守護となる。戦国時代,貴久のとき,薩摩・大隅の2国を統一して戦国大名としての地歩を固め,鹿児島居城。その子義久はさらに九州を平定し,大友・竜造寺氏を圧倒した。1587(天正15)年豊臣秀吉に降伏,薩摩・大隅・日向の旧領を安堵された。江戸時代には77万石の外様大名。後期に重豪 (しげひで) ,幕末斉彬 (なりあきら) ・久光らが出,指導勢力となった。
島津重豪
しまづしげひで @@@LINK=島津重豪 島津重豪

島津重豪
しまづしげひで

1745〜1833
江戸後期の薩摩藩主
11歳で藩主となった。藩校造士館に蘭学を導入して積極的開明策を採用。ほかに演武館・医学館・明時館も創立。治世後半に藩財政の窮乏を招いたが,藩政改革に調所広郷 (ずしよひろさと) を登用し殖産興業を推進した。

島津貴久
しまづたかひさ @@@LINK=島津貴久 島津貴久

島津貴久
しまづたかひさ

1514〜71
戦国時代の武将
同族争いをしずめて薩摩・大隅2国の統一を完成,島津氏繁栄の基礎を築く。島津家中興の。1549年にはザビエルにキリスト教布教を許可した。

島津斉彬
しまづなりあきら @@@LINK=島津斉彬 島津斉彬

島津斉彬
しまづなりあきら

1809〜58
江戸末期の薩摩藩主
1851年襲封。藩政改革につとめ,殖産興業・海防強化を推進。反射炉や洋式紡績工場を設置し,火薬・ガラス・電信・ガス灯などを導入して集成館・開物館を設置した。将軍継嗣問題では一橋派に属し,雄藩連合の中核となった。

島津久光
しまづひさみつ @@@LINK=島津久光 島津久光

島津久光
しまづひさみつ

1817〜87
幕末の政治家
薩摩藩主斉彬 (なりあきら) の異母弟。斉彬死後,久光の子忠義を藩主にたて実権を握った。1862年兵を率いて上京し,寺田屋騒動で薩摩藩尊攘派を制圧。勅使大原重徳 (しげとみ) を奉じて江戸に下り幕政改革に参与するなど,'64年まで公武合体派の中心として活動した。新政権発足後,征韓論での分裂を抑えるため一時左大臣となったが,まもなく辞任。

島津義久
しまづよしひさ @@@LINK=島津義久 島津義久

島津義久
しまづよしひさ

1533〜1611
安土桃山〜江戸時代初期の武将
島津貴久の長男。南九州の薩摩・大隅・日向で勢力を固め,豊後(大分県)の大友氏,肥前(佐賀・長崎県)の竜造寺氏・有馬氏,肥後(熊本県)の阿蘇氏・相良氏などを降し,1586年までに全九州を平定。翌年豊臣秀吉に降伏した。

島津義弘
しまづよしひろ @@@LINK=島津義弘 島津義弘

島津義弘
しまづよしひろ

1535〜1619
安土桃山〜江戸時代初期の武将・外様大名
島津貴久の2男。兄の義久とともにほとんど九州全域に勢力を拡大。1587年豊臣秀吉に降ったのち,義久に代わり島津家当主となった。文禄・慶長の役に活躍し,関ケ原の戦いでは西軍に属したが,敗北後も所領を安堵された。

島原の乱
しまばらのらん @@@LINK=島原の乱 島原の乱

島原の乱
しまばらのらん

1637年,肥前(長崎県)島原・肥後(熊本県)天草地方におこったキリシタンを中心とする農民一揆(〜'38)
これらの地はキリシタン大名有馬晴信・小西行長の旧領。藩主松倉重政(島原)・寺沢広高(天草)らは禁教・重税厳罰で臨んだ。1637年10月,有馬・小西の牢人の指導のもとに,天草四郎時貞を首領に3万8000人の農民が島原の原城址に拠り挙兵。幕府は板倉重昌以下西国大名を動員したが,重昌が戦死したため,老中松平信綱が出馬し,オランダ船に砲撃を要請,兵糧攻めで翌年2月落城させ参加者を皆殺しにした。幕府の動員兵力12万,戦費約40万両。乱後禁教政策はいっそう強化され,'39年鎖国体制を完成させる契機となった。
島村抱月
しまむらほうげつ @@@LINK=島村抱月 島村抱月

島村抱月
しまむらほうげつ

1871〜1918
明治・大正時代の評論家・新劇指導者
本名は滝太郎。島根県の生まれ。東京専門学校(現早稲田大学)卒。早大教授。自然主義文学運動の理論的指導者として活躍。また坪内逍遙らと文芸協会,ついで松井須磨子を中心に芸術座を組織し,新劇の確立に尽力した。

清水家
しみずけ @@@LINK=清水家 清水家

清水家
しみずけ

江戸時代,御三卿の一つ
1759年,10代将軍徳川家治の弟重好が江戸城清水門内に屋敷を与えられ,一家をたてた。吉宗のときたてられた田安・一橋両家とともに御三卿といわれ,家格は御三家につぎ,所領10万石で無藩。
持明院統
じみょういんとう @@@LINK=持明院統 持明院統

持明院統
じみょういんとう

鎌倉後期・南北朝時代,皇位・所領の継承問題の対立から二分した皇統の一つ
後深草天皇の皇統で京都の持明院を御所としたのでこの名がある。弟の亀山天皇の皇統である大覚寺統と皇位を争った。皇位継承をめぐる両統の対立は鎌倉幕府の対公家政策と結びつき,両統が交互に皇位を継ぐ(両統迭立 (てつりつ) )協定文保の和談)が成立したが履行されず,元弘の変で持明院統の光厳天皇が幕府に擁立され,また足利尊氏に光明天皇が擁立されて北朝となり,大覚寺統の南朝と対立した。1392年後小松天皇のとき,南北朝合体が実現し,以後皇位は持明院統によって継承され現在に至る。
市民革命
しみんかくめい @@@LINK=市民革命 市民革命

市民革命
しみんかくめい

ブルジョア勢力を中心とする変革
ブルジョア革命ともいう。絶対主義の国家を倒して,封建的権力を追放し,市民的自由や民主的な政治形態の原則を認め,結果として資本主義発展の条件をととのえ,ブルジョアジーの支配を確立するような革命。清教徒革命やフランス革命はその典型。明治維新が市民革命であるか,絶対主義の樹立であるかについて昭和初期以来の論争がある。
四民平等
しみんびょうどう @@@LINK=四民平等 四民平等

四民平等
しみんびょうどう

明治初期,士農工商(四民)の封建的身分制度の廃止
1869年,政府は身分制度を廃止し,上層公家・大名を華族,武士を士族,農・工・商を平民とした。'70年平民の苗字を許可,'71年穢多 (えた) ・非人の称を廃止し,平民に編入した。さらに'76年廃刀令を制定するなど,四民平等の名のもとに封建時代の身分制度は廃止されたが,身分意識はその後も長く残存した。
新知島
しむしるとう @@@LINK=新知島 新知島

新知島
しむしるとう

千島列島の一つ
ロシア人は1766年足跡を印しているが,その後ゴローウニン逮捕事件など千島列島付近の紛争がおき,1813年日露両国の交渉によりロシア領となる。日本領は択捉 (えとろふ) 島まで。中間の得撫 (うるつぷ) 島などは中立とされた。
シーメンス事件
シーメンスじけん @@@LINK=シーメンス事件 シーメンス事件

シーメンス事件
シーメンスじけん

1914(大正3)年1月暴露された海軍汚職事件
艦船購入をめぐってドイツの軍需会社シーメンス社の海軍首脳部への贈賄が発覚し,取調べが進むと,イギリスのヴィッカース社とも軍艦「金剛」建造に関しての汚職事件が発覚した。民衆の反政府運動に発展して,山本権兵衛内閣は総辞職した。
下岡蓮杖
しもおかれんじょう @@@LINK=下岡蓮杖 下岡蓮杖

下岡蓮杖
しもおかれんじょう

1823〜1914
幕末・明治時代写真
伊豆下田の人。ハリスの通訳ヒュースケンらに写真術を学び,横浜で写真館を開業長崎上野彦馬とともに日本写真業の始祖といわれる。
除目
じもく @@@LINK=除目 除目

除目
じもく

朝廷における大臣以外の諸臣任官の儀式
平安時代以後,明治時代まで行われた。定例は春秋2回。春は地方官を任命する県召 (あがためし) 除目(春の除目),秋は京官 (きようかん) を任命する司召 (つかさめし) 除目(秋の除目)。ほかに臨時の小除目がある。「除」は旧官を除去して新官につくの意。「目」は目録に記すこと。
下河辺長流
しもこうべちょうりゅう @@@LINK=下河辺長流 下河辺長流

下河辺長流
しもこうべちょうりゅう

1627?〜86
江戸前期の国学者・歌人
「ながる」とも読む。大和(奈良県)に武士の子として生まれた。のち江戸に出て,『万葉集』研究に励み,徳川光圀 (みつくに) にその注釈を求められたが,果たさずに没した。代わって契沖 (けいちゆう) がそれを大成戸田茂睡とともに国学の先駆者。著書に『万葉集管見 (かんけん) 』など多数。

下瀬火薬
しもせかやく @@@LINK=下瀬火薬 下瀬火薬

下瀬火薬
しもせかやく

明治中期,下瀬雅允 (まさちか) が製した強力火薬
下瀬は工部大学校化学科卒業後,海軍の技手となり,1888年新火薬の創製に成功。その後改良され,日露戦争の際威力を発揮した。
下田
しもだ @@@LINK=下田 下田

下田
しもだ

静岡県,伊豆半島南端にある良港
1616年以後江戸幕府の直轄地,下田奉行が置かれた。菱垣・樽両廻船はもとより東廻り航路の船も入港,風待ちをして江戸へ向かった。1854年日米和親条約により開港。'56年ハリス玉泉寺総領事館を開設した。安政条約により港を閉鎖した。1971年市制施行。
下田歌子
しもだうたこ @@@LINK=下田歌子 下田歌子

下田歌子
しもだうたこ

1854〜1936
明治・大正時代の女子教育家
美濃(岐阜県)の生まれ。1872年から宮中に仕え,のち華族女学校教授・学習院女学部長を歴任。また実践女学校を創立するなど女子教育に尽力。愛国婦人会会長もつとめた。

下田条約
しもだじょうやく @@@LINK=下田条約 下田条約

下田条約
しもだじょうやく

①幕末の1854(安政元)年締結された日露和親条約の別称
②1857(安政4)年,ハリスと下田奉行との間に締結された日米約定の別称
川路聖謨 (としあきら) とプゥチャーチンが調印。
貨幣の同種同量交換・領事裁判権などを規定し,日米修好通商条約の前駆をなした。

下田奉行
しもだぶぎょう @@@LINK=下田奉行 下田奉行

下田奉行
しもだぶぎょう

江戸幕府の職名で,遠国 (おんごく) 奉行
1616年伊豆(静岡県)下田に置かれ,大坂〜江戸航路の廻船を検問。浦賀奉行の新設で一時廃止されたが,1854年下田開港で復活。以後ハリスとの交渉など幕末外交上重要な役割を果たした。
霜月騒動
しもつきそうどう @@@LINK=霜月騒動 霜月騒動

霜月騒動
しもつきそうどう

鎌倉中期,安達泰盛 (あだちやすもり) 一族の滅亡事件
安達氏は,幕府創立以来の北条氏との姻戚関係を基盤権勢をふるったが,外孫貞時が執権になると,1285年内管領平頼綱に中傷され,一族とともに討された。事件後,幕府の実権は内管領の手に帰した。安達氏の職名から「秋田城介の乱」ともいう。
下関事件
しものせきじけん @@@LINK=下関事件 下関事件

下関事件
しものせきじけん

四国艦隊下関砲撃事件
下関条約
しものせきじょうやく @@@LINK=下関条約 下関条約

下関条約
しものせきじょうやく

1895年4月に調印された日清戦争の講和条約
日清講和条約ともいう。清国は李鴻章,日本は伊藤博文・陸奥宗光 (むつむねみつ) を全権として,山口県下関で調印,1895年5月批准。内容は,(1)朝鮮の独立の確認,(2)清国の遼東半島,台湾・澎湖列島の割譲,(3)賠償金庫平銀2億両 (テール) (約3億円)の支払い,(4)沙市・重慶・蘇州・杭州の開市,などを規定している。のち三国干渉によって日本は遼東半島を清国に還付した。
下村観山
しもむらかんざん @@@LINK=下村観山 下村観山

下村観山
しもむらかんざん

1873〜1930
明治・大正時代の日本画家
和歌山県の生まれ。狩野芳崖・橋本雅邦に学び,東京美術学校卒業後,日本美術院の創立に参加。洋画表現もとり入れるとともに古画の研究により,格調正しい技法を示した。代表作に『木の間の秋』『大原御幸』『天心先生』など。
下山事件
しもやまじけん @@@LINK=下山事件 下山事件

下山事件
しもやまじけん

1949年7月6日,国鉄総裁下山定則が常磐線五反野 (ごたんの) 付近で轢死した事件
7月4日の国鉄第1次人員整理発表とからんで,他殺かと疑われたが,決め手のないままに自殺として処理された。これ以後,国鉄の人員整理が進み,三鷹・松川両事件とともに労働運動に大きな影響を与えた。
寺門
じもん @@@LINK=寺門 寺門

寺門
じもん

天台宗の二大分派の一つ。➡ 山門・寺門
シャウプ勧告
シャウプかんこく @@@LINK=シャウプ勧告 シャウプ勧告

シャウプ勧告
シャウプかんこく

第二次世界大戦後,アメリカ税制使節団長シャウプ(Shoup)が行った日本の税制改革に関する勧告
1次勧告は1949年8月,2次勧告は'50年9月。内容は,(1)直接税中心主義,(2)資本蓄積のための減税措置,(3)地方自治強化(平衡交付金制の創設),(4)徴税機構の合理化などであり,これらは経済安定九原則('48)とドッジ‐ライン('49)に基づくもので,政府は'50年税制を大幅に改革し,これらをほぼ実現した。
社会主義
しゃかいしゅぎ
socialism @@@LINK=社会主義 社会主義

社会主義
しゃかいしゅぎ
socialism

資本主義の矛盾を生産手段の社会的所有によって克服し,階級対立のない社会を実現しようとする思想・運動
16世紀初め,イギリスのトマス=モアに始まるといわれ,産業革命期のオーウェン(イギリス)・サン=シモン(フランス)らの空想的社会主義を経て,19世紀中ごろにドイツのマルクス・エンゲルスらによって科学的社会主義として確立された。日本では明治前期に思想が紹介され,日清戦争(1894〜95)後,資本主義が進展すると安部磯雄・片山潜などが運動を開始。社会民主党・日本社会党などの政党結成も企てられたが,終始政府の圧迫をうけ1910年大逆事件で一時停滞した。第一次世界大戦後,ロシア革命の影響もあり,労働運動と結び発展。アナーキズムに代わりマルクス主義が伸びるが,治安維持法制定(1925)などにより,昭和期に入り弾圧の強化で壊滅。第二次世界大戦後,大きく成長し日本社会党を中心に政府・財界に対抗する勢力となり,'55年以降自由民主党と日本社会党による自社対決の政治体制が続いた。'91年のソ連崩壊,'93年の総選挙を機に55年体制は終焉を迎え,政界混迷を深める中で,支持層が大幅に乖離し,社会主義および社会主義政党は大きな転換期を迎え,その将来は流動的となった。
社会主義協会
しゃかいしゅぎきょうかい @@@LINK=社会主義協会 社会主義協会

社会主義協会
しゃかいしゅぎきょうかい

1900年結成された社会主義の研究・宣伝団体(〜'04)
社会主義研究会が実践的態度をとることにより改組されたもの。会長は安部磯雄,会員は片山潜・幸徳秋水・堺利彦ら40名。1901年社会民主党を結成したが,直ちに禁止されたので,もっぱら社会主義の宣伝啓蒙活動につとめた。機関誌労働世界』(のち『社会主義』と改題)を発行
社会主義研究会
しゃかいしゅぎけんきゅうかい @@@LINK=社会主義研究会 社会主義研究会

社会主義研究会
しゃかいしゅぎけんきゅうかい

1898年結成された社会主義の研究団体(〜1900)
片山潜・幸徳秋水・安部磯雄・木下尚江ら20名がキリスト教会内につくる。月1回例会。のち1900年社会主義協会と改称
社会主義神髄
しゃかいしゅぎしんずい @@@LINK=社会主義神髄 社会主義神髄

社会主義神髄
しゃかいしゅぎしんずい

明治後期,幸徳秋水の著書
1903年刊。マルクス主義の大綱をまとめ,7版を重ねた。明治社会主義の代表的労作
社会政策学会
しゃかいせいさくがっかい @@@LINK=社会政策学会 社会政策学会

社会政策学会
しゃかいせいさくがっかい

1896年創設された社会政策研究団体(〜1924)
ドイツの「社会政策学会」をとし,東大教授金井延 (のぶる) ・高野岩三郎らが設立。労使協調立場をとり,工場法の成立に寄与した。
社会大衆党
しゃかいたいしゅうとう @@@LINK=社会大衆党 社会大衆党

社会大衆党
しゃかいたいしゅうとう

昭和前期の社会民主主義政党(1932〜40)
満州事変勃発後,社会民衆党と全国労農大衆党が合併し結成。委員長は安部磯雄,書記長は麻生久。反資本・反共・反ファシズムの立場をとり,満州国承認・国際平和を強調,日中戦争ころよりしだいに右傾化し,新体制運動に伴い解党。
車会党
しゃかいとう @@@LINK=車会党 車会党

車会党
しゃかいとう

明治前期,人力車夫の団体
「車界党」とも書く。鉄道馬車によって生活を脅かされた東京の車夫が,1882年生活権を守るため自由党員奥宮健之の指導で車夫三浦亀吉らを中心に結成。車夫営業のため親睦と相互扶助を目的としたがまもなく消滅した。日本最初の労働者組織。
社会保障制度
しゃかいほしょうせいど @@@LINK=社会保障制度 社会保障制度

社会保障制度
しゃかいほしょうせいど

国民の最低生活を社会保険公的扶助その他の諸制度の統一的運用で保障する制度
この制度の原則は日本国憲法第25条の精神に基づくもので,戦後,失業保険・労働者災害補償保険・生活保護法が制定され,形態的には整備されたが,給付水準,運営方法などに問題もある。
社会民衆党
しゃかいみんしゅうとう @@@LINK=社会民衆党 社会民衆党

社会民衆党
しゃかいみんしゅうとう

昭和初期の社会民主主義政党(1926〜32)
労働農民党の右派が結成。委員長安部磯雄,書記長片山哲。日本労働総同盟を基盤に反資本・反共・反ファシズムの三反主義を掲げ,1928年最初の普通選挙で4名当選した。しだいに時流に迎合し満州事変を支持。'32年軍と結んで国家社会主義を唱えた赤松克麿らが離脱したが,残留派は全国労農大衆党とともに社会大衆党を結成。
社会民主党
しゃかいみんしゅとう @@@LINK=社会民主党 社会民主党

社会民主党
しゃかいみんしゅとう

①1901(明治34)年結成された日本最初の社会主義政党
②第二次世界大戦後の小政党(1951〜52)
社会主義協会の中心人物である安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らによって結成。軍備全廃,普通選挙の実施,貴族院廃止,階級制度廃止,土地・資本の公有などの政策を掲げたが,治安警察法により結党2日後禁止された。
1951年平野力三を中心に結成されたが,翌年解党して,農民協同党の一部と協同党を結成。
③1996年,日本社会党が党名や党則を変更して成立。党首は村山富市。
ジャガタラ文
ジャガタラぶみ @@@LINK=ジャガタラ文 ジャガタラ文

ジャガタラ文
ジャガタラぶみ

江戸前期,ジャガタラ(ジャカルタ)からの日本人の書簡
幕府は鎖国政策の一環として南蛮人との混血児とその家族をジャガタラに追放した。1655年ころから日本との文通の禁止が緩和され,彼らは望郷を切々と訴えた。お春の文は有名。
ジャカード・バッタン

ジャカード・バッタン

織機の名称
ジャカードはフランス人ジャカール(Jacquard)が完成した紋織機バッタンはイギリス人ジョン=ケイ(John Key)が発明した織機。明治の初め,ともに京都の佐倉常七らによって輸入され,日本の織物業の発展に貢献した。
写経
しゃきょう @@@LINK=写経 写経

写経
しゃきょう

仏教の経典を筆写すること
印刷術の未発達な時代には伝道の必須条件であった。奈良・平安時代に盛んに行われた。印刷術発達後も儀式化されて行われ今日に及んでいる。厳島神社蔵『平家納経』は芸術的にもその代表的遺品である。
釈日本紀
しゃくにほんぎ @@@LINK=釈日本紀 釈日本紀

釈日本紀
しゃくにほんぎ

鎌倉末期,卜部兼方 (うらべかねかた) の著した『日本書紀』の注釈書
28巻。『弘仁私記』をはじめ諸文献を参照し,儒・仏的解釈も含めながら神道的立場から,奈良時代以来の『日本書紀』の研究を集大成した。現存最古の書紀注釈書。
寂蓮
じゃくれん @@@LINK=寂蓮 寂蓮

寂蓮
じゃくれん

?〜1202
平安末期・鎌倉初期の歌人
伯父藤原俊成の養子となったが,定家出生により出家。『新古今和歌集』の撰者の一人。すぐれた技巧によってただようような叙情性をうまく定着させている。家集に『寂蓮法師集』1巻。
写実主義文学
しゃじつしゅぎぶんがく @@@LINK=写実主義文学 写実主義文学

写実主義文学
しゃじつしゅぎぶんがく

19世紀中ごろから西欧ロマン主義に対立しておこった文学理論に基づく文学
空想を排し,ありのままの客観的表現を強調する。日本では坪内逍遙の『小説神髄』(1885〜86)で提唱されて以来,明治文壇の主流となり,自然主義文学によって確立された。
奢侈品等製造販売制限規則
しゃしひんとうせいぞうはんばいせいげんきそく @@@LINK=奢侈品等製造販売制限規則 奢侈品等製造販売制限規則

奢侈品等製造販売制限規則
しゃしひんとうせいぞうはんばいせいげんきそく

1940年7月7日施行された,通称「七・七禁令」といわれる勅令
戦争遂行や軍需生産の拡大には直接貢献しない奢侈品(高級織物・貴金属・装飾品など)の製造や販売をすべて禁じた。
車借
しゃしゃく @@@LINK=車借 車借

車借
しゃしゃく

鎌倉末期より現れた,荷車を用いる運搬業者
京都近郊の交通要地に集団的に居住。鳥羽の車借は有名。道路の整備された京都や鎌倉周辺で活動し,馬借の補助的な役割を果たした。転落農民の出身で,主として問丸 (といまる) の統制下にあった彼らは,馬借とともに広地域にわたる活動力からしばしば土一揆の主勢力となった。
沙石集
しゃせきしゅう @@@LINK=沙石集 沙石集

沙石集
しゃせきしゅう

鎌倉後期,仏教説話集
著者は禅僧の無住一円。1279年起草,'83年脱稿。10巻。平易な文体で,仏教的教訓や和歌などに関する説話を記し,特に庶民的・地方的な話題を多く含んでいるので,当時の世相を知るのによい。同時代の仏教説話中最も新鮮。
社倉
しゃそう @@@LINK=社倉 社倉

社倉
しゃそう

江戸時代,備荒貯蓄のため設けられた倉庫
義倉 (ぎそう) とともに凶作に備えて穀物を貯蔵。常平倉と併せて三倉という。農民が持高相応に穀物を出し村で貯蔵し,自治的に処理された。会津藩で創設。寛政改革で整備された。
謝花昇
じゃはなのぼる @@@LINK=謝花昇 謝花昇

謝花昇
じゃはなのぼる

1865〜1908
明治時代,沖縄の民権運動家
沖縄の生まれ。県費留学生として上京し,1891年東大農学部を卒業。中央での栄達のすすめをことわって帰郷,県庁技師となる。沖縄県知事の奈良原繁の土地整理事業と激しく対立し,参政権獲得のため闘ったが,弾圧と運動の内部分裂により挫折。1901年県外に生活の道を求める途中,神戸駅で発狂。晩年,郷里で病没

蛇皮線
じゃびせん @@@LINK=蛇皮線 蛇皮線

蛇皮線
じゃびせん

沖縄の楽器。三線 (さんしん)
中国元代に始まり,14世紀末沖縄に,さらに室町末期(1558〜69)に堺・博多に伝えられ三味線に変化。胴にの皮を張り,弦は3本,角製のつめで弾く。
シャーマニズム
shamanism @@@LINK=シャーマニズム シャーマニズム

シャーマニズム
shamanism

精霊信仰による原始的宗教
北アジアから東ヨーロッパにかけて多くみられ,シャーマン(みこ)が神がかりして神の言葉をつげる。邪馬台国 (やまたいこく) の女王卑弥呼 (ひみこ) の行った鬼道はシャーマニズムに当たる。
三味線
しゃみせん @@@LINK=三味線 三味線

三味線
しゃみせん

日本の代表的弦楽器
三絃・三線ともいう。初め蛇皮線といわれ,沖縄から博多・堺に伝わり,蛇皮にかわって猫皮が用いられるようになった。安土桃山時代には近畿地方,江戸時代には全国に普及した。太棹 (ふとざお) は義太夫用,中棹 (ちゆうざお) は地唄・常磐津・清元用,細棹は長唄用。
洒落本
しゃれぼん @@@LINK=洒落本 洒落本

洒落本
しゃれぼん

江戸後期,小説の形態
書冊の体裁が小型であるため小本 (こほん) ,形の類似から「こんにゃく本」の異称がある。遊里の情景描写を主とした短編。会話本位の文体に,滑稽味をきかせ,繊細巧智な「通」の精神を織りこんだ。18世紀後半が最盛期。寛政の改革で弾圧され,滑稽本へと移行した。山東京伝・大田南畝らの著作が有名。
上海事変
シャンハイじへん @@@LINK=上海事変 上海事変

上海事変
シャンハイじへん

昭和前期,中国上海でおきた日中両軍の武力衝突
〔第1次〕 日本が,列強の目を満州からそらす目的で,排日運動が激化した上海でおこした。1932年1月,日本人僧侶襲撃事件を契機に出兵。上海占領を策したが,中国側の抵抗や国際連盟への提訴,アメリカ・イギリス両国の抗議などにより,イギリス・アメリカ・フランス3国の調停で,同年5月に停戦協定を結び撤兵した。〔第2次〕 日中戦争勃発直後の'37年8月,戦局打開のため,大山勇夫海軍大尉射殺事件を機に上海を攻撃。苦戦したが,大軍を杭州湾に上陸させ,日中戦争が全面化した。

しゅ @@@LINK=朱 朱


しゅ

江戸時代金貨の単位
1両の16分の1。
朱印状
しゅいんじょう @@@LINK=朱印状 朱印状

朱印状
しゅいんじょう

戦国時代以降,朱印を押した公文書
ふつう武将が政務・法令・軍事などの文書に花押 (かおう) の代わりに印章を押した。朱印状によって安堵・給付された土地を朱印地,海外渡航を許可された船を朱印船という。江戸時代,代々将軍が用いた。
朱印船貿易
しゅいんせんぼうえき @@@LINK=朱印船貿易 朱印船貿易

朱印船貿易
しゅいんせんぼうえき

江戸初期,朱印状で海外渡航を公認された日本船による貿易
京都・・長崎などの商人,西国大名,幕府役人,外国人までが朱印船を出した。海外居住の日本人も集荷・売りさばきにあたり,盛時には生糸・絹織物貿易でポルトガル船の独占を打破したが,1635年の日本船海外渡航全面禁止により消滅。渡航先はマカオ・ルソン・コーチ・シャム・ボルネオ・ジャワ・中国などで,生糸・絹織物・綿織物・鹿皮・砂糖・蘇木などを輸入し,銀・銅・硫黄・樟脳などを輸出した。
朱印地
しゅいんち @@@LINK=朱印地 朱印地

朱印地
しゅいんち

江戸時代,将軍の朱印状によって給付または安堵された土地
大名領もあるが,ふつう寺院神社領地をいい,年貢・課役が免除され,売買・質入れは禁止された。朱印地をもつ寺社は,将軍の代がかわるごとに前将軍の朱印状を示して所領の確認をうけた。
十一月革命
じゅういちがつかくめい @@@LINK=十一月革命 十一月革命

十一月革命
じゅういちがつかくめい

ロシア革命
拾遺和歌集
しゅういわかしゅう @@@LINK=拾遺和歌集 拾遺和歌集

拾遺和歌集
しゅういわかしゅう

平安中期,第3番目の勅撰和歌集。八代集の一つ
1005〜09年成立。20巻。歌数約1350首。撰者は花山院・藤原公任 (きんとう) の2説がある。風情が可憐で調べはしめやか。歌風としての優雅を完成した。集名は『古今和歌集』『後撰和歌集』にもれ遺 (のこ) ったものを拾うの意による。
拾芥抄
しゅうがいしょう @@@LINK=拾芥抄 拾芥抄

拾芥抄
しゅうがいしょう

鎌倉中期に成立した有職 (ゆうそく) 書
『拾芥略要抄』の略。3巻。著者不詳。歳時・文学・風俗・官位・神祇など99部門に分けた一種の百科事典。平安時代の有職を知るのに便利。
集会条例
しゅうかいじょうれい @@@LINK=集会条例 集会条例

集会条例
しゅうかいじょうれい

明治前期の集会・結社の取締り法規
1880年,全国に拡大しつつあった自由民権運動を弾圧するために公布。集会の事前届出,集会の宣伝禁止,他の政治結社との連絡禁止などを規定した。'82年さらに改正・強化し,学術会議まで取り締まった。'90年「集会及政社法」に代えられたが,本質は変わらなかった。
十月事件
じゅうがつじけん @@@LINK=十月事件 十月事件

十月事件
じゅうがつじけん

1931年10月,満州事変勃発直後のクーデター未遂事件
三月事件の中心人物である桜会の橋本欣五郎中佐らが,右翼大川周明・西田税 (みつぐ) らと結んで,荒木貞夫陸軍中将を首相とする軍部独裁政権を計画。未然に発覚したが,処分も行われず,軍部の台頭を招く契機となった。
集議院
しゅうぎいん @@@LINK=集議院 集議院

集議院
しゅうぎいん

明治初期の新政府諮問機関
1869年公議所のあとをうけて設置。太政官から下付される議案を審議・答申した。諸藩から各1名ずつ選ばれた25歳以上の藩士で構成。'73年廃止,左院に吸収された。
衆議院
しゅうぎいん @@@LINK=衆議院 衆議院

衆議院
しゅうぎいん

日本の立法機関の一つ
①大日本帝国憲法下,1890年から貴族院とともに帝国議会を構成。公選議員により組織され,予算の先議権をもつほかは貴族院と同一権限を有した。しかし,貴族院によって牽制され枢密院抑圧うけ,力の弱いものであった。
②日本国憲法下,1947年から参議院とともに国会を構成。男女普通選挙により選出された議員により組織され,法律・予算案議決,条約承認,首相指名など,参議院よりも優越した権限を有する。定数480名。任期は4年で,解散制がある。
衆議院議員選挙法
しゅうぎいんぎいんせんきょほう @@@LINK=衆議院議員選挙法 衆議院議員選挙法

衆議院議員選挙法
しゅうぎいんぎいんせんきょほう

衆議院議員定員・選挙資格・選挙方法などを定めた法律
1889年公布。選挙権は直接国税15円以上を納める25歳以上の男子(被選挙権は30歳以上の男子)に与えられ,有権者は人口の1.1%に過ぎなかった。その後しだいに制限は緩和され,1900年の改正では10円以上,'19年3円以上に引き下げられ,'25年普通選挙法により納税資格が撤廃され,25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられた。婦人参政権は第二次世界大戦後与えられ,'45年12月の改正で20歳以上の男・女に選挙権,25歳以上に被選挙権が与えられた。'50年公職選挙法施行により廃止
自由教育運動
じゆうきょういくうんどう @@@LINK=自由教育運動 自由教育運動

自由教育運動
じゆうきょういくうんどう

大正期,教育界に広がった教育実践
文部省の教師中心主義の教育を批判し,子供の個性尊重,生活教育,自学主義を主張沢柳政太郎成城小学校小原国芳玉川学園羽仁もと子の自由学園などが創立された。
従軍慰安婦
じゅうぐんいあんふ @@@LINK=従軍慰安婦 従軍慰安婦

従軍慰安婦
じゅうぐんいあんふ

日中戦争から太平洋戦争にかけて,日本軍の監督下に置かれて軍人・軍属に性的奉仕をした女性
当時は「軍慰安所従業婦」などと呼ばれており,「従軍慰安婦」という呼び名は戦後に普及した。軍慰安所は中国をはじめアジア各地の日本軍占領地に設けられた。慰安所には日本人のほか朝鮮半島を中心に中国,フィリピンなどの女性が集められた。日本政府は1993年,韓国に対して「慰安婦強制」と「強制連行」があったことを認め,謝罪の意を表明した。政府は被害者に一時金を払うことを目的に,'95年に民間から募金を集めて「女性のためのアジア平和国民基金」を発足させた。
自由劇場
じゆうげきじょう @@@LINK=自由劇場 自由劇場

自由劇場
じゆうげきじょう

明治・大正時代の新劇の劇団
イギリスの無形劇場システムにならい,2代目市川左団次と小山内薫 (おさないかおる) らが結成。1909年東京の有楽座で初演。イプセンやゴーリキーなど,当時画期的な翻訳劇を中心に上演した。文芸協会と並んで新劇運動を開拓し,またその運動の発展に貢献した。
十五年戦争
じゅうごねんせんそう @@@LINK=十五年戦争 十五年戦争

十五年戦争
じゅうごねんせんそう

1931年の満州事変から '45年の日本の敗戦に至る大戦争の総称
満州事変・日中戦争・太平洋戦争を一連のものと考え,「アジア・太平洋戦争」としてとらえる呼称。
十七条憲法
じゅうしちじょうけんぽう @@@LINK=十七条憲法 十七条憲法

十七条憲法
じゅうしちじょうけんぽう

憲法十七条
十住心論
じゅうじゅうしんろん @@@LINK=十住心論 十住心論

十住心論
じゅうじゅうしんろん

平安初期,空海の著した仏教書
正式には『秘密曼荼羅 (まんだら) 十住心論』という。10巻。淳和 (じゆんな) 天皇の勅で八宗(南都六宗と天台・真言宗)の宗論が撰述されたとき,空海が真言宗を解説した書で,830年に奉ったという。顕教と密教を対比させている。
重臣
じゅうしん @@@LINK=重臣 重臣

重臣
じゅうしん

昭和初期から第二次世界大戦終了時まで,内閣交代の際,後継首相の選定にあずかる人びと
五・一五事件(1932)以後,元老西園寺公望 (きんもち) の発意で,内大臣・枢密院議長・元首相などの意見を求めて,政党内閣終焉 (しゆうえん) 以後の首相選任に対処した。西園寺の死後,内大臣の司会重臣会議が首相選定を行う慣習が成立した。
自由新聞
じゆうしんぶん @@@LINK=自由新聞 自由新聞

自由新聞
じゆうしんぶん

明治前期の政党機関紙
①自由党の機関紙(1882〜85)。社長板垣退助,社説掛に馬場辰猪・中江兆民・田口卯吉など。自由党解党により,1885年廃刊。
②愛国社系機関紙(1890〜91)。
③再興された自由党の機関紙(1893〜95)。
集成館
しゅうせいかん @@@LINK=集成館 集成館

集成館
しゅうせいかん

幕末,薩摩藩主島津斉彬 (なりあきら) が軍備充実・殖産興業のため設けた洋式工場
1854年鹿児島に日本最初の溶鉱炉築造。また反射炉・ガラス・陶磁器・洋式紡績・紙・氷砂糖・油・鋼鉄地雷などの工場を設け,動力は水車を用いた。職工など1200人が就業した。
自由党
じゆうとう @@@LINK=自由党 自由党

自由党
じゆうとう

①明治時代,自由民権運動の中心的政党(1881〜84,'90〜98)
③ 第二次世界大戦後の保守政党(1950〜55)
④小沢一郎を中心に結成された保守政党(1998〜 )
国会期成同盟中核に結成。総理板垣退助,副総理中島信行。幹部には後藤象二郎・大井憲太郎・植木枝盛らがいる。フランス流の急進的自由民権論の立場で士族・豪農商などの支持を得た。政府の弾圧と懐柔貧農闘争の激化のため,幹部が動揺して1884年解党。その後大同団結運動を通じて再建の気運がおき,'90年立憲自由党として再発足。'91年自由党と改称したが,一時政府と接近し板垣が入閣。'98年進歩党と合同して憲政党を結成。
② ⇨ 日本自由党
1950年3月,民主自由党が日本民主党連立派を加えて成立。総裁吉田茂。第3〜5次吉田内閣の与党として政権を握る。'55年11月,日本民主党と合同し,自由民主党を結成した。
1994年12月,新生党,公明党,民社党,日本新党の4党および自由民主党離脱議員らによって,新進党が結成されたが,党内対立により,'97年12月に解党。翌年1月小沢を中心に自由党が結成された。





自由党史
じゆうとうし @@@LINK=自由党史 自由党史

自由党史
じゆうとうし

自由民権運動の先頭にたって闘った自由党の記録書
1900年9月,自由党の後身である憲政党の解党総会で編纂が決定され,10年後の'10年3月出版された。監修は板垣退助。自由党の発生・発展を主として扱い,大日本帝国憲法の発布でを置く。
自由都市
じゆうとし @@@LINK=自由都市 自由都市

自由都市
じゆうとし

中世ヨーロッパにおいて,商工業の発達に伴い,国王や諸侯から自治の特権を獲得した都市
南ヨーロッパのヴェネツィアフィレンツェ,あるいは北ヨーロッパのハンザ同盟の諸都市をさす。日本では室町時代に,港町門前町など各種の都市が発達し,・博多・平野などは,惣村の組織を導入し,町行事・年寄など町内の商工業者の代表者が会合衆 (えごうしゆう) などと呼ばれて,自治的な行政権・司法権を行使した。イエズス会の宣教師らは,堺をヴェネツィアに似ていると報告しているが,ヨーロッパのそれと日本の場合とは,成立の背景やその後の推移など,趣を異にしている。
十二神将像
じゅうにしんしょうぞう @@@LINK=十二神将像 十二神将像

十二神将像
じゅうにしんしょうぞう

薬師如来の周囲にいて衆生を護る12の大将の神
毘羯羅 (びから) 大将をはじめいずれも甲冑をつけた武将の姿で,のちに十二支の護法神として,頭上に十二支のを戴く。人身獣頭のものもある。奈良新薬師寺にある天平時代の塑像は有名。
十二段草子
じゅうにだんそうし @@@LINK=十二段草子 十二段草子

十二段草子
じゅうにだんそうし

室町中期に成立した,浄瑠璃・御伽 (おとぎ) 草子のもととなった物語
作者不詳。源義経の奥州下りに浄瑠璃姫などの伝説がからんだもので,これらを12段に仕組んだ物語。語り本として伝えられた。
十二単
じゅうにひとえ @@@LINK=十二単 十二単

十二単
じゅうにひとえ

平安末期に成立した女房装束の俗称
男子の束帯にあたる。この名称は,十二枚重ねた衣に単 (ひとえ) をつけた重ね袿 (うちぎ) 姿をさしたもので,近世になって一般に宮中女性の正装を意味することになった。
十人両替
じゅうにんりょうがえ @@@LINK=十人両替 十人両替

十人両替
じゅうにんりょうがえ

江戸時代,大坂の代表的両替商
1670年大坂の両替商仲間が10人を選出したのに始まる。幕府御用で公金や為替を扱い,金銀相場を支配し,仲間を取り締まった。天王寺屋・平野屋・鴻池 (こうのいけ) 屋などが世襲就任
自由之理
じゆうのことわり @@@LINK=自由之理 自由之理

自由之理
じゆうのことわり

明治初期,中村正直の翻訳書
1872年刊。イギリスの功利主義思想家ミル(J. S. Mill)の『自由論(On Liberty)』を翻訳。自由民権思想の普及に大きな役割を果たした。
周文
しゅうぶん @@@LINK=周文 周文

周文
しゅうぶん

生没年不詳
室町初期の画僧
号は越溪。京都相国寺の禅僧で,如拙 (じよせつ) に画を学び日本水墨画様式を確立。雪舟はその門下。永享年間(1429〜41)に幕府の御用絵師となる。代表作『竹斎読書図』(国宝),『寒山拾得図』など。彫刻にも名作がある。
十便十宜図
じゅうべんじゅうぎず @@@LINK=十便十宜図 十便十宜図

十便十宜図
じゅうべんじゅうぎず

江戸中期,池大雅と与謝蕪村の合作による画帳
清の文人李笠翁 (りりゆうおう) の別荘伊園十便十宜の詩に基づいて描いた。閑居生活の便宜な点各10をあげ,大雅が十便,蕪村が十宜を描く。大雅図の『釣便図』は名高い。
宗峰妙超
しゅうほうみょうちょう @@@LINK=宗峰妙超 宗峰妙超

宗峰妙超
しゅうほうみょうちょう

1282〜1337
鎌倉末期・南北朝初期の臨済宗の僧
宗峰は道号。播磨の人。花園・後醍醐 (ごだいご) 両天皇をはじめ上下の帰依をうけ,興禅大灯国師・高照正灯国師の国師号をうけた。京都大徳寺の開祖。また宋元風の書にもすぐれていた。

自由民権運動
じゆうみんけんうんどう @@@LINK=自由民権運動 自由民権運動

自由民権運動
じゆうみんけんうんどう

明治前期,藩閥政府に対し,立憲政治の確立を要求しておこった民主主義的政治運動
1874年参議板垣退助・後藤象二郎らの民撰議院設立建白を契機に民権論おこり,土佐の立志社など各地に政治結社が設立された。初め士族を中心としたが,'77年の西南戦争以後は地主・豪農・中貧農・商工業者を含み,'78年愛国社が再興され,国会開設・地租軽減・条約改正を基本的要求として国民的運動となり,'80年愛国社は国会期成同盟と改称,24万余の請願署名を獲得した。政府は集会条例などで弾圧を加え,明治十四年の政変で大隈重信らを政府から追放し,国会開設の勅諭を出し運動の鋒先をそらせた。'81年自由党,'82年立憲改進党が結成されたが,政府の弾圧,内部対立,社会経済上の変化などから運動は分裂・抗争した。急進派は福島事件・群馬事件・加波山事件・秩父事件・飯田事件などの激化事件をおこしたがいずれも鎮圧された。この間,自由党は'84年解党,立憲改進党も党首脳が脱党し,活動も衰退した。'86〜89年条約改正をめぐって三大事件建白運動・大同団結運動として復活したが,保安条例で弾圧され,幹部の脱落もあって運動は衰退した。
自由民主党
じゆうみんしゅとう @@@LINK=自由民主党 自由民主党

自由民主党
じゆうみんしゅとう

1955年11月,自由党と日本民主党が保守合同して成立した政党
最初,総裁代行に鳩山一郎・緒方竹虎らがなったが,緒方が急死して鳩山が初代総理となる。'60〜'90年代前半,長期にわたって政権を担当。'93年分裂(新生党・新党さきがけ結成)。同年の総選挙で敗北し保守合同以来初めて政権の座をおりたが,'94年連立政権与党に復帰。'96年に橋本竜太郎内閣が成立すると連立を解消して単独政権となり,'98年に小渕恵三内閣が発足した。2000年4月小渕が病気で倒れたあとを引き継いで,森喜朗内閣が発足。
宗門改
しゅうもんあらため @@@LINK=宗門改 宗門改

宗門改
しゅうもんあらため

江戸時代,キリスト教禁圧のため設けられた制度
島原の(1637〜38)後,幕府はキリシタン禁圧を強化し,'40年直轄領に宗門改役を置き,寺請制度,宗門改帳(宗旨人別帳・宗門人別帳ともいう)の作成,絵踏などを実施して,個人ごとに所属宗旨を明確化した。'64年からは諸藩にも実施させた。毎年定期的に作成した宗門改帳は戸籍台帳の役割も果たした。1873年キリシタン禁制の高札撤去によるキリスト教黙認により廃止。
修猷館
しゅうゆうかん @@@LINK=修猷館 修猷館

修猷館
しゅうゆうかん

江戸時代,筑前福岡藩の藩校
1784年藩士教育のため,東西学問稽古場を設置し,東(修猷館)で朱子学を,西(甘棠 (かんとう) 館)で古文辞学を講じたが,'98年修猷館に吸収された。1871年廃藩置県で閉鎖。
重要産業統制法
じゅうようさんぎょうとうせいほう @@@LINK=重要産業統制法 重要産業統制法

重要産業統制法
じゅうようさんぎょうとうせいほう

1931年に産業合理化政策の一環として公布された法律
浜口雄幸内閣は昭和恐慌に対処するため,重要産業のカルテル結成を助成してその統制にあたった。戦時統制経済の先がけとなった。
儒学
じゅがく @@@LINK=儒学 儒学

儒学
じゅがく

中国の孔子によって主張された政治道徳思想を儒教といい,その後継者によって実践倫理と政治哲学が加えられ,教学として体系化されたものを儒学という
両者を混用することも多い。根本経典は孔子の編纂と伝えられる『詩経』『書経』『礼記』『春秋』『易経』の五経と,『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書で,時代とともに訓詁学・朱子学・陽明学・考証学などが成立した。日本には4〜5世紀ころ伝来し,聖徳太子の政治思想や律令制にも影響がみられる。律令制下の大学・国学では経書の講究を主とする明経 (みようぎよう) 道が栄えたが,歴史・詩文を学ぶ紀伝道の台頭により後退。鎌倉時代に朱子学が伝来し,室町時代には五山や足利学校などで学ばれた。戦国時代,禅僧の地方下向により薩摩に薩南学派,土佐に海南学派(南学)が芽生えた。儒学は江戸時代に入ると最盛期を迎え,特に朱子学は官学の地位を与えられた。朱子学の学統では京学から木下順庵・室鳩巣 (むろきゆうそう) ・三浦梅園,南学から山崎闇斎が出た。そのほか,陽明学派には中江藤樹,古学派では伊藤仁斎・荻生徂徠 (おぎゆうそらい) らが出て,学問の展開がみられた。儒教道徳は封建教学として四民の生活全般にわたり根深く浸透した。
修学院離宮
しゅがくいんりきゅう @@@LINK=修学院離宮 修学院離宮

修学院離宮
しゅがくいんりきゅう

江戸初期,後水尾上皇が京都洛北に営んだ離宮
上皇の設計・意匠により,幕府援助で造営された。上・中・下三つの茶室に分かれ,山裾の広い傾斜地を生かしてつくられた庭園をもつ。比叡山の西の一角を占め,上の茶屋鄰雲 (りんうん) 亭からの眺めは離宮随一。現在は宮内庁が管理。
儒家神道
じゅかしんとう @@@LINK=儒家神道 儒家神道

儒家神道
じゅかしんとう

江戸時代,儒学者が仏教排斥の立場から唱えた神道説
林羅山・山崎闇斎・荻生徂徠 (おぎゆうそらい) ・山鹿素行・中江藤樹・伊藤仁斎ら儒学者に共通する考え方で,それぞれ自分の学派の立場から説を立てた。
樹下美人図
じゅかびじんず @@@LINK=樹下美人図 樹下美人図

樹下美人図
じゅかびじんず

奈良市正倉院蔵の奈良時代の屛風図
正倉院宝物。6扇。作者不詳。樹下に唐装の美人を描く。構図祖型は遠く西アジアにあるが,日本で描かれたものらしい。彩色のかわりに着物・木の羽毛がはられたので「鳥毛立女屛風 (ちようもうりゆうじよびようぶ) 」ともいう。
儒教
じゅきょう @@@LINK=儒教 儒教

儒教
じゅきょう

儒学
宿駅
しゅくえき @@@LINK=宿駅 宿駅

宿駅
しゅくえき

交通路上の集落
大化の改新のとき創設され,中央と地方の連絡のため30里(約16㎞)ごとに置かれた。律令制の推移とともに崩壊。平安末期以後,東海道を中心に宿という交通集落がおこり,江戸時代に入ると幕府により整備され,問屋場・本陣・脇本陣のある役町を中心に旅籠 (はたご) ・茶屋・市場が形成され,宿場町として発展したものも多い。
宿場
しゅくば @@@LINK=宿場 宿場

宿場
しゅくば

江戸時代,五街道や脇街道その他にあり,駅伝業務を担当した交通集落
宿駅ともいう。問屋場は交通業務を扱い,本陣・脇本陣は諸大名や幕府の公用者などの宿泊にあたり,ほかに一般の旅籠 (はたご) ・茶店もあった。駅伝のため人馬を常備したが,不足のときは助郷 (すけごう) を集めた。明治時代に入り鉄道開通後衰えた。
綜芸種智院
しゅげいしゅちいん @@@LINK=綜芸種智院 綜芸種智院

綜芸種智院
しゅげいしゅちいん

平安初期,空海が開設した日本最初の庶民教育機関
828年京都に創立。大学・国学に入れない身分の人びとを対象に儒学・仏教を合わせ講じたが,空海の死後まもなく廃絶した。
修験道
しゅげんどう @@@LINK=修験道 修験道

修験道
しゅげんどう

日本古来の山岳信仰と平安時代の密教が習合して成立した呪術的宗教
奈良時代の役小角 (えんのおづぬ) (役行者 (えんのぎようじや) )を祖とする。修行者を山伏といい,大和の大峰山 (おおみねさん) ・金峰山 (きんぷせん) ,紀伊の熊野三山などが修行地として著名
守護
しゅご @@@LINK=守護 守護

守護
しゅご

鎌倉・室町幕府における職名
1185年,源頼朝が勅許を得て源義経らの追捕を名目として国ごとに設置。有力御家人が守護職に任命された。職権は大番催促,謀反人・殺害人の検断のいわゆる大犯 (だいぼん) 三箇条で,のちに種々の権限が付加された。鎌倉末期になると,国内御家人の支配強化,荘園の侵略などを進め強大化し,室町時代に守護大名へと成長した。
准后
じゅごう @@@LINK=准后 准后

准后
じゅごう

親王・諸王・摂政・大臣・女御などを特に優遇するために与えた称号
准三后」の。871年清和天皇が藤原良房に与えたのを初めとする。三后に準ずるので,最初は年官・年爵も与えられたが,のちには名のみの優遇となる。
守護請
しゅごうけ @@@LINK=守護請 守護請

守護請
しゅごうけ

南北朝・室町時代,守護が国司や荘園領主に一定の年貢を請け負い,代わりに国衙 (こくが) 領・荘園の経営をまかされる制度
地頭・荘官の年貢抑留に悩む国司・荘園領主は,今までより低額でも安定した収入を確保しようと,地頭などを被官化している守護に請負を委任した。一方守護は年貢未進(未納)・強制請負などで所領を拡大し,しだいに守護大名化していった。
守護代
しゅごだい @@@LINK=守護代 守護代

守護代
しゅごだい

中世,守護の代官
2国以上の守護を兼ねたり,鎌倉や京都に在住する守護は,国内の有力な家臣を代官として任国に置き,政治を行わせた。室町中期以降,国内の国人層を被官化し,実力で主家に代わり大名となる者が現れた。斯波 (しば) 氏の越前守護代朝倉氏,尾張守護代織田氏はその代表例。
守護大名
しゅごだいみょう @@@LINK=守護大名 守護大名

守護大名
しゅごだいみょう

室町時代,任国の支配権を強め領主化した守護
守護は鎌倉末期から職権を利用してしだいに任国内の武士を支配下に入れ,南北朝内乱期には半済 (はんぜい) ・守護請などの手段で荘園支配を強化し,任国を領国化して大名となった。幕府権力と荘園所に依存し,国内武士への支配力の弱さなどから,応仁の乱(1467〜77)後,守護代や国人から成長した戦国大名に代わられ,多くは没落した。
守護段銭
しゅごたんせん @@@LINK=守護段銭 守護段銭

守護段銭
しゅごたんせん

南北朝室町時代守護によって課せられた段銭
段銭は元来幕府が課すものであったが,守護を通じて課せられたところから,それを口実にしだいに守護自身が課すようになった。しかも頻繁でしだいに恒常化し,銭納でもあることにより,農民を苦しめた。半済 (はんぜい) とともに守護領国制の経済的基礎となった。
守護領国制
しゅごりょうごくせい @@@LINK=守護領国制 守護領国制

守護領国制
しゅごりょうごくせい

南北朝内乱期〜室町時代における守護大名の国内支配の体制
各地の守護は南北朝内乱の中で増大した権限を活用して,半済 (はんぜい) ・守護請・段銭賦課などの方法で国内の荘園に勢力を伸ばし,やがてその土地まで支配,さらに任国内の国人・荘官らを被官として統制支配し,任国を自分の領国として支配する封建領主(守護大名)に成長した。しかしこの領国制も幕府権力に頼り,在地の土豪や農民を完全に把握していなかったため,応仁の乱(1467〜77)を契機に幕府の衰退とともに崩壊し,戦国大名の領国支配へと変わった。
朱子学派
しゅしがくは @@@LINK=朱子学派 朱子学派

朱子学派
しゅしがくは

儒学者のうち朱子の学説を継承するものの総称
中国南宋の朱子(朱熹)が理気二元論を大成,わが国には鎌倉時代に伝わった。後醍醐 (ごだいご) 天皇・北畠親房 (ちかふさ) はその大義名分論の影響をうけ,五山僧は教養として学んだ。応仁の乱(1467〜77)後禅僧の地方下向により各地に普及し,薩南学派・海南学派・京学など諸派を形成し江戸時代の初め,京学の藤原惺窩の推薦で林羅山が徳川家康に登用されるに至り急速に発展,幕府文教政策の基礎となり,官学の地位を確立した。また水戸学や幕末の尊王運動の精神的支柱ともなる。
主従制
しゅじゅうせい @@@LINK=主従制 主従制

主従制
しゅじゅうせい

主人と従者の間に結ばれる支配・服従の関係
主として鎌倉時代の御家人制度に始まる封建的主従関係を意味する。鎌倉初期には単に交名 (きようみよう) (連名書)を注進するという略式の手段によって将軍との主従関係が成立したが,正式には初参 (ういざん) のを行い名簿 (みようぶ) をささげる。将軍は所領安堵・新恩給与などの御恩を与え,かわりに御家人は軍役などの奉公を行う義務を持つ。
呪術
じゅじゅつ @@@LINK=呪術 呪術

呪術
じゅじゅつ

まじないなどにより超自然的な力を借りて,ある目的を達しようとする行為
宗教と科学が分化する以前の原始・古代社会に広くみられた。縄文時代の土偶や,卑弥呼 (ひみこ) のシャーマニズムはその代表例。
朱 舜水
しゅしゅんすい @@@LINK=朱+舜水 朱+舜水

朱 舜水
しゅしゅんすい

1600〜82
江戸前期に来日した明代末期の儒学者
明の再興をはかったが実現できず,1659年長崎に亡命し,日本に帰化。'65年徳川光圀 (みつくに) に招かれ,儒教的礼儀作法を伝え,水戸学派や木下順庵・山鹿素行らに大きな影響を与えた。湯島聖堂を設計し,農事・造園・学制の指導も行った。
修禅寺
しゅぜんじ @@@LINK=修禅寺 修禅寺

修禅寺
しゅぜんじ

静岡県田方郡修善寺町にある曹洞宗の寺
798年空海が弟子杲隣 (こうりん) に命じて創建させたという。1193年源範頼が兄頼朝に,1204年2代将軍源頼家が北条時政にここに幽閉され,殺された。その後蘭溪道隆が来住し真言宗から臨済宗に,さらに戦国末期に後北条氏の一族隆溪が来住し曹洞宗にかわった。鎌倉時代遺物がある。
シュタイン
Lorenz von Stein @@@LINK=シュタイン シュタイン

シュタイン
Lorenz von Stein

1815〜90
ドイツの法学者・社会学者
ウィーン大学教授。君主権の強い立憲制を主唱。1882年憲法調査のため渡欧した伊藤博文にプロシア系憲法を教えた。グナイストとともに大日本帝国憲法成立に関係がある。

出定後語
しゅつじょうごご @@@LINK=出定後語 出定後語

出定後語
しゅつじょうごご

江戸中期,富永仲基が仏教思想を批判した書
1745年刊。2巻。仏教経典を分析して仏教思想やその展開について論述し,その方法論に「加上の説」をたて後世の付加物除去主張。本居宣長ら国学者の仏教批判に影響を与えた。
出版条例
しゅっぱんじょうれい @@@LINK=出版条例 出版条例

出版条例
しゅっぱんじょうれい

明治前期の出版取締り法規
1869年公布。法律批判の禁止,治安・風俗を乱す出版物の禁止などを規定。自由民権運動の高まりに対応して,'75年讒謗律 (ざんぼうりつ) ・新聞紙条例の公布に伴い改正,許可制を届出制にした。'87年保安条例公布により改正,取締規程を精密にした。'93年出版法が制定され内容は受け継がれた。
種痘所
しゅとうじょ @@@LINK=種痘所 種痘所

種痘所
しゅとうじょ

1858年に江戸神田に開設された種痘所
'60年幕府直轄となり,'63年医学所となる。
ジュネーヴ会議
ジュネーヴかいぎ @@@LINK=ジュネーヴ会議 ジュネーヴ会議

ジュネーヴ会議
ジュネーヴかいぎ

①1954年4月,極東の平和回復のためジュネーヴで開かれた国際会議
②1955年7月,ジュネーヴで行われた,アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国代表による会談
アメリカ・イギリス・ソ連・中国など18カ国が参加。朝鮮統一問題とインドシナ問題について話し合われ,インドシナ休戦協定が成立した。
アメリカ大統領アイゼンハウアー,イギリス首相イーデン,フランス首相フォール,ソ連首相ブルガーニンの4巨頭が,ドイツ問題・ヨーロッパの安全保障・軍縮などについて協議。冷戦緩和に貢献した。
ジュネーヴ協定
ジュネーヴきょうてい @@@LINK=ジュネーヴ協定 ジュネーヴ協定

ジュネーヴ協定
ジュネーヴきょうてい

1954年のジュネーヴ会議で締結された,フランスとヴェトナムホー=チ=ミン政権)との間の協定
北緯17度線を暫定境界線として停戦し,1956年7月に統一選挙を行うことなどを決定したが,統一選挙は行われず,ヴェトナムの分裂は長期にわたり,固定することとなった。
ジュネーヴ軍縮会議
ジュネーヴぐんしゅくかいぎ @@@LINK=ジュネーヴ軍縮会議 ジュネーヴ軍縮会議

ジュネーヴ軍縮会議
ジュネーヴぐんしゅくかいぎ

①1927年6月,アメリカ大統領クーリッジの提唱によってジュネーヴで開かれた軍縮会議
②1932年2月,国際連盟主催のもと,61カ国が参加して開かれた軍縮会議(〜'34.5)
日本から斎藤実 (まこと) ・石井菊次郎が参加。ワシントン会議でのぞかれた補助艦艇の保有制限を討議したが,フランス・イタリアの不参加やイギリス・アメリカの対立で失敗に終わった。
ドイツが軍備平等権を,フランスが安全保障制度の確立を主張し難航。ドイツの連盟脱退により中断された。
寿福寺
じゅふくじ @@@LINK=寿福寺 寿福寺

寿福寺
じゅふくじ

鎌倉市扇ケ谷にある臨済宗の寺
1200年源頼朝の妻政子の創建で栄西 (えいさい) が開山となる。幕府の保護も厚く,2度の焼失にあったが,室町時代に鎌倉五山の第3位に列した。1395年の火災規模も小さくなった。
聚楽第
じゅらくてい @@@LINK=聚楽第 聚楽第

聚楽第
じゅらくてい

豊臣秀吉が京都内野の旧大内裏址に造営した城郭風邸宅
「じゅらくだい」とも読む。1587年完成。翌年後陽成天皇の行幸を仰ぎ天下にその威を示した。'91年豊臣秀次 (ひでつぐ) が関白をつぐとその居所となり,'95年秀次滅亡のあと破壊された。京都大徳寺唐門,西本願寺飛雲閣はその遺構とも伝えられる。『聚楽第図屛風』は当時を知る貴重な資料。
春屋妙葩
しゅんおくみょうは @@@LINK=春屋妙葩 春屋妙葩

春屋妙葩
しゅんおくみょうは

1311〜88
南北朝時代の臨済宗の僧
甲斐の人。夢窓疎石の弟子で,政治的手腕に富み,足利義満の信任が厚かった。天竜寺・南禅寺の住持となったが管領細川頼之と対立。頼之の管領辞任により初代僧録司となり禅宗を統轄した。また五山版の刊行に貢献した。

俊寛
しゅんかん @@@LINK=俊寛 俊寛

俊寛
しゅんかん

?〜1179
平安末期の真言宗の僧
権大納言源雅俊の孫。法勝寺の執行 (しゆぎよう) 。後白河上皇の近臣。1177年鹿ケ谷で平氏討滅の謀議を企てたとの理由で藤原成親らとともに逮捕され,薩摩国(鹿児島県)鬼界ケ島に流された。ひとり大赦から除外され,その翌年37歳で没したという。

遵行状
じゅんぎょうじょう @@@LINK=遵行状 遵行状

遵行状
じゅんぎょうじょう

室町時代の武家文書の一つ
「じゅんこうじょう」とも読む。御教書 (みきようじよ) で出された将軍命令が,管領や探題から施行状 (せぎようじよう) によって守護に取りつがれ,守護がさらにそれを守護代に取りつぐ場合に用いる文書。守護代はこれを打渡状 (うちわたしじよう) で国内に伝える。
春慶塗
しゅんけいぬり @@@LINK=春慶塗 春慶塗

春慶塗
しゅんけいぬり

漆器の一つ
生地 (きじ) に黄か赤で着色し,その上に透明漆 (うるし) を塗り,木地が透けてみえる塗り方。応永(1394〜1428)のころ,堺の漆工春慶が巧みでこの名が出たという。その後各地でつくられたが,飛驒国高山・出羽国能代が有名。
巡見使
じゅんけんし @@@LINK=巡見使 巡見使

巡見使
じゅんけんし

江戸時代,幕府が将軍の代替りごとに全国各地を巡検のため派遣した役人
目付が任ぜられ,定員は35人。幾組にも分かれて巡回し,各地の政情・民情を視察した。のちしだいに形式化した。
巡察使
じゅんさつし @@@LINK=巡察使 巡察使

巡察使
じゅんさつし

律令制下,太政官に属する臨時の視察官
諸国を視察し,人民の窮乏を調査する役職。694年に始まり,712年に毎年の巡察,758年には3年に1回となり,830年に廃絶
殉死
じゅんし @@@LINK=殉死 殉死

殉死
じゅんし

主人の死に際し従者があとを追って自殺すること
古くからあり大化の改新の際禁止されたが,武士社会出現とともに再び始まった。江戸初期には殉死者の数を誇る状態となり,弊害が多かったので,文治政治展開の気運の中で,1663年幕府はこれを厳禁した。
俊芿
しゅんじょう @@@LINK=俊芿 俊芿

俊芿
しゅんじょう

1166〜1227
鎌倉初期の僧
不可棄と号す。肥後の人。南都・北嶺の学に満足せず,1199年から1211年にかけ,宋に留学。戒律・宋学を学ぶ。帰朝後,洛東の仙遊寺を寄進され,泉涌 (せんにゆう) 寺と改名し開山となる。律宗の再興に努力した。

俊乗坊
しゅんじょうぼう @@@LINK=俊乗坊 俊乗坊

俊乗坊
しゅんじょうぼう

重源
春色梅児誉美
しゅんしょくうめごよみ @@@LINK=春色梅児誉美 春色梅児誉美

春色梅児誉美
しゅんしょくうめごよみ

江戸後期,為永春水の人情本
「春色梅暦」とも書く。1832〜33年刊。4編12冊。主人公丹次郎をめぐる女の葛藤を描いた。恋し合っている男女の会話の甘美な情感の中に,ストーリーが語られる。人情本の典型
順徳天皇
じゅんとくてんのう @@@LINK=順徳天皇 順徳天皇

順徳天皇
じゅんとくてんのう

1197〜1242
鎌倉初期の天皇(在位1210〜21)
後鳥羽天皇の第3皇子。母は修明門院藤原重子。父上皇の鎌倉幕府打倒計画に参加し,1221年仲恭天皇に譲位して承久の乱をおこしたが失敗,佐渡に流された。著書に有職 (ゆうそく) 書『禁秘抄』,歌論書『八雲御抄』など。

淳仁天皇
じゅんにんてんのう @@@LINK=淳仁天皇 淳仁天皇

淳仁天皇
じゅんにんてんのう

733〜765
奈良時代の天皇(在位758〜764)
舎人 (とねり) 親王第7皇子。天武天皇の孫。藤原仲麻呂を重用し,官名を中国風に改めた。のち道鏡を寵愛する孝謙上皇と対立し,藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)ののち退位させられ,淡路島に流されその地で没した。淡路廃帝といわれる。

春陽会
しゅんようかい @@@LINK=春陽会 春陽会

春陽会
しゅんようかい

現代日本の美術団体
1922年に小杉放庵・山本鼎 (かなえ) ・梅原竜三郎・岸田劉生らが創立。のち梅原・岸田らは脱会し,河野通勢・岡本一平らが参加。特定主張をせず,前衛的作品もみられる。
如庵
じょあん @@@LINK=如庵 如庵

如庵
じょあん

江戸前期,織田有楽斎 (うらくさい) が京都建仁寺の正伝庵につくった茶室
現在は愛知県犬山市に移築されている。その茶席は壁の下部に暦が張ってあるので「暦張りの席」といわれる。
書院造
しょいんづくり @@@LINK=書院造 書院造

書院造
しょいんづくり

室町中期におこった住宅の一様式
安土桃山時代に完成し江戸時代に普及。書院とは元来書物を見るために縁側に張り出し,前に明障子 (あかりしようじ) を立てた小室。玄関・襖障子により仕切った多くの部屋に畳をしき,座敷飾として付書院・床・棚を設ける。今日の一般住宅の源流をなす。代表的遺構に銀閣寺東求 (とうぐ) 堂同仁斎,二条城二の丸御殿,西本願寺白書院など。
書院の茶
しょいんのちゃ @@@LINK=書院の茶 書院の茶

書院の茶
しょいんのちゃ

書院造広間で行う茶の湯,またその際飾る茶道具の法式
室町幕府8代将軍足利義政の側近能阿弥が制作,孫相阿弥が完成。従来の闘茶会所飾りがもとになるが,それより精神的雰囲気を重要視した。道具を唐物 (からもの) という。のち侘 (わ) び茶の流行で微した。
書院番
しょいんばん @@@LINK=書院番 書院番

書院番
しょいんばん

江戸幕府の職名
番方の一つで,江戸城内の警備,将軍外出時の随行,毎年交代で駿府駐在などを職務とした。若年寄の支配に属し,旗本が任命された。初め江戸城白書院に勤務したのでこの名がある。

しょう @@@LINK=荘 荘


しょう

荘園

じょう @@@LINK=杖 杖


じょう

律令刑罰の一つ。➡ 五刑
判官
じょう @@@LINK=判官 判官

判官
じょう

律令制下,四等官の第3位の官職。
聖一国師
しょういちこくし @@@LINK=聖一国師 聖一国師

聖一国師
しょういちこくし

円爾
攘夷論
じょういろん @@@LINK=攘夷論 攘夷論

攘夷論
じょういろん

江戸後期に盛行した排外思想
儒学の華夷思想に基づく本朝独善思想と国学の神国思想が合体して発生。幕末になると外国勢力の圧力を感じ,民族的反発と国家危機意識が高揚し,長い鎖国体制下で外国事情に暗かったので,極端な排外思想となった。尊王論とは別個のものであったが,幕末の対外危機の中で結合して尊王攘夷論となり,討幕運動にまで発展した。
貞永式目
じょうえいしきもく @@@LINK=貞永式目 貞永式目

貞永式目
じょうえいしきもく

御成敗式目
荘園
しょうえん @@@LINK=荘園 荘園

荘園
しょうえん

8世紀から16世紀にかけて存在した私的所有地
大化の改新により公地公民が原則とされたにもかかわらず,律令制の中にも土地・人民の私的支配は残っていた。そこに土地私有制が復活する誘因が存在したが,荘園発生の直接的契機となったのは743年の墾田永年私財法の発布である。これ以後貴族や寺社は墾田の開発を進め,自墾地系荘園を開いた。都やその近辺に住む荘園領主が現地に設けた事務所が荘である。初期荘園は国家の租税を納むべき土地を含んでいるのがふつうであったため,荘園領主は9世紀以後不輸・不入の特権を得る努力を進めていった。しかし地方豪族には不輸・不入権の獲得が難しかったので,彼らは中央の貴族や寺社に名義上の土地所有権を移して国司などの侵入を防ぐことを考えた。すなわち権門勢家を本家・領家として一定の年貢をさし出し,みずからは荘官となって実際の土地支配権を確保したのである。これが寄進地系荘園である。荘園が広まる中で,902年醍醐 (だいご) 天皇による延喜の荘園整理令以降数回にわたって荘園整理令が出されたが,かえって摂関家に荘園を集中させることになった。1069年後三条天皇による延久の整理令における記録荘園券契所での整理はかなりの効果をあげたようであるが,その結果天皇・院が有力な荘園領主となってしまった。鎌倉中期以降,地頭請や下地中分によって地頭が盛んに荘園を侵略し,室町時代になると守護請や半済によって守護大名が一円知行を進めていった。加えて,13世紀以降に顕著となる商品経済の発達は,荘園の封鎖的経済を内部から動揺させることとなった。こうして得分収取機構として存在していた荘園は,戦国大名による一円領地化の動きとともに,地域的な村・郷の単位に編成されて(郷村制),その内部から崩壊し,豊臣秀吉の太閤検地によって完全に消滅した。
上円下方墳
じょうえんかほうふん @@@LINK=上円下方墳 上円下方墳

上円下方墳
じょうえんかほうふん

古墳の一形式
上部は平面円形下部は平面方形につくられた古墳。実例は少なく,天智天皇陵があげられるが,これも方形部は造営当時のままではないといわれている。
荘園整理令
しょうえんせいりれい @@@LINK=荘園整理令 荘園整理令

荘園整理令
しょうえんせいりれい

平安中期〜末期国家の収入維持のため新立・不正の荘園を整理する目的で公布した法令
902(延喜2)・984・1045・1055年としばしば公布され,新立・不正の荘園を停止しようとしたが,あまり効果がなかった。1069(延久元)年に後三条天皇は記録荘園券契所を設置して藤原氏の荘園を中心に大規模な整理を行ったが,その後の院政時代には荘園増加を抑えきれなくなった。
蔣介石
しょうかいせき @@@LINK=蔣介石 蔣介石

蔣介石
しょうかいせき

1887〜1975
台湾(中華民国)の軍人・政治家。中国国民政府総統
浙江省出身。日本陸軍士官学校卒。辛亥革命で活躍し,孫文死後右派の立場で国民党を指導。1926年国民革命軍総司令として北伐を進め,'27年の4・12クーデタ後,南京に国民政府を樹立した。その際共産党を弾圧。日本の中国進出が進むと,西安事件('36)を機に,国共合作による抗日にふみきり,日中戦争にあたる。抗日戦後,中国共産党との内戦に敗れ,'49年に台湾に退き,国民政府を維持した。
奨学院
しょうがくいん @@@LINK=奨学院 奨学院

奨学院
しょうがくいん

平安前期,在原行平が創設した大学別曹
藤原氏の勧学院にならい,その西隣に諸王および在原氏の子弟教育のため学生を寄宿させ,学費を支給して大学へ通学させた。12世紀には衰えたが,村上源氏中院家 (なかのいんけ) が別当職を世襲,室町・江戸時代は将軍家が形式的に世襲した。
城郭建築
じょうかくけんちく @@@LINK=城郭建築 城郭建築

城郭建築
じょうかくけんちく

近世を代表する,堅固な防塞広壮殿舎を備えた建築
中世は天険を利用した山城領主の館に防御工事を加えた。安土桃山時代になると平山・平城に移行し,幾重にもをめぐらし高い石垣で囲み,中心の本丸天守閣,さらに二の丸,三の丸を備え城主権威を示した。安土大坂・姫路・松本など各地に営まれた。城郭建築は大名政庁居所・軍事基地を兼ねるとともに,桃山文化の象徴であった。
定額寺
じょうがくじ @@@LINK=定額寺 定額寺

定額寺
じょうがくじ

古代に行われた官寺制度による一定の格をもつ寺
私寺の乱造を抑えて統制するために,680年に設けたのが始まりという。定額寺になると,国家は私人の建立した寺に寺額を与え,官稲を支給した。その経済的保護を目あてに,平安時代激増したが,律令制の動揺とともにしだいに衰えた。
松下村塾
しょうかそんじゅく @@@LINK=松下村塾 松下村塾

松下村塾
しょうかそんじゅく

幕末,長州(山口県)萩にあった吉田松陰の私塾
松陰が叔父の塾を受け継ぎ,1857年自邸内に開き,熱烈な尊王攘夷思想で子弟を教育した。久坂玄瑞 (くさかげんずい) ・高杉晋作・伊藤博文らの門下生を出し,明治維新に与えた影響が大きい。
小学校令
しょうがっこうれい @@@LINK=小学校令 小学校令

小学校令
しょうがっこうれい

明治時代小学校教育に関する教育法規
1886年公布。教育はすべて国家のためという考えをもった森有礼 (ありのり) が立案。小学校を尋常小学校高等小学校の2段階に分け,修業年限各4年として尋常科を義務制,教育課程教科書などは文部大臣が定めることにし,教育の全国統一・中央集権化が制度化された。改定が重ねられ,その基本方針は1941年の国民学校令まで存続した。
松花堂昭乗
しょうかどうしょうじょう @@@LINK=松花堂昭乗 松花堂昭乗

松花堂昭乗
しょうかどうしょうじょう

1584〜1639
江戸初期の文人・書画家
堺の人。石清水 (いわしみず) (男山)八幡宮滝本坊の社僧。近衛信尹 (のぶただ) ・沢庵・林羅山らと交わり東山文化継承。書は寛永三筆の一人に数えられ,水墨画・大和絵・茶道にも長じた。

城下町
じょうかまち @@@LINK=城下町 城下町

城下町
じょうかまち

戦国〜江戸時代,封建領主の居城を中心として発達した町
中世末期,富国強兵を目ざす戦国大名は居城を便利な平地に移し,家臣を統制し訓練するために城下に集住させ,彼らの消費生活の支えと富国実現のために商工業者を招いて町を形成した。城を中心に侍屋敷,その外側に商人地・職人地・寺社などを配置し,軍事上から道路は曲折して見通しが悪い。江戸時代,藩経済の中心として発達した。大内氏の山口,島津氏の鹿児島,今川氏の駿河(静岡県),後北条氏の小田原,織田氏の安土,豊臣氏大坂,徳川氏の江戸などが有名。
荘官
しょうかん @@@LINK=荘官 荘官

荘官
しょうかん

荘園において,荘園領主への貢租納入および荘園管理にたずさわった人
荘司ともいう。地頭・預所 (あずかりどころ) ・下司 (げし) ・公文 (くもん) ・別当案主 (あんず) などがあるが,荘園によりその呼称は一定しない。荘園領主から派遣されたり,荘園の寄進者である在地領主が任命されたりした。得分(収入)として一般に給田・給名が与えられた。
貞観格式
じょうがんきゃくしき @@@LINK=貞観格式 貞観格式

貞観格式
じょうがんきゃくしき

平安初期の法令集。三代格式の一つ
清和天皇の勅命により撰進。格12巻は869年,式20巻は871年に成立。直ちに施行された。現在すべて散逸したが,『類聚三代格』その他によって内容をうかがうことができる。
彰義隊
しょうぎたい @@@LINK=彰義隊 彰義隊

彰義隊
しょうぎたい

1868年,江戸開城に反対し,維新政府軍と戦った旧幕臣の一隊
鳥羽・伏見の戦い後,徳川慶喜 (よしのぶ) の新政府に対する恭順を不満とした渋沢成一郎(喜作)ら旧幕臣の有志が結成。江戸開城後,上野寛永寺を根拠地として抗戦したが,新政府軍の総攻撃をうけて壊滅した。
承久の乱
じょうきゅうのらん @@@LINK=承久の乱 承久の乱

承久の乱
じょうきゅうのらん

1221(承久3)年,京都の朝廷と鎌倉幕府との間におこった争乱
公家勢力の回復を志していた後鳥羽上皇は,源頼朝死後相次ぐ有力御家人の反抗など幕府内の混乱と将軍実朝の死(1219)を契機に,討幕計画を進め,北条義時追討の兵を挙げたが,北条政子・執権義時を中心に団結し上洛した幕府軍に大敗。幕府は仲恭天皇の廃位,後鳥羽・土御門 (つちみかど) ・順徳の3上皇の配流,朝廷方公卿・武士の所領没収と新補地頭の設置,六波羅探題の設置などを行った。その結果,公家政権は衰え,幕府権力は確立し北条氏執権体制が進展した。
商業資本
しょうぎょうしほん @@@LINK=商業資本 商業資本

商業資本
しょうぎょうしほん

商業(流通)活動によって利潤をあげる資本
近代以前,商品生産が競争をひきおこすほどに一般化せず,また交通の未発達により統一市場が形成されていないために地域間の価格差がはなはだしい結果,安く買って高く売るという方法で利潤をひき出した前期的な資本。
貞享暦
じょうきょうれき @@@LINK=貞享暦 貞享暦

貞享暦
じょうきょうれき

江戸中期に使用された太陰暦
天文学者渋川春海 (はるみ) が元の授時暦,明の大統暦を参考にして考案。1685(貞享2)年,平安時代以来の宣明 (せんみよう) 暦に代わって採用された日本人の手による最初の暦で,1755年宝暦暦に代わるまで70年間使用された。
上局・下局
じょうきょく・かきょく @@@LINK=上局・下局 上局・下局

上局・下局
じょうきょく・かきょく

明治初年の立法機関
1868年閏4月の政体書により議政官の機関として設置。上局は議定参与などで構成され,政体創立・立法・官吏任用条約締結・和戦決定などの重大国事をつかさどる。下局は貢士で構成され,上局の命をうけて租税・駅逓・造幣・条約・軍事などを審議した。'69年の議政官廃止後も,下局は公議所(のち集議院)として存続した。
上宮聖徳法王帝説
じょうぐうしょうとくほうおうていせつ @@@LINK=上宮聖徳法王帝説 上宮聖徳法王帝説

上宮聖徳法王帝説
じょうぐうしょうとくほうおうていせつ

平安初期に成立した聖徳太子の最古の伝記
7〜8世紀ころの史料を編集して成立。1巻。作者不詳。記紀にない異伝が多く,古代史研究の重要史料。仏教公伝の年も『日本書紀』の記載と違う。
将軍
しょうぐん @@@LINK=将軍 将軍

将軍
しょうぐん

「征夷大将軍」の略称
将軍継嗣問題
しょうぐんけいしもんだい @@@LINK=将軍継嗣問題 将軍継嗣問題

将軍継嗣問題
しょうぐんけいしもんだい

幕末,13代将軍徳川家定の継嗣をめぐる政争
1857年から継嗣問題が公然化。紀伊藩主徳川慶福 (よしとみ) を推す井伊直弼 (なおすけ) らの紀州派(南紀派)と,一橋慶喜 (よしのぶ) を推す松平慶永・島津斉彬 (なりあきら) らの一橋派(雄藩連合派)とが争ったが,'58年井伊の大老就任によって紀州派が勝利し,慶福は14代将軍となり家茂 (いえもち) と改名した。
将軍後見職
しょうぐんこうけんしょく @@@LINK=将軍後見職 将軍後見職

将軍後見職
しょうぐんこうけんしょく

幕末江戸幕府の職名
1858年田安慶頼 (よしより) が就任したが,'62年免職。同年幕政改革の勅命により政事総裁職などとともに設置された。一橋慶喜 (よしのぶ) が就任して14代将軍徳川家茂 (いえもち) を補佐。'64年慶喜の辞任により廃止された。
定慶
じょうけい @@@LINK=定慶 定慶

定慶
じょうけい

生没年不詳
鎌倉時代の慶派の仏師
運慶の2男康運の改名という。写実的な作風で,興福寺『維摩像』『梵天像』などの作品がある。

貞慶
じょうけい @@@LINK=貞慶 貞慶

貞慶
じょうけい

1155〜1212
鎌倉初期の法相宗の僧。法相宗中興の祖
解脱 (げだつ) 上人という。初め興福寺に住したが,僧侶腐敗堕落に憤慨し,山城(京都府)笠置山に隠棲,その後大和の海住山寺に移った。法然の浄土宗には批判的態度をとり,釈迦への復帰を訴え,南都戒律の復興につとめた。著書『儀観鈔』『愚迷発心集』など。
聖護院
しょうごいん @@@LINK=聖護院 聖護院

聖護院
しょうごいん

京都市左京区聖護院町にある寺
もと天台宗寺門派の大本山。三門跡の一つで,円珍の開基。1090年白河上皇の熊野参詣のとき,増誉 (ぞうよ) が先達をうけたまわり,本寺を修験道の鎮守とした。現在独立して修験宗 (しゆげんしゆう) の本山。
上皇
じょうこう @@@LINK=上皇 上皇

上皇
じょうこう

譲位後の天皇への尊号。「太上天皇 (だいじようてんのう) 」の略称
院・仙洞ともいう。出家すると法皇(太上法皇)となる。飛鳥時代,持統天皇が譲位し,太上天皇と称したのに始まる。平安後期になり白河上皇以後院政が行われた。
成功
じょうごう @@@LINK=成功 成功

成功
じょうごう

平安時代に行われた売官制度
平安後期,造寺・造仏が流行すると,朝廷や院に代わってその費用を負担した者が,代償として官職を授けられた。収入の多い国司に任ぜられることが多く,地方政治の乱れにいっそう拍車をかけた。
商工会議所
しょうこうかいぎしょ @@@LINK=商工会議所 商工会議所

商工会議所
しょうこうかいぎしょ

商工業の改善・発達を目的として,都市または一定地域内の商工業者が結成した経済団体
起源は江戸時代町会所にあり,1877年渋沢栄一らが東京商法会議所を設立。1927年商工会議所と改称。商工会議所は1市1会議所を原則とした。'50年第二次世界大戦前の趣旨を再確認する商工会議所法,'53年新商工会議所法が制定された。
彰考館
しょうこうかん @@@LINK=彰考館 彰考館

彰考館
しょうこうかん

江戸前期,水戸藩主徳川光圀 (みつくに) が設立した『大日本史』の編纂所
1657年から江戸駒込別邸内に史局を設け編纂を開始したが,'72年小石川の本邸に史局を移し,彰考館と命名した。光圀の死後水戸にも置かれたが,1830年徳川斉昭が水戸に統一した。光圀自身も出勤し多くの儒者・筆生を集め,修史事業のほか,経書の講義も行われた。
相国寺
しょうこくじ @@@LINK=相国寺 相国寺

相国寺
しょうこくじ

京都市上京区にある臨済宗相国寺派の本山。京都五山の第2位
1383年将軍足利義満が「花の御所」の東隣に「首相・宰相」という名を冠して創建。春屋妙葩 (しゆんおくみようは) を開山,第1世をその師夢窓疎石とする。五山の中枢を占め,寺内にある鹿苑院の院主僧録司として禅宗寺院を管理した。
招魂社
しょうこんしゃ @@@LINK=招魂社 招魂社

招魂社
しょうこんしゃ

靖国神社の前身
正作
しょうさく @@@LINK=正作 正作

正作
しょうさく

佃 (つくだ)
尚氏
しょうし @@@LINK=尚氏 尚氏

尚氏
しょうし

琉球王国の王家
15世紀に沖縄本島を統一。1609年薩摩藩に征服されたのちもいちおう王家の体裁は保っていた。1872年明治政府により華族・琉球藩王とされ,'79年琉球処分以後は東京に移住させられた。
荘司
しょうじ @@@LINK=荘司 荘司

荘司
しょうじ

荘官
尚歯会
しょうしかい @@@LINK=尚歯会 尚歯会

尚歯会
しょうしかい

江戸後期,渡辺崋山・高野長英を中心に結成された蘭学者のグループ
ほかに小関三英・江川太郎左衛門・川路聖謨 (としあきら) ら蘭学者や西洋文化に関心をもつ俊才結集。1832年ごろ成立したという。西洋文物の研究,政治経済論を交換し,政治的実践的な性格をもった。'39年蛮社の獄で解散
成実宗
じょうじつしゅう @@@LINK=成実宗 成実宗

成実宗
じょうじつしゅう

南都六宗の一つ
三論宗の付宗(付属する宗派)で,インドのカリバツマのつくった成実論に基づく。俗諦と真諦を対立させ,俗諦の存在をいちおう認めるが,真実界に立ってみればそれは空であると説く。半分小乗,半分大乗の教え。
聖衆来迎図
しょうじゅうらいごうず @@@LINK=聖衆来迎図 聖衆来迎図

聖衆来迎図
しょうじゅうらいごうず

阿弥陀仏を中心に諸菩薩の来迎姿を図にしたもの
平安中期以後浄土教の普及とともに好んで描かれた。源信作と伝えられる高野山蔵のものが有名。
成尋
じょうじん @@@LINK=成尋 成尋

成尋
じょうじん

1011〜81
平安中期の天台宗の僧
三蹟の一人。藤原佐理 (さり) の子。1072年弟子頼縁 (らいえん) とともに入宋 (につそう) 。天台・五台山を巡歴し,得た経典を頼縁に託して帰国させた。宋の神宗に重用され,明州に没した。善慧 (ぜんえ) 大師。著書に『参天台五台山記』8巻。

正税
しょうぜい @@@LINK=正税 正税

正税
しょうぜい

律令制において,諸国の正倉 (しようそう) に貯蔵され,地方の財源となった稲
田租として徴収され,大税ともいわれた。一部を出挙 (すいこ) し,その利息を地方の費用にあてたり,官物の不足を補った。のち公出挙稲・公廨稲・雑稲に分けられた。
正税帳
しょうぜいちょう @@@LINK=正税帳 正税帳

正税帳
しょうぜいちょう

律令制において,国司が正税の収支決算に関し毎年政府に提出した帳簿
正倉院に一部が現存している。
小説神髄
しょうせつしんずい @@@LINK=小説神髄 小説神髄

小説神髄
しょうせつしんずい

明治前期,坪内逍遙の文芸論
1885〜86年刊。上下2巻。江戸文芸にみられる戯作 (げさく) 性・勧善懲悪主義を排し,文学そのものの自律的価値と心理・感情をありのままに描写する写実主義を提唱した。日本近代文学の出発点を画した先駆的著作。
正倉院
しょうそういん @@@LINK=正倉院 正倉院

正倉院
しょうそういん

奈良市東大寺境内にある校倉 (あぜくら) 造の宝庫
宝庫の正面33.1m,奥行9.4m,高さ13m余。内部は北・中・南の3倉に分かれ,正倉院宝物1万余点が分納されていた。北・南倉が校倉造,中倉は板倉式。古くから勅封(天皇の許可なしでは開けられないもの)だったので保存状態が良い。現在,宮内庁が管理。
正倉院宝物
しょうそういんほうもつ @@@LINK=正倉院宝物 正倉院宝物

正倉院宝物
しょうそういんほうもつ

東大寺正倉院宝庫に納められている品物
北倉には光明皇后から東大寺に奉納された聖武天皇の遺愛品,中倉には大仏開眼会の献納品や武器・武具・文書類,南倉にはおもに東大寺の法会用具,特に伎楽 (ぎがく) 面や楽器などが納められている。大部分は奈良時代のものであるが,唐代の遺品も多く,遠く中近東,ギリシアローマにつながるものがある。
正倉院文書
しょうそういんもんじょ @@@LINK=正倉院文書 正倉院文書

正倉院文書
しょうそういんもんじょ

東大寺正倉院に伝わる8世紀の古文書
総数1万2000余点。大部分は写経および寺院造営に関する文書。ほかに詔勅・諸国の戸籍・計帳・正税帳・輸租帳・各官庁の往復文書など多様。いずれも古代史の貴重な文献
尚泰
しょうたい @@@LINK=尚泰 尚泰

尚泰
しょうたい

1843〜1901
最後の琉球国王
1872年に琉球藩が置かれると琉球藩王とされ,華族に列せられた。'79年の沖縄県設置(琉球処分)により,首里城の明け渡しと東京移住を命じられた。'85年華族令により侯爵。
城代
じょうだい @@@LINK=城代 城代

城代
じょうだい

江戸時代,幕府・の職名
城主に代わって城を守るという意味。幕府では伏見・大坂・駿府・二条の各城に城主を置かず,城代を常置して城の守護と政務を管掌した。大坂城代は,京都所司代とともに,西国大名の監視をもつとめた。諸藩では,国元で政務を統括する家老が城代家老と呼ばれた。
上代様
じょうだいよう @@@LINK=上代様 上代様

上代様
じょうだいよう

平安時代の純日本風の書風
三蹟といわれた小野道風 (とうふう) ・藤原佐理 (さり) ・藤原行成 (こうぜい) らがおこした書風をさす。10世紀中ごろから唐様 (からよう) の書風を脱し,11世紀初頭に上代様と呼ばれる和様書道が完成。後世の書道の根幹となった。
樵談治要
しょうだんちよう @@@LINK=樵談治要 樵談治要

樵談治要
しょうだんちよう

室町中期,一条兼良 (かねよし) が,将軍足利義尚 (よしひさ) の求めにより提出した政治意見書
1480年成立。1巻。神仏を崇敬し,守護には廉直の人を先にすること,訴訟奉行人や近習者の人選は厳格にすることなど,8カ条からなり,特に足軽の停止を力説し,日野富子の政治介入を認めるなど注目すべきものがある。
浄智寺
じょうちじ @@@LINK=浄智寺 浄智寺

浄智寺
じょうちじ

鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺。鎌倉五山の第4位
13世紀末,北条宗政・師時父子が創建,兀庵普寧 (ごつたんふねい) を開山とする。その後一山一寧 (いつさんいちねい) らが住持となったが,上杉禅秀の乱(1416〜17)以来たびたびの火災により衰微した。
正中の変
しょうちゅうのへん @@@LINK=正中の変 正中の変

正中の変
しょうちゅうのへん

1324(正中元)年,後醍醐 (ごだいご) 天皇の鎌倉幕府討伐計画が発覚した事件
天皇は天皇親政を理想とし,院政を廃止し,日野資朝 (すけとも) ・日野俊基らと討幕挙兵を計画したが,幕府方にもれて失敗。しかし,資朝が一人で罪を負い佐渡に配流され,天皇は事件に関係ないと弁明して処罪をまぬがれた。
定朝
じょうちょう @@@LINK=定朝 定朝

定朝
じょうちょう

?〜1057
平安中期の仏師
康尚 (こうしよう) の子。法成寺造仏の功により,法橋(僧位一種)となった。寄木造を完成し,多くの弟子をもって仏像を彫らせた。作風は比率のととのった純和様で定朝様と呼ばれ,のち長く日本彫刻の規範となった。代表作に平等院鳳凰堂の『阿弥陀如来像』。

正長の土一揆
しょうちょうのつちいっき @@@LINK=正長の土一揆 正長の土一揆

正長の土一揆
しょうちょうのつちいっき

室町中期,畿内一帯におこった大規模な土民蜂起
1428(正長元)年,近江坂本の馬借の一揆に端を発し,山科醍醐 (だいご) など京都近郊の土民が蜂起し,酒屋・土倉を襲い,幕府に徳政を要求し,幕府の拒否にもかかわらず,実力で債務破棄を断行した。一揆は畿内一帯に波及し,その規模の大きさと社会に対する影響は大きかった。
詔勅
しょうちょく @@@LINK=詔勅 詔勅

詔勅
しょうちょく

国の主権者としての天皇の命令を伝える公文書。詔と勅
臨時の大事に際しては詔を,平時の小事には勅を用いた。大日本帝国憲法下では詔書・勅語・勅書などがあり,日本国憲法下では国会召集・解散に際して用いる詔書のみになった。
少丁
しょうてい @@@LINK=少丁 少丁

少丁
しょうてい

大宝令で規定された17〜20歳の男子
養老令では中男という。調雑徭は正丁の4分の1を課せられた。757年には18〜21歳に改められた。
正徹
しょうてつ @@@LINK=正徹 正徹

正徹
しょうてつ

1381〜1459
室町中期の歌人。臨済宗の僧
備中(岡山県)の人。東福寺の書記となり,徹書記といわれる。和歌を今川了俊に学ぶ。二条家流を排し藤原定家を尊重し,みずから定家宗と称した。歌風は余情妖艶な幽玄風。家集に『草根集』,歌論書に『正徹物語』がある。
定田
じょうでん @@@LINK=定田 定田

定田
じょうでん

荘園領主国衙 (こくが) の年貢課役の対象となる田地
荘園・公領内の土地で,荒田・神田・寺田・給田など,年貢・公事を免除される除田以外の田地をいう。
乗田
じょうでん @@@LINK=乗田 乗田

乗田
じょうでん

公田
賞典禄
しょうてんろく @@@LINK=賞典禄 賞典禄

賞典禄
しょうてんろく

王政復古に功労のあった者に対して行われた論功行賞
1869年,政府は没収した幕府その他の領地からの年貢を財源として実施。永世禄・終身禄・年限禄の3種があり,それぞれ現米で支給された。'76年金禄公債発行により廃止。
上東門院
じょうとうもんいん @@@LINK=上東門院 上東門院

上東門院
じょうとうもんいん

藤原彰子
浄土教
じょうどきょう @@@LINK=浄土教 浄土教

浄土教
じょうどきょう

阿弥陀如来の住む浄土に往生することを願う仏教の教え
仏教は難行苦行を重ね,悟りに達せんとするが,時代の下るに従いやさしい教えが要望された。阿弥陀仏信仰はまずインドで芽生え,中国では4世紀以後,特に7世紀の道綽 (どうしやく) ・善導らによって顕著に展開された。わが国でも飛鳥仏教に始まるが,平安中期以降空也の諸国巡歴や源信の『往生要集』などにより盛んになり,法然・親鸞によって大成された。
浄土教芸術
じょうどきょうげいじゅつ @@@LINK=浄土教芸術 浄土教芸術

浄土教芸術
じょうどきょうげいじゅつ

阿弥陀信仰を表現した芸術
浄土思想は飛鳥時代から存在したが,平安中期以降浄土教の隆盛に伴って各方面に発達した。極楽浄土現世に現出しようとした平等院鳳凰堂・中尊寺金色堂のような阿弥陀堂建築や,阿弥陀如来来迎を願う京都大原三千院の『阿弥陀像』などの彫刻高野山の『聖衆来迎図』などの絵画がある。
正徳金銀
しょうとくきんぎん @@@LINK=正徳金銀 正徳金銀

正徳金銀
しょうとくきんぎん

江戸中期の金銀貨幣
小判・一分判金・丁銀・豆板銀の4種の総称。新井白石の建議により,1714年質の劣った元禄金銀改鋳慶長金銀と同品位にもどした。
正徳新令
しょうとくしんれい @@@LINK=正徳新令 正徳新令

正徳新令
しょうとくしんれい

海舶互市新例
聖徳太子
しょうとくたいし @@@LINK=聖徳太子 聖徳太子

聖徳太子
しょうとくたいし

574〜622
6〜7世紀の摂政・思想家
厩戸豊聡耳皇子 (うまやどのとよとみみのおうじ) ・上宮太子 (じようぐうたいし) ともいう。用明天皇第2皇子,母は穴穂部間人 (あなほべのはしひと) 皇后。593年叔母推古天皇の摂政 (せつしよう) となり,蘇我馬子と協調して政治・外交・文化に活躍。603年冠位十二階,604年憲法十七条の制定,『天皇記』『国記』の編纂,607・608年小野妹子を隋に派遣して国交を開き大陸文化を摂取。また仏教興隆につとめ,四天王寺・法隆寺を建立し,『三経義疏 (さんぎようぎしよ) 』を著した。天皇を中心とする中央集権国家をめざしたその政治思想は大化の改新以降に結実した。

聖徳太子画像
しょうとくたいしがぞう @@@LINK=聖徳太子画像 聖徳太子画像

聖徳太子画像
しょうとくたいしがぞう

聖徳太子肖像
宝物『聖徳太子と二王子像』が最古で有名。真偽や制作年代について諸説あるが,奈良時代のものとされており,左右に山背大兄王 (やましろのおおえのおう) と殖栗王 (うえくりのおう) を従え,仏画の三尊形式に似た構図である。
称徳天皇
しょうとくてんのう @@@LINK=称徳天皇 称徳天皇

称徳天皇
しょうとくてんのう

孝謙天皇
正徳の治
しょうとくのち @@@LINK=正徳の治 正徳の治

正徳の治
しょうとくのち

江戸中期,6代将軍徳川家宣,7代家継の治世(1709〜16)。側用人間部詮房 (まなべあきふさ) ,儒臣新井白石が参政
新井白石の治ともいわれ,家宣に儒学を講じ信任を得た白石の意見が詮房の側用人政治を動かした。1709年生類憐みの令を廃止し,金銀の流出防止対策として'15年海舶互市新例(長崎新令)を出す一方,勘定奉行荻原重秀を追放,'14年正徳金銀鋳造して品位を回復した。朝幕関係の融和のために'10年閑院宮家を創設,'11年朝鮮通信使の待遇簡素化で名分を正した。白石は朱子学者として徳治主義の立場にたち,熱意をもってそのにあたり,文治政治最高潮の観があったが,形式主義的で実効が少なく,特に幕政が直面しつつあった財政的危機には根本的対策を欠いた。'16年吉宗の将軍就任で詮房とともに退けられた。
浄土寺
じょうどじ @@@LINK=浄土寺 浄土寺

浄土寺
じょうどじ

兵庫県小野市浄谷 (きよたに) 町にある真言宗の寺
鎌倉初期,東大寺再建の功労者俊乗坊重源が,東大寺播磨別所として創建。その浄土堂(阿弥陀堂)は東大寺南大門とともに大仏様の遺構で,国宝。仏像などに重要文化財が多い。
浄土思想
じょうどしそう @@@LINK=浄土思想 浄土思想

浄土思想
じょうどしそう

阿弥陀浄土観音浄土・薬師浄土などに往生したいと願う思想
浄土宗
じょうどしゅう @@@LINK=浄土宗 浄土宗

浄土宗
じょうどしゅう

平安末期,法然によって開かれた仏教の新宗派
法然の説いた専修念仏の教えは,南無阿弥陀仏の念仏を数多く唱えれば,万人が浄土に往生できるというもので,他力易行 (たりきいぎよう) の宗といわれる。この平易な教えは平安末期の社会不安の中で救いを求める人びとの新しい信仰として,広く武士庶民の間にうけ入れられた。開宗当初は,旧仏教の圧迫をうけたが,法然の死後,多くの流派に分かれて発展し,その中から浄土真宗・時宗が分立した。現在,知恩院を総本山とし,増上寺・善光寺が大本山となっている。
浄土真宗
じょうどしんしゅう @@@LINK=浄土真宗 浄土真宗

浄土真宗
じょうどしんしゅう

鎌倉初期,親鸞の開いた仏教の新宗派
真宗・一向宗ともいう。親鸞の唱えた絶対他力の信仰と悪人正機説に基づいており,浄土宗の一派ではあるが,法然の教えをさらに深化させたものといえる。親鸞の没後,宗門はいわゆる真宗十派に分かれたが,いずれもおもに農民層を布教の対象とした。飛躍的に宗勢が強まったのは特に本願寺派で,室町中期,蓮如 (れんによ) は,石山本願寺を中心に北陸・東海・近畿の地域で発展し,また本願寺の教団組織(講)も強化された。中世末期には門徒組織の拡大,農民層の成長を背景に,強力な一向一揆がおこった。本山である京都の本願寺は,江戸初期に東本願寺・西本願寺に分かれ,今日に至っている。
少納言
しょうなごん @@@LINK=少納言 少納言

少納言
しょうなごん

律令官制の太政官の中に置かれた官職
太政官3局の少納言局に置かれ,詔勅伝宣,天皇印・太政官印・駅鈴の出納管理にあたった。地位は低いが要職で定員は3〜5名くらい。のち蔵人 (くろうど) の設置によって実権を失った。
少弐景資
しょうにかげすけ @@@LINK=少弐景資 少弐景資

少弐景資
しょうにかげすけ

?〜1286
鎌倉時代の武将
資能 (すけよし) の子。1274年文永の役に際し,蒙古軍が筑前に上陸したとき,九州の御家人を指揮し,また,'81年の弘安の役では,菊池武房らとともに,蒙古船団に切り込み奮戦して戦功をあげた。
少弐氏
しょうにし @@@LINK=少弐氏 少弐氏

少弐氏
しょうにし

中世,北九州の豪族
鎌倉幕府の御家人。初め武藤氏と称した。源平の争乱後源頼朝に従い,大宰少弐・鎮西奉行に任ぜられ筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の守護を兼ね,資能 (すけよし) がこれらの職を世襲してから少弐氏を称し,北九州に勢力をふるった。室町時代に大内氏に大宰府を追われて肥前にのがれ,のち1559年滅亡。
常任理事国
じょうにんりじこく @@@LINK=常任理事国 常任理事国

常任理事国
じょうにんりじこく

①国際連盟の連盟理事会常任国
②国際連合の安全保障理事会の常任国
日本は,イギリス・フランス・イタリアとともに4常任理事国の一つであった。
アメリカ・ソ連(現ロシア)・イギリス・フランス・中国の5カ国で構成。
商農分離
しょうのうぶんり @@@LINK=商農分離 商農分離

商農分離
しょうのうぶんり

安土桃山時代豊臣秀吉の身分政策
秀吉は全国統一の過程において,1588年刀狩令を通じ封建身分制の固定化を進めていたが,'90年後北条氏征服後, '91年66カ国人掃い令や身分法令三箇条を出して士農の分離をはかるとともに,貢租確保のため商農分離を命じた。これにより商工業者は城下町に集住させられた。
肖柏
しょうはく @@@LINK=肖柏 肖柏

肖柏
しょうはく

1443〜1527
室町後期の連歌師
京都の人。宗祇 (そうぎ) の弟子で,牡丹花 (ぼたんか) と号す。古今伝授を宗祇からうけ(堺伝授),奈良の饅頭屋宗二 (まんじゆうやそうじ) に伝えた(奈良伝授)。句風は豪快華美で,宗祇・宗長との『水無瀬三吟百韻』は有名。著書に句集『春夢草』,『源氏物語』の聞書『弄花抄 (ろうかしよう) 』など。

消費税
しょうひぜい @@@LINK=消費税 消費税

消費税
しょうひぜい

消費対象となる財・サービスに対して課される税
大部分は間接税に属する。従来は酒税・砂糖消費税・物品税などの個別消費税があったが,一般消費税構想が浮上し,1989年,前年成立の消費税法に基づいて竹下登内閣によって実施された(消費税率3%)。'97年に税率が5%に引き上げられた。
商品作物
しょうひんさくもつ @@@LINK=商品作物 商品作物

商品作物
しょうひんさくもつ

商品として販売するために栽培された農作物
四木三草のほか,綿・タバコ・野菜などがつくられた。
蕉風
しょうふう @@@LINK=蕉風 蕉風

蕉風
しょうふう

江戸時代,松尾芭蕉の唱えた俳諧の流派
「正風」とも書く。松永貞徳の貞門,西山宗因の談林派を経て,元禄期(1688〜1704)は蕉風の全盛であった。「わび」「さび」「しおり」「軽み」などの芸術美を求め,門弟も多く,その余風は明治時代までも続いた。
正福寺地蔵堂
しょうふくじじぞうどう @@@LINK=正福寺地蔵堂 正福寺地蔵堂

正福寺地蔵堂
しょうふくじじぞうどう

東京都東村山市にある室町時代禅宗様建築
重層入母屋 (いりもや) 造の小堂で,全体鎌倉円覚寺舎利殿 (しやりでん) に似ている。建立年代は舎利殿よりやや下る。重要文化財
昌平坂学問所
しょうへいざかがくもんじょ @@@LINK=昌平坂学問所 昌平坂学問所

昌平坂学問所
しょうへいざかがくもんじょ

江戸幕府の官立学校
昌平黌 (こう) ・江戸学問所ともいう。5代将軍徳川綱吉は上野忍ケ岡にあった林家の私塾を湯島に移して聖堂学問所として整備し,林鳳岡を大学頭に任じたので,朱子学はしだいに官学化した。林家に逸材が出ず朱子学が衰微する中で,1790年松平定信は寛政異学の禁を発し,朱子学以外の異学を聖堂学問所で教授することを禁止した。'97年学舎増築,旗本の教育機関とし,昌平坂学問所と改称して純然たる幕府の官学とした。明治維新後,新政府に接収され昌平学校,のち大学校と改称したが,1870年廃止。
常平倉
じょうへいそう @@@LINK=常平倉 常平倉

常平倉
じょうへいそう

凶作に備えて穀物を貯蔵する倉
奈良中期の759年設立。穀物価格を安定させるため,政府が穀物を貯蓄し,穀価の高低に応じてこれを売買した。平安中期以後廃絶。江戸時代に水戸・薩摩・会津などの諸藩で活用された。義倉 (ぎそう) ・社倉 (しやそう) とともに三倉という。
承平・天慶の乱
じょうへい・てんぎょうのらん @@@LINK=承平・天慶の乱 承平・天慶の乱

承平・天慶の乱
じょうへい・てんぎょうのらん

平安中期に平将門 (まさかど) と藤原純友が関東と西海でおこした反乱(935〜941)
平将門の乱・藤原純友の乱ともいう。将門は父の遺領をめぐる紛争から,935年伯父の国香を殺害。勢力を拡大して常陸 (ひたち) ・下野 (しもつけ) ・上野 (こうずけ) の国府を占領し,新皇と称し下総猿島 (さしま) に王城を営んだ。朝廷では征討軍を派遣し,940年平貞盛・藤原秀郷らによって将門は敗死。一方,前伊予掾 (いよのじよう) であった純友は939年,瀬戸内の海賊勢力と結び伊予・讃岐の国府を襲い大宰府に迫ったが,941年小野好古・源経基を追捕使とする朝廷の征討軍に敗れ殺された。この乱は京の貴族たちに衝撃を与え,また武士勢力が台頭する契機ともなった。
正平版論語
しょうへいばんろんご @@@LINK=正平版論語 正平版論語

正平版論語
しょうへいばんろんご

南北朝時代,の道祐によって出版された『論語』集解
1364(正平19・貞治3)年刊。集解は中国の何晏 (かあん) の。南北朝時代に至って地方都市の庶民の間にも,学問への関心が生まれてきたことを示す貴重な資料。
障壁画
しょうへきが @@@LINK=障壁画 障壁画

障壁画
しょうへきが

装飾のために障子・襖・屛風・衝立 (ついたて) ・土壁などに描かれた絵画の総称
奈良時代に始まり,平安時代には寝殿造の発達に伴い大和絵障壁画,室町時代には書院造に応じて漢画障壁画,桃山・江戸初期は城郭建築に応じ金碧障壁画濃絵 (だみえ) )の全盛期を迎えたが,江戸末期には衰えた。狩野永徳・山楽・探幽長谷川等伯らが代表的画家として活躍。
浄弁
じょうべん @@@LINK=浄弁 浄弁

浄弁
じょうべん

?〜1356
南北朝時代の歌人
慶運の父。天台宗の僧。伝記不詳。二条家流の和歌を学び,頓阿 (とんあ) ・慶運・吉田兼好と並んで「和歌四天王」と称された。

商法
しょうほう @@@LINK=商法 商法

商法
しょうほう

商業に関する法典
旧法はロエスレルの起草で,1890年公布,'93年施行。現行法は,梅謙次郎ら起草,'99年施行の法を,くり返し改正したもの。
正法眼蔵
しょうぼうげんぞう @@@LINK=正法眼蔵 正法眼蔵

正法眼蔵
しょうぼうげんぞう

鎌倉中期,曹洞宗開祖道元の代表的著述
1231年から'53年に至る間,道元が興聖寺・永平寺などで行った説法を集録したもの。江戸時代に95巻に集大成されたが,その根幹をなすのは,弟子の懐弉 (えじよう) が師の草本を書写した75巻の部分である。禅の本質を論じ,坐禅・修行の本旨を説いた曹洞宗の根本経典ともいうべき大著述。
正法眼蔵随聞記
しょうぼうげんぞうずいもんき @@@LINK=正法眼蔵随聞記 正法眼蔵随聞記

正法眼蔵随聞記
しょうぼうげんぞうずいもんき

鎌倉中期,曹洞宗開祖道元の語る教えをその弟子懐弉 (えじよう) が筆録した書
6巻。道元がから帰朝し山城の興聖寺に住した1234〜38年ころ,彼が語った法語を筆録したもので,曹洞宗最古の記録。仮名書きで平易に書かれ,道元の思想・人物を知るための絶好の書である。
商法司
しょうほうし @@@LINK=商法司 商法司

商法司
しょうほうし

明治政府の財政機関
1868年由利公正 (ゆりきみまさ) の提案で,商業の振興と間接税の増収をはかるために設置。実績はあがらず,翌年廃止。これに代わって通商司が新設された。
正法・像法・末法
しょうぼう・ぞうほう・まっぽう @@@LINK=正法・像法・末法 正法・像法・末法

正法・像法・末法
しょうぼう・ぞうほう・まっぽう

仏教思想による一種時代区分
条坊の制
じょうぼうのせい @@@LINK=条坊の制 条坊の制

条坊の制
じょうぼうのせい

碁盤目状に区画された古代の都城制
唐の長安にならい,藤原京に始まった。平城京・平安京では大内裏 (だいだいり) と羅城門を南北に結ぶ朱雀 (すざく) 大路で東の左京,西の右京に分かれ,各京は東西に通じる道路で9条に,各条は南北に通じる道路で4坊に分かれた。さらに1坊は4保,1保は4町(または)に分かれた。
勝鬘経
しょうまんぎょう @@@LINK=勝鬘経 勝鬘経

勝鬘経
しょうまんぎょう

インド大乗仏教中期の経典で,勝鬘夫人の悟りを説く
1巻。日本では,聖徳太子が『勝鬘経義疏 (ぎしよ) 』をつくったと伝えられている。
声明
しょうみょう @@@LINK=声明 声明

声明
しょうみょう

仏教の儀式などに用いる古典の声楽
経文に高低・抑揚や節をつけたもので,歌詞を梵語のままで歌う「梵讃」,漢語に翻訳した「漢讃」,日本語の「和讃」や講式・論義などがある。平安初期から天台声明と真言声明とがあり,のち浄土声明も発達。平家琵琶や謡曲の源流となった。
称名寺
しょうみょうじ @@@LINK=称名寺 称名寺

称名寺
しょうみょうじ

横浜市金沢区金沢町にある真言律宗の寺院
1260年ころ北条実時 (さねとき) が武蔵国金沢の別荘に建てた持仏堂を,'67年寺院としたもの。境内の金沢文庫が有名。
浄妙寺
じょうみょうじ @@@LINK=浄妙寺 浄妙寺

浄妙寺
じょうみょうじ

鎌倉市浄明寺にある臨済宗の寺。鎌倉五山の第5位
1188年足利義兼の創建になり,初め極楽寺と称し,真言宗の寺であったが,13世紀後半臨済宗に改め寺名も浄妙寺とした。南北朝時代以後,五山の一つとなって栄えたが,1424年火災にあい衰微した。
荘民
しょうみん @@@LINK=荘民 荘民

荘民
しょうみん

荘園の耕作農民
一般に名主田堵 (たと) などの地主的階層と,領主から土地を借り請作する作人と呼ばれる直接耕作者の二つの階層からなる。
聖武天皇
しょうむてんのう @@@LINK=聖武天皇 聖武天皇

聖武天皇
しょうむてんのう

701〜756
奈良時代の天皇(在位724〜749)
文武天皇第1皇子。母は藤原不比等の娘宮子。皇后は藤原不比等の娘光明子(光明皇后)。積極的に唐の文物制度を採用するなどして国政を充実させた。一方,仏教をあつく信仰し,国分寺・東大寺大仏を創建し,天平文化をつくりだした。

定免法
じょうめんほう @@@LINK=定免法 定免法

定免法
じょうめんほう

江戸時代の貢租徴収法
代官の不正などの検見 (けみ) 法の弊害や不便を避けるため,過去数年ないし十数年の取米平均で租率(免)を定め,一定期間豊凶の別なく,定率で納めさせたが,年貢率が引き上げられる傾向があった。ただし期間中でも大凶作のときは検見を行い減免した。享保期(1716〜36)以降普及。
将門記
しょうもんき @@@LINK=将門記 将門記

将門記
しょうもんき

平安中期の軍記物
「まさかどき」とも読む。940年成立。1巻。作者不詳。平将門 (まさかど) の乱の次第について詳細に記した根本史料漢文体で書かれ,戦記文学として最初のもの。
声聞師
しょうもんじ @@@LINK=声聞師 声聞師

声聞師
しょうもんじ

中世,賤視された芸能民
もと中務省 (なかつかさしよう) の陰陽 (おんみよう) に属した下級陰陽師系譜をひき,家々のに立って寿詞を唱えたことより「唱門師」とも書く。中世の散所民・河原者とともに賤民とされ,いわゆる門付元祖。座を結成し,本来の卜占 (ぼくせん) のほか経読み・久世舞曲舞)なども行った。
縄文時代人
じょうもんじだいじん @@@LINK=縄文時代人 縄文時代人

縄文時代人
じょうもんじだいじん

縄文時代の人類
身長は現代人よりやや低く,眼窩上の隆起は発達し,鼻根部は幅がせまくつよく陥没し,鼻は高く隆起する。四肢骨は現代人より扁平であった。混血や生活環境の変化に伴って変化し,現在の日本人になった。
縄文土器
じょうもんどき @@@LINK=縄文土器 縄文土器

縄文土器
じょうもんどき

縄文時代に使用された土器
草創・早・前・中・後・晩の6期に区分される。表面は縄目文様(縄文)のほかに,条痕文,へら描文,粘土紐の貼付文など多様。焼成温度が約500度と低いため黒褐色または茶褐色。煮炊き用の深鉢が基本形であるが,後期には注口土器・釣手土器・高坏 (たかつき) ・香炉形土器なども出現した。北海道から鹿児島にまで分布する。
縄文文化
じょうもんぶんか @@@LINK=縄文文化 縄文文化

縄文文化
じょうもんぶんか

縄文土器の使用されていた時期の文化
ほぼ前1万年から前300年ころまで継続し,弓矢と磨製石器,縄文土器が使用された。全時代にわたり狩猟・漁撈・植物採取など採集経済の段階にあったが,最近では晩期に原始農耕が始まっていたという説が有力になっている。住居は主に竪穴住居。装身具も豊富になり,また巨大な石棒や土偶に当時の信仰のありさまがうかがえる。
庄屋
しょうや @@@LINK=庄屋 庄屋

庄屋
しょうや

名主 (なぬし)
条約改正
じょうやくかいせい @@@LINK=条約改正 条約改正

条約改正
じょうやくかいせい

明治時代の不平等条約を対等に改めた交渉
幕末に結んだ修好通商条約(安政の五カ国条約)は関税自主権がなく領事裁判権を認める不平等条約であったので,明治政府は条約改正を企図し,1871年岩倉遣外使節を派遣したがアメリカに拒否された。その後,民間では民族的自覚を説いたが,政府は外国への懇願と妥協で目的を達しようとし,'78年寺島宗則外務卿はアメリカとの間で関税自主権を回復する新条約に調印したが,イギリスなどの反対で失敗。後任の井上馨外務卿は欧化政策をとったが,外国人裁判官任用問題で各方面からの反対をうけ失敗した。つづいて大隈重信外相案も大審院に外国人裁判官任用の点で猛反対をうけ失敗。その後,青木周蔵外相は大隈案を修正し交渉に臨んだが,大津事件で頓挫し,後任の榎本武揚外相の交渉も本格化するには至らなかった。陸奥宗光外相のとき,対ロシア関係の悪化から日本に接近したイギリスの承認により,'94年領事裁判権の撤廃に成功。1911年小村寿太郎外相のとき,関税自主権を回復した。
条約勅許問題
じょうやくちょっきょもんだい @@@LINK=条約勅許問題 条約勅許問題

条約勅許問題
じょうやくちょっきょもんだい

幕末,日米修好通商条約の勅許をめぐる政治的紛議
幕府が反対派を抑えるため条約勅許を朝廷に要請しながら,1858年条約に無断調印したことにより政治的紛議をかもした。その後,'65年,イギリス・アメリカ・フランス・オランダ4国公使が軍艦で兵庫沖に至り,条約勅許を要求したこともあって,幕府はようやく勅許を得た。
庄屋仕立て
しょうやじたて @@@LINK=庄屋仕立て 庄屋仕立て

庄屋仕立て
しょうやじたて

江戸幕府職制が簡単で実務的であったことをいう語
徳川氏が三河の一大名であったころの家老・年寄といったもとに,幕府設立後も必要に応じて追加・拡張したにすぎず,これが農村での庄屋・年寄など実務的で形式ばらない組織に似ているのでこう呼ばれた。
醬油
しょうゆ @@@LINK=醬油 醬油

醬油
しょうゆ

江戸時代に普及した調味料
小麦・大豆と塩を原料として醸造古くから (ひしお) の名で行われていたが,液体として完成したのは室町時代のころと考えられる。江戸中期に成立した,下総野田銚子播磨の竜野などの特産地が有名。
小右記
しょうゆうき @@@LINK=小右記 小右記

小右記
しょうゆうき

平安中期,小野宮右大臣藤原実資 (さねすけ) の日記
『野府記 (やふき) 』ともいう。61巻。978〜1032年の日記で,藤原道長の全盛期にあたり,当時の政治・社会を知るうえで最も重要な史料。
条里制
じょうりせい @@@LINK=条里制 条里制

条里制
じょうりせい

古代の土地区画制度
土地を6町(360歩)間隔で正方形に区切り,横列を条,縦列を里と呼び,さらに6町四方の各辺を1町ごとに区切り36坪に細分して,この条里坪ごとに千鳥式や平行式に番号をつけて位置を表した。また坪は10区画に分けたが,これには長地 (ながち) 型縦60歩,横6歩のものと,半折 (はおり) 型縦30歩,横12歩のものの2種があった。
秤量貨幣
しょうりょうかへい @@@LINK=秤量貨幣 秤量貨幣

秤量貨幣
しょうりょうかへい

秤で重さをはかって使用する貨幣
江戸時代の丁銀・豆板銀など。
性霊集
しょうりょうしゅう @@@LINK=性霊集 性霊集

性霊集
しょうりょうしゅう

平安初期,空海の詩文集
正しくは『遍照発揮性霊集』という。835年ころ成立。10巻。空海の弟子真済の編。空海の詩賦・上表・碑銘・書簡などからなる。
生類憐みの令
しょうるいあわれみのれい @@@LINK=生類憐みの令 生類憐みの令

生類憐みの令
しょうるいあわれみのれい

江戸中期,5代将軍徳川綱吉が出した極端な動物愛護令
1685年以来しばしば発令。綱吉に男子がないのは前世での殺生の報いという僧隆光の言を信じ,戌 (いぬ) 年生まれだったので特に犬を保護した。江戸郊外の中野その他で野犬十数万匹を飼い,費用を江戸の町人に課した。違犯者は厳罰に処せられ,町人の苦しみと不満が増大した。綱吉の死後,6代将軍家宣により,直ちに廃止された。
浄瑠璃
じょうるり @@@LINK=浄瑠璃 浄瑠璃

浄瑠璃
じょうるり

操 (あやつり) 人形芝居の詞章,またはその演奏としての語り物音曲
室町中期,座頭が語ったものが始まり。源義経と浄瑠璃姫の恋愛を描いた『浄瑠璃姫物語』(十二段草子)が名称の起源。江戸中期,元禄(1688〜1704)ころが完成期。竹本義太夫が新曲風の義太夫節を大坂で完成し,作者近松門左衛門によって劇文芸に高められた。以後歌舞伎の一要素に採用され,江戸中期〜後期には一中節・豊後節・常磐津節・清元節・新内節などが派生した。
浄瑠璃寺
じょうるりじ @@@LINK=浄瑠璃寺 浄瑠璃寺

浄瑠璃寺
じょうるりじ

京都府相楽郡加茂町にある真言律宗の寺
九品阿弥陀仏を安置するので,九品寺 (くほんじ) ともいう。奈良時代行基の建立と伝えるが確かでない。藤原時代に建立された九体阿弥陀堂の唯一遺構として著名。その他三重塔や彫刻の『九品阿弥陀仏像』『吉祥天女像』など藤原時代のものが多い。
青蓮院
しょうれんいん @@@LINK=青蓮院 青蓮院

青蓮院
しょうれんいん

京都市東山区粟田口にある天台宗門跡寺院の一つ
1144年開創。2世覚快法親王(鳥羽天皇第7皇子)以来,門跡のが始まった。17世尊円入道親王は青蓮院流書道のとして有名。
青蓮院流
しょうれんいんりゅう @@@LINK=青蓮院流 青蓮院流

青蓮院流
しょうれんいんりゅう

南北朝時代,尊円入道親王の開いた書道の一流派
尊円流ともいう。世尊寺流に宋風を加味した書風で,京都の青蓮院門跡に継承され,明治時代に至るまで和様書道の本流とされた。江戸時代に広く行われた御家流 (おいえりゆう) はこの末流。
定六
じょうろく @@@LINK=定六 定六

定六
じょうろく

町飛脚
昭和維新
しょうわいしん @@@LINK=昭和維新 昭和維新

昭和維新
しょうわいしん

昭和初期,明治維新を手本に国家改造をしようとした右翼・軍部のスローガン
北一輝・大川周明らに始まる思想で,二・二六事件当時は「昭和維新の歌」が歌われた。
昭和恐慌
しょうわきょうこう @@@LINK=昭和恐慌 昭和恐慌

昭和恐慌
しょうわきょうこう

昭和初期の一連の経済恐慌
日本経済は,第一次世界大戦後の戦後恐慌に始まり,震災恐慌・金融恐慌・農業恐慌と深刻化する。とくに,世界恐慌の最中に,日本は,金解禁を断行したため,正貨の大量流出,企業の操業短縮,倒産,賃下げ・首切りが相次ぎ失業者が増大した。これを一般に昭和恐慌という。
承和の変
じょうわのへん @@@LINK=承和の変 承和の変

承和の変
じょうわのへん

平安初期の政変
842(承和9)年,伴健岑 (とものこわみね) ・橘逸勢 (たちばなのはやなり) らが謀反を企てたとして流罪となり,皇太子恒貞 (つねさだ) 親王が連坐して廃され,藤原良房の妹の子道康親王(のちの文徳天皇)が皇太子となった。藤原氏が名門貴族の伴氏らの打倒をはかった陰謀。
女学雑誌
じょがくざっし @@@LINK=女学雑誌 女学雑誌

女学雑誌
じょがくざっし

明治時代の女性専門雑誌(1885〜1904)
女子教育家・女性啓蒙運動家である明治女学校の巌本善治 (いわもとぜんじ) によって主宰され,キリスト教的立場からの女権拡張・男女平等を主張した。
初期議会
しょきぎかい @@@LINK=初期議会 初期議会

初期議会
しょきぎかい

大日本帝国憲法下の第1〜6議会
超然内閣に対する民党は,民力休養・政費節減を叫び,軍事予算を大幅に削った。松方正義内閣は民党と衝突し第2議会を解散し,猛烈な選挙干渉を行ったが,民党の優勢をくつがえすことはできなかった。第4議会でも民党優位の衆議院は軍艦建造費を削ったが,天皇詔書(建艦費補充のために天皇自らが皇室費を節約)もあってようやく予算案が成立。このようにして,政府と民党は日清戦争直前の第6議会まで対立をくりかえした。
書紀集解
しょきしっかい @@@LINK=書紀集解 書紀集解

書紀集解
しょきしっかい

江戸後期,河村秀根 (ひでね) の著した『日本書紀』の研究書
子の殷根 (しげね) ・益根と協力して著したもので20巻に及ぶ。中国訓詁学の方法をとり入れて,漢籍の出典を多くあげ,中世以来の『日本書紀』研究をさらに前進させた。
初期荘園
しょきしょうえん @@@LINK=初期荘園 初期荘園

初期荘園
しょきしょうえん

奈良時代〜平安初期の墾田地系の荘園
荘家の付近に住む班田農民の口分田の囲い込みや,自己の所有する奴婢 (ぬひ) ・浮浪農民などの労働力による大規模な開墾を行った結果成立した荘園をいう。
植学啓原
しょくがくけいげん @@@LINK=植学啓原 植学啓原

植学啓原
しょくがくけいげん

江戸後期,宇田川榕庵 (ようあん) の植物学書
1834年刊。3巻。植物の形態・生理・分類など西洋の学問体系をとり入れ,植物学を本草学から独立させ,科学として成立させた。今日の植物学の学術用語は本書から出たものが多い。
職原抄
しょくげんしょう @@@LINK=職原抄 職原抄

職原抄
しょくげんしょう

南北朝時代,北畠親房の著した有職 (ゆうそく) 書
1340年成立。上下2巻。令官および令外官 (りようげのかん) について,その起源・沿革・唐名・官職相当位階・任官慣例などを記す。ことに沿革についての記述は,わが国制度史のはじめとも考えられ重要。『群書類従』に収録される。
殖産興業
しょくさんこうぎょう @@@LINK=殖産興業 殖産興業

殖産興業
しょくさんこうぎょう

①江戸中期以後の産業振興政策
②明治前期の経済振興政策
商品経済発達による財政危機を救うため,幕府諸藩農民に特産物生産を奨励した。
明治政府は「富国強兵・殖産興業」をスローガンに,官営事業を経営し民間産業の保護育成につとめた。松方財政を経て近代産業は軌道に乗り,日清戦争後,資本主義が発達した。
蜀山人
しょくさんじん @@@LINK=蜀山人 蜀山人

蜀山人
しょくさんじん

大田南畝 (なんぽ)
続日本紀
しょくにほんぎ @@@LINK=続日本紀 続日本紀

続日本紀
しょくにほんぎ

平安初期の勅撰歴史書。六国史の第2番目
40巻。『日本書紀』のあとをうけて,697年より791年まで,文武天皇から桓武天皇に至る95年間の歴史を編年体で記した記録。成立過程は複雑で,石川名足・淡海三船 (おうみのみふね) ・藤原種継・菅野真道と継がれ797年完成。奈良時代の根本史料として重要。
続日本後紀
しょくにほんこうき @@@LINK=続日本後紀 続日本後紀

続日本後紀
しょくにほんこうき

平安前期の勅撰歴史書。六国史の第4番目
20巻。『日本後紀』のあとをうけて,文徳天皇勅命により藤原良房・藤原良相 (よしみ) ・伴善男 (とものよしお) らが撰修。仁明 (にんみよう) 天皇の一代(833〜850)18年間を編年体で記した史書。869年に完成。
職人尽絵
しょくにんづくしえ @@@LINK=職人尽絵 職人尽絵

職人尽絵
しょくにんづくしえ

中世〜近世の各種職人の風俗を主題とした絵画
鎌倉時代の,一人ずつ和歌を添えた歌仙絵の系統と,室町末期より現れた,和歌を省いて作業中の集団職人を描いた風俗画の流れとがある。前者は鎌倉初期の『東北院職人尽歌合絵巻』,後者は室町末期の狩野吉信筆の『職人尽絵屛風』が代表作。
織豊政権
しょくほうせいけん @@@LINK=織豊政権 織豊政権

織豊政権
しょくほうせいけん

近世初頭,織田信長と豊臣秀吉の政権をいう
信長が足利義昭 (よしあき) を奉じて上京した1568年もしくは'73年の室町幕府滅亡から'98年の秀吉の死,1600年の関ケ原の戦い,ないしは'03年の江戸幕府の成立までをいう。信長・秀吉は天皇・将軍の伝統的権威を利用して専制的な武家政治を行った。特に秀吉政権は,土地・人民の直接支配の基礎を固め,荘園制を解消して大名知行制を行い,近世の集権的封建制への過渡期を形成した。
食糧メーデー
しょくりょうメーデー @@@LINK=食糧メーデー 食糧メーデー

食糧メーデー
しょくりょうメーデー

1946年5月19日,皇居前広場で開かれた飯米獲得人民大会
1946年4月10日の総選挙以来,幣原 (しではら) 喜重郎内閣の後継内閣が成立しない中で約25万人が参加して盛り上がった。翌日マッカーサーは「暴民デモ許さず」と声明書を発表し,まもなく第1次吉田茂内閣が成立した。
女工哀史
じょこうあいし @@@LINK=女工哀史 女工哀史

女工哀史
じょこうあいし

大正時代,細井和喜蔵の著書
1925年刊。著者が13歳から20余年間下級職工として働いた体験・見聞をもとにして,統計も加えて記した300万女工の悲惨な生活記録。日本資本主義発達史上における紡績女工の実態をみることができる。
書札礼
しょさつれい @@@LINK=書札礼 書札礼

書札礼
しょさつれい

書状式文書の礼儀法式
書状は差出し書き,宛書き,日時・用件書きなど,相手によって形式が決まる。公家様式は「弘安礼節」が古く,武家もこれにならって,戦国〜江戸時代に,伊勢・今川・細川氏などの礼式が定まり,江戸時代に完成した。
所司
しょし @@@LINK=所司 所司

所司
しょし

①鎌倉幕府の職名
②室町幕府の職名
侍所の次官で,別当を補佐した。初代所司は梶原景時。のち北条氏の家宰長崎氏が世襲。
侍所の長官。管領 (かんれい) につぐ重職で,山名・赤松・一色・京極4氏が交替で就任,四職と呼ばれる。山城国守護を兼任することもあった。
女子英学塾
じょしえいがくじゅく @@@LINK=女子英学塾 女子英学塾

女子英学塾
じょしえいがくじゅく

津田塾大学前身。1900年津田梅子創立
女子師範学校
じょししはんがっこう @@@LINK=女子師範学校 女子師範学校

女子師範学校
じょししはんがっこう

近代の女子教員養成機関
1875年東京に設立され,以後各府県につくられた。'85年師範学校に合併されたが,'90年東京高等師範学校から女子高等師範学校が分離したのに続き,'97年再び女子師範学校が独立。第二次世界大戦後,新制大学に吸収された。
諸士法度
しょしはっと @@@LINK=諸士法度 諸士法度

諸士法度
しょしはっと

江戸幕府が定めた旗本・御家人の守るべき基本的規律
旗本法度ともいう。大名に対する武家諸法度に相当するもので,1632年9条,'35年23条となって大成。'63年改正。内容は忠孝・軍役・嫁娶・徒党・百姓訴論・奢侈禁止など多岐にわたる。'83年5代将軍徳川綱吉のとき廃止され,以後武家諸法度を適用した。
所従
しょじゅう @@@LINK=所従 所従

所従
しょじゅう

中世の隷属農民
鎌倉幕府の法令集である新編追加では,地頭の隷属民を所従,百姓の隷属民を下人としているが,実際には混用されている。
諸宗寺院法度
しょしゅうじいんはっと @@@LINK=諸宗寺院法度 諸宗寺院法度

諸宗寺院法度
しょしゅうじいんはっと

江戸幕府の仏教諸宗に対する統制令の総称
寺院法度ともいう。1597年すでに関東浄土宗法度を出しているが,関ケ原の戦い後,1601年高野山あてのものに始まり,個々の有力寺院ごとに発布。'65年各宗に共通な法度9条を公布した。内容は本寺・末寺関係の確立,僧侶の階級厳守,寺領売買の禁止,新儀停止などからなる。
女真族
じょしんぞく @@@LINK=女真族 女真族

女真族
じょしんぞく

ツングース系民族の一種
中国東北部に居住し,12世紀に,17世紀に建国。1019年,刀伊 (とい) と呼ばれた女真族が九州北部を襲った(刀伊の入寇)。
書生芝居
しょせいしばい @@@LINK=書生芝居 書生芝居

書生芝居
しょせいしばい

壮士芝居
如拙
じょせつ @@@LINK=如拙 如拙

如拙
じょせつ

生没年不詳
室町時代,水墨画の代表的画僧
相国寺の禅僧。宋元画を学び,わが国の水墨画に新様式を開拓。その画統は周文・雪舟らに受け継がれた。妙心寺退蔵院蔵『瓢鮎図 (ひようねんず) 』は足利義持の求めで描いたの代表作。
職工義友会
しょっこうぎゆうかい @@@LINK=職工義友会 職工義友会

職工義友会
しょっこうぎゆうかい

明治後期に初めて労働組合の結成を呼びかけることを目的に結成された団体
1897年高野房太郎らが創立。片山潜らが参加,同業組合の結成を提唱した。同年7月労働組合期成会に改組。近代的労働運動の先駆をなす。
職工事情
しょっこうじじょう @@@LINK=職工事情 職工事情

職工事情
しょっこうじじょう

明治後半期の労働状態を農商務省が調査した報告書
1903年刊。社会問題発生により工場法立案準備のため,工場労働者の実情を調査させたもの。紡績・鉄工ほか多部門にわたり,わが国産業資本確立期の労働事情を詳細に記録。
書道
しょどう @@@LINK=書道 書道

書道
しょどう

中国・日本で発達した文字を素材とする造形芸術
入木道 (じゆぼくどう) ともいう。飛鳥〜平安初期は中国風の書風が中心で三筆が有名。平安中期になると三蹟などの能書家が現れ,上代様の和様書道が完成,後世書道の根幹となった。藤原行成は世尊寺流の。鎌倉末期に尊円入道親王が世尊寺流に宋風を加えておこした青蓮院流 (しようれんいんりゆう) は,江戸時代に御家流 (おいえりゆう) と呼ばれ栄えた。
所得倍増政策
しょとくばいぞうせいさく @@@LINK=所得倍増政策 所得倍増政策

所得倍増政策
しょとくばいぞうせいさく

高度成長政策
庶物類纂
しょぶつるいさん @@@LINK=庶物類纂 庶物類纂

庶物類纂
しょぶつるいさん

江戸中期,稲生若水 (いのうじやくすい) らの著した本草学の大著
加賀藩主前田綱紀 (つなのり) の命で編纂開始。若水死後,将軍徳川吉宗が丹羽正伯ら門人に命じ継続。1738年完成。1000巻。'47年補編も完成。諸書中の物産に関する記事を集め,実物について調査考究したもの。
舒明天皇
じょめいてんのう @@@LINK=舒明天皇 舒明天皇

舒明天皇
じょめいてんのう

593〜641
7世紀前期の天皇(在位629〜641)
敏達 (びだつ) 天皇の孫。天智天皇の父。推古天皇の死後,皇位継承問題で聖徳太子の子山背大兄王 (やましろのおおえのおう) と争った。蘇我蝦夷 (えみし) の援助で即位し,630年飛鳥岡本宮に遷都。天皇を推した蘇我蝦夷・入鹿父子が大臣 (おおおみ) として権勢をふるった。

祥瑞五郎太夫
しょんずいごろうだゆう @@@LINK=祥瑞五郎太夫 祥瑞五郎太夫

祥瑞五郎太夫
しょんずいごろうだゆう

生没年不詳
室町末期の陶工。染付磁器を始めた人という
伝記不詳。伊勢国(三重県)の人で五郎太夫と称し,中国にわたり江西省景徳鎮で製陶を学んだという説。また「祥瑞」は染付のほかに色絵もある焼物で五郎太夫はその貿易商との説もある。
ジョン万次郎
ジョンまんじろう @@@LINK=ジョン万次郎 ジョン万次郎

ジョン万次郎
ジョンまんじろう

中浜万次郎
白樺
しらかば @@@LINK=白樺 白樺

白樺
しらかば

大正時代の文芸雑誌
1910年に学習院出身の青年たちによって創刊され,'23年終刊。
白樺派
しらかばは @@@LINK=白樺派 白樺派

白樺派
しらかばは

1910年創刊された文芸同人雑誌『白樺』に拠った同人たちとその傾向
武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎・有島生馬・里見弴 (とん) ・長与善郎ら学習院出身の青年グループによっておこされた。自然主義に対し個性の自由な伸張をめざし,理想主義・人道主義を基調とする傾向で大正初期文壇主流をなした。『白樺』は1923年終刊。
白河天皇
しらかわてんのう @@@LINK=白河天皇 白河天皇

白河天皇
しらかわてんのう

1053〜1129
平安後期の天皇(在位1072〜86)
後三条天皇第1皇子。摂関家の勢力を抑え,堀河天皇へ譲位後,1086年院政を開始。堀河・鳥羽・崇徳の3代43年間政権を担当。1096年出家して法皇となった。仏事に熱心で法勝寺などの造寺・造仏につとめたが,財政が窮迫したため,成功 (じようごう) ・重任 (ちようにん) などの売位・売官が盛んに行われた。

白河楽翁
しらかわらくおう @@@LINK=白河楽翁 白河楽翁

白河楽翁
しらかわらくおう

松平定信
新羅
しらぎ @@@LINK=新羅 新羅

新羅
しらぎ

朝鮮古代の王国(4世紀中 (ごろ) 〜935)
「しんら」とも読む。三韓の一つである辰韓の斯盧 (しろ) 国を中心に統一されたもの。日本・高句麗の圧力に苦しみながらも着実にその地歩を固め,562年任那 (みまな) を滅ぼし,ついで唐と結び660年に百済 (くだら) ,668年高句麗を倒して朝鮮を統一。663年唐と結んで,日本を白村江 (はくそんこう) の戦いに破ったのち,しばらくして国交を回復した。奈良時代には唐文化,特に仏教関係の移入に重要な役割を演じた。9世紀中ごろから群雄割拠の状態となり,935年高麗王朝の建国により滅亡した。
白鷺城
しらさぎじょう @@@LINK=白鷺城 白鷺城
はくろじょう @@@LINK=白鷺城 白鷺城

白鷺城
しらさぎじょう

姫路城

白鷺城
はくろじょう

姫路城
白鳥庫吉
しらとりくらきち @@@LINK=白鳥庫吉 白鳥庫吉

白鳥庫吉
しらとりくらきち

1865〜1942
明治〜昭和期の東洋史学者
上総(千葉県)の生まれ。東大卒業後,同大教授。満蒙・中央アジアの諸民族史・言語研究に未開の分野を開拓。東洋文庫創設に尽力した。

白浪物
しらなみもの @@@LINK=白浪物 白浪物

白浪物
しらなみもの

江戸後期,盗賊を主人公とする歌舞伎の演目の総称
河竹黙阿弥の『白浪五人男』が有名。
白拍子
しらびょうし @@@LINK=白拍子 白拍子

白拍子
しらびょうし

平安末期に現れた雑芸 (ぞうげい) の一種の歌舞,またはそれを業とする芸人
水干 (すいかん) ・烏帽子 (えぼし) の男装をした女性が今様を歌いながら舞った。寺社・宮廷でも行われ,平清盛が愛した祇王 (ぎおう) ・祇女,源義経の愛妾静 (しずか) は白拍子であった。
白水阿弥陀堂
しらみずあみだどう @@@LINK=白水阿弥陀堂 白水阿弥陀堂

白水阿弥陀堂
しらみずあみだどう

福島県いわき市白水町にある願成寺の阿弥陀堂
1160年国守岩城則通の後室徳尼の建立と伝え,方形造。平安末期の方三間の阿弥陀堂建築の典型的様式として有名。
芝蘭堂
しらんどう @@@LINK=芝蘭堂 芝蘭堂

芝蘭堂
しらんどう

江戸後期,蘭学者大槻玄沢の創設した蘭学塾
1786年江戸本材木町に開設。蘭学界の一大中心となり,稲村三伯・宇田川玄真らのすぐれた蘭学者を送り出した。ここでオランダ正月を太陽暦の'95年1月1日に行った。大坂適々斎塾,長崎の鳴滝塾とならぶ代表的な蘭学塾。
事力
じりき @@@LINK=事力 事力

事力
じりき

律令制において,地方官に与えられた労働力
国司や大宰帥 (だざいのそつ) に管轄下の戸の正丁 (せいてい) が1年交代であてられた。側近にあって雑役を行い,職田 (しきでん) の耕作などにも従事した。10世紀以後しだいに廃止
史料編纂所
しりょうへんさんじょ @@@LINK=史料編纂所 史料編纂所

史料編纂所
しりょうへんさんじょ

日本史史料の調査・研究・編集にあたる東大付属研究所
1869年明治天皇の勅旨による史料編輯 (へんしゆう) 国史校正局が起源。'75年修史局となり,'88年東大に移管。1929年史料編纂所と改称,現在に至る。『大日本史料』『大日本古文書』などのほか刊行物多数あり,日本史研究の発展に貢献している。

しろ @@@LINK=代 代


しろ

古代,田地の面積を測る単位
大化以前に用いられ,稲1束を収穫し得る面積を1代とした(高麗尺 (こまじやく) で5歩に相当)。大化以後,町段歩制が行われたが,中世になっても四国・九州では混用された。この場合,1代=6歩,50代=1段。
志波城
しわじょう @@@LINK=志波城 志波城
しばじょう @@@LINK=志波城 志波城

志波城
しわじょう

平安初期,蝦夷 (えみし) 経略の前進根拠地として設けられた城柵
「しばじょう」とも読む。現在の岩手県紫波郡にあたる。803年坂上田村麻呂が築城。前年胆沢城 (いさわじよう) を築き蝦夷支配の拠点を確立し,さらに北進してこの城を築き鎮守府の前進基地とした。立地条件が悪く10年ほどで廃された。

志波城
しばじょう

しわじょう
地割制度
じわりせいど @@@LINK=地割制度 地割制度

地割制度
じわりせいど

定期的に所有を交換(割りかえ)する慣行
古くからあるが,特に江戸時代,貢租負担の均一化農村の分解防止のため実施された。地味など耕地の条件を考慮して配分加賀などでは制度として実施された。また新田開発に際し,屋敷・耕地を一定単位で分けることもいう。

しん @@@LINK=清 清


しん

中国最後の統一王朝(1616〜1912)
満州から侵入した女真族の王朝で,2代太宗の1636年国号を清と改称。康煕 (こうき) ・雍正・乾隆 (けんりゆう) 3代の時代は中国王朝史上空前の繁栄をとげた。18世紀後半から衰えはじめ,19世紀後半以後の欧米の進出でその衰退は決定的となり,辛亥革命によって1912年滅亡。江戸時代,日本との正式国交はなかったが,清船は長崎に多数入港し,学問・文化(朱子学・考証学など)に影響を与えた。1871(明治4)年日清修好条規によって正式に国交が成立。しかし朝鮮支配をめぐる争いは日清戦争に発展し,以後日本は積極的に中国進出に乗り出した。
沈 惟敬
しんいけい @@@LINK=沈+惟敬 沈+惟敬

沈 惟敬
しんいけい

?〜1597
安土桃山時代に来日した明の武将
「ちんいけい」とも読む。文禄の役のとき,碧蹄 (へきてい) 館の戦い後,小西行長講和にあたった。1596年明側代表の一人として和議のため来日した。
讖緯説
しんいせつ @@@LINK=讖緯説 讖緯説

讖緯説
しんいせつ

歴史の変革を陰陽五行説の知識によって予言する思想
漢代末期から盛んとなり,6世紀ころ暦とともに日本に伝えられ,『古事記』『日本書紀』の歴史観となった。干支組合せで甲子 (かつし) の年には革令,辛酉 (しんゆう) の年には革命(天命が革あらたまる)が,特に60年を1元,21元を1蔀 (ぼう) といい,蔀(1260年)ごとの甲子や辛酉の年に大変革がおこるという。これに基づき,記紀では,推古天皇9年(西暦601年)の辛酉から逆算して,1260年前の辛酉の年,前660年を神武天皇即位の年としたと考えられる。
新円きりかえ
しんえんきりかえ @@@LINK=新円きりかえ 新円きりかえ

新円きりかえ
しんえんきりかえ

1946年3月3日実施された第二次世界大戦後のインフレ対策
金融緊急措置令に基づいて,旧円を新円と交換させ通貨量の縮小をはかった。1人につき100円だけ新円と交換し,残りの旧円は強制的に銀行郵便局に預けさせ,引出しも制限したが,インフレは止まらなかった。
新恩給与
しんおんきゅうよ @@@LINK=新恩給与 新恩給与

新恩給与
しんおんきゅうよ

御恩 (ごおん) の一つ。
辛亥革命
しんがいかくめい @@@LINK=辛亥革命 辛亥革命

辛亥革命
しんがいかくめい

1911〜12年にかけて清朝を滅ぼし,中華民国を成立させた革命
1911年が辛亥の年にあたるためこの名がある。同年10月10日の武昌蜂起を糸口として各地に波及,'12年1月,孫文が南京で臨時大総統に就任し,中華民国が成立。ついで宣統帝を退位させ,清朝は滅亡した。その後政府の権力は,諸外国に動かされる袁世凱 (えんせいがい) らの軍閥の手に奪われた。
塵芥集
じんかいしゅう @@@LINK=塵芥集 塵芥集

塵芥集
じんかいしゅう

戦国時代,伊達氏の分国法
1巻。1536年奥州の戦国大名伊達稙宗 (たねむね) が制定。170条。分国法中最大のもので,あらゆる事柄が規定されているという意味からこの名がある。形式・体裁などは御成敗式目にならっているが,内容は伊達氏の分国の実情に即した独自なものが多い。
新海竹太郎
しんかいたけたろう @@@LINK=新海竹太郎 新海竹太郎

新海竹太郎
しんかいたけたろう

1868〜1927
明治・大正時代の彫刻家
山形県の生まれ。フランス・ドイツに留学し,帰国後太平洋画会に属し,文展で活躍。西洋の写実主義の技法に東洋の理想主義的表現を加え,独自の作風をつくり上げた。代表作に『ゆあみ』。
心学
しんがく @@@LINK=心学 心学

心学
しんがく

江戸中期,石田梅岩によって始められた庶民教化思想
石門心学ともいう。神道・儒教・仏教などの諸説を融合,職業・身分相違はあっても人間の尊さにおいては平等とした。商人の存在理由と商業による利潤追求の正当性を述べ,勤勉・倹約・勘忍・正直などの徳目を,道話・道歌・子守歌など平易な言葉を用いて庶民のうけ入れやすい方法で説いた。梅岩の没後も弟子手島堵庵 (とあん) ,その弟子中沢道二らによって道舎が各地に建てられ,全国に普及,武士層にも浸透していった。
新貨条例
しんかじょうれい @@@LINK=新貨条例 新貨条例

新貨条例
しんかじょうれい

1871年,最初の近代的統一貨幣制度を定めた法令
太政官札の乱発などによって混乱した貨幣制度を整理し,金本位制に改めたもの。十進法の円・銭・厘の呼称を用いたが,実際は1897年まで金銀複本位制が続いた。
辰韓
しんかん @@@LINK=辰韓 辰韓

辰韓
しんかん

古代,朝鮮半島の南東部に存在していた国家群
馬韓・弁韓とともに三韓の一つ。2〜3世紀ころには大小12国の小国家が分立。4世紀初め統一運動がおこり,4世紀中ころ新羅 (しらぎ) が建設されて統一が実現した。
新感覚派
しんかんかくは @@@LINK=新感覚派 新感覚派

新感覚派
しんかんかくは

大正末期〜昭和初期,文芸同人雑誌『文芸時代』(1924年創刊)に拠った同人たちとその傾向をいう
横光利一・川端康成・今東光・片岡鉄兵・中河与一らが中心。自然主義的リアリズムを排し,感覚・印象の豊富な内容を表現する技法や文体に新生面を開いた。
新幹線
しんかんせん @@@LINK=新幹線 新幹線

新幹線
しんかんせん

従来の1.067m軌間に対して,標準軌1.435mの高速幹線鉄道
1964年東京オリンピックに間に合わせて東京〜新大阪間に開通して以来,全国に幹線網を拡大中である。現在,東海道・山陽・東北(秋田・山形)・上越・長野の各新幹線がある。
刃器
じんき @@@LINK=刃器 刃器

刃器
じんき

石刃 (せきじん)
神祇官
じんぎかん @@@LINK=神祇官 神祇官

神祇官
じんぎかん

律令官制の中央機関で,神祇の祭祀 (さいし) をつかさどる
太政官と並ぶものであるが,実際は太政官より低く,日本独特の機関であった。中世以降衰えたが,明治維新直後復活し,神社・祭祀行政をつかさどった。1871年廃止,神祇省となった。
神祇省
じんぎしょう @@@LINK=神祇省 神祇省

神祇省
じんぎしょう

明治初年,神道関係の政府機関
1871年神祇官の後身として設置。大教宣布を推進したが,神道国教主義の退潮で '72年廃止された。
賑給
しんきゅう @@@LINK=賑給 賑給

賑給
しんきゅう

律令制下,窮民に国家正税の中から米を支給する制度
「しんごう」とも読む。儒教的な徳治主義に基づく。政府はこれにあてるための義倉賑給田救急田・救免稲などを準備した。賑給には国司があたったが,不正が多く,平安時代には形式的な年中行事と化した。
慎機論
しんきろん @@@LINK=慎機論 慎機論

慎機論
しんきろん

江戸後期,渡辺崋山の著書
1838年成立。'37年のアメリカ船モリソン号来航に際し,幕府は異国船打払令に基づき打払いを実行した。翌年崋山はこの書で外国事情を紹介して,幕府の鎖国政策を批判した。未定稿だが蛮社の検挙のとき押収された。
親魏倭王
しんぎわおう @@@LINK=親魏倭王 親魏倭王

親魏倭王
しんぎわおう

邪馬台国 (やまたいこく) の女王卑弥呼 (ひみこ) が魏から贈られた称号
魏志倭人伝によると,239年卑弥呼は使者を魏に派遣し,明帝より,この称とそれを刻んだ金印紫綬,銅鏡100枚を与えられた。
神功皇后
じんぐうこうごう @@@LINK=神功皇后 神功皇后

神功皇后
じんぐうこうごう

4世紀後半ころの伝説的人物で,仲哀 (ちゆうあい) 天皇の皇后
記紀によると,熊襲 (くまそ) 征討の途中,神の怒りにふれて死んだ仲哀天皇のあとをうけ,のちの応神天皇を懐妊したまま新羅 (しらぎ) に遠征しこれを征服(三韓征討)。帰国後,応神天皇を生み,その即位までの69年間摂政 (せつしよう) として武内宿禰 (たけしうちのすくね) とともに政治を行ったという。
神宮寺
じんぐうじ @@@LINK=神宮寺 神宮寺

神宮寺
じんぐうじ

神社に付属した寺院
宮寺 (みやでら) ・神供寺 (じんぐじ) ・神護寺ともいう。多くは神社の境内に建立された。神仏習合思想の現れで,すでに奈良初期に例がみられ,平安時代以後,全国の大社のほとんどに神宮寺があり,多くは天台・真言両宗に属した。明治初年の神仏分離令で分離・廃止。
新宮十郎
しんぐうじゅうろう @@@LINK=新宮十郎 新宮十郎

新宮十郎
しんぐうじゅうろう

源行家
心敬
しんけい @@@LINK=心敬 心敬

心敬
しんけい

1406〜75
室町中期の連歌師・歌人
紀伊(和歌山県)の人。真言宗の僧。和歌を正徹に学び,門下に宗祇 (そうぎ) がいる。歌・句風は余情閑寂を尊び,冷え寂 (さ) びた境地を目的とする。連歌論書に『ささめごと』『ひとりごと』などがあり,仏教思想の影響が特に強い。

真芸
しんげい @@@LINK=真芸 真芸

真芸
しんげい

芸阿弥
新劇
しんげき @@@LINK=新劇 新劇

新劇
しんげき

歌舞伎・新派劇に対する近代演劇の総称
新興市民層・知識層の要求によっておこる。1906年坪内逍遙・島村抱月らの文芸協会,'09年小山内薫 (おさないかおる) ・2代目市川左団次らの自由劇場は近代劇を上演。大正期には多数の劇団が興廃し,'24年小山内らにより築地小劇場が常設された。昭和初期には左翼劇が全盛となったが,弾圧のため,上演不能となった。第二次世界大戦後,文学座・俳優座・劇団民芸などが活躍している。
人権新説
じんけんしんせつ @@@LINK=人権新説 人権新説

人権新説
じんけんしんせつ

明治前期,加藤弘之の啓蒙書
1882年刊。著者は『真政大意』('70)『国体新論』('74)では天賦人権論を主張していたが,本書では進化論立場天賦人権論を批判し,真正権利はすぐれた知識精神力財産などに裏づけられなければならないと説いた。
信玄堤
しんげんづつみ @@@LINK=信玄堤 信玄堤

信玄堤
しんげんづつみ

戦国時代,甲斐の武田信玄が釜無川と御勅使 (みだい) 川の合流点に築いた堤防(山梨県竜王町)
1560年完成。現在その一部が残っている。戦国大名の治水の好例
神戸
かんべ @@@LINK=神戸 神戸
じんこ @@@LINK=神戸 神戸

神戸
かんべ

律令制下,神社に属し,その経済を支えた戸
「じんこ」とも読む。神社に与えられた封戸 (ふこ) の一つで,租・庸・調を神社におさめ,神社の神職である祝部 (はふりべ) が選されるほか,軽い雑役にも従事した。

神戸
じんこ

かんべ
塵劫記
じんごうき @@@LINK=塵劫記 塵劫記

塵劫記
じんごうき

江戸前期,吉田光由が著した日本で第2番目の和算書
1627年刊。3巻。中国の『算法統宗』に基づいて,算法の普及を目的とし,日常生活に関係の深い売買・両替・鼠算 (ねずみざん) などを,具体的に,かつ絵入りでわかりやすく説明した。また算盤 (そろばん) は本書により普及した。
新興財閥
しんこうざいばつ @@@LINK=新興財閥 新興財閥

新興財閥
しんこうざいばつ

軍需・重化学工業を中心に急成長した企業グループ
とくに満州事変以来,国策に協力して積極的に大陸に進出した。日産(鮎川),日窒(野口),理研,森,日曹など。戦後解体した。
大内政弘
おおうちまさひろ @@@LINK=大内政弘 大内政弘

大内政弘
おおうちまさひろ

1446〜95
室町中期の武将
周防 (すおう) ・長門・豊前・筑前の守護大名。応仁の乱では山名持豊(宗全)に味方して京都を中心に転戦したが,1477年乱がおさまると帰国。和歌・連歌をよくし,宗祇 (そうぎ) と親交があった。
大内義興
おおうちよしおき @@@LINK=大内義興 大内義興

大内義興
おおうちよしおき

1477〜1528
戦国時代の武将
政弘の子。周防 (すおう) ・長門・安芸・石見・豊前・筑前6カ国の守護となる。1499年将軍足利義澄のとき,前将軍義稙 (よしたね) がをのがれて山口に来て頼ったので,1507年東上,翌年入京して義稙を将軍に復し,自分は管領代となり,11年間京都の治安維持につとめた。この間,'16年遣明船派遣の権限を義稙から一任され,日明貿易を独占。大内氏の全盛期を築いた。

大内義隆
おおうちよしたか @@@LINK=大内義隆 大内義隆

大内義隆
おおうちよしたか

1507〜51
戦国時代の武将
義興の子。周防 (すおう) ・長門・安芸・石見・備後・筑前・豊前7カ国の守護。京都文化を愛好し,公家・僧侶を保護。明・朝鮮との貿易により書籍・経典を求め,出版事業を行う。また1550〜51年ザビエルにキリスト教布教を許し,西洋文化の輸入にもつとめた。のち家臣の陶晴賢 (すえはるかた) の反逆にあい自殺した。

大内義弘
おおうちよしひろ @@@LINK=大内義弘 大内義弘

大内義弘
おおうちよしひろ

1356〜99
室町前期の武将
弘世の子。周防 (すおう) ・長門・石見の守護を父から継ぎ,九州経略の功により豊前を,明徳の乱の功により和泉・紀伊を加えて6カ国の守護となる。1392年南朝との和睦斡旋に尽力し南北朝合体を実現した。朝鮮との貿易を行い巨利を得,富強を誇ったが,将軍足利義満と対立し,'99年応永の乱をおこし,堺で敗死した。

大江氏
おおえうじ @@@LINK=大江氏 大江氏

大江氏
おおえうじ

平安時代以来,菅原氏と並ぶ文章 (もんじよう) 道の博士家
土師氏より出たともいい,平城天皇皇子阿保親王の子孫とも称した。790年大枝朝臣の姓を賜り,866年音人 (おとんど) のとき大江と改めた。匡房 (まさふさ) ・広元らの学者を多く出し,菅家 (かんけ) (菅原氏)に対して江家 (ごうけ) と称された。
大江卓
おおえたく @@@LINK=大江卓 大江卓

大江卓
おおえたく

1847〜1921
明治・大正時代の政治家・実業家・社会事業家
土佐藩出身。1872年神奈川県権令としてマリア‐ルース号事件を裁いて名声をあげた。のち大同団結運動に参加し立憲自由党の再建に活躍。第1議会では予算委員長として政府と民党との妥協をはかり,衆議院議員落選後は実業界で活躍した。
大江広元
おおえのひろもと @@@LINK=大江広元 大江広元

大江広元
おおえのひろもと

1148〜1225
鎌倉初期の政治家
匡房 (まさふさ) の曽孫。1184年源頼朝の招きにより鎌倉に下り,公文所(のち政所 (まんどころ) )の初代別当(長官)となる。頼朝の信任厚く,幕府創設に尽力。守護・地頭の設置を献策したといわれる。頼朝死後は北条氏と協力して政務を行った。この間,因幡守 (いなばのかみ) ・陸奥守などを歴任

大江匡房
おおえのまさふさ @@@LINK=大江匡房 大江匡房

大江匡房
おおえのまさふさ

1041〜1111
平安後期の学者・歌人
権中納言兼大宰権帥。後三条・白河・堀河3代の天皇に仕えて記録荘園券契所寄人 (よりゆうど) ,受領 (ずりよう) ,院庁別当などを歴任した。詩文にすぐれ,有職故実 (ゆうそくこじつ) に通じ,著書に『続本朝往生伝』『江家次第 (ごうけしだい) 』『江談抄 (ごうだんしよう) 』など。

大岡忠相
おおおかただすけ @@@LINK=大岡忠相 大岡忠相

大岡忠相
おおおかただすけ

1677〜1751
江戸中期の町奉行
旗本で山田奉行・普請奉行などを経て徳川吉宗の将軍就任とともに1717年町奉行に登用され,越前守と称した。米価調節・株仲間公認・町火消編成など20年間江戸の行政に敏腕をふるい,享保の改革を推進。のち寺社奉行にすすみ三河(愛知県)西大平藩1万石の大名となった。通俗小説の「大岡政談」に述べられている大岡裁きはほとんど創作である。

大臣
おおおみ @@@LINK=大臣 大臣

大臣
おおおみ

大化の改新以前の大和政権の最高官
臣姓の最有力氏の氏上が就任し,国政を担当した。『日本書紀』では応神天皇朝における武内宿禰 (たけしうちのすくね) を最初とし,その子孫の平群 (へぐり) ・巨勢 (こせ) ・葛城 (かつらぎ) ・蘇我氏らがつぎつぎに就任したとする。5世紀ころから大連 (おおむらじ) と並んで国政を担当したが,6世紀末に大連物部 (もののべ) 氏が滅亡すると大臣の蘇我氏が政権を独占した。
大鏡
おおかがみ @@@LINK=大鏡 大鏡

大鏡
おおかがみ

平安後期,和文・紀伝体形式の歴史物語
『世継 (よつぎ) 物語』ともいう。8巻。作者不詳。850〜1025年の藤原氏全盛時代を,道長の栄華を中心として,老人大宅世継 (おおやけのよつぎ) と夏山繁樹の対談形式で描く。史実に対する批判的史観をもち,『水鏡』『増鏡』『今鏡』と合わせた四鏡の最初で最高の作品。
大川周明
おおかわしゅうめい @@@LINK=大川周明 大川周明

大川周明
おおかわしゅうめい

1886〜1957
昭和期の国家主義者・右翼思想家
山形県の生まれ。東大でインド哲学を専攻。卒業後,南満州鉄道株式会社に勤務。のち右翼団体猶存 (ゆうぞん) 社・行地 (こうち) 社・神武会などを組織し,1931年の三月事件,十月事件に関与した。五・一五事件には資金を提供,二・二六事件にも影響を与えた。第二次世界大戦後,A級戦犯となったが,審理中に発狂し釈放された。

大木喬任
おおきたかとう @@@LINK=大木喬任 大木喬任

大木喬任
おおきたかとう

1832〜99
明治時代の政治家
肥前藩出身。明治維新の際,東京遷都を建議。東京府知事・民部卿・文部卿を経て1873年参議。司法卿を兼務し,萩の乱・神風連の乱後現地におもむき,判決・処刑の任にあたる。その後,枢密院議長・司法相・文相などを歴任した。
正親町天皇
おおぎまちてんのう @@@LINK=正親町天皇 正親町天皇

正親町天皇
おおぎまちてんのう

1517〜93
戦国・安土桃山時代の天皇(在位1557〜86)
後奈良天皇の第2皇子。1557年皇位を継いだが,即位式は3年後に毛利元就 (もとなり) の献金で行われた。また織田信長・豊臣秀吉が皇居造営や御料の献上をした。

大王
おおきみ @@@LINK=大王 大王
だいおう @@@LINK=大王 大王

大王
おおきみ

5〜6世紀ころの大和政権の支配者
江田船山古墳出土鉄刀銘や稲荷山古墳出土鉄剣銘に「大王」の語が見え,倭の五王のころの大和政権の支配者が大王と称していたことがわかる。7世紀末,天武〜持統朝に天皇号が採用されるまで,君主号として用いられた。

大王
だいおう

おおきみ
大国隆正
おおくにたかまさ @@@LINK=大国隆正 大国隆正

大国隆正
おおくにたかまさ

1792〜1871
幕末・維新期の国学者
石見(島根県)津和野藩士。平田篤胤 (あつたね) に国学を学び,長崎で蘭学を修めた。尊攘派志士と交わり,王政復古の理論的指導者となる。明治新政府に入り神道国教化政策に大きな影響を与えた。

大国主命
おおくにぬしのみこと @@@LINK=大国主命 大国主命

大国主命
おおくにぬしのみこと

出雲神話の中心神。出雲大社の祭神
大己貴 (おおなむち) 神・大物主神など別称が多い。素戔嗚尊 (すさのおのみこと) の子あるいは子孫という形で高天原 (たかまがはら) 神話と結びつけられている。記紀・『出雲国風土記』では,天孫降臨以前の葦原中国 (あしわらのなかつくに) の支配者で,国譲りの物語が伝えられる。そのほかに因幡 (いなば) の白兎の物語は有名。
大首絵
おおくびえ @@@LINK=大首絵 大首絵

大首絵
おおくびえ

人物画手法の一つ
美人画・役者絵などで,容貌を中心にして画面構成されたものをいう。江戸後期の浮世絵で喜多川歌麿は美人画に,東洲斎写楽は役者絵にこれを用いて有名。
大久保忠隣
おおくぼただちか @@@LINK=大久保忠隣 大久保忠隣

大久保忠隣
おおくぼただちか

1553〜1628
江戸初期の譜代大名
徳川氏譜代の大名で相模(神奈川県)小田原城主6万5000石。2代将軍徳川秀忠の擁立に功があり,本多正信とともに幕閣の中枢にあったが,正信に中傷され大久保長安の不正事件を契機に改易,近江に配流された。

大久保利通
おおくぼとしみち @@@LINK=大久保利通 大久保利通

大久保利通
おおくぼとしみち

1830〜78
幕末・明治初期の政治家。「維新の三傑」の一人
通称正助,のちに一蔵 (いちぞう) 。薩摩藩出身。討幕運動を指導し,薩長連合・王政復古の実現に努力した。明治新政府の参与・参議として版籍奉還・廃藩置県を断行。1871年岩倉遣外使節に副使として随行し,'73年帰国後西郷隆盛らの征韓論に反対。内務卿として実権を握って政府の中心となり,地租改正・殖産興業政策を推進。'78年東京紀尾井坂清水谷で不平士族に暗殺された。

大久保長安
おおくぼながやす @@@LINK=大久保長安 大久保長安

大久保長安
おおくぼながやす

1545〜1613
江戸初期の金山奉行
甲斐(山梨県)の人。猿楽師の子。大久保忠隣 (ただちか) の推挙で徳川家康に仕え,大久保姓を賜った。鉱山開発の才能を有し,佐渡・伊豆・石見 (いわみ) ・南部の金銀山を開発。石見守に任じられ八王子3万石を領有した。死後,不正の私財を蓄えたことを理由に罰せられ,一族も処罰された。

大久保彦左衛門
おおくぼひこざえもん @@@LINK=大久保彦左衛門 大久保彦左衛門

大久保彦左衛門
おおくぼひこざえもん

1560〜1639
江戸初期の旗本
本名,忠教 (ただたか) 。徳川家康・秀忠・家光の3代に仕え,幕府創業の諸合戦に従軍して功をたてた。戦国生き残りの武士として旗本の間で尊敬された。著書に『三河物語』3巻。

大隈言道
おおくまことみち @@@LINK=大隈言道 大隈言道

大隈言道
おおくまことみち

1798〜1868
江戸後・末期の歌人
筑前福岡の人。因習模倣を排し,自由な自己経験を重んじ,おもに庶民生活に即した歌を詠んだ。主著に歌論『ひとりごち』,歌集『草径 (そうけい) 集』など。

大隈重信
おおくましげのぶ @@@LINK=大隈重信 大隈重信

大隈重信
おおくましげのぶ

1838〜1922
明治・大正時代の政治家
肥前藩出身。明治政府の参議・大蔵卿などを歴任。明治十四年の政変で下野し,翌1882年立憲改進党を結成し党首となった。また東京専門学校(現早稲田大学)を創立した。'88年黒田清隆内閣の外相として条約改正に努力したが,国粋主義者に襲われ負傷し,辞職。'96年進歩党党首として松方正義内閣に入閣。'98年憲政党を結成し,同年日本初の政党内閣(隈板 (わいはん) 内閣)を組織した。1914年第2次内閣を組織し,第一次世界大戦に参加。中華民国政府に二十一カ条要求を提出し,その大部分を承認させた。政界引退後も,教育問題をはじめ多方面に弁論を展開,言論界重鎮であった。

大蔵
おおくら @@@LINK=大蔵 大蔵

大蔵
おおくら

大和政権財物を収納した三蔵 (みつくら) の一つ
主に地方からの貢納物をおさめた。
大倉喜八郎
おおくらきはちろう @@@LINK=大倉喜八郎 大倉喜八郎

大倉喜八郎
おおくらきはちろう

1837〜1928
明治・大正時代の実業家
越後(新潟県)の豪商出身。江戸に出て銃砲店大倉屋を開き,戊辰 (ぼしん) 戦争の際,官軍御用達をつとめ政商となる。以来軍需品御用達商人として戦争のたびに巨利を得,1893年合名会社大倉組に発展。1911年株式会社組織として大倉組(合名)を吸収し,大倉財閥を形成した。また日本最初の私立美術館としての大倉集古館,東京経済大学の前身の大倉高等商業学校を創設した。

大蔵省
おおくらしょう @@@LINK=大蔵省 大蔵省

大蔵省
おおくらしょう

①律令官制の八省の一つ
②明治初期の廃藩置県以後,財政・金融を担当する中央官庁
太政官の右弁官に属し,諸国の調や金銀などの出納保管,鋳銭,度量衡の公定や朝廷行事に必要な器具・衣服の製作などをつかさどった。長官は大蔵卿
1869年設置。内閣制度下にも引き継がれている。2001年,財務省と改称


大蔵永常
おおくらながつね @@@LINK=大蔵永常 大蔵永常

大蔵永常
おおくらながつね

1768〜?
江戸後期の農学者
豊後(大分県)の人。諸国をめぐり農業技術を研究。 (はぜ) や甘蔗の栽培,製蠟・製糖技術などの改良・普及に貢献した。三河田原藩・遠江 (とおとうみ) 浜松藩の農事改良にも参与。商品作物の栽培,商品生産による農業改善を主張し,多くの農学者が水田耕作だけに関心を寄せていたことから脱却している点で異色であった。主著に『広益国産考』『農家益』『農具便利論』など。
大河内正敏
おおこうちまさとし @@@LINK=大河内正敏 大河内正敏

大河内正敏
おおこうちまさとし

1878〜1952
大正・昭和期の科学者・実業家
東京の生まれ。東大教授でヨーロッパに留学。帰国後,1921年理化学研究所長となり,以後,公職追放になる'46年まで在任した。科学工業主義を提唱して業績をあげ,理研コンツェルンとも称された財閥的企業を構築した。

大御所
おおごしょ @@@LINK=大御所 大御所

大御所
おおごしょ

一般的には隠退した前将軍に対する敬称をいう
本来は天皇・皇族摂関など高貴な人の住居を呼んだ御所という語が,その人をさす敬称として用いられ,鎌倉幕府摂家将軍宮将軍が実現すると将軍にも適用され,ついで隠退した前将軍を大御所と呼ぶ慣例が生まれた。江戸時代,特に徳川家康および家斉 (いえなり) は隠退して大御所と呼ばれつつ,なお政治を左右したので有名。
大御所時代
おおごしょじだい @@@LINK=大御所時代 大御所時代

大御所時代
おおごしょじだい

文化・文政時代
大坂
おおさか @@@LINK=大坂 大坂

大坂
おおさか

近畿地方のほぼ中央部,現在の大阪
古代の難波 (なにわ) の地。大和政権の大陸交通上の要地で,大化の改新のとき孝徳天皇の都が置かれたこともある。1496年蓮如 (れんによ) が石山本願寺を創建しその寺内町として近世都の基礎が置かれ,織田信長の焼打ちにより焼失したが,1583年豊臣秀吉の大坂城築造に伴い,その城下町造りで強制移住させられた伏見などの町人を中心に,江戸時代の商業都市としての発展の基礎が確立された。江戸時代,幕府直轄地となり城代・町奉行が置かれた。「天下台所」と呼ばれ,諸藩の蔵屋敷が建ち並び,蔵物・納屋物 (なやもの) の取引きが盛んで,豪商が生まれ元禄文化を開花させた。元禄(1688〜1704)ごろの人口35万。明治時代になって,「大阪」と改められた。
大阪会議
おおさかかいぎ @@@LINK=大阪会議 大阪会議

大阪会議
おおさかかいぎ

1875(明治8)年1〜2月,征韓論などで分裂し危機にひんした政局打開のため,大久保利通が木戸孝允 (たかよし) ・板垣退助らと大阪で会い,政策の妥協をはかった会議
政府強化のため,木戸(台湾出兵反対で下野)・板垣(征韓論で下野)の参議復帰を求め,そのかわりに元老院・地方官会議を設け国会開設の準備を進める,大審院を設置するなどの立憲政体への漸次移行の方針が確認された。この結果,1875年3月木戸と板垣は参議に復帰し,4月「立憲政体樹立の詔」が発せられた。
大阪事件
おおさかじけん @@@LINK=大阪事件 大阪事件

大阪事件
おおさかじけん

1885(明治18)年,大井憲太郎ら自由党左派が朝鮮の内政改革を企て大阪で逮捕された事件
自由民権運動の再起と立憲政治樹立を目的として,大井憲太郎・景山英子ら旧自由党左派が,朝鮮に渡り事大党の打倒と朝鮮の内政改革を計画。事前に発覚し外患罪で処罰された。自由民権運動が国家主義的傾向を強めたことを示す事件。
大坂城
おおさかじょう @@@LINK=大坂城 大坂城

大坂城
おおさかじょう

大阪市中央区にある近世の代表的城郭
金城・錦城ともいう。1583年豊臣秀吉が石山本願寺跡に築城。関西30余国に大石・巨材を課し,3年を費やして完成。当初は5層9階の天守閣をもち,京都・伏見などの町人を移して城下町とした。1615年秀頼のとき大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失,江戸時代再建されたが1868年失火で焼失した。現在の天守閣は1931(昭和6)年再建の鉄筋コンクリート建築。
大坂城壁書
おおさかじょうかべがき @@@LINK=大坂城壁書 大坂城壁書

大坂城壁書
おおさかじょうかべがき

1595年,豊臣秀吉の制定した法度
五大老連署で大坂城内に掲示された5条の。追加9条。大名・公家・寺社統制の基本法で,江戸幕府の諸法度の源流となった。
大阪商船会社
おおさかしょうせんがいしゃ @@@LINK=大阪商船会社 大阪商船会社

大阪商船会社
おおさかしょうせんがいしゃ

1884年大阪で設立された代表的海運会社
関西の中小船主55名が,西南戦争以来の競争激化に対し,住友広瀬宰平社長として合同政府保護もとに戦争のたびに発展,内外航路に活躍し日本郵船会社につぎ日本第2位の海運会社となる。1964年三井船舶と合併し,大阪商船三井船舶株式会社となる。
大坂城代
おおさかじょうだい @@@LINK=大坂城代 大坂城代

大坂城代
おおさかじょうだい

江戸幕府の職名
大坂城内にあって大坂諸役人の首班として政務をとり,西国諸大名の監視(監察大目付)や大坂城の守護などにあたった。5万〜6万石以上の譜代大名から任命された。
大坂の役
おおさかのえき @@@LINK=大坂の役 大坂の役

大坂の役
おおさかのえき

1614年の冬および '15年の夏,徳川氏が豊臣氏を滅ぼした戦い
関ケ原の戦い(1600)後も,豊臣秀頼大坂城におり,莫大な軍用金をもち,徳川氏に仕えた諸大名中にも心を寄せる者があり,徳川の天下にとって恐るべき存在であった。徳川家康は後顧の憂いを絶つため,これを滅ぼす策を考え,方広 (ほうこう) 寺の鐘銘事件を機として戦端を開いた。1614年10月,淀君 (よどぎみ) をはじめとする大坂方は浪人を集め籠城したが,外濠 (そとぼり) を埋めることを条件に和睦した〈冬の〉。しかし内濠まで埋められたので,翌'15年4月再び挙兵,徳川方の猛攻により落城し,淀君・秀頼母子は自殺した〈夏の陣〉。
大阪紡績会社
おおさかぼうせきがいしゃ @@@LINK=大阪紡績会社 大阪紡績会社

大阪紡績会社
おおさかぼうせきがいしゃ

1882年,渋沢栄一ら民間実業家が華族層などからの大量出資を得て大阪に設立した紡績会社
イギリスの技術を採用,蒸気を利用し,1万500錘 (すい) という当時最大の近代的紡績工場として発足。関西紡績業発達の基礎となる。1914年三重紡績と合併,東洋紡績会社となった。
大阪砲兵工廠
おおさかほうへいこうしょう @@@LINK=大阪砲兵工廠 大阪砲兵工廠

大阪砲兵工廠
おおさかほうへいこうしょう

明治初期,大坂城内に設立された官営軍需工場
旧幕府の長崎製鉄所の機械や職工を用いて,1870年兵部省のもとに大阪大砲製造所を設立したのに始まる。'79年大阪砲兵工廠,1923年陸軍造兵廠大阪工廠と改称,敗戦まで旧陸軍火砲製造の中心工場であった。
大坂町奉行
おおさかまちぶぎょう @@@LINK=大坂町奉行 大坂町奉行

大坂町奉行
おおさかまちぶぎょう

江戸幕府の職名。遠国奉行の一つ
1619年に設置。老中の支配下にあり,東西両奉行所が月番制で,旗本から選任した。大坂の行政司法を管掌し,江戸中期以後は摂津・河内・和泉・播磨の幕府領の租税徴収や公事裁判もつかさどった。
大塩平八郎
おおしおへいはちろう @@@LINK=大塩平八郎 大塩平八郎

大塩平八郎
おおしおへいはちろう

1793〜1837
江戸後期の陽明学者
中斎と号す。大坂町奉行所の与力。辞任後学問に専念し,私塾洗心洞を開いた。1836年天保の飢饉の際,窮民の救済策を上申したがいれられず,蔵書を売却して窮民を救い,翌年挙兵したが敗死主著に『洗心洞剳記 (せんしんどうさつき) 』など。

大塩平八郎の乱
おおしおへいはちろうのらん @@@LINK=大塩平八郎の乱 大塩平八郎の乱

大塩平八郎の乱
おおしおへいはちろうのらん

1837年,大塩平八郎らが大坂でおこした反乱
天保の飢饉に際し,貧民救済に尽力した平八郎が大坂町奉行所の無策を批判し,近郷の農民に檄文を回して動員門下の与力・同心らと挙兵した。大坂市内の豪商を襲い貧民に米・金を与えたが1日で鎮圧され,平八郎は潜伏1か月余り後自殺した。元幕臣で陽明学者の大塩平八郎による直轄都市大坂での乱だけにその社会的影響は大きく,生田万 (いくたよろず) の乱などが続発し,幕府当局者にも危機感を与えた。
大敷網
おおしきあみ @@@LINK=大敷網 大敷網

大敷網
おおしきあみ

定置漁網の一種
陸地近くに設定し,網は袋網と垣網の2部分からなり,垣網によって誘導された魚が袋網の中に入るしかけ。戦国末期に長門国に現れ,江戸時代,特に沿岸漁業の発達とともに全国各地に普及した。
凡河内躬恒
おおしこうちのみつね @@@LINK=凡河内躬恒 凡河内躬恒

凡河内躬恒
おおしこうちのみつね

生没年不詳
平安前期の歌人。三十六歌仙の一人
紀貫之らと『古今和歌集』を撰した。歌風は高雅で,客観的叙情を主とし,即興的な傾向を詠んだものが多い。家集に『躬恒集』1巻。

大庄屋
おおじょうや @@@LINK=大庄屋 大庄屋

大庄屋
おおじょうや

江戸時代,村役人の最上位の職
惣庄屋・与頭庄屋・割元 (わりもと) ・検断・十村 (とむら) ・郷頭などともいう。代官あるいは郡奉行の下に数か村ごとに置かれ,各村の庄屋・名主 (なぬし) を統率支配し,法令の伝達,願書訴状の奥書,年貢・夫役の割付けなど農政を担当した。
大杉栄
おおすぎさかえ @@@LINK=大杉栄 大杉栄

大杉栄
おおすぎさかえ

1885〜1923
明治・大正時代の無政府主義者
香川県の生まれ。平民社で活動し数回入獄。大逆事件以後,雑誌『近代思想』などに拠り運動再興に尽力。1918年以後民本主義や協調論者を批判して労働運動に指導的役割を果たす。日本社会主義同盟('20)発起人の一人。その後共産主義者とアナ‐ボル論争(労働運動の組織をめぐってのアナルコ‐サンディカリスム派とボルシェビズム派の論争)を展開。'23年関東大震災の際,甘粕正彦憲兵大尉に虐殺された。

大田垣蓮月
おおたがきれんげつ @@@LINK=大田垣蓮月 大田垣蓮月

大田垣蓮月
おおたがきれんげつ

1791〜1875
幕末の女流歌人
本名は誠 (のぶ) 。伊賀(三重県)の人。大田垣光古 (てるひさ) の養女両親・夫・子に死別して出家,清貧孤高の生活を送った。情感のしぜんに流露した叙景歌にすぐれ,家集『海人 (あま) の刈藻 (かるも) 』がある。
太田錦城
おおたきんじょう @@@LINK=太田錦城 太田錦城

太田錦城
おおたきんじょう

1765〜1825
江戸後期の儒学者。折衷学派
加賀(石川県)の人。初め皆川淇園 (きえん) ・山本北山らの折衷学者についたがあきたらず,空理を排し,宋学に清朝初期の考証学をとり入れ,独自の折衷学派を大成した。著書に『梧窓漫筆』など。

太田黒伴雄
おおたぐろともお @@@LINK=太田黒伴雄 太田黒伴雄

太田黒伴雄
おおたぐろともお

1835〜76
幕末・明治初期の志士。神風連のの首領
熊本藩出身。熊本勤王党の国学者林桜園に学び神道を修める。明治政府の開国和親・文明開化の諸政策(廃刀令)に反対して神風連(敬神党)を組織し,1876年熊本で反乱をおこし敗死した。
太田道灌
おおたどうかん @@@LINK=太田道灌 太田道灌

太田道灌
おおたどうかん

1432〜86
室町中期の武将
関東管領家扇谷 (おうぎがやつ) 上杉の家宰太田資清の子で,名は資長 (すけなが) 。上杉定正の執事となり,1457年江戸城を築いて居城とした。扇谷・山内 (やまのうち) 両上杉家の対立激化にあたって,主家のために大いに武功をたてながら,山内の策謀により主君定正に殺された。学問・文学にも関心深く,五山の僧と交わり,和歌・連歌に長じた。

大田南畝
おおたなんぽ @@@LINK=大田南畝 大田南畝

大田南畝
おおたなんぽ

1749〜1823
江戸後期の狂歌・洒落本・滑稽本作者
名は覃 (たん) 。別号は四方赤良 (よものあから) ・蜀山人・寝惚 (ねぼけ) 先生など。幕臣。和漢の学に通じ,狂歌・狂詩・狂文・黄表紙・随筆など多方面に活躍。文壇の指導的地位にあって,天明調狂歌の中心となった。著書に『蜀山百首』『万載狂歌集』『寝惚先生文集』など。

大田文
おおたぶみ @@@LINK=大田文 大田文

大田文
おおたぶみ

鎌倉時代,幕府諸国に命じて国内の田地の面積や領有者などを調査・記録させた土地台帳
図田帳・田数帳ともいう。1197年以来,幕府が各国守護に指令し,荘官・国衙 (こくが) 役人を動員して作成した。豊後・薩摩・日向・大隅の図田帳,淡路・但馬 (たじま) の大田文,若狭の田数帳が現存する。
大津
おおつ @@@LINK=大津 大津

大津
おおつ

滋賀県,琵琶湖岸南西端にある港町。県庁所在地
667年天智天皇がここに近江大津宮を営み大津京といった。東海東山北陸の3の要地にあたり湖上交通の拠点。中世,坂本と並んで物資集散が盛んで,問丸 (といまる) も多かった。近世江戸幕府の直轄地となり,蔵屋敷も置かれた。1898年市制を施行
大津絵
おおつえ @@@LINK=大津絵 大津絵

大津絵
おおつえ

江戸初期,近江(滋賀県)大津の宿駅で旅人相手に売られた民衆絵画
無名の画家の作品で,仏画からのちに戯画に移った。泥絵具で奔放に描かれ,一見粗野であるがおもしろ味がある。
大塚楠緒子
おおつかくすおこ @@@LINK=大塚楠緒子 大塚楠緒子

大塚楠緒子
おおつかくすおこ

1875〜1910
明治時代の小説家・歌人
東京の生まれ。東大教授大塚保治の妻。日露戦争のとき,従軍中の夫の無事を祈る詩『お百度詣』を発表。与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』と並んでその反戦意識が注目された。
大槻玄沢
おおつきげんたく @@@LINK=大槻玄沢 大槻玄沢

大槻玄沢
おおつきげんたく

1757〜1827
江戸後期の蘭学者・医者・教育者
陸奥(岩手県)陸中の人。22歳で江戸に出,杉田玄白・前野良沢に学んだ。長崎遊学後,1786年江戸に私塾芝蘭堂を開き蘭学教育に尽力し,稲村三伯・宇田川玄真ら多くの蘭学者を育成した。また当時の外交問題にも関心をもち『北辺採事』を著した。著書に『蘭学階梯』。

大津京
おおつきょう @@@LINK=大津京 大津京

大津京
おおつきょう

7世紀,天智天皇在位中の都
667年中大兄 (なかのおおえ) 皇子(のちの天智天皇)が近江国大津京に遷都し翌年即位。672年大友皇子が壬申 (じんしん) の乱に死し,天武天皇の飛鳥浄御原 (きよみはら) 宮遷都で,以後まったく衰微した。
大津事件
おおつじけん @@@LINK=大津事件 大津事件

大津事件
おおつじけん

1891(明治24)年,滋賀県大津市でおこったロシア皇太子傷害事件
湖南事件ともいう。来日中のロシア皇太子ニコライが,警備にあたっていた巡査津田三蔵に斬りつけられ負傷。政府はロシアの報復を恐れ,大逆罪を適用して犯人の死刑を司法当局に要求したが,大審院長児島惟謙 (こじまいけん) は政治的圧力を排して無期徒刑に処し,司法権の独立を示した。
大津皇子
おおつのおうじ @@@LINK=大津皇子 大津皇子

大津皇子
おおつのおうじ

663〜686
天武天皇の皇子
母は天智天皇の皇女大田皇女(持統天皇の姉)。文武道に長じ,太政大臣として国政を執行。有力な天皇候補者であったが,天武天皇没後,謀反の疑いで持統天皇に捕らえられ刑死。『懐風藻』『万葉集』に歌を残す。

大伴氏
おおともうじ @@@LINK=大伴氏 大伴氏

大伴氏
おおともうじ

古代の中央豪族
姓 (かばね) は連 (むらじ) ,のち宿禰 (すくね) 。大連 (おおむらじ) として国政に参与し,大和政権の軍事を担当した。6世紀,継体天皇を擁立した金村のとき全盛期を迎えたが,527年金村が任那 (みまな) 4県を百済 (くだら) に与える失政により失脚し,以後衰退した。奈良時代の旅人 (たびと) ・家持 (やかもち) は歌人として有名。平安時代,淳和天皇の名が「大伴皇子」であったので伴氏と改めた。承和の変・応天門の変などで藤原氏に敗れ没落した。
大友氏
おおともし @@@LINK=大友氏 大友氏

大友氏
おおともし

中世における武家の名門
相模国大友郷よりおこる。初代能直 (よしなお) は源頼朝の御家人で,豊後(大分県)の守護に任じられて以来,一族は豊後守護職を世襲。南北朝時代には足利氏に属して北九州の有力守護大名に成長し,戦国時代にはキリシタン大名として知られる義鎮 (よししげ) (宗麟)が出て全盛期を築いたが島津氏と戦い敗れた。その子義統 (よしむね) は豊臣秀吉に従ったが,文禄の役で,明の大軍を恐れて逃げたため領地を没収され衰えた。江戸時代には高家に列せられた。
大友宗麟
おおともそうりん @@@LINK=大友宗麟 大友宗麟

大友宗麟
おおともそうりん

1530〜87
戦国・安土桃山時代のキリシタン大名
名は義鎮 (よししげ) 。豊後を中心に北部九州を支配。1551年ザビエルを府内に招いてキリスト教布教を許可し,みずからも受洗してフランシスコと称す。'82年には天正遣欧使節をローマに派遣。'78年島津氏に敗北してから次第に勢力範囲をせばめた。

大友皇子
おおとものおうじ @@@LINK=大友皇子 大友皇子

大友皇子
おおとものおうじ

648〜672
天智天皇第1皇子
母は伊賀の豪族の娘。天智天皇に寵愛され,671年太政大臣となり,叔父皇太弟大海人 (おおあま) 皇子(のちの天武天皇)と対立。天智天皇の没後,壬申 (じんしん) の乱に敗れて自殺した。『懐風藻』に2首の漢詩がみられる。『日本書紀』は即位を記さないが,1870(明治3)年弘文天皇とおくり名された。
大伴金村
おおとものかなむら @@@LINK=大伴金村 大伴金村

大伴金村
おおとものかなむら

生没年不詳
5〜6世紀,大和政権勢威をふるった大連 (おおむらじ)
仁賢天皇の没後大臣 (おおおみ) 平群 (へぐり) 氏を倒し武烈天皇擁立に成功,大連 (おおむらじ) として国政を担当した。武烈没後皇嗣がたえると,継体天皇の擁立に成功し,続いて安閑・宣化天皇を支持して,欽明天皇を支持する蘇我・物部氏と対立した。512年任那 (みまな) 4県を百済 (くだら) に割譲する失政により失脚,物部尾輿 (おこし) にその地位を奪われた。
大友黒主
おおとものくろぬし @@@LINK=大友黒主 大友黒主

大友黒主
おおとものくろぬし

生没年不詳
平安初期の歌人。六歌仙の一人
近江国の人らしいが伝記不詳。『古今和歌集』などの勅撰集に10首おさめられている。
大伴坂上郎女
おおとものさかのうえのいらつめ @@@LINK=大伴坂上郎女 大伴坂上郎女

大伴坂上郎女
おおとものさかのうえのいらつめ

生没年不詳
奈良時代の女流歌人
大伴旅人 (たびと) の異母妹。『万葉集』に女流歌人としては最も多い84首の歌を残している。

大伴旅人
おおとものたびと @@@LINK=大伴旅人 大伴旅人

大伴旅人
おおとものたびと

665〜731
奈良時代の歌人
家持 (やかもち) の父。大伴安麻呂の長男として生まれ,大宰帥 (だざいのそつ) ・大納言などを歴任漢学・和歌に長じ,『懐風藻』に1首,『万葉集』に約80首おさめられている。作風には老荘思想の影響もみえる。

大伴家持
おおとものやかもち @@@LINK=大伴家持 大伴家持

大伴家持
おおとものやかもち

718〜785
奈良時代の歌人
旅人 (たびと) の子。『万葉集』に473首おさめられ,『万葉集』中最多。その編纂には最も力があったと考えられるが,758年因幡守任官の年で作歌生活を終えている。のち中納言まで昇進したが,死後藤原種継暗殺に関係したとして処罰をうけた。藤原氏の隆盛に圧迫された貴族の一人。

大友義鎮
おおともよししげ @@@LINK=大友義鎮 大友義鎮

大友義鎮
おおともよししげ

大友宗麟
大鳥圭介
おおとりけいすけ @@@LINK=大鳥圭介 大鳥圭介

大鳥圭介
おおとりけいすけ

1833〜1911
明治時代の政治家・外交官
播州赤穂の生まれ。緒方洪庵・江川太郎左衛門らに蘭学・兵学を学び,江戸幕府の歩兵奉行となる。江戸開城に反対して脱走し五稜郭にたてこもったが降伏。のち許され,1889(明治22)年駐清公使となり,'93年駐韓公使を兼任,日清戦争直前の外交を担当した。
大鳥造
おおとりづくり @@@LINK=大鳥造 大鳥造

大鳥造
おおとりづくり

大社造から発展した神社建築の一様式
切妻造 (きりづまづくり) ・妻入は大社造と同様だが,入口を中央に設け,内部は内陣・外陣に区別されている。代表例として堺市の大鳥神社本殿など。
大西祝
おおにしはじめ @@@LINK=大西祝 大西祝

大西祝
おおにしはじめ

1864〜1900
明治時代の哲学者
岡山藩出身。幼少よりキリスト教の影響を受け同志社神学科を経て東大哲学科を卒業。東京専門学校(現早稲田大学)その他で教鞭をとり,『六合雑誌』の編集に参加し評論界で活躍。井上哲次郎らの国家主義を批判し,自由主義の立場で個人の尊厳を強調した。

大野東人
おおののあずまひと @@@LINK=大野東人 大野東人

大野東人
おおののあずまひと

?〜742
奈良時代の軍人貴族
724年藤原宇合 (うまかい) に従って蝦夷 (えみし) 征討に参加。のち陸奥鎮守府将軍,陸奥按察使 (あぜち) を歴任。740年藤原広嗣の乱に大将軍として平定にあたり,その功で従三位となった。
太安万侶
おおのやすまろ @@@LINK=太安万侶 太安万侶

太安万侶
おおのやすまろ

?〜723
奈良時代の官人・文人。『古事記』の撰録者
名は「安麻呂」とも書く。稗田阿礼 (ひえだのあれ) が誦んだ『帝紀』『旧辞 (きゆうじ) 』を,711年元明天皇の勅命録し,翌712年『古事記』を完成。舎人 (とねり) 親王総裁とする『日本書紀』の撰修にも活躍した。
大橋訥庵
おおはしとつあん @@@LINK=大橋訥庵 大橋訥庵

大橋訥庵
おおはしとつあん

1816〜62
幕末の志士・儒者
兵学者の子として江戸に生まれ,豪商大橋家の養子となる。佐藤一斎に儒学を学んだが実践の人であり,1853年ペリー来航後尊王攘夷運動を推進。老中安藤信正の暗殺を計画したが捕らえられ獄中で病死した。主著に『闢邪小言 (へきじやしようげん) 』など。

大祓
おおはらい @@@LINK=大祓 大祓

大祓
おおはらい

身体についた罪・穢 (けがれ) を払うため行う神事
「おおはらえ」とも読む。令制では毎年6月と12月晦日 (みそか) に行った。また大嘗祭 (だいじようさい) や天変地異の際にも行われた。朝廷の儀式では中臣 (なかとみ) 氏が祓詞 (はらいことば) を読み上げるので「中臣祓 (なかとみばらい) 」ともいう。応仁の乱後に途絶
大原重徳
おおはらしげとみ @@@LINK=大原重徳 大原重徳

大原重徳
おおはらしげとみ

1801〜79
幕末の尊攘派公卿
安政の修好通商条約では勅許阻止・調印非難に活動し,安政の大獄謹慎処罰をうける。1862年島津久光の公武合体策で,勅使として久光を伴い江戸に下り,幕政改革・将軍上洛の勅命を伝えた。王政復古後,参与・議定などを歴任した。

大原幽学
おおはらゆうがく @@@LINK=大原幽学 大原幽学

大原幽学
おおはらゆうがく

1797〜1858
江戸後・末期の農民指導者・経世家
尾張(愛知県)藩士の養子というが不明。神道・儒教・卜占 (ぼくせん) を学び,中国・近畿地方の農村を遊歴。神・儒・仏の思想を融合し,勤倹・知足安分を説き性理学と呼ばれた。1851年下総(千葉県)長部 (ながべ) 村で農村復興の指導中,関東取締出役の手先乱入,取調べの結果,道場(改心楼)は取りこわしの処分をうけ,'58年幽学は自殺した。

大番頭
おおばんがしら @@@LINK=大番頭 大番頭

大番頭
おおばんがしら

江戸幕府の職名
江戸城警護および江戸市中の警備にあたる大番12組が1632年までに編成された。その各組のが大番頭で,老中支配に属した。最初は譜代大名から任じられ,のちに上級旗本から選ばれた。
大判・小判
おおばん・こばん @@@LINK=大判・小判 大判・小判

大判・小判
おおばん・こばん

安土桃山・江戸時代の金貨。大判は10両判,小判は1両判
室町末期の私的な鋳造のあとをうけ,大判は1588年豊臣秀吉が,小判は'95年徳川家康が秀吉の許可で鋳造したのに始まる。特に家康が1601年に慶長小判を大量鋳造して以来全国的通貨として確立し,金座で鋳造された。大判は初期に流通したほかは贈答・恩賞など儀礼用で,実質は大判1枚は小判10枚以下であった。江戸時代を通じ大判8種,小判10種が発行された。
大判座
おおばんざ @@@LINK=大判座 大判座

大判座
おおばんざ

江戸時代大判鋳造をつかさどった役所
江戸初期,京都の彫金師後藤四郎兵衛が大判の発行や手入れ特権を与えられ,以後後藤家世襲管掌)した。また金銀掛の分銅の鋳造や管理,刀剣金具の彫刻もつかさどった。17世紀中ごろから江戸・京都の2か所で行われた。
大番催促
おおばんさいそく @@@LINK=大番催促 大番催促

大番催促
おおばんさいそく

鎌倉時代守護職務の一つ
御家人を京都大番役につかせるための割当て,召集,引率勤番などの業務をさす。
大番役
おおばんやく @@@LINK=大番役 大番役

大番役
おおばんやく

平安末〜鎌倉時代,内裏・院御所・摂関家・幕府などの警固役
鎌倉幕府の御家人役の一つになる。京都大番役・鎌倉番役があり,両者とも平時における御家人の奉公で,京都大番役は幕府成立とともに義務とされた。皇居と洛中の警固を目的とし,守護の召集引率により6か月または3か月間私費で勤番。のち在京人・異国警固番役服務者は免除された。鎌倉番役は幕府を警固するものとして,承久の乱(1221)後,遠江 (とおとうみ) (静岡県)以東15カ国の御家人に課せられた。
大湊
おおみなと @@@LINK=大湊 大湊

大湊
おおみなと

中世伊勢国の港町。現在の三重県伊勢市にある
東海道沿岸航路の中心点で,伊勢神宮の外港的役割を果たす。南北朝時代,義良 (のりよし) 親王・北畠親房らの奥州下向の出発港として有名。戦国時代,北条早雲ら大名の軍用船建造地でもあった。
大神神社
おおみわじんじゃ @@@LINK=大神神社 大神神社

大神神社
おおみわじんじゃ

奈良県桜井市三輪にある神社。祭神は大物主 (おおものぬし) 神
大三輪社ともいう。三輪山に対する原始信仰に発し,この山を神体として礼拝する,神殿を持たない社として知られる。記紀にみえる三輪山伝説は有名。
大村氏
おおむらし @@@LINK=大村氏 大村氏

大村氏
おおむらし

中世〜近世における肥前国(長崎県)の大名
鎌倉初期,大村忠澄が肥前国藤津・彼杵 (そのぎ) 2郡の地頭職に任じられてからしだいに勢力を得,南北朝時代には南朝方に属した。室町・戦国時代も本領を維持。純忠 (すみただ) はキリシタン大名として名高い。江戸時代,大村藩主として2万8000石を領有した。
大連
おおむらじ @@@LINK=大連 大連
だいれん @@@LINK=大連 大連

大連
おおむらじ

大化の改新前の大和政権の最高官
連を姓 (かばね) とする最有力者が任命され,大臣 (おおおみ) と並び国政参画。5世紀後半ごろから大伴・物部 (もののべ) 両氏が任じられた。大伴金村が半島経営の失政で失脚後,物部氏が独占。587年物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされると大連は置かれず,大化の改新で廃止され,左右大臣・内臣 (うちつおみ) が置かれた。

大連
だいれん

中国東北部,遼東半島先端にある港市
1905年日露講和条約により,日本の租借地となったが,'45年中国に返還された。
大村純忠
おおむらすみただ @@@LINK=大村純忠 大村純忠

大村純忠
おおむらすみただ

1533〜87
戦国・安土桃山時代のキリシタン大名
有馬晴純の2男。肥前(長崎県)大村城主大村純前 (すみあき) の養子となる。1563年受洗し,わが国最初のキリシタン大名となった。教名バルトロメオ。'70年南蛮船に長崎を開港し,'80年には長崎・浦上などをイエズス会に寄進。'82年天正遣欧使節をローマに派遣した。

大村益次郎
おおむらますじろう @@@LINK=大村益次郎 大村益次郎

大村益次郎
おおむらますじろう

1824〜69
幕末・維新期の兵学者。近代軍制の創始者
長州藩出身。緒方洪庵に蘭学を学び医学・兵学を修める。長州藩の軍制改革を指導。第2次長州征討・戊辰 (ぼしん) 戦争の際,その作戦指導にあたった。1869年新政府の兵部大輔となり,武士団の解体と徴兵制の実施を説き,反対派士族に襲われて負傷し,死んだ。

大目付
おおめつけ @@@LINK=大目付 大目付

大目付
おおめつけ

江戸幕府の職名
幕政の監察を主要な任務とし,特に大名監察にあたったので大名目付ともいう。旗本から任命され,大名並の待遇をうけた。定員4〜5名。
大本教
おおもときょう @@@LINK=大本教 大本教

大本教
おおもときょう

明治末期(1892)におこった神道系宗教団体
京都府綾部市の大工の未亡人出口なおが教祖。「お筆先 (ふでさき) 」を書き,艮 (うしとら) の金神 (こんしん) を祭れと説いた。女婿出口王仁三郎 (おにさぶろう) の活躍で教団に発展したが,1935年不敬事件を理由に結社禁止となった。第二次世界大戦後,大本愛善苑として復活。
大森貝塚
おおもりかいづか @@@LINK=大森貝塚 大森貝塚

大森貝塚
おおもりかいづか

東京都大田区・品川区にある縄文時代後期を中心とする貝塚
1877年アメリカ人動物学者モースが発見。日本における最初の考古学的発掘調査が実施され,'79年報告書が刊行された。
大森房吉
おおもりふさきち @@@LINK=大森房吉 大森房吉

大森房吉
おおもりふさきち

1868〜1923
明治・大正時代の物理学者
福井県の生まれ。東大卒業後,関谷清景のあとを継いで地震学を専攻し,東大教授となる。大地震の余震の研究,耐震建築,地震帯の発見,地震史資料編集,大森式地震計の考案など,わが国近代地震学の発展に貢献した。
大山郁夫
おおやまいくお @@@LINK=大山郁夫 大山郁夫

大山郁夫
おおやまいくお

1880〜1955
大正・昭和期の社会運動家
兵庫県の生まれ。早大卒。大正中期,大阪朝日新聞論説委員や早大教授として民本主義思想を展開。吉野作造黎明会を結成し,河上肇らと『我等』を創刊。のち社会主義に接近し,1926〜'28年労働農民党,'29〜'31年労農党の委員長を歴任。弾圧のため'32年渡米し,'42年まで亡命生活を送る。第二次世界大戦後の'47年帰国し平和運動に活躍した。'51年スターリン平和賞を受賞した。

大山巌
おおやまいわお @@@LINK=大山巌 大山巌

大山巌
おおやまいわお

1842〜1916
明治時代の軍人
陸軍大将・元帥・元老。薩摩藩出身。戊辰 (ぼしん) 戦争・西南戦争で活躍。薩摩派を率いて長州の山県有朋とともに陸軍の創設に尽力し,陸相・参謀総長などを歴任。日清戦争では第2軍司令官,日露戦争では満州軍総司令官をつとめた。
大山崎油座
おおやまざきあぶらざ @@@LINK=大山崎油座 大山崎油座

大山崎油座
おおやまざきあぶらざ

中世,大山崎離宮八幡宮を本所とする油座
灯油献納・神事奉仕などを行い,油の原料仕入・製造・販売の独占権と関銭免除などの特権を得て,近畿・西国に活躍した。現地住人のほか,地方居住の商人も参加。これらの従事者を神人 (じにん) と呼ぶ。応仁の乱(1467〜77)以後衰えた。
大山崎離宮八幡宮
おおやまざきりきゅうはちまんぐう @@@LINK=大山崎離宮八幡宮 大山崎離宮八幡宮

大山崎離宮八幡宮
おおやまざきりきゅうはちまんぐう

京都府乙訓 (おとくに) 郡大山崎町にある神社
859年宇佐八幡神を男山(石清水八幡)に迎える途中嵯峨天皇河陽 (かや) 離宮のあったこの地に一時止まり奉祀したことに始まる。陸上河川交通要衝にあり,ここを本所とする油座神人 (じにん) は有名。
大山綱良
おおやまつなよし @@@LINK=大山綱良 大山綱良

大山綱良
おおやまつなよし

1825〜77
明治初期の官僚。初代鹿児島県令
薩摩藩出身。戊辰 (ぼしん) 戦争には奥羽征討軍参謀として活躍。藩参事を経て鹿児島県令となったが,鹿児島の特殊性を主張して地租改正や秩禄処分も指示どおりには行わなかった。西南戦争に際しては西郷隆盛を援助,乱後処刑された。

大湯環状列石
おおゆかんじょうれっせき @@@LINK=大湯環状列石 大湯環状列石

大湯環状列石
おおゆかんじょうれっせき

秋田県鹿角 (かづの) 市十和田大湯にある,大小の石を環状に配列した縄文時代後期の遺跡
組石遺構が集合して帯状をなし,内外二重の環を形成したもの。野中堂,万座の2つの遺跡からなり,それぞれの環の外周は40mを超える。これまでの調査で,配石下墓穴が確認され,組石は墓標と考えられている。
大輪田泊
おおわだのとまり @@@LINK=大輪田泊 大輪田泊

大輪田泊
おおわだのとまり

現在の神戸港の古名
古代から瀬戸内海航路の要地。12世紀,平清盛が日宋貿易の港としてその拡大修築にあたったが,平氏の滅亡により計画は未完成に終わった。中世以降,兵庫と改称された。
岡倉天心
おかくらてんしん @@@LINK=岡倉天心 岡倉天心

岡倉天心
おかくらてんしん

1862〜1913
明治時代の美術評論家
本名は覚三。横浜の生まれ。東大卒。フェノロサに学び,東洋,特に日本美術の伝統への理解を深めた。1887年東京美術学校を創設し,校長として多くの画家を育て,のち日本美術院を創立。日本画の改革を提唱した。また英文で『茶の本』『東洋の理想』など出版し,日本文化を海外に紹介した。

御蔭参り
おかげまいり @@@LINK=御蔭参り 御蔭参り

御蔭参り
おかげまいり

江戸時代,特定の年におこった集団的な伊勢参詣の現象
抜け参りともいう。伊勢参詣は封建的抑圧からの解放感を味わえるので,農民は競って御蔭参りに参加した。江戸時代を通じ,約60年前後を周期とし,1650年より数回おこっているが,御師 (おし) や豪商扇動によりおこったともいわれている。特に幕末の,この伝統のうえに世直し運動として展開した「ええじゃないか」は有名。
岡崎正宗
おかざきまさむね @@@LINK=岡崎正宗 岡崎正宗

岡崎正宗
おかざきまさむね

生没年不詳
鎌倉末期の刀工
号は五郎入道。相模の人。名工新藤五 (しんとうご) 国光に鍛錬の秘法を学び,独特な作風を開いた。高弟郷義弘・関兼氏・長船兼光らがいる。
小笠原諸島
おがさわらしょとう @@@LINK=小笠原諸島 小笠原諸島

小笠原諸島
おがさわらしょとう

伊豆七島の南方洋上にある列島。東京都に属する
ながく無人島であった。小笠原の地名は1593年豊臣秀吉に仕えた武将小笠原貞頼の発見によるとされるが,確証に欠ける。イギリスおよびアメリカが領土宣言をしていたが,明治新政府は,交渉の結果,1875年日本の領土であることを各国に通告し領有権を確定した。その後,本土からの移民もふえ,1944年には7711人を数えたが,太平洋戦争末期,強制疎開で本土に引き揚げた。第二次世界大戦後はアメリカの施政権下に置かれ,ハワイ‐グアム島から沖縄を結ぶ極東の核戦略体制の重要な拠点となっていたが,'68年6月,日本に返還された。
小笠原流
おがさわらりゅう @@@LINK=小笠原流 小笠原流

小笠原流
おがさわらりゅう

江戸時代に礼式作法として普及した,封建社会の武家故実の一派
鎌倉時代以来小笠原氏に代々伝えられた弓馬の術が室町時代に武家礼式となり,江戸時代に小笠原氏が幕府に仕えたため幕府の権威ある礼法となった。
岡田寒泉
おかだかんせん @@@LINK=岡田寒泉 岡田寒泉

岡田寒泉
おかだかんせん

1740〜1816
江戸後期の朱子学者
通称清助。寛政三博士の一人。松平定信に登用され,寛政の改革に際し,寛政異学の禁を進言した。また代官として農村の治政に功績をあげた。

岡田啓介内閣
おかだけいすけないかく @@@LINK=岡田啓介内閣 岡田啓介内閣

岡田啓介内閣
おかだけいすけないかく

海軍大将岡田啓介(1864〜1952)を首班とする内閣(1934.7〜36.2)
斎藤実 (まこと) 内閣総辞職後,民政党を準与党とし,現状維持を期待されたが,ワシントン海軍軍縮条約を廃棄し,ロンドン軍縮会議から脱退した。天皇機関説排撃・国体明徴問題で軍部・右翼に譲歩。ついで軍部の華北進出と皇道派の突き上げが激化し,1936年総選挙で民政党勝利の直後,二・二六事件で総辞職。
尾形乾山
おがたけんざん @@@LINK=尾形乾山 尾形乾山

尾形乾山
おがたけんざん

1663〜1743
江戸中期の陶工・画家
光琳の弟。兄の派手な性格と対照的で自制的な生活をした。作風は本阿弥光悦・野々村仁清 (にんせい) の風をうけ,さらに閑寂な趣を加え,京焼に影響を与えた。

緒方洪庵
おがたこうあん @@@LINK=緒方洪庵 緒方洪庵

緒方洪庵
おがたこうあん

1810〜63
江戸末期の蘭学者・医者・教育者
備中(岡山県)の人。江戸に出て蘭学を学び,1838年大坂に蘭学塾適々斎塾を開き,青年の教育にあたり,大村益次郎・福沢諭吉など有為な人材を輩出した。わが国最初の病理学の編著『病学通論』を出し,牛痘接種の普及につとめ,西洋医学所(医学所の前身)頭取となった。

尾形光琳
おがたこうりん @@@LINK=尾形光琳 尾形光琳

尾形光琳
おがたこうりん

1658〜1716
江戸中期の画家・工芸家
京都の呉服商雁金屋 (かりがねや) 尾形宗謙の2男。父の遺産を消費したが,その作風には豪商の雄大な気風がうかがえる。初め狩野派を学び,のち俵屋宗達 (そうたつ) に私淑して豪快な装飾画風を大成し,琳派といわれた。工芸では本阿弥光悦に傾倒し,名作を残した。代表作に『紅白梅図屛風』『燕子花 (かきつばた) 図屛風』『八ツ橋蒔絵硯箱』など。

岡田三郎助
おかださぶろうすけ @@@LINK=岡田三郎助 岡田三郎助

岡田三郎助
おかださぶろうすけ

1869〜1939
明治〜昭和期の洋画家
佐賀県の生まれ。黒田清輝に師事し近代西洋画の研究を深め,白馬会に参加。東京美術学校の助教授となり,フランスへ留学しラファエル=コランに学び,帰国後同校教授。日本画と油絵統一を追究した。1937年,第1回文化勲章を受章。代表作に『某婦人の肖像』など。

雄勝城
おがちじょう @@@LINK=雄勝城 雄勝城

雄勝城
おがちじょう

奈良時代,蝦夷 (えみし) 攻略のため出羽国雄勝郡に設けられた城柵
759年完成。秋田城と並ぶ北方支配の拠点所在地は秋田県雄勝郡羽後町が有力。
岡本綺堂
おかもときどう @@@LINK=岡本綺堂 岡本綺堂

岡本綺堂
おかもときどう

1872〜1939
明治〜昭和期の劇作家
本名敬二。東京の生まれ。新聞記者として劇評を書くかたわら脚本を執筆。2代目市川左団次のために『修禅寺物語』『番町皿屋敷』など多くの戯曲を書き,新歌舞伎運動の代表的劇作家となる。晩年は『半七捕物帳』など,多くの小説・読物を発表した。

小川芋銭
おがわうせん @@@LINK=小川芋銭 小川芋銭

小川芋銭
おがわうせん

1868〜1938
明治〜昭和期の日本画家
東京の生まれ。初め洋画を学び,漫画を新聞・雑誌に発表して好評を得,日本美術院同人となってから新しい南画を目ざして気品高い作品を生んだ。田園風物や河童の絵を得意とし,近代美術界の異彩とされた。代表作に『水魅戯 (すいみぎ) 』など。

御為替組
おかわせぐみ @@@LINK=御為替組 御為替組

御為替組
おかわせぐみ

江戸幕府公金為替を取り扱った御用商人の団体
為替方・為替方ともいう。1691年に始まり,十人組・三井組・上田組などがあり,御為替三組といわれた。幕末には,幕府の金融機関として広く財政経理に介入するようになった。
小川琢治
おがわたくじ @@@LINK=小川琢治 小川琢治

小川琢治
おがわたくじ

1870〜1941
明治〜昭和期の地質・地理学者
和歌山県の生まれ。京大教授。20年余にわたって地質学・地理学を講じ,中国の歴史地理学も開発した。小川芳樹・湯川秀樹・貝塚茂樹・小川環樹の学者一家の父。

隠岐
おき @@@LINK=隠岐 隠岐

隠岐
おき

島根県北東部の日本海上にある諸島
山陰道に属する下国 (げこく) (令制での国の等級一種)。国府は周吉 (すき) 郡西郷町。島前 (どうぜん) (3島),島後 (どうご) の4島からなり,4郡に分かれる。古代から罪人遠流 (おんる) の地とされ,承久の乱で後鳥羽上皇,元弘の変で後醍醐 (ごだいご) 天皇が配流。鎌倉時代には近江の佐々木氏一族が出雲と隠岐の守護を兼ね,南北朝以後山名氏・京極氏・尼子氏・吉川氏などの支配を経て,江戸時代松江の松平氏の預り領となった。
掟書
おきてがき @@@LINK=掟書 掟書

掟書
おきてがき

掟(法律・規則)を記した文書
掟は置目 (おきめ) ともいい,室町時代から用いられた語。幕府・大名の法令,寺院小領主・惣の規則,個人の家訓なども掟と呼ばれた。とりわけ惣村の自治的な掟,戦国大名分国法などが重要である。
沖縄
おきなわ @@@LINK=沖縄 沖縄

沖縄
おきなわ

九州の南端から台湾東北端に至る1200㎞の海上に連なる琉球列島。沖県を構成
沖縄史の初めは言語・文化を同じくする日本人の一部がこの列島に住みついたことに始まると思われる。伝説としては,源為朝が八丈島から沖縄島に渡り,土豪の妹を妻として一子を得,これが第1代の王となったとされるが,もとより史実とはいえない。11世紀ごろから按司 (あんじ) と呼ばれる族長が支配する部族国家が分立し,やがてそれらの上に世主 (よのぬし) が出現し,各地に割拠した。14世紀には,北山・中山・南山の3勢力にまとまり,明にそれぞれ朝貢し,特に中山朝は,アンナン・ジャワ・シャムなどを対象とする東南アジア貿易を発展させ,またその商船は博多や坊津に来航して南洋方面との貿易を中継するなどの動きをみせていた。15世紀の初め,尚氏が台頭,同世紀の末には本島を政治的に統一し,16世紀の初めまで琉球史上の全盛期を現出した。この尚王朝が明治維新まで続く。1609(慶長14)年の島津氏の侵攻は琉球王国に大きな打撃を与えた。その後は,島津氏と,中国の明・清への両属を余儀なくされた。しかも島津氏の琉球人に対する本土の風俗・言語の使用を禁じる政策は,本土人と琉球人の民族的一体化を妨げた。明治維新後,新政府は1874年台湾出兵を行い,琉球の日本帰属を諸国に黙認させ(琉球帰属問題),'79年沖縄県とした。沖縄県となってからは知事や県庁の首脳部をはじめ指導者層はすべて本土から派遣され,急速に日本化が推進されたが,本土と同じ自治制度となったのは1920年であり,本土と異なる差別的な特殊事情が存続した。また経済的にも本土の資本や商人の進出で不安定であった。太平洋戦争末期,沖縄は激しい攻防の戦場となり,住民は大きな被害をうけた。'45年アメリカ軍に占領され,以後その軍政下に置かれた。'51年サンフランシスコ平和条約締結以後も,第3条の規定によってアメリカの権力下に置かれたので,住民の自治権は限られ,生活は基地に左右された。悲願の日本復帰運動は '72年に実を結び,沖縄は新しい道を進むことになり,'75年には海洋博覧会が開催された。
沖縄返還協定
おきなわへんかんきょうてい @@@LINK=沖縄返還協定 沖縄返還協定

沖縄返還協定
おきなわへんかんきょうてい

第二次世界大戦後,アメリカの施政下にあった沖縄を,日本に返還するという日米協定
正式には「琉球諸島および大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」という。1945年第二次世界大戦の終結以来,沖縄は日本本土から分離され,アメリカの単独占領下に置かれた。サンフランシスコ平和条約の後も,沖縄はアメリカの施政権が及ぶこととされた。その後,'69年の佐藤・ニクソン両首脳による日米共同声明によって,アメリカ軍の基地維持の重要性と,'72年中の沖縄返還が明らかにされた。こうして,'71年6月17日に沖縄返還協定が調印され,'72年5月15日に沖縄が日本に返還された。協定では,琉球諸島と大東諸島の施政権がアメリカから日本に返還されることを規定するとともに,安保条約をはじめ日米間条約は沖縄にも適用されるものとし,米軍基地の維持について周到な規定が設けられた。
沖ノ島遺跡
おきのしまいせき @@@LINK=沖ノ島遺跡 沖ノ島遺跡

沖ノ島遺跡
おきのしまいせき

福岡県北西部,沖ノ島にある4世紀末以来の祭祀遺跡
沖ノ島は福岡県宗像 (むなかた) 神社に属する島で,海上交通の守護神宗像神社の奥宮があり,大陸との通交にあたってこの島で国家的祭祀が挙行されたとみられる。1954年以来の発掘で祭祀遺跡のほか縄文・弥生時代の遺跡も発見された。
置文
おきぶみ @@@LINK=置文 置文

置文
おきぶみ

相続人・後継者が遵守すべき事柄を書き残した文書
古代後期から中世にかけて行われ,寺院や公家武家などが後代の者に残した規定や遺訓遺言などをいう。後継者や一族の行動のとして権威があり,のちには書置 (かきおき) ・遺言ともいわれた。
荻生徂徠
おぎゅうそらい @@@LINK=荻生徂徠 荻生徂徠

荻生徂徠
おぎゅうそらい

1666〜1728
江戸中期の儒学者。蘐園 (けんえん) 学派(古文辞学派)の祖
蘐園と号す。江戸の人。柳沢吉保 (よしやす) の儒臣となったが,のち辞して江戸茅場 (かやば) 町に塾を開き,著作と教育に専念。朱子学にあきたらず,伊藤仁斎の古学に啓発されて古文辞学を唱え,蘐園学派といわれた。孔子・孟子など直接原典にあたり字句の忠実な解釈から研究すべきことを説いた。主著に『政談』『弁道』など。

荻原重秀
おぎわらしげひで @@@LINK=荻原重秀 荻原重秀

荻原重秀
おぎわらしげひで

1658〜1713
江戸中期の勘定奉行
将軍徳川綱吉のとき,貨幣改鋳(元禄金銀)による幕府財政救済を建言し,財政好転ので1696年勘定奉行に昇進,29年間在職。その間,貨幣の品質引下げや増発により財政難を表面上一時好転させたが物価高騰ももたらした。将軍家宣の代になると新井白石によりその政策と収賄を弾劾され,1712年失脚。

荻原井泉水
おぎわらせいせんすい @@@LINK=荻原井泉水 荻原井泉水

荻原井泉水
おぎわらせいせんすい

1884〜1976
明治後期〜昭和期の俳人
東京の生まれ。東大言語学科卒。1911年河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう) らと新傾向俳句を目ざし,俳誌『層雲』を創刊。季題を排し,生命を表現することを主張し,自由律俳句の理論確立と実践につとめた。

荻原守衛
おぎわらもりえ @@@LINK=荻原守衛 荻原守衛

荻原守衛
おぎわらもりえ

1879〜1910
明治後期の彫刻家
号は碌山 (ろくざん) ,長野県の生まれ。洋画を学び,アメリカ・フランスに渡って彫刻を研究。ロダンに師事し,その才能を認められた。帰国後ロダンの紹介につとめ,近代彫刻の基礎を築いた。『文覚』『女』『坑夫』など深みのある名作を残し若くして死んだ。

晩稲
おくて @@@LINK=晩稲 晩稲

晩稲
おくて

稲の品種の一つ。➡ 早稲 (わせ) ・中稲 (なかて) ・晩稲 (おくて)
阿国歌舞伎
おくにかぶき @@@LINK=阿国歌舞伎 阿国歌舞伎

阿国歌舞伎
おくにかぶき

1603年出雲阿国によって始められた歌舞伎踊
それ以前の女猿楽や念仏踊を総合したもので,女性が男装し劇的な筋をもって踊った。その異様な風体楽的劇風は民衆中心に人気を博し,これにならって傾城 (けいせい) 屋が遊女に踊らせたので,各地に流行した。絵巻風の『歌舞伎草紙』も出版され,女歌舞伎盛行をみた。
奥の細道
おくのほそみち @@@LINK=奥の細道 奥の細道

奥の細道
おくのほそみち

江戸中期,松尾芭蕉の俳諧紀行文
1702年刊。1689年に門人曽良 (そら) を伴って5か月間奥州・北陸を旅した行程約2400㎞の道中記。種々の古典を援用し,和文脈・漢文脈を交じえた独特の文体で躍動感にみち格調が高い。芭蕉的なもののすべてが結集され,紀行文中の白眉 (はくび) といわれる。作者46歳の作。
奥村五百子
おくむらいおこ @@@LINK=奥村五百子 奥村五百子

奥村五百子
おくむらいおこ

1845〜1907
明治時代の社会運動家
肥前(長崎県)唐津の寺院に生まれ,父兄とともに尊王攘夷運動に参加。大陸問題に関心をもち征韓論を支持し,1896年朝鮮に実業学校を創設。北清事変の戦線慰問を機に遺族・廃兵救護の必要を感じ,1901年愛国婦人会を結成した。
小栗忠順
おぐりただまさ @@@LINK=小栗忠順 小栗忠順

小栗忠順
おぐりただまさ

1827〜68
幕末の幕臣
1860年日米修好通商条約の批准交換のため,幕府遣外使節の一員として新見正興 (しんみまさおき) に随行し渡米。帰国後外国奉行・軍艦奉行・歩兵奉行などを歴任した。フランスの援助をうけて幕政改革に尽力し,戊辰 (ぼしん) 戦争では抗戦論を唱えて官軍に捕らえられ斬首。

小栗風葉
おぐりふうよう @@@LINK=小栗風葉 小栗風葉

小栗風葉
おぐりふうよう

1875〜1926
明治・大正時代の小説家
本名は加藤磯夫。愛知県の生まれ。尾崎紅葉に師事し,豊麗甘美な文章で硯友社後期の代表的作家となる。自然主義の影響もうけたが,晩年は通俗小説を書いた。代表作に『青春』『恋ざめ』など。

桶狭間の戦い
おけはざまのたたかい @@@LINK=桶狭間の戦い 桶狭間の戦い

桶狭間の戦い
おけはざまのたたかい

1560年,尾張国桶狭間における織田信長と今川義元の戦い
東海地方に勢威をふるった駿河の今川義元は大軍を率いて尾張に侵入し,丸根・鷲津の2城を攻略した。信長は折からの雷雨をおして手兵を率い,義元の宿陣する桶狭間北方の田楽狭間 (でんがくはざま) を急襲し,義元を敗死させた。今川氏滅亡と信長台頭の契機となった。
刑部親王
おさかべしんのう @@@LINK=刑部親王 刑部親王
ぎょうぶしんのう @@@LINK=刑部親王 刑部親王

刑部親王
おさかべしんのう

?〜705
天武天皇第9皇子。大宝律令編者
「忍壁」とも書く。671年父大海人 (おおあま) 皇子(のちの天武天皇)に従って吉野にのがれ,壬申 (じんしん) の乱に活躍した。681年天武天皇の命により記紀編纂にあたり,文武天皇のとき,701年大宝律令を完成した。持統天皇没後,知太政官事に任じられ,国政に参加した。

刑部親王
ぎょうぶしんのう

おさかべしんのう
尾崎紅葉
おざきこうよう @@@LINK=尾崎紅葉 尾崎紅葉

尾崎紅葉
おざきこうよう

1867〜1903
明治時代の小説家
本名徳太郎。東京の生まれ。1885年大学予備門(第一高等学校)在学中,山田美妙らと硯友社を結成,『我楽多文庫』を創刊。写実的手法とみがきのかかった美文により伝統的情緒を表現した作品を発表。幸田露伴と並称され,文壇のとなる。代表作に『多情多恨』『金色夜叉』など。

尾崎行雄
おざきゆきお @@@LINK=尾崎行雄 尾崎行雄

尾崎行雄
おざきゆきお

1859〜1954
明治〜昭和期の政党政治家
相模(神奈川県)の生まれ。第一議会の選挙から代議士当選連続25回(1890〜1952)。その間,文相・東京市長・法相などを歴任。1913年には第1次護憲運動の先頭に立ち,桂太郎内閣を倒す。その後も普選運動の中心となって政党政治の確立につとめ,「憲政の神様」といわれた。昭和期には軍部に抵抗したが孤立の状態であった。
御定書百箇条
おさだめがきひゃっかじょう @@@LINK=御定書百箇条 御定書百箇条

御定書百箇条
おさだめがきひゃっかじょう

公事方 (くじかた) 御定書
小山内薫
おさないかおる @@@LINK=小山内薫 小山内薫

小山内薫
おさないかおる

1881〜1928
明治・大正時代の演出家・劇作家
広島県の生まれ。東大卒業後,1909年2代目市川左団次と自由劇場を創立,イプセンの作品を上演した。渡欧後ロシア演劇をとり入れ『桜の園』『どん底』などを演出するなど,新劇運動の中心となる。'24年土方与志 (ひじかたよし) と築地小劇場を創設した。

長百姓
おさびゃくしょう @@@LINK=長百姓 長百姓

長百姓
おさびゃくしょう

江戸時代の有力百姓
おとな百姓・ちょう百姓ともいう。近世村落内の上層農民で,名主 (なぬし) ・庄屋 (しようや) はこの層から選出された。
長船長光
おさふねながみつ @@@LINK=長船長光 長船長光

長船長光
おさふねながみつ

生没年不詳
鎌倉時代の刀工
備前(岡山県)長船村に居住。この村からはすぐれた刀鍛冶が出て,長船物として名高く,長光はその長船派の代表者とされる。代表作に『太刀名物大般若 (はんにや) 長光』などがあり,鎌倉の岡崎正宗,京都の栗田口吉光などと並称された。
大仏次郎
おさらぎじろう @@@LINK=大仏次郎 大仏次郎

大仏次郎
おさらぎじろう

1897〜1973
大正・昭和期の小説家
本名野尻清彦。神奈川県の生まれ。東大卒。『鞍馬天狗』の連作や『赤穂浪士』などで大衆文学に確固たる地位を築く。そのほか『パリ燃ゆ』など歴史文学力作を発表,『天皇の世紀』連載中死去。晩年にはナショナル ‐トラスト運動を紹介した。1964年文化勲章を受章した。
尾去沢鉱山
おさりざわこうざん @@@LINK=尾去沢鉱山 尾去沢鉱山

尾去沢鉱山
おさりざわこうざん

秋田県北東部,鹿角 (かづの) 郡尾去沢町にある鉱山
奈良時代に開発されたらしいが,慶長年間(1596〜1615)からおおむね南部藩直営。江戸前期は金鉱として隆盛,後期は銅山として発展した。1887年岩崎氏の経営となり,のち三菱金属鉱業が経営し,1978年閉山した。
小沢蘆庵
おざわろあん @@@LINK=小沢蘆庵 小沢蘆庵

小沢蘆庵
おざわろあん

1723〜1801
江戸中期の歌人
名は玄仲 (はるなか) 。通称帯刀 (たてわき) ,別号観荷堂。尾張(愛知県)犬山藩の家臣であったが,辞して京都に住んだ。歌を冷泉為村に学び,のちに『古今集』を重んじ,人の心の自然の声をそのまま言葉にする「ただごと歌」を提唱した。主に家集『六帖詠草』,歌論書『蘆かび』など。

御師
おし @@@LINK=御師 御師

御師
おし

平安末期より神社の祈禱・参詣の世話をし,神社発展に貢献した下級の神官
伊勢神宮をはじめ各地の大社にいた。通常は講を作り,信者は講を通して参詣した。伊勢神宮の御師は暦の配布をし,中世以降商人化する者が多く,1755年には573人いたという。
押型文土器
おしがたもんどき @@@LINK=押型文土器 押型文土器

押型文土器
おしがたもんどき

縄文時代早期の土器
丸い棒に各種の彫刻を施したものを,生乾きの土器面に回転しながら押しつけて装飾とした土器。文様には楕円文・山形文・格子文などがあり,器形は概して尖底・丸底の鉢形で,平底のものは少ない。
恐山
おそれざん @@@LINK=恐山 恐山

恐山
おそれざん

青森県下北半島にある霊場
硫黄ガスが噴出する火口原は,古くから台密系修験道の道場とされる。死霊の止まる山と信じられ,明治・大正ころから毎年7月の大祭には東北各県のいたこが集まり,死者の霊を呼びもどす口寄せが行われる。
織田有楽斎
おだうらくさい @@@LINK=織田有楽斎 織田有楽斎

織田有楽斎
おだうらくさい

1547〜1621
安土桃山〜江戸時代初期の武将・茶人
信長の弟。本名長益 (ながます) 。大坂冬の陣で豊臣方の盟主となる。その後隠居。江戸城近辺に数寄屋を造り,茶道に励んだ。有楽町は彼の屋敷跡地である。また京都建仁寺に茶室『如庵』を造った。

織田氏
おだし @@@LINK=織田氏 織田氏

織田氏
おだし

尾張(愛知県)の戦国大名
祖先は越前(福井県)織田庄の荘官で斯波 (しば) 氏に仕え,主家が尾張の守護となるとその守護代となった。1466年ごろ岩倉と清洲の2系に分かれて争ったが,清洲織田家の三奉行の一人信秀は智略にすぐれ,分裂した織田家を統一し,国の内外に勢力を示し,戦国大名に成長した。その子信長は今川義元を桶狭間 (おけはざま) に破り,足利義昭 (よしあき) を擁して上洛,38カ国を平定し,天下統一の歩を進めたが,本能寺の変に倒れた。嫡子信忠も二条城死し,以後急速に衰えた。
小田野直武
おだのなおたけ @@@LINK=小田野直武 小田野直武

小田野直武
おだのなおたけ

1749〜80
江戸中期の洋風画家
陸奥秋田藩士。初め狩野派を学び,のち来藩した平賀源内に西洋画法を学んだ。杉田玄白の『解体新書』に解剖図を描いた。代表作に『少女愛犬』『不忍池 (しのばずのいけ) 図』など。

織田信雄
おだのぶかつ @@@LINK=織田信雄 織田信雄

織田信雄
おだのぶかつ

1558〜1630
安土桃山〜江戸時代初期の武将
「のぶお」とも読む。信長の2男。本能寺の変(1582)後,弟信孝を攻めて破った。徳川家康と結び豊臣秀吉と対立,小牧・長久手に戦ったが和睦し,尾張(愛知県)・伊勢(三重県)を領有した。のち秀吉の怒りにふれ,一時下野 (しもつけ) (栃木県)烏山に流された。関ケ原の戦い・大坂の役に際しては家康に心を寄せ,豊臣方に属さなかった。戦後,大和(奈良県)松山藩5万石を与えられた。

織田信孝
おだのぶたか @@@LINK=織田信孝 織田信孝

織田信孝
おだのぶたか

1558〜83
安土桃山時代の武将
信長の3男。本能寺の変(1582)後,豊臣秀吉とともに明智光秀を攻撃。清洲会議で兄信雄と争って秀吉に阻止され,柴田勝家と結び秀吉を除こうとした。'83年勝家と呼応し岐阜で兵をあげたが,信雄に敗れ逃走の途中自殺した。

織田信長
おだのぶなが @@@LINK=織田信長 織田信長

織田信長
おだのぶなが

1534〜82
戦国・安土桃山時代の武将
尾張(愛知県)の生まれ。性質は剛腹で人の意表をつく行動が多く, (もりやく) の平手政秀の諫死 (かんし) によって改まったといわれる。父信秀の死後織田一族を統一し,清洲城に移った。1560年ごろ尾張を平定。駿河の今川義元の侵入を桶狭間 (おけはざま) で反撃,'67年美濃の斎藤氏を破り岐阜稲葉城に移った。'68年足利義昭 (よしあき) を奉じて入京し,大和などを平定。'71年浅井・朝倉氏を討ち(姉川の戦い),翌年比叡山延暦寺の焼打ちを敢行して,美濃と京都との連絡を確保した。'73年には義昭を追放して室町幕府を名実ともに滅ぼし,ついで武田氏を討ち,38カ国を支配下にいれた。征服と並行して検地を行い,道路をととのえ,撰銭令・楽市楽座などの政策を実施し,安土城を築いた。'82年中国の毛利氏を攻めるため,京都本能寺に宿泊したところを,家臣明智光秀の謀反により自刃(本能寺の変)。天下統一の事業は挫折したが,封建的統一の基盤をつくった意義は大きい。

織田信秀
おだのぶひで @@@LINK=織田信秀 織田信秀

織田信秀
おだのぶひで

1510〜51
戦国時代の武将
信長の父。清洲織田家の三奉行の一人で,しだいに勢力を得て一族中の最強となった。1542年今川義元を三河に破り,美濃の斎藤道三と戦い,のち信長と道三の娘濃姫を婚約させて和睦。三河松平氏を抑え,織田氏発展の基礎を築いた。

小田原
おだわら @@@LINK=小田原 小田原

小田原
おだわら

神奈川県南西部,相模湾に面した都市。中世より城下町・宿場町として発展
鎌倉時代に土肥氏室町時代大森氏居城であったが,1495年北条早雲入城後大いに発展し,西の山口と並び称せられた。豊臣秀吉征討(1590)後,江戸時代には主として大久保氏の城下町となり,箱根を控えた要衝ならびに東海道の主要宿駅として知られた。現在は商工業および観光都市。1940年市制施行。
小田原征討
おだわらせいとう @@@LINK=小田原征討 小田原征討

小田原征討
おだわらせいとう

1590年,豊臣秀吉後北条氏を滅ぼした戦い
秀吉は九州平定後,関東・東北を征討し,天下を統一しようとして小田原城北条氏を包囲した。北条5代氏直 (うじなお) は籠城し,秀吉は前田徳川・上杉・九鬼氏などを動員し水陸より攻撃した。城中では,籠城・決戦両派がいわゆる「小田原評定」に明けくれたが,ついに氏直は降伏。このとき奥州の伊達政宗も来て秀吉に降伏し,天下統一が完成した。
落合直文
おちあいなおぶみ @@@LINK=落合直文 落合直文

落合直文
おちあいなおぶみ

1861〜1903
明治時代の国文学者・歌人
号は萩之家。陸奥(宮城県)の生まれ。東大古典講習科中退。長詩『孝女白菊の歌』で文名を得た。古典の研究・普及につとめ,一方1893年浅香社を結成し,和歌革新運動を推進した。与謝野鉄幹はその門下。

落窪物語
おちくぼものがたり @@@LINK=落窪物語 落窪物語

落窪物語
おちくぼものがたり

平安中期の物語
作者不詳。4巻。10世紀後半(一条天皇のころ)の成立とする説が有力。現存最古の継子いじめ物語。写実的な筆致で当時の貴族社会の家庭生活を描写し,『源氏物語』以降の文学に大きな影響を与えた。
越訴
おっそ @@@LINK=越訴 越訴

越訴
おっそ

一定の順序を越え,正規の手続きを経ずに上訴すること
律令制では禁止されている。鎌倉時代には,敗訴人の再審要求も越訴というようになり,越訴奉行が処理した。江戸時代になると,越訴は筋違いの訴えとして厳禁された。
オッペケペ節
オッペケペぶし @@@LINK=オッペケペ節 オッペケペ節

オッペケペ節
オッペケペぶし

明治20年代,かつての自由民権運動の闘士川上音二郎によって始められた俗曲
「権利幸福嫌いな人に自由湯(党)をば飲ませたいオッペケペ」というように自由民権思想を盛り込んであり,初め川上が寄席で歌って世に広まった。
御伽衆
おとぎしゅう @@@LINK=御伽衆 御伽衆

御伽衆
おとぎしゅう

戦国・安土桃山時代,大名などにそば近く仕え,軍陣のつれづれを慰めるための者
曽呂利新左衛門など話し上手な僧侶盲人・知識人がその衆となる。室町時代同朋衆系列に属する。
御伽草子
おとぎぞうし @@@LINK=御伽草子 御伽草子

御伽草子
おとぎぞうし

室町時代から江戸初期にかけて読まれた通俗短編小説群の総称
『一寸法師』『浦島太郎』など素材・内容は復讐談・怪異談・立身成功談などを含み,登場人物も時代の民衆性を反映してあらゆる階層にわたっている。作者はいずれも不明だが,公家・僧侶・武家層と考えられる。前代の物語文学のあとをうけ,江戸時代の仮名草子や浄瑠璃に大きな影響を与えた。
男山八幡宮
おとこやまはちまんぐう @@@LINK=男山八幡宮 男山八幡宮

男山八幡宮
おとこやまはちまんぐう

石清水 (いわしみず) 八幡宮
乙名
おとな @@@LINK=乙名 乙名

乙名
おとな

中世末期の村落の代表者
「大人」「宿老」などとも書く。元来は村落組織と密接な関係にある宮座のうちで年齢・家格が最高位にある有力名主で,惣村運営の指導者であった。その数は一定しないが,ふつうは数人で,20名に及ぶという例もある。年貢徴収などの責任を負い,領主から免税などの特権を与えられ,村役人的性格も持っていた。
踊念仏
おどりねんぶつ @@@LINK=踊念仏 踊念仏

踊念仏
おどりねんぶつ

念仏踊
御年貢皆済目録
おねんぐかいさいもくろく @@@LINK=御年貢皆済目録 御年貢皆済目録

御年貢皆済目録
おねんぐかいさいもくろく

皆済目録
御年貢割付帳
おねんぐわりつけちょう @@@LINK=御年貢割付帳 御年貢割付帳

御年貢割付帳
おねんぐわりつけちょう

江戸時代,年貢の割当てをする帳簿
地方 (じかた) 三帳の一つで,年貢高を決定し,村方に通知する帳簿のこと。地方により種々の呼び名がある。
小野梓
おのあずさ @@@LINK=小野梓 小野梓

小野梓
おのあずさ

1852〜86
明治前期の政治思想家
土佐藩出身。欧米留学後官吏となったが,のち大隈重信と交流を深め明治十四年の政変で大隈とともに下野。立憲改進党結成に参加し,さらに東京専門学校(現早稲田大学)の創立に尽力。政治学・法学の発展にも貢献した。

尾上菊五郎
おのえきくごろう @@@LINK=尾上菊五郎 尾上菊五郎

尾上菊五郎
おのえきくごろう

歌舞伎俳優。屋号は音羽 (おとわ) 屋
〔5代目(1844〜1903)〕明治時代に活躍。世話物の演技にすぐれ,9代目市川団十郎・初代市川左団次とともに団菊左時代を現出。〔6代目(1885〜1949)〕 大正・昭和期の名優。5代の子。舞踊・世話物にすぐれ,1949年,歌舞伎界初の文化勲章を受章した。
小野組
おのぐみ @@@LINK=小野組 小野組

小野組
おのぐみ

明治初期の政商・金融業者
江戸時代,本拠を京都に置いて,糸割符 (いとわつぷ) 商人,のち両替商として活躍。明治維新の際,新政府を援助して1868年為替方となり,官金出納事務に従事。のち三井組と第一国立銀行を設立。事業を拡大したが,'74年破産。
小野妹子
おののいもこ @@@LINK=小野妹子 小野妹子

小野妹子
おののいもこ

生没年不詳
7世紀の官人で,2度派遣された遣隋使
近江滋賀郡小野の豪族。607年聖徳太子の派遣した遣隋使として隋におもむき,「日出づる処の天子……」に始まる国書を呈し,隋の煬帝 (ようだい) の怒りをかった。608年隋使裴世清 (はいせいせい) を伴って帰国した。同年裴世清の帰国に際し高向玄理 (たかむこのげんり) ・南淵請安 (みなぶちのしようあん) ・僧旻 (みん) らの留学生・学問僧を伴って再び隋に渡り,翌年帰国した。
小野小町
おののこまち @@@LINK=小野小町 小野小町

小野小町
おののこまち

生没年不詳
平安前期の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人
伝記不詳。作風は情熱的,しかも繊細・技巧的で優艶。美貌・好色の歌人として伝説化され,能の演目関寺小町,通 (かよい) 小町,卒塔婆小町)・御伽 (おとぎ) 草子・歌舞伎の題材となった。家集に『小町集』1巻。
小野篁
おののたかむら @@@LINK=小野篁 小野篁

小野篁
おののたかむら

802〜852
平安初期の学者
岑守 (みねもり) の子。漢詩文で名声高く,『令義解 (りようのぎげ) 』の編集に参加。遣唐副使として大使藤原常嗣と争い,隠岐 (おき) へ配流。のち許されて従三位・参議となった。そのいちずで奔放な性格から野相 (やしよう) 公といわれた。『古今和歌集』『経国集』『和漢朗詠集』に作品がある。

小野道風
おののとうふう @@@LINK=小野道風 小野道風

小野道風
おののとうふう

894〜966
平安前期の能書家。三蹟の一人
篁 (たかむら) の孫。平安初期の様 (からよう) に対して優雅な和様書風の基礎を築いた。その筆跡は野蹟 (やせき) と呼ばれ,『屛風土代 (びようぶどだい) 』『玉泉帖 (ぎよくせんじよう) 』『秋萩帖』などの作品がある。

小野岑守
おののみねもり @@@LINK=小野岑守 小野岑守

小野岑守
おののみねもり

778〜830
平安初期の官人・学者
小野妹子 (いもこ) の玄孫。篁 (たかむら) の父。大宰大弐のときに公営田 (くえいでん) の設置を建議。『内裏式』『凌雲集』の撰進に参加した。『経国集』『文華秀麗集』に詩がおさめられている。
小野好古
おののよしふる @@@LINK=小野好古 小野好古

小野好古
おののよしふる

884〜968
平安前期の軍人貴族・歌人
道風の兄。藤原純友の乱に際し追捕使 (ついぶし) となり,源経基と協力し,乱を鎮圧。また『後撰和歌集』『拾遺和歌集』などに歌がある。

尾道
おのみち @@@LINK=尾道 尾道

尾道
おのみち

広島県南東部にある港町で,水上交通の要地
瀬戸内海航路の中間に位置し,中世以来諸荘園の年貢や商品輸送が盛んになるにつれて繁栄。室町時代には勘合貿易,江戸時代には西廻り航路の主要拠点となる。弓削 (ゆげ) 島産の塩の集散港として有名。1898年市制を施行
小野蘭山
おのらんざん @@@LINK=小野蘭山 小野蘭山

小野蘭山
おのらんざん

1729〜1810
江戸中期の本草学者
京都の人。11歳で中国の本草書『秘伝花鏡』を読み,志を抱いた。幕府の医官となり本草学を講義,各地を採集旅行した。『本草綱目啓蒙』48巻は観察に基づいた日本本草学研究の集大成である。

小浜
おばま @@@LINK=小浜 小浜

小浜
おばま

福井県西部,小浜湾にのぞむ都市。中世以来日本海の重要な港町
室町時代には北陸山陰地方物資の陸揚地となり,陸路琵琶湖岸に出て水路京都へ運ぶ港として発達した。江戸時代には京極氏・酒井氏の城下町として栄えたが,西廻り航路の発達につれて港は衰えた。1951年市制施行。

おびと @@@LINK=首 首


おびと

大和政権の姓 (かばね) の一つ
地方豪族や伴造氏族に与えられた。684年の八色の姓 (やくさのかばね) で廃止され第8位の稲置になった例が多い。
男衾三郎絵巻
おぶすまさぶろうえまき @@@LINK=男衾三郎絵巻 男衾三郎絵巻

男衾三郎絵巻
おぶすまさぶろうえまき

鎌倉末期の絵巻物
13世紀末の成立。1巻。作者不詳。武蔵の住人男衾三郎という武勇にすぐれ,あえて関東一の醜女を妻とした男と,宮仕えをした女をめとった風流な兄吉見二郎の一家を対照的に描いた物語。
御文
おふみ @@@LINK=御文 御文

御文
おふみ

本願寺8世蓮如 (れんによ) が布教のために門徒に書いた手紙
御文章・蓮如上人御文ともいう。仮名交じりの平易な文章で浄土真宗の教義を簡明に述べ,講の集まりなどで読み聞かせ,本願寺の教勢拡大に大きな役割を果たした。
御触
おふれ @@@LINK=御触 御触

御触
おふれ

江戸時代,幕府諸藩が広く一般に公布した法令
幕府の法令・規則老中将軍裁決をうけて目付・三奉行などに配布し,必要に応じて彼らを通じて伝させた。大綱として定めたものを法度 (はつと) ,関係者のみに通達するものを達 (たつし) ,広く一般に触れるものを触書事といった。1649(慶安2)年に公布された「慶安御触書」は有名。これらを集めたものに「御触書寛保集成」「同宝暦集成」「同天明集成」「同天保集成」がある。
御触書寛保集成
おふれがきかんぽうしゅうせい @@@LINK=御触書寛保集成 御触書寛保集成

御触書寛保集成
おふれがきかんぽうしゅうせい

1615〜1743年間の江戸幕府の御触書を集大成したもの。

おみ @@@LINK=臣 臣


おみ

大和政権の姓 (かばね) の一つ
②天武天皇が684年制定した八色の姓 (やくさのかばね) の第6位
大化の改新前の連 (むらじ) と並ぶ有力な姓。中央および地方豪族の有力なものに多く,中央の平群 (へぐり) ・葛城 (かつらぎ) ・蘇我 (そが) 氏など有力者は大臣となり国政参画
この時,もとの臣のうち,有力なものは朝臣 (あそん) の姓を与えられたが,多くのものはそのまま臣の姓に固定させられた。


御目見
おめみえ @@@LINK=御目見 御目見

御目見
おめみえ

上位の者に謁見・対面すること
「御目見得」とも書く。特に江戸時代には武士の格式を表し,将軍に謁見できる者を「御目見以上」といった。幕府直参 (じきさん) では,1万石未満の御目見以上を旗本といい,御目見以下を御家人と称した。
表高
おもてだか @@@LINK=表高 表高

表高
おもてだか

江戸時代,諸藩の表面上の石高
朱印状に記載され,幕府から大名領地として安堵された形式上の石高で,幕府に対する軍役などの負担は表高に応じてつとめた。これに対し実際の収穫高を内高・実高といい,新田開発などにより実高のほうが表高を上回る例が多かった。
親方・子方
おやかた・こかた @@@LINK=親方・子方 親方・子方

親方・子方
おやかた・こかた

封建社会における人間関係の一形態
親分・子分ともいう。社会の各方面において支配・被支配,保護・服従などの関係を親子関係になぞらえて強化したもので,単なる情宜 (じようぎ) でなく,強者弱者との隷属的結合関係が強い。中世惣領と庶子,近世以降の主人と奉公人,地主と小作人網元と網子の関係などである。
御雇外国人
おやといがいこくじん @@@LINK=御雇外国人 御雇外国人

御雇外国人
おやといがいこくじん

明治初年,近代技術・制度移入のため雇用された外国人
明治維新前後,幕府諸藩が外国人を招いたが,廃藩置県(1871)後は政府・府県・民間団体が引き継いだ。官庁御雇外国人教師は1872年214人,'75年には527人にも達し,日本の近代化に寄与した。
女形
おやま @@@LINK=女形 女形

女形
おやま

歌舞伎で女役を演ずる男優
「女方」とも書き,「おんながた」とも読む。江戸初期,女歌舞伎が風紀上禁じられたため,男優のみで歌舞伎が発達し女役専門の役者を生んだ。元禄時代(1688〜1704)の芳沢あやめ,化政時代(1804〜30)の岩井半四郎(4世・5世)などが有名。
御湯殿上日記
おゆどののうえのにっき @@@LINK=御湯殿上日記 御湯殿上日記

御湯殿上日記
おゆどののうえのにっき

清涼殿内の御湯殿上(飲用浴用の湯をわかすところ)に奉仕した女官が書き継いだ仮名文字の日記
室町中期から江戸末期までのものが現存。天皇の日常生活や宮中の儀式・年中行事・文化生活などを知るのに重要な史料。
おらが春
おらがはる @@@LINK=おらが春 おらが春

おらが春
おらがはる

江戸後期,小林一茶の俳文俳句集
1852年刊。1冊。 '19年の正月から1年間の雑感をまとめ,挿絵を加えたもの。
オランダ
Holland @@@LINK=オランダ オランダ

オランダ
Holland

西ヨーロッパ,北海に面した立憲君主国
1581年スペインから独立。17世紀には世界貿易を支配。日本との交渉は,1600年リーフデ号の豊後漂着に始まり,'09年平戸に商館を開設,新教国として江戸期の日本貿易を独占した。幕末まで西洋文化の仲介者の役割を果たし,『和蘭 (オランダ) 風説書』を幕府に提出,蘭学興隆の源ともなった。
オランダ医学
オランダいがく @@@LINK=オランダ医学 オランダ医学

オランダ医学
オランダいがく

江戸中期から普及した西洋医学
すでにオランダ通詞らを通じ一部の漢方医の間では関心が高く,18世紀後期の蘭学興隆の推進力となり発達。杉田玄白らの『解体新書』をはじめ生理学・内科小児科などの翻訳書が出版された。シーボルトの鳴滝塾 (なるたきじゆく) ,緒方洪庵適々斎塾などの蘭学塾も医学生が多く,有力な蘭方医や学識者を生んだ。
オランダ国王の開国勧告
オランダこくおうのかいこくかんこく @@@LINK=オランダ国王の開国勧告 オランダ国王の開国勧告

オランダ国王の開国勧告
オランダこくおうのかいこくかんこく

1844年,オランダ国王が日本の開国を勧告した親書
ウィレム(ウィリアム)2世が将軍徳川家慶に親書を送って開国をすすめた。鎖国体制下,唯一の交易国としての好意もあるが,対日外交の主導権を握りたいとの意図もあったと考えられる。これに対して,幕府は翌年謝絶。
オランダ正月
オランダしょうがつ @@@LINK=オランダ正月 オランダ正月

オランダ正月
オランダしょうがつ

江戸中期から蘭学者らによって祝われた太陽暦の正月
1794(寛政6)年閏11月11日が太陽暦で '95年1月1日にあたるため,大槻玄沢が私塾の芝蘭堂 (しらんどう) に蘭学者を招いて正月を祝い,新元会と称した。その後毎年開かれ,その子磐里の代まで約40年間続けられた。
オランダ商館
オランダしょうかん @@@LINK=オランダ商館 オランダ商館

オランダ商館
オランダしょうかん

江戸時代,オランダ東インド会社が設けた日本支店
1609年平戸に設置。鎖国政策により,'41年長崎出島に移り,以後幕末まで対日貿易の拠点となった。商館長(通称甲比丹 (カピタン) )以下館員数名〜十数名が在住。1858年日蘭修好通商条約締結後,総領事館となった。19世紀初め,ナポレオン戦争本国や植民地がフランスやイギリスに侵犯されたときも出島にのみはオランダ国旗がひるがえった。
オランダ通詞
オランダつうじ @@@LINK=オランダ通詞 オランダ通詞

オランダ通詞
オランダつうじ

江戸時代,オランダとの貿易の通訳と税関吏を兼ねた役人
「オランダ通事」とも書き,阿蘭陀訳詞ともいう。初め平戸に置かれ,1640年から長崎に置かれた。代々世襲で,西・志筑家などがあげられる。はじめ洋書を読むことは禁じられていたが,享保(1716〜36)ころから許され,洋書の翻訳著述で洋学研究の先駆となった者が多い。
オランダ風説書
オランダふうせつがき @@@LINK=オランダ風説書 オランダ風説書

オランダ風説書
オランダふうせつがき

江戸時代の鎖国中,毎年オランダ船が長崎に入港するたびに幕府に提出した海外情報書
オランダ通詞が訳し長崎奉行を経て提出,幕府関係者のみが見た。キリスト教対策から始まり,のち範囲が拡大。世界情勢を知る唯一の資料となったが,オランダに不利な情報は知らされなかった。開国後はオランダ本国やバタビヤで発行した新聞を献上した。幕府はこれらを洋学調所で翻訳し『官板バタビヤ新聞』『文久新聞』として発行した。
オランダ貿易
オランダぼうえき @@@LINK=オランダ貿易 オランダ貿易

オランダ貿易
オランダぼうえき

江戸時代に行われたオランダとの貿易
1600年,オランダ商船リーフデ号の漂着で日本との関係が始まり,'09年には商船が平戸に入港し,オランダ商館を開設した。以後イギリスとの競争に勝ち,さらに対日貿易を独占していたポルトガルを排除。幕府の鎖国政策により '41年長崎出島に商館を移し,鎖国下唯一のヨーロッパ人として貿易を継続した。日本の輸入品は生糸・絹織物・綿糸・砂糖・薬品・鹿皮など。輸出品は銀・金・銅のほか樟脳 (しようのう) ・漆器など。のち幕府の貿易制限のため輸出入額とも漸減し,開国により独占の実を失った。
折紙
おりがみ @@@LINK=折紙 折紙

折紙
おりがみ

古文書の形式を示す用語
奉書紙・檀紙 (だんし) ・の子紙などを横長に二つに折り,折り目を下にして書く。表包紙など略した形式で,本来は口頭で述べる内容を記したが,しだいに通達・書状に用いられるようになった。平安後期から始まり,江戸時代には形式が定まり,「折紙を頂く」というように,折紙とはその内容の指令そのものをさすようになった。
折たく柴の記
おりたくしばのき @@@LINK=折たく柴の記 折たく柴の記

折たく柴の記
おりたくしばのき

江戸中期,新井白石の自叙伝
1716年成立。3巻。牢人時代の苦学ありさまから将軍徳川家宣・家継を補佐したときの政治上の業績などまでを記している。幕府財政の破綻のようすや武士気風などをすぐれた仮名交じり文で記し,当時の政治の内情を知る重要な史料
織部焼
おりべやき @@@LINK=織部焼 織部焼

織部焼
おりべやき

古田織部の意匠に基づく陶器
尾張・美濃地方で焼かれ,文禄・慶長(1592〜1615)のころが全盛期で,寛永(1624〜44)ごろまで続けられた。意匠の美しさと変化に富み,黒褐色または明るい緑色の釉薬 (うわぐすり) を用いるのが特徴である。
織部流
おりべりゅう @@@LINK=織部流 織部流

織部流
おりべりゅう

安土桃山時代,古田織部の始めた茶道の一流派
明るく形式ばらず,桃山精神を反映した茶道。
オルガンチノ
Gnecchi Soldi Organtino @@@LINK=オルガンチノ オルガンチノ

オルガンチノ
Gnecchi Soldi Organtino

?〜1609
安土桃山時代に来日した,イタリアのイエズス会宣教師
1570年来日。フロイスを助けて畿内に布教。高山右近・織田信長の信任厚く,'76年京都に南蛮寺,'80年安土にセミナリオを建設した。豊臣秀吉にも厚遇され, '87年秀吉のバテレン追放令後も修道生活を続けた。長崎に隠退し,同地で
オールコック
Sir Rutherford Alcock @@@LINK=オールコック オールコック

オールコック
Sir Rutherford Alcock

1809〜97
幕末のイギリス人外交官
初め中国に駐在。1858年駐日総領事として来日。翌年公使となり駐日外交団の主導権を握り,横浜開港にあたり貨幣交換問題・外人殺傷事件などにつき幕府に強硬態度をとった。'62年帰国し,幕府と本国のロンドン覚書調印を仲介,同年再び来日。四国連合艦隊による下関砲撃(➡ 四国艦隊下関砲撃事件)を唱して活躍した。著書に『大君の都』。
尾張国郡司百姓等解文
おわりのくにぐんじひゃくしょうらげぶみ @@@LINK=尾張国郡司百姓等解文 尾張国郡司百姓等解文

尾張国郡司百姓等解文
おわりのくにぐんじひゃくしょうらげぶみ

平安中期,尾張国郡司百姓らが国司悪政を訴えた文書
988年,尾張国の郡司・百姓らは,国司藤原元命 (もとなが) の悪政に対して,31カにわたってそのようすを書き記して朝廷に訴え,元命の罷免を求めた。国司の腐敗を示す重要な史料
尾張藩
おわりはん @@@LINK=尾張藩 尾張藩

尾張藩
おわりはん

江戸時代,尾張地方を領有した藩
徳川氏の親藩で,紀伊・水戸と並んで御三家の一つ。徳川家康の9男義直が1610年入封し初代藩主となった。石高61万9500石。城下町は名古屋。享保年間(1716〜36)の藩主宗春(1696〜1764)は将軍徳川吉宗に反目し,享保の改革に抵抗して華美・放漫な政治を展開した。幕末の慶勝 (よしかつ) (1825〜83)は第1次長州征討の総督で,王政復古後の新政府では議定となった。
蔭位
おんい @@@LINK=蔭位 蔭位

蔭位
おんい

律令制下,貴族に与えられた叙位の特権
五位以上の者は子(蔭子 (おんし) ),三位以上の者は子と孫(蔭孫 (おんそん) )が21歳になると,父祖の位階に応じた一定の位階をうける制度で,高位の貴族が高位・高官を独占するもとになった。
遠賀川式土器
おんががわしきどき @@@LINK=遠賀川式土器 遠賀川式土器

遠賀川式土器
おんががわしきどき

弥生時代前期の土器
福岡県遠賀川岸の立屋敷遺跡で最初に発見された。口辺が発達し,が著しく張りだした器形をなし,胴上半部にへらや貝殻により羽状文や鋸歯文・弧線文が施されている。伊勢湾岸地域以西に多く分布するが,東日本でも出土し,その系統の土器は東北北部にまで及ぶ。
音楽取調掛
おんがくとりしらべがかり @@@LINK=音楽取調掛 音楽取調掛

音楽取調掛
おんがくとりしらべがかり

東京音楽学校の前身
1879年に文部省内に設置された日本最初の音楽教育機関。'87年に東京音楽学校となる。
恩給制
おんきゅうせい @@@LINK=恩給制 恩給制

恩給制
おんきゅうせい

主君従者に対して,奉公に対する反対給付,すなわち御恩として土地を給与する制度
主従制とともに封建制度の基本として把握される関係で,法制史上の概念。日本においては,鎌倉時代,御家人に対して,将軍地頭職を安堵したり賞として任したことに始まる。近世に至っては,荘園諸職を恩給する形式は荘園制の崩壊とともになくなり,代わって土地の知行が行われ,俸禄制へと移ったが,禄高を定められて知行を許されることも,主君の恩によるものと考えられていて,思想的には封建社会を通じて変わらなかった。
遠国奉行
おんごくぶぎょう @@@LINK=遠国奉行 遠国奉行

遠国奉行
おんごくぶぎょう

江戸幕府の職名
幕府直轄都市に置かれた,京都・大坂・伏見・駿府などの町奉行,長崎・奈良・堺・佐渡・山田・日光・新潟・箱館(松前)・浦賀・神奈川などの奉行の総称。旗本の中から任命されたが,伏見奉行だけは譜代大名から選ばれた。
恩賞方
おんしょうがた @@@LINK=恩賞方 恩賞方

恩賞方
おんしょうがた

建武新政府の職名
元弘の(1331〜33)後,諸国の武士で恩賞を望む者が多数にのぼり,事務が渋滞したので,1334年全国を4地方に分け,それぞれに恩賞方を置き,吉田定房・九条光経 (みつつね) ・藤原藤房・四条隆資 (たかすけ) を各長官として論功行賞事務の進捗をはかった。しかし公正を欠き,まもなく廃絶。
園城寺
おんじょうじ @@@LINK=園城寺 園城寺

園城寺
おんじょうじ

滋賀県大津市にある天台宗寺門派の総本山
俗称三井寺。7世紀後半の創建と伝える。859年円珍が再興し延暦寺別院とした。10世紀末,延暦寺内で円仁門徒と円珍門徒が争い,後者は山を下ってこの寺にり,延暦寺と分離。延暦寺を山門というのに対し,園城寺を寺門といい,山門と寺門は以後数百年にわたって争った。国宝『黄不動』をはじめ文化財が多い。
園城寺不動明王像
おんじょうじふどうみょうおうぞう @@@LINK=園城寺不動明王像 園城寺不動明王像

園城寺不動明王像
おんじょうじふどうみょうおうぞう

黄不動
御岳信仰
おんたけしんこう @@@LINK=御岳信仰 御岳信仰

御岳信仰
おんたけしんこう

木曽御岳山に対する信仰
御岳山は,古来山岳信仰の対象で,江戸時代には各地に御岳講が組織され,盛んに登山が行われた。明治時代には神道の一派として御岳教も成立した。修験道の影響をうけている。武蔵御岳 (みたけ) も同系統。
恩地
おんち @@@LINK=恩地 恩地

恩地
おんち

中世,幕府・大名勲功の賞として家臣に与えた土地
新恩ともいう。封建的主従関係の基礎をなし,奉公の義務を条件に給与されたので私領とは区別され,相続には主人承認を要し,私領は売買できたが,恩地の売買はできなかった。
隠田
おんでん @@@LINK=隠田 隠田

隠田
おんでん

隠して貢租を納めず耕作する田地
その存在はいつでも支配者(国家・荘園領主幕府大名など)にとって収入減になるので検注・検地を行い厳禁したが,苛酷な貢租にあえぐ農民には生きる手段であったので,消滅することはなかった。
音戸瀬戸
おんどのせと @@@LINK=音戸瀬戸 音戸瀬戸

音戸瀬戸
おんどのせと

広島湾内の倉橋島北端の安芸郡音戸町と,呉市警固屋町との間にある水路
平安末期に平清盛が開いたと伝えられる。厳島 (いつくしま) 神社への参詣日宋貿易拡大のために整備・拡張された。
女歌舞伎
おんなかぶき @@@LINK=女歌舞伎 女歌舞伎

女歌舞伎
おんなかぶき

17世紀初期創始の阿国 (おくに) 歌舞伎に追随して始まった遊女による歌舞伎踊り
京都傾城町の佐渡が島一座が代表的。伴奏に当時普及の三味線を使い,男装数十人が出演,のち劇的構成も加味され各地に流行した。風紀上から1629年幕府に禁止され,以後若衆歌舞伎となった。
女曲舞
おんなくせまい @@@LINK=女曲舞 女曲舞

女曲舞
おんなくせまい

中世におこった曲舞のうち,女性が舞うもの
女房曲舞ともいう。白拍子 (しらびようし) に代わり室町時代流行立烏帽子 (たてえぼし) に水干 (すいかん) の男装をして,に合わせ語り物風の詞章吟しながら一人で舞う。
女殺油地獄
おんなごろしあぶらのじごく @@@LINK=女殺油地獄 女殺油地獄

女殺油地獄
おんなごろしあぶらのじごく

江戸中期,近松門左衛門の世話物浄璃瑠
1721年大坂竹本座で初演。3段。大坂の河内屋与兵衛が同町筋向いの油屋豊島屋の妻お吉を殺害して金を奪う話であるが,元禄時代の自己本位で無軌道,ドライな青年を描いた近松晩年の傑作とされる。
女大学
おんなだいがく @@@LINK=女大学 女大学

女大学
おんなだいがく

江戸中期の女性教訓書
近世封建社会の女性の心得を19条にわけて説明したもの。貝原益軒あるいはその妻の著と伝えられるが,益軒の『和俗童子訓』をもとに,後人が作成したとする説が有力。
隠密
おんみつ @@@LINK=隠密 隠密

隠密
おんみつ

江戸時代,探偵吏の通称
隠 (かくし) 目付ともいう。すでに南北朝時代からあり,主命をうけ商人虚無僧 (こむそう) などに変装し,敵情調査などを行った。江戸幕府では将軍・老中若年寄・目付が使用し,おもに大名統制の手段とした。伊賀者・甲賀者は有名。8代将軍徳川吉宗以後,直属の隠密として「お庭番」が置かれた。
陰陽道
おんみょうどう @@@LINK=陰陽道 陰陽道
いんようどう @@@LINK=陰陽道 陰陽道

陰陽道
おんみょうどう

古代中国の陰陽五行説に基づいて天文・暦学・易を説明する学問
「おんようどう」とも読む。日本には5〜6世紀ころ伝来し,大宝令で中務省に陰陽寮・陰陽博士が置かれた。平安時代に全盛期を迎え,賀茂・安倍両氏の統制の下日常生活全般にわたって吉凶禍福が占われた。迷信的色彩が強い。

陰陽道
いんようどう

おんみょうどう
怨霊思想
おんりょうしそう @@@LINK=怨霊思想 怨霊思想

怨霊思想
おんりょうしそう

この世に怨みや執念を残して死んだ人間のが報復するという考え
各民族に共通するが,奈良時代以降政治的失脚者で非業の死を遂げた人物が怨霊となって報復すると考えられた。藤原広嗣菅原道真平家の怨霊など名高く,怨霊を慰めることがはかられた。
改易
かいえき @@@LINK=改易 改易

改易
かいえき

罪によって官職や身分を取り上げる刑罰
古代では職務の交代を意味し,のち官職およびこれに伴う領地の権利を失う一種制裁となった。武家法に受け継がれ,江戸時代には主人との主従関係の断絶,それによる知行地の没収,さらに武士身分の除去をさすに至った。
海援隊
かいえんたい @@@LINK=海援隊 海援隊

海援隊
かいえんたい

幕末,坂本竜馬が組織した海運・貿易の商社
土佐藩を脱藩した坂本が,1865年長崎亀山で土佐藩士を中心とする諸藩浪士20余名で組織し,初め亀山社中と称した。主として薩長両藩のために物産輸送,洋式武器・艦船の輸入を周旋し,討幕派を援助。'67年社中が土佐藩に属し,坂本が隊長となってから海援隊と改称。同年末,坂本が暗殺されてからはふるわず,'68年解散した。
開基勝宝
かいきしょうほう @@@LINK=開基勝宝 開基勝宝

開基勝宝
かいきしょうほう

皇朝十二銭の時代に発行された唯一の金貨
760年鋳造のわが国最初の金貨。
海軍軍令部
かいぐんぐんれいぶ @@@LINK=海軍軍令部 海軍軍令部

海軍軍令部
かいぐんぐんれいぶ

旧海軍の最高軍令機関
1893年に発足し,陸軍の参謀本部と並ぶ存在となった。1933年に軍令部と改称された。
海軍伝習所
かいぐんでんしゅうじょ @@@LINK=海軍伝習所 海軍伝習所

海軍伝習所
かいぐんでんしゅうじょ

幕末,江戸幕府の海軍教育機関
洋式海軍の創設に着手した幕府が,オランダから軍艦を贈呈されたのを機に,1855年長崎に開設。勝海舟・榎本武揚 (たけあき) らの幕臣や諸藩士がオランダ海軍士官から海軍の知識・技術を習得した。'59年閉鎖。のち江戸に軍艦教授所神戸海軍操練所が設置された。
海軍奉行
かいぐんぶぎょう @@@LINK=海軍奉行 海軍奉行

海軍奉行
かいぐんぶぎょう

幕末,江戸幕府が海軍を統轄するために設けた職名
1865年設置。それ以前に設けられた陸軍奉行より上位で,軍艦の購入・訓練などを扱った。'68年廃止。
快慶
かいけい @@@LINK=快慶 快慶

快慶
かいけい

生没年不詳
鎌倉初期の仏師
康慶(運慶の父)の弟子。運慶の弟子というもあるが前説が有力。秀麗典雅な作風で,ボストン美術館蔵の『弥勒菩薩像』,東大寺『僧形八幡神像』などの作品がある。熱心な浄土教信仰者で,安阿弥陀仏 (あんあみだぶつ) と号したので,その作風は安阿弥様と呼ばれる。藤原様式の伝統や宋の新様式をとり入れている。東大寺南大門『金剛力士像』は運慶との合作。
会計官
かいけいかん @@@LINK=会計官 会計官

会計官
かいけいかん

明治初期の政府機関。政体書による太政官制の七官の一つ
出納・用度・駅逓営繕租税貨幣・民政をつかさどる。1869年大蔵省と改称
懐月堂派
かいげつどうは @@@LINK=懐月堂派 懐月堂派

懐月堂派
かいげつどうは

江戸中期の浮世絵の一流派
岡沢(懐月堂)安度 (あんど) (生没年不詳)を始祖とする。力強い墨の描線で形をとり,濃艶な彩色を施すのが特色版画をつくらずもっぱら肉筆美人画を描き,初期浮世絵中で有力な一派をなした。
外光派
がいこうは @@@LINK=外光派 外光派

外光派
がいこうは

明治中期,フランスの洋画技法を用いる黒田清輝・久米桂一郎らの洋画家グループ
紫派・新派とも呼ぶ。彼らは印象派の彩色法に学び,明快な色調をもって明治美術会の暗い色調( (やに) 派)と対抗。1896年白馬会を結成した。
開国
かいこく @@@LINK=開国 開国

開国
かいこく

江戸末期,欧米諸国の圧力により幕府が鎖国政策を断念し,対外関係を拡大したこと
1854年,アメリカ使節ペリーの威圧的な交渉に屈して日米和親条約を締結したことに始まり,'58年,日米修好通商条約を締結,続いてイギリス・ロシア・フランス・オランダなどとも同様の条約を結んだ。すでに18世紀末以来,ロシアついでイギリスが開国を求めて来航していたが,たまたま1853年以来のクリミア戦争の時期に,アメリカが諸国に先んじて日本の開国を実現させたことは,世界史的にみても注目を要する。開国の結果,政治的には,開国の是非論と将軍継嗣問題が結合して政争の激化をもたらし,幕府滅亡の遠因をつくった。社会的には,下級武士の窮乏と幕政への不満,百姓一揆と打ちこわしの激化という社会不安をもたらした。経済的には,物価騰貴と経済界の混乱を招く一方,製糸業に工場制手工業経営の発達をうながした。こうして時代は大きくかわり,近代化への道が開かれたが,それが自発的なものではなく,外圧によったことが日本の近代化に基本的特色を与えた。
外国官
がいこくかん @@@LINK=外国官 外国官

外国官
がいこくかん

明治初期の外務行政機関
1868年政体書により設置。外国事務をつかさどる。翌'69年,官制改革により外務省となる。
廻国雑記
かいこくざっき @@@LINK=廻国雑記 廻国雑記

廻国雑記
かいこくざっき

室町末期の紀行文
1巻。関白近衛房嗣の3男,園城寺大僧正道興の作。1486年から北陸・関東・奥羽諸国の旅に出て,その見聞を漢詩・和歌・俳諧を交えてしるしたもの。
外国奉行
がいこくぶぎょう @@@LINK=外国奉行 外国奉行

外国奉行
がいこくぶぎょう

幕末,江戸幕府が対外交渉のために設けた職名
1858(安政5)年,安政の五カ国条約締結のとき,永井尚志 (ひさし) (勘定奉行)・岩瀬忠震 (ただなり) (目付)・井上清直(下田奉行)ら有能な幕臣5名が兼任し,老中管掌下に外交の衝にあたったが,しだいに軽い職となった。'68年廃止。
海国兵談
かいこくへいだん @@@LINK=海国兵談 海国兵談

海国兵談
かいこくへいだん

江戸後期,林子平の兵学書
16巻。1777年起稿,'86年脱稿,'91年自費で刊行。富国論的な海防論書で,ロシアが千島・蝦夷地に南下しつつある状況を憂え,海防の急務を説いた。幕府は世を惑わすものとしてその出版を禁止し,子平を禁錮刑に処した。
開国論
かいこくろん @@@LINK=開国論 開国論

開国論
かいこくろん

江戸後期,鎖国政策を改め,対外関係拡大を主張した論議
18世紀末工藤平助・本多利明らが貿易による国富増進を論じ,19世紀初め佐藤信淵が海防上から通商を論じた。ペリー来航以後,経済的開国論は政策的開国論となり,佐久間象山・横井小楠らの開国論となった。安政の開国後は反幕府的な尊王攘夷論に対抗して佐幕論と結合した。
皆済目録
かいさいもくろく @@@LINK=皆済目録 皆済目録

皆済目録
かいさいもくろく

江戸時代,年貢などを完納したときに発する文書。地方 (じかた) 三帳の一つ
詳しくは「御年貢皆済目録」という。代官から村方領収書として出された。また別に代官から勘定所に送る納入目録ともされた。年貢の租率・小物成の内容など詳細な記入があり,農村生活・貢納関係の重要な史料
改作法
かいさくほう @@@LINK=改作法 改作法

改作法
かいさくほう

17世紀半ば,加賀藩主前田綱紀 (つなのり) の初世,その後見役であった祖父利常が行った農業政策
農政を中心とする藩政の改革を通じて,藩体制の確立を求めたもの。改作奉行の設置,検地の精密化,家臣による直接年貢徴収の禁止,十村 (とむら) 制度の整備による郷村支配の強化,米・銀貸付けによる小農の救済定免 (じようめん) 制の実施による藩財政の立て直しなどがあげられ,加賀藩の農政の祖法となった。
会所
かいしょ @@@LINK=会所 会所

会所
かいしょ

江戸時代,組合や寄合のための施設
種々の目的・機能のものがあり,(1)株仲間などの事務所,(2)米・繰綿 (くりわた) などの取引所,(3)藩札・手形の引換所,(4)専売・国産奨励の役所,(5)都市の自治集会所,(6)幕末の貿易機関などを会所と呼んだ。
改進党
かいしんとう @@@LINK=改進党 改進党

改進党
かいしんとう

①1952年,日本民主党野党派を中心として結成された保守政党(〜'54)
日本進歩党(旧民政党系)の系統が日本民主党となり,さらにその分裂後,野党派の国民民主党が農民協同党・新政クラブと合同し結成。総裁は重光葵 (まもる) 。修正資本主義・協同主義を主張し,自由・社会両党の中間政党的存在であったが,再軍備のための憲法改正を唱えた。1954年11月24日,自由党を脱退した鳩山一郎系と合同,日本民主党を結成した。
②「立憲改進党」の略称。
改新の詔
かいしんのみことのり @@@LINK=改新の詔 改新の詔

改新の詔
かいしんのみことのり

大化の改新
開成学校
かいせいがっこう @@@LINK=開成学校 開成学校

開成学校
かいせいがっこう

開成所の後身
1868年開成学校,大学校('69)・大学南校('69)を経て,'73年再び開成学校,ついで東京開成学校と改称。
開成館
かいせいかん @@@LINK=開成館 開成館

開成館
かいせいかん

幕末土佐藩に置かれた富国強兵策の中心機関
1866年,後藤象二郎企画運営し,貨殖・勧業・税課・鉱山捕鯨鋳造火薬軍艦・訳などの各局を設置。しかし重税藩専売に反対する農民や勤王党の抵抗にあい不振であった。
開成所
かいせいじょ @@@LINK=開成所 開成所

開成所
かいせいじょ

幕末,江戸幕府の洋学研究教育機関
1855年設立の洋学所が蕃書調所,ついで洋書調所と改称され,'63年開成所と改称。科目は英・仏・蘭・独・などの外国語,物理・化学・地理・数学などの自然科学,兵学など。教授陣には西周 (にしあまね) ・神田孝平津田真道 (まみち) ・加藤弘之 (ひろゆき) らがいた。幕府滅亡により閉鎖されたが,'68年明治政府が再開し,開成学校と改称。大学南校('69),開成学校('73)を経て,'77年東京医学校と合併して東京大学となった。
改税約書
かいぜいやくしょ @@@LINK=改税約書 改税約書

改税約書
かいぜいやくしょ

1866年,江戸幕府がイギリス・フランスアメリカオランダ4カ国と結んだ関税その他貿易に関する協約
安政の条約の輸入関税率引下げを目標とした諸外国の要求によって成立。輸入関税率軽減(5〜35%の従価税→従価5%を基準とする従量税)や貿易・海外旅行などの諸制限撤廃を決めた。これにより欧米資本主義の日本進出はいっそう容易なものとなった。この改正は明治政府の懸案となり,1911年廃棄に成功した。
外戚
がいせき @@@LINK=外戚 外戚

外戚
がいせき

母方の親戚
天皇の外戚は,皇子が母方で養育されることから,政治的に権力を得ることが多く,藤原氏はこの地位を利用して摂政・関白となった。
廻船
かいせん @@@LINK=廻船 廻船

廻船
かいせん

江戸時代,海上輸送に従事する大型船
物資輸送は海上をとするので,鎌倉末期から出現,しだいに増加した。特に江戸時代は定期船として沿岸航路に就航し,年貢米その他商品輸送に活躍。江戸・上方航路の菱垣廻船・樽廻船,北国廻船(北前船)をはじめ全国的に発達した。
廻船式目
かいせんしきもく @@@LINK=廻船式目 廻船式目

廻船式目
かいせんしきもく

わが国最古の海事商法
1223年制定説もあるが,15世紀後半〜16世紀中ごろとする説が有力。おもに西国海運業者に適用され,内容は船舶・船主・船員・借船・共同海損・衝突・海難救護など多面にわたる。後世の海事商法に与えた影響は大きく,豊臣秀吉はこれを参照して海路諸法度を制定した。
廻船問屋
かいせんどいや @@@LINK=廻船問屋 廻船問屋

廻船問屋
かいせんどいや

江戸時代,商品輸送の廻船に従事した業者
「船問屋」ともいう。海上輸送発達に伴い,主要なに出現。廻船の積み荷の集荷・引き受けのほか,みずから運送にもあたった。
改造
かいぞう @@@LINK=改造 改造

改造
かいぞう

大正・昭和期の代表的総合雑誌
1919年大正デモクラシーを背景に山本実彦が創刊。『中央公論』と並び進歩的思潮の結集点となった。昭和初期の社会主義運動の合法的発言機関として堺利彦・河上肇 (はじめ) ・山川均らが寄稿。1944年横浜事件を機に休刊し,'46年復刊。'55年以降廃刊。
廻漕会社
かいそうがいしゃ @@@LINK=廻漕会社 廻漕会社

廻漕会社
かいそうがいしゃ

明治初年設立の日本最初の汽船会社
1870年民部省通商司のもとで設立。江戸時代菱垣廻船などの事業を受け継ぎ,東京〜大阪間を運航経営不振で,'71年回漕取扱所に移管,'72年郵便蒸気船会社となる。
海賊
かいぞく @@@LINK=海賊 海賊

海賊
かいぞく

①中世,水軍力を有する豪族やその配下
②海上の盗賊
海賊衆ともいう。船持ちの名主 (みようしゆ) ・荘官・地頭などの地方豪族で,通商や貿易船の警固,水上関銭の徴収,時に略奪などを行い,朝鮮・中国から倭寇 (わこう) と呼ばれ,みずから海賊大将軍と称する者もいた。瀬戸内海の村上氏は有名。
海上浮浪者で,上記の豪族に寄食したり盗みを目的とする者。平安後期から戦国時代にかけ,九州・瀬戸内海地方に多かった。


外祖父
がいそふ @@@LINK=外祖父 外祖父

外祖父
がいそふ

母方の祖父。
解体新書
かいたいしんしょ @@@LINK=解体新書 解体新書

解体新書
かいたいしんしょ

江戸後期,日本最初の西洋医学書の翻訳書
1774年刊。本文4巻,付図1巻。全文漢文体。ドイツ人クルムス著『解剖図譜』のオランダ語訳書(原名ターヘル‐アナトミア)を携え,杉田玄白・前野良沢らが'71年江戸小塚原刑場で死刑囚を解剖し,その正確さに驚き翻訳に着手し,『解体新書』として刊行。自然科学・蘭学の興隆に貢献した。その翻訳の苦心談が『蘭学事始 (らんがくことはじめ) 』である。
開拓使
かいたくし @@@LINK=開拓使 開拓使

開拓使
かいたくし

明治初期,北海道開拓事業を担当した政府機関
1869年設置,初め樺太 (からふと) も統轄した。開拓次官('74年に長官)黒田清隆の指導のもとに,アメリカ農務局長ケプロンを顧問に迎え,移民・屯田兵 (とんでんへい) の奨励,道路・港湾・炭田の開発,札幌農学校の創設などにつとめた。'82年廃止され,札幌・函館・根室の3県が置かれた。
開拓使官有物払下げ事件
かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん @@@LINK=開拓使官有物払下げ事件 開拓使官有物払下げ事件

開拓使官有物払下げ事件
かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん

1881(明治14)年,開拓使官有物の払下げをめぐり藩閥と政商の結託が非難された政治事件
政府が1872年以来1500万円を投じて北海道で経営してきた事業を,開拓使長官黒田清隆は同じ薩摩藩出身の五代友厚らの関西貿易商会に約39万円無利息30年賦で払い下げることを決めた。このことが世間に知れ,世論は藩閥専制政治の弊害だと憤激して攻撃したので,政府は払下げを中止し,国会開設の勅諭を発した。
戒壇
かいだん @@@LINK=戒壇 戒壇

戒壇
かいだん

僧侶に戒を授け,資格を与える式を行う壇場
754年に鑑真 (がんじん) が東大寺大仏殿前に戒壇をつくり,761年に下野 (しもつけ) 薬師寺・筑紫観世音寺にもつくられた。これらを「天下の三戒壇」といい,正式の僧侶になるには,このいずれかで受戒しなければならなかった。平安時代に入ると,これらの小乗戒壇とは別に,最澄が比叡山に大乗戒壇の創設を求め,死後勅許された。
海潮音
かいちょうおん @@@LINK=海潮音 海潮音

海潮音
かいちょうおん

明治後期,上田敏の訳詩集
1905年刊。イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの訳詩57編を収録。特にフランスの高踏派・象徴派の詩をよくこなれた卓抜な翻訳によって紹介し,明治の詩壇に大きな影響を与えた。
華夷通商考
かいつうしょうこう @@@LINK=華夷通商考 華夷通商考

華夷通商考
かいつうしょうこう

江戸中期,日本最初の本格的な外国地理書
長崎通詞西川如見の著。1695年刊。2巻。1708年5巻に訂正増補。1・2巻は中国,3巻はアジア諸国,4・5巻はオランダその他の国ぐににつき,それぞれの産物・交通などを記述。
貝塚
かいづか @@@LINK=貝塚 貝塚

貝塚
かいづか

新石器時代人が食べた貝の殻などを捨てたものが堆積してできた遺跡
縄文時代に多いが,弥生時代のものもある。貝殻のほかに土器・石器・骨角器・食物の滓 (かす) や,埋葬された人骨なども発見されるので,当時の人々の生活や自然環境を復原するのに役立つ。姥山 (うばやま) ・大森・加曽利・南堀・鳥浜などの貝塚が有名。
改定律例
かいていりつれい @@@LINK=改定律例 改定律例

改定律例
かいていりつれい

1873年7月に施行された明治初期の刑法
フランス刑法を参考とし,新律綱領の不備を改定・補充したもの。3巻14律318条。刑罰は緩和されたが,身分による刑罰差は残存した。1882年の刑法施行まで,新律綱領と併用された。
垣内
かいと @@@LINK=垣内 垣内

垣内
かいと

垣で囲まれた区域の意味で,私有権の強い宅地・耕地・未開地を含んだ村落の一地区
「垣戸」「海道」「開土」とも書く。古代からみられ,豪族の屋敷を呼ぶこともある。中世には開墾地・分村をも意味し,数戸の家からなる小集落も垣内と呼ばれた。
街道
かいどう @@@LINK=街道 街道

街道
かいどう

交通上の主要な道路
古代では京都を起点に大宰府道(山陽道)・東海道・東山道・北陸道・山陰道など。中世には各地から鎌倉に向かう鎌倉街道などがあり,また東海道がにぎわった。近世に入ると江戸を中心に交通路完成。東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道とそれから分岐する脇街道などがあった。
海道記
かいどうき @@@LINK=海道記 海道記

海道記
かいどうき

鎌倉前期の紀行文学
1223年ころ成立。作者は鴨長明・源光行説などがあるが不明。『東関紀行』や『十六夜 (いざよい) 日記』と同じような京都・鎌倉間の旅行記で,後世宗祇 (そうぎ) ・芭蕉の紀行文学に連なるもの。文体は技巧的な和漢混交文で,仏教思想が目だつ。
海東諸国紀
かいとうしょこくき @@@LINK=海東諸国紀 海東諸国紀

海東諸国紀
かいとうしょこくき

室町中期,朝鮮の海東諸国(日本・琉球)との交渉史
1巻。1471年,朝鮮の申叔舟 (しんしゆくしゆう) が朝鮮国王成宗の命をうけて著した。日朝関係を知る基本的史料。
懐徳堂
かいとくどう @@@LINK=懐徳堂 懐徳堂

懐徳堂
かいとくどう

江戸中期,大坂に設けられた郷学
1724年大坂商人道明寺吉左衛門・鴻池又四郎ら5人が,中井甃庵 (しゆうあん) とはかり儒者三宅石庵を学主として設立。朱子学を中心に忠孝家業に精励すべきことを説いた。準官学の取扱いをうけ,庶民・武士共学,自由な学風で知られ,中井竹山の学主時代には質・量とも官学である昌平坂学問所をしのぐものがあった。門下生に富永仲基・山片蟠桃 (ばんとう) らがいる。
海南学派
かいなんがくは @@@LINK=海南学派 海南学派

海南学派
かいなんがくは

室町末期,南村梅軒が土佐国でおこした朱子学の一派
南学派ともいう。四書をもととし,程朱学程顥 (ていこう) ・程頤 (ていい) と朱子の学説)の立場に立ち,禅の精神を重んじた。梅軒の門弟谷時中によって確立され,その門から野中兼山・山崎闇斎らが出た。
海舶互市新例
かいはくごししんれい @@@LINK=海舶互市新例 海舶互市新例

海舶互市新例
かいはくごししんれい

1715年,新井白石の意見により,幕府が発した長崎貿易制限令
正徳新令長崎新令ともいう。1685年の対オランダ・対清貿易制限令の効果が少なかったので,白石の調査に基づき,金・銀・銅の流出と密貿易防止のため,年間貿易額の制限を中心に定めた諸規定。これにより清船は年30艘 (そう) ,貿易高銀6000貫,オランダ船2艘,銀3000貫と制限された。文政年間(1818〜30)まで実施。
開発領主
かいはつりょうしゅ @@@LINK=開発領主 開発領主

開発領主
かいはつりょうしゅ

未開墾地を開墾してその所有(領有)者となった者
「かいほつりょうしゅ」とも読み,根本領主ともいう。多くは地方豪族で,平安中期以後,自己の所領保全,利権の確立強化を目的として,中央の有力な寺社貴族に所領を寄進。自身は,預所 (あずかりどころ) ・下司・地頭など荘官としての職掌をもって,現地支配の権限を留保しておくことが多い。こうして,本家・領家・荘官という階層的な荘園領有関係(荘園制)が完成された。
貝原益軒
かいばらえきけん @@@LINK=貝原益軒 貝原益軒

貝原益軒
かいばらえきけん

1630〜1714
江戸中期の儒学者・本草学者・教育者
筑前福岡藩士。江戸・京都に遊学して朱子学に傾倒。晩年,その「理気二元論」に疑問を抱き「気一元論」を説いた。『慎思録』『大和本草 (やまとほんぞう) 』『養生訓』などを著し,教育・経済・民俗・歴史などの各分野で先駆的な業績を残した。また『和俗童子訓』5巻はわが国最初の体系的教育書で,教える者はまずみずから学ぶべきこと,子供の世界と大人とを同列とすべきではない,などすぐれた識見を述べた。

懐風藻
かいふうそう @@@LINK=懐風藻 懐風藻

懐風藻
かいふうそう

奈良時代,現存最古の漢詩集
751年成立。1巻120編。撰者不詳。大津皇子・大友皇子など64人の詩を収録。『万葉集』と並ぶ奈良時代の二大文学作品であるが,『万葉集』が広範囲の作者を集めているのに対し,『風藻』は知識人層に限られる。中国六朝から初唐の詩の影響を強くうけた作品が多い。
海北友松
かいほうゆうしょう @@@LINK=海北友松 海北友松

海北友松
かいほうゆうしょう

1533〜1615
安土桃山〜江戸時代初期の画家。海北派の始祖
近江(滋賀県)の戦国大名浅井長政の重臣の子。狩野派を学び宋元風の水墨画を研究。画風は力強く個性的で,特に人物画をよくした。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らの好遇をうけた。代表作に京都建仁寺『水墨襖絵』,妙心寺『金地彩色屛風』など。

解放令
かいほうれい @@@LINK=解放令 解放令

解放令
かいほうれい

1871年,明治新政府がえた・ひにんなどの称を廃し身分職業とも平民と同様たるべきことを令した太政官布告
賤称廃止令・賤民廃止令ともいう。法令上解放されたものは40〜50万人。しかしその後も実質的には社会上の差別は強く,新平民と呼ばれるなどのいわれのない偏見の中で経済的貧困は改善されなかった。そのような中で,民主的風潮の高まりとともに,この差別と偏見をなくす部落解放運動がもりあがっていった。
海防論
かいぼうろん @@@LINK=海防論 海防論

海防論
かいぼうろん

江戸後期,外国船の接近に対しておこった国土防備の論議
18世紀末からのロシアの南下に対処して,工藤平助・林子平・本多利明らが,北辺警備と蝦夷 (えぞ) 地開拓を力説して海防論を唱えた。幕府は子平を処罰したが,その後海防論は佐藤信淵・佐久間象山らに受け継がれ,幕末の尊王攘夷論・佐幕開国論に発展した。
海保青陵
かいほせいりょう @@@LINK=海保青陵 海保青陵

海保青陵
かいほせいりょう

1755〜1817
江戸後期の経済学者
丹後(京都府)宮津藩の家老の子として江戸に生まれた。早くから自由な学問を望み,家督を弟に譲って諸国を遊歴。のち京都に住み学派にとらわれず教育・著述に従事。商品経済の発展を肯定し,藩専売の採用を説くとともに,武士奉公すら一種の商行為とみなし,家中内職の利潤追求を正当視するなど異色の説を唱え,今の世に役立たない論は空論と談じた。主著に『稽古談 (けいこだん) 』など。

廻米
かいまい @@@LINK=廻米 廻米

廻米
かいまい

江戸時代の貢租米・納屋米の輸送,またその米穀
幕府の年貢米(城米),諸藩の蔵米,民間の納屋米の多くは江戸の御蔵や藩邸,大坂蔵屋敷堂島米市場に送られた。輸送は沿岸航路の廻船によった。また廻米量は米価に影響するので幕府はその調節に苦心した。
開目鈔
かいもくしょう @@@LINK=開目鈔 開目鈔

開目鈔
かいもくしょう

鎌倉中期,日蓮の著した宗教書
1272年刊。2巻。日蓮が佐渡へ流された2年4か月の間に著した。「日蓮こそ末法の大導師である」と主張している。
カイロ宣言
カイロせんげん @@@LINK=カイロ宣言 カイロ宣言

カイロ宣言
カイロせんげん

第二次世界大戦中の1943年,アメリカ・イギリス・中華民国の3国首脳によるカイロ会議の結果発表された,日本の戦後処理に関する連合国の基本方針
アメリカ大統領ローズヴェルト・イギリス首相チャーチル・中華民国主席蔣介石がエジプトカイロ会談し,(1)日本の侵略は防止するが自国は侵略目的をもたない,(2)第一次世界大戦以来の奪取または占領した太平洋諸島放棄,(3)満州・台湾などの中国返還,(4)朝鮮の独立,などを規定。ポツダム宣言の基本となった。
臥雲辰致
がうんたっち @@@LINK=臥雲辰致 臥雲辰致

臥雲辰致
がうんたっち

1842〜1900
ガラ紡の発明者
信濃(長野県)の生まれ。1873年に日本最初の紡績機(ガラ紡)を発明し,'77年の第1回内国勧業博覧会で最高賞を与えられた。
臥雲日件録
がうんにっけんろく @@@LINK=臥雲日件録 臥雲日件録

臥雲日件録
がうんにっけんろく

室町中期,京都相国寺の禅僧瑞溪周鳳 (ずいけいしゆうほう) の日記
「臥雲」は周鳳の別号。原本74冊のうち,現存は惟高妙安が抄録した2巻だけ。室町中期の政治史,五山禅林の学芸史の史料として重要である。
花営三代記
かえいさんだいき @@@LINK=花営三代記 花営三代記

花営三代記
かえいさんだいき

室町幕府の日記
『室町記』『武家日記』ともいう。1巻。筆者は幕府の右筆 (ゆうひつ) であろう。1367年から1425年まで,将軍足利義満・義持・義量 (よしかず) の3代にわたるのでこの名がある。幕府の職制,南朝との関係,段銭半済 (はんぜい) などに関する重要史料が多い。『群書類従』に収録
替銭
かえせん @@@LINK=替銭 替銭

替銭
かえせん

鎌倉・室町時代の用語で,近世の両替と為替 (かわせ) ,特に後者に用いる
遠隔地荘園から年貢輸送の際,米を売り代金を為替手形(割符 (さいふ) )に組んで送った。米で決済するのを替米 (かえまい) という。商業の発達につれ,商取引に用いられ兼業専業の業者(替銭屋・割符屋)も現れた。また本寺・末寺を利用して替銭業を営む寺院もあった。
花押
かおう @@@LINK=花押 花押

花押
かおう

文書に署名するかわりに書く判
書判 (かきはん) ともいう。初め文書に署名することから,だんだんに略式化されたもので,日本での初見は9世紀中ごろ。(1)草名体…署名の草書体から変化したもの,(2)二合体…実名の偏や旁 (つくり) などを合成,(3)一字体…ある一字の形様化,(4)別用体…文字の符号化あるいは象形化したもの,(5)明朝体…天地両線があるのが特徴,に分類される。江戸時代には花押を木判で押すものまでできてくる。
可翁仁賀
かおうにんが @@@LINK=可翁仁賀 可翁仁賀

可翁仁賀
かおうにんが

生没年不詳
鎌倉末期・南北朝初期の画僧
日本水墨画草創期の一人で,宋元画の影響をうけた宅磨派大和絵一派)の人と考えられる。代表作の『寒山図』『竹雀図』に可翁印と仁賀の小印があるところから名を仁賀,号を可翁とする。画にひいでた禅僧と考えられる。
家屋文鏡
かおくもんきょう @@@LINK=家屋文鏡 家屋文鏡

家屋文鏡
かおくもんきょう

背面に家屋を描いた鏡
奈良県宝塚古墳から出土した仿製鏡が著名。この鏡には,竪穴住居・高床住居・平地の住居・倉庫の4図がみられ資料的価値が高い。
河海抄
かかいしょう @@@LINK=河海抄 河海抄

河海抄
かかいしょう

室町前期,四辻善成 (よつつじよしなり) の『源氏物語』注釈書
貞治 (じようじ) 年間(1362〜68)の成立。20巻。藤原定家の『源氏物語奥入』,素寂の『紫明抄』などの諸説をとり入れ,それ以前の考証的関心から語句解釈の方面に移る。後世の『源氏物語』研究に大きな影響を与えた。
歌学
かがく @@@LINK=歌学 歌学

歌学
かがく

和歌の形態や本質・作法・心得など,和歌に関する全方面を研究する学問
ふつう和歌の本質論は歌論といい,それ以外の和歌の諸知識を求める学問を歌学と呼んで区別する。鎌倉末期,藤原定家の子孫の二条・京極冷泉 (れいぜい) の3家が歌学の家としての地位を築く。その後形式化・固定化して古今伝授などとなるが,江戸中期,こうした中世以来の歌学に対する批判がおこり,これが国学源流となったことは注目を要する。代表的歌学書として『歌経標式』『古今和歌集』〈〉,『古来風体抄』など。
雅楽
ががく @@@LINK=雅楽 雅楽

雅楽
ががく

古代に宮廷で行われた楽舞の総称
管絃の楽と,管楽器・打楽器の伴奏による演舞の舞楽とを総称する。飛鳥・奈良時代に朝鮮・中国・インドなどから伝来し,9世紀半ばまでに日本化した。
歌学方
かがくかた @@@LINK=歌学方 歌学方

歌学方
かがくかた

江戸幕府の職名
1689年,将軍徳川綱吉のとき,北村季吟父子を招き,任命した。歌学を管掌した。以後,北村氏が代々この職を世襲。
科学者京都会議
かがくしゃきょうとかいぎ @@@LINK=科学者京都会議 科学者京都会議

科学者京都会議
かがくしゃきょうとかいぎ

1962年5月7日,京都天竜寺で開かれた日本版パグウォッシュ会議
湯川秀樹・朝永 (ともなが) 振一郎らが中心となって,原水爆禁止を訴え,パグウォッシュ会議の精神に基づき,具体的運動方針が論議された。
下学集
かがくしゅう @@@LINK=下学集 下学集

下学集
かがくしゅう

室町時代の漢和辞書
2巻。1444年の序がある。著者不明。天地・時節・数量・言辞・人倫など18部門よりなり,漢字に片仮名で (よみ) をつけ,大部分に漢文で注を施してある。子供の文字の勉強のためのものであるが,当時の国語資料としても重要。
価格等統制令
かかくとうとうせいれい @@@LINK=価格等統制令 価格等統制令

価格等統制令
かかくとうとうせいれい

1939年9月,国家総動員法に基づき,物価を固定させるための統制令
戦時適正価格(公定価格)をつくり,生産を増強させ,物価水準を調整しようとした。戦争末期には物価騰貴を抑制する手段とされた。
加賀騒動
かがそうどう @@@LINK=加賀騒動 加賀騒動

加賀騒動
かがそうどう

江戸中期,加賀藩におこった御家騒動
6代藩主前田吉徳 (よしのり) の大槻伝蔵登用に対し,家老前田直躬 (なおみ) らの保守派が反対して対立,それに吉徳の側室真如院の子を継嗣に擁立しようとする大槻一派の陰謀がからんだ騒動。1754年事件は大槻派の断罪で落着した。
加賀一向一揆
かがのいっこういっき @@@LINK=加賀一向一揆 加賀一向一揆

加賀一向一揆
かがのいっこういっき

1488年,加賀国で勃発した門徒農民の一揆
一向一揆中最大のもの。20万の一向宗(浄土真宗)徒が守護の富樫政親を滅ぼし,以後100年近く同国を統治した。8代蓮如 (れんによ) が北陸布教にあたって組織した,坊主を中心に結成された門徒の国人や農民のがその母胎となる。
加賀千代
かがのちよ @@@LINK=加賀千代 加賀千代

加賀千代
かがのちよ

1703〜75
江戸中期の女流俳人
千代女ともいう。加賀(石川県)松任 (まつとう) の表具屋の娘。号は素園。生涯不詳。幼少より才があり,作風は平易通俗。句集『千代尼句集』『松の声』など。
加賀藩
かがはん @@@LINK=加賀藩 加賀藩

加賀藩
かがはん

江戸時代,加賀・能登・越中3国を領した外様藩。藩主前田氏。城下町金沢
藩祖前田利家は豊臣秀吉の北陸平定に伴い加賀に入国。1581年能登,'85年越中を領有。その子利長は関ケ原の戦いで徳川家康に属し加増され,120万石となった。1639年3代利常は隠居するにあたり,2男利次に富山10万石,3男利治に大聖寺7万石をそれぞれ分与,明治維新に至った。
鑑草
かがみぐさ @@@LINK=鑑草 鑑草

鑑草
かがみぐさ

江戸前期,中江藤樹が女性のために著した教訓書
1647年刊。6巻。藤樹が朱子学から陽明学に転じたころの作品で,不孝の報い,夫にそむいた報いなどを記したもの。
各務支考
かがみしこう @@@LINK=各務支考 各務支考

各務支考
かがみしこう

1665〜1731
江戸中期の俳人。蕉門十哲の一人
美濃国(岐阜県)北野の人。幼時仏門に入ったが還俗 (げんぞく) し,のち松尾芭蕉に師事。芭蕉なきあと,平俗を主張し,美濃派をたて,榎本其角の江戸派とともに有力であった。主著に『笈 (おい) 日記』など。

掛物
かかりもの @@@LINK=掛物 掛物

掛物
かかりもの

江戸時代,本年貢以外の雑税の総称
田畑の石高または人別に応じて賦課され,一般に各種の名目によって徴収された付加税も諸掛物といわれた。現物のみならず貨幣として賦課されることもあり,幕末期には農民にとってかなりの負担となった。
香川景樹
かがわかげき @@@LINK=香川景樹 香川景樹

香川景樹
かがわかげき

1768〜1843
江戸後期の歌人。桂園派の始祖
通称銀之助。号は桂園・梅月堂など多数。伯耆鳥取藩士の2男として生まれ,のち京都に出て香川景柄 (かげもと) の門に入り,養子となった。一意歌道に精励し,優美な歌風の桂園派をおこし,関西歌壇を革新した。著書は多く,『桂園一枝』『古今集正義』などが著名。

賀川豊彦
かがわとよひこ @@@LINK=賀川豊彦 賀川豊彦

賀川豊彦
かがわとよひこ

1888〜1960
明治末期〜昭和期のキリスト教社会主義者
兵庫県の生まれ。アメリカのプリンストン大学卒。神戸のスラム街で伝道。米国留学から帰国後,友愛会幹部として川崎・三菱造船所の争議を指導。1922年,日本農民組合を創立。消費組合にも活躍し,海外伝道も行った。主著に『死線を越えて』など。

花間鶯
かかんおう @@@LINK=花間鶯 花間鶯

花間鶯
かかんおう

明治中期,末広鉄腸政治小説
1887〜88年刊。『雪中梅』の続編。青年政治家国野基 (もとい) が反対派と対立して,さまざまの苦闘政界に乗り出し,その属する自由党総選挙に大勝するという
餓鬼草子
がきぞうし @@@LINK=餓鬼草子 餓鬼草子

餓鬼草子
がきぞうし

平安末期〜鎌倉初期ごろの絵巻物餓鬼道を描いたもの
国宝。後白河法皇が蓮華王院に納めたものといわれる。餓鬼道とは「六道」,すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界の一つ。当時の六道観をうかがい知る好資料。
嘉吉の土一揆
かきつのつちいっき @@@LINK=嘉吉の土一揆 嘉吉の土一揆

嘉吉の土一揆
かきつのつちいっき

1441(嘉吉元)年,京都でおこった徳政一揆
嘉吉の乱で将軍足利義教 (よしのり) が赤松満祐 (みつすけ) に殺され,山名持豊軍が赤松氏征討のため出陣したあと,近江国坂本の馬借 (ばしやく) が主力となり,中・下層農民が京都の出入口を占拠して蜂起した。一揆は酒屋・土倉を襲い,幕府に迫って一国平均の徳政令の発布を要求,その目的を達した。
嘉吉の乱
かきつのらん @@@LINK=嘉吉の乱 嘉吉の乱

嘉吉の乱
かきつのらん

1441(嘉吉元)年,播磨守護赤松満祐 (みつすけ) が6代将軍足利義教 (よしのり) を殺し,満祐もまた幕府軍により討たれた事件
義教は有力守護大名を抑え,将軍の地位を高めようとしており,満祐の一族赤松貞村を寵愛し,満祐の領地をさいて与えようとしたので,満祐は結城合戦平定の祝賀と称して義教を自邸に招いて謀殺し,播磨に帰った。管領細川持之 (もちゆき) らは義教の子義勝をたてて将軍とし,征討軍をおこし,満祐は山名持豊の大軍に攻められ自殺。この乱によって将軍の権威は失墜した。
柿本人麻呂
かきのもとのひとまろ @@@LINK=柿本人麻呂 柿本人麻呂

柿本人麻呂
かきのもとのひとまろ

生没年不詳
7世紀後期の代表的歌人
持統・文武両帝(686〜707)の藤原京時代に宮廷歌人として仕えた。民族的伝統への回想国力の充実期を背景として,重厚で格調高い作品を残した。特に壮麗な長歌は比類がない。『万葉集』第一の歌人として活躍し,後世歌聖と称せられた。

部曲
かきべ @@@LINK=部曲 部曲

部曲
かきべ

大化以前の豪族の私有民
「民部」とも書き,「かきのたみ」とも読む。臣 (おみ) ・連 (むらじ) ・伴造 (とものみやつこ) ・国造 (くにのみやつこ) など豪族の部民をいう。物品を貢納し労役に従事した。大化の改新(645)で廃止が図られたが,天智天皇が豪族の反抗を懸念してこれを復活。天武天皇に至って再び廃止され,公民となった。
歌経標式
かきょうひょうしき @@@LINK=歌経標式 歌経標式

歌経標式
かきょうひょうしき

奈良時代,藤原浜成 (はまなり) の歌学書
『浜成式』ともいう。772年撰。2巻。歌病(和歌のもつ修辞的欠陥)・歌体など和歌の批評基準について記す。現存最古の歌学書で,平安時代以後の歌論に大きな影響を与えた。
下局
かきょく @@@LINK=下局 下局

下局
かきょく

明治初年の立法機関
1868年の政体書により立法機関としてつくられた議政官に,上局とともに設置された。'69年公議所に代わった。
学館院
がくかんいん @@@LINK=学館院 学館院

学館院
がくかんいん

平安初期,橘氏の大学別曹
9世紀前半,嵯峨天皇の皇后橘嘉智子 (かちこ) (檀林 (だんりん) 皇石)と弟右大臣氏公 (うじきみ) とがはかって創設。964年大学別曹として公認されたが,橘氏の衰微とともに衰え,その管理は藤原氏に移り,名のみの存在となった。
学習院
がくしゅういん @@@LINK=学習院 学習院

学習院
がくしゅういん

幕末,公家の子弟の教育機関
②明治〜昭和期,皇族・華族の子弟の教育機関
公家復興の気運の中で,1847年京都御所内に開校。少壮公家や志士が集まり尊王攘夷思想の温床となる。'70年閉鎖。
1877年東京に華族学校として創立。'84年宮内省に移管して官立の学校となった。第二次世界大戦後,私立学校として改組。
学習館
がくしゅうかん @@@LINK=学習館 学習館

学習館
がくしゅうかん

江戸中期,紀伊和歌山藩の藩校
1713年徳川吉宗が創立した講釈所を,'91年10代治宝 (はるとみ) が増設し学習館と命名した。
革新倶楽部
かくしんくらぶ @@@LINK=革新倶楽部 革新倶楽部

革新倶楽部
かくしんくらぶ

1922年,立憲国民党・無所属倶楽部・憲政会の一部の者で結成した政党(〜'25)
犬養毅を中心に,普通選挙・軍部大臣現役武官制廃止・ソ連邦承認などを主張。第2次護憲運動では,憲政会・立憲政友会と護憲三派を形成したが,党勢ふるわず,1925年5月大部分が立憲政友会に合同した。
学制
がくせい @@@LINK=学制 学制

学制
がくせい

1872(明治5)年発布された近代的学校制度に関する規定
フランスの学区制にならい全国を8大学区に分け,1大学区に32中学区,1中学区に210小学区を設けた。また太政官布告(被仰出書 (おおせいだされしよ) )を公布し,教育の機会均等と義務教育制の確立の意図を明示した。教育の目的については,個人主義・功利主義の影響をうけていた。しかし当時の社会の実情とかけ離れており,1879年教育令により廃止された。
学生運動
がくせいうんどう @@@LINK=学生運動 学生運動

学生運動
がくせいうんどう

大正・昭和期の学生の組織的な社会・政治・思想運動
明治時代に萌芽がみられるが,1918年ごろから民本主義・社会主義の興隆のもとに東大新人会などが生まれ,以後体系的に発展。'22年日本共産党の創立で急速に左傾化。同年学生連合会(学連)を結成し,反軍運動などを展開したが,'33年滝川事件以後弾圧が強化され衰退。第二次世界大戦後,共産党との関連のもとに,'48年全日本学生自治会総連合(全学連)を結成し,学園民主化・破壊活動防止法闘争・砂川事件闘争などを行った。安保闘争を境に急速に共産党との対立を深め,新左翼的傾向の強化の中で内部分裂が激化した。
学童疎開
がくどうそかい @@@LINK=学童疎開 学童疎開

学童疎開
がくどうそかい

空襲被害を避けるために,1944年8月から都会の学童を地方に避難させたこと
学校単位で寺院や旅館に疎開する集団疎開と,個人的に地方の親戚などに疎開する縁故疎開がある。
学道用心集
がくどうようじんしゅう @@@LINK=学道用心集 学道用心集

学道用心集
がくどうようじんしゅう

鎌倉中期,道元のした宗教書
1234年成立。1巻。1357年曇希 (どんき) により刊行されたといわれるが,弟子懐弉 (えじよう) の編ともいわれる。門弟の修行のために書いたもので,きびしい参学の心得を説いている。
学徒勤労動員
がくときんろうどういん @@@LINK=学徒勤労動員 学徒勤労動員

学徒勤労動員
がくときんろうどういん

日中戦争・太平洋戦争下に行われた学生・生徒の労働力動員
国内の労働力不足を補うために,1941年国民勤労報国協力令で軍需工場への動員を開始。'43年学徒出陣とともに動員の強化が決まり,'44年学徒勤労動員令で中等学校以上の全員工場などへ配置した。'45年には授業停止となり,学校教育の機能は完全に失われた。
学徒出陣
がくとしゅつじん @@@LINK=学徒出陣 学徒出陣

学徒出陣
がくとしゅつじん

太平洋戦争の激化にともなう,文系学生の在学中の徴兵猶予を停止して,入隊させた措置
1943年10月理工系および教員養成学校を除く,大学・高等専門学校生徒の徴集延期が廃止され,多くの学生が兵役に服した。'44年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ,多くの学徒兵が出征し戦死した。戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』は,戦後大きな反響を呼んだ。
覚如
かくにょ @@@LINK=覚如 覚如

覚如
かくにょ

1270〜1351
鎌倉末期の浄土真宗の僧
毫摂 (ごうせつ) と号す。覚恵の子。親鸞の曽孫。本願寺3代法主となる。大谷廟堂を中心とする真宗教団の統一に努力した。主著に『本願寺聖人親鸞伝絵』『報恩講式』など。
核兵器拡散防止条約
かくへいきかくさんぼうしじょうやく @@@LINK=核兵器拡散防止条約 核兵器拡散防止条約

核兵器拡散防止条約
かくへいきかくさんぼうしじょうやく

略称NPT。1968年に国連総会で採択された核兵器の保有国を拡大させないための条約
核兵器保有国が核兵器やそれを製造する技術を非核兵器保有国に供与することを禁止した。日本は1970年に署名した。
学問のすゝめ
がくもんのすすめ @@@LINK=学問のすゝめ 学問のすゝめ

学問のすゝめ
がくもんのすすめ

明治初期,福沢諭吉の啓蒙書
1872〜76年に発行。内容は実学をすすめ,人間の平等,個人の自由,国家の独立などを論じた。広く普及し,文明開化期に大きな影響を与えた。
神楽
かぐら @@@LINK=神楽 神楽

神楽
かぐら

神を慰めるために行う神事芸能
①宮中の神楽は鎮魂を目的とした呪術から発達し,音楽・舞踊としてまとまった。現存する神楽歌は約90首。
②民間の神楽は里神楽と呼ばれ,祭礼のとき行われる。いろいろな系統があるが,仮面をつけ音曲に合わせて舞う形が多い。

隠れキリシタン
かくれキリシタン @@@LINK=隠れキリシタン 隠れキリシタン

隠れキリシタン
かくれキリシタン

江戸幕府の禁教後,ひそかに信仰を守り続けたキリシタン
幕府はキリシタンを極刑に処したため,信徒は棄教をよそおい,ひそかに信仰を守る者があった。その分布は各地にみられるが,特に浦上をはじめ九州地方に多い。民間信仰化し,1873(明治6)年キリスト教禁令が解かれたのちもカトリックに復帰しない者が多かった。
過激社会運動取締法案
かげきしゃかいうんどうとりしまりほうあん @@@LINK=過激社会運動取締法案 過激社会運動取締法案

過激社会運動取締法案
かげきしゃかいうんどうとりしまりほうあん

1922年高橋是清内閣により提出され,未成立に終わった社会運動弾圧法案
1923年全労働組合は,代わった加藤友三郎内閣に対して,労働組合法案・小作争議調停法案を加えた3悪法反対闘争を展開して,成立を阻止したが,法案のめざしたものは治安維持法('25)で実現された。
花月草紙
かげつそうし @@@LINK=花月草紙 花月草紙

花月草紙
かげつそうし

江戸後期,松平楽翁(定信)の随筆
6巻。老中辞職後の1796〜1803年に著述されたらしい。内容は,政治一般から学問・道徳・日常生活や自然にまで多岐にわたり,156項にも及ぶ。
掛屋
かけや @@@LINK=掛屋 掛屋

掛屋
かけや

江戸時代,諸大名の蔵物販売に関与した金融業者
おもに蔵物売却の代金を保管し,江戸の大名藩邸や国もとに送金。江戸中期以降,藩の財政悪化から諸大名は蔵物を担保にして掛屋に金策を依頼,藩から士分の待遇をうけた。多くは有力な本両替が担当し,数藩の掛屋を兼ねるものも出現。また蔵元を兼ねる場合も多く,金融界の大勢力となった。大坂鴻池 (こうのいけ) が有名。
景山英子
かげやまひでこ @@@LINK=景山英子 景山英子

景山英子
かげやまひでこ

1865〜1927
明治・大正時代の女性運動家
備前(岡山県)の生まれ。岸田俊子の岡山遊説を機会に自由民権運動に参加,1885年大阪事件に連坐して入獄。出獄後は女子教育に従事し,福田友作と結婚したが死別。石川三四郎の影響で社会主義に近づき,平民社に入る。1907年『世界婦人』を創刊し,女権の拡張につとめた。自叙伝『妾 (わらわ) の半生涯 (せいがい) 』がある。
勘解由使
かげゆし @@@LINK=勘解由使 勘解由使

勘解由使
かげゆし

平安初期,桓武天皇のとき設置された,国司交替にたちあって解由状 (げゆじよう) を審査する令外官 (りようげのかん)
国司交替の際,前任者が新任者に出す事務引継ぎの文書に不正が多く,新任者が前任者の不正のなかったことを証明する解由状の発給に関して紛争がふえたため,その対策として設置。これによって国司交替の円滑化をはかったが,平安末期以降有名無実となった。
蜻蛉日記
かげろうにっき @@@LINK=蜻蛉日記 蜻蛉日記

蜻蛉日記
かげろうにっき

平安中期,藤原道綱(道長の異母兄)の母の日記文学
3巻。954〜974年の21年間,夫藤原兼家との結婚,道綱の誕生,兼家との離別などの身辺生活を日記形式で回想した自伝的作品。的確な心理描写にすぐれる。
課戸
かこ @@@LINK=課戸 課戸

課戸
かこ

律令制において,課口のいる戸をいう。
囲米
かこいまい @@@LINK=囲米 囲米

囲米
かこいまい

江戸時代,幕府の命で諸町人が蓄えた米
実際は籾 (もみ) で保存し,囲籾 (かこいもみ) ともいう。凶作などの備荒貯蓄を目的とするものが多く,寛政の改革松平定信が実施したのが有名。また米価調節策としての囲米もあり,享保の改革徳川吉宗が命じたのが有名。
課口・不課口
かこう・ふかこう @@@LINK=課口・不課口 課口・不課口

課口・不課口
かこう・ふかこう

律令制において,課役負担を負う課口,負わない者を不課口という
課口はすべて男子で正丁・次丁・少丁があり,調雑徭 (ぞうよう) ・調の副物などを負担した。不課口は女子のほか皇族・官人・僧侶重度の身体障害者・病人家人奴婢 (ぬひ) などをいう。また内に課口を含む戸を課戸といい,課口を含まない戸を不課戸といった。
過去現在因果経絵巻
かこげんざいいんがきょうえまき @@@LINK=過去現在因果経絵巻 過去現在因果経絵巻

過去現在因果経絵巻
かこげんざいいんがきょうえまき

奈良時代,最初の絵巻物
絵因果経』ともいう。料紙を上下二分し,下段釈迦 (しやか) の伝記を記した経文を,上段にそのを描いたもの。新古の2種があり,古本は天平時代の作で「古因果経」,新本は鎌倉時代の作で「新因果経」と呼ばれる。
鹿児島
かごしま @@@LINK=鹿児島 鹿児島

鹿児島
かごしま

鹿児島県薩摩半島東部にある県庁所在地で,近世薩摩藩の城下町として発展
中世を通じて島津庄の地頭,薩摩守護であった島津氏が,1343年以降根拠地とした。戦国時代に島津氏が薩摩・大隅 (おおすみ) を統一し,1602年鶴丸城を居城とした。近世城下町としては,島津氏の外城政策のため77万石の大藩があったわりには小規模であった。1863年薩英戦争で戦火をうけた。'89年市制施行。
鹿児島造船所
かごしまぞうせんじょ @@@LINK=鹿児島造船所 鹿児島造船所

鹿児島造船所
かごしまぞうせんじょ

幕末薩摩藩鹿児島設立した造船所
1853年薩摩藩主島津斉彬 (なりあきら) が鹿児島に造船所を設立,造船に着手した。明治維新後政府が接収,兵部省・海軍省所管を経て,'79年機械を築地の兵器製造所に移し閉鎖。
鹿児島紡績所
かごしまぼうせきじょ @@@LINK=鹿児島紡績所 鹿児島紡績所

鹿児島紡績所
かごしまぼうせきじょ

幕末,薩摩藩が鹿児島に設立した日本最初の洋式機械紡績工場
1867年,藩主島津忠義がイギリスから機械と技師を導入して操業。のち変遷を経て島津家の個人所有となったが,経営不振のため '97年閉鎖した。
葛西氏
かさいし @@@LINK=葛西氏 葛西氏

葛西氏
かさいし

奥羽の戦国大名
下総葛西庄よりおこる。清重のとき源頼朝の奥州征討に従い,のち奥州総奉行に任命された。南北朝時代には,初め南朝,のち北朝方となり,伊達氏と並ぶ奥州の大名となる。1590年豊臣秀吉の小田原征討に遅参したため,30余万石の所領を没収されたので,秀吉に抗戦し滅亡した。
葛西善蔵
かさいぜんぞう @@@LINK=葛西善蔵 葛西善蔵

葛西善蔵
かさいぜんぞう

1887〜1928
大正時代の小説家
青森県の生まれ。1912年広津和郎らと同人誌『奇蹟』を発刊。処女作『哀しき父』を発表し,『子をつれて』で地位確立生活苦にあえぎ,自虐的な私小説を書いた。

笠懸
かさがけ @@@LINK=笠懸 笠懸

笠懸
かさがけ

鎌倉時代より武士に愛好された武技の一つ
走っている馬上から笠または的を射る競技で,犬追物や流鏑馬 (やぶさめ) と並んで,武士の子弟の鍛練のために愛好された。
笠置山
かさぎやま @@@LINK=笠置山 笠置山

笠置山
かさぎやま

京都府南部にある小山。山上に笠置寺がある
1331年後醍醐 (ごだいご) 天皇は元弘の変でこの地にのがれ,笠置寺の衆徒参集の地方武士とともに防戦したが幕府軍に敗れ,捕らえられて六波羅を経て隠岐 (おき) に流された。
借上
かしあげ @@@LINK=借上 借上

借上
かしあげ

鎌倉末期から室町初期にかけての金融業者
貨幣経済の進展とともに,凡下 (ぼんげ) (一般庶民)の中でを蓄えた者が高利貸業を営んだ。しだいに,窮乏した御家人の所領をも蚕食するようになったので,鎌倉幕府は1239(延応元)年地頭が借上を代官とすることを禁じ,'40年には凡下借上が領地を買うことを抑制しようとしたが失敗。室町中期以降は土倉が金融業者の称呼として一般的に用いられ,借上の語は消滅した。
加持祈禱
かじきとう @@@LINK=加持祈禱 加持祈禱

加持祈禱
かじきとう

密教の秘法
加持とは,仏の慈悲知恵を信仰する人に感得させることで,そのためには手に仏の印を結び(身密),口に仏の真言を唱え(口密),心も仏の心境になる(意密),という三密を行うことを必要とする。祈禱とは,心願をおこして仏菩薩に祈り求めることで,主として除災・治病などの現世利益を求める場合にいう。加持が祈禱と同義にとらえられ併称されるようになった。
賢所
かしこどころ @@@LINK=賢所 賢所

賢所
かしこどころ

三種の神器のうち八咫鏡 (やたのかがみ) が奉安される宮中祭殿
宮中三殿の一つ。内侍所 (ないしどころ) ともいう。八咫鏡は皇祖神天照大神 (あまてらすおおみかみ) の御魂代 (みたましろ) として祭られる。
加地子
かじし @@@LINK=加地子 加地子

加地子
かじし

名田 (みようでん) の耕作に従う作人・百姓が,領家に対する年貢のほかに名主に対して納めた作料
中世,名主が農業経営から遊離し,その所有地を一般農民に耕作させるようになると,荘園領主への年貢を直接上納させ,自分には一定の得分を納めさせた。この得分を加地子といい,このような名主を加地子名主といった。
橿原宮
かしはらのみや @@@LINK=橿原宮 橿原宮

橿原宮
かしはらのみや

記紀による第1代神武天皇大和を平定した後,畝傍 (うねび) 山麓に定めたとされる皇居
ここで即位した年が日本紀元の元年とされている(紀元前660年)。現在この地(奈良県橿原市)に橿原神宮があり,神武天皇を祭る。例祭は2月11日。
鹿島神宮
かしまじんぐう @@@LINK=鹿島神宮 鹿島神宮

鹿島神宮
かしまじんぐう

茨城県鹿嶋市にある神社。祭神は武神の武甕槌命 (たけみかずちのみこと)
初め地方神であったが,大和政権による東国の開発が進むにつれ中央にも尊崇される神となった。のち中臣氏(藤原氏)の氏神となり奈良春日神社に合祀された。中世以降武士に崇敬され,各地分社が創設された。
加島屋
かじまや @@@LINK=加島屋 加島屋

加島屋
かじまや

江戸時代の大坂の豪商
寛永(1624〜44)ごろから大坂御堂前で米問屋を始め,両替商も兼営した。のち十人両替に任命された。諸藩の蔵元・掛屋になり大名貸で鴻池 (こうのいけ) と並び称された。明治維新には新政府のため財政援助を行ったが,やがて没落した。
過所
かしょ @@@LINK=過所 過所

過所
かしょ

関所通過の許可証
中世には誤って「過書」とも書いた。律令国家は軍事的目的をもつ関所の通過許可書(過所)を発行。中世になり,関銭目あての関所が設されると,関銭免除を含む通行証を,朝廷・幕府・荘園領主・守護・地頭のちには戦国大名などが発行した。江戸時代には「往来手形」「関所手形」などといわれた。
可笑記
かしょうき @@@LINK=可笑記 可笑記

可笑記
かしょうき

江戸前期,如儡子 (じよらいし) の仮名草子
1636年刊。5巻。
過書船
かしょぶね @@@LINK=過書船 過書船

過書船
かしょぶね

江戸時代,淀川を運航した貨物・乗客を運ぶ船
「過所船」とも書く。もとは広く過所を所持する船を過所船といったが,1603年に徳川家康が過書船奉行を置き,運上を課し,運賃を定めた。伏見・大坂間を上り1日または1夜,下り半日または半夜で航行した。
梶原景時
かじわらかげとき @@@LINK=梶原景時 梶原景時

梶原景時
かじわらかげとき

?〜1200
鎌倉初期の武将
景清の子。初め平家方に属したが,石橋山の戦い(1180)で源頼朝を救ったことから頼朝の信任を得た。侍所所司・厩別当となり,頼朝死後も有力御家人として幕政合議に参加。性来機敏で弁舌巧みであったが,'99年結城朝光を讒してかえって有力御家人の反感をかい謀反人とされ失脚。その後武田有義を将軍に擁して幕府に対抗しようとしたが,翌年追討軍のため一族とともに討死した。

恋川春町
こいかわはるまち @@@LINK=恋川春町 恋川春町

恋川春町
こいかわはるまち

1744〜89
江戸中期の黄表紙作者・狂歌師
駿河小島藩の留守居役として江戸に在住居所である江戸の小石川春日町をもじって,恋川春町と名づけた。狂名酒上不埒 (さけのうえのふらち) 。『金々先生栄花夢』などにより黄表紙を流行させた。また浮世絵,草双紙の挿絵も書いた。

小石川薬園
こいしかわやくえん @@@LINK=小石川薬園 小石川薬園

小石川薬園
こいしかわやくえん

江戸幕府の薬草園
初め1638年徳川家光が創設。'84年綱吉のとき,小石川白山に移し,名も小石川薬園とした。1721年8代将軍吉宗は実学奨励の見地から拡充し,'22年には目安箱 (めやすばこ) への投書により園内に小石川養生所を設置した。現在は小石川植物園。
小石川養生所
こいしかわようじょうしょ @@@LINK=小石川養生所 小石川養生所

小石川養生所
こいしかわようじょうしょ

江戸中期,小石川薬園内に設けられた病院
1722年徳川吉宗が目安箱 (めやすばこ) による町医者小川笙船 (しようせん) の建言により設立。町奉行の支配に属し,施療を行った。
小泉八雲
こいずみやくも @@@LINK=小泉八雲 小泉八雲

小泉八雲
こいずみやくも

1850〜1904
明治時代の小説家・英文学者
本名はラフカディオ=ハーン(Lafcadio Hearn)。ギリシア生まれのイギリス人で,1890年特派記者として来日。同年英語教師として島根県松江中学校に勤め,小泉セツ(節)と結婚した。'96年帰化し,小泉八雲と改名。のち東京大学・早稲田大学の講師となり英文学を講じた。日本文化に関心をもち,日本関係の作品『怪談』など著書多数。

小磯国昭内閣
こいそくにあきないかく @@@LINK=小磯国昭内閣 小磯国昭内閣

小磯国昭内閣
こいそくにあきないかく

太平洋戦争末期,小磯国昭(1880〜1950)を首班とする内閣(1944〜45)
1944年7月,東条英機内閣退陣後に組閣。最高戦争指導会議を設け,戦局の回復や終戦工作を行うが失敗し,'45年4月総辞職。
五・一五事件
ご・いちごじけん @@@LINK=五・一五事件 五・一五事件

五・一五事件
ご・いちごじけん

1932(昭和7)年5月15日,海軍青年将校らによるクーデタ事件
井上日召を中心とする血盟団の影響をうけた,急進派の海軍青年将校が陸軍士官学校生徒や愛郷塾生らと結びクーデタを計画。首相官邸を襲い犬養毅首相を暗殺したほか,日本銀行・警視庁・政友会本部などを襲撃した。ロンドン軍縮会議,不況による農村疲弊を背景に,政党政治を攻撃し,軍国主義的国家改造を行おうとしたもので,軍部は事件を政治的進出に利用し,斎藤実 (まこと) 挙国一致内閣を成立させ,政党内閣は終わりを告げた。
後一条天皇
ごいちじょうてんのう @@@LINK=後一条天皇 後一条天皇

後一条天皇
ごいちじょうてんのう

1008〜36
平安中期の天皇(在位1016〜36)
一条天皇第2皇子。母は藤原道長の娘彰子 (しようし) 。在位中は道長・頼通が摂政・関白で,藤原氏の全盛期であった。

古医方
こいほう @@@LINK=古医方 古医方

古医方
こいほう

江戸中期におこった漢方医学の一派
名古屋玄医が臨床実験を重んじて,元・明代の李朱(李杲 (りこう) ・朱震享 (しゆしんきよう) )医学の空理・空論を排し,漢代医学への復古を主張した。後藤艮山 (こんざん) ・吉益東洞・山脇東洋もこの派の出身。

こう @@@LINK=興 興


こう

生没年不詳
5世紀に中国に朝貢した倭の五王の一人。安康天皇に比定されている。

こう @@@LINK=講 講


こう

宗教的・経済的な共同団体組織
本来は仏教の経論講読の会を意味したが,やがて信仰によって結ばれた集団をさす。中世,社寺参詣の風が盛んになると,相互金融の役割も果たした(伊勢講・大師講など)。また経済的な目的のため,頼母子講などの講組織がみられるようになった。

ごう @@@LINK=郷 郷


ごう

律令制下,地方行政区画の末端組織。
弘安の役
こうあんのえき @@@LINK=弘安の役 弘安の役

弘安の役
こうあんのえき

1281(弘安4)年,2度目の蒙古襲来事件。
庚寅年籍
こういんねんじゃく @@@LINK=庚寅年籍 庚寅年籍

庚寅年籍
こういんねんじゃく

690年(庚寅の年),持統天皇により飛鳥浄御原令に基づいて作成された戸籍
庚午年籍に続く公民支配の根本台帳で,以後6年ごとに戸籍を作成し,それに基づいて班田を行う制度が確立した。
公営田
くえいでん @@@LINK=公営田 公営田
こうえいでん @@@LINK=公営田 公営田

公営田
くえいでん

平安前期,大宰府管内に置かれた直営田
「こうえいでん」とも読む。極度の租税滞納に対処するため,823年大宰大弐小野岑守 (みねもり) の建議により行われた。管内の良田1万町歩を選び公営田とし,6万余人の徭丁を動員し耕作させた。種子などの諸経費は官が用意し,耕作者は調・庸などを免除されたが,収穫物は大宰府が取得した。

公営田
こうえいでん

くえいでん
広益国産考
こうえきこくさんこう @@@LINK=広益国産考 広益国産考

広益国産考
こうえきこくさんこう

江戸後期,大蔵永常の農学書
8巻。初め『国産考』として1842年出版,その後『広益国産考』と改題し,'59年全巻刊行。商品経済の発達に対応して,農家経営の安定向上をはかり,それを通じて広く国益増進をはかろうとした当代の農学思想の一異彩である。
公害
こうがい @@@LINK=公害 公害

公害
こうがい

大気・河川・海湾の汚染,騒音,振動,地盤低下,鉱毒など,国土・資源の利用や地域計画・都市計画などによって発生した社会的災害
公害がクローズアップされた時期は三つある。第一は産業革命の時期で,足尾銅山・別子銅山の鉱毒事件,大阪市の煤煙問題などが主要なもの。第二は,第一次世界大戦中〜戦後で,資源開発に伴うダム災害など,この時期は重化学工業を中心に独占が進み,同時に都市問題が続出した。第三は1960年代以降の高度成長の時期で,一・二の時期に比べて次の三つの特徴がある。その一つは公害の発生回数が圧倒的に多くなったこと。二つには,技術革新や都市化の進展によって現れ方が複雑となり,種類がふえたこと。たとえば目に見える黒煙や煤煙から亜硫酸ガスや悪臭などの被害にかわり,交通マヒ・清掃マヒなどの新種が登場した。三つめは,公害の影響する範囲が広域に及んでいること。すなわち工場公害から都市公害へ,さらに全国的に拡大している。こうして公害は人体への影響だけでなく,自然を破壊するものとして大きな問題となっている。
黄海海戦
こうかいかいせん @@@LINK=黄海海戦 黄海海戦

黄海海戦
こうかいかいせん

①日清戦争の一海戦
②日露戦争の一海戦
1894年9月17日,黄海で行われた日本連合艦隊と清国北洋艦隊との戦い。合戦4時間余で日本連合艦隊は清国北洋艦隊に大損害を与え,黄海の制海権を握り,朝鮮への陸軍輸送を安全にした。
1904年8月10日,黄海で行われた日本連合艦隊とロシア太平洋艦隊との戦い。日本はロシア艦隊に打撃を与え,旅順脱出をはばみ制海権を握った。
公害対策基本法
こうがいたいさくきほんほう @@@LINK=公害対策基本法 公害対策基本法

公害対策基本法
こうがいたいさくきほんほう

公害対策の総合的推進を図るために1967年に制定された法律
経済調和条項への批判が高まり,1970年に全面改正され,調和条項が削除された。'93年地球環境問題に対応した環境基本法が新たに制定されると,廃止された。
広開土王碑
こうかいどおうのひ @@@LINK=広開土王碑 広開土王碑

広開土王碑
こうかいどおうのひ

好太王碑 (こうたいおうひ)
郷学
ごうがく @@@LINK=郷学 郷学

郷学
ごうがく

江戸後期〜明治初期における教育機関の一つ
郷校ともいう。郷学には次の2種類があった。(1)領内辺遠地や分散している藩士子弟のための学校で藩校に準じるもの。(2)幕藩や代官・民間有志が設立した庶民教育施設。池田光政の手習所(閑谷 (しずたに) 学校)が最初幕末期に急増した。
工学寮
こうがくりょう @@@LINK=工学寮 工学寮

工学寮
こうがくりょう

工部大学校の前身
江華条約
こうかじょうやく @@@LINK=江華条約 江華条約

江華条約
こうかじょうやく

日朝修好条規
江華島事件
こうかとうじけん @@@LINK=江華島事件 江華島事件

江華島事件
こうかとうじけん

1875(明治8)年,日本軍艦雲揚が朝鮮漢江河口の江華島付近で砲撃された事件
鎖国政策をとる朝鮮との国交を強く要求していた日本は,これをきっかけに全権大使黒田清隆らを送り,武力的威圧のもとに,1876年日本優位の日朝修好条規を締結し,朝鮮を開国させた。
甲賀者
こうがもの @@@LINK=甲賀者 甲賀者

甲賀者
こうがもの

近江国甲賀郡の地侍の総称
江戸幕府に仕え鉄砲隊の同心となった。伊賀者とともに幕府の隠密活動に従事した。
合巻
ごうかん @@@LINK=合巻 合巻

合巻
ごうかん

江戸後期の草双紙の一つ
黄表紙合巻本ので,従来5丁(10ページ)1冊のものを,数冊合わせて長編物の需要に応じた。表紙には美しい錦絵を用い,歌舞伎・浄瑠璃に題材を求めた。柳亭種彦の『偐紫田舎源氏 (にせむらさきいなかげんじ) 』が特に好評で,ほかに滝沢馬琴・山東京伝らが著名。
公議所
こうぎしょ @@@LINK=公議所 公議所

公議所
こうぎしょ

明治維新当初の立法機関
各藩の意向を統合するため,貢士 (こうし) 対策所に代わる議事機関として,1869年3月に開設。各藩よりの公議人(任期4年)を議員としたが,保守的傾向が強く,また内部対立もあり,形式的活動しかできず,同年7月には集議院に改組された。
公議政体論
こうぎせいたいろん @@@LINK=公議政体論 公議政体論

公議政体論
こうぎせいたいろん

幕末,衆議による政体樹立の主張
土佐藩は,坂本竜馬の「船中八策」に基づき,従来の公議世論・列藩会議論に欧米の議会政治思想を導入し,幕府の独裁をやめ,天皇のもとに将軍徳川慶喜 (よしのぶ) を議長とする列藩会議を開催することを主張し,大政奉還を成功させた。その後の五箇条の誓文における万機公論,政体書における三権分立などにもこの思想が反映されている。
興業意見
こうぎょういけん @@@LINK=興業意見 興業意見

興業意見
こうぎょういけん

明治中期,政府が各地の調査報告に基づき殖産興業の方策を公示した書
農商務省勤務の前田正名の編。1884年完成。30巻。明治初めの産業の実態を知るうえで貴重な記録。
興業銀行
こうぎょうぎんこう @@@LINK=興業銀行 興業銀行

興業銀行
こうぎょうぎんこう

日本興業銀行」の略称
硬玉
こうぎょく @@@LINK=硬玉 硬玉

硬玉
こうぎょく

輝石属の一種で,緑色の光沢があり半透明または透明の石
翡翠 (ひすい) ともいう。硬度7。縄文時代中期から古墳時代にかけて,勾玉 (まがたま) などの玉に加工された。原産地として新潟県姫川の支流小滝川流域が確認されている。
皇極天皇
こうぎょくてんのう @@@LINK=皇極天皇 皇極天皇

皇極天皇
こうぎょくてんのう

594〜661
7世紀半ばの女帝(在位642〜645)
舒明天皇の皇后。天智・天武両天皇の母。645年蘇我氏失脚直後,弟の孝徳天皇に譲位したが,孝徳天皇没後,655年重祚 (ちようそ) して斉明天皇(在位655〜661)となり,中大兄 (なかのおおえ) 皇子(のちの天智天皇)らの補佐で改新政治を推進。百済 (くだら) 救援のため九州におもむいたが,筑紫(福岡県)の朝倉宮で没した。
皇居前広場事件
こうきょまえひろばじけん @@@LINK=皇居前広場事件 皇居前広場事件

皇居前広場事件
こうきょまえひろばじけん

メーデー事件
郷蔵
ごうくら @@@LINK=郷蔵 郷蔵

郷蔵
ごうくら

江戸時代,年貢米の保管や備荒貯穀のため農村に設けた倉庫
最初は年貢米の分散,あるいは一時的収納を目的としたが,天明飢饉(1782〜87)後は備荒用倉庫の面が強くなった。凶年ばかりでなく,平年にも貯米の貸与・給与が行われた。
高句麗
こうくり @@@LINK=高句麗 高句麗

高句麗
こうくり

古代,中国東北部・朝鮮半島北部にあったツングース人の国家(前1世紀ころ〜後668)
1世紀末ごろから部族連合国家を形成,以後勢力を伸ばし,313年楽浪 (らくろう) 郡を併合。好太王(広開土王)のとき,百済 (くだら) および日本と交戦。以後2代を含めた4世紀末から6世紀初めにかけて全盛期を迎える。6世紀末の隋の煬帝 (ようだい) の侵略を退けたが,668年唐と新羅 (しらぎ) の連合軍によって滅ぼされた。
高家
こうけ @@@LINK=高家 高家

高家
こうけ

江戸幕府の職名
幕府の儀式・典礼,朝廷に対する儀式・使者・接待などにあたり,伊勢・日光の代参などをつとめた。高家とは,元来家柄のよい家のことで,1万石以下であるが,官位は大名に準じた。吉良・今川・織田氏など室町時代以来の名門の子孫で,一時は26家にも及んだ。
康慶
こうけい @@@LINK=康慶 康慶

康慶
こうけい

生没年不詳
平安末期・鎌倉初期の仏師
運慶の父。仏師康朝に師事。奈良仏師の中心人物で,治承の兵火で焼失した奈良の興福寺南円堂の諸仏像を再興。京都にも進出して活躍した。南円堂の『不空羂索 (ふくうけんじやく) 観音像』,東大寺の『伎楽 (ぎがく) 面』などの作品がある。
江家次第
ごうけしだい @@@LINK=江家次第 江家次第

江家次第
ごうけしだい

平安後期,大江匡房 (まさふさ) が著した有職故実 (ゆうそくこじつ) 書
『江次第』ともいう。1111年成立。21巻(現存19巻)。江家とは大江氏のこと。関白藤原師通 (もろみち) の依頼で当時の朝廷の儀式について書いた。
孝謙天皇
こうけんてんのう @@@LINK=孝謙天皇 孝謙天皇

孝謙天皇
こうけんてんのう

718〜770
奈良時代の女帝(在位749〜758)
聖武天皇第2皇女。母は光明皇后。聖武天皇から譲位され,在位中に東大寺大仏開眼会挙行。初め藤原仲麻呂を重用したが,淳仁天皇に譲位したのち,道鏡を寵愛したため藤原仲麻呂が乱をおこした(恵美押勝の乱)。乱後,淳仁天皇を退位させ,重祚 (ちようそ) して称徳天皇(在位764〜770)と称した。
神籠石
こうごいし @@@LINK=神籠石 神籠石

神籠石
こうごいし

山のを取り巻くように数 ㎞ にわたって方形の切石を配列した,古代の特殊遺構
福岡県・佐賀県・山口県に9か所その存在が知られている。霊域説もあるが,山城説が有力。築造年代は技術上から横穴式石室がつくられたころ(7世紀ころ)と推定される。
光孝天皇
こうこうてんのう @@@LINK=光孝天皇 光孝天皇

光孝天皇
こうこうてんのう

830〜887
平安前期の天皇(在位884〜887)
仁明 (にんみよう) 天皇第3皇子。母は藤原北家の支流出身の沢子。陽成天皇の廃位後,藤原基経らに擁立されて55歳で即位,基経を実質上の関白とした。

考古学
こうこがく @@@LINK=考古学 考古学

考古学
こうこがく

遺跡・遺物の発掘により,人類の歴史を科学的に研究する学問
archaeologyの訳語で,「古物の学問」という意味のギリシア語archaiologiaに由来する。文献史学・民俗学と並んで広義の歴史学の一分野。一般に文献や記録の少ない原始・古代が対象とされるが,必ずしも時代の新古は問わない。歴史時代でも考古学によって史実の確実性と具体性が得られる。
江湖新聞
こうこしんぶん @@@LINK=江湖新聞 江湖新聞

江湖新聞
こうこしんぶん

1868年,江戸で福地源一郎らが発行した佐幕派の新聞
木版のパンフレット型。明治維新政府に批判的であり,第16集の「強弱論」は筆禍にあい,新聞も発行禁止となった。創刊から約2か月足らず続き,22集で発行を停止した。
庚午年籍
こうごねんじゃく @@@LINK=庚午年籍 庚午年籍

庚午年籍
こうごねんじゃく

670年(庚午 (かのえうま) の年),天智天皇が制定した日本最初の全国的戸籍
一片も現存しないが,それまで屯倉 (みやけ) など一でつくられていた戸籍が全国的にととのったことが後世の史料によって確認される。これにより班田収授が全国的に実施可能となった。後世戸籍の規範とされ,永久保存とされた。
甲午農民戦争
こうごのうみんせんそう @@@LINK=甲午農民戦争 甲午農民戦争

甲午農民戦争
こうごのうみんせんそう

1894〜95年,朝鮮半島南部におこった農民反乱。日清戦争のきっかけとなる
東学党の乱ともいう。東学党とはカトリック教(西学)に対して,朝鮮民衆の間に広がっていった民間宗教団体。農民一揆をきっかけとして武装蜂起,半島南部一帯に拡大。李朝政府はこれを鎮圧することができず,清国に援助を要請し,ついで日本も出兵した。これが誘因となって日清戦争がおこった。
郷戸・房戸
ごうこ・ぼうこ @@@LINK=郷戸・房戸 郷戸・房戸

郷戸・房戸
ごうこ・ぼうこ

律令制下の地方行政の末端組織
郷戸は律令ので,戸が50戸集まって1里(のち郷)となるので,郷戸という。班田収授・租税徴収などの基本単位である。郷戸は平均20〜30人よりなり,大きなものは100名をこえ,非血縁寄口 (きこう) や奴婢 (ぬひ) も含まれていた。その中には10人前後の血縁からなる小家族を数戸含んでいることもあり,これを房戸という。生活の基本体は房戸であったとするが有力である。
光厳天皇
こうごんてんのう @@@LINK=光厳天皇 光厳天皇

光厳天皇
こうごんてんのう

1313〜64
鎌倉末期の天皇(在位1331〜33)
後伏見天皇の皇子。持明院統。1331年,元弘の変で隠岐に流された後醍醐 (ごだいご) 天皇に代わり,北条高時に擁せられて即位。'33年幕府滅亡とともに退位したが,'36年足利尊氏により弟光明天皇が立てられるとともに院政を始め,北朝を開いた。

高札
こうさつ @@@LINK=高札 高札

高札
こうさつ

法度・掟書・犯罪人の罪状などを板書し,交通量の多い市場や辻に立てた制札
立札ともいう。中世末期から明治初期まで用いられ,封建支配者が庶民に法令を徹底させることを目的とした。江戸時代に最も盛ん。1873(明治6)年廃止された。
講座派
こうざは @@@LINK=講座派 講座派

講座派
こうざは

昭和前期,マルクス主義理論家の一学派
野呂栄太郎らの編集で『日本資本主義発達史講座』を岩波書店より刊行(1932〜33)したが,この執筆者たちをいう。彼らは封建制の残存を強く考え,明治維新は天皇制絶対主義の成立と考え,当面はブルジョワ革命課題であるとして,労農派と日本資本主義論争を展開した。この理論は日本共産党の32年テーゼを支えた。
高山国
こうざんこく @@@LINK=高山国 高山国

高山国
こうざんこく

16世紀,台湾に対する呼び名
当時の台湾は西部および北部大陸からの移住民と,高砂 (たかさご) と呼ばれる人々が住む未開の地であった。1593年豊臣秀吉は高山国に原田孫七郎を使者として,入を要求する文書を送ったが不成功に終わった。清朝以後は台湾と公称
高山寺
こうざんじ @@@LINK=高山寺 高山寺

高山寺
こうざんじ

京都市右京区にある真言宗御室 (おむろ) 派の寺
もと天台宗の度賀尾寺といったが廃絶し,1206年高弁明恵 (こうべんみようえ) が後鳥羽上皇の院宣を奉じて再興,高山寺と号し華厳宗興隆の道場とした。その後応仁の乱により荒廃したが,織田・豊臣氏によって復興された。寺内の石水院は国宝。その他『鳥獣戯画』『明恵上人像』(以上国宝)など文化財も多い。
貢士
こうし @@@LINK=貢士 貢士

貢士
こうし

明治初年の議事官
藩主の推薦により藩論を代表し,1868年公議機関として設けられた「下の議事所」の議事に参加。政体書が公布されると議政官下局の議員となり,さらに公議所の議員(公議人)となり政府・諸藩の連絡を担当した。
郷士
ごうし @@@LINK=郷士 郷士

郷士
ごうし

江戸時代,農村に居住した武士の総称
辺境の外様大名領に多い。家臣を土着させた者,旧家土豪で苗字帯刀を許された者,献金などで士分に取り立てられた者などがあった。土佐藩の百人衆,薩摩藩の外城衆,肥後熊本藩の一領一匹は有名。1872(明治5)年太政官布告により士族となった。
江次第抄
ごうしだいしょう @@@LINK=江次第抄 江次第抄

江次第抄
ごうしだいしょう

室町中期,一条兼良 (かねら) の有職故実 (ゆうそくこじつ) 書
現存7巻。大江匡房 (まさふさ) の『江家次第』を抄出して,利用者の指針として解釈したもの。
皇室財産
こうしつざいさん @@@LINK=皇室財産 皇室財産

皇室財産
こうしつざいさん

皇室の私的財産
岩倉具視らの主張により皇室財産は急増し,天皇制の経済的基礎が確立した。1881年の皇室御料地634町歩は,9年後の'90年には365.4万町歩と実に約6000倍に急増し,土地以外の株券貨幣などの動産を合わせると皇室は巨大な地主資本家となった。第二次世界大戦後,1947年日本国憲法により皇室の私有財産を除きすべて国有とされ,皇居などは国が皇室の用に供するという形になった。
皇室典範
こうしつてんぱん @@@LINK=皇室典範 皇室典範

皇室典範
こうしつてんぱん

皇室関係における重要事項を規定した基本法
1889年大日本帝国憲法公布と同時に制定。皇位継承・践祚・即位・摂政・皇室経費などが規定され,その改正は皇族会議枢密院への諮問だけで勅定された。第二次世界大戦後廃止されたが,1947年新憲法のもとで一般の法律として修正成立した。
皇室領
こうしつりょう @@@LINK=皇室領 皇室領

皇室領
こうしつりょう

明治時代以前の皇室の直轄地
畿内に多く分布し,時代により名称を異にする。大化以前の屯倉 (みやけ) ・屯田 (みた) ,律令制度下の官田,平安時代の勅旨田がこれにあたる。国衙 (こくが) 領や荘園にもあった。織田信長豊臣秀吉は御領を献上。江戸幕府は5代将軍徳川綱吉までに合計約3万石を,慶喜 (よしのぶ) に至って山城国23万石を献上した。明治維新で廃止
甲州道中
こうしゅうどうちゅう @@@LINK=甲州道中 甲州道中

甲州道中
こうしゅうどうちゅう

江戸時代,五街道の一つ
甲州街道ともいう。江戸の内藤新宿から甲府までの38宿駅。中山道と合流する下諏訪まで(6宿場)を加える用例が多い。また宿駅の数え方も諸説がある。途中,小仏関所があった。
甲州法度之次第
こうしゅうはっとのしだい @@@LINK=甲州法度之次第 甲州法度之次第

甲州法度之次第
こうしゅうはっとのしだい

戦国時代,武田氏の分国法
信玄家法ともいう。上下2巻。上巻は1547年武田信玄の制定した分国統治規定55条を主とし,若干の追加を含んだもので,下巻家訓である。家臣団統制や治安警察の規定などに,戦国時代特有の武断的色彩が強く現れている。
広州湾
こうしゅうわん @@@LINK=広州湾 広州湾

広州湾
こうしゅうわん

中国広東 (カントン) 省南西部の湾
東南アジア諸国との重要な貿易港湛江がある。1898年フランスに占領され,三国干渉の報酬として翌年租借地となり,インドシナ総督の管轄下に置かれた。しかしフランスはその経営にあまり熱心でなく,第二次世界大戦後の1946年,中国に返還された。
膠州湾
こうしゅうわん @@@LINK=膠州湾 膠州湾

膠州湾
こうしゅうわん

中国山東半島南西部にある湾
1898年,ドイツが租借。日本は第一次世界大戦に参戦した際に占領,1915年二十一カ条要求の中で,膠州湾の還付と交換に山東省の旧ドイツ利権の継承を中国に強要した。パリ講和会議では中国の反対を無視して日本の主張が承認されたが,'22年の九カ国条約により中国に返還された。
交詢社
こうじゅんしゃ @@@LINK=交詢社 交詢社

交詢社
こうじゅんしゃ

明治前期の官吏・知識人・商工業者・地方地主らの社交クラブ
1880年福沢諭吉を中心に馬場辰猪・矢野竜溪らが創設。全国で1800余名の会員を擁し,『交詢雑誌』を発行。政治的には中産階級を基盤として自由党系と対立した。雑誌45号に「交詢社憲法案」(私擬憲法)を発表。明治十四年の政変後は官吏の多くが退社し,実業家が中心になった。
康勝
こうしょう @@@LINK=康勝 康勝

康勝
こうしょう

生没年不詳
鎌倉初期の仏師
運慶の4男で七条仏所を継ぐ。奈良仏師系統で,東大寺・興福寺再興に際し活躍した。代表作の京都六波羅蜜寺蔵『空也上人像』は鎌倉彫刻傑作
考証学派
こうしょうがくは @@@LINK=考証学派 考証学派

考証学派
こうしょうがくは

江戸後期の儒学の一派
経書を中心とする古典の解釈を,主観を廃して,確実な典拠により実証的・考証的研究態度をもって古聖人の真意に迫ろうとする学派。中国,清代におこり,日本では18世紀後半に吉田篁墩 (こうとん) が唱え,歴史・地理・制度にも及び全盛期を迎えた。この考証的研究方法は国学にも影響を与えた。狩谷棭斎 (かりやえきさい) ・太田錦城・松崎慊堂 (こうどう) ・渋江抽斎らはこの派の代表的人物。
興譲館
こうじょうかん @@@LINK=興譲館 興譲館

興譲館
こうじょうかん

江戸時代,米沢藩の藩校
1697年藩主上杉綱憲 (つなのり) が設立した学校を前身とし,1776年藩主上杉治憲 (はるのり) (鷹山 (ようざん) )が細井平洲を招いて藩校として再興,興譲館と称した。
工場制手工業
こうじょうせいしゅこうぎょう @@@LINK=工場制手工業 工場制手工業

工場制手工業
こうじょうせいしゅこうぎょう

manufactureの訳語。資本制生産の最初の形態
工業技術を用い,作業場を設け,賃労働者を雇い分業による協業を行った。江戸後期に,桐生足利絹織物や和泉・尾張綿織物をはじめ,醸造業・鉱業などの生産に行われた。本格的発展は明治時代で,日本では産業革命以後も二重構造の下層に存続した。
工場払下概則
こうじょうはらいさげがいそく @@@LINK=工場払下概則 工場払下概則

工場払下概則
こうじょうはらいさげがいそく

1880年明治政府が発布し,官営事業払下げの契機となった法令。
工場法
こうじょうほう @@@LINK=工場法 工場法

工場法
こうじょうほう

大正・昭和期の労働者保護法規
大逆事件後,労働・社会運動に対する懐柔政策として,1911年第2次桂太郎内閣により日本最初の労働者保護法として制定公布されたが,資本家の反対で実施は '16年。12歳未満の者の就労禁止と女子および15歳以下の年少労働者の保護を眼目としていたが,適用範囲を15人以上の工場と危険な事業所としたため適用外の工場が多く,また幼年工の年齢・労働時間にも10歳以上,13時間(原則は12時間)などを認める例外規定があり,不徹底なものであった。'47年労働基準法公布により廃止
好色一代男
こうしょくいちだいおとこ @@@LINK=好色一代男 好色一代男

好色一代男
こうしょくいちだいおとこ

江戸中期,井原西鶴の浮世草子
1682年刊。8巻。好色物の代表作。主人公世之介が7歳にして恋を知り,60歳にして女護島遠征に船出するまでの54年間54章にわたる一代記で,町人の遊興生活と人間の美醜・粋を描出した。
好色一代女
こうしょくいちだいおんな @@@LINK=好色一代女 好色一代女

好色一代女
こうしょくいちだいおんな

江戸中期,井原西鶴の浮世草子
1686年刊。6巻。京都の公家の家に生まれた美貌な女の一代を,愛欲の歴史と変転という形で描いた。『好色一代男』『好色五人女』を経て,作者45歳の好色物の最後を飾る作品。
好色五人女
こうしょくごにんおんな @@@LINK=好色五人女 好色五人女

好色五人女
こうしょくごにんおんな

江戸中期,井原西鶴の浮世草子
1686年刊。5巻。実在した5組の恋愛事件に取材。「お夏と清十郎」「樽屋おせんと長左衛門」「おさんと茂右衛門」「八百屋お七と吉三郎」「おまんと源五兵衛」の封建社会の掟に縛られた悲劇を描いた。『好色一代男』『好色一代女』と並ぶ好色物の傑作。
公職追放
こうしょくついほう @@@LINK=公職追放 公職追放

公職追放
こうしょくついほう

第二次世界大戦後,GHQ により行われた民主化政策の一つ
1946年,GHQ の覚書により,職業軍人・戦争犯罪人・国家主義団体役員などが公職から追放されたが,'47年には地方政界・経済界・言論界にまで拡大。追放者は約21万人にも及んだ。朝鮮戦争後緩和され,サンフランシスコ平和条約の発効('52)により,全員が追放解除となった。
好色物
こうしょくもの @@@LINK=好色物 好色物

好色物
こうしょくもの

江戸時代浮世草子の一つの型
男女の愛欲生活の描写とするもので,代表的作者井原西鶴江島其磧らがいる。特に,西鶴の『好色一代男』をはじめとする一連の作品には,人間性回復を叫び,形式的な封建道徳から人びとを解放し,自由の精神を描こうとする態度がうかがえる。
庚申講
こうしんこう @@@LINK=庚申講 庚申講

庚申講
こうしんこう

江戸時代以降の庚申待を行う信仰組織
干支で庚申 (かのえさる) にあたる夜に仲間ごとに会合し,飲食して徹夜した(庚申待)。社交娯楽の場であるとともに「庚申無尽」のような金融の組織にもなった。
甲申事変
こうしんじへん @@@LINK=甲申事変 甲申事変

甲申事変
こうしんじへん

1884年12月,朝鮮の漢城(現ソウル)において独立党(親日派)が日本の援助で事大党(親清派)から政権を奪取しようとしたクーデタ
甲申の変ともいう。親日派の金玉均・朴泳孝らは清仏戦争(1884)での清の敗北に乗じて日本軍の援護のもとにクーデタを企てたが,事大党と清国軍の反撃をうけ,2日にして失敗に終わった。翌'85年,日清間に天津条約が結ばれ両国軍隊は朝鮮から撤兵した。
更新世
こうしんせい @@@LINK=更新世 更新世

更新世
こうしんせい

地質時代の時代区分の一つで,新世代の第四紀前半(約200万年前〜1万年前)にあたり,洪積世ともいう
気候が激変した時代で,4回ほど大氷河期があり,その間に温暖な間氷期が存在したが,この第1間氷期から第2氷期にかけて直立猿人が出現した。
皇親政治
こうしんせいじ @@@LINK=皇親政治 皇親政治

皇親政治
こうしんせいじ

奈良時代皇族が政治の要職を占めて行った政治
8世紀の初め太政大臣に相当する知太政官事が設置され,皇族が就任して政治を行った。刑部 (おさかべ) 親王・舎人 (とねり) 親王などの天武系皇族がこの職にあり,聖武朝の長屋王の変による長屋王の自殺で終わったと考えられる。
更新世人類
こうしんせいじんるい @@@LINK=更新世人類 更新世人類

更新世人類
こうしんせいじんるい

更新世の人類
日本では先土器文化をになった旧石器時代の人たちで,三ケ日人港川人などがこれにあたる。
荒神谷遺跡
こうじんだにいせき @@@LINK=荒神谷遺跡 荒神谷遺跡

荒神谷遺跡
こうじんだにいせき

島根県簸川 (ひかわ) 郡斐川町の丘陵上で発見された弥生時代中期の青銅製祭器の埋納遺跡
1984〜85年の発掘調査で銅剣358本,銅鉾16本,銅鐸6個を出土した。近くの加茂岩倉遺跡からも'96年39個の銅鐸が出土した。両遺跡から大量の銅剣・銅鐸が出土したことは,弥生時代の青銅製祭器の分布圏を考える上で,出雲地方の重要性を示している。
厚生新編
こうせいしんぺん @@@LINK=厚生新編 厚生新編

厚生新編
こうせいしんぺん

江戸後期,幕府の蕃書和解御用で翻訳された百科事典
フランス人ショメールの百科事典『日用百科事典』のオランダ語訳を和訳したもの。天体・動植鉱物・人間など日常生活上の377項を,小関三英・大槻玄沢・宇田川榕庵らが訳述した。1811年から30余年を要し,100巻にものぼる大著
公正取引委員会
こうせいとりひきいいんかい @@@LINK=公正取引委員会 公正取引委員会

公正取引委員会
こうせいとりひきいいんかい

独占禁止法を実施・運用するために設けられた行政機関
略称「公取委」。1947年7月1日設置。内閣総理大臣が・参両院の同意のもとに学識経験者5名を委員に任命。任期は5年。強い準司法的権限をもち,ダンピング・カルテル・生産量の協定などについて監視・勧告・審判を行う権限を有したが,年々その役割は低下してきている。
興禅護国論
こうぜんごこくろん @@@LINK=興禅護国論 興禅護国論

興禅護国論
こうぜんごこくろん

鎌倉初期,栄西 (えいさい) の著した宗教書
1198年刊。3巻。臨済宗の開祖栄西は伝道に際し,南都北嶺から迫害をうけた。その非難にこたえて禅宗こそ護国に必要なものであることを論じている。以心伝心・不立文字の真意についても述べている。

こうぞ @@@LINK=楮 楮


こうぞ

和紙の原料の一つ
奈良時代から利用され,紙の需要とともに室町時代から栽培が盛んとなった。江戸時代には四木三草の一つとして幕府諸藩が栽培を奨励した。土佐美濃越前紙などの主原料。
強訴
ごうそ @@@LINK=強訴 強訴

強訴
ごうそ

徒党を組んで訴えをおこし,それを強く主張する集団行動
平安後期,延暦寺の僧徒が日吉 (ひえ) 神社の神輿 (しんよ) を,興福寺の僧徒が春日神社の神木を奉じて入京,朝廷に対し要求を貫徹しようとしたことは僧兵の強訴として著名。また室町〜江戸時代における封建領主や幕府に対する農民の集団的要求行動も強訴と呼んだ。
豪族
ごうぞく @@@LINK=豪族 豪族

豪族
ごうぞく

ある地方に土着し,そこで権勢をふるう一族
大化以前には,中央に葛城大伴物部 (もののべ) ・蘇我氏などの大豪族と中小豪族の伴造 (とものみやつこ) があり,地方には国造 (くにのみやつこ) ・県主 (あがたぬし) などがあった。律令国家では中央豪族は貴族となって政治に参与し,地方豪族はだいたいそのまま存続し,郡司などに任命された。10世紀ごろから皇族・貴族で地方に土着し豪族となる者が出現。有力武士にはそのような豪族の出身者が多かった。
皇族将軍
こうぞくしょうぐん @@@LINK=皇族将軍 皇族将軍

皇族将軍
こうぞくしょうぐん

鎌倉幕府における親王出身の将軍(1252〜1333)
親王将軍・宮将軍ともいう。かねて皇族の将軍を望んでいた幕府は,執権北条時頼のとき,幕府転覆の陰謀を機に摂家将軍九条頼嗣を廃し,後嵯峨天皇の皇子宗尊 (むねたか) 親王を将軍に迎え,以後その子惟康 (これやす) 親王,後深草天皇の皇子久明親王,その子守邦親王と4代続いた。しかし実権はなく執権政治における名目だけの将軍にすぎなかった。
郷村制
ごうそんせい @@@LINK=郷村制 郷村制

郷村制
ごうそんせい

室町時代の中ごろより発達した村落制度
中世の農業経済の発展に伴って,商工業も進歩し,生産力の上昇と貨幣経済の進展に伴い荘園内部の農民生活も向上し,階層分化が促進された。荘園制のもとでは,荘園そのものが村落と一致する場合もあったが,一か村が数個の異なる荘園領主の支配をうける場合もあった。ことに生産力の高い畿内地方およびその周辺地域にこういう場合が少なくなかった。しかし,生産力の向上に伴って,あるいは用水の共同利用や山野入会 (いりあい) の共有などによって,地域的な共通利害に基づく村々相互の結合がしだいに高まってきた。その場合,村落内部に成長した農民の自治的団結体である惣が村の構成の中核となり,さらにいくつかの村々が律令制の郷制の規模で自治的に団結した。これを惣郷と呼んだ。そこで,解体した荘園制に代わる,このような村落のありさまを,今日,郷村制と呼んでいる。戦国大名は,給人に村落単位で知行を与える必要から郷村制を基盤として権力を構成しようと考え,豊臣秀吉の検地と刀狩によって,中世末期の郷村がもっていた自治権・抵抗力を奪い,郷村制を封建支配の行政機構に組み入れてしまった。
小歌
こうた @@@LINK=小歌 小歌

小歌
こうた

俗謡・俚謡 (りよう) など民間歌謡の総称
古く宮廷で行われた神楽 (かぐら) ・催馬楽 (さいばら) などの大歌に対していう。平安末期の雑芸 (ぞうげい) ・今様,室町〜安土桃山期の狂言小歌・隆達節,江戸期の弄斎節 (ろうさいぶし) などの小唄がそれで,いずれも庶民的感情を歌いあげたものである。
好太王碑
こうたいおうひ @@@LINK=好太王碑 好太王碑

好太王碑
こうたいおうひ

高句麗好太王広開土王)(在位391〜412)の功績をたたえた記念碑
広開土王碑ともいう。414年鴨緑江 (おうりよつこう) の北岸丸都城(中国吉林省集安 (しゆうあん) 県通溝)に建てられた。高さ約6.2mの長方形自然石で,その四面に碑文が刻まれている。日本の朝鮮半島進出および当時の朝鮮(高句麗と百済 (くだら) など)の様子を知るための重要な史料
高台寺蒔絵
こうだいじまきえ @@@LINK=高台寺蒔絵 高台寺蒔絵

高台寺蒔絵
こうだいじまきえ

安土桃山時代の代表的蒔絵
京都市東山区にある高台寺にちなんで名づけられた。高台寺は豊臣秀吉の夫人北政所 (きたのまんどころ) 高台院が秀吉の菩提を弔った寺で,蒔絵調度や膳部が現存する。秀吉と高台院を祭る霊屋 (たまや) の厨子扉は豪放な蒔絵装飾を施してある。
後宇多天皇
ごうだてんのう @@@LINK=後宇多天皇 後宇多天皇

後宇多天皇
ごうだてんのう

1267〜1324
鎌倉末期の天皇(在位1274〜87)
亀山天皇の第2皇子。大覚寺統。1287年退位後,持明院統の伏見・後伏見天皇が相ついで即位したため,鎌倉幕府に抗議し両統迭立 (てつりつ) を行わせた。大覚寺統の後二条・後醍醐 (ごだいご) 朝の11年間院政を行ったが,1321年院政を廃して後醍醐天皇の親政とした。'07年出家,以後仏道修行に専念した。

幸田露伴
こうだろはん @@@LINK=幸田露伴 幸田露伴

幸田露伴
こうだろはん

1867〜1947
明治〜昭和期の小説家・国文学者
本名は成行 (しげゆき) 。江戸の生まれ。処女作『露団々』『風流仏』『五重塔』など初期の作品は,人間の崇高さ,神秘な芸の力を描いた男性的・理想主義的作風で,写実派の尾崎紅葉に対して理想派といわれた。和・漢の諸学仏典に通じ,日露戦争後は随筆・史伝・考証で学界にも貢献した。1937年,第1回文化勲章受章。

江談抄
ごうだんしょう @@@LINK=江談抄 江談抄

江談抄
ごうだんしょう

平安末期の説話集
1106〜08年ころ成立。6巻。大江匡房 (まさふさ) の談話を藤原実兼 (さねかね) (通憲 (みちのり) の父)が筆記したもので,説話文学の先駆をなす。公事 (くじ) ・雑事・詩事などに分かれ,記録体の漢文にところどころ仮名をまじえている。平安中期の重要史料の一つ。
小袿
こうちぎ @@@LINK=小袿 小袿

小袿
こうちぎ

平安時代以降,女房装束の一つ
十二単 (じゆうにひとえ) の略装で,唐衣・裳の代わりに表着 (うわぎ) の上に着用した。表着・重袿 (かさねうちぎ) ・単 (ひとえ) などの袿類より,いくぶん小ぶりにつくられているので小袿という。男子の束帯に対する衣冠に相当する。
公地公民
こうちこうみん @@@LINK=公地公民 公地公民

公地公民
こうちこうみん

土地・人民の私有を許さないという律令制の原則
大化の改新で,屯倉 (みやけ) ・田荘 (たどころ) や部民を廃し,土地・人民を国有とした。この国有の土地が公地で,国有の人民が公民である。この制度の上に,班田収授制をしき,公民に口分田を給して,租・調などを負担させた。奈良時代の三世一身の法(723)・墾田永年私財法(743)以後,荘園が発達するとともに崩壊した。
行地社
こうちしゃ @@@LINK=行地社 行地社

行地社
こうちしゃ

大正末期・昭和初期の右翼団体。猶存社の後身
高地性集落
こうちせいしゅうらく @@@LINK=高地性集落 高地性集落

高地性集落
こうちせいしゅうらく

弥生時代中期〜後期,海抜200〜300mの山頂や丘陵上に設けられた集落
大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸に多く分布し,武器としての石器が大量に出土することなどから,集団間の軍事的緊張に備えた防御的集落と考えられる。弥生時代後期になると西日本一帯に拡大し,比較的低い眺望のよい丘陵上に設けられるようになった。
皇朝十二銭
こうちょうじゅうにせん @@@LINK=皇朝十二銭 皇朝十二銭

皇朝十二銭
こうちょうじゅうにせん

奈良・平安時代に鋳造・流通した12種の銭貨の総称
和同開珎 (かいちん) ・万年通宝・神功 (じんごう) 開宝(以上奈良時代),隆平永宝・富寿神宝・承和昌宝・長年大宝・饒益 (じようえき・にようえき) 神宝・貞観永宝・寛平 (かんぴよう) 大宝・延喜通宝・乾元 (けんげん) 大宝の12種。いずれも円形方孔で,表面に右回り4文字が配されている。流通範囲は畿内およびその周辺がおもで,主として貴族・豪族の間に流通したにすぎなかった。
公田
こうでん @@@LINK=公田 公田

公田
こうでん

律令制下の国家直属の田地で,口分田などの私田を給した残りの土地
乗田 (じようでん) ともいう。位田・職田・賜田・口分田・墾田などを私田(一定の条件で私的用益,占有ができる)と呼んだのに対する語。田令によると,国司の権限で1年を限度に一般農民に賃貸し,その地子太政官に送り,雑用にあてられた。平安時代になって班田制の崩壊とともに消滅した。また広義には大化の改新で収公した公有の土地をさし,平安時代以後は政府・国司の支配した公領(国衙領)をいう。
功田
こうでん @@@LINK=功田 功田

功田
こうでん

律令制下において勲功ある人に与えられた土地
功績により4等級に区分され,大功田は永世,上功田は曽孫,中功田は孫,下功田は子まで伝えることができた。輸租田であるが,ほとんど私有地のように扱われ,荘園化していった。
香道
こうどう @@@LINK=香道 香道

香道
こうどう

室町時代に成立した,一定の作法で香をたき鑑賞する芸道
平安時代の貴族間に薫物合 (たきものあわせ) などの遊戯があり,鎌倉末期,禅宗の盛行とともに,香木をたく風習が武家社会にも盛んとなった。室町末期に三条西実隆 (さんじようにしさねたか) (御家流)・志野宗信 (そうしん) (志野流)らの流派が生まれ,香道を確立した。
弘道館
こうどうかん @@@LINK=弘道館 弘道館

弘道館
こうどうかん

江戸末期,水戸藩の藩校
水戸藩には早くから『大日本史』の編修所として江戸に彰考館があり,藩校の設立は遅れたが徳川斉昭 (なりあき) のとき,1841年水戸に弘道館を設立。尊王攘夷の水戸学精神を鼓吹するとともに,洋学の技術をも教授した
講道館
こうどうかん @@@LINK=講道館 講道館

講道館
こうどうかん

江戸時代,高松藩の藩校
②明治中期,嘉納治五郎が創始した柔道普及・修業の中心道場
1780年に創設。朱子学兵学を講じた。
1882年,東京下谷区(台東区)北稲荷町永昌寺に開き,のち文京区春日の現在地に移り,講道館柔道の中心として発展した。
弘道館記
こうどうかんき @@@LINK=弘道館記 弘道館記

弘道館記
こうどうかんき

幕末,藤田東湖の著書
1838年刊。1巻。藩主徳川斉昭 (なりあき) の名で弘道館の開設の趣旨および教育方針を漢文で記したもの。神道儒学一致,文武兼備を主張し,尊王攘夷思想に基づく水戸学の理念を簡明に説いた。
弘道館記述義
こうどうかんきじゅつぎ @@@LINK=弘道館記述義 弘道館記述義

弘道館記述義
こうどうかんきじゅつぎ

幕末,『弘道館記』の内容を注釈した藤田東湖の著述
2巻。藩主徳川斉昭 (なりあき) の命により1846年完成。『弘道館記』とともに水戸藩の尊王攘夷論の代表的著作として,幕末・明治期の思想に大きな影響を与えた。
高等女学校令
こうとうじょがっこうれい @@@LINK=高等女学校令 高等女学校令

高等女学校令
こうとうじょがっこうれい

1899(明治32)年,女子教育確立のために出された勅令
1882年,東京女子師範付属高等女学校創設により,女子の中等学校を高等女学校と称するようになった。この制度を確立したのが高等女学校令である。修業年限は4年を基本とし,資格は12歳以上の。のち1920年の改正により5年制が認められ,戦後'48年に新制高等学校に改編された。
皇道派
こうどうは @@@LINK=皇道派 皇道派

皇道派
こうどうは

昭和前期,陸軍部内で統制派対立した一派
荒木貞夫真崎甚三郎らが中心となり形成。荒木の陸相就任(1931)で勢力を拡大した。尉官級の青年将校を主体とし,彼らは北一輝の影響をうけ,直接行動により天皇親政の国内改革を実現しようとはかり,佐官級中堅将校中心の統制派と対立した。真崎教育総監の罷免で対立が激化し,相沢事件('35),二・二六事件('36)をおこしたが,事件後,統制派が唱えた粛軍により没落した。
幸徳秋水
こうとくしゅうすい @@@LINK=幸徳秋水 幸徳秋水

幸徳秋水
こうとくしゅうすい

1871〜1911
明治時代の社会主義理論家
本名は伝次郎。高知県の生まれ。中江兆民に師事し自由民権思想の洗礼をうけ,のち社会主義者となる。1901(明治34)年社会民主党を結成。『平民新聞』を創刊し,日露戦争に反対して非戦論を主張。のち渡米しアナーキズムに傾き,帰国後,直接行動論を唱えた。'10年大逆事件の指導者として逮捕され,翌年絞首刑に処せられた。主著に『社会主義神髄』『廿世紀之怪物帝国主義』など。

孝徳天皇
こうとくてんのう @@@LINK=孝徳天皇 孝徳天皇

孝徳天皇
こうとくてんのう

597〜654
7世紀半ばの天皇(在位645〜654)
皇極天皇の同母弟。敏達 (びだつ) 天皇の曽孫。初め軽皇子 (かるのおうじ) と称した。645年蘇我氏の滅亡直後,推されて即位。皇太子中大兄 (なかのおおえ) 皇子,内臣 (うちつおみ) 中臣(藤原)鎌足らの補佐で大化の改新を推進。難波長柄豊碕宮 (ながらとよさきのみや) に遷都したが,のち中大兄と対立,その地で没した。

高度成長政策
こうどせいちょうせいさく @@@LINK=高度成長政策 高度成長政策

高度成長政策
こうどせいちょうせいさく

国民所得増加,産業規模の拡大を目的とする国民総生産増大策
1960年池田勇人 (はやと) 内閣は,所得倍増計画を中心に '64年の貿易自由化オリンピックをめざし生産の拡大をはかり,以後日本経済の成長率は毎年10%をこえた。'64年11月の佐藤栄作内閣はこれを引き継ぎ,公債発行により財政投融資を増加させるという経済成長策を続けた。その結果,日本経済と国民生活の繁栄の効果をあげたが,一方,各種の公害と物価騰貴をもたらし,'73年の石油ショック以降,大きく動揺し,政策転換を迫られることとなった。
抗日運動
こうにちうんどう @@@LINK=抗日運動 抗日運動

抗日運動
こうにちうんどう

排日運動①
抗日民族統一戦線
こうにちみんぞくとういつせんせん @@@LINK=抗日民族統一戦線 抗日民族統一戦線

抗日民族統一戦線
こうにちみんぞくとういつせんせん

国共合作
弘仁格式
こうにんきゃくしき @@@LINK=弘仁格式 弘仁格式

弘仁格式
こうにんきゃくしき

平安初期の法令集。三代格式の一つ
820年ころ成立。格10巻,式40巻。嵯峨天皇のにより藤原冬嗣らが編纂。701〜819年までの詔勅・官符を分類編集したもので,一部現存する。
弘仁・貞観文化
こうにん・じょうがんぶんか @@@LINK=弘仁・貞観文化 弘仁・貞観文化

弘仁・貞観文化
こうにん・じょうがんぶんか

平安初期の弘仁(810〜824)・貞観(859〜877)年間を中心に発展した文化
律令政治から摂関政治へと移りゆく政治情勢を反映して,唐文化がしだいに消化され,密教が興隆した。『凌雲集』『経国集』などの漢文学が栄え,また密教を基調とした美術作品が多く製作された。作風は神秘性に富み,厳粛で力強さが感じられ,特に彫刻は一木造・翻波式 (ほんぱしき) を特色とし,立体感・重量感に富む。代表的作品に,〔彫刻〕神護寺『薬師如来像』,室生寺釈迦如来像』,観心寺『如意輪観音像』,〔絵画〕高野山『赤不動』,青蓮院 (しようれんいん) 『青不動』,園城 (おんじよう) 寺『黄不動』,〔建築〕室生寺金堂・五重塔など。
光仁天皇
こうにんてんのう @@@LINK=光仁天皇 光仁天皇

光仁天皇
こうにんてんのう

709〜781
奈良末期の天皇(在位770〜781)
天智天皇の孫。桓武天皇の父。称徳天皇の死後,藤原百川 (ももかわ) ・永手らに擁立され,62歳で即位。道鏡を下野(栃木県)の薬師寺に追放するとともに,仏教偏重の諸制度を改め,不必要な令外官 (りようげのかん) を停廃し,軍団と兵士の制を縮小するなど民力の回復充実につとめた。律令再建の事業は桓武天皇に受け継がれた。

鴻池
こうのいけ @@@LINK=鴻池 鴻池

鴻池
こうのいけ

江戸時代,江戸の三井と並ぶ大坂豪商
代々善右衛門を襲名。摂津池田の酒造家で清酒で財をなし大坂に進出,廻船業を兼ねて発展。17世紀半ばから本両替を営み,十人両替に加わった。町人請負新田に着手し,鴻池新田を開発した。加賀・広島・阿波岡山・柳川5藩の掛屋,広島・岡山2藩の蔵元を兼ね,尾張・紀伊家の御用商人となり,多くの豪商が倒産した大名貸を32藩にも行い無事乗り切った。明治維新後,鴻池銀行(三和銀行前身)を創設した。
河野広中
こうのひろなか @@@LINK=河野広中 河野広中

河野広中
こうのひろなか

1849〜1923
明治・大正時代の政治家
陸奥(福島県)三春藩の郷士出身。自由民権運動に投じ,国会期成同盟・自由党の幹部として活躍。福島事件の主謀者として入獄。出獄後,代議士に第1回選挙以来連続14回当選し,その間衆議院議長・農商務相・憲政会幹部などを歴任した。

河野通有
こうのみちあり @@@LINK=河野通有 河野通有

河野通有
こうのみちあり

生没年不詳
鎌倉末期の武将
伊予国の守護。1281(弘安4)年の蒙古襲来には,一族伊予の海賊を率いて奮戦。伯父通時とともに,2艘の小舟で蒙古船を襲い,大将を捕虜にし火を放って帰った話は有名。のち戦功により肥前国神崎庄などに恩賞地を与えられた。
高師直
こうのもろなお @@@LINK=高師直 高師直

高師直
こうのもろなお

?〜1351
南北朝時代の武将
足利尊氏の執事 (しつじ) 。元弘の変に尊氏に従い功をたてる。建武新政府に対する尊氏挙兵にも従い,幕府創設に功があり権勢をふるった。のち足利直義 (ただよし) (尊氏の弟)と対立,尊氏とともに戦って敗れ,尊氏・直義和睦後孤立し殺された。

紅白梅図屛風
こうはくばいずびょうぶ @@@LINK=紅白梅図屛風 紅白梅図屛風

紅白梅図屛風
こうはくばいずびょうぶ

江戸中期の画家尾形光琳代表作
甲府
こうふ @@@LINK=甲府 甲府

甲府
こうふ

山梨県,甲府盆地の中央にある県庁所在地。近世以来の城下町
戦国大名武田信虎・信玄の城下町として繁栄。江戸時代,のちの将軍家宣のような徳川家一族・重臣を配し,江戸西口の固め,甲州金山支配の地として重視された。江戸からは甲州道中で結ばれ,1724年には警備訴訟担当甲府勤番が設けられた。1889年市制を施行
坑夫
こうふ @@@LINK=坑夫 坑夫

坑夫
こうふ

明治後期の彫刻家荻原守衛の作品。1907年作。
公武合体運動
こうぶがったいうんどう @@@LINK=公武合体運動 公武合体運動

公武合体運動
こうぶがったいうんどう

幕末,公(朝廷)・武(幕府)の提携により政局安定をはかろうとした政治運動
大老井伊直弼 (なおすけ) の死後,幕府権威の補強策として幕府老中安藤信正や薩摩土佐越前宇和島の諸藩によって推進され,1862年,孝明天皇の妹和宮 (かずのみや) の将軍徳川家茂 (いえもち) への降嫁が実現した。坂下門外の変('62)後は幕府は主導権を失い,翌年八月十八日の政変尊攘派が一掃され,公武合体雄藩大名による政局指導が実現した。しかし,長州藩で藩論が「討幕」に転換すると政局は一転し,尊王・討幕運動に押され,薩長連合の密約('66)により事実上消滅した。のち,かつての公武合体派からは公議政体論が打ち出された。
興福寺
こうふくじ @@@LINK=興福寺 興福寺

興福寺
こうふくじ

奈良市登大路町にある法相宗の大本山。南都七大寺の一つで,藤原氏の氏寺
藤原鎌足の妻鏡女王 (かがみのおおきみ) が夫の遺志を継ぎ京都山科 (やましな) に創建した山階寺に始まる。平城遷都とともに奈良に移り,興福寺と改称。藤原氏の隆盛とともに栄え,平安時代以後多くの荘園を持った。平安末期にこの寺の僧兵は寺法師といわれ,春日神社の神木を奉じてしばしば朝廷に強訴 (ごうそ) し,延暦寺とともに南都北嶺と称された。中世には大和の守護を兼ね,大和一国を支配して,多くの座をもっていたが,戦国時代以後しだいに衰微した。また彫刻に『仏頭』(白鳳時代),『阿修羅像』『八部衆像』(天平時代),『無著・世親像』『天灯鬼・竜灯鬼』(鎌倉時代)などのすぐれた作品が残されている。
興福寺仏頭
こうふくじぶっとう @@@LINK=興福寺仏頭 興福寺仏頭

興福寺仏頭
こうふくじぶっとう

奈良興福寺にある白鳳時代仏像頭部
もと蘇我倉山田石川麻呂の建てた飛鳥山田寺本尊で,平安末期に興福寺の僧兵が奪った薬師如来の頭部。
講武所
こうぶしょ @@@LINK=講武所 講武所

講武所
こうぶしょ

幕末,幕府の武芸練習所
1854年,老中阿部正弘が対外危機に備えて講武場('56年講武所と改称)を開設。旗本の子弟に剣・槍などを教授,のち洋式訓練も実施した。'57年軍艦操練所を加えたが,'66年陸軍所開設に伴い廃止。教授陣に高島秋帆・勝海舟らがいた。
工部省
こうぶしょう @@@LINK=工部省 工部省

工部省
こうぶしょう

1870(明治3)年,新政府が官営事業を統轄推進させるために設けた中央官庁
「百工勧奨のことを掌り兼ねて鉱山・製鉄・灯明台・鉄道・伝信機等を管す」とされた。初代工部卿は伊藤博文。官営模範工場の経営,外国人技師の招聘 (しようへい) による近代技術の移入,民間産業の育成などを行い,近代工業発展に大きな役割を果たした。官営事業払下げの方針により,1885年廃止。
工部大学校
こうぶだいがっこう @@@LINK=工部大学校 工部大学校

工部大学校
こうぶだいがっこう

明治初期,日本最初の工業教育機関
東大工学部の前身。工部省内に工学寮が置かれ,1873年イギリス人教師を招き,工学校を開いたのに始まる。'76年工部美術学校を付設し西洋美術を移植。'77年工部大学校と改称,'85年工部省廃止とともに文部省に移管し,翌年東京帝国大学に統合された。
洪武通宝
こうぶつうほう @@@LINK=洪武通宝 洪武通宝

洪武通宝
こうぶつうほう

明 (みん) の太祖洪武帝(1328〜98)のときに鋳造された銅銭
室町時代,統一貨幣が鋳造されなかった日本へ輸入され流通した。
光武帝
こうぶてい @@@LINK=光武帝 光武帝

光武帝
こうぶてい

前6〜後57
後漢の初代皇帝(在位25〜57)
王莽 (おうもう) を倒して漢を復興した。朝貢した奴国の王に金印を与えたことで有名。
工部美術学校
こうぶびじゅつがっこう @@@LINK=工部美術学校 工部美術学校

工部美術学校
こうぶびじゅつがっこう

工部大学校前身
弘文院
こうぶんいん @@@LINK=弘文院 弘文院

弘文院
こうぶんいん

平安前期,和気氏の私的教育施設
大学別曹(寄宿舎)中最古のもので,9世紀初めころの創立。和気広世が父清麻呂のを継ぎ,大学の南辺の私宅をあてて大学別曹とし,一族子弟の勉学のための寄宿施設とした。数千巻の儒・仏書を蔵し,墾田40町を学料田とした。10世紀末,和気氏の衰微とともに廃絶した。
弘文館
こうぶんかん @@@LINK=弘文館 弘文館

弘文館
こうぶんかん

江戸幕府の儒官林家 (りんけ) の私塾
弘文院ともいう。昌平坂学問所の前身。1630年林羅山が将軍徳川家光から賜った上野忍ケ岡の地に聖堂を設立。'63年鵞峯のとき,林家の私塾を弘文館と呼んだ。'90年聖堂が湯島に移って,官立の昌平坂学問所となった。
弘文天皇
こうぶんてんのう @@@LINK=弘文天皇 弘文天皇

弘文天皇
こうぶんてんのう

大友皇子
皇別
こうべつ @@@LINK=皇別 皇別

皇別
こうべつ

古代,神武天皇以後,天皇の子孫で臣下になったと伝えられる氏
氏族の分類の一つで,神の子孫の神別の氏,渡来人系子孫の蕃別(諸蕃)の氏に対していう。
高弁
こうべん @@@LINK=高弁 高弁

高弁
こうべん

1173〜1232
鎌倉初期ので,華厳宗復興の功労者
法号は明恵 (みようえ) 。紀伊の人。初め高雄山の文覚師事。1206年栂尾 (とがのお) 高山寺を開創し,華厳の道場とした。著書『摧邪輪 (さいじやりん) 』は,法然の『選択本願念仏集』を激しく攻撃し,鎌倉新仏教に対する理論的批判として著名。また栄西が宋から伝えた茶を栂尾山でも栽培した。
康弁
こうべん @@@LINK=康弁 康弁

康弁
こうべん

生没年不詳
鎌倉初期の慶派の仏師
運慶の3男。父ほどの雄健さはないが自由で奇抜な作風。代表作の興福寺蔵の『天灯鬼・竜灯鬼像』(1215年作)は機知とユーモアに富む。
弘法大師
こうぼうだいし @@@LINK=弘法大師 弘法大師

弘法大師
こうぼうだいし

空海
光明皇后
こうみょうこうごう @@@LINK=光明皇后 光明皇后

光明皇后
こうみょうこうごう

701〜760
奈良時代,聖武天皇の皇后
父は藤原不比等,母は橘三千代。孝謙天皇の母。名は光明子。729年長屋王の変後,皇族以外で初の皇后となり,これにより藤原氏の地位が確立。聖武朝の仏教興隆は皇后の力によるところが大きいといわれる。また施薬院・悲田院を設け老病貧者を救った。聖武天皇譲位後,皇后宮職を改称した紫微中台 (しびちゆうだい) を設け,甥藤原仲麻呂をその長官とした。

光明天皇
こうみょうてんのう @@@LINK=光明天皇 光明天皇

光明天皇
こうみょうてんのう

1321〜80
南北朝時代,北朝第2代の天皇(在位1336〜48)
後伏見天皇の皇子。光厳天皇の弟。持明院統。九州より入京した足利尊氏に擁立され,後醍醐 (ごだいご) 天皇の南朝と対立。1348年崇光 (すこう) 天皇に譲位し,のち院政を行った。

公民
こうみん @@@LINK=公民 公民

公民
こうみん

公地公民
孝明天皇
こうめいてんのう @@@LINK=孝明天皇 孝明天皇

孝明天皇
こうめいてんのう

1831〜66
江戸末期の天皇(在位1846〜66)
明治天皇の父。在位中,内外極めて多事であった。攘夷論者で通商条約に反対したが,14代将軍徳川家茂 (いえもち) への妹和宮 (かずのみや) の降嫁を許し,公武合体をはかり,過激な尊攘派の抑制につとめた。'66年疱瘡で急死したが,毒殺説もある。以後武力討幕論が急激に発展した。

公明党
こうめいとう @@@LINK=公明党 公明党

公明党
こうめいとう

1964年11月,宗教団体創価学会を基盤に結成された政党
信者世帯数400万を背景に,1967年の総選挙で25名を当選させ,参議院では第三党となり,都議会にも進出。議会制民主主義を唱える。'70年政教分離を声明。'76年の総選挙では野党第二党に躍進した。'93年成立の細川内閣で初の与党となったが,'94年分党し,新進党と合流。新進党解党後は,衆・参両議院の旧公明党系が合同して,'98年ふたたび公明党を結成した。
紅毛人
こうもうじん @@@LINK=紅毛人 紅毛人

紅毛人
こうもうじん

江戸時代,オランダ人・イギリス人異称
チュートン系でひげが赤いので中国人により名づけられた。ポルトガル人・スペイン人を南蛮人と呼んだのに対するもの。
空也
くうや @@@LINK=空也 空也
こうや @@@LINK=空也 空也

空也
くうや

903〜972
平安前期に浄土信仰を説いた民間布教僧。踊念仏の祖
「こうや」とも読む。諸国を巡り,橋を架け,道を開き井池を造った。常に南無阿弥陀仏の六字名号を唱え,諸人に念仏をすすめ,「市聖 (いちのひじり) 」と呼ばれた。没した寺はのちに六波羅蜜寺と名づけられた。

空也
こうや

くうや
高野山
こうやさん @@@LINK=高野山 高野山

高野山
こうやさん

和歌山県北東部,伊都郡高野町にある山
山頂に真言宗総本山の金剛峯寺がある。
高野版
こうやばん @@@LINK=高野版 高野版

高野版
こうやばん

中世,高野山で出版された書籍総称
奈良興福寺の春日版に刺激されて鎌倉中期よりおこる。1253年に出版された快賢の『三教指帰 (さんごうしいき) 』が現存する最古のもの。5部の開板目録が出され,高野紙を用いたことが特徴。現在多数の出版書が残り,印刷文化史上貴重な資料である。
高野聖
こうやひじり @@@LINK=高野聖 高野聖
こうやひじり @@@LINK=高野聖 高野聖

高野聖
こうやひじり

中世,高野山を本拠として全国的に勧進遊行した僧
平安末期以来,浄土信仰いて出家遁世 (しゆつけとんせい) した者を聖と呼んだが,高野山を修行の場とし,弘法大師信仰を広めた者をさす。室町時代になると布教のかたわら行商を営む者も現れた。

高野聖
こうやひじり

明治後期,泉鏡花の中編小説
1900年『新小説』に発表。高野山の旅僧が,飛驒山中で迷い,魔性の美女の誘惑をかろうじてのがれたというの浪漫文学の傑作
高野聖
こうやひじり @@@LINK=高野聖 高野聖
こうやひじり @@@LINK=高野聖 高野聖

高野聖
こうやひじり

中世,高野山を本拠として全国的に勧進遊行した僧
平安末期以来,浄土信仰いて出家遁世 (しゆつけとんせい) した者を聖と呼んだが,高野山を修行の場とし,弘法大師信仰を広めた者をさす。室町時代になると布教のかたわら行商を営む者も現れた。

高野聖
こうやひじり

明治後期,泉鏡花の中編小説
1900年『新小説』に発表。高野山の旅僧が,飛驒山中で迷い,魔性の美女の誘惑をかろうじてのがれたというの浪漫文学の傑作
甲陽軍鑑
こうようぐんかん @@@LINK=甲陽軍鑑 甲陽軍鑑

甲陽軍鑑
こうようぐんかん

江戸初期の軍学書
20巻。甲斐武田家の信玄・勝頼2代にわたる事績・合戦・軍法などを記す。武田氏部将の遺記を軍学者小幡景憲が集大成したものといわれ,甲州流軍学書として有名。
高麗
こうらい @@@LINK=高麗 高麗

高麗
こうらい

朝鮮の王朝(918〜1392)
918年新羅 (しらぎ) に代わって王建(太祖)が建国。都は開城。11世紀ごろ全盛期を迎える。のち武官の反乱がおこり武人政権が成立したが,13世紀には蒙古の侵入をうけ,元の属国となった。元寇の際には元軍に加わり日本に来襲。その後倭寇の侵略に苦しみ,明が建国するとまもなく李成桂によって滅ぼされた。
郷里制
ごうりせい @@@LINK=郷里制 郷里制

郷里制
ごうりせい

律令制における地方行政組織
律令制では国郡里制が行われ,50戸を1里とし,里長を置いた。715年,里を改めて郷 (ごう) とし,1郷に2〜3里を置く郷里制に改め,郷長・里正を任命した。しかし740年国郡郷制とし,里の称は用いられなくなった。
広隆寺
こうりゅうじ @@@LINK=広隆寺 広隆寺

広隆寺
こうりゅうじ

京都市右京区太秦 (うずまさ) にある真言宗の別格本山で,秦氏 (はたうじ) の氏寺
蜂岡山と号し,太秦寺 (うずまさでら) ・蜂岡寺ともいう。603年に渡来人の秦河勝 (はたのかわかつ) が聖徳太子よりもらいうけた仏像を安置するため創建したと伝える。国宝の『半跏思惟像』は弥勒菩薩 (みろくぼさつ) が半跏趺座して思考する形の飛鳥時代の仏像で,温和・清楚な美しさで知られる。アカマツでつくられ,朝鮮伝来説もある。
公領
こうりょう @@@LINK=公領 公領

公領
こうりょう

国衙 (こくが) 領
香料
こうりょう @@@LINK=香料 香料

香料
こうりょう

よい香りをだす原料
仏教とともに伝来。おもに火にくゆらす薫物 (たきもの) で,平安時代の貴族社会で発達。衣裳や部屋にたきこめ,薫物合 (たきものあわせ) の遊びも行われ,室町時代に香道が成立した。香料には植物性の沈香 (じんこう) ・白檀 (びやくだん) ・丁字 (ちようじ) ・乳香,動物性の麝香 (じやこう) ・龍涎 (りゆうぜん) 香などがあり,いずれも輸入品であった。そのうち沈香が最もすぐれ,なかでも伽羅 (きやら) が珍重された。
鴻臚館
こうろかん @@@LINK=鴻臚館 鴻臚館

鴻臚館
こうろかん

律令時代,外国使臣のため設けられた接待機関
7世紀から記録にみえ,大宰府 (だざいふ) ・京都・難波につくられた。外国との交渉が絶えるとともに衰退したが,大宰府のものは平安時代にも中国商人の宿舎・貿易場として存続した。
幸若舞
こうわかまい @@@LINK=幸若舞 幸若舞

幸若舞
こうわかまい

室町初期に発生した歌舞で,曲舞 (くせまい) の一派
桃井 (もものい) 幸若丸直詮 (なおあき) が草紙物・軍記物に節と簡単な舞をつけて始めたという。曲風は男性的で,織田信長・豊臣秀吉らに愛好され,江戸幕府でも祝言の舞として採用。能楽・浄瑠璃へ大きな影響を与えた。
雇役
こえき @@@LINK=雇役 雇役

雇役
こえき

律令制における公民の負担の一つ
政府が賃金を支給して畿内・近隣の公民を使役したもので,仕丁とともに政府の主要な労働源。強制的で農民にとっては苦しい負担であり,その賃金には諸国からの庸 (よう) があてられた。強制的でない和雇 (わこ) と呼ばれる自由契約のものもあった。
五衛府
ごえふ @@@LINK=五衛府 五衛府

五衛府
ごえふ

律令官制でととのえられた中央の常備軍制
衛門府・左右衛士府・左右兵衛府の総称で,宮城諸門の警衛・儀杖,京中の巡検・追捕などにあたった。811年以後,左右近衛府・左右兵衛府・左右衛門府の六衛府となった。

こおり @@@LINK=評 評


こおり

大化の改新後から大宝令の施行までの地方組織
藤原京跡出土の木簡により,その存在が確認された。大宝令の施行によって郡と改称された。
郡奉行
こおりぶぎょう @@@LINK=郡奉行 郡奉行
ぐんぶぎょう @@@LINK=郡奉行 郡奉行

郡奉行
こおりぶぎょう

江戸時代,諸藩において農村の行政にあたった役職
百姓の支配,徴税・訴訟などの事務をつかさどった。家老に属し,配下に代官・手代などがおり,城下にある役所で執務した。

郡奉行
ぐんぶぎょう

こおりぶぎょう
御恩・奉公
ごおん・ほうこう @@@LINK=御恩・奉公 御恩・奉公

御恩・奉公
ごおん・ほうこう

中世,封建社会における主従制度の基本的関係
御恩とは主君が家臣に与える有形・無形いっさいの恩恵で,所領の給与(新恩給与)・本領安堵と諸職 (しき) への任命などがある。奉公とは御恩に対し家臣が主君に奉仕する義務で,戦時の戦闘参加・軍費負担,平時の番役・公事・課役など。この関係を基本に封建道徳が形成された。
五街道
ごかいどう @@@LINK=五街道 五街道

五街道
ごかいどう

江戸時代,江戸日本橋を起点とした五つの幹線道路
本街道ともいう。東海道(53次)・中山道(69次)・甲州道中(44次)・日光道中(21次)・奥州道中(10次)をいう。慶長年間(1596〜1615)に整備され,2〜3里ごとに宿場を設け,本陣脇本陣・旅籠 (はたご) ・問屋場などが置かれた。元来は参勤交代など主として公用のために作られた道路で,道中奉行が管轄した。警備のため要所関所を設け,また宿場には助郷伝馬が課せられた。
古学派
こがくは @@@LINK=古学派 古学派

古学派
こがくは

江戸時代におこった儒学の一学派
朱子学や陽明学による解釈を排し,直接孔子・孟子原典から聖人の真意をくもうとするもので,山鹿素行の聖学や,伊藤仁斎の古義学派(堀川学派),荻生徂徠 (おぎゆうそらい) の蘐園 (けんえん) 学派(古文辞学派・徂徠学派)などの総称。経験主義的な道徳論や実学的な政治論を説き,徂徠は柳沢吉保や将軍吉宗に用いられた。古学派の学者たちは藩儒や藩校教授として招かれ,藩政に参画した。また子弟の教育に果たした役割は大きく,国学の発展にも大きな影響を与えた。
古河公方
こがくぼう @@@LINK=古河公方 古河公方

古河公方
こがくぼう

室町後期,鎌倉公方足利持氏の子成氏 (しげうじ) とその子孫をいう
永享の乱(1438〜39)後鎌倉に迎えられた成氏は関東管領上杉憲忠を殺し幕府の追討をうけて,1455年下総の古河(現茨城県古河市)に移り古河公方と称した。堀越公方との対立や上杉氏などとの争いで衰え,のち後北条氏の支配下に入り,1583年5代目義氏の死により滅亡した。
五箇条の誓文
ごかじょうのせいもん @@@LINK=五箇条の誓文 五箇条の誓文

五箇条の誓文
ごかじょうのせいもん

1868年3月,明治政府が示した新政府の基本方針
由利公正 (きみまさ) が原案を起草し,福岡孝弟 (たかちか) が修正し,木戸孝允加筆修正した。新政府は江戸城総攻撃の前日,明治天皇天地の神々に誓うという形式で発布した。内には公議輿論尊重の名のもとに公家諸侯藩士豪農豪商結集をはかり,外には開国和親の方針により諸列強の支持を得ようとした配慮がこの文面に示されている。公議輿論とは列侯会議を意味したもので,立憲思想とは本質的に異なる。翌日に出された五榜の掲示と対照して政府の意図を考える必要がある。
五カ所商人
ごかしょしょうにん @@@LINK=五カ所商人 五カ所商人

五カ所商人
ごかしょしょうにん

江戸時代,生糸貿易を独占した京都・長崎江戸大坂特定商人
1604年に糸割符 (いとわつぷ) 制度(生糸輸入の統制制度)が創設され,京都・堺・長崎の商人が輸入生糸の価格決定・購入を独占。'31年には江戸・大坂の商人も参加した。
古賀精里
こがせいり @@@LINK=古賀精里 古賀精里

古賀精里
こがせいり

1750〜1817
江戸後期の儒学者
肥前(佐賀県)藩出身。初め京都で陽明学を学び,のち尾藤二洲 (じしゆう) らと交わり,朱子学に転じた。帰藩後藩政に参加し,藩校弘道館の創設にあたり教授となった。のち昌平坂学問所の儒官となり,寛政異学の禁に参画。柴野栗山・尾藤二洲とともに寛政の三博士といわれた。

子方
こかた @@@LINK=子方 子方

子方
こかた

親方・子方
後亀山天皇
ごかめやまてんのう @@@LINK=後亀山天皇 後亀山天皇

後亀山天皇
ごかめやまてんのう

?〜1424
南北朝時代,南朝最後の天皇(在位1383〜92)
後村上天皇の皇子。1392年将軍足利義満の和議に応じ,南朝の正統性の承認,両統迭立 (てつりつ) を条件に京都に帰り,神器を北朝の後小松天皇に譲り南北朝合体を実現。しかし,その後両統迭立は行われなかった。

粉河寺
こかわでら @@@LINK=粉河寺 粉河寺

粉河寺
こかわでら

和歌山県北部,那賀郡粉河町にある古寺
願成就院施音寺が本称。もとは天台宗,現在は独立して粉河観音宗。770年大伴孔子古 (くじこ) が創建。平安中期以後一般の信仰が厚く,室町時代には多くの僧兵を集めたが,近くの根来 (ねごろ) 寺とともに,1585年豊臣秀吉に焼き払われた。同寺本尊にまつわる説話を描いた『粉河寺縁起絵巻』は国宝。
後漢書
ごかんじょ @@@LINK=後漢書 後漢書

後漢書
ごかんじょ

後漢(25〜220)の歴史を記した中国の正史
5世紀南朝宋の茫曄 (はんよう) の撰。全120巻(本紀10巻,列伝80巻,志30巻)。この中の「東夷伝」のの記事は,大部分魏志倭人伝によるが,57年倭の奴国が光武帝に朝貢し,印綬を与えられたこと,107年倭国王帥升 (すいしよう) らの生口(奴隷と考えられる)献上という独自の記事がある。1〜2世紀の日本に関する貴重な史料。
虎関師錬
こかんしれん @@@LINK=虎関師錬 虎関師錬

虎関師錬
こかんしれん

1278〜1346
鎌倉末期・南北朝初期の禅僧
虎関は号。京都の人。1299年一山一寧 (いつさんいちねい) に従って円覚寺に入り,のち東福寺に移る。1322年,初の日本仏教史『元亨釈書 (げんこうしやくしよ) 』を完成。五山文学の先駆者としても有名。著書はほかに『禅戒規』『済北集』など。

古義学派
こぎがくは @@@LINK=古義学派 古義学派

古義学派
こぎがくは

堀川学派
五畿七道
ごきしちどう @@@LINK=五畿七道 五畿七道

五畿七道
ごきしちどう

律令制における地方行政区画
全国を畿内と七道に分け,畿内は大和・山背(山城)・摂津・河内・和泉の5カ国で五畿と称し,その他の諸国は東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道に分け,それぞれ官道でつないだ。
古義堂
こぎどう @@@LINK=古義堂 古義堂

古義堂
こぎどう

江戸前期,伊藤仁斎が京都に開いた私塾
堀川塾ともいう。1662年,仁斎が京都の東堀川通りの私邸で私塾を開き古義学派の中核的教育機関とした。その子東涯のとき最盛期を迎え,古義堂の名はいっそう広まった。明治初年まで存続した。
五畿内志
ごきないし @@@LINK=五畿内志 五畿内志

五畿内志
ごきないし

江戸中期,幕府が編纂した最初の日本地誌
『日本輿地通志畿内部』の通称。61巻。1729〜34年にかけて並河誠所 (せいしよ) らが編集。畿内5カ国を国郡ごとに記述している。
扱箸
こきばし @@@LINK=扱箸 扱箸

扱箸
こきばし

江戸前期に使用された脱穀具
丸竹2本または割竹の一端をくくって,その間に稲穂をはさんでこいだ。竹製,のちに鉄製もある。千歯扱の出現で中期以降消滅した。収穫・脱穀後,扱箸を床の間に供える風習が残ったところもある。
五経博士
ごきょうはかせ @@@LINK=五経博士 五経博士

五経博士
ごきょうはかせ

6世紀前半,百済 (くだら) から来日した儒学の学者
百済の官職名で,五経とは『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記 (らいき) 』をいい,これらにすぐれた学者を博士という。継体天皇の513年から交代で来日,儒学の教授としてわが国の学問の発達に大きく貢献した。
古今伝授
こきんでんじゅ @@@LINK=古今伝授 古今伝授

古今伝授
こきんでんじゅ

中世,『古今和歌集』の故実・解釈などに関する秘伝の伝授
室町中期,東常縁 (とうのつねより) が宗祇 (そうぎ) に伝えたのに始まるといわれる。『古今集』は和歌の規範でもあったことから歌道伝授をも意味し,和歌の因習化・形式化の現れであった。宗祇から三条西実隆 (さんじようにしさねたか) を経た御所伝授と肖柏を経た堺伝授などがある。
古今和歌集
こきんわかしゅう @@@LINK=古今和歌集 古今和歌集

古今和歌集
こきんわかしゅう

平安中期,日本最初の勅撰和歌集
略称『古今集』。20巻。歌数約1100首。醍醐 (だいご) 天皇の勅により編集を始め,905(延喜5)年撰進された。撰者は紀貫之・凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね) ・紀友則・壬生忠岑 (みぶのただみね) ら。『万葉集』に入らなかった古歌とそれ以後の新しい歌を集大成したもので,巻頭に貫之の「仮名序」,巻尾に紀淑望 (よしもち) の「真名序」を置く。歌風は七五調・体言止めが多く,優美典雅,理知的で機知を尊ぶ。のちの勅撰和歌集の理想となった。代表的歌人としては撰者らのほかに六歌仙がいる。
国意考
こくいこう @@@LINK=国意考 国意考

国意考
こくいこう

江戸後期,賀茂真淵 (まぶち) の著書
1806年刊。儒教・仏教の外来思想を批判し,日本固有の古道にたちかえることを主張したもの。
国衙
こくが @@@LINK=国衙 国衙

国衙
こくが

律令制において,国司が政務をとる官庁
国庁ともいう。その所在地が国府。大帳所・朝集所・政所 (まんどころ) ・税所 (さいしよ) ・調所 (ずしよ) などの事務所があった。鎌倉期中ごろまで活動したと考えられる。
国学
こくがく @@@LINK=国学 国学
こくがく @@@LINK=国学 国学

国学
こくがく

江戸中期におこり儒学洋学に対して,日本古典を研究,日本固有の精神を明らかにしようとした学問
第1期は僧契沖 (けいちゆう) ・下河辺長流 (しもこうべちようりゆう) ・戸田茂睡らの歌学革新運動と結びついた『万葉集』研究に始まる。契沖の『万葉代匠記』における考証的・文献学的研究法は国学の学問的展開のいとぐちとなった。第2期は荷田春満 (かだのあずままろ) が神道思想を加味して方法論を樹立し,賀茂真淵 (まぶち) がそれをうけて実践につとめ,『万葉集』研究に古代人の言語から「明く清く直き」古代精神に復帰すべきことを主張して古道説を明らかにした。本居宣長は『古事記』研究に没頭し,『古事記伝』を著述。古代精神は神の道に基づくものと確信し,古典研究の面でも思想体系の面でも真淵の思想を継承,大成させた。そしてこの期の国学者は外来の儒仏思想を排するに至った。第3期には平田篤胤 (あつたね) ・伴信友らがでて国史国文の研究が深められた。篤胤は神道主義的性格を鮮明にし国粋主義を強調して復古神道を開き,幕末尊王攘夷運動や明治維新の思想的支柱となった。

国学
こくがく

律令制下の地方教育機関。
国学
こくがく @@@LINK=国学 国学
こくがく @@@LINK=国学 国学

国学
こくがく

江戸中期におこり儒学洋学に対して,日本古典を研究,日本固有の精神を明らかにしようとした学問
第1期は僧契沖 (けいちゆう) ・下河辺長流 (しもこうべちようりゆう) ・戸田茂睡らの歌学革新運動と結びついた『万葉集』研究に始まる。契沖の『万葉代匠記』における考証的・文献学的研究法は国学の学問的展開のいとぐちとなった。第2期は荷田春満 (かだのあずままろ) が神道思想を加味して方法論を樹立し,賀茂真淵 (まぶち) がそれをうけて実践につとめ,『万葉集』研究に古代人の言語から「明く清く直き」古代精神に復帰すべきことを主張して古道説を明らかにした。本居宣長は『古事記』研究に没頭し,『古事記伝』を著述。古代精神は神の道に基づくものと確信し,古典研究の面でも思想体系の面でも真淵の思想を継承,大成させた。そしてこの期の国学者は外来の儒仏思想を排するに至った。第3期には平田篤胤 (あつたね) ・伴信友らがでて国史国文の研究が深められた。篤胤は神道主義的性格を鮮明にし国粋主義を強調して復古神道を開き,幕末尊王攘夷運動や明治維新の思想的支柱となった。

国学
こくがく

律令制下の地方教育機関。
国学の四大人
こくがくのしうし @@@LINK=国学の四大人 国学の四大人

国学の四大人
こくがくのしうし

江戸時代,国学における4人の大家。荷田春満 (かだのあずままろ) ・賀茂真淵 (まぶち) ・本居宣長・平田篤胤 (あつたね) をいう。
国衙領
こくがりょう @@@LINK=国衙領 国衙領

国衙領
こくがりょう

平安後期以降,国衙の支配下にあった土地
公領ともいい,私領である荘園に対していう。本来は公田であったが,荘園の増加とともに公領内部にも成長していた田堵 (たと) ・名主 (みようしゆ) らによりしだいに私有地化していった。これに対し国司は荘園と同じように人身賦課から土地を対象とする賦課に切り換え,中央政府には一定の租税を納めるだけになった。
国郡里制
こくぐんりせい @@@LINK=国郡里制 国郡里制

国郡里制
こくぐんりせい

律令制下の地方行政制度
全国を58(のち66)カ国に,国を数郡に分け,郡を50戸を単位とする里に分けた。里には里長,郡には郡司,国には国司がそれぞれ置かれた。国郡里制は中央政府の支配力が拡大されるにつれて遠国へも実施されたが,荘園制発達につれて変質し,その機能を失った。
国際平和協力法
こくさいへいわきょうりょくほう @@@LINK=国際平和協力法 国際平和協力法

国際平和協力法
こくさいへいわきょうりょくほう

1992年に成立した国連平和維持活動(Peace-Keeping Operations)等に対する協力に関する法律
略称「PKO協力法」。国連の決議に基づく平和維持活動や人道的な国際救援活動を行うことを目的に,自衛隊の海外派遣を可能とした。1992年カンボジアのUNTAC国連カンボジア暫定統治機構)への参加をはじめ,'93年モザンビーク,'94年ルワンダ,'96年中東ゴラン高原に自衛隊などを派遣した。自衛隊が平和維持軍(PKF本隊に参加する場合は国会の事前承認を要すると定められているが,自衛隊のPKF参加については憲法9条と集団的自衛権とのかかわりをめぐる問題をはらんでいる。
国際連合
こくさいれんごう
United Nations @@@LINK=国際連合 国際連合

国際連合
こくさいれんごう
United Nations

第二次世界大戦後設立された常設の国際平和機構
略称「国連」,UN。1945年4〜6月のサンフランシスコ講和会議において,国際連合憲章を採択,同年10月正式発足した。国際平和と安全の維持,福祉増進のための国際協力などを目的とし,本部をニューヨークに置き,総会,事務局,安全保障・経済社会・信託統治の3理事会,国際司法裁判所など多くの機関がある。加盟国は188〈‘99年現在〉に達し,日本は,日ソ国交回復が成立した'56(昭和31)年に80番目の国として加盟した。
国際連合教育科学文化機構
こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきこう @@@LINK=国際連合教育科学文化機構 国際連合教育科学文化機構

国際連合教育科学文化機構
こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきこう

ユネスコ
国際連合軍
こくさいれんごうぐん @@@LINK=国際連合軍 国際連合軍

国際連合軍
こくさいれんごうぐん

国連軍
国際連合憲章
こくさいれんごうけんしょう @@@LINK=国際連合憲章 国際連合憲章

国際連合憲章
こくさいれんごうけんしょう

国際連合の目的・組織・行動を定めた基本法
全文111条。1944年アメリカ国務省が,大西洋憲章をもとに起草。同年のダンバートン‐オークス会議,'45年ヤルタ会談を経て,同年6月,サンフランシスコ会議で採択,10月に発効した。
国際連盟
こくさいれんめい
League of Nations @@@LINK=国際連盟 国際連盟

国際連盟
こくさいれんめい
League of Nations

第一次世界大戦後設立された世界最初の常設国際平和機構
1919年,アメリカ大統領ウィルソンの提案により,ヴェルサイユ条約成立。'20年1月本部をジュネーヴに置き,正式発足した。国際平和の維持と福祉増進のための国際協力とを目的とし,総会・理事会・事務局・国際労働機構・国際司法裁判所からなり,日本は常任理事国となった。しかしアメリカ・ソ連の不参加,列国利害の対立などから成果をあげ得ず,'33年日本・ドイツ,'34年イタリアの脱退で事実上解体した。
国際連盟脱退
こくさいれんめいだったい @@@LINK=国際連盟脱退 国際連盟脱退

国際連盟脱退
こくさいれんめいだったい

1933年日本の国際連盟脱退のこと
国際連盟総会は,リットン調査団の報告書をもとに審議を進め,満州における中国の主権の確認,日本軍の撤兵を内容とする対日勧告を含む報告案の票決を行い,42票対1票,棄権1票(タイ)をもって可決した。日本代表松岡洋右 (ようすけ) は報告書反対の声明を行って退場。こうして日本政府は陸軍の強硬論に押されて連盟を脱退し,国際社会に孤立化することとなり,やがてドイツ・イタリアと提携の道を歩んだ。
国際労働機関
こくさいろうどうきかん
International Labor Organization @@@LINK=国際労働機関 国際労働機関

国際労働機関
こくさいろうどうきかん
International Labor Organization

略称ILO。国際連合の専門機関の一つで,国際的な労働条件の改善を目的とする
1919年ヴェルサイユ条約に基づき国際連盟の付属機関として設立。労働条件・立法・社会保障などを討議,各国に勧告した。第二次世界大戦後の'46年12月,国際連合の経済社会理事会の専門機関となる。本部はジュネーヴ。174カ国〈1998年現在〉が加盟。機構は総会・理事会・各種委員会・事務局よりなり,加盟国の政府・使用者・労働者の三者代表で構成される。日本は設立と同時に加盟し,常任理事国であったが,'38年脱退。第二次世界大戦後,'51年再加盟し,'54年以来常任理事国となる。
国産会所
こくさんかいしょ @@@LINK=国産会所 国産会所

国産会所
こくさんかいしょ

江戸後期,諸藩が殖産興業政策や専売制のために設置した機関
物産会所・産物会所ともいう。藩役人と用達商人によって構成され,生産者への資金の貸付け,原料の供給などを行い,生産物の集荷・販売を独占し,藩財源の増収をはかった。
国司
こくし @@@LINK=国司 国司

国司
こくし

律令制において,諸国に派遣された地方官
任期は初め6年,のち4年。守 (かみ) ・介 (すけ) ・掾 (じよう) ・目 (さかん) の四等官があり,中央貴族が派遣され,国衙 (こくが) にあって,国内の行政・徴税・軍事・警察などをつかさどった。広義には四等官全体をさし,狭には守のみをさした。平安時代には,莫大な収入を目的に国司になることを望む者がふえ,遙任 (ようにん) ・成功 (じようごう) などが行われ国司制度は乱れた。鎌倉時代に守護が置かれたのちは実権を失った。
国師
こくし @@@LINK=国師 国師

国師
こくし

①702(大宝2)年,国ごとに置かれた僧官
②中世,高徳の僧に朝廷が与えた称号
部内の寺院・僧尼の監督,仏教界の事務にあたった。初めは国ごとに1人,国分寺創建後は国分寺僧を任じた。
中国・朝鮮でもみられるが,日本では1312年円爾弁円 (えんにべんえん) を聖一 (しよういち) 国師としたのが最初。
国史大系
こくしたいけい @@@LINK=国史大系 国史大系

国史大系
こくしたいけい

明治時代,田口卯吉の編纂した叢書
旧版は1897〜1904年の間にまとめられ,四六判,正続合わせて32冊。六国史 (りつこくし) 以下,江戸時代に至るまでの国史研究上の重要文献を集めた。1929年から旧版を校訂した黒板勝美の主宰で増補・新訂版を刊行。第二次世界大戦中,一時中絶したが,戦後 '64年に至って全66冊(索引付)を完成。近世以前の国史を研究する者には必読の史料。
国人
こくじん @@@LINK=国人 国人

国人
こくじん

南北朝〜戦国時代の在地領主
国衆 (くにしゆう) ともいう。初めは国衙 (こくが) 領内の有力名主層をさし,鎌倉中期以後は地頭・荘官あるいは有力名主をさす。室町時代には守護大名の被官となり,また守護を排斥する国一揆の中心ともなったり,戦国大名化する者も現れた。多くは戦国大名の家臣団に編入された。
国粋主義
こくすいしゅぎ @@@LINK=国粋主義 国粋主義

国粋主義
こくすいしゅぎ

日本国民固有の伝統的な美質の尊重発揮を主張する主義
1888(明治21)年ころ志賀重昂 (しげたか) ら政教社の人びとが,民衆無視の欧化政策への批判として提唱(国粋保存主義)。のち日本主義と混用され,さらに,大日本国粋会(1919)などの右翼団体により,天皇中心の国家主義や偏狭な排外的民族主義の主張に用いられるようになり,ファシズム下の指導的精神となった。
国勢調査
こくせいちょうさ @@@LINK=国勢調査 国勢調査

国勢調査
こくせいちょうさ

近代国家で行政の基礎資料を得るために実施される統計調査
日本では人口調査のみを行い,1920年以後,5年ごとに簡易調査,10年ごとに本調査を行っている。
国性爺合戦
こくせんやかっせん @@@LINK=国性爺合戦 国性爺合戦

国性爺合戦
こくせんやかっせん

江戸中期,近松門左衛門が作った時代物浄瑠璃
国姓爺合戦」とも書く。1715年竹本座初演。5段。鄭成功 (ていせいこう) の史実をもとに脚色。唐人を父,日本人を母にもつ和藤内 (わとうない) が明国の回復をはかるという筋。その題材の新奇さと規模の雄大さに特色があり,時代物浄瑠璃として未曽有の成功をおさめた。
国訴
こくそ @@@LINK=国訴 国訴

国訴
こくそ

江戸後期,郡・国の広範囲にわたっておこった合法的農民闘争
都市の問屋・株仲間や領主の専売制に反対して,おもに在郷商人の指導下に,暴動などではなく合法的な訴訟で闘った。ことに菜種・棉の生産地帯の畿内や,機業のさかんな北関東に多くおこった。
国体
こくたい @@@LINK=国体 国体

国体
こくたい

記紀神話の天孫降臨の神勅原理を置いた天皇支配の国家のあり方
日本は天照大神 (あまてらすおおみかみ) をとする万世一系の皇統が支配するものと定められているという考え。満州事変契機に台頭した軍部・右翼勢力は,天皇を国家の最高の機関とする美濃部達吉の憲法学説(天皇機関説)を国体否認の反逆思想として攻撃し,岡田啓介内閣は天皇の権力の絶対性を強調し,「国体明徴」の声明を発した。
国体新論
こくたいしんろん @@@LINK=国体新論 国体新論

国体新論
こくたいしんろん

明治前期,加藤弘之 (ひろゆき) の政治思想書
1875年刊。天賦人権論立場から人民の自由尊重を述べ,国家政府・人民のあり方を説いている。やがて加藤は天賦人権論を否定し,『真政大意』とともに本書を絶版にした。
国体の本義
こくたいのほんぎ @@@LINK=国体の本義 国体の本義

国体の本義
こくたいのほんぎ

日中戦争直前,教学刷新のため部省教学局が発行した国民的教科書
1937年刊。日本精神の指導者養成のテキストとして出版。続いて,'41年『臣民の道』を刊行。内容は当時の国民精神総動員の基本線を,記紀の文を引用して述べたもの。
国体明徴問題
こくたいめいちょうもんだい @@@LINK=国体明徴問題 国体明徴問題

国体明徴問題
こくたいめいちょうもんだい

1935(昭和10)年,美濃部達吉の天皇機関説をめぐる政治問題
天皇機関説は国体の本義と相いれない反逆思想であるとして貴族院で問題化。軍部・右翼・立憲政友会は美濃部の理路整然たる弁明を理解せず,かえって憤激し,岡田啓介内閣の対処を迫り,政府は美濃部の著書の発禁と2度にわたる「国体明徴声明」を行った。この事件を契機思想統制はいっそう激しくなった。
石高
こくだか @@@LINK=石高 石高

石高
こくだか

江戸時代,米穀の収穫高を基準とした土地生産高の表示法
高ともいう。太閤検地の過程で確立。近世幕藩体制の基礎となり,1873(明治6)年の地租改正まで存続した。田・畑・屋敷の面積に標準収穫率(石盛)を乗じて算出し,年貢・諸役はその石高を基準にして徴収された。
国定教科書
こくていきょうかしょ @@@LINK=国定教科書 国定教科書

国定教科書
こくていきょうかしょ

1903(明治36)年,文部省著作の教科書
1886年の学制改革で,教科書検定制度が始まったが,1902年に検定教科書採択にからんで汚職が続出した(教科書疑獄事件)。文部省はこれを理由に,翌年小学校教科書を国定とすることを定め,修身・歴史を中心に「忠孝」を強調した。
国鉄民営化
こくてつみんえいか @@@LINK=国鉄民営化 国鉄民営化

国鉄民営化
こくてつみんえいか

電電公社・専売公社・国鉄の民営化
国府
こくふ @@@LINK=国府 国府

国府
こくふ

律令制下における国衙 (こくが) の所在地
その国の政治・経済・交通(特に都との連絡)の要点に置かれ,国府・府中・府内などの地名や,条里制の遺制,国分寺などの遺跡を残している。周防 (すおう) の国府(防府市)の遺構は有名。
国風文化
こくふうぶんか @@@LINK=国風文化 国風文化

国風文化
こくふうぶんか

平安中期以後発展した日本風文化
それまでの唐風文化に対していい,藤原文化ともいう。894年遣唐使の廃止により唐文化の影響が弱まったため,それまで摂取した大陸文化を基礎に,安定した貴族生活を背景に成立。仮名の発明により,国文学が発達し,女流文学者が出現物語文学や和歌が発達した。また浄土教の流行に伴って浄土教芸術が発達し,貴族の住宅建築では寝殿造が流行した。三蹟などの和風書道が生まれ,衣冠束帯などの衣裳に至るまで,貴族生活の全般にわたり日本風の文化が創造された。
国分寺
こくぶんじ @@@LINK=国分寺 国分寺

国分寺
こくぶんじ

741年,聖武天皇の勅願により,鎮護国家の目的で諸国に建てられた寺院
僧寺と尼寺がある。僧寺では七重塔1基を造り『金光明最勝王経』を安置し,金光明四天王護国之寺と名づけ,尼寺には『妙法蓮華経』を置かせ,法華滅罪之寺と名づけた。また両寺に水田各10町を与え,僧寺には20僧,尼寺には10尼を配置した。尼寺の規模は僧寺より小さい。国分寺には僧官が置かれて国司監督のもとに寺務をとり,一国の僧尼を監督した。さらに講師が置かれ,講説読経にあたった。ほぼ全国的に置かれたと考えられる。
国分尼寺
こくぶんにじ @@@LINK=国分尼寺 国分尼寺

国分尼寺
こくぶんにじ

奈良時代,聖武天皇の勅願により諸国に建てられた尼寺。
国幣社
こくへいしゃ @@@LINK=国幣社 国幣社

国幣社
こくへいしゃ

神社の社格の一つ
平安時代の『延喜式』にみられ,南北朝時代以降衰退した。1871年に再興され,神祇官の祭る宮幣社に対し,地方官の祭る神社を国幣社とした。1945年廃止。
国法
こくほう @@@LINK=国法 国法

国法
こくほう

分国法
国本社
こくほんしゃ @@@LINK=国本社 国本社

国本社
こくほんしゃ

1924(大正13)年平沼騏一郎により組織された国家主義団体(〜'36)
虎の門事件(1923)で衝撃をうけた平沼が「国民精神の涵養」を期して創立。『国本新聞』・雑誌『国本』を刊行。会員は1万7000余人。「日本ファッショの総本山」と称されたが,二・二六事件('36)後,平沼が枢密院議長となって会長を辞任し,国本社も間もなく解散した。
国民皆兵
こくみんかいへい @@@LINK=国民皆兵 国民皆兵

国民皆兵
こくみんかいへい

国民すべてに兵役義務があること。
国民学校
こくみんがっこう @@@LINK=国民学校 国民学校

国民学校
こくみんがっこう

第二次世界大戦中の初等教育機関
ナチス‐ドイツにならって皇国民錬成を目的として1941年国民学校令により小学校を改称。初等科6年と高等科2年からなったが,義務教育年限は戦争の悪化のため実現できなかった。戦後学校教育法の成立により,'47年4月から小学校に再編成された。
国民協会
こくみんきょうかい @@@LINK=国民協会 国民協会

国民協会
こくみんきょうかい

明治中期の政党(1892〜99)
1892年6月創立。会長に西郷従道,副会長品川弥二郎。藩閥政府擁護を唱える。'99年7月帝国党に合流した。
国民協同党
こくみんきょうどうとう @@@LINK=国民協同党 国民協同党

国民協同党
こくみんきょうどうとう

第二次世界大戦後,中道政治唱えた政党(1947〜50)
1947年3月,国民党と協同民主党とが合同し成立。書記長に三木武夫。協同主義,階級協調,農山漁村の近代化を唱え,片山哲・芦田均両内閣の与党となったが,'50年4月日本民主党に合流して国民民主党をつくった。
国民新聞
こくみんしんぶん @@@LINK=国民新聞 国民新聞

国民新聞
こくみんしんぶん

1890年徳富蘇峰が創刊した,明治〜昭和初期にかけての日刊新聞
日清戦争前は急進的自由主義,その後国家主義に転じ,長州閥の御用新聞とみなされ,大正政変では桂太郎内閣を支援して国民の怒りをかって襲撃をうけた。昭和期に入って大新聞におされ衰微。1942年廃刊となり『東京新聞』に吸収された。
国民精神総動員運動
こくみんせいしんそうどういんうんどう @@@LINK=国民精神総動員運動 国民精神総動員運動

国民精神総動員運動
こくみんせいしんそうどういんうんどう

1937(昭和12)年,第1次近衛文麿内閣によって行われた,日中戦争の進行に伴う戦争協力のための思想統制運動(〜'40)
挙国一致・尽忠報国・堅忍持久の3目標を中心に始められたが,しだいに精神運動から,献金・献品・貯蓄奨励・消費節約などの国民の生活様式の統制にかわった。国家総動員体制の第一歩をなし,のち大政翼賛会を中心とする新体制運動に吸収された。
国民政府
こくみんせいふ @@@LINK=国民政府 国民政府

国民政府
こくみんせいふ

中国国民党が組織した中華民国の政府
略称「国府」。1925年広東で組織。国民党左右両派の抗争により,武漢・南京両政府に分かれたが,'28年合体し南京に反共的な右派中心の国民政府を組織した。日本の満州華北への進出に際し,重慶に移転し,抗日運動を展開し,戦後南京に復帰した。しかし,'49年共産党との内戦に敗れ,台湾にのがれた。大陸の共産党政府と対峙状態である。
国民徴用令
こくみんちょうようれい @@@LINK=国民徴用令 国民徴用令

国民徴用令
こくみんちょうようれい

国家総動員法に基づき,1939年公布された勅令
日中戦争の長期化に備えて1938年公布された国家総動員法第4条に基づき,軍需産業に必要な労働者を確保するために発せられ,国民の労働力は強制的に徴発されることになった。'45年3月には国民勤労動員令へと強化された。
国民党
こくみんとう @@@LINK=国民党 国民党

国民党
こくみんとう

立憲国民党
国民党(中国)
こくみんとう @@@LINK=国民党(中国) 国民党(中国)

国民党(中国)
こくみんとう

中国国民党
国民同盟
こくみんどうめい @@@LINK=国民同盟 国民同盟

国民同盟
こくみんどうめい

昭和前期の右翼政党(1932〜40)
立憲民政党右派の安達謙蔵・中野正剛らが,第2次若槻礼次郎内閣末期,立憲政友会との協力内閣運動に失敗し脱党して結成斎藤実 (まこと) 内閣を倒壊に導き,国防・外交一元化を強調したが,'38年中野が東方会を結成して分裂。'40年7月解党し,大政翼賛会に吸収された。
国民之友
こくみんのとも @@@LINK=国民之友 国民之友

国民之友
こくみんのとも

明治中期の総合雑誌
1887年徳富蘇峰が山路愛山らと民友社を結成して創刊。その進歩的平民主義(個人の自由と平等)は,国粋主義の『日本人』と対抗し,論壇・文壇をリードした。日清戦争('94〜95)後,蘇峰の海外膨張論への転向で衰微し,'98年廃刊。
国民民主党
こくみんみんしゅとう @@@LINK=国民民主党 国民民主党

国民民主党
こくみんみんしゅとう

第二次世界大戦後の保守政党(1950〜52)
日本民主党の野党系と国民協同党などが合同して成立。自由党内閣に対して野党の立場をとったが,党勢不振で分裂。1952年2月,農民協同党・新政クラブ・衆院第一クラブと合同し,日本改進党を結成した。
国免荘
こくめんのしょう @@@LINK=国免荘 国免荘

国免荘
こくめんのしょう

平安中期,国司の責任において出された不輸租の許可状を持つ荘園
太政官符および民部省符の承認による官省符荘に対する。官省符をうける手づるを持たない地方豪族などが国司と結託して成立させたもので,延久の荘園整理令(1069)で官省符荘に準ずる効力が認められた。
石盛
こくもり @@@LINK=石盛 石盛

石盛
こくもり

太閤検地以後,租税賦課のため決定された反当たり標準収穫量
斗代 (とだい) ともいう。田畑を上・中・下・下々に分け,上田を坪刈して平均収穫量を算定。反当たり1石5斗なら石盛15とし,中田以下は二つずつ減じた。上畑の石盛は下田なみとした。石盛により村高を定め,それに年貢率を乗じて年貢を課した。1873(明治6)年廃止。
黒曜石
こくようせき @@@LINK=黒曜石 黒曜石

黒曜石
こくようせき

黒色でガラス質の火成岩
日本では,大分県姫島・島根県隠岐島・長野県和田峠・静岡県天城山・北海道白滝十勝岳などに限定して産出する。旧石器時代から縄文時代まで,やじりなど石器の材料として使われた。産地が限定されており,また産地によって石質に多少の違いがあるので,黒曜石製石器の分布状況は当時の交易や交通の事情を知る手がかりになる。
国立銀行
こくりつぎんこう @@@LINK=国立銀行 国立銀行

国立銀行
こくりつぎんこう

1872(明治5)年制定の国立銀行条例により設立された民間銀行
アメリカのナショナル‐バンク(National Bank:連邦政府認可の全国銀行)にならったもので,会社組織の民営。1873年東京の第一国立銀行を最初に,各地に設立され,'79年までに153行を数えた。正貨兌換 (だかん) の銀行券を発行し,殖産興業の資金を供給する目的をもった。'82年日本銀行が設置され,'99年までに普通銀行に転換した。
黒竜会
こくりゅうかい @@@LINK=黒竜会 黒竜会

黒竜会
こくりゅうかい

明治〜昭和期の国家主義団体
三国干渉に憤激した内田良平らが北清事変直後の1901年結成。玄洋社から派生したもので,名称は黒竜江(アムール川)からとった。大アジア主義を唱え,大陸浪人が主力となり,日露戦争での密偵をはじめ韓国併合辛亥 (しんがい) 革命などで活躍。'46年GHQ指令により解散した。
国連軍
こくれんぐん
United Nations Forces
@@@LINK=国連軍 国連軍

国連軍
こくれんぐん
United Nations Forces

国際紛争に関し,侵略国を制裁するために発動する国際連合の兵力
1950年6月朝鮮戦争に際し,アメリカは緊急に国連安全保障理事会を開かせ,北朝鮮を侵略者と断定し,武力制裁を加えるべく国連軍の出動を決定した。このほか,'56年のスエズ動乱,'60年のコンゴ動乱,'64年のキプロス紛争,'92年の旧ユーゴスラヴィア内戦などにも出動した。
五刑
ごけい @@@LINK=五刑 五刑

五刑
ごけい

律令制下における5種類の刑罰
大宝律・養老律によって定められた,笞 (ち) ・杖 (じよう) ・徒 (ず) ・流 (る) ・死の5種の総称。笞と杖はのむちで臀 (しり) を打つ刑,徒は懲役,流は配所に流す刑,死は死刑。罪の軽重によって合わせて20等級にも分かれていた。
苔寺
こけでら @@@LINK=苔寺 苔寺

苔寺
こけでら

西芳寺
御家人
ごけにん @@@LINK=御家人 御家人

御家人
ごけにん

①鎌倉時代,将軍と主従関係を結んだ武士
②江戸時代,将軍直属の下級家臣
御家人以外の武士を非御家人という。御家人は所領安堵・新恩地給与などの御恩をうけ,それに対し奉公として戦時には出陣,平時には京都大番役・篝屋 (かがりや) 番役などの軍役や関東御公事などの経済的負担の義務を負った。鎌倉中期以降,御家人制度の崩壊に伴い,幕府権力は動揺した。
御目見 (おめみえ) 以下,すなわち将軍に謁見できない武士をさした。
御家人株
ごけにんかぶ @@@LINK=御家人株 御家人株

御家人株
ごけにんかぶ

江戸中期以後,御家人となる権利
富裕な町人農民が多額の持参金をもって困窮した御家人の養子となったり,家格を買ったりすることが盛行。こうして買いとられた権利をいい,売却した者は「御家人くずれ」と呼ばれた。
護憲運動
ごけんうんどう @@@LINK=護憲運動 護憲運動

護憲運動
ごけんうんどう

大正時代,特権的な官僚政治に対し,立憲的な政党政治を実現しようとした国民的政治運動
「憲政擁護運動」の略称。〔第1次護憲運動〈1912〜13〉〕大正初期,長州閥陸軍の長老桂太郎の第3次内閣組閣に対し立憲政友会の尾崎行雄,立憲国民党の犬養毅,新聞記者団,交詢社系の実業家などが中心になり「閥族打破・憲政擁護」を主張,群衆の議会包囲にまで発展し,桂内閣は53日で総辞職した。(→大正政変)〔第2次護憲運動〈1924〉〕 大正末期,貴族院を主体に清浦奎吾内閣が成立すると,護憲三派が共同戦線をはり,憲政擁護・普通選挙法実施・貴族院改革などの運動をおこし,'24年5月の総選挙に勝ち,加藤高明内閣(護憲三派内閣)が成立した。
護憲三派
ごけんさんぱ @@@LINK=護憲三派 護憲三派

護憲三派
ごけんさんぱ

大正末期,第2次護憲運動中核となった憲政会立憲政友会革新倶楽部 (くらぶ) の共同戦線
1924年1月,貴族院を基礎にした清浦奎吾内閣が成立すると,特権的な官僚内閣反対・憲政擁護普通選挙法実施・貴族院改革を旗印に護憲三派の共同戦線が成立。同年5月の総選挙で大勝して清浦内閣を打倒した。護憲三派内閣首相に第一党の憲政会総裁加藤高明)を組織し,普通選挙法・治安維持法を制定。貴族院の改革には失敗したが,以後8年間政党内閣が「憲政の常道」として続いた。
五公五民
ごこうごみん @@@LINK=五公五民 五公五民

五公五民
ごこうごみん

江戸時代の年貢率の一つ
全収穫量の5割を領主が年貢として取り,5割を農民が取得する場合をいう。江戸初期には四公六民,天領では享保年間(1716〜36)以後五公五民となった。大名領の中には上州高崎藩の八公二民という高率もあった。
五穀
ごこく @@@LINK=五穀 五穀

五穀
ごこく

江戸時代の主要な穀物の総称
米・麦・粟 (あわ) ・黍 (きび) ・豆をさした。黍のかわりに稗 (ひえ) を入れることもある。
護国寺
ごこくじ @@@LINK=護国寺 護国寺

護国寺
ごこくじ

東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の大本山
1681年徳川綱吉の生母桂昌院の発願で建立された。開山は桂昌院が帰依した僧亮賢。
古語拾遺
こごしゅうい @@@LINK=古語拾遺 古語拾遺

古語拾遺
こごしゅうい

平安初期,斎部広成 (いんべのひろなり) 撰の歴史書
807年成立。1巻。朝廷の祭祀に携わっていた斎部(忌部)氏が藤原(中臣)氏に圧倒されたため,それに対抗して神代以来の祖先の功績を主張したもの。正史にもれた同氏の古伝承を編集。
小御所会議
こごしょかいぎ @@@LINK=小御所会議 小御所会議

小御所会議
こごしょかいぎ

明治維新期,京都御所内の小御所で開かれた御前会議
1867(慶応3)年12月,大政奉還後の徳川氏の処分について論議が行われ,岩倉具視・大久保利通らの武力討幕派が幕府勢力を一掃するため,山内豊信 (とよしげ) ・松平慶永 (よしなが) らの公議政体派を抑えて,徳川慶喜 (よしのぶ) の官位辞退・所領返納(辞官納地)を決定。武力討幕の端緒となり,戊辰 (ぼしん) 戦争を誘発した。
後小松天皇
ごこまつてんのう @@@LINK=後小松天皇 後小松天皇

後小松天皇
ごこまつてんのう

1377〜1433
南北朝末期・室町前期の天皇(在位1382〜1412)
後円融天皇の第1皇子。初め北朝の皇統を継いだが,1392年南朝の後亀山天皇より神器を継承し,南北朝合体を実現。以後持明院統が皇位についた。
こころ

こころ

大正時代,夏目漱石の長編小説
1914年4月〜8月,『朝日新聞』に連載
古今著聞集
ここんちょもんじゅう @@@LINK=古今著聞集 古今著聞集

古今著聞集
ここんちょもんじゅう

鎌倉中期,橘成季 (たちばなのなりすえ) 編の説話集
1254年刊。20巻。範囲を日本のみに限定し,古今の説話を集めたもので,その規模は『今昔物語集』につぐ。年代順に配列。王朝懐古的要素も強いが,新しい説話がとり入れられ,時代相をうかがうことができる。
後嵯峨天皇
ごさがてんのう @@@LINK=後嵯峨天皇 後嵯峨天皇

後嵯峨天皇
ごさがてんのう

1220〜72
鎌倉中期の天皇(在位1242〜46)
土御門 (つちみかど) 天皇の皇子。在位4年で長子後深草天皇に譲位し,以後二十数年間院政を行う。その間,第2子亀山天皇を愛し,後深草天皇に譲位を強いたことが,のち持明院・大覚寺両統対立の原因となった。
小崎弘道
こざきひろみち @@@LINK=小崎弘道 小崎弘道

小崎弘道
こざきひろみち

1856〜1938
明治〜昭和期のキリスト教牧師・思想家
肥後(熊本県)の生まれ。同志社に学び新島襄らの感化をうけ,のちに同志社校長となる。キリスト教青年会・日本キリスト教連盟などの組織化に尽力。また『六合 (りくごう) 雑誌』の論文「近代社会党ノ原因ヲ論ズ」はマルクス紹介の先駆とされる。

小作・小作人・小作制度
こさく・こさくにん・こさくせいど @@@LINK=小作・小作人・小作制度 小作・小作人・小作制度

小作・小作人・小作制度
こさく・こさくにん・こさくせいど

地主から土地を借り,一定の小作料を払って耕作すること,またその耕作者
古代の賃租田中世の請作経営などにもその型がみられるが,江戸時代に入って小作といわれ,中期以降の寄生地主制への進行に伴い制度化し,基本的な土地制度となった。土地の質入れ形式で小作人となる質地小作と,大地主のもとに小作人となる名田小作があり,後者が支配的であった。小作人は水呑百姓がほとんどで,経済的束縛のため苦しんだ。小作料は貢租分・小作人取分とほぼ均分。小作地は明治初年全耕地の3分の1を占めた。1873年の地租改正小作制度と高額小作料が確認され,問題の解決は第二次世界大戦後の農地改革にまでもちこされた。
小作争議
こさくそうぎ @@@LINK=小作争議 小作争議

小作争議
こさくそうぎ

明治時代以降の小作農民の地主への抵抗運動
明治初期以来寄生地主は農地を小作人に貸し,高額な小作料(多くは物納)を搾取した。それに対し第一次世界大戦後,農民組合が各地に結成され,小作料引下げを要求する争議が激化し,地主・警察と衝突した。1931年には全国で6800余件にものぼったが,第二次世界大戦後の農地改革によって寄生地主制が解体され,小作争議もほとんどなくなった。
小作争議調停法
こさくそうぎちょうていほう @@@LINK=小作争議調停法 小作争議調停法

小作争議調停法
こさくそうぎちょうていほう

1924年,小作争議激増に対処するため成立した法律
当事者の申し立てにより裁判所が調停することを規定したが,調停委員会の構成メンバー(地主自作農が多かった),調停条項の強制執行などの点で,小作争議鎮圧のねらいが露骨であった。
小作料
こさくりょう @@@LINK=小作料 小作料

小作料
こさくりょう

小作人が地主に支払う土地使用料
小作米・年貢・加徴米 (かちようまい) ・加地子 (かじし) などの名で呼ばれた。幕末にはだいたい領主37%,地主28%,小作人35%の取米割合であったが,1873(明治6)年の地租改正により,地租34%,地主34%,小作人32%,すなわち小作料68%という高率となった。小作料が高率なために小作争議を引きおこし,また農業の発達,社会の近代化を阻害した。農村困窮は日本資本主義発展の一要因である低賃金労働者の多くを生みだすこととなった。
御三卿
ごさんきょう @@@LINK=御三卿 御三卿

御三卿
ごさんきょう

江戸時代,徳川氏の一族で,田安・一橋・清水の3家をいう
8代将軍徳川吉宗が子宗武・宗尹 (むねただ) に田安・一橋家を,9代将軍家重が子重好に清水家をたてさせた。御三家と同じく将軍を助け将軍に子のないときは継嗣を出すが,同時に御三家を抑える意図をもった。はもたず江戸城の田安門・一橋門・清水門内に住み,10万石の賄料 (まかないりよう) を与えられた。
御三家
ごさんけ @@@LINK=御三家 御三家

御三家
ごさんけ

江戸時代,徳川氏の一族で,尾張・紀伊・水戸藩の3家をいう
それぞれ徳川家康の子義直・頼宣・頼房を祖とする。将軍を助け将軍に子のないときは継嗣を出すようにとの配慮から設置。親藩中の最高位にある大藩で,要地に配置された。水戸藩主は参勤交代をせず江戸に常駐した。
五山十刹
ござんじっさつ @@@LINK=五山十刹 五山十刹

五山十刹
ござんじっさつ

中世における禅宗寺院の格式
五山は時の政府が住持を任命する寺で,最高の寺格をもつ5寺,十刹は,当初それにつぐ寺格をもつ10寺を指していた。南宋官寺制度を模倣したもので,すでに鎌倉時代にこのを用いたが,建武以来しばしば位次の変更があり,足利義満のとき,南禅寺を五山の上におき天竜・相国・建仁・東福・万寿を京都五山,建長・円覚・寿福・浄智・浄妙を鎌倉五山と定めた。十刹は16寺が制定され,定数の意味を失い,寺格化した。1386年京都十刹,関東十刹が定まったが,のち次第に数も増え,中世末には60寺以上の寺院が十刹に指定されていた。
五・三〇事件
ご・さんじゅうじけん @@@LINK=五・三〇事件 五・三〇事件

五・三〇事件
ご・さんじゅうじけん

1925年,上海でおこった中国の民族的反帝国主義運動
1925年2月,上海の日本人経営の紡績工場(在華紡)の労働争議が発端となり,学生・民衆の排外運動が各地に高まった。5月30日,上海での労働者・学生らの反日デモが全国的抗議運動に発展した。これを機に反帝国主義運動が展開した。
後三条天皇
ごさんじょうてんのう @@@LINK=後三条天皇 後三条天皇

後三条天皇
ごさんじょうてんのう

1034〜73
平安中期の天皇(在位1068〜72)
御朱雀天皇の皇子。母は三条天皇の皇女で,摂関家と直接関係がなかったので,関白藤原教通を抑え,醍醐 (だいご) ・村上両源氏や大江匡房 (まさふさ) らを登用した。成功 (じようごう) ・重任 (ちようにん) を禁じ,1069年記録荘園券契所(記録所)を設け延久の荘園整理を断行,また標準枡として延久の宣旨枡を定めるなど政治の刷新につとめた。

後三年合戦絵巻
ごさんねんかっせんえまき @@@LINK=後三年合戦絵巻 後三年合戦絵巻

後三年合戦絵巻
ごさんねんかっせんえまき

南北朝時代の絵巻物
14世紀ころ成立。6巻あるいは4巻,現存3巻。序は玄慧がつくり,尊円入道親王の筆になり,絵は飛驒守惟久 (これひさ) ,詞書は土御門 (つちみかど) 仲直・持明院保修・世尊寺行忠らによる。源義家が陸奥守として,後三年の役を鎮定したことを描いたもの。
後三年の役
ごさんねんのえき @@@LINK=後三年の役 後三年の役

後三年の役
ごさんねんのえき

平安末期の1083〜87年にかけて戦われた,前九年の役に続く奥羽の内乱
清原武則 (たけのり) は前九年の役後鎮守府将軍となったが,その死後一族に内紛がおこり,陸奥守源義家は藤原清衡を助けて清原家衡・武衡を金沢柵で討ち,内紛を鎮定。'88年義家は凱旋したが,朝廷はこれを私闘として恩賞を行わなかったので,義家は私財をもって部下をねぎらい,以後源氏は東国武士の間に地盤を築いた。
五山版
ござんばん @@@LINK=五山版 五山版

五山版
ござんばん

鎌倉末期から室町初期にかけて,京都五山を中心に五山の禅僧によって出版された書籍
宋元版の影響をうけ,元からの優秀な版工の来朝により南北朝時代高揚。おもに禅僧の語録・詩文集を刊行した。総数300点以上になるが,応(1394〜1428)以後衰え,大内・島津氏などの地方大名の手に移った。中世文化史上のみならず,日本出版文化事業に果たした役割は大きい。
五山文学
ござんぶんがく @@@LINK=五山文学 五山文学

五山文学
ござんぶんがく

鎌倉末期から室町時代にかけて京都・鎌倉両五山を中心に発達した漢詩・漢文学の総称
元来,禅宗は「不立文字」「以心伝心」を根本とするものであるが,何らかのかたちで宗教的直観を文字に表現せねばならず言語を象徴的・比喩的に用いるようになったことなどから文学に発展した。鎌倉期の一山一寧 (いつさんいちねい) に始まるといわれ,南北朝期には義堂周信・絶海中津・中巌円月らが活躍し,室町期には瑞溪周鳳・横川景三 (おうせんけいさん) などが有名。中世文学を代表するもので,その末流からは,藤原惺窩 (せいか) ・林羅山を輩出し,江戸期儒学の源流となった。
五・四運動
ご・しうんどう @@@LINK=五・四運動 五・四運動

五・四運動
ご・しうんどう

1919年5月4日,北京の学生の示威運動をきっかけとしておこった中国の反帝・民族運動
日本の二十一カ条要求,帝国主義列強およびそれと結びつく段祺瑞 (だんきずい) 政府に反対して,学生・労働者・商人など国民各層が参加。日貨排斥運動に拡大し政府に親日要人の罷免とヴェルサイユ講和条約拒否を決定させた。

こしき @@@LINK=甑 甑


こしき

食物,ことに米を蒸すための土器
底部にを有する深鉢形をし,弥生時代に出現。古墳時代になると,甑・釜・かまどが1組としてつくられた。
古事記
こじき @@@LINK=古事記 古事記

古事記
こじき

奈良時代,現存する日本最古の歴史書
712年成立。3巻。天武天皇の命により稗田阿礼 (ひえだのあれ) が暗誦,これを元明天皇の詔により太安万侶 (おおのやすまろ) が撰録したもの。『帝紀』『旧辞』を検討し,その正説を定めるという編集の根本方針により,神代から推古天皇までを内容とし,天皇の支配による国家の建設という意図により構成されている。
古事記伝
こじきでん @@@LINK=古事記伝 古事記伝

古事記伝
こじきでん

江戸後期,本居宣長の著した『古事記』の注釈書
35年間の歳月をかけ1798年完成。44巻。『古事記』を精密に研究することにより,儒仏思想の浸透していない古代日本人固有の精神が理解できるものとした。その実証的・総合的研究成果は今日でも価値を失わない。
五色の賤
ごしきのせん @@@LINK=五色の賤 五色の賤

五色の賤
ごしきのせん

律令制における5種類の賤民
陵戸・官戸・家人・公奴婢 (くぬひ) ・私奴婢 (しぬひ) があった。陵戸・官戸・公奴婢は官有で,家人・私奴婢は私有。最下層の身分に置かれ,朝廷・官司・豪族の雑役に従事し,良民との婚姻は禁止された。
古事談
こじだん @@@LINK=古事談 古事談

古事談
こじだん

鎌倉初期,源顕兼 (あきかね) の説話集
1212〜15年の間の成立。6巻。神仏宮廷民間の説話をおさめる。
古史徴
こしちょう @@@LINK=古史徴 古史徴

古史徴
こしちょう

江戸後期,平田篤胤 (あつたね) の著した神代古伝説の研究書
1818〜19年刊。4巻11冊。篤胤の構成した古代史『古史成文』の典拠として,古典を比較研究したもの。古代史研究の入門書。考証的であるが歴史と神話を混同したところもみられる。
古史通
こしつう @@@LINK=古史通 古史通

古史通
こしつう

江戸中期,新井白石の著した史論書
1716年刊。4巻。日本古代史研究の方法を述べ,事実を神話化せず,史料の選択,比較研究によって科学的・合理的に解釈することを試みた。
児島惟謙
こじまいけん @@@LINK=児島惟謙 児島惟謙

児島惟謙
こじまいけん

1837〜1908
明治時代の司法官
宇和島藩出身。1891年大審院長となる。同年来日中のロシア皇太子を傷つけた巡査津田三蔵に対し,政府はロシアの報復を恐れ不敬罪を適用し死刑を強要したが,児島は法律の規定どおり無期懲役の判決をもって,司法権の独立を示した。のち貴族院・衆議院議員などを歴任した。
腰巻
こしまき @@@LINK=腰巻 腰巻

腰巻
こしまき

室町末期の女性衣裳の一つ
宮中の下級女官が衣料不足により緋袴 (ひはかま) を省略し,打掛を小袖 (こそで) の上に着用したが,夏季に腰に巻いたところよりおこる。江戸時代の武家もこれにならって高い地位の女中も着用した。
五爵
ごしゃく @@@LINK=五爵 五爵

五爵
ごしゃく

・伯・の5等の爵位。
戸主
こしゅ @@@LINK=戸主 戸主

戸主
こしゅ

家の首長として家族を支配・統率する地位にある者
律令制において確立し,最年長者がなった。中世になると家族に対する支配権が強化された。明治時代,戸主権を法制化したが,戦後,日本国憲法で廃止された。
55年体制
ごじゅうごねんたいせい @@@LINK=55年体制 55年体制

55年体制
ごじゅうごねんたいせい

1955年に日本社会党の統一と保守合同による自由民主党の結成によってできた二大政党中心の政治体制
1955年10月に左右両派に分裂していた日本社会党が統一,これに促されて11月には保守陣営の自由党と民主党が合同して自由民主党を発足させた。実質は自民党の単独政権が長く続いたが,保守と革新の二大潮流を生み出し,以後,保革対立という政治図式を形づくることになった。しかし,'93年自民党から分裂した新生党や新党さきがけが,社会党,民社党,公明党,日本新党などとともに反自民の細川護煕内閣を発足させ,ここに55年体制は崩壊した。
呉春
ごしゅん @@@LINK=呉春 呉春

呉春
ごしゅん

1752〜1811
江戸後期の画家。四条派の祖
松村月溪別名居所の摂津(大阪府)の池田の古名呉服里 (くれはのさと) にちなんで,呉春と改名した。京都の人。与謝蕪村に俳諧と南画を,蕪村の死後円山応挙に写生画を学び,両者特色を生かした新画風(京都四条の居所から四条派といった)を開いた。その詩情をもりこんだ写生画は軽妙でわかりやすく,以後の京都画壇の主流となった。代表作に『柳鷺群禽 (りゆうろぐんあ) 図屛風』など。

後白河天皇
ごしらかわてんのう @@@LINK=後白河天皇 後白河天皇

後白河天皇
ごしらかわてんのう

1127〜92
平安末期の天皇(在位1155〜58)
鳥羽天皇第4皇子。兄崇徳上皇と対立,これが保元の乱の一因となった。乱後譲位して二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代34年間にわたり院政を行った。源平の争乱,鎌倉幕府の成立など激動期にあって貴族勢力維持のため武家勢力と対抗。1169年法皇となり,多くの寺仏を造った。また『梁塵秘抄』の撰者としても有名である。

古事類苑
こじるいえん @@@LINK=古事類苑 古事類苑

古事類苑
こじるいえん

明治時代に編纂された分類史料集
1879年西村茂樹の建議により文部省が編纂。1907年編纂完了。'13年刊行終了。1000巻。日本古来の制度・文物などの諸事項を天部から金石部にわたる30部門に類別,各部をさらに編・条・項に分けて関係史料を広く収集してある。史料集として最大の書。
子代・名代
こしろ・なしろ @@@LINK=子代・名代 子代・名代

子代・名代
こしろ・なしろ

大化以前の大王家(のち皇室)の私有
記紀では,天皇皇子がないとき,名を後世に伝えるために設置したという。その実態は明確ではないが,子代は皇子養育のため,名代は皇族の生活維持のため,国造 (くにのみやつこ) の民を割いて設けたと考えられる。皇子・皇族の経済源であるが,子代・名代の区別ははっきりしない。大化の改新公民となった。
御親兵
ごしんぺい @@@LINK=御親兵 御親兵

御親兵
ごしんぺい

明治初年,天皇の護衛兵。近衛兵の前身
後朱雀天皇
ごすざくてんのう @@@LINK=後朱雀天皇 後朱雀天皇

後朱雀天皇
ごすざくてんのう

1009〜45
平安中期の天皇(在位1036〜45)
一条天皇の皇子。母は藤原道長の娘彰子 (しようし) 。在位中は藤原頼通が関白として全権掌握。藤原一門の全盛期にあたる。

御成敗式目
ごせいばいしきもく @@@LINK=御成敗式目 御成敗式目

御成敗式目
ごせいばいしきもく

1232(貞永元)年制定された鎌倉幕府の根本法典。最初の武家法
関東御成敗式目」ともいい,成立年号をとって,ふつう「貞永式目」という。執権北条泰時が評定衆の三善康連 (やすつら) らに命じて編纂させた。51条。御家人の権利・義務や所領の訴訟などについて,源頼朝以来の慣習法・判例など武家社会の正義を平易に成文化したもので,制定の趣旨は,泰時の弟重時あての消息にくわしい。以後も随時立法され,式目追加と呼ばれた。室町幕府もこれを基本法典として室町幕府が立法したものは建武以来追加とされた。武家法制の法源として,後世に多大の影響を及ぼした。
戸籍
こせき @@@LINK=戸籍 戸籍

戸籍
こせき

律令制下,人民の戸口調査の台帳
6〜7世紀ごろから作成されはじめ,大化の改新後の670年に全国的な戸籍である庚午年籍 (こうごねんじやく) が作成された。戸口の名,戸主との続柄,家族の性別・年齢,課不課の別,受田額などが記され,計帳とともに人民の把握・租税徴収の原簿となった。
小関三英
こせきさんえい @@@LINK=小関三英 小関三英

小関三英
こせきさんえい

1787〜1839
江戸後期の蘭学者
出羽(山形県)鶴岡の人。長崎でシーボルトに学び,『泰西 (たいせい) 内科集成』を翻訳。のち幕府の天文方阿蘭陀 (オランダ) 書籍和解御用となった。尚歯会 (しようしかい) に加わり,高野長英・渡辺崋山らが蛮社の獄で捕らえられると,連坐を恐れて自殺した。

五姓田芳柳
ごせだほうりゅう @@@LINK=五姓田芳柳 五姓田芳柳

五姓田芳柳
ごせだほうりゅう

1827〜92
明治前期の洋画家
本名浅田岩吉。五度改姓したことから五姓田と称す。江戸の生まれ。浮世絵・狩野派などを学び,のちワーグマンに洋画を師事。ぼかしによる陰影法の肖像画を得意とし,1864年横浜で一派をなし横浜絵と呼ばれた。代表作に『明治天皇像』など。

五摂家
ごせっけ @@@LINK=五摂家 五摂家

五摂家
ごせっけ

鎌倉時代以降の摂政・関白の家柄
藤原北家道長の流れである近衛・鷹司 (たかつかさ) ・九条・二条・一条の5家のこと。平氏滅亡後,1186年源頼朝の奏請により九条兼実が摂政になって以来,藤原嫡流は近衛・九条の2家に分かれた。その後,鎌倉中期に近衛から鷹司が,九条から二条・一条が分立。江戸末期まで順次摂関となり,明治期に至り華族に列し公爵となった。
巨勢金岡
こせのかなおか @@@LINK=巨勢金岡 巨勢金岡

巨勢金岡
こせのかなおか

生没年不詳
平安前期の宮廷絵師
唐絵の国風化を始め,後世大和絵の祖とされるが,真筆は伝わらない。彼の流派を巨勢派という。
巨勢野足
こせののたり @@@LINK=巨勢野足 巨勢野足

巨勢野足
こせののたり

748〜816
平安初期の軍人貴族
参議堺麻呂 (せきまろ) の孫。791年大伴弟麻呂 (おおとものおとまろ) に従って蝦夷 (えみし) 征討に参加。810年藤原冬嗣と並んで,最初の蔵人頭 (くろうどのとう) となった。のち中納言になり,陸奥・出羽の按察使 (あぜち) を兼ねた。
後撰和歌集
ごせんわかしゅう @@@LINK=後撰和歌集 後撰和歌集

後撰和歌集
ごせんわかしゅう

平安中期,第2番目の勅撰和歌集。八代集の一つ
20巻。歌数約1400首。951年村上天皇の命で源順 (みなもとのしたごう) ら「梨壺の五人」が編集。歌の作者はほぼ『古今和歌集』と重なり,撰者の歌はいれていない。特色として贈答歌が多く,詞書が長いことがあげられるが,これは歌集の物語化を意味する。
小袖
こそで @@@LINK=小袖 小袖

小袖
こそで

袖口を狭くし袖下を丸く仕立てた衣服の総称。現在の和服の原形
大袖・振袖 (ふりそで) に対する語。平安時代は公家の下着で,白衣・筒袖。室町・戦国期には小袖が表着となり,貴人は小袖袴姿,婦人は打掛という小袖を上に重ね,下にさらに小袖を着帯した(腰巻姿)。武士は小袖に肩衣袴を着用し中礼服とし,民間男子は羽織袴に無地紋付の小袖とした。布地・模様とも女子は華美なものに変わった。
五大銀行
ごだいぎんこう @@@LINK=五大銀行 五大銀行

五大銀行
ごだいぎんこう

第二次世界大戦前に独占的地位を占めた三井三菱住友安田・第一の5銀行
いずれも各財閥の中枢機関として発達し,特に1927年の金融恐慌を通じて覇権を確立し産業界を支配した。
後醍醐天皇
ごだいごてんのう @@@LINK=後醍醐天皇 後醍醐天皇

後醍醐天皇
ごだいごてんのう

1288〜1339
鎌倉末期・南北朝初期の天皇(在位1318〜39)。鎌倉幕府を倒し建武の新政を実現した
後宇多天皇の第2皇子。1318年両統迭立 (てつりつ) 時代に大覚寺統から出て即位。古代的な天皇親政を復活しようとして討幕を計画し,'24年正中の変,'31年元弘の変をおこしたが失敗。隠岐に配流されたが,新田義貞・足利尊氏らの協力を得て,'33年鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政を実現。しかし新政は公武の不和のため失敗し,尊氏の反乱により崩壊した。のち吉野に移り,南朝を開き尊氏の立てた北朝と対立,南北朝の内乱となり,南朝不振の中で病没した。

五台山
ごだいさん @@@LINK=五台山 五台山

五台山
ごだいさん

中国山西省北東部にある仏教の名山
5世紀ごろから,『華厳経』にみえる文殊菩薩 (もんじゆぼさつ) の住地であると信じられ,中国仏教の三大霊山の一つとして栄えた。日本からも玄昉 (げんぼう) ・円仁 (えんにん) ・奝然 (ちようねん) ・成尋 (じようじん) らが巡礼している。
五代友厚
ごだいともあつ @@@LINK=五代友厚 五代友厚

五代友厚
ごだいともあつ

1835〜85
明治前期の実業家
薩摩藩出身。幕末イギリスに留学。1868年外国事務局判事・大阪府権判事などを歴任したが,翌年官を辞し実業界に転身,政商として各種事業にあたった。'81年には関西貿易社を設立し,開拓使官有物払下げ事件をひきおこしたが,大阪堂島米商会所・株式取引所・商法会議所などの創設をはじめ,大阪の経済的発展に大いに貢献した。

五大老
ごたいろう @@@LINK=五大老 五大老

五大老
ごたいろう

安土桃山時代,豊臣政権の最高権威をもつ職名
大老は徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・小早川隆景・上杉景勝・毛利輝元で,五奉行の後見として重要政務を合議した。隆景の死後五大老と呼ばれた。1599年利家死後,家康が中心となり,1600年の関ケ原の戦いの後は崩壊。
交趾
コーチ
Cochin @@@LINK=交趾 交趾

交趾
コーチ
Cochin

中世〜近世,ヴェトナム地方にあった国家
15世紀,明の支配を脱して安南国を建設。中国ではこの国を安南あるいは交趾と称したが,16世紀末には,国王鄭氏の勢力が衰え,これと対抗した阮 (げん) 氏の統治する南部地方のみをさすようになった。19世紀後半以後,メコン川下流のフランス領植民地の名称(コーチシナ)。日本とは安土桃山時代から江戸初期にかけて朱印船貿易が盛んに行われ,日本町(ツーラン,フェフォ)も建設された。
戸長
こちょう @@@LINK=戸長 戸長

戸長
こちょう

明治前期の地方行政区画の長
1871年制定の戸籍法に基づき戸籍事務担当者として設置された。'72年大区・小区制では小区の長,'78年の郡区町村編制法では1ないし数町村の長で,旧来の村役人や豪農出身が多く,行政官と住民の代表者の二面性をもった。'89年市制・町村制施行で市長町村長となり,戸長は廃止された。
国会
こっかい @@@LINK=国会 国会

国会
こっかい

帝国議会のことを呼ぶこともあるが,正式には日本国憲法に基づく国の立法機関
1947年設置。国権の最高機関であり国の唯一の立法機関であると憲法に規定されている。衆議院・参議院の2院制をとり,全国民が選挙した議員で構成。多くの面で衆議院の優越性が認められ,また衆議院にのみ解散がある。首相の指名,条約の承認,予算の制定など,その権限は帝国議会よりはるかに大きい。
国会開設運動
こっかいかいせつうんどう @@@LINK=国会開設運動 国会開設運動

国会開設運動
こっかいかいせつうんどう

明治前期,自由民権運動の一環として,政府に対し国会開設を要求した運動
1874(明治7)年民撰議院設立建白以来,国会開設は民権運動の中心的要求となり,立志社などの政治結社が各地につくられ,全国的組織として '75年愛国社が結成された。'80年ごろには豪農層などの支持を得て,各地で国会開設請願運動が展開され,愛国社は国会期成同盟と改称され,片岡健吉・河野広中が約9万人を代表して国会開設請願書を太政官・元老院に提出したが却下された。政府は集会条例を施行し弾圧したが,この運動の高まりの中で '81年国会開設の勅諭を発布した。
国会開設の勅諭
こっかいかいせつのちょくゆ @@@LINK=国会開設の勅諭 国会開設の勅諭

国会開設の勅諭
こっかいかいせつのちょくゆ

明治前期,自由民権運動の高まりに対し国会開設を約束した勅諭
国会期成同盟を中心とする国会開設運動は,1881年開拓使官有物払下げ事件最高潮に達し,政府は10月12日,10年後の明治23年を期して国会を開設することを約束する勅諭を出し,ついで国会早期開設論者である参議大隈重信を官した(明治十四年の政変)。
国会期成同盟
こっかいきせいどうめい @@@LINK=国会期成同盟 国会期成同盟

国会期成同盟
こっかいきせいどうめい

1880(明治13)年結成された国会開設(請願)運動の全国的結社(〜'81)
愛国社が1880年第4回大会で国会期成同盟と改称して成立。同年4月片岡健吉・河野広中らは2府22県約8万7000人を代表し,国会開設請願書を太政官・元老院に提出したが,政府は受理せず,かえって集会条例を発し弾圧した。翌年国会開設の勅諭が出されると自由党に発展的解消した。
骨角器
こっかくき @@@LINK=骨角器 骨角器

骨角器
こっかくき

原始時代,獣・鳥・魚の骨や角などでつくられた道具
縄文時代には銛 (もり) ・釣針などの魚撈用具や鏃 (やじり) として利用されたが,弥生時代に入ると装身具などに用いられるようになった。
国家公務員法
こっかこうむいんほう @@@LINK=国家公務員法 国家公務員法

国家公務員法
こっかこうむいんほう

1948年7月施行された国家公務員に関する基本法
明治憲法下においては官吏はすべて天皇の官吏とされていたが,日本国憲法においては,公務員はすべて全体の奉仕者であって,官吏に関する事務は法律の定める基準によるとされた。施行後,まもなくマッカーサー書簡による政令201号により,公務員の争議行為が禁止され,さらに同年に公務員の政治活動の禁止令も付加された。このように中立を保つためとして政治活動が制限され,労働基本権も制約されている。
国家社会主義
こっかしゃかいしゅぎ @@@LINK=国家社会主義 国家社会主義

国家社会主義
こっかしゃかいしゅぎ

マルクス主義に対抗し国家主義の立場から社会改良を主張するもの
日本ではロシア革命後,高畠素之 (たかばたけもとゆき) が唱え,大川周明・北一輝らが発展させて革新右翼形成。天皇中心にファシズム的な社会変革を行い,アジアへ進出することを説いた。1929年の世界恐慌以後,社会不安に応じて支持者が広まり,軍国主義化を促進させる役割を果たした。
国家主義
こっかしゅぎ @@@LINK=国家主義 国家主義

国家主義
こっかしゅぎ

国家を最高の組織として重んじ,その権力に社会生活の全域に及ぶ優越性を認める立場
排外的な民族主義と結びつきやすい。日本では家族主義的な国家観に基づいて,天皇への忠誠を求め,民衆の民族的な感情をアジアへの侵略に動員した。昭和期に入り極端な超国家主義が唱えられ,戦争遂行の思想的な支えとなった。
国家神道
こっかしんとう @@@LINK=国家神道 国家神道

国家神道
こっかしんとう

近代の国教としての神道
神道を政治に利用することはすでに江戸時代から行われているが,近代に入ると平田派の国学者らによって,1870年大教宣布が行われ,神社神道を国教化することが進められた。その後神道は近代天皇制の思想的支柱となり,軍国主義イデオロギーの推進力となった。しかし第二次世界大戦に敗れた結果,1945年国家と神道の分離が行われた。
国家総動員法
こっかそうどういんほう @@@LINK=国家総動員法 国家総動員法

国家総動員法
こっかそうどういんほう

1938年4月,第1次近衛文麿内閣により公布された戦時法令
日中戦争の長期化を背景に,戦時に際して必要な労働力・工場機械資材などの人的・物的資源を,政府が議会の承認なしに勅令で統制・運用できるよう制定。以後,これによって各種統制法令を発布して戦時統制経済を確立し,国家総力戦体制を構築した。'46年廃止。
国家法人説
こっかほうじんせつ @@@LINK=国家法人説 国家法人説

国家法人説
こっかほうじんせつ

天皇機関説
国記
こっき @@@LINK=国記 国記

国記
こっき

日本最古の歴史書
『天皇記』とともに,聖徳太子が蘇我馬子と編さんしたという。
国旗・国歌法
こっき・こっかほう @@@LINK=国旗・国歌法 国旗・国歌法

国旗・国歌法
こっき・こっかほう

国旗および国歌に関する法律
1999年8月,日の丸を国旗とし,君が代を国歌とする法律が成立し,公布された。日の丸掲揚,君が代斉唱の指導をめぐって,'99年3月,広島の県立高校校長が自殺したことをきっかけに,自自公3党で法制化がすすめられた。
国共合作
こっきょうがっさく @@@LINK=国共合作 国共合作

国共合作
こっきょうがっさく

中国国民党と中国共産党が前後2回にわたって結んだ提携
〔第1回〈1924〜27〉〕国民党の孫文は「連ソ・容共・扶助工農」を綱領として共産党員が個人の資格で国民党に入党する形で合作を成立させた。'27年2月国民党左派と結んだ共産党が武漢政府をつくると,同年4月蔣介石は上海でクーデタを断行,共産党を弾圧して南京に国民政府を樹立。これと対立した武漢政府ものちに反共宣言を発し,国共合作は破れた。〔第2回〈'37〜46〉〕'36年の西安事件により国共停戦がなり,'37年盧溝橋事件を契機に抗日民族統一戦線が結成され,再び合作が成立した。抗日戦争中,共産党は着実に勢力を伸ばし,国民党との反目が続いたが,第二次世界大戦後内戦によって完全に分裂した。
コックス
Richard Cocks @@@LINK=コックス コックス

コックス
Richard Cocks

1566〜1624
江戸初期に来日した平戸のイギリス商館長
1613年遣日貿易使節とともに来日,初代館長となった。日本内地やシャム・トンキン方面に手広く貿易を行ったが,オランダとの競争に敗れ,経営不振となったため,'23年商館を閉鎖して帰国途中に死亡した。

滑稽本
こっけいぼん @@@LINK=滑稽本 滑稽本

滑稽本
こっけいぼん

江戸後期,宝暦(1751〜64)以後の小説形態の一つ
中本 (ちゆうほん) ともいう。化政期(1804〜30)が最盛。洒落本弾圧以後派生し,滑稽を要素とした会話中心の江戸の大衆小説。庶民の日常生活・風俗を描き,十返舎一九 (じつぺんしやいつく) の『東海道中膝栗毛』,式亭三馬の『浮世風呂』『浮世床』が著名。江戸末期には低俗に堕し,衰退した。
国権論
こっけんろん @@@LINK=国権論 国権論

国権論
こっけんろん

明治前期から中期にかけての国家主義・民族主義的思想
19世紀後半の欧米列強の圧力のもとで近代国家として出発することになった後進国日本が独立の地位を保つためには,上からの富国強兵策を支持する側からも,下からの民権確立を主張する側でも,国権の確立・拡張が目標とされた。しかし自由民権運動の衰えとともに民権思想と対立する立場の国権(国家)主義思想が支配的となり,対外侵略戦争遂行に向かって動員されることになった。
兀庵普寧
ごったんふねい @@@LINK=兀庵普寧 兀庵普寧

兀庵普寧
ごったんふねい

1197〜1276
鎌倉中期の臨済宗の僧
1260年宋より来日。円爾弁円に迎えられて博多から京都東福寺に入る。北条時頼の招きによって建長寺の住持となり,時頼の帰依をうけた。時頼の死後 '65年帰宋。

後藤庄三郎光次
ごとうしょうざぶろうみつつぐ @@@LINK=後藤庄三郎光次 後藤庄三郎光次

後藤庄三郎光次
ごとうしょうざぶろうみつつぐ

1571〜1625
江戸初期の金座代表者
彫金家後藤徳乗の弟子で,後藤姓を許された。徳川家康に招かれて幕府の金銀改役となり,慶長金銀鋳造,幕府の貨幣制度を確立した。後藤庄三郎家初代。子孫も代々庄三郎を名乗った。1810年,11代目の不正事件で伊豆に流され絶家した。
後藤象二郎
ごとうしょうじろう @@@LINK=後藤象二郎 後藤象二郎

後藤象二郎
ごとうしょうじろう

1838〜97
明治時代の政治家
土佐藩出身。坂本竜馬の影響をうけて列侯会議論を唱え,徳川慶喜 (よしのぶ) の大政奉還に重要な役割を演じた。1873年征韓論に敗れて下野,翌'74年板垣退助らと民撰議院設立を建白。'81年自由党の結成に加わり,翌年政府の懐柔により板垣と外遊,世間批判をうけた。'87年大同団結運動をおこしたが,政府と妥協し黒田清隆内閣の逓相('89年)となり,運動の分裂を招いた。
後藤新平
ごとうしんぺい @@@LINK=後藤新平 後藤新平

後藤新平
ごとうしんぺい

1857〜1929
明治末期・大正時代の政治家
陸奥(岩手県)の生まれ。内務省に入り,台湾総督府の民政局長として植民地経営の業績をあげ,1906年初代南満州鉄道総裁,以後,逓相・鉄道院総裁・内相・外相・東京市長などを歴任。関東大震災後の第2次山本内閣では内相兼帝都復興院総裁となり,東京の復興に尽力した。

古道説
こどうせつ @@@LINK=古道説 古道説

古道説
こどうせつ

本居宣長平田篤胤 (あつたね) が主張した日本古来の純粋素朴な精神を重んじる考え
宣長は『古事記』などの古典から,神ののままに素直に生きることを古代の道とした。さらに篤胤によって古道は神学的な修飾で神秘化され,尊王論のもとになった。
後藤祐乗
ごとうゆうじょう @@@LINK=後藤祐乗 後藤祐乗

後藤祐乗
ごとうゆうじょう

1440〜1512
室町時代の金工。金工後藤家の祖
美濃の人で,8代将軍足利義政に仕え,のち刀装金具に新機軸を創案。目貫・小柄 (こづか) の彫金作品を残した。

後鳥羽天皇
ごとばてんのう @@@LINK=後鳥羽天皇 後鳥羽天皇

後鳥羽天皇
ごとばてんのう

1180〜1239
鎌倉初期の天皇(在位1183〜98)
高倉天皇の第4皇子。安徳天皇を擁した平氏が西走ののち,祖父後白河法皇の院政のもとで即位。法皇没後親政,1198年から院政を行う。この間土御門通親 (つちみかどみちちか) を用い親幕勢力を排除し,西面の武士を設置して公家勢力の伸張につとめた。1221年北条義時追討の院宣を発したが幕府軍に完敗し(承久の乱),隠岐に流され,その地で没した。また歌人としてもすぐれ『新古今和歌集』を勅撰した。

金刀比羅宮
ことひらぐう @@@LINK=金刀比羅宮 金刀比羅宮

金刀比羅宮
ことひらぐう

香川県仲多度郡琴平町にある神社。主神は大物主 (おおものぬし) 命で崇徳上皇を合祀
もと金毘羅 (こんぴら) 大権現と称した。「金毘羅」とはインドの海神竜王のこと。古来,漁民・海上の守護神として崇敬され,特に14世紀ころからその信仰も盛んとなり,全国に分社がつくられた。現在は交通安全の神となる。
後奈良天皇
ごならてんのう @@@LINK=後奈良天皇 後奈良天皇

後奈良天皇
ごならてんのう

1496〜1557
戦国時代の天皇(在位1526〜57)
後柏原天皇の第2皇子。皇室の経済力が最も衰微した時期のため,即位式は10年後に大内氏・後北条氏らの献金でようやく行われた。飢饉・疫病の流行に際して,『般若心経』を書写して災除の祈願をされたことは有名。

湖南事件
こなんじけん @@@LINK=湖南事件 湖南事件

湖南事件
こなんじけん

大津事件
小西行長
こにしゆきなが @@@LINK=小西行長 小西行長

小西行長
こにしゆきなが

?〜1600
安土桃山時代の武将。キリシタン大名
堺の豪商小西隆佐 (りゆうさ) の子。初め宇喜多氏の家人,のち豊臣秀吉の側近として仕え,1588年九州征討に従い,肥後一揆鎮圧の功により肥後半国12万石を領した。文禄・慶長の役には加藤清正とともに先鋒になり出陣,講和に努力したが失敗した。秀吉の死後,石田三成にくみして清正らの武断派と対立するようになり,1600年関ケ原の戦いには三成らと西軍の中心となり戦ったが敗れ,京都で斬首された。

五人組
ごにんぐみ @@@LINK=五人組 五人組

五人組
ごにんぐみ

江戸時代,幕府がつくらせた庶民の自治組織
古代の五保の制に原型が認められ,中世以来自治組織として発達してきたものを,江戸幕府が寛永年間(1624〜44)に制度化。キリシタン禁制・牢人取締り・防犯納税などに連帯責任をもたせた。村方では本百姓,町方では家持・家主を構成員とし,5戸1組を原則とし,その長を五人組頭と呼んだ。五人組帳を作成し,組員の守るべき法令を組員連判して誓約させた。
五人組帳
ごにんぐみちょう @@@LINK=五人組帳 五人組帳

五人組帳
ごにんぐみちょう

江戸時代,五人組の守るべき法令を記し,組員に連判して誓約させた帳簿。
近衛篤麿
このえあつまろ @@@LINK=近衛篤麿 近衛篤麿

近衛篤麿
このえあつまろ

1863〜1904
明治時代の政治家
文麿の父。京都の生まれ。1885年ドイツに留学。帰国後貴族院で活躍。義和団事件後ロシアが満州を占領すると,1900年頭山満 (とうやまみつる) らと国民同盟会を結成。'03年には対露同志会を結成して,対露強硬外交を叫び,対露開戦の気運を高めるのに大きな役割を演じた。

近衛家
このえけ @@@LINK=近衛家 近衛家

近衛家
このえけ

藤原北家の嫡流で,五摂家の筆頭
源頼朝は摂関家の勢力をそぐため,藤原忠通の3男兼実を摂政として九条家を始め,長男基実の系統を近衛家と呼んで摂関家を二分した。鎌倉中期,さらに近衛家から鷹司 (たかつかさ) 家が分立。戦国時代には信尹 (のぶただ) を出す。明治時代に至り公爵に列せられた。
近衛三原則
このえさんげんそく @@@LINK=近衛三原則 近衛三原則

近衛三原則
このえさんげんそく

1938年12月,近衛文麿首相の発表した対中国政策
第3次近衛声明ともいう。近衛声明(第1次)後,東亜新秩序建設声明(第2次近衛声明)に次いで発表されたもので,「善隣友好・日中防共協定締結・経済提携」として,重慶を脱出した汪兆銘の親日政権樹立を支援するため,日中交渉の条件を提示した。
近衛声明
このえせいめい @@@LINK=近衛声明 近衛声明

近衛声明
このえせいめい

日中戦争中の1938年,第1次近衛文麿内閣による対中国声明
1938年1月,「国民政府を対手とせず」として新興政権の成立を期待し,これとの和平交渉の意志を示したもの。これによりかえって国民政府との和平の道を閉ざし,長期戦に突入した(第1次近衛声明)。同年11月,戦争が長期化する中で,先の声明を若干修正して,東亜新秩序建設の声明を発表した(第2次近衛声明)。
近衛信尹
このえのぶただ @@@LINK=近衛信尹 近衛信尹

近衛信尹
このえのぶただ

1565〜1614
安土桃山〜江戸時代初期の公家・歌人
号は三藐院 (さんみやくいん) 。内大臣・左近衛大将などを歴任したが,文禄の役に従軍を望んだが,勅勘をうけ薩摩に配流。島津義久に厚く遇された。のち許されて帰京,左大臣・関白に昇任した。また歌道や禅風の書画にもすぐれた。

近衛秀麿
このえひでまろ @@@LINK=近衛秀麿 近衛秀麿

近衛秀麿
このえひでまろ

1898〜1973
大正・昭和期の指揮者
文麿の弟。東京の生まれ。山田耕筰に師事。1923年ヨーロッパに留学し,帰朝後山田とわが国最初の日本交響楽団創立。のち新交響楽団を,さらに第二次世界大戦後には近衛交響楽団を主宰。わが国の交響楽普及に貢献した。

近衛府
このえふ @@@LINK=近衛府 近衛府

近衛府
このえふ

天皇の側近く警護する令外官 (りようげのかん) 。六衛府の一つ
759年設置された授刀衛 (じゆとうえ) を765年改称したもの。807年近衛府を左近衛府とし,中衛府を右近衛府とした。長官は大将で,大納言または大臣が兼任した。
近衛文麿
このえふみまろ @@@LINK=近衛文麿 近衛文麿

近衛文麿
このえふみまろ

1891〜1945
昭和期の政治家
篤麿 (あつまろ) の長男。東京の生まれ。五摂家の筆頭の家柄で,革新政治家として国民の期待・人気を集めた。貴族院議長から首相に就任し,組閣3回。この間日中戦争の処理,国内の軍部・政党調停など期待されたが,新体制運動・大政翼賛会設立・日独伊三国同盟締結など,結局,ファシズム体制を促進し,日米交渉打開にも失敗した。戦中第一線を退いたが,'45年早期終戦を上奏。第二次世界大戦後戦犯に指名され服毒自殺した。

近衛文麿内閣
このえふみまろないかく @@@LINK=近衛文麿内閣 近衛文麿内閣

近衛文麿内閣
このえふみまろないかく

近衛文麿を首班とする内閣
〔第1次〈1937.6〜39.1〉〕林銑十郎内閣倒閣後,挙国一致をめざして各界の期待をになって組閣。日中戦争勃発には不拡大方針を表明したが,軍部におされ,また和平工作に失敗して戦争は拡大した。国家総動員法を制定して戦時体制を整えた。〔第2次〈'40.7〜41.7〉〕米内光政内閣のあとをうけて組閣。大政翼賛会結成など新体制運動を強力に推進,外交では日独伊三国同盟・日ソ中立条約締結などを行う一方,日米交渉を開始したが,これに反対する松岡洋右 (ようすけ) 外相を更迭するため総辞職。〔第3次〈'41.7〜41.10〉〕ひきつづき組閣。日米交渉の行きづまりが打開できず総辞職し,東条英機内閣が成立した。
近衛兵
このえへい @@@LINK=近衛兵 近衛兵

近衛兵
このえへい

明治時代以降,天皇の護衛兵
1871年廃藩置県の際,薩摩長州・土佐3藩の兵約1万で御親兵を組織し,廃藩置県遂行にあたり諸藩を威圧した。'72年近衛兵と改称。徴兵令施行直後は,徴兵軍隊の反乱にそなえ旧藩士族兵をあてていたが '75年からは近衛兵も徴兵制に代えられていった。'91年近衛師団となる。
小早川氏
こばやかわし @@@LINK=小早川氏 小早川氏

小早川氏
こばやかわし

中世〜近世初期にかけての安芸 (あき) (広島県)の豪族
相模国(神奈川県)早河庄内土肥郷からおこり,土肥実平 (さねひら) の子遠平から小早川氏を称した。源頼朝により平家追討の功で,遠平が安芸国地頭職に任ぜられ土着。のち毛利元就 (もとなり) の3男隆景が小早川家の養子となり,吉川 (きつかわ) 氏とともに「毛利両川 (りようせん) 」と称された。隆景は豊臣秀吉に仕え,五大老の一人となった。隆景の養子秀秋は関ケ原の戦いで東軍に内通。秀秋の死後,嗣子なく断絶した。
小早川隆景
こばやかわたかかげ @@@LINK=小早川隆景 小早川隆景

小早川隆景
こばやかわたかかげ

1533〜97
戦国・安土桃山時代の武将
毛利元就 (もとなり) の3男。小早川家を継ぎ,兄吉川元春とともに元就・の輝元を助け,毛利氏の中国制覇に活躍した。備中高松城防衛に出陣して豊臣秀吉と和睦。秀吉に服し九州征討先陣となった。文禄の役では碧蹄館 (へきていかん) で明の大軍を破った。1595年五大老の一人となったが,病気のため隠退。

小早川秀秋
こばやかわひであき @@@LINK=小早川秀秋 小早川秀秋

小早川秀秋
こばやかわひであき

1582〜1602
安土桃山時代の武将
豊臣秀吉の正室北政所の兄の子。通称金吾中納言。隆景の養子となった。慶長の役に総大将となり蔚山 (うるさん) に奮戦。関ケ原の戦いには初め西軍に属したが東軍に内応,東軍を勝利にみちびいた。功によって岡山50万石を与えられたが,嗣子がなく所領を没収された。

小林一茶
こばやしいっさ @@@LINK=小林一茶 小林一茶

小林一茶
こばやしいっさ

1763〜1827
江戸中・後期の俳人
本名信之 (のぶゆき) 。信濃(長野県)柏原の生まれ。不運な境遇から,その句には強者への反感弱者への同情が示され,俗言や方言をとり入れて独自の俳風を樹立した。主著に『おらが春』『七番日記』『父の終焉日記』など。

小林清親
こばやしきよちか @@@LINK=小林清親 小林清親

小林清親
こばやしきよちか

1847〜1915
明治時代の版画家
江戸の生まれ。下岡蓮杖に写真術,ワーグマンに洋画,柴田是真らに日本画を学ぶ。浮世絵の流れをくむ木版画に光線や陰影をとり入れ新様式の版画を発表した。代表作に『新大橋雨中図』など。

小林古径
こばやしこけい @@@LINK=小林古径 小林古径

小林古径
こばやしこけい

1883〜1957
大正・昭和期の日本画家
新潟県の生まれ。大和絵の画法から出て古典を新感覚で解釈し,新古典主義といわれた。ロマン派調を内省的な線で制御した知性的な画風は,所属の日本美術院や画壇に影響を与えた。帝国美術院会員。1950年文化勲章受章。代表作に『竹取物語』『清姫』『髪』など。

小林多喜二
こばやしたきじ @@@LINK=小林多喜二 小林多喜二

小林多喜二
こばやしたきじ

1903〜33
昭和初期のプロレタリア文学作家
秋田県の生まれ。小樽高商卒。銀行員となったが,のちプロレタリア文学運動に参加し,雑誌『戦旗』に作品を発表。共産党員として非合法活動中に逮捕され,特高警察に虐殺された。代表作に『蟹工船』『党生活者』『不在地主』など。

小判
こばん @@@LINK=小判 小判

小判
こばん

江戸時代の金貨の一つ
慶長小判から万延小判まで江戸時代を通じて10種発行された。
古筆切
こひつぎれ @@@LINK=古筆切 古筆切

古筆切
こひつぎれ

平安・鎌倉時代の和様書道の有名な筆跡の断片
近世初期,茶道の流行につれて鑑賞用として古筆が愛好されたため,歌書・経典などの巻子や冊子などのもとの形を断片に切り掛幅装として鑑賞した。高野切・本能寺切・本阿弥切などが有名。
五品江戸廻送令
ごひんえどかいそうれい @@@LINK=五品江戸廻送令 五品江戸廻送令

五品江戸廻送令
ごひんえどかいそうれい

幕末,江戸幕府の横浜貿易統制令
1859年の開港後,輸出品が生産地から横浜に直送されるようになったため,江戸問屋の特権的流通機構がくずれ,商品の需給の不均衡から物価が騰貴したので,'60年幕府は雑穀・水油・呉服・蠟・生糸の5品はいったん江戸に回送したのち,横浜へ出荷するように命じた。しかし,在郷商人や諸外国の反対をうけて効果があがらなかった。
後深草天皇
ごふかくさてんのう @@@LINK=後深草天皇 後深草天皇

後深草天皇
ごふかくさてんのう

1243〜1304
鎌倉時代の天皇(在位1246〜59)
後嵯峨天皇の皇子。在位中,後嵯峨上皇が院政をとり,1259年上皇の命により弟亀山天皇に譲位して持明院を御所とした。'87年皇子伏見天皇が即位すると院政(1287〜90)をとり,両統迭立 (てつりつ) の基を開き,持明院統の祖となる。

五奉行
ごぶぎょう @@@LINK=五奉行 五奉行

五奉行
ごぶぎょう

安土桃山時代,豊臣政権の職名
1585年(一説に'98年)ころの設置豊臣秀吉子飼いの前田玄以 (げんい) ・石田三成・増田 (ました) 長盛・浅野長政・長束 (なつか) 正家の5人に重要職務を分担させた。前田は公家・寺院,長束は兵糧・財政,浅野・石田・増田らは検地を担当。いずれも公文書に署名加判した。武将間では,この文治派大名の権威が弱く,そのため,さらに五大老を設置したという。
古墳
こふん @@@LINK=古墳 古墳

古墳
こふん

古墳時代の墳丘・封土をもつ高塚式の墳墓
支配者階級である豪族の首長を葬ったもの。3世紀末に畿内に発生し,しだいに伝播したと考えられているが,仏教の普及による火葬の一般化,大化の改新の薄葬 (はくそう) 令などにより衰えた。その形は円墳・方墳や独自の発達を示した前方後円墳などがあり,内部に槨 (かく) や石室を設けて遺骸を棺に納め埋葬した。石室は初めは竪穴式であったが,のち横穴式もつくられた。古墳の表面は,ふつう葺石 (ふきいし) でおおわれ,上部や周囲には埴輪が置かれ,種々の品物が副葬された。
古文辞学派
こぶんじがくは @@@LINK=古文辞学派 古文辞学派

古文辞学派
こぶんじがくは

蘐園 (けんえん) 学派
古墳時代
こふんじだい @@@LINK=古墳時代 古墳時代

古墳時代
こふんじだい

3世紀末ごろから7世紀末ごろにかけての古墳が築造された時代。
古墳文化
こふんぶんか @@@LINK=古墳文化 古墳文化

古墳文化
こふんぶんか

古代国家の形成期における古墳の築造を中心にした文化
弥生時代に始まった農耕や小国家の形成がさらに本格化した時代の文化。前・中・後の3期に区分される。〔前期〈3〜4世紀〉〕 古墳は畿内およびその周辺の台地丘陵に散在し,埋葬された豪族は司祭者的な性格をもち,副葬品も呪術的な碧玉製品や鏡のような宝器が多い。〔中期〈5世紀〉〕応神・仁徳陵に代表されるように,古墳はでとりまかれた壮大な前方後円墳が中心になる。これは大陸の技術の導入による築造術の向上をうかがわせるが,同時に強大な王権を示している。分布もしだいに地方に広がりをみせ,副葬品は呪術的なもののほかに,鉄製の武器や馬具などが多くなる。〔後期〈6〜7世紀〉〕 古墳の規模は小さくなるが前代に比べて量的には激増する(群集墳)。これは大和政権の職務の細分化に伴い,多数の官人が出現し,また有力農民層が現れたためであろう。古墳が広い範囲の人びとにつくられるようになると,古墳自体もそれに適応する変化をみせ,これまでの竪穴式石室に代わって,横穴式石室が採用されるようになった。副葬品は呪術的な製品が一掃され,装身具須恵器のような生活必需品が多くなった。
五保
ごほ @@@LINK=五保 五保

五保
ごほ

律令制における末端行政組織
保ともいう。5戸をもって保を編成。保長保内の相互検察,逃亡戸の捜索,租税代納,旅行者や宿泊者を告知する義務を負った。公民掌握をねらったものであるが,律令制衰退とともに崩壊した。
後北条氏
ごほうじょうし @@@LINK=後北条氏 後北条氏

後北条氏
ごほうじょうし

戦国時代関東に広く勢力をもった戦国大名
始祖伊勢長氏の出身は明らかではない。駿河今川氏の食客であったが,15世紀末伊豆韮山 (にらやま) から相模進出小田原本拠とし長氏の子氏綱から北条氏を称した。孫氏康は支配圏を広げ関東南半を制圧し,上杉謙信武田信玄と覇を競う戦国大名のとなった。1590年豊臣秀吉の小田原征討で滅びるまで,5代にわたり領国統治を巧みに行い栄えた。鎌倉時代の執権北条氏と区別するため,俗に後北条氏と称す。
五榜の掲示
ごぼうのけいじ @@@LINK=五榜の掲示 五榜の掲示

五榜の掲示
ごぼうのけいじ

1868年3月,明治新政府の庶民政策を示した5枚の太政官高札
(1)五倫の道の勧め,(2)徒党・強訴・逃散 (ちようさん) の禁止,(3)キリシタン・邪宗門の禁止,(4)開国和親の方針と外人殺傷の禁止,(5)士民の本国脱走の禁止,の5札よりなる。初めの3条は江戸時代の庶民統治政策をそのまま継承しており,成立当初の新政府の非近代的な本質をよく示している。
小仏関
こぼとけのせき @@@LINK=小仏関 小仏関

小仏関
こぼとけのせき

江戸時代,甲州道中の小仏峠下にあった関所
現在の東京都八王子市にあった。
小堀遠州
こぼりえんしゅう @@@LINK=小堀遠州 小堀遠州

小堀遠州
こぼりえんしゅう

1579〜1647
江戸前期の大名茶人・造園家
近江(滋賀県)の人。初め豊臣家に仕え,関ケ原戦いののち徳川家に仕えた。茶道では古田織部の門下で,遠州流をおこし,3代将軍家光の茶道師範。造園・建築にもすぐれ,桂離宮・大徳寺孤篷庵などが著名。

後堀河天皇
ごほりかわてんのう @@@LINK=後堀河天皇 後堀河天皇

後堀河天皇
ごほりかわてんのう

1212〜34
鎌倉前期の天皇(在位1221〜32)
父は守貞親王(後高倉院)。高倉天皇の孫。1221年承久の乱で幕府が仲恭 (ちゆうきよう) 天皇を廃したため迎えられて即位。'32年,在位11年で皇子四条天皇に譲位した。

胡麻
ごま @@@LINK=胡麻 胡麻

胡麻
ごま

灯油・食用油の原料となるゴマ科の一年草
灯油用としてかや・つばきの実とともに古来より珍重された。胡麻の一種荏胡麻 (えごま) が用いられ,中世には油座発達近世では菜種・綿実 (わたのみ) が油の主原料となったが,都市・農村に灯油の需要が拡大し栽培は盛行した。
小前百姓
こまえびゃくしょう @@@LINK=小前百姓 小前百姓

小前百姓
こまえびゃくしょう

江戸時代農民の一呼称
小前小百姓ともいう。村役人級の農民(大前)に対して一般平百姓をいった。「前」とは身分ないし分前のである。また,無高(水呑)層や小作人などの貧窮した百姓をいう場合もある。幕末期の村方騒動百姓一揆などの主体勢力となった。
小牧・長久手の戦い
こまき・ながくてのたたかい @@@LINK=小牧・長久手の戦い 小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い
こまき・ながくてのたたかい

1584年,尾張国(愛知県)の小牧・長久手付近で行われた豊臣秀吉と徳川家康の合戦
本能寺の変(1582)後,織田信長の2男信雄が家康を誘い秀吉を除こうとした戦い。家康は小牧山を占拠し,長久手の戦いでも秀吉軍を破った。しかし決定的勝敗はつかぬままに政治的和睦をし,これにより秀吉の覇業は一歩進んだ。
小松帯刀
こまつたてわき @@@LINK=小松帯刀 小松帯刀

小松帯刀
こまつたてわき

1835〜70
幕末の薩摩藩士
1861年の藩政改革に際し島津久光を助け大久保利通ら下級武士を登用。京都にあって岩倉具視らと討幕を画策し,大久保・西郷隆盛らと討幕派公卿・諸藩の間を周旋奔走した。明治新政府に重用されたが間もなく病死した。

駒場農学校
こまばのうがっこう @@@LINK=駒場農学校 駒場農学校

駒場農学校
こまばのうがっこう

明治前期の近代的農業研究教育機関で,東大農学部の前身
1874年東京新宿に設立された内務省勧学寮の農事修学場に始まり,'77年農学校と改称し駒場に移転。近代農学の確立に貢献した。'86年東京農林学校,'90年農科大学として東京帝国大学に統合された。
後水尾天皇
ごみずのおてんのう @@@LINK=後水尾天皇 後水尾天皇

後水尾天皇
ごみずのおてんのう

1596〜1680
江戸前期の天皇(在位1611〜29)
後陽成天皇の皇子。禁中並公家諸法度・紫衣事件などによる幕府の干渉・圧迫に不満で,1629年中宮和子(将軍徳川秀忠の娘)との間に生まれた皇女明正天皇に譲位,以後51年間院政を行った。晩年に修学院離宮を造営。

コミンテルン
Comintern @@@LINK=コミンテルン コミンテルン

コミンテルン
Comintern

「Communist International(共産主義インターナショナル)」の略称。1919年,レーニンの指導のもとに創立された共産党の国際組織
30カ国の共産党および左翼社会主義者グループの代表が参加。各国共産党を支部とし,世界の革命運動の統一的指導にあたった。1922年日本共産党を日本支部として承認。'35年ファシズムに対抗して人民戦線戦術をうち出したが,第二次世界大戦中の '43年解散。
コミンフォルム
Cominform @@@LINK=コミンフォルム コミンフォルム

コミンフォルム
Cominform

Information Bureau of the Communist and Worker's Parties(共産党および労働者党情報局)の略称。1947年9月結成された共産党情報局
第二次世界大戦後の冷戦の中,国際共産主義の統一を図り,ソ連共産党とヨーロッパ8カ国の共産党とが,情報交換と活動調整を目的として結成した機関。'50年1月日本共産党の「アメリカ軍占領下でも社会主義へ発展ができる」という理論を批判した。'56年解散。
後村上天皇
ごむらかみてんのう @@@LINK=後村上天皇 後村上天皇

後村上天皇
ごむらかみてんのう

1328〜68
南北朝時代の天皇(在位1339〜68)
後醍醐 (ごだいご) 天皇の皇子。南朝第2代。名は義良 (のりよし) 。1333年北畠顕家とともに陸奥に下って,東北地方の鎮定にあたった。足利尊氏挙兵後は西上し足利軍と各地で戦い,'39年吉野で即位。'48年高師直 (こうのもろなお) に攻められ賀名生 (あのう) に移る。京都回復をはかったが成功せず,住吉で没した。

小村寿太郎
こむらじゅたろう @@@LINK=小村寿太郎 小村寿太郎

小村寿太郎
こむらじゅたろう

1855〜1911
明治時代の外交官
日向(宮崎県)飫肥 (おび) 藩出身。1884年外務省に入り,日清戦争のときは駐清代理公使。1901年,第1次桂太郎内閣の外相となり,日英同盟の締結,ポーツマス会議の全権として活躍。第2次桂内閣外相のときに条約改正・韓国併合を行う。終始,積極的な大陸政策を推進した。


こめ @@@LINK=米 米


こめ

五穀の一つで,日本人の代表的な主食
日本には中国大陸を経て伝えられたと思われるが,伝播経路については定説がない。わが国で稲作の始まったのは縄文晩期で,弥生時代には北九州から東日本まで広まった。初期の稲作は湧水や谷水を利用しやすい低湿地で行われ,灌漑技術の進歩に伴って,溜池や大河川の用水路が開発され,平野部の水田が開かれた。やがて苗代田植えの技術が開発され,近隣の共同労働である結 (ゆい) などが始められた。しかし長い間農民は雑穀を主食としてきており,日本人の大多数が米を主食にするようになったのは昭和時代に入ってからである。
米切手
こめきって @@@LINK=米切手 米切手

米切手
こめきって

江戸時代,蔵屋敷から蔵米の買い主に与えた保管証書
買い主が落札・支払いをすませた米を蔵屋敷にしばらく保管することを依託する間の預かり証で,大坂では貨幣同様に流通した。のちには空米 (くうまい) 切手が発行され,投機的取引も行われた。
米公方
こめくぼう @@@LINK=米公方 米公方

米公方
こめくぼう

江戸幕府8代将軍徳川吉宗の異称
米将軍ともいう。享保の改革以後豊作が続き,米価は1731年ころ最も下落したため武士困窮翌年イナゴウンカによる凶作(享保の飢饉)で米価が上昇,江戸で打ちこわしがおこるなどの経済混乱が続出した。そのたびに吉宗は米価調節に苦労したのでこの名がある。
米騒動
こめそうどう @@@LINK=米騒動 米騒動

米騒動
こめそうどう

1918(大正7)年,米価騰貴が直接の原因でおきた全国的民衆暴動
第一次世界大戦に参戦以来,物価は高騰を続け,特に米価はシベリア出兵を見越した米商人・地主らの買い占めと売り惜しみにより1917年ころから暴騰(戦前の1升約12銭が'18年8月には50銭)。'18年7月に富山県魚津町の主婦たちが米価引下げを求めておこした実力行使(越中女一揆)を契機に,3か月にわたり1道3府38県70万人に及んだ。政府は軍隊を出動させこれを鎮圧。これにより寺内正毅内閣は倒れ,代わって原敬内閣が成立した。
米相場
こめそうば @@@LINK=米相場 米相場

米相場
こめそうば

①米の取引所
②米の標準価格
③米の投機的な取引
江戸時代を通じ大坂の堂島が有名。
江戸時代,堂島米市場の正米相場は全国の米価を支配し,一般物価の標準ともなった。
享保年間(1716〜36),現物取引から市価の変動を利用した投機取引が始まった。
小者
こもの @@@LINK=小者 小者

小者
こもの

鎌倉・室町時代に武家に使われた軽輩
小人 (こびと) ともいわれ,身分の低い奉公人の一般的呼称。室町時代には中間 (ちゆうげん) の下位に置かれた。江戸時代の正式職名に中間・小人はあるが小者の呼称はない。
小物成
こものなり @@@LINK=小物成 小物成

小物成
こものなり

江戸時代の雑税の総称
小年貢ともいう。山林・原野・河海の用益または産物,商工業者などの生産に従事する者などに課税され,山年貢・野年貢・草年貢など多種多様。最初は現物納,のちに銭納が多い。本年貢である本途物成に対するもので,中世の公事 (くじ) にあたる。
古文書
こもんじょ @@@LINK=古文書 古文書

古文書
こもんじょ

過去の文書で,史実を示す史料の一つ
文書や記録は必ず第一人者(書き手)が,何かの用件や考えを第二人者(相手)に伝えたものであるが,その事実を証明する第2の文書によって,さらにその事実を確かめられる。公文書は一つの形式をもつが,私文書には形式がなく,そこに証明される事実は千差万別で,真偽を区別するには古文書学の知識が必要になる。
古文書学
こもんじょがく @@@LINK=古文書学 古文書学

古文書学
こもんじょがく

古文書を科学的に研究する学問で,歴史学の重要な学問分野
日本では有職故実 (ゆうそくこじつ) の学の一部に書の鑑定があったが,明治期,西欧の古文書学の伝統が紹介され,文書の様式・書風・形体などを科学的に分析するようになった。文書・記録を歴史叙述の証拠とするための基礎手段とされている。
小山正太郎
こやましょうたろう @@@LINK=小山正太郎 小山正太郎

小山正太郎
こやましょうたろう

1857〜1916
明治・大正時代の洋画家・美術教育家
越後(新潟県)の生まれ。川上冬崖に学び,のち工部美術学校でフォンタネージに師事。1889年浅井忠らと最初の洋風美術団体である明治美術会を結成,のち東京高等師範学校教授となり洋画教育につとめた。門下に青木繁らがいる。代表作に『川上冬崖像』など。

御用金
ごようきん @@@LINK=御用金 御用金

御用金
ごようきん

江戸時代,幕府・諸藩が財政の窮乏を補うため,御用商人らに臨時に賦課した金銭
宝暦年間(1751〜64)に住友吉左衛門ら三都の商人に命じたのが幕府御用金の最初という。本来,年賦償還されるものであるが献金となった場合が多い。明治政府も初めは同様に賦課した。
後陽成天皇
ごようぜいてんのう @@@LINK=後陽成天皇 後陽成天皇

後陽成天皇
ごようぜいてんのう

1571〜1617
安土桃山〜江戸時代初期の天皇(在位1586〜1611)
正親町 (おおぎまち) 天皇の皇子誠仁 (さねひと) 親王の子。祖父の養子となり即位。豊臣秀吉・徳川家康の援助により朝威回復につとめた。1588年には秀吉の聚楽第 (じゆらくだい) に行幸,のち子の後水尾天皇に譲位。学を好み,『日本書紀』神代巻の慶長勅版を刊行した。

御用部屋
ごようべや @@@LINK=御用部屋 御用部屋

御用部屋
ごようべや

江戸時代,江戸城内での大老・老中・若年寄の詰所
初めは将軍の居室に近いところにあったが,1684年大老堀田正俊の刺殺事件からのち,将軍の居室から遠くに離され,将軍近侍の側用人が勢力をふるう原因となった。

こよみ @@@LINK=暦 暦


こよみ

1年間の月日・曜日・祝日・日の出入り・月のみちかけなどを日を追って記載したもの
太陽の運行をもととする太陽暦と月の運行による太陰暦に大別される。602年百済 (くだら) 僧観勒 (かんろく) によって伝えられて以来,明治5年12月3日を太陽暦の明治6年1月1日とかえるまで,わが国では太陰暦が用いられ,それは今でも旧暦と称して一部に使用されている。推古朝時代から17世紀後期まで中国暦法,特に宣明 (せんみよう) 暦が用いられたが,1684年渋川春海の貞享 (じようきよう) 暦により日本固有の国暦ができた。こののち数回の改暦が行われた。
御霊会
ごりょうえ @@@LINK=御霊会 御霊会

御霊会
ごりょうえ

疫病神政争に敗れて死んだ人物などの怨霊 (おんりよう) をしずめるための祭り
もと農村で行われていたが,平安時代に,政治的陰謀の犠牲者の霊をなだめるため神泉苑で盛大に行ってから,各地でしばしば行われた。
五稜郭
ごりょうかく @@@LINK=五稜郭 五稜郭

五稜郭
ごりょうかく

江戸末期,北海道函館市五稜郭町に築いた城郭
江戸時代最後の築城で,箱館奉行が企画し,蘭学者武田斐三郎 (あやさぶろう) が設計したオランダ式の平城。土塁は花菱形で,濠をめぐらした。1864年完成。'69年榎本武揚 (たけあき) らがこの城に拠り,新政府軍に最後の抵抗を試みたが降伏(五稜郭の戦い)。
五稜郭の戦い
ごりょうかくのたたかい @@@LINK=五稜郭の戦い 五稜郭の戦い

五稜郭の戦い
ごりょうかくのたたかい

1869年,新政府に抵抗した旧幕府軍の戦い
箱館戦争ともいう。旧幕府海軍副総裁榎本武揚 (たけあき) らが1868年軍艦8隻を率いて品川沖を脱走し,箱館(現函館)および五稜郭を攻略し,蝦夷 (えぞ) 地を平定。政府は'69年4月,最新鋭の甲鉄艦を含む8隻の艦隊を派遣し,翌月五稜郭を攻略。この戦いの平定により戊辰 (ぼしん) 戦争は終わりをつげた。
御料所
ごりょうしょ @@@LINK=御料所 御料所

御料所
ごりょうしょ

①室町時代以後の,皇室の領地
②室町幕府・江戸幕府の直轄地
禁裏(皇室)御料・仙洞(上皇)御料などがある。戦国時代まで御料所奉行が管理。
御領ともいう。
五輪塔
ごりんとう @@@LINK=五輪塔 五輪塔

五輪塔
ごりんとう

石造塔婆の一つ
地・水・火・風・空の五大を表す,四角・円・三角・半円・如意珠形の石(五輪)を下から積み上げてある。密教に由来し,各輪に梵字が刻まれたり,造立の趣意年月・施主名を地輪に刻むものもある。平安中期から用いられるが,火輪の四隅が盛りあがっているのは近世の特徴。
後冷泉天皇
ごれいぜいてんのう @@@LINK=後冷泉天皇 後冷泉天皇

後冷泉天皇
ごれいぜいてんのう

1025〜68
平安中期の天皇(在位1045〜68)
後朱雀 (ごすざく) 天皇の皇子。母は藤原道長の娘嬉子 (きし) 。在位中,新立の荘園を停止させる(1055)など政治の刷新を行ったが,藤原頼通が関白として実権を握っていた時代で,前九年の役がおこるなど地方政治は乱れ,治安が悪化した。

コレジオ
collegio @@@LINK=コレジオ コレジオ

コレジオ
collegio

安土桃山時代宣教師の養成学校
イエズス会宣教師の養成機関で,外国人・日本人を問わずラテン語・哲学・神学を教授。キリシタン版を刊行した。1580年ヴァリニャーニが豊後府内に開設。のち迫害をうけ各地を点々と移動し,加津佐・天草を経て1614年長崎で閉鎖した。
ゴローウニン
Vasilij Mikhajlovich Golovnin @@@LINK=ゴローウニン ゴローウニン

ゴローウニン
Vasilij Mikhajlovich Golovnin

1776〜1831
江戸後期に来日して捕らえられたロシア人の海軍軍人
1811年千島列島を測量中,国後 (くなしり) 島に上陸,日本の警備兵に捕らえられ松前藩に抑留された。高田屋嘉兵衛のあっせんにより '13年釈放された。著書に『日本幽囚記』。
転びキリシタン
ころびキリシタン @@@LINK=転びキリシタン 転びキリシタン

転びキリシタン
ころびキリシタン

江戸初期,迫害により棄教改宗したキリシタン
江戸時代にはキリシタンへの迫害は厳格をきわめ,に入れ積み重ねて改宗をせまるなどあらゆる拷問 (ごうもん) を加えた。その結果改宗した者を,当時「ころぶ」といったことからこのように呼んだ。
コロボックル説
コロボックルせつ @@@LINK=コロボックル説 コロボックル説

コロボックル説
コロボックルせつ

縄文時代人はアイヌ伝にある北海道の先住民コロボックルだという説
コロボックルはアイヌ語で「ふきの下に住む小人」という意味。明治中期,人類学者坪井正五郎が唱え,当時有力であったアイヌ説と対立した。現在この説は否定されている。
衣川柵
ころもがわのさく @@@LINK=衣川柵 衣川柵

衣川柵
ころもがわのさく

平安中期,前九年の役で安倍氏の拠った柵
現在の岩手県西磐井郡の衣川北岸に置かれた。
権記
ごんき @@@LINK=権記 権記

権記
ごんき

平安中期,権大納言藤原行成の日記
50巻。うち22巻(991〜1011年のぶん)が現存。『小右記 (しようゆうき) 』とともに,藤原道長時代の政治,朝廷の様子,有職故実 (ゆうそくこじつ) を知る重要史料。
権現
ごんげん @@@LINK=権現 権現

権現
ごんげん

仏が衆生救済のために権 (かり) に神として姿を現すこと
11世紀本地垂迹説の普及に伴い日本の神に権現の号をつけた。神号の一種で,白山権現・箱根権現は特に有名。
権現造
ごんげんづくり @@@LINK=権現造 権現造

権現造
ごんげんづくり

安土桃山時代に成立した神社建築の一様式
石間 (いしのま) 造ともいう。神明造系統を引き,本殿の前に拝殿を配置し,それを石の間(または相の間)という幣殿 (へいでん) でI字形に結んだ。代表例として日光東照宮があり,その祭神を東照大権現(徳川家康)と称したところからこの名が生まれた。
金光教
こんこうきょう @@@LINK=金光教 金光教

金光教
こんこうきょう

幕末の神道系新興宗教の一派
1859年備中国(岡山県)の農民川手文治郎が神宣をうけ立教迷信・守護札などを否定し,徳行をつめば「天地金乃神 (てんちかねのかみ) 」のに浴することができるとし,農民・商人間に広まった。1900年教派神道の一派として公認された。現在,本部は岡山県金光町にある。
金剛座
こんごうざ @@@LINK=金剛座 金剛座

金剛座
こんごうざ

能楽の一流派。大和四座の一つ
古くは坂戸座という。中世,法隆寺の能楽を奉仕,室町後期に金剛善覚 (ぜんかく) が中興した。能楽の中では写実的な流派。
金剛山
こんごうさん @@@LINK=金剛山 金剛山

金剛山
こんごうさん

大阪府と奈良県の府県境南部にある山
西麓に,南北朝時代の古戦場,千早城・赤坂城跡などがある。
金剛峯寺
こんごうぶじ @@@LINK=金剛峯寺 金剛峯寺

金剛峯寺
こんごうぶじ

和歌山県伊都郡高野町にある真言宗の総本山
816年空海により創建され,根本道場として信仰を集め,院政時代には,法皇の崇敬厚く,以来貴賤道俗を問わず参詣,納骨する者が多かった。その後,織田信長に敵対したため迫害をうけたが,豊臣秀吉の保護により復興,江戸時代には徳川家が帰依した。『赤不動』『聖衆来迎図』など密教美術の貴重品を多数所蔵している。
勅旨田
ちょくしでん @@@LINK=勅旨田 勅旨田

勅旨田
ちょくしでん

天皇が勅旨により空閑地や荒廃田を占定して設定した皇室の私有地
奈良時代からあるが,平安時代に増加した。不輸租田延喜の荘園整理令(902)で一時停止されたが,院政期に再び増加,鎌倉時代まで存続した。
勅撰漢詩文集
ちょくせんかんしぶんしゅう @@@LINK=勅撰漢詩文集 勅撰漢詩文集

勅撰漢詩文集
ちょくせんかんしぶんしゅう

平安初期,天皇命令で編集された漢詩文集
『凌雲集 (りよううんしゆう) 』に始まり,『文華秀麗集』『経国集 (けいこくしゆう) 』と続いた。これらによって当時の漢詩文盛行のようすがうかがえる。
勅撰和歌集
ちょくせんわかしゅう @@@LINK=勅撰和歌集 勅撰和歌集

勅撰和歌集
ちょくせんわかしゅう

平安〜室町時代,天皇の勅または上皇・法皇の院宣によって編集された和歌集
『古今和歌集』に始まり,以下『後撰』『拾遺』(以上三代集),『後拾遺』『金葉』『詞花 (しか) 』『千載』『新古今』(以上八代集),『新勅撰』『続後撰』『続古今』『続拾遺』『新後撰』『玉葉』『続千載』『続後拾遺』『風雅』『新千載』『新拾遺』『新後拾遺』『新続古今』の21の歌集があり,これらを総称して「二十一代集」という。
塵塚物語
ちりづかものがたり @@@LINK=塵塚物語 塵塚物語

塵塚物語
ちりづかものがたり

室町末期の随筆説話集
1552?年刊。6巻。著者不詳。主として鎌倉・室町期の故事逸話の類を集録した。

ちん @@@LINK=珍 珍


ちん

5世紀に中国南朝に朝貢した倭の五王の一人
梁書』には彌 (み) と記されている。仁徳反正天皇比定する2説がある。
沈惟敬
ちんいけい @@@LINK=沈惟敬 沈惟敬

沈惟敬
ちんいけい

しんいけい
賃金統制令
ちんぎんとうせいれい @@@LINK=賃金統制令 賃金統制令

賃金統制令
ちんぎんとうせいれい

1939(昭和14)年に公布された労働賃金の抑制法規
戦時下労働力不足に伴い,賃金上昇の傾向があったとき,これを抑制するため,国家総動員法第6条に基づいて出された勅令で,厚生大臣・地方長官に賃金統制上必要な命令を発し,処分を行う権限を与えた。1946年失効。
鎮護国家
ちんごこっか @@@LINK=鎮護国家 鎮護国家

鎮護国家
ちんごこっか

仏教が国家を鎮護する役割を果たすという思想で,奈良時代に栄え律令国家とともに消長した
マウリヤ王朝以後の仏教に現れた傾向で,中国・朝鮮・日本などに受容される際にも古代国家の支配者はこの傾向に着目して仏教を保護した。奈良時代の仏教政策に端的に現れ,平安期の天台・真言宗もこの役割を担った。
鎮守神
ちんじゅのかみ @@@LINK=鎮守神 鎮守神

鎮守神
ちんじゅのかみ

一定の地域や営造物を守護する神
都城・宮殿・寺院・荘園などを造営開発するにあたって,神霊を勧請して鎮守神とすることもあった。鎮守神は時勢により変動し,産土 (うぶすな) 神・氏神と混同された。
鎮守府
ちんじゅふ @@@LINK=鎮守府 鎮守府

鎮守府
ちんじゅふ

①古代,東北地方の蝦夷 (えみし) 征討のため陸奥国に置かれた軍政府
②明治時代以後の海軍根拠地
初め多賀城,のち胆沢城 (いさわじよう) ,さらに平泉に移された。鎮守府将軍としては大野東人 (あずまひと) を最初とし,源頼義・清原武則 (たけのり) ・藤原秀衡らが有名。平安中期以後衰え消滅したが,建武の新政で一時復活した。
1876年,横浜と長崎に置かれたのが最初。'89年,横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4鎮守府となった。各管区を定めて海上警備を分担した。第二次世界大戦後廃止。
鎮西探題
ちんぜいたんだい @@@LINK=鎮西探題 鎮西探題

鎮西探題
ちんぜいたんだい

鎌倉時代,幕府が九州統轄のため設置した職制
元寇後,幕府は合議の訴訟機関として鎮西談議所を博多に設置。さらに九州地方の軍事的指揮統制・行政裁判を統轄するため,1293年北条兼時・時家を派遣したのが鎮西探題の始まりである。'96年北条実政の補任以後は北条氏一族より選任され,1333年幕府滅亡とともに廃絶した。
鎮西派
ちんぜいは @@@LINK=鎮西派 鎮西派

鎮西派
ちんぜいは

浄土宗の一派で,京都知恩院を総本山とする
法然門下の聖光房弁長とし,西山派(法然門下の証空が祖)と宗勢を二分する。派名の由来は弁長の出身が九州であることによる。
鎮西奉行
ちんぜいぶぎょう @@@LINK=鎮西奉行 鎮西奉行

鎮西奉行
ちんぜいぶぎょう

鎌倉幕府の地方職制
源義経および平氏残党の追捕と九州御家人統率のため,1185年天野遠景 (とおかげ) が派遣され,'86年鎮西奉行と称した。大宰府を支配する。元寇後,鎮西談議所,1293年鎮西探題の設置により吸収された。
椿説弓張月
ちんせつゆみはりづき @@@LINK=椿説弓張月 椿説弓張月

椿説弓張月
ちんせつゆみはりづき

江戸後期,滝沢馬琴の読本 (よみほん)
1807〜11年刊。葛飾北斎画。5編29冊。鎮西八郎源為朝の,史実と異なる活躍を描き,中国小説,日本史書,文芸,琉球関係の地誌などを参照した外伝的英雄譚。勧善懲悪と娯楽本位の長編で,『南総里見八犬伝』とともに馬琴の代表作として著名
賃租
ちんそ @@@LINK=賃租 賃租

賃租
ちんそ

古代の土地賃貸借法
奈良時代に公田を1年契約で賃貸し,春に前払いするのを賃,秋の収穫後に納めるのを租と呼んだ。この賃租料を地子といい,その額は収穫の5分の1。田地を輸地子田という。位田・郡司職田の一部も賃租された。
頂相
ちんそう @@@LINK=頂相 頂相

頂相
ちんそう

禅宗の僧侶の間で,師が弟子に与える肖像画
ちんぞう」とも読む。禅宗では,弟子が一人前になると,その師は伝法しるしとして肖像画に自を書いて弟子に与えた。この習慣は中国の北宋時代(960〜1127)に盛んで,日本には鎌倉時代に伝えられて以来,室町・江戸時代にも行われ,その写実的な描写法は肖像画の発展に大きく影響した。大徳寺『大灯国師像』,妙智院『夢窓国師像』,建長寺『蘭渓道隆像』などが有
鎮台
ちんだい @@@LINK=鎮台 鎮台

鎮台
ちんだい

①1868(慶応4)年,明治新政府が設けた臨時の軍政機関
②1871(明治4)年以来設けられた陸軍の軍団
旧幕領の大和・大坂・兵庫・江戸に設置。まもなく廃され,行政権も兼ねた裁判所が置かれた。
1871年,東京・大阪・鎮西(熊本)・東北(仙台)の4鎮台を設置。'73年には東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6鎮台となり,徴兵令を発布。平時3万余の徴集兵を常備した。士族反乱鎮圧に活躍したのをはじめとし,人民統制を進める明治政府の武力機構となった。'88年師団に改組
青島
チンタオ @@@LINK=青島 青島

青島
チンタオ

中国山東省,膠州湾岸に面する港湾都市
1898年ドイツが中国から膠州湾を租借して,要塞を築いた。ドイツ東洋艦隊の基地となったが,1914年,第一次世界大戦で日本が占領。'19年ヴェルサイユ条約で日本が山東省の旧ドイツ権益を受け継いだが,'22年ワシントン会議で中国に返還された。
陳 和卿
ちんなけい @@@LINK=陳+和卿 陳+和卿

陳 和卿
ちんなけい

生没年不詳
鎌倉時代に渡来した工人
「ちんわけい」とも読む。東大寺大仏再建に際し,重源 (ちようげん) の招きにより来日。鋳物師で,同寺大仏の首の鋳造を行う。重源とともに播磨浄土寺浄土堂を建設。のち鎌倉に下り,3代将軍源実朝入宋をすすめ大船建造を計画したが実現できなかった。
沈南蘋
ちんなんぴん @@@LINK=沈南蘋 沈南蘋

沈南蘋
ちんなんぴん

しんなんぴん
賃機
ちんばた @@@LINK=賃機 賃機

賃機
ちんばた

織物業にみられた問屋制家内工業の一形態
江戸中期以後発展。農家などが問屋織元から織機を貸与され,家庭内で織り,出来高払いで加工賃をもらう一種賃労働幕末,西陣・桐生などの絹織物業地帯,河内和泉尾張などの綿織物業地帯で発展した。
鎮撫使
ちんぶし @@@LINK=鎮撫使 鎮撫使

鎮撫使
ちんぶし

①律令制下,令外官 (りようげのかん) の一つ
731年,山陽・山陰・南海の諸道に置かれ,地方の凶徒・盗賊を捕らえ,治安維持や国司の治績の監視にあたった。746年廃止。
②1868年に明治政府が東海・東山・北陸・山陰・九州に置いた官。
都維那
ついな @@@LINK=都維那 都維那

都維那
ついな

寺院僧職の一つで,衆僧雑事をつかさどり,指導した
維那ともいう。7世紀後半から設けられた。大寺院には上座寺主・都維那の三綱 (さんごう) がいて,住僧を統制した。禅宗寺院では六知事の一つとして,衆僧の動作を指導した。
追捕使
ついぶし @@@LINK=追捕使 追捕使

追捕使
ついぶし

平安中期以降設置された令外官 (りようげのかん)
国司・郡司などから任命され,叛徒の追捕,海賊・盗賊などの鎮圧にあたった。932年に臨時の官として置かれたが承平・天慶の乱(935〜941)後諸国に常置。1185年,源頼朝が諸国に総追捕使を設置したが,これがのちの守護となった。
通言総籬
つうげんそうまがき @@@LINK=通言総籬 通言総籬

通言総籬
つうげんそうまがき

江戸後期,山東京伝の洒落本
1787年刊。「通言」とは吉原での特殊用語,「総籬」は最上級の遊女屋の意。会話の中に遊女の口癖と,細密な風俗描写を組み合わせ,写実に徹した洒落本の傑作。江戸遊里の細緻な「穿 (うがち) 」(一般には知られていない裏の事情などを明るみに出すこと)を描出した。
通航一覧
つうこういちらん @@@LINK=通航一覧 通航一覧

通航一覧
つうこういちらん

江戸後期の外交関係記録の集録
523巻。林述斎の子復斎が幕命により編集。1566年安南国船の三河漂着から1825年の異国船打払令までの外交交渉を扱う。国別・部門別に編年体で記述。海防関係史料を付録とする。
通事・通詞
つうじ @@@LINK=通事・通詞 通事・通詞

通事・通詞
つうじ

江戸時代,外国貿易のため平戸長崎に置かれた通訳兼商務官
1641年,平戸は廃止。対オランダは通詞,対 (とう) は通事と称した。職務世襲で,唐の通事は多く帰化した中国人の子孫から任じられた。医学その他の西欧や中国の学問など海外文化の紹介に貢献した。特に,ペリー来航以後,その役割はいっそう重要になった。
通商会社
つうしょうがいしゃ @@@LINK=通商会社 通商会社

通商会社
つうしょうがいしゃ

1869(明治2)年,通商司の指導下に設立された日本最初の株式会社
貿易・国内商業の振興を目的とし,東京・大阪・京都・横浜・新潟敦賀などの各地に有力商人を集めて為替会社とともに設立。'70年開商会社と改称,内外商業や海運などを進めたが,'71年通商司が廃止されてから不振に陥り解散した。
通商司
つうしょうし @@@LINK=通商司 通商司

通商司
つうしょうし

明治初年の経済官庁
1869年,外国貿易管理庁として開港場に設置。その後,権限は国内商業・金融・海運・物価調整に拡大され,管下の通商会社・為替会社・回漕会社を通じて,貿易・国内商業などの管理と発展を進めた。'71年廃止。
司召除目
つかさめしのじもく @@@LINK=司召除目 司召除目

司召除目
つかさめしのじもく

京官を任命する宮廷での年中行事
本来は春に行われたが,のち秋に定着し「秋の除目」ともいう。
月行事
つきぎょうじ @@@LINK=月行事 月行事

月行事
つきぎょうじ

月ごとに輪番で事を執り行う人
「がつぎょうじ」「がちぎょうじ」とも読む。①室町時代,博多などの自治都市の運営に月交代であたった町衆をいう。
②江戸時代,江戸・大坂の町々で町名主・町年寄を助けるため五人組から1名ずつ月交代で出た町役人をいう。また株仲間で月交代で事務をとった役員も月行事といった。
築地小劇場
つきじしょうげきじょう @@@LINK=築地小劇場 築地小劇場

築地小劇場
つきじしょうげきじょう

1924(大正13)年,東京築地に開場した日本最初の新劇常設劇場および劇団名
「演劇の実験室」として土方与志 (ひじかたよし) ・小山内薫 (おさないかおる) らにより設立され,新劇運動の拠点となる。劇団は1929年分裂し,貸劇場としてプロレタリア演劇の中心であったが,'45年空襲で焼失した。
継飛脚
つぎびきゃく @@@LINK=継飛脚 継飛脚

継飛脚
つぎびきゃく

江戸時代,幕府公用の飛脚
1633年以後,幕府は諸街道の宿駅に継飛脚給米を与えて脚夫を配置し,公用の信書・貨物を継送させた。昼夜を問わず出され,所要時間は江戸〜大坂間で急行便は72〜74時間,中急行便で4〜5日,通常便5日とされた。

つくだ @@@LINK=佃 佃


つくだ

平安・鎌倉時代,荘園領主・荘官・地頭などの直営地
平作・用作・正作 (しようさく) ともいう。荘民の夫役や自己の下人・所従の使役によって耕作させ,全収穫を収得した。のちには高い斗代 (とだい) で荘民に小作させるようになり,実質的には消滅した。
莵玖波集
つくばしゅう @@@LINK=莵玖波集 莵玖波集

莵玖波集
つくばしゅう

南北朝時代,わが国最初の准勅撰連歌
1356年成立。翌年勅撰に準ぜられた。20巻。2190句。二条良基らの撰。古来からの連歌が集められ,その変遷がわかる。作者は天皇以下武家・庶民まで広範囲にわたる。この集の撰出により連歌は和歌から独立し,独自の文学としての位置を占めるようになった。
筑波問答
つくばもんどう @@@LINK=筑波問答 筑波問答

筑波問答
つくばもんどう

室町前期,二条良基の連歌論書
連歌問答』ともいう。1372年以前の成立。1巻。問答体で連歌の歴史・作法・式目などを説き,連歌を和歌と対等の地位に引き上げようとした。
津雲貝塚
つくもかいづか @@@LINK=津雲貝塚 津雲貝塚

津雲貝塚
つくもかいづか

岡山県笠岡市西大島字津雲にある縄文時代後・晩期の貝塚
1915年以来の発掘調査により,160体以上の人骨が発見されている。大部分は屈葬で,抜歯の風習のあるものが多く,人骨に付属して,貝輪,鹿角製の耳飾・腰飾,石製頸飾も出土している。
九十九商会
つくもしょうかい @@@LINK=九十九商会 九十九商会

九十九商会
つくもしょうかい

三菱会社前身で,1870年岩崎弥太郎が創設した海運会社。
対馬
つしま @@@LINK=対馬 対馬

対馬
つしま

長崎県,壱岐 (いき) 島の北西,九州と朝鮮半島との中間にある島
古くから大陸への交通の要地として重視された。鎌倉時代,宗氏が守護代として支配,文永・弘安の役,応永の外寇などの舞台となる。室町・江戸時代を通じて宗氏は対朝鮮貿易の利権独占,江戸幕府下に対馬藩(府中藩)として10万石の格式を与えられた。
対馬事件
つしまじけん @@@LINK=対馬事件 対馬事件

対馬事件
つしまじけん

幕末ロシア軍艦の対馬占領事件
極東への進出をはかったロシアが,軍事基地化を目的に,1861年軍艦ポサドニック号を対馬へ派遣。ポサドニック号は対馬芋崎 (いもざき) を占領し半年間停泊したが,島民の激しい抵抗とイギリスの軍艦2隻の派遣により撤退した。
津田梅子
つだうめこ @@@LINK=津田梅子 津田梅子

津田梅子
つだうめこ

1864〜1929
明治・大正時代の女子教育家
江戸の生まれ。幕臣出身のは開明的人物で,7歳の梅子を岩倉遣外使節に随行する女子留学生として渡米させた。帰国後英語教師をつとめ再度留学。1900(明治33)年女子英学塾(現津田塾大学)を創設,英語教育に尽力した。

津田三蔵
つださんぞう @@@LINK=津田三蔵 津田三蔵

津田三蔵
つださんぞう

大津事件
津田左右吉
つだそうきち @@@LINK=津田左右吉 津田左右吉

津田左右吉
つだそうきち

1873〜1961
大正・昭和期の歴史学者
岐阜県の生まれ。東京専門学校(現早稲田大学)卒。1920年早大教授となる。日本神話に初めて科学的検討を加え,'24年以後『神代史の研究』『古事記及日本書紀の研究』などを発表。'39年に至り蓑田胸喜 (みのだきようき) ら右翼から不敬思想として攻撃され,翌年4著書が発禁,'42年に出版法違反で有罪となった。中国思想の研究にも大きな功績がある。'49年文化勲章受章。

津田宗及
つだそうぎゅう @@@LINK=津田宗及 津田宗及

津田宗及
つだそうぎゅう

?〜1591
安土桃山時代の豪商・茶人
津田宗達の子。号は幽更斎。堺の人。茶道にすぐれ,千利休・今井宗久らとともに,織田信長・豊臣秀吉に仕えた。1587年の北野大茶湯をつかさどり,当代3宗匠の一人に数えられた。

津田真道
つだまみち @@@LINK=津田真道 津田真道

津田真道
つだまみち

1829〜1903
明治時代の法学者・啓蒙思想家
美作 (みまさか) (岡山県)津山藩出身。箕作阮甫 (みつくりげんぽ) に蘭学を学び,蕃書調所教官となる。1862年幕命により,西周 (にしあまね) らとオランダに留学。明治新政府では,司法省・元老院などにつとめ,新律綱領などの編纂にあたった。また明六社創立に加わり,啓蒙思想家としても活躍した。

土一揆
つちいっき @@@LINK=土一揆 土一揆

土一揆
つちいっき

室町中期に活発に行われた農民・土豪などの支配層に対する反抗
「土民一揆」の。南北朝時代以後,荘園制の崩壊と郷村制の成長,貨幣経済の農村への浸透などが背景となって,種々の形態で反抗が行われた。初期は年貢・夫役の減免を要求したが,15世紀に入ると畿内先進地帯とその周辺では,1428(正長元)年の正長の土一揆のように,徳政を要求し酒屋・土倉・寺院などの高利貸を襲う徳政一揆が頻発。さらに守護領国制進展の中で,土豪・地侍を中心に政治的性格をもつ播磨国一揆(1429)・山城国一揆(1485〜93)などの国一揆がおこった。しかし15世紀末,戦国大名領の形成とともにしだいに鎮圧された。
土井晩翠
つちいばんすい @@@LINK=土井晩翠 土井晩翠
どいばんすい @@@LINK=土井晩翠 土井晩翠

土井晩翠
つちいばんすい

1871〜1952
明治〜昭和期の詩人・英文学者
本名林吉。後年は「土井」を「どい」と改音。宮城県の生まれ。東大英文科卒業後,母校二高(現東北大学)の教授となる。在学中より詩を発表し始め,1899年詩集『天地有情』発表以来,島崎藤村と並称された。その漢詩調・男性的詩風は寮歌校歌に影響を与えた。バイロン,ホメロスの翻訳でも著名である。1950年文化勲章受章。代表作に『荒城の月』『星落秋風五丈原』など。

土井晩翠
どいばんすい

つちいばんすい
土御門神道
つちみかどしんとう @@@LINK=土御門神道 土御門神道

土御門神道
つちみかどしんとう

江戸初期,土御門泰福 (やすとみ) が創始した神道説
安倍神道・安家 (あんげ) 神道ともいう。もと安倍氏と称し陰陽道を主管していた土御門家が,江戸時代初め,その宗教性を強化するため神道の行事をとり入れ,神道の一派を形成した。教義は垂加神道をとり入れ体系化されている。
土御門天皇
つちみかどてんのう @@@LINK=土御門天皇 土御門天皇

土御門天皇
つちみかどてんのう

1195〜1231
鎌倉初期の天皇(在位1198〜1210)
後鳥羽天皇の第1皇子。1210年後鳥羽上皇の命により,弟順徳天皇に譲位。上皇と意見を異にし,討幕計画に積極的に参加しなかったので承久の乱(1221)後も幕府から罰せられなかったが,みずから望んで土佐(高知県)に流され,のち阿波(徳島県)に移りその地で没した。
土御門通親
つちみかどみちちか @@@LINK=土御門通親 土御門通親

土御門通親
つちみかどみちちか

1149〜1202
平安末期・鎌倉初期の政治家
村上源氏の出身。源通親ともいう。後白河上皇の近臣で,1185年源頼朝の推薦で議奏公卿となった。'96年頼朝と結んだ九条兼実を排斥し,後鳥羽天皇譲位後,外孫の土御門天皇をたて朝廷実権握り,後鳥羽上皇のとき内大臣に昇進し,鎌倉幕府に対抗した。
筒井順慶
つついじゅんけい @@@LINK=筒井順慶 筒井順慶

筒井順慶
つついじゅんけい

1549〜84
安土桃山時代の武将
興福寺衆徒の出身。松永久秀を攻め織田信長から大和にうけ,郡山城を構築した。本能寺の変(1582)後,山崎の戦いでは洞ケ峠に軍を置き,あいまいな態度をとり,そしりをうけたが,豊臣秀吉に仕え大和一国を安堵された。謡曲・茶の湯にもすぐれていた。

堤中納言物語
つつみちゅうなごんものがたり @@@LINK=堤中納言物語 堤中納言物語

堤中納言物語
つつみちゅうなごんものがたり

平安後期,わが国最初の短編物語集
10編。1編を除いて作者・制作年代・編者とも未詳。書名の由来も不明。情趣を主とするよりも特異な構想主題を機智によって描いている。
津留
つどめ @@@LINK=津留 津留

津留
つどめ

封建領主が領内の港で物資の移出入を禁止すること
戦国時代には軍事上の必要性や津料徴収を目的として実施。江戸時代には藩の物価調節・年貢米確保・専売制・産業保護・飢饉時の食料確保などを目的として実施された。米の場合,米留といい,ほかに木綿などもあった。1869年廃止。
綱島梁川
つなしまりょうせん @@@LINK=綱島梁川 綱島梁川

綱島梁川
つなしまりょうせん

1873〜1907
明治時代の評論家
本名は栄一郎。岡山県の生まれ。東京専門学校(現早稲田大学)卒業。在学中より『早稲田文学』を編集。初め美術評論,のち宗教・倫理学の研究,見神 (けんしん) (心の中に神を見ること)の実験などで新神秘主義思想を提唱した。

海石榴市
つばいち @@@LINK=海石榴市 海石榴市

海石榴市
つばいち

古代,大和三輪山の南西山麓に設けられた市
「つばきいち」とも読む。現在の桜井市金屋付近。古来より交通要地で,6世紀ごろから開市。7世紀には最も盛んとなり,歌垣 (うたがき) も行われた。
坪内逍遙
つぼうちしょうよう @@@LINK=坪内逍遙 坪内逍遙

坪内逍遙
つぼうちしょうよう

1859〜1935
明治〜昭和初期の小説家・劇作家・評論家・教育家
本名は勇蔵(のち雄蔵)。別号は「春のやおぼろ」。美濃(岐阜県)の生まれ。東大卒業後,東京専門学校(現早稲田大学)の講師となる。『小説神髄』(1885),『当世書生気質』によって写実主義文学を開拓し,'91年『早稲田文学』を創刊。のち演劇改良を志し,『桐一葉』などの劇曲を発表。1906年には島村抱月とともに文芸協会を設立して新劇運動にも尽力した。またシェークスピアの作品の全訳をめざし,'28年に完成した。

坪刈
つぼがり @@@LINK=坪刈 坪刈

坪刈
つぼがり

江戸時代,課税法の一つである検見 (けみ) の方法
歩刈 (いちぶがり) ともいう。検見の役人が村内の上・中・下の各田地1坪を選んで刈り,その収穫を検査して,全収穫を推定し,租率決定の基礎としたもの。明治時代以降も続いて用いられた。
坪付
つぼつけ @@@LINK=坪付 坪付

坪付
つぼつけ

古代土地の状況を把握するため面積,所在,所有作柄などを記した帳簿
坪付帳ともいう。中世以降にもみられるが,近世においては大名が家臣に与えた知行目録をいう。
妻問婚
つまどいこん @@@LINK=妻問婚 妻問婚

妻問婚
つまどいこん

夫が妻の家を訪ねる古代の婚姻様式
通い婚ともいう。夫婦は別居し,子供は妻の家で育った。平安中期には妻方同居の婿取り鎌倉時代になって夫方同居の嫁取りにかわった。
津屋
つや @@@LINK=津屋 津屋

津屋
つや

平安末期以降,河川・港湾の要港で貨物の輸送・保管・販売を行った者
初め荘園年貢を輸送・保管する一種荘官。のちしだいに委託販売を行うようになり,鎌倉末期以降独立の運送・商業者となった。
津料
つりょう @@@LINK=津料 津料

津料
つりょう

平安末期〜室町時代,津(船着場や港)で徴収した関税
商業の発達につれ港に物資が集散すると,財源不足の幕府や荘園収入の減少に悩む荘園領主が課し,交通の妨げとなった。
敦賀
つるが @@@LINK=敦賀 敦賀

敦賀
つるが

福井県中央部,敦賀湾に臨む港町
奈良時代,渤海 (ぼつかい) の使節のために松原客館が置かれた。平安時代以後,北陸の荘園年貢の輸送地として,日本海より琵琶湖を経て京都と結ぶ要地となり,鎌倉時代以後,問丸 (といまる) も発達した。戦国時代には港湾都市として発展。1937年市制を施行
鶴岡八幡宮
つるがおかはちまんぐう @@@LINK=鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮
つるがおかはちまんぐう

鎌倉市雪ノ下にある神社。祭神は応神天皇・比売 (ひめ) 神・神功皇后
1063年前九年の役のとき,源頼義が京都石清水八幡宮を由比ケ浜に勧請したのに始まり,1180年源頼朝が現在の地に移した。鎌倉幕府の守護神として厚い尊崇をうけ,室町・江戸幕府からも保護された。
鶴屋南北
つるやなんぼく @@@LINK=鶴屋南北 鶴屋南北

鶴屋南北
つるやなんぼく

4世 1755〜1829
江戸後期の歌舞伎脚本作者
本名伊之助。江戸の人。写実的な世話物を得意とし,舞台技術に大胆奇抜な趣向をこらした。代表作に『東海道四谷怪談』など。なお,鶴屋南北は,江戸時代を通じて5世を数える。

徒然草
つれづれぐさ @@@LINK=徒然草 徒然草

徒然草
つれづれぐさ

鎌倉末期,吉田兼好の随筆
1330〜31年ころの著作。2巻。無常観に立ちながらも成熟した観察眼によって自然・人間・社会を鋭く豊かに論評基底には王朝的な文化に対する憧憬を含んでいる。『枕草子』『方丈記』と並ぶ随筆文学の最高傑作。
ツンベルグ
Carl Peter Thunberg @@@LINK=ツンベルグ ツンベルグ

ツンベルグ
Carl Peter Thunberg

1743〜1828
江戸中期に来日したスウェーデン植物学
ツンベリともいう。オランダ東インド会社の長崎商館医として1775年来日。1年間滞在して桂川甫周中川淳庵らに医学・植物学を教授。帰国後『日本植物誌』『日本植物図譜』『日本紀行』を著し,日本紹介につとめた。
出会貿易
であいぼうえき @@@LINK=出会貿易 出会貿易

出会貿易
であいぼうえき

勘合貿易断絶後の16〜17世紀における日明貿易形態
明は海禁政策をとって勘合貿易のような朝貢貿易しか認めず,特に日本渡航を禁じたため,日明貿易は台湾・ルソンなどで双方の船が出会い,通商した。
帝紀
ていき @@@LINK=帝紀 帝紀

帝紀
ていき

主として天皇の系譜を記した日本最初の歴史記録
『帝皇日継 (ていおうのひつぎ) 』『帝王本紀』ともいう。『旧辞』とともに5〜6世紀ごろから記録され,記紀編纂の原史料となったが,現存しない。
定期市
ていきいち @@@LINK=定期市 定期市

定期市
ていきいち

平安末期以降,月に数回,日を限って開かれた市(日切市 (ひぎりいち) )
生産・商品流通の増大につれ,荘園内の不定期市・寺社の祭礼日から,定期的な干支市(子・酉市など)が現れ,鎌倉中期以降は月3回の日切市(三斎市)が普及し,室町時代には六斎市・九斎市も現れた。のち常設店舗の発達につれて衰えた。
庭訓往来
ていきんおうらい @@@LINK=庭訓往来 庭訓往来

庭訓往来
ていきんおうらい

南北朝後期〜室町初期ころにつくられた代表的往来物
僧玄恵の作とするが確かでない。 月ごとの往復消息文12組24通と1通の消息から成る。手紙の模範文を示すことに加え,武士・庶民に必要な日常用語・社会用語を集め単語を纂し,武家・庶民中心の教育に関心をよせた点に特色がある。のちの往来物の形式に影響を与え,近世末期まで使用された。
帝国学士院
ていこくがくしいん @@@LINK=帝国学士院 帝国学士院

帝国学士院
ていこくがくしいん

明治〜昭和期,学術振興を目的とした学界最高の団体
1879年設置の東京学士会院が前身。1906年帝国学士院改組。文部大臣の所管勅選による60名の終身会員で構成され,第1部(文),第2部(理)に分かれ,会員の互選により4名の勅任貴族院議員を出した。'47年日本学士院と改称
帝国議会
ていこくぎかい @@@LINK=帝国議会 帝国議会

帝国議会
ていこくぎかい

大日本帝国憲法に基づく立法機関
天皇を協賛して法律・予算を審議する機関として1890(明治23)年11月開設。衆議院・貴族院の2院で構成。衆議院は公選議員により構成されたが,納税額により選挙権は制限された。初期議会では民党が衆議院の過半数を占めたが,内閣は超然主義を唱えてこれを抑えようとした。また皇族・華族・勅選議員などからなる貴族院が衆議院とほぼ対等の権限を持った。緊急勅令の制定・宣戦講和・条約締結などは天皇大権とされ,内閣の行政権や枢密院・元老にも制約され,議会の権限は弱かった。しかし政党勢力の台頭とともに衆議院の発言権は増大し,政党内閣も誕生したが,五・一五事件(1932)以後軍部の勢力に圧倒された。'47年日本国憲法の施行により国会に改組
帝国芸術院
ていこくげいじゅついん @@@LINK=帝国芸術院 帝国芸術院

帝国芸術院
ていこくげいじゅついん

1937年,芸術発達を目的として設置された文部大臣の諮問機関
1919年に設置された帝国美術院を改編し,美術のほか文学・音楽部門などを加えた。それに伴い帝展は文部省主催となった(新文展)。'47年日本芸術院改称
帝国憲法
ていこくけんぽう @@@LINK=帝国憲法 帝国憲法

帝国憲法
ていこくけんぽう

大日本帝国憲法
帝国国策遂行要領
ていこくこくさくすいこうようりょう @@@LINK=帝国国策遂行要領 帝国国策遂行要領

帝国国策遂行要領
ていこくこくさくすいこうようりょう

1941年に決定された日本の政策の基本方針で,対米開戦に踏みきったもの
南部仏印進駐以後の日米交渉の険悪化に対し,1941年9月の御前会議で方針を協議,10月下旬までに交渉不成立の場合は開戦を辞せずと決定した。交渉の条件をめぐり近衛文麿首相と東条英機陸相が対立,第3次近衛内閣は総辞職し,東条内閣が成立した。
帝国在郷軍人会
ていこくざいごうぐんじんかい @@@LINK=帝国在郷軍人会 帝国在郷軍人会

帝国在郷軍人会
ていこくざいごうぐんじんかい

明治末期に設立された非現役軍人の団体
通称「在郷軍人会」。1910年軍隊と国民を結ぶ目的で組織され,戦時動員に即応できるよう予備・後備役および退役軍人の修養訓練にあたった。満州事変('31〜33)以後は軍部の軍国主義宣伝機関として活躍した。'45年解散。
帝国主義
ていこくしゅぎ
imperialism @@@LINK=帝国主義 帝国主義

帝国主義
ていこくしゅぎ
imperialism

広義には,民族または国家の領土的拡張・侵略をいい,ふつうは独占資本主義段階における政治的・経済的侵略主義をいう
レーニンの『帝国主義論』(1917)では,生産および資本の集中・独占,金融資本の支配確立,資本輸出の増大,国際カルテルによる世界市場の分割支配,資本主義列強による領土分割の完了を特徴としてあげ,世界再分割のための戦争が不可避と説く。世界的には19世紀末からイギリスを先頭にこの段階に進み,日本も日露戦争(1904〜05)ごろからこの段階に入った。第一次世界大戦は最初の世界的帝国主義戦争とされる。
帝国製麻会社
ていこくせいまがいしゃ @@@LINK=帝国製麻会社 帝国製麻会社

帝国製麻会社
ていこくせいまがいしゃ

1907年,日本・北海両製麻の合併により生まれた会社
安田財閥系。大倉喜八郎も参加。日露戦争後の深刻な恐慌と不景気の続く中で,資本の集中が大規模に促進するが,製麻部門でも1907年帝国製麻は麻業総投資額の96%を占めるトラストとなった。'59年帝国繊維となる。
帝国大学
ていこくだいがく @@@LINK=帝国大学 帝国大学

帝国大学
ていこくだいがく

明治〜昭和期の日本最高の官立教育・研究機関
1886年の帝国大学令により東京大学を帝国大学('97年東京帝国大学)とし,'97年には京都帝国大学を設立。明治末から昭和の初めまでに東北・九州・北海道・京城(現ソウル)・台北(タイペイ)・大阪・名古屋に設立され,9帝大となる。第二次世界大戦後の学制改革により,京城・台北を除き,国立大学となった。
帝国大学令
ていこくだいがくれい @@@LINK=帝国大学令 帝国大学令

帝国大学令
ていこくだいがくれい

1886年,文部大臣森有礼 (ありのり) により制定された学校令の一つ
これにより帝国大学は「国家ノ須要ニ応ズル学術技芸ヲ教授シ及其薀奥 (うんのう) ヲ攻究スル」という国家主義的目的を明確にし,また東京大学を帝国大学と改称('97年東京帝国大学)。1893年改正され大学自治の体制がいちおう成立した。
帝国農会
ていこくのうかい @@@LINK=帝国農会 帝国農会

帝国農会
ていこくのうかい

明治〜昭和期,府県・郡・市町村の農会を系統的に組織した中央農政機関
1910年,農事改良発展を目的として設立された官制団体で,農業の技術指導農民の福利増進,農産物価格統制などを行った。'43年中央農業会が設立され解散した。
帝国美術院
ていこくびじゅついん @@@LINK=帝国美術院 帝国美術院

帝国美術院
ていこくびじゅついん

1919年に設置された文部大臣諮問機関で,美術発達のための建議を行う
そのおもな事業は帝展を開くことであり,これにより在野の団体を官展に吸収しようとしたが失敗。1937年帝国芸術院を創立し,官制を改めた。
帝国文学
ていこくぶんがく @@@LINK=帝国文学 帝国文学

帝国文学
ていこくぶんがく

明治・大正時代の学術・文芸雑誌(1895〜1920)
東京帝国大学文科系の教授・学生の文学上の作品・論説・資料を発表する機関誌。『三田文学』『早稲田文学』と対抗し,文壇赤門派の拠点となった。
帝国郵便蒸気船会社
ていこくゆうびんじょうきせんがいしゃ @@@LINK=帝国郵便蒸気船会社 帝国郵便蒸気船会社

帝国郵便蒸気船会社
ていこくゆうびんじょうきせんがいしゃ

日本郵便蒸気船会社
貞信公記
ていしんこうき @@@LINK=貞信公記 貞信公記

貞信公記
ていしんこうき

平安中期,関白藤原忠平の日記
現存する平安貴族最古の日記で,907〜948年の分が現存。延喜・天暦の治や,承平・天慶の乱についての貴重な史料である。
鄭 成功
ていせいこう @@@LINK=鄭+成功 鄭+成功

鄭 成功
ていせいこう

1624〜62
中国,明末〜清初期の人で,明朝回復を企てた遺臣
父は海賊鄭芝竜 (ていしりゆう) ,母は日本の平戸の人。明朝の国皇帝の姓)である「朱」を賜り,成功と改名国姓爺 (こくせんや) として知られる。父が清朝に降伏したのちも,強大な海上勢力を背景に抵抗。日本にも再三援助を求め,1661年には台湾からオランダ人を追放し拠点とした。翌年病没。近松門左衛門の『国性爺合戦』で有名。
帝政党
ていせいとう @@@LINK=帝政党 帝政党

帝政党
ていせいとう

立憲帝政党
帝展
ていてん @@@LINK=帝展 帝展

帝展
ていてん

「帝国美術院展覧会」の略称
文部省主催の文展が,1919年帝国美術院設立とともに移管され,以後帝展と称して '34年まで15回開催された。のち新文展('37〜44),日展('46〜  )に継承
貞門派
ていもんは @@@LINK=貞門派 貞門派

貞門派
ていもんは

江戸初期,松永貞徳とする俳諧の流派
漢語や俗語を用い,用語洒落滑稽味特色とする。北村季吟が有名。
転害門
てがいもん @@@LINK=転害門 転害門

転害門
てがいもん

奈良東大寺の一つ
天平時代の建立で,平氏の南都焼打ちの被害をまぬかれ,当時のまま現存大仏殿の北西方,一条大路に面し,佐保路門・景清門ともいう。三間一戸の八脚門で,本瓦葺,単層切妻造。
手賀沼干拓
てがぬまかんたく @@@LINK=手賀沼干拓 手賀沼干拓

手賀沼干拓
てがぬまかんたく

江戸時代の新田開発
手賀下総国(千葉県)利根川沿いにある沼で,江戸前期から地元民や江戸町人の手で一部干拓された。1786年老中田沼意次 (おきつぐ) が町人の出資印旛沼 (いんばぬま) とともに大規模な干拓に着手したが,洪水と意次失脚で中絶した。
適々斎塾
てきてきさいじゅく @@@LINK=適々斎塾 適々斎塾

適々斎塾
てきてきさいじゅく

江戸後期,緒方洪庵が大坂に開いた蘭学塾
適塾・適々塾・緒方塾ともいう。1838(天保9)年開塾。蘭書読解により医学中心に自然科学一般を教授した。門下生は全国から集まり,福沢諭吉・橋本左内・大村益次郎・佐野常民 (つねたみ) ・大鳥圭介ら有能な人材を輩出した。
出口王仁三郎
でぐちおにさぶろう @@@LINK=出口王仁三郎 出口王仁三郎

出口王仁三郎
でぐちおにさぶろう

1871〜1948
明治〜昭和期の宗教家
京都の生まれ。出口なおの女婿となり,大本教の確立に尽力。なおの死後,教主となる。1921年と'35年に不敬罪の嫌疑で2度の弾圧をうけた。'46年愛善苑として教団を再建。

出口なお
でぐちなお @@@LINK=出口なお 出口なお

出口なお
でぐちなお

1836〜1918
明治・大正時代の宗教家
丹波(京都府)綾部の人。大本教の開祖。

出島
でじま @@@LINK=出島 出島

出島
でじま

江戸前期,ポルトガル商人のため幕府が長崎港内に築いた埋立地
1634〜36年に築造。ポルトガル商人を移したが,その退去後,'41年平戸のオランダ商館を移した。扇形で,面積約1万4000㎡。石橋で長崎市街と結び,見張番所を置き出入りを厳重に監視した。鎖国下,世界への窓の役割を果たした。
手島堵庵
てじまとあん @@@LINK=手島堵庵 手島堵庵

手島堵庵
てじまとあん

1718〜86
江戸中期の石門心学者
京都の人。18歳のとき石田梅岩につき心学を学び,梅岩没後は心学教化の講説に専念。門弟の増加につれ,京都に五楽会・修正・時習・明倫・恭敝などの心学講舎をおこした。自己批判を中心とする精神修養を説いた。門下に中沢道二らがいる。著書に『会友大旨』『明徳和賛』など。

手代
てだい @@@LINK=手代 手代

手代
てだい

江戸時代の商家の奉公人
番頭と丁稚の間の身分。住込みであるが,給金を支給され,一人前の店員として扱われた。丁稚を数年から十数年勤めあげて27〜28歳でなるのが普通であるが,早い者は17〜18歳,遅い者は30〜40歳でなる例もあった。

てつ
Fe @@@LINK=鉄 鉄


てつ
Fe

銀白色の光沢ある金属元素
鉄器はすでに弥生時代後期に武器・農具として利用。古墳時代に普及し,大和政権の国土統一は鉄製武器により促進されたと考えられる。古代では,貴族寺社などが荘園などの開発に鉄製農具を使用し威力を発揮した。もと砂鉄から精錬したが,中世以後鑪 (たたら) が発達し刀剣など武器の生産技術が進歩,日日明貿易では刀剣は主要輸出品となった。近世になると鉄製農具が農民間に普及し農業生産を増大させた。鉄の主産地としては,中国山脈と江戸中期開発の奥州南部地方,幕末釜石などが有名である。明治維新後,政府は幕藩経営の製鉄所を接収,1901年に官営八幡製鉄所を設立し,鉄工業の発展で近代工業の基礎確立につとめた。
鉄器時代
てっきじだい @@@LINK=鉄器時代 鉄器時代

鉄器時代
てっきじだい

考古学上の時代区分の一つで,鉄製利器の使用された時代
青銅器時代に続く文化段階をいい,中国での鉄器の使用は春秋戦国時代(前770〜前221)からで,前漢時代(前202〜後8)に普及。日本では弥生時代に青銅器とほとんど同時に大陸から伝えられたため青銅器時代と同様に独立した時代区分として認めにくい。
手継証文
てつぎしょうもん @@@LINK=手継証文 手継証文

手継証文
てつぎしょうもん

平安末期から中世を通じて使用された,田地家屋の権利伝承を証明する文書
不動産の権利の移転の際,その財産が旧所有者のもとに相伝された由来を立証することが必要となり,以前の譲状や売券を一括して旧所有者から新所有者に手渡した。
鉄眼道光
てつげんどうこう @@@LINK=鉄眼道光 鉄眼道光

鉄眼道光
てつげんどうこう

1630〜82
江戸前期の黄檗 (おうばく) 宗の僧
肥後(熊本県)の人。1655年長崎で隠元隆琦 (いんげんりゆうき) のに入り禅を学んだ。'69年明版『大蔵経』の翻版に着手し,'81年完成。これを『鉄眼版』あるいは『黄檗版大蔵経』という。のち大坂慈雲山瑞竜寺の中興開山となった。
鉄工組合
てっこうくみあい @@@LINK=鉄工組合 鉄工組合

鉄工組合
てっこうくみあい

明治時代の労働組合
労働組合期成会の指導下に1897年鉄工労働者が組織。片山潜・高野房太郎らが幹事となった。日本最初の本格的労働組合で,結成時の会員1088名,1900年には5400余名に達したが,治安警察法などで弾圧され,急速に衰えた。
丁稚
でっち @@@LINK=丁稚 丁稚

丁稚
でっち

江戸時代,商家職人年季奉公した年少者
10歳前後で雑役走り使いに従事し,無給で年2回盆・正月仕着 (しきせ) (衣服)と小遣い銭をもらうのみであった。禁酒禁煙,綿服,羽織着用禁止などの制限があり,早い者は17〜18歳で手代に昇格した。
鉄道
てつどう @@@LINK=鉄道 鉄道

鉄道
てつどう

主要な陸上交通・輸送機関
日本における鉄道に関する知識は幕末に急速に広まり,在留外国人の間に鉄道敷設の動きもみられたが,幕府の滅亡で立ち消えとなり,明治政府によって1869年,東京〜京都〜神戸間の敷設が正式に決定された。そしてイギリスの技術と資材の導入によって,'72年新橋〜横浜間に最初の鉄道が開業された。以後,'74年大阪〜神戸,'89年東海道全線が開通したが,一方私鉄助成方針のもとに,'83年上野〜熊谷,'91年上野〜青森(日本鉄道会社),1901年神戸〜下関(山陽鉄道会社)などが開通した。'05年には国有鉄道の営業路線2415kmに対し,民間鉄道は5234kmであったが,'06年軍事上の要請と私鉄の経営上の問題から鉄道国有法が制定され '07年には,国鉄—7156km,私鉄—718kmと逆転した。一方,電車は'09年東京山手線で最初に運転され(環状線化は'25年),地下鉄は'27年浅草〜上野間開通が最初,路面電車は1895年京都市で開業という状況であった。その後,路面電車は自動車の発達のために衰え,蒸気機関車も姿を消したが,複線化の促進,スピード‐アップ,新幹線の出現など,鉄道輸送の技術改良が図られている。1987年,国鉄の分割・民営化によりJR6社が発足した。
鉄道国有法
てつどうこくゆうほう @@@LINK=鉄道国有法 鉄道国有法

鉄道国有法
てつどうこくゆうほう

1906(明治39)年公布された,おもな私設鉄道を国有化するための法
鉄道国有論は早くからあったが,第1次西園寺公望 (きんもち) 内閣は,国防や輸送統一の目的で,同法案を議会提出紛糾ののち成立した。17社約4400kmが買収され,鉄道の9割が国有化された。'87年分割・民営化で国有鉄道は廃止。
鉄道馬車
てつどうばしゃ @@@LINK=鉄道馬車 鉄道馬車

鉄道馬車
てつどうばしゃ

明治前期,軌道上を走る2頭立の馬車
馬車鉄道ともいう。1882年新橋〜日本橋間に開通したのが最初。やがて浅草〜上野〜新橋間を往復するようになり,乗合馬車を駆逐した。'95年京都で開通した路面電車におされ,しだいに消滅したが,地方では昭和初年までみられた。
てつはう

てつはう

元寇のとき,蒙古軍が使用した火器
蒙古襲来絵巻』のによると,石火矢大砲一種)で火薬を飛ばしたらしい。
鉄砲伝来
てっぽうでんらい @@@LINK=鉄砲伝来 鉄砲伝来

鉄砲伝来
てっぽうでんらい

戦国時代,種子島に漂着したポルトガル人により,日本に初めて鉄砲が伝えられたことをいう
南浦文之 (なんぽぶんし) 『鉄炮記』によると,1543(天文12)年種子島に漂着したポルトガル人の所持する鉄砲2挺を,島主種子島時堯 (ときたか) が買い求めた。以来各地の戦国大名は,この新兵器の入手につとめ,製法・使用法を学ばせ鉄砲隊を組織した。これを実戦に使って成功したのは織田信長で,長篠の戦い(1575)の銃撃戦は名高い。鉄砲の普及は従来戦法・築城法に大きな変化をもたらした。
出目
でめ @@@LINK=出目 出目

出目
でめ

江戸時代,貨幣改鋳による差益金
金貨は名目貨幣であるから質を落とせば同じ量でも多く鋳造できその差が利益となった。財政難打開のため元禄宝永・天保・万延時代,改鋳を頻繁に実施し,一時的に財政救済に効果があったが,貨幣価値低落物価騰貴・取引の不安定を招き,結局は幕府を苦しめた。
寺請制度
てらうけせいど @@@LINK=寺請制度 寺請制度

寺請制度
てらうけせいど

江戸時代の宗教政策で,キリシタンでないことを檀那寺 (だんなでら) に証明させる制度
宗門改 (しゆうもんあらため) による改宗者の証明に始まる。のち寺請証文檀家であることを証明するため寺院が発行した証文)が一般化し,婚姻・旅行・移転・奉公などの際には村役人発行の手形とともに身分証明書の役割を果たした。各寺院は毎年幕府・諸藩信者名簿を提出したので,これにより寺院は事実上の戸籍事務取扱い機関となり幕藩支配体制に従属した。
寺内正毅
てらうちまさたけ @@@LINK=寺内正毅 寺内正毅

寺内正毅
てらうちまさたけ

1852〜1919
明治・大正時代の軍人・政治家
陸軍大将。長州藩出身。第1次桂太郎内閣から3期にわたり陸相。1910年初代朝鮮総督を兼ね,武断政治を行う。'16年第2次大隈重信内閣のあとをうけて組閣し,非立憲的政治姿勢とその容貌から「ビリケン(非立憲)」と非難された。

寺内正毅内閣
てらうちまさたけないかく @@@LINK=寺内正毅内閣 寺内正毅内閣

寺内正毅内閣
てらうちまさたけないかく

第一次世界大戦中,寺内正毅を首班とする超然内閣(1916〜18)
1916年10月,第2次大隈重信内閣のあとをうけ,寺内朝鮮総督が元老山県有朋の推薦組閣。中国の軍閥段祺瑞 (だんきずい) 政権を支持し巨額な西原借款を与えた。'17年対米協調をはかり石井‐ランシング協定締結。'18年ロシア革命に際しシベリアに出兵した。同年9月米騒動で総辞職し,立憲政友会の原敬内閣にかわった。
寺子屋
てらこや @@@LINK=寺子屋 寺子屋

寺子屋
てらこや

江戸時代,読み・書き・そろばんを教えた庶民の教育機関
中世の僧侶による庶民教育からおこり,江戸時代,町人階級の台頭農村への商品経済の浸透などで普及した。牢人・神官・僧侶・医師などが教師役で,寺子(児童)は6〜13歳ごろまで通常20〜30人。教科書には『庭訓往来』『実語教』『童子教』などが使用された。
寺崎広業
てらざきこうぎょう @@@LINK=寺崎広業 寺崎広業

寺崎広業
てらざきこうぎょう

1866〜1919
明治・大正時代の日本画家
羽後(秋田県)の生まれ。1888年上京。初め四条派・円山派写生画を学ぶ。南画をとり入れて独自の境地を開き,初期の文展で活躍した。代表作に『大仏開眼』『千紫万紅』など。

寺島宗則
てらじまむねのり @@@LINK=寺島宗則 寺島宗則

寺島宗則
てらじまむねのり

1832〜93
明治時代の政治家・外交官
薩摩藩出身。1862年幕府遣欧使節として随行,'65年薩摩藩留学生として渡英。その間'63年薩英戦争の際,英国捕虜となるも脱走。明治新政府では1873〜79年外務卿となり,樺太 (からふと) ・千島交換条約,日朝修好条規などを成立させた。また関税自主権回復を目標に条約改正の交渉にあたったが失敗。のち文部卿・枢密顧問官などを歴任した。

寺田寅彦
てらだとらひこ @@@LINK=寺田寅彦 寺田寅彦

寺田寅彦
てらだとらひこ

1878〜1935
明治〜昭和初期の物理学者・随筆家
東京の生まれ。東大理学部卒。1916年東大教授となり,'17年X線による結晶構造の研究で世界的名声を博し,恩賜賞をうけた。また夏目漱石に師事し,多くの写生文・科学随筆を発表した。著書に『地球物理学』『藪柑子 (やぶこうじ) 集』など。

寺田屋事件
てらだやじけん @@@LINK=寺田屋事件 寺田屋事件

寺田屋事件
てらだやじけん

幕末,京都伏見の寺田屋で尊攘派志士が殺傷された事件
1862年,薩摩藩士有馬新七らは,藩主の父島津久光の入京を機に挙兵討幕を企て,船宿寺田屋に集結。公武合体論をとる久光はこれを知り,鎮撫のため家臣を派遣したが,新七らはこれに従わず,薩摩藩士同士の乱闘となり,多くの志士が殺傷された。以後尊王攘夷運動の主流長州藩に移った。
天海
てんかい @@@LINK=天海 天海

天海
てんかい

1536?〜1643
安土桃山〜江戸時代前期の天台宗の僧
陸奥(福島県)会津の人。延暦寺・園城寺その他で修行。のち徳川家康・秀忠・家光3代の信任を得て政治にも関与。日光山を与えられ,家康を久能山から改葬して東照宮を造営した。また江戸の上野忍ケ岡に東叡山寛永寺を開いた。

田楽
でんがく @@@LINK=田楽 田楽

田楽
でんがく

平安〜室町時代に盛んに行われた民衆芸能
農民の田植祭りの音楽に端を発し,都市で芸能化されたもの。院政のころ,奇抜滑稽な動作や華麗な服装をもって踊り歩く集団的舞踏として流行した。中世に神社の祭礼芸能として発展し田楽能となった。
殿下渡領
でんかのわたりりょう @@@LINK=殿下渡領 殿下渡領

殿下渡領
でんかのわたりりょう

平安中期以後,藤原氏の氏長者 (うじのちようじや) の世襲所領
「殿下」とは摂政 (せつしよう) ・関白のこと。「渡領」とは職や家に付属する所領をいい,藤原氏の氏長者が多く摂関になったので,この名称がある。大和国(奈良県)の佐保殿,備前国(岡山県)の鹿田庄などが代表例。
伝教大師
でんぎょうだいし @@@LINK=伝教大師 伝教大師

伝教大師
でんぎょうだいし

最澄
天狗草子絵巻
てんぐぞうしえまき @@@LINK=天狗草子絵巻 天狗草子絵巻

天狗草子絵巻
てんぐぞうしえまき

鎌倉後期の絵巻物
7巻。作者不詳。興福寺延暦寺など南都北嶺の横暴・驕慢を天狗にたとえて風刺したもの。天狗は中世以来盛んに活躍した山伏戯画化したものといわれる。この草子は数種あるが,その中に一遍を天狗の長老といっているなど,当時の宗教界の様子を知る貴重な史料
天狗党の乱
てんぐとうのらん @@@LINK=天狗党の乱 天狗党の乱

天狗党の乱
てんぐとうのらん

幕末,水戸藩の尊攘派志士の兵事件
徳川斉昭 (なりあき) の時代から水戸藩内の党争が激化し,尊攘派は天狗党と称して保守派の諸生党と対立していた。1863(文久3)年八月十八日の政変尊王攘夷運動が挫折すると,翌'64年,天狗党首領藤田小四郎らは筑波山に挙兵,一時勢力を得たが,幕府の追討軍に敗北した。さらに武田耕雲斎を主将に西上したが加賀藩に降伏,幕命により藤田・武田らが処刑された。
天竺徳兵衛
てんじくとくべえ @@@LINK=天竺徳兵衛 天竺徳兵衛

天竺徳兵衛
てんじくとくべえ

1612〜?
江戸初期の商人
播磨(兵庫県)の人。朱印船に乗り,15歳頃から2回中天竺(シャム)に渡航。シャムの地理風俗などを記した『天竺渡海物語』を著した。
天智天皇
てんじてんのう @@@LINK=天智天皇 天智天皇

天智天皇
てんじてんのう

626〜671
7世紀後期の天皇(在位668〜671)
舒明 (じよめい) 天皇第2皇子。母は皇極(斉明)天皇。葛城皇子・中大兄 (なかのおおえ) 皇子と称した。中臣(藤原)鎌足とはかり,645年蘇我氏を倒し,孝徳・斉明天皇の皇太子として大化の改新政治を指導。この間百済 (くだら) 救援につとめたが,唐・新羅 (しらぎ) 連合軍に白村江 (はくそんこう) の戦い(663)で敗れ,国防を強化した。斉明天皇死後も皇太子のまま政治を行った(称制)が,都を近江の大津宮に移し,668年正式に即位。近江令の制定や最古の戸籍庚午年籍 (こうごねんじやく) の作成など内政整備に尽くした。晩年,子の大友皇子を後継者とした。

天守閣
てんしゅかく @@@LINK=天守閣 天守閣

天守閣
てんしゅかく

城郭の中心である本丸にある高層楼閣
「天主」とも書く。天守は城主の居館の上に望楼を載せたものから発展。城の最後の拠点であるから周囲がよく見え,威厳を示しうるような高層で,中は倉庫として兵器・弾薬を貯蔵し,井戸もある。天守の語の初見は摂津(兵庫県)伊丹城という。上層梵天帝釈の天主を祭ったのでその名があるとする宗教的解釈もあるが,天下の中心である領国支配の拠点と解すべきである。
天寿国曼荼羅繡帳
てんじゅこくまんだらしゅうちょう @@@LINK=天寿国曼荼羅繡帳 天寿国曼荼羅繡帳

天寿国曼荼羅繡帳
てんじゅこくまんだらしゅうちょう

飛鳥時代刺繡工芸品
天寿国繡帳ともいう。断片中宮寺残存国宝。『上宮聖徳法王帝説』によれば,聖徳太子死後橘大郎女 (たちばなのおおいらつめ) が追慕にたえず,太子の往生した天寿国のさまを刺繡に縫いとらせたものという。下絵渡来人の3人の絵師が描いた。
天正大判
てんしょうおおばん @@@LINK=天正大判 天正大判

天正大判
てんしょうおおばん

安土桃山時代の金貨
1588(天正16)年,豊臣秀吉後藤徳乗に鋳造させた。楕円形丸判と菱判とがあり,桐の極印を捺刻する。金含有分1000分の738.4。量目約44匁 (もんめ) (約165g)。平安中期以来の鋳造貨幣の復活。
天正遣欧使節
てんしょうけんおうしせつ @@@LINK=天正遣欧使節 天正遣欧使節

天正遣欧使節
てんしょうけんおうしせつ

1582(天正10)年,九州のキリシタン大名大村純忠・大友宗麟・有馬晴信がヨーロッパに派遣した4人の少年使節
宣教師ヴァリニャーニのすすめでローマ教皇・スペイン国王に謁して,日本伝道の援助を求めた。正使伊東マンショ・千々石 (ちぢわ) ミゲル,副使原マルチノ・中浦ジュリアンの4少年で,ローマで大歓迎をうけ,'90年帰国。その後キリシタン禁制で棄教をせまられるなど,活動は十分できなかった。
天正の石直し
てんしょうのこくなおし @@@LINK=天正の石直し 天正の石直し

天正の石直し
てんしょうのこくなおし

1582(天正10)年以後,豊臣秀吉太閤検地を行い,これまでの貫高制を改め石高制を採用したこと
室町時代には貨幣流通が進み,年貢なども銭納制を採用することが多かった。これを貫高または永高という。秀吉商農分離を確保するために再び貢租などを現物納に改め,知行制も石高制を採用した。
殿上人
てんじょうびと @@@LINK=殿上人 殿上人

殿上人
てんじょうびと

五位以上の貴族および六位の蔵人 (くろうど) で,清涼殿の殿上の間に昇殿することを許された官人
堂上 (とうしよう) ・雲上人・雲客ともいう。地下人に対する称。
天津条約
てんしんじょうやく @@@LINK=天津条約 天津条約

天津条約
てんしんじょうやく

1885(明治18)年4月,日清間で調印された朝鮮問題に関する条約
甲申事変(1884)後,中国河北省の天津で伊藤博文と李鴻章が締結。(1)朝鮮からの両国撤兵,(2)軍事教官の派遣停止,(3)出兵の際の相互事前通告,などの3カ条を取り決めた。これにより日本は,朝鮮において軍事的には清国と対等の立場となった。
伝染病研究所
でんせんびょうけんきゅうじょ @@@LINK=伝染病研究所 伝染病研究所

伝染病研究所
でんせんびょうけんきゅうじょ

明治中期に設立された伝染病の研究機関
北里柴三郎が福沢諭吉の援助を得て,1892年東京芝に設立。コレラチフス・赤痢などの研究に業績を上げた。'99年内務省に移管され,1914年文部省所管となり,のち東京帝国大の付属機関となる。北里らはこれを不満として辞職し,同年北里研究所を設立した。
伝奏
でんそう @@@LINK=伝奏 伝奏

伝奏
でんそう

平安時代以降,親王・摂家・武家・寺社などの奏請を天皇・上皇に伝える貴族(のち公家)の役職
上皇の伝奏は院の伝奏といい,最も早く後白河上皇院政時代に設置された。天皇の伝奏は建武の新政の際に初めて設置。武家伝奏は室町時代に設けられたが,江戸時代に至り要職とされ,公家2名が選ばれ公武間の意思疎通をはかった。
天孫降臨
てんそんこうりん @@@LINK=天孫降臨 天孫降臨

天孫降臨
てんそんこうりん

記紀にみえる日本神話の重要な一節
皇祖神天照大神 (あまてらすおおみかみ) がその孫瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) に三種の神器と国土統治の無窮を説いた神勅を与えて,国土統治のため高天原 (たかまがはら) から日向国高千穂峰に降臨させたという神話。
天台座主
てんだいざす @@@LINK=天台座主 天台座主

天台座主
てんだいざす

比叡山延暦寺の僧職で,天台宗一門を統轄する最高職
824年就任した初代座主義真に始まる。以後天台宗の高僧官符で補する慣例が,1871(明治4)年に廃止されるまで続いた。現在は私称として用いられている。
天台宗
てんだいしゅう @@@LINK=天台宗 天台宗

天台宗
てんだいしゅう

中国,隋代に智顗 (ちぎ) が開いた仏教の一派
『法華経』をもとにし,「一念三千」などの思想を説く。天台宗の書物は奈良時代に日本に入っていたが,最澄が入唐してからよく理解されるようになった。806年に最澄は従来の南都六宗のほかに新しく天台宗を独立させることに成功した。比叡山延暦寺が総本山。9世紀中ごろ,円仁・円珍が相ついで入唐し密教を学び,安然 (あんねん) に至って台密を大成。のち山門派・寺門派に分かれて対立した。
天地有情
てんちうじょう @@@LINK=天地有情 天地有情

天地有情
てんちうじょう

明治後期,土井晩翠の詩集
1899年刊。晩翠の処女詩集で,『星落秋風五丈原』などの40編の詩とその他詩論などを収める。
天地根元造
てんちこんげんづくり @@@LINK=天地根元造 天地根元造

天地根元造
てんちこんげんづくり

古代,家の構造の一形式
切妻造の屋根だけを直接地上に置いたような形態古墳時代埴輪 (はにわ) や家屋文鏡に例がある。
天誅組の変
てんちゅうぐみのへん @@@LINK=天誅組の変 天誅組の変

天誅組の変
てんちゅうぐみのへん

幕末,大和国(奈良県)でおこった尊攘派志士の最初の挙兵事件
十津川の変大和五条の変ともいう。吉村寅太郎・藤本鉄石らが孝明天皇の大和行幸先駆をしようとし,1863年公卿中山忠光を主将として挙兵。8月17日大和五条の代官所を襲撃したが,八月十八日の政変で行幸は中止となり,形勢逆転し,諸藩によって鎮圧された。寅太郎・鉄石らは戦死
電電公社・専売公社・国鉄の民営化
でんでんこうしゃ・せんばいこうしゃ・こくてつのみんえいか @@@LINK=電電公社・専売公社・国鉄の民営化 電電公社・専売公社・国鉄の民営化

電電公社・専売公社・国鉄の民営化
でんでんこうしゃ・せんばいこうしゃ・こくてつのみんえいか

中曽根康弘内閣による行財政改革の一環として電電公社専売公社国鉄民営化が実現したこと
1985年,電電公社を日本電信電話NTT)に,専売公社を日本たばこ産業JT)として民営化した。'87年には国鉄を民営化して,旅客鉄道会社6社のJRと日本貨物鉄道1社に分割した。
天灯鬼・竜灯鬼像
てんとうき・りゅうとうきぞう @@@LINK=天灯鬼・竜灯鬼像 天灯鬼・竜灯鬼像

天灯鬼・竜灯鬼像
てんとうき・りゅうとうきぞう

奈良興福寺所蔵の鎌倉時代の彫刻
1215年康弁の制作。康弁は運慶の第3子。像高77㎝。諷逸味にあふれ,天灯鬼は左手竜灯鬼頭上に,大きな灯籠を支えている。
天皇
てんのう @@@LINK=天皇 天皇

天皇
てんのう

古代以来の日本の君主
時代により性格が異なる。祖先については,大和土着の豪族・北九州の豪族・渡来人などの諸説がある。4世紀ごろ大王 (おおきみ) と呼ばれるようになり,6〜7世紀推古天皇のころ隋との国交の中で「天皇」の称号が現れた。大化の改新ののち律令制の成立に伴い,天皇中心の中央集権国家が確立した。しかし荘園が広がるにつれ,摂関政治から院政・鎌倉幕府の成立・承久の乱・両統迭立 (てつりつ) を経て,古代天皇制は没落した。建武の新政によって天皇権力は一時的に復活したが,南北朝,室町時代,戦国時代を経て,江戸時代には天皇の権威は政治的にはまったく失われ,伝統的・儀礼的権威と化し,禁中並公家諸法度によって天皇は私生活まで規制された。だが幕末になると政情の急激な展開の中で尊王論が台頭し,明治維新が行われた。維新後,天皇の権力は高まり,大日本帝国憲法によって「万世一系・神聖不可侵」の君主となって近代天皇制が確立した。第二次世界大戦後,天皇の性格は一変した。1946年の天皇人間宣言でみずから神格を否定し,日本国憲法では「天皇は日本国民統合の象徴」と規定された。
天皇機関説
てんのうきかんせつ @@@LINK=天皇機関説 天皇機関説

天皇機関説
てんのうきかんせつ

天皇は国家法人の最高機関であるという大日本帝国憲法下の憲法学説
ドイツ人イエリネックの国家法人説に基づくこの学説は,美濃部達吉らによって主張され,大正デモクラシー期の政党内閣の理論的支柱となった。しかし昭和期に入り,軍部・右翼によって弾圧された。
天皇機関説問題
てんのうきかんせつもんだい @@@LINK=天皇機関説問題 天皇機関説問題

天皇機関説問題
てんのうきかんせつもんだい

1935(昭和10)年,美濃部達吉が主唱した天皇機関説国体明徴の名のもとに右翼軍部の攻撃をうけ議会で否認された事件
明治末期以来の定説であった天皇機関説が,右翼・軍部の台頭により排撃され,国体明徴問題に発展。美濃部は告発され,著書発禁となり,貴族院議員を辞任せざるを得なくなった。
天皇記・国記
てんのうき・こっき @@@LINK=天皇記・国記 天皇記・国記

天皇記・国記
てんのうき・こっき

飛鳥時代,聖徳太子の編纂といわれる日本最古の歴史書
620年成立。蘇我馬子が編纂に協力。天皇中心の中央集権国家の歴史を書こうとしたのであろう。645年蘇我氏の滅亡に際し大部分焼失し,『国記』のみ残ったというが不明。
天王寺屋
てんのうじや @@@LINK=天王寺屋 天王寺屋

天王寺屋
てんのうじや

①安土桃山時代,堺の豪商
②江戸時代,大坂の両替商
姓は津田で,宗及 (そうきゆう) の代に堺を代表する会合衆として栄えた。
初代五兵衛が慶長年間(1596〜1615)に両替屋を開き,代々五兵衛を名のって十人両替として繁栄。明治維新後に倒産した。

天皇制
てんのうせい @@@LINK=天皇制 天皇制

天皇制
てんのうせい

天皇が国家を統治する君主制の日本的形態
天皇制のあり方は時代によって異なるが,典型的なのは古代と近代。古代においては壬申の乱(672)後「大君は神にしませば……」と歌われ,701年制定の大宝律令により,天皇を頂点とする律令国家体制が確立した。その後,中世から近世にかけては幕府権力が上位にあって,建武の新政の時期を除き,天皇は伝統的権威にすぎなくなった。明治維新以後天皇の神格化が進められ,大日本帝国憲法で「万世一系・神聖不可侵」とされ,また教育勅語によって天皇中心の家族国家観がうち出され,近代天皇制が確立した。その後大正デモクラシーの高まりによって立憲制の方向は運用面で強められたが,1930年前後から戦時体制が強まるにつれ,天皇制は独占資本主義と結びつきファシズムの機能を果たし,封建的軍国主義温床となった。第二次世界大戦後,天皇制は変質し,1946年天皇の人間宣言が出され,日本国憲法では象徴天皇制が規定された。
天皇人間宣言
てんのうにんげんせんげん @@@LINK=天皇人間宣言 天皇人間宣言

天皇人間宣言
てんのうにんげんせんげん

1946年1月1日,天皇がみずからの神格を否定した詔勅
正式には「新日本建設に関する詔書」。冒頭に,五箇条の誓文をあげ,これを新日本の国是とすることを誓い,天皇と国民との結合は,相互の信頼と敬愛とに基づくものであり,神話と伝説によるものに非ずと宣言した。
田畑永代売買禁止令
でんぱたえいたいばいばいきんしれい @@@LINK=田畑永代売買禁止令 田畑永代売買禁止令

田畑永代売買禁止令
でんぱたえいたいばいばいきんしれい

1643年,江戸幕府本田畑売買止した法令
分地制限令(1673)などとともに農政の基本政策の一つ。土地兼併や農民離村などを防ぎ,本百姓を維持して年貢の確保をはかった。違反者は売買両者とも重罪に処されたが,質流れや書入 (かきいれ) (抵当契約のこと)などの形で事実上破られた。のち緩和され,明治維新後の1872(明治5)年,禁が解かれた。
田畑勝手作解禁
でんぱたかってづくりかいきん @@@LINK=田畑勝手作解禁 田畑勝手作解禁

田畑勝手作解禁
でんぱたかってづくりかいきん

明治政府による本田畑の作物作付制限の解除
1643年以降,年貢収入を確保するため,幕府諸藩が作付品種を制限してきたが,1871(明治4)年作付の自由を許し,地租改正による金納地租への道を開いた。
田畑勝手作の禁令
でんぱたかってづくりのきんれい @@@LINK=田畑勝手作の禁令 田畑勝手作の禁令

田畑勝手作の禁令
でんぱたかってづくりのきんれい

江戸幕府が出した農民統制令の一つ
作物作付制限令ともいう。検地帳記載の本田畑五穀(米・麦・粟 (あわ) ・・黍 (きび) )以外の作物,たばこ・綿などの商品作物栽培を禁じ,本年貢収入の確保をはかった。1643年以後,たびたび発布したが,効果なく,1872年解禁。
天平文化
てんぴょうぶんか @@@LINK=天平文化 天平文化

天平文化
てんぴょうぶんか

奈良時代聖武天皇天平年間(729〜749)を中心に栄えた仏教的な貴族文化
律令国家の繁栄文化の影響もとにはなやかな文化が展開したが,貴族中心であり,仏教的色彩が強いところに特色がある。鎮護国家思想による東大寺国分寺建立や大規模な写経事業はこの時代の仏教文化のあり方をよく示している。国家的事業として記紀や『風土記』が編纂され,日本文学史上の民族的遺産である『万葉集』,漢詩集の『懐風藻』も成立した。また正倉院宝物にみられる美術工芸品は世界史的な背景をもっている。仏像彫刻は日本彫刻史における名作ぞろいであるが,なかでも東大寺三月堂の『日光・月光菩薩像』『不空羂索 (ふくうけんじやく) 観音像』,同寺戒壇院の『四天王像』などが有名である。
天賦人権論
てんぷじんけんろん @@@LINK=天賦人権論 天賦人権論

天賦人権論
てんぷじんけんろん

明治前期,自由民権運動の理論的根拠となった思想
人間は生まれながらにして自由・平等であり,それは天が賦与した人民の権利であるとする考え。ルソーらのフランス啓蒙思想を,維新期に福沢諭吉・加藤弘之らが紹介。自由民権期にはその理論的支柱となり,馬場辰猪・中江兆民・植木枝盛 (うえきえもり) らにより主張され普及した。
天文法華の乱
てんぶんほっけのらん @@@LINK=天文法華の乱 天文法華の乱

天文法華の乱
てんぶんほっけのらん

室町後期,延暦寺僧徒が京都の法華信徒を襲撃した事件
1532年一向一揆が畿内に波及すると,法華信徒は細川晴元とともに山科本願寺を焼打ちし,その後5年間にわたり京都市内の法華宗寺院を拠点として市内を自主的に管理していた。これに対し日蓮宗徒が比叡山西塔の僧の説法を論破したのを一因として '36(天文5)年延暦寺僧徒が襲撃し,21の寺が焼かれ,一揆衆は潰滅し,以後 '42年まで京都では日蓮宗は禁教状態に置かれた。
転封
てんぽう @@@LINK=転封 転封

転封
てんぽう

国替 (くにがえ)
天保の改革
てんぽうのかいかく @@@LINK=天保の改革 天保の改革

天保の改革
てんぽうのかいかく

江戸末期,12代将軍徳川家慶の初世,老中水野忠邦 (ただくに) が行った幕政改革(1841〜43)
天保の飢饉が深刻化し,1837年には大塩平八郎の乱が発生するなど危機感の高まる中で,'41年改革を実施。物価騰貴で幕府財政は破綻し,農村分解で村内に世直し一揆などが発生,非常の対策が要求された。享保・寛政の両改革にならい,奢侈禁止,風俗粛正,出版物取締りを励行し,物価引下げ令,人返しの法を公布した。株仲間解散令で都市の特権商人を抑圧して商品生産の成果を掌握しようとし,上知令で天領を集中させようとするなど,絶対主義への動きを示したが効果なく,特に上知令は没収の対象となった大名旗本の猛反対にあい実施できず忠邦失脚の原因となった。'43年忠邦は失脚し,幕府最後の大改革は失敗に終わった。この時期,藩政改革に成功をみた薩摩・長州・肥前藩などの西南雄藩が以後実力を伸ばした。
天保の飢饉
てんぽうのききん @@@LINK=天保の飢饉 天保の飢饉

天保の飢饉
てんぽうのききん

江戸後期の全国的大飢饉
1833〜36(天保4〜7)年を中心とする連続的凶作で,東北地方では農民が多数餓死した。'37年の大塩平八郎の乱をはじめ全国的に百姓一揆打ちこわしが続発。天保の改革がその後('41〜43)実施された。
伝馬
てんま @@@LINK=伝馬 伝馬

伝馬
てんま

古代以来,逓送用に用意された馬
④江戸幕府が宿駅に整備して公用に供した馬
①律令制下,駅馬とともに官吏の公用に供するために備えられた。郡司が管理し,急用のときは駅馬を,不急のときは伝馬を利用した。律令制の衰微とともに衰えた。
②鎌倉時代,荘園領主・地頭などが,農民から徴発して公用に使った馬。
③戦国大名も領内の宿駅に常備し,伝令・物資輸送などにあてた。
東海道100頭,中山道50頭,奥州・日光・甲州各道中各25頭を,宿駅ごとに置いた。
天満青物市
てんまあおものいち @@@LINK=天満青物市 天満青物市

天満青物市
てんまあおものいち

江戸時代,大坂の野菜市場
16世紀初め,石山本願寺門前に創設されたといわれるが,1653年天満橋の北に移ってから発展,畿内の野菜・生果集散の中心となった。大坂の市場として,堂島の米市,雑喉場 (ざこば) の魚市と並び称せられた。
天満紡績争議
てんまぼうせきそうぎ @@@LINK=天満紡績争議 天満紡績争議

天満紡績争議
てんまぼうせきそうぎ

明治前期,大阪の天満紡績会社でおこった労働争議(1889・'94)
原因は会社幹部に対する不満や待遇改善の要求などで,ストライキに入ったが失敗。甲府雨宮製糸争議(1886)とともに初期労働運動として注目される。
天武天皇
てんむてんのう @@@LINK=天武天皇 天武天皇

天武天皇
てんむてんのう

?〜686
7世紀後期の天皇(在位673〜686)
舒明 (じよめい) 天皇第3皇子。母は皇極(斉明)天皇。大海人 (おおあま) 皇子と称した。兄天智天皇を助け大化の改新政治の確立に尽くしたが,皇嗣問題などをめぐって不和となった。天智天皇死後吉野に退き,大友皇子(弘文天皇)との間に壬申の乱(672)がおこったが,東国を基盤としてこれに勝ち,673年飛鳥浄御原 (あすかきよみはら) 宮で即位。律令の制定や国史の編纂に着手し,八色の姓 (やくさのかばね) の制定など大化の改新以来の事業を確立した。

天明の飢饉
てんめいのききん @@@LINK=天明の飢饉 天明の飢饉

天明の飢饉
てんめいのききん

江戸後期,天明年間(1781〜89)の大飢饉
1782年の凶作に始まり,翌年関東の洪水,浅間山噴火,全国的冷害などで大飢饉が発生。津軽藩の20万の餓死者をはじめ奥羽・九州地方に被害甚大であった。'84年以後も飢饉が続き,天明年間で90数万の人口減少をみた。このため米価は高騰し,江戸をはじめ全国各地で打ちこわしが続発し,田沼政治の終局をはやめた。その後松平定信の登場により寛政の改革が進められた。
天文方
てんもんかた @@@LINK=天文方 天文方

天文方
てんもんかた

江戸幕府の職名
天文測量・暦の編集にあたる。1684年渋川春海 (はるみ) が初任蘭学興隆とともに拡充され,1811年部局内に蕃書和解御用を置いた。高橋至時 (よしとき) ・景保 (かげやす) 父子らが有名。また伊能忠敬の地図作成にも天文方が関与した。
天理教
てんりきょう @@@LINK=天理教 天理教

天理教
てんりきょう

幕末におこった教派神道の一つ
1838年大和(奈良県)の中山みきが霊感を得て創唱。主神は記紀の神を総合した天理王命。一神教的な神による民衆救済をはかり,現世利益的傾向が大きく,小地主・農民・中小市民に布教。維新政府に抵抗したが,のち妥協し,1908年独立の教派神道として公認された。本部は奈良県天理市。アメリカ・ブラジル韓国など海外にも教会を設置。
天暦の治
てんりゃくのち @@@LINK=天暦の治 天暦の治

天暦の治
てんりゃくのち

平安中期,村上天皇親政による治世
天竜寺
てんりゅうじ @@@LINK=天竜寺 天竜寺

天竜寺
てんりゅうじ

京都市右京区嵯峨にある臨済宗天竜寺派の本山。京都五山の一つ
足利尊氏・直義兄弟が後醍醐 (ごだいご) 天皇の冥福を祈るために建立。開山は夢窓疎石 (むそうそせき) で,1345年に落成。その間尊氏は造営費を得るため,元に天竜寺船を派遣した。夢窓疎石作の方丈の庭園は有名。
天竜寺船
てんりゅうじぶね @@@LINK=天竜寺船 天竜寺船

天竜寺船
てんりゅうじぶね

室町前期,足利尊氏が天竜寺造営費を調達するため,元に派遣した貿易船
発令者は足利直義。1342年,博多の商人至本 (しほん) に,海上保護などを保証し,帰国後銭5000貫を納めることを約束させ派遣した。
天領
てんりょう @@@LINK=天領 天領

天領
てんりょう

江戸幕府の直轄地
御料所ともいう。もと100万石余であったが,関ケ原の戦い(1600)後,大名の改易や減封などによって元禄年間(1688〜1704)には400万石余に増加し,旗本知行地300万石を加えれば全国の約4分の1になった。政治・経済上の要地をしめ,幕府は奉行や郡代・代官を置いて支配し,勘定奉行がこれを統轄した。
土井利勝
どいとしかつ @@@LINK=土井利勝 土井利勝

土井利勝
どいとしかつ

1573〜1644
江戸初期の幕府大老
遠江 (とおとうみ) (静岡県)の人。下総(茨城県)古河16万石の藩主。徳川家康の従弟といわれる。家康以下3代の将軍に仕え,特に1638年家光のとき酒井忠勝とともに大老となり,幕府権力の確立に貢献した。

刀伊の入寇
といのにゅうこう @@@LINK=刀伊の入寇 刀伊の入寇

刀伊の入寇
といのにゅうこう

平安中期,刀伊の北九州襲来事件
刀伊とは沿海州の女真人のことで,1019年兵船50余隻で,壱岐 (いき) ・対馬を経て北九州に侵入。平安貴族の太平の夢を破ったが,大宰権帥 (だざいのごんのそつ) 藤原隆家は在地の武士を集めて奮戦,これを撃退した。
土井晩翠
つちいばんすい @@@LINK=土井晩翠 土井晩翠
どいばんすい @@@LINK=土井晩翠 土井晩翠

土井晩翠
つちいばんすい

1871〜1952
明治〜昭和期の詩人・英文学者
本名林吉。後年は「土井」を「どい」と改音。宮城県の生まれ。東大英文科卒業後,母校二高(現東北大学)の教授となる。在学中より詩を発表し始め,1899年詩集『天地有情』発表以来,島崎藤村と並称された。その漢詩調・男性的詩風は寮歌校歌に影響を与えた。バイロン,ホメロスの翻訳でも著名である。1950年文化勲章受章。代表作に『荒城の月』『星落秋風五丈原』など。

土井晩翠
どいばんすい

つちいばんすい
問丸
といまる @@@LINK=問丸 問丸

問丸
といまる

中世,港や都市に居住し物資の運送・保管・販売に従事した業者
問 (とい) ともいい,平安時代には津屋という。はじめは荘園領主のもとで港で荘園年貢の運送・保管などにあたっていたが,しだいに委託販売を行うようになり,鎌倉末期以降は領主から独立し,一般物資の保管・運送・販売業者となった。のちには内陸にも発達,取扱い物資も単一化し,一部は運送部門を捨て,仲介・卸売専門となり近世の問屋の源流となったものもある。
問屋
といや @@@LINK=問屋 問屋

問屋
といや

江戸時代の卸売業者
「とんや」とも読む。中世の問・問丸 (といまる) から出た名称。荷主から商品を委託され口銭(手数料)をとって仲買人に売るか,または直接買い取って仲買人に売った。商品の流通機構の中心的存在で,仲間を組織して活動した。大坂の二十四組問屋,江戸の十組問屋が代表的。天保の改革の株仲間解散令で問屋の名称も禁じられたが,嘉永年間(1848〜54)に株仲間が復活した。
問屋制家内工業
といやせいかないこうぎょう @@@LINK=問屋制家内工業 問屋制家内工業

問屋制家内工業
といやせいかないこうぎょう

江戸時代商業資本の前貸しをうけ,これに従属して生産を営む家内工業
江戸後期から出現。製品の買受人である問屋が生産者に生産用の資金・原料・器具を貸付け,製品の買付・販売を独占。生産者の独立性は失われ,問屋から工賃を得て生産する賃労働者の地位に置かれた。18世紀初期の生糸・絹織物生産に早く現れ,幕末,各部門に拡大した。
問屋場
といやば @@@LINK=問屋場 問屋場

問屋場
といやば

江戸時代,宿駅の事務を行う所
「とんやば」とも読む。公用の人馬の配置,助郷人夫の賃金会計などを扱った。

とう @@@LINK=党 党


とう

中世,武士の結合集団
早い例は平安時代の武蔵七党のほか湯浅党・隅田 (すだ) 党・松浦 (まつら) 党などが有名。中小の武士が血縁的・地縁的に結合したもので,惣領の統制力の強い党と,同族が共和的に連合している党とがある。室町時代には衰えた。

とう @@@LINK=唐 唐


とう

中国,隋に続く統一王朝(618〜907)
都は長安。李淵 (りえん) (高祖)が隋末の反乱を平定して建国。隋のあとをうけて均田制を基盤とする中央集権国家体制を確立,外征によってその領土を拡大し,大帝国となった。周辺の諸国家は,その律令体制や国際色豊かな文化から多大な影響をうけた。日本は630年以後しばしば遣唐使を派遣して,唐文化の摂取につとめ,律令制的中央集権国家を建設し,白鳳・天平の文化が開花した。8世紀中ごろの安史の乱後,藩鎮(節度使)が台頭し,黄巣の乱を経て滅亡した。

どう
Cu @@@LINK=銅 銅


どう
Cu

光沢のある赤色の金属元素
青銅器は鉄器とともに大陸から伝来。708(和銅元)年武蔵秩父からの和銅献上は有名。奈良時代から銅銭・仏像鋳造など需要が増大し採鉱が進んだ。日宋・日明貿易では輸出品となり,生産量も増大し,16世紀に製錬法が進歩,足尾・尾去沢阿仁・別子などの鉱山が開発された。江戸中期には最高の生産量となり,減産した銀に代わり世界有数の輸出国となった。その後減産したため,幕府銅座を設け統制した。明治維新後,近代技術を導入し,特に電気工業用で再興をはかった。第一次世界大戦後,産銅カルテルが結成された。
東亜新秩序
とうあしんちつじょ @@@LINK=東亜新秩序 東亜新秩序

東亜新秩序
とうあしんちつじょ

1938年,第1次近衛文麿内閣が日中戦争に関して出した声明
日本を中心として,日・満・華を一体とした新しい社会をつくることが戦争の目標だと主張。のち大東亜共栄圏の構想につらなる。
銅戈
どうか @@@LINK=銅戈 銅戈

銅戈
どうか

弥生時代の青銅製武器型祭器
戈は身と直交する柄をつけたもので,中国に起源をもち,類品は朝鮮にも分布する。厚く鋭い身をもつ狭鋒銅戈から,鋒が薄く樋(刀身側面にある細長い)が短い広鋒銅戈へと変化したが,後者は国産品。北九州を中心に分布し,マレー原住民の武器クリスと類似するのでクリス形銅器とも呼ばれる。
東海散士
とうかいさんし @@@LINK=東海散士 東海散士

東海散士
とうかいさんし

1852〜1922
明治・大正時代の小説家・政治家
本名柴四朗。会津藩出身。アメリカに留学し経済学を専攻。1885年政治小説『佳人之奇遇 (かじんのきぐう) 』を発表して文名をあげる。政界にも活躍し衆議院議員に8回当選した。

東海道
とうかいどう @@@LINK=東海道 東海道

東海道
とうかいどう

①律令制下,五畿七道の一つ
②江戸時代の五街道の一つ
現在の中部・関東地方の太平洋岸一帯の地域で,伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江 (とおとうみ) ・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房 (あわ) ・上総・下総・常陸 (ひたち) の15カ国。
鎌倉時代以来発展し,江戸時代に最も重要な交通路となった。宿場は江戸〜京都間53次。
東海道五十三次
とうかいどうごじゅうさんつぎ @@@LINK=東海道五十三次 東海道五十三次

東海道五十三次
とうかいどうごじゅうさんつぎ

①江戸後期,歌川(安藤)広重の版画
1832年完成。東海道の街道筋の風景・風俗を55枚の連作で描いたもの。風景画に新生面を開いた傑作。
②江戸時代,江戸品川から東海道をへて近江大津に至る53の宿場。
東海道中膝栗毛
とうかいどうちゅうひざくりげ @@@LINK=東海道中膝栗毛 東海道中膝栗毛

東海道中膝栗毛
とうかいどうちゅうひざくりげ

江戸後期,十返舎一九 (じつぺんしやいつく) の代表的滑稽本
1802〜22年刊。神田八丁堀の弥次郎兵衛と喜多八が,東海道旅行中におこしたかずかずの失敗・悪戯・奇行・駄洒落を描いた。劇化や,音曲化され,数多くの模倣作の先駆となった。
東海道本線
とうかいどうほんせん @@@LINK=東海道本線 東海道本線

東海道本線
とうかいどうほんせん

東京駅から神戸駅に至る鉄道幹線
1872(明治5)年新橋〜横浜間,'74年大阪〜神戸間,'77年京都〜大阪間が開通し,'89年には東京〜神戸間が全通。全線約600km。旧国鉄最重要幹線として,日本の産業の発展に大きく貢献した。1964年に新たに東海道新幹線が開通。'87年国鉄の分割・民営化により現在はJR東日本,JR東海,JR西日本の各社が管轄・営業している。
東海道四谷怪談
とうかいどうよつやかいだん @@@LINK=東海道四谷怪談 東海道四谷怪談

東海道四谷怪談
とうかいどうよつやかいだん

江戸後期,4代鶴屋南北の歌舞伎脚本
1825年江戸中村座で初演。5幕。江戸四谷の女房お岩が,不義をしたうえに自分を毒殺した夫の民谷伊右衛門に亡霊となって報復する話。怪談物の代表作。
桃華蘂葉
とうかずいよう @@@LINK=桃華蘂葉 桃華蘂葉

桃華蘂葉
とうかずいよう

室町後期,一条兼良 (かねよし) の有職 (ゆうそく) 書
1480年成立。1巻。衣服・道具などの項目の下に歴代の日記を引き一条流の故実を詳細に記し,書札礼や国史法制儀礼などの古典に関する説明を施す。子の冬良の心得のために書かれたもの。
陶棺
とうかん @@@LINK=陶棺 陶棺

陶棺
とうかん

古墳時代後期,土を焼き固めてつくった棺
主として近畿・中国地方の古墳に安置された。蓋と身に縦横に粘土の凸帯のついた亀甲形と,蓋が切妻式または四注式の屋根に似た屋根形とがある。
東巌慧安
とうがんえあん @@@LINK=東巌慧安 東巌慧安

東巌慧安
とうがんえあん

1225〜77
鎌倉中期の臨済宗の僧
播磨(兵庫県)の人。初め天台宗を修め,入宋を志し博多に至る。悟空敬念に会い心服し,臨済宗に帰依。1262年兀庵普寧 (ごつたんふねい) に参じて法をつぎ,京都の正伝寺の開山となる。蒙古襲来のとき,祈禱所を建てて戦勝祈願を行った。

東関紀行
とうかんきこう @@@LINK=東関紀行 東関紀行

東関紀行
とうかんきこう

鎌倉中期の紀行文
1巻。作者は源親行 (ちかゆき) というが不詳。1242年秋,京都を出発し十数日で鎌倉に着き,2か月滞在して帰京するまでの紀行文。和漢混交文で書かれ道行文 (みちゆきぶみ) の元祖
統監府
とうかんふ @@@LINK=統監府 統監府

統監府
とうかんふ

1905年,韓国漢城(現ソウル)に設置された日本の韓国支配機関(〜'10)
1905年の第2次日韓協約韓国保護条約)により設置。初代統監伊藤博文。'07年第3次日韓協約の締結後は統監府は外交権ばかりでなく内政権をも掌握して,韓国併合への準備を進め,'10年併合後は朝鮮総督府へ引き継がれた。
道鏡
どうきょう @@@LINK=道鏡 道鏡

道鏡
どうきょう

?〜772
奈良後期の法相宗の僧
河内国(大阪府)の人。俗姓弓削 (ゆげ) 氏。孝謙上皇(称徳天皇)の寵愛をうけ政界に進出。藤原仲麻呂の乱(764)後,太政大臣禅師,ついで法王となり,権勢をふるった。769年皇位を望んだが,藤原百川 (ももかわ) ・和気清麻呂らの妨害によって失敗に終わった。770年称徳天皇の死後,下野 (しもつけ) (栃木県)薬師寺別当に左遷され,その地で没した。

銅鏡
どうきょう @@@LINK=銅鏡 銅鏡

銅鏡
どうきょう

弥生古墳時代青銅製の
円形で,周囲をさまざまな文様で飾り,背面にはをかける (ちゆう) がある。中国では漢代から三国・六朝時代・唐代にかけて盛行した。日本では弥生時代遺跡から漢代の鏡や朝鮮系の2〜3の鈕をもつ多鈕細文鏡 (たちゆうさいもんきよう) が副葬品として出土し,古墳時代の遺跡には,三国時代以降の鏡が多い。特に古墳時代前期から中期にかけては神獣鏡が多い。中国からの舶載鏡の影響をうけて,日本製の仿製鏡 (ほうせいきよう) がつくられた。
東京オリンピック
とうきょうオリンピック @@@LINK=東京オリンピック 東京オリンピック

東京オリンピック
とうきょうオリンピック

1964年10月,東京で開かれた第18回夏季オリンピック大会
1940年の第12回東京大会が戦争で中止されたので,アジアで最初のオリンピックとなる。参加94カ国。東海道新幹線が開通し,開会式のあった10月10日はのち「体育の日」となる。
東京音楽学校
とうきょうおんがくがっこう @@@LINK=東京音楽学校 東京音楽学校

東京音楽学校
とうきょうおんがくがっこう

明治〜昭和期の国立音楽教育機関
1879年文部省に設けられた音楽取調掛が起源。'87年東京音楽学校となり,伊沢修二が初代校長。音楽教育者および音楽家を養成し,日本の近代音楽発展に貢献した。第二次世界大戦後,1949年東京美術学校と合併,東京芸術大学(音楽学部)となる。
東京遷都
とうきょうせんと @@@LINK=東京遷都 東京遷都

東京遷都
とうきょうせんと

1869年,明治政府による首都移転
1868年幕府の江戸開城ののち,維新政府は,同年7月江戸を東京と改称翌年人心一新,旧幕府の根拠地の制圧,新政の徹底をはかるために,江戸城を皇城と改めた。公式の声明もなく,事実上の遷都となった。
東京専門学校
とうきょうせんもんがっこう @@@LINK=東京専門学校 東京専門学校

東京専門学校
とうきょうせんもんがっこう

1882(明治15)年,大隈重信が創立した私立学校
早稲田大学前身。明治十四年の政変で下野した大隈が,翌年東京府南豊島郡戸塚村に設立官学に対抗して在野的・自由主義的教育を実施した。1902年早稲田大学改称
東京大学
とうきょうだいがく @@@LINK=東京大学 東京大学

東京大学
とうきょうだいがく

東京都文京区本郷に本部を置く,日本最初の国立大学
1877年開成学校と医学校を合わせて創設。'85年4学部を本郷に合併し,翌'86年帝国大学,'97年東京帝国大学と改称。このころから欧米学問の紹介にとどまらず独自の研究成果をあげるようになる。第二次世界大戦後,1947年再び東京大学と改称,再編成された。最高学府として学術発展に貢献
東京大空襲
とうきょうだいくうしゅう @@@LINK=東京大空襲 東京大空襲

東京大空襲
とうきょうだいくうしゅう

1945年3月10日未明に行われたアメリカ軍のB29による東京への無差別爆撃のこと
アメリカ軍の東京下町地域への空襲は'42年4月に始まったが,'45年3月10日未明はB29約300機が襲来し,下町地域を無差別爆撃した。この結果,焼失家屋26万戸,死者約10万人の被害を生じ,沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ太平洋戦争中の大戦災となった。4月には東京西部地域,5月には山の手地域と,3次にわたる大空襲によって東京の半分焼け野原となった。
東京日日新聞
とうきょうにちにちしんぶん @@@LINK=東京日日新聞 東京日日新聞

東京日日新聞
とうきょうにちにちしんぶん

明治〜昭和期の新聞
1872年条野伝平らが創刊。'74年福地源一郎が主筆となり,日本の新聞で最初に社説を掲載した。終始政府の御用的立場をとる。1911年大阪毎日新聞社に併合され,'43年には新聞統合政策により,紙名も『毎日新聞』に統一された。
東京美術学校
とうきょうびじゅつがっこう @@@LINK=東京美術学校 東京美術学校

東京美術学校
とうきょうびじゅつがっこう

明治中期に創設された国立美術教育機関
国粋主義の興隆背景に,浜尾新 (あらた) ・岡倉天心らの努力で1887年設立,'89年開校。絵画(日本画)・彫刻木彫)・美術工芸(彫金)の3を設置,のち洋画・図案・図画師範科を増設。日本の美術発展に大きく貢献した。第二次世界大戦後,1949年東京音楽学校と合併東京芸術大学(美術学部)となる。
東京砲兵工廠
とうきょうほうへいこうしょう @@@LINK=東京砲兵工廠 東京砲兵工廠

東京砲兵工廠
とうきょうほうへいこうしょう

明治前期,東京に設けられた政府の官営軍需工場
旧幕府経営の関口製作所を明治政府が接収して東京工廠としたのに始まり,1879年東京砲兵工廠となる。大阪砲兵工廠とともに陸軍直営の兵器工場として発展。1923年廃止され,陸軍造兵廠東京工廠となった。
洞窟遺跡
どうくついせき @@@LINK=洞窟遺跡 洞窟遺跡

洞窟遺跡
どうくついせき

旧石器時代の遺跡
天然の洞窟を住居に利用したもの。酸性度の強い関東ローム層に対し,アルカリ性が強いので,人や動物の骨が化石骨となって出土することが多い。岩陰遺跡とともに旧石器時代の研究に重要。代表的遺跡として長崎県福井洞窟,富山県大境洞窟など。
東求堂
とうぐどう @@@LINK=東求堂 東求堂

東求堂
とうぐどう

京都市慈照寺にある建物の一つ
足利義政の持仏堂で,仏間と書院をもつ。1486年建立。名は「東方の人念仏して西方に生ぜんことを求む」の語による。書院は同仁斎(名は「聖人一視而同仁」の語による)と呼ばれ,四畳半で付書院をもち,四畳半茶室のはじめとされる。
東慶寺
とうけいじ @@@LINK=東慶寺 東慶寺

東慶寺
とうけいじ

鎌倉松ケ岡にあった縁切寺
臨済宗円覚寺派の寺。山号は松岡山。1285年創建。格式が高く,20世法泰尼は豊臣秀頼の娘。妻の方からの離婚が難しかった時代に,この寺にかけこめば寺法によって離婚できる特権をもった尼寺で,駆込寺 (かけこみでら) ともいわれた。明治時代以後,男性住職
道元
どうげん @@@LINK=道元 道元

道元
どうげん

1200〜53
鎌倉時代の禅僧。日本曹洞宗の開祖
初め比叡山で天台宗を修め,ついで栄西に禅を学ぶ。1223年入宋し曹洞禅を修め,帰朝後,坐禅第一主義による厳格な宋風純粋禅を唱えた。公武の権力者との結びつきを避け,'43年越前(福井県)の土豪波多野義重に招かれ永平寺を創建し,弟子の養成に専念した。著書に『正法眼蔵 (しようぼうげんぞう) 』『学道用心集』など。

銅剣・銅鉾
どうけん・どうほこ @@@LINK=銅剣・銅鉾 銅剣・銅鉾

銅剣・銅鉾
どうけん・どうほこ

弥生時代の青銅製武器型祭器
ともに刺したり突いたりすることを目的とした武器。もとが筒状になり,長い柄を挿入するようにしたものをと呼ぶ。中国に起源をもち,輸入品は適量スズを含んだ細形の鋭利なものであるが,国産品は幅が広く扁平で,スズの含有量も一定せず刃がにぶく非実用的。権威の象徴的意義をもつとされるが,北九州を中心に四国・中国に分布し,銅鐸と分布圏を異にしている。
東郷平八郎
とうごうへいはちろう @@@LINK=東郷平八郎 東郷平八郎

東郷平八郎
とうごうへいはちろう

1847〜1934
明治〜昭和前期の海軍軍人
薩摩藩出身。戊辰 (ぼしん) 戦争に従軍し,1871〜78年,海軍士官となりイギリスに留学。日清戦争のとき浪速 (なにわ) 艦長として活躍。日露戦争では連合艦隊司令官として日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した。のち元帥となる。

東国
とうごく @@@LINK=東国 東国

東国
とうごく

古代,畿内から東方の諸国
古来「あづま」の国(現関東地方)をさしたが,天武天皇のころから東海道の諸国を意味するようになり,それまでの「あづま」は「坂東」と呼んだ。奈良時代の「関東」の語は三関以東をさし,中部地方を含んだ。
銅座
どうざ @@@LINK=銅座 銅座

銅座
どうざ

江戸時代,大坂に置かれた銅統制のための集荷機関
長崎貿易における金銀流出防止のため,銅輸出の増加をはかった幕府は,銅座を置き,銅精錬・売買の統制を行った。設置年は3期に分かれ,1期は1701〜12年,2期は'38〜'48年,3期は'66〜1868年。勘定奉行・長崎奉行・大坂町奉行の支配下に,明治維新まで存続した。
東西市
とうざいのいち @@@LINK=東西市 東西市

東西市
とうざいのいち

古代都城
唐制をまねた大宝令によって703年藤原京に設けられたのが最初で,ひきつづき平城京平安京にも置かれた。平安京では,東市・西市朱雀大路をはさんで七条あたりに置かれ,月の前半東市後半西市が開かれ,交易される商品も定められた。京職に属する官人である市司 (いちのつかさ) と市人によって運営される官設の市場であったが,市女 (いちめ) と呼ばれる商いをする女があり,庶民交流の場でもあった。また公開の処刑場でもあり,辻説法の場でもあった。
東山道
とうさんどう @@@LINK=東山道 東山道

東山道
とうさんどう

律令制下,五畿七道の一つ
現在の中部関東東北山地一帯の地方で,近江・美濃 (みの) ・飛驒・信濃・上野 (こうずけ) ・下野 (しもつけ) ・陸奥 (むつ) (明治初期に磐城 (いわき) ・岩代陸前陸中・陸奥に分かれた)・出羽(明治初期に羽前・羽後に分かれた)の8カ国(明治以後13カ国)。武蔵は初め東山道に属したが,771年以降東海道に属した。のちこの地を通る街道をさすようになった。
東寺
とうじ @@@LINK=東寺 東寺

東寺
とうじ

教王護国寺
陶磁器
とうじき @@@LINK=陶磁器 陶磁器

陶磁器
とうじき

一般に素焼の土器に対し釉薬 (うわぐすり) をかけた陶器と磁器の総称
焼成度が,陶器は1000℃前後で柔らかく,磁器は1200℃前後で硬く半透明。奈良時代から陶器は存在するが,古来の土師器 (はじき) ・須恵器 (すえき) が一般的であった。鎌倉中期,加藤景正が宋の製陶法を伝え瀬戸焼を創始。豊臣秀吉の朝鮮侵略により,朝鮮陶工が多数連行されてきたため,陶業は飛躍的に発展。楽焼・上野 (あがの) 焼・薩摩焼・唐津焼などがおこり,侘 (わ) び茶の影響を反映した作品を生んだ。磁器は有田焼(伊万里焼ともいう)から九谷焼・瀬戸焼に波及幕府・諸藩の保護で各地に名産地が生まれ,特に有田・瀬戸・九谷などでは茶器のみでなく日用品もつくり発展した。
童子教
どうじきょう @@@LINK=童子教 童子教

童子教
どうじきょう

室町初期〜明治初期に至るまで用いられた初等用教科書
1巻。鎌倉時代の作と推定される。作者は未詳。儒教中心の現世道徳を内容とする。
同志社
どうししゃ @@@LINK=同志社 同志社

同志社
どうししゃ

1875(明治8)年,新島襄キリスト教による教育をめざして設立した学園
同志社大学前身新島は京都府顧問山本覚馬と同志社を結成し,京都に同志社英学校を開いた。翌1876年熊本洋学校閉鎖後は,徳富蘇峰海老名弾正らも転校して学ぶ。その後変遷を重ねて,現在の総合大学となった。
東寺百合文書
とうじひゃくごうもんじょ @@@LINK=東寺百合文書 東寺百合文書

東寺百合文書
とうじひゃくごうもんじょ

京都市東寺(教王護国寺)に伝わる古文書
平安末期から室町時代にかけての東寺領荘園の研究に不可欠の文書約4万通で,中世社会経済史の重要な史料。名称の「百合」は,1685年加賀藩主前田綱紀 (つなのり) が寄進した100個の文書箱に,片仮名平仮名いろは記号を付けて古文書が収められていることによる。
堂島米市場
どうじまこめいちば @@@LINK=堂島米市場 堂島米市場

堂島米市場
どうじまこめいちば

江戸時代,大坂の堂島に設けられた米市場
現在の大阪市北区にあった。17世紀後半,諸藩の蔵物販売にあたる蔵元が出現し,米売買・米相場が行われるようになって,1697年淀屋橋南詰から新開の堂島に移った。1730年米仲買に株が許可され,堂島は幕府官許の米市場として発展,全国米相場の中心となった。1876(明治9)年米穀取引所転身
東洲斎写楽
とうしゅうさいしゃらく @@@LINK=東洲斎写楽 東洲斎写楽

東洲斎写楽
とうしゅうさいしゃらく

生没年不詳
江戸後期(寛政期)の浮世絵師
阿波(徳島県)藩のお抱え能役者といわれる。作画期は1794〜95年の10か月間で140余点の浮世絵を制作,前後の消息は不明。役者絵・力士絵を描き,眼・などを誇張的に表現し個性描写にすぐれた。特に大首絵に傑作が多い。代表作に『中山富三郎』『市川鰕蔵』など。
藤樹書院
とうじゅしょいん @@@LINK=藤樹書院 藤樹書院

藤樹書院
とうじゅしょいん

江戸前期,中江藤樹が近江に開いた私塾
1634年郷里の近江国小川村に創立。『中』の思想中核として「格物致知 (かくぶつちち) 」に独自の見解示し実践を重んじ,里人の徳化につとめた。
道昭
どうしょう @@@LINK=道昭 道昭

道昭
どうしょう

629〜700
7世紀後期の法相宗の僧
河内(大阪府)の人。行基の師。653年に入唐し,玄奘三蔵に師事した。在唐8年で帰国。元興寺に住し唯識学を講じ,日本法相宗の開祖となった。死後遺言により,遺体を火葬にしたが,これが日本における火葬のはじめといわれる。
東照宮
とうしょうぐう @@@LINK=東照宮 東照宮

東照宮
とうしょうぐう

徳川家康を祭る神社
1616年家康が死ぬと,幕府は駿河の久能山に葬り社殿を建築。翌年朝廷より「東照大権現」の神号を与えられ,将軍家の祖神となった。同年僧天海主張で日光に改葬し,社殿を造営。'36年3代将軍家光のとき,江戸初期の建築美術を集約して現在の社殿を造営。諸大名も東照宮を城下に建立し,幕府に対する忠誠を表した。建築上では権現造が有名。
唐招提寺
とうしょうだいじ @@@LINK=唐招提寺 唐招提寺

唐招提寺
とうしょうだいじ

奈良市五条町にある律宗の総本山
759年鑑真建立説と,鑑真没後弟子たちの建立説とがある。平安初期まで隆盛であった。金堂・講堂は天平時代の建築の代表的遺構で,同時代の仏像も多く残っている。『鑑真和上像』は数少ない奈良時代の肖像彫刻の一つとして有名。
東条英機
とうじょうひでき @@@LINK=東条英機 東条英機

東条英機
とうじょうひでき

1884〜1948
昭和期の軍人・政治家
陸軍大将。東京の生まれ。統制派の中心として,1940年第2・3次近衛文麿内閣の陸相となり,日米交渉では強硬論を主張した。翌年10月組閣,12月太平洋戦争に突入した。以後陸相・外相・内相・文相・参謀総長などを兼任し,独裁政治を行う。サイパン島陥落で '44年7月辞職。第二次世界大戦後,A級戦犯として絞首刑に処せられた。

同心
どうしん @@@LINK=同心 同心

同心
どうしん

江戸幕府の下級役人
戦国期には,寄子に近い下級武士の称。江戸幕府では諸奉行など要職の配下に置かれ,与力の下で大小の庶務を執った。特に町奉行に属した町方同心は有名で,江戸市中の警察事務を分掌した。その下に町役人があった。
同仁斎
どうじんさい @@@LINK=同仁斎 同仁斎

同仁斎
どうじんさい

京都市慈照寺内にある東求堂の一室。
東清鉄道
とうしんてつどう @@@LINK=東清鉄道 東清鉄道

東清鉄道
とうしんてつどう

三国干渉後の1901年,ロシアが満州に建設した鉄道
1903年営業開始。シベリア鉄道に結び,ロシアの南下政策根幹となった。日露戦争(1904〜05)後,ポーツマス条約により長春以南を日本が取得して,南満州鉄道株式会社(満鉄)となった。満州事変後,日ソ間の交渉の末,'35年全鉄道が満州国に売却されたが,'45年日本の敗戦でソ連が占領,'52年中国に返還された。
唐人町
とうじんまち @@@LINK=唐人町 唐人町

唐人町
とうじんまち

戦国時代から江戸初期にかけ来日帰化した中国人の集団居住地区
豊後府内(大分)・都城・熊本・平戸・唐津・博多・小田原などにあった。鎖国後は新来者がなく同化し,自然消滅して,地名のみ残った。朝鮮人の居住地をいうところもある。
唐人屋敷
とうじんやしき @@@LINK=唐人屋敷 唐人屋敷

唐人屋敷
とうじんやしき

江戸時代,長崎に設けられた中国人居留地
唐館ともいう。1689年密貿易・風紀取締りを理由に設置,来航の中国人を住まわせた。面積9373坪,内部に2階造の唐人部屋20,市店107などがあり,周囲は塹壕 (ざんごう) と竹柵をめぐらし出入りを監視した。中国文化の窓口となった。
統帥権
とうすいけん @@@LINK=統帥権 統帥権

統帥権
とうすいけん

陸海軍の用兵作戦に関する軍令権
大日本帝国憲法には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり,一般国務から独立した天皇の大権とされ,陸軍は参謀本部,海軍は軍令部が天皇に直属し,軍政(陸・海軍省)からも分離していた。このことは軍部独裁を許す原因となった。
統帥権干犯問題
とうすいけんかんぱんもんだい @@@LINK=統帥権干犯問題 統帥権干犯問題

統帥権干犯問題
とうすいけんかんぱんもんだい

1930(昭和5)年,ロンドン海軍軍縮条約調印に関しておきた政府と軍部・右翼との対立事件
1930年4月に調印されたロンドン海軍軍縮条約に対して,海軍軍令部は,軍令部の承認なき調印は天皇の統帥権を犯すと非難野党立憲政友会もこれに同調し立憲民政党の浜口雄幸内閣を攻撃した。内閣はこれを押し切って同年10月批准したが,右翼青年による浜口首相狙撃事件に発展。軍国主義化の材料となった。
当世書生気質
とうせいしょせいかたぎ @@@LINK=当世書生気質 当世書生気質

当世書生気質
とうせいしょせいかたぎ

明治時代,坪内逍遙の小説
1885〜86年刊。17冊。『小説神髄』の趣旨にそい,当時の学生風俗を写実的に描こうとしたもの。
統制派
とうせいは @@@LINK=統制派 統制派

統制派
とうせいは

昭和前期,皇道派を抑え主導権を握った陸軍部内の一派閥
1931年十月事件失敗後,革新派のうち中央官庁勤務の中堅将校を中心に形成。政・財界と結び合法的手段による覇権確立をめざし,直接行動を主張する皇道派と対立した。軍部内の統制を唱え,二・二六事件('36)を機に皇道派を一掃し,軍部の実権を握って軍部独裁を推進した。中心人物に永田鉄山・東条英機・板垣征四郎らがいる。
東潜夫論
とうせんぷろん @@@LINK=東潜夫論 東潜夫論

東潜夫論
とうせんぷろん

江戸末期,帆足万里 (ほあしばんり) の経世論
1844年成立。3巻。豊後日出 (ひじ) 藩の家老として藩政改革にあたった経験を生かして論述。王室・覇府・諸侯の3編からなり,教育・礼楽の制度確立の必要,大名統制策の欠陥,国替の廃止,重商主義による富国強兵策など,幕藩体制強化策を論じた。
東大寺
とうだいじ @@@LINK=東大寺 東大寺

東大寺
とうだいじ

奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。南都七大寺の一つ
聖武天皇の発願により,743年紫香楽 (しがらき) 宮で始められた盧舎那仏 (るしやなぶつ) の造営が,奈良に移されて東大寺の大仏となった。752年大仏開眼の供養があり,784年ころ伽藍 (がらん) が完成した。平安・鎌倉時代には寺領荘園を多く持ち勢威をほこった。平安末期,1180年平重衡によって焼かれたが,重源が復興。さらに室町時代,松永久秀の兵火を経て,17世紀末再建された。正倉院には多くの天平時代の文化財があり,三月堂には『不空羂索 (ふくうけんじやく) 観音像』をはじめ天平時代の代表的仏像が安置されている。
東大寺三月堂
とうだいじさんがつどう @@@LINK=東大寺三月堂 東大寺三月堂

東大寺三月堂
とうだいじさんがつどう

奈良市東大寺にある法華堂の別称
天平時代(729〜749)の建築の正堂に,鎌倉時代に礼堂が追加され,両時代の建物が融和併存している。堂内の本尊は『不空羂索 (ふくうけんじやく) 観音像』(乾漆像)であるが,その他『日光月光菩薩像』(塑像),『梵天・帝釈天像』『四天王像』など天平彫刻名品があり,秘仏として『執金剛神像』がある。
唐大和上東征伝
とうだいわじょうとうせいでん @@@LINK=唐大和上東征伝 唐大和上東征伝

唐大和上東征伝
とうだいわじょうとうせいでん

奈良時代鑑真 (がんじん) の伝記
『鑑真過海大師東征伝』『鑑真和上東征伝』ともいう。779年成立。1巻。淡海三船撰。鑑真が日本に戒律を伝えた因縁経路唐招提寺縁起などについて記述したもの。
銅鐸
どうたく @@@LINK=銅鐸 銅鐸

銅鐸
どうたく

弥生時代,偏平 (へんぺい) な釣鐘 (つりがね) 状の青銅製祭器
高さは20㎝前後から150㎝。装飾文様は,縦横に交叉する帯を用いて身を6または4区に区画した袈裟襷 (けさだすき) 文・流水文などがある。共同体の祭器らしい。近畿地方を中心に分布し,北九州中心の銅剣・銅鉾文化圏と対照的である。
唐通事
とうつうじ @@@LINK=唐通事 唐通事

唐通事
とうつうじ

江戸時代,長崎の中国貿易の通訳
1604年,明人馮六 (ひようろく) に始まり,帰化した中国人の子孫が多く,代々世襲的職業となった。大通事4人・小通事5人その下に稽古通事若干名を置いた。
藤堂氏
とうどうし @@@LINK=藤堂氏 藤堂氏

藤堂氏
とうどうし

江戸時代,伊勢の津(安濃津)藩主
近江愛智 (えち) 郡に住む郡司の家系中,犬上郡藤堂村に住したが藤堂と称したらしい。初め六角・京極氏に仕えたが,1608年高虎のとき,伊賀・伊勢に入封。'17年,32万石に加増され,明治時代に至り伯爵をうけた。
統道真伝
とうどうしんでん @@@LINK=統道真伝 統道真伝

統道真伝
とうどうしんでん

江戸後期,安藤昌益晩年の著書
未公刊の稿本。1752年頃の成立と推定。4巻5冊。『自然真営道』後の自分の思想をまとめたもので,孔子孟子などの聖人を「不耕貪食の徒」ときめつけ,神道・儒教・仏教を激しく批判し,幽霊迷信を否定した。
藤堂高虎
とうどうたかとら @@@LINK=藤堂高虎 藤堂高虎

藤堂高虎
とうどうたかとら

1556〜1630
安土桃山〜江戸時代初期の外様大名
伊勢(三重県)津藩初代藩主。浅井・織田両氏に仕え,文禄・慶長の役に水軍を指揮,豊臣秀吉から伊予(愛媛県)板島7万石を与えられた。1600年関ケ原の戦いに徳川氏に属し功をたて伊予今治20万石の大名となった。'08年大坂方に対する要地,伊賀(三重県)・伊勢22万石に転封され,大坂夏の陣で徳川家康の危機を救った功により加増され,32万石の大藩を領した。

道頓堀
どうとんぼり @@@LINK=道頓堀 道頓堀

道頓堀
どうとんぼり

大阪市の南区と西区の南を東西に走る運河
江戸初期,成安道頓・安井道卜らにより東横堀川と木津川を結んで開掘され,1615年完成。付近の繁栄のために,'26年芝居小屋・遊里などの設置が公認された。現在も大阪有数の繁華街。
東常縁
とうのつねより @@@LINK=東常縁 東常縁

東常縁
とうのつねより

1401〜94?
室町中期の武将・歌人。古今伝授の創始者といわれる
名は「じょうえん」とも読む。東国の武門の名家千葉氏支流の出で,和歌は正徹に師事し,のち二条家流の堯孝の門に入る。古今伝授の形式を定式化して宗祇 (そうぎ) に伝えた。著書に『常縁集』『東野州書』など。

多武峰
とうのみね @@@LINK=多武峰 多武峰

多武峰
とうのみね

奈良県桜井市にある山嶺。藤原鎌足のと談山 (たんざん) 神社がある
鎌足の子定慧が父の遺骸改葬,十三重塔を建て,聖霊院を設け霊像を安置した。国家の変事には廟山鳴動・神像破裂するといわれた。天台宗に属し,南都北嶺争いにも参加。明治時代の神仏分離により談山神社となった。
討幕運動
とうばくうんどう @@@LINK=討幕運動 討幕運動

討幕運動
とうばくうんどう

江戸末期の幕府打倒の運動
「倒幕運動」とも書く。1863年天誅組の乱に始まり,それまで公武合体運動の主力であった薩摩藩が尊王攘夷派の長州藩と手を組んで'66年薩長連合を結成してから本格化した。これに対し幕府は,土佐藩を主力とする大政奉還派と組んだ。なお国際的にはイギリスと討幕派,フランスと大政奉還派が手を結んだ。'67年10月14日,大政奉還の上表文が提出された日に討幕の密勅が下るなど,二つの動きが交錯する中で,12月9日王政復古が宣言され,ついで '68年には戊辰 (ぼしん) 戦争が始まり,討幕派が決定的な勝利をしめた。
討幕の密勅
とうばくのみっちょく @@@LINK=討幕の密勅 討幕の密勅

討幕の密勅
とうばくのみっちょく

1867(慶応3)年10月14日,薩摩・長州両藩に対してひそかに出された討幕の勅書
武力討幕を企てた薩長両藩は,広島(芸州)藩を加えて挙兵の盟約を結び,朝廷から徳川慶喜追討の密勅を得た。この密勅は形式が異例のため偽勅説もある。
銅版画
どうばんが @@@LINK=銅版画 銅版画

銅版画
どうばんが

銅版に彫刻して印刷した版画
刀で直接刻み,これにインキを盛って印刷する直刻法と,薬品で腐食させる腐食法とがある。前者は16世紀末に宣教師が行った。後者は18世紀末司馬江漢が始め,のち亜欧堂田善が発展させた。
同笵鏡
どうはんきょう @@@LINK=同笵鏡 同笵鏡

同笵鏡
どうはんきょう

同一の鋳型を用いてつくられた銅鏡
中国からの舶載 (はくさい) 鏡だけでなく,わが国製作の仿製 (ほうせい) 鏡にも例がある。とくに三角縁神獣鏡の例が有名で,京都府にある椿井大塚山古墳から発見された32面には23種,28面の同笵鏡があり,大和政権各地豪族権威を承認したしるしとして同笵鏡を授けたと考えられている。
唐風文化
とうふうぶんか @@@LINK=唐風文化 唐風文化

唐風文化
とうふうぶんか

奈良時代〜平安前期にかけて文化の影響をうけて成立した文化
都城制・律令制をはじめ,学問,漢詩文,三筆の書道宮廷儀式官吏服装など,いずれも唐を模範とした。894年遣唐使派遣中止により,それまでの唐風文化を消化するに至り,以後国風文化が盛んとなった。
東福寺
とうふくじ @@@LINK=東福寺 東福寺

東福寺
とうふくじ

京都市東山区本町にある臨済宗東福寺派の本山。京都五山の一つ
1235年九条道家の創建になり,一条・九条両家の廟所開祖は円爾 (えんに) 。寺内には重要な文化財が多く,特にその三門は禅宗三門の現存最古のもので有名。
東福門院
とうふくもんいん @@@LINK=東福門院 東福門院

東福門院
とうふくもんいん

1607〜78
江戸前期の後水尾天皇の中宮
2代将軍徳川秀忠の娘,名は和子 (まさこ) 。幕府の朝廷懐柔政策のため結婚,女帝明正 (めいしよう) 天皇をはじめ,2皇子5皇女を生んだ。

逃亡
とうぼう @@@LINK=逃亡 逃亡

逃亡
とうぼう

律令制下,公民が無断で本貫 (ほんかん) の地(本籍地)を離れて他所に移住すること
公民の逃亡は律令によって禁止されていたが,過大な税負担を免れるために逃亡する者はあとをたたず,奈良時代の計帳にもその記録がみえる。逃亡者の多くは荘園に流れこんだため荘園増加の傾向が促進され,国家財政の収入減の原因となった。
東方会
とうほうかい @@@LINK=東方会 東方会

東方会
とうほうかい

昭和前期,中野正剛 (せいごう) が組織した国家主義的政治団体
1936年結成。新体制運動に協力したが,東条英機内閣の言論・結社統制に反対。東条に圧迫され,'43年中野が自殺して,会は消滅した。
東方会議
とうほうかいぎ @@@LINK=東方会議 東方会議

東方会議
とうほうかいぎ

1927(昭和2)年6〜7月,田中義一内閣が対中国積極政策を決定した会議
第1次山東出兵直後,東京で外務・軍部首脳を集め協議。中国革命に対抗して親日的地方政権を援助し,満蒙地方を中国から分離独立させる方針を決定,中国・列強反発を買った。
東方見聞録
とうほうけんぶんろく @@@LINK=東方見聞録 東方見聞録

東方見聞録
とうほうけんぶんろく

イタリアの貿易商人マルコ=ポーロの東洋旅行記
元の世祖フビライに長く仕え,各地を旅行した見聞記。日本を黄金の国ジパングと紹介。西洋人の関心・探検心を誘い,大航海の時代の背景ともなった。
同朋衆
どうぼうしゅう @@@LINK=同朋衆 同朋衆

同朋衆
どうぼうしゅう

室町・江戸両幕府の役職名で,将軍の側近で芸能・茶事・諸法式・雑役をつとめた体の者
能の観阿弥・世阿弥,作庭の善阿弥画家芸阿弥のように阿弥号を称し,時宗の僧が多い。江戸幕府では若年寄に属し,その長官を同朋頭といった。将軍に近侍し,雑役に従事した。
銅鉾
どうほこ @@@LINK=銅鉾 銅鉾

銅鉾
どうほこ

弥生時代の青銅製祭器。➡ 銅剣・銅鉾
唐箕
とうみ @@@LINK=唐箕 唐箕

唐箕
とうみ

穀物から籾殻 (もみがら) などを風力でえり分ける選別農具
江戸初期からみられ,中期普及。鼓胴内部に取り付けた4枚の板でおこる風により,上部の漏斗形の受入器から落ちてくる穀粒と籾殻などをえり分けた。近代に入っても用いられた。
東密
とうみつ @@@LINK=東密 東密

東密
とうみつ

真言宗の密教
密教は元来真言宗のみであったが,天台宗が密教化するに及んで,その台密に対し,東寺を根本道場とすることから東密と称された。
同盟
どうめい @@@LINK=同盟 同盟

同盟
どうめい

「全日本労働総同盟」の略称。
頭山満
とうやまみつる @@@LINK=頭山満 頭山満

頭山満
とうやまみつる

1855〜1944
明治〜昭和期の右翼の巨頭
福岡藩出身。萩の乱に連坐して投獄され,出獄後向陽社(のちの玄洋社)を設立。国会開設運動に活躍し,のち国家主義運動に進み,大陸進出を主張。大陸浪人を養い,政界の裏面で活躍した。

東洋社会党
とうようしゃかいとう @@@LINK=東洋社会党 東洋社会党

東洋社会党
とうようしゃかいとう

明治時代,「社会党」の文字を用いた日本最初の政党
1882年5月樽井藤吉らが長崎県島原に小農民を中心として結成。機関誌『半鐘警報』を発行,「土地は人間共有の天与物なり」と社会公衆の福利と平等を唱えたが,1か月たらずで解散した。
東洋自由新聞
とうようじゆうしんぶん @@@LINK=東洋自由新聞 東洋自由新聞

東洋自由新聞
とうようじゆうしんぶん

明治前期,自由民権派の新聞
1881年創刊。西園寺公望 (きんもち) を社長,中江兆民を主筆とし,自由主義的論陣を張ったが,政府は華族出身の西園寺が民権派新聞の社長を務めることに干渉し,1か月余り34号で廃刊となった。
東洋自由党
とうようじゆうとう @@@LINK=東洋自由党 東洋自由党

東洋自由党
とうようじゆうとう

1892(明治25)年,自由党左派の大井憲太郎らが脱党して結成した政党(〜'93)
貧民労働者の保護・普通選挙を主張する反面,東洋への膨張政策支持。翌1893年12月解散した。
東洋大日本国国憲按
とうようだいにほんこくこっけんあん @@@LINK=東洋大日本国国憲按 東洋大日本国国憲按

東洋大日本国国憲按
とうようだいにほんこくこっけんあん

明治時代,立志社系の私擬憲法の一つ
1881年植木枝盛起草と推定される。連邦制をとり,一院制・主権在民を主張し,国民の権利に抵抗権・革命権を含み,最も民主的な内容。10編219条。アメリカ・フランスの憲法と類似する。
東洋拓殖会社
とうようたくしょくがいしゃ @@@LINK=東洋拓殖会社 東洋拓殖会社

東洋拓殖会社
とうようたくしょくがいしゃ

明治後期,日本が朝鮮開発のために設けた国策会社
大陸侵略とともに植民地経営の中心的役割をになった。1908年東洋拓殖株式会社法により創立。朝鮮で農地5万5000町歩を所有したほか,拓殖金融を行った。のち満蒙・南洋にも拡大,'38年には52社を支配した。第二次世界大戦後,解体
棟梁
とうりょう @@@LINK=棟梁 棟梁

棟梁
とうりょう

①平安末期・鎌倉時代,武士団の統率者をいう
特に清和源氏・桓武平氏が名高い。棟梁は家子・郎等と主従関係を結んだ。
②近世以後,建築に従事する職人仲間の指導者をいう。

道話
どうわ @@@LINK=道話 道話

道話
どうわ

江戸中・後期に行われた心学の講話
石田梅岩の主著都鄙 (とひ) 問答』にみられる。没階級的な万人共通の人間性に根ざし,経済と道徳の一致の上に立ち,営利主義を肯定することなどが庶民にうけ,柴田鳩翁・手島堵庵らの巧みな話術で広く普及した。
同和対策事業特別措置法
どうわたいさくじぎょうとくべつそちほう @@@LINK=同和対策事業特別措置法 同和対策事業特別措置法

同和対策事業特別措置法
どうわたいさくじぎょうとくべつそちほう

同和問題解決のために1969年に制定された法律
同和地区住民に対する不当な差別と偏見を排除し,生活環境の改善や福祉の増進,産業の振興,教育の充実,人権擁護活動の強化などをめざした。同法は10年間を期限とする時限立法であったが,3年間の延長ののち'82年3月に失効した。その後,'82年に地域改善対策事業特別措置法(略称「地対法」)が制定され,'87年に地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律(略称「地対財特法」)に引き継がれた。
富樫政親
とがしまさちか @@@LINK=富樫政親 富樫政親

富樫政親
とがしまさちか

1455?〜88
室町後期の守護大名
1464年,加賀国(石川県)南半国の守護となる。応仁の乱(1467〜77)に細川方に属し弟と争い,蓮如 (れんによ) の助けを得て勝ち加賀一国を支配した。のち一向宗門徒を弾圧し,一向一揆に敗れ,高尾城で自殺した。以後1世紀間,加賀は本願寺の支配下にあった。

尖石遺跡
とがりいしいせき @@@LINK=尖石遺跡 尖石遺跡

尖石遺跡
とがりいしいせき

長野県茅野市豊平にある縄文時代中期の集落遺跡
八ケ岳西山麓の高原,標高1050mの地にある。集落の全体構造を解明するための初めての学術調査が1940〜42年に実施され,33個の竪穴住居と石で囲んだ炉が発見された。
土岐氏
ときし @@@LINK=土岐氏 土岐氏

土岐氏
ときし

中世,美濃国の守護大名
清和源氏の一流。美濃土岐郷に住み土岐氏を称す。頼貞は足利尊氏に従い転戦し,美濃守護となり以後一族は繁栄した。14世紀末の一族内紛後衰え,1542年頼芸 (よりなり) のとき,守護代斎藤道三に敗れ没落。子孫や一族は江戸時代に旗本・大名として続いた。
土岐康行の乱
ときやすゆきのらん @@@LINK=土岐康行の乱 土岐康行の乱

土岐康行の乱
ときやすゆきのらん

1390年,足利義満に征討された美濃国の守護土岐康行 (やすゆき) の
土岐氏は有力な守護大名として,美濃・尾張・伊勢3国を領して強大となったため,義満の挑発にあって勢力をそがれ,さらに大内氏の応永の乱(1399)に加担して,ますますその弱化を招いた。
斗栱
ときょう @@@LINK=斗栱 斗栱

斗栱
ときょう

建築用語の一つ
「くみもの」ともいう。斗 (ます) と呼ぶ桝形の部材と,肘木 (ひじき) (栱)と呼ぶ舟形の腕木を一組とし,・天井などを支えるために用いられる。一組を手先と呼び,たとえば三組を使って三段に持ち送ると三手先という。
常磐津節
ときわずぶし @@@LINK=常磐津節 常磐津節

常磐津節
ときわずぶし

江戸中期,浄瑠璃節の流派
常磐津ともいう。豊後節 (ぶんごぶし) の宮古路文字太夫がから江戸に下り,豊後節禁止後,常磐津文字太夫と改名し,再興した。江戸歌舞伎の所作 (しよさ) や狂言浄瑠璃の伴奏として欠かせぬものとなった。曲風は豊後節より上品で,拍子が明確である。
土偶
どぐう @@@LINK=土偶 土偶

土偶
どぐう

縄文時代の人物をかたどった土製品
縄文中期以降数がふえ,分布は東日本に多い。女性像が多いのは,豊穣・生殖と関係する宗教的・呪術的な儀式の対象として,安産獲物の豊富なことを願うために使用されたと思われる。
徳川家定
とくがわいえさだ @@@LINK=徳川家定 徳川家定

徳川家定
とくがわいえさだ

1824〜58
江戸幕府13代将軍(在職1853〜58)
12代将軍家慶 (いえよし) の4男。ペリー来航の年に将軍となり,通商条約勅許問題の最中病没。生来病弱で子がなく,晩年に将軍継嗣問題が発生した。

徳川家達
とくがわいえさと @@@LINK=徳川家達 徳川家達

徳川家達
とくがわいえさと

1863〜1940
明治〜昭和前期の政治家
田安慶頼 (よしより) の3男。1868年,15代将軍慶喜 (よしのぶ) の隠退謹慎のあと田安家から入って徳川宗家を相続。静岡藩知事を経て,'90年貴族院議員となり,1903〜33年同院議長をつとめる。その間ワシントン会議全権委員,日本赤十字社社長などを歴任した。

徳川家重
とくがわいえしげ @@@LINK=徳川家重 徳川家重

徳川家重
とくがわいえしげ

1711〜61
江戸幕府9代将軍(在職1745〜60)
8代将軍吉宗の長男。吉宗は引退後も大御所として家重を後見。家重は政務に無関心で,また言語不明瞭であったため,そのを解する側用人大岡忠光が重用された。

徳川家継
とくがわいえつぐ @@@LINK=徳川家継 徳川家継

徳川家継
とくがわいえつぐ

1709〜16
江戸幕府7代将軍(在職1713〜16)
6代将軍家宣 (いえのぶ) の4男。父の死後5歳で将軍職を継ぎ,使用人間部詮房 (まなべあきふさ) や新井白石がひき続いて政治を補佐した。幼くして没したため嗣子なく,紀伊家の徳川吉宗があとを継ぎ8代将軍となった。

徳川家綱
とくがわいえつな @@@LINK=徳川家綱 徳川家綱

徳川家綱
とくがわいえつな

1641〜80
江戸幕府4代将軍(在職1651〜80)
3代将軍家光の長男。由井正雪らの慶安事件(慶安の変)直前に将軍をつぎ,年少で病弱のため叔父の保科正之 (ほしなまさゆき) や松平信綱らが補佐し,老中政治を確立した。治世中は文治政治への転換期で,末期養子の禁緩和,殉死の禁などを実施した。また明暦大火が発生。晩年は大老酒井忠清が実権を掌握した。

徳川家斉
とくがわいえなり @@@LINK=徳川家斉 徳川家斉

徳川家斉
とくがわいえなり

1773〜1841
江戸幕府11代将軍(在職1787〜1837)
親藩御三卿の一橋家出身。将軍在職50年,その初世は松平定信が老中首座,将軍補佐として寛政の改革(1787〜93)を断行した。しかし定信退陣後,将軍の生活が豪奢になり,側室通算40人,子女55人をもうけ,政治の綱紀もゆるみ,放漫政治が展開。隠居後もその死まで大御所として実権をふるい,いわゆる大御所時代を現出した。この間外国船の来航がしきりで,1825年には異国船打払令が出された。

徳川家宣
とくがわいえのぶ @@@LINK=徳川家宣 徳川家宣

徳川家宣
とくがわいえのぶ

1662〜1712
江戸幕府6代将軍(在職1709〜12)
3代将軍家光の。甲府藩主徳川綱重の長男。1704年,綱吉の養子となり将軍職を継いだ。生類憐みの令を廃止,間部詮房 (まなべあきふさ) を側用人とし,儒臣新井白石の意見を用い,朝鮮通信使の待遇簡素化など文治政治を行った。この治世を,つぎの7代家継の治世も含めて正徳の治という。

徳川家治
とくがわいえはる @@@LINK=徳川家治 徳川家治

徳川家治
とくがわいえはる

1737〜86
江戸幕府10代将軍(在職1760〜86)
9代将軍家重の長男。田沼意次 (おきつぐ) を側用人に登用,さらに老中に進めた。このため田沼意次による積極的な政治が行われたので,家治の治世を田沼時代と呼ぶ。

徳川家光
とくがわいえみつ @@@LINK=徳川家光 徳川家光

徳川家光
とくがわいえみつ

1604〜51
江戸幕府3代将軍(在職1623〜51)
2代将軍秀忠の2男。幕藩体制確立期の将軍で,酒井忠勝・土井利勝・松平信綱らの補佐で,職制の整備,参勤交代の制度化,田畑永代売買禁止令,慶安の触書などを施行。また,対外的には鎖国を完成させ,名実ともに幕藩体制が確立した。江戸城が完成し,江戸の町の原型ができ,寛永通宝の鋳造が始まったのもこの時代である。

徳川家茂
とくがわいえもち @@@LINK=徳川家茂 徳川家茂

徳川家茂
とくがわいえもち

1846〜66
江戸幕府14代将軍(在職1858〜66)
将軍になる前は慶福 (よしとみ) と称した。元紀伊(和歌山県)藩主。1858年大老井伊直弼 (なおすけ) らに推され,将軍家定の継嗣となった。開港直後の多難な時代に直面し,公武合体の実現ため'62年皇妹和宮 (かずのみや) と結婚,幕政を改革した(文久の改革)。翌年攘夷決行を迫られ,やむなく諸藩に命じた。第2次長州征討中,大坂城で病死した。

徳川家康
とくがわいえやす @@@LINK=徳川家康 徳川家康

徳川家康
とくがわいえやす

1542〜1616
江戸幕府の初代将軍(在職1603〜05)
三河(愛知県)岡崎城主松平広忠の長男。幼時から隣国の織田・今川氏の人質として育ち,1560年今川義元が桶狭間で敗死後,岡崎に帰り独立。西上する織田信長と同盟を結び東へ進出。信長の死後その子信雄 (のぶお) を助け,小牧・長久手の戦い('84)で豊臣秀吉と戦ったが和して臣従した。'90年小田原征討の後関東6カ国を与えられ江戸城に移った。秀吉の死後,1600年関ケ原の戦いに勝って覇権を確立。'03年征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。'05年将軍職を子秀忠に譲ったのちも駿府で大御所として政務をみ,周到な配慮で幕府の基礎を固めた。'15年大坂の役で豊臣氏を攻め滅ぼした。'16年太政大臣任官の後,駿府で病没。

徳川家慶
とくがわいえよし @@@LINK=徳川家慶 徳川家慶

徳川家慶
とくがわいえよし

1793〜1853
江戸幕府12代将軍(在職1837〜53)
11代将軍家斉の2男。1841年家斉の死後,大御所時代の弊政を改め,水野忠邦を登用し,天保の改革を断行させたが失敗に終わった。ペリー来航直後の幕政の危機のときに病死した。

徳川禁令考
とくがわきんれいこう @@@LINK=徳川禁令考 徳川禁令考

徳川禁令考
とくがわきんれいこう

江戸幕府の法令集
1878〜94(明治11〜27)年の間に司法省が編集。前・後2部合わせて102巻。武家諸法度などの法規を収録し,江戸時代の法制・政治・警察制度・経済などの研究に欠かせない重要史料。
徳川氏
とくがわし @@@LINK=徳川氏 徳川氏

徳川氏
とくがわし

江戸幕府の将軍家
もと三河松平郷を本拠とした豪族。広忠のとき今川氏に属し,子の家康が1566年松平氏から徳川氏に改称した。家康は豊臣秀吉死後対抗する勢力を一掃,1603年征夷大将軍となり江戸幕府を開設した。以後15代265年間子孫が将軍職を世襲し全国を支配した。
徳川実紀
とくがわじっき @@@LINK=徳川実紀 徳川実紀

徳川実紀
とくがわじっき

江戸後期,初代将軍徳川家康から10代家治 (いえはる) に至る将軍家の編年史
『御実紀』ともいう。517巻。1809年林述斎らが幕命をうけて編集に着手,'43年に正本,'49年に副本が完成。11代家斉 (いえなり) 以後は『続徳川実紀』に収録したが未完成。各将軍のおもな治績を記載し,内容は比較的正確で,江戸幕政研究の重要史料。
徳川綱吉
とくがわつなよし @@@LINK=徳川綱吉 徳川綱吉

徳川綱吉
とくがわつなよし

1646〜1709
江戸幕府5代将軍(在職1680〜1709)
3代将軍家光の4男。上野 (こうずけ) (群馬県)館林15万石の藩主。兄家綱の死後,将軍となった。治世初期は大老堀田正俊の補佐をうけ,朱子学を官学とし湯島聖堂を建立するなど文治政治を推進した。しかし正俊死後は,側用人柳沢吉保 (よしやす) に政治をゆだね,生類憐みの令を乱発して民衆を苦しめ,「犬公方」と呼ばれ,また荻原重秀の建議で悪貨を鋳造して物価上昇を招くなど悪政が多かった。彼の治世の下の文化を元禄文化という。

徳川斉昭
とくがわなりあき @@@LINK=徳川斉昭 徳川斉昭

徳川斉昭
とくがわなりあき

1800〜60
江戸末期の水戸藩主
15代将軍慶喜 (よしのぶ) の父。おくり名は烈公。藤田東湖ら改革派の人材を登用し,藩校弘道館の設立,反射炉築造,銃砲鋳造,兵制改革など藩政改革を実施したが,藩内の保守派の反対で十分な成果はあげられなかった。尊王攘夷論者で幕府に忌まれ謹慎を命じられたが,のち許され,ペリー来航時に幕政参与となった。条約勅許問題・将軍継嗣問題で大老井伊直弼 (なおすけ) と対立し,安政の大獄で永蟄居を命じられ,1860年病死した。

徳川秀忠
とくがわひでただ @@@LINK=徳川秀忠 徳川秀忠

徳川秀忠
とくがわひでただ

1579〜1632
江戸幕府2代将軍(在職1605〜23)
家康の3男。家康在世中,幕政の実権は家康にあったが,豊臣氏滅亡後は武家諸法度禁中並公家諸法度制定やキリシタン禁制の強化,貿易の統制など幕藩体制の確立につとめた。1623年隠退後も大御所として家光を補佐した。

徳川光圀
とくがわみつくに @@@LINK=徳川光圀 徳川光圀

徳川光圀
とくがわみつくに

1628〜1700
江戸前期の水戸藩主
水戸徳川家の祖頼房の3男。1661年家督を継ぎ,領内寺院の整理,寺社復興,勧農策の実施など藩政に尽力。江戸に彰考館を建て『大日本史』の編纂を始めた。また明の遺臣朱舜水 (しゆしゆんすい) を招き,大義名分を重んじ,水戸学の基礎を築いた。

徳川慶福
とくがわよしとみ @@@LINK=徳川慶福 徳川慶福

徳川慶福
とくがわよしとみ

徳川家茂 (いえもち)
徳川慶喜
とくがわよしのぶ @@@LINK=徳川慶喜 徳川慶喜

徳川慶喜
とくがわよしのぶ

1837〜1913
江戸幕府15代将軍(在職1866〜67)
水戸藩主徳川斉昭 (なりあき) の7男。一橋家を継ぎ,13代将軍家定のとき,将軍継嗣問題で紀伊藩主徳川慶福 (よしとみ) (のち家茂 (いえもち) )と将軍職を争い敗れた。安政の大獄で隠居・謹慎処分をうけたが,井伊直弼 (なおすけ) 暗殺後許され,1862年の幕政政革で将軍後見職となり家茂を補佐。'66年家茂死後将軍職を継ぎ幕政を改革したが,'67年10月14日大政奉還を上表した。鳥羽・伏見の戦いに敗れて大坂から江戸に帰り,江戸を戦禍から守るため江戸無血開城を行った。'84年華族令により公爵となった。

徳川吉宗
とくがわよしむね @@@LINK=徳川吉宗 徳川吉宗

徳川吉宗
とくがわよしむね

1684〜1751
江戸幕府8代将軍(在職1716〜45)
紀伊藩主徳川光貞の4男。1705年紀伊藩主を継いだが,'16年家継の死後将軍となった。綱吉以来の側近政治を排し,大岡忠相 (ただすけ) ・青木昆陽らを登用し,家康を手本に享保の改革を断行。武芸や実学の奨励,殖産興業・新田開発・貢租増徴・貨幣改鋳・公事方御定書編集などを実施して,幕府の支配体制を補強し「中興の英主」と呼ばれた。

徳川頼宣
とくがわよりのぶ @@@LINK=徳川頼宣 徳川頼宣

徳川頼宣
とくがわよりのぶ

1602〜71
江戸前期の紀伊(和歌山県)藩主。紀伊徳川家の祖
家康の10男。1619年和歌山藩主となり,55万5000石を領有した。牢人を多数召抱えて人材登用に努力し,そのための財政難を殖産興業によって切りぬけるなど藩体制確立につとめた。

特需
とくじゅ @@@LINK=特需 特需

特需
とくじゅ

特殊需要」の略。広義には駐留軍将兵と家族の日本国内消費などだが,ふつうには朝鮮特需をさす
1950年朝鮮戦争のために国連軍が行った軍需資材の買付けや運輸修繕に対する注文で,ドル支払いが行われ,'50〜53年の間で9.8億ドルにも達した。これにより日本の貿易収支が立ち直り,好景気を招き経済の再建が急速に進められた。
読史余論
とくしよろん @@@LINK=読史余論 読史余論

読史余論
とくしよろん

江戸中期,新井白石の著した史論書
1712年成立。3巻。6代将軍徳川家宣 (いえのぶ) に武家の勃興の過程を進講した際の草稿。摂関政治の開始から江戸幕府成立までの歴史的必然性を明らかにし,歴史を発展的にとらえる時代区分を行ったすぐれた歴史書。
徳政
とくせい @@@LINK=徳政 徳政

徳政
とくせい

中世以後,債権・債務の破棄をいう
元来は課役免除などの善政をいったが,鎌倉時代には,御家人の生活窮乏を救うための貸借破棄を意味した。室町時代には徳政令発布を要求した徳政一揆が頻繁におこった。
徳政一揆
とくせいいっき @@@LINK=徳政一揆 徳政一揆

徳政一揆
とくせいいっき

室町時代,徳政令の発布を要求する土一揆
貨幣経済の発達した畿内の農民・地侍・馬借・車借などが徳政令の発布を要求して,寺社・土倉などの高利貸業者を襲った。1428(正長元)年の正長の土一揆は幕府に徳政令を出させるに至らず私徳政におわったが,嘉吉の土一揆(1441)では幕府が一国平均の徳政を発令した。のちには幕府は分一 (ぶいち) 徳政令を出し,債権・債務者から分一銭を徴収して幕府財政を補った。
徳政令
とくせいれい @@@LINK=徳政令 徳政令

徳政令
とくせいれい

中世に行われた債権債務破棄を命ずる法令
1297(永仁5)年,鎌倉幕府御家人窮乏を救済する目的で発した永仁の徳政令をはじめとして,室町時代には土一揆の要求によって幕府がたびたび徳政令を発した。8代将軍足利義政の代には13回も出された。いずれも売買・貸借・質入れなどの契約破棄や,その対象となった土地・金・品物などの無償返却を命じている。
独占禁止法
どくせんきんしほう @@@LINK=独占禁止法 独占禁止法

独占禁止法
どくせんきんしほう

第二次世界大戦後,占領軍による経済民主化政策の一環としてその指示により制定された法律
財閥解体後,企業の将来の独占を排除し,公正な取引を確保する目的で,アメリカの反トラスト法の趣旨をとり入れて,1947年4月制定。監視機関として公正取引委員会が設置された。しかし占領政策が変化したり,講和後保守政権が続いたりした中で,禁止規定はしばしば緩和され,形骸化した。
独占資本主義
どくせんしほんしゅぎ @@@LINK=独占資本主義 独占資本主義

独占資本主義
どくせんしほんしゅぎ

独占資本が重要産業部門を支配するようになった段階の資本主義
資本の自由競争の過程または景気変動を通して小企業は競争に敗れ,資本が少数の大企業に集中されていく。そうなると資本の移動も困難になり不況期に利潤が少なくなっても容易に回復しなくなる。そこで大企業はカルテルやトラストを形成して生産量を制限し価格をつり上げる。このような大企業を独占資本と呼ぶ。日本は1910年代にこの段階へ移行し始めたとされている。
得宗
とくそう @@@LINK=得宗 得宗

得宗
とくそう

北条氏の家督を継いだ嫡流
徳宗ともいう。時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9代をいう。北条義時の法名徳宗に由来するといわれ,時宗の頃から実際に得宗を称し,元寇後に専制的な政治体制を確立した。その権力の基盤となった所領を得宗領と呼び,得宗家の直属家臣を御内人と呼んだ。
独ソ不可侵条約
どくソふかしんじょうやく @@@LINK=独ソ不可侵条約 独ソ不可侵条約

独ソ不可侵条約
どくソふかしんじょうやく

1939年8月,ドイツとソ連との間に結ばれた条約
ミュンヘン会談(1938)でのイギリス・フランスのドイツに対する宥和 (ゆうわ) 政策に不信感を強めたスターリンと,ポーランド侵略をもくろむヒトラーの間で結ばれた。この条約は,日独防共協定を結び,ノモンハンでソ連と紛争中であった日本政府に大きな衝撃を与え,平沼騏一郎内閣は方向性を失い,「欧州情勢は複雑怪奇」との声明を出して総辞職した。
徳田球一
とくだきゅういち @@@LINK=徳田球一 徳田球一

徳田球一
とくだきゅういち

1894〜1953
大正・昭和期の日本共産党の指導者
沖縄県の生まれ。1922年日本共産党の創立に参画。'28年三・一五事件で検挙され,'45年まで18年間獄中生活を送る。出獄後共産党を再建し,書記長として活躍。'50年レッド‐パージで追放され,地下に潜行し,中国にのがれ北京で客死した。

徳田秋声
とくだしゅうせい @@@LINK=徳田秋声 徳田秋声

徳田秋声
とくだしゅうせい

1871〜1943
明治〜昭和期の小説家
本名は末雄。石川県の生まれ。第四高等学校(現金沢大学)中退。初め尾崎紅葉に師事,明治末に自然主義作家となり,冷徹な客観描写,愛欲生活の描写に冴えを示した。代表作に『あらくれ』『町の踊り場』『縮図』など。

徳富蘇峰
とくとみそほう @@@LINK=徳富蘇峰 徳富蘇峰

徳富蘇峰
とくとみそほう

1863〜1957
明治〜昭和期の評論家・新聞人
本名は猪一郎。蘆花の兄。肥後(熊本県)の生まれ。初め板垣退助らと交わり自由民権運動に参加。1886年『将来之日本』を携えて上京し,新聞人として活躍。翌 '87年民友社を設立し『国民之友』を創刊,'90年には『国民新聞』を発刊した。平民主義を唱えたが,日清戦争をにして国家主義に転じ,のち桂太郎に接近し皇室中心主義を主張した。1942年,大日本言論報国会会長に就任した。'43年文化勲章受章。主著に『近世日本国民史』など。

徳冨蘆花
とくとみろか @@@LINK=徳冨蘆花 徳冨蘆花

徳冨蘆花
とくとみろか

1868〜1927
明治・大正時代の小説家
本名は健次郎。熊本県の生まれ。蘇峰の弟で,民友社に参加。『不如帰 (ほととぎす) 』を『国民新聞』に連載し,文名をあげた。熱心なキリスト教徒となり,トルストイに心酔した。代表作に『自然と人生』『思出の記』など。

徳永直
とくながすなお @@@LINK=徳永直 徳永直

徳永直
とくながすなお

1899〜1958
昭和期のプロレタリア文学作家
熊本県の生まれ。もと印刷工。1926年共同印刷大争議に参加して失職。その経験をもとに'29年『太陽のない町』を雑誌『戦旗』に発表。ナップ(全日本無産者芸術連盟)に参加し人民作家として活躍した。第二次世界大戦後,新日本文学会に属し『妻よねむれ』などを発表。

得分
とくぶん @@@LINK=得分 得分

得分
とくぶん

荘園の職 (しき) に伴う収益
主として鎌倉時代,領主本家・領家)・地頭荘官などの職(権利)から生じる収益(主として米)をいうが,さらに作手職 (さくてしき) ・下作職 (げさくしき) などの得分もある。
特別高等警察
とくべつこうとうけいさつ @@@LINK=特別高等警察 特別高等警察

特別高等警察
とくべつこうとうけいさつ

明治末期〜昭和期に社会運動や思想の取締りにあたった警察
略称「特高」。大逆事件ののち,1911年警視庁に特別高等課を設置。'28年三・一五事件後,全国府県に設置され,'32年拡充強化。内務省直轄で豊富な機密費と治安警察法・治安維持法などの活用で,組織的かつ残虐に,共産主義から自由主義まで弾圧を行った。'45年GHQ指令で解体された。
十組問屋
とくみどいや @@@LINK=十組問屋 十組問屋

十組問屋
とくみどいや

江戸時代,大坂から江戸に送られる商品を取り扱った江戸荷受問屋の株仲間
大坂の二十四組問屋と提携し,商品輸送の際の損失負担を廻船側と協定するために酒・紙など10組の問屋が17世紀末に組織し,18世紀初め公認された。貨物買付けの独占権を握り,天保の改革で解散させられたが,1851年再興。
独立党
どくりつとう @@@LINK=独立党 独立党

独立党
どくりつとう

李氏朝鮮末期の朝鮮宮廷内における親日的革新派
金玉均・朴泳孝 (ぼくえいこう) らが中心となって,清国と結ぶ保守的な事大党と対立。明治維新にならって国内改革をはかったが1884年の甲申事変に失敗。
土佐日記
とさにっき @@@LINK=土佐日記 土佐日記

土佐日記
とさにっき

平安中期,紀貫之 (きのつらゆき) の仮名書きの日記文学
935年ころ成立。1巻。土佐守の任期を終え,934年12月土佐を船出し,翌年2月帰京するまでのことを女性に仮託して書いた最初の仮名書きの日記。当時の風俗交通を知る好史料。
土佐派
とさは @@@LINK=土佐派 土佐派

土佐派
とさは

室町中期以降の大和絵の主流
室町中期,土佐光信が宮廷絵所と幕府絵所を預かり,土佐派の社会的地位を確立した。桃山時代には狩野派におされたが,江戸前期光起 (みつおき) が宮廷絵所預となって再興,幕府絵所の狩野派に対抗した。
土佐藩
とさはん @@@LINK=土佐藩 土佐藩

土佐藩
とさはん

江戸時代,土佐(高知県)を領した外様藩
藩主山内氏。藩高24万石。版籍奉還当時は実高49万石をこえた。16世紀後期,長宗我部元親が土佐1国を平定。子の盛親は関ケ原の戦いで西軍に属し所領を没収された。1601年山内一豊 (やまのうちかずとよ) が入国,高坂山に高知城を築いた。2代忠義のとき,野中兼山により藩政を確立。のち天明・天保の藩政改革で財政緊縮,国産藩営専売を確立した。維新の変革には,前藩主山内豊信 (とよしげ) を中心に公武合体,大政奉還に努力し,薩摩・長州・肥前とともに指導的役割を果たし,藩閥を形成した。
外様大名
とざまだいみょう @@@LINK=外様大名 外様大名

外様大名
とざまだいみょう

江戸時代,大名の家格
親藩・譜代大名に対し,もと家康の同僚関ケ原の戦いののち臣従した大名をいう。前田・島津・伊達・毛利など大藩ではあっても辺境地帯に封ぜられ,幕府の要職からはずされ,冷遇・警戒された。幕末の討幕運動は島津・毛利などの西南雄藩からおこった。
土佐光起
とさみつおき @@@LINK=土佐光起 土佐光起

土佐光起
とさみつおき

1617〜91
江戸前期の大和絵画家。土佐派の再興者
1654年中絶していた宮廷絵所預となり活躍。狩野派的唐絵と大和絵を折衷した近世土佐画の門流をつくった。代表作に『北野天神縁起絵巻』『厳島松島図屛風』など。

土佐光信
とさみつのぶ @@@LINK=土佐光信 土佐光信

土佐光信
とさみつのぶ

生没年不詳
室町中期の大和絵画家
朝廷・室町幕府の絵所預 (えどころあずかり) となり,水墨画に圧倒されていた大和絵の中で土佐派の地位を確立した。代表作『清水寺縁起絵巻』など。

祈年祭
きねんさい @@@LINK=祈年祭 祈年祭
としごいのまつり @@@LINK=祈年祭 祈年祭

祈年祭
きねんさい

旧暦2月4日,その年の豊作を祈る祭り
「としごいのまつり」とも読み,「とし」は穀物のみのりを意味した。国家的儀式で神祇官や国庁で儀式があり,諸社の格式により神祇官・国司から幣帛 (へいはく) を奉った。応仁の乱以後廃絶したが,明治時代以降,国家神道の立場から復活した。

祈年祭
としごいのまつり

きねんさい
年寄
としより @@@LINK=年寄 年寄

年寄
としより

室町時代,郷村制成立期の村落で自治的に名主層から選ばれた代表者の称
長 (おとな) ・乙名 (おとな) ・沙汰人・刀禰 (とね) にあたり,年貢・課役・用水問題などで郷村の利害を代表し運営した。江戸時代の町村にも町年寄・村年寄が置かれた。
杜 世忠
とせいちゅう @@@LINK=杜+世忠 杜+世忠

杜 世忠
とせいちゅう

1242〜75
鎌倉中期に来朝した元の使者。蒙古人
文永の役の翌1275年に漢人の何文著 (かぶんちよ) とともに宣日本使(服属を諭 (さと) す)として世祖フビライが派遣。高麗を経て長門の室津に上陸大宰府から鎌倉に護送され,竜ノ口で斬られた。
土倉
どそう @@@LINK=土倉 土倉

土倉
どそう

鎌倉末〜室町時代の高利貸業者
「とくら」とも読む。鎌倉時代に発生し,室町時代に盛んになる。酒屋と兼業のものが多く,京都・奈良・近江坂本などに多数集中した。室町幕府の重要財源となる土倉役などを負担。対明貿易にも投資したが,徳政一揆の目標となった。
土倉役
どそうやく @@@LINK=土倉役 土倉役

土倉役
どそうやく

室町時代,幕府が土倉に課した税
倉役ともいう。屋役とともに,土地からの貢租収入の少ない室町幕府の重要財源。このため土倉の高利貸的活動を徹底して抑圧できず,8代将軍足利義政などは月に9回も臨時に賦課した。
斗代
とだい @@@LINK=斗代 斗代

斗代
とだい

荘園の田地1段当たりの年貢収納高
「5斗代の田地」といえば段当たり5斗の年貢を納める田をいう。田地の斗代は時代・土地の良否などにより多様であった。太閤検地以降石盛にかえられた。
戸田茂睡
とだもすい @@@LINK=戸田茂睡 戸田茂睡

戸田茂睡
とだもすい

1629〜1706
江戸前期の歌学者
駿河(静岡県)府中の人。江戸に住んだ。公家に伝えられた伝統的な和歌の学問が,秘事口伝 (くでん) を主とし師の説にそのまま従うことに反対して,歌学の革新を主張。下河辺長流 (しもこうべちようりゆう) や契沖 (けいちゆう) とともに,国学の先駆となった。著書に『梨本集』『百人一首雑談』など。

十津川の変
とつがわのへん @@@LINK=十津川の変 十津川の変

十津川の変
とつがわのへん

天誅組の変
ドッジ‐ライン
Dodge's line @@@LINK=ドッジライン ドッジライン

ドッジ‐ライン
Dodge's line

1949年,GHQの財政顧問ジョゼフ=ドッジによって示された経済安定政策
デトロイト銀行頭取のドッジは,経済安定九原則を具体化し,(1)超均衡予算:地方財政・民間産業・国有企業への補助金の縮小,(2)1ドル=360円の単一為替レート確立,(3)耐乏生活による輸出の推進などを示し,吉田茂内閣均衡予算をつくった。これによりインフレは収束したが,以後日本経済はデフレへと向かった。
徒弟
とてい @@@LINK=徒弟 徒弟

徒弟
とてい

江戸時代以降,手工業者のもとで技術修得を目的として奉公した者
丁稚 (でつち) ・小僧・弟子などともいう。7〜10年の年季奉公中は親方の家に住み,無報酬で親方の仕事の補助や家庭の雑務に従い,技術を修得した。年季あけには独立した職人となった。
トーテミズム
totemism @@@LINK=トーテミズム トーテミズム

トーテミズム
totemism

原始的信仰の一形態
自分の氏族の祖先を,ある動植物,または天体現像であったと考え,それを崇拝し,またトーテムとなった動植物を食べることを禁ずる信仰。未開社会の間に今も残存する。
砺波山の戦い
となみやまのたたかい @@@LINK=砺波山の戦い 砺波山の戦い

砺波山の戦い
となみやまのたたかい

平安末期の1183年,越中国(富山県)砺波山で行われた源平合戦
倶利伽羅 (くりから) の戦いともいう。以仁王 (もちひとおう) の令旨 (りようじ) をうけた源義仲木曽挙兵上洛を企図し北陸に進出,平清盛の孫維盛 (これもり) と砺波山で対戦した。義仲は火牛の戦法を用いて,平氏大軍倶利伽羅峠で破り,さらに追撃して上洛し,平氏を西走させた。
刀禰
とね @@@LINK=刀禰 刀禰

刀禰
とね

平安〜室町時代の荘園・郷村などの役人の一つ
有力名主がなり,土地売買保証人,警察・徴税官的性格をもった。荘園制下では荘官化したが,郷村制下では有力農民として自治組織の代表者となった。
舎人
とねり @@@LINK=舎人 舎人

舎人
とねり

律令制における下級官人
天皇・皇族に近侍し雑役・護衛にあたった。大化前代東国の豪族の子弟から採用されたが,律令制下では貴族および下級官人の子弟から選ばれた。課役は免除された。
舎人親王
とねりしんのう @@@LINK=舎人親王 舎人親王

舎人親王
とねりしんのう

676〜735
奈良時代の皇族。『日本書紀』編修の最高責任者
天武天皇の第3皇子。母は天智天皇の皇女親田部皇女。淳仁天皇の父。『日本書紀』の編纂にあたり,720年これを完成。同年藤原不比等の死後,知太政官事として国政に参与した。死去に際し太政大臣を贈られ,淳仁天皇即位時(759)に崇道尽敬皇帝の号を贈られた。

鳥羽僧正
とばそうじょう @@@LINK=鳥羽僧正 鳥羽僧正

鳥羽僧正
とばそうじょう

1053〜1140
平安後期の天台宗の僧
法名覚猷 (かくゆう) 。『今昔物語集』の編者といわれる源隆国の第9子。京都南郊,鳥羽離宮内の証金剛院の別当であったので鳥羽僧正という。1134年大僧正,'38年天台座主となった。大和絵にもすぐれ密教図像の集成に貢献した。『鳥獣戯画』の作者というもあるが確証はない。
鳥羽天皇
とばてんのう @@@LINK=鳥羽天皇 鳥羽天皇

鳥羽天皇
とばてんのう

1103〜56
平安後期の天皇(在位1107〜23)
堀河天皇第1皇子。4歳で即位。1123年崇徳天皇に譲位し,'29年白河法皇の死後院政をとった。仏教の信仰が厚く,法皇となり盛んに造寺造仏を行った。崇徳上皇を冷遇し,近衛天皇についで後白河天皇を寵愛,保元の乱の原因をつくった。

鳥羽・伏見の戦い
とば・ふしみのたたかい @@@LINK=鳥羽・伏見の戦い 鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い
とば・ふしみのたたかい

1868年1月,京都南郊の鳥羽・伏見で行われた新政府軍と旧幕府軍との戦い
王政復古後も薩長の武力討幕派は徳川慶喜 (よしのぶ) の内大臣辞官・納地を要求するとともに,江戸で薩摩藩が挑発的行為にでたので,憤激した旧幕府軍の会津・桑名藩兵は「君側のを払う」との名目のもとに大坂から入京しようとして,鳥羽・伏見で交戦し敗退。戊辰 (ぼしん) 戦争の発端となった。
鳥羽法皇
とばほうおう @@@LINK=鳥羽法皇 鳥羽法皇

鳥羽法皇
とばほうおう

鳥羽天皇
土版
どばん @@@LINK=土版 土版

土版
どばん

縄文時代晩期,主として東日本でつくられた土製品
長径5㎝〜20㎝の長方形ないし楕円形で,表裏両面に人面や複雑な文様が施されている。土偶から変化したもので,護符と考えられている。
都鄙問答
とひもんどう @@@LINK=都鄙問答 都鄙問答

都鄙問答
とひもんどう

江戸中期,石田梅岩の著した石門心学の概説書
1739年刊。4巻。梅岩が '29年心学教授を始めてから10年間の講義内容を整理・編纂したもので,石門心学の立場とその根本原理を問答形式で平易に説いた。
富岡製糸場
とみおかせいしじょう @@@LINK=富岡製糸場 富岡製糸場

富岡製糸場
とみおかせいしじょう

明治初期,群馬県富岡に設立された代表的な官営模範工場
明治政府の殖産興業政策に基づき1870年設置,'72年操業開始。フランスの技師や機械を入れ,初代主任尾高惇忠は郷里埼玉県から士族の子女などを集めて工女を養成。機械製糸技術を各地へ広める中心となった。'93年三井に払い下げられ,その後経営者は再三代わり,1938年片倉製糸の経営となり,'87年操業停止。
富岡鉄斎
とみおかてっさい @@@LINK=富岡鉄斎 富岡鉄斎

富岡鉄斎
とみおかてっさい

1836〜1924
明治・大正時代の南画家
京都の生まれ。平田派の国学・漢学を学び,幕末志士と交わり,1876年,一時石上神宮などの神官をつとめる。京都に帰り,のち独学で独自の画風を大成。展覧会に一度も公表しなかったが,南画派の中心的存在となる。代表作に『武陵桃源図』など。

富籤
とみくじ @@@LINK=富籤 富籤

富籤
とみくじ

江戸時代に流行したかけごと
とみつき・万人講などともいう。寺社の修理費・経営費を得るための興行で,幕府が公認して以来盛行。発売した富札と同数の番号札を富箱に入れ,きりで刺し取ったものを当たり札として賞金を出した。
富永仲基
とみながなかもと @@@LINK=富永仲基 富永仲基

富永仲基
とみながなかもと

1715〜46
江戸中期の町人学者
摂津(兵庫県)尼崎の人。幼少より懐徳 (かいとく) 堂に入り,醬油醸造業を営みながらも三宅石庵に陽明学を学んだ。ついで仏教・神道をも学んだが,儒・仏・神のいずれも否定して「誠の道」を求めることを主唱した。彼の思想はのち本居宣長・平田篤胤 (あつたね) にも影響を与えた。著書に『出定後語 (しゆつじようこうご) 』『翁の文』など。

ドミニコ会
ドミニコかい
Dominicans
@@@LINK=ドミニコ会 ドミニコ会

ドミニコ会
ドミニコかい
Dominicans

江戸初期,スペイン人司祭ドミニコが創立したカトリック教団
ドミニコ(1170〜1221)により,1216年フランスに創立された修道会。日本には1602年鹿児島に伝来し,布教を開始。江戸幕府キリシタン禁令によりその信徒は殉教する者が多く,'37年まで活動が続いた。
富本節
とみもとぶし @@@LINK=富本節 富本節

富本節
とみもとぶし

江戸中期,浄瑠璃節の流派
1749年富本豊前太夫が常磐津節から分かれて創始,安永・天明(1772〜89)ころ全盛となった。曲調は高雅優艶,常磐津より派手で拍子が明確なため,劇場に向いた。品格があり,大名・富豪に好まれたが,のち分派した清元節に圧倒されて衰微した。
十村
とむら @@@LINK=十村 十村

十村
とむら

江戸時代,加賀藩の大庄屋で,十村組の長
「十村肝煎 (きもいり) 」の。10か村あまりの村々をまとめた藩制度上の単位である組をつくり,有力土豪を組の長とした。農村の取締りにあたり,改作法の一環ともなったが,百姓一揆の目標とされたことも多い。
伴氏
ともし @@@LINK=伴氏 伴氏

伴氏
ともし

平安初期,大伴氏改姓した姓
823年,淳和天皇即位に際し,その (いみな) 「大伴」を避けて改姓。866年の応天門の変で,大納言伴善男が藤原氏の策謀で失脚し,以後まったく衰えた。
朝永振一郎
ともながしんいちろう @@@LINK=朝永振一郎 朝永振一郎

朝永振一郎
ともながしんいちろう

1906〜79
理論物理学者
東京の生まれ。京大理学部卒。ドイツに留学し,帰国後,1941年東京文理科大(のちの東京教育大学)教授となる。'43年超多時間理論を完成。のちアメリカのプリンストン大学高等研究所客員教授となり渡米した。'52年文化勲章受章。'56〜62年東京教育大学学長,'63年日本学術会議会長をつとめ,'65年にはノーベル物理学賞を受賞。核兵器廃絶にも熱意を示し,パグウォッシュ会議に参加した。

伴健岑
とものこわみね @@@LINK=伴健岑 伴健岑

伴健岑
とものこわみね

生没年不詳
平安初期の貴族
823年大伴氏伴氏と改めた。842年,橘逸勢 (たちばなのはやなり) らとともに,皇太子恒貞 (つねさだ) 親王を擁立して反乱をはかったとの理由で隠岐 (おき) に流罪となった(承和の変)。のち許されて入京したが,再び出雲に移された。
伴大納言絵巻
ばんだいなごんえまき @@@LINK=伴大納言絵巻 伴大納言絵巻
とものだいなごんえまき @@@LINK=伴大納言絵巻 伴大納言絵巻

伴大納言絵巻
ばんだいなごんえまき

平安末期の絵巻物
国宝。12世紀後半の成立。3巻。土佐光長筆といわれる。866年大納言伴善男 (とものよしお) が応天門に放火し,これを左大臣源信 (まこと) のしわざと告発したが,真相が露見して流罪に処せられたという応天門の変を描いた。物語の展開も描写もすぐれている。

伴大納言絵巻
とものだいなごんえまき

ばんだいなごんえまき
伴造
とものみやつこ @@@LINK=伴造 伴造

伴造
とものみやつこ

大化前代,中央の中小豪族
姓 (かばね) は (おびと) ・ (みやつこ) ・連 (むらじ) が多い。大和政権大王家の部民 (べのたみ) である品部 (ともべ) ・子代・名代の民を世襲的に統率。みずからも部民・田荘 (たどころ) を所有し,なかには大伴氏物部 (もののべ) 氏のように大豪族に成長したものもある。忌部首 (いんべのおびと) ・錦織部連 (にしごりべのむらじ) などの職業を有する部民を率。大化の改新以後,有力者は貴族となったが,多くは下級官人である伴部 (とものみやつこ) ( (ともべ) )となり品部 (しなべ) ・雑戸 (ざつこ) を率いた。
伴善男
とものよしお @@@LINK=伴善男 伴善男

伴善男
とものよしお

809〜868
平安前期の貴族
もと大伴氏。848年参議,864年大納言に昇進。866年応天門の火災の際,左大臣源信 (まこと) をおとしいれようとし,かえって放火罪で,伊豆に流された(応天門の変)。『伴大納言絵巻』はこの事件が主題となっている。

品部
しなべ @@@LINK=品部 品部
ともべ @@@LINK=品部 品部

品部
しなべ

律令制下の最下層の公民
氏姓社会の品部 (ともべ) の系譜をひき,大化の改新(645)後,良民とされた特殊技術者。漆部司の漆部,図書寮 (ずしよりよう) の紙戸などのように朝廷の諸官司に属し物品を生産した。

品部
ともべ

大化前代、大和政権や大王家が所有した部
伴造 (とものみやつこ) の統率下のもとに,特定の職業・技術をもって貢納し,また賦役を負担した。
富山売薬
とやまばいやく @@@LINK=富山売薬 富山売薬

富山売薬
とやまばいやく

江戸時代から越中国富山の薬種商が販売した和漢薬
家内工業で行商による販売が特色。江戸前期,反魂丹 (はんごんたん) という丸薬を中心に始まり,藩の保護統制下に全国的に拡大。行商人は分担区域の得意先に薬を預け,次回訪問時に消費分の代金を集めた。
外山正一
とやままさかず @@@LINK=外山正一 外山正一

外山正一
とやままさかず

1848〜1900
明治時代の教育家・啓蒙家・詩人
江戸小石川の生まれ。幕臣出身。蕃書調所に学び,イギリス・アメリカに留学後,東大教授・同総長・文相などを歴任。スペンサーの社会学を講じ,進化主義立場から,ローマ字採用論を唱える一方演劇改良運動後援。また井上哲次郎らと時代に先んじて『新体詩抄』を刊行した。
豊竹座
とよたけざ @@@LINK=豊竹座 豊竹座

豊竹座
とよたけざ

江戸中期,大坂道頓堀にあった人形浄瑠璃劇場
1703年竹本義太夫の弟子豊竹若太夫が創設。竹本座と競演し操 (あやつ) り劇の全盛期を現出したが,宝暦年間(1751〜64)に再度火災と若太夫の死去没落。'65年閉鎖した。
豊田佐吉
とよださきち @@@LINK=豊田佐吉 豊田佐吉

豊田佐吉
とよださきち

1867〜1930
明治〜昭和初年の発明家・実業家
遠江(静岡県)の生まれ。1897年わが国最初の木製動力織機を発明,1926年自動織機を完成した。その間,国内外で多くの特許をとり,愛知県に豊田紡織会社を創設した。

豊臣氏
とよとみし @@@LINK=豊臣氏 豊臣氏

豊臣氏
とよとみし

安土桃山時代の大名家
秀吉が1586年太政大臣に任じられ,豊臣の姓を賜ったのに始まる。秀吉の死後,幼子秀頼は大坂城にいたが,関ケ原の戦い後,一大名となった。1615年大坂の役に敗れ秀頼は自害し,豊臣家は滅亡した。
豊臣秀次
とよとみひでつぐ @@@LINK=豊臣秀次 豊臣秀次

豊臣秀次
とよとみひでつぐ

1568〜95
安土桃山時代の武将
秀吉の甥。父は三好吉房,母は秀吉の姉。賤ケ岳の戦い・四国平定に功あり,近江(滋賀県)43万石を領した。1591年秀吉の長男鶴松の死後,その養子となり関白となった。'93年秀吉に秀頼が生まれて不和となり,秀吉の命により高野山に追放され,切腹。妻妾・子弟30余名も京都三条河原で殺された。

豊臣秀吉
とよとみひでよし @@@LINK=豊臣秀吉 豊臣秀吉

豊臣秀吉
とよとみひでよし

1537〜98
戦国・安土桃山時代の武将
織田氏の足軽木下弥右衛門の子。尾張(愛知県)中村に生まれた。織田信長の足軽となり,機才により戦功を重ね累進,1573年近江(滋賀県)長浜城主となり,羽柴氏を称した。'77年以来中国毛利攻めの先鋒として備中(岡山県)高松城を攻略。本能寺の変('82)を聞き毛利氏と和睦し,山崎の戦いに明智光秀を倒し,ついで柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破った。小牧・長久手の戦いでは徳川家康との小ぜりあいに敗れたのち和睦。'85年関白,'86年太政大臣となり,豊臣姓を賜り,'87年島津(九州征討),'90年後北条氏(小田原征討)を平定し全国を統一した。さらに朝鮮・明国への侵略を企てて文禄・慶長の役をおこしたが失敗,失意のうちに病死した。この間,太閤検地・刀狩令・京枡の制定などを行って土地・人民を掌握し,近世封建社会の基礎を確立する一方,大坂城・聚楽第の造営など,華麗な桃山文化を現出させた。
豊臣秀頼
とよとみひでより @@@LINK=豊臣秀頼 豊臣秀頼

豊臣秀頼
とよとみひでより

1593〜1615
安土桃山時代の武将
秀吉の2男。母は側室淀君。1598年秀吉の死後そのあとを継いだが,関ケ原戦い(1600)後,蔵入地約200万石の大大名から摂津・河内・和泉の60余万石の一大名に転落。徳川家康の孫千姫と政略結婚を強いられ,方広寺鐘銘事件を契機に大坂の役('14〜15)に敗れた。大坂城の天守閣炎上の際,淀君とともに自害し,豊臣氏は滅亡。

渡来人
とらいじん @@@LINK=渡来人 渡来人

渡来人
とらいじん

古墳時代以後,大陸や朝鮮半島から渡来して永住した人びとおよびその子孫
4〜5世紀に楽浪・帯方郡からの遺民,弓月君 (ゆづきのきみ) とその子孫秦氏 (はたうじ) ,阿知使主 (あちのおみ) とその子孫東漢氏 (やまとのあやうじ) ,王仁 (わに) とその子孫西文氏 (かわちのふみうじ) らが渡来し学問・産業に貢献した。6〜7世紀には任那 (みまな) ・百済 (くだら) ・高句麗の滅亡に伴い韓人が渡来,仏教を伝えるなど,渡来人文化といってもよいほどその影響は大きく,飛鳥文化開化の原動力となった。
トラスト
Trust @@@LINK=トラスト トラスト

トラスト
Trust

同種生産にたずさわる企業が,市場の独占を目的として合同する独占の一形態
カルテル(企業連合)より強い独占形態。原料購入・生産制限・独占価格決定に効力をあげる。アメリカではスタンダード石油トラスト(Standard Oil Trust)をはじめとし,日本では1907年に設立した帝国製麻をはじめ,'21年日本石油,'32年王子製紙,'34年日本製鉄などが代表的。第二次世界大戦後,財閥解体に伴い独占禁止法で禁止された。
虎の門事件
とらのもんじけん @@@LINK=虎の門事件 虎の門事件

虎の門事件
とらのもんじけん

1923年12月,摂政宮(昭和天皇)が帝国議会開院式に臨む途中,東京虎の門付近で狙撃された事件
犯人は無政府主義者難波大助。当時の社会運動に対する弾圧張本人を天皇と考え暗殺を企てたという。この事件で第2次山本権兵衛内閣は総辞職した。
鳥居清長
とりいきよなが @@@LINK=鳥居清長 鳥居清長

鳥居清長
とりいきよなが

1752〜1815
江戸後期の浮世絵師
相模(神奈川県)浦賀の人(一説に江戸の人)。江戸に出て書店を営み,鳥居清満の門に学び美人画に長じた。師清満の死後,養子となって鳥居家をついだ。卓越した技量もち,背景との調和にすぐれた美人画を描き盛名をはせた。代表作に『美南見 (みなみ) 十二候』『風俗東之錦 (ひがしのにしき) 』など。

鳥居清信
とりいきよのぶ @@@LINK=鳥居清信 鳥居清信

鳥居清信
とりいきよのぶ

1664〜1729
江戸前・中期の浮世絵師。鳥居派の開
大坂の人。父清元に画を習い家業である芝居の看板絵や役者絵を描いて,力ある描線と重厚な色彩で好評を得た。演劇との関係上世襲となり,看板絵は鳥居派の典型的描法が受け継がれた。代表作に『立美人』『傘持美人』など。

鳥居派
とりいは @@@LINK=鳥居派 鳥居派

鳥居派
とりいは

江戸時代,浮世絵の流派
清信を始祖とし,元禄年間(1688〜1704)以来今日に至るまで歌舞伎の看板絵や番付絵を独占し,役者絵に独自の境地を開いた。清信は狩野派・土佐派の画風をとり入れて独自の役者絵を完成。以後形式に流れ,4世清長が美人画を描き中興とされたが,役者絵は衰え,看板絵・番付絵に専念した。
取箇郷帳
とりかごうちょう @@@LINK=取箇郷帳 取箇郷帳

取箇郷帳
とりかごうちょう

江戸時代天領貢租に関する帳簿。地方 (じかた) 三帳の一つ
郷帳ともいう。1村ごとに本途物成 (ほんとものなり) ・小物成・運上・冥加 (みようが) などいっさいの税を記し,年々の異動を訂正し,その年の分を翌年5月末までに代官が作成し,勘定所へ進達した。諸藩もこれにならった。
鳥毛立女屛風
とりげりゅうじょびょうぶ @@@LINK=鳥毛立女屛風 鳥毛立女屛風

鳥毛立女屛風
とりげりゅうじょびょうぶ

樹下美人図
鳥の子紙
とりのこがみ @@@LINK=鳥の子紙 鳥の子紙

鳥の子紙
とりのこがみ

和紙の一種で,薄茶色で光沢ある堅牢な紙
(こうぞ) と雁皮 (がんぴ) を原料とする。鶏卵の色をしているところからその名がある。鎌倉時代から寺社の勧進帳や武家文書などに用いられた。古くは越前産のものが有名。江戸時代に摂津・和泉周防 (すおう) などでも特産となる。
止利仏師
とりぶっし @@@LINK=止利仏師 止利仏師

止利仏師
とりぶっし

鞍作鳥 (くらつくりのとり)
ドル‐ショック @@@LINK=ドルショック ドルショック

ドル‐ショック

1971年8月のニクソン大統領が発表したドルの金兌換停止などのドル防衛策が世界中に与えた衝撃のこと
ドル防衛策の突然の発表は,戦後国際通貨制度を支えてきたブレトン‐ウッズ体制の崩壊を意味した。各国為替相場が混乱したため,1971年12月の10カ国蔵相会議で,円16.88%などの主要通貨の切上げを行った。これをスミソニアン協定または合意という。しかしこれも不安定で長続きせず,'73年主要国は変動為替相場制へ移行したため,スミソニアン体制も崩壊した。
奴隷制
どれいせい @@@LINK=奴隷制 奴隷制

奴隷制
どれいせい

奴隷労働に基づく古代の生産関係
人間でありながら家畜や物と同様に全人格を否定されて他人の支配下に生産手段として使役されるものが奴隷である。その発生の原因としては,略奪・捕虜・債務・犯罪・出生その他があげられ,その解放には金銭による賠償,所有者の恩恵,老年などの条件がみられる。奴隷には家族内に含まれる家内奴隷と「物言う道具」として酷使される労働奴隷とがあり,後者は古代のギリシア・ローマに典型的に発達し,前者はアジアに多い。日本に奴隷制が存在したか,また存在したとすればどの時代をそれにあてるかについては見解がまちまちであるが,五色などから律令国家の時代をあてる見方が多く行われている。しかし律令時代の奴婢 (ぬひ) は家内奴隷で,彼らが律令制下の生産活動の本質をなしていたとは考えられないことなどから日本における奴隷制を否定する見解もある。部民 (べのたみ) や公民をアジア的国家総有奴隷(総体的奴隷制)とする見方もある。『魏志』倭人伝にみえる「生口」が奴隷に相当すると考えられるが,始期は明瞭でない。中世(農奴制)への画期についても大化の改新から戦国時代まで諸説がある。
登呂遺跡
とろいせき @@@LINK=登呂遺跡 登呂遺跡

登呂遺跡
とろいせき

静岡市登呂にある弥生時代後期の集落・水田遺跡
1943年発見。'47〜50年にわたる発掘調査によって,12個の竪穴住居址と2個の高床倉庫址,7万5000以上の広大な面積をもつ水田址が発見された。水田は杭と矢板とを打ちこんだ畦 (あぜ) によって,最大が2396,最小が842の面積に区画されている。後期弥生土器,農耕具・機織具などの木製品,青銅製の腕輪,ガラス製小玉などの装身具も出土している。
頓阿
とんあ @@@LINK=頓阿 頓阿

頓阿
とんあ

1289〜1372
南北朝時代の歌人。二条歌学中興の祖
俗名二階堂貞宗。和歌を二条為世に学び,二条良基とともに二条歌学の正統として敬される。吉田兼好・浄弁・慶運と合わせて「和歌四天王」と呼ばれた。著書に『草庵集』『井蛙抄 (せいあしよう) 』など。
曇徴
どんちょう @@@LINK=曇徴 曇徴

曇徴
どんちょう

生没年不詳
7世紀前期に来日した高句麗の僧
610年高句麗王の命で来日,紙・墨・絵具を伝えた。五経に通じ,絵画をよくした。作品は現存しない。
屯田兵
とんでんへい @@@LINK=屯田兵 屯田兵

屯田兵
とんでんへい

明治時代,北海道の警備・開拓のために置かれた農兵
平時は農業を営み軍務にもつく。古くから辺境警備に用いられたが,明治時代のものが有名。1873年,開拓使次官黒田清隆の提案により設置。士族授産を兼ね,1904年廃止されるまでに約4万人を動員,37兵村を営み2万382町歩を開拓,新社会の建設に貢献した。
ドン=ロドリゴ
Don Rodrigo de Vivero @@@LINK=ドン=ロドリゴ ドン=ロドリゴ

ドン=ロドリゴ
Don Rodrigo de Vivero

?〜1636
江戸初期に来日したスペインのフィリピン総督
1608年フィリピン(ルソン)総督に就任帰任の途中暴風で乗船が難破して '09年上総 (かずさ) (千葉県)に漂着徳川家康秀忠に会見し,ノビスパンメキシコ)との貿易斡旋を依頼され,京都の商人田中勝介とともにメキシコに渡った。
内閣制度
ないかくせいど @@@LINK=内閣制度 内閣制度

内閣制度
ないかくせいど

国の行政を担当する最高機関
大日本帝国憲法に先立つ1885年太政官制に代わって創設。初代内閣総理大臣伊藤博文。同時に宮中府中の別が明らかにされ,内閣の行政府としての立場が確立した。大日本帝国憲法のもとでは,内閣は天皇に任命された総理大臣と,各国務大臣によって構成,各大臣は天皇に輔弼 (ほひつ) の責任を負った。したがって天皇の私的行政機関という性格が強い。日本国憲法のもとでは,内閣は国会で指名された総理大臣と,総理大臣の任命した各国務大臣によって組織され,行政権の行使については国会に対し連帯責任を負う。
内国勧業博覧会
ないこくかんぎょうはくらんかい @@@LINK=内国勧業博覧会 内国勧業博覧会

内国勧業博覧会
ないこくかんぎょうはくらんかい

明治時代に開かれた国内物産の博覧会
政府の殖産興業政策一環として行われ,1877年第1回を東京上野公園で開催。1903年大阪の第5回まで,開催のたびに機械類が増加し,共進会とともに産業技術の発達を促した。
乃而浦
ないじほ @@@LINK=乃而浦 乃而浦

乃而浦
ないじほ

薺浦 (せいほ)
内臣
うちつおみ @@@LINK=内臣 内臣
ないしん @@@LINK=内臣 内臣

内臣
うちつおみ

律令制以前の官職名
645年大化の改新の際新設され,中臣鎌足 (かまたり) が任命された。左右大臣と並ぶ重要な官職だが常置ではなく,令制の官職にもない。

内臣
ないしん

うちつおみ
内大臣
ないだいじん @@@LINK=内大臣 内大臣

内大臣
ないだいじん

古代,令外官 (りようげのかん) の一つ
②1885(明治18)年,宮中に設けられた天皇の補佐官
669年中臣鎌足が危篤の時に任じられたのが初見。10世紀末より常置となった。左右大臣を助けて政務・儀式を執行した。
天皇の側近にあって常時輔弼 (ほひつ) の任務をもった。政治に不関与であったが,昭和時代に入ると,元老に代わって内閣首班の決定に参与し,大きな政治的発言力をもった。1945年廃止された。
内地雑居問題
ないちざっきょもんだい @@@LINK=内地雑居問題 内地雑居問題

内地雑居問題
ないちざっきょもんだい

外国人への内地開放の可否をめぐる論争
1889年大隈重信外相の条約改正案に,領事裁判権撤廃の代償として相手国人の内地居住・旅行・営業・土地所有を認める条項があったので,国権主義者らが反対した。内地開放は '99年改正条約施行により実施された。
内藤湖南
ないとうこなん @@@LINK=内藤湖南 内藤湖南

内藤湖南
ないとうこなん

1866〜1934
明治〜昭和前期の東洋史学者
本名虎次郎。出羽(秋田県)の生まれ。1887年上京後『大阪朝日新聞』『万朝報』などの記者を経て,1907年京大講師,のち教授となる。中国史・日本史に多くの業績を残し,特に中国史時代区分の独創性碩学 (せきがく) ぶりから世に「内藤史学」と称された。『支那史学史』など著書も多い。
内務省
ないむしょう @@@LINK=内務省 内務省

内務省
ないむしょう

明治初期〜第二次世界大戦前の内政一般を統轄した中央官庁
1873年太政官の一省として設置,初代内務卿は大久保利通。とくに殖産興業政策を推進し,警察事務を統轄。'81年殖産興業部門を農商務省へ移管。'85年内閣制度創設でその一省となり,初代内務大臣には山県有朋 (ありとも) が就任。地方行政・議員選挙・警察・土木・出版・戸籍などを管掌し,国内行政の中心的役割を果たし,国民生活全般にわたり,保護と統制を行い,第二次世界大戦下には戦時体制形成の中核となる。1947年廃止。
内覧
ないらん @@@LINK=内覧 内覧

内覧
ないらん

太政官からの公文書を天皇に奏上する前に内見すること。のち職名となった
関白に準じる地位。醍醐 (だいご) 天皇の897年,左大臣藤原時平,右大臣菅原道真 (みちざね) に政務をとらせたのがはじまり。
内裏
だいり @@@LINK=内裏 内裏
ないり @@@LINK=内裏 内裏

内裏
だいり

大内裏 (だいだいり) の中にある天皇の住居
禁裏・禁中ともいう。

内裏
ないり

だいり
ナウマン
Edmund Naumann @@@LINK=ナウマン ナウマン

ナウマン
Edmund Naumann

1854〜1927
ドイツの地質学者
ミュンヘン大学出身。1875年明治政府の招きで来日。東大で地質学を講じ,各地の地質調査を行い日本列島の構造・成立を解明。また全国地質地図を作成,フォッサ‐マグナを指摘した。

ナウマン象
ナウマンぞう @@@LINK=ナウマン象 ナウマン象

ナウマン象
ナウマンぞう

更新世後期に日本各地に住んでいた旧象
体はインド象と同じくらいかやや小さい。明治初期にドイツ人地質学者ナウマンが発見したのでこう呼ばれる。
直江津
なおえつ @@@LINK=直江津 直江津

直江津
なおえつ

新潟県南西部にある上越市の北部を形成する地区
古くは越後の国府・国分寺の門前町であったが,14世紀中ごろより問丸 (といまる) のある港町に発展。戦国時代に上杉氏の春日山の城下町・港町として繁栄した。1614年松平氏が高田に城を移してからは衰え港町として残った。1954年市制を施行したが,'71年高田市と合併し上越市となる。
長井雅楽
ながいうた @@@LINK=長井雅楽 長井雅楽

長井雅楽
ながいうた

1819〜63
幕末の政治家
名は時庸。通称隼人。長州藩士。1861年積極的開国論である航海遠略策(公武和合・開国進取)をもって藩論を代表し,公武間を周旋した。しかし藩論が尊王攘夷論に転換したため失脚して自刃。

永井荷風
ながいかふう @@@LINK=永井荷風 永井荷風

永井荷風
ながいかふう

1879〜1959
明治〜昭和期の小説家
本名は壮吉。東京の生まれ。初めゾラ風の自然主義的作品を発表。アメリカ・フランスに渡り,帰国後『あめりか物語』などで声価を得た。1910年慶大教授となり,『三田文学』を創刊したが,大逆事件後江戸情趣・花柳趣味に傾き,『腕くらべ』『おかめ笹』『濹東綺譚 (ぼくとうきたん) 』などを発表,耽美派の中核となった。'52年文化勲章受章。

中井甃庵
なかいしゅうあん @@@LINK=中井甃庵 中井甃庵

中井甃庵
なかいしゅうあん

1693〜1758
江戸中期の儒学者
大坂の人。三宅石庵に陽明学・朱子学を学び,同門の大坂町人と懐徳堂を建てた。のち懐徳堂は甃庵の粘り強い交渉により幕府の公認となり,初代学主石庵の没後,ほとんど独立維持・経営にあたり,朱子学の興隆に貢献した。
中井竹山
なかいちくざん @@@LINK=中井竹山 中井竹山

中井竹山
なかいちくざん

1730〜1804
江戸後期の儒学者
甃庵 (しゆうあん) の長子。大坂の人。陽明学・朱子学を学び,父の死後懐徳堂学主となった。封建道徳をすすめ,算術・医術将棋などを商用の社交として許し,懐徳堂の全盛期を現出。寛政異学の禁のときは官学側の立場にたった。また政治上の意見書『草茅危言 (そうぼうきげん) 』を松平定信に上呈,参勤交代・常平倉・物価・米相場などを論じた。

中井履軒
なかいりけん @@@LINK=中井履軒 中井履軒

中井履軒
なかいりけん

1732〜1817
江戸後期の儒学者
大坂の人。兄竹山とともに五井蘭洲に朱子学を学んだが,兄と異なり,古学・折衷学派的色彩が強い。竹山の死後懐徳堂学主となった。

長唄
ながうた @@@LINK=長唄 長唄

長唄
ながうた

江戸中期,劇場音楽として栄えた音曲
貞享・元禄期(1684〜1704),上方で発達。宝永(1704〜11)ころ歌舞伎と結んで江戸に下り,文化文政期(1804〜30)ころ最盛となった。笛・鼓・大鼓の囃子 (はやし) ,寛濶陽気な曲風,明快な詞章特色で,代表作に「勧進帳」「越後獅子」「吾妻八景」などがある。のち歌舞伎から離れたお座敷長唄が現れ普及した。
中浦ジュリアン
なかうらジュリアン
Juliano @@@LINK=中浦ジュリアン 中浦ジュリアン

中浦ジュリアン
なかうらジュリアン
Juliano

1570〜1633
安土桃山時代の天正遣欧使節の副使
肥前(長崎県)中浦の出身。ジュリアンは洗礼名。1582年伊東マンショ・千々石 (ちぢわ) ミゲル・原マルチノらと渡欧,'90年帰国。天草コレジオに入りイルマン,のち伴天連 (バテレン) となった。禁教下の九州地方を布教したが,1633年長崎で穴吊しの刑により殉教。

活字印刷
かつじいんさつ @@@LINK=活字印刷 活字印刷

活字印刷
かつじいんさつ

活字を用いて行う印刷
日本では,16世紀末,イエズス会宣教師によって活字印刷機が輸入され,キリシタン版や,朝鮮侵略の際に移入された銅活字木活字の印刷があるが,江戸期の出版物はほとんどが木版印刷になった。明治初期,本木昌造によって鉛製の活字が実用化され,活字印刷は画期的に発達し,文化の発展に寄与した。
葛飾北斎
かつしかほくさい @@@LINK=葛飾北斎 葛飾北斎

葛飾北斎
かつしかほくさい

1760〜1849
江戸後期の浮世絵師
江戸の人。30余の号をもち,93度転居。勝川春章に浮世絵を学んだが,狩野派・土佐派,司馬江漢の西洋画法など諸流を研究し,個性の強い画風を確立。終生絵画への情熱を持ち続けた。美人画・役者絵・風景画・花鳥画などを描いたが,特に風景画にすぐれた。『富嶽三十六景』は傑作。フランス印象派の画家たちに大きな影響を与えた。

甲子夜話
かっしやわ @@@LINK=甲子夜話 甲子夜話

甲子夜話
かっしやわ

江戸後期,肥前(長崎県)平戸藩主松浦清(号は静山)の随筆
正編100巻,続編100巻,後編78巻。著者62歳の1821年から20年間にわたって,政治・外交・軍事・逸話・民俗などの見聞を書きとめたもの。幕末の社会状況を知る貴重な史料
勝手方
かってがた @@@LINK=勝手方 勝手方

勝手方
かってがた

江戸幕府において財務行政を担当したものの呼称
直轄領の租税徴収,金穀の出納などをつかさどった。幕府は1721年勘定奉行4名を財務担当の勝手方2名と司法担当の公事方 (くじがた) 2名に分け,分掌を明らかにした。諸藩においてもほぼ同じようなものが置かれた。
GATT
ガット
General Agreement on Tariffs and Trade(関税および貿易に関する一般協定) @@@LINK=GATT GATT

GATT
ガット
General Agreement on Tariffs and Trade(関税および貿易に関する一般協定)

略称GATT。関税障壁打開のための国際協定
1947年にジュネーヴで調印した。日本は'55年に正式加盟,'59年以降は理事国。大規模関税交渉としては,ケネディ‐ラウンド,東京ラウンド,ウルグアイ‐ラウンドがある。ガットは'94年に発展的に解消し,'95年新設の世界貿易機関(WTO)に引き継がれた。
活動写真
かつどうしゃしん @@@LINK=活動写真 活動写真

活動写真
かつどうしゃしん

映画の旧称
「モーション‐ピクチュア」の訳語。1896年の輸入以来この名で紹介され,1903年には最初の常設館が開設,'12年日本活動写真株式会社(日活)が設立した。弁士(説明者)が活躍する大衆娯楽として興行が盛んとなり,この名称は昭和初期まで続いた。
カッペルレッティ
Giovanni Vincenzo Cappelletti @@@LINK=カッペルレッティ カッペルレッティ

カッペルレッティ
Giovanni Vincenzo Cappelletti

?〜1887
イタリアの建築家。御雇外国人の一人
1876年工学寮(工部大学校の前身)付属美術学校の教師として,フォンタネージラグーザとともに来日。イタリア・ルネサンス式の参謀本部,ロマネスク様式の遊就館を建設した。
桂川甫周
かつらがわほしゅう @@@LINK=桂川甫周 桂川甫周

桂川甫周
かつらがわほしゅう

1751〜1809
江戸後期の蘭学者・医者
江戸の人。杉田玄白の『解体新書』の翻訳に協力。幕府の侍医,のち幕府医学館教授となった。徳川家斉の命により伊勢の漂流民大黒屋光太夫からロシアの風俗制度を聞き『北槎聞略 (ほくさぶんりやく) 』を著した。

桂小五郎
かつらこごろう @@@LINK=桂小五郎 桂小五郎

桂小五郎
かつらこごろう

木戸孝允 (たかよし)
桂‐タフト協定
かつら‐タフトきょうてい @@@LINK=桂タフト協定 桂タフト協定

桂‐タフト協定
かつら‐タフトきょうてい

日露戦争の講和直前の1905年7月,アメリカ陸軍長官タフトと桂太郎首相との秘密覚書
この協定により,アメリカのフィリピンに対する,日本の韓国に対する植民地的支配が承認された。翌8月の第2回日英同盟によるインドと韓国の植民地支配の相互承認とを併せて,戦後の日本の国際的地位の確立が構想されている。
桂太郎
かつらたろう @@@LINK=桂太郎 桂太郎

桂太郎
かつらたろう

1847〜1913
明治・大正初期の軍人・政治家
陸軍大将・元老。長州藩出身。1870年ドイツに留学し,帰国後ドイツ式軍制樹立に努力した。陸軍次官・台湾総督を経て,'98年第3次伊藤博文内閣の陸相となる。以後,第1次大隈重信・第2次山県有朋両内閣でも陸相をつとめる。山県の後継者として藩閥・軍閥を代表して政党勢力と対立し,社会運動を取り締まった。西園寺公望 (さいおんじきんもち) と交代で3度内閣を組織し,桂園時代を現出したが,第3次内閣は第1次護憲運動のため総辞職した。
桂太郎内閣
かつらたろうないかく @@@LINK=桂太郎内閣 桂太郎内閣

桂太郎内閣
かつらたろうないかく

桂太郎を首班とする内閣
〔第1次〈1901.6〜06.1〉〕 第4次伊藤博文内閣のあとをうけ組閣。日英同盟の締結,日露戦争の遂行に尽力日比谷焼打ち事件契機として総辞職した。〔第2次〈'08.7〜11.8〉〕 第2次日露協約を締結し,韓国併合を実現させ,関税自主権を回復した。また大逆事件により社会主義者を弾圧した。〔第3次〈'12.12〜13.2〉〕陸軍が第2次西園寺公望 (きんもち) 内閣を倒したのち,内大臣から組閣。第1次護憲運動により53日で退陣した。
桂離宮
かつらりきゅう @@@LINK=桂離宮 桂離宮

桂離宮
かつらりきゅう

京都市西京区桂御園にある旧桂宮家の別荘
後陽成天皇の皇弟八条宮智仁 (としひと) 親王が1620年から数年にわたって建立。のち2度増築。おもな建物には数寄屋造で有名な中書院・古書院,庭内には広い池をめぐって散在する月波楼・松琴亭などの茶亭があり,庭園とのみごとな調和美を現出している。日本住宅建築の最高峰とされる。
活歴物
かつれきもの @@@LINK=活歴物 活歴物

活歴物
かつれきもの

明治時代以後の歌舞伎の分類上の一形式
史実を重んじ,時代考証のもとに,写実的に演出するところに特色がある。河竹黙阿弥が新作し,9代目市川団十郎らによって上演された。仮名垣魯文 (かながきろぶん) が「活きた歴史」と評したところから,この名がつけられた。
華道
かどう @@@LINK=華道 華道

華道
かどう

立花 (りつか) と生花 (いけばな) の総称
花道」とも書く。古く仏教的行事で仏前に花を供える風があったが,平安時代以後,室内のに花をさして観賞するようになり,書院造床の間の出現とともに観賞の場が安定し,立花として独特の造形美術となった。東山文化の時代に池坊専慶らの立花の名手が現れ,ついで草庵風茶室の茶花として,「投げ入れ」が千利休によって大成され,江戸時代に数寄屋造のために,立花と茶花が融合されて生花がおこり,家元制度のもとで形式化した。「花道」の語は,元禄時代の書にはじめてみられる。明治時代以後,洋風の影響で盛花 (もりばな) が行われたが,華道は女性の教養として盛んになり,現在に至る。
加藤景正
かとうかげまさ @@@LINK=加藤景正 加藤景正

加藤景正
かとうかげまさ

生没年不詳
鎌倉時代の陶工
通称藤四郎。伝記不詳。一説に1223年道元に従って入宋。陶法を学んで帰国後,尾張国瀬戸に良土を発見し開窯したと伝える。陶工の祖と呼ばれ,子孫も代々藤四郎を称す。

加藤清正
かとうきよまさ @@@LINK=加藤清正 加藤清正

加藤清正
かとうきよまさ

1562〜1611
安土桃山時代の武将
尾張(愛知県)の人。幼少より豊臣秀吉に仕え,山崎の戦い・賤ケ岳の戦いなどに戦功があり,1588年肥後半国30万石を与えられ熊本城主となった。秀吉の文禄・慶長の役では大いに奮戦し武名をあげた。関ケ原の戦い(1600)で徳川方に属して文治派の石田三成らと対立,家康から肥後一国54万石を与えられた。戦後,秀頼を助けて豊臣氏の安泰をはかった。

加藤高明
かとうたかあき @@@LINK=加藤高明 加藤高明

加藤高明
かとうたかあき

1860〜1926
明治・大正時代の政治家・外交官
尾張(愛知県)の生まれ。東大卒業後三菱に入社し,岩崎弥太郎の娘と結婚。その後外務省に転じ,イギリス駐在公使,のち伊藤・西園寺・桂・大隈の各内閣の外相を歴任。特に第一次世界大戦当時の外相で,二十一カ条要求を推進した。1913年立憲同志会を結成,'16年憲政会総裁となる。第2次護憲運動をおこして清浦奎吾内閣を打倒し,'24年護憲三派内閣,翌'25年憲政会単独内閣を組織したが,その在任中に病死
加藤高明内閣
かとうたかあきないかく @@@LINK=加藤高明内閣 加藤高明内閣

加藤高明内閣
かとうたかあきないかく

加藤高明を首班とする護憲三派連立内閣,のち憲政会単独内閣(1924〜26)
〔第1次〈1924.6〜25.7〉〕 第2次護憲運動で清浦奎吾内閣を倒したあと,憲政会総裁の加藤が首相となり組閣ソ連邦と国交樹立,普通選挙法・治安維持法の制定を行うが,まもなく立憲政友会と対立して辞職。〔第2次〈'25.8〜26.1〉〕 引き続き憲政会単独の第2次内閣を組織したが,加藤がその在任中病死し,総辞職した。
加藤千蔭
かとうちかげ @@@LINK=加藤千蔭 加藤千蔭

加藤千蔭
かとうちかげ

1735〜1808
江戸後期の歌人・国学者
本姓橘,通称要女 (かなめ) ,号は芳宜園 (はぎぞの) ・朮園 (うけらぞの) など。江戸の人。賀茂真淵 (まぶち) の門に入ったが,歌風は万葉調より古今風に近かった。村田春海とともに江戸派の双璧といわれた。書もよくし,千蔭流の祖。主著に『万葉集略解』,家集『うけらが花』など。

加藤友三郎
かとうともさぶろう @@@LINK=加藤友三郎 加藤友三郎

加藤友三郎
かとうともさぶろう

1861〜1923
明治・大正時代の軍人・政治家
元帥・海軍大将。安芸(広島県)の生まれ。日露戦争では参謀長として,日本海海戦の作戦指導にあたる。大隈〜高橋内閣の海相をつとめ,ワシントン会議では首席全権として海軍内の反対を抑えて妥結。'22年立憲政友会の援助のもとに組閣し,軍備縮小・財政整理にあたったが,在任中に病死直後に関東大震災。

加藤弘之
かとうひろゆき @@@LINK=加藤弘之 加藤弘之

加藤弘之
かとうひろゆき

1836〜1916
明治時代の政治学者
但馬(兵庫県)出石 (いずし) 藩出身。明治新政府の開明的方針にそい,『真政大意』『国体新論』などを著し,天賦人権論を唱え明六社に参加。自由民権運動がおこると,国会開設に時期尚早論をもって大井憲太郎らの開設論と論戦した。1882年には『人権新説』を著し,以前の著書を絶版とし,国権論者としての立場を明らかにした。また東京大学総理(総長),元老院議官・枢密顧問官などを歴任した。

河東節
かとうぶし @@@LINK=河東節 河東節

河東節
かとうぶし

江戸中期から発達した浄瑠璃節の一派
享保(1716〜36)のころ,十寸見河東 (ますみかとう) が師江戸半太夫の半太夫節からくふうして創始。優美で典雅章句・曲節が江戸の気風に合って流行した。浄瑠璃節としては初めて歌舞伎と組んだが,座敷芸旦那芸として盛行した。
家督
かとく @@@LINK=家督 家督

家督
かとく

家長または家長権をいう
平安時代,家督は長男を意味したが,中世では同族族長をさすようになった。鎌倉時代の家督相続は嫡子 (ちやくし) の単独相続,財産は庶子 (しよし) とともに分割相続であった。室町時代には家督・財産とも嫡子が単独相続とし,庶子を家臣として統制した。
過度経済力集中排除法
かどけいざいりょくしゅうちゅうはいじょほう @@@LINK=過度経済力集中排除法 過度経済力集中排除法

過度経済力集中排除法
かどけいざいりょくしゅうちゅうはいじょほう

第二次世界大戦後,独占禁止法と並ぶ経済民主化政策の一つ
1947年12月,占領軍の指令で,戦前・戦時中に巨大化した企業を持株会社整理委員会が適当な規模の企業に再編成した。初め対象企業は325社であったが,アメリカの対日政策の転換から次第に緩和され,実際に分割されたのは11社で,不徹底に終わった。
門田
かどた @@@LINK=門田 門田

門田
かどた

古代〜中世の屋敷地に付属する耕地
「もんでん」とも読み,の内・土居ともいう。の場合は門畠。『万葉集』にもみえるが,中世でも門田は重要視された。武士の門田は事実上年貢課役を免除されており,家族や下人に耕作させたり,名子・被官に永小作的に耕作させた。
門百姓
かどびゃくしょう @@@LINK=門百姓 門百姓

門百姓
かどびゃくしょう

室町〜江戸時代の隷属小農民
門・門屋・家人・家抱・庭子などと呼ばれた。親方百姓の屋敷付属地の門小屋や貸屋に住んで,代々親方に隷属した。
角屋七郎兵衛
かどやしちろべえ @@@LINK=角屋七郎兵衛 角屋七郎兵衛

角屋七郎兵衛
かどやしちろべえ

1610〜72
江戸前期の海外貿易家
伊勢(三重県)松坂の廻船問屋七郎次郎秀持の孫。字 (あざな) は栄吉。1631年アンナンに渡航し,鎖国政策の強化にもかかわらずアンナンに滞留し,巨商として活躍した。日本町の頭領をつとめ,30余年異郷にあって客死した。

香取神宮
かとりじんぐう @@@LINK=香取神宮 香取神宮

香取神宮
かとりじんぐう

千葉県佐原市にある神社。祭神は武神の経津主 (ふつぬし) 命
8世紀後半,藤原氏の氏神となり,鹿島の神とともに大和春日神社に祭られ中央神となった。鎌倉時代以降は東国武士の信仰をうけ,武神・軍神として崇敬された。
楫取魚彦
かとりなひこ @@@LINK=楫取魚彦 楫取魚彦

楫取魚彦
かとりなひこ

1723〜82
江戸中期の国学者・歌人
下総(千葉県)の人。43歳で江戸に出て賀茂真淵 (まぶち) の隣に住み,朝夕,真淵について国学や「万葉ぶり」の歌風を学んだ。歴史的仮名づかいの研究『古言梯 (こげんてい) 』の学問的業績は高く評価されている。

門割制度
かどわりせいど @@@LINK=門割制度 門割制度

門割制度
かどわりせいど

江戸時代,薩摩藩で行われた土地制度
門 (かど) は薩摩藩村落構造の基をなし,15〜60歳の成年男子を家部 (かぶ) に組織し,数家部で一門を形成した。門は代表者名頭 (みようず) と名子 (なご) からなり,耕地(門高)を名頭が名子に配当し,貢納・夫役を負担した。耕地は3〜8年の定期割替制をとり,藩全体の門割は全藩検地の際行った。
仮名
かな @@@LINK=仮名 仮名

仮名
かな

漢字(真名 (まな) )をもとにしてつくられた表音文字
日本に固有の文字はなかったが,漢字伝来後,その音・訓を使って国語を表す万葉仮名ができた。平安時代にはこれを草書体にした草仮名,さらに書きくずした平仮名がつくられ,貴族・女性の間で発達し,国文学の隆盛をもたらした。一方,万葉仮名のや旁 (つくり) を簡略化したのが片仮名で,漢文訓読の際の符号から生まれた。
家内手工業
かないしゅこうぎょう @@@LINK=家内手工業 家内手工業

家内手工業
かないしゅこうぎょう

家族労働力による手工業
当初の自給自足段階から商品流通発展につれて商品生産を目的とした。江戸中期,問屋商業資本支配下に置かれ,問屋制家内工業形態に発展し,事実上の賃金労働となった。
金井延
かないのぶる @@@LINK=金井延 金井延

金井延
かないのぶる

1865〜1933
明治・大正前期の経済学者
遠江(静岡県)の生まれ。東大卒業後,1886〜90年ドイツに留学。帰国後東大教授となる。ドイツ流の社会政策学を日本に紹介し,社会政策学界の創立に尽力した。主著に『社会政策汎論』『社会問題』『社会経済学』など。

仮名垣魯文
かながきろぶん @@@LINK=仮名垣魯文 仮名垣魯文

仮名垣魯文
かながきろぶん

1829〜94
幕末・明治初期の戯作 (げさく) 者
本名は野崎文蔵。江戸の生まれ。皮相な文明開化の世相を風刺し,『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋 (あぐらなべ) 』などの滑稽本を書いた。

神奈川
かながわ @@@LINK=神奈川 神奈川

神奈川
かながわ

現在の横浜市神奈川区内
江戸時代は東海道の要衝。宿駅として発達した。1854年日米和親条約(神奈川条約)の調印地で,日米修好通商条約により'59年7月4日開港されたが,幕府は日本人とのトラブルを警戒して開港場を,街道を離れた横浜に変更した。
神奈川条約
かながわじょうやく @@@LINK=神奈川条約 神奈川条約

神奈川条約
かながわじょうやく

日米和親条約
金沢
かなざわ @@@LINK=金沢 金沢

金沢
かなざわ

①石川県中央部にある県庁所在地加賀藩102万石の城下町として発展した
②武蔵国金沢。現在の横浜市金沢区
1471年一向宗徒の道場(御山 (おやま) 御坊)の寺内町から出発。1580年一向宗徒を討った佐久間盛政が同地に尾山城築城,'83年前田利家が封ぜられ北陸随一の城下町に発展,以後金沢と称した。九谷焼・大樋 (おおひ) ・桐火鉢・金箔加賀象嵌 (ぞうがん) ・加賀友禅などの名産地。明治維新後は士族授産による絹織物紡織なども盛んとなる。太平洋戦争中は非戦災都市で,現在北陸地方の中心都市。1889年市制施行。
正しくは「かねさわ」と読む。北条実時 (さねとき) の称名寺,金沢文庫があり,景勝金沢八景としても有名。
金沢藩
かなざわはん @@@LINK=金沢藩 金沢藩

金沢藩
かなざわはん

加賀藩
仮名草子
かなぞうし @@@LINK=仮名草子 仮名草子

仮名草子
かなぞうし

江戸初期,浮世草子以前のとして京都で発刊された小説類
平易な擬古文による仮名で書かれ,娯楽・教訓・軍記・啓蒙・地理・評判記などに至るまでの広範囲な文学。代表作に『信長記』『太閤記』(軍記),『恨之介』『薄雪物語』(小説),『可笑記』(随筆),『堪忍記』『賢女物語』(教訓),『浮世物語』(道中記)など。
仮名手本忠臣蔵
かなでほんちゅうしんぐら @@@LINK=仮名手本忠臣蔵 仮名手本忠臣蔵

仮名手本忠臣蔵
かなでほんちゅうしんぐら

江戸中期,竹田出雲・三好松洛・並木千柳らの合作による時代物浄瑠璃
1748年,大坂竹本座の初演。赤穂義士事件を素材とし,時代を室町時代におきかえ,全11段で構成した。筋の展開や人物設定にすぐれ,各段ごとに見せ場があり,大好評を博した。歌舞伎でも上演され,演出上のくふうがこらされ,数多い上演を通してますますねりあげられ,日本人の心をとらえる名狂言として上演回数は数えきれない。
金森宗和
かなもりそうわ @@@LINK=金森宗和 金森宗和

金森宗和
かなもりそうわ

1584〜1656
江戸前期の武将・茶人
飛驒(岐阜県)高山城主金森可重 (ありしげ) の長男。本名は重近,入道して宗和と称した。京都で公家と交わり茶道に精進。千利休とその子道安の流れをくむ宗和流を開創した。

蟹工船
かにこうせん @@@LINK=蟹工船 蟹工船

蟹工船
かにこうせん

昭和初期,小林多喜二の小説
1929年発表。プロレタリア文学の代表作。オホーツク海で操業する蟹工船を舞台とし,帝国海軍を後楯として徹底的に搾取する資本家側,これにストライキをもって対抗し,しかも敗れる労働者の戦いを描く。
鍛冶部
かぬちべ @@@LINK=鍛冶部 鍛冶部

鍛冶部
かぬちべ

大和政権に所属した部民の一つ
大和政権の武器および農工具の鍛造をとして代々世襲。韓鍛冶部 (からのかぬちべ) は朝鮮系の新技術をもった部で,特にすぐれていた。
金子堅太郎
かねこけんたろう @@@LINK=金子堅太郎 金子堅太郎

金子堅太郎
かねこけんたろう

1853〜1942
明治〜昭和期の政治家
福岡藩出身。明治初年,藩留学生として渡米し法律学を学ぶ。帰国後元老院大書記官に就任。伊藤博文のもとで井上毅・伊東巳代治らと大日本帝国憲法起草に尽力。のち伊藤内閣の農商務相・法相,枢密顧問官などを歴任した。

金沢顕時
かねさわあきとき @@@LINK=金沢顕時 金沢顕時

金沢顕時
かねさわあきとき

北条顕時
金沢実時
かねさわさねとき @@@LINK=金沢実時 金沢実時

金沢実時
かねさわさねとき

北条実時
金沢文庫
かねさわぶんこ @@@LINK=金沢文庫 金沢文庫

金沢文庫
かねさわぶんこ

横浜市金沢区にある中世の図書館
鎌倉中期,北条実時が設立し,称名寺の住持歴代管理した。中世の和漢の書籍を蔵し,関東の学問の中心をなす。宋・元の書籍を多数所蔵し,講義も行われ金沢学校とも称された。現在は県立資料館として一般に公開されている。
懐良親王
かねよししんのう @@@LINK=懐良親王 懐良親王

懐良親王
かねよししんのう

1329〜83
南北朝時代の皇族
後醍醐 (ごだいご) 天皇の皇子。南北朝の内乱で1338年南朝の征西大将軍に任命され,四国から九州に渡り,南朝軍を指揮して足利軍と交戦,肥後の菊池・阿蘇両氏らに支持されて '61年から10年間大宰府 (だざいふ) を中心に全九州を統一した。これに対して足利氏は九州探題として渋川氏,さらに今川了俊(貞世)を派遣。了俊に圧迫されて筑後矢部の奥地で没した。

狩野永徳
かのうえいとく @@@LINK=狩野永徳 狩野永徳

狩野永徳
かのうえいとく

1543〜90
安土桃山時代の狩野派画家
元信の孫。織田信長・豊臣秀吉に仕え,安土城・聚楽第 (じゆらくだい) ・大坂城などの障壁画に腕をふるった。豪快な金地極彩色の画風を創造し,狩野派全盛の基礎を築いた。代表作に宮内庁蔵『唐獅子図屛風』など。

狩野山楽
かのうさんらく @@@LINK=狩野山楽 狩野山楽

狩野山楽
かのうさんらく

1559〜1635
安土桃山〜江戸時代初期の狩野派画家。京狩野の祖
近江(滋賀県)蒲生 (がもう) の人。狩野永徳に学び,豊臣氏の絵師として活躍。障壁画に傑作が多く装飾性にすぐれ,人物鳥獣の動的表現を得意とした。代表作に西村家蔵『鷙鳥 (しちよう) 図屛風』など。

嘉納治五郎
かのうじごろう @@@LINK=嘉納治五郎 嘉納治五郎

嘉納治五郎
かのうじごろう

1860〜1938
明治〜昭和期の教育者・柔道家
摂津(兵庫県)の生まれ。東大卒。1882年講道館を設立し,従来の柔術に体育と道徳を加味した講道館柔道の普及に尽力。一高・東京高師(のちの東京教育大学)校長などを歴任し,1911年日本体育協会を創設。日本スポーツの国際的振興につとめた。

狩野探幽
かのうたんゆう @@@LINK=狩野探幽 狩野探幽

狩野探幽
かのうたんゆう

1602〜74
江戸前期の狩野派画家。狩野派中興の祖
永徳の孫。江戸幕府の奥絵師に召され,狩野派を新時代の武家社会に適するようにし,300年にわたる狩野派繁栄の基を固めた。代表作に名古屋城・二条城・大徳寺などの障壁画や『東照大権現縁起絵巻』など。

狩野派
かのうは @@@LINK=狩野派 狩野派

狩野派
かのうは

室町中期から明治時代に及ぶ日本画壇最大の流派
金碧濃彩と水墨を融合し,障壁装飾画や風俗画に新機軸を示す。常に武家政権と結び正統派として画壇に君臨した。狩野正信を始祖として元信・永徳・探幽らによって大成。江戸時代に探幽ら一門が幕府や諸大名の御用絵師となり地位が安定すると,画風は形式化した。
狩野芳崖
かのうほうがい @@@LINK=狩野芳崖 狩野芳崖

狩野芳崖
かのうほうがい

1828〜88
明治前期の日本画家
長州(山口県)の人。江戸で狩野雅信に学ぶ。フェノロサに見いだされ,橋本雅邦とともに日本画の復興に努力。狩野派の厳格な筆法に洋画の色彩美をとり入れた。また東京美術学校創設に奔走。絶筆『悲母観音』は傑作として知られる。

狩野正信
かのうまさのぶ @@@LINK=狩野正信 狩野正信

狩野正信
かのうまさのぶ

1434〜1530
室町中期の画家。狩野派の始祖
伊豆の人。武家出身。画法を小栗宗湛に学び,足利将軍家の絵師となる。それまでの宋元画風の唐絵から脱して日本的唐絵をつくり,狩野派の基礎を確立した。代表作に『周茂叔愛蓮図』『崖下布袋図 (がいかほていず) 』など。

狩野元信
かのうもとのぶ @@@LINK=狩野元信 狩野元信

狩野元信
かのうもとのぶ

1476〜1559
室町末期の画家。狩野派の大成者
正信の長男。唐絵の画法に大和絵の技法をとり入れ力強い装飾的画風を創造。これが武家社会に迎えられ,狩野派発展のもととなった。代表作に大徳寺大仙院蔵『花鳥図』,妙心寺霊雲院蔵『山水花鳥図』など。

加波山事件
かばさんじけん @@@LINK=加波山事件 加波山事件

加波山事件
かばさんじけん

1884(明治17)年,茨城県加波山でおこった自由民権運動の激化事件
栃木県令を兼任した福島県令三島通庸 (みちつね) の民権運動圧迫に抗し,両県の青年自由党員は三島と政府高官の暗殺を企てたが失敗。同年9月,16名が茨城県加波山頂に集まり,専制政府打倒・立憲政体樹立を叫んで警察署を襲撃したが鎮圧され,死刑7名を出した。

かばね @@@LINK=姓 姓


かばね

古代氏族の称号で,大和政権における政治的地位を示す名称
臣 (おみ) ・連 (むらじ) ・君・直 (あたい) ・首 (おびと) ・忌寸 (いみき) など30数種に分かれ,臣・連の中の有力者が大臣 (おおおみ) ・大連 (おおむらじ) として国政に参与した。684年天武天皇は八色の姓 (やくさのかばね) を定めて豪族の統制をはかった。
樺山資紀
かばやますけのり @@@LINK=樺山資紀 樺山資紀

樺山資紀
かばやますけのり

1837〜1922
明治・大正時代の海軍軍人・政治家
薩摩藩出身。第1次山県有朋内閣,第1次松方正義内閣海軍大臣。第2議会で民党が予算案に大削減を加え,軍艦建造費・製鉄所設立費を全額否決したのに対して行った,樺山の海軍と薩長藩閥の功績をたたえた,いわゆる「蛮勇演説」は有名である。

甲比丹
カピタン @@@LINK=甲比丹 甲比丹

甲比丹
カピタン

江戸時代のオランダ商館長のこと
ポルトガル語のcapitão(長)による。鎖国以前は,ポルトガルイギリスの商館長も指した。多く1年交代で来任し,1633〜1850年までほぼ毎年江戸参府を行い,将軍謁見。またオランダ船の入港ごとに『オランダ風説書』を幕府に提出した。
歌舞伎
かぶき @@@LINK=歌舞伎 歌舞伎

歌舞伎
かぶき

江戸時代に成立した日本独特の演劇
「かぶき」とは非常識で異様なふるまいや風俗を示す語「傾 (かぶ) く」が転じたもの。出雲阿国 (おくに) が京都で念仏踊阿国歌舞伎)を演じてから,女歌舞伎,ついで若衆歌舞伎が流行したが,いずれも風俗紊乱を理由に禁止された。その後野郎歌舞伎がおこり,それまでの容色中心から伎芸と脚本を中心とする演劇として発達し,元禄期(1688〜1704)にいちおう完成した。以後人形浄瑠璃の脚本・演出や長唄・常磐津などの音曲をとり入れ,1800年ころまでに大成。幕末に爛熟期を迎えたが,近代に入り古典化して現代に至る。
歌舞伎十八番
かぶきじゅうはちばん @@@LINK=歌舞伎十八番 歌舞伎十八番

歌舞伎十八番
かぶきじゅうはちばん

歌舞伎の当たり狂言十八種
1840年,7世市川団十郎が市川家の当たり狂言を18種選定したことに始まる。不破 (ふわ) ・鳴神 (なるかみ) ・暫 (しばらく) ・不動・嫐 (うわなり) ・象引・勧進帳・助六・押戻・外郎売 (ういろううり) ・矢の根・関羽 (かんう) ・景清 (かげきよ) ・七つ面・毛抜・解脱 (げだつ) ・蛇柳 (じややなぎ) ・鎌髭 (かまひげ) の18種をいう。
かぶき者
かぶきもの @@@LINK=かぶき者 かぶき者

かぶき者
かぶきもの

江戸初期の旗本奴町奴
異様な風体をして歩き「かぶく」(傾く)といわれたのでこの名がある。幕府の封建的風俗統制への挑戦・反発であるとも考えられる。
家父長制
かふちょうせい @@@LINK=家父長制 家父長制

家父長制
かふちょうせい

家父長の強い権力で家族を支配統制する家族形態
原始社会から古代社会への移行期に,男子が農業生産において決定的優位を占めたことが発生原因となった。日本でも古代の支配原理とされ,政治・社会全体に強く存在した。封建時代に家父長制小家族が確立。一夫多妻制・祖先崇拝などを伴った。明治憲法下でも道徳の基本理念とされ,家族国家観形成の基盤となった。
株仲間
かぶなかま @@@LINK=株仲間 株仲間

株仲間
かぶなかま

江戸時代,幕府・諸藩が許可した商工業者の同業組合
「株」とは営業権の。冥加金 (みようがきん) を上納して,同業者の数を制限し,市場独占・競争防止・価格協定などの特権を得て,利益擁護をはかった。仲間内で規約を定め,行事・年寄・取締らの役員を選出し,会所で寄合を開き,統制した。商工業者の私的な仲間は江戸初期から存在したが,幕府は公認せず,享保の改革で初めて商業統制を目的として認めたのをはじめ,田沼時代には財政政策上多数を認めた。1841年天保の改革で解散を命じられたが '51年再興された。明治維新後の'72年廃止。大坂の二十四組問屋,江戸の十組問屋などが有名。
鏑木清方
かぶらぎきよかた @@@LINK=鏑木清方 鏑木清方

鏑木清方
かぶらぎきよかた

1878〜1972
明治〜昭和期の日本画家
東京の生まれ。浮世絵師水野年方に学ぶ。新聞・雑誌に挿絵を執筆,風俗画の芸術性を高め,気品ある美人画を描いた。また明治風俗の描写でも第一人者で,1954年文化勲章受章。代表作に『築地明石町』『三遊亭円朝像』など。

壁書
かべがき @@@LINK=壁書 壁書

壁書
かべがき

室町・戦国時代,幕府・守護大名が発布した法令の呼び名
「へきしょ」とも読む。書 (おきてがき) ・条目・法度 (はつと) と内容は同じ。公布の際,木や紙などに書いて殿中の壁などに張り出したのでその名がある。室町幕府の『政所 (まんどころ) 壁書』,戦国大名大内氏の『大内家壁書』,豊臣秀吉の『大坂城壁書』などが有名。
家法
かほう @@@LINK=家法 家法

家法
かほう

分国法
釜石鉱山
かまいしこうざん @@@LINK=釜石鉱山 釜石鉱山

釜石鉱山
かまいしこうざん

岩手県釜石市にある鉄鉱山
享保年間(1716〜36)に発見され,1829(文政12)年以来採掘幕末,日本最初の洋式高炉による精錬を始めた。'74年明治政府の官有となり,官営釜石製鉄所が設立された。のち田中長兵衛に払い下げられ,ついで三井の経営となった。
釜石製鉄所
かまいしせいてつじょ @@@LINK=釜石製鉄所 釜石製鉄所

釜石製鉄所
かまいしせいてつじょ

明治初期,岩手県釜石市に設立された官営工場
1856年南部藩士大島高任 (たかとう) の開発に始まる。'57年日本最初の洋式高炉を完成し操業開始。明治維新後の'74年,官営工場の釜石製鉄所となる。'87年民間に払い下げられ,その後三井の経営となったが,現在は新日本製鉄の経営。
鎌倉
かまくら @@@LINK=鎌倉 鎌倉

鎌倉
かまくら

神奈川県三浦半島基部にあり,相模湾に面した都市。鎌倉幕府の所在地
源頼義が,八幡宮を勧請して以来源氏ゆかりが深く,1180年源頼朝は要害地形に着目してここを根拠地とした。1333年鎌倉幕府滅亡まで武家政治の中心地として繁栄室町時代には,足利基氏とその子孫鎌倉公方として居住。1455年足利成氏が古河 (こが) に出奔してから政治都市としての生命は衰えた。近世以降は観光地として発展。1939年市制施行。
鎌倉公方
かまくらくぼう @@@LINK=鎌倉公方 鎌倉公方

鎌倉公方
かまくらくぼう

室町時代,鎌倉府の長官
鎌倉御所・鎌倉殿ともいう。1349年足利尊氏の4男基氏が,兄義詮 (よしあきら) の上洛後,関東の主として鎌倉に入ってから,以後その子孫が世襲し,1455年成氏が古河 (こが) に移るまでの鎌倉府の長官をいう。また執事の上杉氏を関東管領とした。成氏からは古河公方という。
鎌倉五山
かまくらござん @@@LINK=鎌倉五山 鎌倉五山

鎌倉五山
かまくらござん

鎌倉にある建長・円覚・寿福・浄智・浄妙の5禅寺
五山制度は南宋寺格制度を移入したもので,禅宗寺院最高の寺格。鎌倉末期に北条氏により鎌倉中心の五山制度が制定されたらしいが寺名は不明。建武新政京都中心の五山ができたが,京都・鎌倉を混合し,序列もしばしば変動して,1386年に至り,将軍足利義満のとき,上記のように鎌倉五山の序列が確立した。
鎌倉時代
かまくらじだい @@@LINK=鎌倉時代 鎌倉時代

鎌倉時代
かまくらじだい

源頼朝の鎌倉幕府創設から1333年幕府滅亡までの約150年間
成立期には諸説ある。武家政権が初めて成立した時代で,従来の私的な主従関係が公的に認められ封建制度が成立した。しかし鎌倉政権は多くの面で荘園制に寄生し古代的性格を持っていたが,やがて地頭らが荘園を侵略し荘園の解体を促し領主化していった。政治面では,初め公武2政権の二重支配であったが,承久の乱(1221)後,北条氏の執権政治のもとに武家政権の優位が確立された。経済面では,農業・手工業の発達が商業・交通・都市の発展を促し,特に座・問丸 (といまる) ・市場などが発達した。文化の面では,素朴で写実的・動的な武家文化が形成され,特に軍記物・新仏教の興隆や美術工芸の新傾向などみるべきものが多い。
鎌倉将軍府
かまくらしょうぐんふ @@@LINK=鎌倉将軍府 鎌倉将軍府

鎌倉将軍府
かまくらしょうぐんふ

建武新政府の地方行政組織
1333年,相模国守足利直義 (ただよし) が後醍醐 (ごだいご) 天皇の皇子成良 (なりよし) 親王を奉じて,鎌倉に下向。関東10カ国の統制にあたる。'35年中先代の乱で北条時行 (ときゆき) に攻められ,直義は親王とともに駿河に逃げた。
鎌倉大仏
かまくらだいぶつ @@@LINK=鎌倉大仏 鎌倉大仏

鎌倉大仏
かまくらだいぶつ

鎌倉市長谷の高徳院にある鎌倉時代の阿弥陀如来坐像
国宝。高さ約11m ,奈良大仏につぐ大きさ。金銅像で1252年に鋳造を始めた。仏殿は14・15世紀と2度の災厄で失われ,露座のまま今日に至る。
鎌倉殿
かまくらどの @@@LINK=鎌倉殿 鎌倉殿

鎌倉殿
かまくらどの

鎌倉幕府の首長の尊称
ふつう源頼朝をさす。室町時代には鎌倉府長官をさした。
鎌倉幕府
かまくらばくふ @@@LINK=鎌倉幕府 鎌倉幕府

鎌倉幕府
かまくらばくふ

源頼朝が相模国鎌倉に創立した最初の武家政権
成立時期は1183年頼朝が東国沙汰権を認められたとき,'85年守護・地頭設置の勅許を得たとき,'92年頼朝が征夷大将軍に任命されたときなど諸説がある。初期の中央政治機関として政所 (まんどころ) (はじめ公文所)・侍所 (さむらいどころ) ・問注所 (もんちゆうじよ) がある。源氏将軍は3代で滅び,以後摂家将軍2代・宮将軍4代が続くが,政治的実権は執権となった北条氏が握った。承久の乱に勝利し公家を圧倒し武家政権を確立。御成敗式目を制定し,連署・評定衆 (ひようじようしゆう) ・引付衆 (ひきつけしゆう) を設置して合議体制を制度化した。のち元寇による御家人の窮乏化と得宗 (とくそう) 専制への移行に伴う政治的混乱により,反幕府勢力が後醍醐 (ごだいご) 天皇の討幕計画に参加したので,幕府は1333年滅亡した。
鎌倉番役
かまくらばんやく @@@LINK=鎌倉番役 鎌倉番役

鎌倉番役
かまくらばんやく

鎌倉時代,幕府の御家人役の一つ
御家人が侍所などに属し,順番で宿直・警備などに奉仕する諸役。廂 (ひさし) ・学問所・問見参・昼・近習・御格子などの諸番および大番役があった。なかでも幕府の警備と諸門の守護にあたった鎌倉大番役は最も重視された。将軍源頼朝のとき,関東番役と称していたが,4代将軍九条頼経のころ京都大番役にならって鎌倉大番役とし,勤番の規定も設けられた。
鎌倉府
かまくらふ @@@LINK=鎌倉府 鎌倉府

鎌倉府
かまくらふ

室町幕府の地方職名で,東国支配のため鎌倉に置いた政庁
足利尊氏は関東が鎌倉幕府以来武家政権の根拠地であることを重視し,初め弟直義 (ただよし) を,ついで義詮 (よしあきら) を鎌倉に置いたが,1349年基氏を義詮と交代させた。以後氏満・満兼・持氏と基氏の子孫が継承したが,永享の乱(1438〜39)で衰え,有名無実化した。鎌倉府の長官を鎌倉公方といい,上杉氏が関東管領職を世襲した。相模・武蔵・安房 (あわ) ・上総・下総・常陸 (ひたち) ・上野 (こうずけ) ・下野 (しもつけ) ・甲斐・伊豆の10カ国を支配。
鎌倉仏教
かまくらぶっきょう @@@LINK=鎌倉仏教 鎌倉仏教

鎌倉仏教
かまくらぶっきょう

平安末期から鎌倉初期にかけておこった各宗派の仏教をいう
宗派別にあげれば,浄土教系のものとして,法然を開祖とする浄土宗,親鸞に始まる浄土真宗(一向宗),一遍の創始した時宗 (じしゆう) があり,宋から伝えられた禅宗系統には,栄西による臨済宗,道元による曹洞宗があり,ほかに日蓮の唱えた日蓮宗(法華宗)がある。この時代には,旧仏教の腐敗,末法思想の影響,社会不安・政治的混乱の中から新しい仏教が要求されたのであり,したがって新仏教の特色は,難解な学問・造寺造仏・寺領寄進・戒律などを不要とし,念仏・題目・坐禅などのたやすい方法で,万人が仏の救いにあずかり得ることを説いた点にあり,前代の貴族仏教に対し,より民衆化した。
鎌倉文化
かまくらぶんか @@@LINK=鎌倉文化 鎌倉文化

鎌倉文化
かまくらぶんか

鎌倉時代の文化
公武2政権の並存から武家政権確立への時代相を反映して,初めは京都の公家文化が中心をなしていたが,文化創造の原動力を提供したのは武士といってもよく,しかもしだいに武士は公家文化と宋文化を摂取しつつ独自の武家文化を創造していった。まず宗教では法然・親鸞・日蓮・栄西・道元・一遍らの新仏教が庶民の間に興隆し,旧仏教の復興運動もおこった。和歌では藤原定家らの『新古今和歌集』や西行・源実朝などの歌集がある。平安時代以来の説話集・紀行文などに注目すべき作品が生まれ,また『平治物語』『平家物語』などこの時代の特色を示す軍記物も多い。美術工芸面でも動的・写実的・剛健な気風が作品に現れ,寺院建築では大仏様・禅宗様などの新様式が輸入され,仏像彫刻の運慶・湛慶らの慶派はすぐれた作品を残した。絵画では絵巻物が流行し,また似絵 (にせえ) と呼ばれる肖像画や肖像彫刻など新しい動きがあった。

かみ @@@LINK=紙 紙


かみ

書写・印刷などのための主材料
世界史的には,後漢の蔡倫 (さいりん) が織物のくずなどを用いてつくったのが最初とされるが,日本には610年高句麗の僧曇徴 (どんちよう) が製紙法を伝えたといわれる。古代においては生産量は少なく,ほとんどが写経の料紙に用いられ,一部が貴族の筆写あるいは戸籍簿の用に供せられたようである。中世では,播磨(兵庫県)の杉原紙,越前(福井県)の鳥の子紙をはじめ美濃紙・奈良紙などが知られ,生産販売の座が結成された例もある。近世になると需要が高まり,奉書・檀紙・鳥の子・美濃紙・塵紙・障子紙などが多くつくられ,越前と土佐(高知県)が最大の産地であった。諸藩も殖産興業の一環として奨励したので,全国的に楮 (こうぞ) ・三椏 (みつまた) が栽培され,冬から春にかけて農閑期の作業として紙すきが行われた。1874(明治7)年に始まる洋紙の製造に押されて従来の手すきによる和紙は衰えたが,伝統的文化財として見直されている。
長官
かみ @@@LINK=長官 長官

長官
かみ

律令制下,四等官制の第1位。
神風
かみかぜ @@@LINK=神風 神風

神風
かみかぜ

神の威力によりおこるという風
蒙古襲来にあたって,文永・弘安の両役とも,たまたま暴風雨によって,敵船が退却した。この時期は,神国思想が急速に広まっていたので,この国難を除いたのは,伊勢の神による神風のおかげだと考えるようになり,後世に強く影響した。
上方
かみがた @@@LINK=上方 上方

上方
かみがた

京都を中心として広く畿内地方を呼んだ地理的名称
江戸時代に,関東に対し,三河(愛知県)以西を上方と称した。江戸と対比した意味では京都・大坂をさし,地理的意義のみならず,独自の文化相・経済力を包含するに至った。
上下
かみしも @@@LINK=上下 上下

上下
かみしも

安土桃山時代以来の略礼服
「裃」とも書く。武家・民間で着用。肩衣 (かたぎぬ) と袴 (はかま) 。室町時代の身分の低い武士の大礼服素襖袴 (すおうばかま) の袖を略し,袴を細くしたもの。江戸幕府では直垂 (ひたたれ) ・狩衣 (かりぎぬ) ・大紋 (だいもん) ・素襖が大礼服で,肩衣袴すなわち上下は中礼服であった。長袴を正式,半袴を略式とした。
神谷寿貞
かみやじゅてい @@@LINK=神谷寿貞 神谷寿貞

神谷寿貞
かみやじゅてい

生没年不詳
戦国時代,博多の貿易商人
石見 (いわみ) 銀山を開発した。また,朝鮮から灰吹 (はいふき) 法を導入したとされる。
神屋宗湛
かみやそうたん @@@LINK=神屋宗湛 神屋宗湛

神屋宗湛
かみやそうたん

1553〜1635
安土桃山〜江戸時代初期の豪商・茶人
石見(島根県)石見 (いわみ) 銀山の開発者寿貞 (じゆてい) の。博多の人。豊臣秀吉・徳川家康の保護をうけ朱印船貿易巨利を得,朝鮮出兵に際し補給輸送を担当した。黒田孝高 (よしたか) と親交し,茶道では千利休・津田宗及らと交友があった。
神日本磐余彦天皇
かむやまといわれひこのすめらみこと @@@LINK=神日本磐余彦天皇 神日本磐余彦天皇

神日本磐余彦天皇
かむやまといわれひこのすめらみこと

神武天皇
亀井玆矩
かめいこれのり @@@LINK=亀井玆矩 亀井玆矩

亀井玆矩
かめいこれのり

1557〜1612
安土桃山時代の武将・外様大名
出雲(島根県)の尼子氏に属し,のち織田信長豊臣秀吉に仕えた。1581年因幡 (いなば) (鳥取県)鹿野城主。秀吉に琉球守,ついで台州守を願い許された。関ケ原戦い(1600)では東軍に参加し,因幡3万8000石に封ぜられた。
亀戸事件
かめいどじけん @@@LINK=亀戸事件 亀戸事件

亀戸事件
かめいどじけん

1923年,関東大震災の混乱の中でおこった労働者虐殺事件
平沢計七・川合義虎ら労働組合活動家10名が,東京亀戸警察署内で,憲兵隊の兵士に虐殺された。大震災戒厳令を利用しての左翼運動弾圧事件の一つ。
亀ケ岡式土器
かめがおかしきどき @@@LINK=亀ケ岡式土器 亀ケ岡式土器

亀ケ岡式土器
かめがおかしきどき

青森県西津軽郡の亀ケ岡遺跡で発見された縄文時代晩期の土器
東北地方を中心に分布し,複雑な器形と変化に富んだ文様をもつ精巧な土器。
甕棺
かめかん @@@LINK=甕棺 甕棺

甕棺
かめかん

縄文時代晩期から弥生時代後期初頭まで使用された甕形の棺
石や木のをした単棺と,二つの甕の口を合わせた合口 (あわせぐち) 甕棺がある。縄文時代晩期のものは早生児小児などを納めた。弥生時代には北九州に多く分布し,大形化したものが多数で共同墓地を形成する。福岡県の須玖 (すぐ) 岡本遺跡では勾玉 (まがたま) ・管玉・銅剣銅鉾・漢式鏡などが副葬品として発見された。
亀田鵬斎
かめだほうさい @@@LINK=亀田鵬斎 亀田鵬斎

亀田鵬斎
かめだほうさい

1752〜1826
江戸後期の儒学者。折衷派
江戸の人。井上金峨 (きんが) に学び,20余歳で塾を開いた。蘐園学派を排し,朱子学を重んじなかったため,寛政異学の禁で異学者五鬼の第一にあげられた。詩文にすぐれ,書も巧みであった。

亀山天皇
かめやまてんのう @@@LINK=亀山天皇 亀山天皇

亀山天皇
かめやまてんのう

1249〜1305
鎌倉中期の天皇(在位1259〜74)。大覚寺統の祖
後嵯峨天皇の第4皇子。1274年皇子後宇多天皇に譲位し,兄の後深草上皇を抑えて院政を行ったため,のち持明院統との間に両統迭立 (てつりつ) の問題がおこった。'89年出家,深く禅宗に帰依 (きえ) し,'91年離宮を禅寺とした。これがのちに南禅寺となった。

加茂岩倉遺跡
かもいわくらいせき @@@LINK=加茂岩倉遺跡 加茂岩倉遺跡

加茂岩倉遺跡
かもいわくらいせき

島根県大原郡加茂町にある弥生時代中期の青銅器埋納遺跡
1996年,農道工事現場の丘陵斜面から日本最多の銅鐸39点が出土して脚光をあびた。358本の銅剣や銅鐸6個などを出土した荒神谷遺跡は,この遺跡から山を隔てて西北3km余の距離にある。両遺跡から大量の銅鐸・銅剣が出土したことは,弥生時代の青銅製祭器の分布圏を考える上で,出雲地方の重要性を示している。「景初三年」銘のある三角縁神獣鏡などが副葬されていた神原 (かんばら) 神社古墳が,この遺跡から東南2kmほどの距離にあることも注目されている。
蒲生氏郷
がもううじさと @@@LINK=蒲生氏郷 蒲生氏郷

蒲生氏郷
がもううじさと

1556〜95
安土桃山時代の武将
近江(滋賀県)の人。織田信長に仕え,ついで豊臣秀吉に属した。戦功により伊勢(三重県)松坂12万石をうけ,小田原攻めに参加し,陸奥(福島県)会津若松92万石に加増された。またキリシタン大名(洗礼名レオン)としても有名

蒲生君平
がもうくんぺい @@@LINK=蒲生君平 蒲生君平

蒲生君平
がもうくんぺい

1768〜1813
江戸後期の尊王論者・儒者。寛政の三奇人の一人
下野 (しもつけ) (栃木県)の人。藤田幽谷と交わり,水戸学の影響をうけた。天皇陵の荒廃をなげき,全国を踏査して『山陵志』を,また海防の急務を説いて『不恤緯 (ふじゆつい) 』を著した。

賀茂神社
かもじんじゃ @@@LINK=賀茂神社 賀茂神社

賀茂神社
かもじんじゃ

京都市北区上賀茂本山町にある賀茂別雷 (わけいかずち) 神社(上社)と,左京区下鴨泉川町にある賀茂御祖 (みおや) 神社(下社)の総称
上社は賀茂別雷,下社は玉依姫 (たまよりひめ) を祭る。本来は賀茂氏氏神。平安遷都以来,平安京鎮護の神として宮廷の信仰厚く,9世紀以降,未婚の皇女が斎院として奉仕した。「葵 (あおい) 祭」といわれる例祭の賀茂祭や競馬 (くらべうま) で有名。下社本殿は流造 (ながれづくり) といわれ,神社建築史上貴重である。
鹿持雅澄
かもちまさずみ @@@LINK=鹿持雅澄 鹿持雅澄

鹿持雅澄
かもちまさずみ

1791〜1858
江戸後・末期の国学者・歌人
土佐(高知県)の人。賀茂真淵 (まぶち) のあとをうけて,『万葉集古義』(141冊)を著し,近世における万葉研究を大成した。また歌人としても純万葉調で,『山斎集』『千歌のくり言』などがある。

鴨長明
かものちょうめい @@@LINK=鴨長明 鴨長明

鴨長明
かものちょうめい

1153〜1216
平安末期・鎌倉初期の随筆家・歌人
『方丈記』の著者として有名。賀茂神社の神官。のち出家して京都郊外の日野に閑居し,歌・仏の道に親しみみずからを慰めた。著書に随筆的歌論書『無名抄』,家集『鴨長明集』など。

賀茂祭
かものまつり @@@LINK=賀茂祭 賀茂祭

賀茂祭
かものまつり

京都の賀茂神社の例祭
現在は毎年5月15日に挙行を装飾用に使うところから葵祭ともいう。
賀茂真淵
かものまぶち @@@LINK=賀茂真淵 賀茂真淵

賀茂真淵
かものまぶち

1697〜1769
江戸中期の国学者・歌人
号は県主 (あがたぬし) ・県居大人 (あがたいのうし) 。遠江 (とおとうみ) (静岡県)浜松の神官の子。37歳で上京し,荷田春満 (かだのあずままろ) の門で国学を学んだ。春満没後41歳で江戸に出,50歳のとき田安宗武に仕えた。『万葉集』を研究し,『万葉考』『歌意考』『にひまなび』『国意考』などを著し,歌人として「万葉調」を主唱江戸派歌壇の重鎮となった。加藤千蔭・村田春海・本居宣長・荒木田久老 (ひさおゆ) などはその門下。

家紋
かもん @@@LINK=家紋 家紋

家紋
かもん

平安時代が分かれて家を形成したころから,その家の道具・車などに印した
武家の家紋は戦陣の間に,敵味方を区別するために用いた旗印起源とする。江戸時代には,本家分家を示すため小部分の変化によって格式の差を示した。
家門
かもん @@@LINK=家門 家門

家門
かもん

江戸時代,大名の家格の一つ
御家門ともいう。親藩のうち御三家・御三卿以外の大名で,越前と会津の両松平氏などをさす。家格は御三家につぎ,御三卿の上位。
課役
かやく @@@LINK=課役 課役

課役
かやく

①律令制下,班田農民の負担する役
令制では調・庸・雑徭 (ぞうよう) をさす。負担する者を課口 (かこう) といい,年齢により少丁正丁老丁の三つに分けた。
②中世,荘園領主の徴収する公事 (くじ) ,朝廷幕府不定期に課する労役・段銭・棟別銭・兵粮米などをさした。
駕輿丁座
かよちょうざ @@@LINK=駕輿丁座 駕輿丁座

駕輿丁座
かよちょうざ

鎌倉・室町時代,京都の商工業者の座の一つ
四府駕輿丁座ともいう。駕輿丁は左右近衛府・左右兵衛府の四府に属し,天皇の輿 (こし) や神輿をかつぐ者。鎌倉中期以後,課税免除・専売権などの特権を得て,運送業を中心に商業活動を行い,座を組織した。織田信長豊臣秀吉の楽市・楽座制により衰退
伽羅
から @@@LINK=伽羅 伽羅

伽羅
から

古代,朝鮮半島南部にあった小国総称伽耶 (かや) ともいう
古くから日本との関係が深く,4世紀ごろから日本の勢力下に入ったとされる。しかし6世紀中ごろまでに新羅 (しらぎ) によって滅ぼされた。
柄井川柳
からいせんりゅう @@@LINK=柄井川柳 柄井川柳

柄井川柳
からいせんりゅう

1718〜90
江戸中期の川柳の始祖
通称田中八右衛門。号は無名庵。江戸浅草の人。前句付(7・7の下句として前句5・7・5をつける俳諧)の選者として人気を集め,彼の選句だけで10万句もある。その中の名句は『誹風柳多留』に収められている。

唐臼
からうす @@@LINK=唐臼 唐臼

唐臼
からうす

江戸時代の脱穀具
「とううす」とも読む。すり系統の唐臼は,上臼に取り付けた遣木 (やりき) を数人で回し, (もみ) がらをのぞいて玄米にする。寛永初年(16世紀前半)に中国からもたらされ,従来の木の臼より能率がよく,享保(1716〜36)ごろから普及。つき臼系統の唐臼もあり,これは臼の部分を地面にすえ,にあたる部分を足で踏み,脱穀する。
唐絵
からえ @@@LINK=唐絵 唐絵

唐絵
からえ

大和絵に対し,中国様式の絵画
時代によって意味が異なる。平安中期から用いられ,初めは中国画をさしたが,ついで中国画をまねた日本画を意味し,室町時代は水墨画を唐絵と呼び,江戸時代には狩野派作品を唐絵と同義の漢画と呼んだ。
馭戎慨言
ぎょじゅうがいげん @@@LINK=馭戎慨言 馭戎慨言
からおさめのうれたみごと @@@LINK=馭戎慨言 馭戎慨言

馭戎慨言
ぎょじゅうがいげん

江戸後期,本居宣長の国学書
1777年刊。2巻。正しくは「からおさめのうれたみごと」と読む。宣長の古道説を端的に表現したもので,崇神天皇から徳川家康に至る日本と朝鮮・中国との交渉あげ北条時宗豊臣秀吉の毅然たる態度を賞賛し,中国書籍の虚構批判,日本尊重を説いた。

馭戎慨言
からおさめのうれたみごと

ぎょじゅうがいげん
韓鍛冶部
からかぬちべ @@@LINK=韓鍛冶部 韓鍛冶部

韓鍛冶部
からかぬちべ

古代,雑工部の一つ
4〜5世紀に朝鮮半島から渡来し,鉄製武器馬具・農工具を製造した金属技術者の集団。畿内地方に住み,その技術をもって伴造 (とものみやつこ) に率いられ大和政権に仕えた。
唐衣
からぎぬ @@@LINK=唐衣 唐衣

唐衣
からぎぬ

奈良〜室町時代の宮中の女子の服装
女房装束の最上衣で,位階によって材質や色目に差があった。平安時代には女子の礼装として最も基本的なものとなった。
唐草文様
からくさもんよう @@@LINK=唐草文様 唐草文様

唐草文様
からくさもんよう

植物の葉やつる草の形を図案化した文様
その分布範囲はきわめて広く,古代オリエントが起源と考えられ,ギリシア・ローマ時代に大いに栄え,イランアフガニスタン・中央アジアを経由して中国に及んだ。日本には中国から伝来し,飛鳥時代の軒平瓦の文様や工芸・彫刻に使用された。平安時代以前は曲線的,以後絵画的となった。文化伝播の一つの具体例である。
我楽多文庫
がらくたぶんこ @@@LINK=我楽多文庫 我楽多文庫

我楽多文庫
がらくたぶんこ

明治中期,硯友社の機関誌
1885年,尾崎紅葉・山田美妙らによって始められた。純文学同人誌先駆となったが,'89年終刊。
唐古・鍵遺跡
からこ・かぎいせき @@@LINK=唐古・鍵遺跡 唐古・鍵遺跡

唐古・鍵遺跡
からこ・かぎいせき

奈良県磯城 (しき) 郡田原本町にある,弥生時代前期から後期に至る集落遺跡
1937年発掘調査。唐古池を中心とする地域にあり,竪穴住居址や土器のほか,池底の粘土層中より多数の木製農耕具などの植物質遺物を出土し,弥生時代の農耕の実態を究明するのに貢献した。中期の直径400mに及ぶ大環濠も発見されている。
殻竿
からさお @@@LINK=殻竿 殻竿

殻竿
からさお

江戸時代の農具
唐竿」とも書く。竿の先につけた短い竿をまわしながら,地面にひろげた穀類・豆類をたたいてからを除く農具。
唐獅子図屛風
からじしずびょうぶ @@@LINK=唐獅子図屛風 唐獅子図屛風

唐獅子図屛風
からじしずびょうぶ

安土桃山時代狩野永徳の代表作
宮内庁蔵。金碧の六曲屛風に,連れ立って歩む2匹の唐獅子が描かれ,装飾性が強く豪放な画風
烏丸光広
からすまるみつひろ @@@LINK=烏丸光広 烏丸光広

烏丸光広
からすまるみつひろ

1579〜1638
江戸初期の歌人・公家
権大納言に昇進。細川幽斎に歌を学び,歌学の古今伝授をうけた一人で,超俗的な歌風を示し,家集『黄葉和歌集』がある。また能書家としても知られた。

唐津
からつ @@@LINK=唐津 唐津

唐津
からつ

佐賀県東松浦半島南東,唐津湾に面した港湾都市
古来,朝鮮半島への交通要地で,唐船出入の津で「唐津」の名がある。1602年寺沢広高の築城以来城下町として繁栄した。文禄慶長の役以後発達した唐津焼は有名。1932年市制を施行
唐津焼
からつやき @@@LINK=唐津焼 唐津焼

唐津焼
からつやき

佐賀県唐津市周辺で産する陶器
東の瀬戸物に対し,唐津物は西を代表。朝鮮に近く,戦国末期から高麗系の陶工の渡来があったといわれるが,豊臣秀吉の朝鮮出兵後,朝鮮の陶工が渡来,盛況をみた。寺沢広高ら歴代藩主の保護をうけた。
樺太
からふと @@@LINK=樺太 樺太

樺太
からふと

オホーツク海西部,北海道北方にある南北に細長い島
「唐太」とも書く。ロシア語でサハリン。16世紀以降知られるようになる。江戸時代には,松前藩の支配下にあったが,1807年幕府の直轄地となる。'08年間宮林蔵の探検により離島であることを確認,のち松前藩領に復し,さらに再び幕府領になる。明治維新後の '75年,樺太・千島交換条約でロシアに譲渡。その後1905年のポーツマス条約で北緯50度以南を日本が領有し,大泊 (おおどまり) に樺太庁を置き,漁・林業の開発に力を入れたが,ヤルタ協定に基づき,太平洋戦争後,ソ連領に編入された。ソ連邦崩壊後は,ロシア連邦に属している。
樺太・千島交換条約
からふと・ちしまこうかんじょうやく @@@LINK=樺太・千島交換条約 樺太・千島交換条約

樺太・千島交換条約
からふと・ちしまこうかんじょうやく

1875(明治8)年,日本とロシアとの間で調印された国境確定条約
1854年の日露和親条約により,千島は択捉 (えとろふ) ・得撫 (うるつぷ) 両島の間を国境としたが樺太は両国人の雑居・共有であった。明治維新後,開拓使長官黒田清隆の意見により駐露公使榎本武揚 (たけあき) とロシア首相兼外相ゴルチャコフがペテルブルクで調印。これにより日本は樺太を放棄し,千島全島を日本領とした。
樺太・千島探検
からふと・ちしまたんけん @@@LINK=樺太・千島探検 樺太・千島探検

樺太・千島探検
からふと・ちしまたんけん

江戸後期,幕府が行った北辺調査
18世紀後半〜19世紀初めのロシア人の南下・通商要求に対し,幕府は調査団を派遣した。最上徳内・近藤重蔵・間宮林蔵らの業績が有名で,千島列島は得撫 (うるつぷ) 島まで,樺太では対岸沿海州まで探検させた。田沼時代は資源開発,寛政改革以後は海防が目的。伊能忠敬蝦夷 (えぞ) 地測量も海防政策の一環として行われた。
ガラ紡
ガラぼう @@@LINK=ガラ紡 ガラ紡

ガラ紡
ガラぼう

1873年,長野県の臥雲辰致 (がうんたつち) が発明した綿紡績機
音がガラガラいうのでガラ紡という名がついた。1877年の第1回内国勧業博覧会で賞賛を博し,全国に普及。機械紡績の発達で,'80年代末ごろから微した。
唐物
からもの @@@LINK=唐物 唐物

唐物
からもの

中国および諸外国から輸入された舶来品
古代には中国の織物類・香薬類などの輸入品を称したが,江戸時代以来ふつう「とうぶつ」と呼ばれ,中国品以外の西洋外来物をも呼んだ。明治時代はモスリン毛織物などをいう。
伽藍配置
がらんはいち @@@LINK=伽藍配置 伽藍配置

伽藍配置
がらんはいち

仏教寺院の堂塔(伽藍)の配置様式
古代寺院,特に奈良時代までの寺院は,中門・塔・金堂・講堂などの伽藍を一定の様式によって配置していた。塔を中心としてその東・北・西に金堂を置く飛鳥寺式伽藍配置が最も古く,塔・金堂・講堂を一直線に並べる四天王寺式がこれにつぐ。以後法隆寺式・薬師寺式・東大寺式などがあり,時代が下るにつれ,塔の位置が中心から遠ざかる。
ガリオア資金
ガリオアしきん @@@LINK=ガリオア資金 ガリオア資金

ガリオア資金
ガリオアしきん

Government Appropriation for Relief in Occupied Areas Fundの略称。第二次世界大戦後,アメリカによる占領地域救済資金
建設的な経済復興を目的とするエロア資金に対して,占領地の飢餓・疾病・社会不安の除去を目標に食糧・肥料・医薬品などを供給した。対日講和発効(1952)後,同援助資金は「債務」とされ,'63〜'73年にかけて返済された。
狩衣
かりぎぬ @@@LINK=狩衣 狩衣

狩衣
かりぎぬ

平安時代以来の貴族の男子の常用服
もと狩猟のとき着用したことから名づけられた。活動的で色も文様も自由,形式が簡単なため,略装として広く着用された。鎌倉時代には武士の正装とされた。
狩谷棭斎
かりやえきさい @@@LINK=狩谷棭斎 狩谷棭斎

狩谷棭斎
かりやえきさい

1775〜1835
江戸後期の考証学者
江戸の生まれ。25歳のとき,陸奥(青森県)津軽藩の御用商人狩谷家の養子となった。広く和漢の古典に通じ,特に音韻律令制の研究にくわしい。唐書にも通じ,比較考証に定評があった。主著に『古京遺文』『倭名類聚抄箋註 (せんちゆう) 』『本朝度量権衡攷 (こうこう) 』など。

刈分小作
かりわけこさく @@@LINK=刈分小作 刈分小作

刈分小作
かりわけこさく

小作料納入の形式に基づいて分類された小作形態の一種
定められた小作料を収穫後納入するのとは異なり,あらかじめ定められた割合で総収穫高を地主と小作人で分配する方法。土地生産力が不安定な山間僻地に多くみられた。
カルテル
Kartell @@@LINK=カルテル カルテル

カルテル
Kartell

同業者が利益を大きくするために協定を結ぶ企業の連合団体
販売価格・生産制限・販売競争制限などを協定。日本では1880年製紙(所)連合会,'82年紡績連合会を先駆とし,日露戦争後にかなり出現し,第一次世界大戦後に急増。第二次世界大戦中は統制手段とされ,戦後独占禁止法で禁止された。
軽市
かるのいち @@@LINK=軽市 軽市

軽市
かるのいち

奈良県橿原市石川町付近にあった古代の市
大化の改新以後奈良時代にかけて最も繁栄。畝傍 (うねび) 山南部一帯は軽と呼ばれ,古くから開発が進んで集落が発達し,経済的先進地域で市も繁栄した。
枯山水
かれさんすい @@@LINK=枯山水 枯山水

枯山水
かれさんすい

室町時代に始められた庭園様式
「かれせんずい」とも読む。水を用いずに,石でを,白砂で水を表現した庭園で,禅宗の閑寂幽玄のを象徴的に表現したもの。おもに禅宗寺院につくられ,京都大徳寺大仙院や竜安 (りようあん) 寺の庭園などが有名。
家老
かろう @@@LINK=家老 家老

家老
かろう

大名の重臣で,家臣団を統率し,事務を総轄する役職
室町中期以降一般化し,江戸時代には藩主を助けて藩政を執行。員数は藩によって異なるが,数名いて合議制をとるのが常態世襲がふつうであるが,交替制のところもあった。
家禄
かろく @@@LINK=家禄 家禄

家禄
かろく

封建社会において,武士が主人よりうけた給与
その家に固着した俸禄で,世襲が原則。封建制成立期に発生し,太閤検地を経て江戸時代に完備。高禄者は知行取(領地給与),中・下級武士は蔵米取(米穀支給)であった。1876年廃止。
家禄奉還
かろくほうかん @@@LINK=家禄奉還 家禄奉還

家禄奉還
かろくほうかん

秩禄処分
カロン
Francois Caron @@@LINK=カロン カロン

カロン
Francois Caron

1600〜73
江戸初期に来日した平戸のオランダ商館長
ブリュッセルの生まれ。1619年来日して平戸商館につとめ,'39〜41年商館長。この間,浜田弥兵衛の台湾事件で台湾総督ヌイツの釈放に尽力した。滞日20年余,『日本大王国志』を著した。

河合栄治郎
かわいえいじろう @@@LINK=河合栄治郎 河合栄治郎

河合栄治郎
かわいえいじろう

1891〜1944
大正・昭和期の経済学者
東京の生まれ。東大教授。理想主義的哲学の影響で,徹底した自由主義の立場に立ち社会の改良を唱え,マルクス主義とファシズムをともに批判。1938年軍部・右翼団体の攻撃で著書は発禁となり,経済学部内の派閥抗争とからんで翌年休職処分。

川合玉堂
かわいぎょくどう @@@LINK=川合玉堂 川合玉堂

川合玉堂
かわいぎょくどう

1873〜1957
明治〜昭和期の日本画家
愛知県の生まれ。初め幸野楳嶺 (ばいれい) ,のち橋本雅邦に師事。狩野派と四条派の調和の上に日本の自然を詩情豊かに描いた,風景画の新生面開拓,官展日本画の重鎮として活躍した。1940年文化勲章受章。代表作に『行く春』『暮雪』など。

川上音二郎
かわかみおとじろう @@@LINK=川上音二郎 川上音二郎

川上音二郎
かわかみおとじろう

1864〜1911
明治時代の新派劇俳優・興行師
筑前(福岡県)の生まれ。自由党壮士として活躍したが,のち俳優に転向。オッペケペ節で自由民権運動を鼓吹し人気を得た。ついで壮士 (そうし) 芝居を興行。日清戦争に際し戦争劇を上演し,新派劇の基礎を固めた。

河上丈太郎
かわかみじょうたろう @@@LINK=河上丈太郎 河上丈太郎

河上丈太郎
かわかみじょうたろう

1889〜1965
昭和期の革新系政治家
東京の生まれ。関西学院大教授。1928年,第1回普通選挙で日本労農党から衆議院議員に当選。第二次世界大戦後,'51年右派社会党委員長となる。'55年社会党統一後同党顧問,浅沼稲次郎委員長が刺殺されてのち,'61年委員長に就任。'65年病気で辞任後死去した。

川上操六
かわかみそうろく @@@LINK=川上操六 川上操六

川上操六
かわかみそうろく

1848〜99
明治時代の軍人
陸軍大将。薩摩藩出身。佐賀・西南戦争に従軍。1884年欧米の兵制を視察し,翌年参謀次長となる。'86年再度渡欧し,ドイツにならって参謀本部の拡充,陸軍の近代化に尽力した。日清戦争では大本営参謀をつとめ,'98年参謀総長となった。

河上肇
かわかみはじめ @@@LINK=河上肇 河上肇

河上肇
かわかみはじめ

1879〜1946
大正・昭和期のマルクス主義経済学者
山口県の生まれ。東大卒。1905年『読売新聞』紙上に「社会主義評論」を連載,のち京都大学に迎えられ教授となる。'19年『社会問題研究』を刊行。しだいにマルクス主義の実践運動に入り三・一五事件('28)で京大を追われ,'29年新労農党結成に参加。「32年テーゼ」を翻訳し,日本共産党に入党したが,'33年検挙,非転向を貫いたが,獄中で引退を声明した。出獄後は自叙伝などの執筆に余生を送った。主著に『貧乏物語』『経済学大綱』など。

川上眉山
かわかみびざん @@@LINK=川上眉山 川上眉山

川上眉山
かわかみびざん

1869〜1908
明治時代の小説家
本名は亮 (あきら) 。大阪の生まれ。東大文科を中退し,硯友社に加入して活躍。のち『文学界』同人に接近,深刻な観念小説を書いたが,自然主義文学の興隆期に行きづまって自殺した。主著に『書記官』『観音岩』など。

河越の戦い
かわごえのたたかい @@@LINK=河越の戦い 河越の戦い

河越の戦い
かわごえのたたかい

1545年,武蔵国河越(埼玉県川越市)で行われた後北条氏上杉氏戦い(〜'46)
勢力の回復をはかる山内上杉憲政 (のりまさ) が扇谷 (おうぎがやつ) 上杉朝定 (ともさだ) と結び古河公方 (こがくぼう) 足利晴氏と通じて大軍河越城を攻めたが,北条氏康大敗。朝定は戦死した。この結果,両上杉氏の勢力はまったく衰え,後北条氏が関東の覇権を握った。
川崎造船所
かわさきぞうせんじょ @@@LINK=川崎造船所 川崎造船所

川崎造船所
かわさきぞうせんじょ

明治時代以来,長崎造船所と並ぶ代表的造船所
加賀藩の設立した七尾工場に始まり,のち工場の機械を兵庫に移し加州製鉄所と称し小蒸気船を製造した。1872年工部省に移管。'86年川崎正蔵に貸与,翌年払い下げられ川崎造船所となった。1939年川崎重工業と改称し,今日に至る。
川路聖謨
かわじとしあきら @@@LINK=川路聖謨 川路聖謨

川路聖謨
かわじとしあきら

1801〜68
江戸末期の幕臣
豊後(大分県)の人。1852年勘定奉行兼海防掛となり,ロシア使節プゥチャーチンと長崎で交渉。'54年下田で日露和親条約に調印した。'58年堀田正睦 (ほつたまさよし) に従い上京し,日米修好通商条約の勅許獲得に奔走したが失敗。将軍継嗣問題で一橋派に属していたため,井伊直弼により失脚させられた。'63年外国奉行に起用されたが数か月で辞職,'68年江戸開城の翌日ピストル自殺した。

川路利良
かわじとしよし @@@LINK=川路利良 川路利良

川路利良
かわじとしよし

1834〜79
明治初期の官僚。近代的警察制度の創始者
薩摩藩出身。大久保利通の腹心の部下。戊辰 (ぼしん) 戦争に参加。1872年イギリス・フランスに渡り警察制度を研究し,帰国後,彼の建議により警察を司法省より内務省に移管。'74年警視庁創設の際,大警視(長官)に就任し治安維持に尽くした。
川島皇子
かわしまのおうじ @@@LINK=川島皇子 川島皇子

川島皇子
かわしまのおうじ

657〜691
天智天皇の皇子
681年天武天皇の命で刑部 (おさかべ) 親王らと『帝紀』を編纂した。『万葉集』『懐風藻』に作品がある。

為替
かわせ @@@LINK=為替 為替

為替
かわせ

現金を用いず手形で送金および貸借を決済する方法
「かわし」とも読む。鎌倉中期から行われ,替銭 (かえせん(かえぜに)) ・替米 (かえまい) の両者を通じて「かわし」といわれた。江戸時代にはほとんど現在と同様な形式を備え,大坂〜江戸間(江戸為替)が最も盛んで,京都〜大坂間(京為替),そのほか大坂・江戸を中心に各地との間で行われた。両替屋飛脚問屋が中心となり運営された。
為替会社
かわせがいしゃ @@@LINK=為替会社 為替会社

為替会社
かわせがいしゃ

明治初期,政府の保護監督のもとに設立された金融機関
1869年,通商司の管轄下に,政府資金と政商の資本で設立。東京・大阪をはじめ全国8か所に置かれ,同時に設立された通商会社に対する資金貸付け・為替業務を行った。近代的銀行の先駆として民間金融の発展に貢献したが,'72年国立銀行条例公布により解散。
河竹黙阿弥
かわたけもくあみ @@@LINK=河竹黙阿弥 河竹黙阿弥

河竹黙阿弥
かわたけもくあみ

1816〜93
幕末・明治前期の歌舞伎脚本作者
本名吉村新七。江戸の生まれ。世話物・白浪物に特にすぐれたが,そのほか時代物・散切 (ざんぎり) 物・活歴物など,作品は360編にも及ぶ。代表作に『三人吉三廓初買 (さんにんきちさくるわのはつがい) 』『天衣紛 (くもにまごう) 上野初花』など。

西文氏
かわちのふみうじ @@@LINK=西文氏 西文氏

西文氏
かわちのふみうじ

古代の渡来人系豪族。文筆業務を分担した
王仁 (わに) の子孫と称し,河内国(大阪府)古市郡を本拠とした。文書や記録の作成,徴税出納などの財政・文筆をもって東漢氏 (やまとのあやうじ) とともに大和政権に仕えた。大陸文化の導入に貢献した。
川手
かわて @@@LINK=川手 川手

川手
かわて

①中世,河川に設けられた関銭の一つ
江戸時代小物成の一つ
関銭・津料などと同類
河川からの漁獲物に対する課税
川中島の戦い
かわなかじまのたたかい @@@LINK=川中島の戦い 川中島の戦い

川中島の戦い
かわなかじまのたたかい

戦国末期,甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が,北信濃の千曲 (ちくま) ・犀 (さい) 川の合流点川中島(長野県更級郡東北部)で争った戦い
1553年から'64年にかけて前後5回(53,55,57,61,64)交戦。うち'55年・'61年が激戦で,'61年には謙信・信玄の一騎討ちがあったといわれる。勝敗は決しなかったが,川中島は信玄のものになった。
川端玉章
かわばたぎょくしょう @@@LINK=川端玉章 川端玉章

川端玉章
かわばたぎょくしょう

1842〜1913
明治・大正時代の日本画家
京都の人。円山派の流れをうけ,幕末に江戸に出て一時洋画を勉強,やがて日本画で一家をなす。花鳥画に長じ,写生に基づき謹厳な描線で描いた。東京美術学校教授となり,のち川端画学校を創立,多くの後進の指導にあたった。代表作に『雨後山水図』『墨堤春暁図』など。

川端康成
かわばたやすなり @@@LINK=川端康成 川端康成

川端康成
かわばたやすなり

1899〜1972
大正・昭和期の小説家
大阪の生まれ。東大卒。1924年横光利一らと『文芸時代』を創刊。新感覚派の代表作家として「掌の小説」と名づけた短編形式を追求,伝統的な美に根ざす,叙情性豊かな作品を書いた。'61年文化勲章受章。'68年ノーベル文学賞受賞。'72年自殺。代表作に『伊豆の踊子』『雪国』など。

川端龍子
かわばたりゅうし @@@LINK=川端龍子 川端龍子

川端龍子
かわばたりゅうし

1885〜1966
大正・昭和期の日本画家
本名は昇太郎。和歌山県の生まれ。初め洋画を志したが,渡米後日本画に転向。洋風描写をとり入れた筆致を生かし日本画壇に異彩を放った。1929年青龍社を組織。'59年文化勲章受章。代表作に『慈悲光礼讃』『鳴門』など。

河東碧梧桐
かわひがしへきごとう @@@LINK=河東碧梧桐 河東碧梧桐

河東碧梧桐
かわひがしへきごとう

1873〜1937
明治〜昭和期の俳人
本名は秉五郎 (へいごろう) 。愛媛県の生まれ。高浜虚子とともに正岡子規の高弟。子規没後,虚子が師の写生主義を継承したのに対して,主観主義の新傾向運動を提唱,のち自由律俳句への道を開いた。おもな句集に『新傾向句集』『八年間』など。

河村瑞賢
かわむらずいけん @@@LINK=河村瑞賢 河村瑞賢

河村瑞賢
かわむらずいけん

1618〜99
江戸前期の富豪・土木家
「瑞軒」とも書く。伊勢(三重県)の人。江戸に出て車夫・普請 (ふしん) 人夫頭を経て材木商を営み,1657年明暦の大火に木曽の木材を商って巨利を得,豪商となった。幕命により江戸廻米のための東廻り・西廻り航路を開き,淀川・安治 (あじ) 川・長良 (ながら) 川などの治水事業にも尽力。功により晩年150俵取りの御家人となった。

瓦版
かわらばん @@@LINK=瓦版 瓦版

瓦版
かわらばん

江戸時代の新聞風の出版物
読み売りともいう。街頭で売り歩き,木版の半紙1枚刷で,江戸中期ころに3〜4文したらしい。時々のニュースや三面記事,替歌・はやり唄までのせ,絵入りのものが多い。明治時代,新聞に押されて衰亡
河原者
かわらもの @@@LINK=河原者 河原者

河原者
かわらもの

中世において賤視された人びと
律令国家が解体し生産従事の賤民は荘園などに所属したが,一部は免税の河原に定住したためにこの名称がある。畜殺・細工・造園などに従事し,善阿弥のような造園の名手も出た。遊芸の者も多く,近世では俳優賤称ともなった。

かん @@@LINK=漢 漢


かん

中国の統一王朝
前漢(前202〜後8)と後漢(25〜220)とに分かれる。秦が滅びたのち,高祖(劉邦 (りゆうほう) )が建国。前漢と後漢の間に王莽 (おうもう) が国を奪い新と号した。ついで光武帝が漢王朝を再興。この時代は中国社会の基礎が確立し,中国文明が著しく発展した。1世紀ころ日本の奴国王が朝貢し,「漢委奴国王」の印綬を賜与された。古代日本に与えた影響は大きい。
観阿弥
かんあみ @@@LINK=観阿弥 観阿弥

観阿弥
かんあみ

1333〜84
室町前期の能役者・能作者。観世流の祖
名は清次 (きよつぐ) 。世阿弥の父。伊賀で生まれ,同国小波多 (おばた) で座を結成。のち大和結崎 (ゆうさき) に出て,興福寺・春日神社奉仕。1374年将軍足利義満に見いだされて庇護をうけ,猿楽能発展の機を得る。物まね中心の大和猿楽に曲舞 (くせまい) ・田楽能 (でんがくのう) を加えて能を大成した。

冠位十二階
かんいじゅうにかい @@@LINK=冠位十二階 冠位十二階

冠位十二階
かんいじゅうにかい

推古天皇の603年,聖徳太子により制定された最初の位階制度
徳・仁・礼・信・義・智の6種をそれぞれ大小に分けて12階とし,それぞれに対応する冠の色で識別した。豪族の世襲的地位とは別に,個人の功績と能力に応じて与え,人材登用の道を開いた。施行範囲は畿内にとどまり,蘇我大臣 (おおおみ) のような有力な氏の中にはこれをうけていない者もあり,王権強化をはかる太子の意図は十分には生かされなかった。のち数回の改正を経て律令の位階制へと発展した。
官位相当の制
かんいそうとうのせい @@@LINK=官位相当の制 官位相当の制

官位相当の制
かんいそうとうのせい

律令制人の位階に相当して官職を定める原則
位と官は相当するのが原則であるが,例外的に官が位より低い場合は行 (こう) ,高いときは (しゆ) という。位があって官のない者を散位・無官といった。
閑院宮
かんいんのみや @@@LINK=閑院宮 閑院宮

閑院宮
かんいんのみや

江戸中期に創設された宮家
1710年,東山天皇の第6皇子直仁 (なおひと) 親王(秀宮)のとき創設され,伏見・有栖川 (ありすがわ) ・京極と並び四親王家となった。新井白石が当時皇子・皇女の出家する慣例をよしとせず,将軍徳川家宣に献策したことによるという。
寛永寺
かんえいじ @@@LINK=寛永寺 寛永寺

寛永寺
かんえいじ

東京都台東区上野公園内にある天台宗寺院。山号は東叡山
1625年,僧天海が将軍徳川家光助力を得て,江戸城の鬼門(北東)にあたる忍ケ岡に創建。宮門跡寺院として栄えたが,幕末,彰義隊 (しようぎたい) の戦いで堂舎の多くが焼失した。さらに太平洋戦争空襲をうけ,戦後は寺域の多くが上野公園となった。
官営事業払下げ
かんえいじぎょうはらいさげ @@@LINK=官営事業払下げ 官営事業払下げ

官営事業払下げ
かんえいじぎょうはらいさげ

明治政府による官営模範工場鉱山などの民間払下げ
明治政府はインフレ収束と国立銀行券回収の一環として,1880年工場払下概則を発布し,軍事工場部門を除き,従来財政上欠損になっていた膨大な官営事業を民間に払い下げ,歳入増と歳出縮減の一石二鳥をはかった。極端に安い価格で特定の政商に払い下げ,これらの工場や鉱山がのち財閥の主力工場や鉱山となった。
寛永通宝
かんえいつうほう @@@LINK=寛永通宝 寛永通宝

寛永通宝
かんえいつうほう

江戸時代の代表的銭貨
寛永銭ともいう。江戸初期まで,中世以来の永楽銭その他雑多な銭貨が通用していたので,幕府は,1636(寛永13)年寛永通宝を鋳造発行し,永楽銭その他の使用を禁止し銭貨の統一をはかった。以後各地の銭座で鋳造され,江戸時代の最も日常的貨幣として流通した。銅銭が主であるが,真鍮 (しんちゆう) 銭・鉄銭もある。
官営模範事業
かんえいもはんじぎょう @@@LINK=官営模範事業 官営模範事業

官営模範事業
かんえいもはんじぎょう

明治政府が,欧米近代産業の技術や機械・設備を民間に導入・移植するために実施した政府の近代産業育成事業
明治維新後,まず旧幕府・諸藩の兵器工場・造船所鉱山などを没収して,軍需工場の基礎をつくるとともに,1877年ころまで紡績製糸などの官営工場を設立し,近代産業の移植・育成につとめた。おもなものに,東京および大阪の砲兵工廠横須賀造船所深川セメント製造所品川硝子製造所富岡製糸場など。'80年以降財政政策の転換により,軍事工場部門を除きしだいに民間に払い下げられた。このように日本資本主義は初めから政府の保護によって育成された。
勧学院
かんがくいん @@@LINK=勧学院 勧学院

勧学院
かんがくいん

821年,藤原冬嗣の創設した藤原氏の大学寮学生のための教育機関(大学別曹)
学生はここに寄宿し大学に通い試験に合格して官人となった。藤原氏の氏長者が管理にあたり,学生に種々の財政的援助を与えた。
咸宜園
かんぎえん @@@LINK=咸宜園 咸宜園

咸宜園
かんぎえん

1817年,広瀬淡窓 (たんそう) が豊後国(大分県)日田に創設した私塾
漢学を主として10段階にわけた教育課程,整然とした進級の規定や細かな成績評価の方法は当時最も進んでいたとされている。知識の教授より訓育を重んじ,自治的な塾舎生活が行われた。高野長英・大村益次郎らを輩出した。明治30年(1897)代まで存続した。
勧業銀行
かんぎょうぎんこう @@@LINK=勧業銀行 勧業銀行

勧業銀行
かんぎょうぎんこう

日本勧業銀行」の略称
環境庁
かんきょうちょう @@@LINK=環境庁 環境庁

環境庁
かんきょうちょう

公害の防止や自然環境の保護および整備などを任務とする,総理府の外局として設置された国の行政機関
1971年設立。高度成長期の後半になると公害などの環境問題が多発し,総合的な対応が求められるようになった。長官には国務大臣があてられる。
閑吟集
かんぎんしゅう @@@LINK=閑吟集 閑吟集

閑吟集
かんぎんしゅう

室町後期の歌謡集
1518年刊。編者不詳。当時流行した小歌・大和節(大和猿楽の謡曲の一部が小謡となる)などを集大成したもので,311首を収録。官能的な恋愛を主題としたものが多く,現世肯定的な色彩が強くみられる。当時の庶民の自由な生活や感情を知るのによい史料でもある。
岸駒
がんく @@@LINK=岸駒 岸駒

岸駒
がんく

1756?〜1838
江戸後期の画家。岸 (がん) 派の祖
「きしこま」とも読む。加賀(石川県)金沢の人。朝廷の絵所 (えどころ) に仕え,狩野派や沈南蘋 (しんなんぴん) の作風を研究し独自の写生画を開いた。虎の絵が有名。

菅家文草
かんけぶんそう @@@LINK=菅家文草 菅家文草

菅家文草
かんけぶんそう

平安前期,菅原道真 (みちざね) の漢詩文集
900年刊。12巻。前6巻は詩,後6巻は散文よりなり,醍醐 (だいご) 天皇に献上した。詩文の内容的特徴は高踏的芸術至上主義のものや,民衆生活にふれたものなどがあり,文学者・政治家としての道真の姿をうかがうことができる。
官戸
かんこ @@@LINK=官戸 官戸

官戸
かんこ

律令制下,五色の賤の一つ
官庁の雑役に使役された。宮内省官奴司 (かんぬのつかさ) に属し,戸を構え,口分田が給されたが,収穫米は官に納め,衣服が支給された。良民と奴婢 (ぬひ) との間の出生者,良民の犯罪者,66歳以上の官奴婢などから構成された。
敢語
かんご @@@LINK=敢語 敢語

敢語
かんご

江戸中期,倫理道徳に言及した三浦梅園著書
玄語』『贅語 (ぜいご) 』につづいて三部作をなし,前2書で論じ及ばなかったところを補ったもの。人の言いにくいことを「敢て言う」というところからこの名がある。
勘合
かんごう @@@LINK=勘合 勘合

勘合
かんごう

明国が外国との貿易で海賊船密貿易を防ぐために作製し,シャムをはじめ日本などに与えた割符 (わりふ)
日本の場合,「日本」を2字に分け,紙に「日字壱号」から「日字百号」,「本字壱号」から「本字百号」まで各100道(通)を墨印押し,それぞれ中央から折半して一方を勘合,他を綴って勘合底簿とした。日本には本字勘合と日字底簿があり,日本からの貿易船は本字勘合を携帯して明の底簿と照合し合致すれば正式なものと認められた。同様に明からの船は日字勘合を持参し日本で底簿と照合する。明の改元のたびごとに100通ずつ新旧交換された。
元興寺
がんごうじ @@@LINK=元興寺 元興寺

元興寺
がんごうじ

奈良市芝新屋町にある華厳宗の寺。南都七大寺の一つ
飛鳥寺を718年平城京内に移したもの。新元興寺とも呼ぶ。極楽坊は,坊の一つが独立した真言律宗の寺で,本堂と禅室が鎌倉時代の遺構として現存する。
環濠集落
かんごうしゅうらく @@@LINK=環濠集落 環濠集落

環濠集落
かんごうしゅうらく

周囲をや大きな濠で囲まれた集落
垣内 (かいと) 式村落ともいう。元来,防御のため濠をめぐらした集落で弥生時代初期から出現する。濠は防御のほか灌漑・排水・水運などに利用された。中世以降は,畿内,ことに奈良盆地に多く,ふつう40〜50戸で構成された。
勘合船
かんごうせん @@@LINK=勘合船 勘合船

勘合船
かんごうせん

室町時代の遣明船。勘合を携帯したところからの呼び名
1404年から1547年までの間に17回計84隻が渡航。1432年に10年1貢,船3隻,1隻の乗員300人と規定されたが守られなかった。室町幕府の直営船のほか,大名・寺社船などで編成され,経費は堺・博多などの商人が負担した。応仁の乱(1467〜77)後は,堺商人と結んだ細川氏と博多商人と結んだ大内氏が中心となる。1523年の寧波 (ニンポー) の乱後 '47年まで大内氏が実権を握り,以後廃絶した。
勘合貿易
かんごうぼうえき @@@LINK=勘合貿易 勘合貿易

勘合貿易
かんごうぼうえき

室町時代の日明貿易。勘合を携帯したのでこの名がある
1401年足利義満が,「日本国准三后」と署名し遣明使を派遣,朝貢貿易を開始。'04年明使が勘合とその底簿を持参し,以後幕府の名で派遣された船は勘合を携帯して渡航した。4代将軍義持のとき,国辱的として一時国交を絶ったが,6代将軍義教 (よしのり) から復活。貿易の実権はその後寺院や守護大名の手に握られ,特に応仁の乱(1467〜77)後博多商人と結んだ大内氏,堺商人と結んだ細川氏が争ったが,1523年寧波 (ニンポー) の乱以後,大内氏が独占し,'51年の大内氏滅亡まで続いた。輸出品に銅・硫黄・金・刀剣など,輸入品に銅銭・生糸・絹織物など。
韓国
かんこく @@@LINK=韓国 韓国

韓国
かんこく

①李朝末期の朝鮮の国号(1897〜1910)
日清戦争の結果,清国は朝鮮の独立を承認。この独立の形式をととのえるために,1897年国王(高宗)は皇帝と称し,国号を大韓帝国と改めた。ついで日本およびロシアの韓国をめぐる利権争奪激化。日露戦争開戦後,日本の政治的・経済的・軍事的支配はしだいに強まり,1910年韓国併合によってその名は消滅した。
②「大韓民国」の略称。
韓国統監府
かんこくとうかんふ @@@LINK=韓国統監府 韓国統監府

韓国統監府
かんこくとうかんふ

統監府
韓国併合
かんこくへいごう @@@LINK=韓国併合 韓国併合

韓国併合
かんこくへいごう

1910(明治43)年8月22日調印の韓国併合条約により,韓国を日本の領土としたこと
朝鮮と改称。日露戦争末期の桂‐タフト協定,第2次日英同盟,ポーツマス条約によりアメリカ・イギリスロシアに韓国支配を認めさせた日本は,1905年11月韓国保護条約(第2次日韓協約)で韓国の外交権を奪った。さらにハーグ密使事件契機とし,'07年第3次日韓協約で内政権を奪い,抗日武装蜂起「義兵」を弾圧しつつ(義兵運動),'10年8月韓国併合を完成。朝鮮総督府を置き,陸軍大将寺内正毅 (まさたけ) が初代総督となった。
韓国保護条約
かんこくほごじょうやく @@@LINK=韓国保護条約 韓国保護条約

韓国保護条約
かんこくほごじょうやく

1905(明治38)年に調印された第2次日韓協約のこと
これによって日本は韓国の外交権を接収して保護国とし,漢城(現ソウル)に韓国統監府を設置した。
菅茶山
かんさざん @@@LINK=菅茶山 菅茶山

菅茶山
かんさざん

1748〜1827
江戸後期の儒者・漢詩人
備後(広島県)の人。私塾廉塾を開き,その住居を黄葉夕陽村舎 (こうようせきようそんしや) と称し大いに栄えた。頼山陽も一時籍を置き,塾頭となった。詩も巧みで,服部南郭 (はつとりなんかく) などの五山風の詩を虚飾多く真実味が乏しいと批判。平明・自然・写実的な宋詩風を主とした。

観察使
かんさつし @@@LINK=観察使 観察使

観察使
かんさつし

平安初期の令外官 (りようげのかん) の一つ
806年平城天皇のとき,東山道を除く六道の国司の職務観察のため設置した六道観察使がその起こり。翌年機構を拡大し畿内七道に設置。810年廃止された。
元三大師
がんさんだいし @@@LINK=元三大師 元三大師

元三大師
がんさんだいし

良源
干支
かんし @@@LINK=干支 干支

干支
かんし

「十干十二支」の略。年・月・日・方向にあてはめて用いる
「えと」ともいう。十干はもと太陰暦のひと月を三分し,一旬10日の毎日に甲 (コウ) ・乙 (オツ) ・丙 (ヘイ) ・丁 (テイ) ・戊 (ボ) ・己 (キ) ・庚 (コウ) ・辛 (シン) ・壬 (ジン) ・癸 (キ) のような十字をあて,十二支は一年12か月に子 (シ・ね) ・丑 (チユウ・うし) ・寅 (イン・とら) ・卯 (ボウ・う) ・辰 (シン・たつ) ・巳 (シ・み) ・午 (ゴ・うま) ・未 (ビ・ひつじ) ・申 (シン・さる) ・酉 (ユウ・とり) ・戌 (ジユツ・いぬ) ・亥 (ガイ・い) の文字をあてた。十干と十二支を甲子・乙丑……のように組み合わせて一巡させ,日や年を示す。日本では,年号に先立って6〜7世紀に用いられた。60歳を還暦というのは組合せの一巡からきたものである。
官寺
かんじ @@@LINK=官寺 官寺

官寺
かんじ

政府によって維持経営された寺
私寺に対する名称。7世紀初めの大官大寺(大安寺)に始まり,法隆寺・東大寺・国分寺など,飛鳥・奈良時代は官寺が多かった。天皇の発願による勅願寺もこの系列に入り,中世以後には幕府の保護した寺もこの扱いを受けた。
漢字
かんじ @@@LINK=漢字 漢字

漢字
かんじ

中国で生まれた表意文字
仮名に対して真名 (まな) ともいう。日本に伝来したのは記紀によれば応神天皇16年,百済 (くだら) の王仁 (わに) が『論語』『千字文』を伝えたときという。東漢氏 (やまとのあやうじ) ・西文氏 (かわちのふみうじ) などの渡来人が普及にあたった。現存する日本最古の漢字は熊本県江田船山古墳出土鉄刀銘と埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘で,ともに5世紀ころのものと考えられる。万葉仮名・平仮名・片仮名は漢字をもとにしてつくられた。
乾漆像
かんしつぞう @@@LINK=乾漆像 乾漆像

乾漆像
かんしつぞう

奈良時代に盛行した漆を用いた彫刻像
乾漆を用いてつくった像で,製法にはつぎの2種があった。(1)脱活乾漆…粘土で原型をつくり,その上に漆で麻布を数枚はり重ね,乾燥したのち中の土を脱し去り,本枠を入れる。(2)木心乾漆…木彫で像のあらづくりをし,麻布を漆ではってゆく。いずれも細部は木粉に漆を混ぜて仕上げた。
甘藷
かんしょ @@@LINK=甘藷 甘藷

甘藷
かんしょ

江戸時代の代表的備荒作物
はすでに17世紀に中国福建省から琉球を経て九州など西国に伝播していた。将軍徳川吉宗が深見有隣献言により,西国地方の凶作対策に効果があった甘藷の栽培青木昆陽に命じ,備荒用作物として奨励。以来関東・北陸にも普及した。琉球では唐芋 (からいも) ,九州で琉球芋,その他の地方では薩摩芋とも呼ばれる。
漢書
かんじょ @@@LINK=漢書 漢書

漢書
かんじょ

中国の前漢(前202〜後8)の正史
後漢の班固 (はんこ) (32〜92)の撰,120巻。巻28地理志に倭人の記事がある。1世紀ころの日本が小国に分立していた状態を記しており,これは日本に関する最古の史料
灌頂
かんじょう @@@LINK=灌頂 灌頂

灌頂
かんじょう

密教儀式の一種で,結縁・伝法のときや,仏弟子が一定の地位につくときに行った
元来はインドで国王即位のとき,頭頂に水を注ぐ儀式。日本では,805年最澄が高雄寺 (たかおでら) (神護寺)で行ったのが最初という。
勘定吟味役
かんじょうぎんみやく @@@LINK=勘定吟味役 勘定吟味役

勘定吟味役
かんじょうぎんみやく

江戸幕府の職名
勘定奉行の次の役職として監査の任にあたった。定員4名(のち6名)で内2名は裁判を,2名は代官所の貢租事務を監督した。1682年将軍徳川綱吉のとき創設され,1721年将軍徳川吉宗のとき公事方・勝手方に分離した。
勘定奉行
かんじょうぶぎょう @@@LINK=勘定奉行 勘定奉行

勘定奉行
かんじょうぶぎょう

江戸幕府の職名。三奉行の一つ
幕府財政の管轄と,関八州の天領・私領内の庶民の訴訟を取り扱い,また郡代・代官などを支配して天領の民政を統轄した。1680年以降は道中奉行も兼任。定員は4名で旗本から選任された。1722年,勝手方(財政関係を担当)と公事方(訴訟関係を担当)に分かれた。
官省符荘
かんしょうふしょう @@@LINK=官省符荘 官省符荘

官省符荘
かんしょうふしょう

律令制下,太政官符と民部省符により不輸租,すなわち特権を認められた荘園
9世紀中ごろから始まり,荘園としての特権のうち官省符荘が最も強かった。
環状列石
かんじょうれっせき @@@LINK=環状列石 環状列石

環状列石
かんじょうれっせき

自然石を環状に並べた新石器時代の配石遺構
ストーン‐サークル」の訳語。日本では,縄文時代中期から晩期にかけてつくられ,北海道から東北地方に多く分布する。墓地と考えられているが,太陽の運行との関係も指摘されている。秋田県大湯のものが著名。
官人
かんじん @@@LINK=官人 官人

官人
かんじん

令制下の官吏
位階によって五位以上の上級官人(殿上人 (てんじようびと) )と六位以下の下級官人に分けられた。上級官人はで貴族層を形成し,蔭位 (おんい) や経済的特権をうけ固定化していった。下級官人はおもに地方出身者が採用された。
鑑真
がんじん @@@LINK=鑑真 鑑真

鑑真
がんじん

688〜763
奈良時代に来日した唐僧。律宗の祖
揚州江陽(江蘇省江都県)の人。十数年の苦難ののち,754年に来日。東大寺に日本最初の戒壇を設け聖武上皇以下に授戒した。鑑真によって日本に初めて正式に戒律が伝えられ,律宗ができた。彼の伝えた戒は小乗戒大乗戒をともに含んでいた。唐招提寺は鑑真を開山とする。
観心寺
かんしんじ @@@LINK=観心寺 観心寺

観心寺
かんしんじ

大阪府河内長野市寺元にある真言宗の寺
奈良時代,役小角 (えんのおづぬ) の創立と伝えられる。9世紀初頭に空海が再興。南北朝時代には南朝と関係が深かった。本尊の『如意輪観音像』(国宝)は平安初期の密教彫刻の代表作で,豊満な姿態を持つ。一木造で彩色がよく残る。『観心寺勘録縁起資財帳』(国宝)も貴重である。
観心寺様
かんしんじよう @@@LINK=観心寺様 観心寺様

観心寺様
かんしんじよう

鎌倉時代の建築様式の一つ
1334年再建された河内国大阪府)観心寺本堂がその代表例で,和様を主として各所に禅宗様・大仏様をとり入れた,いわゆる折衷様式である。
完新世
かんしんせい @@@LINK=完新世 完新世

完新世
かんしんせい

地質学上,新生代後半の時代で,約1万年前から現在までをさす
沖積世ともいう。第4間氷期に続き,河川などの運搬した砂礫粘土によって沖積層が形成された時期で,日本では,その初期から縄文文化が展開したとされている。
鑑真和上像
がんじんわじょうぞう @@@LINK=鑑真和上像 鑑真和上像

鑑真和上像
がんじんわじょうぞう

天平時代の代表的乾漆
唐僧鑑真の肖像彫刻で,唐招提寺御影堂にある。6月6日の開山忌開扉。鑑真死去(763)の直前に製作された可能性があり,わが国に現存する最古肖像
寛政異学の禁
かんせいいがくのきん @@@LINK=寛政異学の禁 寛政異学の禁

寛政異学の禁
かんせいいがくのきん

江戸後期,寛政の改革の一環として行われた学問統制令
1790(寛政2)年,老中松平定信が林大学頭(信敬)に下命。朱子学を正学,他を異学とし,聖堂での異学の教育を禁止した。当時古学派・折衷学派が隆盛し,朱子学は不振のため,官学(=朱子学)を擁護し,幕吏養成機関としての自覚をうながすために行われたものである。教授陣も林家以外に柴野栗山・岡田寒泉らを加えて強化し,'97年には聖堂を官立の昌平坂学問所とした。幕吏登用試験は朱子学に限定され,また諸藩の藩校でもこれにならい異学を禁ずるものも多く,禁令の影響は大きかった。しかし朱子学隆盛は表面的なもので終わってしまった。
関税自主権
かんぜいじしゅけん @@@LINK=関税自主権 関税自主権

関税自主権
かんぜいじしゅけん

国家が自主的に関税率を決定できる権利
近代国家間では相互に認め合うのがふつうであるが,幕末に欧米諸国と結んだ修好通商条約では日本に自主権がなく,その回復は,領事裁判権撤廃とともに明治外交の中心的課題であった。この交渉は何度かの失敗ののち,1911(明治44)年小村寿太郎外相の改正交渉で成功した。
寛政重修諸家譜
かんせいちょうしゅうしょかふ @@@LINK=寛政重修諸家譜 寛政重修諸家譜

寛政重修諸家譜
かんせいちょうしゅうしょかふ

江戸後期,幕府編纂による武家系図
1520巻。編者は屋代弘賢 (やしろひろかた) ら60余人。『寛永諸家系図伝』の続集として14年を費やし1812年完成。諸大名以下幕臣・御目見以上の諸氏の系図・略歴を記録した。
寛政の改革
かんせいのかいかく @@@LINK=寛政の改革 寛政の改革

寛政の改革
かんせいのかいかく

江戸後期,11代将軍徳川家斉の初世,老中松平定信が担当した幕政の改革(1787〜93)
定信は田沼時代に続き天明の飢饉による幕政動揺に非常な決意をもって就任,享保の改革を理想に財政再建・農村復興をはかった。まず農民の出稼ぎを禁じ,社倉・義倉を設け,囲米 (かこいまい) を命じた。江戸では町費節約の七分金積立(七分積金),人足寄場の設立を実施。また倹約令・風俗矯正・出版統制などをきびしくした。武士には文武をすすめ,棄捐令 (きえんれい) で旗本・御家人の負債を整理,寛政異学の禁で朱子学の振興をはかった。さらにロシア船の接近に対し,海岸防備を主張する林子平を幕政批判で処分したが,みずから伊豆・相模などの巡視も行った。こうして幕政は緊張し財政面でも一時回復したが,その緊縮政策は将軍側近の反感をかい,1793年尊号一件を機に在職7年で引退。しかし,その後も改革の気運は19世紀初期まで継続した。
寛政の三奇人
かんせいのさんきじん @@@LINK=寛政の三奇人 寛政の三奇人

寛政の三奇人
かんせいのさんきじん

江戸後期,林子平・高山彦九郎・蒲生君平の3人をさす。
寛政の三博士
かんせいのさんはかせ @@@LINK=寛政の三博士 寛政の三博士

寛政の三博士
かんせいのさんはかせ

江戸後期,幕府の教学政策の中心となった3人の朱子学者
柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里(または岡田寒泉)の3人をいう。老中松平定信は寛政異学の禁を実行するため彼らを湯島聖堂の儒官とし,朱子学による学問・思想の統制を行った。
寛政暦
かんせいれき @@@LINK=寛政暦 寛政暦

寛政暦
かんせいれき

江戸後期に改正された暦
従来の宝暦暦は誤差が大きかったので,高橋至時 (よしとき) ・間重富 (はざましげとみ) に改正させた。清の暦を参考にして作成。1798年より1842年天保暦が制定されるまで使用された。
観世音寺
かんぜおんじ @@@LINK=観世音寺 観世音寺

観世音寺
かんぜおんじ

福岡県太宰府市にある天台宗の寺
天智天皇の勅願に基づき創建され,746年に完成。761年には戒壇院がつくられた。東大寺・下野 (しもつけ) 薬師寺と並ぶ「天下の三戒壇」の一つで,正式なとなるにはこれらの三寺のいずれかで受戒しなければならなかった。
観世座
かんぜざ @@@LINK=観世座 観世座

観世座
かんぜざ

能楽の一流派
名称は創始者観阿弥清次の幼名観世丸によるという。もと大和結崎 (ゆうさき) で大和四座の一つ。1374年将軍足利義満の保護をうけ発展。つぎの世阿弥を大成した。のち豊臣秀吉のとき,一時金春 (こんぱる) 座に勢力を奪われたが,徳川家康が保護し四座の筆頭となり今日に至る。
神田青物市
かんだあおものいち @@@LINK=神田青物市 神田青物市

神田青物市
かんだあおものいち

江戸時代,江戸神田に設けられた野菜市場
江戸初期より始まる。関西信州・北陸・東北をはじめ蝦夷地北海道方面青果物までここに集荷され,江戸府内に売られた。18世紀以降,青物の幕府御用を命じられ,拡大発展した。現在の青果市場(東京都大田市場)の前身
貫高
かんだか @@@LINK=貫高 貫高

貫高
かんだか

室町時代,銭に換算した年貢収納量により所領の広さを示したもの
鎌倉末期以降,貨幣経済が進展し,年貢の銭納(分銭 (ぶんせん) )が広まるにつれ,銭で納める年貢の額(〇貫〇〇匁 (もんめ) )で土地の広狭やねうちを表すようになり,これを貫高という。おもに関東地方で行われた。貫高は貢納高で,年貢率の相違などにより何反何歩とは換算できない。また桃山・江戸時代に用いられた石高は収穫高を基準としたもの。
神田孝平
かんだたかひら @@@LINK=神田孝平 神田孝平

神田孝平
かんだたかひら

1830〜98
明治初期の開明的官僚・啓蒙思想家
美濃(岐阜県)の生まれ。蘭学を学び幕府の蕃書調所教授となる。明治新政府に招かれ,兵庫県令・元老院議官などを歴任。特に彼の地租改正建議は新税法への先駆的提唱であった。また明六社に参加し,啓蒙活動を行った。

上達部
かんだちめ @@@LINK=上達部 上達部

上達部
かんだちめ

公卿の異称で,三位以上の殿上人をいう
参議は四位であってもこれに含まれた。
ガンダーラ美術
ガンダーラびじゅつ @@@LINK=ガンダーラ美術 ガンダーラ美術

ガンダーラ美術
ガンダーラびじゅつ

紀元前後から数世紀にわたりインド北西部ガンダーラ地方に発達したヘレニズム風の仏教美術
この芸術は西域から中国に伝播して雲崗 (うんこう) などの仏教芸術を生み,日本の飛鳥文化にも強い影響を与えた。
勘仲記
かんちゅうき @@@LINK=勘仲記 勘仲記

勘仲記
かんちゅうき

鎌倉後期,勘解由小路 (かでのこうじ) 藤原兼仲の日記
『兼仲卿記』ともいう。1275年から1300年にわたるが,欠失部分も多い。荘園関係・元寇をはじめ,持明院・大覚寺両統迭立 (てつりつ) をめぐる記事などをおさめた重要史料。
官展
かんてん @@@LINK=官展 官展

官展
かんてん

政府主催の展覧会。➡ 文展
官田
かんでん @@@LINK=官田 官田

官田
かんでん

①律令制下,天皇の供御田 (くごでん)
②平安前期,畿内に置かれた政府直営田
大化以前の屯田 (みた) の系統。宮内省管轄の直営田で,耕作には農民の雑徭をあてた。大和・摂津・河内・山城に計100町歩あった。
879年位禄季禄にあてるため,4000町歩を設定した。
勘当
かんどう @@@LINK=勘当 勘当

勘当
かんどう

親族・主従・師弟などの間柄を上位者側から断絶する行為
親が子を勘当すると,子の債務,犯罪の連帯責任を免がれ,子は家督・財産相続権を失う法律的効力をもった。中世以来武家社会で行われ,近世では庶民間にも行われた。
貫頭衣
かんとうい @@@LINK=貫頭衣 貫頭衣

貫頭衣
かんとうい

原始時代の衣服の一つ
幅の広い長い布を二つに折り,折り目の中央に穴をあけ,これに頭を通して着る簡略な女性用の衣服。『魏志』倭人伝に記されている。
関東御公事
かんとうおんくじ @@@LINK=関東御公事 関東御公事

関東御公事
かんとうおんくじ

鎌倉幕府が御家人に課した諸役
「かんとうみくじ」とも読む。御家人役のうち,主として経済的な課役をいい,幕府の修造・儀式・篝屋 (かがりや) などの用途にあてられた。御家人の所領を対象として課せられ,幕府財政の基礎をなした。
関東管領
かんとうかんれい @@@LINK=関東管領 関東管領

関東管領
かんとうかんれい

室町幕府の地方職名
足利尊氏は関東10カ国を統轄する政庁として鎌倉府を設けて,足利基氏を鎌倉公方 (くぼう) とし,上杉憲顕 (のりあき) を執事として補佐役に任じたが,この執事を関東管領と呼び,上杉氏が世襲した。1438年永享の乱で鎌倉公方足利持氏が将軍義教 (よしのり) にそむいて滅び,その子成氏が下総古河 (こが) に移ってからは管領家が鎌倉公方をしのぎ関東の実権を握った。戦国時代に上杉憲政 (のりまさ) は後北条氏に追われて越後にのがれ,家名と管領職を家臣の長尾景虎(上杉謙信)に譲ったが,管領職はすでに有名無実化し,のち消滅した。
関東公方
かんとうくぼう @@@LINK=関東公方 関東公方

関東公方
かんとうくぼう

鎌倉公方
関東軍
かんとうぐん @@@LINK=関東軍 関東軍

関東軍
かんとうぐん

満州(中国東北地方)に駐留した日本の陸軍部隊
日露戦争で獲得した南満州鉄道・遼東半島租借地(関東州)の守備隊であったが,1919年関東都督府が関東庁に改編された際,関東軍として独立。兵力は当初1個師団余であったが,政府の統制を無視して満州事変をおこし,兵力も漸次増強した。司令部は初め旅順,事変後長春(新京)に移された。日本の満州進出の急先鋒となり,満州国建国後は満州全土の軍事力の中核となったが,'45年8月,ソ連の参戦により壊滅した。
関東郡代
かんとうぐんだい @@@LINK=関東郡代 関東郡代

関東郡代
かんとうぐんだい

江戸時代の職名
上野 (こうずけ) (群馬県)・下野 (しもつけ) (栃木県)を除く関東6カ国の天領を支配し,徴税・訴訟・民政にあたった。勘定奉行,のち老中に所属。伊奈氏が世襲したが,18世紀末職を免ぜられ,勘定奉行が兼務した。のち一時廃止されたが,幕末に復活し,3名で分担した。支配区域の最高は石高100万石をこえたこともあり郡代中の別格であった。
関東軍特種演習
かんとうぐんとくしゅえんしゅう @@@LINK=関東軍特種演習 関東軍特種演習

関東軍特種演習
かんとうぐんとくしゅえんしゅう

1941年6月独ソ開戦に際し,翌月満州国境において関東軍が行った大演習
略称「関特演 (かんとくえん) 」。兵力70万,馬14万頭,飛行機600機の大規模な,演習を名目とした軍事行動日ソ中立条約締結中の日本がドイツ軍と協同して対ソ戦を予想して準備したもの。
関東御口入地
かんとうごくにゅうち @@@LINK=関東御口入地 関東御口入地

関東御口入地
かんとうごくにゅうち

鎌倉幕府国司荘園領主と交渉して,御家人地頭などに推薦口入)し,任できた土地
任命権は国司・領主にあるが,実質的には幕府が所領を与えたことと同じ効果をもつ。幕府は御家人が不当に所職を改替された場合は,御家人の権利を保護した。また正当に改替された場合もそのあとにはほかの御家人を補任し,幕府勢力の維持・拡大につとめた。
関東御成敗式目
かんとうごせいばいしきもく @@@LINK=関東御成敗式目 関東御成敗式目

関東御成敗式目
かんとうごせいばいしきもく

御成敗式目
関東御成敗地
かんとうごせいばいち @@@LINK=関東御成敗地 関東御成敗地

関東御成敗地
かんとうごせいばいち

鎌倉幕府支配下にある土地の総称
関東御領関東御分国関東進止所領のほか,関東御口入地をも含めていう。
関東御分国
かんとうごぶんこく @@@LINK=関東御分国 関東御分国

関東御分国
かんとうごぶんこく

鎌倉時代,将軍家の知行国
関東知行国ともいう。国数は一定しないが,1186(文治2)年には相模・武蔵・伊豆・駿河・上総・下総・信濃・越後・豊後の9カ国,のち陸奥・出羽も加えられた。御分国では,御家人が国司に任命され幕府の命に従って国務を行う。形式的には幕府の奏薦により朝廷が国司を任し,官命あるときは朝廷から幕府に対して出される。幕府は分国に対し領主的地位にあった。
関東御領
かんとうごりょう @@@LINK=関東御領 関東御領

関東御領
かんとうごりょう

鎌倉幕府の将軍を領主とする荘園所領
主として平家没官領や承久の乱(1221)後の没収地などで,御家人に対してその荘園所職を恩給した。関東御分国とともに,幕府の経済的基盤をなした。
関東州
かんとうしゅう @@@LINK=関東州 関東州

関東州
かんとうしゅう

1905〜45年までの満州遼東半島南端の日本租借地
遼東半島は日清戦争で清国より割譲されたが,三国干渉で返還。日露戦争後,ポーツマス条約によりロシアの旅順・大連を含む関東州の租借権を継承した。1915年,租借期間を99年に延長。日本の大陸進出の前進基地であったが,敗戦後,中国に返還された。
関東進止所領
かんとうしんししょりょう @@@LINK=関東進止所領 関東進止所領

関東進止所領
かんとうしんししょりょう

鎌倉幕府将軍がその御家人御恩によって給付した所領・所職。
関東大震災
かんとうだいしんさい @@@LINK=関東大震災 関東大震災

関東大震災
かんとうだいしんさい

1923年9月1日,関東地方南部・静岡県・山梨県を襲った地震と直後の火災
震源地は相模湾北西部。東京・神奈川・千葉南部の被害が特に著しく,家屋の全焼・全壊70万余戸,罹災者総数340万余,死者・行方不明14万人余にも及んだ。山本権兵衛内閣は戒厳令をしいて混乱収拾に努力したが震災恐慌にみまわれた。一方,人心の不安が高まる中で甘粕事件・亀戸事件・朝鮮人虐殺事件などがひきおこされた。
関東庁
かんとうちょう @@@LINK=関東庁 関東庁

関東庁
かんとうちょう

関東州の統治機関
1919年関東都督府を廃止し,旅順に設置。満州事変後,'34年に廃止。
関東都督府
かんとうととくふ @@@LINK=関東都督府 関東都督府

関東都督府
かんとうととくふ

日露戦争後の1906年,旅順に設置された関東州統治機関
長官都督といい,陸軍大将・中将から任命され,駐屯軍司令官を兼任外務大臣の監督下に置かれた。1919年関東都督は廃止され,行政担当の関東庁と軍事担当の関東軍分離・独立した。'34年からは関東軍司令官が長官と駐満大使を兼任することになった。
関東取締出役
かんとうとりしまりしゅつやく @@@LINK=関東取締出役 関東取締出役

関東取締出役
かんとうとりしまりしゅつやく

江戸幕府の職名
1805年新設され,上野 (こうずけ) ・下野 (しもつけ) ・下総武蔵を中心に関東農村の犯罪を取り締まった。関東には小領地が分立しているのを利し,利根川筋などに犯罪が頻発したのに対し,広域の警察権をもたせたもの。関東の代官の部下から選び,2人1組で4組が巡回。勘定奉行に属し,「八州廻り」とも呼ばれた。
関東ローム層
かんとうロームそう @@@LINK=関東ローム層 関東ローム層

関東ローム層
かんとうロームそう

関東地方の台地をおおって分布する赤褐色の砂質粘土層
更新世末期,富士・赤城・榛名山などの火山活動により,火山灰が多量に堆積して形成されたもの。武蔵野台地では数十mの厚さに及ぶ。群馬県岩宿のローム層中から打製石器が発見されて,一躍クローズアップされた。
観応の擾乱
かんのうのじょうらん @@@LINK=観応の擾乱 観応の擾乱

観応の擾乱
かんのうのじょうらん

1350(観応元)年,足利尊氏が弟直義 (ただよし) と対立したことから起こった室町政権の分裂と全国的内乱(〜'52)
1350年直義は尊氏の執事高師直 (こうのもろなお) 征討のため南朝に降伏し,'51年師直一族を殺し,尊氏といったん和睦した。まもなく両者が対立し,直義は北陸を経て鎌倉に逃げ,逆に尊氏が南朝に降伏して鎌倉に入り,'52年直義を毒殺した。この幕府上層部との対立の原因は複雑であるが,守護勢力の動揺交代がみられ,武士階級が相互に力を弱めた結果,南朝の反撃許し,室町政権の統一を遅らせることになった。
漢委奴国王印
かんのわのなのこくおういん @@@LINK=漢委奴国王印 漢委奴国王印

漢委奴国王印
かんのわのなのこくおういん

1784(天明4)年,福岡県の志賀島から発見された金印
方約2.3㎝,総高2.2㎝,重さ108.73gの純金で,農民により発掘された。『後漢書』東夷伝に記載されている,57年光武帝が奴国王の朝貢に対し授与した印と推定される。文字の形式などから後世の偽物とする説もあるが,文献と遺物の一致した例と考えてよい。
観音信仰
かんのんしんこう @@@LINK=観音信仰 観音信仰

観音信仰
かんのんしんこう

観音観世音菩薩)を信仰して救われたり現世利益を得ようとする信仰
聖徳太子の救世観音(➡ 法隆寺以後広く信仰され現在に及んでいる。平安時代には長谷寺清水寺 (きよみずでら) などをはじめ西国三十三か所札所ができ最も盛んであった。鎌倉時代には杉本寺をはじめとする坂東札所が,室町時代には秩父札所ができた。
関白
かんぱく @@@LINK=関白 関白

関白
かんぱく

天皇を補佐し,政務全般を行う官職。令外官 (りようげのかん) の一つ
実質は摂政 (せつしよう) と変わらないが,天皇成人後に政務を担当する場合にいう。884年光孝天皇即位に際し,藤原基経がその任についたのに始まる。関白の称は,887年宇多天皇が基経に下した詔に初見。10世紀以後江戸末期まで藤原氏が摂政・関白を独占し,藤原氏以外で関白となったのは豊臣秀吉・秀次の2人だけである。また前関白を太閤という。
蒲原有明
かんばらありあけ @@@LINK=蒲原有明 蒲原有明

蒲原有明
かんばらありあけ

1875〜1952
明治時代の詩人
東京の生まれ。初め新体詩集『草わかば』を出し,やがて象徴詩を開拓。『春鳥集』『有明集』で近代象徴詩を確立し,薄田泣菫 (すすきだきゆうきん) と並称された。大正以後は文壇から遠ざかった。

寛平大宝
かんぴょうたいほう @@@LINK=寛平大宝 寛平大宝

寛平大宝
かんぴょうたいほう

皇朝十二銭の一つ
890〜907年まで通用
寛平御遺誡
かんぴょうのごゆいかい @@@LINK=寛平御遺誡 寛平御遺誡

寛平御遺誡
かんぴょうのごゆいかい

897(寛平9)年,宇多天皇が幼少の醍醐 (だいご) 天皇に譲位するときに与えた訓誡
天皇としての心得・学問,政務上の注意事項や藤原時平・菅原道真ら臣下へのなどからなる。以来天皇の金科玉条とされた。一部散逸する。
神戸
かんべ @@@LINK=神戸 神戸
じんこ @@@LINK=神戸 神戸

神戸
かんべ

律令制下,神社に属し,その経済を支えた戸
「じんこ」とも読む。神社に与えられた封戸 (ふこ) の一つで,租・庸・調を神社におさめ,神社の神職である祝部 (はふりべ) が選されるほか,軽い雑役にも従事した。

神戸
じんこ

かんべ
官幣社・国幣社
かんぺいしゃ・こくへいしゃ @@@LINK=官幣社・国幣社 官幣社・国幣社

官幣社・国幣社
かんぺいしゃ・こくへいしゃ

国家神道時代の神社の社格
律令時代には,幣帛 (へいはく) を神祇官より奉るものを官幣社国司より奉るものを国幣社といった。明治時代以降,神道に国家的保護が加えられてから,神社を官社と諸社に区別,さらに官社を官幣社・国幣社とし,それぞれ大・中・小社分け,これ以外に別格官幣社を設けた。官幣社は神祇官のちに宮内省,国幣社は地方官(知事)が祭った。第二次世界大戦後,神社が国家管理を離れてからこの制度は廃止された。
桓武天皇
かんむてんのう @@@LINK=桓武天皇 桓武天皇

桓武天皇
かんむてんのう

737〜806
平安初期の天皇(在位781〜806)
光仁天皇第1皇子。仏教政治の弊害を除くため,平城京から長岡京を経て,794年平安遷都を行った。最澄・空海の新仏教を保護し,律令制を再建するため,班田収授制を励行,勘解由使 (かげゆし) を設けて国司の監督を強化し,辺要の地を除いて軍団を廃し,健児 (こんでい) を置いた。また坂上田村麻呂を起用して蝦夷 (えみし) 征討を行った。

桓武平氏
かんむへいし @@@LINK=桓武平氏 桓武平氏

桓武平氏
かんむへいし

桓武天皇の賜皇子子孫
葛原 (かづらはら) 親王流(のち高棟王流と高望王 (たかもちおう) 流に分かれる)・賀陽 (かや) 親王流・万多 (まんだ) 親王流・仲野親王流の4流あるが,高望王の子孫が武家として栄えた。平氏全盛を築いたのは伊勢平氏の正盛・忠盛・清盛3代で,その滅亡後は頼盛の子孫のみが宮廷貴族として残った。北条三浦和田梶原土肥畠山千葉・河越などの東国諸氏も平氏の流れであるが,平安末期以来源氏と関係が深く,鎌倉幕府御家人として幕府の中枢で活躍した。
看聞御記
かんもんぎょき @@@LINK=看聞御記 看聞御記

看聞御記
かんもんぎょき

室町中期,伏見宮貞成 (さだふさ) 親王の日記
看聞日記』ともいう。親王は後花園天皇の父,諡号 (しごう) を後崇光院という。1416年から'48年に至る朝廷出来事および室町幕府の諸事象が記述され,自筆本が現存する。この時代の基本史料として重要。『続群書類従』に収録されている。
関門トンネル
かんもんトンネル @@@LINK=関門トンネル 関門トンネル

関門トンネル
かんもんトンネル

山口県下関市と,北九州市門司地区を結ぶ海底トンネル
産業経済の発達による輸送力増強と,軍事的要請のため,1936年より突貫工事で開始,新技術を駆使して'42年国鉄トンネル下り線3614mを完成,上り線3605mは'40年着工,'44年完成。海底部分は1140m。国道トンネル全長3461m,海底部750mは,'37年に着工し'58年完成した。'78年新幹線用の新関門トンネル完成。
漢冶萍公司
かんやひょうコンス @@@LINK=漢冶萍公司 漢冶萍公司

漢冶萍公司
かんやひょうコンス

1908年に設立された中国の製鉄会社
大冶 (たいや) の鉄,萍郷 (ひようきよう) の石炭を採掘し,漢陽で製鉄を行うもの。日本はこれに巨額の借款を与え,さらに合弁化をはかったが果たされず二十一カ条要求で特権を獲得。1930年八幡製鉄所が全借款を肩代わりして,独占的に鉄鉱を買い占めた。第二次世界大戦後,中国の国営企業となり,現在武漢ウーハン鉄鋼コンビナートとして発展。
管理通貨制度
かんりつうかせいど @@@LINK=管理通貨制度 管理通貨制度

管理通貨制度
かんりつうかせいど

一国の通貨当局が国内通貨を政策的に管理して物価を安定させる通貨制度
1929年の世界恐慌を契機に各国が金本位制度から離脱すると,通貨が不換紙幣となり価値が不安定となったため,通貨を政策的に管理する制度が望ましいとされ,管理通貨制度へ移行した。戦後はIMF(国際通貨基金)が設立されて,ドルを基軸とする国際的な管理通貨制度が確立した。
咸臨丸
かんりんまる @@@LINK=咸臨丸 咸臨丸

咸臨丸
かんりんまる

1860年,日米修好通商条約批准の遣米使節に従い,勝海舟が艦長となり,日本で初めて太平洋を横断した船
1857年幕府がオランダから購入した木造の帆装蒸気船で,長さ約47m,300トン。遣米使節の随行艦として,43日間を要して太平洋を横断した。
管領
かんれい @@@LINK=管領 管領

管領
かんれい

室町幕府の職名
鎌倉幕府の執権にあたり,将軍を補佐して政務を統轄する。初め執事といい,高師直 (こうのもろなお) ・細川清氏・仁木頼章らが就任。1362年斯波義将 (しばよしまさ) が任じられて以降管領と称し,のち義将に代わって細川頼之 (よりゆき) が就任。'98年畠山基国が管領に任じられてから,足利氏の一族である斯波・細川・畠山の3氏が交替して就任することになり,この3氏を三管領という。
観勒
かんろく @@@LINK=観勒 観勒

観勒
かんろく

生没年不詳
百済 (くだら) からの渡来僧
602年来日,天文・暦本・陰陽道を伝えた。「暦法」は,604年聖徳太子が採用した。のち最初の僧正に任命された。

ぎ @@@LINK=魏 魏



中国の王朝 ①戦国時代の一国(前403〜前225)
②三国時代の一国(220〜265)
③南北朝時代の北朝の王朝(386〜534)
戦国七雄の一つ。秦の始皇帝に滅ぼされた。
後漢末に曹操 (そうそう) が華北の実権を掌握して魏王となり,その長男の曹丕 (そうひ) が漢帝に迫り,位を譲らせ建国。都は洛陽。『魏志倭人伝倭国地理・風俗,邪馬台国 (やまたいこく) 女王卑弥呼のことなどを記し,3世紀の日本に関する貴重な文献
鮮卑 (せんぴ) の拓跋 (たくばつ) 氏が華北に建国。通称「北魏」または「後魏」。534年東魏・西魏に分裂。

生糸
きいと @@@LINK=生糸 生糸

生糸
きいと

蚕の繭からとった糸
古代から絹織物の原料として生産。中国産生糸が上質とされ,室町時代以後も西陣織などは輸入生糸を使用し,常に輸入品の首位を占め16・17世紀には激増。江戸幕府は糸割符 (いとわつぷ) 制により輸入統制を行い,江戸中期以後幕府や諸藩の奨励で国内生産が増大し,地方機業も発展した。養蚕から発達して品質も向上し,幕末開港後輸出品の第1となる。明治時代以後,政府の保護で産額増大し,輸出品の主力となったが,近年化学繊維の進出で盛時は去った。
紀伊藩
きいはん @@@LINK=紀伊藩 紀伊藩

紀伊藩
きいはん

江戸時代,紀伊国と伊勢国の一部を領有した藩。徳川氏の親藩で,尾張水戸と並ぶ御三家の一つ
紀州藩・和歌山藩ともいう。1619年,安芸 (あき) (広島県)に転出した浅野氏にかわって,徳川家康の第10子頼宣が入封,初代藩主となった。石高55万5000石,城下町は和歌山。幕府との関係は緊密で,8代将軍吉宗,14代家茂 (いえもち) はこの藩から出ている。
紀氏
きうじ @@@LINK=紀氏 紀氏

紀氏
きうじ

古代の豪族
武内宿禰 (たけしうちのすくね) の子が母方の氏をついだのに始まるという。姓 (かばね) は初め臣 (おみ) ,のち朝臣 (あそん) 。大和政権の将軍・廷臣として活躍。大化以後,光仁天皇の外戚として勢力を得,大納言参議を輩出したが,応天門の変で失脚してからふるわず,文人に貫之・友則を出すにとどまった。
木内石亭
きうちせきてい @@@LINK=木内石亭 木内石亭

木内石亭
きうちせきてい

1724〜1808
江戸中期の奇石収集家
近江(滋賀県)坂本の人。本草学を学んだ。のち全国各地の石器・石製品を収集し,鉱物学・考古学に影響を与えた。主著に『雲根志』『奇石産誌』など。

木内宗吾
きうちそうご @@@LINK=木内宗吾 木内宗吾

木内宗吾
きうちそうご

佐倉惣五郎
義演
ぎえん @@@LINK=義演 義演

義演
ぎえん

1558〜1626
安土桃山〜江戸時代初期の真言宗の僧
二条晴良の子。醍醐 (だいご) 寺に入り,その再興につとめ座主 (ざす) となった。さらに豊臣秀吉の援助をうけ,大僧正・准三后に進んだ。著書に『義演准后日記』など。

棄捐令
きえんれい @@@LINK=棄捐令 棄捐令

棄捐令
きえんれい

江戸後期,幕府が旗本・御家人の救済のために出した借金免除令
第1回は1789(寛政元)年寛政の改革で松平定信が発令,'84年以前の借金は破棄し,以後は低利返済とした。第2回は1843(天保14)年天保の改革で水野忠邦が発令,借金を無利息年賦返済とした。この結果札差 (ふださし) らは大きな損害をうけ,旗本・御家人への貸出しを停止したため,旗本らはかえって困窮した。
伎楽
ぎがく @@@LINK=伎楽 伎楽

伎楽
ぎがく

飛鳥時代,中国から伝わった喜劇的な舞踊
呉楽 (くれのがく) ともいう。612年百済 (くだら) 人味摩之 (みまし) が伝えたという。仮面をかぶり,横笛や腰鼓などを伴奏に舞うもので,寺院の法会宮中の舞楽会などで行われた。正倉院・法隆寺などに伎楽面が残る。
企画院
きかくいん @@@LINK=企画院 企画院

企画院
きかくいん

1937年,第1次近衛文麿内閣が設置した内閣直属の総合国策立案機関(〜'43)
内閣の外局である企画庁と資源局を統合して設置され,国家総動員法の制定,それに基づく総動員諸計画の調査立案を担当し,戦時国家統制の確立に重要な役割を果たした。戦時統制経済推進する革新官僚への反発から,'41年治安維持法違反容疑で弾圧される企画院事件がおこった。'43年には商工省とともに軍需省に再編された。
帰化人
きかじん @@@LINK=帰化人 帰化人

帰化人
きかじん

歴史的概念としては,ふつう古代に大陸や朝鮮半島から渡来して永住した人びとおよびその子孫をさす
最近は渡来人ということが多い。
記紀
きき @@@LINK=記紀 記紀

記紀
きき

『古事記』と『日本書紀』のこと
たとえば「応神記」とあれば『古事記』の応神天皇記述,「応神紀」とあれば『日本書紀』のそれを表す。
菊池氏
きくちし @@@LINK=菊池氏 菊池氏

菊池氏
きくちし

中世,肥後(熊本県)菊池郡を本拠とした豪族
11世紀初め,刀伊 (とい) 入寇のとき藤原隆家に従って戦った藤原蔵規 (まさのり) の子孫。源平合戦のとき,惟直 (これなお) は平家方にくみして殺され,能隆 (よしたか) は承久の乱(1221)に京方につき所領を奪われた。14世紀,元弘の変に際し武時は鎮西探題を攻めて戦死。以来子孫は南朝方の有力な武将として活躍するが南北朝合体(1392)ののちは衰え,戦国時代の1504年,大友氏により滅ぼされた。
菊池大麓
きくちだいろく @@@LINK=菊池大麓 菊池大麓

菊池大麓
きくちだいろく

1855〜1917
明治・大正時代の数学者
江戸の生まれ。蕃書調所で英語を学び,イギリス留学2回。ケンブリッジ大学で数学・物理学を修め,帰国後東大教授となる。近代数学の導入と数学教育の発展貢献し,のち理化学研究所初代所長・東大総長・文相・京大総長・学士院長などを歴任した。

菊池武時
きくちたけとき @@@LINK=菊池武時 菊池武時

菊池武時
きくちたけとき

1292?〜1333
鎌倉時代の武将
肥後の豪族で,1333年,後醍醐 (ごだいご) 天皇の隠岐脱出に呼応して九州で挙兵。鎮西探題北条英時を攻めたが,少弐・大友氏が離反したため敗死。

菊池武光
きくちたけみつ @@@LINK=菊池武光 菊池武光

菊池武光
きくちたけみつ

?〜1373
南北朝時代の武将
武時の子。征西将軍懐良 (かねよし) 親王を肥後に迎えて以来,九州南朝軍の中心として各地で歴戦し,少弐氏を破って大宰府に入城したが,今川了俊が九州探題として下向以来,九州南朝軍の勢力はしだいに衰え,1372年大宰府を放棄した。

菊池寛
きくちひろし @@@LINK=菊池寛 菊池寛

菊池寛
きくちひろし

1888〜1948
大正・昭和期の小説家・劇作家
筆名は「かん」と読む。香川県の生まれ。京大英文科卒。芥川龍之介らと第3・4次『新思潮』を刊行。理知的な新現実派の中心作家として活躍,のち通俗小説に転じ,1923年雑誌『文藝春秋』を創刊。代表作に『恩讐の彼方に』,戯曲『屋上の狂人』『父帰る』など。

義経記
ぎけいき @@@LINK=義経記 義経記

義経記
ぎけいき

室町初・中期の軍記物
「よしつねき」とも読み,『義経物語』ともいう。8巻。作者不詳。悲運の武将源義経の一代記を英雄伝説的に述べた伝記物語で,判官びいきの民衆感情に支えられ義経伝説の源となる。「判官物」として浄瑠璃・歌舞伎に大きな影響を与えた。
紀元節
きげんせつ @@@LINK=紀元節 紀元節

紀元節
きげんせつ

1872(明治5)年,明治政府により神武天皇即位の日として定められた国家の祝日
『日本書紀』に神武天皇が「辛酉 (しんゆう) 年春正月庚辰朔」に橿原 (かしはら) に即位したとあるのに基づいた。推古天皇以前の年月日の太陽暦換算は困難であるが,初め1月29日と定め,翌'73年2月11日と改めて一定した。神武即位は歴史事実ではないが,大日本帝国憲法の発布など近代天皇制確立の一環としてこの日が利用された。1948年廃止されたが,'66年国民の祝日法の改正により2月11日が「建国記念の日」とされた。
寄口
きこう @@@LINK=寄口 寄口

寄口
きこう

律令制下,戸籍にみえる寄留人
寄人 (よりゆうど) ともいう。個人や家族全員が,同姓または異姓の戸籍に編入された者。同族や縁者・非血縁者など雑多である。発生については没落した戸や家族が,富裕な戸に寄住したというが不明。
紀行文学
きこうぶんがく @@@LINK=紀行文学 紀行文学

紀行文学
きこうぶんがく

旅行中の出来事や感想を日記風に記したもの
平安中期の『土佐日記』が初め。鎌倉時代に京都〜鎌倉間の交通が盛んになり,『十六夜 (いざよい) 日記』『東関紀行』『海道記』が書かれた。室町時代以後,文人の地方往来もくなり,宗祇 (そうぎ) の『筑紫道記 (つくしみちのき) 』などの旅日記が成立した。これを引き継いで文学的に完成させたのが,江戸中期,松尾芭蕉の『奥の細道』『更科 (さらしな) 紀行』などである。
儀式
ぎしき @@@LINK=儀式 儀式

儀式
ぎしき

平安前期,朝廷の儀礼の式次第を定めた書
弘仁・貞観・延喜の3儀式がある。各10巻。『貞観儀式』が現存即位節会新嘗 (にいなめ) 祭などの式次第が記されている。
岸田俊子
きしだとしこ @@@LINK=岸田俊子 岸田俊子

岸田俊子
きしだとしこ

1863〜1901
明治時代の自由民権運動家
京都の生まれ。1882年以後自由民権運動に参加。男女同権を説いて,景山英子らの共鳴者を得た。自由党副総理中島信行と恋愛結婚。'87年保安条例公布とともに運動から手を引いた。
岸田劉生
きしだりゅうせい @@@LINK=岸田劉生 岸田劉生

岸田劉生
きしだりゅうせい

1891〜1929
大正・昭和初期の洋画家
東京の生まれ。白馬会の研究所で洋画を学ぶ。のち雑誌『白樺』の影響をうけ高村光太郎らとフューザン会結成に参加。1915年には草土社を創立。北欧風の重厚で緻密な画風は,当時の若い人びとに影響を及ぼした。代表作に『麗子像』『自画像』など。

岸信介内閣
きしのぶすけないかく @@@LINK=岸信介内閣 岸信介内閣

岸信介内閣
きしのぶすけないかく

岸信介(1896〜1987)を首班とする自由民主党内閣(1957〜60)
〔第1次〈1957.2〜58.6〉〕 石橋湛山内閣のあとをうけ組閣。日米間の結合を強化し,東南アジアへの進出をはかった。〔第2次〈'58.6〜60.7〉〕'60年1月,岸首相は渡米して日米新安全保障条約に調印。激しい反対運動にあい,6月条約発効とともに首相は辞意表明,翌月総辞職した。
騎射
きしゃ @@@LINK=騎射 騎射

騎射
きしゃ

馬に乗り弓矢を射る技芸
古代,朝廷では5月5日を中心に近衛府兵衛府などが府ごとに射芸を競った。中世の武家社会では犬追物 (いぬおうもの) ・笠懸 (かさがけ) ・流鏑馬 (やぶさめ) のいわゆる騎射三物 (みつもの) が武芸修練を兼ねた遊びとして盛んに行われた。
木地屋
きじや @@@LINK=木地屋 木地屋

木地屋
きじや

轆轤 (ろくろ) を使い木製日用品をつくる工人の集団
原材を求めて北は会津,西は四国・中国地方などを渡り歩いたが,近代は各地に定住特権由緒を示すため惟喬 (これたか) 親王(文徳天皇の皇子)を祖神とする,いわゆる『木地屋文書』(中世末の偽文書)を持つ。これにより近江国小椋 (おぐら) 郷(滋賀県神崎郡永源寺町)が郷里とされた。
技術革新
ぎじゅつかくしん @@@LINK=技術革新 技術革新

技術革新
ぎじゅつかくしん

技術の進歩とその導入による社会・経済上の変革をさす
経済学者シュンペーターのinnovationの訳語として用いられるが,具体的には原子力の平和利用やオートメーションなどに代表される。日本では〈1967年版〉の経済白書で,'55〜66年の製造業における労働生産性上昇率を分析した結果,年率9.4%のうち,設備投資が5.3%,技術革新が4.1%と発表したことから注目されるようになった。
議定
ぎじょう @@@LINK=議定 議定

議定
ぎじょう

明治政府当初の官職名。三職の一つ
1867年12月,王政復古の大号令により設置。嘉彰親王以下皇族・公卿・諸侯10名が任ぜられ,7科が設置されると事務を分担した。'68年太政官制施行とともに議政官上局を構成したが,翌'69年7月の新官制により廃止された。
起請文
きしょうもん @@@LINK=起請文 起請文

起請文
きしょうもん

平安末期から中世にかけて,うそいつわりのないことを,神仏の名にかけて誓う形式の文書
神名を書き並べた部分と本文とがあり,多く牛王 (ごおう) 宝印の裏に書かれ,特に熊野三山発行の牛王宝印のものが尊ばれた。神仏の威光衰退とともに,江戸末期には戯画化された。
魏志倭人伝
ぎしわじんでん @@@LINK=魏志倭人伝 魏志倭人伝

魏志倭人伝
ぎしわじんでん

中国の正史『三国志』のうち,『魏書』巻30の中にある一伝
3世紀末,晋の陳寿 (ちんじゆ) の撰。特に一伝をなすのではなく,「東夷伝」中に倭人の記録があり,通称これを「倭人伝」と呼ぶ。3世紀の日本を記した重要な史料で,帯方郡からの道程,倭国の地理・風俗・産物・政治・社会や邪馬台国 (やまたいこく) 女王卑弥呼 (ひみこ) ,帯方郡・魏との通交を記す。記録には誇張や誤記がある。
寄進地系荘園
きしんちけいしょうえん @@@LINK=寄進地系荘園 寄進地系荘園

寄進地系荘園
きしんちけいしょうえん

10世紀以後,地方豪族の土地寄進によって成立した荘園
寄進型荘園ともいう。自墾地系荘園に対するもの。地方の開発領主たちは,その所有地に不輸・不入の特権を獲得し,国司干渉を防ぐため,中央の権門勢家にその所領を寄進し,自分は預所職など荘官的な名目で実質的な土地支配権を留保する方法をとった。寄進地系荘園は10世紀ごろから急速に増加した。
木鋤
きすき @@@LINK=木鋤 木鋤

木鋤
きすき

古代木製農具の一つ
弥生時代から木鍬とともに耕耘 (こううん) に用いた。柄に対しの先が直線または鈍角をなし,足で踏みこんで土をおこす。弥生時代に青銅製の出土品もあり,古墳時代には鉄製鋤もあるが,一般的には木製であった。
議政官
ぎせいかん @@@LINK=議政官 議政官

議政官
ぎせいかん

明治初期の立法機関
1868年政体書により設置。議定・参与をもって組織された上局と,貢士をもって組織された下局に分かれる。上局のおもな役目は諸侯間・公家間の対立調停であり,下局は上局の下級諮問機関。行政官に圧倒され半年で廃止された。
寄生地主制
きせいじぬしせい @@@LINK=寄生地主制 寄生地主制

寄生地主制
きせいじぬしせい

地主が所有地の大部分を多くの小作農民に貸し付け,高率な小作料を徴収する農業経営形態
江戸中期ころに始まり,地租改正で公認されて以来全国的に形成され,1908年には小作地率45%に達した。第二次世界大戦後の農地改革まで,日本農業の基本的な生産関係をなして,農村における商品生産の発展を阻害し,地主・小作人の間に半封建的な身分関係を残した。また地主は米価維持の要求を実現するために政治に対する発言権を強めるなど,日本資本主義や国家権力性格に大きな影響を与えた。
黄瀬戸
きせと @@@LINK=黄瀬戸 黄瀬戸

黄瀬戸
きせと

淡黄色の釉薬 (うわぐすり) がかかった瀬戸焼
志野焼・織部焼・瀬戸黒と並んで,安土桃山時代に美濃(岐阜県)の窯 (かま) で焼かれ,茶人が愛好した。
喜撰
きせん @@@LINK=喜撰 喜撰

喜撰
きせん

生没年不詳
平安前期の歌人。六歌仙の一人
伝記不詳。京都の南の宇治山付近に住んでいたという。歌は『古今和歌集』に1首を残す。

義倉
ぎそう @@@LINK=義倉 義倉

義倉
ぎそう

凶作に備えて穀物を貯蔵する倉,またその制度
律令時代国司が農民の貧富に応じて粟・麦・豆などを徴収,国衙の倉に貯蔵して窮民に給与した。平安時代になり律令制衰退とともに廃絶したが,江戸時代に復活して幕府・諸藩に設けられ,富裕者の義捐,農民への課徴による穀物をたくわえた。常平倉 (じようへいそう) ・社倉 (しやそう) とともに三倉という。明治時代に廃絶した。
議奏
ぎそう @@@LINK=議奏 議奏

議奏
ぎそう

①鎌倉時代,朝廷の職名
②江戸時代,朝廷の職名
1185年源頼朝の推薦で九条兼実 (かねざね) ら幕府に好意的な公卿10人が任命され,重要な政務を合議した。
1686年幕府の奏請により設置。年寄衆御側衆の名を改め議奏とし,天皇に近侍し,勅命の伝達,上奏の取りつぎなどをおもな任務とした。
貴族
きぞく @@@LINK=貴族 貴族

貴族
きぞく

血統的に尊いとされ,その地位を世襲する特権的身分に属する人びと
大化改新(645)前では氏 (うじ) ・姓 (かばね) をもち土地・人民を私有し,朝廷の官職を世襲した。改新後,土地・人民は収公され,世襲は廃止されたが,律令制による五位以上の上級官人は蔭位 (おんい) の制・官位相当の制により官位・官職を世襲し,それに伴う位田・職田・位封・職封などを給付され,特権を回復した。平安中期から特に藤原氏がその地位を独占し,荘園の集中的寄進をうけた。鎌倉時代以後,武家に対し公家と総称。殿上人・地下人に分かれ,前者が前代の貴族に相当するが政治権力・経済力は漸減し,承久の乱・建武の新政で勢力回復を試みたが失敗。応仁の乱(1467〜77)以後,荘園の喪失により窮乏した。近世,織田信長・豊臣秀吉らの保護をうけ,江戸幕府の統制下に存続し,幕末には尊王論などと結び政界に活動する者がでた。明治維新後は華族をさす。上級公家・大名・維新の功臣・資本家らを含み,爵位を有し貴族院を構成したが,第二次世界大戦後日本国憲法の施行により貴族院は廃止され,貴族制度は消滅した。
貴族院
きぞくいん @@@LINK=貴族院 貴族院

貴族院
きぞくいん

大日本帝国憲法のもとで,帝国議会を衆議院とともに構成していた上院の名称
1890(明治23)年開設。皇族・華族・勅選議員などで構成。封建的特権階級を代表する機関で,予算先議権を衆議院に譲るほかは衆議院と対等の権限をもった。第2次護憲運動は貴族院の改革をとり上げたが,根本的改革は実現しなかった。1947年日本国憲法で廃止された。
木曽福島関
きそふくしまのせき @@@LINK=木曽福島関 木曽福島関

木曽福島関
きそふくしまのせき

江戸時代,中山道の木曽福島に置かれた関所
木曽義仲
きそよしなか @@@LINK=木曽義仲 木曽義仲

木曽義仲
きそよしなか

源義仲
北一輝
きたいっき @@@LINK=北一輝 北一輝

北一輝
きたいっき

1883〜1937
大正・昭和初期の国家社会主義者
新潟県佐渡の生まれ。社会主義者として中国に渡り,辛亥 (しんがい) 革命を支援。のち国家主義者に転じて,1919年上海で『日本改造法案大綱』を執筆。昭和維新を目指す右翼・青年将校に大きな影響を与えた。二・二六事件('36)の首謀者として銃殺刑
喜多川歌麿
きたがわうたまろ @@@LINK=喜多川歌麿 喜多川歌麿

喜多川歌麿
きたがわうたまろ

1753〜1806
江戸中・後期の浮世絵師
出生地不詳。初め鳥居清長風の美人画を描いたが,のち独自の画風を開いた。特に大首絵 (おおくびえ) で女性の細かい表情を巧みに描出し,浮世絵美人画の極致といわれ,のちの美人画に大きな影響を与えた。代表作に『高名美人大家撰』『娘日時計』など。
喜田貞吉
きださだきち @@@LINK=喜田貞吉 喜田貞吉

喜田貞吉
きださだきち

1871〜1939
明治〜昭和期の歴史学者
徳島県の生まれ。東大卒。1901年文部省に入り,国定国史教科書の編纂にあたる。大逆事件の翌'11年,喜田の記述の中の「南北朝」の字句が南北朝正閏論を巻きおこし,責を負って休職となる。この間,法隆寺再建論を展開し,のち京大・東北大の教授・講師などを歴任した。

北里研究所
きたざとけんきゅうじょ @@@LINK=北里研究所 北里研究所

北里研究所
きたざとけんきゅうじょ

1915年北里柴三郎が設立した医学研究所。
北里柴三郎
きたざとしばさぶろう @@@LINK=北里柴三郎 北里柴三郎

北里柴三郎
きたざとしばさぶろう

1852〜1931
明治〜昭和初期の細菌学者
肥後(熊本県)の生まれ。東大卒。1885年ドイツに留学,コッホに師事。'89年破傷風菌の純粋培養に成功し,翌年血清療法を発見。帰国後福沢諭吉の援助で伝染病研究所(伝研)をつくり,'94年ペスト菌を発見。政府が伝研を東京大学の付属機関としたので,辞職し(1914),翌年独自に北里研究所を設立した。門下に秦佐八郎 (はたさはちろう) ・志賀潔らがいる。
北大西洋条約機構
きたたいせいようじょうやくきこう @@@LINK=北大西洋条約機構 北大西洋条約機構

北大西洋条約機構
きたたいせいようじょうやくきこう

ナトー(NATO)
北朝鮮
きたちょうせん @@@LINK=北朝鮮 北朝鮮

北朝鮮
きたちょうせん

朝鮮民主主義人民共和国
北野大茶会
きたのおおちゃかい @@@LINK=北野大茶会 北野大茶会

北野大茶会
きたのおおちゃかい

1587年,豊臣秀吉が京都北野神社の境内松原で行った大茶会
茶道具の良否身分貧富の別なく愛好者を自由に参加させた画期的なもの。秀吉・千利休らが大名から天下の名器を集めた。そのようすは『北野大茶湯之記』に詳しく記されている。
北庄
きたのしょう @@@LINK=北庄 北庄

北庄
きたのしょう

福井市の旧称。戦国時代以来,越前国の中心
三国港に近く物資の流通の便があった。中世,朝倉氏の領国における重要拠点であり,朝倉氏(一乗谷)滅亡後は,柴田勝家が築城し城下町を設営関ケ原の戦い後,結城秀康(徳川家康の2男)が入部し,拡張整備につとめた。3代忠昌のとき福居(のち福井)と改称。現在,福井県の県庁所在地。
北野神社
きたのじんじゃ @@@LINK=北野神社 北野神社

北野神社
きたのじんじゃ

京都市上京区馬喰町にある神社祭神菅原道真
北野天神北野天満宮ともいう。道真が大宰府で死んだのち京中に異変がしばしばおこり,これを道真のたたりとし,10世紀中ごろこの地に道真を祭ったのに始まる。中世以降,学問の神として有名。またこの社の神人 (じにん) の酒麴座は中世商業史上著名である。1067年造営の本殿は代表的な権現造 (ごんげんつくり) で,国宝
北野天神縁起絵巻
きたのてんじんえんぎえまき @@@LINK=北野天神縁起絵巻 北野天神縁起絵巻

北野天神縁起絵巻
きたのてんじんえんぎえまき

京都市北野神社所蔵の鎌倉初期の絵巻物
承久年間(1219〜22)の作と考えられる。国宝。菅原道真の事績と死後のたたりや北野神社建立の由来,およびその霊験のあらたかなことなどを描いたもの。幅の広い画面(52㎝)に岩絵具で華麗な色彩と雄大な筆致で描かれた傑作藤原信実筆と伝えられるが不詳。
北政所
きたのまんどころ @@@LINK=北政所 北政所

北政所
きたのまんどころ

1549〜1624
安土桃山時代,豊臣秀吉の正妻
名はねね。尾張(愛知県)の人。杉原氏の娘。秀吉が関白になると従三位に叙せられ,政所と称された。側室淀君とは対照的な温順な女性。秀吉の死後出家し,1603年高台院の号を勅許され,のち徳川家康により高台寺が建立された。なお,元来北政所とは,摂政・関白の正室を指したが,秀吉の正妻が特に有名なことから固有名詞化した。
北畠顕家
きたばたけあきいえ @@@LINK=北畠顕家 北畠顕家

北畠顕家
きたばたけあきいえ

1318〜38
南北朝時代の公卿・武将
親房 (ちかふさ) の長男。1333年建武新政府のもと,義良 (のりよし) 親王を奉じて陸奥守 (むつのかみ) として陸奥国多賀国府(宮城県)に下向,'35年鎮守府将軍を兼任。足利尊氏反乱の際,これを追って上洛新田義貞・楠木正成らと協力し,尊氏を九州に敗走させ奥州に帰ったが,尊氏が九州から再度入京したので,再び上洛しようとし,各地に転戦。義良親王を吉野に送り,'38年和泉国石津で戦死した。

北畠氏
きたばたけし @@@LINK=北畠氏 北畠氏

北畠氏
きたばたけし

中世を通じ朝廷側にあって活躍した公家の家
村上源氏の一流で,もと久我 (こが) 氏を称す。5代土御門通親 (つちみかどみちちか) の孫中院雅家 (なかのいんまさいえ) が京都の北畠に住み北畠氏を称す。その曽孫親房 (ちかふさ) ,その子顕家 (あきいえ) ・顕信は南北朝時代に南朝方の重臣として活躍。3男顕能 (あきよし) は1335年伊勢国司となり,南朝勢力の一中心をなした。南北朝の合一後も代々国司として,室町・戦国時代を通して有名。1576年具教 (とものり) が織田信長に滅ぼされた。
北畠親房
きたばたけちかふさ @@@LINK=北畠親房 北畠親房

北畠親房
きたばたけちかふさ

1293〜1354
南北朝時代の南朝の公卿・武将
後醍醐 (ごだいご) 天皇の信任厚く,奥州・東国で転戦し南朝の勢力増大をはかったが失敗。この間,常陸 (ひたち) の小田城で『神皇正統記』を著し南朝正統を説くとともに,有職故実 (ゆうそくこじつ) の『職原抄』や神道書『元元集』を著した。1343年吉野に帰り,後村上天皇に近侍し,そこで没した。

北原白秋
きたはらはくしゅう @@@LINK=北原白秋 北原白秋

北原白秋
きたはらはくしゅう

1885〜1942
明治末期〜昭和期の詩人・歌人
福岡県の生まれ。早大英文科予科中退。明星派の詩人として出発,のち雑誌『スバル』に参加。象徴的・印象的詩風で,言葉の錬金術師ともいうべき多彩な活動を示した。短歌・童謡・民謡でも独自の境地を開拓。代表作に詩集『邪宗門』『思ひ出』,歌集『桐の花』など。

北前船
きたまえぶね @@@LINK=北前船 北前船

北前船
きたまえぶね

江戸時代の廻船の一つ
北国廻船・北国船ともいう。近江商人などが出資して,越前・加賀などの船を用いて,西廻り航路により松前の昆布・鰊 (にしん) ,北国の米を大坂へ,関西の塩・酒などを北国に運んだ。江戸中期から明治初年にかけて栄えたが,汽船の発達で衰えた。
北村季吟
きたむらきぎん @@@LINK=北村季吟 北村季吟

北村季吟
きたむらきぎん

1624〜1705
江戸前期の古典学者・歌人・俳人
近江(滋賀県)の人。松永貞徳門下七俳仙の一人として活躍。また古典文学の注釈にすぐれた仕事を残し,『源氏物語湖月抄』『枕草子春曙 (しゆんしよ) 抄』などがあり,ほかに俳書・歌集もある。のち幕府歌学方となった。

北村透谷
きたむらとうこく @@@LINK=北村透谷 北村透谷

北村透谷
きたむらとうこく

1868〜94
明治中期の詩人・評論家
本名は門太郎。神奈川県の生まれ。自由民権運動に参加したが,政治に失望して文学に転じ,キリスト教に入信。ロマン派の先駆者として,すぐれた直観と想像力を発揮し,長詩『蓬萊 (ほうらい) 曲』,評論『厭世詩家と女性』などをつぎつぎと発表。1893年島崎藤村らと『文学界』を創刊。翌年,理想と現実の矛盾に悩み自殺した。

北山十八間戸
きたやまじゅうはっけんど @@@LINK=北山十八間戸 北山十八間戸

北山十八間戸
きたやまじゅうはっけんど

奈良市川上町坂上にある現存最古の社会救済事業の史跡
光明皇后の創始と伝えられるが,13世紀中ごろ僧忍性 (にんしよう) がハンセン病患者の収容と救済のために創建したもの。十八間の棟割長屋。1567年焼失,のち再建。明治維新ころまで実際に患者が住んでいた。
北山文化
きたやまぶんか @@@LINK=北山文化 北山文化

北山文化
きたやまぶんか

室町時代前期足利義満時代の文化
義満が晩年北山に別荘(金閣)を築いて住んだことにちなんで,義満の前後の時代の文化を北山文化という。そのおもな内容は第一に禅宗保護による五山文学の発展である。なかでも義堂周信・絶海中津は名高い。第二は世阿弥に代表される能楽の大成である。これと並んで伝統的な公家文化では二条良基が連歌を始め,美術では明兆・周文らの禅僧が,宋元風の水墨画を発達させた。このように伝統的な公家文化が武家に吸収される一方,庶民的要素も加わって新しい武家文化が創始された。その特色は寝殿造と禅宗様を融合した金閣に凝縮しているといってよい。
義太夫節
ぎだゆうぶし @@@LINK=義太夫節 義太夫節

義太夫節
ぎだゆうぶし

江戸前期,竹本義太夫が始めた浄瑠璃節一派
17世紀末,播磨節・嘉太夫 (かだゆう) 節・小歌などを融合し,豪快華麗な曲節を大成。戯曲性をもち詩章を重視し,台本作家近松門左衛門らと協力し,つぎつぎに新作を上演した。1703年豊竹派が分離独立したが,竹本・豊竹両派が競って18世紀前半に全盛期を現出。のち歌舞伎の隆盛におされて衰えたが,やがてこれと結びついて歌舞伎音楽となり,江戸後半には,詞章の語 (かたり) と伴奏の三味線だけが独立し,庶民の音曲として親しまれた。
吉祥天画像
きちじょうてんがぞう @@@LINK=吉祥天画像 吉祥天画像

吉祥天画像
きちじょうてんがぞう

吉祥天インド神話から仏教にはいった女神で,衆生福徳を与える)の画像
奈良末期作の奈良薬師寺蔵のものは,称徳天皇発願の吉祥悔過 (けか) 会の本尊として有名。麻布に精密な表現で豊艶な吉祥天女が描かれ,その服装からの影響をうけた貴族女性の風俗を知ることができる。
吉祥天女像
きちじょうてんにょのぞう @@@LINK=吉祥天女像 吉祥天女像

吉祥天女像
きちじょうてんにょのぞう

京都府浄瑠璃寺所蔵の鎌倉前期の彫刻
木彫立像で極彩色。その甘美なできばえは,日本彫刻中の傑作といわれる。
基地問題
きちもんだい @@@LINK=基地問題 基地問題

基地問題
きちもんだい

日米行政協定に基づく駐留アメリカ軍の区域および施設(いわゆる基地)の設置や拡張に伴う,地元民などとの対立をめぐる問題
特に石川県内灘 (うちなだ) 村(1952〜53)や東京都砂川町('55〜57)などで強い反対運動が続き,政府による用地の接収や測量の強行に抵抗した。'57年以後自衛隊の強化と並行してアメリカ軍基地は減少したが,飛行機騒音や米軍兵士による犯罪など,沖縄をはじめとしてまだ課題を残している。
木賃宿
きちんやど @@@LINK=木賃宿 木賃宿

木賃宿
きちんやど

江戸時代の下級宿屋
飯炊きや湯沸かしの薪代,つまり木賃のみを取って泊める宿屋で,旅人は干飯や大根漬を携行し自炊した。のち木賃・米代を払う宿泊になり,さらに食事を出す旅籠 (はたご) が普及したが,料金の安い宿泊所として近代にも残った。
吉川氏
きっかわし @@@LINK=吉川氏 吉川氏

吉川氏
きっかわし

中世,安芸 (あき) 国の豪族。のち周防 (すおう) 岩国の藩主
駿河国入江庄吉川に住み,吉川氏を称す。鎌倉時代,播磨・安芸で地頭職を得,鎌倉末期,安芸に移住,有力な国人となる。経基のとき,応仁の乱に細川勝元の東軍に属して活躍。のち毛利元就 (もとなり) の2男元春を養子とし,小早川家とともに毛利宗家を助けて,「毛利氏の両川 (りようせん) 」と称された。
吉川元春
きっかわもとはる @@@LINK=吉川元春 吉川元春

吉川元春
きっかわもとはる

1530〜86
戦国時代の武将
毛利元就 (もとなり) の2男。吉川氏の養子となる。尼子氏平定など山陰の経略に名をあげ,弟小早川隆景とともに「毛利の両川 (りようせん) 」といわれ,毛利氏の中国平定を大いに助けた。のち豊臣秀吉の九州征討に参加し,小倉の陣中で没した。

喫茶養生記
きっさようじょうき @@@LINK=喫茶養生記 喫茶養生記

喫茶養生記
きっさようじょうき

鎌倉前期,栄西の著書
1211年脱稿,'14年加筆完成。2巻。喫茶が医療にも効能があると述べ,養生の術を記したもの。一説に源実朝に献じたとも明恵 (みようえ) に与えたともいう。喫茶のほか,製茶の方法なども書いてある。
紀伝体
きでんたい @@@LINK=紀伝体 紀伝体

紀伝体
きでんたい

歴史叙述の一方法。編年体に対するもので,本紀と列伝を立てて叙述する方法
本紀は帝王の一代の大事を年月順に,列伝は主として個人の伝記を記す。中国の司馬遷の『史記』に用いられたのに始まり,その後,正史の記述形式として定着。日本では,六国史が本紀の体裁で書かれ,『大鏡』は和文の紀伝体である。『大日本史』はその典型
紀伝道
きでんどう @@@LINK=紀伝道 紀伝道

紀伝道
きでんどう

平安時代の大学寮の学科の一つ
紀伝体で書かれた中国の『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』などに『文選』・詩文を加えた学科で,平安中期に確立した。官吏登用試験の重要科目とされたので盛んに行われた。
鬼道
きどう @@@LINK=鬼道 鬼道

鬼道
きどう

シャーマニズム
義堂周信
ぎどうしゅうしん @@@LINK=義堂周信 義堂周信

義堂周信
ぎどうしゅうしん

1325〜88
南北朝時代の臨済宗の僧
号は空華道人 (くうげどうじん) 。土佐の人。夢窓疎石に師事し,五山文学の代表者として絶海中津と並び称された。足利基氏・義満らの信任をうけ,建仁寺住持,南禅寺住持となる。著書に詩文集『空華集』,日記『空華日工集』などがある。

木戸幸一
きどこういち @@@LINK=木戸幸一 木戸幸一

木戸幸一
きどこういち

1889〜1977
昭和期の宮中政治家
木戸孝允の孫。京大卒。第1次近衛文麿内閣の文相兼厚相。1940年内大臣に就任し,'41年の東条英機内閣成立に尽力。戦後,A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身禁錮刑をうけたが,'55年病気のため仮釈放された。『木戸幸一日記』は軍部や革新派について詳しく,昭和史第1級の史料である。

木戸孝允
きどたかよし @@@LINK=木戸孝允 木戸孝允

木戸孝允
きどたかよし

1833〜77
幕末の尊攘派志士。明治初期の政治家
維新の三傑の一人。長州藩出身。初め桂小五郎という。吉田松陰に師事。高杉晋作らと藩論を討幕へと導き,薩長連合に成功。新政権発足後は長州閥巨頭として,五箇条の誓文の起草,版籍奉還・廃藩置県に指導的役割を演じた。1871年岩倉遣外使節に副使として同行。帰国後征韓論では西郷派と対立,のち征台の役に反対して下野。'75年大阪会議で参議にもどったが,翌年辞任。

キトラ古墳
キトラこふん @@@LINK=キトラ古墳 キトラ古墳

キトラ古墳
キトラこふん

奈良県高市郡明日香村にある古墳時代後期の円墳
直径約14m,高さ約3m。未発掘だが,盗掘坑から超小型カメラを石槨 (せつかく) 内に挿入して内部を撮影することに成功し,石槨内の天井に天文図,四面に玄武,白虎,青竜の壁画が確認された。南約1kmに位置する高松塚古墳の壁画のような人物像はないが,壁画の様式から中国や朝鮮半島との関連性が注目されている。被葬者は不明だが,天皇の皇子クラスの人物が想定されている。
畿内
きない @@@LINK=畿内 畿内

畿内
きない

律令制下,山城・大和・河内・和泉・摂津の5国の総称
もともと中国の制で帝都を中心とした一定地域をさす。大化の改新のとき,畿内の制を定め,持統朝には四畿の制が設けられ,ついで757年河内国から和泉国を分立させて五畿とした。畿内の住民は調は半納,庸は免除などの優遇措置がとられた。

きぬ @@@LINK=絹 絹


きぬ

生糸で織った織物の総称
古来の高級衣料で,弓月君,漢織 (あやはとり) ・呉織 (くれはとり) らの大陸文化伝来に始まるといわれる。大宝令で調として絹・ (あしぎぬ) の貢納を規定,宮廷織部司に大陸技術を導入し,地方に伝え,貢納させた。中世でも高級品は輸入品で,錦・綾・羅などが伝来したが,日明貿易により堺・博多など貿易港に金襴 (きんらん) ・緞子 (どんす) ・ (しや) などの生産が発生し,江戸時代には西陣が中心地となった。近世でも絹の着用は武士・富商らに限られる高級衣料であったが,需要が増大し,幕府・諸藩の保護奨励で国産生糸の増産とあいまって,博多織・結城紬 (つむぎ) ・上田縞 (じま) ・丹後縮緬 (ちりめん) ・桐生絹など各地に特産品を生んだ。
祈年祭
きねんさい @@@LINK=祈年祭 祈年祭
としごいのまつり @@@LINK=祈年祭 祈年祭

祈年祭
きねんさい

旧暦2月4日,その年の豊作を祈る祭り
「としごいのまつり」とも読み,「とし」は穀物のみのりを意味した。国家的儀式で神祇官や国庁で儀式があり,諸社の格式により神祇官・国司から幣帛 (へいはく) を奉った。応仁の乱以後廃絶したが,明治時代以降,国家神道の立場から復活した。

祈年祭
としごいのまつり

きねんさい
紀海音
きのかいおん @@@LINK=紀海音 紀海音

紀海音
きのかいおん

1663〜1742
江戸中期の浄瑠璃作者
大坂の人。1706年から豊竹座付作者となり,竹本座の近松門左衛門に対抗した。代表作に時代物『鎌倉三代記』,世話物『心中二つ腹帯』『八百屋お七』など。

紀伊国屋文左衛門
きのくにやぶんざえもん @@@LINK=紀伊国屋文左衛門 紀伊国屋文左衛門

紀伊国屋文左衛門
きのくにやぶんざえもん

江戸中期の豪商
2代にわたる(1代とする説もある)。紀伊(和歌山県)熊野出身で,江戸で材木商として成功。初代(生没年不詳)はみかんの輸送で蓄財したとされるが,確証はない。2代目(?〜1734)は勘定奉行荻原重秀と結び材木商として巨利を得たという。豪奢な遊興で「紀文大尽」と称されたが,その履歴はいずれも伝説的である。
木下順庵
きのしたじゅんあん @@@LINK=木下順庵 木下順庵

木下順庵
きのしたじゅんあん

1621〜98
江戸前期の朱子学者
京都の人。松永尺五 (せきご) に朱子学を学び,加賀藩主前田綱紀 (つなのり) に仕えた。1682年幕府儒官となり,将軍徳川綱吉の侍講となった。教育者として名声があり,その門下を木門といい,新井白石・室鳩巣 (むろきゆうそう) ・雨森芳洲らの逸材を輩出した。また詩にすぐれ,詩文集『錦里文集』などがある。

木下尚江
きのしたなおえ @@@LINK=木下尚江 木下尚江

木下尚江
きのしたなおえ

1869〜1937
明治時代のキリスト教社会主義者・文学者
長野県の生まれ。普選運動・廃娼運動・足尾鉱毒事件などの社会問題に活躍。1901年社会民主党結成に参加。『平民新聞』によって日露戦争に対する非戦論を展開し,また『毎日新聞』に小説『火の柱』『良人の自白』を連載。のちキリスト教社会主義を説く『新紀元』を創刊したが,'06年ごろから政治運動を離れた。

木下杢太郎
きのしたもくたろう @@@LINK=木下杢太郎 木下杢太郎

木下杢太郎
きのしたもくたろう

1885〜1945
明治末期〜昭和期の詩人・劇作家・医学者
本名は太田正雄。静岡県の生まれ。東大卒。明星派に属し,北原白秋らと「パンの会」をおこし,耽美 (たんび) 派の隆盛をもたらした。代表作に詩集『食後の唄』,戯曲『和泉屋染物店』など。

紀貫之
きのつらゆき @@@LINK=紀貫之 紀貫之

紀貫之
きのつらゆき

868?〜945
平安前期の歌人。三十六歌仙の一人で,『古今和歌集』撰者の一人
官位は低く,死んだときも従五位上・木工権頭 (もくのごんのかみ) にすぎなかったが,すぐれた批評眼をもち,すぐれた歌論である「古今和歌集仮名序」,かな文の日記文学の『土佐日記』,「新撰和歌集序」などの著がある。

紀友則
きのとものり @@@LINK=紀友則 紀友則

紀友則
きのとものり

?〜905
平安前期の歌人。三十六歌仙の一人で,『古今和歌集』撰者の一人
貫之のいとこ。歌風は優麗繊細で調べはおおらかである。生涯は官途に恵まれなかったが歌人として重んじられた。家集に『友則集』1巻。
紀長谷雄
きのはせお @@@LINK=紀長谷雄 紀長谷雄

紀長谷雄
きのはせお

845〜912
平安前期の漢学者
貞範の子。詩文にすぐれ,図書頭・文章博士・大学頭を歴任,のち権中納言まで進んだ。宇多・醍醐両天皇に信任され藤原時平らと『延喜格式』を編纂。遣唐副使にも任命された。漢詩文集に『紀家集』。

騎馬民族説
きばみんぞくせつ @@@LINK=騎馬民族説 騎馬民族説

騎馬民族説
きばみんぞくせつ

古墳時代に大陸の騎馬民族が海を渡り,わが国を征服したという学説
古墳文化が前期と中期以後とでは馬の埴輪馬具出土など質的に変化することなどから,1949年東大教授江上波夫によって説かれ,戦後の日本史学界に論争を巻きおこした。騎馬民族の文化的影響は確かに考えられるが,古墳文化の連続性など,考古学的には疑問が多い。
吉備真備
きびのまきび @@@LINK=吉備真備 吉備真備

吉備真備
きびのまきび

693〜775
奈良時代の官人・学者
吉備地方(岡山県)の豪族下道氏の出身。のち吉備に改氏。717年僧玄昉 (げんぼう) らとともに留学生として入唐,735年帰国。儒学・天文・兵学などに通じ,玄昉とともに橘諸兄 (たちばなのもろえ) のもとで重用された。しかし藤原仲麻呂政権下で左遷された。752年遣唐副使として再度入唐し,帰国後,大宰大弐 (だざいのだいに) となり怡土城 (いとじよう) を築いた。仲麻呂の追討に活躍し,称徳天皇信任を得て正二位右大臣にのぼった。天皇の死後,後継者の擁立に失敗し,光仁天皇の即位後辞官。著書に『私教類聚 (しきようるいじゆう) 』。

黄表紙
きびょうし @@@LINK=黄表紙 黄表紙

黄表紙
きびょうし

江戸中期以後の草双紙の一つ
表紙が黄色。短期間しか出なかった黒本・青本に続き,洒落・風刺・滑稽味を加えて風俗を描出した。天明期(1781〜89)が最盛。恋川春町『金々先生栄花夢』,山東京伝『江戸生艶気樺焼 (えどうまれうわきのかばやき) 』など著名な作品が多い。のち合巻 (ごうかん) へと発展した。
岐阜
ぎふ @@@LINK=岐阜 岐阜

岐阜
ぎふ

岐阜県南西部にある県庁所在地
室町・戦国時代,稲葉山には美濃国守護土岐氏の重臣斎藤氏の居城があった。1567年織田信長が入城して岐阜と改め,城下町として栄えた。関ケ原の戦い後廃城となり,以後商工都市として発達した。1889年市制を施行
黄不動
きふどう @@@LINK=黄不動 黄不動

黄不動
きふどう

大津市園城 (おんじよう) 寺(三井寺)所蔵の平安前期の不動明王画像
明王だけで脇侍の童子像がなく,全身が黄色に彩色されている。838年円珍が感得して描いたものと伝えられ,高野山の『赤不動』,青蓮院 (しようれんいん) の『青不動』とともに三不動と呼ばれ,密教美術の代表作。
義兵運動
ぎへいうんどう @@@LINK=義兵運動 義兵運動

義兵運動
ぎへいうんどう

19世紀末〜20世紀初頭にかけておこった朝鮮民衆の抗日武力行使闘争
日清戦争(1894〜95)から韓国併合(1910)前後にかけて展開し,時を追って大規模化した。ことに1907年の第3次日韓協約で解散させられた軍隊の武力闘争を中心に全国的に拡大し,さまざまな階層を含む広汎な反日運動となった。'09年以後は勢いが衰えはじめ,'14年ごろにはだいたい鎮定された。
奇兵隊
きへいたい @@@LINK=奇兵隊 奇兵隊

奇兵隊
きへいたい

幕末,高杉晋作が組織した長州藩の非正規軍隊
1863年,高杉は門閥制度にとらわれない新軍隊をつくろうと計画し,足軽・郷士らの下級武士と農民・町人らで奇兵隊を組織した。'64年の四国艦隊下関砲撃事件,'66年の第2次長州征討,'68〜69年の戊辰 (ぼしん) 戦争などで活躍したが,'69年藩の兵制改革で解散。

きみ @@@LINK=公 公


きみ

大和政権下の姓 (かばね) の一つ
「君」とも書く。豪族首長の尊称が姓とされた。筑紫,上毛野など地方の有力豪族のほか,大王の子孫と称する畿内周辺の中小豪族にも与えられた。759年,「君」はすべて「公」に改められた。
君が代
きみがよ @@@LINK=君が代 君が代

君が代
きみがよ

儀式用唱歌。国歌に定められた歌
『古今和歌集』にある和歌を,宮内省伶人長の林広守が雅楽調で1880年に作曲。'93年以来文部省告示により祝祭日の学校儀式用唱歌として歌われてきたが,1977年,文部省の学習指導要領の中で国歌と規定された。'99年8月,「国旗及び国歌に関する法(国旗・国歌法)」が成立し,同法第2条で「国歌は君が代とする」と定め,別記として,君が代の歌詞および楽曲が明記された。
君死にたまふことなかれ
きみしにたまうことなかれ @@@LINK=君死にたまふことなかれ 君死にたまふことなかれ

君死にたまふことなかれ
きみしにたまうことなかれ

与謝野晶子が1904年旅順で戦っているを思ってつくった
日露戦争中,戦争支持の声が多い中で,が弟を思う自然な気持ちを詠んだこの詩は,大塚楠緒子 (おおつかくすおこ) の『お百度詣』と並んで,注目される。
義民
ぎみん @@@LINK=義民 義民

義民
ぎみん

江戸時代,百姓一揆の指導者で,農民の代表として領主に直訴し処刑された者
佐倉惣五郎(宗五郎)・茂左衛門 (はりつけもざえもん) や信濃(長野県)松本領の多田嘉助若狭(福井県)小浜領の松木長操 (ながもち) らが有名。
義務教育
ぎむきょういく @@@LINK=義務教育 義務教育

義務教育
ぎむきょういく

近代国家が国民に義務づけた教育
日本では1872(明治5)年の学制で方針が示され,'79年の教育令では4年間に少なくとも16か月,'86年小学校令で4か年を義務とし,20世紀初めに就学率は90%をこえた。1907年6か年に延長。'47(昭和22)年に9か年となり,現在に至る。
木村栄
きむらひさし @@@LINK=木村栄 木村栄

木村栄
きむらひさし

1870〜1943
明治〜昭和期の天文学者
石川県の生まれ。東大卒。1899年万国測地学協会の要請によって創立された水沢緯度観測所の初代所長となり,1941年までつとめ,研究と後進指導にあたった。この間,1902年緯度変化の公式にZ項を加えるべきことを発見,'11年学士院恩賜賞をうけ,'37年第1回の文化勲章を受章
肝煎
きもいり @@@LINK=肝煎 肝煎

肝煎
きもいり

農村・町方の諸機関の世話役
「肝入」とも書く。①江戸時代,農村の村役人の名。奥羽地方加賀藩で名主(庄屋)をさす。
②商人の仲間の全体の世話人
幕府の職制で,高家肝煎・寄合肝煎など各職の頭分の人をさす。
崎門学派
きもんがくは @@@LINK=崎門学派 崎門学派

崎門学派
きもんがくは

江戸時代,朱子学派のうち山崎闇斎をとする儒学派
海南学派の流れをくむ闇斎は朱子学と吉川神道など諸家の神道を結合して垂加神道を始めた。6000人と称された門弟は神道の立場をとるものと,儒学の立場をとるものとの二つに分かれたが,崎門の正統は前者と考えられる。佐藤直方・浅見絅斎 (けいさい) ・三宅尚斎 (しようさい) は崎門三傑といわれた。
崎門三傑
きもんさんけつ @@@LINK=崎門三傑 崎門三傑

崎門三傑
きもんさんけつ

江戸中期,崎門学派佐藤直方浅見絅斎 (けいさい) ・三宅尚斎 (しようさい) の3人をさす。

きゃく @@@LINK=格 格


きゃく

律令条文の改正・追加法令
詔勅や太政官符の形式で発令された。
逆コース
ぎゃくコース @@@LINK=逆コース 逆コース

逆コース
ぎゃくコース

アメリカの対日占領政策の転換に伴い,1950年朝鮮戦争勃発以来顕著になった,日本の民主化・非軍化に逆行する政治・社会・風俗の動き
1950年警察予備隊創設,レッド‐パージ公職追放をうけた解除など保守勢力が復活強化され,再軍備が進んだ。'52年のメーデー事件,破壊活動防止法・教育二法の制定右翼の復活,独占禁止法緩和などもあり,政治・社会各方面に復古的傾向がみられる。
格式
きゃくしき @@@LINK=格式 格式

格式
きゃくしき

律令の補助法規,格は律令の改正・追加法令,式は律令と格の施行細則
詔勅や太政官符の形式で発布。たとえば,ふつう墾田永年私財法といわれている法令は743(天平15)年に格として出されたものである。格式を集成したものに,『弘仁格式』『貞観 (じようがん) 格式』『延喜格式』があり,これらを総称して三代格式という。また,この三代格を集成分類した『類聚三代格』は重要な史料集である。
鳩翁道話
きゅうおうどうわ @@@LINK=鳩翁道話 鳩翁道話

鳩翁道話
きゅうおうどうわ

江戸後期,柴田鳩翁の心学書
1835〜39年刊。正・続・続々編。各3巻。計18冊。『孟子』『大学』『中』のを説く道話集で,生活に追われて読書もできなかった庶民を対象に,身近なたとえを多くあげてわかりやすくした点が特色
九カ国条約
きゅうかこくじょうやく @@@LINK=九カ国条約 九カ国条約

九カ国条約
きゅうかこくじょうやく

1922(大正11)年2月,ワシントン会議において,日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアベルギーオランダポルトガル・中国の9カ国間で調印された中国に関する条約
中国の主権尊重・領土保全門戸開放・機会均等を規定。日本全権は加藤友三郎。日本の大陸進出の抑止にねらいがあり,二十一カ条要求による特権の一部が除かれ,膠州湾を中国に返還石井‐ランシング協定も廃棄された。日中戦争開始により日本は実質的にこの条約を破棄した。
旧辞
きゅうじ @@@LINK=旧辞 旧辞

旧辞
きゅうじ

古代の神話・伝承・歌謡などを記したわが国最初の歴史記録
『帝紀』とともに6世紀前半の成立とみられ,7世紀後半に天武天皇のにより改修整理され記紀編纂の資料となった。
九州征討
きゅうしゅうせいとう @@@LINK=九州征討 九州征討

九州征討
きゅうしゅうせいとう

安土桃山時代豊臣秀吉が九州の島津氏降伏させた戦い
1587(天正15)年3月,秀吉大軍を率いて九州へ出向し,同年5月島津義久の降伏で終了。これにより秀吉の全国統一は大きく前進した。
九州探題
きゅうしゅうたんだい @@@LINK=九州探題 九州探題

九州探題
きゅうしゅうたんだい

室町幕府の地方職名
鎌倉幕府の鎮西探題にならったもの。1336年九州に敗走した足利尊氏が東上する際,一族の一色範氏 (のりうじ) らを任命。九州の守護大名統制と南朝勢力の制圧とを任務とした。'71年今川了俊(貞世)が就任して大いに成果をあげ,その後,渋川満頼が任ぜられ以後渋川氏が世襲した。応仁の乱(1467〜77)以降は有名無実となる。
旧石器時代
きゅうせっきじだい @@@LINK=旧石器時代 旧石器時代

旧石器時代
きゅうせっきじだい

石器時代のうち最古の時代で,人類最古の文化段階
更新世に相当。人類は血縁的な共同体を形成。採集経済を営み,利器として打製石器や骨角器を使用していた。日本では1949年,群馬県岩宿遺跡の調査の結果,その存在が証明された。
給田
きゅうでん @@@LINK=給田 給田

給田
きゅうでん

荘園領主が荘官(下司・公文 (くもん) ・預所 (あずかりどころ) など)や地頭職務給として与えた田
畠の場合は給畠という。年貢・公事 (くじ) は免除されている。下人や所従を使って耕作したり,一般百姓に請作 (うけさく) させたりした。
牛肉と馬鈴薯
ぎゅうにくとばれいしょ @@@LINK=牛肉と馬鈴薯 牛肉と馬鈴薯

牛肉と馬鈴薯
ぎゅうにくとばれいしょ

明治後期,国木田独歩の短編小説。1901年発表。
給人
きゅうにん @@@LINK=給人 給人

給人
きゅうにん

③戦国〜江戸時代,大名の家臣のうち支配地(知行地)を有した者
①古代,年給をうけた人。
②鎌倉時代,将軍から所領の恩給をうけた人。
領主権の強化をめざす大名は給人の知行権の制限につとめた。
弓馬の道
きゅうばのみち @@@LINK=弓馬の道 弓馬の道

弓馬の道
きゅうばのみち

中世武士社会成立期における実践的武士道
兵 (つわもの) の道・弓矢の習 (ならい) などともいう。武士の勃興によって生まれた社会道徳で,その根本主従信義を重んじ,礼節武勇廉恥 (れんち) ・質実を尊び守ることが美徳とされた。のち江戸時代に理論的に構成されて武士道となる。
己酉約条
きゆうやくじょう @@@LINK=己酉約条 己酉約条

己酉約条
きゆうやくじょう

1609年,対馬宗氏朝鮮と結んだ条約慶長条約ともいう。
窮理学
きゅうりがく @@@LINK=窮理学 窮理学

窮理学
きゅうりがく

江戸後期〜明治初年にかけて用いられた物理学や哲学の呼称
朱子学で道理を窮 (きわ) める方法として使われたが,蘭学が盛んになると自然科学の研究の意味に用いられ,明治時代に入ると書名に多くつけられた。大学南校(のち東京大学)では教科名として用いた。
旧里帰農令
きゅりきのうれい @@@LINK=旧里帰農令 旧里帰農令

旧里帰農令
きゅりきのうれい

江戸時代後期,1790年に寛政の改革の一つとして出された帰農奨励法
天明の飢饉で増加した江戸の人口を減らすため,幕府は正業をもたない人に資金を与えて農村に帰ることを勧めたが,効果はなかった。
教育委員会
きょういくいいんかい @@@LINK=教育委員会 教育委員会

教育委員会
きょういくいいんかい

1948年に設けられた地方教育行政機関
教育委員会法に基づいて,市町村および都道府県に設置された。教育行政について民主制・独立制・地方分権の3原則実現を意図し,委員も公選制であったが,1956年「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」ができ,教育委員会法は廃止され,教育委員は任命制となった。
教育基本法
きょういくきほんほう @@@LINK=教育基本法 教育基本法

教育基本法
きょういくきほんほう

1947年公布された第二次世界大戦後の民主主義教育の基本法
1946年アメリカ教育使節団の報告書に基づき,安倍能成を中心とした教育刷新委員会が作成。日本国憲法の精神に基づき,(1)教育の目的と方針,(2)教育の機会均等,(3)9か年の義務教育,(4)男女共学や教育の政治・宗教ないし不当な支配からの独立,などの内容をもつ。これに基づいて,学校教育法・教育委員会法が制定された。
教育勅語
きょういくちょくご @@@LINK=教育勅語 教育勅語

教育勅語
きょういくちょくご

1890(明治23)年,明治天皇によって発布された戦前の教育の根本方針を示した勅語
正式には「教育に関する勅語」という。山県有朋内閣のもとで,井上毅 (こわし) ・元田永孚 (ながざね) らが起草。儒教的徳目を基礎に忠君愛国などの国民道徳を説く。天皇の写真(御真影 (ごしんえい) )とともに全国の学校に配布,礼拝・奉読の強制により国体観念を国民に植えつけ,天皇制の精神的支柱とした。第二次世界大戦後,1948年国会で失効を議決
教育二法
きょういくにほう @@@LINK=教育二法 教育二法

教育二法
きょういくにほう

1954年に成立した教育関係の2法律
義務教育諸学校で特定政党への支持を禁止した「義務教育における教育の政治的中立確保に関する臨時措置法」と,教育公務員の政治的行為に制限を加えた「教育公務員特例法一部改正法」の2法で,1954年2月吉田茂内閣国会提出日教組をはじめとする激しい反対運動にもかかわらず可決され,6月に公布された。なお,翌'55年鳩山一郎内閣は,教育委員を任命制とする法案を通過させた。
教育令
きょういくれい @@@LINK=教育令 教育令

教育令
きょういくれい

1879(明治12)年に公布された自由主義的教育法規
1872年公布の画一的な学制に代わり,アメリカの教育制度を参考に,学区制を廃し,学校の設置・管理を町村に任せるなどの地方の実情に即したものに改めようとした。しかし各地で小学校廃止や就学児童減少などの現象がおこったので,翌'80年改正教育令が公布され,学校の設置・管理に関し,政府統制が強化された。
教王護国寺
きょうおうごこくじ @@@LINK=教王護国寺 教王護国寺

教王護国寺
きょうおうごこくじ

京都市南区九条町にある東寺真言宗の総本山
東寺ともいう。796年に平安京羅城門の東に建てられたのが起源。823年空海が嵯峨天皇から賜り,定住僧50人を置き真言宗の道場とした。真言宗の密教を東密といい,比叡山の台密とともに平安時代貴族信仰を集め,多くの寺領荘園を持った。また平安時代の美術品・文書を多く保存している。応仁の乱(1467〜77)後炎上し,のち徳川家光のころに再建された。
狂歌
きょうか @@@LINK=狂歌 狂歌

狂歌
きょうか

江戸時代の滑稽風刺の短歌
戦国時代から盛んであった。江戸狂歌には前期の大坂を中心とする浪花 (なにわ) 狂歌と,中期以後江戸を中心とする天明狂歌の2流がある。特に天明年間(1781〜89)は最盛期で,唐衣橘洲 (からごろもきつしゆう) ・四方赤良 (よものあから) (大田南畝)・朱楽管江 (あけらかんこう) ・宿屋飯盛 (やどやのめしもり) (石川望)らが輩出した。また歌集としては『万載狂歌集』など著名で,一時は江戸文学の主流を占めた。
侠客
きょうかく @@@LINK=侠客 侠客

侠客
きょうかく

江戸時代,仁侠を看板とした遊び人
男伊達 (おとこだて) ・奴 (やつこ) ・歌舞伎者・六方者などがそれである。旗本出身の旗本奴,町人出身の町奴が有名。それぞれ組をつくり張り合った。賭博 (とばく) ・けんか渡世を事とし,親分・子分の関係で結ばれていた。幕府もしばしば禁じた。
京学
きょうがく @@@LINK=京学 京学

京学
きょうがく

江戸時代,京都を中心に発達した朱子学派の一派
藤原惺窩 (せいか) を祖とし,詩文尊重の風がある。林羅山・松永尺五 (せきご) ・木下順庵らを輩出。また順庵の門下から新井白石・室鳩巣 (むろきゆうそう) ・雨森芳洲らが出て,海南学派とともに朱子学の主流をなした。
行基
ぎょうき @@@LINK=行基 行基

行基
ぎょうき

668〜749
奈良時代の高僧
和泉国(大阪府)の人。渡来系氏族高志 (こし) 氏の出身。弟子を率い池溝を開き布施屋(宿泊施設)をつくるなど社会事業につとめた。717年僧尼令違反のかどで民間布教を禁止されたが,聖武天皇により布教を公認された。のち東大寺大仏造営に際し,弟子を率いて協力し,により,745年最初の大僧正となった。生前から菩薩と仰がれ,死後は行基信仰が生まれた。

教行信証
きょうぎょうしんしょう @@@LINK=教行信証 教行信証

教行信証
きょうぎょうしんしょう

鎌倉中期,親鸞の著書。浄土真宗の根本聖典
正しくは『顕浄土真実教行証文類』という。1224年成立と伝えられるが不明。6巻。教・行・信・証・真仏土・化身土の6部からなり,他力本願極楽往生を説いたもの。
京家
きょうけ @@@LINK=京家 京家

京家
きょうけ

藤原四家の一つ
藤原不比等の4男麻呂 (まろ) の系統で,麻呂が左京大夫を兼ねたことからこう呼ばれた。次男浜成が女婿氷上川継謀反坐して以降,四家のうちで最も早く衰えた。
狂言
きょうげん @@@LINK=狂言 狂言

狂言
きょうげん

室町時代以来,能楽の幕間に演じられる軽い滑稽劇
歌舞伎狂言と区別して能狂言という。能狂言は猿楽から分かれたものであり,狂言はその滑稽味が本体となって成立したといわれる。題材を日常生活にとり,庶民や大名の姿を笑いと風刺のうちに描く。特に強者・権力者に対する風刺性は中世の下剋上的性格を反映している。
恐慌
きょうこう @@@LINK=恐慌 恐慌

恐慌
きょうこう

資本主義内部の矛盾からおこる経済界の混乱
資本主義制度では生産は私的利潤の追求が目的で,競争的に行われ,その結果過剰生産で商品が売れなくなり,物価が下落し,会社が破産し,失業者が出る現象がおこる。金融・信用面や農業を中心とするものを金融恐慌・農業恐慌という。日本では1890年が最初,日清・日露・第一次世界大戦後,特に反動恐慌がおこり,1920年代に震災恐慌,金融恐慌についで世界恐慌が波及した。
強硬外交
きょうこうがいこう @@@LINK=強硬外交 強硬外交

強硬外交
きょうこうがいこう

昭和前期,田中義一内閣の対中国政策。憲政会民政党協調外交政策に対して,軍事力背景とした侵略的外交。積極外交ともいう。

あい @@@LINK=藍 藍


あい

藍色の植物染料
古来染料として利用され,山城国京都府)・摂津国大阪府)が主産地であったが,江戸時代に阿波国(徳島県)から大量に産出。色があせず布質の耐久性を増すため,庶民用作業衣などの染料として普及。植物の藍は四木三草の一つにあげられた。19世紀末ころから,鉱物性藍染料の利用により栽培が激減した。
IMF8条国
アイエムエフはちじょうこく @@@LINK=IMF8条国 IMF8条国

IMF8条国
アイエムエフはちじょうこく

IMF(国際通貨基金)協定第8条を義務づけられた国
日本は1964年に国際収支を理由として為替管理を行えない国となった。
ILO87号条約
アイエルオーはちじゅうななごうじょうやく @@@LINK=ILO87号条約 ILO87号条約

ILO87号条約
アイエルオーはちじゅうななごうじょうやく

国際労働機関(International Labor Organization)で採択された,結社の自由と団結権擁護に関する条約
日本は1951年に ILO (国際労働機関)に再加盟したが,公共企業体等労働関係法の争議権否認,団体交渉の制限,公共企業体等労働委員会の設置などの問題があり,ILO87号条約批准について,国会紛糾。'65年ドライヤーを団長とするILO対日調査団の来訪調査後,同年に批准し,関連国内法の改正が行われた。
相川
あいかわ @@@LINK=相川 相川

相川
あいかわ

新潟県佐渡島西岸にある町。佐渡金山の所在地
江戸時代,鉱山苦役のために送られた流人の増加に伴って町がおこった。幕府は佐渡奉行所を設置し,金山および佐渡支配にあたった。
愛郷塾
あいきょうじゅく @@@LINK=愛郷塾 愛郷塾

愛郷塾
あいきょうじゅく

1931年,水戸郊外常磐村(水戸市)に創立された橘孝三郎の私塾
農本主義的な教育機関で,正式には「自営的農村勤労学校愛郷塾」という。極右的・暴力的になり,血盟団の井上日召や陸海軍青年将校らと関係をもち,五・一五事件では農民決死隊を編成して,変電所を襲撃した。事件後壊滅した(1933)。
愛国公党
あいこくこうとう @@@LINK=愛国公党 愛国公党

愛国公党
あいこくこうとう

①1874(明治7)年に結成された日本最初の自由民権政社
②明治中期,板垣退助が中心となり結成した政党
征韓論に敗れて辞職した前参議板垣退助らを中心として結成。民撰議院設立建白書を左院に提出した。のちまもなく消滅。
大同団結運動分裂後の1890(明治23)年5月結成。同年9月立憲自由党に発展した。
愛国社
あいこくしゃ @@@LINK=愛国社 愛国社

愛国社
あいこくしゃ

1875年,板垣退助の立志社が中心となり,各地の自由民権政社に呼びかけて大阪で結成した最初の全国的政社(政党)(〜'80)
愛国公党後身。当初は少数の士族が中心で国民的基盤はない。板垣退助が大阪会議後政府に復帰したのでまもなく解体。1878年再興し,国会開設運動を推進。'80年国会期成同盟と改称した。
愛国婦人会
あいこくふじんかい @@@LINK=愛国婦人会 愛国婦人会

愛国婦人会
あいこくふじんかい

明治〜昭和期の女性の,軍事援護のための団体
義和団事件(北清事変)の戦線慰問から帰った奥村五百子 (いおこ) が中心となり,1901年皇族・華族など上流婦人を会員とし,軍事援護を目的として設立。最盛期には338万の会員をもった。満州事変後結成された大日本国防婦人会と対立することもあったが,'42年大日本婦人会に統合された。
相沢事件
あいざわじけん @@@LINK=相沢事件 相沢事件

相沢事件
あいざわじけん

1935年,陸軍部内に生じた統制派と皇道派の派閥争いが表面化した事件
皇道派の教育総監真崎甚三郎大将が罷免されたのを憤慨した同派の相沢三郎中佐が,8月12日,統制派の中心人物と目された陸軍省軍務局長永田鉄山少将を陸軍省内で斬殺した事件。二・二六事件誘発の一因となった。
会沢正志斎
あいざわせいしさい @@@LINK=会沢正志斎 会沢正志斎

会沢正志斎
あいざわせいしさい

1782〜1863
幕末の水戸藩の儒者
名は安 (やすし) 。藤田幽谷に儒学を学び,藩主徳川斉昭 (なりあき) を助けて藩政改革に尽くし,彰考館総裁・弘道館教授を歴任。水戸学の理論的指導者で尊攘派の中心人物であった。主著に『新論』。
アイゼンハウアー
Dwight David Eisen-hower @@@LINK=アイゼンハウアー アイゼンハウアー

アイゼンハウアー
Dwight David Eisen-hower

1890〜1969
アメリカ第34代大統領(在職1953〜61)
陸軍軍人。第二次世界大戦では連合国軍最高司令官としてノルマンディー作戦を指揮。大統領としては反共「まき返し政策」を推進。1960年,日本政府の招待で来日が予定されていたが,新安保条約反対運動にともなう訪日阻止デモのため,来日が中止となった。
相対済し令
あいたいすましれい @@@LINK=相対済し令 相対済し令

相対済し令
あいたいすましれい

1719(享保4)年,享保の改革一環として徳川吉宗が発した法
金銭貸借訴訟の激増をさばくため,当事者同士の話し合いで解決させ,評定所では受理しないこととした。負債に悩む旗本御家人救済をねらったもので,棄捐 (きえん) 令と異なり債権は存続するが,借金のふみ倒しが続出し,金融界は混乱した。この時を含めて,江戸時代を通じ9回出されている。
愛知用水
あいちようすい @@@LINK=愛知用水 愛知用水

愛知用水
あいちようすい

岐阜県南部の兼山から木曽川の水を導入して知多半島一円にひいた用水
建設費423億円,5か年の工事をもって完成,1961年9月通水開始。潅漑面積は3万ha余り。用水の目的は農業用水・都市用水(工業・飲料)・電力開発の三つで,世界銀行や余剰農産物の見返り円資金を使い,国土総合開発のモデルケースとしてつくられた。
会津塗
あいづぬり @@@LINK=会津塗 会津塗

会津塗
あいづぬり

会津若松市(福島県)で産する漆器
木地に柿渋を塗り,漆 (うるし) の上絵に金泥を用いた蒔絵 (まきえ) を施す。1590年,領主蒲生氏郷 (がもううじさと) が旧領の近江日野から漆工を伴い,保護奨励したのが始まりという。江戸時代,会津特産の漆を用い発展した。
会津農書
あいづのうしょ @@@LINK=会津農書 会津農書

会津農書
あいづのうしょ

江戸前期の農学書
1684年,佐瀬与次右衛門の著。上・中・下3巻で,会津地方の水田・畑作・農業一般を体系的に記述。
会津藩
あいづはん @@@LINK=会津藩 会津藩

会津藩
あいづはん

近世,陸奥岩代(福島県)会津地方を領した藩
中世葦名 (あしな) 氏の支配についで,伊達 (だて) ・蒲生 (がもう) ・上杉,再び蒲生・加藤氏が領し,1643年保科正之 (ほしなまさゆき) が藩主となり,会津松平藩のとなった。石高23万石。元禄(1688〜1704)以降藩財政が窮迫し,寛政(1789〜1801)のころ蠟 (ろう) ・漆などの専売制を強化して藩政改革を行う。9代松平容保 (かたもり) は京都守護職となり佐幕派の中心として活躍。維新には新政府軍の征討をうけ(戊辰 (ぼしん) 戦争),抗戦するがのち降伏した。
アイヌ
Ainu @@@LINK=アイヌ アイヌ

アイヌ
Ainu

北海道・樺太 (からふと) ・千島に現存する一種族
人種・民族の系統不明。アイヌが縄文文化を営んでいたという説(アイヌ人説)のほか,倭王武の上表文にみえる毛人や古代史の蝦夷 (えみし) もアイヌだという説がある。
アイヌ人説
アイヌじんせつ @@@LINK=アイヌ人説 アイヌ人説

アイヌ人説
アイヌじんせつ

縄文時代人は現代日本人とは異なった先住民で,アイヌ人の祖先であるという
東大教授小金井良精 (よしきよ) (1858〜1944)が,骨格の研究から唱えた説であるが,正しいかどうか結論はまだ出されていない。
アイヌ新法
アイヌしんぽう @@@LINK=アイヌ新法 アイヌ新法

アイヌ新法
アイヌしんぽう

アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及および啓発に関する法律
1997年7月に施行された。これはアイヌを日本の法律の上で初めて民族として認めたもので,アイヌの伝統的な文化を国と地方公共団体が保証し,振興していくものである。この結果,1899年に制定された「北海道旧土人保護法」は廃止された。
アウグスチノ会
アウグスチノかい
Augustinians @@@LINK=アウグスチノ会 アウグスチノ会

アウグスチノ会
アウグスチノかい
Augustinians

安土桃山・江戸初期に日本で布教活動したスペイン系カトリックの一教団
聖アウグスチヌス(354〜430)の規制を守る修道会派で,15世紀以後,アメリカ大陸やアジアに布教活動を行う。日本では,1602年から,おもに九州地方に布教したが,'37年に終わる。
亜欧堂田善
あおうどうでんぜん @@@LINK=亜欧堂田善 亜欧堂田善

亜欧堂田善
あおうどうでんぜん

1748〜1822
江戸後期の洋風画家・銅版画家
陸奥(福島県)岩代の人。円山派の僧月僊 (げつせん) に師事し,谷文晁にも学んだ。洋画の遠近法や陰影をつけ,また蘭書によって銅版画を創案し,鑑賞的な風景画のほか実用にまで供した。代表作に『金竜山浅草寺』など。

青木昆陽
あおきこんよう @@@LINK=青木昆陽 青木昆陽

青木昆陽
あおきこんよう

1698〜1769
江戸中期の儒学者。蘭学の先駆者
通称文蔵。江戸の商人の子として生まれ,伊藤東涯に儒学を学んだ。凶年救荒作物として甘藷 (かんしよ) に注目,その栽培法を研究。1735年『蕃薯 (ばんしよ) 考』を著し,将軍徳川吉宗に甘藷栽培の重要性を建白して採用され,「甘藷先生」といわれた。'40年幕府の書物方となり,古文書調査採訪にあたった。また吉宗の命により蘭学を学び,『和蘭 (オランダ) 語訳』などを著した。

青木繁
あおきしげる @@@LINK=青木繁 青木繁

青木繁
あおきしげる

1882〜1911
明治後期の天才的洋画家
福岡県の生まれ。東京美術学校で,黒田清輝の指導をうけ白馬会賞を受賞。ロマン的な独自の画風を生み出し,29歳で没するまでに『海の幸』『わだつみのいろこの宮』などの名作を残した。

青木周蔵
あおきしゅうぞう @@@LINK=青木周蔵 青木周蔵

青木周蔵
あおきしゅうぞう

1844〜1914
明治時代の外交官
長州藩出身。各国公使を歴任。井上馨外務卿の次官として条約改正案を起草した。1889年第1次山県有朋内閣の外相となり条約改正交渉を進めたが大津事件で引責辞職(1891)。'94年駐英公使在任中陸奥宗光外相と協力して,領事裁判権治外法権)の撤廃を内容とした日英通商航海条約の調印に成功。'98年には再び第2次山県内閣の外相として北清事変をめぐる外交交渉にあたった。

青木木米
あおきもくべい @@@LINK=青木木米 青木木米

青木木米
あおきもくべい

1767〜1833
江戸後期の陶工・文人画家
京都の木屋という料理屋に生まれ,幼名を八十八 (やそはち) といったので木米と号した。陶芸を志し京都粟田に窯 (かま) を築き,茶器に趣ある作品を残した。また文人画にもすぐれ,茶色と藍色を用いた山水画を描いた。

青地林宗
あおちりんそう @@@LINK=青地林宗 青地林宗

青地林宗
あおちりんそう

1775〜1833
江戸後期の蘭方医・物理学者
伊予(愛媛県)松山藩医の子。蘭学を杉田玄白に学び,幕府天文方訳員となり洋書の翻訳に従事。物理学を重んじ実験研究を行った。物理学書『気海観瀾 (きかいかんらん) 』はその代表作。

青不動
あおふどう @@@LINK=青不動 青不動

青不動
あおふどう

京都市青蓮院 (しようれんいん) 所蔵の平安中期の不動明王画像
作者不詳。全身を青色にり真紅の炎との調和を強く出した厳粛な姿をしている。高野山の『赤不動』,園城寺 (おんじようじ) の『黄不動』とともに三不動と呼ばれる密教美術の代表作。
青本
あおほん @@@LINK=青本 青本

青本
あおほん

江戸中期の草双紙の一つ
表紙は萌黄 (もえぎ) 色(緑色)であるが,現存するものは黄色に変色している。内容は黒本と同様で,浄瑠璃・歌舞伎からとった軍記物・仇討物が主。黒本が成人向きであるのにくらべ,やや若者向き。
赤い鳥
あかいとり @@@LINK=赤い鳥 赤い鳥

赤い鳥
あかいとり

大正・昭和期,鈴木三重吉主宰の児童文学雑誌
1918年創刊。一時休刊したが '36年まで続いた。北原白秋・島崎藤村・小川未明らの寄稿を得て,芸術的香気豊かな児童文学を樹立し,児童教育にも大きな影響を与えた。
赤蝦夷風説考
あかえぞふうせつこう @@@LINK=赤蝦夷風説考 赤蝦夷風説考

赤蝦夷風説考
あかえぞふうせつこう

江戸後期,工藤平助の著した北方問題に関する著述
長崎で聞いた風説をもとに,赤蝦夷すなわちロシア人が樺太 (からふと) ・千島方面に来航,密貿易する実情を述べ,ロシアとの公式の貿易と蝦夷地開発の必要性を論述。1783年脱稿し,ときの老中田沼意次 (おきつぐ) に献じたので,幕府の蝦夷地調査開発計画のもとになった。
赤坂城
あかさかじょう @@@LINK=赤坂城 赤坂城

赤坂城
あかさかじょう

鎌倉末期,元弘の変に際し楠木正成が挙兵して拠った河内国(大阪府南河内郡)の城
1331年幕府の大軍に攻められて陥落。正成はこの城と,翌年たてこもった千早城に幕府の大軍をひきつけ討幕軍蜂起をうながした。
赤坂離宮
あかさかりきゅう @@@LINK=赤坂離宮 赤坂離宮

赤坂離宮
あかさかりきゅう

東京都港区元赤坂にある旧皇室離宮
元紀州徳川家の中屋敷跡地。東宮御所として,片山東熊 (とうくま) らの設計により,1908年フランス式欧風宮殿が完成。'48年以降国立国会図書館(〜'61),その後大規模な改装復元のうえ,現在は迎賓館とされている。
明石原人
あかしげんじん @@@LINK=明石原人 明石原人

明石原人
あかしげんじん

兵庫県明石市西八木海岸で発見された化石人骨
1931年直良 (なおら) 信夫が腰骨を発見。ニッポナントロプス‐アカシエンシスと命名される。'45年の戦災で焼失したが,石膏模型により,北京原人に近い更新世人類と判定された。しかし,最近の研究では,完新世の人骨とする見方が強い。
赤染衛門
あかぞめえもん @@@LINK=赤染衛門 赤染衛門

赤染衛門
あかぞめえもん

生没年不詳
平安中期の女流歌人
右衛門尉 (じよう) 赤染時用 (ときもち) の娘とも平兼盛 (かねもり) の娘ともいわれる。藤原道長の妻倫子 (りんし) ,その子で中宮の彰子 (しようし) に仕え,大江匡衡 (まさひら) の妻となった。和泉式部と並ぶ歌人で家集『赤染衛門集』がある。『栄華物語』の前半は彼女の作といわれる。

あがた @@@LINK=県 県


あがた

大和政権の直轄地および国造 (くにのみやつこ) の下部行政組織
大和政権に服属した地方豪族の支配地が,大和政権治下に組み入れられたときの名称と考えられている。畿内とその周辺の県は,政権の直轄地としての性格が強い。大化の改新で廃止された。
県居学派
あがたいがくは @@@LINK=県居学派 県居学派

県居学派
あがたいがくは

江戸中期,賀茂真淵 (まぶち) 門下学派
県居は真淵の。『万葉集』をはじめとして日本古典を研究し,儒教仏教などの外来思想に影響されない純粋な古代精神の特質精髄を明らかにしようとする学派。楫取魚彦 (かとりなひこ) ・加藤千蔭・村田春海らが有名。のち国学に発展する。
県主
あがたぬし @@@LINK=県主 県主

県主
あがたぬし

大化以前の県の首長
多くは大和政権に服属した地方豪族が任じられた。のち姓 (かばね) の一種となった。
県犬養三千代
あがたのいぬかいのみちよ @@@LINK=県犬養三千代 県犬養三千代

県犬養三千代
あがたのいぬかいのみちよ

橘三千代
県召除目
あがためしのじもく @@@LINK=県召除目 県召除目

県召除目
あがためしのじもく

正月に諸国の国司など地方官を任命した宮廷での年中行事
春の除目ともいう。通常正月下旬から2月に行われ,儀式は3日間にわたった。
上野焼
あがのやき @@@LINK=上野焼 上野焼
うえのやき @@@LINK=上野焼 上野焼

上野焼
あがのやき

福岡県田川郡赤池町上野で産する陶器
17世紀初め小倉藩主となった細川忠興のもとで,朝鮮から渡来した陶工の尊階(和名,上野喜蔵)が創始。小堀遠州好みの茶碗もつくり,遠州七窯の一つに数えられる。1632年,尊階は細川氏の熊本移封に従い八代 (やつしろ) に移り,八代焼となった。

上野焼
うえのやき

あがのやき
赤旗事件
あかはたじけん @@@LINK=赤旗事件 赤旗事件

赤旗事件
あかはたじけん

明治後期におこった社会主義運動弾圧事件
1908年6月,大杉栄・荒畑寒村ら社会主義者が,東京神田の錦輝館での同志の出獄歓迎会終了後「無政府共産」と書いた赤旗をかかげたので,堺利彦・大杉ら十数名が検挙され,うち10名が禁錮刑に処せられた。以後弾圧は強化され大逆事件に至る。
赤羽工作分局
あかばねこうさくぶんきょく @@@LINK=赤羽工作分局 赤羽工作分局

赤羽工作分局
あかばねこうさくぶんきょく

明治初期,東京三田赤羽に設立された官営機械製作所
1871年工部省のもとに,旧肥前藩納付の機械を用いて赤羽製鉄寮として開設。蒸気機関・紡績機械など各種機械の製作と技術者養成を進め,'73年赤羽製作所,さらに'77年赤羽工作分局と改称。'83年海軍省に移管し,官営軍需工場となった。
赤不動
あかふどう @@@LINK=赤不動 赤不動

赤不動
あかふどう

高野山明王院所蔵の不動明王画像
平安前期の作と伝える。作者不詳。全身を紅に彩り真紅の炎を配した迫力ある仏像。園城寺 (おんじようじ) の『黄不動』,蓮院 (しようれんいん) の『青不動』とともに三不動と呼ばれる密教美術代表作
赤本
あかほん @@@LINK=赤本 赤本

赤本
あかほん

江戸時代の草双紙の一つ
表紙が赤いのでこの名があり,赤草紙ともいう。大きさは半紙の半分。1冊は5丁(10ページ)からなり,桃太郎・文福茶釜猿蟹合戦などが題材で,絵を主にした子供向きの本。
赤間関
あかまがせき @@@LINK=赤間関 赤間関

赤間関
あかまがせき

長門(山口県)豊浦郡にあり,現在の下関市赤間町付近。関門海峡を隔てて門司に相対する
馬関・下関ともいう。阿弥陀寺(赤間神宮境内には源平合戦に壇の浦で滅亡した平家一族の墓がある。江戸時代には上方と北国とを結ぶ航路(西廻り航路)の中継地として,また幕末には下関砲撃事件の地として有名。日清戦争の講和条約もこの地で結ばれた。
赤松氏
あかまつし @@@LINK=赤松氏 赤松氏

赤松氏
あかまつし

中世,播磨 (はりま) の豪族。南北朝・室町時代の有力な守護大名
村上源氏。則村 (のりむら) は元弘の変で後醍醐 (ごだいご) 天皇に味方し,建武新政府に参加したが,恩賞に不満をもち足利尊氏に属した。初め播磨守護に任じられ,のち備前・美作 (みまさか) (岡山県)の守護を兼ね,足利方の有力な守護大名となり,四職家の一つに数えられた。1441年満祐 (みつすけ) が将軍足利義教 (よしのり) を殺した嘉吉の乱で幕府軍と戦って敗死し,没落。その後一族の政則が再興したが,義祐のとき家臣浦上氏に領国を追われ,1600年関ケ原の戦いで則房が戦死して一族は離散した。
赤松則村
あかまつのりむら @@@LINK=赤松則村 赤松則村

赤松則村
あかまつのりむら

1277〜1350
南北朝時代の武将。播磨守護
法名円心。元弘の変に反幕府軍として播磨で挙兵し活躍したが,建武の新政では優遇されず,足利尊氏の挙兵とともに北朝に投じ活躍。尊氏から播磨守護に任じられ,赤松氏繁栄の基礎を築いた。

赤松満祐
あかまつみつすけ @@@LINK=赤松満祐 赤松満祐

赤松満祐
あかまつみつすけ

1381〜1441
室町中期の武将。播磨守護
則村 (のりむら) の曽孫。将軍足利義教 (よしのり) が満祐の所領を奪って一族の赤松貞村に与えたりしたので,1441年義教を京都の自邸に招いて殺し,播磨に帰った。しかし山名持豊らの幕府軍に攻められ自殺した。

秋田城
あきたじょう @@@LINK=秋田城 秋田城

秋田城
あきたじょう

733年聖武天皇のとき,出羽柵からさらに北進して蝦夷 (えみし) に備え設置された城柵
奈良時代から平安時代にかけて存続し,陸奥鎮守府と並び,朝廷の東北経営の拠点とされた。現在の秋田市雄物川河口にあり,城の規模は東西1.3㎞,南北1㎞。停廃の時期は不明。
秋田城介の乱
あきたじょうのすけのらん @@@LINK=秋田城介の乱 秋田城介の乱

秋田城介の乱
あきたじょうのすけのらん

霜月騒動
秋田藩
あきたはん @@@LINK=秋田藩 秋田藩

秋田藩
あきたはん

江戸時代,久保田(秋田市)を城下町とし,出羽国秋田地方を領した外様藩
関ケ原の戦いののち,1602年,鎌倉時代以来の領主秋田氏に代わって,常陸 (ひたち) から佐竹氏が移封され,明治維新に至る。表高20万石。幕末の藩主義堯 (よしたか) は尊王攘夷派として活躍,戊辰 (ぼしん) 戦争に際して奥羽越列藩同盟に対抗して功を認められた。
秋月の乱
あきづきのらん @@@LINK=秋月の乱 秋月の乱

秋月の乱
あきづきのらん

1876(明治9)年,福岡県秋月におこった保守的士族の反乱
宮崎車之助 (しやのすけ) ら旧秋月藩士は,新政府の開明的政策に反対して国権の拡張を唱え,神風連の乱に呼応し,萩の前原一誠の軍と合流しようとしたが,小倉鎮台兵に鎮圧された。
秋の除目
あきのじもく @@@LINK=秋の除目 秋の除目

秋の除目
あきのじもく

除目
秋夜長物語
あきのよのながものがたり @@@LINK=秋夜長物語 秋夜長物語

秋夜長物語
あきのよのながものがたり

室町初期の絵物語。御伽 (おとぎ) 草子の先駆
14世紀後半の成立。作者不詳。僧侶と稚児 (ちご) との同性愛をテーマとする稚児物語の系統に属する。『太平記』の影響が認められ,構想の妙と簡潔な文章で,この系統の作品中の傑作といわれる。
悪銭
あくせん @@@LINK=悪銭 悪銭

悪銭
あくせん

銭貨の使用に際して排除された質の粗悪な銅銭
鐚銭 (びたせん) ともいう。室町時代に通用していた銭貨は種類が多く,品質も均等ではなく,人びとは良銭による売買を希望し,悪銭を排除した。このとき排除された悪質の銅銭,破損・摩滅した銭,私鋳銭などが悪銭と考えられた。
悪僧
あくそう @@@LINK=悪僧 悪僧

悪僧
あくそう

武装した僧侶・僧兵のこと
平安末期から延暦寺興福寺などの大寺院では,寺院警備と自衛などの必要から武力を蓄えるようになり,武力にすぐれた僧兵が生まれた。彼らは武力をたのみ横暴なふるまいをすることが多く,院政期の南都北嶺による強訴の中心となった。悪僧の「悪」は強く勇猛の意味である。
芥川竜之介
あくたがわりゅうのすけ @@@LINK=芥川竜之介 芥川竜之介

芥川竜之介
あくたがわりゅうのすけ

1892〜1927
大正時代の小説家
東京の生まれ。東大英文科在学中,菊池寛・久米正雄らと第3・4次の『新思潮』を刊行して短編小説を発表。新鮮な着想,巧緻で洗練された文体によって新理知派と呼ばれた。1927(昭和2)年,人生と芸術への懐疑から自殺。代表作に『羅生門』『鼻』『芋粥 (いもがゆ) 』『地獄変』『河童 (かつぱ) 』など。
悪党
あくとう @@@LINK=悪党 悪党

悪党
あくとう

鎌倉中期以降に現れた新興領主層
農村経済の発達,農村の分解進展に伴って,鎌倉幕府や荘園領主の支配に従わず,武力をたのみ,自力で地域的な封建的権力を在地につくろうとする武士・領主層が,畿内先進地帯に多く現れた。彼らの行動は支配者側の体制を崩すものであったため,鎌倉幕府からは体制を乱す者という意味あいから悪党と呼ばれ,取締りの対象とされた。
悪人正機説
あくにんしょうきせつ @@@LINK=悪人正機説 悪人正機説

悪人正機説
あくにんしょうきせつ

鎌倉初期の僧親鸞の主張した宗
人間は本来罪深い凡夫(悪人)であること,このような悪人を救済し成仏させるのが阿弥陀如来の本願であることを強調し,悪人こそ弥陀に救済される対象であることを信じ,ひたすら念仏を唱えることを説いた。
安愚楽鍋
あぐらなべ @@@LINK=安愚楽鍋 安愚楽鍋

安愚楽鍋
あぐらなべ

明治初期,仮名垣魯文 (かながきろぶん) の滑稽本
1871〜72年刊。3編5冊。文明開化の風俗を当時流行の牛鍋屋に集まる人たちの浮世談義を通して,風刺的に描いたもの。
明智光秀
あけちみつひで @@@LINK=明智光秀 明智光秀

明智光秀
あけちみつひで

?〜1582
安土桃山時代の武将
通称十兵衛。美濃(岐阜県)の守護土岐氏の一族。織田信長に仕え,1571年近江坂本に築城,近江国を領有し,日向守となった。'79年丹波の波多野氏を討ったが,この際の処置を信長にきびしく叱責された。'82年信長の中国攻めの途中,本能寺にこれを攻めて自殺させたが,豊臣秀吉との山崎の戦いに敗れ,敗走の途中,農民に殺された。

上知令
あげちれい @@@LINK=上知令 上知令

上知令
あげちれい

江戸後期,天保の改革の一政策
「じょうちれい」とも読み,「上地令」とも書く。1843(天保14)年老中水野忠邦が発令。江戸・大坂周辺を天領とし,その地域内の私領をほかへ移そうとするもの。天領を集結・統制し幕府権力の強化を意図したが,大名・旗本らの猛反対中止,忠邦失脚の要因となる。適用範囲は江戸・大坂とも10里四方,または大坂のみは5里四方とのがある。
上米
あげまい @@@LINK=上米 上米

上米
あげまい

江戸中期,享保の改革の一政策
8代将軍徳川吉宗が,1722(享保7)年幕府の財政難打開の緊急措置として実施。大名に石高1万石につき100石ずつの米を幕府に上納させ,かわりに参勤交代での江戸滞在期間を半年に半減するもので,いちおうの効果をあげ '31年廃止。諸藩でもこれ以前から家臣の俸禄の一部を上納させた例がある。
朱楽菅江
あけらかんこう @@@LINK=朱楽菅江 朱楽菅江

朱楽菅江
あけらかんこう

1740〜1800
江戸後期の狂歌師
本名山崎景貫 (かげつら) 。幕府の与力。唐衣橘洲 (からごろもきつしゆう) ・四方赤良 (よものあから) (大田南畝)とともに狂歌三大家の一人に数えられる。著書に『故混馬鹿集』『大抵御覧』など。

阿衡事件
あこうじけん @@@LINK=阿衡事件 阿衡事件

阿衡事件
あこうじけん

平安中期,宇多天皇即位の際におこった政争
887(仁和3)年,宇多天皇は藤原基経を関白にしようとしたが,2度目の詔勅に「阿衡(中国の官名)の任をもって卿の任となせ」とあったため,阿衡は位のみで職掌を伴わないとの藤原佐世 (すけよ) の意見に従って基経は執務放棄。天皇は起草者橘広相 (ひろみ) を処罰し,訂正した詔勅を発して事件を解決した。藤原氏の他氏排斥の一例。阿衡の紛議ともいう。
赤穂四十七士
あこうしじゅうしちし @@@LINK=赤穂四十七士 赤穂四十七士

赤穂四十七士
あこうしじゅうしちし

1702(元禄15)年,高家 (こうけ) 筆頭吉良義央 (きらよしなか) 討入り,旧赤穂藩主浅野長矩 (あさのながのり) のを討った家老大石良雄ら47人の浪士
義央と長矩の人物像,刃傷事件のいきさつ,討入りに至る経過などについては不明なところが多いが,武士らしい美挙として多くの賞賛をうけた。浪士の処分につき議論多出したが,翌年2月幕府は一同に切腹を命じた。は東京都港区高輪の泉岳寺にある。

あさ @@@LINK=麻 麻


あさ

古代から広く利用された繊維植物
文時代の出土例があり,『魏志倭人伝にも記載がある。令制では布(麻布)は調の対象となる。大麻 (たいま) ・黄麻・亜麻・苧麻 (ちよま) があり,最も一般的な庶民の衣料原料として普及。織物としては,中世信濃(長野県)・越後(新潟県)で多く生産され,近世では,木綿におされたが,なお四木三草の一つにあげられ,奈良晒 (さらし) ・越後上布 (じようふ) ・近江蚊帳 (かや) などの名が高い。またさらした繊維を緒 (お) といい,魚網・綱・縄などの原料ともなった。
浅井氏
あさいし @@@LINK=浅井氏 浅井氏

浅井氏
あさいし

室町時代,近江国(滋賀県)の戦国大名
もと京極氏の被官。応仁の乱(1467〜77)後,亮政は京極家の内紛を機に,近江北部を占領。朝倉・斎藤・織田氏と結ぶ。1573年長政のとき織田信長に攻められ滅亡した。
浅井忠
あさいちゅう @@@LINK=浅井忠 浅井忠

浅井忠
あさいちゅう

1856〜1907
明治時代の洋画家
江戸に生まれ,工部美術学校でフォンタネージに学ぶ。1889年小山正太郎らと明治美術会を組織,のち京都に移り関西美術界に貢献した。褐色調で描いたので脂派 (やには) と呼ばれた。代表作に『収穫』『グレーの秋』など。

浅井長政
あさいながまさ @@@LINK=浅井長政 浅井長政

浅井長政
あさいながまさ

1545〜73
戦国時代の武将
織田信長の妹を (めと) る。六角氏の内紛に乗じ信長に協力して近江南部を平定し,足利義昭 (よしあき) の上洛を護衛した。のち1570年姉川の戦いでは朝倉義景に味方して信長と戦って敗れ,'73年小谷城で自刃し,浅井氏は滅亡した。

阿佐井野宗瑞
あさいのそうずい @@@LINK=阿佐井野宗瑞 阿佐井野宗瑞

阿佐井野宗瑞
あさいのそうずい

?〜1531
室町末期の儒医
堺の人。中国の医学儒学を合わせ学び,1528年明の医書『医書大全』を出版。その死後 '33年『論語集解』も刊行された。
浅井了意
あさいりょうい @@@LINK=浅井了意 浅井了意

浅井了意
あさいりょうい

?〜1691
江戸前期の仮名草子作者
松雲・瓢水子 (ひようすいし) ・昭儀坊 (しようぎぼう) と号した。経歴不詳。寛永・元禄期にかけ,質量ともにすぐれ,怪異ものをはじめ仮名草子に新生面を開いた。代表作に『御伽婢子 (おとぎぼうこ) 』『東海道名所記』『浮世物語』など。

安積艮斎
あさかごんさい @@@LINK=安積艮斎 安積艮斎

安積艮斎
あさかごんさい

1791〜1861
江戸後・末期の朱子学者
陸奥(福島県)安積郡に生まれ,佐藤一斎・林述斎に学んだ。24歳で神田駿河台に私塾見山楼を開き,のち陸奥二本松藩校教授,昌平坂学問所教授となった。主著に『艮斎文略』など。

安積疏水
あさかそすい @@@LINK=安積疏水 安積疏水

安積疏水
あさかそすい

明治三大用水の一つで,福島県安積地方開発のための灌漑用水路
内務卿大久保利通の建言により士族授産を目的とする政府事業として施工。オランダ人ドールンの設計・指導により,1879年起工,'82年通水。猪苗代湖から阿武隈川までの疏水で,3万㎢に灌漑。
安積澹泊
あさかたんぱく @@@LINK=安積澹泊 安積澹泊

安積澹泊
あさかたんぱく

1656〜1737
江戸中期の朱子学者
常陸 (ひたち) (茨城県)の人。水戸藩に仕え,朱舜水 (しゆしゆんすい) に学んだ。歴史に造詣 (ぞうけい) が深く,『大日本史』編纂の際彰考館総裁として,その功績は大きい。新井白石・室鳩巣 (むろきゆうそう) らとも親交があった。主著に『大日本史賛藪 (さんそう) 』『澹泊斎文集』など。

朝倉氏
あさくらし @@@LINK=朝倉氏 朝倉氏

朝倉氏
あさくらし

越前国(福井県)の戦国大名
南北朝内乱のとき,広景が足利方に属して越前国に新田氏を攻めて以来,同国に住し,守護斯波 (しば) 氏の被官となる。応仁の乱(1467〜77)に際し,斯波家の内紛に乗じ,孝景 (たかかげ) は越前国を横領して守護に任ぜられ,一乗に城を構え,分国法「朝倉孝景条々」を制定して領国支配を固めた。義景のとき織田信長に対抗,1573年滅亡した。
朝倉孝景条々
あさくらたかかげじょうじょう @@@LINK=朝倉孝景条々 朝倉孝景条々

朝倉孝景条々
あさくらたかかげじょうじょう

越前の戦国大名朝倉孝景(敏景・政景ともいう〔1428〜81〕)の制定した分国法
人材登用,節約,城下町(一乗谷)への家臣集住などを定めている。別名『朝倉敏景十七箇条』『朝倉英林壁書』ともいうが,内容に若干の異同がある。
朝倉文夫
あさくらふみお @@@LINK=朝倉文夫 朝倉文夫

朝倉文夫
あさくらふみお

1883〜1964
明治末期〜昭和期の彫刻家
大分県の生まれ。1907年東京美術学校卒。'08年の文展出品作『闇』以降,連続して文展で入賞した。'48年文化勲章受章。終始堅実な写実的作風を持ち続けた。官展系の指導的作家。代表作に『墓守』『いずみ』など。

朝倉義景
あさくらよしかげ @@@LINK=朝倉義景 朝倉義景

朝倉義景
あさくらよしかげ

1533〜73
戦国時代の武将
孝景 (たかかげ) の子。越前国を領有する戦国大名。一向一揆と戦い,のち和す。足利義昭 (よしあき) は一時義景に頼ったが,のち織田信長のもとに去る。1570年浅井氏と結んで織田・徳川連合軍と姉川で対戦して敗れ,'73年一乗谷で自刃した。

麻田剛立
あさだごうりゅう @@@LINK=麻田剛立 麻田剛立

麻田剛立
あさだごうりゅう

1734〜99
江戸中期の天文・暦学者
豊後(大分県)杵築 (きつき) 藩医。脱藩して大坂に隠れ,医業のかたわら天文・暦術を独学。実測を重んじ,ケプラーの第3法則(惑星と太陽の平均距離の3乗と公転周期の2乗の比は,すべての惑星に対して一定)を独自に創案するなど画期的業績をあげた。寛政の改暦にあたり幕府の招きを辞退,門人高橋至時 (よしとき) を推し,これを完成させた。

浅沼稲次郎
あさぬまいねじろう @@@LINK=浅沼稲次郎 浅沼稲次郎

浅沼稲次郎
あさぬまいねじろう

1898〜1960
大正・昭和期の革新系政治家
東京都三宅島の生まれ。早大政治学科在学中に建設者同盟を結成,社会主義運動に加わり,労働農民党・日本労農党に属して活躍。第二次世界大戦後,日本社会党の結成に参加し,1948年同党書記長をつとめる。分裂後は右派に属し,'55年再統一に際して書記長に再任,'60年委員長に就任。同年総選挙を前にした10月12日,日比谷公会堂での3党首演説会で演説中に右翼少年に刺殺された。

浅野総一郎
あさのそういちろう @@@LINK=浅野総一郎 浅野総一郎

浅野総一郎
あさのそういちろう

1848〜1930
明治〜昭和初期の実業家
越中(富山県)の生まれ。1884年,官営の深川セメント製造所の払下げをうけ,日本セメント業の先駆をなした。特に第一次世界大戦に乗じて発展,浅野セメントを中心に50社をこえる浅野財閥を樹立した。

浅野長矩
あさのながのり @@@LINK=浅野長矩 浅野長矩

浅野長矩
あさのながのり

1667〜1701
江戸中期の播磨(兵庫県)赤穂 (あこう) 藩主
内匠頭 (たくみのかみ) 。1701年3月,勅使下向にあたりその接待役を命じられたが,指導をうけた高家吉良義央 (きらよしなか) の侮辱にたえかねて江戸城中で刃傷に及び,即日切腹,領地を没収された。翌年12月14日赤穂四十七士仇討がなされた。

浅野長政
あさのながまさ @@@LINK=浅野長政 浅野長政

浅野長政
あさのながまさ

1547〜1611
安土桃山時代の武将。豊臣家五奉行の一人
尾張(愛知県)に生まれ,織田信長・豊臣秀吉に仕えて若狭(福井県)小浜城主となった。文禄の役にも軍監として出陣。のち隠居したが,関ケ原の戦い(1600)には東軍に参加し,その功で和歌山城主となった。子孫はのち広島藩主となった。

朝彦親王
あさひこしんのう @@@LINK=朝彦親王 朝彦親王

朝彦親王
あさひこしんのう

1824〜91
幕末に活躍した皇族。久邇宮 (くにのみや) の初代
伏見宮家に生まれ,京都青蓮院 (しようれんいん) に入り天台座主 (ざす) となる。安政の大獄で罰せられ,1863(文久3)年還俗 (げんぞく) して中川宮を称し,八月十八日の政変には尊攘過激派抑圧に活躍した。'68年薩長に敵視され広島に幽閉,のち'75年久邇宮を創立した。

旭将軍
あさひしょうぐん @@@LINK=旭将軍 旭将軍

旭将軍
あさひしょうぐん

源義仲
朝日新聞
あさひしんぶん @@@LINK=朝日新聞 朝日新聞

朝日新聞
あさひしんぶん

日本の代表的商業新聞
1879(明治12)年大阪で創刊,'88年東京にも進出。不偏不党を標榜し,社説・ニュースを重点に進歩的近代新聞として地歩を固め日清・日露両戦争を経て全国的に発展。大正年間はデモクラシー運動・米騒動に活躍,1930年代には新聞界の首位に立った。 '40年題号を『朝日新聞』に統一。現在,本社を大阪に,また各事業所本社を東京・小倉・名古屋に置いている。
浅間山噴火
あさまやまふんか @@@LINK=浅間山噴火 浅間山噴火

浅間山噴火
あさまやまふんか

長野県と群馬県との県境にまたがる浅間山噴火
史料に初めて出てくるのは686年の噴火で,『日本書紀』にその記事がみえる。最も有名なものは,1783(天明3)年7月の大噴火で,約2万人の死者を出し,関東地方一帯にを降らせ,凶作をもたらし天明の飢饉の一原因となった。
浅見絅斎
あさみけいさい @@@LINK=浅見絅斎 浅見絅斎

浅見絅斎
あさみけいさい

1652〜1711
江戸中期の朱子学者
近江(滋賀県)の人。山崎闇斎に学び崎門 (きもん) 三傑の一人。のち闇斎の神道説に反対し破門されたが,朱子学の立場から大義名分論を説き,赤穂四十七士を義士とし,楠木正成を忠臣とし,尊王論を吹した。主著に『靖献遺言 (せいけんいげん) 』。

朝山梵灯庵
あさやまぼんとうあん @@@LINK=朝山梵灯庵 朝山梵灯庵

朝山梵灯庵
あさやまぼんとうあん

1349〜1417?
室町前期の連歌師
出雲の人。3代将軍足利義満に仕えたが,40歳のころ出家し,筑紫・熊野陸奥などで漂泊の生活を送る。二条良基に連歌を学び,今川了俊と並び称された。数寄 (すき) を重んじ幽玄 (ゆうげん) を尊ぶ。
アジア‐アフリカ会議
アジア‐アフリカかいぎ @@@LINK=アジアアフリカ会議 アジアアフリカ会議

アジア‐アフリカ会議
アジア‐アフリカかいぎ

1955年4月18〜24日,インドネシアバンドンで,アジア・アフリカ29カ国の代表が参加して開かれた国際会議
バンドン会議ともいう。社会制度・宗教・習慣の相違をこえて,植民地主義反対,経済建設の推進,生活水準の向上,世界平和のための協力などを約し,平和十原則を採択した。アジア・アフリカ諸国の団結と目ざめを示し,世界政治の上でも,その発言力を増す歴史的会議となった。日本も参加した。
足尾鉱毒事件
あしおこうどくじけん @@@LINK=足尾鉱毒事件 足尾鉱毒事件

足尾鉱毒事件
あしおこうどくじけん

明治中期の社会問題
古河財閥の経営する足尾銅山から流れ出る毒物が渡良瀬 (わたらせ) 川流域の田畑を荒廃させた。栃木県出身の代議士田中正造が第2議会以後訴えつづけたが,政府は古河に加担してこれを無視した。1897年以来3回にわたって被害農民が大挙上京し請願を試み,1900年には4度目の上京で警官隊と衝突,'01年には田中の天皇直訴まで発展した。このころを頂点として弾圧と切りくずしにより反対運動は衰えた。
足尾銅山
あしおどうざん @@@LINK=足尾銅山 足尾銅山

足尾銅山
あしおどうざん

栃木県足尾町にあり,古河鉱業が経営した銅山
1610(慶長15)年に発見され,江戸幕府の直轄下で17世紀後半に最盛期を迎えた。明治維新後日光県の直轄となり,1871年民営に移り,'77年以降古河市兵衛により新経営がなされ,明治後期には全国産銅の約3分の1を生産。しかし他方で鉱毒事件や争議など大きな社会問題をおこした。1973年閉山。
足尾銅山争議
あしおどうざんそうぎ @@@LINK=足尾銅山争議 足尾銅山争議

足尾銅山争議
あしおどうざんそうぎ

明治後期,足尾銅山鉱夫の暴動化した大争議
1907年2月,社会主義運動と関係ある至誠会の影響のもとに封建的な飯場 (はんば) 制度の改善を求めつつあった坑夫3600名は暴動をおこしたが,高崎連隊が出動し,300余名の逮捕により終結した。この争議は同じような条件下にある他の鉱山労働者を刺激することとなり,生野 (いくの) ・幌内・別子でも暴動がおこった。
足利
あしかが @@@LINK=足利 足利

足利
あしかが

栃木県南西部,渡良瀬 (わたらせ) 川沿岸にある都市で,足利氏発祥の地
古くは東山道の駅が置かれ,平安末期に八条院の領する足利庄となった。足利氏が代々地頭職を世襲。鎌倉時代には足利学校が設けられた。江戸時代より絹織物が盛んになり,明治時代以後,関東北西山麓地方の機業地の中心として,桐生市と並び称せられる。1921年市制を施行
足利氏満
あしかがうじみつ @@@LINK=足利氏満 足利氏満

足利氏満
あしかがうじみつ

1359〜98
室町前期の鎌倉公方
基氏の子。幼くして関東管領(のち鎌倉公方)となり,執事(のち関東管領)上杉憲顕 (のりあき) に補佐された。1378年足利義満に代わって将軍になろうとしたが,執事上杉憲春 (のりはる) の諫死 (かんし) によってやめ,小山氏の反乱を鎮めるなど関東の平定につとめた。明徳の乱(1391)後,陸奥・出羽両国を支配下に加えた。

足利学校
あしかががっこう @@@LINK=足利学校 足利学校

足利学校
あしかががっこう

栃木県足利市にある中世随一の学校施設
起源は不明であるが,足利義兼の創建説が有力。1439年上杉憲実 (のりざね) が再興し,領田と書籍を寄贈し学規を定め,円覚寺より僧快元を招き庠主 (しようしゆ) (校長)とした。東日本の学問の中心で,儒教・兵法・医学などを教授した。『イエズス会士日本通信』に「坂東の大学」と書かれたことで知られている。1903(明治36)年足利学校遺跡図書館が開設されて現在に至っている。
足利氏
あしかがし @@@LINK=足利氏 足利氏

足利氏
あしかがし

室町幕府の将軍家
新田氏と並ぶ清和源氏の名門。源義家の孫義康が。本拠は下野 (しもつけ) 国(栃木県)足利庄。鎌倉時代,上総 (かずさ) ・三河の守護となり,一族には細川・畠山・斯波 (しば) ・渋川・一色・今川・吉良らの諸氏が分出した。尊氏のとき元弘の変に乗じて北条氏を倒し,建武の新政に功があったが,のち建武政権を倒し,征夷大将軍となり室町幕府を開設。代々将軍となり,3代義満から6代義教 (よしのり) までが最盛期。応仁の乱(1467〜77)後将軍は勢力を失い,15代義昭 (よしあき) のとき織田信長に追われて滅亡した。尊氏の第4子基氏は関東管領(のち鎌倉公方)となり,以後その家系がこれを世襲した。
足利成氏
あしかがしげうじ @@@LINK=足利成氏 足利成氏

足利成氏
あしかがしげうじ

1434〜97
室町中期の鎌倉公方。古河 (こが) 公方
持氏の子。永享の乱後も幕府にそむき捕らえられ上京。のち許され,1449年迎えられて鎌倉に入ったが,管領上杉氏と争い,幕府とも対立。'55年鎌倉を保つことができず,下総古河城に移り,古河公方と称して,堀越公方政知 (まさとも) と対立した。
足利尊氏
あしかがたかうじ @@@LINK=足利尊氏 足利尊氏

足利尊氏
あしかがたかうじ

1305〜58
室町幕府の初代将軍(在職1338〜58)
初め高氏。元弘の変で鎌倉幕府軍として西上したが,途中で後醍醐 (ごだいご) 天皇の綸旨 (りんじ) をうけて幕府に反し,六波羅探題を滅ぼした。その功により建武の新政第一の功臣として参議・武蔵守に任じられ,天皇の諱 (いみな) 尊治から1字を賜り尊氏と改名。しかし建武の新政に不満な武士勢力を結集し,1335年中先代の乱を機に反旗をひるがえし,建武政府を倒して天皇を吉野に追い,北朝の光明天皇を擁立。'38年征夷大将軍に任じられ,京都に幕府を開設し,武家政治を復活した。

足利直冬
あしかがただふゆ @@@LINK=足利直冬 足利直冬

足利直冬
あしかがただふゆ

生没年不詳
南北朝時代の武将
尊氏の庶子。直義の養子となり,1349年長門探題。高師直 (こうのもろなお) に敗れ,九州にのがれて勢力をはる。直義の死後は南朝方に降り各地を転戦。晩年足利義満と和するなど,足利氏の内紛および南北朝の動乱の中心の一人であった。1400年74歳で死んだという説が有力。
足利直義
あしかがただよし @@@LINK=足利直義 足利直義

足利直義
あしかがただよし

1306〜52
南北朝時代の武将
尊氏の弟。建武の新政に際し相模守となって鎌倉に下り,中先代の乱(1335)に護良 (もりよし) 親王を殺し,尊氏とともに挙兵。幕府開設後よく幕政を行う。'49年執事高師直 (こうのもろなお) と対立し,尊氏とも不和となって,'52年鎌倉で毒殺された。

足利政知
あしかがまさとも @@@LINK=足利政知 足利政知

足利政知
あしかがまさとも

1435〜91
室町中期の堀越公方
将軍義教 (よしのり) の子。初め天竜寺の僧。1457年,鎌倉公方足利成氏征討のため還俗 (げんぞく) し関東に下ったが,東国の将は服さず,伊豆の堀越 (ほりごえ) にとどまり上杉房顕に擁立されて堀越公方と称し,古河 (こが) 公方成氏に対抗した。

足利満兼
あしかがみつかね @@@LINK=足利満兼 足利満兼

足利満兼
あしかがみつかね

1378〜1409
室町前期の鎌倉公方
氏満の子。1399年大内義弘の応永の乱に呼応し上京しようとしたが,幕府のをうけた管領上杉憲定 (のりさだ) に諫められて中止した。奥羽で伊達政宗(戦国大名の伊達政宗の祖先)が将軍足利義満と通じ反したのでこれを攻め降した。

足利持氏
あしかがもちうじ @@@LINK=足利持氏 足利持氏

足利持氏
あしかがもちうじ

1398〜1439
室町中期の鎌倉公方
満兼の子。1417年上杉禅秀の乱平定後関東に勢力をはり,京都の幕府と対立,'28年前将軍足利義持が死に,義教 (よしのり) が後継者になると,対立は激化した。ついに'38年永享の乱をおこし,管領上杉憲実 (のりざね) を助ける幕府軍に敗れ,翌年鎌倉永安寺で自殺した。

足利基氏
あしかがもとうじ @@@LINK=足利基氏 足利基氏

足利基氏
あしかがもとうじ

1340〜67
室町前期の初代鎌倉公方
尊氏の子。1349年尊氏の命で兄義詮 (よしあきら) に代わって鎌倉に下向。宗良 (むねよし) 親王新田義貞の子義興 (よしおき) らと戦い,義興を滅ぼし,上杉憲顕 (のりあき) を執事に迎え,室町幕府の関東における勢力を固めた。
足利義昭
あしかがよしあき @@@LINK=足利義昭 足利義昭

足利義昭
あしかがよしあき

1537〜97
室町幕府15代将軍(在職1568〜73)
義晴の子。義輝の弟。初め奈良一乗院門跡 (もんぜき) で覚慶と称した。1565年義輝が松永久秀のために殺されると還俗 (げんぞく) して義秋と称し,のち義昭と改名。'68年織田信長に奉じられて入京し,将軍となる。その後信長の隆盛とともに不和となり,毛利・朝倉・浅井・武田・石山本願寺などの反信長勢力を頼ったが,'73年京都を追われ室町幕府は滅んだ。のち豊臣秀吉の保護をうけ,1万石を給された。

足利義詮
あしかがよしあきら @@@LINK=足利義詮 足利義詮

足利義詮
あしかがよしあきら

1330〜67
室町幕府2代将軍(在職1358〜67)
尊氏の嫡子。義満の父。1333年新田義貞の鎌倉攻めに父の名代として加わり,北条氏を滅ぼした。尊氏の幕府開設後も関東の主として鎌倉にあり,尊氏の死後 '58年将軍となった。

足利義量
あしかがよしかず @@@LINK=足利義量 足利義量

足利義量
あしかがよしかず

1407〜25
室町幕府5代将軍(在職1423〜25)
義持の子。父の出家後,1423年,17歳で将軍となったが,在職3年で病死した。

足利義勝
あしかがよしかつ @@@LINK=足利義勝 足利義勝

足利義勝
あしかがよしかつ

1434〜43
室町幕府7代将軍(在職1442〜43)
義教 (よしのり) の長子。嘉吉の乱で義教が赤松満祐 (みつすけ) に殺されたのち,管領細川持之 (もちゆき) ら諸将に擁立され8歳で家を継ぐ。元服して将軍となり,畠山持国が補佐したが10歳で病死。
足利義澄
あしかがよしずみ @@@LINK=足利義澄 足利義澄

足利義澄
あしかがよしずみ

1480〜1511
室町幕府11代将軍(在職1494〜1508)
堀越公方足利政知 (まさとも) の子。義教 (よしのり) の孫で義政の養子。1494年細川政元に擁せられ将軍義稙 (よしたね) に代わって将軍となったが,1508年前将軍義稙,大内義興 (よしおき) が入京すると近江に追われ将軍職を退いた。

足利義稙
あしかがよしたね @@@LINK=足利義稙 足利義稙

足利義稙
あしかがよしたね

1466〜1523
室町幕府10代将軍(在職1490〜93,1508〜21)
義視 (よしみ) の子。義尚 (よしひさ) の死後将軍となったが,細川政元に将軍職を追われた。のち大内義興 (よしおき) の助けで復職したが,管領細川高国とあわず,淡路にのがれ阿波で死んだ。

足利義輝
あしかがよしてる @@@LINK=足利義輝 足利義輝

足利義輝
あしかがよしてる

1536〜65
室町幕府13代将軍(在職1546〜65)
義晴の子。1546年将軍となったが,管領細川氏の内紛,三好・松永氏らの勢力増大に押され実権はなく,彼らとの争いにたびたび近江にのがれた。'64年政権の奪還を企てたために翌年松永久秀らに攻め殺された。
足利義教
あしかがよしのり @@@LINK=足利義教 足利義教

足利義教
あしかがよしのり

1394〜1441
室町幕府6代将軍(在職1429〜41)
義満の子。初め青蓮院 (しようれんいん) に入り義円と称し天台座主 (ざす) となったが,兄義持の死後還俗 (げんぞく) し,1429年くじ引きによって将軍となり,義教と改名。'39年永享の乱で鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。義教の守護大名強圧策は諸将の不満を招き,'41年播磨国守護赤松満祐 (みつすけ) のために殺された。
足利義晴
あしかがよしはる @@@LINK=足利義晴 足利義晴

足利義晴
あしかがよしはる

1511〜50
室町幕府12代将軍(在職1521〜46)
義澄 (よしずみ) の子。前将軍義稙 (よしたね) を追放した管領細川高国に擁立されたが実権はなく,細川氏の臣三好氏らの反乱にあうなど,しばしば京都をのがれた。将軍職を子義輝に譲り隠退。

足利義尚
あしかがよしひさ @@@LINK=足利義尚 足利義尚

足利義尚
あしかがよしひさ

1465〜89
室町幕府9代将軍(在職1473〜89)
義政の子。母は日野富子。義政の弟義視 (よしみ) と将軍職を争い,1467年応仁の乱を誘発,乱中に将軍職につく。和歌を好み,また幕府権力の回復をはかり,近江の六角氏討伐に出陣し,鉤 (まがり) の陣中で死んだ。
足利義栄
あしかがよしひで @@@LINK=足利義栄 足利義栄

足利義栄
あしかがよしひで

1540〜68
室町幕府14代将軍(在職1568)
義維 (よしつな) の子。義澄 (よしずみ) の。将軍義輝の暗殺後,阿波から迎えられ,1568年2月将軍となったが,同年9月織田信長が足利義昭 (よしあき) を奉じて入京すると,阿波にのがれその地で病死した。
足利義政
あしかがよしまさ @@@LINK=足利義政 足利義政

足利義政
あしかがよしまさ

1436〜90
室町幕府8代将軍(在職1449〜73)
義教 (よしのり) の子。嘉吉の乱後,将軍の権威が地に落ちた時代に将軍となる。幕府の財政難や土一揆の頻発に苦しみ,在職中13回も徳政令を発布して経済界を混乱させた。初め実子なく弟義視 (よしみ) を還俗 (げんぞく) させて後嗣としたが,翌年妻日野富子が生んだ義尚 (よしひさ) を将軍にたてようとし,継嗣問題から応仁の乱(1467〜77)がおこった。'73年戦乱中,義尚に将軍職を譲り,'83年京都東山の山荘に銀閣を造って移り住み,東山殿と呼ばれた。戦乱をよそに猿楽・茶の湯・絵画その他遊楽にふけり,東山文化を形成した。

足利義視
あしかがよしみ @@@LINK=足利義視 足利義視

足利義視
あしかがよしみ

1439〜91
室町中期の武将
8代将軍義政の養子。義教 (よしのり) の子。義稙 (よしたね) の父。初め浄土寺の僧義尋 (ぎじん) と称した。1464年兄将軍義政の後嗣となったが,義政に実子義尚 (よしひさ) が生まれたため相続問題がおこり,'67年応仁の乱勃発の一因となる。晩年義政と和し,三条通玄寺に入り,間もなく死んだ。
足利義満
あしかがよしみつ @@@LINK=足利義満 足利義満

足利義満
あしかがよしみつ

1358〜1408
室町幕府3代将軍(在職1368〜94)
義詮 (よしあきら) の子。尊氏の孫。11歳で将軍となり,管領細川頼之 (よりゆき) の補佐をうけ,1378年幕府を京都室町のいわゆる「花の御所」に移した。'91年明徳の乱で山名氏清,'99年応永の乱で大内義弘ら強力な守護大名を滅ぼして将軍の権威を確立。'92年南北両朝を合体させ,'94年将軍職を義持に譲り,太政大臣に任じられ,'95年入道して道義と称した。また1401年明に僧祖阿 (そあ) ・博多商人肥富 (こいつみ) を遣わして明と国交を回復し,勘合貿易をおこした。この際「日本国王臣源道義」と称し,朝貢の形式をとったことは当時および後世物議をかもした。文化面では,1397年京都北山に金閣を造営。五山の制をととのえ,能楽を保護し,北山文化の形成に寄与した。
足利義持
あしかがよしもち @@@LINK=足利義持 足利義持

足利義持
あしかがよしもち

1386〜1428
室町幕府4代将軍(在職1394〜1423)
義満の子。1394年9歳で将軍となったが,初め政務は義満によって決せられた。義満の死後,斯波義将 (しばよしまさ) らの補佐によって政務をとった。義満の始めた日明貿易を中止し,1416年上杉禅秀の乱に通謀したかどで弟義嗣 (よしつぐ) を殺し,鎌倉公方足利持氏を威圧した。'23年将軍職を子義量 (よしかず) に譲ったが,'25年義量が早世すると再び政務をとった。

足利義康
あしかがよしやす @@@LINK=足利義康 足利義康

足利義康
あしかがよしやす

?〜1157
平安後期の武将。足利氏の祖
源義家の孫。鳥羽上皇に仕えて北面の武士となり,検非違使 (けびいし) ・陸奥守栄進。保元の乱(1156)には後白河天皇方として活躍し,昇殿も許され,足利氏隆盛の基礎を開いた。

足軽
あしがる @@@LINK=足軽 足軽

足軽
あしがる

軽装で足軽く走るものの意で,雑兵のこと
その名は平安末期からみえ,応仁の乱(1467〜77)に際して,その存在が注目されるようになった。鉄砲の出現によって歩兵の集団戦法が重視されるにつれ,寄せ集めの無頼者から,訓練された弓・鉄砲足軽に編成された。江戸時代には武士の最下層を構成。

あしぎぬ @@@LINK=絁 絁


あしぎぬ

古代の絹織物
細糸で織った上質の絹に対し,太く粗なもので「あし」と呼んだ。令の規定により調・庸として貢納。奈良時代以後諸国で生産された。
芦田均
あしだひとし @@@LINK=芦田均 芦田均

芦田均
あしだひとし

1887〜1959
昭和期,外交官出身の政治家
京都の生まれ。東大卒業後外務省に入り,1932年衆議院議員。立憲政友会に属し親英米派で軍部に批判的だったため圧迫された。第二次世界大戦後幣原 (しではら) 喜重郎内閣の厚相を経て,自由党創立に参加したが,'47年離党して日本民主党設立,総裁となり,日本社会党と連立して,片山哲内閣の外相となる。'48年片山内閣総辞職後,社会党・国民協同党と連立内閣をつくり首相に就任。まもなく昭和電工疑獄事件に連坐して半年で総辞職した。

葦名氏
あしなし @@@LINK=葦名氏 葦名氏

葦名氏
あしなし

戦国時代陸奥国(福島県)会津地方の豪族
三浦義明の子,佐原義連源頼朝の奥州平定(1189)の際に,により会津に封ぜられ,孫光盛以来葦名氏を称した。南北朝時代以降,伊達 (だて) ・佐竹氏と争う。戦国大名として東北にをはったが,1589年伊達政宗に滅ぼされた。
芦屋釜
あしやがま @@@LINK=芦屋釜 芦屋釜

芦屋釜
あしやがま

筑前国(福岡県)遠賀川河口付近の芦屋で鋳造された茶の湯
室町時代から安土桃山時代にかけてが全盛。東山時代の作品は特に珍重される。
アジャンタの壁画
アジャンタのへきが @@@LINK=アジャンタの壁画 アジャンタの壁画

アジャンタの壁画
アジャンタのへきが

インドボンベイ(現ムンバイ)東北にある石窟寺院壁画
前2世紀から後8世紀にかけての製作で,グプタ美術の粋をなす。法隆寺金堂の壁画の源流と考えられている。
阿修羅像
あしゅらぞう @@@LINK=阿修羅像 阿修羅像

阿修羅像
あしゅらぞう

仏法を守護する八部衆の一つ
戦闘の神に擬せられる。の形は三面六臂 (ろつぴ) (6本の腕)が最も多い。すぐれた作品として有名な興福寺蔵のものは天平期の乾漆像で,中央二臂が合掌し,上方二手,肩先に二手が配されている。
足代弘訓
あじろひろのり @@@LINK=足代弘訓 足代弘訓

足代弘訓
あじろひろのり

1784〜1856
江戸後・末期の国学者
伊勢(三重県)の人。代々伊勢外宮の禰宜 (ねぎ) (神職の一つ)。本居春庭 (もとおりはるにわ) ・本居大平・荒木田久老 (ひさおゆ) らに学び,国史・和歌・律令・有職故実 (ゆうそくこじつ) に通じた。大塩平八郎とも親交があり,外交問題を憂えて志士と交わり,門人に尊王思想吹した。
飛鳥
あすか @@@LINK=飛鳥 飛鳥

飛鳥
あすか

奈良県の耳成山以南,畝傍 (うねび) 山以東,飛鳥川流域の総称
6世紀末推古天皇が飛鳥豊浦 (とゆら) 宮に即位してから,710年元明天皇が平城京に遷都するまで百数十年の間,孝徳・天智の2朝を除き代々の皇居はこの地方に営まれた。歴代の皇居跡・陵墓をはじめ飛鳥寺・石舞台古墳など史跡が多く,現在古都保存地区として保護されている。
飛鳥板蓋宮
あすかいたぶきのみや @@@LINK=飛鳥板蓋宮 飛鳥板蓋宮

飛鳥板蓋宮
あすかいたぶきのみや

7世紀,皇極天皇が即位した
中大兄 (なかのおおえ) 皇子らはこの宮の大極殿蘇我入鹿 (そがのいるか) を討った。645年孝徳天皇はここを廃して難波 (なにわ) に遷都したが,655年皇極天皇が重祚 (ちようそ) し(斉明天皇),この宮で即位した。推定位置は奈良県高市郡明日香村
飛鳥浄御原宮
あすかきよみはらのみや @@@LINK=飛鳥浄御原宮 飛鳥浄御原宮

飛鳥浄御原宮
あすかきよみはらのみや

672年,天武天皇の造営した宮(〜694)
壬申 (じんしん) の乱で勝利をおさめた大海人 (おおあま) 皇子(のちの天武天皇)が近江大津宮を廃し,この宮で即位した。推定位置は奈良県高市郡明日香村
飛鳥浄御原令
あすかきよみはらりょう @@@LINK=飛鳥浄御原令 飛鳥浄御原令

飛鳥浄御原令
あすかきよみはらりょう

天武天皇が681年編纂を命じ,持統天皇の689年施行された法令
令22巻。律は唐のものを準用したとされる。内容は『日本書紀』によって若干推定できる程度で,不明な部分が多い。大宝令に近いとみる説と,異なる点が多いとする説とがある。
飛鳥時代
あすかじだい @@@LINK=飛鳥時代 飛鳥時代

飛鳥時代
あすかじだい

6世紀後半から7世紀前半にわたる推古朝を中心とする,約1世紀の時代
聖徳太子・蘇我馬子が中央集権国家をつくろうとして諸改革を行ったが,実際には改革の理念の提示にとどまった。これらの改革の進展の背景としては,唐・新羅 (しらぎ) を中心とする東アジアの動きとその刺激を考える必要がある。文化的には飛鳥文化の展開が注目される
飛鳥大仏
あすかだいぶつ @@@LINK=飛鳥大仏 飛鳥大仏

飛鳥大仏
あすかだいぶつ

奈良県高市郡明日香村飛鳥の安居 (あんご) 院にある釈迦如来坐像
蘇我馬子がこの地に建立した飛鳥寺の本尊。丈六の銅像で,聖徳太子により606年鞍作止利 (くらつくりのとり) が製作したものといわれる。たびたびの火災にあい補修され,顔におもかげをとどめるだけである。
飛鳥寺
あすかでら @@@LINK=飛鳥寺 飛鳥寺

飛鳥寺
あすかでら

蘇我馬子が建立させたというわが国最古の寺院
法興寺とも呼ばれた。588年から609年にかけて百済工人の指導を得て造ったという。718年平城京に移建され元興寺となった。飛鳥の旧地に安居 (あんご) 院がある。塔を中心にして東・西・北の三方に金堂がある高句麗清岩里廃寺と同様の伽藍 (がらん) 配置をもつ。
飛鳥文化
あすかぶんか @@@LINK=飛鳥文化 飛鳥文化

飛鳥文化
あすかぶんか

文化史上,538年仏教公伝ごろから645年大化改新までの仏教中心の文化
飛鳥の名は,この文化が大和国飛鳥地方に発達したことに由来する。中国南北朝や朝鮮文化の影響が特に強いが,インド・ペルシア・ギリシアなど西域文化とのつながりも認められる。代表的作品には,法隆寺の堂塔や諸仏像,中宮寺と広隆寺の『弥勒菩薩像』,『玉虫厨子』『天寿国曼荼羅繡帳』など。儒学・暦学・天文学も発達した。
預所
あずかりどころ @@@LINK=預所 預所

預所
あずかりどころ

荘園領主に代わって荘務を執行する上級荘官
下司 (げし) ・公文 (くもん) など下級の在地荘官を指揮する。一般に寺領においては寺僧が任命されているが,寄進地系荘園では寄進者やその子孫が預所として補任される場合もある。得分は一定ではなく,給田を持つものもあった。
東遊
あずまあそび @@@LINK=東遊 東遊

東遊
あずまあそび

神社などの儀式で行われた東国に起源する歌舞
東舞 (あずままい) も同系とされる。延喜(901〜923)ころにその方式勅定された。歌は,一歌・二歌・駿河歌・求子 (もとめご) 歌・片下 (かたおろし) (大比礼 (おおびれ) 歌)の5曲よりなるが,舞がつく3・4曲が中心である。中世には一時廃絶したが,江戸時代に復興された。
東歌
あずまうた @@@LINK=東歌 東歌

東歌
あずまうた

7世紀末〜8世紀中頃の東国の歌
『古今和歌集』にも14首あるが,『万葉集』巻14に約230首あるのが有名。国名不詳の歌も多数あるが,信濃・遠江 (とおとうみ) 以東陸奥に及ぶ広範囲な地域の歌で,素朴な農民の恋を歌った相聞 (そうもん) が多い。東国方言が豊富に使用されていることから,古代国語研究の貴重な資料とされる。
吾妻鏡
あづまかがみ @@@LINK=吾妻鏡 吾妻鏡
あずまかがみ @@@LINK=吾妻鏡 吾妻鏡

吾妻鏡
あづまかがみ

源頼政挙兵の1180年から1266年までの鎌倉幕府の記録
日記の体裁をとる編年体の史書。52巻。3代将軍までと,それ以後とで成立年代が違う。編纂者は不明。内容は比較的正確で,鎌倉時代前半期の政治および武家社会研究の基本史料であるが,その利用には吟味を要する。

吾妻鏡
あずまかがみ

あづまかがみ
校倉造
あぜくらづくり @@@LINK=校倉造 校倉造

校倉造
あぜくらづくり

古代倉庫建築の一様式
高床でを用いず,断面がほぼ三角形の木材を横積みに井桁 (いげた) 組として壁面を構築。組み合わせた三角材が晴雨に応じ膨張・収縮して,室内の湿度が常に平均し,物品の収納保存に適するといわれるが,科学的には認めにくい。東大寺正倉院はその代表作。
按察使
あぜち @@@LINK=按察使 按察使

按察使
あぜち

①719年に置かれた地方行政監察官
②明治政府の地方行政監督官
国司に兼任させ,近隣数カ国の国郡司を監察させた。陸奥・出羽以外は平安時代に廃止され,納言・参議らの兼任となった。
1869(明治2)年に設置されたが,奥羽方面に置かれただけで,実際活動もほとんどなく,翌年廃止。
麻生久
あそうひさし @@@LINK=麻生久 麻生久

麻生久
あそうひさし

1891〜1940
大正・昭和期の労働運動家
大分県の生まれ。東大卒業後,社会・労働運動に身を投じ,日本労農党委員長・社会大衆党書記長などを歴任して活躍した。しかし1933年ころから軍部との結合をはかり近衛文麿の新体制運動に協力した。

阿蘇氏
あそし @@@LINK=阿蘇氏 阿蘇氏

阿蘇氏
あそし

肥後国(熊本県)阿蘇郡の豪族
阿蘇国造 (くにのみやつこ) の子孫。阿蘇神社を創建し,10世紀初頭大宮司 (だいぐうじ) となり以後世襲。南北朝時代足利尊氏が九州に西走したとき,阿蘇惟時 (これとき) は惟澄など一族を率い,南朝に属して菊池氏に協力。惟澄は日向にまで勢力を伸ばした。戦国期に,大友氏に圧倒されて衰退
朝臣
あそん @@@LINK=朝臣 朝臣

朝臣
あそん

684年天武天皇が制定した八色の姓 (やくさのかばね) の一つ
「あそみ」とも読む。真人 (まひと) につぐ第2位。初め皇別諸氏の有力者に与えられた。8世紀末以降,渡来系氏族や源・平などの皇親氏族にも授けられ,八姓中の第1位を占めるようになった。

あたい @@@LINK=直 直


あたい

大和政権の姓 (かばね) の一つ
大化以前の国造 (くにのみやつこ) や部民統率者に与えられた。後に国造が郡司になったため,郡司に多い。
安宅関
あたかのせき @@@LINK=安宅関 安宅関

安宅関
あたかのせき

石川県小松市にあった関所
安宅は,日本海沿岸の陸上・海上交通の要所で,延喜式にもみえる。関所の創設は,源頼朝の命によるという。『義経記 (ぎけいき) 』に源義経が頼朝に追われて陸奥に下ろうとしてここを通ったという記載があり,謡曲の『安宅』で名高い。関跡はすでに海中に没している。
安達景盛
あだちかげもり @@@LINK=安達景盛 安達景盛

安達景盛
あだちかげもり

?〜1248
鎌倉前期の武将
藤九郎盛長の長子。法名覚地。大蓮と号す。1218年出羽権介・秋田城介となる。源実朝の死により出家。その後も幕府の諮問に応じ承久の乱(1221)に参加。執権北条時頼のとき外祖父として権勢をふるい,'47年時頼と策謀して三浦氏を滅ぼした(宝治合戦)。
安達泰盛
あだちやすもり @@@LINK=安達泰盛 安達泰盛

安達泰盛
あだちやすもり

1231〜85
鎌倉中期の武将
義景の子。景盛の孫。引付衆・秋田城介・評定衆などの要職を歴任し,妹は北条時宗に嫁し貞時を生んだ。貞時執権のとき内管領 (うちかんれい) 平頼綱と権勢を争い,対立が激化。'85年頼綱の讒言 (ざんげん) によって,貞時に攻められ,一族とともに滅ぼされた(霜月騒動)。

アダムズ
William Adams @@@LINK=アダムズ アダムズ

アダムズ
William Adams

1564〜1620
江戸初期に来日したイギリス人航海士
1598年オランダ船リーフデ号に水先案内人として乗り組み,1600年豊後(大分県)に漂着。ヤン=ヨーステンとともに徳川家康に仕えた。江戸日本橋に邸宅を,相模(神奈川県)三浦半島に領地を与えられ,航海士(按針)であったので日本名を三浦按針 (あんじん) と称した。イギリス・オランダの対日貿易開始に貢献し,朱印船貿易にも活躍した。'20年平戸で病死。

新しき村
あたらしきむら @@@LINK=新しき村 新しき村

新しき村
あたらしきむら

大正時代,武者小路実篤が試みた理想主義の実践運動
トルストイの人道主義に基づき,1918年宮崎県児湯 (こゆ) 郡木城村に同志とともに移住し建設。理想主義・人道主義の実践として大きな反響を呼んだ。ダム建設にともなって'39年埼玉県入間郡毛呂山町に東の村を建設して,現在に至る。
阿直岐
あちき @@@LINK=阿直岐 阿直岐

阿直岐
あちき

生没年不詳
記紀にみえる応神天皇時代の百済 (くだら) からの渡来人
阿直岐史 (あちきのふひと) の祖。学問にすぐれ,太子菟道稚郎子 (うじのわきいらつこ) に経典を教えた。のち太子に自分よりすぐれた学者として王仁 (わに) を推薦したという。異説多く実在も不明。
阿知使主
あちのおみ @@@LINK=阿知使主 阿知使主

阿知使主
あちのおみ

生没年不詳
4世紀末〜5世紀初めごろの渡来人
応神天皇時代に17県の民を率いて渡来した。漢氏 (あやうじ) の祖となる。後漢の霊帝の曽孫というが,楽浪・帯方郡遺民であろう。文筆をもって大和政権に仕えた。
熱田神宮
あつたじんぐう @@@LINK=熱田神宮 熱田神宮

熱田神宮
あつたじんぐう

名古屋市熱田区にある神社。三種の神器の一つ草薙剣 (くさなぎのつるぎ) を神体とする
日本武尊 (やまとたけるのみこと) が東国征討ののち,尾張国の国造 (くにのみやつこ) の娘と結婚し草薙剣を預けたのを,日本武尊の死後祀ったのが起源という。
安土
あづち @@@LINK=安土 安土

安土
あづち

滋賀県琵琶湖東岸にある町。安土桃山時代の城下町
1576年織田信長がここに安土城を築き,近在の商人を集めて楽市・楽座としたので大いに繁栄した。また宣教師オルガンチノにより教会堂が建てられ,畿内のキリスト教伝道の中心地となった。'82年本能寺ので城下町が焼失し,商人は近江八幡に移った。
安土宗論
あづちしゅうろん @@@LINK=安土宗論 安土宗論

安土宗論
あづちしゅうろん

1579年,近江国(滋賀県)安土で行われた日蓮宗と浄土宗との宗教論争
織田信長が日蓮宗の勢力を抑えようとして安土城下浄厳院で宗論対決させた。南禅寺因果居士らを判者として無理に日蓮宗を負けとし,日蓮僧を殺害した。信長の日蓮宗への計画的弾圧である。
安土城
あづちじょう @@@LINK=安土城 安土城

安土城
あづちじょう

1576(天正4)年織田信長が近江国(滋賀県)安土に築いた城
1579年完成。天守閣は5層7階の豪壮な城郭建築として最初のもの。内部の障壁画は狩野永徳の筆として著名。琵琶湖に面し水陸の要衝にあり,'82年本能寺の変で明智光秀に接収され,のち焼失。
安土桃山時代
あづちももやまじだい @@@LINK=安土桃山時代 安土桃山時代

安土桃山時代
あづちももやまじだい

織田信長・豊臣秀吉が政権を握っていた時代
信長は安土城を,秀吉は伏見城(のち城跡に桃が植えられ,桃山と称された)を居城としていたので,このように呼ばれる。石山本願寺の平定,島津征討,小田原後北条氏の平定,文禄・慶長の役,検地,刀狩などが著名な事件。歴史的意義としては前期封建より後期封建への過渡期であり,天皇の権威を利用して変則的武家政治を行い,検地・刀狩によって兵農・商農分離による封建身分制を固定化し,大名知行制を確立した。文化面でも豪華な桃山文化が現れた。
吾妻鏡
あづまかがみ @@@LINK=吾妻鏡 吾妻鏡
あずまかがみ @@@LINK=吾妻鏡 吾妻鏡

吾妻鏡
あづまかがみ

源頼政挙兵の1180年から1266年までの鎌倉幕府の記録
日記の体裁をとる編年体の史書。52巻。3代将軍までと,それ以後とで成立年代が違う。編纂者は不明。内容は比較的正確で,鎌倉時代前半期の政治および武家社会研究の基本史料であるが,その利用には吟味を要する。

吾妻鏡
あずまかがみ

あづまかがみ
充行状
あておこないじょう @@@LINK=充行状 充行状

充行状
あておこないじょう

中世公文書私文書ともにみられる文書形式
「あてがいじょう」とも読み,充文 (あてぶみ) ともいう。中世武家社会において荘園や職 (しき) などを分配譲与するとき,あるいは武家が家臣知行を給与するときの文書。文中「宛て行う」の語があるのが普通。
阿氐河荘百姓言上状
あてがわのしょうひゃくしょうごんじょうじょう @@@LINK=阿氐河荘百姓言上状 阿氐河荘百姓言上状

阿氐河荘百姓言上状
あてがわのしょうひゃくしょうごんじょうじょう

1275(建治元)年,紀伊国阿氐河荘百姓が,地頭湯浅氏の非法を訴えて領主に提出した言上状
アナーキズム
anarchism @@@LINK=アナーキズム アナーキズム

アナーキズム
anarchism

国家権力をはじめ議会や政党を否定して,完全な自由社会の実現を主張する思想。無政府主義
わが国では明治末期幸徳秋水が直接行動を主張したが,大逆事件(1910)により衰えた。第一次世界大戦後大杉栄を中心として発展。労働運動の主力となったが,日本共産党の組織化,大杉の暗殺によって衰退した。
穴穂部皇子
あなほべのおうじ @@@LINK=穴穂部皇子 穴穂部皇子

穴穂部皇子
あなほべのおうじ

?〜587
欽明天皇の皇子
敏達 (びたつ) ・用明両天皇没後,2度にわたって皇位を望んだが,実現できなかった。2回目には物部守屋と結び,崇峻天皇擁立を策した蘇我馬子と争ったが,敗退し殺された。
アナルコ‐サンディカリスム
anarcho syndicalisme @@@LINK=アナルコサンディカリスム アナルコサンディカリスム

アナルコ‐サンディカリスム
anarcho syndicalisme

革命的サンディカリスム(労働組合主義)
アナーキズムと結び,労働組合の直接行動によって労働組合が生産と分配の中心となる社会の建設をめざす考え方。わが国では幸徳秋水が主張し,大杉栄が推進したが,彼の暗殺後は衰えた。
阿仁銅山
あにどうざん @@@LINK=阿仁銅山 阿仁銅山

阿仁銅山
あにどうざん

秋田県北秋田郡阿仁町にある江戸時代以来の銅山
初めは金・銀を産出。17世紀末に銅鉱が発見され,別子・尾去沢と並ぶ大銅山となった。秋田藩営であったが,明治維新後に官営となり,1885年古河市兵衛に払い下げられ,隆盛期を迎えた。第二次世界大戦後盛衰をくり返し,1978年より休山。
アニミズム
animism @@@LINK=アニミズム アニミズム

アニミズム
animism

あらゆる自然物や自然現象に霊魂の存在を認める考え方
ラテン語のanima(生霊)から出た語。日本神話の中にみられる草木がものを言うという考え方は好例
姉小路公知
あねがこうじきんとも @@@LINK=姉小路公知 姉小路公知

姉小路公知
あねがこうじきんとも

1839〜63
幕末の尊攘派公家
1862年三条実美 (さねとみ) とともに勅使として江戸に下向し攘夷をすすめ,尊王攘夷運動の一中心となる。翌年京都で暗殺された。

姉川の戦い
あねがわのたたかい @@@LINK=姉川の戦い 姉川の戦い

姉川の戦い
あねがわのたたかい

1570(元亀元)年,近江国(滋賀県)姉川流域で行われた織田信長・徳川家康と浅井長政・朝倉義景との合戦
信長は足利義昭 (よしあき) を奉じて上洛,浅井・朝倉氏はこれを阻止し,近江の東部,浅井氏の居城小谷城東南方で戦った。信長軍は初め危うかったが家康軍の奮戦で勝ち,浅井・朝倉両氏は決定的打撃をうけ滅亡した。
姉崎正治
あねさきまさはる @@@LINK=姉崎正治 姉崎正治

姉崎正治
あねさきまさはる

1873〜1949
明治〜昭和期の宗教学者
嘲風 (ちようふう) と号す。京都の生まれ。東大卒業後,イギリス・インドなどに留学。その後東大教授となり宗教学講座を創設。科学的宗教学の確立につとめ,インド仏教・日本宗教史を研究。またキリシタン研究家としても著名である。

賀名生
あのう @@@LINK=賀名生 賀名生

賀名生
あのう

奈良県吉野郡西吉野村にある南朝の皇居の地
1348年以来後村上天皇が北朝軍の攻撃を避けて皇居を置いた。初め「穴生」と書いたが,'52年後村上天皇が京都回復の願いがかなうことを念じて賀名生と命名したといわれる。
安濃津
あのつ @@@LINK=安濃津 安濃津

安濃津
あのつ

伊勢国港町。現在の三重県津市
中世三津 (さんしん) の一つに数えられた。平安末期伊勢平氏の水軍の根拠地となり,南北朝時代以後対明貿易港として栄えたが,1498年明応の地震地形が変わり衰退。江戸時代藤堂氏の城下町として繁栄。
あひびき

あひびき

明治中期,二葉亭四迷の翻訳小説
1888年発表。原作はツルゲーネフ猟人日記』の一部。その清新な自然描写は国木田独歩などに大きな影響を与えた。精確な翻訳文も傑出している。
阿仏尼
あぶつに @@@LINK=阿仏尼 阿仏尼

阿仏尼
あぶつに

1222ごろ〜83
鎌倉中期の女流歌人
藤原為家の後妻。『十六夜 (いざよい) 日記』の著者。冷泉 (れいぜい) 家の為相 (ためすけ) を生む。為家の嫡子為氏(先妻の子)と為相との間に所領の争いがあり,それが歌学における二条・京極・冷泉分立の一因となる。女子教育の書『乳母 (めのと) のふみ』も著した。

油粕
あぶらかす @@@LINK=油粕 油粕

油粕
あぶらかす

干鰯 (ほしか) と並ぶ江戸時代における金肥の中心
植物の種子から油をしぼった粕 (かす) で,種子の種類によって,ダイズアブラ粕などと呼ぶ。江戸中期から大正時代ごろまで盛んに使われた。
油座
あぶらざ @@@LINK=油座 油座

油座
あぶらざ

中世の座の一つ
胡麻 (ごま) ・荏胡麻 (えごま) を原料とし灯油の製造・販売に従事鎌倉末期から室町時代にかけて活躍し,大山崎離宮八幡宮の油座は特に有名。ほかに奈良の興福寺,筑紫筥崎 (はこざき) 八幡宮などに属する油座があった。
安部磯雄
あべいそお @@@LINK=安部磯雄 安部磯雄

安部磯雄
あべいそお

1865〜1949
明治〜昭和期の社会主義者
筑前(福岡県)の生まれ。同志社大学に学びアメリカでキリスト教社会主義を身につける。帰国後早大教授となる。1901(明治34)年社会民主党創立宣言を起草し,日露戦争には非戦論を唱えた。また,早大野球部長として活躍し学生野球の父とされるなど,学生スポーツの普及発展にも力を尽くした。'26年社会民衆党委員長となり,その後代議士当選4回。第二次世界大戦後,日本社会党顧問をつとめた。

阿部一族
あべいちぞく @@@LINK=阿部一族 阿部一族

阿部一族
あべいちぞく

大正時代森鷗外の歴史小説
1913年『中央公論』に発表。
安倍氏
あべうじ @@@LINK=安倍氏 安倍氏

安倍氏
あべうじ

平安時代の陸奥・出羽の豪族
俘囚 (ふしゆう) の長として,北上川流域に勢力をふるう。頼時・貞任 (さだとう) ・宗任 (むねとう) の時代に栄えたが,前九年の役(1051〜62)で源頼義・義家らに敗れ滅亡した。
阿倍氏
あべうじ @@@LINK=阿倍氏 阿倍氏

阿倍氏
あべうじ

奈良〜平安時代の有力貴族
「安倍氏」とも書く。孝元天皇の子孫(皇別氏族)といわれ,倉梯麻呂 (くらはしまろ) ・比羅夫・仲麻呂らを出し,平安中期以後は陰陽道 (おんみようどう) の家として栄えた。
阿部次郎
あべじろう @@@LINK=阿部次郎 阿部次郎

阿部次郎
あべじろう

1883〜1959
明治〜昭和期の哲学者
山形県の生まれ。 東大哲学科卒。夏目漱石門下で,ドイツの哲学者・美学者リップスの影響を強くうけて人格主義・教養主義を唱え,理想主義的文化運動の思想的指導者となる。主著『三太郎の日記』は青年の必読書に数えられた。

阿倍内麻呂
あべのうちのまろ @@@LINK=阿倍内麻呂 阿倍内麻呂

阿倍内麻呂
あべのうちのまろ

?〜649
改新政府の左大臣
倉梯麻呂ともいう。娘は孝徳天皇の妃で,有間皇子を生んだ。大化の改新後,改新政府の左大臣となり,右大臣蘇我倉山田石川麻呂とともに国政に参画。穏健派豪族の長老として重要な地位を占めた。
安倍貞任
あべのさだとう @@@LINK=安倍貞任 安倍貞任

安倍貞任
あべのさだとう

1019〜62
平安中期の陸奥の豪族
1056年,父頼時と前九年の役をおこし,源頼義・義家に討され,'62年衣川・厨川 (くりやがわ) 柵によって抗戦したが敗死。
安倍晴明
あべのせいめい @@@LINK=安倍晴明 安倍晴明

安倍晴明
あべのせいめい

921〜1005
平安中期の陰陽 (おんみよう) 家。土御門 (つちみかど) 家の祖
陰陽の術を学び,天文を解して事変を予見したという。『今昔物語集』『古今著聞集』に説話が伝えられ,その呪力が賞賛され,崇敬の対象ともなった。
阿倍仲麻呂
あべのなかまろ @@@LINK=阿倍仲麻呂 阿倍仲麻呂

阿倍仲麻呂
あべのなかまろ

698〜770
奈良時代の遣唐留学生。唐の官吏
717年吉備真備 (きびのまきび) ・玄昉 (げんぼう) らとともに入唐。玄宗に仕え,李白 (りはく) ・王維 (おうい) らの文人と交際。753年帰国の途中難破し,唐にもどり再び唐朝に仕え,その地で没した。『古今和歌集』の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」という故国をしのんだ歌は有名。

阿倍比羅夫
あべのひらふ @@@LINK=阿倍比羅夫 阿倍比羅夫

阿倍比羅夫
あべのひらふ

生没年不詳
蝦夷 (えみし) 征討に活躍した武将
658年斉明天皇のとき,日本海沿岸を北進し,津軽方面の蝦夷を討ち,さらに北海道の粛慎 (みしはせ) を征討した。のち白村江 (はくそんこう) の戦いで唐・新羅 (しらぎ) 連合軍に敗れた。
阿部信行内閣
あべのぶゆきないかく @@@LINK=阿部信行内閣 阿部信行内閣

阿部信行内閣
あべのぶゆきないかく

1939年8月,平沼騏一郎内閣のあとをうけて成立した陸軍大将阿部信行(1875〜1953)を首班とする内閣(〜'40)
組閣直後ヨーロッパで勃発した第二次世界大戦には不介入方針をとる。汪兆銘工作などによって日中戦争の解決を企図するが失敗,日米関係の打開も失敗し,国内の経済危機にも十分対処できず5か月で総辞職した。
安倍宗任
あべのむねとう @@@LINK=安倍宗任 安倍宗任

安倍宗任
あべのむねとう

生没年不詳
平安中期の陸奥の豪族
頼時の子。前九年の役(1051〜62)で兄貞任とともに戦ったが,貞任敗死後,陸奥守源頼義の軍に降伏。伊予(愛媛県)に配流,のち大宰府に移された。
安倍頼時
あべのよりとき @@@LINK=安倍頼時 安倍頼時

安倍頼時
あべのよりとき

?〜1057
平安中期の陸奥の豪族
貞任 (さだとう) ・宗任の父。俘囚 (ふしゆう) の長。中央政府にそむき,1051年,陸奥守源頼義の征討をうけ,'57年戦死。
阿部正弘
あべまさひろ @@@LINK=阿部正弘 阿部正弘

阿部正弘
あべまさひろ

1819〜57
幕末の政治家
備後(広島県)福山藩主。1843年老中となり,'45年水野忠邦に代わり老中首座。'53年ペリー来航に際し開国を決意し,翌年諸国と和親条約を締結した。また公武間や諸大名との協調による幕政改革に尽力したが中途病死

アヘン戦争
アヘンせんそう @@@LINK=アヘン戦争 アヘン戦争

アヘン戦争
アヘンせんそう

1840年,アヘンの輸入をめぐっておこった,イギリスの清国侵略戦争(〜'42)
イギリスのアヘン密輸により,保健上の害と大量の銀の流出を憂えた清国政府が,アヘンを没収・焼却し通商を禁止したために開戦。'42年敗れた清国は屈辱的な南京条約を結び,これが中国半植民地化の第一歩となった。この事件に衝撃をうけた江戸幕府は,異国船打払令天保の薪水給与令に改めた。
甘粕事件
あまかすじけん @@@LINK=甘粕事件 甘粕事件

甘粕事件
あまかすじけん

1923年9月,甘粕正彦憲兵大尉が大杉栄夫妻を殺害した事件
関東大震災の混乱の際に,東京憲兵隊分隊長甘粕らは,大杉栄・内妻の伊藤野枝と甥の橘宗一を外出先で検束し虐殺した。甘粕は軍法会議で懲役10年の判決をうけたが,'26年10月釈放され,満州国協和会の最高幹部におさまった。
天草四郎時貞
あまくさしろうときさだ @@@LINK=天草四郎時貞 天草四郎時貞

天草四郎時貞
あまくさしろうときさだ

?〜1638
江戸初期,島原の乱首領として活躍したキリシタン教徒
本名は益田四郎時貞小西行長の遺臣益田好次の子といわれ,奇跡を行いキリシタンの崇拝を集めた。1637年島原の乱がおこると一揆勢を統合して首領となったが,翌年敗死した。
天草版
あまくさばん @@@LINK=天草版 天草版

天草版
あまくさばん

安土桃山時代から江戸初期にかけて出版された活字印刷本の一つ
キリシタン版ともいう。『伊曽保物語』『平家物語』『どちりな・きりしたん』『ぎあ・ど・ぺかどる』などが有名。多くはキリスト教教義書。
尼子氏
あまこし @@@LINK=尼子氏 尼子氏

尼子氏
あまこし

出雲(島根県)の戦国大名
京極氏の子孫。経久のとき,出雲などの山陰諸国を領有大内氏争い,晴久のとき衰え,1566年毛利氏に攻略された。のち分家勝久は山中鹿之助と再興をはかったが失敗,滅亡した。
尼将軍
あましょうぐん @@@LINK=尼将軍 尼将軍

尼将軍
あましょうぐん

北条政子
天社・国社
あまつやしろ・くにつやしろ @@@LINK=天社・国社 天社・国社

天社・国社
あまつやしろ・くにつやしろ

天神 (あまつかみ) ・地祇 (くにつかみ) を祭る神社
天神は高天原 (たかまがはら) の神と天孫瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) )に従って天降った神で,これを祭る神社が天社。地祇は天孫降臨以前からの土着の神々をいい,これを祭る神社が国社。
天照大神
あまてらすおおみかみ @@@LINK=天照大神 天照大神

天照大神
あまてらすおおみかみ

日本神話の中心をなす神。太陽神で皇室の祖先神
伊弉諾 (いざなぎ) ・伊弉冉 (いざなみ) の2神の間に生まれた。『古事記』では,孫の瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) を日本国統治のために日向 (ひゆうが) の高千穂峰に降臨させた神とされる。太陽神に仕える巫女が神格化されたものと考えられている。伊勢神宮(内宮)に祭られる。
天岩戸神話
あまのいわとしんわ @@@LINK=天岩戸神話 天岩戸神話

天岩戸神話
あまのいわとしんわ

記紀神話の一つ
高天原 (たかまがはら) での素戔嗚尊 (すさのおのみこと) の乱暴を,姉神天照大神 (あまてらすおおみかみ) が怒って天岩戸に身をかくしたため暗闇となった。これを諸神の工夫により岩戸より引き出し,素戔嗚尊を追放したという物語。
天野遠景
あまのとおかげ @@@LINK=天野遠景 天野遠景

天野遠景
あまのとおかげ

生没年不詳
鎌倉時代の武将
伊豆田方郡天野に住み,天野を姓とした。1180年源頼朝の挙兵に参加,石橋山戦いに加わり,のち源範頼 (のりより) に従って平氏を西海に追討。その功により初代鎮西奉行に任じられ,九州御家人の統率と軍事警察任務をつかさどった。
奄美大島
あまみおおしま @@@LINK=奄美大島 奄美大島

奄美大島
あまみおおしま

鹿児島県南方海上にある奄美諸島の主島
682年天武天皇の時代,初めて入貢。1609(慶長14)年以後薩摩藩領となり,その砂糖は薩摩藩の主要財源であった。第二次世界大戦後,アメリカの軍政下に置かれたが,1953年日本に復帰。
網子
あみこ @@@LINK=網子 網子

網子
あみこ

網元のもとで,その労力を提供し,実際の漁労に従事するもの。
阿弥陀堂
あみだどう @@@LINK=阿弥陀堂 阿弥陀堂

阿弥陀堂
あみだどう

阿弥陀像を本尊とした仏寺建築
平安中期に浄土教の隆盛とともに寝殿造の影響をうけたこの建築が盛んとなる。極楽浄土の世界を現実に実現しようとし,堂内の天井・扉・四壁に極彩色の絵画を描く。藤原道長の造った法成寺は有名であるが現存しない。ほかに平等院・法界寺・中尊寺などがある。
阿弥陀仏
あみだぶつ @@@LINK=阿弥陀仏 阿弥陀仏

阿弥陀仏
あみだぶつ

西方極楽浄土にいる仏の名
阿弥陀如来ともいう。いっさいの衆生を救うために四十八願(いろいろな願い)をたてて,それを達成したという。のち浄土宗・浄土真宗の本尊となる。
阿弥陀来迎図
あみだらいごうず @@@LINK=阿弥陀来迎図 阿弥陀来迎図

阿弥陀来迎図
あみだらいごうず

来迎図
網元・網子
あみもと・あみこ @@@LINK=網元・網子 網元・網子

網元・網子
あみもと・あみこ

江戸時代の漁業経営上の労務組織
網元(網主)は網および船,時には漁場を所有する漁業経営者。網子はその下に働く労務者で,農村の名子制度のように隷属性が強い。漁獲の6〜7割以上を網元が取得する場合が多い。
天日矛
あめのひぼこ @@@LINK=天日矛 天日矛

天日矛
あめのひぼこ

記紀による伝説上の人物。垂仁朝に渡来した新羅 (しらぎ) の王子
天日槍」とも書く。新羅から伝えた矛 (ほこ) のためにこう呼ばれたらしい。垂仁天皇の命で「ときじくのかくの木の(たちばな)」を捜しに行ったと伝えられる田道間守 (たじまもり) はその子孫という。
雨森芳洲
あめのもりほうしゅう @@@LINK=雨森芳洲 雨森芳洲

雨森芳洲
あめのもりほうしゅう

1668〜1755
江戸中期の朱子学者
近江(滋賀県)の人。木下順庵の高弟で,中国語・朝鮮語にも通じ,人物温厚で同門の新井白石とは性格的にも学問的にも合わず,朝鮮通信使問題で論争した。対馬藩に仕え,朝鮮との外交にもあたった。著書に『橘窓文集』など。
アメリカ教育使節団
アメリカきょういくしせつだん @@@LINK=アメリカ教育使節団 アメリカ教育使節団

アメリカ教育使節団
アメリカきょういくしせつだん

第二次世界大戦後,占領政策の一環としての教育の民主化の勧告を行うため,GHQの招請によりアメリカから来日した使節団
その報告書は,六三制導入など,戦後の教育改革に多大な影響を与えた。
漢氏
あやうじ @@@LINK=漢氏 漢氏

漢氏
あやうじ

古代の代表的な渡来人系豪族
東漢氏 (やまとのあやうじ) ・西文氏 (かわちのあやうじ) があり,前者は阿知使主 (あちのおみ) と伝える。実際は楽浪・帯方郡から5世紀ごろに渡来したとみられ,文筆をもって政権に仕えた。東漢氏と西文氏とは直接関係はなく,西文氏の勢力は小さかった。
操人形芝居
あやつりにんぎょうしばい @@@LINK=操人形芝居 操人形芝居

操人形芝居
あやつりにんぎょうしばい

人形をあやつって演ずる芝居
8世紀渡来の傀儡子 (くぐつ) の系統をひく平安時代以来の門付 (かどつけ) 演芸がしだいに発達。一方,15世紀に平曲の琵琶法師が琉球渡来の蛇皮線(のち三味線)を用い,歌謡物語の浄瑠璃を発達させた。15世紀末ころ,この両者が結合し,人形浄瑠璃成立。17世紀初め江戸に進出し,17世紀末には大坂竹本義太夫竹本座をおこし,豊竹座と並んで全盛期を迎えた。3人で1人形をあやつる方法もできたが,歌舞伎に圧倒され,現在は文楽座で古典化し,また郷土芸能化して残っている。
漢織・呉織
あやはとり・くれはとり @@@LINK=漢織・呉織 漢織・呉織

漢織・呉織
あやはとり・くれはとり

古代伝承中の渡来機織技術者
記紀によれば,中国の呉から機織の技術をもって応神・雄略天皇治世に渡来,衣縫部 (きぬぬいべ) の祖となったという。織物技術の向上に貢献した。
漢部
あやべ @@@LINK=漢部 漢部

漢部
あやべ

東漢氏 (やまとのあやうじ) に統率される部民
史部 (ふひとべ) ・錦織部 (にしごりべ) ・鞍部 (くらつくりべ) など特殊技術をもって仕える渡来系の品部と,農業に従事する非渡来系の部曲とがあった。
アユタヤ
Ayuthaya @@@LINK=アユタヤ アユタヤ

アユタヤ
Ayuthaya

バンコクの北方70余㎞,チャオプラヤ川中流にあるシャム(タイ)の旧首都
アユチアともいう。室町時代には琉球との間に貿易船が往来し,江戸初期には朱印船も多く渡航した。アユタヤ郊外には日本町が建設され,山田長政が活躍した。
新居関
あらいのせき @@@LINK=新居関 新居関

新居関
あらいのせき

今切関 (いまぎれのせき)
新井白石
あらいはくせき @@@LINK=新井白石 新井白石

新井白石
あらいはくせき

1657〜1725
江戸中期の政治家・朱子学者
木下順庵に学び,甲府藩主の徳川綱豊の儒臣となった。1709年綱豊が6代将軍(家宣)になると,幕政に参画し,儒教主義による文治政治を行った。儀式典礼の整備,貨幣改鋳,海舶互市新例などを実施し,正徳の治といわれた。'16年吉宗が将軍になると退けられ,晩年は著述に専念した。主著に『藩翰譜 (はんかんふ) 』『読史余論』『古史通』『折たく柴の記』『西洋紀聞』『采覧異言 (さいらんいげん) 』など。

荒木貞夫
あらきさだお @@@LINK=荒木貞夫 荒木貞夫

荒木貞夫
あらきさだお

1877〜1966
昭和期の軍人・政治家
陸軍大将。東京の生まれ。皇道派青年将校の指導者。満州事変に際して強硬政策を進め,二・二六事件の責任を負って予備役に編入されたが,第1次近衛文麿内閣の文相となり,軍国主義の教育を強化した。第二次世界大戦後,東京裁判でA級戦犯として終身刑になったがのち仮釈放された。

荒木宗太郎
あらきそうたろう @@@LINK=荒木宗太郎 荒木宗太郎

荒木宗太郎
あらきそうたろう

?〜1636
安土桃山〜江戸時代初期,長崎の朱印船貿易家
名は一清,のち惣右衛門といった。もと熊本の武士。1606年より'33年まで朱印船貿易でシャム・アンナンに渡航し,アンナンの王族の女と結婚し,一女をもうけたことが確認されている。その持船は荒木船といわれた。

荒木田久老
あらきだひさおゆ @@@LINK=荒木田久老 荒木田久老

荒木田久老
あらきだひさおゆ

1746〜1804
江戸後期の歌人・国学者
伊勢(三重県)の人。賀茂真淵 (まぶち) に国学・和歌を学び,県居 (あがたい) 学派十二大家の一人。万葉派歌人として歌文集『万葉考槻 (つき) の落葉』があり,国学書としては『日本紀歌之解 (にほんぎうたのかい) 』が著名。同門の本居宣長とは別派をなして対立した。

荒木田守武
あらきだもりたけ @@@LINK=荒木田守武 荒木田守武

荒木田守武
あらきだもりたけ

1473〜1549
室町末期の連歌・俳諧師
伊勢内宮の神官。連歌を俗化して俳諧なるものを提唱した。山崎宗鑑とともに俳諧の始祖。『俳諧之連歌独吟千句』(『飛梅千句』または『守武千句』ともいう)を著して作法を示し,俳諧に座興的性格から脱して文芸性をつけようとした。

殯宮
あらきのみや @@@LINK=殯宮 殯宮

殯宮
あらきのみや

古代,貴人の遺体を葬る前にしばらくの間安置しておく場所
「もがりのみや」ともいう。葬祭までは生前と同じく朝夕食膳供え,呪術的歌舞を行って霊魂をしずめた。646年の薄葬令仏教葬送儀礼火葬の影響で衰え,元明天皇以後造られなくなった。
荒木村重
あらきむらしげ @@@LINK=荒木村重 荒木村重

荒木村重
あらきむらしげ

1535〜86
安土桃山時代の武将
摂津(大阪府)豊島郡の人。もと三好氏に属し,1573年以降織田信長に仕え,功により摂津一国の領主となった。'78年信長に謀反をおこし,のがれて毛利氏に頼り,剃髪して,茶の湯を学んだ。のち豊臣秀吉に仕え茶会にも参加。千利休の七哲の一人に数えられた。

荒事
あらごと @@@LINK=荒事 荒事

荒事
あらごと

近世,歌舞伎の演技のの一つ
超人的な力をもつ主人公の演技をいう。武勇者を扱った金平 (きんぴら) 浄瑠璃の影響をうけ,元禄期(1688〜1704),初代市川団十郎が創始。顔に (くま) をとり,発声・動作を誇張。和事 (わごと) や実事 (じつごと) (実直な人物を中心に,日常的な事件を写実的に演じる)と並ぶが,特に江戸で喜ばれた。
愛発関
あらちのせき @@@LINK=愛発関 愛発関

愛発関
あらちのせき

古代,越前国(福井県)と近江国(滋賀県)の国境に置かれた北陸道の関
天智天皇治世期の設置とされる。伊勢の鈴鹿 (すずか) ,美濃の不破 (ふわ) とともに古代三関の一つに数えられた。789年廃止。
荒畑寒村
あらはたかんそん @@@LINK=荒畑寒村 荒畑寒村

荒畑寒村
あらはたかんそん

1887〜1981
明治〜昭和期の社会主義者
神奈川県の生まれ。平民社の運動に参加,1908年赤旗事件で投獄されたが,大逆事件後の「冬の時代」には,アナルコ‐サンディカリスムの立場に立って,大杉栄・堺利彦らと『近代思想』を発刊。日本共産党に一時属したこともあるが,昭和に入ってからは労農派に属した。第二次世界大戦後は労働組合運動再建に尽力した。

現人神
あらひとがみ @@@LINK=現人神 現人神

現人神
あらひとがみ

神格化された天皇
天皇は人間でなく神であるとする思想で,天武・持統天皇治世期に生まれ,『万葉集』にも「大君は神にしませば……」と歌われている。明治維新以降,国家神道教育勅語などで天皇の神性がいっそう強調され,敗戦まで続いた。戦後の1946年天皇みずから「人間宣言」を発して神格を否定した。
アラブ石油輸出国機構
アラブせきゆゆしゅつこくきこう
Organization of Arab Petroleum Exporting Countries @@@LINK=アラブ石油輸出国機構 アラブ石油輸出国機構

アラブ石油輸出国機構
アラブせきゆゆしゅつこくきこう
Organization of Arab Petroleum Exporting Countries

1968年アラブ産油国の利益を守るために設立された機構
略称OAPEC オアペック。1973年におきた第4次中東戦争に際してOAPECが原油の大幅減産と価格の4倍引き上げを実施したため,石油危機がおこった。
アララギ

アララギ

1908(明治41)年以来刊行の短歌雑誌
正岡子規没後,門人たちが刊行した雑誌『馬酔木 (あしび) 』から分かれて伊藤左千夫が創刊。万葉調・写生を基調とし,大正・昭和期の歌壇の主流をなした。編集は斎藤茂吉・島木赤彦・土屋文明らが相ついで担当したが,1998(平成10)年終刊となった。
有島生馬
ありしまいくま @@@LINK=有島生馬 有島生馬

有島生馬
ありしまいくま

1882〜1974
大正・昭和期の洋画家
本名は壬生馬 (みぶま) 。神奈川県の生まれ。兄は有島武郎,弟は里見弴。藤島武二に師事。イタリア・フランスに留学し,後期印象派の感化をうけて帰国。1914年に二科会を創立,'36年一水会をおこした。また白樺派の小説家としても活躍した。

有島武郎
ありしまたけお @@@LINK=有島武郎 有島武郎

有島武郎
ありしまたけお

1878〜1923
大正時代,白樺派の小説家
東京の生まれ。学習院を経て札幌農学校卒。キリスト教に入信したが,アメリカ留学後棄教。1910年雑誌『白樺』創刊に参加し,人道主義的な作風を示した。社会主義に関心深く,ブルジョア出身の自己との矛盾に苦しんだが,作品は社会的にも注目された。しかし行きづまりを深刻に感じ,軽井沢で人妻と情死。代表作に思想的評論『惜しみなく愛は奪ふ』,小説『或る女』『生れ出づる悩み』『カインの末裔 (まつえい) 』など。

有栖川宮熾仁親王
ありすがわのみやたるひとしんのう @@@LINK=有栖川宮熾仁親王 有栖川宮熾仁親王

有栖川宮熾仁親王
ありすがわのみやたるひとしんのう

1835〜95
幕末・明治時代の皇族
有栖川宮幟仁 (たかひと) 親王の第1子。王政復古の大号令により三職が置かれると,総裁に就任。戊辰 (ぼしん) 戦争に際しては東征大総督として江戸に入り,江戸城を無血開城させた。以後兵部卿・福岡藩知事・元老院議長などを歴任し,西南戦争で征討総督,日清戦争では総参謀長をつとめた。

有田焼
ありたやき @@@LINK=有田焼 有田焼

有田焼
ありたやき

肥前(佐賀県)有田地方で生産される磁器
文禄・慶長の役後,連行された朝鮮人陶工が始めた。酒井田柿右衛門の赤絵付の成功,藩主鍋島氏の保護で,江戸時代窯業の中心となった。伊万里 (いまり) からで積み出されたので伊万里焼ともいう。
有馬氏
ありまし @@@LINK=有馬氏 有馬氏

有馬氏
ありまし

戦国〜江戸時代の大名
諸国の同名の郡・庄・郷などに発祥し数氏ある。特に肥前国(長崎県)高来郡の有馬氏,摂津国(大阪府)有馬郡の有馬氏などが有力であった。肥前有馬氏では,晴信がキリシタン大名として著名。子の直純 (なおずみ) は徳川家康に仕え,日向延岡を領した。のち,越前丸岡5万石に転封。摂津有馬氏は,摂津三田・丹波福知山・遠江 (とおとうみ) 横須賀を領し,豊氏のとき大坂の役の功により加増されて,筑後久留米21万石の藩主となり,明治に至った。
有馬新七
ありましんしち @@@LINK=有馬新七 有馬新七

有馬新七
ありましんしち

1825〜62
幕末,薩摩藩の尊攘派志士
もと郷士出身。1856年上洛して王政復古を説き,井伊直弼 (なおすけ) の専断に反対し,'62年島津久光の上洛のとき挙兵討幕を計画。藩内急進派を率いて京都所司代らを襲おうとしたが,久光の討手をうけ,伏見寺田屋で斬られた。

有間皇子
ありまのおうじ @@@LINK=有間皇子 有間皇子

有間皇子
ありまのおうじ

640〜658
孝徳天皇の皇子
母は左大臣阿倍内麻呂の娘。斉明天皇・中大兄 (なかのおおえ) 皇子が紀伊行幸中,蘇我赤兄 (そがのあかえ) (馬子)のすすめで謀反を企てたが,内通されて紀伊国で殺された。人望があり,中大兄皇子に警戒されていた。

有馬晴信
ありまはるのぶ @@@LINK=有馬晴信 有馬晴信

有馬晴信
ありまはるのぶ

1567〜1612
安土桃山〜江戸時代初期の肥前(長崎県)有馬城主。キリシタン大名
1580年受洗。'82年大友宗麟・大村純忠 (すみただ) とともに天正遣欧使節をローマに派遣。その後豊臣秀吉・徳川家康に仕え,1609年長崎でのポルトガル船焼打ちを強行したが,'12年讒訴をうけて甲斐(山梨県)に流罪となり,領地没収のうえ,切腹。

在原氏
ありわらうじ @@@LINK=在原氏 在原氏

在原氏
ありわらうじ

平安初期の皇族賜姓の一つ
平城天皇の皇子高岳 (たかおか) 親王・阿保親王の子女に在原姓が賜姓された。阿保親王の子行平は中納言まで進み,大学別曹奨学院を創設。行平の弟業平 (なりひら) は六歌仙の一人として著名。政治的には藤原氏に押され不振であった
在原業平
ありわらのなりひら @@@LINK=在原業平 在原業平

在原業平
ありわらのなりひら

825〜880
平安前期の歌人。六歌仙の一人
平城天皇の孫。美男の伝えがあり,『伊勢物語』の主人公とされている。藤原氏にはばまれ不遇のため風流に明け暮れた。多感な性格で歌風にも情熱的な特色があらわれている。家集に『業平集』1巻。

或る女
あるおんな @@@LINK=或る女 或る女

或る女
あるおんな

明治後期・大正時代,有島武郎の長編小説
前編は,1911〜13年『白樺』に連載,後編は'19年刊。「自我に目ざめかけて而も自分にも方向が解らず,社会はその人を如何に取りあつかうべきかも知らない時代に生まれ出た一人の勝気な鋭敏な女性」としての早月葉子の運命を描いた,日本リアリズム文学不朽の名作
アルカイック‐スマイル
archaic smile @@@LINK=アルカイックスマイル アルカイックスマイル

アルカイック‐スマイル
archaic smile

古拙 (こせつ) の微笑
アルカイックとは,美術史上,原始期をすぎて古典として完成する前の一時期をさし,典型としては前8世紀から前5世紀初めごろまでのギリシア美術があげられる。この時期のギリシア彫刻に見られるほほえむような表情をアルカイック‐スマイルといい,日本の飛鳥仏のこれに近い表情も同様に呼ばれる。
粟田口吉光
あわたぐちよしみつ @@@LINK=粟田口吉光 粟田口吉光

粟田口吉光
あわたぐちよしみつ

生没年不詳
鎌倉時代の刀工
通称藤四郎。京都粟田口に住む。相模(神奈川県)の岡崎正宗,越中(富山県)の郷義弘とともに3名工といわれ,短刀・剣を得意とし,作風は優美である。代表作に京都陽明文庫蔵の短刀吉光など。
粟田真人
あわたのまひと @@@LINK=粟田真人 粟田真人

粟田真人
あわたのまひと

?〜719
奈良前期の遣唐使
中納言。正三位。700年大宝律令選定に参加。翌701年遣唐使に任命され,703年長安に至り則天武后に謁した。唐人は彼の態度の高尚なのに感心したという。704年帰国。
粟田焼
あわたやき @@@LINK=粟田焼 粟田焼

粟田焼
あわたやき

江戸初期から京都粟田口でつくられた陶器
17世紀初めからつくり始められ,清水 (きよみず) 焼とともに京焼の中心となる。野々村仁清 (にんせい) もこの簡単な上絵から色絵を完成したという。
安閑天皇
あんかんてんのう @@@LINK=安閑天皇 安閑天皇

安閑天皇
あんかんてんのう

生没年不詳
6世紀前半の天皇
生没年・在位期間については諸説ある。継体 (けいたい) 天皇の皇子。大連 (おおむらじ) 大伴金村に支持され,蘇我氏の支持する欽明 (きんめい) 天皇と対立した。安閑・宣化朝と欽明朝が同時に存在したという説もある。
安居院
あんごいん @@@LINK=安居院 安居院

安居院
あんごいん

飛鳥寺
安康天皇
あんこうてんのう @@@LINK=安康天皇 安康天皇

安康天皇
あんこうてんのう

生没年不詳
5世紀中ころの天皇
允恭 (いんぎよう) 天皇の皇子。『宋書』倭国伝にみえる倭の五王の一人,興に比定される。
安国寺恵瓊
あんこくじえけい @@@LINK=安国寺恵瓊 安国寺恵瓊

安国寺恵瓊
あんこくじえけい

?〜1600
安土桃山時代の武将
安芸 (あき) (広島県)の出身,京都東福寺の僧となり,のち安芸安国寺,京都南禅寺に入る。毛利輝元に信任され,織田信長と足利義昭 (よしあき) の対立や,備中(岡山県)の高松城水攻めを調停。のち豊臣秀吉から伊予6万石のをうけ,関ケ原の戦いで西軍に参加したが,捕らえられ,京都で斬首された。

安国寺・利生塔
あんこくじ・りしょうとう @@@LINK=安国寺・利生塔 安国寺・利生塔

安国寺・利生塔
あんこくじ・りしょうとう

南北朝時代,足利尊氏・直義が全国に設けた寺・塔
夢窓疎石の勧めで後醍醐 (ごだいご) 天皇以下戦死者の冥福を祈り,天下統一誇示のため,国ごとに1寺1塔を設置,光厳 (こうごん) 院の院宣 (いんぜん) を得,寺を安国,塔を利生と称した。在来の寺・塔を修補したものが多い。臨済宗の地方波及と他宗派の統制に役だったが,室町幕府衰退とともに衰えた。
鞍山製鉄所
あんざんせいてつじょ @@@LINK=鞍山製鉄所 鞍山製鉄所

鞍山製鉄所
あんざんせいてつじょ

中国東北地区,遼 (りようねい) にある製鉄所
1915年二十一カ条要求で採掘権を獲得し,'18年南満州鉄道株式会社満鉄)が経営。大陸投資政策の一環として本溪湖 (ほんけいこ) 製鉄所とともに大きな役割を果たした。'33年満鉄から分離し昭和製鋼所に合併された。第二次世界大戦後は,中国の代表的製鉄所となった。
アンジロー
Anjiro @@@LINK=アンジロー アンジロー

アンジロー
Anjiro

生没年不詳
戦国時代,日本最初のキリシタン信徒
弥次郎 (やじろう) ともいう。薩摩の人。殺人の罪を犯して国外に逃亡,東南アジアを転々とし,1546〜47年ごろマラッカでザビエルにより受洗。'49年彼に同道して帰国各地伝道した。晩年の消息不明。
案主
あんず @@@LINK=案主 案主

案主
あんず

中世,下級荘官の一つ
主として荘園の記録をつかさどる。摂関家・鎌倉幕府の政所 (まんどころ) の下級職の中にもこの名がみられる。
安政の五カ国条約
あんせいのごかこくじょうやく @@@LINK=安政の五カ国条約 安政の五カ国条約

安政の五カ国条約
あんせいのごかこくじょうやく

1858(安政5)年,江戸幕府がアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの5カ国と結んだ修好通商条約
日米修好通商条約調印後,順次締結。この諸条約は無勅許のままに大老井伊直弼 (なおすけ) によって調印されたため仮条約と呼ばれ,国内の政争とからんで,安政の大獄・桜田門外のなどを生んだ(1865年勅許)。領事裁判権認め協定関税とするなど,内容的には不平等条約で,その改正は明治時代の条約改正問題としてクローズアップされた。
安政の大獄
あんせいのたいごく @@@LINK=安政の大獄 安政の大獄

安政の大獄
あんせいのたいごく

1858(安政5)年から翌年にかけて,大老井伊直弼 (なおすけ) が反対派に加えた大弾圧
井伊が勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し,将軍継嗣問題では紀伊藩主徳川慶福 (よしとみ) を継嗣に決定するなどの専断を行ったので,一橋派・尊攘派の反対運動が激化した。井伊は公卿・大名・志士ら100余名に弾圧を加えた。この大獄は討幕の気運を高め,井伊は1860年桜田門外ので暗殺された。
安全保障理事会
あんぜんほしょうりじかい
Security Council @@@LINK=安全保障理事会 安全保障理事会

安全保障理事会
あんぜんほしょうりじかい
Security Council

国際平和と安全の維持を任務とする国際連合の主要機関
国際紛争の平和的解決にあたるほか,平和侵犯国を認定し,これに対し経済的・軍事的制裁を加える権限をもつ。拒否権をもつ常任理事国5カ国(米・ロシア・英・仏・中)と総会で選出された2年任期の非常任理事国10カ国で構成される。
安堵
あんど @@@LINK=安堵 安堵

安堵
あんど

中世〜近世において,所領の所有権・領有権・知行権などを確認あるいは承認すること
一般に主君からの御恩として行われ,これにより封建的主従関係が成立することが多い。安堵には,祖先以来知行している当知行地を確認する本領安堵や,買得地・譲与地を承認する沽却 (こきやく) 地安堵・和与 (わよ) 地安堵などがある。
安藤昌益
あんどうしょうえき @@@LINK=安藤昌益 安藤昌益

安藤昌益
あんどうしょうえき

?〜1762
江戸中期の思想家・医者
秋田に生まれ,医学・本草学を修め,陸奥(青森県)八戸 (はちのへ) で町医を開業。のち長崎へ西欧事情を知るため遊学したといわれるが事歴は不明。『自然真営道』『統道真伝』を著し,武士・聖人・君子を不耕貪食盗人と極言し,支配者のいない,万人が耕作に従事する平等な「自然世」を理想とする思想を説いた。

安東大将軍
あんとうだいしょうぐん @@@LINK=安東大将軍 安東大将軍

安東大将軍
あんとうだいしょうぐん

5世紀,倭の五王のうち中国王朝から得た称号
その権威で朝鮮経営を有利に導こうとした。・済は安東将軍にとどまったが,武は最初の遣使の際正式に安東大将軍に叙任された。
安藤信正
あんどうのぶまさ @@@LINK=安藤信正 安藤信正

安藤信正
あんどうのぶまさ

1819〜71
幕末の政治家
磐城(福島県)平藩主。寺社奉行・若年寄を経て1860年老中となる。桜田門外の変後,幕閣の中心に立って公武合体策を推進し,孝明天皇の皇妹和宮 (かずのみや) の将軍徳川家茂への降嫁を実現。このため,'62年江戸城坂下門前で尊攘派に襲われ負傷し,罷免。戊辰 (ぼしん) 戦争では奥羽諸藩と連合して官軍に反抗,処罰された。

安徳天皇
あんとくてんのう @@@LINK=安徳天皇 安徳天皇

安徳天皇
あんとくてんのう

1178〜85
平安末期の天皇(在位1180〜85)
名は言仁 (ときひと) 。高倉天皇第1皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子。源平合戦のとき,宗盛ら平氏一門とともに西国に下り,1185年壇の浦で祖母平時子に抱かれ入水した。

安和の変
あんなのへん @@@LINK=安和の変 安和の変

安和の変
あんなのへん

969(安和2)年,平安中期の政変
冷泉天皇の皇太弟守平親王を廃し,兄為平親王(妃は源高明 (みなもとのたかあきら) の娘)を擁立しようとする陰謀ありとの源満仲の密告に端を発した事件。左大臣源高明も連坐して大宰府へ左遷された。右大臣藤原師尹 (もろただ) による高明追放の謀略とみられ,藤原氏の他氏排斥の最後の事件。以後摂政あるいは関白が常置され藤原氏全盛期を迎えた。
安南
アンナン
Annam @@@LINK=安南 安南

安南
アンナン
Annam

インドシナ半島東岸の狭長な地方。現在のヴェトナム
その名は唐の安南都護府(唐の南辺統治機関)に由来する。唐末,五代(907〜960)の争乱に乗じて,秦以来の中国支配から脱却し,明に一時征服されたが,1428年独立。17世紀には朱印船が盛んに出入し,ツーラン・フェフォには日本町ができた。19世紀後半,フランスの保護国となり,第二次世界大戦後独立。
安保改定阻止国民会議
あんぽかいていそしこくみんかいぎ @@@LINK=安保改定阻止国民会議 安保改定阻止国民会議

安保改定阻止国民会議
あんぽかいていそしこくみんかいぎ

1959年3月,社会・共産両党,総評全学連(全日本学生自治会総連合)の学生など,134団体が集まって結成した安保闘争の指導部。
安保体制
あんぽたいせい @@@LINK=安保体制 安保体制

安保体制
あんぽたいせい

日米安全保障条約により規定される日本の体制
1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約調印同日に日米安全保障条約を調印。これに基づいて締結された日米行政協定('52)・MSA協定('54)以来,日本を強く拘束している政治・経済・軍事体制をいう。戦後の日本は,この体制の下に軽武装・経済優先路線を歩んできた。しかし,冷戦終結によって,その意義が問われ始めている。
安保闘争
あんぽとうそう @@@LINK=安保闘争 安保闘争

安保闘争
あんぽとうそう

1960(昭和35)年,日米安全保障条約改定を阻止するためにおこった反対闘争
1960年1月19日,ワシントン日米新安全保障条約が調印された(岸信介全権)。批准国会では,「極東の範囲」や「事前協議」の問題をめぐって紛糾したが,政府は野党と対立のまま5月19日単独採決を強行。院内外の反対運動は激化し,6月10日羽田空港のハガチー事件,16日アイゼンハウアーの訪日中止などが続いたが,ついに19日法案は自然成立して批准を終え,岸内閣は退陣した。
暗夜行路
あんやこうろ @@@LINK=暗夜行路 暗夜行路

暗夜行路
あんやこうろ

大正・昭和期,志賀直哉の代表的長編小説
1921年から'37年にかけて,断続的に書きつがれて完成。暗い出生に苦しんだ主人公時任謙作 (ときとうけんさく) が,幸福を求めて暗夜にも似た人生をたどり,やがて諦観の境に行きつく過程を,的確にリアルに描く。

い @@@LINK=移 移



律令制下の公文書形式の一つ
所管関係のない役所相互の連絡のために出されたもので,正倉院文書に多い。令外官 (りようげのかん) などが生み出された平安時代には所管関係が乱れ,移はすたれて,もっぱら牒 (ちよう) が用いられた。
帷幄上奏権
いあくじょうそうけん @@@LINK=帷幄上奏権 帷幄上奏権

帷幄上奏権
いあくじょうそうけん

旧陸海軍がもった上奏についての権限
帷幄」とは陣営に使うをいい,軍司令官が軍議をはかるところの。「上奏」とは天皇に意見や事情を申しあげること。1878年,天皇に直属し軍令事項を総轄する参謀本部が設置され,軍令事項は内閣を経ず直接天皇に上奏できるようになった。憲法第11条に規定。内閣の方針と軍部とが,一致をみない場合には,軍部が独自の上奏をして混乱をまねいた。
井伊氏
いいし @@@LINK=井伊氏 井伊氏

井伊氏
いいし

江戸時代の譜代大名。近江国(滋賀県)彦根藩主
もと遠江 (とおとうみ) (静岡県)の豪族で,井伊谷 (いいのや) に住み井伊氏を称した。直政 (なおまさ) が徳川家康に仕えて四天王の一人にあげられ,上野 (こうずけ) 国(群馬県)箕輪 (みのわ) 12万石,のち近江国佐和山18万石の領主となる。長子直勝のとき彦根に移り,その弟直孝のとき加増され35万石。譜代大名中最高の家柄として江戸時代を通じ大老を5人輩出した。特に幕末の直弼 (なおすけ) が有名。代々掃部頭 (かもんのかみ) を称した。
飯田事件
いいだじけん @@@LINK=飯田事件 飯田事件

飯田事件
いいだじけん

明治中期,自由民権運動の激化事件の一つ
1884年,愛知県と長野県飯田の自由党員が連絡し,名古屋鎮台兵や農民に立憲政体樹立を呼びかけ,秩父事件を契機に蜂起を計画したが事前に発覚。同年12月指導者は逮捕,処罰された。
井伊直弼
いいなおすけ @@@LINK=井伊直弼 井伊直弼

井伊直弼
いいなおすけ

1815〜60
幕末の政治家
彦根藩主。掃部頭 (かもんのかみ) を称す。1858(安政5)年,日米修好通商条約締結問題と将軍継嗣問題をめぐる幕政混乱期に大老に就任。勅許を得ずに条約に調印し,徳川慶福 (よしとみ) (家茂 (いえもち) )を将軍継嗣に定め,反対派を安政の大獄で処分して幕府権力の再建をはかる。その強圧策のため,'60年江戸城桜田門外で水戸浪士らに襲われ,暗殺された。以後,幕府は政局の主導権を失った。

伊井蓉峰
いいようほう @@@LINK=伊井蓉峰 伊井蓉峰

伊井蓉峰
いいようほう

1871〜1932
明治・大正時代の新派俳優
東京の生まれ。初め川上音二郎一座にいたが,1908年以来新派劇の頭目として活躍し,その基礎を築いた。

イエズス会
イエズスかい @@@LINK=イエズス会 イエズス会

イエズス会
イエズスかい

室町末期〜江戸初期,キリスト教日本伝道の中心となったカトリック教団
耶蘇 (ヤソ) 会・ジェスイット教団(派)ともいう。1540年,スペイン人イグナチウス=ロヨラらが創設。軍隊的規律をもって,異教徒,特にアジア布教を目ざした。ザビエル以下,フロイス・ヴァリニャーニ・ビレラら日本布教の宣教師は,いずれもイエズス会に所属した。
イエズス会士日本通信
イエズスかいしにほんつうしん @@@LINK=イエズス会士日本通信 イエズス会士日本通信

イエズス会士日本通信
イエズスかいしにほんつうしん

16世紀に来日したイエズス会宣教師書簡
エボラ版『書簡集』の一部。中国・インドヨーロッパの同僚宛の書簡,1549〜80年間を収録している。キリシタン南蛮貿易根本史料で,『新異国叢書』に所収
イエズス会日本年報
イエズスかいにほんねんぽう @@@LINK=イエズス会日本年報 イエズス会日本年報

イエズス会日本年報
イエズスかいにほんねんぽう

1579年以来,日本イエズス会ローマのイエズス会総長に提出した年度報告
ヴァリニャーニの指示により行われた。正式なものは1626年までで,その後'33年までは,殉教報告が送られている。日本のキリシタン史研究の主要史料。
家司
けいし @@@LINK=家司 家司
いえつかさ @@@LINK=家司 家司

家司
けいし

皇族貴族の家政をつかさどる職員
「いえつかさ」とも読む。大宝令に規定があるが,平安中期以後は皇族や貴族が政所 (まんどころ) ・侍所 (さむらいどころ) などの機関を設け職員を置いた。鎌倉・室町幕府の政所・問注所 (もんちゆうじよ) の寄人 (よりゆうど) ,評定衆 (ひようじようしゆう) ・引付 (ひきつけしゆう) の職員も総称して家司といった。

家司
いえつかさ

けいし
家子
いえのこ @@@LINK=家子 家子

家子
いえのこ

中世武士団の構成員で,一族の長である惣領に対して庶子をいう
彼らは所領をもち独立生計を営むが,その行動は惣領の指揮下にあった。室町時代には家人 (けにん) とともに家臣を意味したが,守護被官となって消滅した。
家彫
いえぼり @@@LINK=家彫 家彫

家彫
いえぼり

江戸時代,彫金の一つ
幕府の御用彫金家,後藤一門の手になる装金具をいう。将軍・大名をはじめ正式の刀の拵 (こしらえ) には家彫が用いられた。民間の町彫 (まちぼり) に対していわれる。
家持
いえもち @@@LINK=家持 家持

家持
いえもち

江戸時代,町人階層の一つ
町内に家屋敷を所有する地主をいう。町人の中心で,町人としての権利(庶政や行事への参加)や義務(町役・公役の負担)を有した。町名主は家持の中から選出。地借から地代を,店借 (たながり) から店賃を徴収した。この場合,家持の管理を代行するのが大屋 (おおや) ・家守 (やもり) で,彼らは家持に準じて町政に参加した。
家元
いえもと @@@LINK=家元 家元

家元
いえもと

芸道で,流派の正統を相伝していく家
宗家 (そうけ) ともいう。起源は平安・鎌倉時代,歌・雅楽・書などの芸能や趣味生活の分野などに求められ,戦国時代末期以降は,武術の面でも家元制度が行われた。しかし家元を頂点とするヒエラルヒーが確立し,庶民層にまで拡大して文化の伝承に大きなはたらきをするようになるのは江戸中期以後である。遊芸の発達に伴って,それぞれの派の取締り・免許伝授にあたり,家元は師範名取などの中間教授陣を通して弟子全体にその力を及ぼした。生け花・能・舞踊・茶道・音曲などに行われる。
硫黄
いおう
S @@@LINK=硫黄 硫黄

硫黄
いおう
S

第Ⅵ族(酸素族)に属する元素
古来薬用や烽火 (のろし) などに利用。中世には火薬・付木 (つけぎ) 用として日明日朝貿易の重要輸出品となる。当時のおもな産地は大隅国(鹿児島県)硫黄島。江戸時代は国内需要も多くなり,各地で生産された。
位階
いかい @@@LINK=位階 位階

位階
いかい

律令制で官人の公式序列を示す等級
603年聖徳太子によって冠位十二階が定められたのが最初。以後数回の変遷があるが,大宝令に至って冠制を廃し,位記を与えた。令制では位階に相当する官職に任命されるのが原則で,これを官位相当の制という。
威海衛
いかいえい @@@LINK=威海衛 威海衛

威海衛
いかいえい

中国山東省にある港市
14世紀後半倭寇を防ぐために衛所が設置されたが,清末に北洋艦隊の基地として整備された。日清戦争で日本軍は威海衛に攻撃をかけ,ここにいた北洋艦隊を壊滅させた。1898年イギリスの租借地となったが,1930年中国に還付。現在名は威海。
医学所
いがくじょ @@@LINK=医学所 医学所

医学所
いがくじょ

幕末,江戸幕府により設立された西洋医学校
1858(安政5)年伊東玄朴らが江戸神田に種痘所を創設したのが起源。'60(万延元)年幕府直轄となり,翌年西洋医学所,'62年緒方洪庵頭取となり,'63年医学所と改称。医者養成診療にあたり,西洋医学の普及に貢献した。維新後明治政府が接収し,大学東校・東京医学校と改称,'77年東大医学部となった。
伊賀者
いがもの @@@LINK=伊賀者 伊賀者

伊賀者
いがもの

伊賀国(三重県)服部郷を根拠とした郷士の総称
江戸幕府に仕え,鉄砲組などに編入され,江戸城門や将軍外出時の警固などにあたるとともに,忍 (しの) びとして隠密などに使役された。
斑鳩宮
いかるがのみや @@@LINK=斑鳩宮 斑鳩宮

斑鳩宮
いかるがのみや

飛鳥時代,聖徳太子の造営した太子一族の宮
斑鳩は地名。法隆寺東院の地にあたる。太子死後,643年山背大兄王 (やましろのおおえのおう) が蘇我入鹿 (いるか) らに襲撃された際,宮は焼失した。739年太子一族の冥福を祈るため,僧行信が宮址に伽藍 (がらん) を建立。これが夢殿を中心とする法隆寺東院である。
衣冠・束帯
いかん・そくたい @@@LINK=衣冠・束帯 衣冠・束帯

衣冠・束帯
いかん・そくたい

平安中期以降着用された男子の宮廷服
奈良時代の朝服が和様化した束帯が,平安中期に成立し正装となった。衣冠は束帯の略装であり,平安末期頃から日常の参内に用いられるようになった。

いき @@@LINK=粋 粋


いき

江戸町人文化の現象や情緒面において,その特色ないし傾向を表す言葉
「意気」とも書く。「野暮 (やぼ) 」に対する概念で,内容はさまざまであるが,すっきりした気分や意地を示す心意気などがほぼ共通している。たとえば男女間の問題もただ道学者的に排撃するのではなく,人情の機微 (きび) を察した処置は「いき」なはからいであり,冬でも素足で通すのが「いき」な風俗であった。
位記
いき @@@LINK=位記 位記

位記
いき

位階を授けるとき,本人に与える証明書
大宝令以降,位階を示す冠が廃され,位記のみが用いられるようになった。書式は養老令に定められており,勅授(五位以上)・奏授(六位以下)・判授(外八位および内外初位以上)のがある。
伊吉博徳
いきのはかとこ @@@LINK=伊吉博徳 伊吉博徳

伊吉博徳
いきのはかとこ

生没年不詳
7世紀後期の渡来人系官人
659年遣唐使の一員として入唐。686年大津皇子の謀反に連坐したが許された。のち刑部 (おさかべ) 親王らの大宝律令編纂事業に参画。『日本書紀』に引用された在唐日記『伊吉連博徳書』はこの時代の貴重な史料である。
イギリス公使館焼打ち事件
イギリスこうしかんやきうちじけん @@@LINK=イギリス公使館焼打ち事件 イギリス公使館焼打ち事件

イギリス公使館焼打ち事件
イギリスこうしかんやきうちじけん

幕末の攘夷運動の一つ
1862年,長州藩士高杉晋作・久坂玄瑞・品川弥二郎ら約10名が,江戸品川御殿山に建築中のイギリス公使館を襲撃し焼き払った事件
軍奉行
いくさぶぎょう @@@LINK=軍奉行 軍奉行

軍奉行
いくさぶぎょう

鎌倉・室町幕府の職名
臨時の職で,軍事全般の総指揮官。鎌倉時代には侍所の別当・所司が任じられ,室町幕府でもそれにならったが,応仁の乱(1467〜77)後は所司以外でも任じられ,戦国大名も軍事に長じた老巧者をこれにあてた。
生田万
いくたよろず @@@LINK=生田万 生田万

生田万
いくたよろず

1801〜37
江戸後期の国学者
上野 (こうずけ) (群馬県)館林藩出身。平田篤胤に国学を学ぶ。幕政を批判したり,藩政改革を説いて追放され,越後柏崎に移り私塾を開く。天保の飢饉に代官・米商人の不正を憤り,1837年大塩平八郎の乱に応じ柏崎代官所を襲撃,失敗して自殺した(生田万の乱)。

生野銀山
いくのぎんざん @@@LINK=生野銀山 生野銀山

生野銀山
いくのぎんざん

兵庫県朝来 (あさこ) (近代以降)郡生野町にあった戦国時代以来の銀山
807年の発見と伝えられるが,元亀年間(1570〜73)領主山名氏の開発により発展。その後,織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らは,それぞれ直接経営にあたり,その産額は17世紀前半が最も多く,当時全国一であった。明治維新後官営となり,のち1896年三菱に払い下げられた。1973年休山。
生野の変
いくののへん @@@LINK=生野の変 生野の変

生野の変
いくののへん

1863(文久3)年,但馬 (たじま) 国(兵庫県)生野でおこった討幕挙兵事件
平野国臣 (くにおみ) らが大和天誅組の挙兵に呼応し,沢宣嘉 (のぶよし) を主将として,生野の農民とともに生野代官所を襲撃。周辺諸藩の出兵と内部分裂のため3日間で敗北した。
池上曽根遺跡
いけがみそねいせき @@@LINK=池上曽根遺跡 池上曽根遺跡

池上曽根遺跡
いけがみそねいせき

大阪府和泉市と泉大津市にまたがる,弥生時代中期を中心とした環濠集落遺跡
1969年以降の発掘調査の結果,環濠は長径約300mの卵形で,その中央北部に神殿跡と見られる大型掘立柱建物,建物の南にクスノキの大木をくりぬいた直径2mの井戸があることがわかった。建物のヒノキの柱を年輪年代測定法で調べた結果,紀元前52年に伐採されたことが判明した。出土遺物では,多量の土器・農具などの木器のほか,祭祀用と見られる遺物が注目されている。
池田
いけだ @@@LINK=池田 池田

池田
いけだ

大阪府北西部,猪名川沿岸の住宅・工業都市。江戸時代以来の酒造地
伊丹・とともに江戸時代には工場制手工業による酒の生産が盛んであった。
池田氏
いけだし @@@LINK=池田氏 池田氏

池田氏
いけだし

戦国〜江戸時代の大名。備前岡山・因幡鳥取藩主
永禄年間(1558〜70),恒利 (つねとし) が織田信秀に仕え,子の恒興(信輝)は織田信長・豊臣秀吉の部将として活躍。その子輝政は関ケ原の戦いで徳川家康についてをあげ,播磨国52万石を領し姫路城主,のち備前・淡路を加封された。輝政の3子に3国を分封したが,孫の光仲が鳥取32万石,光政が岡山31万石を領した。
池田成彬
いけだしげあき @@@LINK=池田成彬 池田成彬

池田成彬
いけだしげあき

1867〜1950
大正・昭和期の実業家・政治家。三井財閥の指導者
米沢藩士の家に生まれる。慶大卒。アメリカ留学後,三井銀行に入社,同銀行の発展に努力し業界第1位の地位を築いた。1932年三井合名理事,'37年日銀総裁,'38年第1次近衛文麿内閣の大蔵兼商工大臣となり,財界・政界に重きをなした。第二次世界大戦後,公職追放令により引退

池田勇人内閣
いけだはやとないかく @@@LINK=池田勇人内閣 池田勇人内閣

池田勇人内閣
いけだはやとないかく

池田勇人(1899〜1965)を首班とする自由民主党内閣(1960〜64)
〔第1次〈1960.7〜60.12〉〕安保闘争で倒れた岸信介内閣のあとをうけ組閣。「寛容と忍耐」と「低姿勢」をスローガンとし,所得倍増政策をかかげる。〔第2次〈'60.12〜63.12〉〕 高度経済成長政策を推進。〔第3次〈'63.12〜64.11〉〕経済成長のひずみ是正政策を主張,その途中,病気で退陣し,佐藤栄作内閣と交替した。
池田光政
いけだみつまさ @@@LINK=池田光政 池田光政

池田光政
いけだみつまさ

1609〜82
江戸前期の備前岡山藩主
輝政の孫。57年間にわたり藩政改革に尽力し,名君といわれた。儒教主義に基づき殖産興業・農業改良に努力,また士民の教育を推進し,熊沢蕃山を用い,花畠教場・閑谷 (しずたに) 学校を創設した。

池田屋事件
いけだやじけん @@@LINK=池田屋事件 池田屋事件

池田屋事件
いけだやじけん

1864年,幕府による尊攘派志士弾圧事件
八月十八日の政変(1863)後,尊攘派志士が入京して勢力回復の機をうかがい,中川宮(朝彦親王)らを暗殺しようと企てた。幕府側ではこれを探知し,京都三条小橋の旅館池田屋に会合中の長州藩などの志士20余名を新撰組が急襲,多数を殺傷・逮捕した。この事件により長州藩論は硬化し,禁門の変の原因となった。
池田‐ロバートソン会談
いけだ‐ロバートソンかいだん @@@LINK=池田ロバートソン会談 池田ロバートソン会談

池田‐ロバートソン会談
いけだ‐ロバートソンかいだん

1953年10月,ワシントンで行われた,吉田茂首相の特使池田勇人自由党政調会長とアメリカ国務次官補ロバートソンとの会談
日本の防衛力増強とアメリカの対日経済援助問題に関して行われ,MSA協定後の防衛力の増強,余剰農産物の買入れ,ガリオア資金の早期返済などについて合意し,日米軍事協力体制は一歩前進した。
池大雅
いけのたいが @@@LINK=池大雅 池大雅

池大雅
いけのたいが

1723〜76
江戸中期の画家。文人画の確立者
京都の農家に生まれたが,養父は農家から出て京都銀座の下役であった。幼時より書をよくしたが,のち土佐派の画を学び,さらに当時おこりかけた南画を学び独自の画風を大成。よく旅に出,実景の研究に基礎をおくとともに,白隠慧鶴 (はくいんえかく) に私淑し,超俗の絵を描いた。与謝蕪村との合作『十便十宜帖』,黄檗 (おうばく) 山万福寺の襖 (ふすま) 絵『山水・羅漢図』は有名。

池坊
いけのぼう @@@LINK=池坊 池坊

池坊
いけのぼう

室町中期におこった華道の一流派
創始者池坊専慶の六角堂の坊の名が流名という。専応が方式を大成,江戸初期に専好が発展させ,つぎの専朝で中心流派となり,今日に至る。
池坊専慶
いけのぼうせんけい @@@LINK=池坊専慶 池坊専慶

池坊専慶
いけのぼうせんけい

生没年不詳
室町中期,池坊流華道の創始者
京都市中の六角堂の住僧の居宅が池坊といわれるが,その寺僧であった。文明年間(1469〜87)の生花の名手。それまでの立花 (りつか) をくふう総合し,芸術としての華道を創始した。
生花
いけばな @@@LINK=生花 生花

生花
いけばな

華道
意見封事十二箇条
いけんふうじじゅうにかじょう @@@LINK=意見封事十二箇条 意見封事十二箇条

意見封事十二箇条
いけんふうじじゅうにかじょう

914年,三善清行 (きよゆき) が醍醐 (だいご) 天皇に応じて提出した政治意見書
備中の国司としての経験に基づいて国家財政窮乏の原因などをあげ,その対策を述べたもので,律令制衰退を知る重要史料。「意見封事」とは,古代において律令官僚が天皇の詔に応じ,密封して提出した政治上の意見書をいう。
異国警固番役
いこくけいごばんやく @@@LINK=異国警固番役 異国警固番役

異国警固番役
いこくけいごばんやく

鎌倉幕府が蒙古襲来に備えて九州の御家人に大番役に代えて課した北九州沿岸警固の軍役
1271年に鎮西御家人に命じて防備にあたらせたことに始まる。文永の役('74)後,制度をととのえ,元の再来襲に備えて守護の統率のもとに一定期間交替で警備にあたり,防塁の構築を分担した。この制度は御家人にとって重い負担であった。
異国船打払令
いこくせんうちはらいれい @@@LINK=異国船打払令 異国船打払令

異国船打払令
いこくせんうちはらいれい

江戸後期,幕府が発した外国船追放令
無二念 (むにねん) 打払令ともいう。18世紀末より外国船の来航が増加し,フェートン号事件,イギリス捕鯨船員の常陸 (ひたち) ・薩摩上陸事件などが発生したため,幕府は1825(文政8)年,外国船は見つけ次第打ち払い,上陸すれば捕らえて殺すことを命じた。アヘン戦争後の'42年撤廃。
異国船薪水給与令
いこくせんしんすいきゅうよれい @@@LINK=異国船薪水給与令 異国船薪水給与令

異国船薪水給与令
いこくせんしんすいきゅうよれい

薪水給与令
異国日記
いこくにっき @@@LINK=異国日記 異国日記

異国日記
いこくにっき

江戸初期の対外交渉史料
寛永年間(1624〜44)の成立。全2巻。第1巻は金地院 (こんちいん) 崇伝の著で,外交文書を扱った崇伝の控え書き。第2巻は崇伝の弟子元良らの著。
伊弉諾・伊弉冉尊
いざなぎ・いざなみのみこと @@@LINK=伊弉諾・伊弉冉尊 伊弉諾・伊弉冉尊

伊弉諾・伊弉冉尊
いざなぎ・いざなみのみこと

記紀神話にある神代7代最後の男女2神
「伊邪那岐・伊邪那美命」(『古事記』)とも書く。日本国土の形成と皇祖神の出生を説くためにつくられた神。大八洲 (おおやしま) を生み,皇祖天照大神 (あまてらすおおみかみ) らを生んだ。
いざなぎ景気
いざなぎけいき @@@LINK=いざなぎ景気 いざなぎ景気

いざなぎ景気
いざなぎけいき

1965末〜70年にかけて57か月続いた長期の好景気
岩戸景気をしのぐという意味でこう呼ばれた。経済成長率が11.8%の高度成長をとげ,GNPが資本主義国でアメリカにつぐ第2位の規模に達した。
十六夜日記
いざよいにっき @@@LINK=十六夜日記 十六夜日記

十六夜日記
いざよいにっき

鎌倉中期,阿仏尼 (あぶつに) の紀行文学
1277年ころ,夫藤原為家の死後,実子と継子との間におこった所領争いの訴訟のため鎌倉に下ったときのことを記す。東海道の風物を文学的に叙述してある。
伊沢修二
いざわしゅうじ @@@LINK=伊沢修二 伊沢修二

伊沢修二
いざわしゅうじ

1851〜1917
明治時代の教育家
信濃(長野県)の生まれ。アメリカ留学後,師範教育や音楽・体育教育の重要性を唱え,その基礎を築いた。東京音楽学校創設に尽力し,初代校長となる。『小学唱歌集』を編集。また国家教育社(のちの日本教育会)をおこし,楽石社をつくって吃音 (きつおん) 矯正教育にも貢献した。

胆沢城
いさわじょう @@@LINK=胆沢城 胆沢城

胆沢城
いさわじょう

平安初期,中央政府による東北経営の拠点となった城柵
801年坂上田村麻呂が蝦夷 (えみし) の本拠地胆沢を制圧し,翌年築城。802年鎮守府を多賀城から移し,陸奥北部支配のための政治・軍事上の拠点とされた。近年,発掘調査の結果,約0.7㎞平方の土塁内に,正殿などいくつかの建物の存在が確認され,その規模が明らかにされた。現在の岩手県水沢市佐倉河宇佐にある。
EC
イーシー @@@LINK=EC EC

EC
イーシー

European Communities(ヨーロッパ共同体)の略称で,ヨーロッパ経済共同体(EEC),ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC),ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)の3機関を統合した上部機関
1967年,フランス・西ドイツ・イタリア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの6カ国で発足。本部はブリュッセル。'73年にイギリス・アイルランド・デンマーク,'81年ギリシア,'86年スペイン・ポルトガルが加盟,'93年初めに市場統合が実現し,巨大な経済圏が成立した。'93年EU(ヨーロッパ連合)に改組
石井菊次郎
いしいきくじろう @@@LINK=石井菊次郎 石井菊次郎

石井菊次郎
いしいきくじろう

1866〜1945
大正時代の外交官
上総(千葉県)の生まれ。東大卒業後,外務省に入る。1915年第2次大隈重信内閣の外相として第一次世界大戦中の外交を処理。'17年石井‐ランシング協定を締結。'27年にはジュネーヴ軍縮会議の全権をつとめた。

石井柏亭
いしいはくてい @@@LINK=石井柏亭 石井柏亭

石井柏亭
いしいはくてい

1882〜1958
明治末期〜昭和期の洋画家
東京の生まれ。浅井忠・中村不折らに洋画を学び,太平洋画会にも所属。1914年文展に反対して有島生馬らと二科会を創立,のち一水会の結成に加わった。代表作に『姉妹』など。
石井‐ランシング協定
いしい‐ランシングきょうてい @@@LINK=石井ランシング協定 石井ランシング協定

石井‐ランシング協定
いしい‐ランシングきょうてい

1917年11月,日本特派大使石井菊次郎とアメリカ国務長官ランシングとの間で成立した中国に関する協定
二十一カ条要求(1915)以後悪化した日米関係調整をはかったもので,この協定によりアメリカは中国における日本の特殊利益(のち政治的特権有無で解釈が対立)を認め,また日米両国は中国の独立と領土保全・門戸開放・機会均等の原則を確認し合った。'22年の九カ国条約により'23年に廃棄。
石斧
せきふ @@@LINK=石斧 石斧
いしおの @@@LINK=石斧 石斧

石斧
せきふ

石製の斧
「いしおの」とも読む。利器や農耕具として利用された。打製と局部磨製,磨製があり,縄文時代から存在するが,磨製石斧は弥生時代に用いられた。

石斧
いしおの

せきふ
石川三四郎
いしかわさんしろう @@@LINK=石川三四郎 石川三四郎

石川三四郎
いしかわさんしろう

1876〜1956
明治末期〜昭和期の社会主義者
埼玉県の生まれ。海老名弾正のもとで洗礼を受ける。『万朝報』記者を経て1903年平民社に参加し,日露戦争の際非戦論を主張。のち木下尚江らとともにキリスト教社会主義の立場で活動した。大逆事件('10)後は実践活動から遠ざかり,アナーキズムの理論家として知られた。主著に『西洋社会運動史』など。

石川島
いしかわじま @@@LINK=石川島 石川島

石川島
いしかわじま

東京都中央区,隅田川河口にあった島
江戸後期の1790年人足寄場が,また幕末の1853年に造船所が設置された。
石川島造船所
いしかわじまぞうせんじょ @@@LINK=石川島造船所 石川島造船所

石川島造船所
いしかわじまぞうせんじょ

近代日本の代表的造船所
1853年水戸藩主徳川斉昭 (なりあき) が江戸石川島に創設。軍艦建造など幕末における主要造船所として造船の発達に貢献した。明治維新後,官営となり,'76年わが国最初の民間造船所として再発足。現在,石川島播磨重工業。
石川丈山
いしかわじょうざん @@@LINK=石川丈山 石川丈山

石川丈山
いしかわじょうざん

1583〜1672
江戸前期の漢詩人・朱子学者
もと三河(愛知県)の武士。徳川家康に仕えたが,京都に出て藤原惺窩 (ふじわらせいか) の門人となった。朱子学者としてよりも,漢詩人として著名で,荻生徂徠 (おぎゆうそらい) も「東方詩聖」と称賛。のち京都一乗寺に詩仙堂を建てて隠居した。

石川啄木
いしかわたくぼく @@@LINK=石川啄木 石川啄木

石川啄木
いしかわたくぼく

1886〜1912
明治時代の詩人・歌人
本名は一 (はじめ) 。岩手県の生まれ。盛岡中学中退。早くから明星派のロマン主義的詩人として知られた。北海道・東京など各地を転々とし,貧苦と病苦の中で,生活に即した平明な3行書きの短歌をよむ。晩年,社会主義思想に傾斜。肺結核で死亡。代表作に小説『雲は天才である』,歌集『一握の砂』『悲しき玩具』,評論『時代閉塞の現状』など。

石川雅望
いしかわまさもち @@@LINK=石川雅望 石川雅望

石川雅望
いしかわまさもち

1753〜1830
江戸後期の国学者・狂歌師
狂名宿屋飯盛 (めしもり) ,号は六樹園。江戸日本橋の宿屋主人。ほとんど独学で国学・漢学などに精通し,博学であった。狂歌は大田南畝 (なんぽ) に師事。化政期(1804〜30)の狂歌四天王の一人に数えられた。主著に『雅言集覧』『源注余滴 (げんちゆうよてき) 』,狂歌『万代狂歌集』など。

石皿
いしざら @@@LINK=石皿 石皿

石皿
いしざら

平たい大きな石に皿のようにくぼみをつけた石器
その上に木の実や根茎類などをのせ,他の硬い石ですりつぶすなど,調理に使ったものと思われる。縄文時代全期を通じてみられ,時代が下るにしたがって,へりを彫刻で飾ったものなど,手のこんだものが出てくる。
伊治城
いじじょう @@@LINK=伊治城 伊治城

伊治城
いじじょう

767年,陸奥胆沢 (いさわ) 地方の蝦夷 (えみし) に備えて設置された城柵
造営の翌年と翌々年に移住者を諸国から募って2500余人を移し,8世紀末には9000人を移して強化された。廃城の時期は不明。現在の宮城県栗原郡にある。
石田梅岩
いしだばいがん @@@LINK=石田梅岩 石田梅岩

石田梅岩
いしだばいがん

1685〜1744
江戸中期の思想家。石門心学の祖
丹波(京都府)の農家に生まれ,京都の商家に奉公しながら神道・儒教・仏教などを学び,啓蒙的な庶民道徳の心学を創始。1729年から京都で道話を講じた。性善説を説き勤勉をすすめ,商行為を罪悪視する偏見を打破して大きな影響を与えた。著書に『都鄙 (とひ) 問答』『斉家論』など。門下の手島堵庵 (とあん) ・中沢道二らは心学を平易化,普及させた。

石田三成
いしだみつなり @@@LINK=石田三成 石田三成

石田三成
いしだみつなり

1560〜1600
安土桃山時代の武将。豊臣家五奉行の一人
近江(滋賀県)の出身。幼児より豊臣秀吉に近侍,累進し治部少輔に叙任。政務に長じ,太閤検地の中心となり活躍した。文吏派大名の中心人物で,秀吉死後,徳川家康を除こうとし,関ケ原の戦いをおこしたが敗れ,京都で斬首された。

石橋思案
いしばししあん @@@LINK=石橋思案 石橋思案

石橋思案
いしばししあん

1867〜1927
明治時代の小説家
横浜の生まれ。硯友社の創立に参加し,『我楽多文庫』を創刊。
石橋湛山
いしばしたんざん @@@LINK=石橋湛山 石橋湛山

石橋湛山
いしばしたんざん

1884〜1973
昭和期の政治家
東京の生まれ。早大卒。大正から昭和初期にかけて,『東洋経済新報』の記者として,普通選挙論,二十一カ条の要求批判,シベリア出兵反対などを主張し,植民地放棄や軍備撤廃など小日本主義を唱えた。戦後は政界に転じ,蔵相・通産相などを歴任した。1956年内閣を組織したが,病気のため2か月足らずで辞職した。

石橋湛山内閣
いしばしたんざんないかく @@@LINK=石橋湛山内閣 石橋湛山内閣

石橋湛山内閣
いしばしたんざんないかく

石橋湛山を首班とする自由民主党内閣(1956.12〜57.2)
鳩山一郎首相が引退すると,第2代自由民主党総裁を岸信介と争い,7票の差で当選して首相に就任。日中貿易の促進,1000億円の減税政策を唱えたが,石橋が病に倒れ,2か月で総辞職した。
石橋山の戦い
いしばしやまのたたかい @@@LINK=石橋山の戦い 石橋山の戦い

石橋山の戦い
いしばしやまのたたかい

平安末期,源頼朝挙兵後の最初の源平合戦
1180年,配流地の伊豆で目代山木兼隆を討った頼朝軍は,相模の三浦氏との連携を求めて石橋山に兵を進めたが,平家方の大庭景親らの圧倒的な兵力の前に大敗,頼朝はようやく海路で安房 (あわ) (千葉県)にのがれた。
石舞台古墳
いしぶたいこふん @@@LINK=石舞台古墳 石舞台古墳

石舞台古墳
いしぶたいこふん

奈良県高市郡明日香村にある古墳時代末期の方墳あるいは上円下方墳。巨大な横穴式石室をもつ
墳丘底面は1辺約50m,周囲に空濠をめぐらした墳墓であったが,早くから盛土を失い,石室が露出している。玄室の長さ7.75m,幅3.5m,高さ4.7m。蘇我馬子の墓といわれる。
石包丁
いしぼうちょう @@@LINK=石包丁 石包丁

石包丁
いしぼうちょう

弥生時代,農具として使用された磨製石器
長方形または半月形の扁平な石器で,一方の長辺に刃がつき,中央に1〜2個の穴があって,これにひもを通して指にかけ,の穂をつむのに用いた。
石山合戦
いしやまがっせん @@@LINK=石山合戦 石山合戦

石山合戦
いしやまがっせん

1570年から'80年にかけて,織田信長が大坂石山本願寺一揆を征討した戦い
信長は全国統一のを進め,一向一揆の本拠地石山本願寺を攻撃。各地の一向一揆や毛利氏の後援もあり,本願寺側は11世顕如を中心に善戦したが,勅旨により紀伊鷺森 (さぎのもり) に退去した。
石山寺
いしやまでら @@@LINK=石山寺 石山寺

石山寺
いしやまでら

滋賀県大津市石山にある真言宗の寺
聖武天皇の勅願で良弁 (ろうべん) の開創と伝える。761年から翌年にかけての造営。東大寺大仏建立の黄金を得るために,良弁がこの地に如意輪観音を奉安し祈願したことに始まるとされる。平安時代には観音信仰が盛んで貴族が多く参詣した。国宝級の文化財が多く,多宝塔は鎌倉初期の建築。
石山寺縁起絵巻
いしやまでらえんぎえまき @@@LINK=石山寺縁起絵巻 石山寺縁起絵巻

石山寺縁起絵巻
いしやまでらえんぎえまき

鎌倉末期,石山寺創建の由来・霊験を描いた絵巻物
7巻。大津市石山寺所蔵。1・2・3・5巻は鎌倉時代で,高階 (たかしな) 隆兼・粟田口隆光筆,大和絵の代表的作品。4巻は室町時代の土佐光信筆。6・7巻は江戸時代の作とされる。
石山本願寺
いしやまほんがんじ @@@LINK=石山本願寺 石山本願寺

石山本願寺
いしやまほんがんじ

大坂石山(現大阪城があるところ)にあった浄土真宗の寺
1496年,本願寺8代法主蓮如 (れんによ) によって創建された石山道場に始まり,1532年山科 (やましな) 本願寺焼失後,同宗の本寺となり,寺域を広げ,寺内町が形成され,戦国大名を並べる一大領主勢力となった。天下統一を目ざす織田信長と激しく対立し,石山合戦は10年余続いたが,ついに和睦し,'80年退去の際,寺も寺内町も焼けた。
石槍
いしやり @@@LINK=石槍 石槍

石槍
いしやり

打製石器の一つ
先端をとがらせ,長い柄につけ,槍として用いる。旧石器時代ポイントもその一つであり,縄文時代にもみられる。
異称日本伝
いしょうにほんでん @@@LINK=異称日本伝 異称日本伝

異称日本伝
いしょうにほんでん

江戸中期,松下見林の外交史書
1688年成立。3巻15冊。中国・朝鮮の諸書から日本に関係する記事を抜き出し考証を加えたもの。
維新の三傑
いしんのさんけつ @@@LINK=維新の三傑 維新の三傑

維新の三傑
いしんのさんけつ

明治維新の際,指導的役割を果たした3人の人物
薩摩藩士西郷隆盛・大久保利通,長州藩士木戸孝允の3人をいう。
医心方
いしんぽう @@@LINK=医心方 医心方

医心方
いしんぽう

平安中期,丹波康頼 (たんばのやすより) によって撰進された現存する最古の医術書
984年完成。30巻。隋・唐の医書から,漢方医術の諸説をまとめたもの。
伊豆金山・銀山
いずきんざん・ぎんざん @@@LINK=伊豆金山・銀山 伊豆金山・銀山

伊豆金山・銀山
いずきんざん・ぎんざん

江戸初期に繁栄した伊豆土肥 (とひ) ・湯ケ島・縄地を中心とする金山および銀山
大久保長安 (ながやす) らによって開発され,幕府直轄領となる。17世紀初めの慶長年間(1596〜1615)が最盛期佐渡金山と並ぶ産出を示したが,以後は短期間に衰微した。
泉鏡花
いずみきょうか @@@LINK=泉鏡花 泉鏡花

泉鏡花
いずみきょうか

1873〜1939
明治・大正時代の小説家
本名は鏡太郎 (きようたろう) 。石川県の生まれ。尾崎紅葉の指導をうけ,初めは観念小説で世に知られ,のち独自の神秘的・ロマン的な作品を発表。代表作に『高野聖 (ひじり) 』『歌行灯 (うたあんどん) 』『婦 (おんな) 系図』など。

和泉式部
いずみしきぶ @@@LINK=和泉式部 和泉式部

和泉式部
いずみしきぶ

生没年不詳
平安中期の女流歌人
本名不明。越前守大江雅致 (まさむね) の娘で,和泉守橘道貞に嫁したので和泉式部という。道貞との間に娘小式部内侍を生んだが離別。冷泉天皇の皇子為尊 (ためたか) ・敦道 (あつみち) 親王との恋愛生活は当時すでに有名であった。情熱的な歌が多い。『和泉式部集』『和泉式部日記』がある。

和泉式部日記
いずみしきぶにっき @@@LINK=和泉式部日記 和泉式部日記

和泉式部日記
いずみしきぶにっき

平安中期の日記文学
1巻。三人称で書かれているので『和泉式部物語』ともいわれる。作者は和泉式部とされているが異説もある。1003(長保5)年から翌'04(寛弘元)年までの敦道 (あつみち) 親王との恋愛を歌日記風に記した回想記。私家集から日記文学への発展の流れを示す作品。
出雲神話
いずもしんわ @@@LINK=出雲神話 出雲神話

出雲神話
いずもしんわ

出雲地方を舞台とする神話
記紀では,素戔嗚尊 (すさのおのみこと) ・大国主命 (おおくにぬしのみこと) を中心とし,ヤマタノオロチ,イナバノシロウサギなどの話が有名。最後は国土献上という形で高天原 (たかまがはら) 神話に統一される。大和政権による国土統一を反映しているとみなされている。『出雲国風土記』には記紀とは別系統の神話がある。
出雲大社
いずもたいしゃ @@@LINK=出雲大社 出雲大社

出雲大社
いずもたいしゃ

島根県簸川 (ひかわ) 郡大社町にある古社。大国主命 (おおくにぬしのみこと) を祭る
本殿は大社造。記紀神話では,この祭神が出雲地方を天照大神 (あまてらすおおみかみ) に献上し,その代償にこの社を建てたという。縁結びの神・農業神として信仰される。祭祀は出雲をとする国造 (くにのみやつこ) がつかさどったが,南北朝時代に北島・千家両氏に分かれた。明治時代以降は千家が奉仕して今日に至る。
出雲阿国
いずものおくに @@@LINK=出雲阿国 出雲阿国

出雲阿国
いずものおくに

生没年不詳
安土桃山〜江戸時代初期,阿国歌舞伎の創始者
出雲大社の巫女 (みこ) というが,伝記に不明の点が多い。大社修理勧進のため念仏踊ややこ踊を興行。歌舞伎踊りを始め,京都・桑名・江戸城内で公演。以後多くの追随者が現れ,女歌舞伎が形成されていった。
遺跡・遺物
いせき・いぶつ @@@LINK=遺跡・遺物 遺跡・遺物

遺跡・遺物
いせき・いぶつ

考古学の研究対象で,持ち運びできないものを遺跡,持ち運びできるものを遺物という
遺跡には貝塚・住居址・古墳・寺院址など。遺物には石器・土器・青銅器礎石甕棺 (かめかん) などの人工遺物と,貝・木の実などの自然遺物とがある。
伊勢講
いせこう @@@LINK=伊勢講 伊勢講

伊勢講
いせこう

伊勢神宮崇敬者が参詣を目的として結成した講
参詣に必要な旅費を積み立て交代で参拝した。室町時代に始まり江戸時代参詣が盛んになると全国の農村に結成されるようになり,御蔭 (おかげ) 参り・抜け参りといわれる狂信的な形態も現れた。
伊勢崎
いせざき @@@LINK=伊勢崎 伊勢崎

伊勢崎
いせざき

群馬県南東部にある,江戸中期からの織物都市。現在は工業が盛ん
寛政(1789〜1801)以降酒井氏の城下町。18世紀初め縞 (しま) の絹織物が織り出され,改良が加えられて (つむぎ) ・太織 (ふとおり) などとともに名産となる。幕末には実用的な銘仙絣 (めいせんかすり) の産地として知られ,第二次世界大戦まで発展したが,戦後は電気・輸送機器などの近代的工業都市となった。
伊勢貞丈
いせさだたけ @@@LINK=伊勢貞丈 伊勢貞丈

伊勢貞丈
いせさだたけ

1717〜84
江戸中期の有職故実 (ゆうそくこじつ) 家・幕臣
号は安斎。室町時代の伊勢氏の後裔。武家の制度・典章・調度器具服装などにくわしく,精密な考証によって多くの書を著した。主著に『貞丈 (でじよう) 雑記』『安斎雑考』『貞丈家訓』など。
伊勢貞親
いせさだちか @@@LINK=伊勢貞親 伊勢貞親

伊勢貞親
いせさだちか

1417〜73
室町幕府の政所 (まんどころ) 執事
将軍足利義政の信任厚く,政所執事となって幕府の実権を握り専横をきわめたが,1466年足利義視を殺そうとしたことが露見し近江に逃走。翌年義政に召され再び政務に参与した。

割竹形木棺
わりたけがたもっかん @@@LINK=割竹形木棺 割竹形木棺

割竹形木棺
わりたけがたもっかん

木棺
割地
わりち @@@LINK=割地 割地

割地
わりち

江戸時代,農村において農民の所持地を一定期間ごとに分割・交換しなおした慣行
土地条件の差異に基づく貢租負担の不均等,特に水害などの災害による損失の不均等防止を目的として実施された。一村または数村の農民の合意のもとに実施された。
湾岸戦争
わんがんせんそう @@@LINK=湾岸戦争 湾岸戦争

湾岸戦争
わんがんせんそう

1990年8月にイラクがクウェートに侵攻して始まり,'91年米軍を主力とする多国籍軍のイラク攻撃によって本格化した戦争
1990年8月のイラクのクウェート侵攻に対して,米軍を主力とする多国籍軍が組織されクウェートからのイラク軍の撤退を求めた。しかし,イラク政府が応じなかったため,国連安全保障理事会はイラクの行動を非難するとともに,多国籍軍は'91年1月にイラクへの爆撃を開始し,湾岸戦争が本格的に始まった。多国籍軍は圧倒的な軍事力によってイラク軍をクウェートから撤収させ,さらにイラクの軍事・産業施設を破壊した。2月28日,戦闘が停止された。日本は多国籍軍への国際貢献として130億ドルを支援したが,自衛隊は派遣しなかった。
一分銀
いちぶぎん @@@LINK=一分銀 一分銀

一分銀
いちぶぎん

江戸末期の銀貨
4枚で小判1両にあたる計数貨幣で,天保一分銀以下3種類ある。開港後の金貨流出を補うため流通させたが,通貨の混乱を助長した。
一木造
いちぼくづくり @@@LINK=一木造 一木造

一木造
いちぼくづくり

木像彫刻の一技法で,1本の木から像全体または頭・胴体の中心部を丸彫りしてつくる方法
一木彫成ともいう。寄木造が行われる以前の木彫の主流で,特に平安前期に流行した。神護寺の『薬師如来像』,観心寺の『如意輪観音像』などが有名。
一枚起請文
いちまいきしょうもん @@@LINK=一枚起請文 一枚起請文

一枚起請文
いちまいきしょうもん

鎌倉前期,死期の迫った法然が弟子に残した教義の教え
建暦年間(1211〜13)の成立念仏意義を説き,滅後の邪義を防ぐために記したといわれる。
市村座
いちむらざ @@@LINK=市村座 市村座

市村座
いちむらざ

江戸の歌舞伎劇場。幕府公許の江戸三座の一つ
1634年に京都の村山又三郎が日本橋葺屋 (ふきや) 町に創設した村山座を'52年市村羽左衛門が買収,改称した。のち浅草猿若町,下谷二長町に移転。1932年焼失した。
市女笠
いちめがさ @@@LINK=市女笠 市女笠

市女笠
いちめがさ

平安時代以降,女性が用いた笠の一種
もと市女(市に物売りに出る女)が用いたが,のち上流女性の外出用笠となる。菅・麦藁でつくり漆 (うるし) を塗ったもの。江戸時代には黒塗。絵巻物には被衣の上からかぶった旅姿もみえる。
一里塚
いちりづか @@@LINK=一里塚 一里塚

一里塚
いちりづか

江戸時代,街道に1里(約4㎞)ごとに設けられた路程標
戦国末期よりすでに一部に設けられたが,1604年江戸幕府が江戸日本橋を基点にして東海・東山(中山)・北陸の3道に築き整備された。多くはその上に榎の木を植えた。
一揆
いっき @@@LINK=一揆 一揆

一揆
いっき

目的・方法などを同じくする人びとの結合とその行動
一味神水 (いちみしんすい) のもと,神仏に誓約して一揆を結び,行動を起こした。中世の土一揆,国一揆,近世の百姓一揆,明治の農民一揆などをいう。
一休宗純
いっきゅうそうじゅん @@@LINK=一休宗純 一休宗純

一休宗純
いっきゅうそうじゅん

1394〜1481
室町中期の臨済宗大徳寺派の僧
狂雲子と号す。後小松天皇の皇子といわれる。大徳寺住持48世。反骨精神にあふれ,禅宗の腐敗を嘆き,大衆化につとめた。詩集に『狂雲集』『続狂雲集』がある。彼に参禅した文化人に村田珠光金春禅竹らがいる。

厳島神社
いつくしまじんじゃ @@@LINK=厳島神社 厳島神社

厳島神社
いつくしまじんじゃ

広島県佐伯郡宮島町にある神社
市杵嶋 (いちきしま) 姫を主神とし諸神を合祀。平安時代から宮廷の信仰が厚い安芸 (あき) 国の一宮。平清盛が安芸守在任中に崇敬し,平氏一門の支援により現在の規模となった。一門が奉納した『平家納経』は有名。海中に鳥居があり,海上より拝することもできる。航海守護神として今日も繁栄。1996年世界文化遺産に登録された。
厳島の戦い
いつくしまのたたかい @@@LINK=厳島の戦い 厳島の戦い

厳島の戦い
いつくしまのたたかい

1555年,毛利元就 (もとなり) が陶晴賢 (すえはるかた) を安芸 (あき) (広島県)厳島で破った戦い
それまで晴賢は主君大内義隆を殺し権勢をふるっていたが,毛利氏はこの戦いに勝利し,周防 (すおう) ・長門2国(山口県)を領有した。
一向一揆
いっこういっき @@@LINK=一向一揆 一向一揆

一向一揆
いっこういっき

戦国時代,15世紀後半〜16世紀末の一向宗(浄土真宗)本願寺門徒の一揆
坊主・国人・門徒農民の連合体が守護大名・戦国大名と対立,北陸・畿内・東海・紀伊などの地域で蜂起した。1488年加賀国守護富樫 (とがし) 政親を打倒した加賀一向一揆は,1580年まで加賀一国を支配。1570〜80年の石山本願寺対織田信長の石山合戦を最後に消滅した。
一光三尊
いっこうさんぞん @@@LINK=一光三尊 一光三尊

一光三尊
いっこうさんぞん

本尊と両脇侍の三尊が一つの光背を共有している仏像
中国では北魏時代,わが国には飛鳥時代に朝鮮半島から伝えられた。法隆寺金堂の『釈迦三尊像』,長野善光寺の本尊はこの形式。
一向宗
いっこうしゅう @@@LINK=一向宗 一向宗

一向宗
いっこうしゅう

浄土真宗
一国一城令
いっこくいちじょうれい @@@LINK=一国一城令 一国一城令

一国一城令
いっこくいちじょうれい

江戸初期,幕府が出した,居城以外の城郭の破壊を命じた法令。大名統制策の一つ
1615(元和元)年発布。ことに西国地方の築城を規制し,約400の城が破壊されたといわれる。支城の構築を認めた例外もある。諸大名の軍事的抑圧と幕藩体制確立に寄与した。
一切経
いっさいきょう @@@LINK=一切経 一切経

一切経
いっさいきょう

仏教経典全部をいう
大蔵 (たいぞう) 』ともいう。釈迦の説いた教えを文字としたものを経蔵,教団の規律蔵,後世の仏教徒が演繹 (えんえき) 注解したものを蔵といい,この三蔵の総称伝播にしたがって論蔵は増加し,ほかに目録・史伝・雑部が追加された。鎌倉時代以来輸入され,江戸時代には,天海や鉄眼道光らが刊行した。
一山一寧
いっさんいちねい @@@LINK=一山一寧 一山一寧

一山一寧
いっさんいちねい

1247〜1317
鎌倉後期の禅僧
中国浙江 (せつこう) 省の生まれ。一山は道号。1299年,元の成宗の国書を持って勧降使として来日したが,幕府に疑われ,伊豆に抑留・幽閉された。のち,建長寺・円覚寺・南禅寺の住持となり朱子学や五山文学に深い影響を与えた。
一色氏
いっしきし @@@LINK=一色氏 一色氏

一色氏
いっしきし

室町時代守護大名。四職 (ししき) 家の一つ
足利氏一族。足利公深 (きみふか) が三河の吉良庄一色に住んで以来一色氏を称す。その子範氏 (のりうじ) は足利尊氏に従い九州地方で活躍。のち丹後・若狭両国の守護となる。四職家の一つとして中央政界で重きをなしたが,将軍足利義教 (よしのり) に圧迫され,室町中期以後勢力を失った。
一所懸命
いっしょけんめい @@@LINK=一所懸命 一所懸命

一所懸命
いっしょけんめい

中世の武士が,一か所の領地に命をかけること
「一生懸命」は,これから転じて用いられた言葉。
一寸法師
いっすんぼうし @@@LINK=一寸法師 一寸法師

一寸法師
いっすんぼうし

室町後期,御伽 (おとぎ) 草子の一つ
世界的分布をもつ親指小僧型(Tom Thumb Type)の出世物語。一寸法師が姫君と鬼ケ島へ漂着するのは一種の巡島説話で,桃太郎の童話とも関係をもつ。御伽草子中,最も童話風。
一世一元の制
いっせいいちげんのせい @@@LINK=一世一元の制 一世一元の制

一世一元の制
いっせいいちげんのせい

天皇一代に1年号(元号)を定めて改元しない制度
1868年,明治改元のにより制度として確立。桓武〜淳和4代(781〜833)に一世一元の例はあるが,ふつう一代のうち数回改元していた。なお,中国では明の太祖洪武帝始まり,清朝に至った。
一掃百態
いっそうひゃくたい @@@LINK=一掃百態 一掃百態

一掃百態
いっそうひゃくたい

江戸後期の風俗画
1818年刊。渡辺崋山作。庶民の日常生活を描いた風俗画51図よりなる。
一地一作人の原則
いっちいっさくにんのげんそく @@@LINK=一地一作人の原則 一地一作人の原則

一地一作人の原則
いっちいっさくにんのげんそく

太閤検地で明確化した土地施策の一つ
複雑で不明確な土地耕作権と貢租関係を単純にし,各一筆の土地(ひとくぎりの田畑)に1名の耕作農民を決め,その者に貢租負担の責任を負わせ,検地帳に登録した。これによって荘園制的遺習は完全に一掃され,農民は身分固定とともに土地に緊縛されることとなった。
一中節
いっちゅうぶし @@@LINK=一中節 一中節

一中節
いっちゅうぶし

江戸中期におこった浄瑠璃節の一派
京都の都太夫一中が創始。義太夫節におされ,1718年江戸へ下り歌舞伎音楽となる。角太夫節・文弥節などを合わせた優美温雅な曲節であるが,豊後節の濃艶さに圧迫された。
一遍
いっぺん @@@LINK=一遍 一遍

一遍
いっぺん

1239〜89
鎌倉時代の僧で,時宗の開祖
法名知真。伊予の豪族河野通広 (みちひろ) の子。伊予で天台宗を修め,のち浄土宗を学ぶ。善光寺・高野山・熊野などを巡拝し,伊予に帰って時宗を開く。生涯自分の住む寺をもたず,勧進帳と念仏札を携えて全国を念仏遍歴し,神社信仰を利用し民衆に念仏踊をすすめて教化につとめたので,遊行上人 (ゆぎようしようにん) と称された。一遍は死にのぞみ所持する経典などを焼いたが,死後門弟により法語類を集成した『一遍上人語録』がある。

一遍上人絵伝
いっぺんしょうにんえでん @@@LINK=一遍上人絵伝 一遍上人絵伝

一遍上人絵伝
いっぺんしょうにんえでん

鎌倉後期,時宗の始祖一遍の教化遍歴の生涯を描いた絵巻物
同種のものが多いが,1299年法眼円伊 (ほうげんえんい) 筆の『京都歓喜光寺本』が最もすぐれており,当時の庶民生活や風景および大和絵研究の好資料。
位田
いでん @@@LINK=位田 位田

位田
いでん

律令制において,五位以上の官人と有品の親王に位階に応じて支給された輸租田
等級は一品 (いつぽん) (親王)と正一位の80町から従五位の8町まであり,女は男の3分の2。当該者死後は収公されたが,9世紀以後私有化して荘園の一源流となった。
伊東玄朴
いとうげんぼく @@@LINK=伊東玄朴 伊東玄朴

伊東玄朴
いとうげんぼく

1800〜71
江戸末期の蘭方医
肥前(佐賀県)の人。シーボルトに医学を学び,江戸で開業,のち肥前(佐賀県)藩医。牛痘の接種に成功し,1858年江戸に種痘所を創設,西洋医学所(医学所)の前身となる。また蘭方医として最初の将軍侍医となった。江戸に象仙堂 (しようせんどう) を開塾し,緒方洪庵の適々斎塾と並び称される名声を得た。

伊藤左千夫
いとうさちお @@@LINK=伊藤左千夫 伊藤左千夫

伊藤左千夫
いとうさちお

1864〜1913
明治時代の歌人
上総(千葉県)の生まれ。正岡子規門下。万葉調・写生を基調とした歌風で,子規の死後アララギ派の重鎮。叫びの説を唱え,感動を純粋に歌うことを強調した。斎藤茂吉・島木赤彦・土屋文明らを門下に擁する。また『野菊の墓』などの小説もある。

伊藤若冲
いとうじゃくちゅう @@@LINK=伊藤若冲 伊藤若冲

伊藤若冲
いとうじゃくちゅう

1716〜1800
江戸中期の画家
京都の人。家業の青物問屋を営むかたわら,狩野派を学び,元・明の画を研究し琳派の彩色法を折衷,動植物画に新機軸を開いた。特に鶏を好んで描いた。御物『花鳥魚貝図』は有名。

伊藤仁斎
いとうじんさい @@@LINK=伊藤仁斎 伊藤仁斎

伊藤仁斎
いとうじんさい

1627〜1705
江戸前期の儒学者。堀川(古義)学派の祖
京都の町人出身。東涯の父。朱子学を学んだが,のち後世の注釈をさけ,直接孔子・孟子の原典にあたり聖人の真髄を学ぶべきことを主張し,京都堀川に古義堂を開いた。主著に『童子問』『論語古義』など。

伊藤東涯
いとうとうがい @@@LINK=伊藤東涯 伊藤東涯

伊藤東涯
いとうとうがい

1670〜1736
江戸中期の儒学者。堀川学派
仁斎の子。父の樹立した堀川学派を受け継ぎ,その学風を大成した。「学問は博,著述の富,海内無比」といわれ,門人は多かったが,その学説は父の継承で独創性に乏しかった。

伊藤野枝
いとうのえ @@@LINK=伊藤野枝 伊藤野枝

伊藤野枝
いとうのえ

1895〜1923
大正時代の女性運動家
福岡県の生まれ。青鞜社に参加して女性解放運動に活躍。のち内縁の夫大杉栄とともに,アナーキズム運動を推進。関東大震災に際して大杉栄とともに殺害された。

伊藤博文
いとうひろぶみ @@@LINK=伊藤博文 伊藤博文

伊藤博文
いとうひろぶみ

1841〜1909
明治時代の政治家
元老。長州藩出身。松下村塾に学び,尊王攘夷運動に参加。1871年岩倉遣外使節の副使として欧米を視察。帰国後征韓論に反対し,参議兼工部卿となり,大久保利通の死後は内務卿に就任。'82年憲法調査のため渡欧し,帰国後華族制度・内閣制度の創設,枢密院の設置,大日本帝国憲法・皇室典範の制定に指導的役割を果たした。その間,内閣総理大臣・枢密院議長を歴任。1900年立憲政友会を組織し,その総裁に就任。日露戦争後,初代韓国統監として韓国併合の基礎をつくり,'09年ハルビンで暗殺された。

伊藤博文内閣
いとうひろぶみないかく @@@LINK=伊藤博文内閣 伊藤博文内閣

伊藤博文内閣
いとうひろぶみないかく

伊藤博文を首班とする内閣
〔第1次〈1885.12〜88.4〉〕太政官制度廃止後のわが国最初の内閣。外相井上馨を中心に欧化政策をとり,条約改正の交渉を進めたが失敗。憲法制定に尽力した。〔第2次〈'92.8〜96.9〉〕日英通商航海条約の締結により第1次条約改正に成功。日清戦争を遂行した。〔第3次〈'98.1〜98.6〉〕地租増徴案などの増税案を議会に提出。自由・進歩両党の反対をうけ,憲政党成立を機に総辞職。〔第4次〈1900.10〜01.6〉〕1900年,立憲政友会を組織してこれを基礎に組閣。北清事変処理のための増税案を貴族院で反対され,予算案をめぐり閣内不統一のため総辞職した。
伊東マンショ
いとうマンショ @@@LINK=伊東マンショ 伊東マンショ

伊東マンショ
いとうマンショ

1570〜1612
安土桃山時代の天正遣欧使節の正使
名は祐益 (すけます) 。マンショは洗礼名。大友宗麟のの子。1582(天正10)年,13歳で西欧を歴遊し親善を果たした。'90年帰国後豊臣秀吉にローマ見聞を述べ,のちイルマンとして有馬のセミナリオで授業を補助した。
伊東巳代治
いとうみよじ @@@LINK=伊東巳代治 伊東巳代治

伊東巳代治
いとうみよじ

1857〜1934
明治〜昭和初期の政治家
肥前(長崎県)の生まれ。伊藤博文のもとで大日本帝国憲法起草に尽力。第2・3次伊藤内閣の書記官長・農商務相を歴任。1899年枢密顧問官に就任以来「憲法の番人」と称して天皇制の護持につとめ,官僚勢力の中心人物となった。

伊都国
いとこく @@@LINK=伊都国 伊都国

伊都国
いとこく

魏志倭人伝に記載された,3世紀中頃,北九州にあった小国
現在の福岡県前原市深江付近にあったと推定され,戸数1000余,代々王がいた。交通の要地にあり,邪馬台国から派遣された一大率 (いちだいそつ) という官人が常駐し,邪馬台国以北の国ぐにを検察した。外国貿易の中継地の役割も果たした。
怡土城
いとじょう @@@LINK=怡土城 怡土城

怡土城
いとじょう

福岡県前原市にあった奈良時代の山城
吉備真備 (きびのまきび) の発議に基づき756年着工,称徳天皇の768年に完成した。新羅 (しらぎ) 征討計画が進められる中で築かれ,その規模周囲約8㎞にも及ぶ。大陸の築城技術が応用されている。
糸割符
いとわっぷ @@@LINK=糸割符 糸割符

糸割符
いとわっぷ

江戸時代,生糸輸入の方式
白糸割符ともいう。江戸初期の主要輸入品であった中国産生糸(白糸)の取引きで,ポルトガルなど外国商人の利益独占を抑えるため,1604年幕府は堺・京都・長崎の特定の商人(のち江戸・大坂を加え五か所商人)に糸割符仲間をつくらせ,輸入生糸の価格決定と一括購入を許し,その後に個々の商人に配分させた。このため外国側に大きな打撃を与えた。'55年中国商人の抵抗をうけ解散。'85年復活したが,和糸の増産で輸入生糸の重要性が低下し,しだいに衰退していった。
稲置
いなぎ @@@LINK=稲置 稲置

稲置
いなぎ

①大和政権下の屯倉または県の管理官
②684年天武天皇が制定した八色の姓 (やくさのかばね) の第8位
もとは田租収納官を意味した。世襲であったため,のち姓 (かばね) となった。
天武天皇時代,姓が整理され,最下位に置かれた。
伊奈忠次
いなただつぐ @@@LINK=伊奈忠次 伊奈忠次

伊奈忠次
いなただつぐ

1550〜1610
江戸初期の幕臣・農政家
通称熊蔵。徳川家康の近臣として検地・灌漑・治水・開墾などに貢献,農政上,伊奈流と称される独特の方式を創始した。その特色は,6尺平方を1歩とする土地丈量と租を豊凶にかかわらず一定率をもって課する方策にあった。関ケ原の戦いののち備前守となり,初代関東郡代。子の忠政・忠治も関東郡代・勘定奉行として初期幕政に活躍した。

稲葉正休
いなばまさやす @@@LINK=稲葉正休 稲葉正休

稲葉正休
いなばまさやす

1640〜84
江戸前期の譜代大名
美濃(岐阜県)青野藩主(1万2000石)。1682年若年寄となり,私怨から'84年江戸城中で従兄にあたる大老堀田正俊を刺殺したが,自分も同席の老中らに殺された。

稲村三伯
いなむらさんぱく @@@LINK=稲村三伯 稲村三伯

稲村三伯
いなむらさんぱく

1758〜1811
江戸中期の蘭学者
鳥取藩医。大槻玄沢の『蘭学階梯』を読んで志を立て,入門。オランダ人ハルマの『蘭仏辞書』8万語を,宇田川玄真とともに訳出し,わが国最初の蘭和辞書『ハルマ和解』として1796年刊行。のち下総(千葉県)に隠退,晩年は京都で蘭学を教授した。

稲荷大社
いなりたいしゃ @@@LINK=稲荷大社 稲荷大社

稲荷大社
いなりたいしゃ

京都市伏見区にある全国の稲荷社の総本社。祭神は宇迦之御魂 (うがのみたま) 神で,食物の神
正しくは伏見稲荷大社。古代に秦氏の氏神として祀られたが,中世以降産業経済の守護神として民間に広く信仰されるようになった。全国に4万を数える分社がある。を神の使いとするのは,この神の別名「御饌津 (みけつ) 」を三狐と混同したためと考えられている。
稲荷山古墳出土鉄剣
いなりやまこふんしゅつどてっけん @@@LINK=稲荷山古墳出土鉄剣 稲荷山古墳出土鉄剣

稲荷山古墳出土鉄剣
いなりやまこふんしゅつどてっけん

1978年に115字の銘文が判明した古墳時代後期鉄剣
稲荷山古墳は埼玉県行田市の埼玉 (さきたま) 古墳群にある全長約120mの前方後円墳である。銘文は115の漢字の銘で,乎獲居 (おのわけ) の7代前の意冨比垝 (おおひこ) からの名前がわかり,代々杖刀人の首として獲加多支鹵 (わかたける) 大王まで仕えたことが記されている。銘文の「辛亥年」は471年,「獲加多支鹵 (ワカタケル) 大」は,『記紀』に見える雄略天皇と考えられている。銘文から5世紀後半に大和政権の支配が東国に及んでいたと想定されている。
猪苗代兼載
いなわしろけんさい @@@LINK=猪苗代兼載 猪苗代兼載

猪苗代兼載
いなわしろけんさい

1452?〜1510
室町後期の連歌師
奥州会津の人。心敬 (しんけい) に学び,句風は才気ある技巧派で写実的なものに佳句が多い。宗祇 (そうぎ) の『新撰莵玖波集』の編集に協力。著書に連歌論書『景感道』,雑録『兼載雑談』など。
委任統治
いにんとうち @@@LINK=委任統治 委任統治

委任統治
いにんとうち

第一次世界大戦後,国際連盟が採用した統治制度
敗戦国ドイツ・トルコの領土や植民地を,国際連盟の監督下に委任というで特定国に統治させた。たとえば旧ドイツ領南洋諸島が日本,旧トルコ領シリアがフランスの委任統治領となったが,事実上は植民地であった。第二次世界大戦後実施された国際連合の信託統治はこの発展した形式
犬追物
いぬおうもの @@@LINK=犬追物 犬追物

犬追物
いぬおうもの

鎌倉時代の武芸で,犬を放し,騎馬でそれを追いながら射る射芸
「犬追物射」の。笠懸 (かさがけ) ・流鏑馬 (やぶさめ) とともに武士の子弟の弓馬鍛練のための武技として盛んに行われた。
犬養毅
いぬかいつよし @@@LINK=犬養毅 犬養毅

犬養毅
いぬかいつよし

1855〜1932
明治〜昭和期の政党政治家
号は木堂 (ぼくどう) 。備中(岡山県)の生まれ。慶応義塾中退。新聞記者を経て,第1回衆議院議員総選挙以来17回連続代議士に当選。1882年立憲改進党結成以後,政党に関係し,立憲国民党・革新倶楽部の党首となり普選運動・護憲運動に指導的役割を果たした。その間,文相・逓相などを歴任。1929年立憲政友会総裁となり,'31年組閣,満州事変難局にあたったが翌年五・一五事件で射殺された。
犬養毅内閣
いぬかいつよしないかく @@@LINK=犬養毅内閣 犬養毅内閣

犬養毅内閣
いぬかいつよしないかく

犬養毅を首班とする立憲政友会内閣(1931.12〜32.5)。戦前最後の政党内閣
満州事変を契機に積極的な対外政策を要望する財界政界上層部支持背景組閣。金輸出の再禁止を実行し,積極財政恐慌からの脱却をはかった。満州国承認には,消極的であった。五・一五事件で首相のにより総辞職。
犬上御田鍬
いぬがみのみたすき @@@LINK=犬上御田鍬 犬上御田鍬

犬上御田鍬
いぬがみのみたすき

生没年不詳
7世紀前期の官人
614年最後の遣隋使として渡航,翌年帰国。630年舒明 (じよめい) 天皇の命で最初の遣唐使として渡唐。632年,学問僧旻 (みん) らと帰国した。
犬公方
いぬくぼう @@@LINK=犬公方 犬公方

犬公方
いぬくぼう

江戸幕府5代将軍徳川綱吉のあだ名。
犬筑波集
いぬつくばしゅう @@@LINK=犬筑波集 犬筑波集

犬筑波集
いぬつくばしゅう

室町後期の俳諧連歌選集
『俳諧連歌抄』『新撰犬筑波集』ともいう。16世紀前半の成立。撰者は山崎宗鑑。滑稽味をねらった笑いの連歌で,正風連歌のもつ貴族性に対して,庶民的な自由卑俗な笑いを,言葉の機智・駄洒落によって表現している。近世俳諧の源流
犬山城
いぬやまじょう @@@LINK=犬山城 犬山城

犬山城
いぬやまじょう

愛知県犬山市にある城で,戦国期天守建築の手法を残す
白帝城ともいわれる。1469年織田広近の築城が起源,1537年織田信康が現在地に移築。天守閣は3層5重で現存最古のもの。
井上円了
いのうええんりょう @@@LINK=井上円了 井上円了

井上円了
いのうええんりょう

1858〜1919
明治・大正時代の仏教哲学者
越後(新潟県)の生まれ。1887年哲学館(現 東洋大学)を創設。翌年三宅雪嶺らと政教社を設立,仏教的立場から国粋主義を唱えキリスト教を排撃した。終生民間学者として活動し,釈迦・孔子・ソクラテス・カントを四聖として哲学堂(東京都中野区)に祭ったことも著名主著に『真理金針』『仏教活論』など。
井上馨
いのうえかおる @@@LINK=井上馨 井上馨

井上馨
いのうえかおる

1835〜1915
明治時代の政治家
長州藩出身。幕末,尊王攘夷運動に参加。1879年外務卿,'85年外務大臣となり,鹿鳴館を中心として欧化政策をとって条約改正にあたったが失敗し,'87年辞職。その後内務大臣・大蔵大臣などを歴任し,'98年以降は元老として国政に参与した。また三井財閥と結び財界でも重きをなした。

井上清直
いのうえきよなお @@@LINK=井上清直 井上清直

井上清直
いのうえきよなお

1809〜67
幕末の幕臣・外交家
川路聖謨 (としあきら) の弟。老中阿部正弘に登用され下田奉行となる。1856年以来アメリカ総領事ハリスとの応接にあたり,日米修好通商条約に全権委員として調印。

井上金峨
いのうえきんが @@@LINK=井上金峨 井上金峨

井上金峨
いのうえきんが

1732〜84
江戸中期の儒学者。折衷学派
常陸 (ひたち) (茨城県)笠間藩医の家に生まれたが,江戸に出て民間儒者となった。堀川学派・蘐園 (けんえん) 学派を学び,のち独自の解釈で折衷学を発展させた。

井上毅
いのうえこわし @@@LINK=井上毅 井上毅

井上毅
いのうえこわし

1843〜95
明治時代の政治家
熊本藩出身。1872年渡欧,帰国後岩倉具視・伊藤博文らに重用され,大日本帝国憲法の起草・制定に尽力。枢密顧問官・文相を歴任し,軍人勅諭・教育勅語の起草にも参加した。

井上準之助
いのうえじゅんのすけ @@@LINK=井上準之助 井上準之助

井上準之助
いのうえじゅんのすけ

1869〜1932
大正・昭和期の財政家
大分県の生まれ。横浜正金銀行頭取・日本銀行総裁を経て,第2次山本権兵衛内閣の蔵相となり,第一次世界大戦前後の金融界に指導的役割を果たし不況対策にあたる。1927年金融恐慌の際,再び日銀総裁,さらに浜口雄幸・若槻礼次郎両民政党内閣の蔵相として緊縮財政・産業合理化政策や金解禁を実施したが世界恐慌で不況が深刻化し,第2次若槻内閣崩壊。'32年選挙活動中に血盟団員に暗殺された。

井上哲次郎
いのうえてつじろう @@@LINK=井上哲次郎 井上哲次郎

井上哲次郎
いのうえてつじろう

1855〜1944
明治〜昭和期の哲学者
筑前(福岡県)の生まれ。ドイツ留学後,東大で哲学史を講じ,哲学界に重きをなす。内村鑑三不敬事件に際して,「教育と宗教の衝突」で国家主義の立場からキリスト教を排撃。新体詩運動にも寄与した。

井上日召
いのうえにっしょう @@@LINK=井上日召 井上日召

井上日召
いのうえにっしょう

1886〜1967
昭和初期の国家主義者。血盟団の盟主
群馬県の生まれ。中国大陸を転々としたのち帰国。日蓮宗に帰依し,1928年以来茨城県大洗の立正護国堂で農村青年に国家主義を説き,水戸愛郷塾橘孝三郎と結ぶ。血盟団を組織して「一人一殺主義」を唱え,財界政界要人を暗殺して軍部による国家改造を行おうとし,五・一五事件先駆をなした。
稲生若水
いのうじゃくすい @@@LINK=稲生若水 稲生若水

稲生若水
いのうじゃくすい

1655〜1715
江戸中期の本草学者
江戸の人。医学・本草学(薬草学)を学び,また伊藤仁斎に儒学を学んだ。実地調査により日本の薬草を研究。1693年加賀藩主前田綱紀に仕え,その援助により『庶物類纂 (しよぶつるいさん) 』の編纂に従事したが,業なかばで没した。

伊能忠敬
いのうただたか @@@LINK=伊能忠敬 伊能忠敬

伊能忠敬
いのうただたか

1745〜1818
江戸後期,初めて日本の実測沿岸地図を作製した測量学者
下総(千葉県)佐原の酒造家の養子となり,家業を興隆するかたわら算数・測量・天文などを研究。50歳で隠居し江戸で高橋至時 (よしとき) に西洋暦法・測量術を学んだ。1800(寛政12)年幕命をうけ蝦夷 (えぞ) 地を測量,以後全国各地を測量した。その成果が日本最初の実測地図『大日本沿海輿地全図』として,彼の死後 '21年に完成した。

井原西鶴
いはらさいかく @@@LINK=井原西鶴 井原西鶴

井原西鶴
いはらさいかく

1642〜93
江戸前期の俳諧師・浮世草子作者。元禄期(1688〜1704)の代表的文学者
大坂の人。西山宗因について俳諧を学び,一昼夜2万3500句を独吟するという矢数 (やかず) 俳諧の記録を樹立した。41歳のときから浮世草子作者に転じ『好色一代男』を出版。以後『好色五人女』『好色一代女』などの好色物,『日本永代蔵』『世間胸算用』などの町人物,『武道伝来記』『武家義理物語』などの武家物をつぎつぎと描き,たくましい町人文学を確立。その文学理念は近代作家にも多大の影響を与えた。

位封
いふ @@@LINK=位封 位封

位封
いふ

律令制において,親王・公卿の位階に応じて与えられた封戸 (ふこ) (親王の場合は品封という)
四品以上の親王と三位以上の公卿に与えられ,四位以下は位禄が給与された。大化改新に始まるとされ,律令貴族の特権の一つとなったが,平安末期,律令制崩壊とともに行われなくなった。
伊孚九
いふきゅう @@@LINK=伊孚九 伊孚九

伊孚九
いふきゅう

没年不詳
江戸中期に来日した,清代の文人画家
対日貿易のため,1720(享保5)年長崎に来航,以後たびたび渡来した。本業は貿易商であったが,南宗画法を伝え,江戸時代文人画の発達に大きく寄与した。代表作に『離合山水図』など。
今井宗久
いまいそうきゅう @@@LINK=今井宗久 今井宗久

今井宗久
いまいそうきゅう

1520〜93
安土桃山時代,堺の富商で茶人
大和(奈良県)の人。のち堺に移り,茶を武野紹鷗 (じようおう) に学び,織田信長・豊臣秀吉に仕え茶頭 (さどう) となった。1587(天正15)年の北野大茶会に参加。その茶日記『茶湯書抜』は有名。

今井宗薫
いまいそうくん @@@LINK=今井宗薫 今井宗薫

今井宗薫
いまいそうくん

1552〜1627
安土桃山〜江戸時代初期の茶人
宗久の子。父に茶を習い,豊臣秀吉に仕え茶頭 (さどう) となった。秀頼のもとで河内・和泉(いずれも大阪府)の代官をつとめたが,大坂の役後徳川家康・秀忠・家光と仕え旗本となる。

今鏡
いまかがみ @@@LINK=今鏡 今鏡

今鏡
いまかがみ

12世紀末の歴史物語。四鏡の一つ
『続世継』ともいう。作者は藤原為経(寂超)が有力。10巻。関白藤原頼通から基房に至る1025年から1170年までの紀伝体の歴史物語。貴族生活の描写が中心で,没落貴族の懐古趣味を反映。文学的価値は『大鏡』より劣る。
今川仮名目録
いまがわかなもくろく @@@LINK=今川仮名目録 今川仮名目録

今川仮名目録
いまがわかなもくろく

戦国大名今川氏の分国法
1526年今川氏親の定めた法度31条(のちに2条を加える)と,'53年子義元の定めた追加21条をいう。東国地方の分国法中最古のもので,訴訟法規が比較的多く,被官知行分の売買や他国人との通婚禁止などを規定している。武田氏の「信玄家法」とともに代表的家法
今川貞世
いまがわさだよ @@@LINK=今川貞世 今川貞世

今川貞世
いまがわさだよ

今川了俊 (りようしゆん)
今川氏
いまがわし @@@LINK=今川氏 今川氏

今川氏
いまがわし

室町時代,駿河・遠江 (とおとうみ) 両国(静岡県)の守護大名
足利氏の支族。足利国氏が三河国幡豆 (はず) 郡今川庄に住み,今川氏を称したことに始まる。孫の範国 (のりくに) は南北朝の内乱で足利尊氏に従い,功により駿河・遠江の守護に任じられ,その子了俊(貞世 (さだよ) )は九州探題として活躍。氏親は駿河・遠江国を領国とする戦国大名体制をととのえ,義元のときさらに三河国を支配して東海一の大名となったが,1560年桶狭間 (おけはざま) の戦いに死してから勢威が衰え,武田・後北条・徳川氏の侵略をうけて勢力を失った。江戸時代には,その子孫が高家としてわずかに家名を維持した。
今川義元
いまがわよしもと @@@LINK=今川義元 今川義元

今川義元
いまがわよしもと

1519〜60
戦国時代の武将
氏親の子。駿河・遠江 (とおとうみ) ・三河3国の守護として東海地方に勢威をふるう。1542年尾張国の織田信秀,'45年北条氏康,'48年再び信秀を討ち破る。のち武田信玄・北条氏康と姻戚関係を結び背後を固め,上洛しようとして '60年尾張国桶狭間 (おけはざま) の戦いで織田信長に急襲されて戦死。今川氏の急速な没落を招いた。

今川了俊
いまがわりょうしゅん @@@LINK=今川了俊 今川了俊

今川了俊
いまがわりょうしゅん

1325〜1420
南北朝・室町前期の武将・歌人
名は貞世 (さだよ) ,出家して了俊と号す。駿河・遠江 (とおとうみ) の守護。1371年九州探題となり南朝勢力を制圧し,九州に幕府権力を確立した。のち将軍足利義満に疑われ隠退。和歌・連歌に長じ,『落書露見』『難太平記』『今川大双紙』など著書も多い。

今切関
いまぎれのせき @@@LINK=今切関 今切関

今切関
いまぎれのせき

江戸時代,静岡県浜名郡新居町にあった東海道の関所
新居関 (あらいのせき) ともいう。浜名湖の南西部の要衝として,1600年徳川家康が設置。1869年に廃止された。
今様
いまよう @@@LINK=今様 今様

今様
いまよう

平安末期に流行した歌謡の一種
七五調の4句を基本とする。白拍子・遊女らの間におこり,貴族の間でも愛誦され,後白河法皇により『梁塵秘抄』が編集された。形式化した和歌に対し,自由な形式で生き生きとした庶民感情を歌っている。

いみ @@@LINK=忌 忌


いみ

汚れたもの,あるいは神聖なものに近づくことを避ける古代の宗教的風習
「斎」とも書く。陰陽 (おんみよう) 道・仏教・易などに基づき特定の日時・所・方角・行為・対象物などを汚れたもの,あるいは神聖なものとし,これに接近・接触を禁じる風習。
忌寸
いみき @@@LINK=忌寸 忌寸

忌寸
いみき

①大和政権下の姓 (かばね) の一つ
②684年天武天皇が制定した八色の姓 (やくさのかばね) の第4位
渡来人に多い。
主に渡来系氏族に与えられ,臣 (おみ) ・連 (むらじ) の上位に置かれた。
斎蔵
いみくら @@@LINK=斎蔵 斎蔵

斎蔵
いみくら

大和政権の財物を収納した三蔵 (みつくら) の一つ
神物をおさめたとされるが,実在疑問視されている。
移民問題
いみんもんだい @@@LINK=移民問題 移民問題

移民問題
いみんもんだい

明治時代以後の海外移民にまつわる政治問題
組織的移民は1868年のハワイ移民に始まるが,'85年以後,ハワイ・北アメリカを中心に盛んとなる。その後北アメリカの排日運動が激化し,1907〜08年日米紳士協約で制限をうけ,'24年排日移民法で禁止された。以後,ブラジル移民が中心となり,満州事変以後は大量の開拓移民が満蒙へ送られた。第二次世界大戦後は1952年から移民が再開,ほとんどがブラジルを対象としていた。のちカナダは'62年,アメリカは'65年,それぞれ移民法を改正して受入れ体制ができた。
鋳物師
いもじ @@@LINK=鋳物師 鋳物師

鋳物師
いもじ

鋳造を行う工人
平安時代には荘園領主の保護のもとで農具や日常品を製造。鎌倉時代以後,農業生産の進展に伴い需要が増加すると各地に座が結成された。近世には,朝廷を背景とする京都の真継家統制下の鋳物師と,三都の鋳物師に大別されるようになる。
妹背山婦女庭訓
いもせやまおんなていきん @@@LINK=妹背山婦女庭訓 妹背山婦女庭訓

妹背山婦女庭訓
いもせやまおんなていきん

江戸中期,近松半二・三好松洛 (しようらく) らの合作による浄瑠璃
1771(明和8)年大坂竹本座で初演。5段。蘇我入鹿 (いるか) の反逆と藤原(中臣)鎌足の入鹿征討を主題とし,それに古説話をとり入れたもの。規模の雄大さ,趣向のおもしろさ,詞章の妙と三調子そろった浄瑠璃作品中の名作。
EU
イーユー
European Union @@@LINK=EU EU

EU
イーユー
European Union

European Union(ヨーロッパ連合)の略称で,1993年11月マーストリヒト条約の発効によりヨーロッパ共同体称EC)が改組して成立した組織
原加盟国は旧ECの12カ国,1995年1月スウェーデン・フィンランド・オーストリアが加盟して現在は15カ国。1997年にマーストリヒト条約を見直したアムステルダム条約が調印され,通貨統合の'99年実施が確認された。'99年1月から単一通貨ユーロが導入され,ヨーロッパ中央銀行制度が発足した。
壱与
いよ @@@LINK=壱与 壱与

壱与
いよ

生没年不詳
魏志倭人伝にみえる邪馬台国 (やまたいこく) の女王
卑弥呼 (ひみこ) の宗女。卑弥呼の死後男王が立ったが内乱となり,13歳の壱与が女王となってようやく収まったという。卑弥呼と同様にシャーマン巫女)であろう。266年西晋に朝貢したが,以後消息を絶った。
伊予親王の変
いよしんのうのへん @@@LINK=伊予親王の変 伊予親王の変

伊予親王の変
いよしんのうのへん

平安初期の政変
807年,桓武天皇の第3皇子伊予親王(?〜807)が,謀反の疑いをかけられて,その母藤原吉子(南家出身)とともに川原寺閉され自殺した事件。背後に南家失脚をねらう藤原仲成・薬子兄妹(式家)の策謀があった。
入会
いりあい @@@LINK=入会 入会

入会
いりあい

一定地域の住民が一定の山林・原野・沼沢などを共同で用益すること
その土地を入会地,その共同収益をあげる権利を入会権という。入会地は,通常,肥料・燃料・建築用材などの供給源となり,郷村制の発達につれて入会の規定ができた。江戸時代には経済の発展でこの効用度を高め,争いも多くなった。明治時代,地租改正後,官有と民有とに分かれた。
入鉄砲に出女
いりでっぽうにでおんな @@@LINK=入鉄砲に出女 入鉄砲に出女

入鉄砲に出女
いりでっぽうにでおんな

江戸時代,関所で最もきびしく警戒した対象
江戸に入る武器,江戸から出る大名の妻のことで,治安と大名統制上から厳重に監視された。鉄砲は老中証書,女子は手形を確かめ,特に箱根・今切・木曽福島の関所できびしかった。
入母屋造
いりもやづくり @@@LINK=入母屋造 入母屋造

入母屋造
いりもやづくり

建築様式の一つ
上の方が切妻 (きりづま) ,下が四方へ勾配 (こうばい) をもつ屋根の形をいう。寺院貴族の住宅に多用され,地方によって民家にもよく使われている。現存する古い建築例に,新薬師寺本堂・唐招提寺講堂・三十三間堂などがある。
衣料切符制
いりょうきっぷせい @@@LINK=衣料切符制 衣料切符制

衣料切符制
いりょうきっぷせい

1942年1月,繊維製品の消費規制のため設けられた制度(〜'50)
消費者は一定量の衣料切符を渡され,販売者は商品を指定点数によって売った。しかし太平洋戦争激化に伴い,現物配給はほとんどなくなり有名無実となった。戦後も,インフレーションのため継続された。
伊留満
イルマン
irmão @@@LINK=伊留満 伊留満

伊留満
イルマン
irmão

キリシタン修道士
「入満」とも書く。ポルトガル語で「兄弟」の宣教師のうち司祭(伴天連 (バテレン) )でない者。外国人ではフェルナンデス,日本人ではロレンソ,養甫軒パウロ,その子ビセンテ,ハビアンなどが有名である。
入墨
いれずみ @@@LINK=入墨 入墨

入墨
いれずみ

風習および刑罰の一種
「文身」「刺青」とも書く。わが国では古代から呪術として存在し,近世,職人や遊侠の間に発達した。刑罰としては,大化以前に存在し,律令制下では一時中絶したが,中世武家法の中に復活,江戸後期も盛んに行われた。「彫りもの」と呼ばれ,流行したのは寛政改革以後である。
位禄
いろく @@@LINK=位禄 位禄

位禄
いろく

律令制において,位階に応じて四位・五位の官人に与えられた給与
令の規定によれば,正四位から従五位まで位に応じて絁 (あしぎぬ) ・布・綿・庸布などが支給され,女は男の2分の1が与えられた。平安中ごろまで行われた。
伊呂波歌
いろはうた @@@LINK=伊呂波歌 伊呂波歌

伊呂波歌
いろはうた

中世以降の手習い歌の一つ。七五調4句の今様風の47字からなる
「色葉歌」とも書く。「色は匂へど……」の意は『涅槃経 (ねはんぎよう) 』の4句 (げ) 「諸行無常……」からとったといわれ,空海作と称せられるが定かではない。10世紀後半の成立と考えられる。平安末期以降,手習い歌として庶民教育に広く使用された。
色葉字類抄
いろはじるいしょう @@@LINK=色葉字類抄 色葉字類抄

色葉字類抄
いろはじるいしょう

平安末期,わが国最古のいろは引き国語辞書
「伊呂波字類抄」とも書く。橘忠兼編。初め2巻本,のちに増補されて,鎌倉時代には10巻本が流布した。当時の語彙 (ごい) や漢字の読みを知る貴重な史料
磐井の乱
いわいのらん @@@LINK=磐井の乱 磐井の乱

磐井の乱
いわいのらん

6世紀前半,筑紫国造 (くにのみやつこ) 磐井がおこした反乱
527年西下した近江毛野 (おうみのけぬ) の新羅 (しらぎ) 征討軍に対して,新羅の支持のもとに抵抗したが,翌年物部麁鹿火 (もののべのあらかひ) らに鎮圧された。
祝部土器
いわいべどき @@@LINK=祝部土器 祝部土器

祝部土器
いわいべどき

古代の祭祀用土器の総称
須恵器の別名として慣用されてきたが,現在は適当でないと考えられている。
岩倉遣外使節
いわくらけんがいしせつ @@@LINK=岩倉遣外使節 岩倉遣外使節

岩倉遣外使節
いわくらけんがいしせつ

明治初期,欧米に派遣された使節団
廃藩置県後の1871年,条約改正の交渉をかね,岩倉具視・大久保利通・木戸孝允 (たかよし) らが欧米を歴訪し文物・制度を視察。条約改正交渉には失敗したが文明開化の必要を痛感し,帰国('73)後国策として打ち出すに至った。国内ではこの留守中に征韓論がおこっている。
岩倉具視
いわくらともみ @@@LINK=岩倉具視 岩倉具視

岩倉具視
いわくらともみ

1825〜83
幕末・明治初期の政治家
公卿出身。公武合体論を唱え,和宮降嫁 (かずのみやこうか) に尽力したが,のち尊王討幕派と結び,王政復古のクーデタを成功させた。明治新政府の参与・右大臣などの要職を歴任し,1871年全権大使として欧米を視察した。帰国後は征韓論に反対し,自由民権運動を抑え天皇制を擁護するために欽定憲法制定の基本方針を定め,皇室財産の充実に努力した。

岩崎弥太郎
いわさきやたろう @@@LINK=岩崎弥太郎 岩崎弥太郎

岩崎弥太郎
いわさきやたろう

1834〜85
明治時代の実業家。三菱財閥の創設者
土佐藩郷士出身。後藤象二郎らの知遇をうけ,土佐藩の通商に従事。1873年三菱商会を創設し海運業に進出。佐賀の乱・台湾出兵・西南戦争で軍事輸送にあたり巨利を博し,三菱財閥の基礎を確立した。

岩佐又兵衛
いわさまたべえ @@@LINK=岩佐又兵衛 岩佐又兵衛

岩佐又兵衛
いわさまたべえ

1578〜1650
江戸前期の風俗画家
本名は勝以 (かつもち) 。荒木村重の末子。越前福井藩に仕え徳川家光の招きで江戸に移った。土佐派に狩野派の画風をあわせ独自の風俗画を描いた。代表作に川越市東照宮蔵『三十六歌仙絵額』など。
石清水八幡宮
いわしみずはちまんぐう @@@LINK=石清水八幡宮 石清水八幡宮

石清水八幡宮
いわしみずはちまんぐう

京都府八幡市にある八幡宮。祭神は応神天皇・神功 (じんぐう) 皇后・比咩大神 (ひめのおおかみ)
平安初期,宇佐八幡宮の分霊を祭ったのに始まる。皇室をはじめ公家・武家の信仰厚く,源氏の氏神とされた。社領も多く,この社の末社大山崎離宮八幡宮の油座は有名。明治の初め,男山八幡宮と改称したが,のち再び石清水に復称。
岩宿遺跡
いわじゅくいせき @@@LINK=岩宿遺跡 岩宿遺跡

岩宿遺跡
いわじゅくいせき

群馬県新田郡笠懸 (かさかけ) 町にある旧石器時代の遺跡
1946年相沢忠洋 (ただひろ) により,更新世末期の関東ローム層中から打製石器が土器を伴わずに発見された。'49年の調査で確認されわが国の旧石器時代文化の存在が初めて立証された。
岩瀬忠震
いわせただなり @@@LINK=岩瀬忠震 岩瀬忠震

岩瀬忠震
いわせただなり

1818〜61
幕末の幕臣・外交家
江戸の人。老中阿部正弘に信任されて外交事務に従事。開国論者で,日米修好通商条約の締結に尽力し,井伊直弼 (なおすけ) の大老就任後,井上清直とともに通商条約に調印。のち外国奉行となったが,将軍継嗣問題で一橋慶喜 (よしのぶ) を推し,安政の大獄で処罰された。

岩戸山古墳
いわとやまこふん @@@LINK=岩戸山古墳 岩戸山古墳

岩戸山古墳
いわとやまこふん

福岡県八女 (やめ) 市にある,九州屈指の巨大な前方後円墳
墳丘の長さ約135m,後円部径60mあり,墳丘上と後円部東北隅の方形区画で埴輪とともに多数の石人・石馬が発見された。『筑後国風土記』にみえる筑紫国造 (くにのみやつこ) 磐井の墓に比定されている。
岩野泡鳴
いわのほうめい @@@LINK=岩野泡鳴 岩野泡鳴

岩野泡鳴
いわのほうめい

1873〜1920
明治・大正時代の詩人・評論家・小説家
本名は美衛 (よしえ) 。兵庫県の生まれ。初めロマン主義的な新体詩を発表。ついで評論『神秘的半獣主義』などを著して自然主義に転じ,『耽溺』『放浪』など大胆な私小説・自伝的作品を続々発表した。

磐舟柵
いわふねのさく @@@LINK=磐舟柵 磐舟柵

磐舟柵
いわふねのさく

飛鳥時代,蝦夷 (えみし) に備えて設けられた
現在の新潟県村上市にあった。大化の改新後の648年,蝦夷経営の前進基地として設けられ,柵戸が配置された。前年設置の渟足柵 (ぬたりのさく) とともに日本海側の重要基地となった。712年出羽国が設置されてからほどなく廃止された。
石見銀山
いわみぎんざん @@@LINK=石見銀山 石見銀山

石見銀山
いわみぎんざん

島根県大田市にあった銀山
室町初期,14世紀初めに発見され,1533(天文2)年博多の貿易商神谷寿禎 (じゆてい) によって開発が進み,産額も増加した。戦国時代には大内・小笠原・尼子・毛利らの諸大名の間で争奪され,毛利氏の所領となったが,豊臣秀吉はこれを直轄し,江戸幕府も直轄領とし銀山奉行をおいて経営した。慶長〜寛永(1596〜1644)ごろ最盛期。以後衰え,休山。
巌谷小波
いわやさざなみ @@@LINK=巌谷小波 巌谷小波

巌谷小波
いわやさざなみ

1870〜1933
明治〜昭和期の童話作家
本名は季雄 (すえお) 。東京の生まれ。硯友社同人として出発。1891年『こがね丸』発表後は童話作家として名声を高め,世界の童話の紹介にも務めた。


いん @@@LINK=院 院


いん

上皇・法皇・女院の別称
元来は,廊や築地 (ついじ) 塀等をめぐらした建物。上皇・法皇・女院の居所からその人の尊称となった。平安中期以降の天皇を後に院といったこともある。
隠居
いんきょ @@@LINK=隠居 隠居

隠居
いんきょ

家長が家督権・財産権を相続人に譲り隠退すること
隠居の称は室町時代以後らしい。江戸時代,公家・武士には願出隠居,強制的な罪科隠居の別があり,庶民間では安逸のため,楽隠居する風も生じた。
允恭天皇
いんぎょうてんのう @@@LINK=允恭天皇 允恭天皇

允恭天皇
いんぎょうてんのう

生没年不詳
5世紀中ごろの天皇
仁徳天皇第4皇子。氏姓の混乱を正すため盟神探湯 (くがたち) を行ったという。『宋書』倭国伝にみえる倭の五王の一人,済 (せい) に比定される。
隠元隆琦
いんげんりゅうき @@@LINK=隠元隆琦 隠元隆琦

隠元隆琦
いんげんりゅうき

1592〜1673
江戸前期に来日した明の禅僧。日本の黄檗宗 (おうばくしゆう) の開祖
隆琦は諱 (いみな) 。明の福建の人。黄檗山鑑源につき法嗣となった。1654年長崎興福寺の逸然の招きで来日, 黄檗宗を伝えた。公家や武家崇敬をうけ,'58年将軍徳川家綱から山城宇治の地を与えられ,'61年万福寺を建てた。主著に『黄檗山志』。

院司
いんし @@@LINK=院司 院司
いんのつかさ @@@LINK=院司 院司

院司
いんし

上皇・法皇・女院などの院庁に置かれる職員
「いんのつかさ」とも読む。院政における院司は多くはほかの官職を兼ねていた。長官は別当 (べつとう) ,ほかに年預 (ねんよ) ・判官代 (ほうがんだい) ・主典代 (さかんだい) ・蔵人 (くろうど) ・非蔵人など院中の諸事,院の身辺雑事にあたる者や,北面の武士などがある。有力者には受領 (ずりよう) 出身者が多い。

院司
いんのつかさ

いんし
印綬
いんじゅ @@@LINK=印綬 印綬

印綬
いんじゅ

印と組みひも
中国では官職爵位に相当する色組みひものついた官印を与えられた。たとえば,金印朱綬—太子・諸王,金印紫綬—三公など。制度としてととのえられたのは時代で,に朝貢した邪馬台国の女王卑弥呼は,皇帝から金印紫綬を授与されている。
印章
いんしょう @@@LINK=印章 印章

印章
いんしょう

文書の正当性を立証するために文字・絵画を陰・刻し,朱・墨などで押したもの
中国に始まり,印材としては木・金石・角牙などを用いる。わが国では正倉院文書に公印としての角印がみられる。鎌倉時代以後は私印も増加し,戦国時代には花押 (かおう) の代わりに用いられるようになった。江戸時代には庶民の間にも普及。
印象派
いんしょうは
impressionism @@@LINK=印象派 印象派

印象派
いんしょうは
impressionism

19世紀後半,フランスにおこった新画風
マネ,モネ,ドガ,ルノアールらが代表的画家写実主義に対して光線の効果を重んじ,大胆に事物の印象を描いた。わが国では,1893年に帰朝した黒田清輝らによって紹介され,外光派として明治末期藤島武二らが本格的に移入,日本近代洋画界に大きな影響を与えた。
院政
いんせい @@@LINK=院政 院政

院政
いんせい

上皇・法皇が院庁で政務を行う政治形態
1086年白河上皇が後三条天皇の遺志を継ぎ,摂関政治を抑えるため,荘園整理と公領の確保を要求する受領 (ずりよう) 層を院近臣 (いんのきんしん) として創始。以後,断続的ではあるが,1840年光格上皇死去まで続いた。白河・鳥羽上皇(法皇)の時代(1086〜1156)には法会 (ほうえ) の流行,知行国制の展開,荘園の増加や僧兵・神人の横暴などがみられ,また院の軍事力であった北面の武士は武士階級の成長を促した。後白河・後鳥羽上皇の時代(1158〜1221)になると京都政権の勢力回復のため平氏政権や鎌倉幕府と対抗したが,承久の乱(1221)以後は政治的な実権を失った。
院宣
いんぜん @@@LINK=院宣 院宣

院宣
いんぜん

院司が,院の命をうけて出す奉書形式の文書
院庁では院庁下文が公文書で,院宣はむしろ私文書。院政の進むにつれて文書様式が整い,一般政務・荘園行政に大きい権威をもつようになった。
インターナショナル
International @@@LINK=インターナショナル インターナショナル

インターナショナル
International

階級闘争を目的とした労働運動・社会主義運動の国際組織
1864年(第1)・'89年(第2)・1919年(第3)にそれぞれ結成された。特にレーニンが創設した第3インター(コミンテルン)は,日本共産党の創立,およびその運動を指導した。
院展
いんてん @@@LINK=院展 院展

院展
いんてん

日本美術院が毎年9月に開催する展覧会の略称
文展と対立。日本美術院は明治末期には凋落したが,1914年横山大観・下村観山らによって再興され日本画中心となる。
院内銀山
いんないぎんざん @@@LINK=院内銀山 院内銀山

院内銀山
いんないぎんざん

秋田県雄勝郡雄勝町にあった,江戸初期以来の銀山
慶長年間(1596〜1615)の創業で,秋田藩の直営のもとで大銀山となった。寛永(1624〜44)以後一時停滞,幕末の天保年間(1830〜44)に最高の産出を示した。明治維新以後,経営は小野組から明治政府,そして古河市兵衛と移り,現在は休山。
院近臣
いんのきんしん @@@LINK=院近臣 院近臣

院近臣
いんのきんしん

上皇側近にあって院政を推進した廷臣
受領 (ずりよう) 層や,上皇・天皇乳母の血縁者が多く,院政を経済面で支えた。摂関政治における上級貴族に対して,院政期には中・下級貴族が院近臣として勢力張した。
院庁
いんのちょう @@@LINK=院庁 院庁

院庁
いんのちょう

上皇の御所である院の事務をとる役所
宇多上皇の時代に原型があった。院政開始とともにその執行機関となり重要性をもつようになった。その職員が院司。
院庁下文
いんのちょうくだしぶみ @@@LINK=院庁下文 院庁下文

院庁下文
いんのちょうくだしぶみ

庁から出された公文書
院宣 (いんぜん) よりも公的性格が強いが,官符などとあわさることで効力をもった。院政期ではほとんどが院の所領に関するもの。
院司
いんし @@@LINK=院司 院司
いんのつかさ @@@LINK=院司 院司

院司
いんし

上皇・法皇・女院などの院庁に置かれる職員
「いんのつかさ」とも読む。院政における院司は多くはほかの官職を兼ねていた。長官は別当 (べつとう) ,ほかに年預 (ねんよ) ・判官代 (ほうがんだい) ・主典代 (さかんだい) ・蔵人 (くろうど) ・非蔵人など院中の諸事,院の身辺雑事にあたる者や,北面の武士などがある。有力者には受領 (ずりよう) 出身者が多い。

院司
いんのつかさ

いんし
院分国
いんのぶんこく @@@LINK=院分国 院分国

院分国
いんのぶんこく

上皇が所有する知行国
院政の経済的基盤となった。
印旛沼
いんばぬま @@@LINK=印旛沼 印旛沼

印旛沼
いんばぬま

千葉県北西部,利根川下流右岸にある沼
利根遊水池の役をうけもつ。沿岸の冠水を防ぎ,新田を開発する目的で,江戸時代の享保・天明・天保期に干拓が試みられた。天明期には大坂の商人資本が投入されたが,いずれも完成せず失敗した。
斎部氏
いんべうじ @@@LINK=斎部氏 斎部氏

斎部氏
いんべうじ

古代,大和政権の神事祭祀をつかさどった豪族
「忌部氏」とも書く。中臣氏と並ぶ勢力をもっていたが,8世紀後半以後,中臣氏におされ,朝廷での地位を低下させた。
斎部広成
いんべのひろなり @@@LINK=斎部広成 斎部広成

斎部広成
いんべのひろなり

727ごろ〜?
平安初期の官人
807年歴史書『古語拾遺』1巻を著し,斎部氏が中臣氏とともに朝廷祭祀にあずかるべき家柄であることを主張。中臣氏に対抗して斎部氏の衰運の回復をはかった。
忌部正通
いんべのまさみち @@@LINK=忌部正通 忌部正通

忌部正通
いんべのまさみち

生没年不詳
室町前期の神道家
伝記不明。著書に『日本書紀口訣 (くけつ) 』があり,『日本書紀』の注釈書として重要。
陰陽道
おんみょうどう @@@LINK=陰陽道 陰陽道
いんようどう @@@LINK=陰陽道 陰陽道

陰陽道
おんみょうどう

古代中国の陰陽五行説に基づいて天文・暦学・易を説明する学問
「おんようどう」とも読む。日本には5〜6世紀ころ伝来し,大宝令で中務省に陰陽寮・陰陽博士が置かれた。平安時代に全盛期を迎え,賀茂・安倍両氏の統制の下日常生活全般にわたって吉凶禍福が占われた。迷信的色彩が強い。

陰陽道
いんようどう

おんみょうどう
蔭涼軒日録
いんりょうけんにちろく @@@LINK=蔭涼軒日録 蔭涼軒日録

蔭涼軒日録
いんりょうけんにちろく

室町時代,相国寺鹿苑院の蔭涼軒主の記した公用日記
1435〜66年を季瓊真蘂 (きけいしんずい) が,1484〜93年を亀泉集証 (きせんしゆうしよう) が筆録しているが,途中欠年の部分もある。禅林の制度,将軍の動静,幕政の動向や人事などを詳記し,室町時代の基本史料。大日本仏教全書に収録されている。
ヴァリニャーニ
Alexandro Valignano @@@LINK=ヴァリニャーニ ヴァリニャーニ

ヴァリニャーニ
Alexandro Valignano

1539〜1606
安土桃山時代に来日したイタリアイエズス会巡察使
1579〜1603年の間に3回来日。各地セミナリオコレジオなどの学校を設立し,1582年天正遣欧使節計画・実行し,活字印刷機を日本に伝えてキリシタン版を刊行するなど,日本の風習に順応した布教方針を確立した。
ヴィスカイノ
Sebastian Vizcaino @@@LINK=ヴィスカイノ ヴィスカイノ

ヴィスカイノ
Sebastian Vizcaino

1551?〜1615
江戸初期に来日したスペインの対日使節
上総(千葉県)に漂着したドン=ロドリゴらを救助したことに対する答礼使として,1611年浦賀に来航。日本近海の金銀島を探検して失敗,'13年伊達政宗の援助支倉常長 (はせくらつねなが) のに便乗し,帰国した。
ウィッテ
Sergei Yulievich Vitte @@@LINK=ウィッテ ウィッテ

ウィッテ
Sergei Yulievich Vitte

1849〜1915
ロシアの政治家
伯爵。交通・大蔵両大臣を歴任。日露戦争に反対であったが,1905年その終結に際し,全権として起用され小村寿太郎とポーツマス条約に調印。のち首相となった。主著に『回想録』。
うひ山ぶみ
ういやまぶみ @@@LINK=うひ山ぶみ うひ山ぶみ

うひ山ぶみ
ういやまぶみ

江戸中期,本居宣長の著した国学書
1798年成立。1巻。古典研究の入門書で,国学の学習法を平易に説いたもの。
ウィリス
William Willis @@@LINK=ウィリス ウィリス

ウィリス
William Willis

1837〜94
幕末・明治時代のイギリス人医師
1861年イギリス公使館医官として来日。戊辰 (ぼしん) 戦争に際し官軍方の軍医として傷兵の治療にあたり,日本の外科手術の発達に貢献した。軍病院・東大病院長を歴任し,のち鹿児島で医学校・病院をおこした。'81年帰国。

ウィルソン
Woodrow Wilson @@@LINK=ウィルソン ウィルソン

ウィルソン
Woodrow Wilson

1856〜1924
アメリカ第28代大統領(在職1913〜21)
第一次世界大戦の終盤に14カを発表して戦争処理の理念と方法を提唱。国際連盟の設立に貢献したが,提唱国のアメリカは上院議会の反対で連盟に参加せず,失意のうちに死んだ。

右院
ういん @@@LINK=右院 右院

右院
ういん

明治初期の太政官内の各省の諮問機関
1871年廃藩置県後の官制改革により,太政官は正院・左院・右院の3院制となり,右院は各省の長官()・次官()で構成。法案の起草,各省の議事の審議・調査などが行われた。'75年廃止。
植木枝盛
うえきえもり @@@LINK=植木枝盛 植木枝盛

植木枝盛
うえきえもり

1857〜92
明治時代の政治家・思想家。自由民権運動の理論的指導者
土佐藩出身。板垣退助の影響をうけ,立志社・自由党結成などに活躍。理論家として国約憲法・普通選挙・一院制議会など民主主義思想を主張した。1890年第1回総選挙に当選。主著に『民権自由論』など。

上島鬼貫
うえじまおにつら @@@LINK=上島鬼貫 上島鬼貫

上島鬼貫
うえじまおにつら

1661〜1738
江戸中期の俳人
摂津(兵庫県)伊丹 (いたみ) の人。貞門派を学び,また松尾芭蕉を尊敬した。気品の高い句風で,『言』(俳論),『俳諧七車』(句文集)などがある。

上杉氏憲
うえすぎうじのり @@@LINK=上杉氏憲 上杉氏憲

上杉氏憲
うえすぎうじのり

?〜1417
室町中期の武将
犬懸 (いぬがけ) 上杉朝宗 (ともむね) の子。入道して禅秀 (ぜんしゆう) と号す。1411年鎌倉公方足利持氏を補佐する関東管領となったが,山内上杉の憲基と争い,'15年管領を辞任。翌年鎌倉に挙兵し,持氏・憲基を攻めたが,幕府の持氏支援で敗れ,鎌倉で自殺した。

上杉景勝
うえすぎかげかつ @@@LINK=上杉景勝 上杉景勝

上杉景勝
うえすぎかげかつ

1555〜1623
安土桃山〜江戸時代初期の武将,のち外様大名
上杉謙信の。謙信の死後越後(新潟県)の遺領を実力で継承。織田信長の侵攻に抵抗し,のち豊臣秀吉に仕えた。1597年小早川隆景の死後五大老の一人となり,陸奥(福島県)会津120万石に移封された。徳川家康を除こうとして挙兵し,関ケ原の戦いの発端をなした。この戦いに敗れ,以後家康に従い米沢30万石に移封・減封された。大坂の役には東軍に参加した。

上杉謙信
うえすぎけんしん @@@LINK=上杉謙信 上杉謙信

上杉謙信
うえすぎけんしん

1530〜78
戦国時代の武将
越後守護代長尾為景の子。初め景虎・政虎,のち輝虎,1570年入道して謙信と称す。越後春日山城主で,北条氏康に追われた関東管領上杉憲政 (のりまさ) を保護し,'61年憲政から上杉の姓と関東管領職を譲られた。'69年まで北条氏康・武田信玄としばしば戦い,信玄との川中島の戦いは有名。'73年越中(富山)を平定し,さらに能登・加賀に進出して織田信長と戦ったが,'78年急死した。

上杉氏
うえすぎし @@@LINK=上杉氏 上杉氏

上杉氏
うえすぎし

室町時代より江戸時代に至る武家の名門
始祖重房は勧修寺流藤原氏の出身。鎌倉幕府皇族将軍となった宗尊親王に従って鎌倉に下り,のち武士となり,丹波(京都府)上杉庄を領し上杉氏と称した。その孫は足利氏に嫁し,尊氏・直義 (ただよし) の生母となった関係から,室町時代には鎌倉府の管領に任じられ,広く関東に勢力を広げた。一族は扇谷 (おうぎがやつ) ・詫間 (たくま) ・犬懸 (いぬがけ) ・山内 (やまのうち) の4家に分かれ,ことに扇谷・山内両家が栄えたが,後北条氏に敗れ,まず扇谷家が滅び,山内憲政 (のりまさ) も領国越後へのがれ,守護代長尾景虎(謙信)に上杉姓と管領職を譲った。謙信は越後を領する戦国大名として著名。その後養子景勝は豊臣秀吉に従い会津120万石を領したが,関ケ原の戦い(1600)で西軍に属し減封され,外様大名として米沢30万石を領した。
上杉重房
うえすぎしげふさ @@@LINK=上杉重房 上杉重房

上杉重房
うえすぎしげふさ

生没年不詳
鎌倉時代の武将。上杉氏の祖
もと公家で京都にあり,藤原氏で勧修寺を称する。1252年鎌倉幕府の将軍となった宗尊親王に従って鎌倉へ下り,武士となって丹波(京都府)上杉庄を領し上杉氏と称した。子孫は,室町時代関東管領をつとめた。
上杉重房像
うえすぎしげふさぞう @@@LINK=上杉重房像 上杉重房像

上杉重房像
うえすぎしげふさぞう

鎌倉明月院所蔵の鎌倉時代の肖像彫刻
木像。奈良・京都の仏師に属さない作家の作品。仏像名僧に限られていた肖像彫刻が俗人に及んだ例としても重要。
上杉慎吉
うえすぎしんきち @@@LINK=上杉慎吉 上杉慎吉

上杉慎吉
うえすぎしんきち

1878〜1929
明治・大正時代の憲法学者
福井県の生まれ。東京大学で憲法学講座を担当。穂積八束 (やつか) の流れをくみ,大日本帝国憲法の絶対主義的な解釈を行い「天皇主権説」を主張し,「天皇機関説」の美濃部達吉と論争。

上杉禅秀
うえすぎぜんしゅう @@@LINK=上杉禅秀 上杉禅秀

上杉禅秀
うえすぎぜんしゅう

上杉氏憲 (うじのり)
上杉禅秀の乱
うえすぎぜんしゅうのらん @@@LINK=上杉禅秀の乱 上杉禅秀の乱

上杉禅秀の乱
うえすぎぜんしゅうのらん

1416年,上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏に対しておこした乱(〜'17)
関東管領であった禅秀は,鎌倉公方持氏と不和になり,1415年職を辞し,4代将軍足利義持に不満な弟義嗣 (よしつぐ) らとはかり翌年挙兵。関東の豪族の支援を得て持氏を襲い駿河に追ったが,幕府は駿河の今川範政に持氏を助けさせたので,'17年禅秀らは敗れ鎌倉で自殺した。
上杉輝虎
うえすぎてるとら @@@LINK=上杉輝虎 上杉輝虎

上杉輝虎
うえすぎてるとら

上杉謙信
上杉憲実
うえすぎのりざね @@@LINK=上杉憲実 上杉憲実

上杉憲実
うえすぎのりざね

1410〜66
室町中期の武将。関東管領
1438年,鎌倉公方足利持氏と不和になり上野 (こうずけ) (群馬県)に退去。持氏はこれを討とうとしたが,将軍足利義教 (よしのり) が憲実を応援したため,'39年持氏は敗れて自殺した(永享の乱)。'49年出家引退し,晩年は大内氏を頼って周防 (すおう) に住んだ。好学の人で,下野 (しもつけ) (栃木県)の足利学校を再興したことで有名。

上杉憲政
うえすぎのりまさ @@@LINK=上杉憲政 上杉憲政

上杉憲政
うえすぎのりまさ

1523〜75
室町末期・戦国時代の武将
1530年関東管領となる。'51年北条氏康に攻められ大敗。'58年越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り,'61年上杉のと関東管領職を景虎に譲り,以後関東管領は長尾氏に帰した。謙信の死後の継嗣争いにまきこまれて,誤って殺され,上杉氏の正系は滅亡した。
上杉治憲
うえすぎはるのり @@@LINK=上杉治憲 上杉治憲

上杉治憲
うえすぎはるのり

1751〜1822
江戸後期の出羽(山形県)米沢藩主
鷹山 (ようざん) と号した。日向(宮崎県)高鍋藩秋月家から米沢藩主上杉重定の養子となり,1767年襲封。財政改革殖産興業・倹約など藩政改革につとめ,藩校興譲館を創設。名君の一人に数えられた。

上杉鷹山
うえすぎようざん @@@LINK=上杉鷹山 上杉鷹山

上杉鷹山
うえすぎようざん

上杉治憲 (はるのり)
上田秋成
うえだあきなり @@@LINK=上田秋成 上田秋成

上田秋成
うえだあきなり

1734〜1809
江戸後期の国学者,歌人,浮世草子・読本 (よみほん) 作者
通称東作。筆名に和訳太郎・剪枝畸人 (せんしきじん) ・無腸など多数。大坂の人。国学史上では,本居宣長との論争が著名。主著に読本『雨月物語』『春雨物語』,随筆『胆大小心録』など。

上田敏
うえだびん @@@LINK=上田敏 上田敏

上田敏
うえだびん

1874〜1916
明治・大正時代の英仏文学者・詩人・評論家
号は柳村。東京の生まれ。東大英文科卒。晩年京大教授となる。ヨーロッパ文芸の翻訳紹介に大きな業績があり,特に1905年訳詩集『海潮音』を刊行し,象徴詩の確立に大きく寄与した。

ヴェトナム戦争
ヴェトナムせんそう @@@LINK=ヴェトナム戦争 ヴェトナム戦争

ヴェトナム戦争
ヴェトナムせんそう

1960〜75年,ヴェトナムにおける民族解放戦争
1954年のジュネーヴ協定成立後,アメリカはヴェトナム共和国(南ヴェトナム)を支援し,'56年に予定された南北統一選挙も実施されず,南ヴェトナム解放民族戦線による解放闘争が激化した。'61年以後アメリカが介入し,'65年2月から北ヴェトナム爆撃(北爆)を開始,戦火はインドシナ全域に拡大した。ソ連・中国などの武器援助をうけた北ヴェトナムが頑強に抵抗し,パリ和平会議がしばしば開かれた。'73年1月,和平協定が調印され,アメリカ軍は撤退,'75年4月,北ヴェトナムがサイゴンを陥落させ,戦争は終結した。
ヴェトナム和平協定
ヴェトナムわへいきょうてい @@@LINK=ヴェトナム和平協定 ヴェトナム和平協定

ヴェトナム和平協定
ヴェトナムわへいきょうてい

ヴェナム戦争終結のため,1973年1月にパリで調印された協定
1973年1月23日,アメリカ大統領特別補佐官キッシンジャーと北ヴェトナム代表団特別顧問レ=ドク=トとの間で調印され,アメリカは北ヴェトナムに対する軍事行動を全面的に停止した。ついで27日,アメリカ・北ヴェトナム・南ヴェトナム・南ヴェトナム臨時革命政府の4者代表によって正式調印され,アメリカ軍は撤退した。しかし,その後も南北衝突が続き,'75年4月解放勢力によりサイゴンが解放され,'76年6月に南北ヴェトナムの統一が実現した。
上野焼
あがのやき @@@LINK=上野焼 上野焼
うえのやき @@@LINK=上野焼 上野焼

上野焼
あがのやき

福岡県田川郡赤池町上野で産する陶器
17世紀初め小倉藩主となった細川忠興のもとで,朝鮮から渡来した陶工の尊階(和名,上野喜蔵)が創始。小堀遠州好みの茶碗もつくり,遠州七窯の一つに数えられる。1632年,尊階は細川氏の熊本移封に従い八代 (やつしろ) に移り,八代焼となった。

上野焼
うえのやき

あがのやき
上原勇作
うえはらゆうさく @@@LINK=上原勇作 上原勇作

上原勇作
うえはらゆうさく

1856〜1933
明治〜昭和初期の軍人
陸軍大将・元帥 (げんすい) 。日向(宮崎県)の生まれ。1912年12月,第2次西園寺公望 (きんもち) 内閣の陸相として2個師団増設が拒否されると帷幄 (いあく) 上奏を行って単独で辞表を提出,内閣を総辞職させ,大正政変のきっかけをつくった。

上村松園
うえむらしょうえん @@@LINK=上村松園 上村松園

上村松園
うえむらしょうえん

1875〜1949
明治〜昭和期の女流日本画家
本名津禰。京都の生まれ。竹内栖鳳 (せいほう) らに師事,四条派の技法を根幹とする美人画を得意とした。1948年女性として最初の文化勲章受章。代表作に『花ざかり』『序の舞』『夕暮』など。

植村正久
うえむらまさひさ @@@LINK=植村正久 植村正久

植村正久
うえむらまさひさ

1857〜1925
明治・大正時代のキリスト教牧師・評論家
旗本の家に生まれ,英語・神学を学びキリスト教に入信。正統派福音主義信仰の確立につとめるとともに評論界でも活躍。教育勅語に対する礼拝を批判し,井上哲次郎に反論した。著書に『真理一斑』など。

ヴェルサイユ条約
ヴェルサイユじょうやく @@@LINK=ヴェルサイユ条約 ヴェルサイユ条約

ヴェルサイユ条約
ヴェルサイユじょうやく

第一次世界大戦後の1919年6月28日,パリ郊外ヴェルサイユ宮殿で連合国とドイツとの間に結ばれた講和条約
パリ講和会議によって成立したもので,15編440条からなる。日本全権は西園寺公望 (さいおんじきんもち) ・牧野伸顕ら。国際連盟の規約も定まりヴェルサイユ体制確立。これにより日本は山東半島の旧ドイツ権益を継承し,南洋群島を委任統治領とした。連合国側の中国は,五・四運動などの抗日の機運が高まり,調印を拒否した。
鵜飼
うかい @@@LINK=鵜飼 鵜飼

鵜飼
うかい

鵜を用いて魚をとる漁法
古代から存在し『隋書』倭国伝にもみえる。律令制では宮廷に直属した。吉野川・初瀬川,ついで桂川宇治川などのほか民間でもほぼ全国的に存在。特に鮎 (あゆ) 漁が有名。中世には武家も愛好し,近世大名は各地で鵜匠を保護し鮎を納させた。長良川の鵜匠は尾張藩に所属した。現在は観光用として船による夜漁の形式のみ盛んである。
宇垣一成
うがきかずしげ @@@LINK=宇垣一成 宇垣一成

宇垣一成
うがきかずしげ

1868〜1956
大正・昭和期の軍人・政治家
陸軍大将。岡山県の生まれ。清浦奎吾・加藤高明・若槻礼次郎各内閣の陸相,朝鮮総督,浜口雄幸内閣の陸相を歴任。宇垣閥を形成し,三月事件で軍閥政権の首相に擬されたが,拒絶し軍部内の支持を失う。1937年広田弘毅内閣のあと組閣にあたったが,軍部の反対で断念した。翌年第1次近衛文麿内閣に外相として一時入閣。第二次世界大戦後の'53年参議院議員選挙で全国区最高点で当選した。

斥候
うかみ @@@LINK=斥候 斥候
せっこう @@@LINK=斥候 斥候

斥候
うかみ

律令制下の兵制の一つ
辺境に配置され外敵の偵察にあたった。大化の改新の詔に関塞 (せきそこ) ・防人 (さきもり) と並んで設置されることが定められ,『日本書紀』にも「所々に斥候をおく」とあるが詳細は不明である。

斥候
せっこう

うかみ
浮雲
うきぐも @@@LINK=浮雲 浮雲

浮雲
うきぐも

明治時代,二葉亭四迷の小説
1887〜89年に3編刊。未完。初め坪内逍遙の名を借りて刊行。東京の小市民生活における新旧の人びとの心理を言文一致体で描写し,日本近代写実主義文学の先駆をなす。
宇喜多秀家
うきたひでいえ @@@LINK=宇喜多秀家 宇喜多秀家

宇喜多秀家
うきたひでいえ

1572〜1655
安土桃山〜江戸時代前期の武将
備前(岡山県)の戦国大名。直家の子。豊臣秀吉に仕え四国・九州・小田原征討や文禄・慶長の役に功をたて,五大老の一人となった。関ケ原の戦いでは西軍の中心人物の一人となり,敗れて薩摩にのがれたが捕らえられ,1606年八丈島に流され,在島約50年で死んだ。

浮役
うきやく @@@LINK=浮役 浮役

浮役
うきやく

江戸時代の租税の一種
小物成のうち,臨時,あるいは年期を限って徴収する税額不定のもので,多くは銭納であった。冥加金・何分の一税・何々役など。
右京職
うきょうしき @@@LINK=右京職 右京職

右京職
うきょうしき

京職
浮世絵
うきよえ @@@LINK=浮世絵 浮世絵

浮世絵
うきよえ

江戸時代の風俗画の一流派
源流は安土桃山時代の大和絵風の風俗画にあり,元禄(1688〜1704)のころ菱川師宣 (ひしかわもろのぶ) が大成し版画として普及。当時はまだ墨摺 (すみず) りであったが,やがて丹絵・漆絵などの筆彩色となり紅摺絵を経て,18世紀後半に鈴木春信が錦絵を大成し浮世絵の全盛時代を迎えた。題材は,(1)美人画—遊里の女や情緒纒綿 (じようちよてんめん) (情緒深く,離れにくいさま)たる場面を描いたものが多い。(2)歌舞伎役者絵—舞台面や俳優の所作・似顔など。(3)風景画—末期に発達。単なる風景でなく人事をも描いた。(4)その他—花鳥風月などや歴史に関連した見立絵など。町人の娯楽としての遊里・演劇に題材を求め,黄表紙・合巻などの俗文学の挿絵にも使われたため,町人は浮世絵に親しんだ。そのため実社会との関連深く,時には幕政を風刺して幕府から弾圧されたこともあった。浮世絵発展の地は江戸で,特に版画は江戸特有のものであった。18世紀末の全盛期には勝川春章・鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽らが,19世紀前期には葛飾北斎・安藤広重らが出た。明治時代になって,文明開化の新様相の報道を主として描いたが,拙速主義となって芸術性が失われ衰退した。
浮世草子
うきよぞうし @@@LINK=浮世草子 浮世草子

浮世草子
うきよぞうし

江戸前期〜中期につくられた小説類の総称
井原西鶴の『好色一代男』がその始まりといわれ,以来安永・天明(1772〜89)ころまでの約100年間,主として京坂地方に流行した。以前の仮名草子に対する小説の概念で,町人・武家社会の世相・生活を写実的に描いた風俗小説。内容により好色物・町人物・武家物などに分類される。
浮世床
うきよどこ @@@LINK=浮世床 浮世床

浮世床
うきよどこ

江戸後期,式亭三馬の滑稽本
1812〜23年刊。3編8冊であるが,3編目は三馬死去のため滝亭鯉丈 (りゆうていりじよう) の作。当時の社交場である髪結床 (かみゆいどこ) に集まる人びとの会話を中心に江戸後期の風俗を描出した。前作『浮世風呂』の姉妹編。外題は『柳髪新話浮世床』。
浮世風呂
うきよぶろ @@@LINK=浮世風呂 浮世風呂

浮世風呂
うきよぶろ

江戸後期,式亭三馬の滑稽本
1809〜12年刊。4編9冊。髪結床芝居小屋と並んで江戸庶民の社交機関であった銭湯を舞台として,落語的構成と話術を用いて,生活の種々相を写実的に描出した。三馬の代表作で滑稽本の名作にあげられる。『浮世床』の姉妹編外題は『諢話 (おどけばなし) 浮世風呂』。
浮世物語
うきよものがたり @@@LINK=浮世物語 浮世物語

浮世物語
うきよものがたり

江戸前期,浅井了意の仮名草子
1665年頃刊。5巻。浮世草子の先駆をなす。
請作
うけさく @@@LINK=請作 請作

請作
うけさく

荘園領主と田堵の間で契約された1年期限の小作関係
請作にあたっては,春に請文を提出し,秋には地子を納めた。平安時代の中ごろから盛んに行われ,1年契約はしだいに永年となり,耕作権は名主職として定着した。
請所
うけしょ @@@LINK=請所 請所

請所
うけしょ

中世,荘園領主が地頭・荘官などに,年々の豊凶にかかわらず毎年一定額の年貢を請け負わせる制度
荘園が請所となると領主側は関与せず,荘園の支配は事実上すべて請負人にゆだねられた。請負人の相異により地頭請・守護請・百姓請(地下請)などがある。
雨月物語
うげつものがたり @@@LINK=雨月物語 雨月物語

雨月物語
うげつものがたり

江戸中期,上田秋成の読本 (よみほん)
1776年刊。5巻。日本・中国の古典に素材を求め,幻想の世界を迫真的に描いた雅文怪異小説で,9話からなる。江戸中期の文芸復興一端をになう名作として名高い。
請人
うけにん @@@LINK=請人 請人

請人
うけにん

①今日の保証人にあたる
②荘園の本家・領家に一定の年貢納入を請け負い,代わりに下地支配の全権を委任された人
個人的な債務関係の弁済保証人(「建武以来追加」にみえる),江戸時代の奉公人・店借 (たながり) 人などの身元保証人などをいう。
請所と呼ぶこともある。
宇下人言
うげのひとこと @@@LINK=宇下人言 宇下人言

宇下人言
うげのひとこと

江戸後期,松平定信の自叙伝
1793年刊。1巻。自己の出生から老中辞職までを執筆。寛政の改革前後の事情を知るのに貴重な史料。書名は「定信」の2字を分解したもの。
宇佐八幡宮
うさはちまんぐう @@@LINK=宇佐八幡宮 宇佐八幡宮

宇佐八幡宮
うさはちまんぐう

大分県宇佐市にある八幡宮。祭神応神天皇・比売 (ひめ) 神・神功 (じんぐう) 皇后
全国約1万5000の分社の総本社。東大寺大仏の造立に貢献し,道鏡が皇位を狙った事件では和気清麻呂がこの社で神託をうかがった。のち源氏の氏神とされ,武神として幕府守護神となった。

うじ @@@LINK=氏 氏


うじ

古代社会の同族血縁を主とする支配層の集団
血縁関係の有無にかかわらず同じ祖先から出たと信じる多くの家族が,社会的・政治的に最も有力な家を中心として集合。同族団首長が氏上 (うじのかみ) ,一般の成員が氏人 (うじびと) ,これに部民 (べのたみ) ・奴婢 (ぬひ) が隷属した。氏は大王を中心に大和政権を形成し,地位に応じて姓 (かばね) を有し,政治的地位と職掌とを世襲した。大化の改新(645)で世襲の職掌と私的支配権の廃止が企てられたが,氏の実質は,7〜8世紀を通じて残存した。
氏神
うじがみ @@@LINK=氏神 氏神

氏神
うじがみ

古代の氏の統合の中心となった神
氏の守護神で,氏上 (うじのかみ) がその祭祀にあたった。だいたい氏の祖先神で,中臣氏の天児屋根命 (あめのこやねのみこと) は有名。中世以降,氏族的結合がゆるむと本来の性格がうすれ,産土神 (うぶすながみ) のような地縁神と混同されるようになった。
牛川人骨
うしかわじんこつ @@@LINK=牛川人骨 牛川人骨

牛川人骨
うしかわじんこつ

愛知県豊橋市牛川で発見された更新世の人骨
上腕骨片と大腿骨片が発見されたにすぎず,旧人とも考えられているが,最近の研究では,人骨ではないという見方もある。
宇治川の合戦
うじがわのかっせん @@@LINK=宇治川の合戦 宇治川の合戦

宇治川の合戦
うじがわのかっせん

宇治川をめぐる戦い
①1184年,源義仲源義経とが山城の宇治川をはさんで戦った。佐々木高綱梶原景季 (かげすえ) の先陣争いで名高く,この合戦義経が勝って入京した。
②1221年,承久のにおいて,朝廷軍が宇治川をはさんで幕府軍に激しく抵抗。結局幕府軍が渡河に成功して大勝,入京して朝廷側を制圧した。
宇治拾遺物語
うじしゅういものがたり @@@LINK=宇治拾遺物語 宇治拾遺物語

宇治拾遺物語
うじしゅういものがたり

鎌倉初期の説話集
13世紀初めの成立。15巻。編者未詳。『今昔物語集』(宇治大納言物語)の後を追った著作で,全編197話のうち84話が共通する。内容は仏教説話が多いが,また人間的な笑いを豊かにとり入れた民話的説話もみられる。
宇治茶
うじちゃ @@@LINK=宇治茶 宇治茶

宇治茶
うじちゃ

京都府宇治市周辺に産する茶
鎌倉時代,栄西 (えいさい) が伝来した茶種を高弁が京都西郊栂尾 (とがのお) に試植し,のち宇治に茶園をつくったことに始まるという。室町時代以後足利義満・豊臣秀吉ら権力者により銘園が設けられ発展。江戸時代も将軍家茶所となるなど,上茶として有名。
氏寺
うじでら @@@LINK=氏寺 氏寺

氏寺
うじでら

古代において,氏族一門の帰依をうけた寺
先祖の追善と一族の現世利益・後世安穏を願うために建立された私寺で,藤原氏の興福寺,和気氏の神護寺などはその代表的な例。
氏上
うじのかみ @@@LINK=氏上 氏上

氏上
うじのかみ

古代における氏の首長
平安時代以後は氏長者 (うじのちようじや) と呼ばれた。氏の統率者。氏を代表して大和政権に仕え,その職掌・政治的地位世襲。氏神を祭り,氏人を統率し,部民 (べのたみ) 以下隷属民を支配した。大化の改新以後,土地・人民の支配権,職業の世襲権を失ったが,律令国家官吏として要職を占めて国政に参与し,また多くの特権も公認された。
氏長者
うじのちょうじゃ @@@LINK=氏長者 氏長者

氏長者
うじのちょうじゃ

平安時代以後の氏の首長
奈良時代以前の氏上に相当する。氏の代表者として,共有財産や氏神・氏寺などの管理,祭祀,氏人の官位の推挙などの権限をもち,天皇からその地位を認められた。中世以後は名誉的な称号となり,藤原氏の摂関,源氏の征夷大将軍となる者だけを称するようになった。
菟道稚郎子
うじのわきいらつこ @@@LINK=菟道稚郎子 菟道稚郎子

菟道稚郎子
うじのわきいらつこ

生没年不詳
大和時代,5世紀ころの皇族
応神天皇の皇子。百済 (くだら) からの渡来人阿直岐 (あちき) ・王仁 (わに) について初めて経典(儒教)を学んだ。皇太子となったが異母兄大鷦鷯尊 (おおささぎのみこと) (のちの仁徳天皇)に皇位を譲るため自害したという。
宇治橋
うじばし @@@LINK=宇治橋 宇治橋

宇治橋
うじばし

京都府宇治市の宇治川に架けられた木橋
646年道昭(一説に道登)が架橋したといわれる。『平家物語』にいう橋合戦(以仁王 (もちひとおう) ・源頼政敗死),宇治川の合戦などの舞台となった。
氏人
うじびと @@@LINK=氏人 氏人

氏人
うじびと

古代,氏の一般構成員。
宇治山田
うじやまだ @@@LINK=宇治山田 宇治山田

宇治山田
うじやまだ

三重県東部,伊勢平野南端にある伊勢市の旧名。伊勢神宮の門前町
内宮門前の宇治と外宮門前の山田とからなり,平安初期から都市として発展をとげた。中世,武士庶民の間に伊勢信仰が広まるにつれ参詣人を集めた。室町時代には人口3万以上で,当時有数の自治都市となった。江戸時代,幕府直轄領となり,山田奉行が置かれた。1906年市制施行。'55年伊勢市と改称した。
羽州探題
うしゅうたんだい @@@LINK=羽州探題 羽州探題

羽州探題
うしゅうたんだい

室町幕府の職名
出羽国の軍事・民政を統轄した。初め斯波家兼 (しばいえかね) が奥州探題となり,陸奥・出羽を総掌したが,1356年家兼の死後,長男直持が陸奥,2男兼頼が出羽を分掌し,後者を羽州探題と称した。兼頼のあとは子孫が世襲。最上郡山形にいたので,最上氏を称した。
碓氷関
うすいのせき @@@LINK=碓氷関 碓氷関

碓氷関
うすいのせき

上野 (こうずけ) 国(群馬県)碓氷郡横川に置かれた関所
坂東諸国の土豪蜂起を抑えるため899年創設したといわれる。近世に入って,中山道整備に伴い1623年横川に設置。1869年廃止された。
鶉衣
うずらごろも @@@LINK=鶉衣 鶉衣

鶉衣
うずらごろも

江戸後期,横井也有の俳文集
1787〜1823年刊。4編12冊246項。軽妙洒脱知性と平静な心で,日常生活・自然・和漢の故事・俗諺・詩心・紀行などを述べている。江戸時代の俳文中,屈指の作品。
歌合
うたあわせ @@@LINK=歌合 歌合

歌合
うたあわせ

平安〜室町時代を通じ貴族・武士間に行われた和歌の一遊戯
歌人(数人〜2,30人)が左右に分かれ,題(数題〜100題)に応じて各1首ずつ詠み,判者がその優劣を判じて勝・負・持(同等)を決め,組の勝負を争った。このように勝負を判論することから歌論・歌学の発達を促した。鎌倉時代前半に最盛期を迎えた。
宇内混同秘策
うだいこんどうひさく @@@LINK=宇内混同秘策 宇内混同秘策

宇内混同秘策
うだいこんどうひさく

江戸後期,佐藤信淵 (のぶひろ) の経世書
1823年の作。宇内(世界)を統一し,万国を日本の臣下にすべしという侵略主義を主張したもの。
右大将
うだいしょう @@@LINK=右大将 右大将

右大将
うだいしょう

右近衛大将 (うこんえのたいしよう) の
右大臣
うだいじん @@@LINK=右大臣 右大臣

右大臣
うだいじん

律令の官制で,左大臣につぐ官職
②明治初期の太政官制上の官職
645年大化の改新で,蘇我倉山田石川麻呂が就任したのが最初。職掌・相当位は左大臣と同じ。
1869年太政官制がととのえられ,左大臣とともに最高官として設置された。一時中絶したがまもなく再設置。左大臣・参議とともに正院を構成した。'85年内閣制度の創設により廃止。
歌垣
うたがき @@@LINK=歌垣 歌垣

歌垣
うたがき

古代における集団儀礼で一種の群舞。毎年春秋の2回,時を定め山上や市などの聖場で催された
男女が列をなして恋愛・求婚の歌をうたい,踊って配遇者を選び性の解放を謳歌した。東国では嬥歌 (かがい) といい,筑波の嬥歌が有名で『万葉集』にも詠まれている。
宇田川玄真
うだがわげんしん @@@LINK=宇田川玄真 宇田川玄真

宇田川玄真
うだがわげんしん

1769〜1834
江戸後期の蘭方医
本姓は安岡。伊勢(三重県)の人。大槻玄沢に蘭学を学び,稲村三伯の『ハルマ和解編纂に協力。のち宇田川玄随の養子となった。著書に『遠西医範』など。
宇田川玄随
うだがわげんずい @@@LINK=宇田川玄随 宇田川玄随

宇田川玄随
うだがわげんずい

1755〜97
江戸後期の蘭方医
江戸の人。父の代から美作 (みまさか) (岡山県)津山藩医。桂川甫周 (ほしゆう) ・杉田玄白らに蘭学を学んだ。桂川のすすめでゴルテルのオランダ内科医書を翻訳し,1793年『西説内科撰要』と名づけて刊行。わが国に最初の内科医書を紹介した。

歌川豊国
うたがわとよくに @@@LINK=歌川豊国 歌川豊国

歌川豊国
うたがわとよくに

初代)1769〜1825
江戸後期の浮世絵師
江戸の木彫人形師の子。初め美人画を描き,のちに役者の似顔絵にすぐれた作品を残し,歌川派を確立。晩年は芸術味を喪失した。代表作に『役者舞台之姿絵・高麗屋』など。

歌川広重
うたがわひろしげ @@@LINK=歌川広重 歌川広重

歌川広重
うたがわひろしげ

1797〜1858
江戸後・末期の浮世絵師
江戸の人。本姓安藤氏。歌川豊広の門人。諸派の画法を習得し,西洋画の遠近法をとり入れ,風景版画に新生面を開いた。多彩な色調と的確な写実で自然を描き,情趣ある親しみやすい日本の風景画を完成した。『東海道五十三次』『近江八景』『名所江戸百景』(未完)などが有名。

宇田川榕庵
うだがわようあん @@@LINK=宇田川榕庵 宇田川榕庵

宇田川榕庵
うだがわようあん

1798〜1846
江戸後期の蘭学者・津山藩医
江戸の人。美濃岐阜県)大垣藩医の子で,宇田川玄真の養子。1826年幕府天文方の蕃書和解御用掛となり,『厚生新編』を翻訳。また『植学啓原』を著し西洋植物学を紹介した。ほかに『菩多尼訶経 (ぼたにかきよう) 』『舎密開宗 (せいみかいそう) 』なども有名。

歌沢
うたざわ @@@LINK=歌沢 歌沢

歌沢
うたざわ

江戸末期に発生した端唄(小品の三味線歌曲)の一種
旗本隠居の笹本彦太郎歌沢笹丸)を中心に一派をつくる運動を進め,1857年笹本は大和大掾 (だいじよう) の名のりを許され,家元となった。曲調・歌詞とも定型なく,非常に技巧的。粋 (いき) で渋い遊里気分のものが多い。同様に端唄から出たものに小唄がある。
宇多天皇
うだてんのう @@@LINK=宇多天皇 宇多天皇

宇多天皇
うだてんのう

867〜931
平安前期の天皇(在位887〜897)
光孝天皇第7皇子。887年即位後阿衡 (あこう) 事件をおこしたが,藤原基経死後は関白を置かず,菅原道真を登用し,藤原氏抑制政策を実行した。子の醍醐天皇に与えた『寛平御遺誡 (かんぴようのごゆいかい) 』,日記『宇多天皇宸記』は有名。

歌よみに与ふる書
うたよみにあたうるしょ @@@LINK=歌よみに与ふる書 歌よみに与ふる書

歌よみに与ふる書
うたよみにあたうるしょ

明治時代,正岡子規の歌論
1898年発表。子規の短歌革新の第一声として新聞『日本』に連載。『古今和歌集』の亜流の和歌を排撃して,源実朝の万葉風の歌風を推賞し,写生・写実を唱えた。
打掛
うちかけ @@@LINK=打掛 打掛

打掛
うちかけ

江戸時代,武家女性の礼装
「打掛小袖」の略称で,室町末期,宮中女官服の簡略化からおこった,帯をしめた上に着る長い小袖。
内管領
うちかんれい @@@LINK=内管領 内管領

内管領
うちかんれい

鎌倉時代,執権北条氏の家督(得宗)の家政をとった家司
「ないかんれい」とも読む。本来は,北条氏の家政をとる私的なものであったが,鎌倉末期に執権の後見として幕政の実権を握り権勢をふるった。北条高時の内管領長崎高資 (たかすけ) は有名。

うちぎ @@@LINK=袿 袿


うちぎ

古代の女子服
女房装束の中心をなした。肌着である単と表着の間に着ける広袖の丈の長い衣。数枚重ねて,うちかけるように着用し,その枚数で寒暖を調節した。
内蔵
うちくら @@@LINK=内蔵 内蔵

内蔵
うちくら

大和政権の官物を収納した三蔵 (みつくら) の一つ
「うちつくら」とも読む。大王家の財物をおさめた。
打ちこわし
うちこわし @@@LINK=打ちこわし 打ちこわし

打ちこわし
うちこわし

江戸時代,主として都市貧民によりおこされた集団的暴動
百姓一揆でも打ちこわしを伴う場合があるが,歴史的には打ちこわしは都市貧民の暴動をさす。その主要なものは200件近くもあるが,なかでも(1)1733(享保18)年—江戸,(2)1787(天明7)年—大坂→京都・大津・奈良・長崎・江戸など多数,(3)天保年間(1830〜44)—大塩平八郎の乱による大坂と全国各地,(4)幕末慶応期,特に1866(慶応2)年—江戸・大坂と全国各地,の暴動が代表的なものである。これらは多く飢饉に際しておこり,米の買占めを行った米商人をはじめ,地主・村役人・町役人その他富商が攻撃され,文字どおり家屋家財が完全にこわされた。百姓一揆に比べて組織力に欠けるが,時代が下るとこれと相呼応するものも出てきた。江戸・大坂のような重要都市におこり,しばしば無警察状態をつくったので幕府に与えたショックは大きかった。百姓一揆とともに,民衆のエネルギーの爆発として,直接封建制度を倒すことはできなかったとはいえ,その動揺崩壊を促進したところに意義がある。
内田銀蔵
うちだぎんぞう @@@LINK=内田銀蔵 内田銀蔵

内田銀蔵
うちだぎんぞう

1872〜1919
明治・大正時代の歴史学者。史学としての日本経済史を確立
東京の生まれ。東大卒業後,ヨーロッパへ留学。帰国して京大教授となる。体系的な日本近世史・経済史の開拓者的存在で,史学理論にも独創的な仕事を残した。主に『経済史総論』。

内田康哉
うちだこうさい @@@LINK=内田康哉 内田康哉

内田康哉
うちだこうさい

1865〜1936
明治〜昭和初期の外交官
肥後(熊本県)の生まれ。第2次西園寺内閣以来,外相就任5回。不戦条約会議の全権となる。南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁として満州事変に協力し,1932年斎藤実 (まこと) 内閣の外相となり満州国承認・国際連盟脱退などの強硬外交を展開した。幣原 (しではら) 喜重郎の協調外交に対して焦土外交と評された。

内臣
うちつおみ @@@LINK=内臣 内臣
ないしん @@@LINK=内臣 内臣

内臣
うちつおみ

律令制以前の官職名
645年大化の改新の際新設され,中臣鎌足 (かまたり) が任命された。左右大臣と並ぶ重要な官職だが常置ではなく,令制の官職にもない。

内臣
ないしん

うちつおみ
内灘事件
うちなだじけん @@@LINK=内灘事件 内灘事件

内灘事件
うちなだじけん

1952〜53年に行われた石川県河北郡内灘のアメリカ軍試射場に対する反対闘争
第4次吉田茂内閣はアメリカ軍試射場として内灘の砂丘を接収することを決めたが,石川県議会をはじめ,北陸鉄道労組・学生・知識人などを中心に試射中止と土地返還を求める闘争が展開され,全国の関心を集めた。その後の基地反対闘争のきっかけとなる。
内村鑑三
うちむらかんぞう @@@LINK=内村鑑三 内村鑑三

内村鑑三
うちむらかんぞう

1861〜1930
明治〜昭和初期のキリスト教徒・思想家
高崎藩士の子として江戸に生まれ,札幌農学校卒業後渡米。1891年第一高等中学校講師のとき教育勅語の礼拝を拒否して追放された(内村鑑三不敬事件)。のち『万朝報』の記者として足尾鉱毒事件を批判。日露開戦に際して非戦論を主張し,1903年幸徳秋水らとともに退社。無教会主義を唱え,日本( Japan)とイエス( Jesus)の「二つのJ」に仕えることを念願とした。

宇津保物語
うつほものがたり @@@LINK=宇津保物語 宇津保物語

宇津保物語
うつほものがたり

平安中期の物語
10世紀後半の成立。20巻。作者は源順 (みなもとのしたごう) ,藤原為時など諸説あるが不詳。左大将の娘貴宮 (あてみや) をめぐる求婚物語。写実的・現実的作風の日本最初の長編物語で,のちの『源氏物語』の成立に大きな影響を与えた。
有徳銭
うとくせん @@@LINK=有徳銭 有徳銭

有徳銭
うとくせん

中世,裕福者(有徳者)に課せられた税金
有得銭・銭ともいう。鎌倉末期から幕府・大名・寺社が費用調達のため領内の裕福な商工業者に臨時に課した。室町時代の中ごろからしだいに恒久化し,江戸時代の御用金先駆をなす。
采女
うねめ @@@LINK=采女 采女

采女
うねめ

古代,後宮女官の一種
大化前代にも存在したが,令制では郡の少領以上の子女で容姿端麗な者を後宮に出仕させた。雑役に従事する下級女官であるが,政治に関与したり,天皇の寵愛を得て権力をもった者もあり,宮廷では大きな位置をしめた。
宇野浩二
うのこうじ @@@LINK=宇野浩二 宇野浩二

宇野浩二
うのこうじ

1891〜1961
大正・昭和期の小説家
福岡県の生まれ。自然主義の影響下に,庶民性とユーモアを蔵した独特の作風を示す。敗戦後は,一転して重厚な写実的作品を発表した。主著に『苦の世界』『蔵の中』『子を貸し屋』など。

姥山貝塚
うばやまかいづか @@@LINK=姥山貝塚 姥山貝塚

姥山貝塚
うばやまかいづか

千葉県市川市柏井町にある縄文時代中・後期の貝塚
貝塚は1万3000㎡の範囲に環状に広がり,多数の竪穴住居址が発掘された。また,竪穴の一つから不慮の事故死によると思われる男女各2人,子供1人の人骨が出土し,1住居に生活した家族数を示す資料として利用されている。
産土神
うぶすながみ @@@LINK=産土神 産土神

産土神
うぶすながみ

人の生まれた土地の守護神
ウブスは生産,ナは土地の意味。本来は地縁的集団を守護する神で,氏神・鎮守神とは異なる。地縁的・共同体意識の発達した中世以降,氏神と同一視された。
右弁官
うべんかん @@@LINK=右弁官 右弁官

右弁官
うべんかん

弁官
厩戸皇子
うまやどのおうじ @@@LINK=厩戸皇子 厩戸皇子

厩戸皇子
うまやどのおうじ

正しくは厩戸豊聡耳皇子 (うまやどのとよとみみのおうじ) 。聖徳太子のこと。
海に生くる人々
うみにいくるひとびと @@@LINK=海に生くる人々 海に生くる人々

海に生くる人々
うみにいくるひとびと

大正時代,葉山嘉樹の小説
1926年刊。室蘭〜横浜間を往復する石炭船に働く下級船員の闘争を描いた初期プロレタリア文学の傑作
梅謙次郎
うめけんじろう @@@LINK=梅謙次郎 梅謙次郎

梅謙次郎
うめけんじろう

1860〜1910
明治時代の法学者
松江藩出身。ドイツ・フランスに留学後東大教授となる。民法典論争ではフランス市民法の導入を主張しボアソナード案を支持復古主義穂積八束 (やつか) らと対立。1893年法典調査委員となり,民法・商法の編纂に従事した。

梅田雲浜
うめだうんぴん @@@LINK=梅田雲浜 梅田雲浜

梅田雲浜
うめだうんぴん

1815〜59
幕末の尊攘派志士・儒学者
若狭(福井県)小浜藩士。尊王攘夷論を唱えて藩から追放され,浪人して京都で塾を開く。尊攘派志士の連絡役として東奔西走して活躍。安政の大獄で捕らえられ,獄中で病死した。

梅津‐何応欽協定
うめづ‐かおうきんきょうてい @@@LINK=梅津何応欽協定 梅津何応欽協定

梅津‐何応欽協定
うめづ‐かおうきんきょうてい

1935年6月,支那駐屯軍司令官梅津美治郎(1882〜1949)と中国国民軍代表何応欽の間に成立した協定
その内容は,河北省の国民軍の撤退,同省内の国民党機関の閉鎖反日運動の禁止の3項目よりなり,中国河北省の非武装化をはかった。満州事変後の中国侵略の第2段階をつくる。
梅原竜三郎
うめはらりゅうざぶろう @@@LINK=梅原竜三郎 梅原竜三郎

梅原竜三郎
うめはらりゅうざぶろう

1888〜1986
洋画家
京都の生まれ。関西美術院で浅井忠に学び,渡仏してルノアールに師事。ゴッホゴーガンセザンヌなどの後期印象派の作風を学び,帰国後,二科会・春陽会の創立に参加。のち国画会の中となる。第二次世界大戦後は,安井曾太郎とともに梅原・安井時代を築いた。1952年文化勲章受章。代表作に『北京秋天』『紫禁城』など。
右翼運動
うよくうんどう @@@LINK=右翼運動 右翼運動

右翼運動
うよくうんどう

天皇制を至上価値として国粋主義・対外侵略主義の傾向をもつ政治・社会的運動
明治期の玄洋社からは黒竜会・浪人会その他が生まれ大アジア主義を唱えた。大正期,民本主義・社会主義が勃興すると反社会主義の色彩を強めた。昭和期に入ると国家社会主義的・ファシズム的団体が生まれ,軍部と結んで戦時体制強化に大きな役割を果たした。第二次世界大戦後,一時衰退したが,1951年サンフランシスコ平和条約以後復活した。
浦賀
うらが @@@LINK=浦賀 浦賀

浦賀
うらが

神奈川県三浦半島の東端,江戸湾口の要港として発展した港町
現在,横須賀市に属する。1720年,江戸幕府はこの地に浦賀奉行を置き江戸湾出入の船を監視させた。国内諸国の廻船の寄航地であったが,幕末にはモリソン号など外国船も頻繁に来航した。1853年ペリーが来航し,幕府に開国を迫った地として著名。なお,米大統領フィルモアの国書は久里浜にて受理された。
浦賀奉行
うらがぶぎょう @@@LINK=浦賀奉行 浦賀奉行

浦賀奉行
うらがぶぎょう

江戸幕府の職名。遠国奉行の一つ
1720年相模国(神奈川県)浦賀に設置。老中の管下に属し,江戸への関門として出入船舶の積載貨物の検査にあたった。幕末にはビッドルやペリーが来航するとこれと応接し,外交上重要な役割をつとめた。
浦上玉堂
うらがみぎょくどう @@@LINK=浦上玉堂 浦上玉堂

浦上玉堂
うらがみぎょくどう

1745〜1820
江戸後期の南画家
備前岡山藩の支藩鴨方藩士。1794年2子をつれて脱藩し,放浪後,京都で趣味的生活を送った。琴をよくし,独学で文人画を描いた。画風は奔放な構図の中に激しい気迫を感じさせる。代表作に『東雲篩雪 (とううんしせつ) 図』『煙霞帖 (えんかちよう) 』など。

浦上氏
うらがみし @@@LINK=浦上氏 浦上氏

浦上氏
うらがみし

中世,播磨国(兵庫県)浦上庄に住んだ豪族
南北朝時代,赤松氏の台頭によりその重臣となり,応仁では細川勝元の東軍に属して活躍した。侍所所司赤松氏のもとで所司代兼山城国守護代となり,さらに1521年赤松氏を倒して,播磨・備前・美作 (みまさか) (岡山県)を支配。'61年家臣の宇喜多直家に追われ,滅亡した。
浦上信徒弾圧事件
うらがみしんとだんあつじけん @@@LINK=浦上信徒弾圧事件 浦上信徒弾圧事件

浦上信徒弾圧事件
うらがみしんとだんあつじけん

明治初期のキリスト教徒弾圧事件
鎖国後も固い信仰を守り続けた長崎浦上の隠れキリシタンに対し,明治政府は1868〜69年にかけて幕府以上の弾圧を強行したが,列国公使の抗議にあい,1873(明治6)年切支丹禁制の高札を廃止布教を黙認した。この事件の背景としては,すでに江戸時代,1790(寛政2)年,1842(天保13)年,'56(安政3)年,'65(慶応元)年と4回にわたる弾圧があった。
浦島伝説
うらしまでんせつ @@@LINK=浦島伝説 浦島伝説

浦島伝説
うらしまでんせつ

日本の代表的伝説の一つ
浦島太郎が助けた亀に乗って,竜宮の乙姫の客として3日間歓待され,帰ってみやげの「玉手箱」を開くと白髪となったという話。『万葉集』をはじめ丹後国風土記・御伽 (おとぎ) 草子などにみえ,類似の説話は世界に広く分布している。
卜部氏
うらべうじ @@@LINK=卜部氏 卜部氏

卜部氏
うらべうじ

卜占 (ぼくせん) をもって神祇官や神社に世襲奉仕した家
室町時代唯一神道を確立した吉田兼倶 (かねとも) も卜部氏の出身
卜部兼方
うらべかねかた @@@LINK=卜部兼方 卜部兼方

卜部兼方
うらべかねかた

生没年不詳
鎌倉中期の古典学者・神道家
名は「懐賢」とも書く。京都平野神社の神官で,卜部氏歴代中最も著名著書『釈日本紀』はこれまでの『日本書紀』研究を集大成したもの。
卜部兼好
うらべかねよし @@@LINK=卜部兼好 卜部兼好

卜部兼好
うらべかねよし

吉田兼好
盂蘭盆会
うらぼんえ @@@LINK=盂蘭盆会 盂蘭盆会

盂蘭盆会
うらぼんえ

陰暦7月15日に祖先の霊を供養する行事
ウラボンは梵語ullambanaの音訳。略称「盆」。『盂蘭盆経』によれば,釈迦十大弟子の一人目蓮が餓鬼世界で苦しむ母を救うために7月15日十方衆僧(多くの僧)に供養したことに始まる。中国から伝わり宮中でも行われた。民間信仰と結びついて現在でも行われている。
浦役
うらやく @@@LINK=浦役 浦役

浦役
うらやく

①江戸時代,漁村に課せられた雑税
②江戸時代,漁村の取締りにあたる役職
浜役ともいう。難破船の救助,荷物の運搬などの夫役をいい,またはこれに代わる現物・貨幣を納めた。
浜役・浜がかりともいう。漁村や港町に置かれ,船籍の管理,漁業統制,難破船の処理などにあたった。
蔚山の戦い
うるさんのたたかい @@@LINK=蔚山の戦い 蔚山の戦い

蔚山の戦い
うるさんのたたかい

1597(慶長2)年12月から翌年1月にかけて,朝鮮慶尚道の蔚山城で行われた籠城戦
慶長の役で朝鮮に再征した日本軍は,明・朝鮮軍の反撃にあい蔚山城に籠城。加藤清正・浅野幸長 (よしなが) らは飢寒にたえ苦戦の,ようやくこれを撃退した。

うるし @@@LINK=漆 漆


うるし

塗料原料となる植物
樹皮から漆汁をとり,実から木蠟 (もくろう) をとる。すでに縄文時代晩期の出土品漆塗の木器があり,大宝律令では園地に漆栽培の規定がある。漆器・漆絵・乾漆像など古代貴族の間で盛んに使用され,中世以降は武具馬具にも使われた。江戸時代には四木三草 (しぼくさんそう) の一つに数えられ,漆年貢が課せられた。会津藩の栽培は有名。
宇和島藩
うわじまはん @@@LINK=宇和島藩 宇和島藩

宇和島藩
うわじまはん

江戸時代,伊予(愛媛県)宇和郡を領した藩
1615年仙台藩主伊達政宗の子秀宗が封ぜられ,以後廃藩置県まで伊達氏が領主で10万石。領内では鬮持 (くじもち) 制度(地割制度の一つ)が実施され,幕末には蠟・紙など国産品の専売制を行った。幕末の藩主宗城 (むねなり) は公武合体派として活躍し,王政復古後も議定大蔵卿などを歴任した。
運脚
うんきゃく @@@LINK=運脚 運脚

運脚
うんきゃく

奈良・平安時代,中央政府へ貢納物を徒歩で運搬した人夫
調・庸を出すの正丁 (せいてい) があたり,国司などの指導で都に運んだ。往復の食糧は自己負担であったため,帰国の途中で餓死する者もあった。
運慶
うんけい @@@LINK=運慶 運慶

運慶
うんけい

?〜1223ごろ
鎌倉初期の彫刻家
定朝 (じようちよう) の5代の子孫で,康慶 (こうけい) の子。平重衡 (しげひら) によって焼かれた東大寺・興福寺の再建にたずさわって幾多の力作を残した。天平彫刻の影響をうけ,動きのある写実的作風。代表作に,若くして製作した円成寺『大日如来像』や東大寺南大門の『金剛力士像』(快慶との合作),興福寺北円堂の『無著・世親像』などがある。

雲谷等顔
うんこくとうがん @@@LINK=雲谷等顔 雲谷等顔

雲谷等顔
うんこくとうがん

1547〜1618
安土桃山〜江戸時代初期の画家。雲谷派の始祖
肥前(佐賀県)能古美の人。武家出身。狩野派を学び,のち雪舟の画風を学んだ。毛利輝元のお抱え絵師となり,雪舟の名跡雲谷庵を再興長谷川と雪舟正統を争い,5代目と自称した。代表作に京都大徳寺黄梅院の襖絵など。

雲谷派
うんこくは @@@LINK=雲谷派 雲谷派

雲谷派
うんこくは

安土桃山江戸時代水墨画の一流派
雲谷等顔を始祖とし,雪舟様式を継承。等顔の長男系統は山口に残り,2男の系統は毛利氏の絵師となった。ともに保守的な画派。
運上
うんじょう @@@LINK=運上 運上

運上
うんじょう

江戸時代の雑税の一つ
商・工・・漁・狩猟・運送業などに従事する者に賦課。市場・問屋・諸座・長崎貿易酒造など種類が多く,税率や課税の方法も多様であったが,冥加 (みようが) 金と異なり一定の税率により納入させた。しかし,実際は運上・冥加とも混同して用いられることが多かった。
芸亭
うんてい @@@LINK=芸亭 芸亭

芸亭
うんてい

奈良末期,石上宅嗣 (いそのかみのやかつぐ) がつくったわが国最初の公開図書館
宅嗣が私邸を阿閦 (あしゆく) 寺とし,その一隅に図書を集め,好学の士に閲読させた。
絵合
えあわせ @@@LINK=絵合 絵合

絵合
えあわせ

平安時代に貴族の間で行われた遊戯。物合の一つ
左右2組に分かれ,それぞれ持ち寄った絵をつぎつぎに出し合い,その優劣によって勝負を決した。歌合を伴う場合が多い。『源氏物語』『西宮記』『吾妻鏡』などにその記事がみえる。

えい @@@LINK=永 永


えい

永楽銭
映画
えいが @@@LINK=映画 映画

映画
えいが

動く写真として大衆文化の一翼をになうもの
1889年アメリカのエジソンによって発明され,日本には'96年以降各種機械が輸入され,活動写真の名で行われた。単なるもの珍しさ,娯楽からしだいに芸術性・報道性などに裏付けられた独自性が追求され,製作→配給→興行のルートも確立していった。それとともに「映画」という呼び名が普及し,弁士や楽士を必要としないトーキーの出現によって決定的となった。戦後は,1950年代を中心に日本映画が隆盛となった。しかし,テレビの急速な普及により観客数が減少し,困難な状況が続いている。
栄花物語
えいがものがたり @@@LINK=栄花物語 栄花物語

栄花物語
えいがものがたり

平安後期の歴史物語
『世継物語』ともいう。11世紀の成立。40巻。正編30巻は赤染衛門,続編は出羽の作というが確証はない。宇多天皇から堀河天皇まで約200年の宮中を中心とした貴族社会の歴史を編年体で記述。主題は藤原道長の栄華で批判性に乏しい。史書としては和文編年体の最初で,女房の日記などを資料に使ったらしく,概して正確である。
永享の乱
えいきょうのらん @@@LINK=永享の乱 永享の乱

永享の乱
えいきょうのらん

1438(永享10)年,鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教と対立して起こした事件(〜'39)
持氏は将軍足利義持の死後将軍職を望んだが,義教 (よしのり) が還俗 (げんぞく) して6代将軍になると,幕府と対立,これをいさめる関東管領上杉憲実 (のりざね) とも不和となり争いがおこった。幕府はこれを機に持氏征討を決し,今川・武田・小笠原氏らの大軍を派遣したので,持氏は自殺(1439)。
永小作
えいこさく @@@LINK=永小作 永小作

永小作
えいこさく

小作権の一種
小作人が長期にわたって耕作権を有し,普通小作より小作権が強い。地主は一方的に土地取上げや小作人の改変はできず,小作人は小作権の売買・譲渡・入質ができた。江戸時代,小作人の協力で開墾・補修された耕地に多い。
栄西
えいさい @@@LINK=栄西 栄西
ようさい @@@LINK=栄西 栄西

栄西
えいさい

1141〜1215
鎌倉時代の禅僧。臨済宗の開祖
「ようさい」とも読む。備中(岡山県)の人。初め比叡山で天台宗を修め,1168年・'87年の2度の入宋により臨済禅を学び,'91年帰国後,博多に聖福寺を開いた。のち幕府の帰依をうけ,鎌倉に寿福寺,京都に建仁寺を建立し,『興禅護国論』を著した。旧仏教諸宗の圧迫を避けるため建仁寺は延暦寺の末寺,台密禅の道場とした。また宋より茶種を伝え,『喫茶養生記』を著した。

栄西
ようさい

えいさい
叡山
えいざん @@@LINK=叡山 叡山

叡山
えいざん

延暦寺
永昌記
えいしょうき @@@LINK=永昌記 永昌記

永昌記
えいしょうき

平安後期,藤原(甘露寺)為隆の日記
『宰記』『為隆卿記』ともいう。1105〜29年の記事が断続的に残り,宮中の儀式・行事などが主に記されている。為隆は摂関藤原忠実の側近で,参議従三位に叙せられ,'30年没した。
永銭
えいせん @@@LINK=永銭 永銭

永銭
えいせん

永楽銭
叡尊
えいそん @@@LINK=叡尊 叡尊

叡尊
えいそん

1201〜90
鎌倉時代の律宗の僧
興正菩薩 (こうしようぼさつ) という。大和の人。初め密教を学んだが,戒律の退廃憂い,西大寺を再興して戒律復興に尽くした。また執権北条時頼に招かれ鎌倉に下り,広く公武貴賤に戒を授け律を講じた。戒律によって下層民を救済することが彼の念願であり,非人を救済し,殺生の禁断を勧めるなど社会事業的な活動も行った。

永代売
えいたいうり @@@LINK=永代売 永代売

永代売
えいたいうり

年期を限らず永久に売り渡すこと
古代から人身の永代売は行われていたが,土地の私有化と,中世に入り商品経済の発達につれて土地の永代売が増加荘園領主や封建的支配層は年貢確保のためこれに種々の制限を加えた。
永代売買禁止令
えいたいばいばいきんしれい @@@LINK=永代売買禁止令 永代売買禁止令

永代売買禁止令
えいたいばいばいきんしれい

田畑 (でんぱた) 永代売買禁止令
永高
えいだか @@@LINK=永高 永高

永高
えいだか

永楽銭で算定した年貢の貢納高
年貢の銭納は鎌倉末期より始まり室町時代,特に関東で広まった。永楽銭が輸入流通すると武田・後北条氏などはそれを貢納銭としたので永高と呼ばれるようになった。江戸時代,幕府が永楽銭の使用を禁止したため,公式には石高となったが一部には残った。
永仁の徳政令
えいにんのとくせいれい @@@LINK=永仁の徳政令 永仁の徳政令

永仁の徳政令
えいにんのとくせいれい

1297(永仁5)年,鎌倉幕府が発布した御家人の債権債務の破棄令
その内容は,(1)越訴の禁止,(2)御家人所領の売却・入質の禁止。すでに売却した所領に関しては,買得者が御家人で買得後20か年を過ぎているものは取りもどせないが,買得者が非御家人・凡下 (ぼんげ) の場合は年紀を問わず無償で返却,(3)以後,幕府は御家人を相手にした金銭貸借関係の訴訟はいっさい受理しない,という3カ条よりなる。元寇後貧窮した御家人の救済が目的であったが,かえって経済界の混乱を招き,第(2)条は翌年廃止された。
永平寺
えいへいじ @@@LINK=永平寺 永平寺

永平寺
えいへいじ

福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の大本山
曹洞宗の開祖道元は延暦寺の圧迫を避け,1244年越前の豪族波多野義重を頼ってこの寺を創建。'46年永平寺と称し,1372年には北朝から「日本曹洞第一道場」の勅額をうけた。2度の火災にあったが広壮寺域を誇り,曹洞禅の修行道場としてきびしい宗風を維持する。
永保寺
えいほうじ @@@LINK=永保寺 永保寺

永保寺
えいほうじ

岐阜県多治見市にある臨済宗の寺
1314年夢窓疎石が足利尊氏の本願により観音堂を創建したのが始まり。応仁の乱(1467〜77)以後衰えたが江戸初期に再興。観音堂は禅宗様遺構として,1352年建立の開山堂とともに国宝である。
永楽銭
えいらくせん @@@LINK=永楽銭 永楽銭

永楽銭
えいらくせん

室町時代に最も流通した明の銅銭永楽通宝
永楽・永銭・永ともいう。中国,明の成祖永楽帝の1411年に鋳造が開始され,日明貿易により間もなく伝来し,標準貨幣となり私鋳銭も出た。特に関東諸大名(後北条・武田氏など)に重用され貢納物価の基準となった。江戸時代,幕府により通用が禁止され,寛永通宝の鋳造によりしだいに姿を消した。
ええじゃないか

ええじゃないか

幕末におこった打ちこわしを伴う大衆の乱舞で,直しの性格をもつ民衆運動
1867年8月,名古屋寺社お札 (ふだ) などが降ったという噂にを発し,老若男女が「ええじゃないか」とはやしたてて乱舞し,富商・村役人などの家に押し入った。たちまち京都・大坂・江戸など全国に及び,翌年春まで続いた。討幕志士の策動とも考えられ,これにより民衆のエネルギーがゆがめられた方向に消耗され,その混乱が討幕派に利用された。
江川太郎左衛門
えがわたろうざえもん @@@LINK=江川太郎左衛門 江川太郎左衛門

江川太郎左衛門
えがわたろうざえもん

1801〜55
幕末の西洋流兵学家
名は英龍 (ひでたつ) ,号は坦庵。代々伊豆韮山 (にらやま) の代官で,伊豆・相模などの天領を支配。高島秋帆に砲術を学び,江戸で砲術を教授門下生に佐久間象山・橋本左内・木戸孝允ら多数輩出した。また韮山に反射炉を築造し銃砲を鋳造,品川台場の施工など,海防の充実に尽力した。
駅家
えきか @@@LINK=駅家 駅家

駅家
えきか

律令制下,諸道30里(約16㎞)ごとに置かれた施設
「うまや」とも読む。人馬の継立 (つぎたて) や宿・食糧の供給にあたった。
駅制
えきせい @@@LINK=駅制 駅制

駅制
えきせい

律令制下の交通制度
諸道30里(約16㎞)ごとに駅家を置き,駅馬を配備して官人の公用に供した。には駅戸 (えきこ) が配置され,駅戸から発された駅子 (えきし) が駅馬の飼養と駅田の耕作にあたった。律令制の衰退につれて衰微した。鎌倉時代以後になると宿が発生,江戸時代には街道を中心に宿場町が発達した。
駅逓司
えきていし @@@LINK=駅逓司 駅逓司

駅逓司
えきていし

明治初期に交通・郵便をつかさどった官庁
1868年創設。水陸交通運輸の業務に加えて,'71年駅逓頭前島密 (まえじまひそか) を中心に近代的郵便制度を創始し,駅逓寮と改称。'75年には為替・貯金業務も始める。'77年駅逓局と改称し,'85年逓信省となった。
駅馬
えきば @@@LINK=駅馬 駅馬
はゆま @@@LINK=駅馬 駅馬

駅馬
えきば

律令制下の駅制において,駅家 (えきか) に常置して官吏(駅使)の乗用に用いた馬
「はゆま」ともいう。全国の諸道30里(約16㎞)ごとに駅家をおいて,大路の駅には20頭,中路には10頭,小路には5頭の馬が常置された。駅馬を利用するには駅鈴 (えきれい) を必要とした。

駅馬
はゆま

えきば
易博士
えきはかせ @@@LINK=易博士 易博士

易博士
えきはかせ

6世紀前半,百済 (くだら) から来朝した五経博士の一つ
うち「易経」の教授や,それにもとづく占い職掌とした。
駅鈴
えきれい @@@LINK=駅鈴 駅鈴

駅鈴
えきれい

律令制下の駅制において,官吏公用諸国を往来する際に駅馬利用の資格を示す鈴
中央官庁のほか大宰府・諸国衙にも備えてあり,これによって駅馬を調達した。
会合衆
えごうしゅう @@@LINK=会合衆 会合衆

会合衆
えごうしゅう

室町末期,都市の自治行政を担当した豪商
堺の会合衆は有名で,納屋衆 (なやしゆう) ・十人衆とも呼ばれ,のち36人に増員(月行事3人で12か月輪番か)。合議制による町政を行い,戦火を避けたり,織田信長の課税を拒否したりした。その他伊勢国宇治山田・大湊 (おおみなと) (ともに現伊勢市)などにもあった。
衛士
えじ @@@LINK=衛士 衛士

衛士
えじ

律令制における宮都警備の兵士
諸国軍団の兵士から選ばれ,毎年交替で上京し,衛門府・左右衛士府に属して勤務した。宮門の警備や京中の治安維持などにあたり,年限は1年と定められていたが,実際にはもっと長く,農民の重い負担となって逃亡者も出た。
衛士府
えじふ @@@LINK=衛士府 衛士府

衛士府
えじふ

律令官制の五衛府の一つ
左・右衛士府がある。諸国の軍団から選ばれた衛士 (えじ) によって,宮中の巡検・警護などに従事した。808年衛門府を廃して,左右衛士府に合併したが,811年左右衛士府を左右衛門府と改称
江島其磧
えじまきせき @@@LINK=江島其磧 江島其磧

江島其磧
えじまきせき

1666〜1735
江戸中期の浮世草子作者
京都の餅屋に生まれた。八文字屋自笑と組んで歌舞伎俳優の芸評を始め,『役者口三味線』『傾城色三味線』や気質物 (かたぎもの) と呼ばれる浮世草子の作風を開いた。

絵島事件
えじまじけん @@@LINK=絵島事件 絵島事件

絵島事件
えじまじけん

江戸中期,江戸城大奥の風紀紊乱事件
江島事件」とも書く。1714年,将軍徳川家継の生母月光院に仕えた年寄絵島が大奥に権威をふるい,大奥出入りの商人を利用して風紀を乱し,当時の人気役者生島新五郎との乱行の罪で信濃国高遠に流された事件で,連坐者は1500余人にも及んだ。
懐弉
えじょう @@@LINK=懐弉 懐弉

懐弉
えじょう

1198〜1280
鎌倉中期の曹洞宗の僧
京都の人。道元の弟子となり,永平寺第2世。師道元の法話を録して『正法眼蔵随聞記』を著す。絶えず道元を助け,曹洞宗の普及に努力した。
恵心僧都
えしんそうず @@@LINK=恵心僧都 恵心僧都

恵心僧都
えしんそうず

源信
絵双子
えぞうし @@@LINK=絵双子 絵双子

絵双子
えぞうし

江戸時代に刊行された大衆向きの,絵をとした摺物
絵草紙」とも書く。狭義には時事・社会の事変を説明した触売 (ふれうり) をいう。広義には,草双紙などの絵入り冊子の総称。草双紙は明治時代まで続いた。
蝦夷管領
えぞかんれい @@@LINK=蝦夷管領 蝦夷管領

蝦夷管領
えぞかんれい

鎌倉幕府の職名
蝦夷代官ともいう。執権北条義時のとき,安東(安藤)氏を代官として津軽に置き,奥羽渡島 (おしま) (北海道)の蝦夷 (えぞ) の鎮撫・管轄にあたらせたのがはじめで,代々安東氏が世襲。鎌倉幕府の滅亡とともに断絶した。
蝦夷地
えぞち @@@LINK=蝦夷地 蝦夷地

蝦夷地
えぞち

現在の北海道を中心に,樺太 (からふと) ・千島を含む地の総称
蝦夷 (えぞ) の土地の意。古代には,東北地方をも含めていたが,江戸時代には,主として松前地方を除く北海道をさすようになった。18世紀に入り本土漁民漁場として開発,18世紀末にはロシアの南下があり緊張し,しばしば探検が行われた。北海道の地はもと松前氏の所領であったが,1799年から1807年にかけて幕領に編入され,'21年松前藩領,'55年再び直轄領となる。明治維新後開拓使により開発され,北海道と改称した。
穢多・非人
えた・ひにん @@@LINK=穢多・非人 穢多・非人

穢多・非人
えた・ひにん

江戸時代,士農工商の下位に置かれた賤民階級
穢多は中世以来の隷属民や激しい社会変動で没落した人びとからなり,幕藩体制維持のため,封建的身分制最下層に位置づけられた。非人道的に身分職業住居を固定されて,皮革・死刑執行・斃馬牛の処理にあたらされた。非人は乞食犯罪・心中未遂などの転落者で,遊芸物貰いに従事する人びとであるが,足洗い(旧身分復帰)が認められた。
江田船山古墳
えたふなやまこふん @@@LINK=江田船山古墳 江田船山古墳

江田船山古墳
えたふなやまこふん

熊本県玉名郡菊水町にある前方後円墳
全長62m。後円部の組合せ式家形石棺から,現存最古の銘文を銀象嵌 (ぞうがん) した鉄刀や金製耳飾が出土した。
江田船山古墳出土鉄刀銘
えたふなやまこふんしゅつどてっとうめい @@@LINK=江田船山古墳出土鉄刀銘 江田船山古墳出土鉄刀銘

江田船山古墳出土鉄刀銘
えたふなやまこふんしゅつどてっとうめい

熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から出土した鉄刀に銀象嵌 (ぎんぞうがん) された銘文
5世紀後半に日本で書かれた現存する最古の金石文で,「治天下獲□□(□)鹵大王世……」とあり,大王は雄略天皇に比定されている。➡ 稲荷山古墳出土鉄剣
越後騒動
えちごそうどう @@@LINK=越後騒動 越後騒動

越後騒動
えちごそうどう

江戸前期,越後(新潟県)高田藩におこった御家騒動
1674年藩主松平光長の嫡子綱賢の没後,その継嗣に光長の甥万徳丸と家老小栗美作 (おぐりみまさか) の子掃部 (かもん) を推す両派に分かれ争った。重臣会議の結果万徳丸が継嗣と決定したが,小栗派は万徳丸を乱心者と称し光長を隠居させ反対派に対抗した。'81年将軍徳川綱吉の親裁で両派ともに処罰され,光長は領地没収となった。小栗については,藩主光長を助けて積極的な政治を進めた人物とみる評価もある。光長の家系は,その後美作 (みまさか) (岡山県)津山に再興された。
越後屋
えちごや @@@LINK=越後屋 越後屋

越後屋
えちごや

江戸時代の豪商三井が経営した呉服店
1673年三井高利が江戸日本橋に開店。呉服の切売りと「現金掛値なし」の新商法で発展し,のち両替商を兼営,幕府の金銀御為替御用達をつとめ,屈指の商業資本家に成長した。
江戸
えど @@@LINK=江戸 江戸

江戸
えど

東京都心部の旧地名で,江戸幕府の所在地
古代は現在の皇居付近の地名で武蔵(埼玉県)豊島郡に属す。平安末期に秩父流平氏の一族がこの地方を領有・開発し江戸氏を称した。1457年太田道灌 (どうかん) が築城したのが江戸発展の起源となり,1590年徳川家康の入府後,城下町経営が進められ,以後政治の中心として発展した。1603年家康の将軍宣下と同時に神田・日本橋・京橋など町割りが実施され,町政は町奉行支配下に樽屋・奈良屋・喜多村の3町年寄により自治的に行われた。1635年参勤交代の制度化に伴い諸大名の藩邸が建てられ,武家人口が増加し大消費都市となった。18世紀には武家人口を含め総人口100万人と推定され,ロンドン・パリをこえ世界最大の都市となった。1868年東京と改称され,翌年遷都が行われた。経済上・文化上の中心でもあった。
江藤新平
えとうしんぺい @@@LINK=江藤新平 江藤新平

江藤新平
えとうしんぺい

1834〜74
明治初期の政治家
肥前藩出身。幕末に脱藩し,尊王攘夷運動に参加。明治政府の文部大輔・左院副議長・司法卿などを歴任し,この間司法制度の確立に努力した。参議のとき征韓論に敗れて下野し民撰議院設立建白書に署名。1874年佐賀の乱をおこして刑死した。

江戸開城
えどかいじょう @@@LINK=江戸開城 江戸開城

江戸開城
えどかいじょう

1868(慶応4)年の江戸城明け渡しのこと
戊辰 (ぼしん) 戦争のさ中,東征軍は3月15日を江戸城総攻撃の日と決定したが,山岡鉄舟の奔走,西郷隆盛と勝海舟の会談によって戦争が回避され,4月11日無血開城された。
絵所預
えどころあずかり @@@LINK=絵所預 絵所預

絵所預
えどころあずかり

平安時代宮中の絵所の全体を総轄する職
絵所は宮廷屛風障子などの絵画制作にあたった公的機関。その別当 (べつとう) といわれて五位の蔵人 (くろうど) が任じられ,預はその下にあって,専門の絵師が任命された。鎌倉時代には寺社に,室町・江戸時代には幕府にもそれぞれ絵所が置かれた。
江戸三座
えどさんざ @@@LINK=江戸三座 江戸三座

江戸三座
えどさんざ

江戸時代,江戸の歌舞伎劇場
中村座(初め猿若座)・市村座(初め村山座)・森田座の3座をいう。幕府は歌舞伎取締りのため,1714年以後明治に至るまで,興行権をこの3座のみに制限した。
江戸氏
えどし @@@LINK=江戸氏 江戸氏

江戸氏
えどし

①武蔵の土豪出身の大名
②室町〜江戸時代にかけて常陸 (ひたち) (茨城県)に活躍した氏族
桓武平氏の平良文の孫将常が秩父に住んで秩父氏と称したのに始まり,玄孫重継が江戸に移って江戸氏と称した。その子重長のとき鎌倉殿の御家人となり,室町時代には多摩郡喜多見に移り,後北条氏,ついで徳川氏に仕えた。のち喜多見藩1万石を領したが1689(元禄2)年除封された。
藤原秀郷をとし,通泰が足利尊氏に属して功を立て,常陸那珂郡江戸郷を与えられ,その子通高から江戸氏を称した。15世紀,水戸地方に進出して勢力を築いたが16世紀末佐竹氏に追われ,のち徳川家康に仕えて水戸氏と改称した。
江戸時代
えどじだい @@@LINK=江戸時代 江戸時代

江戸時代
えどじだい

1600年の関ケ原の戦い,または '03年徳川家康の征夷大将軍就任から,1867年の大政奉還までの265(268)年間
徳川時代ともいう。織豊政権の安土桃山時代を加えた近世(後期封建時代)の主要部分にあたり,統一事業が幕藩体制のもとで固定化され,世界に類のない完成された封建社会が現出した。また鎖国で世界情勢から隔絶され,平和の中で独自の歴史的発展をとげ,文化的にも伝統文化を普遍化し,個性的な庶民文化を醸成し,学芸も発達した。産業経済では,稲作を中心とする農業をはじめ漁業・林業・鉱山業など,各部門の生産が高度に発達した。一方,商工業の発展もめざましく,鎖国下で資本蓄積は不十分であったが,貨幣経済の進展が幕藩体制をゆるがす政治上の重大問題となり,封建社会を崩壊に導いた。近代以後の日本の発展に,江戸時代はあらゆる面で大きな影響を与えている。
江戸城
えどじょう @@@LINK=江戸城 江戸城

江戸城
えどじょう

江戸幕府の所在地で徳川氏15代の居城
千代田城ともいう。中世初期以来江戸氏の居館があり,1457年太田道灌 (どうかん) が築城した。以後上杉・後北条氏などを経て1590年徳川家康が入城。大改築を行い,1636年将軍家光のとき完成した。天守閣は明暦の大火(1657)で焼失し,以後再建されていない。1868年無血開城,明治時代以後皇居となる。
江戸幕府
えどばくふ @@@LINK=江戸幕府 江戸幕府

江戸幕府
えどばくふ

徳川家康が江戸に開いた最後の武家政権。1603(慶長8)年家康の征夷大将軍就任から,1867(慶応3)年慶喜の大政奉還に至る265年間存続
徳川幕府ともいう。幕府の機構は3代将軍家光のとき整い,将軍の下に老中が政務総轄,若年寄がこれを補佐した。中央にはさらに寺社・町・勘定の三奉行などがあり,地方には京都所司代・大坂城代・遠国 (おんごく) 奉行・郡代・代官などを配して直轄都市や天領を統治し,原則として譜代大名・旗本から任命した。経済的基礎は天領400万石(旗本給地300万石を含まず)からの貢租が中心で,ほかに直轄鉱山からの金銀収入や冥加・運上などであった。大名領でも幕府の方針に即応した政治が行われた。
江戸繁昌記
えどはんじょうき @@@LINK=江戸繁昌記 江戸繁昌記

江戸繁昌記
えどはんじょうき

江戸末期,寺門静軒(1796〜1868)の著した江戸の地誌
1832〜36年刊。全5編。幕末に流行した「繁昌記」の代表作。天保期(1830〜44)の江戸の繁栄有様記述したもので,退廃期の江戸の風俗文化がうかがえる。'41年天保の改革で風俗を乱すものとして発禁となった。
江戸町会所
えどまちかいしょ @@@LINK=江戸町会所 江戸町会所

江戸町会所
えどまちかいしょ

江戸後期,松平定信が窮民救済のため設けた備荒貯蓄を兼ねた金融機関
寛政の改革の一政策として,1792年江戸浅草向柳原に設置。江戸の窮民に米・銭の交付や土地・家屋を抵当に低利の貸付けを行った。基金町入用節約による積立(七分積金)と幕府の貸付金があてられた。
択捉島
えとろふとう @@@LINK=択捉島 択捉島

択捉島
えとろふとう

千島列島の一つで,列島中最大の島
18世紀末,シベリアを東進してきたロシアから開国・通商要求がおこったので,江戸幕府は1798年近藤重蔵らを千島に送り調査にあたらせた。近藤は択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てて帰った。1854年の日露和親条約では,千島列島を南北に二分し,択捉・得撫 (うるつぷ) 間を日本・ロシアの境界線とした。1875年の樺太・千島交換条約では千島全島が日本領となったが,第二次世界大戦後ヤルタ協定でソ連に引き渡された。日本は国後 (くなしり) 島とともにその領有権を現在ロシアに対して主張している。
榎本其角
えのもときかく @@@LINK=榎本其角 榎本其角

榎本其角
えのもときかく

1661〜1707
江戸中期の俳人。蕉門十哲の一人
別称宝井。江戸の人。服部嵐雪と並ぶ蕉門のとされ,才気に富んだ名句を詠んだ。松尾芭蕉没後は洒落風・江戸風の晦渋 (かいじゆう) なを詠み,蕉風から離脱した。句集に『虚栗 (みなしぐり) 』『五元集』,俳に『雑談集』など。
榎本武揚
えのもとたけあき @@@LINK=榎本武揚 榎本武揚

榎本武揚
えのもとたけあき

1836〜1908
幕末・明治時代の政治家
幕臣出身。オランダ留学後,幕府の海軍奉行となる。戊辰 (ぼしん) 戦争の際,幕府海軍副総裁として艦隊を率いて脱走し,箱館(現函館)の五稜郭に拠って官軍に最後の抵抗を行い,降伏して入獄。のちに許され,駐露公使として1875年樺太・千島交換条約を締結。その後,海軍卿,文部・外務大臣,枢密顧問官などを歴任した。

ABCD包囲陣
エービーシーディーほういじん @@@LINK=ABCD包囲陣 ABCD包囲陣

ABCD包囲陣
エービーシーディーほういじん

1941年,太平洋戦争の直前,アメリカ(America),イギリス(Britain),中国(China),オランダ(Dutch)が形成した対日包囲陣
日本の南進政策に対して,在米日本人の資産凍結・石油の対日禁輸など,軍事的・経済的圧力をかけた。軍部・政府はこの事実をABCD包囲陣の名称で国民に宣伝し,危機感をあおった。
海老名弾正
えびなだんじょう @@@LINK=海老名弾正 海老名弾正

海老名弾正
えびなだんじょう

1856〜1937
明治〜昭和期のキリスト教牧師
筑後(福岡県)の生まれ。熊本洋学校から同志社に移り,新島襄に学ぶ。日本的キリスト教を唱道し,1900年,月刊雑誌『新人』を創刊。'20年同志社大学総長となった。

烏帽子親
えぼしおや @@@LINK=烏帽子親 烏帽子親

烏帽子親
えぼしおや

中世武家社会の風習で,成人に達して元服するとき立てられる仮親
元服親ともいう。元服式で烏帽子をかぶらせ,元服名をつけたりする。主君や有力者に依頼し,以後親子に等しい関係が結ばれる。元服者を烏帽子子 (えぼしこ) という。
絵巻物
えまきもの @@@LINK=絵巻物 絵巻物

絵巻物
えまきもの

物語・伝記寺社縁起などをを主としてかき表し巻物としたもの
奈良時代から室町時代にかけて制作され,おもに大和絵画風で描かれた。詞書と絵の組合せを一段として展開させるのが一般的な形式。およそ120種600巻余が残る。代表作に,奈良時代の『過去現在因果経絵巻』,平安後期の『源氏物語絵巻』『信貴山 (しぎさん) 縁起絵巻』『鳥獣戯画』,鎌倉時代の『平治物語絵巻』『蒙古襲来絵巻』など。
蝦夷
えみし @@@LINK=蝦夷 蝦夷

蝦夷
えみし

古代,東北地方に居住した人びと
古く毛人とも記された。周辺を蔑視する華夷思想に基づく呼び名。大和政権の進出に抵抗したため,大化の改新以前から征討事業が行われた。改新後,磐舟 (いわふね) ・渟足 (ぬたり) の2柵が置かれ,阿倍比羅夫が征討。724年多賀城が築かれ蝦夷経営の中心となり,その後,桃生 (もものう) 城(宮城県)・雄勝城(秋田県)(ともに759年設置),伊治城(767年設置)が築かれた。802年坂上田村麻呂は胆沢 (いさわ) 城(岩手県)を築き,鎮守府をここに移し,蝦夷支配の拠点とした。のち平安時代を経て鎌倉時代に至りしだいに同化していった。「えぞ」の読みは平安末期以降に現れたもの。「えみし」=アイヌ民族とすることはできない。
恵美押勝
えみのおしかつ @@@LINK=恵美押勝 恵美押勝

恵美押勝
えみのおしかつ

藤原仲麻呂
恵美押勝の乱
えみのおしかつのらん @@@LINK=恵美押勝の乱 恵美押勝の乱

恵美押勝の乱
えみのおしかつのらん

藤原仲麻呂の乱
MSA協定
エムエスエーきょうてい @@@LINK=MSA協定 MSA協定

MSA協定
エムエスエーきょうてい

1954年3月,アメリカの相互安全保障法(Mutual Security Act)に基づいて締結された四協定日米相互防衛援助協定
農産物購入協定・経済的措置協定・投資保証協定を総称していう。アメリカは反ソ・反共を目的として,兵器その他の経済援助を与えるが,日本も自衛力の漸増を通じて自由世界の防衛力に寄与することを義務づけられた。
衛門府
えもんふ @@@LINK=衛門府 衛門府

衛門府
えもんふ

律令制下,五衛府の一つ
宮城門の警備にあたったが,808年左右衛士府に合併された。
撰銭
えりぜに @@@LINK=撰銭 撰銭

撰銭
えりぜに

良貨・悪貨を選りわける行為,またそれにより選び出された銭
「せんせん」とも読む。室町時代には,宋・元・明銭と粗悪な私鋳銭が混用され,特に応仁の乱(1467〜77)後は長年の使用や兵火などのため破損も多く,良悪の差がはなはだしかった。そこで商品取引きの際,悪銭を嫌い良銭を選ぶという貨幣の選択(撰銭)が行われ,流通を阻害した。
撰銭令
えりぜにれい @@@LINK=撰銭令 撰銭令

撰銭令
えりぜにれい

室町幕府や有力社寺・戦国大名などから出された撰銭に関する法令
銭貨流通の円滑化をはかったもので,その内容は標準貨幣(中国銭)の設定,選択してよい銭と,いけない銭の種別,良悪貨幣の混用の限度,良貨に対する悪貨の割引通用率などが規定された。江戸時代銅銭が豊富に鋳造・通用するに及んで止んだ。
LT貿易
エルティーぼうえき @@@LINK=LT貿易 LT貿易

LT貿易
エルティーぼうえき

1962年から始められた日中間の準政府間貿易
協定調印者である中国の廖承志 (りょうしょうし) と自民党の高碕達之助の頭文字をとってLT貿易と呼ばれた。
エレキテル

エレキテル

江戸中期,オランダから入ってきた摩擦起電機
オランダ語electriciteitの表現がなまったもの。1776年,平賀源内の製作したエレキテルが有名。
エロア資金
エロアしきん @@@LINK=エロア資金 エロア資金

エロア資金
エロアしきん

Economic Rehabilitation in Occupied Area Fundの略称。第二次世界大戦後,アメリカによる占領地域経済復興資金
陸軍省予算から支出された資金で,エロア資金はガリオア資金の一部として追加されたもの。ガリオアは消費物資を,エロアは経済復興のための工業原料・機械類の提供を目的とする。同援助資金は1952年の対日講和発効後は打ち切られ,'62年返済に関する協定が調印され,4億9000万ドルの債務は,15年均等払い,年利2.5分で返還されることになった。
円伊
えんい @@@LINK=円伊 円伊

円伊
えんい

生没年不詳
鎌倉時代の絵師
『一遍上人絵伝』(京都歓喜光寺本)の筆者として有名。
円覚寺
えんがくじ @@@LINK=円覚寺 円覚寺

円覚寺
えんがくじ

神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の総本山。鎌倉五山の第2位
1282年執権北条時宗が南宋の無学祖元を開山として建立。建長寺と並び代々北条氏の保護をうけ,関東の臨済宗の中心となる。舎利殿は禅宗様建築の代表的遺構として有名。洪鐘その他重要な文化財が多い。
円覚寺舎利殿
えんがくじしゃりでん @@@LINK=円覚寺舎利殿 円覚寺舎利殿

円覚寺舎利殿
えんがくじしゃりでん

鎌倉円覚寺境内にある禅宗様建築遺構
国宝。かつて鎌倉時代の代表的遺構とされていたが,今では室町時代建築であることが明らかになった。しかし,正福寺地蔵堂(東京都東村山市)とともに現存最古の禅宗様の遺構であり,肘木 (ひじき) や扇垂木模様などがよくわかる。
縁起
えんぎ @@@LINK=縁起 縁起

縁起
えんぎ

寺社の創建の由来・功徳などについての伝承や,またそれを書いた書物絵巻物をいう(寺社縁起)。本来は仏教用語で「因縁生起」の略
最古の寺社縁起は奈良時代にみられるが,中世になると増加し,大和絵の代表的作品が多い。寺院の縁起としては『信貴山 (しぎさん) 縁起』『石山寺縁起』など,神社のものに『北野天神縁起』『春日権現験記 (かすがごんげんけんき) 』など。
延喜格式
えんぎきゃくしき @@@LINK=延喜格式 延喜格式

延喜格式
えんぎきゃくしき

平安中期の法令集。三代格式の一つ
醍醐 (だいご) 天皇により編集に着手。延喜格は藤原時平らの編集により907年完成。869〜907年の重要法令を集録した。10巻。延喜式は藤原忠平らの編集により927年完成。967年施行。さきに編集された弘仁・貞観両式を集成し,それ以外の式を追加したもの。のちの貴族政治のよりどころとなった。50巻。律令制度についての重要史料。
延喜通宝
えんぎつうほう @@@LINK=延喜通宝 延喜通宝

延喜通宝
えんぎつうほう

皇朝十二銭の一つ
鋳銭高は3〜4万貫と推定される。907〜957年まで通用
延喜・天暦の治
えんぎ・てんりゃくのち @@@LINK=延喜・天暦の治 延喜・天暦の治

延喜・天暦の治
えんぎ・てんりゃくのち

平安中期,醍醐 (だいご) ・村上両天皇の治世
延喜・天暦はその年号。この時代は班田の励行,荘園の新立禁止,格式国史勅撰和歌集編纂貨幣の鋳造などが行われ,のちに聖代として天皇親政の政治の模範とされた。しかし実際は公地公民制を基盤とする古代国家の崩壊期にあり,国家体制の転換を迫られた時代であった。
延喜の荘園整理令
えんぎのしょうえんせいりれい @@@LINK=延喜の荘園整理令 延喜の荘園整理令

延喜の荘園整理令
えんぎのしょうえんせいりれい

平安中期に出された荘園整理令
902(延喜2)年藤原時平に補佐された醍醐 (だいご) 天皇治世期に発せられた土地公有制維持を目的とする荘園整理令。おもな内容は,897(寛平9)年以後の勅旨田廃止,権力者の山野占有の禁止,租税不納者を制止しない国司処罰などからなる。
延喜の治
えんぎのち @@@LINK=延喜の治 延喜の治

延喜の治
えんぎのち

平安中期,醍醐 (だいご) 天皇の治世。
延久の荘園整理令
えんきゅうのしょうえんせいりれい @@@LINK=延久の荘園整理令 延久の荘園整理令

延久の荘園整理令
えんきゅうのしょうえんせいりれい

平安末期,後三条天皇治世期に出された荘園整理
1069(延久元)年,藤原氏専権の経済基盤である荘園を整理し,その抑制と天皇権力および国家財政の強化をはかったもの。'45(寛徳2)年以降の新立荘園,それ以前でも証拠文書のない荘園で,国務に妨げある荘園を没収した。荘園整理のため記録荘園券契所が設けられた。
延久の宣旨枡
えんきゅうのせんじます @@@LINK=延久の宣旨枡 延久の宣旨枡

延久の宣旨枡
えんきゅうのせんじます

宣旨枡
宴曲
えんきょく @@@LINK=宴曲 宴曲

宴曲
えんきょく

中世に流行した遊宴用の歌曲
早歌 (そうが) ともいう。今様と謡曲との中間的なもので,室町末期,能に押されて滅んだ。作者には明空・月江らがおり,明空撰の『宴曲集』は宴曲の歌集としては最も古い。
縁切寺
えんきりでら @@@LINK=縁切寺 縁切寺

縁切寺
えんきりでら

江戸時代,女性が離婚要求の手段として駆け込みをした場合,離婚を許す特権を持った寺
駆込 (かけこみ) 寺ともいう。鎌倉の東慶寺と上野 (こうずけ) 国(群馬県)世良田の満徳寺が有名。江戸時代,男性は離縁状を与えて一方的に妻を離別できたが,女性は離婚請求を法的に認められていなかったので,これらの寺の存在意義があった。
円空
えんくう @@@LINK=円空 円空

円空
えんくう

1632〜95
江戸前期の禅僧。円空仏の作者
美濃(岐阜県)の人。美濃池尻の弥勒 (みろく) 寺を再興。鉈 (なた) 一丁をたずさえ諸国を巡遊,生涯12万体を目標に各所に一刀彫りの独特の木彫仏を残した。遺作は,確認されるだけで5,000体を数え中部地方を中心に西は近畿,東は東北・北海道に及ぶ。

演劇改良運動
えんげきかいりょううんどう @@@LINK=演劇改良運動 演劇改良運動

演劇改良運動
えんげきかいりょううんどう

明治前期の歌舞伎界の革新運動
1877年前後から改良運動がおこり,9代目市川団十郎を中心に,脚本面では河竹黙阿弥福地源一郎らが協力して運動を進めた。'86年末松謙澄 (けんちよう) らが演劇改良会を設立。上からの改革にとどまり,具体的成果は少なかったが,歌舞伎の社会的地位の向上に役立った。
縁坐
えんざ @@@LINK=縁坐 縁坐

縁坐
えんざ

犯罪人の親族縁者に連帯責任を負わせ罰すること
律令では謀反 (ぼうはん) (天皇国家への危害)の場合,父子は没官,兄弟は遠流。御成敗式目では重罪者の妻の所領は没収など。戦国時代は苛酷だったが,江戸時代には武士と庶民とで区別され,緩和された。近代刑法で全廃
遠州流
えんしゅうりゅう @@@LINK=遠州流 遠州流

遠州流
えんしゅうりゅう

①江戸前期,小堀遠州が始めた茶道の一流派。
②江戸中期,春秋軒一葉を流祖とする華道の流派。
円勝寺
えんしょうじ @@@LINK=円勝寺 円勝寺

円勝寺
えんしょうじ

平安末期,鳥羽天皇の中宮待賢門院璋子の発願により京都市東山区岡崎付近に建てられた六勝寺の一つ。
延勝寺
えんしょうじ @@@LINK=延勝寺 延勝寺

延勝寺
えんしょうじ

平安末期,近衛天皇発願により京都市東山区岡崎付近に建てられた六勝寺の一つ。
袁世凱
えんせいがい @@@LINK=袁世凱 袁世凱

袁世凱
えんせいがい

1859〜1916
清末・中華民国初期の軍閥政治家。中華民国初代大統領
中国河南省の人。1882年の壬午軍乱(第1次京城事件)以来,朝鮮の内政・外交権を掌握し,日清戦争後は北洋軍閥を育成,'98年戊戌 (ぼじゆつ) の政変では変法派を裏切り,西太后の信任を得た。1911年辛亥 (しんがい) 革命では孫文と通じ,清の宣統帝を退位させ,中華民国初代の大総統となった('12)。ついで孫文らの国民党を弾圧し,独裁政治を行った。'15年には日本の二十一カ条要求を受諾。その後,帝政を企てたが失敗し,反日・反袁運動の高まりの中で急死した。

円・銭・厘
えん・せん・りん @@@LINK=円・銭・厘 円・銭・厘

円・銭・厘
えん・せん・りん

明治時代以降の通貨単位
1871年の新貨条例十進法による・銭・厘の単位が定められた。
園太暦
えんたいりゃく @@@LINK=園太暦 園太暦

園太暦
えんたいりゃく

南北朝時代,洞院 (とういん) (藤原)公賢 (きんかた) の日記。『中園太相国 (なかぞのたいしようこく) 暦記』の略称
者公賢は南北朝時代の公卿で中園太政大臣と呼ばれたのでこの名がある。もと1311年より'60年に至る120巻余があったが,現存する完本は1巻のみで,ほかに室町時代に抄録されたものが一部分伝わっている。南北朝時代の重要な政治史料。
エンタシス
entasis @@@LINK=エンタシス エンタシス

エンタシス
entasis

古代ギリシア建築の円柱にみられる胴がふくらんだ様式
下端から全体の高さの3分の1ほどのところが最大径をなす胴ふくらみで,そのために力量感があふれてみえる。日本では法隆寺中門・廻廊などの飛鳥建築にこの様式がみられる。
園地
えんち @@@LINK=園地 園地

園地
えんち

律令制において,口分田のほかに各戸に給付された畑地
地域によって面積は一定せず,果樹・野菜・桑・漆などを栽培した。戸が絶えない限り返却の必要はなく,不輸租地であった。賃租・売買も自由で富豪への土地集中の大きな要因となった。
円珍
えんちん @@@LINK=円珍 円珍

円珍
えんちん

814〜891
平安前期の天台僧。寺門派の祖
諡号 (しごう) は智証大師。讃岐国の生まれで,空海の姪 (めい) の子。比叡山で義真に学び,伝燈大法師となった。853年入唐,長安で密教を修得。多くの経巻を持ち帰り,天台宗義における密教優位を唱えて台密 (たいみつ) の全盛期を築いた。園城 (おんじよう) 寺を復興,第5代天台座主 (ざす) となった。

塩田法
えんでんほう @@@LINK=塩田法 塩田法

塩田法
えんでんほう

塩田を利用して海水から製塩する方法
揚浜 (あげはま) 式・入浜式・流下式などの方法がある。瀬戸内海沿岸では近世初期から入浜式がみられたが,今ではほとんどなくなった。
円筒埴輪
えんとうはにわ @@@LINK=円筒埴輪 円筒埴輪

円筒埴輪
えんとうはにわ

埴輪の一種
土管状の埴輪で,古墳の墳頂部や墳丘を取り巻き,うめこまれた。
円爾
えんに @@@LINK=円爾 円爾

円爾
えんに

1202〜80
鎌倉中期の臨済宗の僧
別名弁円 (べんねん) 。諡号 (しごう) は聖一 (しよういち) 国師。駿河の人。1235年入宋,無準 (ぶじゆん) に師事し,その法を継いで帰朝。博多に崇福 (そうふく) 寺・承天寺を開く。'43年九条道家に招かれ,京都東福寺の開山となり,公武の帰依をうけた。弟子に虎関師錬がいる。
円仁
えんにん @@@LINK=円仁 円仁

円仁
えんにん

794〜864
平安前期の天台僧。第3代天台座主 (ざす)
諡号 (しごう) は慈覚大師。下野 (しもつけ) (栃木県)の人。最澄 (さいちよう) に師事し,838年入唐。密教を学んで帰国し,台密を大成した。山門派の祖とされる。その著『入唐求法巡礼行記 (につとうぐほうじゆんれいこうき) 』は在唐中の日記。

延年
えんねん @@@LINK=延年 延年

延年
えんねん

平安中期から室町時代にかけて寺院で行われた遊宴の余興
田楽 (でんがく) ・猿楽 (さるがく) の影響をうけ,寺院芸能として発生。東大寺・興福寺や延暦寺で大きな法会 (ほうえ) のあとなどに境内で行われ,遊僧という舞専門の僧と稚児 (ちご) が舞い,演技種目も多彩であった。現在,平泉毛越 (もうつ) 寺・広島県厳島神社などに伝承されている。
円墳
えんぷん @@@LINK=円墳 円墳

円墳
えんぷん

墳丘の平面が円形の古墳
古墳時代を通してみられ,数が圧倒的に多く,後期には多数の小型円墳で群集墳を構成した。
塩浦
えんぽ @@@LINK=塩浦 塩浦

塩浦
えんぽ

三浦 (さんぽ) の一つ。中世朝鮮半島の港で,現在の慶尚南道蔚山市。
円本
えんぽん @@@LINK=円本 円本

円本
えんぽん

昭和初年に流行した1冊1円の廉価本
1926年11月,改造社が1円均一の『現代日本文学全集』を刊行したのに始まり,以後出版界に一時円本時代が現出した。文学大衆化の一現象ともいえる。
延暦寺
えんりゃくじ @@@LINK=延暦寺 延暦寺

延暦寺
えんりゃくじ

滋賀県大津市,比叡山にある天台宗総本山
788年最澄 (さいちよう) により比叡山に中堂が創建されたのがこの寺の起源である。805年唐より帰朝した最澄は天台宗を開き,ここに大乗戒壇を設置する運動を始めた。822年彼の死の直後,戒壇が勅許され翌年延暦寺の寺号を賜った。その後,弟子の円証・円仁・円珍らにより寺院の規模は広げられたが,993年,円珍門徒が園城 (おんじよう) 寺へ移ってからのちは,山門派寺門派が対立するようになった。平安後期には,寺領荘園を集積する一方,多くの僧兵をもって勢力絶大となり,南都(興福寺)に対して北嶺と呼ばれた。天台教学の殿堂として,平安・鎌倉時代に輩出する名僧の多くはここに学んだ。1571年織田信長の焼打ちにより破壊されたが,江戸時代に再興された。
延暦寺焼打ち
えんりゃくじやきうち @@@LINK=延暦寺焼打ち 延暦寺焼打ち

延暦寺焼打ち
えんりゃくじやきうち

1571年,織田信長が行った延暦寺焼打ち事件
武田氏と結び,浅井・朝倉両氏の援助をうけ信長に反抗した比叡山延暦寺に対し,信長はその攻略を決意し,1571年10月山麓の坂本から火を放ち,堂塔すべてを焼き払い,僧俗男女3,4千人を殺害した。
御家騒動
おいえそうどう @@@LINK=御家騒動 御家騒動

御家騒動
おいえそうどう

江戸時代,大名の家督相続争いや,家臣らの権力争いなどで家中全体が分立抗争した事件
紛争の原因は,幕藩体制の確立後,藩士たちの関心が藩内の政治問題に向けられたため,個人的利害にからむ藩主の継嗣問題や藩主を無視しての政治財政権の争奪などをその要因としている。元和の生駒騒動,寛永の黒田騒動,寛文の伊達騒動,延宝・天和の越後騒動,寛保・延享の加賀騒動などが有名で,なかでも越後松平,讃岐生駒,播磨池田の諸家は幕府から取りつぶされ,「御家物」として演劇などにもとり上げられている。
御家流
おいえりゅう @@@LINK=御家流 御家流

御家流
おいえりゅう

書道の一流派。青蓮院門跡尊円入道親王を始とし,江戸時代,幕府・大名の公文書に用いられた。
OECD
オーイーシーディー @@@LINK=OECD OECD

OECD
オーイーシーディー

Organization for Economic Cooperation and Development(経済協力開発機構)の称。第二次世界大戦後の国際機構の一つ
1961年,ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)を改組し,アメリカ・カナダを加えて発足。本部はパリで,自由世界の経済成長や貿易拡大のための協力を目的とする。日本は'64年加盟した。
応安新式
おうあんしんしき @@@LINK=応安新式 応安新式

応安新式
おうあんしんしき

南北朝時代の連歌の規則書
『連歌新式』ともいう。1372(応安5)年成立。1巻。鎌倉中期ごろからの本式・新式という規則を,二条良基が集大成したもの。韻字・本歌・用語の度数など細かく定め,後世規範とされた。
奥羽越列藩同盟
おううえつれっぱんどうめい @@@LINK=奥羽越列藩同盟 奥羽越列藩同盟

奥羽越列藩同盟
おううえつれっぱんどうめい

戊辰 (ぼしん) 戦争に際して,東北・北越諸藩の間で結ばれた反政府軍事同盟
仙台藩・米沢藩などが中心になり徳川慶喜 (よしのぶ) の寛大な処分と会津・庄内両藩の赦免を求めたが新政府に拒否されたので,1868年5月,東北・北越の31藩が同盟して新政府に抵抗,9月官軍により平定された。
応永の外寇
おうえいのがいこう @@@LINK=応永の外寇 応永の外寇

応永の外寇
おうえいのがいこう

1419(応永26)年,李氏朝鮮の対馬来襲事件
建国以来倭寇の対策に悩まされつづけてきた朝鮮は,倭寇の本拠を討とうとして,227の兵船,1万7000の大軍をもって対馬に来襲したが,まもなく撤退した。のち使者の相互派遣により誤解もとけ,1423年修好が回復し,以後対馬の宗 (そう) 氏の統制のもとに日朝貿易も復活し,進展した。
応永の乱
おうえいのらん @@@LINK=応永の乱 応永の乱

応永の乱
おうえいのらん

1399(応永6)年,大内義弘が室町幕府に対しておこした反乱
義弘は周防 (すおう) ・長門 (ながと) など6国の守護を兼ね,朝鮮貿易で巨富を得,多くの戦功をたてて強盛を誇り,将軍足利義満と対抗した。1399年鎌倉公方足利満兼と呼応し,領国和泉の堺で兵,義満はみずから征討し,義弘は敗死した。明徳の乱('91)とともに,義満の守護大名抑圧策の一つで,これにより幕府の権力は確立した。
欧化政策
おうかせいさく @@@LINK=欧化政策 欧化政策

欧化政策
おうかせいさく

明治前半期における欧米文物制度移入の政策,特に鹿鳴館時代の欧米模倣の政策
外務卿井上馨条約改正促進のため,風俗習慣を西欧化して日本の開化ぶりを外国に示す必要があると考え,ヨーロッパ風文化の直輸入政策を行った。しかし鹿鳴館での舞踏会に象徴されるように,表面的な模倣にすぎず,民権論者・国権論者からきびしく批判された。
扇谷上杉氏
おうぎがやつうえすぎし @@@LINK=扇谷上杉氏 扇谷上杉氏

扇谷上杉氏
おうぎがやつうえすぎし

室町時代鎌倉府管領職を世襲した上杉氏の一流
室町時代に上杉氏は4流(扇谷・詫間 (たくま) ・犬懸 (いぬがけ) ・山内 (やまのうち) )に分かれたが,そのうち山内家と並び勢威を張った。永享の乱(1438〜39)に際し,持朝 (もちとも) は上杉憲実 (のりざね) (山内家)と結んで鎌倉公方足利持氏を滅ぼし関東の実権を握った。その後,山内家との間で内紛おこり,しだいに衰え,朝定 (ともさだ) の代に河越の戦い(1545〜46)で北条氏康に敗れ,滅亡した。
奥州管領
おうしゅうかんれい @@@LINK=奥州管領 奥州管領

奥州管領
おうしゅうかんれい

奥州探題
奥州総奉行
おうしゅうそうぶぎょう @@@LINK=奥州総奉行 奥州総奉行

奥州総奉行
おうしゅうそうぶぎょう

鎌倉幕府の地方職名
源頼朝は1189年奥州征討直後,奥州の御家人統率と治安維持のために,葛西清重を陸奥御家人奉行に任じ,翌年伊沢家景(のち留守氏と称す)を陸奥国留守職に任じて訴訟関係をつかさどらせた。のち,この両者が奥州総奉行と呼ばれた。1333年鎌倉幕府滅亡とともに廃止。
奥州探題
おうしゅうたんだい @@@LINK=奥州探題 奥州探題

奥州探題
おうしゅうたんだい

室町幕府の地方職名
奥州管領ともいう。南北朝時代,足利尊氏が南朝の北畠氏に対抗するため,石堂義房を派遣し,陸奥の軍事・民政の権限を与えたのに始まる。のち畠山・吉良 (きら) 両氏につづき,斯波 (しば) 家兼・上杉憲英 (のりひで) をこの職に任じたが,家兼は大崎氏を称し,上杉氏を抑えて探題を独占した。1590年豊臣秀吉の奥州征討で廃絶した。
奥州道中
おうしゅうどうちゅう @@@LINK=奥州道中 奥州道中

奥州道中
おうしゅうどうちゅう

江戸時代の五街道の一つ。江戸と奥州間の幹線道路
奥州街道ともいう。江戸と宇都宮間17宿は日光道中と兼ね,白河(福島県)まで通じる。宿駅には種々の異説がある。参勤交代に際してこの街道を通行する大名は仙台・会津・盛岡・弘前など37家で,各宿駅には人馬各25が常備されていた。
奥州藤原氏
おうしゅうふじわらし @@@LINK=奥州藤原氏 奥州藤原氏

奥州藤原氏
おうしゅうふじわらし

平安後期,奥州の豪族
前九年の役(1051〜62)に安倍氏に味方して死した亘理経清 (わたりつねきよ) の子清衡は,母の再嫁した清原氏に養われていたが,後三年の役('83〜87)に源義家と結んで独立し,平泉に館を構えて奥羽両国に勢力をふるった。以後基衡・秀衡の3代に全盛をきわめ,京文化を吸収移植し,中尊寺・毛越 (もうつ) 寺などを残した。秀衡は源平の争乱(治承・寿永の乱)に中立を保ち,源義経を保護して終世変わらなかったが,4代泰衡 (やすひら) は源頼朝の圧迫に屈して義経を討ち,その後,頼朝に滅ぼされた(1189)。
往生極楽院
おうじょうごくらくいん @@@LINK=往生極楽院 往生極楽院

往生極楽院
おうじょうごくらくいん

三千院
往生伝
おうじょうでん @@@LINK=往生伝 往生伝

往生伝
おうじょうでん

浄土に往生した者の伝記を集録した書
平安時代〜江戸時代に多く作られた。中国の往生伝にならって著された慶滋保胤 (よししげのやすたね) の『日本往生極楽記』はその代表的なもの。浄土教の勃興発展にあたり,浄土教信者の同志意識を高めた。
往生要集
おうじょうようしゅう @@@LINK=往生要集 往生要集

往生要集
おうじょうようしゅう

平安中期,源信の著した仏教書
985年成立。3巻10章。極楽往生に関する経文を集め,浄土思想を吹した。その影響はきわめて大きく,浄土教成立の基礎をうちたてた記念的作品。
応神天皇
おうじんてんのう @@@LINK=応神天皇 応神天皇

応神天皇
おうじんてんのう

生没年不詳
仲哀 (ちゆうあい) 天皇第4皇子
母は神功 (じんぐう) 皇后。『宋書』倭国伝にみえる倭の五王の一人,讃 (さん) がこの天皇であるとする説もある。在位は400年前後で大和政権の全盛期で,巨大な陵墓は天皇(大王権力の強大さを示している。その治世には朝鮮から楽浪・帯方遺民の阿直岐 (あちき) ・弓月君 (ゆづきのきみ) ・王仁 (わに) ・阿知使主 (あちのおみ) らが渡来し,養蚕織物灌漑・治水技術,漢字・学問などを伝えたといわれる。
汪精衛
おうせいえい @@@LINK=汪精衛 汪精衛

汪精衛
おうせいえい

汪兆銘
王政復古
おうせいふっこ @@@LINK=王政復古 王政復古

王政復古
おうせいふっこ

1867年,江戸幕府を廃し天皇親政を実現した政変
岩倉具視を中心とした薩長ら討幕派は土佐藩らの前将軍徳川慶喜 (よしのぶ) をも加えた公議政体論を抑え,クーデタを敢行摂関・幕府の廃絶総裁議定参与三職設置,「諸事神武創業のに原 (もとづ) く」ことを宣言する「王政復古の大号令」を発した。これにより皇族公家藩主・有力武士による新政権が誕生した。
横川景三
おうせんけいさん @@@LINK=横川景三 横川景三

横川景三
おうせんけいさん

1429〜93
室町中期の臨済宗の僧。五山文学者
播磨(兵庫県)の人。8代将軍足利義政に招かれ,相国 (しようこく) 寺・南禅寺の住持を歴任。五山文学の正統派として漢詩文に長じ『京華集』7巻を著す。これは義堂周信の『空華日工 (くうげにつく) 集』,虎関師錬の『済北集』などとともに五山文学の代表作とされる。

汪兆銘
おうちょうめい @@@LINK=汪兆銘 汪兆銘

汪兆銘
おうちょうめい

1885〜1944
中華民国の政治家
字 (あざな) は精衛。中国広東省の生まれ。日本に留学中,中国革命同盟会に参加。孫文のもとで革命運動に従事,のち国民党左派として右派蔣介石と対立した。日中戦争中,近衛三原則に呼応し,1938年重慶を脱出,'40年日本と結び南京に傀儡 (かいらい) 政権をつくり「親日反共」を唱えたが,'44年日本で病死した。

王直
おうちょく @@@LINK=王直 王直

王直
おうちょく

?〜1557
室町後期,明の私貿易業者・海賊
初め日中間の私貿易によって巨富を得たが,取締りが強化されると,五島・平戸を根拠地として中国沿海を略奪する倭寇の頭目となった。明朝はこれに苦慮し,謀略をもって帰国させ,謀殺した。

応天門の変
おうてんもんのへん @@@LINK=応天門の変 応天門の変

応天門の変
おうてんもんのへん

平安初期の疑獄事件
866年,平安宮朝堂院の正門応天門が炎上し,大納言伴善男 (とものよしお) が政敵の左大臣源信 (みなもとのまこと) の所為と讒言 (ざんげん) したが,太政大臣藤原良房の工作で信は無実となり,逆に善男の所為とされ,善男父子は遠流,共謀者として紀夏井 (きのなつい) も処罰された。この結果,名族大伴・紀氏が没落し,事件進展中摂政に任ぜられた良房は藤原北家を隆盛に導いた。
応仁の乱
おうにんのらん @@@LINK=応仁の乱 応仁の乱

応仁の乱
おうにんのらん

1467(応仁元)年から'77(文明9)年にかけて,京都を中心に行われた大規模な戦乱
応仁・文明の乱ともいう。8代将軍足利義政の継嗣をめぐる弟義視 (よしみ) と実子義尚 (よしひさ) の争い,それに斯波 (しば) ・畠山両管領家の家督争いがからんで,1467年天下を二分する11年の長期にわたる大乱が勃発した。全国の武士は細川勝元の東軍(斯波義敏・畠山政長)と嘉吉の乱の鎮定に功があった山名持豊(宗全)の西軍(斯波義廉 (よしかど) ・畠山義就 (よしなり) )に分かれて戦い,京都は焦土と化した。その結果,将軍の権威はまったく失われ,幕府体制・荘園制は破壊されていった。また戦乱をのがれて地方に下った公家たちによって,文化の地方伝播がなされた。この乱以後を戦国時代と呼んでいる。
黄檗宗
おうばくしゅう @@@LINK=黄檗宗 黄檗宗

黄檗宗
おうばくしゅう

江戸初期に来日した明僧隠元 (いんげん) 隆琦によってもたらされた禅宗の一派
中国においては臨済の一派であるが,日本に伝えられたのは明朝風の念仏禅で浄土教的要素が強いため,鎌倉時代以来の臨済宗とは区別され独立の宗派となった。隠元は将軍徳川家綱の帰依をうけ,1661年山城国(京都府)宇治に万福寺を開き,寺制・建築・仏具儀式などすべて中国風を用い,仏教界に新風を吹きこんだ。
黄檗版一切経
おうばくばんいっさいきょう @@@LINK=黄檗版一切経 黄檗版一切経

黄檗版一切経
おうばくばんいっさいきょう

江戸前期に出版された『一切
鉄眼版ともいう。黄檗禅僧隠元の弟子鉄眼 (てつげん) が,日本に『一切経』の翻刻がないのを嘆いて開版を企て,各地講説して信者助力を得,1678年完成した。宇治の黄檗山万福寺所蔵。
桜楓図襖絵
おうふうずふすまえ @@@LINK=桜楓図襖絵 桜楓図襖絵

桜楓図襖絵
おうふうずふすまえ

京都智積院 (ちしやくいん) 所蔵安土桃山時代の代表的障壁画
筆者不詳。様式技法の点から長谷川等伯一派の作と考えられる。金地に濃彩をもって描かれ,豪壮特色とする天正様式から,華麗を特色とする慶長様式への移行を示す作品として有名。
近江大津宮
おうみおおつのみや @@@LINK=近江大津宮 近江大津宮

近江大津宮
おうみおおつのみや

大津京
近江猿楽
おうみさるがく @@@LINK=近江猿楽 近江猿楽

近江猿楽
おうみさるがく

中世,近江坂本の日吉 (ひえ) 神社,同多賀の多賀神社に奉仕した猿楽座
大和猿楽がものまね的なのに対し,歌舞本位で幽玄・風情を中心とした。近江各地の猿楽の多くは室町末期に滅び,あるいは大和四座に吸収された。
近江商人
おうみしょうにん @@@LINK=近江商人 近江商人

近江商人
おうみしょうにん

江戸時代,著しく発展した近江出身の商人
伊勢商人と並ぶ商人の典型。全国に定着し,江戸日本橋・大坂本町などに多くの出店を持ち,特産の蚊帳・呉服・畳表・薬などを扱い,のち廻船業・金融方面にも進出,大名貸なども行った。琵琶湖東岸の近江八幡・日野出身者が多い。
近江聖人
おうみせいじん @@@LINK=近江聖人 近江聖人

近江聖人
おうみせいじん

中江藤樹
淡海三船
おうみのみふね @@@LINK=淡海三船 淡海三船

淡海三船
おうみのみふね

722〜785
奈良時代の文人(学者)
大友皇子の曽孫。文章博士・大学頭などを歴任。石上宅嗣 (いそのかみのやかつぐ) とともに当代第一の文人と称された。『懐風藻』の撰者という説もあるが疑わしい。歴代天皇の漢風諡号を撰し,鑑真の伝記『唐大和上東征伝 (とうのだいわじようとうせいでん) 』を著した。『経国集』に漢詩をおさめる。
近江令
おうみりょう @@@LINK=近江令 近江令

近江令
おうみりょう

天智天皇の668年に制定されたとされる令
律はなく令22巻で,藤原鎌足を中心に編纂。現存しておらず内容も不明なところが多い。一説には近江令は存在しなかったとも飛鳥浄御原 (あすかきよみはら) 令と同じだともいわれている。
往来物
おうらいもの @@@LINK=往来物 往来物

往来物
おうらいもの

平安末期から明治初めにかけて広く用いられた初級者用読み・書きの教科書
「往来」の語は書簡を往復する意味から出ており,往復一対の書簡の例文手本として読み方や書き方を学ぶものである。11世紀ころの成立と思われる『明衡 (めいこう) 往来』はこの形式を残しているが,14〜15世紀ころ成立の『庭訓 (ていきん) 往来』は日常生活に必要な知識を教える画期的なもので,長く教科書として用いられた。江戸期に入り寺子屋の普及とともに,7000種にも及ぶ多種多様な往来物が出版され,庶民教育に利用された。
押領使
おうりょうし @@@LINK=押領使 押領使

押領使
おうりょうし

平安時代,諸国暴徒盗賊の追捕にあたった令外官 (りようげのかん)
国司・郡司あるいは武勇にすぐれた地方豪族などが任命された。はじめ臨時に任じられたが,10世紀半ばごろからは1国ごとに常置された。
大海人皇子
おおあまのおうじ @@@LINK=大海人皇子 大海人皇子

大海人皇子
おおあまのおうじ

天武天皇
大井川
おおいがわ @@@LINK=大井川 大井川

大井川
おおいがわ

駿河・遠江 (とおとうみ) の国境(現静岡県)を流れる川
江戸時代,幕府は軍事的見地から架橋・渡船を禁じたため,川越人足の肩や輦台 (れんだい) に乗って渡河。135㎝以上の増水による川留め(最長記録28日)は旅人を困らせ,東海道随一の難所であった。そのため川の両岸に島田・金谷の宿場町が発達し,島田には代官所が設けられた。初めて架橋されたのは1882(明治15)年である。
大堰川
おおいがわ @@@LINK=大堰川 大堰川

大堰川
おおいがわ

京都市西端,嵯峨の嵐山のを流れる川
上流は亀岡盆地を流れる保津川,渡月橋から下流を桂川と呼び,淀で淀川に合流。平安時代貴族は風光をめでて遊びをした。江戸初期,角倉了以 (すみのくらりようい) が保津峡谷を改修し舟運を開いた。
大井憲太郎
おおいけんたろう @@@LINK=大井憲太郎 大井憲太郎

大井憲太郎
おおいけんたろう

1843〜1922
明治・大正時代の政治家・思想家。自由民権運動の指導者の一人
豊前(大分県)出身。蘭学,フランスの政治・経済思想を学ぶ。国会開設の急務を説き,自由党左派の指導者として活躍。1885年大阪事件で入獄し,'89年大赦により出獄すると自由党の再興に努力したが,その後脱党し,'92年東洋自由党,'93年大日本協会を結成。普選運動を提唱し,労農運動にも関心を寄せたが,やがて対外強硬論をも主張した。
大石良雄
おおいしよしお @@@LINK=大石良雄 大石良雄

大石良雄
おおいしよしお

1659〜1703
江戸中期,播磨(兵庫県)赤穂藩の家老。赤穂四十七士の首領
通称内蔵助 (くらのすけ) 。山鹿素行に兵学,伊藤仁斎に古学を学んだ。1702(元禄15)年12月藩主浅野長矩 (ながのり) の仇討のため,吉良義央 (きらよしなか) の邸に討ち入り,翌年切腹を命じられた。

大内家壁書
おおうちけかべがき @@@LINK=大内家壁書 大内家壁書

大内家壁書
おおうちけかべがき

戦国時代,大内氏の分国法
大内氏掟書ともいう。1439〜95年にかけての法令を集めたもの。壁書とは壁やなどに条文を掲げて,公衆に示したことに由来する。教弘(6項),政弘(40項),義興(4項)の3代に出された50項目の法令を収録,他の分国法のように法典としてのまとまりはない。分国統治に関する心得,武士・農民・商人の統制に関するものなど,家臣や城下町山口の取締り規定が多い。守護大名政治・社会を知るうえの好史料。
大内氏
おおうちし @@@LINK=大内氏 大内氏

大内氏
おおうちし

南北朝・室町時代,中国地方西部の守護大名
古くから地方豪族として周防 (すおう) 国大内に住み大内氏を称す。14世紀,弘世は足利氏に従い功により山口を本拠に周防・長門 (ながと) ・石見 (いわみ) の守護,その子義弘は和泉国など3カ国を加えて6カ国の守護となる。応永の乱(1399)で一時勢力が衰えたが,家勢をもり返し,代々明・朝鮮貿易によって巨富を得る。義隆のとき7カ国の守護を兼ね城下町の山口は小京都と呼ばれるほど文化の興隆をみたが,1551年家臣陶晴賢 (すえはるかた) に殺され,のち滅亡した。
大内版
おおうちばん @@@LINK=大内版 大内版

大内版
おおうちばん

室町時代大内氏の領内で出版された書籍の総称
大内氏は代々文芸にを用い,その城下山口には応仁の乱のを避けて京都の公家僧侶などの来住する者が多く,明・朝鮮との貿易により仏典漢籍が多く輸入され,その復刻・出版も盛んに行われた。
大内兵衛
おおうちひょうえ @@@LINK=大内兵衛 大内兵衛

大内兵衛
おおうちひょうえ

1888〜1980
財政学者
兵庫県の生まれ。1919年東大助教授。森戸事件で退官し,ヨーロッパに留学。'23年帰国後,復職し教授となる。労農派の重鎮として活躍したが,日中戦争中の'38年人民戦線事件で検挙され休職。第二次世界大戦後,大学に復帰し,のち法政大総長に就任。東大・法政大名誉教授。

山鹿素行
やまがそこう @@@LINK=山鹿素行 山鹿素行

山鹿素行
やまがそこう

1622〜85
江戸前期の古学派の儒学者・兵学者
陸奥(福島県)会津の人。江戸に出て林羅山に朱子学を,小幡景憲に甲州流兵学を学んだ。儒学の実践性と日本的学問体系を主張,『聖教要録』『山鹿語録』『中朝事実』などを著した。『聖教要録』で朱子を通してでなく古代の聖賢の教えにかえることを主張し,当時の官学たる朱子学を批判したため播磨(兵庫県)赤穂藩へ流された。赤穂藩士に武士道鼓吹。その後許されて江戸に帰り,私塾を開き軍学山鹿流兵学を講じた。

山県有朋
やまがたありとも @@@LINK=山県有朋 山県有朋

山県有朋
やまがたありとも

1838〜1922
明治・大正時代の軍人・政治家
陸軍大将・元帥。長州藩出身。吉田松陰の松下村塾に学び,奇兵隊を率い討幕運動で活躍。明治新政府では,兵部大輔・陸軍卿を歴任し,徴兵令の制定,参謀本部の設置,軍人勅諭発布など陸軍の基礎確立に尽力した。第1次伊藤博文内閣の内相として地方自治制を制定。日清戦争では第1軍司令官,日露戦争では参謀総長となる。この間1889・'98年の2度にわたり内閣を組織し,藩閥・軍閥の巨頭として政党勢力進出を抑制した。伊藤博文の死後は元老として絶大な権力を握った。

山県有朋内閣
やまがたありともないかく @@@LINK=山県有朋内閣 山県有朋内閣

山県有朋内閣
やまがたありともないかく

山県有朋を首班とする内閣
〔第1次〈1889.12〜91.5〉〕 条約改正失敗で倒れた黒田清隆内閣のあと組閣。'90年第1回衆議院議員総選挙を実施,同年教育勅語を発布。第1回帝国議会で予算案をめぐり民党と対立したが,立憲自由党切崩しでこれを乗りきった。〔第2次〈'98.11〜1900.10〉〕隈板内閣のあとをうけ組閣。軍備拡張のための地租増徴,治安警察法・軍部大臣現役武官制の制定,北清事変への派兵などを断行した。伊藤博文の立憲政友会結成により総辞職。
山県大弐
やまがただいに @@@LINK=山県大弐 山県大弐

山県大弐
やまがただいに

1725〜67
江戸中期の尊王論者
甲斐(山梨県)の人。医術のほか儒学も修め,天文・地理・兵学にも通じた。竹内式部の宝暦事件に際し『柳子新論』を著し,「天に二日なく,民に二主なし」と尊王論を説き,幕吏賄賂 (わいろ) を批判。1766年反幕府の陰謀ありという密告により捕らえられ,翌年門人藤井右門とともに死罪に処せられた(明和事件)。

山片蟠桃
やまがたばんとう @@@LINK=山片蟠桃 山片蟠桃

山片蟠桃
やまがたばんとう

1748〜1821
江戸後期の大坂の町人学者
播磨(兵庫県)の人。大坂の両替商升屋(山片氏)につとめ,養子となった。懐徳堂で儒学を中井竹山らに学び,麻田剛立 (ごうりゆう) に天文学を学んだ。蘭学の科学思想の影響のもと,卓抜な経済論や唯物論的無神論を展開した。著書に『夢の代 (ゆめのしろ) 』など。

山川
やまかわ @@@LINK=山川 山川

山川
やまかわ

鹿児島県薩摩半島の南東端,鹿児島湾口に位置する港町
古くは山川津として知られ,室町時代から江戸初期にかけて日明貿易寄港地,南蛮貿易島津氏琉球・南洋貿易の拠点として繁栄。江戸時代以降衰微した。
山川菊栄
やまかわきくえ @@@LINK=山川菊栄 山川菊栄

山川菊栄
やまかわきくえ

1890〜1980
大正・昭和期の女性運動家
東京の生まれ。1921年,女性社会主義団体赤瀾 (せきらん) 会を組織。女性解放運動に尽力し,夫山川均を助けて活躍した。第二次世界大戦後,日本社会党に入り,片山哲内閣の労働省婦人少年局の初代局長を務めた。

山川均
やまかわひとし @@@LINK=山川均 山川均

山川均
やまかわひとし

1880〜1958
明治〜昭和期の社会主義者
岡山県の生まれ。キリスト教から社会主義に転じ,1906年日本社会党に入党,'08年赤旗事件で投獄。出獄後いわゆる「冬の時代」には売文社に入り,マルクス主義の理論家として活動した。'22年日本共産党の創立に参画,『無産階級運動の方向転換』を発表,大衆との結合を主張した山川イズムをつくり,福本イズムと対立した。'28年離党し労農派の指導者として活躍。'37年人民戦線事件で検挙された。第二次世界大戦後,社会党左派の理論的指導者として活躍した。
山口
やまぐち @@@LINK=山口 山口

山口
やまぐち

山口県中央部にある県庁所在地
南北朝時代,大内弘世 (ひろよ) がここに移って以来,大内氏の城下町として発展。応仁の乱(1467〜77)後は戦火を避けた公家僧侶が多く来住し,ザビエルらの宣教師,雪舟らの画僧・文化人が集まり,小京都といわれた。大内氏滅亡後衰えたが,幕末,毛利氏が萩から移り再び政治の中心地となった。1929年市制施行。
山崎闇斎
やまざきあんさい @@@LINK=山崎闇斎 山崎闇斎

山崎闇斎
やまざきあんさい

1618〜82
江戸前期の儒学者。崎門学派の祖
京都の人。初め僧となったが,のち土佐で谷時中に朱子学を学び,還俗 (げんぞく) して儒学者となった。京都で塾を開き,吉川惟足 (これたる) に神道を学んで神儒一致説を説き垂加神道を創唱した。江戸と京都に半年ずつ住み諸大名に教授し,また陸奥(福島県)会津藩主保科正之にも仕えた。門弟は6000人といわれ三宅尚斎・浅見絅斎 (けいさい) らを輩出したが,彼の宗教的傾向は門弟からも批判された。

山崎宗鑑
やまざきそうかん @@@LINK=山崎宗鑑 山崎宗鑑

山崎宗鑑
やまざきそうかん

1465〜1553
室町後期の連歌師。『犬筑波集』の撰者といわれる
近江の人。武士出身。一休宗純に参禅し,宗祇 (そうぎ) ・宗長らと交友があった。滑稽・洒脱な俳諧連歌をおこし近世俳諧への道を開いた。

山崎の戦い
やまざきのたたかい @@@LINK=山崎の戦い 山崎の戦い

山崎の戦い
やまざきのたたかい

1582年,京都府南西方の大山崎町で行われた羽柴豊臣)秀吉と明智光秀との合戦
本能寺の変後,秀吉は毛利輝元と講和して備中高松城から急ぎ帰り,山崎で秀吉軍を迎え討とうとした光秀軍と戦い,これを打ち破った。光秀は敗走の途中,農民に殺された。この勝利で織田信長の部将中,秀吉の地位が一躍向上した。
山路愛山
やまじあいざん @@@LINK=山路愛山 山路愛山

山路愛山
やまじあいざん

1864〜1917
明治・大正時代の評論家・歴史家
幕臣の家に生まれる。初めキリスト教伝道に従事,1892年民友社に入り『国民之友』『国民新聞』に史論・評論を発表し健筆をふるった。1903年『独立評論』を刊行し,国家社会主義を主張した。著書に『現代金権史』『徳川家康』『足利尊氏』など。

山階寺
やましなでら @@@LINK=山階寺 山階寺

山階寺
やましなでら

興福寺の前身
山科言継
やましなときつぐ @@@LINK=山科言継 山科言継

山科言継
やましなときつぐ

1507〜79
戦国・安土桃山時代の公卿
権大納言。後奈良・正親町 (おおぎまち) 両天皇に仕え,皇室経済の維持につとめる。日記『言継卿記』は戦国時代の公家生活を知るのに貴重な史料。

山科本願寺
やましなほんがんじ @@@LINK=山科本願寺 山科本願寺

山科本願寺
やましなほんがんじ

京都市東山区山科にあった浄土真宗の寺
1479年蓮如 (れんによ) が建立し,1532年焼失するまで本願寺派の本寺であった。周囲に堀をめぐらし,城郭的設備をもつ寺内町があった。蓮如はここで没し,実如ののち,証如に至って六角定頼と法華宗徒らによって焼き払われ,石山本願寺に移った。
山城
やまじろ @@@LINK=山城 山城

山城
やまじろ

山地を利用して山頂・山腹に築かれた城
古代の辺境防塞で九州の神籠石 (こうごいし) ・大野城など。中世では,武士戦時の拠点として用い,楠木正成の千早城・赤坂城などが有名。16世紀前期の鉄砲伝来により戦術などが変化し,平城が一般化するとともにほとんど築かれなくなった。
山背大兄王
やましろのおおえのおう @@@LINK=山背大兄王 山背大兄王

山背大兄王
やましろのおおえのおう

?〜643
7世紀前期の皇族
聖徳太子(厩戸皇子)の子。人望があり大王位の最有力者であったが,蘇我蝦夷 (えみし) ・入鹿 (いるか) により,推古天皇および舒明天皇没後の2度にわたり即位を妨げられた。643年古人大兄皇子 (ふるひとのおおえのおうじ) を推す入鹿に攻められ斑鳩 (いかるが) 宮で妻子とともに自害した。

山城国一揆
やましろのくにいっき @@@LINK=山城国一揆 山城国一揆

山城国一揆
やましろのくにいっき

1485年,山城国南部でおこった国人・土民を中心とする一揆(〜'93)
応仁の乱(1467〜77)後も南山城 (みなみやましろ) ・河内などで畠山政長と義就 (よしなり) が対立し,戦闘を続けたため,国人・土民が集会し,両畠山軍の退陣,寺社本所領の還付,新関の廃止などの要求を決議し,両軍を撤退させた。宇治平等院で国中掟法を制定し,三十六人衆の月行事により8年間山城一国の自治支配を行ったが,1493年内部対立のため解した。
山田
やまだ @@@LINK=山田 山田

山田
やまだ

宇治山田
山田顕義
やまだあきよし @@@LINK=山田顕義 山田顕義

山田顕義
やまだあきよし

1844〜92
明治時代の軍人・政治家
長州藩出身。吉田松陰の松下村塾に学び,戊辰 (ぼしん) 戦争・西南戦争に従軍。1883〜92年司法卿・司法大臣をつとめて,近代的法典の完成に貢献した。また,日本法律学校(現日本大学)の設立にも尽力した。

邪馬台国
やまたいこく @@@LINK=邪馬台国 邪馬台国

邪馬台国
やまたいこく

『魏志』倭人伝にみえる3世紀日本の地方国家
30余の小国を統属した倭国の政治的盟主。国の位置については大和説と九州説とがある。女王の卑弥呼 (ひみこ) はシャーマン(巫女)的君主で,伊都国に一大率 (いちだいそつ) を置いて諸国を検察した。大人 (たいじん) と下戸・生口(奴隷)などの身分的秩序があった。239年以来たびたび魏に通交し,魏の明帝から親魏倭王 (しんぎわおう) の称号と金印紫綬などが与えられた。卑弥呼の死後男王が立ったが,再び国中が乱れたため,一族の壱与 (いよ) を立てて女王とし国を平定したという。
山田耕筰
やまだこうさく @@@LINK=山田耕筰 山田耕筰

山田耕筰
やまだこうさく

1886〜1965
大正・昭和期の作曲家・指揮者
東京の生まれ。東京音楽学校卒業後,ベルリンに留学,作曲を学ぶ。帰国後,日本最初の本格的交響楽団を結成。オペラ・交響楽団を育成し,日本の西洋音楽育てのといわれる。1956年文化勲章受章。代表作に『からたちの花』『赤とんぼ』など。

山田長政
やまだながまさ @@@LINK=山田長政 山田長政

山田長政
やまだながまさ

?〜1630
江戸初期の在外日本人
駿河(静岡県)の人。1611年朱印船でシャム(タイ)に渡りアユタヤ日本町の長となった。シャム王室の内紛解決に尽力し,リゴール(六昆)の太守(長官)に任じられた。のち陰謀により毒殺された。

山田美妙
やまだびみょう @@@LINK=山田美妙 山田美妙

山田美妙
やまだびみょう

1868〜1910
明治時代の小説家・詩人
本名は武太郎。美妙斎ともいう。東京の生まれ。尾崎紅葉と親しく,硯友社創立に参画。『我楽多文庫』を編集し,新体詩や小説を発表。言文一致体の先駆者として多大の寄与をなした。代表作に『夏木立』『武蔵野』など。

山田奉行
やまだぶぎょう @@@LINK=山田奉行 山田奉行

山田奉行
やまだぶぎょう

江戸幕府の職名で,伊勢(三重県)山田に置かれた遠国 (おんごく) 奉行
伊勢神宮の警衛と遷宮をつかさどり,鳥羽港の警備や伊勢・志摩両国の訴訟を扱った。定員1名。旗本から任じられ,老中に所属。
山手
やまて @@@LINK=山手 山手

山手
やまて

②江戸時代,小物成の一種
①鎌倉・室町時代,荘園および封建領主が陸路の要地に設けた関所で人や物品に課した関銭。
山野でとれる物に対する税。
③入会 (いりあい) 山の入会料。


大和絵
やまとえ @@@LINK=大和絵 大和絵

大和絵
やまとえ

唐絵に対する語で,日本的絵画の称
中世までは「倭絵」と書いた。平安中期に中国伝来の中国絵画やその模倣画などを唐絵と呼んだのに対し,日本の風物を描いたものを大和絵という。屛風絵を中心に世俗絵画がおもに描かれていた。室町時代以後は土佐派がその中心になりその技法風体が継承され,現代日本画の基礎となっている。
大和五条の変
やまとごじょうのへん @@@LINK=大和五条の変 大和五条の変

大和五条の変
やまとごじょうのへん

天誅組の変
大和三山
やまとさんざん @@@LINK=大和三山 大和三山

大和三山
やまとさんざん

奈良県にある畝傍 (うねび) ・耳成 (みみなし) ・天香久 (あまのかぐ) の3山
高さはいずれも140〜200m,奈良盆地に噴出したトロイデ形式の小山。3山に囲まれた三角形の中心に飛鳥川が流れ,7世紀末期藤原京が造営された。3山は飛鳥地方の象徴とされ,古くから『万葉集』などに歌われた。
大和四座猿楽
やまとしざさるがく @@@LINK=大和四座猿楽 大和四座猿楽

大和四座猿楽
やまとしざさるがく

室町時代,大和春日神社・興福寺所属の猿楽師の集団
外山 (とび) (のちの宝生)座・結崎 (ゆうさき) (のちの観世)座・坂戸(のちの金剛)座・円満井 (えまい) (のちの金春 (こんぱる) )座の4座。春日神社の (たきぎ) 猿楽,興福寺の修二月会などに奉仕した。のち能の中心流派に発展。特に観阿弥・世阿弥父子が出た観世座は,足利将軍家の保護のもとにほかの諸座を圧してその主流となった。
大和政権
やまとせいけん @@@LINK=大和政権 大和政権

大和政権
やまとせいけん

4〜7世紀中ごろにかけて,大和を根拠地とし,大王を盟主とした諸豪族連合によって形成された古代政権
統一以前から大化の改新(645)まで。邪馬台国 (やまたいこく) の位置をどこに求めるかによって,統一の時期がかなり違ってくるが,おそくとも4世紀中ごろまでには東北を除く国土の統一を完成。5世紀には氏姓制の国家組織をととのえ,大化の改新を経て律令国家が形成された。この時代の文化が古墳文化飛鳥文化である。
日本武尊
やまとたけるのみこと @@@LINK=日本武尊 日本武尊

日本武尊
やまとたけるのみこと

記紀にあらわれた伝説上の英雄
『古事記』の表記は「倭建命」。景行天皇の皇子で,名は小碓尊 (おうすのみこと) 。熊襲建 (くまそたける) ・出雲建 (いずもたける) を討ち,さらに東征し,伊勢神宮の天叢雲剣 (あめのむらくものつるぎ) を授けられ蝦夷 (えみし) を征討。帰還の途上,伊吹山の悪神に敗れ,伊勢の能褒野(能煩野) (のぼの) で病死,その霊は白鳥と化し大和に向けて飛び去ったという。大和政権の全国統一を一人の英雄に象徴したと考えられている。
東漢氏
やまとのあやうじ @@@LINK=東漢氏 東漢氏

東漢氏
やまとのあやうじ

古代,阿知使主 (あちのおみ) の子孫と称する渡来人系の有力氏族
倭漢氏」とも書く。大和国高市郡に居住。姓 (かばね) は連 (むらじ) ・忌寸 (いみき) ・宿禰 (すくね) と変わった。5世紀前期の応神天皇のときに渡来し,漢の王室の子孫と称した。文筆をよくし,大和政権の財政事務を担当,織物技術などを伝えた。蘇我氏とは密接な関係をもち,政権内の政争にもしばしば関与した。
大和本草
やまとほんぞう @@@LINK=大和本草 大和本草

大和本草
やまとほんぞう

江戸中期,貝原益軒の本草書
1709年刊。本文16巻,付録2巻,諸品図2巻。日本・海外の産物および諸書からとった動・植・鉱物の1362種につき,水類・火類・金玉土石類・穀類魚類など独自の分類法で名称・起源・形状・生産・異同・効用などを論じた。日本の博物学的本草学は本書により確立したといえよう。
大和物語
やまとものがたり @@@LINK=大和物語 大和物語

大和物語
やまとものがたり

平安中期の物語文学
10世紀ごろ成立。2巻。作者不詳。「伊勢・大和」と並び称せられ,『伊勢物語』とともに作歌道の教養書として尊重された歌物語。和歌を主題とした説話が多く,作者の興味が和歌よりも説話に移っている。
山名氏清
やまなうじきよ @@@LINK=山名氏清 山名氏清

山名氏清
やまなうじきよ

1344?〜91
南北朝時代の武将
時氏の子。3代将軍足利義満に仕え,南朝との戦いに功をたて,和泉・丹波・美作 (みまさか) ・因幡 (いなば) の守護となる。一族で11か 国を領し,「六分一衆(殿)」と呼ばれ強勢を誇ったが,一族の内紛と義満との反目から1391年明徳の乱をおこし敗死した。

山中鹿之助
やまなかしかのすけ @@@LINK=山中鹿之助 山中鹿之助

山中鹿之助
やまなかしかのすけ

?〜1578
戦国末期の武将
本名は幸盛 (ゆきもり) 。尼子氏の。1566年尼子氏が毛利氏に降伏した後も主家の再興に尽力。'77年豊臣秀吉の中国征伐に従い,尼子勝久らと播磨上月城を守ったが毛利軍に敗れて捕らえられ,のち殺された。
山名氏
やまなし @@@LINK=山名氏 山名氏

山名氏
やまなし

室町時代の守護大名。室町幕府の侍所所司で,四職家の一つ
清和源氏の新田氏の一族。南北朝時代,足利氏に属し,時氏は因幡 (いなば) ・伯耆 (ほうき) (ともに鳥取県)の守護となり,一族で11カ国の守護職を有し「六分一衆」といわれた。足利義満挑発によって一族が争った1391年の明徳の乱で氏清らが討たれて,因幡・伯耆・但馬の3国を残すのみとなったが,持豊(宗全)のとき,嘉吉の乱(1441)のによって勢力を回復。応仁の乱(1467〜77)では細川勝元と対立し西軍の主将として活躍したが,乱後急速に没落した。
山名宗全
やまなそうぜん @@@LINK=山名宗全 山名宗全

山名宗全
やまなそうぜん

山名持豊
山名持豊
やまなもちとよ @@@LINK=山名持豊 山名持豊

山名持豊
やまなもちとよ

1404〜73
室町中期の武将
法名宗全。但馬・備後・因幡 (いなば) ・伯耆 (ほうき) の守護。1441年嘉吉の乱で赤松氏を討ち,その功で播磨・石見 (いわみ) を合わせ,一族の教清は美作 (みまさか) ,教之は備前を得て,明徳の乱(1391)で失った勢威を再興した。赤松氏再興のことで細川勝元と対立し,'67年応仁の乱には足利義尚 (よしひさ) を擁立,西軍の総帥となったが,'73年陣中に没した。

山上憶良
やまのうえのおくら @@@LINK=山上憶良 山上憶良

山上憶良
やまのうえのおくら

660〜733
奈良時代の官人・歌人
遣唐使の随員として702年入唐。帰国後筑前守となり,大宰帥 (だざいのそつ) の大伴旅人 (たびと) と交友漢文学にも通じ,その作歌は人生・社会問題を題材とした重厚な作風である。代表作に「貧窮問答歌」など。

山内上杉
やまのうちうえすぎ @@@LINK=山内上杉 山内上杉

山内上杉
やまのうちうえすぎ

室町幕府の鎌倉府関東管領職を世襲した上杉氏の一流
室町時代,上杉氏は4家に分かれたが,そのうち扇谷 (おうぎがやつ) ・山内両家は対立紛争を続け,山内家が有力となる。後北条氏進出に対抗した山内憲政は,敗れて領国越後にのがれ,長尾氏を頼った。
山内豊信
やまのうちとよしげ @@@LINK=山内豊信 山内豊信
やまうちとよしげ @@@LINK=山内豊信 山内豊信

山内豊信
やまのうちとよしげ

1827〜72
幕末の土佐藩主
号は容堂。1848年襲封。吉田東洋らを起用して藩政改革を行う。将軍継嗣問題では一橋派に属し,安政の大獄により謹慎を命じられ,のち隠居。'62年の幕政改革で参与となり,公武合体につとめた。'67年家臣後藤象二郎の意見を入れ,徳川慶喜 (よしのぶ) に大政奉還を建白して実現させ,公議政体論による徳川氏中心の列侯会議を主唱したが小御所会議で討幕派に押しきられた。のち王政復古で議定となった。

山内豊信
やまうちとよしげ

やまのうちとよしげ
山伏
やまぶし @@@LINK=山伏 山伏

山伏
やまぶし

修験道に基づき,山岳で修行する者
修験 (しゆげん) 者ともいい,「山臥」とも書く。修行によって験力を得,それによって加持祈禱を行う。奈良時代の役小角 (えんのおづぬ) を始祖と伝える。中世には熊野を中心とする天台系山伏(本山派)と,吉野を中心とする真言系山伏(当山派)とがあった。
山部赤人
やまべのあかひと @@@LINK=山部赤人 山部赤人

山部赤人
やまべのあかひと

生没年不詳
奈良時代の万葉歌人
伝記不詳。聖武天皇のころ,下級官吏として行幸に従い作歌したことが『万葉集』にみえる。「山柿 (さんし) 」として柿本人麻呂と並び称される(「山」には山上憶良 (やまのうえのおくら) 説もある)。清澄・繊細な歌風で叙景歌が特にすぐれ,自然観照の極致ともいわれる。
山法師
やまほうし @@@LINK=山法師 山法師

山法師
やまほうし

平安時代,比叡山延暦寺の僧兵
僧兵は平安中期,寺領荘園貴族武士侵略から守るために発生したが,多くは私度僧で無頼も多く,延暦寺の僧兵はしばしば日吉 (ひえ) 神社の神輿 (しんよ) を奉じて入京,強訴した。白河法皇は,賀茂川の水やさいころを使う賭博とならんで,山法師を意にかなわないものと嘆いたといわれる。
山村才助
やまむらさいすけ @@@LINK=山村才助 山村才助

山村才助
やまむらさいすけ

1770〜1807
江戸後期の蘭学者
名は昌永 (まさなが) 。常陸 (ひたち) (茨城県)土浦藩士。世界地理を研究。著書に『訂正増訳采覧異言』『魯西亜 (ロシア) 国志』など。
山室軍平
やまむろぐんぺい @@@LINK=山室軍平 山室軍平

山室軍平
やまむろぐんぺい

1872〜1940
明治〜昭和期の宗教家。日本救世軍の創立者
岡山県の生まれ。印刷工出身。同志社で苦学して神学を学ぶ。救世軍に入って,その建設拡大に終生努力し,東洋最初の救世軍司令官になる。貧民伝道・社会事業に活躍した。

山本権兵衛
やまもとごんのひょうえ @@@LINK=山本権兵衛 山本権兵衛

山本権兵衛
やまもとごんのひょうえ

1852〜1933
明治・大正時代の軍人・政治家
海軍大将。薩摩藩出身。1898年第2次山県有朋内閣の海相となり,以後第4次伊藤博文・第1次桂太郎両内閣にも留任し,薩閥海軍の巨頭としての地位を占めた。1913年大正政変で組閣。文官任用令・軍部大臣現役武官制を改正したが,翌年シーメンス事件で辞職。'23年再び組閣し関東大震災後の処理にあたったが,同年12月虎の門事件で引責辞職した。

山本宣治
やまもとせんじ @@@LINK=山本宣治 山本宣治

山本宣治
やまもとせんじ

1889〜1929
大正・昭和初期の社会運動家・生物学者
京都府の生まれ。アメリカで苦学し,帰国後東大を卒業,同志社大・京大講師となる。1922年サンガー夫人来日を機に産児制限運動を行い,これを通じ無産運動に入り,「山宣」の称で知られた。'28年最初の普通選挙に労働農民党から出馬し当選。翌'29年治安維持法の改悪に激しく反対し,右翼の暴徒に刺殺された。著書に『恋愛革命』『性教育』など。

山本有三
やまもとゆうぞう @@@LINK=山本有三 山本有三

山本有三
やまもとゆうぞう

1887〜1974
大正・昭和期の劇作家・小説家
本名は勇造。栃木県の生まれ。東大独文科卒。在学中,芥川竜之介らと第3次『新思潮』を創刊した。初め戯曲家として認められ,のち小説『波』『真実一路』『路傍の石』『女の一生』などを発表。第二次世界大戦後,国語研究所創設に尽力,また参議院議員として,国語問題に貢献した。1965年文化勲章受章。

山脇東洋
やまわきとうよう @@@LINK=山脇東洋 山脇東洋

山脇東洋
やまわきとうよう

1705〜62
江戸中期の医者
丹波(京都府)の人。後藤艮山 (こんざん) について古医方 (こいほう) を学び,1754年刑死人の解剖を見て,従来の説の誤りの多いことを発見,東洋の死体解部実見は前野良沢杉田玄白のそれより18年早く,日本最初の解剖記録である『蔵志 (ぞうし) 』(2巻)を著した。

弥生土器
やよいどき @@@LINK=弥生土器 弥生土器

弥生土器
やよいどき

弥生時代に使用された素焼きの土器
1884年東京の本郷弥生町ではじめて発見されたのでこう命名された。貯蔵用の壺や煮炊き用の甕 (かめ) ,食物を盛る高坏と鉢などが多い。縄文土器よりはやや高温で焼かれ,うす手で紅褐色に酸化したものが多い。文様は幾何学文様か無文様。
弥生文化
やよいぶんか @@@LINK=弥生文化 弥生文化

弥生文化
やよいぶんか

水稲耕作と金属器の使用に特徴づけられる文化
縄文文化に続き,ほぼ前3・2世紀から後3世紀にわたるとされ,一般に前・中・後期の3期に区分される。金属器には祭器化した青銅器と鍬先などに使用された鉄器とがあった。後期には鉄器が一般化し石器を駆逐したため,石製利器は少なくなった。低湿地に水田を経営するため竪穴住居は低地に進出し,静岡市の登呂などのように大集落,ひいては小国も形成され,支配階級も発生した。
屋良朝苗
やらちょうびょう @@@LINK=屋良朝苗 屋良朝苗

屋良朝苗
やらちょうびょう

1902〜97
教育者・政治家で,復帰後最初の沖縄県知事
沖縄県出身。広島高等師範学校卒業後,教鞭をとり,戦後は沖縄で高校校長を務めた。1960年沖縄県祖国復帰協議会会長となり,'68年初の琉球政府主席公選に当選。'72年,革新統一候補として圧勝し,本土復帰後最初の沖縄県知事となった。

槍鉋
やりがんな @@@LINK=槍鉋 槍鉋

槍鉋
やりがんな

古代〜中世の木工具
やりの穂先の形をした刃で,ちょうな(一種のおの)で荒けずりした木材の平面を平らに仕上げる。江戸時代に台鉋ができるまで使用された。
ヤルタ会談
ヤルタかいだん @@@LINK=ヤルタ会談 ヤルタ会談

ヤルタ会談
ヤルタかいだん

1945年2月,連合国首脳が第二次世界大戦後の処理方針を決定した会談
ドイツ敗戦を目前にし,ローズヴェルト・チャーチル・スターリンのアメリカ・イギリス・ソ連3首脳がクリム(クリミア)半島ヤルタで会談。ドイツの分割占領,国際連合の設置,秘密協定として千島・樺太の領有を条件とするソ連の対日参戦などを決定した。
野郎歌舞伎
やろうかぶき @@@LINK=野郎歌舞伎 野郎歌舞伎

野郎歌舞伎
やろうかぶき

江戸前期,若衆歌舞伎から代わった歌舞伎
1652年若衆歌舞伎が禁止されたが,嘆願により,前髪を切った野郎頭(成人の髪型)を条件に翌年許可された。以後元禄(1688〜1704)の隆盛までの約30年間を一般に野郎歌舞伎の時代という。役者の容色中心から演技本位となり,また女形 (おやま) も発生した。
ヤン=ヨーステン
Jan Joosten @@@LINK=ヤン=ヨーステン ヤン=ヨーステン

ヤン=ヨーステン
Jan Joosten

?〜1623
江戸初期に来日したオランダの航海士で,徳川家康外交顧問
日本名耶楊子 (やようす) 。オランダ船リーフデ号に乗り組み,1600年豊後(大分県)に漂着同乗のイギリス人ウィリアム=アダムズとともに徳川家康に厚遇され,外交に参画した。朱印船貿易に活躍したが,'23年乗船が難破して死んだ。東京都中央区八重洲地名は,彼の居住地にちなんだもの。

ゆい @@@LINK=結 結


ゆい

農・漁村において,各戸間の相互扶助を目的とする無償労働
短期間に多くの労働力を要する農業労働(田植え・稲刈など)や屋根葺などのとき,漁村では網曳きなどのとき行われ,「由比」などの地名を残している。古くからの民俗で,日雇労働の発達にともなって衰退した。
唯一神道
ゆいいつしんとう @@@LINK=唯一神道 唯一神道

唯一神道
ゆいいつしんとう

室町時代吉田兼倶 (かねとも) により創始された神道
吉田神道ともいう。本地垂迹 (すいじやく) 説や両部神道を排し,神こそ本地で仏を垂迹とする立場で,唯一なるものこそすなわち神であるという。伊勢神道の影響をうけている。その後吉田家は神職大半配下置き,江戸時代には全国に勢力をはった。
唯円
ゆいえん @@@LINK=唯円 唯円

唯円
ゆいえん

生没年不詳
鎌倉中期の浄土真宗の僧
常陸 (ひたち) (茨城県)の人。親鸞の直弟子として門徒中でも重んじられた。親鸞の法語を集めた『歎異抄』を著し,師の真意を伝えた。
由井正雪
ゆいしょうせつ @@@LINK=由井正雪 由井正雪

由井正雪
ゆいしょうせつ

?〜1651
江戸前期の兵学者。慶安事件の首謀者
駿河(静岡県)の人。江戸で旗本・牢人らに軍学を講じた。1651年,3代将軍徳川家光の死を契機に牢人丸橋忠弥らと幕府転覆をはかったが,事前に発覚し,駿府の宿屋で包囲され自殺した。

由井正雪の乱
ゆいしょうせつのらん @@@LINK=由井正雪の乱 由井正雪の乱

由井正雪の乱
ゆいしょうせつのらん

慶安事件
唯美派
ゆいびは @@@LINK=唯美派 唯美派

唯美派
ゆいびは

耽美 (たんび) 派
維摩経義疏
ゆいまきょうぎしょ @@@LINK=維摩経義疏 維摩経義疏

維摩経義疏
ゆいまきょうぎしょ

『維摩経』の注釈書。三経義疏の一つ。
由阿
ゆうあ @@@LINK=由阿 由阿

由阿
ゆうあ

1291〜1379?
鎌倉後期の時宗の僧
仙覚の影響をうけ,『万葉集』を研究。二条良基の招きにより上京し,『万葉集』を講じた。『拾遺采葉抄』『青葉丹花抄』を著し,『万葉集』の枕詞・地名などを注釈した。
友愛会
ゆうあいかい @@@LINK=友愛会 友愛会

友愛会
ゆうあいかい

大正時代最初の全国的労働組合組織(1912〜21)
1912年8月,鈴木文治の指導のもとに15人で出発。初めはキリスト教的人道主義に基づく修養的な組織であったが,第一次世界大戦の進展に伴う労働運動の高まりとともに労働組合化し,闘争的傾向を強め全国的組織に成長。'18年3万人余の会員を擁し,'19年大日本労働総同盟友愛会と改称,'21年日本労働総同盟に発展した。
結城合戦
ゆうきかっせん @@@LINK=結城合戦 結城合戦

結城合戦
ゆうきかっせん

1440〜41年,永享の乱(1438〜39)で敗死した鎌倉公方足利持氏の2子を擁立して結城氏朝が幕府軍と戦った合戦
氏朝は敗死し,遺子安王丸・春王丸は捕らえられ,京都へ送られる途中斬られた。
結城家法度
ゆうきけはっと @@@LINK=結城家法度 結城家法度

結城家法度
ゆうきけはっと

戦国時代,結城氏の分国法
結城氏新法度ともいう。下総国結城(茨城県結城市)の領主結城政勝が1556年制定。現存のものは106条,質量ともに伊達氏塵芥集(170条)につぐ代表的なもの。刑事・民事関係の訴訟裁判手続き,強力な家臣団統制の規定,貸借・商取引の規定を含むが,特に商人・下人などについての人身規定が目だつのが特色である。
結城氏
ゆうきし @@@LINK=結城氏 結城氏

結城氏
ゆうきし

中世,下総国の豪族
藤原秀郷5世の孫頼行が祖。朝光のとき源頼朝に従って旧領下総結城地方(茨城県西部)を安堵され,結城氏を称す。鎌倉幕府の有力御家人。南北朝時代は一族の間で南北両朝に分かれて対立した。室町時代,一時衰えたが,やがて再興し,16世紀中ごろ,政勝は結城家法度を制定,最盛時を現出した。その子晴朝 (はるとも) に後嗣がなく徳川家康の子秀康を養子とした。秀康は1600年越前北庄に移り,松平と改称(越前家)し,結城家は秀康の4男直基が継いだ。
結崎座
ゆうさきざ @@@LINK=結崎座 結崎座

結崎座
ゆうさきざ

観世座の前身。大和四座の一つ。
有司専制
ゆうしせんせい @@@LINK=有司専制 有司専制

有司専制
ゆうしせんせい

明治初期,自由民権派が藩閥専制政府を非難した呼び名
「有司」とは官僚のこと。維新政府は公議輿論を標榜しながら実体薩摩・長州・土佐・肥前4藩出身者による藩閥専制政府であることを民権派は攻撃した。
融通念仏
ゆうずうねんぶつ @@@LINK=融通念仏 融通念仏

融通念仏
ゆうずうねんぶつ

平安末期,天台僧良忍によって始められた念仏
自己の念仏と他人の念仏が融通しあって,一人の念仏が万人を往生させると説く。室町時代法明良尊江戸時代大通融観が出て隆盛し,朝廷幕府にも帰依者が多く出た。
友禅
ゆうぜん @@@LINK=友禅 友禅

友禅
ゆうぜん

宮崎友禅
友禅染
ゆうぜんぞめ @@@LINK=友禅染 友禅染

友禅染
ゆうぜんぞめ

江戸中期,宮崎友禅によって始められた染物様式
絹織物業の発達に伴っておこった唐染・茶屋染などの技法の上に大成。豊富な彩色と自由濶達な構図を持つ手描きのものを手描友禅というが,明治期になり型紙を用いて捺染 (なつせん) する型友禅も行われるようになり,量産も可能になった。京友禅・加賀友禅が有名。
有職故実
ゆうそくこじつ @@@LINK=有職故実 有職故実

有職故実
ゆうそくこじつ

貴族・武家の儀礼行事上の法式
有職は貴族,故実は武家についていわれる言葉とされる場合もある。有職は,平安時代,生活・儀式が固定化するにつれ,過去の礼式を踏襲する風が強まり,知識・学問として整理体系化された。『西宮記』『江家次第』が著され,のちの典拠となった。武家は貴族の礼式に準じながら武家独自の様式が定められ,室町時代以降盛んとなり,伊勢・小笠原氏が専門の家とされた。特に江戸中期に出た伊勢貞丈 (さだたけ) は有名。
猶存社
ゆうぞんしゃ @@@LINK=猶存社 猶存社

猶存社
ゆうぞんしゃ

大正後期の国粋主義団体(1919〜23)
北一輝が1919年に結成。大川周明・西田税 (みつぎ) らが加わり,革新右翼源流となる。日本帝国の改造とアジア民族の解放を唱えた。'23年に解散。一部は行地社を結成した。
雄藩
ゆうはん @@@LINK=雄藩 雄藩

雄藩
ゆうはん

幕末,政局に大きな発言権をもった藩
薩摩・長州・肥前・土佐・宇和島などの西南地方の外様藩や,水戸・越前などの親藩をさす。
郵便制度
ゆうびんせいど @@@LINK=郵便制度 郵便制度

郵便制度
ゆうびんせいど

近代的通信事業の一部門
江戸時代の飛脚制度にかえて,明治維新後,駅逓頭前島密が全国的な通信手段を建議し,駅逓司もとに1871年官営郵便事業を東京・大阪間で開始した。'72年全国に拡大し,'73年全国均一料金制による全国郵便網を確立。'77年万国郵便連合加盟,'85年逓信省が設置され郵便・電信事業などを轄した。
郵便報知新聞
ゆうびんほうちしんぶん @@@LINK=郵便報知新聞 郵便報知新聞

郵便報知新聞
ゆうびんほうちしんぶん

明治時代日刊新聞
駅逓頭前島密の企画で1872年刊行。'74年以来自由民権派の政論新聞となり,'82年社長矢野竜溪により立憲改進党機関紙となったが,政府から弾圧され,'94年『報知新聞』と改め内容を通俗化した。1942年『読売新聞』に合併され,戦後,読売系スポーツ芸能紙として紙名を残す。
遊里
ゆうり @@@LINK=遊里 遊里

遊里
ゆうり

遊女屋が集団で営業を許された一定区画の地域
遊廓傾城 (けいせい) 町・悪所ともいう。江戸初期に江戸の吉原大坂新町,京都の島原などに,それまで市内に散在していた遊女屋を統合したことに始まる。武士町人の社交場ともなり,太夫 (たゆう) のような高級遊女も出現した。江戸文学の舞台や題材になることが多い。明治以降も公認されたが,戦後の1957年売春防止法の施行により消滅した。
雄略天皇
ゆうりゃくてんのう @@@LINK=雄略天皇 雄略天皇

雄略天皇
ゆうりゃくてんのう

生没年不詳
5世紀後期の天皇
允恭 (いんぎよう) 天皇の皇子。名は大泊瀬幼武尊 (おおはつせわかたけのみこと) 。『宋書』倭国伝にみえる倭の五王の「武」に比定されている。478年倭王武の宋の順帝への上表文は有名。『万葉集』第1番の国見の歌は,雄略天皇の作とされる。
湯川秀樹
ゆかわひでき @@@LINK=湯川秀樹 湯川秀樹

湯川秀樹
ゆかわひでき

1907〜81
昭和期の理論物理学者
東京の生まれ。京大理学部卒。京大・阪大講師を経て1939年京大教授となり,'48年以後,コロンビア大学客員教授などを歴任。'35年理論づけた原子核内の中間子の存在が,のちアメリカの物理学者アンダーソンの実験によって証明され,'43年文化勲章,'49年には日本人として最初のノーベル賞を受賞した。また平和運動にも積極的で,世界平和七人委員会の委員をつとめた。

遊行宗
ゆぎょうしゅう @@@LINK=遊行宗 遊行宗

遊行宗
ゆぎょうしゅう

時宗
遊行上人
ゆぎょうしょうにん @@@LINK=遊行上人 遊行上人

遊行上人
ゆぎょうしょうにん

一遍
輸地子田
ゆじしでん @@@LINK=輸地子田 輸地子田

輸地子田
ゆじしでん

律令制下,国家に地子を納める田地。➡ 賃租 (ちんそ)
湯島聖堂
ゆしませいどう @@@LINK=湯島聖堂 湯島聖堂

湯島聖堂
ゆしませいどう

江戸中期,幕府が江戸湯島に建てた孔子廟 (びよう)
1632年林羅山が上野忍ケ岡に建てた孔子廟を,'90年5代将軍徳川綱吉が湯島に移し,大成殿と称した。これに林家の私塾が付属していたが,寛政改革の異学ので官立の昌平坂学問所となり,聖堂・学問所ともに林家が世襲経営した。現在文京区湯島に残る聖堂の建物は関東大震災後に再建されたもの。
輸租田
ゆそでん @@@LINK=輸租田 輸租田

輸租田
ゆそでん

律令制において,国家に田租を納めることを義務づけられた田地
口分田・位田・功田・郡司職田・墾田などが輸租田。位田・功田・墾田などは所有者が有力な貴族寺社であったため,その地位を利用して不輸租の特権を得るものが多く,不輸租田が増加。このため律令制の衰退に伴って輸租田は急速に減少した。
弓月君
ゆづきのきみ @@@LINK=弓月君 弓月君

弓月君
ゆづきのきみ

4〜5世紀,応神天皇朝に来日したと伝えられる百済 (くだら) の渡来人
秦氏 (はたうじ) の始祖という。漢氏 (あやうじ) と並ぶ有力な渡来系氏族。『新撰姓氏録』では秦の始皇帝の子孫といい,応神天皇のとき127県(『日本書紀』では120県)のを率いて来日。養蚕機織財務にすぐれ,大和政権に仕え各地の秦部を統率した。
UNESCO
ユネスコ @@@LINK=UNESCO UNESCO

UNESCO
ユネスコ

United Nations Educational, Scientific and Cultural Organ ization(国際連合教育科学文化機関)の略称
1946年設立。国際連合の一機関で,国連憲章に基づき,教育・科学・文化を通じて諸国間の協力を促進し,戦争防止・平和と安全保障に寄与することを目的とする。本部はパリ。加盟国は186か国〈1999年現在〉。日本は1951年加盟した。
夢違観音
ゆめちがいかんのん @@@LINK=夢違観音 夢違観音

夢違観音
ゆめちがいかんのん

奈良の法隆寺にある白鳳時代の金銅像
悪夢をみたとき,この観音に祈ると善夢にかえてくれるという。直立し,飛鳥時代古拙 (こせつ) な微笑アルカイック‐スマイル)の名残があるが,薄いや三面宝冠はこの像が白鳳時代の作であることを物語る。
夢の代
ゆめのしろ @@@LINK=夢の代 夢の代

夢の代
ゆめのしろ

江戸後期,大坂町人山片蟠桃 (ばんとう) の著書
失明した蟠桃が子芳達らに口述筆記させ1820年完成。12巻。地理的・社会的分業や商業活動の必要など実生活に基づいた合理主義精神に貫かれた卓抜な論や,人間の力以上のものはないという無神論などを展開した。
由利公正
ゆりきみまさ @@@LINK=由利公正 由利公正

由利公正
ゆりきみまさ

1829〜1909
幕末・明治時代の政治家
子爵。旧姓三岡八郎。越前藩出身。横井小楠に学び殖産興業の重要性を唱道,国産会所をおこして藩の財政立て直しに尽力した。1867年明治新政府の参与となり,五箇条の誓文を起草し,太政官札の発行など政府財政を担当,'71年東京府知事となる。'74年民撰議院設立建白書に連名。のち元老院議官・貴族院議員を歴任した。

夜明け前
よあけまえ @@@LINK=夜明け前 夜明け前

夜明け前
よあけまえ

昭和初期,島崎藤村の長編小説
1929〜35年,『中央公論』に連載。

よう @@@LINK=庸 庸


よう

律令制下,公民に課された負担の一つ
歳役10日にかえて布を納めた。
徭役
ようえき @@@LINK=徭役 徭役

徭役
ようえき

律令制下の公民に課せられた労役
歳役 (さいえき) ・雑徭 (ぞうよう) をさす。歳役は京に出て1年10日の労役をいい,ふつう布で代納した。雑徭は国司の管理下に国衙 (こくが) で1年60日を限度とする労役をいう。
洋学
ようがく @@@LINK=洋学 洋学

洋学
ようがく

江戸後期の日本で紹介・研究された西洋学術の総称蘭学のほかロシア語・フランス語・ドイツ語・英語による学問を加える
西洋学術への関心は18世紀初め新井白石・徳川吉宗に現れ,特に医師の中にオランダ医学に注目する者が現れた。18世紀後半,『解体新書』の訳出からオランダ語修得の気運が高まり,大槻玄沢・稲村三伯らが入門書・辞典を著してから普及した。医学紹介に始まり,ついで自然科学一般に拡大,蘭学塾も現れ,蘭学者は相互に協力しつつ活動した。幕府は19世紀初め蕃書和解御用を新設,蘭学者を登用し知識を吸収する一方,範囲を実用の学に限り,政治批判などは弾圧し統制した(林子平・シーボルト・蛮社の獄など)。幕末の内外情勢緊迫で統制は強化され,蘭学は兵術・砲術など海防・軍制改革に重点が移動した。諸藩でも田沼時代から蘭学を保護する大名があり,藩校にも採用し,殖産興業ついで軍備強化をめざした。ロシア語学習は18世紀末に萌芽があるが(大黒屋光太夫),開国前後から範囲が拡大し,特に英語を介しての英学が発展した。そして幕府の開成所においても,自然科学偏重から脱し,経済・法律・歴史・哲学などが訳出・研究され,明治期の新知識吸収の基礎をなした。
幼学綱要
ようがくこうよう @@@LINK=幼学綱要 幼学綱要

幼学綱要
ようがくこうよう

明治前期,元田永孚 (ながざね) が編集した修身書
1879年,明治天皇は国民教化策を示し,年少者のための道徳書編集を元田に命じた。儒教の徳目の中から,忠・孝・仁・義など20項目を選び解説し,教育勅語の基礎となった。'82年全国各学校に頒布された。
洋学所
ようがくしょ @@@LINK=洋学所 洋学所

洋学所
ようがくしょ

幕末,幕府の洋学研究所
1855年,天文方の蕃書和解御用を独立させ洋学所と改称し,江戸九段坂下に開設。洋書翻訳と洋学教授を行った。翌年蕃書調所と改め,のちさらに洋書調所開成所と改称した。
謡曲
ようきょく @@@LINK=謡曲 謡曲

謡曲
ようきょく

能の詞章をいう
その詞章を節付けして謡うことを素謡 (すうたい) というが,本来は舞台にかけ囃子方・大小鼓など)の伴奏によって歌舞するための台本。その構成は序・破・急の順序に従って進行し,文章は和漢の故事伝説を素材にとり和歌漢詩文を引用し,華麗沈痛ながある。文学的価値も高い。脇能物・修羅物・鬘物・現在物・切能物の5種があり,現行曲は240番余。主要作者には観阿弥・世阿弥・金春禅竹らがいる。
養賢堂
ようけんどう @@@LINK=養賢堂 養賢堂

養賢堂
ようけんどう

江戸時代,仙台藩の藩校
1736年,藩主伊達吉村が創設。'72年養賢堂と命名した。代表的藩校の一つ。
栄西
えいさい @@@LINK=栄西 栄西
ようさい @@@LINK=栄西 栄西

栄西
えいさい

1141〜1215
鎌倉時代の禅僧。臨済宗の開祖
「ようさい」とも読む。備中(岡山県)の人。初め比叡山で天台宗を修め,1168年・'87年の2度の入宋により臨済禅を学び,'91年帰国後,博多に聖福寺を開いた。のち幕府の帰依をうけ,鎌倉に寿福寺,京都に建仁寺を建立し,『興禅護国論』を著した。旧仏教諸宗の圧迫を避けるため建仁寺は延暦寺の末寺,台密禅の道場とした。また宋より茶種を伝え,『喫茶養生記』を著した。

栄西
ようさい

えいさい
養生訓
ようじょうくん @@@LINK=養生訓 養生訓

養生訓
ようじょうくん

江戸中期,貝原益軒の医学的教訓書
1713年成立。8巻。内容は飲食・飲酒・飲茶・煙草・慎色慾・用薬・養老・育幼などに分かれ,平易な文章生業に励むことと健康保持法を具体的に説いたもので,広く流布し愛読された。
洋書調所
ようしょしらべしょ @@@LINK=洋書調所 洋書調所

洋書調所
ようしょしらべしょ

幕末,幕府の洋学研究所
1862年蕃所調所を改称。'63年江戸城一橋門外に移転し,洋学の教授,洋書の翻訳を行った。同年開成所と改称した。
洋書輸入の禁緩和
ようしょゆにゅうのきんかんわ @@@LINK=洋書輸入の禁緩和 洋書輸入の禁緩和

洋書輸入の禁緩和
ようしょゆにゅうのきんかんわ

江戸中期,享保の改革一環として8代将軍徳川吉宗が実施した洋学奨励政策
1720年,吉宗は漢訳洋書の輸入制限をゆるめ,キリスト教に直接関係のない漢訳洋書の輸入を認めた。
煬帝
ようだい @@@LINK=煬帝 煬帝

煬帝
ようだい

569〜618
中国,隋の第2代皇帝(在位604〜618)
父文帝を殺して即位したという。黄河〜長江間の大運河の建設,長城の修復などの大事業を行ったが,612〜614年に高句麗遠征を強行したため,各地で反乱がおこり,江都で暗殺された。遣隋使を派遣したときの皇帝として著名。
遙任
ようにん @@@LINK=遙任 遙任

遙任
ようにん

奈良・平安時代,国司が在京のまま任国に赴任せず,目代 (もくだい) を派遣し,収入のみを得ること
平安中期以後盛んとなり,国衙 (こくが) は国司の私領のようになり,地方政治の乱れる原因となった。この場合,国衙は留守所と呼ばれ,実際に政務をとる役人在庁官人といった。
陽明学派
ようめいがくは @@@LINK=陽明学派 陽明学派

陽明学派
ようめいがくは

江戸時代の儒学の一派。中国明代の王陽明によって創唱された学説を継承する
王陽明の学説は朱子学の理気説・主知主義を批判して知行合一,心の理と物の理を同一視し,先天的に心に内在する良知が実現されるとき正しい道徳行為が行われる(致良知)とするもの。江戸初期,中江藤樹が初めて信奉,わが国陽明学のとなった。ついで熊沢蕃山・淵岡山 (ふちこうざん) が出たが幕府の弾圧をうけ衰えた。後期〜幕末には佐藤一斎・大塩平八郎・佐久間象山・吉田松陰らが出,実践活動としての政治批判が行われた。
用明天皇
ようめいてんのう @@@LINK=用明天皇 用明天皇

用明天皇
ようめいてんのう

?〜587
6世紀後期の天皇(在位585〜587)
欽明天皇の皇子。母は蘇我稲目の娘堅塩媛 (きたしひめ) 。聖徳太子の父。仏教公伝以降蘇我馬子と物部守屋が対立していたが,天皇は仏教に帰依し,馬子に接近した。

養老律令
ようろうりつりょう @@@LINK=養老律令 養老律令

養老律令
ようろうりつりょう

718(養老2)年に制定された律令政治の基本法
律・令各10巻。藤原不比等 (ふひと) らが大宝律令を修正編纂したものであるが,内容は大差ない。757年不比等の孫藤原仲麻呂により施行された。以後国家の基本法として,形式的には明治維新にまで及んだが,実質は平安中期に失われた。律はほとんど散逸したが,令は大部分現存する。
翼賛政治会
よくさんせいじかい @@@LINK=翼賛政治会 翼賛政治会

翼賛政治会
よくさんせいじかい

太平洋戦争中の1942年,東条英機内閣のもとに結成された政治結社(〜'45)
東条内閣は,1942年4月の総選挙に,翼賛政治体制協議会をつくって候補者推薦制による翼賛選挙を実施。選挙後の5月,阿部信行を総裁とする翼賛政治会を結成させ,他の政治団体をすべて禁止した。'45年3月大日本政治会に改組
翼賛選挙
よくさんせんきょ @@@LINK=翼賛選挙 翼賛選挙

翼賛選挙
よくさんせんきょ

1942年4月30日,東条英機内閣による第21回衆議院議員総選挙をいう。
横穴
よこあな @@@LINK=横穴 横穴

横穴
よこあな

古墳時代の墓室の一種
山腹などに横穴を掘りくぼめて墓室を造ったもので,玄室と羨道 (せんどう) をもつことは横穴式石室と同じ。玄室には石棺棺台を掘り残したり,家屋の内部に模したものがある。古墳時代後期に盛んで一般に群集することが多い。埼玉県東松山市の吉見百穴は有名。
横穴式石室
よこあなしきせきしつ @@@LINK=横穴式石室 横穴式石室

横穴式石室
よこあなしきせきしつ

古墳時代後期の石室の一形式
朝鮮を経由して伝えられた大陸系統の墓室の形式で,遺体を安置する玄室と羨道 (せんどう) とをもつ。九州地方には,石室の壁面を彩色や線刻で文様を描いた装飾古墳が発達した。
横井小楠
よこいしょうなん @@@LINK=横井小楠 横井小楠

横井小楠
よこいしょうなん

1809〜69
幕末・維新期の政治家
通称平四郎。熊本藩士。儒学・洋学を修め海外情勢に明るく,熊本実学党を結成した。1858年越前藩主松平慶永 (よしなが) の政治顧問となり,殖産興業・開国貿易の必要を説き富国強兵をめざす藩政改革を指導。'62年慶永が幕府の政事総裁職につくと公武合体運動に活躍,翌年失脚した。のち明治政府の徴士・参与となったが開明的識見のゆえに保守派に暗殺された。

横井也有
よこいやゆう @@@LINK=横井也有 横井也有

横井也有
よこいやゆう

1702〜83
江戸中期の俳人
通称孫右衛門。名は時般 (ときつら) 。永言斎・知雨亭 (ちうてい) などの別号がある。尾張(愛知県)藩士の出身。俳諧は各務支考 (かがみしこう) に私淑した。多才で詩歌・書画にも巧みで,特に俳文にすぐれ,『鶉衣 (うずらごろも) 』は有名。ほかに句集『蘿葉 (らよう) 集』『垤 (ありづか) 集』,俳論『管見草 (くだみそう) 』など。

横須賀造船所
よこすかぞうせんじょ @@@LINK=横須賀造船所 横須賀造船所

横須賀造船所
よこすかぞうせんじょ

明治政府の官営軍需工場
旧幕府の横須賀製鉄所を明治政府が没収し,1871年横須賀造船所と改称。翌'72年海軍省所管となり,'78年フランス式よりイギリス式建艦方式にきりかえ,1903年横須賀海軍工廠と改称,日本の艦船建造の中心となった。
横浜
よこはま @@@LINK=横浜 横浜

横浜
よこはま

神奈川県の県庁所在地
通商条約で神奈川の開港が定められたが,幕府は横浜を開港場とした。そのため幕末まで一漁村であったこの地が,以後貿易港として発展した。1889年市制を施行。現在,日本最大の国際貿易港。
横浜正金銀行
よこはましょうきんぎんこう @@@LINK=横浜正金銀行 横浜正金銀行

横浜正金銀行
よこはましょうきんぎんこう

明治〜戦前昭和期の貿易金融機関
1880年貿易振興のため政府が3分の1を出資して設立。'87年横浜正金銀行条例により特殊銀行となり,貿易金融に活躍した。1905年以降は満州の中枢的金融機関となり,昭和期に入ると外国為替統制機関ともなった。第二次世界大戦後,GHQ解体を命じられ,'46年普通銀行である東京銀行に改組した。'96年三菱銀行と合併東京三菱銀行となる。
横浜毎日新聞
よこはままいにちしんぶん @@@LINK=横浜毎日新聞 横浜毎日新聞

横浜毎日新聞
よこはままいにちしんぶん

1870年に創刊された日本最初の日刊新聞
本木昌造の発明した鉛活字を用い,舶来紙に印刷文明開化・自由民権を唱道した。'79年東京に移して『東京横浜毎日新聞』と改称立憲改進党の機関紙とみられた。'86年『毎日新聞』,1906年『東京毎日新聞』と改称。のち衰微し'40年廃刊。
横光利一
よこみつりいち @@@LINK=横光利一 横光利一

横光利一
よこみつりいち

1898〜1947
大正・昭和期の小説家
福島県の生まれ。早大中退。菊池寛に師事し,1923年『日輪』で地位確立。翌年川端康成らと『文芸時代』を創刊し,新感覚派の中心として活躍。晩年は東洋的精神主義に傾斜し,「近代超克」を構想した。代表作に『機械』『紋章』『旅愁』など。

横山源之助
よこやまげんのすけ @@@LINK=横山源之助 横山源之助

横山源之助
よこやまげんのすけ

1871〜1915
明治時代のジャーナリスト・社会問題研究家
富山県の生まれ。法学勉強中,二葉亭四迷らの影響で,社会問題に関心をもつ。毎日新聞社に入社し,各地の工場労働者の状態の視察記を掲載,1899年『日本之下層社会』として刊行した。この書の中で平民主義を主張し,その実現のために教育の普及に期待をかけている。

横山大観
よこやまたいかん @@@LINK=横山大観 横山大観

横山大観
よこやまたいかん

1868〜1958
明治〜昭和期の日本画家
本名は秀麿。茨城県の生まれ。東京美術学校第1回卒業生で,のち同校助教授となる。1898年校長岡倉天心らとともに辞職,日本美術院創立に参加した。日本画革新運動の主要メンバーの一人として活躍し,天心死後,日本美術院を再興,在野の院展を率いた。1937年第1回文化勲章受章。代表作に『生々流転』『屈原』など。

与謝野晶子
よさのあきこ @@@LINK=与謝野晶子 与謝野晶子

与謝野晶子
よさのあきこ

1878〜1942
明治〜昭和期のロマン派歌人
旧姓鳳 (ほう) 。大阪府の生まれ。1901年歌集『みだれ髪』を刊行。奔放華麗な歌風で,夫鉄幹とともに明星派を指導した。

与謝野鉄幹
よさのてっかん @@@LINK=与謝野鉄幹 与謝野鉄幹

与謝野鉄幹
よさのてっかん

1873〜1935
明治〜昭和期の歌人・詩人
本名は寛 (ひろし) 。京都府の生まれ。落合直文 (なおぶみ) 門下。1899年東京新詩社を結成し,翌年『明星』を創刊して和歌革新を提唱。妻晶子とともに明星派のロマン主義の歌風を確立した。

与謝蕪村
よさぶそん @@@LINK=与謝蕪村 与謝蕪村

与謝蕪村
よさぶそん

1716〜83
江戸中期の俳人・文人画家
本姓谷口,画号謝寅 (しやいん) 。摂津(大阪府)東成郡の富農の出身。江戸で早野巴人 (はじん) に俳諧を学び,また書・画・漢詩をおさめ,のち京都に定住。文人画の大家として池大雅と並称され,合作の『十便十宜図』は有名。また蕉風俳諧を信奉して,絵画的・ロマン的な句で俳諧を中興した。著書に句集『蕪村七部集』など。また『奥の細道図屛風』など俳画の確立者でもある。

芳川顕正
よしかわあきまさ @@@LINK=芳川顕正 芳川顕正

芳川顕正
よしかわあきまさ

1841〜1920
明治・大正時代の官僚政治家
阿波(徳島県)の生まれ。伊藤博文の知遇を得て,官界に入り,のち山県有朋 (ありとも) の腹心部下となった。東京府知事を経て文部・司法・内務・逓信の各大臣を歴任した。

吉川英治
よしかわえいじ @@@LINK=吉川英治 吉川英治

吉川英治
よしかわえいじ

1892〜1962
大正・昭和期の大衆文学作家
本名は英次 (ひでつぐ) 。神奈川県の生まれ。小学校を中退して苦難の生活を送るかたわら,大衆雑誌の懸賞小説に応募した。1926年の『鳴門秘帖』で作家としての地位を確立,以後多くの作品で大衆文壇の第一人者となる。1960年文化勲章受章。代表作に『宮本武蔵』『親鸞』『新・平家物語』『三国志』など。

吉川惟足
よしかわこれたる @@@LINK=吉川惟足 吉川惟足

吉川惟足
よしかわこれたる

1616〜94
江戸前期の神道家。吉川神道の創始者
姓は「きっかわ」,名は「これたり」とも読む。江戸の人。唯一神道(吉田神道)を学び,仏教的要素を取り除き,宋学理論を神道説にとり入れた。上層武士層に重んじられ,幕府神道方に任じられた。

吉川神道
よしかわしんとう @@@LINK=吉川神道 吉川神道

吉川神道
よしかわしんとう

江戸前期,吉川惟足 (これたる) が唱えた神道説。儒家神道の一つ
唯一神道の仏教的色彩を排し,宋学の哲学的体系をとり入れた新しい神道説。君臣秩序を重んじることを強調した。そのため上級武士層に重んじられ,幕藩体制成立期の一つの精神的支柱となった。この思想山崎闇斎垂加神道の成立の基盤となった。
吉胡貝塚
よしごかいづか @@@LINK=吉胡貝塚 吉胡貝塚

吉胡貝塚
よしごかいづか

愛知県渥美郡田原町吉胡にある縄文時代後・晩期の貝塚
340体以上の人骨が発見され,抜歯に関する多くの資料を提供した。人骨は貝層下の土層や貝層に穴をうがって埋葬されていた。
吉崎
よしざき @@@LINK=吉崎 吉崎

吉崎
よしざき

福井県坂井郡金津町の一地区で,室町中期,越前の吉崎道場(御坊)の寺内町
1471年蓮如 (れんによ) がこの地に布教所(御坊)を設けて北陸門徒の拠点としたが,蓮如の退去後衰えた。
吉崎道場
よしざきどうじょう @@@LINK=吉崎道場 吉崎道場

吉崎道場
よしざきどうじょう

福井県坂井郡金津町吉崎にあった浄土真宗。蓮如 (れんによ) により開かれた。
芳沢あやめ
よしざわあやめ @@@LINK=芳沢あやめ 芳沢あやめ

芳沢あやめ
よしざわあやめ

初代)1673〜1729
江戸中期の歌舞伎俳優。名女方
屋号は橘屋。元禄期(1688〜1704)に若女形 (わかおやま) となり,傾城 (けいせい) 事を得意とした。1717年,当時の俳優最高位「三ケ津惣芸頭 (がしら) 」に初めてなった。語録『あやめ草』はその芸談で,元禄期上方歌舞伎界を知るのに貴重な史料
慶滋保胤
よししげのやすたね @@@LINK=慶滋保胤 慶滋保胤

慶滋保胤
よししげのやすたね

931〜1002
平安中期の文人貴族
陰陽道・天文・暦学の家である賀茂氏の出。家学を好まず改氏。菅原文時に師事し,文筆で名をあげ,のち源信と交流,比叡山横川 (よかわ) で出家した。著書に『日本往生極楽記』『池亭記』など。

吉田兼倶
よしだかねとも @@@LINK=吉田兼倶 吉田兼倶

吉田兼倶
よしだかねとも

1435〜1511
室町時代の神道家。唯一神道(吉田神道)の大成者
本姓は卜部 (うらべ) 。反本地垂迹の立場で,儒教・仏教・道教の教理をとり入れた。朝廷・幕府にとり入り勢力を拡大し,吉田神社に斎場を建て全国の神社を支配,神位・神職の位階を授ける権限を獲得した。

吉田兼好
よしだけんこう @@@LINK=吉田兼好 吉田兼好

吉田兼好
よしだけんこう

1283〜1350?
鎌倉末期・南北朝時代の随筆家・歌人
兼好法師ともいう。俗名卜部兼良 (うらべかねよし) 。京都吉田神社の神官の子。北面の武士であったが出家し,晩年京都双岡 (ならびのおか) に住む。二条派の頓阿 (とんあ) と親しく,和歌四天王の一人に数えられた。歌は人事を詠んだものが多い。『徒然草 (つれづれぐさ) 』の作者として有名。
吉田定房
よしださだふさ @@@LINK=吉田定房 吉田定房

吉田定房
よしださだふさ

1274〜1338
鎌倉末期・南北朝時代の公家
後醍醐 (ごだいご) 天皇の信任厚く内大臣となる。討幕の不可を上奏し,元弘の討幕計画を幕府に密告したが,建武の新政に再び重用された。南北朝対立後,一時北朝にとどまったが,のち吉野の南朝に仕えた。

吉田茂
よしだしげる @@@LINK=吉田茂 吉田茂

吉田茂
よしだしげる

1878〜1967
大正・昭和期の外交官・政治家
東京の生まれ。土佐自由党の竹内綱の5男。東大卒業後,外務省に入り,奉天総領事・外務次官・駐英大使などを歴任。太平洋戦争中,親英米派として軍部と対立。敗戦後,東久邇宮稔彦・幣原 (しではら) 喜重郎両内閣の外相となる。1946年鳩山一郎の公職追放後,あとをうけ日本自由党総裁に就任し,第1次吉田内閣を組閣し,日本国憲法を制定した。片山芦田内閣を経て,'48年首相に復帰,以後7年余にわたり政権を担当。この間サンフランシスコ平和条約を締結した。

吉田茂内閣
よしだしげるないかく @@@LINK=吉田茂内閣 吉田茂内閣

吉田茂内閣
よしだしげるないかく

第二次世界大戦後,5次にわたる吉田茂を首班とする日本自由党・民主自由党の内閣
〔第1次〈1946.5〜47.5〉〕鳩山一郎日本自由党総裁が公職追放にあい,吉田内閣が成立。日本国憲法制定,第2次農地改革令を発布二・一ゼネストはGHQの指令で回避したが,総選挙で敗れ総辞職した。〔第2次〈‘48.10〜49.2〉〕芦田均内閣が昭和電工疑獄で倒れたあと組閣。少数内閣であったが,'49年2月の総選挙で民主自由党は絶対多数を獲得。〔第3次〈‘49.2〜52.10〉〕'50年レッド‐パージ,警察予備隊創設,'51年サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約を締結した。〔第4・5次〈‘52.10〜54.12〉〕いわゆる「バカヤロー解散」後,第5次内閣を組閣。'54年3月MSA協定調印,自衛隊創設。6年間,親米政策を主とし労働運動を弾圧。造船疑獄の発覚により国民の支持を失い,党内も分裂して,鳩山内閣が成立した。
吉田松陰
よしだしょういん @@@LINK=吉田松陰 吉田松陰

吉田松陰
よしだしょういん

1830〜59
幕末の思想家・尊攘派志士
長州藩士。山鹿流兵学の家学を継いだが,のち江戸で佐久間象山に師事。1854年ペリー再来のとき金子重之助と海外密航を企て失敗し,萩で下獄。出獄後自宅内に松下村塾を開き,門下から高杉晋作 (しんさく) ・久坂玄瑞 (げんずい) ・木戸孝允 (たかよし) ・伊藤博文・山県有朋 (ありとも) らの俊才を生む。安政の大獄により江戸伝馬町の牢で刑死した。

吉田神道
よしだしんとう @@@LINK=吉田神道 吉田神道

吉田神道
よしだしんとう

唯一神道
吉田東洋
よしだとうよう @@@LINK=吉田東洋 吉田東洋

吉田東洋
よしだとうよう

1816〜62
幕末の土佐藩士
通称元吉。藩主山内豊信に起用されて藩政改革に従事。その開明的・親幕府的態度が,保守・尊攘両派の反発をかい,のち暗殺された。

吉田光由
よしだみつよし @@@LINK=吉田光由 吉田光由

吉田光由
よしだみつよし

1598〜1672
江戸前期の和算家
京都の豪商角倉 (すみのくら) 氏の一族。毛利重能 (しげよし) ・角倉素庵らに数学を学んだ。中国の『算法統宗』を翻案して『塵劫 (じんごう) 記』を著し,和算の発展をうながした。門人横川玄悦らがいる。その他の著書に『古暦便覧』『和漢編年合運図』など。

義経千本桜
よしつねせんぼんざくら @@@LINK=義経千本桜 義経千本桜

義経千本桜
よしつねせんぼんざくら

江戸中期,竹田出雲・三好松洛 (しようらく) ・並木千柳合作による時代物浄瑠璃
1747年,大坂竹本座で初演。5段。義経伝説に取材。歌舞伎でも同年初演され,現在に至る。
吉野
よしの @@@LINK=吉野 吉野

吉野
よしの

奈良県吉野郡の山岳地帯
壬申の乱(672)直前,大海人 (おおあま) 皇子が隠退したところ。のち離宮ができ,芳野監を置き国に準じたが,大和国の一郡となる。平安初期,ここに金峰山 (きんぷせん) が開かれ修験道の本拠地となる。南北朝時代,元弘の(1331〜33)で護良 (もりよし) 親王はこの山に吉野城を築いて挙兵。'36年後醍醐 (ごだいご) 天皇が京都から遷幸し,のち後村上・長慶・後亀山天皇がここに行宮 (あんぐう) (御所)を定め南朝の本拠地となった('48年以降賀名生 (あのう) 行宮に移る)。
吉野ケ里遺跡
よしのがりいせき @@@LINK=吉野ケ里遺跡 吉野ケ里遺跡

吉野ケ里遺跡
よしのがりいせき

佐賀県神埼 (かんざき) 郡神崎町・三田川町にある日本最大の弥生時代の環濠遺跡
1986年以来発掘調査されている。弥生時代前期・中期の環濠は南北約200m,東西約120〜140mと推定され,環濠内に集落が形成された。環濠外に青銅器生産跡・墳丘墓・甕棺 (かめかん) 墓などがあり,それらを囲む総延長2.5km以上の外濠が丘陵裾部に作られ,約40haの外郭を形成している。弥生時代後期には濠をめぐらす内郭が2か所新たに作られ,それぞれ濠が張り出して望楼(物見櫓)が建っていた。外濠の西には多数の高床倉庫があり,稲などの収穫物を貯蔵していたと考えられる。'97年に外濠から西へ約200mのところに,幅4.7mの濠が外濠とほぼ平行に約150mにわたって高床式倉庫を囲むように走っていることがわかった。環濠集落の面積約40haはさらに3ha増えることになった。中国の「新」時代の銅貨「貨泉」も,環濠集落外の後期の層から出土した。'98年には九州初の銅鐸が出土した。環濠の周囲には木柵や土塁などの防御的施設も備えており,同遺跡はこの地域の中核集落と考えられている。また奈良時代の官道跡や官衙 (かんが) 関連遺構も出土している。
吉野作造
よしのさくぞう @@@LINK=吉野作造 吉野作造

吉野作造
よしのさくぞう

1878〜1933
大正・昭和期の政治学者・思想家
宮城県の生まれ。東大教授。論壇で活躍し『中央公論』などに多くの評論を発表,民本主義を提唱し,普通選挙・政党内閣制実現を主張。枢密院・貴族院・軍部を批判し,その改革を唱え,また黎明会 (れいめいかい) ,東大の新人会,社会民衆党結成にも関係し,大正デモクラシーの理論的指導者として活躍した。1924年軍部の圧迫で東大を辞し,一時朝日新聞社に入社。また明治文化研究会を創立し『明治文化全集』24巻の編集にあたった。

義治式目
よしはるしきもく @@@LINK=義治式目 義治式目

義治式目
よしはるしきもく

近江国南半の戦国大名六角義治の分国法
六角氏式目」ともいう。1567年,進藤・蒲生 (がもう) 氏ら有力家臣が条項を定め,主君義治にその遵守を約束させたもの。67カ条。郷村連帯責任寺社年貢売買貸借譲与,訴訟手続きなど民事規定が多いのが特色
吉益東洞
よしますとうどう @@@LINK=吉益東洞 吉益東洞

吉益東洞
よしますとうどう

1702〜73
江戸中期の医学者
安芸 (あき) (広島県)の人。京都に出て,古医方 (こいほう) による医業を営み,不遇であったが,のち山脇東洋に認められ有名となった。陰陽五行説に基づく医学を排し,病気の内的原因をつきとめようとして実験医学への道を開拓した。

吉村寅太郎
よしむらとらたろう @@@LINK=吉村寅太郎 吉村寅太郎

吉村寅太郎
よしむらとらたろう

1837〜63
幕末の尊攘派志士
土佐藩士。武市瑞山 (たけちずいざん) の勤王党に参加し,尊王攘夷運動に活躍。討幕のさきがけとして天誅 (てんちゆう) をつくり,大和五条に兵をあげ代官所を襲ったが敗れて自殺した。

吉原
よしわら @@@LINK=吉原 吉原

吉原
よしわら

①江戸の遊里
②静岡県東部,富士市の一地区
江戸市中に散在する遊女屋を,1617年幕府が日本橋葺屋町に集めさせたのが起源。付近が葭 (よし) の茂る原であったので「吉原」と呼んだ。明暦大火('57)後,浅草千束の新吉原に移転,江戸文化の一中心となった。
江戸時代,東海道五十三次の宿場町として発達。駿河半紙の産地。1948年市制施行,'66年富士市・鷹岡町と合併し富士市となる。
寄席
よせ @@@LINK=寄席 寄席

寄席
よせ

江戸後期以来隆盛した,落語・講談などの庶民芸能を上演する興行場
文化(1804〜18)末ごろの江戸に125軒もあった。初め落語,文化ごろから講談の寄席も設けられたが,天保の改革で15軒に制限され,内容も教訓的なものになった。幕末から明治時代にも隆盛した。
寄木造
よせぎづくり @@@LINK=寄木造 寄木造

寄木造
よせぎづくり

平安中期に完成した仏像彫刻の技法
仏像の各部を別々に彫刻し,内部をくりぬき,組み合わせて一つの仏像をつくる方法。定朝 (じようちよう) がこの簡便な方法を考案し大成した。
寄棟造
よせむねづくり @@@LINK=寄棟造 寄棟造

寄棟造
よせむねづくり

四注造
世継物語
よつぎものがたり @@@LINK=世継物語 世継物語

世継物語
よつぎものがたり

大鏡
四辻善成
よつつじよしなり @@@LINK=四辻善成 四辻善成

四辻善成
よつつじよしなり

1326〜1402
南北朝時代の学者
順徳天皇の曽孫で源姓を賜る。幼時より宮内卿丹羽忠守に『源氏物語』を学ぶ。足利義詮に献上した『河海抄』20巻は,『源氏物語』の最初の総合的な注釈書として有名。


よど @@@LINK=淀 淀


よど

京都市伏見区南部の一地区で,中世に繁栄した港町
淀川・木津川・宇治川の合流点に近く,古くから西国から京都へ送られる物資の集積地として発展。問丸 (といまる) が発達し,室町中期に栄えた魚市場有名
淀君
よどぎみ @@@LINK=淀君 淀君

淀君
よどぎみ

?〜1615
安土桃山時代の豊臣秀吉の側室
浅井長政の長女,母は織田信長の妹お市の方(のち柴田勝家と再婚)。お茶々・淀殿と呼ばれた。柴田勝家滅亡後,秀吉の保護をうけ,のち側室となり,長男鶴松(3歳で死亡)を生み,1593年秀頼を生んだ。秀吉死後大坂城にあって政務に介入し,徳川家康対立。大坂夏の陣に秀頼とともに自刃した。

淀の魚市場
よどのうおいちば @@@LINK=淀の魚市場 淀の魚市場

淀の魚市場
よどのうおいちば

中世,淀(京都市伏見区南部)にあった魚市場
四度使
よどのつかい @@@LINK=四度使 四度使
しどのつかい @@@LINK=四度使 四度使

四度使
よどのつかい

律令制において,国司が地方行政の状況を中央政府に報告するため上京させる4使の使者
「しどのつかい」とも読む。大帳使・正税使 (しようぜいし) ・貢調使・朝集使の4使の総称。大帳使は計帳,正税使は正税帳,貢調使は調帳,朝集使は国政一般報告書を太政官に提出した。

四度使
しどのつかい

よどのつかい
淀屋辰五郎
よどやたつごろう @@@LINK=淀屋辰五郎 淀屋辰五郎

淀屋辰五郎
よどやたつごろう

?〜1717
江戸中期の大坂の豪商
淀屋个庵 (こあん) の5代目三郎右衛門の俗称といわれる。淀屋は代々諸大名の蔵元をつとめた。大名貸などで諸大名をしのぐ富をもち,1705年,町人に過ぎた豪奢な生活を幕府にとがめられ,全資産を没収・追放された。
米内光政
よないみつまさ @@@LINK=米内光政 米内光政

米内光政
よないみつまさ

1880〜1948
昭和期の軍人・政治家
海軍大将。岩手県の生まれ。1937年林銑十郎内閣の海相となり,さらに第1次近衛文麿・平沼騏一郎両内閣でも留任。親英米的立場から日独伊三国同盟問題では陸軍の強硬論を抑えた。'40年組閣したが,半年で総辞職。'44年再び入閣し,小磯国昭・鈴木貫太郎・東久邇稔彦幣原喜重郎内閣の海相として終戦工作と戦後処理・海軍解体に尽力した。

世直し一揆
よなおしいっき @@@LINK=世直し一揆 世直し一揆

世直し一揆
よなおしいっき

幕末〜明治初期にかけておこった百姓一揆の一形態
重税と借金に苦しむ小作人や都市貧民が「世直し」を唱えて,村役人や特権商人高利貸などを襲い,打ちこわしの様相をもった。天保の飢饉期には全国的に発生し,開港後の経済変動期にも大きな高まりをみせた。1860年代後半に福島・長野・岐阜などの養蚕地帯や戊辰 (ぼしん) 戦争の戦場であった会津・北越などでもおこり,政治体制変革の要求を含み,支配者層に衝撃を与えた。
米沢
よねざわ @@@LINK=米沢 米沢

米沢
よねざわ

山形県南部,米沢盆地の中心都市
中世,長井庄の地頭長井氏の住地。のち伊達氏が占拠し,政宗移封後蒲生氏郷 (がもううじさと) の所領となる。1601年上杉景勝が入部,以後その城下町として繁栄した。江戸中期,9代治憲 (はるのり) が米沢織をおこし殖産興業の中心となる。1889年市制を施行
米沢藩
よねざわはん @@@LINK=米沢藩 米沢藩

米沢藩
よねざわはん

江戸時代,出羽国米沢地方(山形県南部)を領した外様藩
中世,大江広元の子孫長井氏が居住。のち伊達氏が長井氏を追って当地接収。1590年伊達政宗の移封後,会津蒲生氏郷 (がもううじさと) の領となった。関ケ原の戦い後1601年上杉景勝が入部し,以後30万石の城下町として繁栄。'64年養子を認める代償として15万石に減封され,幕末維新まで続いた。9代治憲 (はるのり) のとき藩政改革を実施,特産米沢織を始め,藩の財政を再建し,藩校興譲館を創建した。幕末には奥羽越列藩同盟の中心として新政府に抵抗した。
読売新聞
よみうりしんぶん @@@LINK=読売新聞 読売新聞

読売新聞
よみうりしんぶん

『朝日新聞』『毎日新聞』と並ぶ日本の代表的日刊新聞
1874年東京で創刊。庶民向きのいわゆる小新聞で,総ルビ・口語体を採用大正時代に不振に陥ったが,1923年正力松太郎が社長となって,朝日・毎日につぐ新聞になった。戦時中『報知新聞』を併せ『読売報知』となったが,戦後旧名の『読売新聞』に復し,日本最大の発行部数を誇る全国紙に成長した。
読本
よみほん @@@LINK=読本 読本

読本
よみほん

江戸中・後期,宝暦(1751〜64)前後から現れた小説の一形態
絵を主とした草双紙・絵草紙に対して,文を読むことを主とした本の呼称。前期読本の流行は京坂を中心とし,上田秋成の『雨月物語』など。化政期(1804〜30)には江戸読本の全盛を迎え,山東京伝の『昔話稲妻表紙』,滝沢馬琴の『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』など勧善懲悪を主張したものが多い。
四方赤良
よものあから @@@LINK=四方赤良 四方赤良

四方赤良
よものあから

大田南畝 (なんぽ)
余裕派
よゆうは @@@LINK=余裕派 余裕派

余裕派
よゆうは

明治末期の文学流派の一つ
高踏派とも呼ばれる。正岡子規の写生文に始まり,高浜虚子や夏目漱石によって確立。人生に余裕ある態度で臨み,高踏的に人生を観察する低徊 (ていかい) 趣味(漱石の造語)の文学。
寄合
よりあい @@@LINK=寄合 寄合

寄合
よりあい

①人びとが集まり相談すること
南北朝時代以降,惣 (そう) が発達し,寄合は有力名主(乙名 (おとな) ・年寄など)を中心とした自治的決議機関となる。戦国末の自治的都市でも同様。江戸時代,私的寄合は禁止され,庄屋の役宅で本百姓以上が集まり行事・年貢割当てなどを行ったが主として伝達機関となった。のち水呑百姓も参加。また真宗教団では布教足場として寄合を奨励した。
②江戸時代,3000石以上の旗本のうち,無役の者。

寄親・寄子
よりおや・よりこ @@@LINK=寄親・寄子 寄親・寄子

寄親・寄子
よりおや・よりこ

戦国大名の家臣団の統制組織
寄親(指南ともいう)と寄子(与力・寄騎・同心)の間には指揮・服従の関係はあるが,大名の同列の家臣で相互には御恩・奉公の主従関係はなかった。武田今川・後北条氏などの戦国大名は有力な武将を寄親,在地土豪を寄子として軍事組織を編成した。近世には組頭・組下の制に吸収された。
与力
よりき @@@LINK=与力 与力

与力
よりき

江戸幕府の下級役人
「寄騎」とも書き,中世には,大名に隷属する武士の称。江戸幕府はおもな役職に同心とともに配属し,上官の補佐にあたらせた。町奉行配下の町方与力は,町奉行を補佐し,江戸市中の行政司法・警察の任にあたった。
寄人
よりゅうど @@@LINK=寄人 寄人

寄人
よりゅうど

①平安時代の記録所・和歌所,鎌倉・室町幕府の政所 (まんどころ) ・侍所 (さむらいどころ) ・問注所に属した職員
事務に熟練した者が任じられた。鎌倉幕府評定衆・引付も寄人からなった。
②平安後期,自己の属する支配者以外の荘園領主の支配下に身を寄せた農民。

万朝報
よろずちょうほう @@@LINK=万朝報 万朝報

万朝報
よろずちょうほう

明治〜昭和期の日刊新聞(1892〜1940)
「まんちょうほう」とも読む。1892年黒岩涙香が東京で創刊。自由主義的立場をとり,日露戦争(1904〜05)のときは内村鑑三・幸徳秋水らが記者で,非戦論を唱えたが,黒岩が開戦論に転じたため,内村らは退社した。大正政変では憲政擁護を主張。第2次大隈重信内閣を支持してから勢力を失い,関東大震災('23)で大打撃をうけ,'40年『東京毎夕新聞』に合併された。
ヨーロッパ共同体
ヨーロッパきょうどうたい @@@LINK=ヨーロッパ共同体 ヨーロッパ共同体

ヨーロッパ共同体
ヨーロッパきょうどうたい

イーシー(EC)
四・一六事件
よん・いちろくじけん @@@LINK=四・一六事件 四・一六事件

四・一六事件
よん・いちろくじけん

1929年4月16日,治安維持法に基づいて行われた日本共産党弾圧事件
前年の三・一五事件以後,共産党再建活動は市川正一・渡辺政之輔らを中心に行われていたが,この全国的な検挙事件により党は壊滅的打撃をうけた。
来迎図
らいごうず @@@LINK=来迎図 来迎図

来迎図
らいごうず

平安中期以後,浄土教の発達にともなって描かれた一種仏画
正しくは阿弥陀来迎図という。浄土に生まれることを願う人の臨終に,阿弥陀仏西方浄土から迎えにくる姿を描いたもの。高野山の『聖衆来迎図』は代表作。鎌倉時代には,速度感を強調した知恩院の『早 (はや) 来迎図』,特殊なものとして京都禅林寺の『山越 (やまごし) 阿弥陀図』などいろいろの形が現れた。
頼山陽
らいさんよう @@@LINK=頼山陽 頼山陽

頼山陽
らいさんよう

1780〜1832
江戸後期の儒学者・史論家・詩人
広島藩の儒学者春水の子。18歳のとき江戸に出て尾藤二洲に師事し朱子学・国学を学んだ。21歳のとき広島藩を脱藩した罪で一時監禁された。その後京都に出て,『日本外史』22巻を書き,松平定信に献じた。史論とともにすぐれた詩才でも有名。格調の高い情熱的な文章は幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。その他の著書に『日本政記』『日本楽府』など。

礼服
らいふく @@@LINK=礼服 礼服
れいふく @@@LINK=礼服 礼服

礼服
らいふく

令(衣服令)で定められた,五位以上の男女文武官が,大儀(即位・大嘗祭 (だいじようさい) ・元日など)のときに着用する式服
中国王朝の朝服を継承。文官は,冠・衣・笏 (しやく) ・袴 (はかま) ・帯・褶 (ひらみ) (の一種)・襪 (しとうず) (足袋の一種)・舄 (せきのくつ) で,衣の色や綬 (じゆ) などで位階上下を区別した。武官は冠に緌 (おいかけ) をつけ,衣のかわりに位襖 (いおう) (襖はすそのない衣)で金銀装の横刀をつけるなどした。平安時代以後も,江戸末期の孝明天皇のときまで即位の際に使用された。

礼服
れいふく

らいふく
頼三樹三郎
らいみきさぶろう @@@LINK=頼三樹三郎 頼三樹三郎

頼三樹三郎
らいみきさぶろう

1825〜59
幕末の尊攘派志士・儒学者
山陽の子。京都で梁川星巌 (やながわせいがん) ・梅田雲浜 (うんぴん) らと交わり,尊王攘夷運動に活躍。条約勅許問題や将軍継嗣問題がもとで,安政の大獄で死罪となった。

楽市・楽座
らくいち・らくざ @@@LINK=楽市・楽座 楽市・楽座

楽市・楽座
らくいち・らくざ

戦国・安土桃山時代,商工業の自由営業を許した政策
鎌倉時代から商工業者は座を結成し,公家・寺社などを本所としてその保護をうけ,奉仕の反対給付として,原料の取得・生産・販売・輸送などの特権を独占していた。商工業者の増大に伴い排他性を強め,自由な商工業の発達を阻害したので,戦国大名らは市場税などの免除(楽市)や座の廃止(楽座)によって商工業者を城下町に招き,新たな統制下に置いた。1577年織田信長が安土城下に布令したものが有名。
ラグーザ
Vincenzo Ragusa @@@LINK=ラグーザ ラグーザ

ラグーザ
Vincenzo Ragusa

1841〜1927
イタリアの彫刻家。御雇外国人の一人
1876年,絵画のフォンタネージ,図案カッペルレッティとともに来日,工部大学校付属美術学校教授となる。日本で初めて洋風彫刻を教え,日本的題材の作品も残した。日本人の夫人ラグーザお玉(清原玉)も洋画家として活躍。'82年帰国した。代表作に『清原玉女像』など。

落書・落首
らくしょ・らくしゅ @@@LINK=落書・落首 落書・落首

落書・落首
らくしょ・らくしゅ

名をあらわさずに,政治・世態・人物などを風刺・嘲弄した文章(落書)・詩歌(落首)
多くは言論の抑圧された封建社会に,わざと人目につく場所などにはり出された。『建武年間記』に残る二条河原落書は有名。江戸時代には,狂歌狂句・判じ物などの形式が多い。
ラクスマン
Adam Kirilovich Laksman @@@LINK=ラクスマン ラクスマン

ラクスマン
Adam Kirilovich Laksman

1766〜?
江戸後期に来日した最初のロシア使節
1792年,日本人漂流民大黒屋光太夫らの送還を機会に,皇帝エカチェリーナ2世の命によりシベリア総督の修交要望の書簡をもって根室に来航。翌年松前で幕府と交渉したが,長崎入港の許可証を得ただけで拒否された。彼の来航以後,国内に海防の必要と開国の是非が論じられるようになった。
洛中洛外図屛風
らくちゅうらくがいずびょうぶ @@@LINK=洛中洛外図屛風 洛中洛外図屛風

洛中洛外図屛風
らくちゅうらくがいずびょうぶ

室町末期〜江戸初期にかけて描かれた風俗画
京都の市内・郊外名所をとりあげ,庶民の生活風俗を描いた屛風遺品は多いが,1574年織田信長が狩野永徳に描かせて上杉謙信に贈った米沢市蔵のものが特に有名。
楽焼
らくやき @@@LINK=楽焼 楽焼

楽焼
らくやき

安土桃山時代,京都の楽家が創始した陶器
低温度で焼かれた手づくりの陶器で,茶碗・茶入・水指などがある。初代長次郎に始まり,2代目常慶が豊臣秀吉から「天下一」の称号と楽字の金・銀印を与えられて楽姓を称し,千利休の指導ですぐれた茶陶を生んだ。江戸初期にでた3代目道入は「のんこう」と称され,本阿弥光悦の影響で独特な軽妙さを示し,以後代々個性的な作風で有名。
楽浪郡
らくろうぐん @@@LINK=楽浪郡 楽浪郡

楽浪郡
らくろうぐん

中国,前漢が朝鮮に設置した植民地
前108年漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして置いた4郡の一つ。その領域は朝鮮半島北西部を占め,中心は現在の平壤(ピョンヤン)付近。313年高句麗に滅ぼされた。大陸文化の東方伝播の中継地として重要で,韓族および日本に及ぼした文化的影響は大きい。
ラジオ放送
ラジオほうそう @@@LINK=ラジオ放送 ラジオ放送

ラジオ放送
ラジオほうそう

電波放送の一種
1925年3月,東京放送局が放送開始。以後各地で開局放送され,'26年に半官半民の日本放送協会(NHK)ができ,放送を独占。第二次世界大戦後,NHKは特殊法人として再発足し,民間放送も誕生した。
羅城門
らじょうもん @@@LINK=羅城門 羅城門

羅城門
らじょうもん

平城京・平安京の正門
羅城は都の周囲にめぐらした外郭で,羅城門は朱雀大路 (すざくおおじ) の南端にあった。平城京の羅城門址は奈良県大和郡山市にある。門は重層で平安京のそれは東西10丈6尺9(約32m),南北2丈6尺(約8m),東寺の西大門の西にあった。
螺鈿
らでん @@@LINK=螺鈿 螺鈿

螺鈿
らでん

真珠光を放つ夜光貝などの貝片を漆地や木地にはめ込む工芸の手法
唐から伝わったもので,貝のほか琥珀 (こはく) ・瑇瑁 (たいまい) なども使用。正倉院宝物に『螺鈿紫檀五絃琵琶』などがある。平安時代から江戸時代にかけて流行。蒔絵 (まきえ) と合流してよい色彩を示している。
ラフカディオ=ハーン

ラフカディオ=ハーン

小泉八雲
蘭学
らんがく @@@LINK=蘭学 蘭学

蘭学
らんがく

江戸中期〜幕末,西洋の学術や西洋事情に関する学問
鎖国時代にオランダ人を介して学んだために蘭学と称するが,広く西欧の学術を対象とする。初め長崎のオランダ通詞の知識によっていたが,1720年8代将軍徳川吉宗が幕藩体制補強のため実学を奨励し,漢訳洋書の輸入の禁をゆるめ,これが蘭学研究の端緒となった。青木昆陽・野呂元丈らの登用も実学に目を開いた吉宗の殖産興業政策の一環である。蘭学が医学研究に与えた影響は大きく,前野良沢・杉田玄白らは『解体新書』を翻訳し,医学界に画期的業績を残した。天文学では志筑忠雄の『暦象新書』,辞典では稲村三伯の『ハルマ和解』が刊行された。地理・物理・化学の分野でも,蘭学の導入により近代的研究法が確立,成果は著しかった。そして蘭学のもつ合理的批判精神は司馬江漢・山片蟠桃 (やまがたばんとう) のような封建的身分制度・鎖国政策への鋭い批判を生み出し,そのため幕府の弾圧が強まり,シーボルト事件・蛮社のなどがおこった。開国思想として開明論者に影響を与え,明治維新後も若干の曲折はあったが,文明開化・実学思想の原動力となり,近代文化・学問の発達をもたらした。なお,幕末の開国以後,諸外国との交流が進展する中で,英語・フランス語・ロシア語などが必要となるにつれ,蘭学は洋学としてとらえられていく。
蘭学階梯
らんがくかいてい @@@LINK=蘭学階梯 蘭学階梯

蘭学階梯
らんがくかいてい

江戸後期,大槻玄沢の蘭学入門書
1788年刊。2巻。上巻に日蘭通商と蘭学勃興の由来を述べ,下巻では文字・発音・訳法・初歩文法・参考書などを説いた。蘭学入門書の最初のもので,蘭学の興隆に大きな功績を果たした。
蘭学事始
らんがくことはじめ @@@LINK=蘭学事始 蘭学事始

蘭学事始
らんがくことはじめ

江戸後期,杉田玄白が著した蘭学創始期の回想録
『蘭東事始』ともいう。1815年成立。2巻。『解体新書』翻訳当時の苦心談を中心に,当時の学界・社会環境を知りうる好文献。一般に流布しなかったが,明治初期の '69年福沢諭吉によって刊行された。
蘭溪道隆
らんけいどうりゅう @@@LINK=蘭溪道隆 蘭溪道隆

蘭溪道隆
らんけいどうりゅう

1213〜78
鎌倉時代,宋より日した臨済宗の僧
1246年来朝し,筑前円覚,京都泉涌 (せんにゆう) 寺の来迎院,鎌倉寿福寺などに寓居したが,'53年北条時頼により建長寺が創建されると招かれてその開山となった。のち京都建仁寺に住したが再び建長寺に帰り同寺で没した。彼により宋風の本格的な臨済禅が広まった。
ランシング
Robert Lansing @@@LINK=ランシング ランシング

ランシング
Robert Lansing

1864〜1928
アメリカの政治家
1915年国務長官となり,'17年石井‐ランシング協定を締結した。


り @@@LINK=里 里



①律令制下,地方行政組織の最小単位
②条里制における土地区画
③近世の距離の単位
国郡里制で50戸を1里とし,里ごとに里長を置いた。715年,里を改めて「郷」としその下に里を置いたが,これを郷里制という。
6町(=360歩)四方の地を1里と呼んだ。
1里=36町(約3927m)とし,街道には一里塚を設けた。




理化学研究所
りかがくけんきゅうじょ @@@LINK=理化学研究所 理化学研究所

理化学研究所
りかがくけんきゅうじょ

大正時代に設立された半官半民の代表的科学研究所。略称「理研」
1917年高峰譲吉らの尽力で設立。産業発達のための物理・化学の応用研究を目的とする。昭和初年から大河内正敏所長のもとに研究成果の工業化をはかり,'27年理化学興業株式会社を設立し,やがて軍事目的に利用され理研コンツェルンに発展した。第二次世界大戦後解体されたが,'58年研究機関として改組再建された。
六衛府
ろくえふ @@@LINK=六衛府 六衛府
りくえふ @@@LINK=六衛府 六衛府

六衛府
ろくえふ

律令制下,宮城の警備にあたった左右の近衛 (このえ) ・兵衛 (ひようえ) ・衛門 (えもん) の6府の総称
「りくえふ」とも読む。令制では衛門・左右衛士 (えじ) ・左右兵衛の五衛府であったが,811年に六衛府となった。

六衛府
りくえふ

ろくえふ
六朝様式
りくちょうようしき @@@LINK=六朝様式 六朝様式

六朝様式
りくちょうようしき

中国の3〜6世紀,三国時代から隋の南北統一まで(魏晋南北朝)の文化の特色を表す言葉
日本はこれらの文化を輸入することにつとめ,飛鳥時代の建築・美術はその影響が濃厚である。エンタシス雲形肘木卍崩し勾欄などが有名。
六諭衍義大意
りくゆえんぎたいい @@@LINK=六諭衍義大意 六諭衍義大意

六諭衍義大意
りくゆえんぎたいい

江戸中期,室鳩巣 (むろきゆうそう) の道徳教科書
1722年刊。1巻。『六諭衍義』は,明の太祖洪武帝)が民衆教化の目的でつくった6カ条の教訓である『六諭』を明末に范鋐 (はんこう) が解説したもの。これが琉球から伝えられ,8代将軍徳川吉宗の命により荻生徂徠 (おぎゆうそらい) が和訳して『六諭衍義和解』を著し,室鳩巣がわかりやすく要約したのが本書で,享保の改革の文教政策の一つ。のち手習本として広く普及した。
リクルート事件
リクルートじけん @@@LINK=リクルート事件 リクルート事件

リクルート事件
リクルートじけん

1986年,リクルート社が事業拡大のため政界・経済界・マスコミの実力者に関連会社の未公開株をばらまいた汚職事件
その結果,江副浩正リクルート社元会長,真藤恒NTT前会長,藤波孝生元官房長官らが逮捕・起訴された。また,1989年春には竹下登内閣が総辞職に追いこまれた。
李鴻章
りこうしょう @@@LINK=李鴻章 李鴻章

李鴻章
りこうしょう

1823〜1901
中国,清末期の政治家
淮 (わい) 軍を率いて太平天国の乱を鎮圧。以後,淮軍の軍事力,洋務運動の推進,外交の独占によって清末の最有力政治家となる。日清修好条規締結(1871)以来,日本との外交問題の多くに関係した。天津条約をはじめ日清戦争後の下関条約・露清同盟密約,義和団事件後の北京議定書にもたずさわった。

李氏朝鮮
りしちょうせん @@@LINK=李氏朝鮮 李氏朝鮮

李氏朝鮮
りしちょうせん

李成桂 (りせいけい) の建国(室町時代)から日本の韓国併合(明治時代)まで約500年間続いた朝鮮の王朝(1392〜1910)
明に属しながらも,倭寇征討に力を入れた李成桂(太祖)は積極的に日本の室町幕府や諸大名と貿易を行った。16世紀末,豊臣秀吉の文禄・慶長の役によって国土を荒らされ国交も絶えたが,江戸初期に復交。1637年には清の属領となる。19世紀以降,欧米列国および日本の勢力が進出,江華島事件をきっかけに,1876年日朝修好条規を結び開国した。以後,日清両国間で覇権争いが続き,日清・日露戦争を経て1910年に日本に併合された。
李承晩ライン
りしょうばんライン @@@LINK=李承晩ライン 李承晩ライン

李承晩ライン
りしょうばんライン

1952年1月,韓国大統領李承晩(1875〜1965)の海洋主権宣言により韓国の国防上および資源保護のため公海上に設けられた海域線
日本側でこれを李承晩ラインと呼んだ。竹島を含む公海に主権を主張するものなので政府が抗議したが,韓国はこの線内の日本漁船などを捕らえ漁民を抑留した。その後このラインをめぐり紛争が絶えなかったが,1965年の日韓条約・日韓漁業協定成立によりいちおう解決した。
李成桂
りせいけい @@@LINK=李成桂 李成桂

李成桂
りせいけい

1335〜1408
李氏朝鮮の始祖(在位1392〜98)
廟号は太祖。高麗末の武将で倭寇・女真を討って功あり,革新官人群の指導者として活動。ついで自立し,明の承認を得て朝鮮と称し,高麗朝を廃した。

履中天皇
りちゅうてんのう @@@LINK=履中天皇 履中天皇

履中天皇
りちゅうてんのう

生没年不詳
5世紀前期の天皇
仁徳天皇の皇子。反正・允恭両天皇の同母兄。名は去来穂別尊 (いざほわけのみこと) 。『宋書』倭国伝の倭王讃 (さん) に比定する説がある。
里長
りちょう @@@LINK=里長 里長
さとおさ @@@LINK=里長 里長

里長
りちょう

律令制における地方行政組織の里 (り) の支配者
「さとおさ」とも読む。現地の有力農民から清廉強幹の者が選任された。里内の戸口を検し,農業奨励・課役の催促などにあたった。庸・雑徭は免除された。のち郷里制で郷長と改名された。

里長
さとおさ

りちょう

りつ @@@LINK=律 律


りつ

律令制における基本法で,現在の刑法にあたる
701年の大宝律,718年の養老律がある。令に比べると唐制の模倣が強い。大宝律6巻を改修した養老律10巻も大部分は伝わらず,一部しかわからない。
立花
りっか @@@LINK=立花 立花

立花
りっか

華道の一形式
東山文化の時代に池坊専慶らによって成立し,書院造床の間飾花芸術として栄え,桃山〜江戸時代に池坊専好が色彩本位の豪華な様式を大成した。
立憲改進党
りっけんかいしんとう @@@LINK=立憲改進党 立憲改進党

立憲改進党
りっけんかいしんとう

明治中期の代表的政党(1882〜96)
明治十四年の政変で下野した大隈重信を中心に結成。イギリス流の立憲君主制を理想とし,都市商工業者や知識人などを基盤とした。幹部に河野敏鎌 (とがま) ・小野梓 (あずさ) ・矢野竜溪ら。'84年大隈らの脱党で事実上の解党状態になる。初期議会では民党として活躍したが,国権拡張の立場をとり'96年小政党と合同して進歩党となった。
立憲国民党
りっけんこくみんとう @@@LINK=立憲国民党 立憲国民党

立憲国民党
りっけんこくみんとう

明治末期・大正時代の政党(1910〜22)
1910年3月,憲政本党を中心に非政友会派が合同して結党。犬養毅らは第1次護憲運動に活躍したが,'13年大石正巳・河野広中ら改革派は脱党して桂太郎の新党(立憲同志会)結成に参加。犬養は党首として残留組を率い,普通選挙法実現に努力したが党勢はふるわず,'22年9月解党し,革新倶楽部に発展的に解消した。
立憲自由党
りっけんじゆうとう @@@LINK=立憲自由党 立憲自由党

立憲自由党
りっけんじゆうとう

明治中期の政党(1890〜91)
1890年9月,大井憲太郎らの自由党,板垣退助らの愛国公党,河野広中らの大同倶楽部などが第1議会を前に合同したもので,民党の中心となった。翌年3月自由党と改称し,さらに '98年自由党は進歩党と合同して憲政党を組織した。
立券荘号
りっけんしょうごう @@@LINK=立券荘号 立券荘号

立券荘号
りっけんしょうごう

荘園が不輸租や雑役免除の特権を得るための手続き
荘園領主から租税免除の申請をうけた中央政府は,国司に命じて国衙 (こくが) の役人と荘園の責任者とを現地に立ち合わせ,荘園の面積を調査し,これに基づいて太政官符や民部省符を発して租などを免除した。この手続きを立券荘号といい,その荘園を官省符荘という。
立憲政体樹立の詔
りっけんせいたいじゅりつのみことのり @@@LINK=立憲政体樹立の詔 立憲政体樹立の詔

立憲政体樹立の詔
りっけんせいたいじゅりつのみことのり

1875年,明治政府が板垣退助らと妥協して,しだいに立憲政体に移行する方針をうち出した
漸次立憲政体樹立の詔ともいう。大阪会議で,元老院大審院を設け,地方官会議を召集すると決め,板垣と木戸孝允参議に復帰させた。しかし,いつ立憲政体にするかは明示されないあいまいなものであった。
立憲政友会
りっけんせいゆうかい @@@LINK=立憲政友会 立憲政友会

立憲政友会
りっけんせいゆうかい

明治後期〜昭和初期,立憲民政党と並ぶ戦前の二大政党の一つ(1900〜40)
1900年9月,伊藤博文が旧自由党系の憲政党を中心に結成。'18年原敬総裁のとき政党内閣を組織した。ついで第2次護憲運動に参加。'24年床次竹二郎派が離脱し政友本党を結成。'25年田中義一が総裁に就任すると田中内閣は山東出兵共産党の弾圧を強行した。'32年犬養毅首相が五・一五事件で暗殺されてからは軍部に圧迫されて党勢はふるわず,'39年4月2派に分裂。翌年7月解党して大政翼賛会に合流した。
立憲帝政党
りっけんていせいとう @@@LINK=立憲帝政党 立憲帝政党

立憲帝政党
りっけんていせいとう

明治中期の政党(1882〜83)
自由党・立憲改進党に対抗するため,1882年福地源一郎らが中心となり結党。政府与党を表明し,機関紙『東京日日新聞』で自由・立憲改進両党を攻撃した。吏員・士族・神官・地方の大地主などを基盤としたが,国民の支持は得られず,翌年解散。
立憲同志会
りっけんどうしかい @@@LINK=立憲同志会 立憲同志会

立憲同志会
りっけんどうしかい

大正時代の政党(1913〜16)
桂太郎が第1次護憲運動に対抗し,立憲国民党・中央倶楽部・立憲政友会の一部を集めて結成を計画。桂の死後,1913年12月加藤高明を総裁にし正式に組織された。野党にまわった政友会に対抗し,第2次大隈重信内閣の与党となる。'16年に解散し公友倶楽部などと合同して憲政会をつくった。
立憲民政党
りっけんみんせいとう @@@LINK=立憲民政党 立憲民政党

立憲民政党
りっけんみんせいとう

昭和初期の二大政党の一つ(1927〜40)
1927年6月,田中義一政友会内閣に対抗し憲政会と政友本党が合同して結成。総裁は浜口雄幸。その後浜口・第2次若槻礼次郎両内閣を実現し,協調外交・緊縮財政など都市ブルジョア的性格の政策を実施した。金解禁以後党勢は衰え,斎藤実 (まこと) ・岡田啓介両内閣の準与党となったが軍部に屈伏。'40年8月解党し,大政翼賛会に合流した。
六国史
りっこくし @@@LINK=六国史 六国史

六国史
りっこくし

奈良〜平安前期,古代天皇制盛期に,政治上の重要事項を記録編集した六つの勅撰史書の総称
すべて勅撰。『日本書紀』『続 (しよく) 日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の6書で,いずれも漢文・編年体で書かれている。『日本書紀』の後半以後は,官庁の記録によって編纂された重要史料。律令国家衰退とともに中絶したが,明治時代にこれを継ぐため修史局(現史料編纂所)が置かれ,『大日本史料』を続刊中である。
立志社
りっししゃ @@@LINK=立志社 立志社

立志社
りっししゃ

明治前期,自由民権運動の中心となった代表的政社(1874〜83)
征韓論で辞職した板垣退助が帰郷し,1874年4月片岡健吉・植木枝盛 (えもり) らと高知に設立。当初は士族救済の経済活動が主であったが民権思想の普及にもつとめた。愛国社設立・再興,国会期成同盟・自由党結成など自由民権運動の全国的発展に中心的役割を果たし,'82年海南自由党を組織して,翌年発展的に解消した。
律宗
りっしゅう @@@LINK=律宗 律宗

律宗
りっしゅう

南都六宗の一つ
戒律を重んじた学派。唐僧鑑真 (がんじん) が754年に来日して東大寺に戒壇院を建て,さらに唐招提寺を創建して本格的に確立した。平安時代には密教の流行でふるわず,鎌倉時代に俊芿 (しゆんじよう) ・叡尊 (えいそん) らが出て復興につとめた。
立正安国論
りっしょうあんこくろん @@@LINK=立正安国論 立正安国論

立正安国論
りっしょうあんこくろん

鎌倉中期,日蓮の著した問答体の仏教書
1260年完成。『法華経』こそ唯一の正法であると説き,他宗派を激しく攻撃。天変地異が続くのは邪法を信じるがためと述べ,国難を予言した。この結果,日蓮は伊豆国に流罪となった。
リットン調査団
リットンちょうさだん @@@LINK=リットン調査団 リットン調査団

リットン調査団
リットンちょうさだん

1932(昭和7)年,満州問題について国際連盟より派遣された調査団
1931年9月満州事変がおこると中国は連盟に提訴,これに対し理事会は紛争の不拡大と領土保全を決議し,日本の軍事行動停止を勧告した。一方,アメリカ・フランス・ドイツ・イタリア・イギリスの各国委員よりなる調査団(イギリス人リットン卿が委員長)を'32年3月現地に派遣。同年10月報告書を公表。日本の行為を侵略とみなし中国の主権を認めながら満州における日本の特殊権益を認める妥協的結論を示し,日中間に新条約締結を提案したが,日本はこれを不満とし,'33年3月,連盟を脱退した。
律令制度
りつりょうせいど @@@LINK=律令制度 律令制度

律令制度
りつりょうせいど

律令格式を基本法とする政治体制
7世紀後半から10世紀半ばまで律令体制が続いたが,官職の制度としては11世紀以後も続いた。明治維新で太政官制が復活したが,1885年内閣制度施行で消滅した。645年の大化の改新律令国家建設の第一歩をふみ出し,天智朝の近江令,天武持統朝の飛鳥浄御原 (あすかきよみはら) 令を経て,文武朝の大宝律令で唐制を範として律令制度は大成された。中央の政治機構として太政官と神祇官があり,太政官は八省を統べて行政を担当。官位相当制のもとに官庁には四等官の制があり,地方には国司が派遣され郡司が任命されて地方行政をつかさどった。6年ごとに戸籍をつくり,班田収授法によって公民に口分田を与えるとともに,租を徴収した。その他,成年男子に庸・調などを負担させ,また兵役を課した。租はおもに地方財政を,庸・調は中央財政をまかなった。五位以上の貴族には数々の特権が与えられ,百数十人の貴族が約1万人の下級官人を配下に,500〜600万人と推定される全国の人民を支配していたのが,8世紀の様相である。以後,格式や令外官 (りようげのかん) による行政が行われ,班田制が実施されず荘園制が広がり,10世紀後半には摂関政治が本格的に展開した。
吏党
りとう @@@LINK=吏党 吏党

吏党
りとう

明治時代,初期議会における藩閥政府支持派の通
民党に対する語。日清戦争開戦(1894)のころまでの帝国議会で,自由党立憲改進党などの民党が,大成会などの政府支持の立場をとった議会勢力を軽蔑して名づけた。
リーフデ号
リーフデごう @@@LINK=リーフデ号 リーフデ号

リーフデ号
リーフデごう

1600年,豊後(大分県)臼杵湾に漂着したオランダ商船
徳川家康はリーフデ号を大坂に回航させ,乗員ウィリアム=アダムズ(英人),ヤン=ヨーステン(蘭人)を顧問とした。日蘭・日英貿易開始の契機となった。
琉球
りゅうきゅう @@@LINK=琉球 琉球

琉球
りゅうきゅう

沖縄の別称。
琉球帰属問題
りゅうきゅうきぞくもんだい @@@LINK=琉球帰属問題 琉球帰属問題

琉球帰属問題
りゅうきゅうきぞくもんだい

明治初年におこった琉球帰属をめぐる日本・清国国間の外交問題
江戸時代に琉球は清国・薩摩藩に両属していたが,明治政府は廃藩置県(1871)後,琉球を鹿児島県に編入。翌年琉球藩を置き国王を藩王とした。'74年台湾の高砂族の琉球島民殺害事件を口実台湾出兵おこし,琉球人を日本国民と主張,'79年沖縄県の設置を強行した(琉球処分)。清国はこれに抗議し,当時来日中のアメリカ前大統領グラント調停をはかったが,未解決のまま,のち日清戦争により実質的に日本帰属が確定した。
琉球貿易
りゅうきゅうぼうえき @@@LINK=琉球貿易 琉球貿易

琉球貿易
りゅうきゅうぼうえき

中世〜近世,琉球と日本との間の貿易
15世紀初め,琉球が島津氏を通じて日本に入貢し,以来数年ごとに来航し,明・朝鮮・日本の仲介貿易を営んだ。応仁の乱(1467〜77)後中絶したが,堺・博多・南九州の商人が琉球に渡航し,刀・銅・硫黄を輸出,香木・薬種・絹などを輸入した。16世紀半ばからヨーロッパ人の進出で衰微。1609年島津氏の琉球征討で入貢するようになり,慶賀使将軍の代替り)・謝恩使(琉球王の代替わり)が来日した。薩摩藩は琉球が中国にも入貢・貿易していたのを利し密貿易の形で砂糖・薬種・絹織物などを輸入,昆布・上布 (じようふ) ・雑貨などを輸出し,藩財政を補った。
隆光
りゅうこう @@@LINK=隆光 隆光

隆光
りゅうこう

1649〜1724
江戸中期の真言宗新義派の僧
大和(奈良県)の人。5代将軍徳川綱吉とその母桂昌院の帰依を得,1688年江戸神田橋外の護持院の開山となった。将軍綱吉が生類憐みの令を出したのは彼の進言によるといわれる。のち大僧正・僧録司になった。

竜骨車
りゅうこつしゃ @@@LINK=竜骨車 竜骨車

竜骨車
りゅうこつしゃ

江戸前期に使用された灌漑用揚水機
中国伝来で,水槽内の板片を順次に送り低所から高所へ灌漑用水をかき上げた。費用がかかり破損しやすいため畿内以外には普及せず,簡便な踏車にかわった。
柳子新論
りゅうししんろん @@@LINK=柳子新論 柳子新論

柳子新論
りゅうししんろん

江戸中期,山県大弐の著書
1759年成立。1巻。朱子学的大義名分論により尊王を説き幕政を批判した。尊王斥覇の思想が幕府で問題となった最初のもの。
柳条湖事件
りゅうじょうこじけん @@@LINK=柳条湖事件 柳条湖事件

柳条湖事件
りゅうじょうこじけん

1931(昭和6)年9月18日,満州事変の発端となった鉄道爆破事件
関東軍が奉天北郊の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破。中国軍のしわざと主張してただちに軍事行動をおこし,満州事変が始まった。政府(第2次若槻礼次郎内閣)はただちに不拡大方針を声明したが,関東軍はこれを無視して戦域を拡大。
竜造寺氏
りゅうぞうじし @@@LINK=竜造寺氏 竜造寺氏

竜造寺氏
りゅうぞうじし

戦国・安土桃山時代武将の家
藤原秀郷の子孫ともいう。鎌倉初期,肥前国竜造寺荘の地頭となる。足利尊氏に属してを立て,のち少弐氏に属す。隆信のとき勢力ふるい,少弐時尚を破り肥前一国を領有し,島津・大友氏と鼎立したが,1584年島津家久に敗れ戦死した。その後勢力は衰え,家臣鍋島氏にその地位を奪われた。
隆達節
りゅうたつぶし @@@LINK=隆達節 隆達節

隆達節
りゅうたつぶし

安土桃山時代に流行した小歌
堺の町人高三 (たかさぶ) 隆達(1527〜1611)が室町小歌に節付けしたもので,その旋律は一世を風靡した。曲風優美,形式は7・5・7・5の形が主位を占め,扇拍子・・鼓に合わせて歌った。庶民的感情の表現が微妙に洗練され,中世小歌の完結点であり,近世小歌の出発点となった。のち弄斎 (ろうさい) 節・投節に圧倒され,その曲節は伝わらない。
柳亭種彦
りゅうていたねひこ @@@LINK=柳亭種彦 柳亭種彦

柳亭種彦
りゅうていたねひこ

1783〜1842
江戸後期の読本 (よみほん) ・合巻 (ごうかん) 作者
本名高屋知久。通称彦四郎。江戸の人。幕府の直参 (じきさん) 旗本であったが,山東京伝に私淑し,読本・合巻を著した。のち11代将軍徳川家斉を風刺した罪により天保の改革で処罰され,それをにして病死した。代表作に合巻『偐紫田舎源氏 (にせむらさきいなかげんじ) 』など。
竜灯鬼像
りゅうとうきぞう @@@LINK=竜灯鬼像 竜灯鬼像

竜灯鬼像
りゅうとうきぞう

奈良興福寺所蔵の鎌倉時代の彫刻。➡ 天灯鬼・竜灯鬼像

りょう @@@LINK=令 令


りょう

律令国家の基本法典
律に対して,行政法・民法・商法などにあたる。唐にならって,近江令・飛鳥浄御原 (あすかきよみはら) 令・大宝令・養老令などがつくられた。

りょう @@@LINK=両 両


りょう

江戸時代の金貨の単位
分の4倍,朱の16倍。

りょう @@@LINK=寮 寮


りょう

律令官制において,八省管下の官庁
いずれの省にも属さない左右馬寮 (さうめりよう) ・左右兵庫寮などもあった。司・監・署よりも格は上で,職員は頭 (かみ) ・助 (すけ) ・允 (じよう) ・属 (さかん) の四等官。明治初年の太政官制にも工学寮などが設けられた。
竜安寺
りょうあんじ @@@LINK=竜安寺 竜安寺

竜安寺
りょうあんじ

京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺
1450年細川勝元が創建。以後細川氏の保護をうけ,同氏歴代の墓がある。ここの方丈前庭の石庭は,枯山水庭園の代表的なもので,長方形平地へ白砂をしき,ほうき目で波紋の形をつくり,5群15個の石を巧みに配し,俗に「虎の子渡し」といわれる。作者は不明。
凌雲集
りょううんしゅう @@@LINK=凌雲集 凌雲集

凌雲集
りょううんしゅう

平安前期,最初の勅撰漢詩集
正しくは『凌雲新集』。814年ころ成立。1巻。嵯峨天皇の命により小野岑守 (みねもり) ・菅原清公 (きよきみ) らの撰。『懐風藻』のあとをうけ782〜814年の間の詩91首をおさめた。唐詩の影響が強い。
両界曼荼羅
りょうかいまんだら @@@LINK=両界曼荼羅 両界曼荼羅

両界曼荼羅
りょうかいまんだら

真言宗で悟りの世界を図に示したもの
『大日経』によるものを胎蔵界曼荼羅,『金剛頂経』によるものを金剛界曼荼羅といい,合わせて両界曼荼羅という。大日如来を中心に各部の諸尊を配置している。京都神護寺蔵の『高雄曼荼羅』などが有名。
両替商
りょうがえしょう @@@LINK=両替商 両替商

両替商
りょうがえしょう

江戸時代,金・銀・銭貨の交換や貸付などを行う金融業者
金銀貨を交換する本両替 (ほんりようがえ) と,おもに金銀貨をに交換して手数料をとる銭両替 (ぜにりようがえ) があった。本両替は大資本を要し,為替・預金・貸付け(大名貸商人貸)などの業務も営んだ。十人両替大坂の本両替を支配。江戸中期から本両替は豪商兼業が増加し,大名貸などの利息収入を主とする高利貸業者や,幕府諸藩御用商人として活躍した。また銭両替も兼業者が多く,特に江戸で発達した。
良寛
りょうかん @@@LINK=良寛 良寛

良寛
りょうかん

1758〜1831
江戸後期の歌人・禅僧
俗称山本栄蔵。越後(新潟県)の人。出家して諸国巡歴ののち帰郷,人びとに敬愛され,奇行が多く,200近い逸話が伝わる。和歌・俳句・詩・書にすぐれ,特に万葉調の和歌で聞こえ,『蓮 (はちす) の露』『僧良寛歌集』『良寛漢詩集』がある。

良観
りょうかん @@@LINK=良観 良観

良観
りょうかん

忍性
領家
りょうけ @@@LINK=領家 領家

領家
りょうけ

寄進契約によって名目的な荘園領主となった貴族寺院などの権門勢家
領家は寄進者に対し不輸・不入権を確保するなどその荘園を保護した。その代償として一定の報酬を年貢の形で収得したが,これが領家職の内容である。こうしてできた荘園を寄進地系荘園というが,領家が荘園の保護を十分に果たせないときにはさらに上級の者に名目的な寄進を行うことがあった。その上級の荘園領主が本家(本所)である。
令外官
りょうげのかん @@@LINK=令外官 令外官

令外官
りょうげのかん

律令制下,令に規定されていない新しい官職
平安初期に設置された蔵人 (くろうど) ・検非違使 (けびいし) は有名であるが,そのほか奈良時代の中納言・参議,平安時代の勘解由使 (かげゆし) ・按察使 (あぜち) ・内大臣・摂政 (せつしよう) ・関白などがある。実際政治の必要上から新設されたものであるが,のちには令制官職が実権を失うほど,重要な意味をもつようになった。
良源
りょうげん @@@LINK=良源 良源

良源
りょうげん

912〜985
平安中期の天台宗の僧。同宗中興の祖
元三 (がんさん) 大師・慈恵 (じえ) 大師ともいう。近江(滋賀県)の人。966年天台座主 (ざす) ,981年行基以来久しくなかった大僧正となった。焼失した延暦寺の復興に尽力し,同寺の全盛時代を築いた。また僧兵を始めた人物という俗説があるが,良源はむしろ禁圧を心がけたとみられる。源信は彼の弟子。

陵戸
りょうこ @@@LINK=陵戸 陵戸

陵戸
りょうこ

律令制下,五色の賤の一つ
天皇・皇后の陵墓を守ることを世襲とした賤民。身分的には良民に近く,同額の口分田も与えられたが,課役は免除された。死者を忌む風習から賤民視された。
令旨
りょうじ @@@LINK=令旨 令旨

令旨
りょうじ

律令制下,皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えた文書
平安中期以後,親王・女院・諸王の出す文書も令旨と呼ばれた。平氏打倒の挙兵を呼びかけた以仁王の令旨が有名。
領事裁判権
りょうじさいばんけん @@@LINK=領事裁判権 領事裁判権

領事裁判権
りょうじさいばんけん

外国人が在住国の法による裁判に服せず,本国領事により本国の法による裁判をうける権利
治外法権の一つ。日本は1858年の安政の五カ国条約以来,アメリカなど諸外国に領事裁判権を与えたが,明治維新後,条約改正の要望を続け,'94年に結ばれた新条約の発効により,'99年に廃止を実現した。
梁塵秘抄
りょうじんひしょう @@@LINK=梁塵秘抄 梁塵秘抄

梁塵秘抄
りょうじんひしょう

平安末期の流行歌謡集
12世紀末ころ成立。20巻。現存は2巻ほどで約570首ある。撰者は後白河法皇。当時流行した今様 (いまよう) ・催馬楽 (さいばら) などの歌謡を分類集成した。当時の信仰・風俗・生活感情を知る好史料。
良賤
りょうせん @@@LINK=良賤 良賤

良賤
りょうせん

律令制における身分上の区分
「良」とは一般自由民で,公民のほか貴族・豪族なども含まれていた。「賤」は非自由民で陵戸・官戸・家人・公奴婢 (くぬひ) ・私奴婢の5種(五色の賤)に分かれていた。一般に良賤の通婚は禁止されていたが,良賤の間に子ができた場合には賤とされた。789年以後は良につけることとなり,その後賤民を良民に編入する放賤従良も行われた。
両統迭立
りょうとうてつりつ @@@LINK=両統迭立 両統迭立

両統迭立
りょうとうてつりつ

鎌倉中期以降,大覚寺統と持明院統との2統に分かれた皇室が,交互に皇位を継承したこと
第88代後嵯峨天皇ののち,嫡子後深草(持明院統)と次子亀山(大覚寺統)の両統に分かれ,皇位と皇室領荘園をめぐる抗争が始まる。承久の乱(1221)後,皇位継承に干渉してきた鎌倉幕府は,両統交互に即位するという案を出し,両統の間に協定が成立した。それにより後宇多天皇から後醍醐 (ごだいご) 天皇に至る6代が両統から交互に即位した。しかし対立は解消せず,南北朝内乱にひき継がれる。
遼東半島
りょうとうはんとう @@@LINK=遼東半島 遼東半島

遼東半島
りょうとうはんとう

中国東北地方南部の遼寧 (りようねい) 省にある半島
日清戦争(1894〜95)の結果,日本が獲得したが,三国干渉によって還付。しかし '98年ロシアはこの半島にある大連・旅順を租借し,その後日露戦争(1904〜05)の結果,ポーツマス条約でこの半島におけるロシアの権利が日本に譲られた。日本は関東州とし関東庁を設置し,経営に乗り出した。第二次世界大戦後,ヤルタ協定により,旅順にソ連の軍事基地があったが,'50年中国に返還された。
両都両港開市開港延期問題
りょうとりょうこうかいしかいこうえんきもんだい @@@LINK=両都両港開市開港延期問題 両都両港開市開港延期問題

両都両港開市開港延期問題
りょうとりょうこうかいしかいこうえんきもんだい

幕末通商条約の開市開港をめぐる外交問題
安政の五カ国条約によって開市・開港が決められた2都・4港のうち,横浜・長崎港以外の両都(江戸・大坂)の開市,両港(新潟・兵庫)の開港は物価騰貴尊王攘夷運動激化のため延期せざるを得なくなった。幕府列国に延期を要請するため,'62年遣欧使節を派遣し,イギリスとの間にロンドン覚書が調印され,輸入税軽減などを条件に'67年までの延期を承認させた。のちロシア・オランダ・フランスなど他の条約国もこれにならった。
良忍
りょうにん @@@LINK=良忍 良忍

良忍
りょうにん

1073〜1132
平安後期の僧。融通念仏宗の祖
尾張(愛知県)の人。比叡山に学んだが,のち大原に隠退して来迎院を創建。念仏三昧に終始して融通念仏を唱え,一人の念仏が万人に通ずると説いた。諸国を教化し,摂津住吉に大念仏寺を建てて根本道場とした。

令義解
りょうのぎげ @@@LINK=令義解 令義解

令義解
りょうのぎげ

平安初期,養老令の官撰注釈書
833年完成。10巻。撰者は清原夏野・小野篁 (たかむら) ら。令の解釈を統一するため編集され,施行後は法としての効力をもった。養老令本文は本書によって知ることができる。
令集解
りょうのしゅうげ @@@LINK=令集解 令集解

令集解
りょうのしゅうげ

平安前期,養老令の私撰注釈書
9世紀後半の成立。30巻(現存25巻)。惟宗直本 (これむねのなおもと) 編。『令義解』の完成後,諸家私説が失われるのを恐れ,私的にそれらを収録したもの。大宝令の注釈書も含まれており,古代法制研究上の貴重な史料である。
両・分・朱
りょう・ぶ・しゅ @@@LINK=両・分・朱 両・分・朱

両・分・朱
りょう・ぶ・しゅ

江戸時代金貨単位
4進法で,1両=4分,1分=4朱と換算された。元来は重さの単位。金座が品位・量目保証のを刻したものを判金といい,小判とは1両判金のことをいった。金貨には大判(10両)・一分金・二朱金,のちに二分金・一朱金があった。
両部神道
りょうぶしんとう @@@LINK=両部神道 両部神道

両部神道
りょうぶしんとう

真言宗の説教をもととして説かれた神仏習合の神道説
本地垂迹説が基本となり密教の金剛・胎蔵の教理や道教思想も加わって成立。中世以降の思想に影響を与えた。神に菩薩・権現などの名称を付したのもそのためで,鎌倉時代高野山の御流 (ごりゆう) 神道はこの流派から生じた。
良民
りょうみん @@@LINK=良民 良民

良民
りょうみん

律令制における身分で賤民以外の称
皇族・貴族・地方豪族・公民・品部 (しなべ) ・雑戸などを称した。戸を形成し課役を負担したが,位階を有した貴族はそれに応じていろいろな特権があった。
旅順
りょじゅん @@@LINK=旅順 旅順

旅順
りょじゅん

中国東北部,遼東半島にある旅大市に属する港
古くから海上交通の要衝で,清代末には北洋艦隊の基地があった。日露戦争(1904〜05)のとき乃木希典 (まれすけ) の率いる第3軍が攻撃した激戦地。戦後,日本が租借し,関東軍司令部や関東庁,海軍根拠地が置かれた。第二次世界大戦後,ソ連軍の管理を経て,'55年中国に返還された。
離洛帖
りらくじょう @@@LINK=離洛帖 離洛帖

離洛帖
りらくじょう

平安中期の能書家藤原佐理 (さり) の書状。国宝。

りん @@@LINK=厘 厘


りん

貨幣の単位。
林家
りんけ @@@LINK=林家 林家

林家
りんけ

江戸時代,幕府の儒官として官学である朱子学をつかさどった家
「はやしけ」とも読む。家祖の林羅山 (らざん) は徳川家康に登用され,4代将軍家綱の代までの侍講となり朱子学を講じ,江戸忍ケ岡に私塾を建て幕臣に儒学を教えた。5代将軍綱吉のとき,林家の私塾は湯島に移り聖堂に付属した学問所となり,3代鳳岡 (ほうこう) (信篤)は大学頭に任じられた。以後林家は大学頭を世襲し,儒学界の権威とされた。
臨済宗
りんざいしゅう @@@LINK=臨済宗 臨済宗

臨済宗
りんざいしゅう

中国,唐代の禅僧臨済義玄 (りんざいぎげん) によって9世紀中ごろ開宗され,栄西によって12世紀末日本にもたらされた禅宗の一派
坐禅を組みながら師の与える公案 (こうあん) を解決して悟りに達する(看話禅 (かんなぜん) )。鎌倉新仏教の一つとして主として上層武士間に広まり,鎌倉・室町時代には幕府の支持により,京都・鎌倉の五山を中心に隆盛をきわめた。江戸中期に白隠慧鶴 (はくいんえかく) が出,明治時代以後諸派に分かれ,現在14派に分立している。
綸旨
りんじ @@@LINK=綸旨 綸旨

綸旨
りんじ

天皇の意を伝えるための文書の一形式
詔勅・宣旨などの形式が煩雑なのに比べ,天皇の側近の蔵人 (くろうど) が,私文書の形式で相手に伝える簡単なもの。薄墨色の宿紙に書かれるのが正式。天皇の意を伝えるものとして,効力は他の文書より優先する。
臨時教育審議会
りんじきょういくしんぎかい @@@LINK=臨時教育審議会 臨時教育審議会

臨時教育審議会
りんじきょういくしんぎかい

1984年,中曽根康弘内閣によって設置された総理大臣に対して教育改革の審議を行う機関
略称「臨教審」。1987年に解散するまでに4回の答申を行い,個性尊重の原則を掲げて生涯学習体系への移行などの改革を打ち出した。
琳派
りんぱ @@@LINK=琳派 琳派

琳派
りんぱ

江戸中期,尾形光琳の始めた日本画の流派
光琳派ともいう。明快な構図と装飾性を特徴とする。本阿弥光悦・俵屋宗達の感化をうけた光琳が,大和絵の描法を大胆に装飾化した画派。弟乾山 (けんざん) や酒井抱一などに受け継がれた。

る @@@LINK=流 流



律令制における刑罰の一つ
律の (ち) ・ (じよう) ・徒 (ず) ・流 (る) ・死 (し) の五刑のうち,流刑は罪の軽重により配流地が異なり,遠流 (おんる) ・中流・近流に分けられた。遠流はそのうち最も重く死刑につぐ極刑。遠流は安房 (あわ) ・常陸 (ひたち) ・佐渡・隠岐などで,死罪は罪一等を減じて遠流とされることが多かった。
類聚国史
るいじゅうこくし @@@LINK=類聚国史 類聚国史

類聚国史
るいじゅうこくし

平安前期の歴史書
892年成立。本史200巻,目録2巻,帝王系図3巻。現存61巻,抄本1巻。菅原道真 (すがわらのみちざね) 編。六国史の記事を事項別に分類し年代順に収録したもの。六国史の記事検索に便利であり,『日本後紀』の欠を補う古代史研究の重要史料。
類聚三代格
るいじゅうさんだいきゃく @@@LINK=類聚三代格 類聚三代格

類聚三代格
るいじゅうさんだいきゃく

平安前期の法令集
10世紀初めころの成立。20巻。現存17巻。編者不詳。弘仁・貞観・延喜の3代の格を集大成し,神祇・仏事・官司などに分類編集したもの。奈良・平安前期の重要史料。
類聚神祇本源
るいじゅうじんぎほんげん @@@LINK=類聚神祇本源 類聚神祇本源

類聚神祇本源
るいじゅうじんぎほんげん

鎌倉後期,伊勢神道の基本教典
1320年完成。15巻。度会家行 (わたらいいえゆき) の著。神道五部書基礎諸説を集大成したもの。後世の神道説に大きな影響を与えた。
盧舎那仏
るしゃなぶつ @@@LINK=盧舎那仏 盧舎那仏

盧舎那仏
るしゃなぶつ

華厳経』の本尊。太陽の意
語源は梵語vairocana智慧の光であまねく法界を照らし輝かす仏身。『華厳』『梵網 (ぼんもう) 経』の2経にこののことを説いている。
留守居
るすい @@@LINK=留守居 留守居

留守居
るすい

江戸時代,幕府・諸藩の職名
①幕府の留守居は,老中支配に属し,大奥の取締り,将軍出行の際の留守守衛などを行った。旗本が任ぜられた最高役職。
②諸藩の留守居は,江戸藩邸を預かり,幕府との交渉や藩相互間の交際などにあたった。

留守所
るすどころ @@@LINK=留守所 留守所

留守所
るすどころ

平安・鎌倉時代,国司が遙任 (ようにん) の場合の国衙 (こくが) をいう
目代 (もくだい) 中心に在庁官人が政務をとった。10世紀末に始まり,院政時代に一般化した。鎌倉時代に幕府の支配権が拡大し,在庁官人が御家人化すると,留守所はその実を失った。
呂宋
ルソン
Luzon @@@LINK=呂宋 呂宋

呂宋
ルソン
Luzon

フィリピン群島中最大の島
16世紀後半,イスパニア人がマニラを占領し植民地経営を開始。1584年イスパニア船がルソンから平戸に入港し,以後貿易が進展した。豊臣秀吉原田孫七郎を派遣して入貢強要。江戸時代に入り,朱印船渡航が盛んになるが,キリシタン入国を防ぐため,1624年幕府は国交を断絶した。マニラ郊外のディラオ日本町があった。
呂宋助左衛門
ルソンすけざえもん @@@LINK=呂宋助左衛門 呂宋助左衛門

呂宋助左衛門
ルソンすけざえもん

納屋助左衛門
冷泉家
れいぜいけ @@@LINK=冷泉家 冷泉家

冷泉家
れいぜいけ

鎌倉時代,歌学の三宗家の一つ
ほかに二条・京極両家がある。藤原定家の子為家の4男為相 (ためすけ) を祖とする。阿仏尼 (あぶつに) はその母。京極家とともに二条家の保守的な歌風と対立した。江戸時代に至り為満は徳川家康に古今秘話を伝えた。
冷泉為恭
れいぜいためちか @@@LINK=冷泉為恭 冷泉為恭

冷泉為恭
れいぜいためちか

1823〜64
江戸末期の画家
狩野永泰の子。岡田家の養子となり近江守従五位下。復古大和絵の代表画家で,和宮 (かずのみや) 降嫁の際の調度のデザインをした。政治活動に関係し,佐幕派と疑われ暗殺された。代表作に『三条実房茸狩 (たけがり) 図』など。

冷戦
れいせん
cold war @@@LINK=冷戦 冷戦

冷戦
れいせん
cold war

第二次世界大戦中の反ファッショ連合が解体して,米ソの対立が表面化した1947年以降の現象
武力による全面戦争を「熱い戦争」(hot war)と呼ぶのに対し,宣伝と浸透,間接的な経済的・軍事的圧迫手段による戦争をいう。アメリカの評論家W.リップマンが最初に使用。1947年3月のトルーマン宣言,6月のマーシャル‐プランの発表に対し,ソ連と東欧6カ国などはコミンフォルムを結成して,国際関係が緊張した。アメリカの対日占領政策もその中でしだいに変化していった。'90年代初めのソ連・東欧圏崩壊によって終結した。
礼服
らいふく @@@LINK=礼服 礼服
れいふく @@@LINK=礼服 礼服

礼服
らいふく

令(衣服令)で定められた,五位以上の男女文武官が,大儀(即位・大嘗祭 (だいじようさい) ・元日など)のときに着用する式服
中国王朝の朝服を継承。文官は,冠・衣・笏 (しやく) ・袴 (はかま) ・帯・褶 (ひらみ) (の一種)・襪 (しとうず) (足袋の一種)・舄 (せきのくつ) で,衣の色や綬 (じゆ) などで位階上下を区別した。武官は冠に緌 (おいかけ) をつけ,衣のかわりに位襖 (いおう) (襖はすそのない衣)で金銀装の横刀をつけるなどした。平安時代以後も,江戸末期の孝明天皇のときまで即位の際に使用された。

礼服
れいふく

らいふく
黎明会
れいめいかい @@@LINK=黎明会 黎明会

黎明会
れいめいかい

大正時代,吉野作造らを中心に民本主義普及をはかった啓蒙団体(1918〜20)
1918年12月,吉野・福田徳三・新渡戸稲造・三宅雪嶺・森戸辰男・大山郁夫ら23名で組織。雑誌や講演を通して活動し,デモクラシー思想の発展普及につとめたが,会員内部の思想上の不統一から'20年解散した。
歴史物語
れきしものがたり @@@LINK=歴史物語 歴史物語

歴史物語
れきしものがたり

歴史的事実に立って,和文で物語風に書いた史書
『源氏物語』などの文学作品の盛期が終わったころ,六国史風の漢文の歴史にかわって出現。『栄華物語』を先頭に『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』の四鏡などをさす。作者は今のところ全部不明であるが,政治の中枢に関係のあった貴族のになると考えられ,その視点からの歴史の動きの観察として貴重である。
暦象新書
れきしょうしんしょ @@@LINK=暦象新書 暦象新書

暦象新書
れきしょうしんしょ

江戸後期,志筑 (しづき) 忠雄の天文物理の訳述書
1802年完成。3編。ニュートンの弟子ケイルの『真の物理学および真の天文学に対する入門書』のオランダ語訳本を抄訳し,ニュートンの力学やケプラーの地動説・星雲説を自説を交えながら展開した。
暦博士
れきはかせ @@@LINK=暦博士 暦博士

暦博士
れきはかせ

律令制下,陰陽寮の職名
天文・暦数などをつかさどり,暦をつくり,暦を学ぶ学生(暦生)を教えた。
暦法
れきほう @@@LINK=暦法 暦法

暦法
れきほう

暦 (こよみ)
レザノフ
Nikolai Petrovich Rezanov @@@LINK=レザノフ レザノフ

レザノフ
Nikolai Petrovich Rezanov

1764〜1807
江戸後期に来日したロシア使節
1804年ラクスマンが得た長崎入港許可証を携え,日本人漂流民を伴って長崎に来航。幕府に通商を要求したが半年待たされたうえ拒絶されたため,翌年カムチャツカにいったん退去ののち,'06・'07年の2回,部下に樺太 (からふと) ・択捉 (えとろふ) を襲撃させた。

レッド‐パージ
red purge @@@LINK=レッドパージ レッドパージ

レッド‐パージ
red purge

1950年,マッカーサー指令により共産党員およびその同調者を公的機関や職場から追放したこと
朝鮮戦争勃発のころに,共産党中央委員・『アカハタ』編集者の公職追放に始まり,多くの民間企業もこれにならい,全国でその同調者1万数千名が職場から追放された。
連歌
れんが @@@LINK=連歌 連歌

連歌
れんが

和歌の上句と下句を交互に連ね詠み合ったもの
形式的には短連歌(上下2句),鎖 (くさり) 連歌・長連歌(50句・100句と連ねる)があり,内容的には優美・幽玄をとうとぶ有心 (うしん) 連歌,滑稽秀句を重んじる無心連歌とがある。また貴族の間にはやったものを堂上連歌といい,庶民の間にはやったものを地下 (じげ) 連歌という。二条良基は『莵玖波 (つくば) 集』を編集し有心的な堂上連歌と無心的な地下連歌とを統一し連歌の地位を高め,『新撰莵玖波集』を撰した宗祇 (そうぎ) に至って連歌は完成し,最盛期を迎えた。
連歌新式
れんがしんしき @@@LINK=連歌新式 連歌新式

連歌新式
れんがしんしき

応安新式
連歌問答
れんがもんどう @@@LINK=連歌問答 連歌問答

連歌問答
れんがもんどう

筑波問答
蓮華王院本堂
れんげおういんほんどう @@@LINK=蓮華王院本堂 蓮華王院本堂

蓮華王院本堂
れんげおういんほんどう

三十三間堂
連合国軍最高司令官総司令部
れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ @@@LINK=連合国軍最高司令官総司令部 連合国軍最高司令官総司令部

連合国軍最高司令官総司令部
れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ

ジーエイチキュー(GHQ)
連雀商人
れんじゃくしょうにん @@@LINK=連雀商人 連雀商人

連雀商人
れんじゃくしょうにん

室町時代の行商人
連雀(連尺・連索)とは木製の背負道具。商品を連雀で背負った商人,のち行商人をいう。城下町の中心部に多い連雀町は彼らの集住街区であった。
連署
れんしょ @@@LINK=連署 連署

連署
れんしょ

鎌倉幕府の職名
執権を補佐して政務を行う。執権と合わせて両執権などと呼ばれるが,執権とともに幕府の公文書に署判を加えることから連署といわれた。北条泰時が執権のとき,1225年叔父時房をこの職に補したのが始まりで,以後北条氏一族が任命された。
蓮如
れんにょ @@@LINK=蓮如 蓮如

蓮如
れんにょ

1415〜99
室町時代の。浄土真宗中興の祖
本願寺8代法主。諱 (いみな) は兼寿。1471年,越前福井県吉崎に進出し北陸門徒の組織化に成功,のち京都山科に移り講・組を強化し,御文章御文 (おふみ) )という平易な文章伝道により,積極的に布教を行う。'96年大坂に石山本願寺を創建し,頻発する一向一揆を抑止するため「王法為本 (おうぼういほん) 」を説き,本願寺教団の飛躍的発展をもたらした。
老中
ろうじゅう @@@LINK=老中 老中

老中
ろうじゅう

江戸幕府の常置の最高職名
初め「宿老」「年寄」などともいった。将軍に直属し政務を担当した。禁中や公家・門跡・諸大名に関すること,大目付・町奉行などの役人支配,さらに奉書連判・歳出入・大普請・参勤交代・大奥・金銀改鋳などにあたった。定員はほぼ4〜5名で,2万5000石以上の譜代大名から任ぜられ,側用人・京都所司代・大坂城代から登用するのを常とした。月番制で,毎月1名ずつ交代して政務を処理した。
老丁
ろうてい @@@LINK=老丁 老丁

老丁
ろうてい

律令制において,61〜65歳(のち60〜64歳)の公民男子をさした
次丁ともいう。調・庸の負担は,正丁 (せいてい) の2分の1であった。
郎党
ろうとう @@@LINK=郎党 郎党

郎党
ろうとう

古代〜中世の武士従者
郎等」とも書いた。郎従ともいい,主人に対する部下のこと。惣領 (そうりよう) の一族である家子 (いえのこ) とともに,武士団を構成。中小武士団が棟梁 (とうりよう) のもとに結合したときには,中小武士団の長は棟梁の等となった。
労働関係調整法
ろうどうかんけいちょうせいほう @@@LINK=労働関係調整法 労働関係調整法

労働関係調整法
ろうどうかんけいちょうせいほう

1946年9月に公布された労働法。労働三法の一つ
労働争議の予防またはその解決を目的とし,労働委員会が争議を斡旋・調停・仲裁しうることを定めた法律。争議は当事者間の自主的解決を原則とするが,特に公益事業の争議行為については,内閣総理大臣の決定により50日間禁止する緊急調整制度が設けられている。
労働基準法
ろうどうきじゅんほう @@@LINK=労働基準法 労働基準法

労働基準法
ろうどうきじゅんほう

1947年4月に公布された,労働者保護のための法律。労働三法の一つ
憲法の第27条2項に従って労働条件の最低基準を定め,13章123カ条からなる。労働契約・就業規則を規定し,男女同一賃金,婦人少年の労働制限,安全および衛生,災害保償,労働時間などを規定。また監督機関として労働基準局・労働基準監督署を設けた。
労働組合期成会
ろうどうくみあいきせいかい @@@LINK=労働組合期成会 労働組合期成会

労働組合期成会
ろうどうくみあいきせいかい

明治中期,労働運動育成を目的とした団体(1897〜1901)
日清戦争(1894〜95)後の工場労働者増加を背景に,1897年7月高野房太郎・片山潜らによって結成された。機関紙『労働世界』を発行。初めての本格的な労働組合である鉄工組合などを結成させ,争議の指導にもあたり,'99年には会員5700人にも達したが,治安警察法などの弾圧により1900年以後衰退し,'01年自然解消した。
労働組合法
ろうどうくみあいほう @@@LINK=労働組合法 労働組合法

労働組合法
ろうどうくみあいほう

1945年12月に公布された,労働者の団結と団体活動を保護する法律。労働三法の一つ
大正・昭和初期に議会で論議されたが未成立に終わった。第二次世界大戦後,マッカーサーから指示をうけ,新憲法第28条に具体的な措置を与えたもので,5章33カ条からなる。労働者が使用者と対等の立場で労働条件の維持・改善を交渉できるように,労働組合と労働委員会を規定し,団結権・団体交渉権・争議権を認め不当労働行為を掲げた。1948年,公務員・公共企業体労働者はその適用範囲から除外され,'49年には全面改定,'52年に手直しが行われた。
労働三法
ろうどうさんぽう @@@LINK=労働三法 労働三法

労働三法
ろうどうさんぽう

第二次世界大戦後に制定された労働者保護の中心法
労働組合法・労働関係調整法・労働基準法の3法をいう。
労働者農民党
ろうどうしゃのうみんとう @@@LINK=労働者農民党 労働者農民党

労働者農民党
ろうどうしゃのうみんとう

労農党④
労働争議調停法
ろうどうそうぎちょうていほう @@@LINK=労働争議調停法 労働争議調停法

労働争議調停法
ろうどうそうぎちょうていほう

1926年4月に公布された,労働争議の調停手続きを定めた法律
1926年治安警察法17・30条廃止による争議の合法化に対処し,争議悪化の防止をはかり制定。労・使・公益各3名の代表からなる調停委員会を設け,公益事業は強制調停,他は当事者申立により調停を行う。現実には争議弾圧にも利用された。'46年労働関係調整法制定で廃止された。
労働農民党
ろうどうのうみんとう @@@LINK=労働農民党 労働農民党

労働農民党
ろうどうのうみんとう

昭和初期の無産政党(1926〜28)
1925年の農民労働党禁止後,日本労働総同盟(総同盟)・日本労働組合評議会(評議会)・日本農民組合(日農)などが中心の無産政党準備会により翌'26年3月結成。委員長杉山元治郎,書記長三輪寿壮。その後,評議会左派加入問題で紛糾し総同盟などが脱退,大山郁夫を委員長に評議会系が中心となり再出発した。共産党の指導下に,対華非干渉運動・5法律(失業手当法,最低賃金法,8時間労働制,婦人・青少年労働者保護の制定,健康保健法の改正)要求闘争などを展開。'28年三・一五事件以後,結社禁止となる。
牢人
ろうにん @@@LINK=牢人 牢人

牢人
ろうにん

江戸時代,主家を離れ禄を失った武士
「浪人」とも書く。関ケ原の戦い・大坂の役後牢人が急増し,江戸初期の大名抑圧策による減・転封,改易などでいっそう増加した。牢人は江戸初期,数十万以上に達したといわれ,社会不安の原因となり,島原の乱・慶安事件などを誘発。以後幕府は末期養子を緩和するなどの策をとり,武断政治から文治政治幕政を転換させた。
労農党
ろうのうとう @@@LINK=労農党 労農党

労農党
ろうのうとう

③昭和初期の左派合法無産政党(1929〜31)
④1948年12月,日本社会党から分裂した容共派の小政党(〜'57)
①昭和初期の無産政党「労働農民党」の略称。
②昭和初期の中間派無産政党。
四・一六事件後,大山郁夫ら合法左派が結成。共産党と紛争して衰退し,1931年全国労農大衆党へ合流した。
正しくは「労働者農民党」。黒田寿男 (としお) ・木村禧八郎らが中心となって結成。社会・共産両党の中間に位置し,民主人民戦線を提唱したが,'57年2月社会党に復帰した。
労農派
ろうのうは @@@LINK=労農派 労農派

労農派
ろうのうは

昭和初期,マルクス主義理論の一派
山川均・猪俣津南男 (つなお) らが共産党の指導理論に反対し,1927年雑誌『労農』を創刊。天皇制のブルジョア的性格を認め,当面する革命を社会主義革命であるとした。講座派と日本資本主義論争を展開,明治維新を市民革命と規定した。'37〜38年の人民戦線事件で弾圧をうけた。
良弁
ろうべん @@@LINK=良弁 良弁

良弁
ろうべん

689〜773
奈良時代の東大寺の僧
近江(滋賀県)または相模(神奈川県)の人。初め法相宗を学んだが,740年新羅 (しらぎ) 僧審祥 (しんしよう) を講師として招き,華厳宗を広めた。聖武天皇の東大寺建立に協力し,初代別当となった。764年僧正になった。

ロエスレル
Karl Friedrich Hermann Roesler @@@LINK=ロエスレル ロエスレル

ロエスレル
Karl Friedrich Hermann Roesler

1834〜94
ドイツの法学者・経済学者。御雇外国人の一人
レースラーともいう。ロストック大学教授。1878年外務省顧問として来日,のち内閣顧問となる。大日本帝国憲法制定にあたり井上毅を通じて,憲法のほか,各種の法案も起草し助言を行う。プロシア流の憲法採用に大きな影響を与えた。'93年帰国。

六衛府
ろくえふ @@@LINK=六衛府 六衛府
りくえふ @@@LINK=六衛府 六衛府

六衛府
ろくえふ

律令制下,宮城の警備にあたった左右の近衛 (このえ) ・兵衛 (ひようえ) ・衛門 (えもん) の6府の総称
「りくえふ」とも読む。令制では衛門・左右衛士 (えじ) ・左右兵衛の五衛府であったが,811年に六衛府となった。

六衛府
りくえふ

ろくえふ
鹿苑寺
ろくおんじ @@@LINK=鹿苑寺 鹿苑寺

鹿苑寺
ろくおんじ

金閣
鹿苑日録
ろくおんにちろく @@@LINK=鹿苑日録 鹿苑日録

鹿苑日録
ろくおんにちろく

戦国〜江戸初期,京都の相国寺鹿苑院歴代の僧録司の日記
辻善之助編。全6冊。1487〜1651年にわたる日記に文書案・詩集などを加えて編集したもの。日明貿易や安土桃山時代の京坂の世情など重要な史料が多い。
六斎市
ろくさいいち @@@LINK=六斎市 六斎市

六斎市
ろくさいいち

中世〜近世,毎月6回開かれた定期市
室町時代,商品流通の増大につれ,10日ごとの三斎市から5日ごとの月6回の六斎市となった。商人近隣の市の日を違えてつぎつぎに巡回した。江戸時代は城下町に吸収されることが多かったが,現在名残をとどめるものもある。
六・三・三・四制
ろく・さん・さん・しせい @@@LINK=六・三・三・四制 六・三・三・四制

六・三・三・四制
ろく・さん・さん・しせい

第二次世界大戦後,戦前学校令にかわって制定された学校教育法による学校制度
1946年発表,'47年より実施。マッカーサーは,日本の民主教育確立のため,スタッダードを団長とする27名の教育使節団を招き,日本側と協議。六・三・三・四制,教育の機会均等,教育目的・教科書の民主的改善,男女共学などの点に関する報告書により,義務教育はこれまでの6年から小学校6年,中学校3年の9年に,高等学校3年・大学4年の単線型の制度がとられた。短期大学・工業高等専門学校などの出現で単線型は崩れてきている。
六勝寺
ろくしょうじ @@@LINK=六勝寺 六勝寺

六勝寺
ろくしょうじ

平安末期,天皇・女院の発願で京都市東山区岡崎付近に建てられた6寺の総称
白河天皇の法勝寺,堀河天皇の尊勝寺,鳥羽天皇の最勝寺,待賢門院璋子の円勝寺,崇徳天皇の成勝 (じようしよう) 寺,近衛天皇の延勝寺の六つ。1077〜1150年にかけて建てられたが,鎌倉時代になると皆廃絶した。
六波羅
ろくはら @@@LINK=六波羅 六波羅

六波羅
ろくはら

現在の京都市東山区松原町付近にあたる地名
10世紀中ごろ空也上人が創建したと伝えられる六波羅蜜寺がある。平安後期,平正盛がこの地に邸宅を構えてから清盛に至るまで平氏一門の居住地で,平氏政権の本拠であった。平氏滅亡後,源頼朝はここに邸宅をつくった。承久の乱(1221)後,鎌倉幕府はこの地に南北の六波羅探題を置いた。
六波羅政権
ろくはらせいけん @@@LINK=六波羅政権 六波羅政権

六波羅政権
ろくはらせいけん

平氏政権
六波羅探題
ろくはらたんだい @@@LINK=六波羅探題 六波羅探題

六波羅探題
ろくはらたんだい

鎌倉幕府の職名。幕府が京都に設置した出先機関の長官
初め京都守護が置かれていたが,1221年承久の乱で上洛した北条時房・泰時がそのまま京都六波羅の南北の居館に駐在して戦後処理にあたったのが起源。任務は京都の守護,朝廷の監視,尾張(のち三河)以西諸国の裁判・軍事以下の政務管掌で,その権力は強く執権・連署につぐ重職であったので,執権北条氏の一族が任じられた。探題の下には幕府に準じた組織の役職が置かれ,1259年以降,大事は鎌倉の指揮を仰いだが,小事は専行した。1333年元弘の変に際し足利尊氏らに攻められ滅んだ。
六波羅蜜寺
ろくはらみつじ @@@LINK=六波羅蜜寺 六波羅蜜寺

六波羅蜜寺
ろくはらみつじ

京都市東山区にある新義真言宗の寺
963年空也創建以来,中世においては天台別院として隆盛を極めたが,数度の兵火で衰えた。寺宝の木像『空也上人像』は有名。
六分一殿
ろくぶんのいちどの @@@LINK=六分一殿 六分一殿

六分一殿
ろくぶんのいちどの

山名氏
鹿鳴館
ろくめいかん @@@LINK=鹿鳴館 鹿鳴館

鹿鳴館
ろくめいかん

明治前期,国際的社交機関として東京日比谷につくられた洋風建物
外務卿井上馨が条約改正促進のため風俗・習慣の欧化をはかり,イギリス人コンドルの設計で,1883年完成。レンガ造り2階建。内外の上流社会人による舞踏会・音楽会が開催され,欧化政策の先端をきったので,この時代を鹿鳴館時代と呼ぶ。のち華族会館となり,1940年取りこわされ,一部移設されていた表門も'45年の空襲で焼失した。
轆轤
ろくろ @@@LINK=轆轤 轆轤

轆轤
ろくろ

木器・土器の成形に用いられる回転台
弥生時代の唐古・鍵遺跡出土の木製容器にその使用が認められ,弥生土器についても簡単なものが使用されたと推定されている。
盧溝橋事件
ろこうきょうじけん @@@LINK=盧溝橋事件 盧溝橋事件

盧溝橋事件
ろこうきょうじけん

1937(昭和12)年7月7日,日中戦争の発端となった日中両軍の衝突事件
日本軍が北京郊外盧溝橋付近で夜間演習中弾丸がとんできたことを理由に,翌朝中国軍を攻撃。11日現地で停戦協定が結ばれたが近衛文麿内閣は強硬派におされ増兵を決定したため,中国側の抗戦気運を高め,28日の日本軍の北京・天津地区総攻撃を機に泥沼の長期戦・全面戦争に突入した。
ロシア革命
ロシアかくめい @@@LINK=ロシア革命 ロシア革命

ロシア革命
ロシアかくめい

1917年3月,帝政ロシアが廃され,11月共産党の指導のもとに,社会主義政権が樹立された革命
1917年3月,兵士・労働者たちがツァーリズム打倒を叫び市民革命をおこしロマノフ王朝を滅ぼした。かわって臨時政府に社会革命党のケレンスキーが加わり立憲政体を樹立(三月〈二月〉革命)。しかし,しだいに独裁的となったケレンスキー政権に対し,11月レーニンらの率いるボルシェビキ(多数派)が弾圧をうけながらも武装蜂起し,社会主義政権を成立させた(十一月〈十月〉革命)。このロシアでの革命が成功すると,翌'18年,日本はイギリス・アメリカ・フランスとともにこれに干渉し,シベリア出兵を行った。また革命は日本の社会・労働運動を刺激し,第一次世界大戦後,社会主義運動の隆盛の一原因をなした。
ロシア軍艦対馬占領事件
ロシアぐんかんつしませんりょうじけん @@@LINK=ロシア軍艦対馬占領事件 ロシア軍艦対馬占領事件

ロシア軍艦対馬占領事件
ロシアぐんかんつしませんりょうじけん

1861年,ロシア軍艦による対馬占領事件
ロシアはイギリス・フランスに対抗して極東に根拠地をつくろうとして,東シナ海と日本海を制する拠点として対馬を重視,軍艦ポサドニック号を派遣し,芋崎 (いもざき) 浦付近を占領した。対馬藩の反対を拒否して占領を続けたが,対馬藩士や島民の抵抗とイギリス軍艦2隻の来航による圧力で,停泊5か月で退去した。
ローズヴェルト(セオドア)
Theodore Roosevelt @@@LINK=ローズヴェルト(セオドア) ローズヴェルト(セオドア)

ローズヴェルト(セオドア)
Theodore Roosevelt

1858〜1919
アメリカ第26代大統領(在職1901〜09)
共和党出身。太平洋中国問題に関心もち,中国の領土保全門戸開放を主張し,ロシア南下政策非難。日露戦争では,日本に好意的立場をとり,ポーツマス条約の会議を仲介し,1906年にはノーベル平和賞を受賞した。
ローズヴェルト(フランクリン)
Franklin Delano Roosevelt @@@LINK=ローズヴェルト(フランクリン) ローズヴェルト(フランクリン)

ローズヴェルト(フランクリン)
Franklin Delano Roosevelt

1882〜1945
アメリカ第32代大統領(在職1933〜45)
民主党出身。ニュー‐ディール政策で,大恐慌克服に努力。第二次世界大戦では,カイロ・ヤルタ両会談などで指導者として活躍。大西洋憲章を提唱し,収拾を策したが,1945年4月,ドイツ降伏を前に病死した。
六角氏
ろっかくし @@@LINK=六角氏 六角氏

六角氏
ろっかくし

中世,近江国(滋賀県)の守護大名
宇多源氏出身。近江国佐々木氏の嫡流で,湖北の京極氏と同族。近江南部の半国守護,京都の六角堂に屋敷を構え六角氏を称した。足利氏との関係深く権勢をふるったが,義賢 (よしたか) のとき織田信長に抗し,1570年滅亡した。
六歌仙
ろっかせん @@@LINK=六歌仙 六歌仙

六歌仙
ろっかせん

平安前期(9世紀後半),6人の代表的歌人の総称
在原業平 (なりひら) ・僧正遍昭 (へんじよう) ・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主 (くろぬし) の6人をいう。『万葉集』以後,平安初期の漢文学興隆によるいわば和歌の暗黒時代のあとをうけ,『古今和歌集』の前駆的位置を占める歌人。『万葉集』の素朴な歌風から理知的な趣向をこらした歌風に移行した。
ロッキード事件
ロッキードじけん @@@LINK=ロッキード事件 ロッキード事件

ロッキード事件
ロッキードじけん

アメリカのロッキード社の航空機売り込みに絡む戦後最大の汚職事件
1976年,アメリカ上院外交委員会の多国籍企業小委員会公聴会で,ロッキード社のエアバス「トライスター」の全日空への売り込みと自衛隊次期主力戦闘機F−15と対潜嗩戒機P3Cの採用に,30億円以上の不正工作資金が使われたことが明らかとなった。疑惑の中心は,時の総理大臣田中角栄が5億円を収賄したというもので,他の関係者は橋本登美三郎元運輸相ら政府高官,ロッキード社日本総代理店丸紅の幹部,全日空の幹部,右翼児玉誉士夫,政商小佐野賢治などであった。当時の三木武夫首相は真相の徹底究明を約束し,裁判は ‘77年1月から丸紅,全日空,児玉,小佐野の4ルートに分けて進められ,判決(1981〜83)では田中に懲役4年の実刑判決が言い渡されるなど,他の被告も有罪となった。被告らは東京高裁に控訴し,さらに最高裁に上告したが,審理中に田中元首相ら5人の被告が死去したため,公訴棄却となった。この事件は自民党の長期政権の結果生じた政界・官界・財界が癒着した構造汚職であり,田中角栄に象徴される自民党政治の金権体質を表すものであった。
ロッシュ
Léon Roches @@@LINK=ロッシュ ロッシュ

ロッシュ
Léon Roches

1809〜1901
幕末,フランスの外交官
1864年駐日公使として来日。イギリスに対抗して幕府を支援。横須賀製鉄所の建設,武器軍需品供給,第2次長州征討に協力し,徳川慶喜 (よしのぶ) に幕政改革を進言したが,フランスの優位を確立できなかった。鳥羽伏見戦いの後,慶喜に再挙をすすめたが拒否され,幕府の倒壊をみて'68年帰国。

ロドリゴ

ロドリゴ

ドン=ロドリゴ
ロマン主義
ロマンしゅぎ
romanticism @@@LINK=ロマン主義 ロマン主義

ロマン主義
ロマンしゅぎ
romanticism

18世紀末期〜19世紀初頭にかけて,資本主義・市民階級の発展を背景に展開した思想・文芸の傾向
理知的な啓蒙主義・古典主義に対し,感情を重んじ,個性の伸張,人間性の解放を主張する。日本では明治中期の『文学界』の北村透谷・島崎藤村ら,明星派の与謝野鉄幹・晶子らが中心となって展開した。
ロンドン覚書
ロンドンおぼえがき @@@LINK=ロンドン覚書 ロンドン覚書

ロンドン覚書
ロンドンおぼえがき

1862年,幕府イギリスとの間で結ばれた協定
安政の五カ国条約で決めた兵庫新潟江戸大坂開港・開市の期限を,幕府は尊王攘夷運動激化を理由に延期を求め,勘定奉行竹内保徳らをロンドンに派遣し承認させた。5年間延期の代償として貿易品の制限廃止などを決定。ついでフランス・ロシア・オランダもこれにならった。
ロンドン海軍軍縮会議
ロンドンかいぐんぐんしゅくかいぎ @@@LINK=ロンドン海軍軍縮会議 ロンドン海軍軍縮会議

ロンドン海軍軍縮会議
ロンドンかいぐんぐんしゅくかいぎ

1930(昭和5)年1月,イギリスの招請によりロンドンで開催された海軍軍備縮小会議
参加国はイギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの5カ国。日本全権は若槻礼次郎。条約の内容は,(1)主力艦の代艦建造は5年間延期,(2)英米日保有トン数15:15:9と改正,(3)8インチ砲巡洋艦米日の比率10:6.02,補助艦総トン数10:6.97,(4)潜水艦は日米ともに5万2700トン。これに対し軍部右翼および野党立憲政友会は,条約調印は統帥権干犯であると浜口雄幸内閣を非難した。浜口内閣は反対を押し切って調印し,そのため浜口首相狙撃事件がおこった。'35年に第2回会議が開かれたが各国の対立が激しく,日本は脱退した。'36年12月にはワシントン・ロンドン両条約とも満期となり軍縮時代は終わった。

わ @@@LINK=倭 倭


古代,中国・朝鮮で日本のことを呼んだ名称
『漢書』地理志・『後漢書』東夷伝・『魏志倭人伝・『宋書』倭国伝などに前1世紀ころから7世紀ころまで,この名称で日本のことが記録されている。「日本」の始用は推古朝や天武朝などの説がある。日本人のことは倭人と称した。
隈板内閣
わいはんないかく @@@LINK=隈板内閣 隈板内閣

隈板内閣
わいはんないかく

明治後期,憲政党を中心として結成された最初の政党内閣(1898.6〜98.11)
自由・進歩両党が合同して憲政党が成立すると第3次伊藤博文内閣のあとをうけて大隈重信を首相,板垣退助を内相とする隈板内閣が成立した。しかし自由・進歩両党系の対立が続き,文相尾崎行雄の共和演説を契機に党は分裂し(共和演説事件),4か月余りで政権は再び藩閥に戻った。
倭王武
わおうぶ @@@LINK=倭王武 倭王武

倭王武
わおうぶ

『宋書』倭国伝にみえる倭の五王の一人
雄略天皇に比定される。478年の武の上表文には大和政権の国内統一事業,朝鮮半島経略のことが記載されている。451年宋から「使持節都督 (しじせつととく) 倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号を与えられた。
和歌
わか @@@LINK=和歌 和歌

和歌
わか

日本古来の短歌で,漢詩 (からうた) に対する大和歌 (やまとうた)
集団的な生活の表現として生まれた歌謡が,貴族社会において,文字の普及と個人意識の目ざめにより,読んで味わう,個性的心情表現の叙情詩として飛躍的発展をとげた。奈良時代に最古の和歌集として『万葉集』が編まれ,みずみずしい日本人の心を歌い,以後『古今和歌集』『新古今和歌集』,明治時代以後の「アララギ派」など,時代によって叙情の質は変化したが,一貫して日本の叙情詩の中心を占めてきた。古くは長歌・旋頭歌・仏足石歌などの歌体もあったが,平安時代以後は五七五七七の31文字の短歌のみをさすようになった。
和学
わがく @@@LINK=和学 和学

和学
わがく

江戸時代における古典研究の学問
漢学に対する語。国学とほとんど同義に用いられるが,国学が本居宣長らの復古主義・古道の究明を主とするのに比べ,源氏物語・伊勢物語・古今集などの古典文学や有職故実 (ゆうそくこじつ) など伝統文化保持の立場にたって注釈的に研究した学問をいう。中心学者として小沢蘆庵・香川景樹らがいる。
和学講談所
わがくこうだんしょ @@@LINK=和学講談所 和学講談所

和学講談所
わがくこうだんしょ

1793年,塙保己一 (はなわほきいち) が設立した和学専門の学舎(〜1868)
江戸幕府に懇望して江戸麴町に開設。古代の歴史・律令を講究する研究所と門人を教育する機関としての性格をもっていた。林大学頭の支配下にあり,『群書類従』正続などの編集を行った。
若草伽藍跡
わかくさがらんあと @@@LINK=若草伽藍跡 若草伽藍跡

若草伽藍跡
わかくさがらんあと

奈良の法隆寺塔頭の普門院付近にある伽藍跡
昭和の初め発掘調査された,法隆寺の創建当時の伽藍跡。現在の法隆寺の建物はそれが焼失してから再建されたとする再建説が有力である。
若衆歌舞伎
わかしゅかぶき @@@LINK=若衆歌舞伎 若衆歌舞伎

若衆歌舞伎
わかしゅかぶき

江戸前期,元服前の前髪姿の美少年を中心とした歌舞伎
1629年女歌舞伎の禁止に代わって寛永(1624〜44)ころ流行。女歌舞伎と変わらず好色趣味にふけり,風紀上の弊害がはなはだしいとして,'52年禁止された。のち前髪を剃り落とした野郎歌舞伎に移行した。
若槻礼次郎
わかつきれいじろう @@@LINK=若槻礼次郎 若槻礼次郎

若槻礼次郎
わかつきれいじろう

1866〜1949
大正・昭和期の政治家
出雲(島根県)の生まれ。東大卒。大蔵省に入り,大蔵次官を経て,第3次桂太郎・第2次大隈重信両内閣の蔵相,第1次加藤高明内閣の内相などを歴任。この間立憲同志会・憲政会に入党し幹部として活躍した。1926・'31年の2回内閣を組織。また'30年のロンドン海軍軍縮会議には首席全権として出席した。

若槻礼次郎内閣
わかつきれいじろうないかく @@@LINK=若槻礼次郎内閣 若槻礼次郎内閣

若槻礼次郎内閣
わかつきれいじろうないかく

昭和初期,若槻礼次郎を首班とする内閣
〔第1次〈1926.1〜27.4〉〕加藤高明の死後憲政会総裁として組閣。いわゆる幣原 (しではら) 外交の対中国策への軍部・右翼からの非難をのり越えて,'27年金融恐慌を迎えたが,政府の台湾銀行救済勅令案が枢密院で否決され総辞職。〔第2次〈'31.4〜31.12〉〕浜口内閣総辞職後,立憲民政党総裁となり組閣。緊縮財政・行政整理を実施。満州事変勃発で軍部と衝突し,閣内不一致もあり,総辞職した。
和歌所
わかどころ @@@LINK=和歌所 和歌所

和歌所
わかどころ

勅撰和歌集の編集や和歌の講義をする役所
951年村上天皇のとき,宮中の梨壺に設けられ,『万葉集』の訓点事業,『後撰和歌集』の撰進にあたったのをはじめとする。常置的な機関ではなく,また時には歌人の私宅(二十一代集最後の『新続古今和歌集』の場合など)に置いた。明治時代に復活し,1888〜1945年宮内省に置かれた。
若年寄
わかどしより @@@LINK=若年寄 若年寄

若年寄
わかどしより

江戸幕府の老中につぐ職名
旗本・御家人を管理統轄したほか,職人・医師・作事に関する事務をも処理した。定員は3〜5名で,小禄の譜代大名から選任し,老中と同じく月番制で執務。年寄(老中)に対して若年なる年寄の意味で,1633年松平信綱以下6人に旗本以下のことを分掌させたのに始まる。
若菜集
わかなしゅう @@@LINK=若菜集 若菜集

若菜集
わかなしゅう

明治中期,島崎藤村の第一詩集
1897年刊。詩51編。伝統的な詩語や韻律を生かした典雅流麗な表現のうちに,近代の主我的感情の解放を歌った叙情的新体詩で,明治ロマン主義の最初の芸術的開花として大きな影響を与えた。
吾輩は猫である
わがはいはねこである @@@LINK=吾輩は猫である 吾輩は猫である

吾輩は猫である
わがはいはねこである

明治後期,夏目漱石の長編小説
1905年1月〜'06年8月,『ホトトギス』に発表。漱石の出世作で,猫の目を借りて人間社会を風刺している。
若林強斎
わかばやしきょうさい @@@LINK=若林強斎 若林強斎

若林強斎
わかばやしきょうさい

1679〜1732
江戸中期の朱子学者
近江(滋賀県)の人。浅見絅斎 (けいさい) の門に入り,米つきをしながら大津から3里の道を通ったという。のち京都錦小路で塾を開いた。山崎闇斎の学風を継ぎ,実践躬行を強調。また和歌もよくした。

若者組
わかものぐみ @@@LINK=若者組 若者組

若者組
わかものぐみ

近世に入り整備された,村落内での年齢集団の一つ
若衆組・若者仲間などともいう。15〜17歳で組に加入し,その後は村寄合・村仕事を行って一人前と認められた。村内の警備・消防・共同作業などを任務とした。
若山牧水
わかやまぼくすい @@@LINK=若山牧水 若山牧水

若山牧水
わかやまぼくすい

1885〜1928
明治・大正時代の歌人
本名は繁。宮崎県の生まれ。早大卒。尾上柴舟 (さいしゆう) に師事し,青春の哀歓を独特の感傷の調べに伝える歌集『別離』(1910)で注目された。自然と旅と酒を愛した歌人。

倭館
わかん @@@LINK=倭館 倭館

倭館
わかん

李氏朝鮮が日本使者の接待・貿易管理のために設けた館
15世紀初め漢城(現ソウル)と三浦(薺浦 (せいほ) 〈乃而浦 (ないじほ) 〉・富山浦 (ふざんほ) ・塩浦 (えんぽ) )に設置。1510年の三浦の豊臣秀吉文禄・慶長の役で閉鎖・中絶されたが,1609年富山浦に再設され,対馬島民の居留地ともなった。
和漢三才図会
わかんさんさいずえ @@@LINK=和漢三才図会 和漢三才図会

和漢三才図会
わかんさんさいずえ

江戸中期の図説百科事典
正しくは『倭漢三才図会略』という。1713年成立。105巻。大坂の医者寺島良安の編著。天文・人倫・人物・道具動植物鉱物・地理などの部門にわけ,図を添え解説している。百科事典としても早期のものとして重要である。
和漢朗詠集
わかんろうえいしゅう @@@LINK=和漢朗詠集 和漢朗詠集

和漢朗詠集
わかんろうえいしゅう

平安中期の詩歌集
「倭漢朗詠集」とも書く。1013年ころ成立。2巻。藤原公任 (きんとう) 撰。当時愛読された『白氏文集』や勅撰和歌集・『本朝文粋』などから朗詠に適した佳句秀歌約800首を編んだ。『平家物語』など中世の文芸に大きな影響を与えた。
脇街道
わきかいどう @@@LINK=脇街道 脇街道

脇街道
わきかいどう

江戸時代,五街道など本街道に対する支街道
脇往還 (わきおうかん) ともいう。水戸街道・伊勢路・佐屋路熱田から陸上桑名まで)・美濃路・北国路・中国路などが主要な脇街道で,地方の政治・経済・文化のうえで重要な役割を果たした。日光御成街道例幣使街道もその一つであった。
脇本陣
わきほんじん @@@LINK=脇本陣 脇本陣

脇本陣
わきほんじん

江戸時代,宿駅における本陣の予備用の旅宿
大名行列の人数が多くて本陣に収容しきれない場合に使用された。宿場でも大きな宿屋があてられたが,なお足りない場合は,一般の旅籠 (はたご) も使用された。
ワグネル
Gottfried Wagner @@@LINK=ワグネル ワグネル

ワグネル
Gottfried Wagner

1831〜92
ドイツの化学者。御雇外国人の一人
1868年来日。'70年肥前藩に招かれて有田焼を改良し,のち大学南校などで化学・物理を教授。'73年ウィーン,'76年フィラデルフィアの万国博への日本の参加を指導,旭焼の創成などわが国陶磁器工業の発展に貢献し,東京で死去。

ワーグマン
Charles Wirgman @@@LINK=ワーグマン ワーグマン

ワーグマン
Charles Wirgman

1832〜91
イギリスの画家
ロンドンの生まれ。『イラストレイテッド‐ロンドン‐ニュース』の特派員として1861年('61・'59・'58・'57年など諸説あり)に来日。横浜に住んで,本務のかたわら洋画技法を教え,明治初期の洋画発展に貢献した。その門下に高橋由一・五姓田 (ごせだ) 芳柳らがいる。日本女性と結婚し,横浜で没した。また日本における最初の風刺漫画雑誌『ザ‐ジャパン‐パンチ』を刊行した('62〜87)。

和訓栞
わくんのしおり @@@LINK=和訓栞 和訓栞

和訓栞
わくんのしおり

江戸後期,谷川士清 (ことすが) の著した国語辞書
1777〜1887年に3期に分けて刊行。3編,93巻82冊。広範囲にわたる語彙を集録。五十音順に配列し,出典をあげ詳密な解釈を加えた。後世の辞書にも大きな影響を与えた。

わけ @@@LINK=別 別


わけ

古代の姓 (かばね) の一つ
地方豪族に多い。大王家出身者が地方官として下り,地名と結びついた残りとされる。
和気氏
わけうじ @@@LINK=和気氏 和気氏

和気氏
わけうじ

奈良・平安時代の貴族
備前国(岡山県)の地方豪族出身。奈良後期,広虫・清麻呂姉弟が朝廷に仕え,道鏡事件の功により和気朝臣の姓を与えられた。子孫は宇佐使に任ぜられ,平安中期以降医業を世襲して朝廷に仕えた。弘文院はその子弟教育のための大学別曹である。
和気清麻呂
わけのきよまろ @@@LINK=和気清麻呂 和気清麻呂

和気清麻呂
わけのきよまろ

733〜799
奈良末期・平安初期の官人
備前(岡山県)の出身。従三位。姉広虫とともに称徳天皇に仕え,769年皇位に就こうとした道鏡の計画に対し,宇佐八幡宮の神託を告げ,藤原氏勢力を背景として道鏡の野心を退けた。そのため大隅国(鹿児島県)に配流となったが,道鏡失脚後召還された。桓武天皇の信任厚く,平安遷都を進言した。

和気広虫
わけのひろむし @@@LINK=和気広虫 和気広虫

和気広虫
わけのひろむし

730〜799
奈良末期・平安初期の女官
清麻呂の姉。孝謙上皇に仕え,762年上皇の出家に従い法均尼 (ほうきんに) と称した。769年道鏡事件に際し弟清麻呂に坐して備後国(広島県)に流されたが,道鏡失脚後許されて,正四位上,典侍 (てんじ) となった。
倭寇
わこう @@@LINK=倭寇 倭寇

倭寇
わこう

鎌倉末期〜室町時代にかけて朝鮮半島・中国大陸沿岸地域を荒らした海賊的集団に,朝鮮・中国側が名づけた呼称
南北朝争乱期に北九州や瀬戸内海の沿岸漁民や土豪の活動が活発になり,朝鮮半島・山東半島沿岸に進出したが,その行動は暴力的であり,高麗の滅亡を早めることとなった。明も李氏朝鮮もその対策に悩み,室町幕府に鎮圧を要請した。幕府の勘合貿易が行われるようになると,一時衰えたが,戦国時代再び激化し,明の乱民も加わり,南シナ海沿岸や南方地域までその活動範囲を広げた。1572年の明の海禁政策の修正と豊臣秀吉の禁圧により以後しだいに衰微した。
和事
わごと @@@LINK=和事 和事

和事
わごと

近世歌舞伎における演技の型
色男が柔らかみのある動作やせりふで恋愛描写をする演技のこと。元禄期(1688〜1704)に坂田藤十郎が創始し,江戸の荒事 (あらごと) に対し上方で喜ばれた。
和算
わさん @@@LINK=和算 和算

和算
わさん

江戸時代,日本において独自に発達した数学
元来中国算法の移入に源をもつが,戦国時代から江戸初期にかけて城郭築造検地などにより測量が増加し,吉田光由 (みつよし) の『塵劫 (じんごう) 記』の刊行,そろばんの普及とあいまって広まった。中期の関孝和は点竄 (てんざん) 術・円理を発明し,西欧の数学にも劣らないに高めた。のち秘伝化して非実用的遊戯に走り衰微した。
和讃
わさん @@@LINK=和讃 和讃

和讃
わさん

梵讃漢讃に対する語で,国語を用い,仏・菩薩・高僧の徳を讃嘆する今様 (いまよう) 体の歌
一般に七五調の4句を一連とし,その唱誦は経典の読誦に準じる効が信じられ広く行われた。源信の『極楽六時讃』,親鸞の『三帖和讃』などが有名。
和市
わし @@@LINK=和市 和市

和市
わし

中世の経済用語で,物資交換のときに立てられた相場,時価をいう
もとは強市(無理な売買)に対して合意の売買取引を意味した。鎌倉中期以後,荘園年貢の現物運送の不便を荘官が商人と和市でかえ,年貢銭として領主に上納した。
輪島塗
わじまぬり @@@LINK=輪島塗 輪島塗

輪島塗
わじまぬり

石川県輪島市で産する漆器
付近に産する粘土を下塗りに用い,入念に仕上げた堅牢さで有名。室町中期,紀伊根来 (ねごろ) の僧が技法を伝えたといわれ,江戸中期に特産物として全国的に有名になる。
輪中
わじゅう @@@LINK=輪中 輪中

輪中
わじゅう

洪水から集落や耕地を守るために,周囲に堤防をめぐらした区域,およびその集落
有名なのは濃尾平野の木曽・長良・揖斐 (いび) 3川合流地点に発達したもので,ふつう「輪中」といえばこの地域をさす。起源古代末期にさかのぼるが,文書にみえるのは江戸初期からである。農民は輪中単位に強固な共同体を構成。織田信長をしばしば脅かした伊勢長島の一向一揆はきわめて強固だった。
倭人
わじん @@@LINK=倭人 倭人

倭人
わじん

ワシントン会議
ワシントンかいぎ @@@LINK=ワシントン会議 ワシントン会議

ワシントン会議
ワシントンかいぎ

1921(大正10)年11月〜翌年2月にかけて,ワシントンで開かれた海軍軍縮と太平洋・中国問題に関する国際会議
アメリカ大統領ハーディングが提唱し,日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・オランダ・中国・ベルギー・ポルトガルの9カ国が参加。日本全権は加藤友三郎・幣原 (しではら) 喜重郎・徳川家達 (いえさと) 。四カ国条約・海軍軍縮条約・九カ国条約などが成立し,すべてを第一次世界大戦直前の状態に復帰させることが確認され,日本の山東省の旧ドイツ権益返還,シベリア撤兵も決定した。
ワシントン海軍軍縮条約
ワシントンかいぐんぐんしゅくじょうやく @@@LINK=ワシントン海軍軍縮条約 ワシントン海軍軍縮条約

ワシントン海軍軍縮条約
ワシントンかいぐんぐんしゅくじょうやく

1922年2月,ワシントン会議で締結された史上最初の軍備制限条約
日本・イギリス・アメリカ・フランスイタリア調印。主力艦建造を10年間停止し,保有比率を英・米各5,日3,仏・伊各1.67と定めた。日本の保有量は31.5万トン。航空母艦も同様に制限された。1923年発効。10年間有効で '30年のロンドン海軍軍縮会議で '36年まで延長されたが,日本は '34年に単独廃棄した。
早稲田大学
わせだだいがく @@@LINK=早稲田大学 早稲田大学

早稲田大学
わせだだいがく

東京都新宿区西早稲田に本部を置く私立大学
1882年自由民権運動の高揚の中で,在野の人材の養成を目的として,大隈重信が創立した東京専門学校の後身設立当時は官憲圧迫がはなはだしかった。1902年組織を改めて早稲田大学と改称。'04年専門学校令による認可を受け,'20年大学令により正規の私立大学として認可され,'49年新制大学に移行。
早稲・中稲・晩稲
わせ・なかて・おくて @@@LINK=早稲・中稲・晩稲 早稲・中稲・晩稲

早稲・中稲・晩稲
わせ・なかて・おくて

品種の区別
収穫時期の差による名称。奈良時代に,早稲晩稲がうまれ,平安時代に中稲ができた。
和田英作
わだえいさく @@@LINK=和田英作 和田英作

和田英作
わだえいさく

1874〜1959
明治〜昭和期の洋画家
鹿児島県の生まれ。原田直次郎,ついで黒田清輝の天真道場に学ぶ。東京美術学校卒業後渡欧,ラファエル=コランに師事した。帰国後,白馬会会員として活躍,東京美術学校教授,のち校長を務める。作風は外光派で技巧に長じ官学風。1943年文化勲章受章。代表作に『渡頭の夕暮』『懐郷』など。

私小説
わたくししょうせつ @@@LINK=私小説 私小説

私小説
わたくししょうせつ

作者の「私」を中心として,その体験・心境などをいく分の仮構をまじえて描いた作品の総称
「ししょうせつ」とも読む。広い意味で日本古来の随筆文学に包含される。近代では田山花袋の『蒲団』(1907)を最初として独自の小説形態を形成した。
和田三造
わださんぞう @@@LINK=和田三造 和田三造

和田三造
わださんぞう

1883〜1967
明治〜昭和期の洋画家
兵庫県の生まれ。東京美術学校卒。黒田清輝に師事。1907年第1回文展に出品した『南風 (なんぷう) 』で認められる。フランスに留学後,母校教授となり,色彩学を研究した。

和田氏
わだし @@@LINK=和田氏 和田氏

和田氏
わだし

鎌倉時代,相模国の豪族
三浦氏の一族。三浦義明の孫義盛が三浦郡和田に住し,和田氏を称す。源頼朝に従い侍所別当となり,幕府創立期の有力御家人であったが,1213年北条氏の策謀に乗ぜられて挙兵し,滅ぼされた。
渡辺崋山
わたなべかざん @@@LINK=渡辺崋山 渡辺崋山

渡辺崋山
わたなべかざん

1793〜1841
江戸後期の蘭学者・南画家
通称登。三河(愛知県)田原藩家老。小禄の家に生まれ,弟妹たちと離散するほどの貧困な生活を送ったが,のち佐藤一斎らに儒学を,谷文晁に南画を学んだ。田原藩の江戸詰家老となり,高野長英・小関三英らと尚歯 (しようし) 会を組織し蘭学・西洋事情を研究。1837年のモリソン号事件で『慎機論』を著して幕府の措置を批判し,蛮社の獄で永蟄居を命じられ,2年後自殺した。画家としては,西洋画法をとり入れた写生画家として有名で,代表作に『鷹見泉石像』などがある。

和田義盛
わだよしもり @@@LINK=和田義盛 和田義盛

和田義盛
わだよしもり

1147〜1213
鎌倉前期の武将。侍所の初代別当(長官)
三浦義明の孫。源頼朝の挙兵に三浦一族とともに参加し,平氏追討・奥州征討に武功をたて重んじられた。侍所設置とともに初代別当となり,頼朝死後も幕政の合議に参画。1213年,他氏排斥による勢力拡大をはかっていた北条氏の挑発にのり鎌倉で挙兵したが敗れ,義盛以下,一族も多く滅亡した(和田合戦)。

度会家行
わたらいいえゆき @@@LINK=度会家行 度会家行

度会家行
わたらいいえゆき

1256〜1362
鎌倉末期・南北朝時代の伊勢神宮外宮の神官
伊勢神道の大成者で,著書に『類聚神祇本源』がある。また南朝のために尽力し,の思想は北畠親房に影響を与えた。

度会氏
わたらいうじ @@@LINK=度会氏 度会氏

度会氏
わたらいうじ

伊勢神宮外宮 (げくう) の禰宜 (ねぎ) として奉仕した神官の家
律令制下では祭主・宮司の大中臣氏下位にあったが,鎌倉時代以後勢力を伸ばし,行忠 (ゆきただ) ・常昌・家行 (いえゆき) らが活躍。近世では延佳 (のぶよし) が出て繁栄した。明治維新後,1871年神宮改革令により,累代奉仕は終わりをつげた。
度会神道
わたらいしんとう @@@LINK=度会神道 度会神道

度会神道
わたらいしんとう

伊勢神道
度会延佳
わたらいのぶよし @@@LINK=度会延佳 度会延佳

度会延佳
わたらいのぶよし

1615〜90
江戸前期の神道家。伊勢神宮外宮の神官
出口延佳ともいう。伊勢神道を再興し,仏教的な神道説から儒学思想中心の体系的な神道説を主張。その説は道徳的・学究的である。著書に『陽復記』『大神宮神道或問』など。

和同開珎
わどうかいちん @@@LINK=和同開珎 和同開珎

和同開珎
わどうかいちん

奈良時代の銭貨で,皇朝十二銭の最初
「わどうかいほう」とも読む。708(和銅元)年5月銀銭,8月に銅銭鋳造。銀銭は翌年鋳造中止となった。銅銭の直径2.4㎝ ,重さ3.75g ,円形方孔。季禄や賃銀として支払われ,租税として回収された。
王仁
わに @@@LINK=王仁 王仁

王仁
わに

生没年不詳
古代,百済 (くだら) から渡来した博士
漢の王室の子孫と称す。『日本書紀』によると応神天皇時代に来朝,『論語』10巻,『千字文』1巻を献上したことを記す。皇子菟道稚郎子 (うじのわきいらつこ) に学問を教えたという。子孫は西文氏 (かわちのふみうじ) で,東漢氏 (やまとのあやうじ) とともに斎蔵 (いみくら) ・内蔵 (うちくら) の出納事務を担当。長く大和政権の記録に従事した。
倭の五王
わのごおう @@@LINK=倭の五王 倭の五王

倭の五王
わのごおう

5世紀に中国南朝に朝貢した倭の5人の国王
『宋書』倭国伝,『南斉書』『梁書』などに讃・珍(彌)・済・興・武の記録がある。413年讃が使節派遣以来502年武の遣使まで計12回。諸説があるが,それぞれ仁徳(応神・履中)・反正(仁徳)・允恭 (いんぎよう) ・安康・雄略の5人の天皇に擬せられる。遣使の目的は中国から称号を得て,その権威で朝鮮での地位を保持することにあった。
倭奴国
わのなのくに @@@LINK=倭奴国 倭奴国

倭奴国
わのなのくに

奴国 (なこく)
侘び茶
わびちゃ @@@LINK=侘び茶 侘び茶

侘び茶
わびちゃ

わび・さび理念に徹した茶の湯
闘茶一式の茶の湯を改革し,思想をとり入れた。村田珠光に始まり,武野紹鷗 (じようおう) を経て,千利休によって大成後世の茶の湯は遊芸や趣味の要素が強い。
倭名類聚抄
わみょうるいじゅうしょう @@@LINK=倭名類聚抄 倭名類聚抄

倭名類聚抄
わみょうるいじゅうしょう

平安前期の漢和辞書
略称『倭名抄』。「和名類聚抄」とも書く。930年代の成立。10巻本と20巻本とがある。源順 (みなもとのしたごう) 編。百科辞書的な分類により,古代の百科・語学の研究に重要な史料である。
和与
わよ @@@LINK=和与 和与

和与
わよ

中世の法律用語で,無償譲与および訴訟当事者の和解契約
元来は贈与を意味したが,鎌倉時代以後財産の相続人や他人などに対する無償譲与および訴訟当事者の一方または相互の譲歩による和解契約の意に使用された。
和様
わよう @@@LINK=和様 和様

和様
わよう

書道・建築における日本化した様式
書道では平安中期に日本化の傾向が強くなり,三蹟らによって和様書風が大成。藤原行成の世尊寺流などが著名である。建築では,鎌倉時代の大仏様や禅宗様に対して,それ以前に行われた寺社建築や寝殿造の様式をいう。本来,優美な姿を特色としたが鎌倉時代には簡素となった。代表的遺構として石山寺多宝塔・三十三間堂などがある。
割竹形石棺
わりたけがたせっかん @@@LINK=割竹形石棺 割竹形石棺

割竹形石棺
わりたけがたせっかん

石棺
大乗院寺社雑事記
だいじょういんじしゃぞうじき @@@LINK=大乗院寺社雑事記 大乗院寺社雑事記

大乗院寺社雑事記
だいじょういんじしゃぞうじき

室町時代,興福寺大乗院門跡の日記
1450〜1527年の約80年間,門跡の尋尊 (じんそん) ・政覚 (せいかく) ・経尋 (けいじん) の3人によって書き継がれた日記約190冊とその他の記録約70冊よりなる。興福寺および春日神社関係の事件の日々の記録ではあるが,応仁の乱前後の土一揆・の記事をはじめ,政治・経済・社会・宗教などの研究に貴重な史料である。
大乗院日記目録
だいじょういんにっきもくろく @@@LINK=大乗院日記目録 大乗院日記目録

大乗院日記目録
だいじょういんにっきもくろく

興福寺大乗院所蔵の日記類を抄出し,同院門跡尋尊 (じんそん) が編纂した記録
1065〜1504年の間を記す。土一揆山城国一揆に関する記述など,室町時代の貴重な史料。
大乗戒壇
だいじょうかいだん @@@LINK=大乗戒壇 大乗戒壇

大乗戒壇
だいじょうかいだん

大乗戒を授けるための戒壇
最澄従来東大寺の戒壇を小乗戒壇とし,延暦寺に大乗戒壇を設置しようとして勅許を願ったが,南都諸寺の反対にあい,822年最澄の死後7日にしてようやく認められた。
太政官
だいじょうかん @@@LINK=太政官 太政官
だじょうかん @@@LINK=太政官 太政官

太政官
だいじょうかん

①律令官制の中央最高機関
②明治政府の最高官庁
太政大臣・左大臣・右大臣・大納言以下で構成され,のち令外官 (りようげのかん) の中納言や参議が加わった。事務局として,少納言局・左弁官局・右弁官局があり,左弁官局は中務 (なかつかさ) ・式部・治部 (じぶ) ・民部,右弁官局は兵部 (ひようぶ) ・刑部 (ぎようぶ) ・大蔵・宮内の各省を管轄した。平安時代に蔵人 (くろうど) 所・摂政・関白などが設置され実権を失ったが,官制は江戸末期まで続いた。
「だじょうかん」と読む。1868年の政体書により設置。議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の7官を統轄した。たびたびの改革を経て,'85年内閣制度実施により廃止された。

太政官
だじょうかん

だいじょうかん
太政官符
だいじょうかんぷ @@@LINK=太政官符 太政官符

太政官符
だいじょうかんぷ

太政官から所管の官司に下す公文書
略して官符ともいう。符は上級役所から管轄下の役所に下す公文書。
大嘗祭
だいじょうさい @@@LINK=大嘗祭 大嘗祭

大嘗祭
だいじょうさい

天皇即位後,初めて天照大神 (あまてらすおおみかみ) と天神・地祇に新穀を供える儀式
「おおにえのまつり」「おおなめまつり」とも読む。一世一度の大祭で即位直後に行われることから践祚 (せんそ) 大嘗祭ともいう。卜定 (ぼくじよう) された悠紀 (ゆき) ・主基 (すき) の2国からの新穀を供えた。中世に断絶していたが,江戸時代に復興し現在に至る。
大正政変
たいしょうせいへん @@@LINK=大正政変 大正政変

大正政変
たいしょうせいへん

大正初期の1913年,第3次桂太郎内閣が第1次護憲運動によって崩壊した政変
1912(大正元)年12月,第2次西園寺公望 (きんもち) 内閣が陸軍の要求する2個師団増設を拒否したため,上原勇作陸相が単独で辞職,陸軍が後継陸相を出さないため内閣は総辞職した。後継首相に長州閥で陸軍の長老桂太郎が三たび首相となったが,第1次護憲運動によって53日で総辞職した。
太政大臣
だいじょうだいじん @@@LINK=太政大臣 太政大臣
だじょうだいじん @@@LINK=太政大臣 太政大臣

太政大臣
だいじょうだいじん

太政官の長官
①律令制の最高官で大宝令で制度化され,「則闕 (そつけつ) の官」と称し,適任者のいないときは置かなかった。律令制以前に大友皇子が任じられている。人臣では藤原仲麻呂が太政大臣に相当する大師となったのが初め。平安時代,藤原良房以後藤原氏が多く任ぜられた。
②「だじょうだいじん」と読む。明治時代の太政官制で,1871年に三条実美が任ぜられ,'85年の内閣制度実施まで続いた。

太政大臣
だじょうだいじん

だいじょうだいじん
大正デモクラシー
たいしょうデモクラシー @@@LINK=大正デモクラシー 大正デモクラシー

大正デモクラシー
たいしょうデモクラシー

大正期に高まった自由主義・民主主義的風潮で,明確な定義はしにくい
産業や市民社会の発展,第一次世界大戦後の世界的なデモクラシーの傾向などが背景と考えられる。民本主義思想や普選運動の拡大,社会・労働運動や自由教育運動の活発化がその成果といえよう。
大織冠
たいしょくかん @@@LINK=大織冠 大織冠

大織冠
たいしょくかん

大化の改新政府の定めた官位の最高位
647年7色13階,649年19階,664年26階冠位の制で,いずれも最高位。669年藤原鎌足が臨終に際して天智天皇ので任命され,以後任命をみない。のち鎌足の代名詞となった。
大人
たいじん @@@LINK=大人 大人

大人
たいじん

原始日本の上層身分の一つ
魏志倭人伝にみえ,一夫多妻であった。身分の低い下戸 (げこ) が大人と話すときは,うずくまり地に手をつけたという。
大審院
だいしんいん @@@LINK=大審院 大審院

大審院
だいしんいん

明治初期〜昭和前半,最高の司法裁判所
1875年大阪会議の結果三権分立が決まり,裁判権を確立するために東京に開設。ついで,大日本帝国憲法施行とともに,最高の裁判所となる。民事部・刑事部が設けられ,地方裁判所・控訴院の判決を不服とするの最終裁判および皇室犯・内乱罪の裁判を行う。第二次世界大戦後の1947年,最高裁判所に代わった。
大成会
たいせいかい @@@LINK=大成会 大成会

大成会
たいせいかい

明治中期,第1議会の政府支持党
1890年杉浦重剛ら衆議院議員により「中正不偏」を掲げてつくられた政治団体。政府擁護の立場をとり,民党からは吏党と呼ばれた。内紛が続き,'91年第2議会の解散によって消滅した。
大勢三転考
たいせいさんてんこう @@@LINK=大勢三転考 大勢三転考

大勢三転考
たいせいさんてんこう

幕末,伊達千広 (ちひろ) の著した歴史書
1848年成立。3巻。神武天皇以降江戸幕府成立までを,骨 (かばね) の代・職 (つかさ) の代・名 (みよう) の代と,時代の大勢が三たび転じたという史観に立つ。随所に高い識見がみられ,国学の中から達し得た最高の通史とされている。
大政奉還
たいせいほうかん @@@LINK=大政奉還 大政奉還

大政奉還
たいせいほうかん

1867年,江戸幕府15代将軍徳川慶喜 (よしのぶ) の朝廷への政権返上
薩長連合(1866)以後討幕運動が進展する過程で,これを回避するため,前土佐藩主山内豊信は藩士後藤象二郎を通じて大政奉還と公議政体論を幕府に建白した。慶喜はこれを受けいれ,薩長両藩への討幕の密勅降下と同じ10月14日政権返上を朝廷に上奏,翌日許された。これは雄藩連合政権下での徳川氏の存続や土佐藩の発言権増大をねらったものであったが,武力討幕の方針を堅持する薩長派による王政復古・戊辰 (ぼしん) 戦争でさえぎられた。
大政翼賛会
たいせいよくさんかい @@@LINK=大政翼賛会 大政翼賛会

大政翼賛会
たいせいよくさんかい

第二次世界大戦中の国民統制組織(1940〜45)
第2次近衛文麿内閣の新体制運動にあたり,既成政党を吸収し,国民的政治力の結集をめざして計画され,内閣総理大臣を総裁とし,「臣道実践」を目的としたが,実際には政府への協力機関となる。のち大日本産業報国会・大日本婦人会・部落会・町内会などを指導下に置き,国民統制の中核となった。'45年6月,国民義勇隊に統合され解散。
大仙院
だいせんいん @@@LINK=大仙院 大仙院

大仙院
だいせんいん

京都大徳寺の塔頭 (たつちゆう) の一つ
永正年間(1504〜21)の創建。玄関を完備した室町時代の方丈として貴重。方丈の東にある庭園は枯山水の名作として名高く,相阿弥の作と伝えられる。また方丈襖絵は狩野元信のという。
大戦景気
たいせんけいき @@@LINK=大戦景気 大戦景気

大戦景気
たいせんけいき

第一次世界大戦による,1915〜19年にかけての好景気
ヨーロッパ諸国が大戦に参加したため,アジア市場から欧米商品が退潮し,交戦諸国からの日本への需要もふえ,'14年11億円の債務国であったのが '20年には27億円の債権国にかわり,成金時代を現出した。
大山古墳
だいせんこふん @@@LINK=大山古墳 大山古墳

大山古墳
だいせんこふん

大阪府堺市大仙町にある仁徳天皇の墳墓といわれる巨大古墳
大仙陵古墳ともいう。古墳文化全盛期の前方後円墳。大きさは世界最大で,墳丘の総長475m,後円部径245m,前方部幅300m,後円部高34.6m,周囲に3重の濠がある。葺石や各種の埴輪が出土。その土盛りのため1日1000人の人夫が4年間を要したと推定されている。誉田御廟山 (こんだごびようやま) 古墳(伝応神天皇陵)とともに,5世紀前後のもので,氏姓国家全盛時代の皇室の経済力と権力の強大さを思わせる。
大山寺縁起絵巻
だいせんじえんぎえまき @@@LINK=大山寺縁起絵巻 大山寺縁起絵巻

大山寺縁起絵巻
だいせんじえんぎえまき

鳥取県伯耆大山の中腹にある大山寺縁起霊験について描いた巻物
1398年の奥書がある。10巻。土佐派画家の絵。当時田植えなどの風俗の好史料で,国宝に指定されていたが1928年本堂とともに焼失
大蔵経
だいぞうきょう @@@LINK=大蔵経 大蔵経

大蔵経
だいぞうきょう

一切 (いつさい) 経
大内裏
だいだいり @@@LINK=大内裏 大内裏

大内裏
だいだいり

皇居(内裏)や諸官庁を配置した一区画で,平城京・平安京の中央北部にある
宮城ともいう。平安京のそれは南北460丈(約1400m),東西384丈(約1200m)で,中央に朝堂院,その東北に内裏,西に豊楽院 (ぶらくいん) などがあった。
大東亜会議
だいとうあかいぎ @@@LINK=大東亜会議 大東亜会議

大東亜会議
だいとうあかいぎ

太平洋戦争中の1943年11月,占領地域の戦争協力体制を強化するため東京で開かれた会議
東条英機首相・汪兆銘中国代表のほか,満州・タイ・インド・フィリピン・ビルマの代表が出席。共存共栄・独立尊重・互恵提携などを定めた「大東亜共同宣言」を採択した。
大東亜共栄圏
だいとうあきょうえいけん @@@LINK=大東亜共栄圏 大東亜共栄圏

大東亜共栄圏
だいとうあきょうえいけん

日中戦争から太平洋戦争のころの日本の対アジア基本構想
欧米の植民地支配の代わりにアジア地域に共存共栄の自給自足共同体(共栄圏)を樹立しようというものだが,現実には日本にとって資源や労働力の確保が目的。第2次近衛文麿内閣の声明(1940)と「大東亜政略指導大綱」で明らかにされた。'43年11月,東条英機首相を中心に,東京で大東亜会議が開かれ,日本の勢力下の国ぐにの代表が集まり宣言を採択したが,具体的効果はなかった。
大東亜戦争
だいとうあせんそう @@@LINK=大東亜戦争 大東亜戦争

大東亜戦争
だいとうあせんそう

太平洋戦争
大道寺友山
だいどうじゆうざん @@@LINK=大道寺友山 大道寺友山

大道寺友山
だいどうじゆうざん

1639〜1730
江戸前・中期の兵法家
山城(京都府)伏見の人。小幡景憲・北条氏長・山鹿素行らについて甲州流兵法を修め,また儒学の素養も深く,浅野氏会津松平氏・越前松平氏など諸藩に仕え優遇された。主著に『岩淵夜話』など。

大同団結運動
だいどうだんけつうんどう @@@LINK=大同団結運動 大同団結運動

大同団結運動
だいどうだんけつうんどう

1886〜89年に行われた民権派の最後の反政府統一運動
1886年旧自由党員の全国有志大懇親会で,星亨 (とおる) が来るべき国会開設に備え民権各派は小異を捨てて大同につくべしと説き,後藤象二郎を運動の盟主にかついだ。'87年の三大事件建白運動の全国的盛りあがりを利用して推進し,後藤は東北・東海道・北陸の遊説で民権派の連合を力説。運動は全国的に高揚したが,政府の懐柔と保安条例などの弾圧の中で,'89年後藤が突然黒田清隆内閣の逓信大臣として入閣し,団結派は分裂,運動も崩壊した。
大徳寺
だいとくじ @@@LINK=大徳寺 大徳寺

大徳寺
だいとくじ

京都市北区にある臨済宗大徳寺派の本山
1319年宗峰妙超 (しゆうほうみようちよう) (大灯国師)の創建。応仁の乱で焼けたが一休宗純が復興。江戸初期には沢庵などの名僧も出た。茶道との関係も深く,千利休は有名。塔頭 (たつちゆう) も多く,孤篷庵・大仙院・真珠庵などが知られている。
大徳寺唐門
だいとくじからもん @@@LINK=大徳寺唐門 大徳寺唐門

大徳寺唐門
だいとくじからもん

京都の大徳寺にある安土桃山時代唐門で,聚楽第遺構として伝えられるが,確証はない。
大納言
だいなごん @@@LINK=大納言 大納言

大納言
だいなごん

律令官制で太政官 (だいじようかん) の次官にあたる要職
天皇に近侍して庶政に参画し,大臣が参内しないときは代わって政務を行った。正三位相当官で,定員4名。中世になって倍増された。
第二次世界大戦
だいにじせかいたいせん @@@LINK=第二次世界大戦 第二次世界大戦

第二次世界大戦
だいにじせかいたいせん

1939〜45年にかけて行われた世界戦争。帝国主義列強間の戦争と反ファシズム・民族自決の戦争を含む
現状打破を企てる後進資本主義国の日本・ドイツ・イタリアは植民地の拡大をめざし,1931年満州事変,'35年イタリアのエチオピア併合,'37年日中戦争,'39年ドイツのポーランド侵略,と各地で侵略を開始し,'40年9月日独伊三国同盟を結んだ。アメリカはイギリス・フランス側を支援し,'41年8月米英共同宣言(大西洋憲章)を発して反ファシズム連合を結集,ファシズム打倒のための資本主義国・社会主義国の協力が実現した。日中戦争の長期化に悩む日本が,'41年12月,対英米戦太平洋戦争を開始すると,ドイツ・イタリアも対米宣戦を行い,ヨーロッパ戦とアジア戦が結びつき世界戦争となった。ヨーロッパ各地の人民・文化人はすでに抵抗運動(レジスタンス)を開始しており,中国も共産党の指導のもとに反日民族戦争を戦い,各国に民族独立運動がおこり,戦争の性格を新しくした。その後'43年スターリングラードのドイツ軍降伏,日本軍のガダルカナル撤退を転機とし,イタリアの降伏,'45年5月ドイツ,8月日本が相ついで降伏し,大戦は終結した。
対日平和条約
たいにちへいわじょうやく @@@LINK=対日平和条約 対日平和条約

対日平和条約
たいにちへいわじょうやく

サンフランシスコ平和条約
対日理事会
たいにちりじかい
Allied Council for Japan @@@LINK=対日理事会 対日理事会

対日理事会
たいにちりじかい
Allied Council for Japan

略称ACJ。第二次世界大戦後,連合国により設置された対日管理機関の一つ
「連合国対日理事会」の略称。1945年12月,モスクワでのアメリカ・イギリス・中国・ソ連の4カ国外相会議の決定により,'46年2月連合国軍最高司令官の諮問機関として東京に設置。4カ国代表で構成。農地改革など初期の占領政策に影響力をもった。'52年サンフランシスコ平和条約の発効で消滅した。
大日本沿海輿地全図
だいにほんえんかいよちぜんず @@@LINK=大日本沿海輿地全図 大日本沿海輿地全図

大日本沿海輿地全図
だいにほんえんかいよちぜんず

江戸後期,伊能忠敬の作成した日本最初の実測地図
日本輿地全図・伊能図ともいう。225図。忠敬は幕命により1800年蝦夷 (えぞ) 地の測量に着手,以来全国の沿岸測量を行い,幕府天文方とともに作成。忠敬の死後3年目の'21年,高橋景保により完成された。その精密さにより,長く日本地図作成の基礎となった。
大日本言論報国会
だいにほんげんろんほうこくかい @@@LINK=大日本言論報国会 大日本言論報国会

大日本言論報国会
だいにほんげんろんほうこくかい

太平洋戦争中に組織された思想家・評論家の戦争協力団体
1942年,日本世紀社同人を中心に日本評論家協会関係者などを加え発足。会長徳富蘇峰を中心に会員917名。西田哲学京都学派へは,なまぬるいと批判し,また『中央公論』にも攻撃を加えた。第二次世界大戦後の'45年8月解散。
大日本古文書
だいにほんこもんじょ @@@LINK=大日本古文書 大日本古文書

大日本古文書
だいにほんこもんじょ

明治時代以降,東大史料編纂所が刊行している古文書集成の叢書
正倉院文書を中心とする編年文書,『高野山』『浅野家』『伊達家』など寺社・諸家伝来の家わけ文書,別に幕末外国関係文書などがある。1901年より刊行開始,いずれも新発見の文書が増加するので未完
大日本産業報国会
だいにほんさんぎょうほうこくかい @@@LINK=大日本産業報国会 大日本産業報国会

大日本産業報国会
だいにほんさんぎょうほうこくかい

1940年結成。産業報国会の全国的組織。
大日本史
だいにほんし @@@LINK=大日本史 大日本史

大日本史
だいにほんし

江戸前期,水戸藩で編集に着手し,明治末期に完成した歴史書
397巻・目録5巻。1657年藩主徳川光圀 (みつくに) の命で始められ,完成は1906(明治39)年。神武天皇から後小松天皇までの歴史を『史記』にならい漢文による紀伝体で記述。神功 (じんぐう) 皇后を皇妃伝に入れ,大友皇子を天皇とし即位を認め,南朝を正統としたことの三つが特色とされる。その大義名分論は,幕末尊王論の思想的背景として大きな影響を及ぼした。
大日本史料
だいにほんしりょう @@@LINK=大日本史料 大日本史料

大日本史料
だいにほんしりょう

明治時代以降,東大史料編纂所が刊行している編年体の史料叢書
明治初年に修史局をつくり六国史を継ぐ計画が立てられたが,叙述法について議論があり,結局,六国史以後明治維新までを16編に分け,編年体で主文に史料を添える方式で進められている。1901年から刊行開始し,継続刊行中。
大日本政治会
だいにほんせいじかい @@@LINK=大日本政治会 大日本政治会

大日本政治会
だいにほんせいじかい

1945年3月,小磯国昭内閣が翼賛政治会を解散して,新たに組織した政治結社
国民糾合・国体護持をうたったが,実質は翼賛政治会と変わらず,敗戦後ほどなく解散した。
大日本青年団
だいにほんせいねんだん @@@LINK=大日本青年団 大日本青年団

大日本青年団
だいにほんせいねんだん

昭和期の全国青年団組織
1924年発足した大日本連合青年団改称('34)したもの。戦争目的に青年を動員するための統制団体と化し,'41年大日本青少年団に統合され,敗戦によって解散した。
大日本帝国憲法
だいにほんていこくけんぽう @@@LINK=大日本帝国憲法 大日本帝国憲法

大日本帝国憲法
だいにほんていこくけんぽう

戦前の日本国家の骨格となった憲法
明治憲法ともいう。伊藤博文を中心に井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らがプロシア憲法模範とし,ロエスレル・モッセの助言のもとに草案を作成,枢密院の審議を経て1889(明治22)年2月11日欽定憲法として発布。翌'90年11月29日施行。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」と,天皇が唯一の統治者であることを定めている。国民は天皇に統治される「臣民」とされ,天皇統治を翼賛するだけであるが,臣民の参政権と基本的人権がいくらかでも認められている点に,自由民権運動の成果が反映されていた。1947(昭和22)年5月3日,日本国憲法の施行により廃止された。
大日本婦人会
だいにほんふじんかい @@@LINK=大日本婦人会 大日本婦人会

大日本婦人会
だいにほんふじんかい

太平洋戦争中,政府が組織した全国的な女性団体
1942年,戦時体制強化のために愛国婦人会・大日本国防婦人会・大日本連合婦人会を統合して設立。「高度国防国家体制に即応するため,皇国伝統の婦道に則り,修身斉家の実を挙ぐる」ことを目的に,20歳以上の女性を強制的に加入させて,廃品回収・国防訓練・兵士の慰問・遺族の援護などを行った。'45年国民義勇隊に改組したが,敗戦により解散。
大日本紡績連合会
だいにほんぼうせきれんごうかい @@@LINK=大日本紡績連合会 大日本紡績連合会

大日本紡績連合会
だいにほんぼうせきれんごうかい

1882年大阪紡績会社を中心に機械紡績工業12社で結成した紡績連合会の後身
1902年大日本紡績連合会と改称。綿業資本の発達,綿業界における独占の維持強化に尽力,特に不況時に操業短縮で高価格を維持し,大衆犠牲を転化した。
大日本連合青年団
だいにほんれんごうせいねんだん @@@LINK=大日本連合青年団 大日本連合青年団

大日本連合青年団
だいにほんれんごうせいねんだん

1924(大正13)年結成された市町村青年団体の全国組織
日露戦争(1904〜05)後,政府の指導のもとに市町村単位の青年団がつくられ,全国組織として全国青年団中央会・全国青年団連合会があったが,'24年大日本連合青年団に統合。軍国主義に奉仕した。
大日本労働総同盟友愛会
だいにほんろうどうそうどうめいゆうあいかい @@@LINK=大日本労働総同盟友愛会 大日本労働総同盟友愛会

大日本労働総同盟友愛会
だいにほんろうどうそうどうめいゆうあいかい

友愛会
台場
だいば @@@LINK=台場 台場

台場
だいば

東京湾品川沖にある,江戸時代の砲台跡
御台場ともいう。ペリーの来航を機に,1853年江川太郎左衛門の献策により着工
大仏造立の詔
だいぶつぞうりゅうのみことのり @@@LINK=大仏造立の詔 大仏造立の詔

大仏造立の詔
だいぶつぞうりゅうのみことのり

743年,聖武天皇盧舎那仏大仏を造ろうとして発した
飢饉・疫病藤原広嗣の乱など,律令国家危機をのりきろうとして近江紫香楽 (しがらき) 宮で発した東大寺大仏のもととなる詔。
大仏様
だいぶつよう @@@LINK=大仏様 大仏様

大仏様
だいぶつよう

鎌倉初期,南宋より伝えられた建築様式
和様・禅宗様に対する語。重源 (ちようげん) が東大寺再建のため入宋して学んだもので,その手法は軽快で簡素な力強さを感じさせる。差肘木 (さしひじき) (に肘木をさし込む)を用いる。東大寺南大門はその代表的遺構。
太平記
たいへいき @@@LINK=太平記 太平記

太平記
たいへいき

南北朝時代の軍記物語
14世紀後半の成立。40巻。小島法師説もあるが著者不詳。南朝の立場から南北朝内乱を描く。全編は大体3部に分けられ,鎌倉幕府の崩壊から建武の新政,新政の失敗,南北朝の対立,室町幕府の成立・安定で筆をとめる。随所にみられる痛烈な政治批判・時世批判は社会思想史的にも重要。
太平記読み
たいへいきよみ @@@LINK=太平記読み 太平記読み

太平記読み
たいへいきよみ

『太平記』の講釈師
室町時代には『太平記』を物語僧が朗読してきたが,近世初期には武家の要求に応じて専門家が現れ,17世紀末期に職業化し講談の起源となった。
太平洋画会
たいへいようがかい @@@LINK=太平洋画会 太平洋画会

太平洋画会
たいへいようがかい

明治時代以来,白馬会と並んで活躍した民間洋画団体
浅井忠らの明治美術会解散後,1901年満谷国四郎・石川寅治らが結成。のち中村不折・新海竹太郎らも参加し,白馬会に対抗した。
太平洋戦争
たいへいようせんそう @@@LINK=太平洋戦争 太平洋戦争

太平洋戦争
たいへいようせんそう

第二次世界大戦のうち,アジアにおける日本とアメリカ・イギリス・中国など連合国との戦争(1941〜45)
当時日本では大東亜戦争と呼び,アジア諸地域を欧米の支配から解放し,大東亜共栄圏建設をめざす「聖戦」と称した。1937年以来の日中戦争の長期化に伴い,イギリス・アメリカとの対立が激化する中で,日本軍は戦局の打開と東南アジア資源確保のため,'40年フランス領インドシナ北部に進駐,同年日独伊三国同盟を結成した。連合国側はABCD包囲陣で日本に対抗したが,'41年日本軍がフランス領インドシナ南部に進駐を行い日米交渉が行きづまり,開戦は決定的となった。12月8日真珠湾奇襲・マレー沖海戦で制海権を握った日本軍は,フィリピン・オランダ領インドネシアなどを占領,南西太平洋を制圧し,南方資源で自給自足体制を形成したが,このころからアメリカは反撃に転じ,'42年ミッドウェー海戦で日本の航空母艦4隻を失わせ,'43年ガダルカナル島を占領。日本軍は制海・制空権をほとんど失い,日本本土は激しい空襲に見舞われた。政府は大政翼賛会のもとに国民生活を統制し,戦争体制に全面協力させたが,生産の破壊・労働力の極度の不足に,国民ははなはだしく疲弊し,主食にもこと欠くありさまであった。'45年4月の沖縄陥落,8月の広島・長崎への原爆投下・ソ連参戦により日本はついにポツダム宣言を受諾,無条件降伏し連合軍に占領された。
帯方郡
たいほうぐん @@@LINK=帯方郡 帯方郡

帯方郡
たいほうぐん

3世紀初め朝鮮にあった,中国が直接統治した郡
後漢から独立した公孫 (こうそん) 氏が,楽浪郡の南半をさいて設置。現在のソウル付近が中心。後漢が滅亡し,238年魏王朝の支配下に入ると,翌年邪馬台国 (やまたいこく) 女王卑弥呼 (ひみこ) が使を送り,通交を求め,以後魏との通交の中継地となった。4世紀初め中国勢力が衰退し,百済 (くだら) となった。
大宝律令
たいほうりつりょう @@@LINK=大宝律令 大宝律令

大宝律令
たいほうりつりょう

701(大宝元)年制定され,翌年施行された律令政治の基本法
律6巻。令11巻。文武天皇の命で,刑部 (おさかべ) 親王・藤原不比等 (ふひと) ・粟田真人 (あわたのまひと) らの編纂。757年に養老律令が施行されるまで行われたが,両者の内容は大差ない。全文は今日伝わらないが,『令集解 (りようのしゆうげ) 』などにより条文の一部を知ることができる。中国の法典をとし,日本の国情に適合するよう変えてある。大化の改新の目標の完成とみることができる。
大本営
だいほんえい @@@LINK=大本営 大本営

大本営
だいほんえい

戦時において,大元帥である天皇が陸海軍を統率する最高の統帥部
1893年戦時大本営条例によって置かれた。初め参謀総長が幕僚長となったが,1903年改正され,海軍軍令部長が並んで幕僚長となった。'37年大本営令に改正して設置,政・戦一致を期するため,大本営政府連絡会議が設けられたが,形式的なものに終わり,'44年には最高戦争指導会議が設置され,'45年敗戦により廃止された。
大犯三箇条
だいぼんさんかじょう @@@LINK=大犯三箇条 大犯三箇条

大犯三箇条
だいぼんさんかじょう

鎌倉時代の守護の職権をいう
源頼朝のとき,守護の権限は,国内の御家人の大番役を催促すること,謀反人・殺害人の取締りの3カ条が慣例となっていた。1232年御成敗式目では,それに夜討・強盗・山賊・海賊の追捕が加えられて成文化された。式目制定後,大番催促,謀反人・殺害人の検断の3項を大犯三箇条と呼ぶようになった。
当麻寺
たいまでら @@@LINK=当麻寺 当麻寺

当麻寺
たいまでら

奈良県北葛城郡当麻町,二上山の東麓にある寺
7世紀中ごろ,当麻氏の氏寺として創建されたらしい。寺蔵の曼荼羅 (まんだら) は天平時代に藤原豊成の娘中将姫が織ったというので有名な浄土変相図(国宝)で,中世模本ができた。
台密
たいみつ @@@LINK=台密 台密

台密
たいみつ

天台宗に伝わる密教
東密に対する呼称。天台宗は初め顕教とされていたが,9世紀中ごろ円仁・円珍が入唐して,密教を学んでから密教的色彩を濃くし,加持祈禱を盛んにして台密と呼ばれるようになった。のち山門と寺門に分かれた。
大名
だいみょう @@@LINK=大名 大名

大名
だいみょう

江戸時代,将軍から領地を与えられた1万石以上の武士
もと大名田堵または大名主 (だいみようしゆ) から出た語。室町時代の守護大名,戦国時代の戦国大名の意にも用いる。江戸時代,将軍から知行地を与えられ,武家諸法度を守り,参勤交代,妻子江戸居住,戦時の軍役負担などの義務を負担した。徳川氏との関係から親藩・譜代・外様に分かれ,約270家。城を有するものは城持大名と呼ばれた。領国を藩といい家臣をもち一部に知行地を与え城下町に集住させて支配した。幕府の要職は親藩・譜代から選ばれた。また大名の監視は大目付があたった。明治維新後,華族となり廃藩置県で東京居住を命じられた。
大名貸
だいみょうがし @@@LINK=大名貸 大名貸

大名貸
だいみょうがし

江戸時代,豪商が大名に対し行った貸付け
藩の財政難で江戸中期以降盛行。両替商を兼ねる掛屋 (かけや) や出入りの豪商らが年貢米を担保に金融することが多い。返済が容易でなく借金が増大した結果,大名が借金をふみ倒し,貸主が破産する場合もあったが,豪商らは以後の金融に応じないことを協定して対抗した。明治維新時の藩債は約7500万円で,政府が継承,うち1843年以前の借金を帳消にし,残高約3500万円を現金および長期年賦の公債で返還した。
大名知行制
だいみょうちぎょうせい @@@LINK=大名知行制 大名知行制

大名知行制
だいみょうちぎょうせい

江戸時代,大名による土地・人民の支配体制
戦国大名の領国支配体制に基礎を置き,織豊政権の全国統一を経て完成。大名は幕府から朱印状で認められた土地(知行地)の支配権(徴税・行政・裁判権など)を獲得。土地は石高で表示された。さらに大名は家臣(給人)に知行地を分与して重層的に支配。ただし給人は城下町に集住して知行地から切り離され,支配権にも制約が大きく,また大名も相続将軍の代替りごとに知行権再認知を必要とし,国替・改易のおそれもあった。こうして幕府による分権的で中央集権的な全国支配が完成した。世界史的にも独特の封建社会とみなされる。
大名飛脚
だいみょうひきゃく @@@LINK=大名飛脚 大名飛脚

大名飛脚
だいみょうひきゃく

江戸時代諸大名江戸藩邸国元との通信にあたらせた飛脚
幕府が設けた継飛脚 (つぎびきやく) に対する。尾張藩紀伊藩七里飛脚はその例。しかし費用がかさむため,民間の町飛脚発達すると多くの大名はこれに転用した。
大名領国制
だいみょうりょうごくせい @@@LINK=大名領国制 大名領国制

大名領国制
だいみょうりょうごくせい

戦国時代の大名の支配体制
封建制発足の過程において,室町時代に守護領国制が成長したが,守護大名は荘園所職をもつ国人を被官化したものの,領国内の荘園体制を完全に克服するまでには至らなかった。しかし,郷村制が成長して荘園制が崩壊すると,郷村を基盤として農村を支配する戦国大名が登場した。彼らは支配領域内の土地・人民を完全に掌握し,家臣団を城下町に集住させて統制下に置く一方,検地を行って農村を支配するとともに,行政・司法立法などの諸権を行使した。分国法を制定することが多く,独立的な小国家が成立した。戦国時代の対立抗争が全国的規模において統一されると,織豊政権とそれに続く徳川幕藩体制の大名知行制へと発展する。
題目
だいもく @@@LINK=題目 題目

題目
だいもく

日蓮宗(法華宗)の根本義で,「南無妙法蓮華経」の7字をいう
この題目を唱えることによって末法の世を救済し,仏の救いにあずかることができると日蓮は説いた。
大冶鉄山
たいやてつざん @@@LINK=大冶鉄山 大冶鉄山

大冶鉄山
たいやてつざん

中国湖北省,揚子江中流南岸にある鉄山
唐宋以来鉄の産地として知られ,清朝末には近代的方法で開発が行われたが,経営不振。1899年以後日本の勢力下に入り,八幡製鉄所に鉄を供給した。二十一カ条要求(1915)にも,これの完全支配をもくろむ日本政府の野心が強くみられる。日中戦争中は日本製鉄の管理下に置かれ,第二次世界大戦後一時休業,現在は復興し武漢ウーハン鉄鋼コンビナートを形成する。
太陽
たいよう @@@LINK=太陽 太陽

太陽
たいよう

明治〜昭和期の総合雑誌
1895(明治28)年,博文館がそれまで出していた雑誌五つを統合し,新たな国民的雑誌として発刊。高山樗牛 (ちよぎゆう) が編集主幹であった明治30年代が全盛期で,樗牛の日本主義や田山花袋 (かたい) らの自然主義を展開した。大正期に入ると『中央公論』や『改造』におされ,1928(昭和3)年廃刊。
太陽のない街
たいようのないまち @@@LINK=太陽のない街 太陽のない街

太陽のない街
たいようのないまち

昭和初期,徳永直 (とくながすなお) の長編小説
1929年,『戦旗』に発表。作者みずから体験した共同印刷の大争議を素材とした,プロレタリア文学の代表作。
太陽暦
たいようれき @@@LINK=太陽暦 太陽暦

太陽暦
たいようれき

太陽の運行による季節の変化で定めた暦
陰暦に対する。ユリウス暦・グレゴリー暦など数種あり,後者が普及した。1年を365.2422日とする。明治政府は太陰暦の明治5年12月3日を太陽暦の明治6年1月1日とした。
平清盛
たいらのきよもり @@@LINK=平清盛 平清盛

平清盛
たいらのきよもり

1118〜81
平安末期の武将
忠盛の子。保元・平治の乱で源氏を圧倒し,藤原氏に代わって政権を掌握。1167年太政大臣となり,娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れ,その子安徳天皇を皇位につけ,一門の公卿16人,知行国30余国に及ぶ平氏の全盛期を現出した。また大輪田泊(現神戸港)を修築して日宋貿易を行い,厳島 (いつくしま) 神社を崇した。晩年後白河法皇を幽閉したり,福原遷都を強行したが,以仁王 (もちひとおう) の令旨 (りようじ) をうけた諸国の源氏の挙兵にあい,失意のうちに病死した。

平国香
たいらのくにか @@@LINK=平国香 平国香

平国香
たいらのくにか

?〜935
平安前期の武将
平氏の祖高望 (たかもち) の子。常陸大掾 (ひたちだいじよう) ,のち鎮守府将軍。高望が上総介となって土着してから勢をふるったが,高望死後,遺領などをめぐって一族の内紛が発生。甥の将門 (まさかど) に殺され,これが承平・天慶の乱のきっかけとなった。
平維盛
たいらのこれもり @@@LINK=平維盛 平維盛

平維盛
たいらのこれもり

1158〜84?
平安末期の武将
清盛の孫。重盛の子。1180年源頼朝挙兵のとき頼朝追討の大将軍となったが,富士川の戦いで敗走。その後,砺波山 (となみやま) の戦いでも惨敗した。平氏一門と都落ちしたが,屋島で離脱し,紀伊(和歌山県)の那智で入水したと伝えられる。
平貞盛
たいらのさだもり @@@LINK=平貞盛 平貞盛

平貞盛
たいらのさだもり

生没年不詳
平安前期の武将
国香の子。鎮守府将軍,陸奥守。父が平将門 (まさかど) に殺されたとき京都にいたが,直ちに関東に下って藤原秀郷 (ひでさと) と協力して,940(天慶3)年将門を滅ぼした。子孫に忠盛・清盛らがあって繁栄した。
平重衡
たいらのしげひら @@@LINK=平重衡 平重衡

平重衡
たいらのしげひら

1157〜85
平安末期の武将
清盛の子。1180年反平氏勢力が蜂起したとき,南都北嶺堂衆を中心として平氏に反抗したので重衡が,兵を率いて東大寺・興福寺を攻め大仏殿などの伽藍 (がらん) を焼打ちした(南都焼打ち)。平家軍の中心として活躍したが,一の谷の戦いで捕らえられ,のち奈良に移送される途中斬首された。

平重盛
たいらのしげもり @@@LINK=平重盛 平重盛

平重盛
たいらのしげもり

1138〜79
平安末期の武将
通称小松内府。清盛の長男。保元・平治の乱に功をたて,累進して内大臣となった。『平家物語』では性温厚で武勇の人と称賛されたが,父に先立って病死した。

平重盛像
たいらのしげもりぞう @@@LINK=平重盛像 平重盛像

平重盛像
たいらのしげもりぞう

鎌倉初期,平重盛の肖像画
京都神護寺にある5画像の一つ。当時の写実的傾向を代表する作品。『源頼朝像』とともに藤原隆信筆と伝えられている。
平高望
たいらのたかもち @@@LINK=平高望 平高望

平高望
たいらのたかもち

生没年不詳
平安前期の武将。桓武平氏の
桓武天皇の曽孫で,高見王の子。889年(一説に890年)に平朝臣の姓を与えられ臣籍に降下。上総介に任官して現地に土着し,関東に勢力をのばした。子孫の伊勢平氏・坂東八平氏・北条氏らが発展した。
平忠常
たいらのただつね @@@LINK=平忠常 平忠常

平忠常
たいらのただつね

967〜1031
平安中期の武将
忠頼の子。上総介となり,のち武蔵押領使などを歴任。1028年安房国司を殺害し,反乱(平忠常の乱)をおこし房総3国を支配したが,1031年追討使の源頼信に降伏し京都へ護送される途中,美濃国で病死した。

平忠常の乱
たいらのただつねのらん @@@LINK=平忠常の乱 平忠常の乱

平忠常の乱
たいらのただつねのらん

平安中期,平忠常が房総地方でおこした反乱
忠常は上総介として上総・下総に大勢力を築き,1028年安房守惟忠 (あわのかみこれただ) を攻め滅ぼし,房総3国を支配した。1031年源頼信が追討使に任命されるに及んで忠常は降伏し,乱は鎮定された。源氏の東国進出のきっかけとなった。
平忠正
たいらのただまさ @@@LINK=平忠正 平忠正

平忠正
たいらのただまさ

?〜1156
平安後期の武将
正盛の子で,清盛の叔父。保元の乱のとき藤原頼長・源為義らと崇徳上皇を支持。後白河天皇支持勢力の平清盛・源義朝らに敗れ,降伏したが斬首された。

平忠盛
たいらのただもり @@@LINK=平忠盛 平忠盛

平忠盛
たいらのただもり

1096〜1153
平安後期の武将
正盛の長男。清盛の父。白河・鳥羽両上皇に北面の武士・院近臣として仕えて信任され,累進して検非違使 (けびいし) ・播磨守・伊勢守などを歴任。1129年に瀬戸内海の海賊を追捕した功により但馬守・刑部となって昇殿を許された。その後も海賊・僧兵の鎮圧で武名をあげ,日宋貿易などで伊勢平家繁栄の基礎を築いた。

平時忠
たいらのときただ @@@LINK=平時忠 平時忠

平時忠
たいらのときただ

1130〜89
平安末期の公卿
時信の子。清盛の妻時子の。権大納言。妹滋子 (しげこ) が後白河天皇の女御となって高倉天皇を生んだ。清盛の側近として権勢をふるったが,壇の浦の戦いで捕虜になり,能登に流され配所で死去。

平徳子
たいらのとくこ @@@LINK=平徳子 平徳子

平徳子
たいらのとくこ

建礼門院
平将門
たいらのまさかど @@@LINK=平将門 平将門

平将門
たいらのまさかど

?〜940
平安前期の武将。高望の孫
良将 (よしまさ) の子。初め京都で藤原忠平に仕えたが,下総を本拠として父良将の遺領問題で一族と争い,935年に伯父国香を殺し,国司に反抗する土豪を助けて下野 (しもつけ) ・上野 (こうずけ) の国府を占拠。下総の猿島 (さしま) に王城を営み,みずから新皇と称した(承平・天慶の乱)。940年平貞盛・藤原秀郷らに襲われ敗死した。のち,神田明神などに祭られた。

平将門の乱
たいらのまさかどのらん @@@LINK=平将門の乱 平将門の乱

平将門の乱
たいらのまさかどのらん

承平・天慶の乱
平正盛
たいらのまさもり @@@LINK=平正盛 平正盛

平正盛
たいらのまさもり

生没年不詳
平安後期の武将
正衡 (まさひら) の子。白河法皇の寵を得,累進して因幡守となった。1108年源義親(義家の子)の乱を平定。海賊や僧兵の追討に活躍した。源氏に代わって台頭し,伊勢平氏興隆の基礎を築いた。
平宗盛
たいらのむねもり @@@LINK=平宗盛 平宗盛

平宗盛
たいらのむねもり

1147〜85
平安末期の武将
清盛の3男。内大臣。1180年に諸国で源氏が蜂起したさなかに清盛が死去('81)したため一門を統率した。平氏政権回復をはかったが一の谷・屋島と連敗。'85年壇の浦の戦いで捕らえられ斬死。

平康頼
たいらのやすより @@@LINK=平康頼 平康頼

平康頼
たいらのやすより

生没年不詳
平安末期の公卿
1177年藤原成親・僧俊寛ら後白河院の近臣とともに鹿ケ谷の陰謀に参画したが,露見して俊寛らと鬼界ケ島に流罪となった。のち赦免されて帰京。説話集『宝物集』を著す。
平頼綱
たいらのよりつな @@@LINK=平頼綱 平頼綱

平頼綱
たいらのよりつな

?〜1293
鎌倉時代,最初の内管領
北条貞時が14歳で執権に就任すると内管領の要職につき,霜月騒動で安達泰盛一族を滅ぼして幕府の権力を握った。その専制政治に不安をいだいた貞時に館を急襲され,自害した。

内裏
だいり @@@LINK=内裏 内裏
ないり @@@LINK=内裏 内裏

内裏
だいり

大内裏 (だいだいり) の中にある天皇の住居
禁裏・禁中ともいう。

内裏
ないり

だいり
大陸浪人
たいりくろうにん @@@LINK=大陸浪人 大陸浪人

大陸浪人
たいりくろうにん

明治〜昭和期,中国大陸・朝鮮半島で活躍した民間の有志
大陸派と呼ばれた荒尾精・根津一ら,満蒙派と呼ばれた玄洋社・黒竜会・東邦協会などに代表される。国粋主義者・右翼団体員などが多く,利権獲得や政治的秘密工作に従事して,大陸侵略の手先となった。
内裏式
だいりしき @@@LINK=内裏式 内裏式

内裏式
だいりしき

平安初期,宮中の儀式を記した書
全3巻で,上中2巻は恒例の行事,下巻は臨時の儀式を記す。嵯峨天皇の命で,821年に藤原冬嗣らが編纂し,833年に清原夏野らが改訂した。宮中儀式の基本として珍重された。
大連
おおむらじ @@@LINK=大連 大連
だいれん @@@LINK=大連 大連

大連
おおむらじ

大化の改新前の大和政権の最高官
連を姓 (かばね) とする最有力者が任命され,大臣 (おおおみ) と並び国政参画。5世紀後半ごろから大伴・物部 (もののべ) 両氏が任じられた。大伴金村が半島経営の失政で失脚後,物部氏が独占。587年物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされると大連は置かれず,大化の改新で廃止され,左右大臣・内臣 (うちつおみ) が置かれた。

大連
だいれん

中国東北部,遼東半島先端にある港市
1905年日露講和条約により,日本の租借地となったが,'45年中国に返還された。
大老
たいろう @@@LINK=大老 大老

大老
たいろう

江戸幕府の臨時の最高職
老中の上に必要に応じて置かれたもので常置ではない。1638年土井利勝・酒井忠勝を任じたのが始まりで,10万石以上の譜代大名から選任され,酒井・土井・井伊氏らが独占した。老中より将軍に上申する政務はすべて関知し,将軍幼少の場合には将軍に代わって政務を決裁した。
対露同志会
たいろどうしかい @@@LINK=対露同志会 対露同志会

対露同志会
たいろどうしかい

日露戦争直前の1903年,開戦を主張して結成された国家主義団体
北清事変(1900)後,ロシアの満州占領に反対して近衛篤麿 (このえあつまろ) ・頭山満 (とうやまみつる) らは国民同盟会を結成し,対露強硬外交を主張した。'02年同盟会はロシアの第1期撤兵を機に解散したが,翌'03年対露同志会として再発足した。'05年解散。
台湾
たいわん @@@LINK=台湾 台湾

台湾
たいわん

中国福建省の東方海上にある島
16世紀以後歴史的に注目されはじめ,豊臣秀吉は高山 (こうざん) 国あてに書を送り入を強要した。17世紀初めオランダ人が占領,ついで鄭成功 (ていせいこう) がオランダを追い出し,この地を支配した。1683年鄭氏降伏後,清朝の領土となり,1874年日本の台湾出兵(征台の役)を経て,'95年下関条約で日本領となる。第二次世界大戦後,中国に返還,台湾省となったが,1949年以後国共内戦により大陸を追われた蔣介石の国民政府が統治。今日に至る。
台湾銀行
たいわんぎんこう @@@LINK=台湾銀行 台湾銀行

台湾銀行
たいわんぎんこう

1899年,植民地開発と南方進出の金融的支柱として台湾に設立された銀行
台湾の開発と資本主義化,華南・南洋との貿易,対支借款に活躍。第一次世界大戦中に投機的な不良企業と結びつき,特に鈴木商店への不良貸出しのため,金融恐慌で破綻,政府の救済融資をうけて回復。太平洋戦争後閉鎖された。
台湾出兵
たいわんしゅっぺい @@@LINK=台湾出兵 台湾出兵

台湾出兵
たいわんしゅっぺい

明治政府最初の海外出兵
台湾事変・征台の役ともいう。台湾に漂着した琉球人の殺害事件に対し,政府は清国に抗議したが,清国は台湾人を「化外の民(教化の外にある人びと)」として無関係を主張した。政府は,英・米の中立政策などにより出兵中止を決定したが,西郷従道 (つぐみち) の強い主張もあり,1874年士族の不満を外に向けるため,西郷従道の指揮のもとに出兵し,高砂族を征討した。清国はこれに抗議したが,イギリスの調停により和議が成立し,日本は償金50万両 (テール) を獲得した。
台湾総督府
たいわんそうとくふ @@@LINK=台湾総督府 台湾総督府

台湾総督府
たいわんそうとくふ

1895年,下関条約による台湾領有に伴い台湾統治のために設置された官庁
総督は陸海軍の大・中将から任命。初代は樺山資紀。民政とともに軍政・軍令の全権を有していたが,1919年より文官が総督に任命されるようになり,別に台湾軍司令官が置かれた。'45年の敗戦により廃止された。
田岡嶺雲
たおかれいうん @@@LINK=田岡嶺雲 田岡嶺雲

田岡嶺雲
たおかれいうん

1870〜1912
明治時代の文芸評論家
高知県の生まれ。東大卒業後,雑誌・新聞などに関係。日清戦争前後の資本主義的矛盾を鋭く批判し社会主義文学の先駆者となった。主著に『数奇伝』など。

高岳親王
たかおかしんのう @@@LINK=高岳親王 高岳親王

高岳親王
たかおかしんのう

799〜865
平安前期の皇族
平城天皇第3皇子。809年嵯峨天皇の皇太子となったが,薬子 (くすこ) の変に連坐して廃され出家。空海の弟子となり,真如と呼ばれた。861年入唐。インドにおもむく途中,羅越(ラオス)国で没した。
高掛物
たかがかりもの @@@LINK=高掛物 高掛物

高掛物
たかがかりもの

江戸時代,村高に応じて賦課された付加税の総称
天領に課せられた御伝馬宿入用・六尺給米(六尺は幕府の人夫)・御蔵前入用(以上,高掛三役)と,大名旗本領に課せられた夫米・夫金・糠藁 (ぬかわら) 代(家中馬の飼料代)とが主である。そのほか地方的な高掛物があった。大災害のときは減免された。
高木貞治
たかぎていじ @@@LINK=高木貞治 高木貞治

高木貞治
たかぎていじ

1875〜1960
大正・昭和期の数学者
岐阜県の生まれ。東大卒業後,ドイツに留学。「ガウス数体の虚数乗法論」で世界に注目され,帰国後,東大教授となる。1920年「相対アーベル体の理論について」(類体論)を発表した。'40年文化勲章受章。

高倉天皇
たかくらてんのう @@@LINK=高倉天皇 高倉天皇

高倉天皇
たかくらてんのう

1161〜81
平安末期の天皇(在位1168〜80)
後白河上皇第7皇子で,名は憲仁 (のりひと) 。母は平滋子 (しげこ) (平時忠の妹)。在位中は平清盛の全盛時代で,父後白河と清盛の反目に苦しみ,中宮徳子(清盛の娘)の生んだ安徳天皇に譲位した。

高島秋帆
たかしましゅうはん @@@LINK=高島秋帆 高島秋帆

高島秋帆
たかしましゅうはん

1798〜1866
江戸末期の洋式兵学者
長崎の町年寄の家の生まれ。フェートン号事件などで時勢を憂え,オランダ商館長から兵学・砲術を学び,鉄砲を購入し門人に集団教練を実施した。1841年幕府の命により,江戸板橋の徳丸ケ原で洋式訓練・大砲射撃を実演,江川太郎左衛門に砲術を伝授した。翌年幕吏の策謀で幽閉されたが, '53年ペリー来航で再び召出され,洋式砲術を指導,また攘夷無謀を幕府に建言した。

高島炭鉱事件
たかしまたんこうじけん @@@LINK=高島炭鉱事件 高島炭鉱事件

高島炭鉱事件
たかしまたんこうじけん

明治中期,長崎県高島炭鉱でおこった社会問題
長崎港外にある高島炭鉱では,酷使にたえかねて坑夫がしばしば騒動をおこした。1888年その惨状が雑誌『日本人』に掲載され世論が沸騰し,政府は役人を派遣して労働条件改善を命令した。
多賀城
たがじょう @@@LINK=多賀城 多賀城

多賀城
たがじょう

奈良時代,蝦夷 (えみし) 経営の拠点となった城柵
現在,宮城県多賀城市にある。724年陸奥国府および鎮守府が置かれた。802年坂上田村麻呂が鎮守府を胆沢城 (いさわじよう) に移したのちは国府となり,前九年の役の時には源頼義がここを拠点とした。
高杉晋作
たかすぎしんさく @@@LINK=高杉晋作 高杉晋作

高杉晋作
たかすぎしんさく

1839〜67
幕末の志士
長州藩士。松下村塾で吉田松陰に学ぶ。1862年上海に渡り海外状況を見聞し,帰国後尊王攘夷運動に活動。'63年長州藩の外国船砲撃直後の軍備強化で奇兵隊を組織した。翌年幕府の長州征討に降伏謝罪した藩当局に反して挙兵,保守派を倒し,藩論を「尊王討幕」にまとめる指導的役割をなした。第2次長州征討でも奇兵隊を率いて九州小倉の幕府軍を撃退('66)するなどの活躍をしたが,翌年大政奉還の半年前に病死した。

高瀬川
たかせがわ @@@LINK=高瀬川 高瀬川

高瀬川
たかせがわ

17世紀初め角倉了以が京都〜伏見間に開いた水路
方広寺再建のための物資輸送用として開発,さらに,1611年賀茂川の水を引いて京都二条から伏見を経て淀川に通じる運河として開通。「高瀬舟」と呼ぶ川舟が薪炭などの物資を運送した。森鷗外小説『高瀬舟』でも知られている。
高田事件
たかだじけん @@@LINK=高田事件 高田事件

高田事件
たかだじけん

明治初期,自由民権運動に対する政府の弾圧事件の一つ
1883年,新潟県高田地方の自由党員が政府高官暗殺事件陰謀の疑いでいっせいに捕らえられたが,証拠がなく釈放された。しかし赤井景韶 (かげあき) は前年起草した「天誅党旨意書」を証拠として重禁獄9年に処せられた。
高田屋嘉兵衛
たかだやかへい @@@LINK=高田屋嘉兵衛 高田屋嘉兵衛

高田屋嘉兵衛
たかだやかへい

1769〜1827
江戸後期の廻船業者で,北辺開拓者
淡路(兵庫県)の人。兵庫(神戸港)で廻船業を営み,蝦夷 (えぞ) 交易に活躍して巨利を得た。1799年幕府の命により択捉 (えとろふ) 島におもむき漁場を17か所設置。1812年国後 (くなしり) 島沖でゴローウニン監禁の報復としてロシア兵に捕らえられ,カムチャツカに連行された。翌年帰国しゴローウニン釈放に努力した。

鷹司家
たかつかさけ @@@LINK=鷹司家 鷹司家

鷹司家
たかつかさけ

藤原北家の分流で,五摂家の一つ
近衛家実の子兼平を祖とし,邸が鷹司室町にあったので鷹司を称した。1252年兼平が摂政となってから,ほかの4家とともに摂政・関白に任ぜられる家柄となる。
高坏
たかつき @@@LINK=高坏 高坏

高坏
たかつき

食物を盛る器(坏)で,脚のついたもの
縄文土器では,台付土器と呼ぶ。縄文時代以来土器でつくられていたが,平安時代以後供膳のための木製品が多くなった。
高取焼
たかとりやき @@@LINK=高取焼 高取焼

高取焼
たかとりやき

江戸初期以来,筑前国(福岡県)高取で生産された福岡藩の藩営陶器
文禄・慶長の役のとき黒田長政が朝鮮から連行してきた陶工八山 (はちざん) が創始。日常雑器のほか茶器もつくられ,特に茶入れは有名。福岡藩窯として明治維新まで持続した。小堀遠州の指導によるものを遠州高取といい遠州七窯の一つに数えられる。
高野長英
たかのちょうえい @@@LINK=高野長英 高野長英

高野長英
たかのちょうえい

1804〜50
江戸後期の蘭学者
陸奥(岩手県)水沢藩の医師の子。江戸で蘭学医の修業をし,長崎では鳴滝塾でシーボルトに学んだ。のち江戸で町医を開業し,渡辺崋山・小関三英らと西洋研究グループの尚歯 (しようし) 会を結成。1838年『戊戌 (ぼじゆつ) 夢物語』を著し,モリソン号事件での幕府の撃退を批判,翌年蛮社の獄で終身刑となった。'44年獄舎の火災で脱獄。沢三伯と変名,薬品などで容貌をかえ潜行し,兵学の訳業などに活動したが,江戸にもどったところを発見され,幕吏に囲まれて自殺した。

高野房太郎
たかのふさたろう @@@LINK=高野房太郎 高野房太郎

高野房太郎
たかのふさたろう

1868〜1904
明治時代の社会運動家。日本労働運動の先駆者
長崎県の生まれ。1886年渡米,種々の労働に従い,この間,AFL(アメリカ労働総同盟)会長のゴンパーズの指導をうけサンフランシスコで職工義友会を組織。AFL日本支部をつくる目的で '96年帰国。翌年片山潜らと職工義友会・労働組合期成会を設立して労働組合の組織化に努力した。また'99年共営社(消費組合)をつくった。のち中国に渡り青島 (チンタオ) で客死。

高橋景保
たかはしかげやす @@@LINK=高橋景保 高橋景保

高橋景保
たかはしかげやす

1785〜1829
江戸後期の天文学者・蘭学
至時 (よしとき) の子。幕府天文方となり天文観測に従事。満州語・ロシア語を修め,地理学にも通じて伊能忠敬の測量を監督。洋書と交換にシーボルトに忠敬測量の日本地図を与えたことが発覚し,1828年投獄され(シーボルト事件),獄死した。

高橋是清
たかはしこれきよ @@@LINK=高橋是清 高橋是清

高橋是清
たかはしこれきよ

1854〜1936
明治〜昭和期の政治家・財政家
江戸の生まれ。1867年渡米,苦学し,帰国後官吏となる。'92年日本銀行に入り,のち日銀総裁。その間日露戦争にあたって外債募集に尽力した。1921年原敬暗殺後に首相・立憲政友会総裁に就任。'27年金融恐慌に際して,田中義一内閣の蔵相として支払猶予令(モラトリアム)を実施して収束。満州事変後犬養毅・斎藤実 (まこと) ・岡田啓介各内閣の蔵相を歴任し,積極財政を推進して,恐慌を克服したが,'36年二・二六事件で暗殺された。
高橋虫麻呂
たかはしのむしまろ @@@LINK=高橋虫麻呂 高橋虫麻呂

高橋虫麻呂
たかはしのむしまろ

生没年不詳
奈良前期の歌人
天平時代初めころの万葉歌人で,水の江の浦島子など伝説を好んで題材とし,華麗なで独特の歌を詠んだ。『常陸 (ひたち) 風土記』の採録者の一人とみられる。
高橋由一
たかはしゆいち @@@LINK=高橋由一 高橋由一

高橋由一
たかはしゆいち

1828〜94
幕末・明治前期の洋画家。近代洋画の先駆者
江戸の人。初め狩野派を学んだが,1862年蕃書調所に入り洋画を川上冬崖 (とうがい) に学び,のちワーグマンに師事。写実的画風にすぐれ,近代洋画を開拓した。代表作に『鮭』『花魁 (おいらん) 図』など。

高橋至時
たかはしよしとき @@@LINK=高橋至時 高橋至時

高橋至時
たかはしよしとき

1764〜1804
江戸後期の天文学者
景保の父。大坂の人。麻田剛立に天文・暦学を学び,各種観測器機を製作。1795年幕府天文方となり間重富 (はざましげとみ) と寛政暦をつくり,伊能忠敬に西洋暦を教え,その地理測量を支援した。

高畠素之
たかばたけもとゆき @@@LINK=高畠素之 高畠素之

高畠素之
たかばたけもとゆき

1886〜1928
明治末期〜昭和初期の社会思想家
群馬県の生まれ。同志社大中退。1908年筆禍事件で入獄中,『資本論』に関心をもつ。堺利彦らと接触したが,のち国家社会主義運動に入る。'24年『資本論』を初めて全訳・刊行した。

高浜虚子
たかはまきょし @@@LINK=高浜虚子 高浜虚子

高浜虚子
たかはまきょし

1874〜1959
明治〜昭和期の俳人
本名は清。愛媛県の生まれ。正岡子規の高弟。『ホトトギス』の編集を担当。子規没後,河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう) の新傾向に対し,師の伝統を守り,「花鳥諷詠」の写生の俳風を確立し,俳壇の中心となった。1954年文化勲章受章。

高平‐ルート協定
たかひら‐ルートきょうてい @@@LINK=高平ルート協定 高平ルート協定

高平‐ルート協定
たかひら‐ルートきょうてい

1908年,駐米大使高平小五郎とアメリカ国務長官E.ルートとの間で成立した太平洋・中国問題に関する協定
日露戦争後の日米協調をはかるのが目的。両国商業の自由な発達奨励,両国領土の現状維持,清国における商工業の機会均等,清国の独立・領土保全などを規定した。
高天原
たかまがはら @@@LINK=高天原 高天原

高天原
たかまがはら

日本神話で,天照大神 (あまてらすおおみかみ) ・素戔嗚尊 (すさのおのみこと) ら天つ神の住む天上の世界
この天上に対する国土豊葦原 (とよあしはら) で,出雲・筑紫神話が展開した。記紀では,皇祖神の絶対性を強調するため明確に区別している。
高蒔絵
たかまきえ @@@LINK=高蒔絵 高蒔絵

高蒔絵
たかまきえ

鎌倉時代,漆器装飾の一技法
木炭の粉をまいて適当な高さに肉上げをしたものに蒔絵 (まきえ) を施す。三島大社蔵『梅蒔絵手箱』は代表作。室町時代には錆 (さび) という生漆に砥粉 (とのこ) を混合したものを用いる錆上高蒔絵が発達した。
高松城
たかまつじょう @@@LINK=高松城 高松城

高松城
たかまつじょう

①岡山県岡山市高松にあった城
②香川県高松市にあった城
1582年,石山本願寺に加勢した毛利氏に対し,織田信長は豊臣秀吉に,その前衛拠点であるこの城を攻めさせた。秀吉は水攻めを行ったが,その最中本能寺の変を知り,城将清水宗治 (むねはる) の自刃と開城を条件に和睦した。
1590年生駒親正が築城。1642年以降親藩松平氏の居城となった。
高松塚古墳
たかまつづかこふん @@@LINK=高松塚古墳 高松塚古墳

高松塚古墳
たかまつづかこふん

奈良県高市郡明日香村にある装飾古墳
1972年の発掘調査により,7世紀末から8世紀初めころ描かれたとみられる,美しい壁画が石槨内部の天井や壁から発見された。
高峰譲吉
たかみねじょうきち @@@LINK=高峰譲吉 高峰譲吉

高峰譲吉
たかみねじょうきち

1854〜1922
明治・大正時代の応用化学者
越中(石川県金沢の生まれ。工部大学校卒業後,イギリス・アメリカに留学。帰国後わが国最初の人造肥料会社設立に尽力した。のちアメリカに渡って,ニューヨークに高峰研究所を設立。強心剤アドレナリン,消化薬タカジアスターゼを創製し,世界的名声を得た。

高向玄理
たかむこのげんり @@@LINK=高向玄理 高向玄理

高向玄理
たかむこのげんり

?〜654
改新政府の国博士。大化の改新で活躍した
「くろまろ」とも読む。渡来人の子孫。608年遣隋使小野妹子に従い隋に留学。唐の建国とその隆盛を見聞し,640年帰国。大化の改新に際し,改新政府に僧旻 (みん) らとともに国博士 (くにはかせ) として参与。654年遣唐押使 (おうし) として入唐したが同年長安で病死した。
高村光雲
たかむらこううん @@@LINK=高村光雲 高村光雲

高村光雲
たかむらこううん

1852〜1934
明治〜昭和初期の彫刻家
東京の生まれ。明治初期衰退していた木彫に写実的技法をとり入れて再興をはかった。のち東京美術学校教授に迎えられ,伝統的な木彫の技法を指導した。代表作に,上野公園(東京都)の『西郷隆盛像』や『老猿』など。
高村光太郎
たかむらこうたろう @@@LINK=高村光太郎 高村光太郎

高村光太郎
たかむらこうたろう

1883〜1956
明治〜昭和期の彫刻家・詩人
光雲の子。東京の生まれ。渡欧してロダンに感銘をうけ,その影響が作品に反映。また明星派・白樺派に参加して,詩・評論を発表したが,第二次世界大戦中は,日本文学報国会の中心として多くの戦争詩を書いた。代表的詩集に『道程』『智恵子抄』など。

高望王
たかもちおう @@@LINK=高望王 高望王

高望王
たかもちおう

平高望
高持百姓
たかもちひゃくしょう @@@LINK=高持百姓 高持百姓

高持百姓
たかもちひゃくしょう

本百姓
高森遺跡
たかもりいせき @@@LINK=高森遺跡 高森遺跡

高森遺跡
たかもりいせき

宮城県栗原郡築館町にある日本最古とされた旧石器時代の遺跡
1988年からの調査で,約50万年前と推定された火山灰の直下から石器群が出土した。やや西方にある上高森遺跡では,'93年からの調査で約60万年前と推定される石器が出土したが,現在では疑問視されている。
高山右近
たかやまうこん @@@LINK=高山右近 高山右近

高山右近
たかやまうこん

1552〜1615
安土桃山〜江戸時代初期のキリシタン大名
1563年受洗し,洗礼名をジュストといった。'73年摂津(大阪府)高槻城主。荒木村重,織田信長,豊臣秀吉に仕え,'85年明石城主となった。'87年バテレン追放令後も信仰を守り改易され,前田利家に寄食,1614年江戸幕府の禁教令でマニラに追放され,同地で病死した。また千利休の高弟で,茶人としても著名

高山樗牛
たかやまちょぎゅう @@@LINK=高山樗牛 高山樗牛

高山樗牛
たかやまちょぎゅう

1871〜1902
明治時代の評論家・思想家
本名は斎藤林次郎。山形県の生まれ。東大哲学科在学中,『読売新聞』懸賞小説に『滝口入道』が入選。雑誌『帝国文学』を創刊編集し,さらに雑誌『太陽』の主幹として,美文のロマン主義的評論を発表。初め日本主義を唱え,のちニーチェに傾倒,『美的生活を論ず』で本能満足主義を説き論議をかもし,晩年は日蓮主義に移った。

高山彦九郎
たかやまひこくろう @@@LINK=高山彦九郎 高山彦九郎

高山彦九郎
たかやまひこくろう

1747〜93
江戸中期の尊王論者。寛政の三奇人の一人
上野 (こうずけ) (群馬県)の人。水戸藩の藤田幽谷と交わり,諸国を巡歴し尊王論を説いた。九州旅行の途中,久留米で自殺。原因は尊号一件の結末に失望したためともいうが,不詳。

高床建築
たかゆかけんちく @@@LINK=高床建築 高床建築

高床建築
たかゆかけんちく

床を地上より高くした建築様式
弥生時代の高床式倉庫に始まる。銅鐸の文様,古墳時代の家型埴輪や家屋文鏡などによって知られる。
高床倉庫
たかゆかそうこ @@@LINK=高床倉庫 高床倉庫

高床倉庫
たかゆかそうこ

またはの上に高く床をはった倉庫
湿気を防ぐための穀倉と考えられているが,弥生時代の銅鐸にも描かれている。静岡県の登呂遺跡でその実態が明らかになり,復元されている。
宝井其角
たからいきかく @@@LINK=宝井其角 宝井其角

宝井其角
たからいきかく

榎本其角
兌換紙幣
だかんしへい @@@LINK=兌換紙幣 兌換紙幣

兌換紙幣
だかんしへい

所有者の要求があれば,いつでも発行者が正貨と引き換えることを約束した紙幣。
抱石葬
だきいしそう @@@LINK=抱石葬 抱石葬

抱石葬
だきいしそう

縄文時代の埋葬法の一形式
屈葬の特殊な状態として,死者の胸部に石をのせ,両手でそれを抱きしめた姿勢をとらせたもの。死者の悪霊の甦りをおそれてこのような処置がとられたとされている。
滝川一益
たきがわかずます @@@LINK=滝川一益 滝川一益

滝川一益
たきがわかずます

1525〜86
安土桃山時代の武将
近江(滋賀県)の人。織田信長に仕え,伊勢(三重県)長島一揆を平定。武田氏滅亡後,関東管領として上野 (こうずけ) (群馬県)厩橋 (うまやばし) (前橋市)を居城とした。後北条氏と戦い敗れ伊勢長島に帰り,賤ケ岳の戦い(1583)後豊臣秀吉に服し,'84年小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗れ,妙心寺で出家,不遇のうち越前(福井県)で没した。

滝川事件
たきがわじけん @@@LINK=滝川事件 滝川事件

滝川事件
たきがわじけん

1933(昭和8)年,京都大学でおこった大学の自治と学問の自由に対する弾圧事件
少壮教授滝川幸辰 (ゆきとき) の刑法学説は国体に反する赤化思想であるとして,鳩山一郎文相が罷免を要求,拒否されると休職を強行した。法学部教授会は不法人事と学問研究の自由を強調して全員辞表を提出して抵抗,各大学学生も抗議したが敗北し,佐々木惣一・末川博ら7教授の辞職をもって終わった。
滝川幸辰
たきがわゆきとき @@@LINK=滝川幸辰 滝川幸辰

滝川幸辰
たきがわゆきとき

1891〜1962
大正・昭和期の刑法学者
岡山県の生まれ。京大卒。ドイツ留学後,京大教授となる。滝川事件で大学を辞職したが,第二次世界大戦後復職,'53年には京大総長となった。著書に『刑法読本』『刑法講義』など。

滝口の武士
たきぐちのぶし @@@LINK=滝口の武士 滝口の武士

滝口の武士
たきぐちのぶし

平安・鎌倉時代,宮中を護衛した武士
清涼殿の北東の庭にある滝口詰所があった。宇多天皇の寛平年間(889〜898)に始まり,蔵人所 (くろうどどころ) に属した。
滝沢馬琴
たきざわばきん @@@LINK=滝沢馬琴 滝沢馬琴

滝沢馬琴
たきざわばきん

1767〜1848
江戸後期の読本 (よみほん) 作者
別号は曲亭馬琴。本名興邦 (おきくに) 。江戸の人。山東京伝の門に入った。黄表紙から読本に転じ『椿説弓張月 (ちんせつゆみはりづき) 』『南総里見八犬伝』などの長編をつぎつぎに発表。歴史・伝説をとり入れた雄大な規模のもので,勧善懲悪を説いた。

滝廉太郎
たきれんたろう @@@LINK=滝廉太郎 滝廉太郎

滝廉太郎
たきれんたろう

1879〜1903
明治時代の作曲家
東京の生まれ。東京高等師範学校付属音楽学校(東京音楽学校)卒業。ピアノ演奏・作曲の天才といわれた。ドイツに留学,病気になり帰国し,翌年死んだ。代表作に『荒城の月』『箱根八里』『花』など。

沢庵
たくあん @@@LINK=沢庵 沢庵

沢庵
たくあん

1573〜1645
江戸初期の臨済宗の僧
但馬(兵庫県)出石 (いずし) の武士秋庭綱典の子。沢庵は号。幼くして出家し,のち大徳寺住持となった。後水尾天皇の紫衣勅許をめぐり幕府と対立。出羽(山形県)上山 (かみのやま) に配流されたがのちに許され,3代将軍徳川家光に重用された。江戸品川に東海寺を創建。
田口卯吉
たぐちうきち @@@LINK=田口卯吉 田口卯吉

田口卯吉
たぐちうきち

1855〜1905
明治時代の経済学者・歴史家
号は鼎軒 (ていけん) 。江戸の生まれ。幕臣出身。蘭学を修め,明治新政府では大蔵省に入り経済学を研究。退官後は '79年『東京経済雑誌』を刊行,自由主義経済学者として知られた。'94年衆議院議員に当選し政界にも活躍。また『日本開化小史』の発表,雑誌『史海』の発刊,『国史大系』の編集など歴史学にも貢献した。

宅磨為成
たくまためなり @@@LINK=宅磨為成 宅磨為成

宅磨為成
たくまためなり

生没年不詳
平安末期の大和絵画家
伝統色の強い巨勢 (こせ) に対して,大和絵に新様式を開いた宅磨派の代表的画家。『古今著聞集』に宇治平等院鳳凰堂壁画を描いたとあるが確証はない。
竹内久一
たけうちきゅういち @@@LINK=竹内久一 竹内久一

竹内久一
たけうちきゅういち

1857〜1916
明治時代の彫刻家
江戸に生まれ,初め象牙彫を学んだが,転じて平安彫刻を研究。木彫の復興を志す。1891年東京美術学校彫刻科の初代教授,のち文展審査員となった。代表作に『伎芸天』。

竹内栖鳳
たけうちせいほう @@@LINK=竹内栖鳳 竹内栖鳳

竹内栖鳳
たけうちせいほう

1864〜1942
明治〜昭和期の日本画家
京都の生まれ。幸野楳嶺 (ゆきのばいれい) に四条派の画法を学び,土佐派・狩野派も研究。のちにコローなど洋画の画法をもとり入れ,官展派の中心となる。1937年第1回文化勲章を受賞。代表作に『雨霽 (うせい) 』『あれ夕立に』など。

たけくらべ

たけくらべ

明治中期,樋口一葉の短編小説
1895〜96年に発表。吉原遊廓に近い東京下谷の思春期の子供たちの姿と微妙な心理を,美登利と信如を中心に,叙情的に流麗に描写した作品。
竹越与三郎
たけごしよさぶろう @@@LINK=竹越与三郎 竹越与三郎

竹越与三郎
たけごしよさぶろう

1865〜1950
明治〜昭和期の政治家・歴史家
武蔵(埼玉県)の生まれ。大阪に出て新聞記者となり,三叉 (さんさ) と号した。1902年以来衆議院議員当選5回,'22年貴族院議員,'40年枢密顧問官となる。また歴史家として『新日本史』上巻(1891)・中巻('92),『二千五百年史』('96)を著した。民間史学者の一人で,成長期ブルジョアジーの啓蒙史学の立場を代表。1915年以後は日本経済史編纂会をおこし,『日本経済史』8巻(のち12巻)を公刊した。

竹崎季長
たけざきすえなが @@@LINK=竹崎季長 竹崎季長

竹崎季長
たけざきすえなが

生没年不詳
鎌倉中期の武将
肥後国(熊本県)の御家人。元寇に際し奮戦し,特に弘安の役で今津長浜などで防戦,進んで敵船に乗り移り敵将を倒した。『蒙古襲来絵巻』は季長が描かせたものという。
武内宿禰
たけしうちのすくね @@@LINK=武内宿禰 武内宿禰
たけのうちのすくね @@@LINK=武内宿禰 武内宿禰

武内宿禰
たけしうちのすくね

記紀の伝承にあらわれた大和政権の大臣
「たけのうち」とも読む。巨勢 (こせ) ・平群 (へぐり) ・葛城 (かつらぎ) ・蘇我 (そが) 4氏の祖とされる。景行〜仁徳5天皇に大臣 (おおおみ) として仕え,神功 (じんぐう) 皇后に従って三韓征討に従事したという。伝説では300歳をこえる長寿者。

武内宿禰
たけのうちのすくね

たけしうちのすくね
竹下登内閣
たけしたのぼるないかく @@@LINK=竹下登内閣 竹下登内閣

竹下登内閣
たけしたのぼるないかく

竹下登(1924〜2000)を首班とする自由民主党内閣(1987.11〜89.6)
内政では「ふるさと創生」政策を推進する一方,1989年から消費税(税率3%)を実施した。また同年1月,昭和天皇の崩御に伴い,年号を平成と改元した。外交では牛肉・オレンジ自由化などで日米貿易摩擦緩和につとめ,政府開発援助(ODA)で対外関係改善に成果をあげた。しかし,リクルート事件をめぐる疑惑に消費税に対する国民の不満などが重なり,1年7か月の短命内閣に終わった。
田下駄
たげた @@@LINK=田下駄 田下駄

田下駄
たげた

湿田での農作業にはく大型の履物
田の面をならしたり,刈敷や緑肥を踏みこむときに使用する農具。弥生時代から存在し,静岡県の登呂遺跡などで発見された。大足 (おおあし) は田下駄の一種。
竹田出雲
たけだいずも @@@LINK=竹田出雲 竹田出雲

竹田出雲
たけだいずも

2世 1691〜1756
江戸中期の浄瑠璃作者
大坂の人。竹本座の座元。近松門左衛門に師事。『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』などが傑作。興行経営の才に長じ,座の繁栄人形劇の最盛期を現出した。

武田勝頼
たけだかつより @@@LINK=武田勝頼 武田勝頼

武田勝頼
たけだかつより

1546〜82
戦国時代の武将
信玄の第4子。上杉景勝とくみ,織田信長としばしば戦い,長篠の戦い(1575)に大敗。1582年,織田・徳川連合軍に甲斐に侵入され,天目山で自刃し,ここに武田家は滅んだ。

武田耕雲斎
たけだこううんさい @@@LINK=武田耕雲斎 武田耕雲斎

武田耕雲斎
たけだこううんさい

1804〜65
幕末の尊攘派志士
水戸藩士。徳川斉昭 (なりあき) に信任され,藩の家老となる。1864年の藤田小四郎の筑波山挙兵(天狗党の乱)を助け,同志を率いて京都に向かう途中,加賀藩に降伏。'65年敦賀で斬首された。

武田氏
たけだし @@@LINK=武田氏 武田氏

武田氏
たけだし

中世,甲斐国(山梨県)の戦国大名
清和源氏。新羅 (しんら) 三郎義光(源義家の弟)の子義清を祖とし,武田氏を称す。鎌倉時代に甲斐国の守護となる。南北朝時代,足利氏に属し所領を拡大し,室町時代には安芸 (あき) ・若狭の守護が一族から分出した。信玄のとき今川・上杉・後北条氏らに対抗,甲斐から信濃・駿河・遠江 (とおとうみ) ・上野 (こうずけ) まで勢力を広げ,東国屈指の戦国大名となったが,その子勝頼が織田・徳川氏に攻められ,1582年滅亡した。
武田信玄
たけだしんげん @@@LINK=武田信玄 武田信玄

武田信玄
たけだしんげん

1521〜73
戦国時代の武将
甲斐の守護武田氏の嫡流信虎の子で,名は晴信。1541年父を廃して家を継いで以来,諏訪・小笠原・村上氏らを降して信濃を領し,上杉謙信と対立して川中島の戦いで争った。その後,北関東・東海地方進出をはかり,駿河を併合。遠江 (とおとうみ) 三方原 (みかたがはら) に徳川家康を破った(三方原の戦い)が,陣中で病死した。軍略にすぐれ,巧妙な分国統治を行った。

武市瑞山
たけちずいざん @@@LINK=武市瑞山 武市瑞山

武市瑞山
たけちずいざん

1829〜65
幕末の尊攘派志士
通称半平太。土佐藩郷士出身。1861年土佐勤王党を組織し,吉田東洋ら藩首脳の公武合体派と対立,'62年東洋を暗殺し藩論を「尊王攘夷」に導いた。八月十八日の政変('63)以後の尊王攘夷運動後退で弾圧され,'65年投獄切腹を命ぜられ自刃

高市皇子
たけちのおうじ @@@LINK=高市皇子 高市皇子

高市皇子
たけちのおうじ

654?〜696
7世紀後期の皇族
天武天皇第1皇子。長屋王の父。壬申の乱に父とともに軍を指揮し,大友皇子を破った。のち持統天皇のとき太政大臣となった。『万葉集』に3首おさめられている。

竹取物語
たけとりものがたり @@@LINK=竹取物語 竹取物語

竹取物語
たけとりものがたり

平安前期,わが国最初の仮名書き物語
成立年代・作者不詳。2巻。竹の中から生誕した「かぐや姫」に5人の貴公子・帝が求愛するがいずれも失敗,姫は満月の夜昇天するという筋。
竹内式部
たけのうちしきぶ @@@LINK=竹内式部 竹内式部

竹内式部
たけのうちしきぶ

1712〜67
江戸中期の国学者・尊王論者
越後(新潟県)の人。垂加神道を学び,また軍学を研究。京都で家塾を開き,公家に大義名分を講義したが,1759年幕府から兵法を教えたことを理由に京都から追放された(宝暦事件)。'67年山県大弐の明和事件に連坐,捕らえられて八丈島に流される途中,三宅島で病死した。

武内宿禰
たけしうちのすくね @@@LINK=武内宿禰 武内宿禰
たけのうちのすくね @@@LINK=武内宿禰 武内宿禰

武内宿禰
たけしうちのすくね

記紀の伝承にあらわれた大和政権の大臣
「たけのうち」とも読む。巨勢 (こせ) ・平群 (へぐり) ・葛城 (かつらぎ) ・蘇我 (そが) 4氏の祖とされる。景行〜仁徳5天皇に大臣 (おおおみ) として仕え,神功 (じんぐう) 皇后に従って三韓征討に従事したという。伝説では300歳をこえる長寿者。

武内宿禰
たけのうちのすくね

たけしうちのすくね
武野紹鷗
たけのじょうおう @@@LINK=武野紹鷗 武野紹鷗

武野紹鷗
たけのじょうおう

1502〜55
室町末期の茶人
堺の町人で,茶道を村田珠光の弟子藤田宗理・十四屋宗悟・宗陳らに学ぶ。「道具調度の簡素化」を主張し,自在かぎ・つるべ・ぶっかけ茶碗など庶民生活の中に新しい美を求める。草 (そう) の四畳半座敷,三畳・二畳半などの小座敷を創作し,竹の (ふた) など侘 (わ) び茶の道具を考案侘び茶を弟子の千利休に伝えた。門人には,利休のほかに津田宗及今井宗久らがいる。
竹橋事件
たけばしじけん @@@LINK=竹橋事件 竹橋事件

竹橋事件
たけばしじけん

1878(明治11)年におこった近衛兵士の反乱
竹橋騒動ともいう。西南戦争(1877)の恩賞が兵に及ばなかったことと,近衛砲兵が減俸されたことを不満として,近衛砲兵第一大隊の兵士たちが,大砲をひいて営門を出,皇居の襲撃・大臣の逮捕をはかったが,鎮台兵が出動し,鎮圧された。処罰者総数361名。
竹本義太夫
たけもとぎだゆう @@@LINK=竹本義太夫 竹本義太夫

竹本義太夫
たけもとぎだゆう

1651〜1714
江戸中期の浄瑠璃の太夫。義太夫節の創始者
大坂の人。それまでの浄瑠璃各流の長所や,流行歌謡の特徴も加えて大成。巧妙な曲節で元禄期の民衆の心に訴えた。1684年大坂に竹本座を創設・経営し,その時近松門左衛門の作品を口演。以後130曲を節づけした。三弦師・人形遣いに恵まれて発展,義太夫節が浄瑠璃節代名詞となった。
竹本座
たけもとざ @@@LINK=竹本座 竹本座

竹本座
たけもとざ

江戸中期,大坂の人形浄瑠璃劇座
1684年,初代竹本義太夫らが大坂道頓堀に創設。近松門左衛門を加え,竹田出雲も経営に参加した。豊竹座と競演し操 (あやつり) 全盛をなしたが,やがて内部的破綻から1767年閉座。
太宰春台
だざいしゅんだい @@@LINK=太宰春台 太宰春台

太宰春台
だざいしゅんだい

1680〜1747
江戸中期の儒学者
信濃(長野県)飯田の人。荻生徂徠 (おぎゆうそらい) の門人安藤東野と交わり,蘐園 (けんえん) 学派となった。重農主義的な武士本位の経済政策を説き,詩文より経済学の面で徂徠の説を継承・発展させた。主著に『経済録』『産語』など。

大宰府
だざいふ @@@LINK=大宰府 大宰府

大宰府
だざいふ

律令制下,筑前国に置かれた九州地方の統治機関
現在の福岡県太宰府市にあった。太政官の小型版ともいうべき組織・機能をもち,『万葉集』では「遠の朝廷 (とおのみかど) 」と呼ばれた。9国2島と防人 (さきもり) 司を管轄。大陸との接触点として外国使節応接国防を行った。平安時代には唐やとの私貿易の中心地となったが,鎌倉時代,源頼朝が鎮西奉行を置いて大宰少弐を兼ねさせ,元寇後は鎮西探題が置かれたため,実権が移った。
足高の制
たしだかのせい @@@LINK=足高の制 足高の制

足高の制
たしだかのせい

江戸中期,8代将軍徳川吉宗が享保改革一環として実施した人材登用制度
各役職ごとに禄高を定め,役職に就任するの禄高が役禄に達しない場合,その不足分を在職中のみ加増する制度。1723(享保8)年実施。加増が世襲されないので才能のある少禄の者の要職登用が容易となり,幕府財政の膨張を防いだ。
太政官
だいじょうかん @@@LINK=太政官 太政官
だじょうかん @@@LINK=太政官 太政官

太政官
だいじょうかん

①律令官制の中央最高機関
②明治政府の最高官庁
太政大臣・左大臣・右大臣・大納言以下で構成され,のち令外官 (りようげのかん) の中納言や参議が加わった。事務局として,少納言局・左弁官局・右弁官局があり,左弁官局は中務 (なかつかさ) ・式部・治部 (じぶ) ・民部,右弁官局は兵部 (ひようぶ) ・刑部 (ぎようぶ) ・大蔵・宮内の各省を管轄した。平安時代に蔵人 (くろうど) 所・摂政・関白などが設置され実権を失ったが,官制は江戸末期まで続いた。
「だじょうかん」と読む。1868年の政体書により設置。議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の7官を統轄した。たびたびの改革を経て,'85年内閣制度実施により廃止された。

太政官
だじょうかん

だいじょうかん
太政官札
だじょうかんさつ @@@LINK=太政官札 太政官札

太政官札
だじょうかんさつ

1868年,明治政府が発行した紙幣
新政府の財政難を救うため,由利公正 (きみまさ) の建議で,1869年5月までに10両・5両・1両・1分・1朱の5種の紙幣を4800万両発行。不換紙幣のためその価値は下落し,'79年までに新紙幣などと交換した。
太政官日誌
だじょうかんにっし @@@LINK=太政官日誌 太政官日誌

太政官日誌
だじょうかんにっし

明治新政府の機関紙で,のちの官報にあたる
佐幕派新聞を発行して薩摩長州などの諸藩非難・攻撃したのに対し,1868年,政府の立場を宣伝するために発行された。'77年終刊。政府の布告が多く収められており貴重な史料
太政官府
だじょうかんぷ @@@LINK=太政官府 太政官府

太政官府
だじょうかんぷ

だいじょうかんぷ
太政大臣
だいじょうだいじん @@@LINK=太政大臣 太政大臣
だじょうだいじん @@@LINK=太政大臣 太政大臣

太政大臣
だいじょうだいじん

太政官の長官
①律令制の最高官で大宝令で制度化され,「則闕 (そつけつ) の官」と称し,適任者のいないときは置かなかった。律令制以前に大友皇子が任じられている。人臣では藤原仲麻呂が太政大臣に相当する大師となったのが初め。平安時代,藤原良房以後藤原氏が多く任ぜられた。
②「だじょうだいじん」と読む。明治時代の太政官制で,1871年に三条実美が任ぜられ,'85年の内閣制度実施まで続いた。

太政大臣
だじょうだいじん

だいじょうだいじん
打製石器
だせいせっき @@@LINK=打製石器 打製石器

打製石器
だせいせっき

石を打ち欠いてつくった石器
旧石器時代から弥生時代まで用いられた。石斧 (せきふ) のように原材に加工した石器と石鏃 (せきぞく) や石匙 (せきひ) のように破片を利用したものと2種があり,前者を石核石器,後者を片 (はくへん) 石器という。

たたら @@@LINK=鑪 鑪


たたら

古式の砂製錬場
古代以降,特に中国地方で発達し,明治中期まで日本の産鉄量の6割までを産出した。「踏ふいご」をさすこともある。
多々良浜の合戦
たたらはまのかっせん @@@LINK=多々良浜の合戦 多々良浜の合戦

多々良浜の合戦
たたらはまのかっせん

1336年におこった足利尊氏菊池阿蘇氏との戦い
九州に敗走した足利尊氏は,少弐宗像 (むなかた) 氏らに迎えられ,福岡の東北多々良浜で,菊池・阿蘇氏と戦って大勝した。この合戦は尊氏の勢力回復の転機となり,東上の基礎をつくった。
橘曙覧
たちばなあけみ @@@LINK=橘曙覧 橘曙覧

橘曙覧
たちばなあけみ

1812〜68
江戸末期の歌人・国学者
別姓井出。号は志濃夫廼舎 (しのぶのや) 。越前(福井県)の人。京都・江戸に遊学し,国学を修めた。清貧の中に,平易な万葉調の秀歌を残した。家集に『志濃夫廼舎歌集』など。

橘氏
たちばなうじ @@@LINK=橘氏 橘氏

橘氏
たちばなうじ

古代の氏族四姓 (しせい) の一つ
敏達 (びだつ) 天皇5世の孫美努王 (みぬおう) の妻県犬養三千代 (あがたのいぬかいのみちよ) (橘三千代)が708年に橘宿禰の姓を与えられたことに始まる。736年三千代の子葛城王が臣籍に移って橘諸兄 (もろえ) と称した。諸兄の子奈良麻呂は757年乱をおこそうとして失敗(橘奈良麻呂の変)。平安初期,奈良麻呂の孫嘉智子 (かちこ) が嵯峨天皇の皇后となり,橘氏のため学館院を創設した。承和 (じようわ) の変(842)で逸勢 (はやなり) (三筆の一人)が流罪となり,以後急速に衰微した。
橘寺
たちばなでら @@@LINK=橘寺 橘寺

橘寺
たちばなでら

奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺
聖徳太子の建立と伝えられる。近年の発掘調査で,その塔址から若草伽藍 (がらん) と同系統の中心礎石が発見され,この寺が飛鳥時代の創建であることが証明された。聖徳太子関係の文化財がある。法隆寺の四十八体仏・玉虫厨子(国宝)は,もとこの寺にあったという。
橘奈良麻呂の変
たちばなのならまろのへん @@@LINK=橘奈良麻呂の変 橘奈良麻呂の変

橘奈良麻呂の変
たちばなのならまろのへん

奈良中期,757年におこった政変
諸兄 (もろえ) に代わり権勢を握った藤原仲麻呂を打倒しようとして,諸兄の子奈良麻呂が大伴・佐伯氏らと結んで,仲麻呂の擁立した皇太子大炊 (おおい) 王(のちの淳仁天皇)の廃太子を計画。未然に発覚し,奈良麻呂らは捕らえられ,奈良麻呂は獄死した。
橘逸勢
たちばなのはやなり @@@LINK=橘逸勢 橘逸勢

橘逸勢
たちばなのはやなり

?〜842
平安初期の貴族・能書家
奈良麻呂の孫。804年入唐。唐風の書をよくし,三筆の一人として有名。842年承和 (じようわ) の変に際し,皇太子恒貞親王を奉じて謀反をはかり捕らえられ,伊豆に流される途中,遠江 (とおとうみ) で病死した。

橘広相
たちばなのひろみ @@@LINK=橘広相 橘広相

橘広相
たちばなのひろみ

837〜890
平安前期の学者
文章博士 (もんじようはかせ) ・参議。奈良麻呂の玄孫。菅原是善 (これよし) に学び,文章博士などを歴任した。光孝・宇多天皇の信任をうけたが,888年阿衡事件で詔勅起草の責任を問われ,境に陥った。

橘三千代
たちばなのみちよ @@@LINK=橘三千代 橘三千代

橘三千代
たちばなのみちよ

?〜733
奈良時代,光明皇后の母
初め美努 (みぬ) 王に嫁し葛城王(橘諸兄)らを生み,のち藤原不比等に嫁した。娘光明子を聖武天皇皇后,多比能 (たびの) を諸兄の夫人とし,藤原・橘両氏繁栄の基礎を築いた。法隆寺橘夫人念持仏を残している。
橘諸兄
たちばなのもろえ @@@LINK=橘諸兄 橘諸兄

橘諸兄
たちばなのもろえ

684〜757
奈良時代の左大臣
美努 (みの) ・ (みぬ) 王の子。光明皇后異父兄。母は橘三千代。初め葛城 (かずらぎ) 王と称し,736年臣籍に下り橘宿禰諸兄と改めた。翌年藤原不比等の4子が疫病により相ついで死んだのち,大納言・右大臣から正一位左大臣にすすみ,玄昉 (げんぼう) ・吉備真備 (きびのまきび) らと結んで新興勢力となった。しかし藤原広嗣の乱(740),恭仁京 (くにきよう) 造営失敗,大仏造立の困難などのため,新たに台頭した藤原仲麻呂に押されて,晩年はふるわず756年官を辞した。

橘守部
たちばなもりべ @@@LINK=橘守部 橘守部

橘守部
たちばなもりべ

1781〜1849
江戸後期の国学者
伊勢(三重県)の人。本姓は飯田,号は池庵など。江戸に出て,狂歌師から国学に転じ,独学で一家をなした。古語の解釈・音韻に精通し,『日本書紀』を重んじ,本居宣長が『古事記』を尊んだのに対抗した。『稜威道別 (いつのちわき) 』『長歌撰格』など著書も多い。

多鈕細文鏡
たちゅうさいもんきょう @@@LINK=多鈕細文鏡 多鈕細文鏡

多鈕細文鏡
たちゅうさいもんきょう

背面の鈕が2ないし3ある鏡
朝鮮から沿海州の一部に分布しているが,日本では,古い形式の銅鐸 (どうたく) といっしょに出土したり,副葬品として出土している。朝鮮では細形銅剣銅鉾と伴出している。
辰野金吾
たつのきんご @@@LINK=辰野金吾 辰野金吾

辰野金吾
たつのきんご

1854〜1919
明治時代の建築家
肥前(佐賀藩)唐津の生まれ。1879年工部大学校卒業後イギリスに留学し,帰国後 '84年工部大学校(現東大工学部)教授となる。洋風建築技術を学んだ最初の日本人で,代表作品に日本銀行本店・東京駅などがある。

竪穴式石室
たてあなしきせきしつ @@@LINK=竪穴式石室 竪穴式石室

竪穴式石室
たてあなしきせきしつ

古墳時代前・中期の墓室の一形式
木棺または石棺の周囲に,板状の割石を積んで4壁をつくり,上を天井石で閉鎖し,そのうえに盛土をしたもの。
竪穴住居
たてあなじゅうきょ @@@LINK=竪穴住居 竪穴住居

竪穴住居
たてあなじゅうきょ

床面を地表より下につくった住居
縄文草創期に現れ,平安・鎌倉時代まで存続する。地面に穴を掘り,底面をたいらにして床とし,上部に屋根をかけたもの。床面に炉跡・柱穴などがあり,周溝のめぐっている場合もある。
伊達氏
だてし @@@LINK=伊達氏 伊達氏

伊達氏
だてし

戦国〜江戸時代の陸奥の大名
藤原北家の一流。陸奥国仙台藩主。祖先が源頼朝の奥州征討に従い功により陸奥国伊達郡(福島県)を与えられ,伊達氏を称した。その後南朝に属し,のち足利氏に降伏。米沢を居城とし,政宗のときに会津を平定,仙道7郡を治めた。豊臣秀吉に対抗しようとしたが,小田原陣中に至り服属。関ケ原の戦い(1600)に東軍に属し上杉景勝を破り,徳川氏より優遇をうけ仙台62万石を領した。庶子秀宗は伊予宇和島の藩主となる。戊辰 (ぼしん) 戦争では奥羽越列藩同盟の中心となり,のち28万石に減封された。
伊達騒動
だてそうどう @@@LINK=伊達騒動 伊達騒動

伊達騒動
だてそうどう

江戸初期,仙台藩主伊達家におこった御家騒動
1660年藩主伊達綱宗は行いが悪く幕府から隠居を命じられ,2歳の亀千代(綱村)が跡を継ぎ,一族の伊達兵部宗勝(綱宗の叔父)・田村宗良が後見となり,奉行原田甲斐宗輔と結んで実権を握った。しかし保守派の伊達安芸宗重らは,所領問題を機会に兵部らの不法を幕府に訴え,'71年大老酒井忠清がこれを裁決し,兵部・甲斐らを処罰,幼少の綱村に所領を安堵して落着した。この騒動は『伽羅先代萩 (めいぼくせんだいはぎ) 』の名で歌舞伎などで上演された。
伊達千広
だてちひろ @@@LINK=伊達千広 伊達千広

伊達千広
だてちひろ

1802〜77
江戸末期・明治初期の歌人・歴史家
紀伊(和歌山県)藩士宇佐美祐長の子で,伊達盛明の養子となった。紀伊藩主徳川治宝 (はるとみ) に重用されたが,彼の死後失脚。日本通史『大勢三転考』のほか随筆・歌文集が多い。

伊達政宗
だてまさむね @@@LINK=伊達政宗 伊達政宗

伊達政宗
だてまさむね

1567〜1636
安土桃山〜江戸時代初期の武将。初代仙台藩主
18歳で家督を継いで陸奥(福島県)伊勢郡を領有し,二本松の畠山氏を討った。佐竹・結城氏らの強力な連合軍の侵入を撃退し,1589年蘆名氏を滅ぼし会津を領有した。'90年豊臣秀吉が小田原後北条氏を攻めると,対抗を決意したが,小田原陣中で秀吉に服属。関ケ原の戦い(1600)では東軍に属し上杉景勝を攻め,功により62万石を与えられた。'13年には支倉 (はせくら) 常長をローマに派遣し,また和歌・茶道にも長じた。

伊達宗城
だてむねなり @@@LINK=伊達宗城 伊達宗城

伊達宗城
だてむねなり

1818〜92
幕末・明治前期の政治家
伊予宇和島藩主。将軍継嗣問題で一橋派に属し,安政条約調印を非難し,安政の大獄で処罰された。のち公武合体を推進。1867年の王政復古後,議定・民部卿・大蔵卿などを歴任し,'71年には全権大使として清国におもむき日清修好条規を締結した。

立山・立野
たてやま・たての @@@LINK=立山・立野 立山・立野

立山・立野
たてやま・たての

江戸時代,用材保護の目的から設定された保護林
領主の直接支配下の御林・留山とは性質を異にし,その植樹造林は特定の個人,または村方に負わせ,成木は藩用・公共目的に供した。九州では狩猟用山林をいう。
田堵
たと @@@LINK=田堵 田堵

田堵
たと

10〜11世紀,公領や荘園の田地を請作した有力農民
その請作の規模から大名田堵・小名田堵とよばれた。田堵は1年契約の請作者であったが,やがて土地に対する権利を強め,名主に成長していった。
田荘
たどころ @@@LINK=田荘 田荘

田荘
たどころ

大化の改新以前の豪族の私有地
豪族私有の曲 (かきべ) ・奴婢 (ぬひ) が耕作。大化の改新によって,大王家の直轄地である屯倉 (みやけ) とともに廃止された。

たな @@@LINK=店 店


たな

常設小売店
「みせ」とも読み,見世棚ともいう。平安末期にに常設の店舗がみられ,人にみせ,その求めに応ずるための品物を置くようになった。
田中角栄内閣
たなかかくえいないかく @@@LINK=田中角栄内閣 田中角栄内閣

田中角栄内閣
たなかかくえいないかく

田中角栄(1918〜93)を首班とする自由民主党内閣(1972.7〜74.12)
大学卒の学歴をもたない立志伝中の首相として登場。1972年日中国交を回復し,「日本列島改造論」を唱えて意欲的な姿勢を示したが,'73年のオイルショックと狂乱物価民心は離れ,自身の金脈問題を追及され短命内閣に終わった。
田中義一
たなかぎいち @@@LINK=田中義一 田中義一

田中義一
たなかぎいち

1863〜1929
明治〜昭和初期の軍人・政治家
陸軍大将。長門(山口県)の生まれ。日清・日露両戦争に従軍。のち陸軍省に入り,軍務局長・参謀次長を経て,原敬・第2次山本権兵衛内閣の陸相となる。1925年立憲政友会総裁に就任し,'27年若槻礼次郎内閣のあとをうけて組閣。治安維持法改正・共産党弾圧などの反動政策を行い,対中国積極外交をおしすすめた。'29年7月,張作霖爆殺事件により総辞職し,2か月後急死した。

田中義一内閣
たなかぎいちないかく @@@LINK=田中義一内閣 田中義一内閣

田中義一内閣
たなかぎいちないかく

田中義一を首班とする立憲政友会内閣(1927〜29)
1927年4月,若槻礼次郎内閣総辞職のあとをうけ成立。支払猶予令(モラトリアム)で金融恐慌に対処。東方会議で中国進出を策し,山東出兵を強行して北伐に干渉して失敗。国内では治安維持法を改正し,特高警察を全国に設置して,三・一五事件,四・一六事件など日本共産党を弾圧した。'29年7月,張作霖爆殺事件によって総辞職した。
田中丘隅
たなかきゅうぐ @@@LINK=田中丘隅 田中丘隅

田中丘隅
たなかきゅうぐ

1662〜1729
江戸中期の農政家
武蔵(東京都)八王子の人。川崎の村役人田中兵庫の養子となった。江戸で荻生徂徠 (おぎゆうそらい) に学び,1723年将軍徳川吉宗に登用され,多摩川・荒川・酒匂 (さかわ) 川の治水策など民政で大きな功績をあげ,'29年代官となった。著書『民間省要』は農民支配について記したものであるが,江戸周辺の農村の実状を知るうえでの好史料。
田中勝介
たなかしょうすけ @@@LINK=田中勝介 田中勝介

田中勝介
たなかしょうすけ

生没年不詳
江戸初期の京都の商人
「勝助」とも書く。1610年,徳川家康の命で,前年上総(千葉県)に漂着した前ルソン総督ドン=ロドリゴの帰国に同行し,ノビスパン(メキシコ)に渡り通商をはかったが失敗。翌年,答礼使ヴィスカイノと帰国。日本人で最初に太平洋を横断した。
田中正造
たなかしょうぞう @@@LINK=田中正造 田中正造

田中正造
たなかしょうぞう

1841〜1913
明治時代の政治家。“明治の義民”と称される
下野(栃木県)の生まれ。自由民権運動に参加し,県会議長として県令三島通庸 (みちつね) の暴政と戦った。1890年立憲改進党から出馬し衆議院議員となり足尾鉱毒事件と取り組んだが,やがて代議士を辞任し天皇に直訴した。その後も治水事業などで農民のために尽くした。

田中館愛橘
たなかだてあいきつ @@@LINK=田中館愛橘 田中館愛橘

田中館愛橘
たなかだてあいきつ

1856〜1952
明治〜昭和期の物理学者
陸奥(岩手県)の生まれ。東大卒業後,イギリス・ドイツに留学。帰国後東大教授となる。全国の地磁気測定・緯度観測所設置に業績をあげ,1918年の航空研究所設立に尽力,航空学・気象学・メートル法の普及をはかった。日本式ローマ字論者としても有名,国際学界でも活躍した。1944年文化勲章受章。

田中不二麿
たなかふじまろ @@@LINK=田中不二麿 田中不二麿

田中不二麿
たなかふじまろ

1845〜1909
明治時代の政治家
尾張藩出身。幕末,尊王攘夷運動に参加。新政権発足後,参与となり岩倉遣外使節に同行し,欧米の教育制度を視察。1879年文部卿として教育令制定に尽力。のち駐伊・駐仏公使を経て,'90年枢密顧問官,'91年第1次松方正義内閣の法相を歴任した。

店借
たながり @@@LINK=店借 店借

店借
たながり

江戸時代の町人階層の一つで,借家人のこと
店子 (たなこ) ともいう。家持と店借は親子の関係にたとえられ,家持は店賃や労働を課した。地借 (じがり) と同じく,町政に参加できなかった。
谷川士清
たにがわことすが @@@LINK=谷川士清 谷川士清

谷川士清
たにがわことすが

1709〜76
江戸中期の国学者・神道学者
伊勢(三重県)の医家に生まれ,家業のかたわら垂加神道を学んだ。本居宣長と交わり,宣長の『古事記』重視に対し,『日本書紀』を重んじ,『日本書紀通証』や国語辞典『和訓栞 (わくんのしおり) 』を著した。

谷崎潤一郎
たにざきじゅんいちろう @@@LINK=谷崎潤一郎 谷崎潤一郎

谷崎潤一郎
たにざきじゅんいちろう

1886〜1965
大正・昭和期の小説家
東京の生まれ。東大国文科中退。1910年発表の『刺青 (しせい) 』以来,永井荷風とともに耽美派の作家として活躍。官能の世界を追求し,濃艶に描写した。昭和期に入り日本古典の伝統美への志向を強めた。'49年文化勲章受章。代表作に『痴人の愛』『蘆刈』『春琴抄』『細雪 (ささめゆき) 』『鍵』や現代語訳『源氏物語』など。

谷時中
たにじちゅう @@@LINK=谷時中 谷時中

谷時中
たにじちゅう

1598〜1649
江戸前期の海南学派の儒学者
土佐(高知県)の農家に生まれ,僧侶となったが,のち南村梅軒に朱子学を学び,還俗 (げんぞく) して高知で儒学と医学教授。書物購入のため家産を傾けたといわれる。野中兼山・山崎闇斎らはその門人。

谷秦山
たにじんざん @@@LINK=谷秦山 谷秦山

谷秦山
たにじんざん

1663〜1718
江戸前・中期の神道家・儒学者
土佐(高知県)の人。山崎闇斎の門に入り垂加神道を学んだ。さらに渋川春海 (はるみ) から天文・暦学を学び,記紀・格式など古典の蒐集,校訂尽力。海南学派興隆に貢献した。著書に『神代巻塩土伝』など。

谷干城
たにたてき @@@LINK=谷干城 谷干城

谷干城
たにたてき

1837〜1911
明治時代の軍人・政治家
名は一般に「かんじょう」と称されている。土佐藩出身。戊辰 (ぼしん) 戦争に活躍,西南戦争では熊本鎮台司令官として熊本城を死守した。陸軍中将で退役し,自由党に反対して保守的な中正党を組織。第1次伊藤博文内閣の農商務相となったが,外相井上馨の欧化政策・条約改正案に反対し辞任。その後も大隈重信の条約改正案反対・日英同盟反対など,政府批判の立場をとり,政界重きをなした。
谷文晁
たにぶんちょう @@@LINK=谷文晁 谷文晁

谷文晁
たにぶんちょう

1763〜1840
江戸後期の画家。江戸文人画の祖
江戸の人。初め狩野派を学んだが,内外の諸派を研究し新画風を開いた。松平定信の保護をうけ,図録『集古十種』の挿絵を描いた。門下に田能村竹田 (たのむらちくでん) ・渡辺崋山らがいる。

田沼意次
たぬまおきつぐ @@@LINK=田沼意次 田沼意次

田沼意次
たぬまおきつぐ

1719〜88
江戸中期の幕府老中
紀伊(和歌山県)藩足軽出身で旗本となった田沼意行の子として江戸に生まれた。徳川家重の小姓となり,家重の将軍就任後大名となった。1767年,10代将軍徳川家治 (いえはる) の側用人となり権勢ふるい,'72年老中,'83年長子意知 (おきとも) を若年寄として勢力をきわめた。しかし賄賂が横行し,政治への批判も強まり,'86年家治の死後失脚。意次が政治を担当した時代を田沼時代といい,商品経済を助長し商業資本と結んで幕府財政を再建しようと試みたが,天明の飢饉農村が荒廃し,百姓一揆・打ちこわしの続出する中で幕府に非難が集中した。

田沼意知
たぬまおきとも @@@LINK=田沼意知 田沼意知

田沼意知
たぬまおきとも

1749〜84
江戸中期の幕府若年寄
意次 (おきつぐ) の子。10代将軍徳川家治 (いえはる) に仕え,1783年若年寄となった。老中の父意次とともに権勢をふるい世の批判をうけた。私恨から旗本佐野政言 (まさこと) に江戸城中で殺されたが,人びとは佐野を「世直し大明神」とたたえたという。

田沼時代
たぬまじだい @@@LINK=田沼時代 田沼時代

田沼時代
たぬまじだい

江戸中期,10代将軍徳川家治 (いえはる) の治世中,田沼意次 (おきつぐ) が側用人・老中として政治を担当した時代(1767〜86)
享保の改革の一面を継承,商業資本の積極的利用で幕府財政再建をはかった。株仲間を広く公認し運上・冥加 (みようが) 金をとり,銅・鉄・真鍮 (しんちゆう) を幕府の専売にし,長崎貿易を拡張,銅にかわり俵物の輸出を奨励し金銀を輸入した。また商人資本で下総印旛沼・手賀沼の干拓を進め,蝦夷 (えぞ) 地の開発,ロシアとの貿易も計画するなど,従来にない積極策を展開した。しかし商人との結託で賄賂が公然と上下に横行し,田沼意次・意知 (おきとも) 父子の専権に批判が高まり,天明の飢饉や百姓一揆・打ちこわし続発の中で,将軍家治が死の床につくと失脚した。一方,文化的には江戸時代の中で最も自由な時代といわれ,『解体新書』の訳出,平賀源内の活動,三浦梅園の哲学探究や江戸庶民文学の成立期でもあった。
種子島
たねがしま @@@LINK=種子島 種子島

種子島
たねがしま

鹿児島県南部,大隅諸島北東端にある島
古くは多禰島・多禰島と書き,大隅国に属した。東は屋久島に対する。天武・持統朝に入貢。鎌倉時代以降,種子島氏が領主となる。1543年ポルトガル人が漂着し領主時堯 (ときたか) に鉄砲2挺を売り渡した。南蛮文化が初めて渡来した地として著名
種子島時堯
たねがしまときたか @@@LINK=種子島時堯 種子島時堯

種子島時堯
たねがしまときたか

1528〜79
戦国末期の種子島の領主
1543年,島の西村小浦に漂着したポルトガル人から鉄砲2挺を2000両で買い取り,家臣篠川小四郎に火薬,工人八板金兵衛尉に鉄砲の製法を研究させた。

種蒔く人
たねまくひと @@@LINK=種蒔く人 種蒔く人

種蒔く人
たねまくひと

1921(大正10)年,小牧近江 (おうみ) ・金子洋文らが発刊した文芸雑誌
プロレタリア文学運動の出発点となる。1923年廃刊。
田能村竹田
たのむらちくでん @@@LINK=田能村竹田 田能村竹田

田能村竹田
たのむらちくでん

1777〜1835
江戸後期の南画家
豊後(大分県)竹田の人。岡藩の藩医の子。儒学を志したが藩政改革の意見書がいれられず辞職し,浦上玉堂・青木木米らの文人墨客と交わった。画は谷文晁にも学んだが,趣味生活に入って独自の画風を開いた。

頼母子
たのもし @@@LINK=頼母子 頼母子

頼母子
たのもし

鎌倉時代以降の庶民の共済的な金融組織
親(発起人)と講中(仲間)が定期的に一定の金・米を出し合い,入札・くじなどで順次掛金・掛米を借りる方法。江戸時代に盛行,京坂では頼母子,江戸では無尽 (むじん) といった。
煙草
たばこ @@@LINK=煙草 煙草

煙草
たばこ

室町末期,ポルトガル人が伝えた作物。葉を乾燥させて喫煙する
ポルトガル語tabacoによる。刻みたばこを煙管 (きせる) で吸う。江戸幕府慶安御触書などで,たびたび喫煙を禁止したがやがて黙認商品作物として普及し,薩摩国分 (こくぶ) などが特産地として有名。1904年日露戦争に際して専売法を発布
田舟
たぶね @@@LINK=田舟 田舟

田舟
たぶね

湿田での作業のときに用いられる小型の舟状運搬具
湿田に浮かべて刈り入れた稲や肥料などを運ぶ道具。弥生時代から使用され,静岡県登呂遺跡からも出土した。
田部
たべ @@@LINK=田部 田部

田部
たべ

古代,大化の改新前の大王家領である屯倉 (みやけ) ・屯田 (みた) の耕作民
改新後,公民となった。
ターヘル‐アナトミア @@@LINK=ターヘルアナトミア ターヘルアナトミア

ターヘル‐アナトミア

解体新書』の原本
玉勝間
たまかつま @@@LINK=玉勝間 玉勝間

玉勝間
たまかつま

江戸後期,本居宣長の随筆集
1793年から没年の1801年までの随筆を集めたもの。14巻,目録1巻。宣長の古道に対する考え方や文学観・人生観・研究態度などをよく示している。
玉くしげ
たまくしげ @@@LINK=玉くしげ 玉くしげ

玉くしげ
たまくしげ

江戸後期,本居宣長の経世書
1786年著。1巻。古道説に基づく政治論で,自然と人間性の尊重を説いた。『秘本玉くしげ』とともに紀伊藩主徳川治貞に献じられた。
玉松操
たままつみさお @@@LINK=玉松操 玉松操

玉松操
たままつみさお

1810〜72
幕末・明治初期の国学者
京都の人。初め醍醐 (だいご) 寺の僧となったが還俗 (げんぞく) し,のち大国隆正 (おおくにたかまさ) に師事し国学を学ぶ。岩倉具視の知遇をうけ,王政復古の大号令の発布に参画,「諸事神武創業ノ始ニ原 (もとづ) キ……」は玉松の主張による。のち新政府に出仕したが政府の開明化政策と合わず辞任した。

玉虫厨子
たまむしのずし @@@LINK=玉虫厨子 玉虫厨子

玉虫厨子
たまむしのずし

奈良の法隆寺にある飛鳥時代の厨子(仏像・経巻などを安置する箱)
国宝。 (ひのき) 造の宮殿型の厨子で,高さ2m余り。まわりの透彫 (すかしぼり) 金具の下に1万近い玉虫の羽がしかれていた。台座の黒漆の地に朱・緑・黄の3色で描かれた絵(捨身飼虎 (しやしんしこ) 図・施身聞偈図・舎利供養 (しやりくよう) 図など)はこの時代の遺品として貴重。
溜間
たまりのま @@@LINK=溜間 溜間

溜間
たまりのま

江戸城内の大名諸所部屋の名
登城して溜間に詰める大名の家格を溜間詰 (たまりのまづめ) といい,家門・譜代の名門などから4人選ばれ,老中と政治を相談することもあり名誉とされた。
濃絵
だみえ @@@LINK=濃絵 濃絵

濃絵
だみえ

障壁画などの画面に金銀泥や群青・緑青などの岩絵具を盛り上げるほど塗った濃彩画
安土桃山時代の濃厚な原色を用いた金碧障壁画などがその典型。
為永春水
ためながしゅんすい @@@LINK=為永春水 為永春水

為永春水
ためながしゅんすい

1790〜1843
江戸後期の人情本作者
本名鷦鷯 (ささき) (または佐々木)貞高,通称越前屋長次郎,号は金竜山人・狂訓亭主人など多数。江戸の人。式亭三馬に入門,『春色梅児誉美 (しゆんしよくうめごよみ) 』を書いて好評を博し,人情本の先駆となった。そのほか多くの著書がある。天保の改革で風俗を乱した罪により処罰された。
為平親王
ためひらしんのう @@@LINK=為平親王 為平親王

為平親王
ためひらしんのう

952〜1010
平安中期の皇族
村上天皇第4皇子。母は藤原安子。妃は左大臣源高明 (みなもとのたかあきら) の娘。969年安和の変に関係。高明は,為平親王の擁立を企てているという讒言 (ざんげん) により大宰府に左遷され,以後摂関が常置された。

多聞院日記
たもんいんにっき @@@LINK=多聞院日記 多聞院日記

多聞院日記
たもんいんにっき

奈良の興福寺多聞院の日記
46巻。筆者は宗芸 (しゆげい) ・英俊・宗英 (そうえい) らで,特に英俊の手になる部分が多い。1478〜1618年に至る,戦国時代から江戸初期までの政治・社会経済・文化の全般にわたり豊富な史料を提供する重要な記録。
田安家
たやすけ @@@LINK=田安家 田安家

田安家
たやすけ

江戸時代,御三卿の一つ
8代将軍徳川吉宗の2男宗武 (むねたけ) が初代。江戸城田安門内に邸を与えられ,所領10万石。15代将軍慶喜 (よしのぶ) の後継者となった徳川家達 (いえさと) は田安家出身である。
田安宗武
たやすむねたけ @@@LINK=田安宗武 田安宗武

田安宗武
たやすむねたけ

1715〜71
江戸中期の歌人・国学者。御三卿の一つ田安家の祖
8代将軍徳川吉宗の2男。松平定信の父。荷田在満 (かだのありまろ) ・賀茂真淵 (まぶち) に師事し,国学者・万葉調の歌人として有名。家集に『天降言 (あもりごと) 』。

田山花袋
たやまかたい @@@LINK=田山花袋 田山花袋

田山花袋
たやまかたい

1871〜1930
明治・大正時代の小説家
本名録弥。群馬県の生まれ。初め硯友社の影響をうけたが,明治30年代末より自然主義文学者として島崎藤村とともに活躍した。代表作に『蒲団 (ふとん) 』『生』『田舎教師』など。

樽井藤吉
たるいとうきち @@@LINK=樽井藤吉 樽井藤吉

樽井藤吉
たるいとうきち

1850〜1922
明治時代の政治家・社会運動家
大和(奈良県)の生まれ。1882年長崎県島原で東洋社会党を結成したが,結党集会を禁止された。'85年には大阪事件に連坐し逮捕された。のち衆議院議員となり大井憲太郎らと東洋自由党を組織したがやがて辞任した。晩年は,不遇のうちに故郷で死去。

樽廻船
たるかいせん @@@LINK=樽廻船 樽廻船

樽廻船
たるかいせん

江戸時代,大坂〜江戸間を往復した廻船
17世紀半ば,摂津などの船問屋が菱垣廻船に対抗し,酒・雑貨を江戸へ積み出したのに始まる。酒樽をおもな積荷としたのでその名がある。小型で船足が早いため菱垣廻船をしのいだ。
熾仁親王
たるひとしんのう @@@LINK=熾仁親王 熾仁親王

熾仁親王
たるひとしんのう

有栖川宮 (ありすがわのみや) 熾仁親王
ダレス
John Foster Dulles @@@LINK=ダレス ダレス

ダレス
John Foster Dulles

1888〜1959
アメリカの政治家
1946年の国際連合創立会議で活躍。'51年トルーマン大統領の特使となり対日講和条約と日米安全保障条約の締結交渉を推進した。'53年アイゼンハウアー政権の国務長官となり,「巻き返し政策」を主張,対ソ強硬政策を展開した。

垂柳遺跡
たれやなぎいせき @@@LINK=垂柳遺跡 垂柳遺跡

垂柳遺跡
たれやなぎいせき

青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期の集落遺跡
1958年に土器とともに多量の炭化米が出土した。'80〜83年の調査では約4000㎡の畦 (あぜ) で小さく区画された水田跡が発掘され,本州北端における稲作の存在を証明した。その後の調査で木製農具も出土している。
俵物
たわらもの @@@LINK=俵物 俵物

俵物
たわらもの

江戸時代,長崎から輸出した食品原料の煎海鼠 (いりこ) ・干鮑 (ほしあわび) ・鱶鰭 (ふかのひれ) の3品の総称
俵詰めにしたのでその名があり,「ひょうもつ」とも読む。長崎貿易での輸出品の首位は銅であったが,生産減少のため幕府は1764年俵物輸出を奨励田沼意次 (おきつぐ) は'85年俵物元役所を設け,産地の蝦夷 (えぞ) 地で直接集荷させて輸出につとめ,金銀を輸入した。
俵屋宗達
たわらやそうたつ @@@LINK=俵屋宗達 俵屋宗達

俵屋宗達
たわらやそうたつ

生没年不詳
17世紀前半の画家
伝記は不詳。野々村といわれ,「俵屋」は唐織物屋あるいは扇屋の家号といわれている。その画風は,新しい構図と技法により,大和絵に新生面を開いた。琳派の先駆をなす。代表作に『風神雷神図屛風』『舞楽図屛風』など。
淡海公
たんかいこう @@@LINK=淡海公 淡海公

淡海公
たんかいこう

藤原不比等
檀家制度
だんかせいど @@@LINK=檀家制度 檀家制度

檀家制度
だんかせいど

江戸時代寺請制度確立とともに強化された宗教制度
一家が必ず一定寺院檀家となり,これに布施して寺院の財政を助ける制度。中世以来,寺院と民間との接触が強まってから成立し,江戸時代,キリシタン禁圧の手段として寺請制度が成立すると,全国的に制度化された。この制度により江戸時代の仏教は事実上国教化した。
団菊左時代
だんきくさじだい @@@LINK=団菊左時代 団菊左時代

団菊左時代
だんきくさじだい

明治中期の歌舞伎の中興時代
1889年歌舞伎座ができたころから,9代市川団十郎,5代尾上菊五郎,初代市川左団次の3名優が技芸競い,歌舞伎が再び盛んになった時代をいう。1903年団十郎・菊五郎,'04年左団次とあいついで死没し,団菊左時代は終わった。
段 祺瑞
だんきずい @@@LINK=段+祺瑞 段+祺瑞

段 祺瑞
だんきずい

1865〜1936
中華民国の軍閥政治家
北洋軍閥安徽 (あんき) 派の首領で,袁世凱 (えんせいがい) の腹心の部下。第一次世界大戦中,寺内正毅内閣から西原借款などの援助をうけ,日本の中国進出を許す。1924年張作霖・馮玉祥 (ひようぎよくしよう) らに推され臨時執政に就任したが ‘26年失脚。
塘沽停戦協定
タンクーていせんきょうてい @@@LINK=塘沽停戦協定 塘沽停戦協定

塘沽停戦協定
タンクーていせんきょうてい

1933(昭和8)年5月,熱河作戦後に結ばれた日中停戦協定
満州事変後の1933年2月,日本軍は熱河作戦を開始し,4月河北省に侵入した。蔣介石中国共産党との戦い重点を置いていたので,対日和平策をとり,河北省東部の塘沽 (タンクー) で停戦協定を結んだ。これにより,中国側は灤東 (らんとう) 地区を中立化して軍隊を入れないことを約し,華北の準満州国化という関東軍の目的は達せられ,日本の満州における既成事実を中国に黙認させた。
湛慶
たんけい @@@LINK=湛慶 湛慶

湛慶
たんけい

1173〜1256
鎌倉初・中期の慶派の仏師
運慶の長男。父の大成した作風を受け継ぎ,ゆったりした落ち着きを示す。京都の七条仏所を統率。代表作に蓮華王院(三十三間堂)中尊『千手観音座像』など。

短甲
たんこう @@@LINK=短甲 短甲

短甲
たんこう

古墳時代前期から用いられた甲冑の一形式
上半身を防ぐための短いよろいで,鉄板または金銅板を革紐あるいは鋲 (びよう) で組み合わせている。
檀紙
だんし @@@LINK=檀紙 檀紙

檀紙
だんし

和紙の一つ。厚手白色で縮緬 (ちりめん) のようなしわがある
檀 (まゆみ) の樹皮でつくる。包紙や目録・免許状のような文書に用い,しわや紙形により大高 (おおたか) ・小高の別がある。平安時代陸奥国の産で陸奥紙 (みちのくがみ) と呼ばれ,現在のような形質になったのは室町時代からである。公家武家に用いられ,備中(岡山県)・越前(福井県)産が有名。
弾正台
だんじょうだい @@@LINK=弾正台 弾正台

弾正台
だんじょうだい

①律令官制の警察機関
②明治時代の警察機関
八省から独立して,風俗の粛正・官人の違法糾弾を任務とする。全国の治安維持にあたるのが原則であったが,京内に限られるようになった。9世紀に検非違使 (けびいし) が設けられると有名無実となった。
1869年に設置したが '71年廃止された。
男女雇用機会均等法
だんじょこようきかいきんとうほう @@@LINK=男女雇用機会均等法 男女雇用機会均等法

男女雇用機会均等法
だんじょこようきかいきんとうほう

職場での男女平等をめざし,募集・採用,配置・昇進,定年・退職・解雇などにおける差別を禁止した法律
正式名称は「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」といい,国連の女子差別撤廃条約の批准(1985)を直接的契機として,'85年に成立し'86年から施行された。男女の機会均等努力を企業に義務づけたが,罰則規定がないことなどの批判がおこり,'97年に改正男女雇用機会均等法が成立し,'99年4月から施行された。従来の努力目標を明確な禁止規定とすることやセクシュアル‐ハラスメントの防止義務を課す一方,労働基準法上の女子保護規定が撤廃されることになった。
男女良賤の法
だんじょりょうせんのほう @@@LINK=男女良賤の法 男女良賤の法

男女良賤の法
だんじょりょうせんのほう

645年大化の改新のとき出された法令
良民男女間に生まれた子は父に属し,良民男子と賤民間の子は母に,良民女子と賤民間の子は父に,賤民間の子は母に属することを規定した。良・賤の階級固定をはかったもの。
段銭
たんせん @@@LINK=段銭 段銭

段銭
たんせん

室町時代,田畑の面積に応じて課し,貨幣で納めさせた臨時税
重要行事や内裏造営などのため臨時に特定の国郡あるいは全国に課したが,室町幕府は財政難のため頻繁に課税,段銭国分 (くにわけ) 奉行諸国に置き重要な財源とした。国司・守護・大名らも課し(守護段銭など),臨時税から恒常化すると,銭納のため特に農民を苦しめた。
団琢磨
だんたくま @@@LINK=団琢磨 団琢磨

団琢磨
だんたくま

1858〜1932
大正・昭和初期の実業家。三井財閥の最高指導者
筑前(福岡県)の生まれ。アメリカで鉱山学を修め,1888年三池炭坑払下げとともに三井三池炭鉱に入り,'94年三井鉱山専務理事となる。のち三井合名理事長・日本工業倶楽部・日本経済連盟の理事長などを歴任。1932年血盟団員により暗殺された。

檀徒
だんと @@@LINK=檀徒 檀徒

檀徒
だんと

・食などの布施を行う信徒
単独相続
たんどくそうぞく @@@LINK=単独相続 単独相続

単独相続
たんどくそうぞく

被相続人の財産・地位などを単独で相続すること
日本では督と財産が相続の対象とされ,家督は長子単独相続が一貫して行われた。財産相続は,鎌倉時代まで分割相続が一般的であった。鎌倉末期になると,武家社会では所領細分化を防ぐため単独相続に移行し,惣領庶子を扶持する習慣は江戸時代まで続いた。そのため家督相続をめぐる争いは深刻さを増した。
歎異抄
たんにしょう @@@LINK=歎異抄 歎異抄

歎異抄
たんにしょう

鎌倉時代,浄土真宗の開祖親鸞の法語録
1巻。親鸞の死後,信徒の間に種々の異説がおこったのに対して,正統教義を示すことを目的として編集されたもので,編者は弟子の唯円 (ゆいえん) と伝えられる。全編19条のうち,前半の10条には親鸞の法語をそのまま収録し,後半の部分に異義を列挙し編者の批判が記されている。親鸞の思想信仰を伝える貴重な書。
壇の浦の戦い
だんのうらのたたかい @@@LINK=壇の浦の戦い 壇の浦の戦い

壇の浦の戦い
だんのうらのたたかい

1185年,長門で行われた源平最後の合戦
屋島で敗れた平氏下関に退いて,源義経の率いる源氏と壇の浦で決戦したが敗れ,安徳天皇は入水し,平氏一門も入水,あるいは捕らえられ,ここに平氏は滅亡した。
耽美派
たんびは @@@LINK=耽美派 耽美派

耽美派
たんびは

美を人生の最高の価値とし,美の享受と創造をめざした文学の流派
唯美 (ゆいび) 派ともいう。自然主義に対立しておこり,明治末期〜大正初期にかけて文壇主流となる。北原白秋吉井勇木下杢太郎ら雑誌『スバル系統の人びと(スバル派),永井荷風久保田万太郎水上滝太郎・佐藤春夫ら雑誌『三田文学』系統の人びと,さらに『新思潮』系統の谷崎潤一郎小山内薫 (おさないかおる) らが属した。
談林派
だんりんは @@@LINK=談林派 談林派

談林派
だんりんは

江戸前期,西山宗因の俳諧流派
延宝・天和(1673〜84)のころ最盛期松永貞徳貞門派に対し,自由軽妙な句風を主張したが,格調高い芸術味にあふれた蕉風が盛んになると衰微した。

ち @@@LINK=笞 笞



律令刑罰の一つ。➡ 五刑
治安維持法
ちあんいじほう @@@LINK=治安維持法 治安維持法

治安維持法
ちあんいじほう

1925(大正14)年に成立した代表的弾圧法規
第1次加藤高明内閣が立案し,1925年3月普通選挙法とともに成立。社会運動の発展に対処し,国体変革や私有財産制の否認を目的とする結社・運動を厳禁した。'28年田中義一内閣は勅令で死刑を付加,さらに '41年の改正で予防拘禁制を採用。特高警察と結合し,いっさいの反政府・反軍部的言動に拡大解釈で適用されるに至った。'45年10月廃止。
治安警察法
ちあんけいさつほう @@@LINK=治安警察法 治安警察法

治安警察法
ちあんけいさつほう

1900(明治33)年,第2次山県有朋内閣によって制定された労働・社会運動弾圧のための法律
日清戦争(1894〜95)後新たに台頭した労働・農民運動を抑えることを目的とし,それまでの自由民権運動に対する弾圧諸法規を集大成したもの。おもな内容は,(1)政治的集会の届出制,(2)警官の集会解散権,(3)労働組合結成の制限,(4)ストの扇動禁止などで,市民的自由を奪い,のちの治安維持法とともに社会・労働運動取締りの法的根拠となった。1945年10月廃止。
知恩院
ちおんいん @@@LINK=知恩院 知恩院

知恩院
ちおんいん

京都市東山区にある浄土宗総本山
1212年法然がこの地で没したのち,'34年弟子の源智が廟所を修理して知恩院と称したのが始まり。江戸初期,浄土宗徒徳川家康の保護をうけて勢力を拡張した。建造物に文化財が多く,『法然上人絵伝』も有名。
治外法権
ちがいほうけん @@@LINK=治外法権 治外法権

治外法権
ちがいほうけん

在留外国人がその居住する国家の法律に拘束されない特権
一般の外国人は,国外にあっては滞在国の法律を適用されるが,元首や外交使節・兵隊など特定の人には治外法権が認められている。しかし幕末安政の五カ国条約で諸外国に認めた特権は,一般の外国人にも国法が適用されない領事裁判権(外国人がその居住する国家の法律に拘束されず,自国の領事に自国の法律で裁判をうける権利)であった。これは不平等であるため,1899(明治32)年の条約改正で撤廃された。
値嘉島
ちかのしま @@@LINK=値嘉島 値嘉島

値嘉島
ちかのしま

古代,肥前国の五島列島の古称
古くから朝鮮・中国航路の要地で,遣唐使もしばしば寄港した。
近松半二
ちかまつはんじ @@@LINK=近松半二 近松半二

近松半二
ちかまつはんじ

1725〜83
江戸中期の浄瑠璃作者
儒学者穂積以貫 (ほづみいかん) の子。大坂の人。近松門左衛門に私淑し,竹田出雲の門下。竹本座の立作者となり,演劇効果を技巧的に表現した。代表作に『妹背山婦女庭訓 (いもせやまおんなていきん) 』『本朝二十四孝』『新版歌祭文 (しんぱんうたざいもん) 』など。

近松門左衛門
ちかまつもんざえもん @@@LINK=近松門左衛門 近松門左衛門

近松門左衛門
ちかまつもんざえもん

1653〜1724
江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎作者
本名杉森信盛。号は巣林子 (そうりんし) 。武士の子として越前(福井県)で生まれ,のち京都に住んだ。武士身分を捨て,当時下賤といわれた芸能界に身を投じた。竹本義太夫のために浄瑠璃を書き,また坂田藤十郎と組んで歌舞伎脚本を書き,竹本座の専属座付作者となって数々の傑作を残した。劇的構成を巧みに盛りこんだ時代物浄瑠璃は『国性爺合戦』をはじめとして90余編。また,義理人情との葛藤の中で人情が義理に打ち勝った場合の悲劇を描いた世話物浄瑠璃は特に著名で,元禄期の『曽根崎心中』『心中天網島』『女殺油地獄』『冥途の飛脚』など20余編がある。近松の演劇文学史上に残した足跡は偉大で,後世の浄瑠璃・歌舞伎に多大の影響を与えた。井原西鶴・松尾芭蕉とともに元禄三大文学者の一人。

知行
ちぎょう @@@LINK=知行 知行

知行
ちぎょう

平安中期〜江戸時代にかけて行われた土地(人民)の支配
古くは領知・領掌するといい土地の用益権を示した。平安末期,用益権を意味する職 (しき) が単なる収益の対象として物権化すると,この職の行使を知行というようになった。近世では領主が領地を支配することを意味する。
知行国
ちぎょうこく @@@LINK=知行国 知行国

知行国
ちぎょうこく

平安後期・鎌倉前期,国司制度の変形で,特定の皇族・貴族・寺社・武家に一定期間国務執行権を与え,その国の収益を得させる制度
知行国主は子弟や近親者を国守とし,現地には目代を派遣して治めさせ,その国の収入の大半を得た。院政時代に発達,平氏は30余国,源頼朝も多くの関東知行国をもった。のち荘園の拡大と武士の侵略により知行国主の権限は縮小し室町末期に消滅した。
知行制度
ちぎょうせいど @@@LINK=知行制度 知行制度

知行制度
ちぎょうせいど

家臣知行地を分与することにより封建的主従関係を結ぶ制度
織豊政権による全国統一の過程で形成され,江戸幕府により完成荘園制が消滅し,一円知行制が確立して成立した。
知行地
ちぎょうち @@@LINK=知行地 知行地

知行地
ちぎょうち

江戸時代,封建領主が家臣に支配権(徴税行政・裁判権など)を分与した土地
知行地は御恩として与えられ,支配権に制約が多いが,それを媒介に封建的主従関係が成立。将軍は大名・旗本に,大名は藩士(給人)に知行地を分与し重層的に支配。知行地を得た武士を知行取,米で俸禄を支給される武士を蔵米取 (くらまいとり) という。知行取は上級武士に限られ,旗本・給人などは名目的には知行取でも実質的には蔵米取の者が多かった。
知行取
ちぎょうどり @@@LINK=知行取 知行取

知行取
ちぎょうどり

江戸時代,主君から俸禄として土地給地給領)を分与された武士
俸禄としての米を支給される蔵米取 (くらまいとり) に対する称。原則として武士は知行取であったが,17世紀後半から多く蔵米取に切り替えられ,知行取は上級武士に限定された。
筑後川の戦い
ちくごがわのたたかい @@@LINK=筑後川の戦い 筑後川の戦い

筑後川の戦い
ちくごがわのたたかい

南北朝初期,九州の筑後川をはさんで戦われた激戦
1359年,征西将軍懐良 (かねよし) 親王を擁する菊池武光らの南朝方と,少弐頼尚 (しようによりひさ) ・阿蘇大宮司(惟村?)らの北朝方とが戦い,南朝方の勝利となり,九州はこれより一時南朝方が優勢となった。
千種忠顕
ちぐさただあき @@@LINK=千種忠顕 千種忠顕

千種忠顕
ちぐさただあき

?〜1336
南北朝時代の武将・公家
後醍醐 (ごだいご) 天皇に近侍し,1331年元弘の幕府に捕らえられ,天皇に従って隠岐 (おき) に移り,'33年天皇の隠岐脱出に尽力。赤松則村・足利尊氏らとともに六波羅探題を攻め京都を回復した。建武新政府では雑訴決断所の寄人 (よりゆうど) となる。'35年名和長年らとともに,謀反した尊氏を西走させたが,翌 '36年比叡山に迫る足利直義 (ただよし) 軍と戦って死した。

蓄銭叙位令
ちくせんじょいれい @@@LINK=蓄銭叙位令 蓄銭叙位令

蓄銭叙位令
ちくせんじょいれい

711年,銭貨の流通をはかるために出された法令
708年和同開珎が鋳造されたが,当時の物々交換の経済では流通が思わしくなかったため,銭貨を蓄えた者は,その額によってを昇進させることとした。しかし,かえって銭貨の死蔵をまねき,800年に廃止された。
竹馬抄
ちくばしょう @@@LINK=竹馬抄 竹馬抄

竹馬抄
ちくばしょう

南北朝時代,管領斯波義将 (しばよしまさ) の著した教訓書
1383年成立。1巻。子孫に対する教訓として書く。武士の処世心得を述べ,君・親・世間などに対するあり方,信仰芸能などいわゆる武士の道を説いている。
地券
ちけん @@@LINK=地券 地券

地券
ちけん

明治初期,政府が発行した土地所有権確認書
政府は,1872年田畑永代売買禁止を解き,その売買譲渡にあたって所有者に交付し,さらに '73年以後地租改正に伴い地主に授与した。土地の所有者・所在地・地目・面積・地価・地租額などを記載。'89年土地台帳規則により廃止された。
知県事
ちけんじ @@@LINK=知県事 知県事

知県事
ちけんじ

知府事・知県事
知行合一
ちこうごういつ @@@LINK=知行合一 知行合一

知行合一
ちこうごういつ

「致良知」と並ぶ陽明学の指導理念
朱子学の主知主義(知性的なものを重んじる立場)を批判し,実行の伴わない知識を批判する。この実践主義のゆえに,陽明学は江戸幕府などから危険思想視された。
治罪法
ちざいほう @@@LINK=治罪法 治罪法

治罪法
ちざいほう

1880(明治13)年公布された,日本最初の近代的刑事訴訟法
フランスの治罪法をとしたボアソナードの草案を修正して公布。犯罪捜査・裁判手続きの改革,拷問 (ごうもん) の禁止など,部分的に近代的制度を導入した。'90年刑事訴訟法公布・施行まで実施。
地子
ちし @@@LINK=地子 地子
じし @@@LINK=地子 地子

地子
ちし

古代〜近世にかけての土地使用料
「じし」とも読む。律令制下では,公田を公民に貸与して得る賃租料のこと。荘園制のもとでは,畑や屋敷など田以外の土地に課せられる賦課をいう。荘園領主に納めるのを本地子,作人が名主(地主)に納めるのを加地子といった。近世においては,おもに市街地に課せられる租税で,一般に銀および銭納であった。地方によっては,小作料を地子と称した。

地子
じし

ちし
智積院
ちしゃくいん @@@LINK=智積院 智積院

智積院
ちしゃくいん

京都市東山区にある新義真言宗智山派の総本山
豊臣秀吉がその子棄丸 (すてまる) を弔うために建てた祥雲寺のあとに,秀吉に滅ぼされた紀伊根来寺の智積院を,徳川家康の援助で再興した。桃山時代の障壁画の代表作『桜楓 (おうふう) 図』などがある。
笞・杖・徒・流・死
ち・じょう・ず・る・し @@@LINK=笞・杖・徒・流・死 笞・杖・徒・流・死

笞・杖・徒・流・死
ち・じょう・ず・る・し

古代に規定された五種の刑罰
智証大師
ちしょうだいし @@@LINK=智証大師 智証大師

智証大師
ちしょうだいし

円珍
智真
ちしん @@@LINK=智真 智真

智真
ちしん

一遍
地図屛風
ちずびょうぶ @@@LINK=地図屛風 地図屛風

地図屛風
ちずびょうぶ

安土桃山〜江戸時代初期,世界地図を描いた屛風
屛風図は1602年刊行のマテオ=リッチ『坤輿 (こんよ) 万国全図』や1587年版のオルテリウス版そのままの描写で,いずれも卵形図法(全世界を卵形の一図面に表す)。1611年徳川家康が駿府で南蛮世界図屛風を見たとあることなど,当時の世界に対する関心の高さがうかがわれる。
地租改正
ちそかいせい @@@LINK=地租改正 地租改正

地租改正
ちそかいせい

明治初年,新政府の行った土地・租税制度改革
政府は財源の安定をはかるため,1873(明治6)年地租改正条例を公布。'71年の田畑勝手作解禁と '72年の田畑永代売買解禁・地券交付により農民保有地の私的所有権を認めて封建的諸制限を撤廃した政府は,それまでの現物年貢を改め金納とし,地租を地価の3%と決め,地主から徴収することにした。地租改正準則にあげた例によれば,地租は収穫の34%,地主の取り分34%,小作農民の取り分32%で,小作料は地租プラス地主の取り分だから,68%という重いものであり,また物納であった。このような中で,政府は'75年地租改正事務局を設け翌年完了をめざして強行したため,農民の不満が爆発して,地租改正反対の農民一揆が頻発し,政府は '77年地租率を2.5%に軽減した。
秩父事件
ちちぶじけん @@@LINK=秩父事件 秩父事件

秩父事件
ちちぶじけん

1884(明治17)年,埼玉県秩父地方でおこった自由民権運動の激化事件
松方デフレにより明治10年代中ごろから不況のため借金と重税に苦しむ農民が激増。秩父地方の農民は困民党(借金党)などをつくり,自由党急進派の指導下に,地租軽減,借金の年賦返済,学費節減,村費・雑収税減免などを要求した。しかし拒否されたため数千人が武装蜂起し郡役所・警察・富豪などを襲撃し秩父郡一帯を占領したが,軍隊が出動し鎮圧された。民権運動激化事件のうち最も大規模なもの。なお,この事件の背景として自由民権運動との関係は薄いとする見方もある。
千々石ミゲル
ちぢわミゲル
Miguel @@@LINK=千々石ミゲル 千々石ミゲル

千々石ミゲル
ちぢわミゲル
Miguel

1570〜?
安土桃山時代の天正遣欧使節の一人
1568年ごろの生まれ。肥前(佐賀・長崎県)千々石の生まれ。名は清左衛門。ミゲルは洗礼名。有馬晴信の甥。'82(天正10)年,天正遣欧使節として伊東マンショ・中浦ジュリアン・原マルチノらと渡欧。'90年帰国し,イルマンとなったが,のち棄教した。

秩禄公債
ちつろくこうさい @@@LINK=秩禄公債 秩禄公債

秩禄公債
ちつろくこうさい

1873(明治6)年,秩禄(家禄と賞典禄)を奉還した士族に与えた公債
政府は秩禄処分の前段階として秩禄奉還を願う士族に,永世禄は6か年分,終身禄は4か年分の秩禄に相当する金額を,100石未満は半額を現金,半額を公債,100石以上は50石を現金,残りを公債で支給することにした。本公債は利率8%で,3か年間据置きののち,7か年間に償還。
秩禄処分
ちつろくしょぶん @@@LINK=秩禄処分 秩禄処分

秩禄処分
ちつろくしょぶん

明治政府によって行われた家禄および賞典禄の整理廃止
旧封建家臣団の解体政策である。政府は,1869年版籍奉還に伴う身分制度の改革とともに旧藩主藩士や公卿の家禄を削減する禄制改革を行い,また廃藩置県('71)後,家禄奉還者への一時賜金および秩禄公債の交付によって,全士族の約3分の1に及ぶ禄制整理を実施した。'75年秩禄の支給方法も現米から貨幣に改め,'76年には金禄公債を支給して,封建制度数百年にわたる秩禄制度を全廃した。これにより多くの士族は急速に没落した。
千葉氏
ちばし @@@LINK=千葉氏 千葉氏

千葉氏
ちばし

平安末期〜中世における関東の豪族
桓武平氏の一流で,下総・武蔵などを開発し勢力を張った。平忠常の乱(1028〜'31)で討されたが,再び勢力を得,代々下総介 (すけ) となり千葉介と称した。常胤 (つねたね) のとき源頼朝に従ってをたて下総守護に補され有力御家人となった。子孫は室町時代にも代々下総守護職を維持。1454年享徳の乱で一族は分裂して衰え,1590年豊臣秀吉の小田原征討で後北条氏とともに滅亡した。
千葉常胤
ちばつねたね @@@LINK=千葉常胤 千葉常胤

千葉常胤
ちばつねたね

1118〜1201
鎌倉初期の武将
平常重の子。下総国(千葉県)千葉を本拠とし,下総権介 (ごんのすけ) に任じられる。1180年源頼朝の挙兵ののち,一族を率いてこれに属し平氏討滅に尽力した。頼朝の信頼を得,下総守護となった。

千早城
ちはやじょう @@@LINK=千早城 千早城

千早城
ちはやじょう

鎌倉末期,元弘ののとき楠木正成が籠城した城
1332年,正成が河内国(大阪府)金剛山の中腹に築いたもので,赤坂城落城後ここにたてこもり幕府の大軍に包囲されながら,策略奇襲で幕府軍を悩ました。建武以後も楠木氏の根拠地となった。
知藩事
ちはんじ @@@LINK=知藩事 知藩事

知藩事
ちはんじ

明治初年の地方長官
1869年版籍奉還後,政府は旧藩主をそのまま知藩事に任命し,藩の行政にあたらせた。法制的には官吏であるが,実質的には封建支配の存続。家禄は実収石高の10分の1。'71年廃藩置県により廃止された。
知府事・知県事
ちふじ・ちけんじ @@@LINK=知府事・知県事 知府事・知県事

知府事・知県事
ちふじ・ちけんじ

明治初年の地方長官
1868年政体書に基づき府制がしかれた旧幕領に知府事・知県事が設置され,管内行政をつかさどった。1871年廃藩置県により,3府に知事,県に県令置き,'86年知事に統一した。
地方官会議
ちほうかんかいぎ @@@LINK=地方官会議 地方官会議

地方官会議
ちほうかんかいぎ

明治前期,地方長官を議員とする会議
1875(明治8)年大阪会議で木戸孝允の構想により召集元老院に対する下院のつもりであるが,実質官選の事務官会議で,'75・'78・'80年の3回開催された。'81年国会開設の勅諭により廃止
地方自治制
ちほうじちせい @@@LINK=地方自治制 地方自治制

地方自治制
ちほうじちせい

地方公共団体による自治の制度
1868年,没収した旧幕領と従来藩地府藩県三治制をしいたことに始まり,'78年の三新法,'88年の市制・町村制および '90年の府県制・郡制成立。その後1921年郡制廃止,'43年東京都制実施など幾度かの改正があった。政府による知事の任命制など中央集権・官僚統制の性格が強く,地方自治制に値しなかったが,'47年地方自治法によって確立した。
地方自治法
ちほうじちほう @@@LINK=地方自治法 地方自治法

地方自治法
ちほうじちほう

地方公共団体の組織および運営に関する大綱を定めた法
1947年公布。約300条からなり,この法により国と地方公共団体との間の基本的関係が明確にされ,地方公共団体の自治体としての民主的運営が確保されるようになった。
地方税規則
ちほうぜいきそく @@@LINK=地方税規則 地方税規則

地方税規則
ちほうぜいきそく

1878(明治11)年公布された,維新後初めての体系的な地方財政に関する法。郡区町村編制法・府県会規則とともに三新法の一つ
従来の府県税・民費などの諸税の大部分を,地方税という名目で府県財政に編入することによって府県の財政を確立し,今まで民費に含まれていた区町村の共同体的な費用は協議費として地方税の枠外に置くことによって区町村から財源を奪った。1888年市制・町村制公布に伴って廃止された。
地方民会
ちほうみんかい @@@LINK=地方民会 地方民会

地方民会
ちほうみんかい

明治初年の府県会・大小区会・町村会の総称
豪農層の政治的進出を背景に,1872年ころから開明的地方官のもとで各地に開設。地方人民の民心鎮撫と行政事務の円滑化をはかることを目的としていた。最初は地方官の民情諮問機関であったが,自由民権運動の発展に支えられて公選議員による公議機関に発展し,府県会規則の制定を促した。

ちゃ @@@LINK=茶 茶


ちゃ

飲料の原料で,四木三草の一つ
自生種もあるが大陸種の輸入で発展。平安初期,最澄が唐から伝え,薬用として畿内で栽培したといわれ,また鎌倉初期,栄西が九州に伝えた宋の茶種を明恵 (みようえ) が山城栂尾 (とがのお) に植え,それが醍醐 (だいご) ・宇治駿河・武蔵などに広まったといわれる。特に宇治茶は上茶として室町時代から有名。茶の湯の盛行で抹茶 (まつちや) の飲用が上層町人や武士社会に普及した。江戸時代に各地で特産品が生まれ,中期から煎茶がつくられ庶民にも愛用され,後期には玉露もつくられた。開港後は生糸につぐ輸出品となった。現在の主産地は静岡県である。
嫡子・庶子
ちゃくし・しょし @@@LINK=嫡子・庶子 嫡子・庶子

嫡子・庶子
ちゃくし・しょし

家督を相続する者を嫡子といい,それ以外の子を庶子という
令制では嫡妻の長子を嫡子とする。中世になると,長子に限らず器量すぐれた者を嫡子にできた。嫡子は一族の統率者(惣領)として庶子を統制。鎌倉時代には分割相続のため庶子にも財産が譲与されたが,鎌倉末期より嫡子の単独相続に移行するに従い,庶子の嫡子への従属は強化され,庶子の地位はしだいに低下した。明治時代の民法では,嫡子は正妻の子,庶子は妾腹の子をいう。
着到状
ちゃくとうじょう @@@LINK=着到状 着到状

着到状
ちゃくとうじょう

中世,主君などの呼び出しに応じて,参着したときに差し出す文書
多くは中世武家のもので,戦闘警固などのために参集の命をうけた者が,所定の場所にはせ参じたとき提出した。受けとった者は,それに証判を加えて本人に返し,後日恩賞の証拠とした。
茶室
ちゃしつ @@@LINK=茶室 茶室

茶室
ちゃしつ

茶の湯を行うために設けられた部屋または建物
初め広間を屛風で囲っていたが,部屋としての独立は村田珠光が出てからで,足利義政東求堂 (とうぐどう) 同仁斎最初という。四畳半の書院風であったが,千利休に至り草庵風なものとなる。代表的遺構に,妙喜庵待庵,大徳寺孤篷庵,西芳寺苔寺湘南亭,高台寺時雨亭などがある。
茶道
ちゃどう @@@LINK=茶道 茶道
さどう @@@LINK=茶道 茶道

茶道
ちゃどう

茶の湯に村田珠光が禅の心を入れたもので,「茶の湯の道」の略称
客を招いて抹茶 (まつちや) をたて懐石の供応をするのが茶の湯で,鎌倉時代に栄西 (えいさい) が宋よりもたらした。南北朝時代には茶の品種を飲み分ける闘茶の遊技も伝わり,南北朝〜室町初期にかけて茶寄合が行われた。東山文化時代に上流武家の間で一定の作法の優雅な茶の湯も行われ,珠光が閑寂な茶道(侘び茶数寄道 (すきどう) ともいう)を始め,武野紹鷗 (じようおう) ・千利休により大成された。のち利休の子孫は,表千家・裏千家・武者小路の3家に分かれ,その他織部流・遠州流などの諸流も生まれ,今日に至る。

茶道
さどう

ちゃどう
茶の本
ちゃのほん @@@LINK=茶の本 茶の本

茶の本
ちゃのほん

明治後期,岡倉天心の著書
1906年刊。アメリカで出版した『The Book of Tea』が原著。茶の起源,茶道の流派宗匠茶会などを語りながら老荘思想を紹介して東洋精神を解説し,西洋人へ東洋に対する理解を呼びかけている。
茶の湯
ちゃのゆ @@@LINK=茶の湯 茶の湯

茶の湯
ちゃのゆ

客を招いて抹茶 (まつちや) をたて,懐石の供応などをすること。
茶屋四郎次郎
ちゃやしろじろう @@@LINK=茶屋四郎次郎 茶屋四郎次郎

茶屋四郎次郎
ちゃやしろじろう

江戸時代の京都の豪商で,茶屋家歴代の通称
朱印船貿易家・糸割符 (いとわつぷ) 商人・徳川将軍家の呉服師として活躍。初代清延(1542〜96)はアンナン貿易に活躍。2代清忠は徳川家康に近侍。3代清次は糸割符貿易とともに幕府成立期の財政寄与。茶屋は角倉 (すみのくら) ・後藤とともに三大長者と称されたが,鎖国後衰退した。
茶寄合
ちゃよりあい @@@LINK=茶寄合 茶寄合

茶寄合
ちゃよりあい

南北朝〜室町中期に流行した闘茶の会,また庶民に流行した雲脚茶会といわれる粗茶による会合
闘茶は産地・品種を飲みあてる茶会式の遊戯で,をし酒宴を開く。
中央公論
ちゅうおうこうろん @@@LINK=中央公論 中央公論

中央公論
ちゅうおうこうろん

明治〜現代の総合雑誌
1887年,京都の西本願寺の『反省会雑誌』がその前身。'99年『中央公論』と改題。その後宗門から独立し,日露戦争(1904〜05)後の伸張を経て,大正期に滝田樗陰 (ちよいん) の活躍時代をむかえ,吉野作造らの寄稿を得て総合雑誌の王座を得た。'44年軍部弾圧下に廃刊。第二次世界大戦後の'46年復活し今日に至る。
中華人民共和国
ちゅうかじんみんきょうわこく @@@LINK=中華人民共和国 中華人民共和国

中華人民共和国
ちゅうかじんみんきょうわこく

1949年,毛沢東を国家主席として,中国共産党が中心となって建設した社会主義国家
首都は北京。第二次世界大戦後,国共両軍の内戦がおこり,中国共産党は蔣介石の率いる中国国民党を台湾に追いやった。北京で人民代表による人民政治協商会議が開催され,1949年10月1日,中華人民共和国が成立。'72年日本と正式の国交を,'78年には日中平和条約を結んだ。
中華民国
ちゅうかみんこく @@@LINK=中華民国 中華民国

中華民国
ちゅうかみんこく

1912年,辛亥 (しんがい) 革命で清朝が滅んだのち,中国大陸にできた共和国
初め軍閥の対立抗争が続いたが,1928年いちおう蔣介石が北伐に成功して国民政府による統一を達成。第二次世界大戦後,蔣政権は中国共産党との内戦に敗れ,大陸には中華人民共和国が成立したため,以後台湾に拠り,ひき続き中華民国を称している。
中巌円月
ちゅうがんえんげつ @@@LINK=中巌円月 中巌円月

中巌円月
ちゅうがんえんげつ

1300〜75
南北朝時代の臨済宗の僧。五山文学者
相模(神奈川県)の人。博学広才で,その理想主義的気質時世に受け入れられなかったが,禅林学問に大いに貢献した。虎関師錬 (こかんしれん) に愛され,義堂周信は彼の影響をうけた。詩文集に『東海一漚 (とうかいいちおう) 集』5巻など。

仲恭天皇
ちゅうきょうてんのう @@@LINK=仲恭天皇 仲恭天皇

仲恭天皇
ちゅうきょうてんのう

1218〜34
鎌倉前期の天皇(在位1221)
順徳天皇の皇子。順徳天皇のあとを継いだが,承久の乱後幕府に強要されてわずか70余日で後堀河天皇に譲位した。
中宮
ちゅうぐう @@@LINK=中宮 中宮

中宮
ちゅうぐう

令制では皇后・皇太后・太皇太后の別称。平安時代には皇后につぐ后 (きさき) をさす
一条天皇のとき,藤原定子と彰子の2人が皇后に立つことになったので彰子を中宮と称してから,皇后につぐ后をさすようになった。皇后と同じ資格・待遇を与えられた。
中宮寺
ちゅうぐうじ @@@LINK=中宮寺 中宮寺

中宮寺
ちゅうぐうじ

奈良県生駒郡斑鳩 (いかるが) 町にある法隆寺東院の尼寺
聖徳太子が母の穴穂部間人 (あなほべのはしひと) 皇后の菩提を弔うため建立。もとの伽藍 (がらん) 配置四天王寺式。本尊『弥勒菩薩像』と『天寿国曼荼羅繡帳 (てんじゆこくまんだらしゆうちよう) 』は飛鳥時代の代表的遺品として有名。
中宮寺弥勒菩薩像
ちゅうぐうじみろくぼさつぞう @@@LINK=中宮寺弥勒菩薩像 中宮寺弥勒菩薩像

中宮寺弥勒菩薩像
ちゅうぐうじみろくぼさつぞう

奈良県中宮寺所蔵の飛鳥後期の仏
半跏思惟 (はんかしい) 像ともいう。飛鳥彫刻のなかで,最も美しいものの一つ。クスノキ材の木彫りで,釈迦瞑想の姿を模したといわれ,清らかな品格ある作品。寺伝では『如意輪観音』という。
中間
ちゅうげん @@@LINK=中間 中間

中間
ちゅうげん

武士に従う雑卒
「仲間」とも書く。侍と小者との中間に位するところからきた呼び名。鎌倉時代から現れ,戦国大名のもとで家臣団を構成。等・小者などとともに下級武士として組に組織され常備軍を編成,江戸時代に及んだ。
注口土器
ちゅうこうどき @@@LINK=注口土器 注口土器

注口土器
ちゅうこうどき

土瓶 (どびん) のように,器内の液体を注ぎだすための注口をつけた土器
縄文時代中期に現れ,後期・晩期に多く用いられた。東日本を中心に分布
中国共産党
ちゅうごくきょうさんとう @@@LINK=中国共産党 中国共産党

中国共産党
ちゅうごくきょうさんとう

中国の社会主義政党
1921年,李大釗 (りたいしよう) ・陳独秀・毛沢東らを中心として上海で結成。国共合作で勢力を伸ばしたが,'27年蔣介石の上海クーデタにより国共合作は分裂し,弾圧されて延安に移る。'35年抗日人民戦線を提唱,第2次国共合作を行い,抗日戦線の主動力となる。第二次世界大戦後,国共内戦で国民党を台湾に追いやり,'49年に中華人民共和国を建国した。
中国国民党
ちゅうごくこくみんとう @@@LINK=中国国民党 中国国民党

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう

中華民国の政党
1919年孫文を指導者として成立。蔣介石は国民党内部の左派・共産派を弾圧して,北伐成功後の '27年,南京に国民党独裁の国民政府をつくった。日中戦争中は中国共産党との間に国共合作が行われたが,第二次世界大戦後,共産党との内戦に敗北し,中国本土から台湾に逃避し,今日に至る。
中国残留孤児
ちゅうごくざんりゅうこじ @@@LINK=中国残留孤児 中国残留孤児

中国残留孤児
ちゅうごくざんりゅうこじ

第二次世界大戦後,両親と離別して中国に残された日本人孤児のこと
1945年8月のソ連参戦と「満州国崩壊に伴う引き揚げのなかで,中国東北部において数千人が両親と死別し,はぐれ,売られるなどして孤児となった。多くは中国人に拾われ,あるいは肉親から中国人に託された。'81年から肉親捜しが始まり,1500人ほどがすでに永住帰国しているが,日本側の受け入れ態勢は不十分で,課題も多い。また,孤児や肉親の高齢化に伴い,身元判明率が年々低くなっている。
中国人強制連行
ちゅうごくじんきょうせいれんこう @@@LINK=中国人強制連行 中国人強制連行

中国人強制連行
ちゅうごくじんきょうせいれんこう

太平洋戦争中の労働力不足を補うため,中国人を日本へ強制的に連行したこと
1943〜45年のに約4万人が連行されたとみられる。過酷な労働条件の下で多く死傷者だし,'45年には秋田県花岡鉱山で中国人労働者が蜂起し,虐殺される花岡事件がおこった。
中国探題
ちゅうごくたんだい @@@LINK=中国探題 中国探題

中国探題
ちゅうごくたんだい

長門 (ながと) 探題
中石器時代
ちゅうせっきじだい @@@LINK=中石器時代 中石器時代

中石器時代
ちゅうせっきじだい

旧石器時代から新石器時代への過渡期中間の文化段階
完新世初めにあたり,細石器や土器が現れ始める。日本の先土器文化末期の細石器文化や縄文文化早期に,中石器時代的様相を指摘する学者もいる。
鋳銭司
ちゅうせんし @@@LINK=鋳銭司 鋳銭司

鋳銭司
ちゅうせんし

律令制下,官営の鋳銭所。令外官 (りようげのかん) の一つ
「じゅせんのつかさ」とも読む。『日本書紀』持統天皇8年(694)のに初見。和同開珎 (わどうかいほう) 以下皇朝十二銭の鋳造・改鋳にあたり,近江・河内・山城・長門・周防 (すおう) などに設けられた。
中尊寺
ちゅうそんじ @@@LINK=中尊寺 中尊寺

中尊寺
ちゅうそんじ

岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺
1105年,藤原清衡が建立。京都の貴族文化を移植した。その後基衡・秀衡により整備されたが,奥州藤原氏の滅亡により衰微。1337年堂舎の大半を焼失し,現在は金色堂と経蔵を残すだけとなった。
中尊寺金色堂
ちゅうそんじこんじきどう @@@LINK=中尊寺金色堂 中尊寺金色堂

中尊寺金色堂
ちゅうそんじこんじきどう

岩手県中尊寺にある阿弥陀堂
光堂ともいう。藤原清衡がみずからの葬堂として1124年建立,阿弥陀三尊安置。方三間方形 (ほうぎよう) で,黒漆塗りの上に金箔 (きんぱく) を押したので,この名がある。堂内には藤原清衡・基衡・秀衡3代の遺体を安置し,藤原時代工芸の粋を集めている。
中朝事実
ちゅうちょうじじつ @@@LINK=中朝事実 中朝事実

中朝事実
ちゅうちょうじじつ

江戸前期,山鹿素行の歴史書
2巻。赤穂配流中の著述で,1669年脱稿。別著『武家事紀』と対応し,皇室武家の実事のうち本書は王朝政治に関するもので,記紀を中心に,中華文明の中心は日本であるとし,日本主義的思想を吐露した。
中納言
ちゅうなごん @@@LINK=中納言 中納言

中納言
ちゅうなごん

律令制下,令外官 (りようげのかん) の一つ
705年大納言の定員を2名減じ,中納言3名を置いて新設。職掌は大納言と同じく天皇の側近で,奏上・宣下や政務にあたった。のち定員は増加されて,鎌倉時代には8〜10名となった。
中男
ちゅうなん @@@LINK=中男 中男

中男
ちゅうなん

少丁 (しようてい)
抽分銭
ちゅうぶんせん @@@LINK=抽分銭 抽分銭

抽分銭
ちゅうぶんせん

室町時代,遣明船貿易の際の輸入税
勘合船の経営者である幕府・大名・寺院などが,その船に便乗した貿易商から,商人の輸入品の国内売却値段の10分の1を徴収した。室町幕府の重要な財源の一つであった。
中馬
ちゅうま @@@LINK=中馬 中馬

中馬
ちゅうま

江戸時代,おもに中部山岳地帯で行われた馬による物資輸送機関
伊那地方から始まり,しだいに広がって山間地と江戸・名古屋・岡崎などの都会との間に庶民の日常品や農作物を交流させる重要な輸送機関となった。このため宿場問屋・宿馬の利権を侵害するに至り,たびたび紛争がおこったが,1673年幕府により公認。
中右記
ちゅうゆうき @@@LINK=中右記 中右記

中右記
ちゅうゆうき

平安後期,中御門 (なかみかど) 右大臣藤原宗忠の日記
1087〜1138年に至る記事を含み,有職故実 (ゆうそくこじつ) の根拠となるものが多い。時事観察も鋭く,院政期の政治・社会情勢がわかる重要史料。

ちょう @@@LINK=牒 牒


ちょう

古代,官庁間の公文書の一形式
直接の上下関係がない官庁の間,または官庁に準ずるところから官庁でないところへ出す文書などに用いられた。主典 (さかん) 以上のものが官庁に出す公文書も牒という。
調
ちょう @@@LINK=調 調

調
ちょう

律令制下,税目の一つ。➡ 租・庸・調
長安
ちょうあん @@@LINK=長安 長安

長安
ちょうあん

中国の旧都。陝西 (せんせい) 省渭水 (いすい) 盆地に位置する。現在の西安
漢・隋・唐などの首都として栄え,特に唐代には人口100万人に達した。平城京・平安京は長安を手本にしてつくられた。
張 学良
ちょうがくりょう @@@LINK=張+学良 張+学良

張 学良
ちょうがくりょう

1898〜2001
中国の軍閥政治家
張作霖 (ちようさくりん) の長男。1928年の父の死後,満州の実権を握り,日本の反対を押しきり,満州を国民党の支配下に置く。満州事変で日本に抵抗。内戦の停止・抗日を蔣介石に説いたがいれられず,'36年西安 (せいあん) 事件をおこし抗日民族統一戦線結成を促した。戦後は台湾で軟禁生活が続いたが,'90年に名誉回復が行われた。'94年からハワイ在住。
丁銀
ちょうぎん @@@LINK=丁銀 丁銀

丁銀
ちょうぎん

江戸時代の銀貨
形は一定せず,なまこ形で一枚43匁 (もんめ) (約160g )内外。少額の支払いは切って使用し,豆板銀とともに秤量貨幣。銀座で鋳造され,「常是」「宝」のや大黒像が極印された。成分比は慶長銀享保銀が銀80対 銅20が最良,安政銀の13対87が最悪。
長慶天皇
ちょうけいてんのう @@@LINK=長慶天皇 長慶天皇

長慶天皇
ちょうけいてんのう

1343〜94
南北朝時代,南朝第3代の天皇(在位1368〜83)
後村上天皇の皇子。住吉行宮で践祚。南朝不振の時期で,行宮を吉野・金剛寺・吉野・大和栄山寺とたびたび遷した。譲位後,皇弟後亀山天皇の和平的な動きと相容れないものがあった。即位について古来疑問とされたが,1926年初めて皇統に列せられた。著書に『源氏物語仙源抄』など。

重源
ちょうげん @@@LINK=重源 重源

重源
ちょうげん

1121〜1206
鎌倉初期の浄土宗の僧。東大寺再建に尽力した
俊乗房という。初め醍醐 (だいご) 寺で真言を,のち法然に師事し浄土教を学ぶ。1167年以後3度入宋。'81年焼失した東大寺再建の大勧進職に補せられ,諸国を回って勧進につとめるなど活躍し,宋の工人陳和卿 (ちんけい) の助力を得,'95年大仏様の大仏殿が完成。この間民衆の教化・救済など社会事業を推進,地方寺院建立にも尽力した。

重源像
ちょうげんぞう @@@LINK=重源像 重源像

重源像
ちょうげんぞう

鎌倉初期,東大寺再興に活躍した重源の肖像彫刻
周防 (すおう) 阿弥陀寺・伊賀新大仏寺や播磨浄土寺などにもあるが,東大寺俊乗堂のものがその代表作で,木像彩色。運慶一派の作とされる。
長講堂領
ちょうこうどうりょう @@@LINK=長講堂領 長講堂領

長講堂領
ちょうこうどうりょう

中世,皇室領の一つで,後白河法皇が京都六条殿内に創建した持仏堂長講堂の所領
所領は180か所といわれ,法皇の皇女宣陽門院を経て,後深草上皇に伝領された。皇室御領中の最大のもので,南北朝・室町時代を通じて,持明院統の有力な経済的基盤であった。
超国家主義
ちょうこっかしゅぎ @@@LINK=超国家主義 超国家主義

超国家主義
ちょうこっかしゅぎ

日本における,天皇制の絶対化と国家至上主義を唱える極端なナショナリズム
日本文化の優越性を強調し,天皇中心の国家政策への従属を求め,個人の自由を無視した。
張鼓峰事件
ちょうこほうじけん @@@LINK=張鼓峰事件 張鼓峰事件

張鼓峰事件
ちょうこほうじけん

1938(昭和13)年,ソ連邦・満州・朝鮮の国境付近の張鼓峰でおこった日ソ両軍の衝突事件
1937年6月の近衛文麿内閣成立以来,アメリカイギリスとの妥協によって日中戦争打開をはかろうとして反ソ政策への転換が行われ,日ソ関係が緊張していた。そうした中で,同年7月ソ連軍の国境侵犯を理由に関東軍が攻撃。2週間の激戦の末,ソ連機械化部隊に敗北し,停戦協定が成立した。
張 作霖
ちょうさくりん @@@LINK=張+作霖 張+作霖

張 作霖
ちょうさくりん

1873〜1928
中国の軍閥政治家
馬賊出身で,日本の援助をうけて満州を支配し,奉天派軍閥を形成。2度の奉直戦争(奉天派と直隷派との軍閥間戦争)ののちに,北京に進出,政界にも勢力を有した。中国国民党蔣介石)の北伐軍に敗れて,北京から奉天への帰途,日本関東軍の陰謀によって列車爆破で殺された。
張作霖爆殺事件
ちょうさくりんばくさつじけん @@@LINK=張作霖爆殺事件 張作霖爆殺事件

張作霖爆殺事件
ちょうさくりんばくさつじけん

1928(昭和3)年6月,中国奉天軍閥の張作霖が国民党北伐軍に追われて奉天に引き揚げる途中,列車爆破で殺された事件
張作霖爆死事件ともいう。関東軍の参謀河本大作大佐らは張をあやつって満州独立を企てたが,張が従わなくなったとみて敢行。真相は隠されていたが,翌1929年立憲民政党が満州某重大事件として責任を追及し,天皇・元老政府処置に不満を表明したので,田中義一内閣は崩壊した。
逃散
ちょうさん @@@LINK=逃散 逃散

逃散
ちょうさん

中世〜近世における農民闘争の一形態
鎌倉中期以降,年貢・公事 (くじ) その他の負担の減免や非法な地頭・代官の排斥を農民が合議し,領主に要求が受け入れられない場合,村が団結して耕作を放棄,他領に退去逃亡すること。
徴士
ちょうし @@@LINK=徴士 徴士

徴士
ちょうし

明治初年の議事官
1868年1月,貢士とともに公議世論を聞くために設置。諸藩士や有能な一般庶民から選んで,参与または議事所の議事官に任命した。任期は4年。同年閏4月の政体書により,政府に登用された官吏の称となり,当初の意味を失い,'69年廃止された。
銚子
ちょうし @@@LINK=銚子 銚子

銚子
ちょうし

千葉県北東端,利根川河口にある都市。江戸時代以来の醬油産地
九十九里浜を近くに控えて江戸初期から (いわし) 漁業も盛ん。東廻り航路の中継地としても知られ,利根川水運の開発とともに,東北—銚子—関宿江戸川新川—江戸のコースも出現した。1933年市制を施行
長子単独相続
ちょうしたんどくそうぞく @@@LINK=長子単独相続 長子単独相続

長子単独相続
ちょうしたんどくそうぞく

江戸時代に確立した相続形態で,武所領を長子に単独相続させること
相続人を嫡子惣領といい,原則的に嫡出の長男がその資格を有した。分割相続による所領の細分化を防ぐため,鎌倉末期よりおこり室町中期以後一般化した。
鳥獣戯画
ちょうじゅうぎが @@@LINK=鳥獣戯画 鳥獣戯画

鳥獣戯画
ちょうじゅうぎが

京都市高山寺所蔵の平安末期・鎌倉前期の絵巻物
国宝。4巻あるが,第1巻は猿・兎・蛙などを擬人化したもので,鳥羽僧正覚猷 (かくゆう) の作といわれるが未詳。全巻描線をとした白描画の最高峰。各巻とも詞書はない。
朝集使
ちょうしゅうし @@@LINK=朝集使 朝集使

朝集使
ちょうしゅうし

律令制下,毎年国郡の政治状況を政府に報告する朝集帳をもって上京する使
四度使 (よどのつかい) の一つで,646年に初見。平安時代になると弛緩し,数年・数十年の朝集帳を作成するようになり,平安末期に消滅した。
長州征討
ちょうしゅうせいとう @@@LINK=長州征討 長州征討

長州征討
ちょうしゅうせいとう

幕末,2回にわたって行われた幕府による長州藩征討
〔第1次〈1864〉〕禁門の変後長州藩追討の勅命により実行されたが,四国艦隊下関砲撃事件で敗北した長州藩では保守派が台頭し,幕府に恭順を表し,戦わずして幕府軍に屈服した。〔第2次〈'65〜66〉〕奇兵隊などの諸隊による保守派の打倒により長州藩の態度が恭順から討幕へと転回したため,幕府は再征を決したが,薩摩藩の出兵拒否など再征反対の空気が強く,戦況も不利であったので,将軍徳川家茂 (いえもち) の死を機に撤兵。この結果幕府の権威は完全に失墜した。
長州藩
ちょうしゅうはん @@@LINK=長州藩 長州藩

長州藩
ちょうしゅうはん

江戸時代,周防 (すおう) ・長門を領した外様藩
萩藩・毛利藩・山口藩ともいう。藩主毛利氏。36万石。戦国時代,毛利元就 (もとなり) が中国地方10カ国を支配。孫輝元が関ケ原の戦い(1600)に敗れ,37万石に減封され,居城を萩に移された。減封後検地を行い,石高を増加。江戸中期以降の藩債の増大は農民を苦しめ,各地で百姓一揆がおこった。天保年間(1830〜44),村田清風らの藩政改革が行われ,財政緊縮・殖産興業富国強兵の道を歩み,尊王攘夷運動の根源地,討幕勢力の中心となった。明治維新後には薩摩とともに藩閥を形成した。
長州藩外国船砲撃事件
ちょうしゅうはんがいこくせんほうげきじけん @@@LINK=長州藩外国船砲撃事件 長州藩外国船砲撃事件

長州藩外国船砲撃事件
ちょうしゅうはんがいこくせんほうげきじけん

四国艦隊下関砲撃事件
朝鮮
ちょうせん @@@LINK=朝鮮 朝鮮

朝鮮
ちょうせん

アジア大陸の北東に位置する半島とその周辺の島々によって形成される地域および国名
アジア大陸と日本を結ぶかけ橋として独自な歴史・文化を形成。古代,中国の戦国時代には箕氏 (きし) 朝鮮・衛氏 (えいし) 朝鮮が成立,前108年漢の武帝が衛氏を滅ぼし朝鮮4郡を設置。以後約400年間,中国の支配をうけたが,4〜6世紀にかけて百済 (くだら) ・新羅 (しらぎ) ・高句麗 (こうくり) の3国がおこった。のち隋・唐軍の侵入により百済・高句麗が滅んだが,新羅が全半島統一を完成。10世紀初め新羅に代わって高麗 (こうらい) 朝が成立したが,モンゴル(元)の侵略に悩まされた。ついで14世紀末李氏朝鮮がこれに代わり,初期にはかなり繁栄したが,日本および清の侵略をうけ衰退。19世紀後半から世界列強,特に日本・ロシアの抗争の場となり,1910年には日本に合併韓国併合)。第二次世界大戦後,解放されたが,'48年南の大韓民国,北の朝鮮民主主義人民共和国に分割された。
朝鮮休戦協定
ちょうせんきゅうせんきょうてい @@@LINK=朝鮮休戦協定 朝鮮休戦協定

朝鮮休戦協定
ちょうせんきゅうせんきょうてい

1953年7月,板門店 (はんもんてん) において,北朝鮮軍・中国軍と国連軍との間で結ばれた休戦協定
1950年に始まった朝鮮戦争が,'51年春ごろから北緯38度線付近で膠着状態に入り,同年6月休戦会談が始まり,2年後に調印された。非武装地帯設立中立国による監視委員会の設置,捕虜送還などが決められた。
朝鮮使節待遇問題
ちょうせんしせつたいぐうもんだい @@@LINK=朝鮮使節待遇問題 朝鮮使節待遇問題

朝鮮使節待遇問題
ちょうせんしせつたいぐうもんだい

江戸中期,新井白石朝鮮通信使待遇が丁重すぎるとして簡素化した問題
白石はまた,朝鮮の国書に将軍を「日本国大君」と記していることを非難し,「日本国王」と改称させた。白石の儒学者的政治の好例
超然主義
ちょうぜんしゅぎ @@@LINK=超然主義 超然主義

超然主義
ちょうぜんしゅぎ

他の物事に関係せず,自分の考えで独自に事を行う主義
おもに藩閥・官僚が主張したもので,大日本帝国憲法発布直後の黒田清隆首相および伊藤博文枢密院議長の超然主義演説からきている。
朝鮮人強制連行
ちょうせんじんきょうせいれんこう @@@LINK=朝鮮人強制連行 朝鮮人強制連行

朝鮮人強制連行
ちょうせんじんきょうせいれんこう

太平洋戦争中の労働力不足を補うため,朝鮮人を日本へ強制的に連行したこと
初めは炭鉱・土木など会社による募集の方式だったが,1942年から朝鮮総督府下の「官斡旋」方式になり,'44年から国民徴用令が適用された。'39〜45年間に,連行者の総数は80万人とも120万人ともいわれ,日本国内,樺太,南方方面に投入された。過酷な労働下で多くの犠牲者をだした。女子挺身隊の名のもと従軍慰安婦として駆り立てられた女性もいた。
朝鮮戦争
ちょうせんせんそう @@@LINK=朝鮮戦争 朝鮮戦争

朝鮮戦争
ちょうせんせんそう

1950〜53年にかけて戦われた大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の武力衝突
第二次世界大戦後,1946〜47年の米ソ共同委員会の朝鮮統一の話し合いは不調に終わり,北緯38度線を境に,北に朝鮮民主主義人民共和国,南に大韓民国が成立。各々政体を異にするこの両国は,朝鮮の統一政府を以ってみずから任じ,ついに'50年6月25日,大規模な国境紛争を引きおこした。アメリカは,北朝鮮側の侵略と認め国連軍の名目で参戦,北側は中国人民義勇軍が援助した。一進一退ののち,38度線付近で膠着。'51年7月板門店で休戦会談が開始され,'53年7月27日,朝鮮休戦協定が調印された。
朝鮮総督府
ちょうせんそうとくふ @@@LINK=朝鮮総督府 朝鮮総督府

朝鮮総督府
ちょうせんそうとくふ

1910〜45年,日本の朝鮮統治の最高機関
1910年の韓国併合でそれまでの統監府拡充改組し,京城(現ソウル)に設置した。初代総督は寺内正毅。総督は天皇に直属し,政務・兵権を握り,陸海軍の大将から任命された。'19年三・一独立運動ののち,これまでの武断統治を改め,「文化政治」に転換。憲兵警察制度の廃止や総督任用の文官までの拡大などの改革が行われた(実際は,文官の総督任用はなかった)。満州事変以後,工業開発を進める一方,工場・軍隊への徴用などの人的・物的資源の収奪が強行された。'45年日本の敗戦により廃止。
朝鮮通信使
ちょうせんつうしんし @@@LINK=朝鮮通信使 朝鮮通信使

朝鮮通信使
ちょうせんつうしんし

江戸時代,将軍の代替りごとに朝鮮国王から派遣された祝賀使節
来聘 (らいへい) 使ともいう。1607年が第1回で,以後1811年までに12回来日。正使のほか約400名の来日で費用は毎回100万両に達したが,幕府は将軍継嗣の儀礼示威の立場から厚遇した。
朝鮮通信符
ちょうせんつうしんふ @@@LINK=朝鮮通信符 朝鮮通信符

朝鮮通信符
ちょうせんつうしんふ

室町時代,日朝貿易で私貿易船と区別するために用いられた勘合
15世紀,朝鮮世宗のとき,日明貿易の勘合にならって作製し,切半して左半を朝鮮に保管し,右半を日本に贈った。大内氏に贈られた銅製通信符(縦5.4㎝,横1.6㎝)が毛利家に現存する。
朝鮮特需
ちょうせんとくじゅ @@@LINK=朝鮮特需 朝鮮特需

朝鮮特需
ちょうせんとくじゅ

1950年,朝鮮戦争勃発によって日本に殺到した国連軍の軍需物資や役務サービスの特殊需要
日本の経済復興を促した。
超然内閣
ちょうぜんないかく @@@LINK=超然内閣 超然内閣

超然内閣
ちょうぜんないかく

政党の外に超然として立つ内閣の形態
藩閥官僚の政党軽視の態度の現れで,大日本帝国憲法発布の際,黒田清隆首相・伊藤博文枢密院議長が超然主義を主張。しかし,政党勢力が増大すると議会運営の立場から政党と提携せざるを得ず,1900年伊藤はみずから立憲政友会を組織した。大正時代清浦奎吾の超然内閣が世論非難を浴び,政党内閣が誕生した。
朝鮮民主主義人民共和国
ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく @@@LINK=朝鮮民主主義人民共和国 朝鮮民主主義人民共和国

朝鮮民主主義人民共和国
ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく

1948年9月,ソ連軍が占領していた朝鮮半島の北緯38度以北に成立した社会主義国家
首都はピョンヤン。初代首相は金日成('72年国家主席)。朝鮮戦争(1950〜53)でかなりの損害を出したが,ソ連および中華人民共和国援助をうけて復興。'60年代に入り,チュチュ(主体)思想に基づき,「自力更生」をスローガンに自主路線を進めている。'94年の金日成の死後も金正日を中心に独自の社会主義路線を保持している。
重祚
ちょうそ @@@LINK=重祚 重祚

重祚
ちょうそ

一度退位した天皇が再び天皇の位につくこと
飛鳥時代の斉明天皇(皇極)と奈良時代の称徳天皇(孝謙)の2例があり,いずれも女帝
長宗我部氏
ちょうそかべし @@@LINK=長宗我部氏 長宗我部氏

長宗我部氏
ちょうそかべし

中世,土佐の豪族,戦国大名
「長曽我部」とも書く。秦氏または蘇我氏の部民であった宗我部の子孫という。土佐国長岡郡岡豊 (おこう) の国人で,南北朝時代に守護細川氏に属し,のち土佐七族の雄となる。16世紀初め一時断絶したが,国親の代に勢力を得,その子元親が四国全土を平定。1585年豊臣秀吉に降伏し土佐1国を安堵された。元親の子盛親は関ケ原の戦い(1600)に石田方に味方し所領を没収され,大坂の役で滅亡した。
長宗我部元親
ちょうそかべもとちか @@@LINK=長宗我部元親 長宗我部元親

長宗我部元親
ちょうそかべもとちか

1538〜99
戦国時代の武将
国親の子。1571年,国司の一条氏を追い土佐(高知県)1国を統一,さらに阿波(徳島県)・伊予(愛媛県)・讃岐(香川県)を攻略し,'83年四国全土を平定した。'85年豊臣秀吉の四国征討をうけ降伏し,土佐1国を安堵された。九州征討,文禄・慶長の役に参加。また長宗我部元親百箇条を制定した。

長宗我部元親百箇条
ちょうそかべもとちかひゃっかじょう @@@LINK=長宗我部元親百箇条 長宗我部元親百箇条

長宗我部元親百箇条
ちょうそかべもとちかひゃっかじょう

戦国大名長宗我部氏の分国法
1597年長宗我部元親・盛親父子が制定。侍の行政心得,侍・農・商・職人の身分,商業交通,私生活一般に関する領内法で,家法である「長宗我部元親式目」と違い,式目形式から近世的法典に移行する過渡的なものとされている。
町村制
ちょうそんせい @@@LINK=町村制 町村制

町村制
ちょうそんせい

1888年制定された地方行政制度。
町段畝歩
ちょうたんせぶ @@@LINK=町段畝歩 町段畝歩

町段畝歩
ちょうたんせぶ

土地面積を示すのに用いる単位名
令制では,1町=10段,1段=360歩,1歩=6尺平方で,中世には240歩=大,180歩=半,120歩=も用いられた。太閤検地では,6尺3寸=1間,1間平方=1歩,30歩=1畝,10畝=1段,10段=1町とする町段畝歩の制を採用し,江戸時代には,6尺平方=1歩(1坪)とした。
朝廷
ちょうてい @@@LINK=朝廷 朝廷

朝廷
ちょうてい

古代〜近世における天皇の政庁
律令制下,天皇を中心に貴族がここで政治を行った。平安末期に政治の実権を失ったが,二官八省の制を存続し,祭政のうちの祭祀と,儀礼面を残した。鎌倉時代以後は幕府に対応する語として使用された。
兆殿司
ちょうでんす @@@LINK=兆殿司 兆殿司

兆殿司
ちょうでんす

明兆 (みんちよう)
朝堂院
ちょうどういん @@@LINK=朝堂院 朝堂院

朝堂院
ちょうどういん

大内裏 (だいだいり) の政庁で,国家的儀式(即位式・朝賀など)を行う場所
八省院ともいう。大内裏の正門である朱雀門の正面,内裏の南西に位置する。後世紫宸殿で儀式を行った。
町人
ちょうにん @@@LINK=町人 町人

町人
ちょうにん

江戸時代,町方 (まちかた) (都市)に居住する商・工身分
町方人別 (まちかたにんべつ) に所属し,地主・家持以外の地借 (じがり) ・店借 (たながり) は一人前の町人とみなされない。室町末期の社会・経済の発展から農・工・商が分化し,特に江戸幕府が商人の農村居住を禁じたので都市に集住した。江戸時代,町人は武士の恩恵のもとで営業すると考えられ,士・農の下に置かれ,年貢の代わりに運上・冥加 (みようが) 金を納めた。国内産業の発達で町人勢力が増大し,その経済力の向上は元禄・化政の町人文化を生み,町人出身の学者・文人も輩出した。井原西鶴は大坂町人の勤勉・倹約才覚を浮世草子に記している。町人の中には財力で武士をしのぐ者があり,大名・旗本に融資してその財政を制する者や持参金で武士と養子縁組する者も出現した。しかしその代表者が御用商人であるように,封建経済に寄生する性格を免れず,社会変革を指導するまでには至らなかった。
重任
ちょうにん @@@LINK=重任 重任

重任
ちょうにん

平安中期以後に盛行した売官の一つ
任期のある官職についている律令官人が財物を納めて,あるいは公的造営に奉仕して任期をもう1期延長すること。収益の多い国司に著しく,後三条天皇の禁止も効なく,鎌倉時代まで行われた。
町人請負新田
ちょうにんうけおいしんでん @@@LINK=町人請負新田 町人請負新田

町人請負新田
ちょうにんうけおいしんでん

江戸時代に開発された町人出資の新田
元禄年間(1688〜1704)以後盛んで享保の改革で奨励され,大規模なものが多い。出資者は開発地の地主となって耕作者から小作料をとり,領主年貢を納入した。商業資本農村を支配した好例
町人考見録
ちょうにんこうけんろく @@@LINK=町人考見録 町人考見録

町人考見録
ちょうにんこうけんろく

江戸中期,三井高房の著書
1728年成立。3巻。京都の商人約50軒の盛衰や大名貸などによる没落を例にとり,町人の心得を説いたもの。三井家子孫のための訓戒書ともいうべきもので,町人生活の重要史料。
町人囊
ちょうにんぶくろ @@@LINK=町人囊 町人囊

町人囊
ちょうにんぶくろ

江戸中期,西川如見の著書
1719年刊。5巻。町人の生き方を述べた教訓書で,封建社会の中で町人としての心得を説く。
奝然
ちょうねん @@@LINK=奝然 奝然

奝然
ちょうねん

?〜1016
平安中期の東大寺僧
京都の人。983年入宋して五台山などの霊場をめぐり,5年後に『一切経』『釈迦像』『十六羅漢像』を持ち帰った。この『釈迦像』は三国伝来といわれる赤栴檀 (せんだん) 像で,現在京都の清涼寺の本尊。奝然の影響で日本に霊場巡礼の風習がおこった。

長年大宝
ちょうねんたいほう @@@LINK=長年大宝 長年大宝

長年大宝
ちょうねんたいほう

皇朝十二銭の一つで,848〜858年まで鋳造。
帳外
ちょうはずれ @@@LINK=帳外 帳外

帳外
ちょうはずれ

江戸時代,検地帳に記載されなかった貧農
「ちょうがい」とも読む。親類縁者がかかるのを防ぐため,あるいは勘当や久離により宗門改帳から削除され,村を追放された無宿者もさす。
朝服
ちょうふく @@@LINK=朝服 朝服

朝服
ちょうふく

令(衣服令)で定められた朝廷の官人の通常服
男女文武官の別がある。文官は,頭布 (ときん) ・衣・笏 (しやく) ・袴 (はかま) ・腰帯・襪 (しとうず) (足袋の一種)・履 (くつ) で,衣の色やの色,その結び目の数で位階の上下を示した。武官は衣のかわりに位襖 (いおう) (襖はすそのない衣)で,横刀 (たち) をつける。これが国風化して衣冠・束帯となった。無位の人の服は制服といい,衣は黄色。家人奴婢 (ぬひ) は橡墨衣と定められた。
徴兵告諭
ちょうへいこくゆ @@@LINK=徴兵告諭 徴兵告諭

徴兵告諭
ちょうへいこくゆ

1872(明治5)年,徴兵制に関する太政官布告
国民皆兵の理想を掲げ,全国民の男子で満20歳に達した者はことごとく兵籍に編入することを明らかにしている。この告諭翌年徴兵令公布は,士族にとって旧来の兵権喪失につながり,また農民にとって労働力を奪われることから,各地で徴兵令反対一揆がおこった。また,告諭文中の「血税」の文字も一部誤解を生じ,一揆の一因ともなった。
徴兵令
ちょうへいれい @@@LINK=徴兵令 徴兵令

徴兵令
ちょうへいれい

1873(明治6)年,明治政府が成年男子に兵役義務を負わせた法令
封建的武士団を解体し,近代的軍隊を創設するため山県有朋の建議により,1872年に詔書告諭が出され,翌'73年公布された。初め戸主・官吏・代人料(270円)納入者・官立学校上級生徒などの免役規定があったが,'89年の改正により国民皆兵の原則を確立した。1927年兵役法に改称。'45年廃止。
朝野群載
ちょうやぐんさい @@@LINK=朝野群載 朝野群載

朝野群載
ちょうやぐんさい

平安後期の詩文集や官符を分類編纂したもの
30巻。編者は三善為康 (みよしためやす) 。1116年成立の自序があるが,1145年ごろまで加筆。平安時代の政治・社会や古文書研究の重要史料。
朝野新聞
ちょうやしんぶん @@@LINK=朝野新聞 朝野新聞

朝野新聞
ちょうやしんぶん

明治前期の代表的新聞(1872〜93)
社長は成島柳北 (りゆうほく) ,編集長は末広鉄腸。民権派の立場をとり,藩閥政府を攻撃し,1878年日刊紙で最初の発行停止処分をうけた。'93年国民協会の機関紙となったが,まもなく廃刊。
勅願寺
ちょくがんじ @@@LINK=勅願寺 勅願寺

勅願寺
ちょくがんじ

天皇の発願によって,鎮護国家・皇室繁栄などの祈願のため建てられた寺
薬師寺・東大寺・国分寺など天皇が創建したものと,既設の寺を指定したものとがある。
中江兆民
なかえちょうみん @@@LINK=中江兆民 中江兆民

中江兆民
なかえちょうみん

1847〜1901
明治時代の思想家
土佐藩出身。フランス留学後『東洋自由新聞』などにより急進的民権論を展開し藩閥政府を攻撃。ルソーの『民約論』を訳し解説を加え『民約訳解』として出版した。第1議会には自由党の代議士となったが民党の妥協を怒って辞任。のち実業界に入ったが失敗し,晩年は国権論的な国民同盟会に参加した。著書に『三酔人経綸問答』『一年有半』など。

中江藤樹
なかえとうじゅ @@@LINK=中江藤樹 中江藤樹

中江藤樹
なかえとうじゅ

1608〜48
江戸前期の儒学者。日本陽明学の祖
通称弥右衛門,近江聖人と呼ばれた。近江(滋賀県)の人。伊予(愛媛県)大洲藩に仕えたが,のち帰郷して講学。初め朱子学を奉じたが,37歳のとき陽明学に転じ,その普及につとめた。熊沢蕃山・淵岡山 (ふちこうざん) などの高弟輩出主著に『翁問答』『鑑草 (かがみぐさ) 』など。

長岡京
ながおかきょう @@@LINK=長岡京 長岡京

長岡京
ながおかきょう

784年,桓武天皇が平城京から現在の京都府向日 (むこう) 市付近に造営移転した都
翌785年遷都の首唱者藤原種継の暗殺など不祥事があいついでおこったため,794年造営中止。平安京に遷都した。
長尾景虎
ながおかげとら @@@LINK=長尾景虎 長尾景虎

長尾景虎
ながおかげとら

上杉謙信
中岡慎太郎
なかおかしんたろう @@@LINK=中岡慎太郎 中岡慎太郎

中岡慎太郎
なかおかしんたろう

1838〜67
幕末の尊攘討幕派志士
土佐藩郷士。1861年武市瑞山 (たけちずいざん) の土佐勤王党に参加。討幕派勢力の結集に奔走し,'66年坂本竜馬とともに薩長連合に成功。翌'67年坂本の海援隊に対し陸援隊を組織し討幕運動を推し進めたが,同年京都で坂本とともに暗殺された。

長岡半太郎
ながおかはんたろう @@@LINK=長岡半太郎 長岡半太郎

長岡半太郎
ながおかはんたろう

1865〜1950
明治〜昭和期の物理学者
肥前(長崎県)の生まれ。東大卒業後,ドイツヘ留学。帰国後,東大教授・阪大初代総長などを歴任した。この間,1888年磁気ひずみの研究を,1903年有核原子模型(長岡原子模型)の理論を発表。実験物理学・理論物理学の基礎を確立した。'37年第1回文化勲章を受章。

長尾氏
ながおし @@@LINK=長尾氏 長尾氏

長尾氏
ながおし

中世,相模(神奈川県)の豪族
桓武平氏。相模国鎌倉郡長尾を本拠とする。鎌倉末期上杉氏に従い,室町時代には関東管領山内上杉氏の家宰となり,以後一族は関東・越後の各地に分布した。なかでも越後府中の長尾氏は越後守護代として勢力をふるい,為景は1507年上杉房能 (ふさよし) を殺害し越後の実権を握り,その子景虎(謙信)は山内家の上杉憲政から上杉氏の姓と関東管領職を譲られた。
仲買
なかがい @@@LINK=仲買 仲買

仲買
なかがい

近世,商品流通過程の一機関
問屋と小売商,生産者あるいは荷主と問屋の中間にあって商品取引をするもの。室町時代の牙儈 (すあい) に相当する。江戸中期以降発展し,業種別・地域別などに株仲間を結成。中間的存在だが大坂堂島の米仲買のように商品取引を支配するものもあった。
中上川彦次郎
なかみがわひこじろう @@@LINK=中上川彦次郎 中上川彦次郎
なかがみがわひこじろう @@@LINK=中上川彦次郎 中上川彦次郎

中上川彦次郎
なかみがわひこじろう

1854〜1901
明治時代の実業家
福沢諭吉の甥。豊前(大分県)中津出身。慶応義塾卒業後,イギリスに留学。1891年三井に入り,同社の大改革を行い三井財閥の基礎を確立した。

中上川彦次郎
なかがみがわひこじろう

なかみがわひこじろう
中川淳庵
なかがわじゅんあん @@@LINK=中川淳庵 中川淳庵

中川淳庵
なかがわじゅんあん

1739〜86
江戸中期の蘭方医
若狭(福井県)小浜藩医の家の生まれ。本草学・蘭学に通じ,平賀源内と火浣布 (かかんぷ) (石綿で織った布)をつくった。1765年幕府医官となる。'71年長崎で『ターヘル‐アナトミア』を入手し,杉田玄白・前野良沢らと『解体新書』を翻訳刊行。スウェーデン人ツンベルグに医学・理学を学び,'78年小浜藩奥医となった。著書に『和蘭局方 (オランダきよくほう) 』など。

長崎
ながさき @@@LINK=長崎 長崎

長崎
ながさき

長崎南部にある港湾都市県庁所在地
16世紀中ごろより大村氏領となり,1570年ポルトガル船が寄港して以来貿易港として発展。大村純忠イエズス会に寄進し一時教会領となったが,'87年豊臣秀吉が没収して直轄領とし,江戸時代には幕府天領として長崎奉行の支配下に置かれた。初め朱印船貿易の基地であったが,鎖国政策の進行に伴い,この地に出島が建設され,オランダ商館が移されて,鎖国下における唯一の貿易港となった。ヨーロッパ文化に接する窓口の役割を果たしたので蘭学を志ざす者の来遊の地となり,幕末の安政の五カ国条約によって開港された。1889年市制施行。太平洋戦争末期の1945年8月,原子爆弾により市街の大半が壊滅したが,その後復興。
長崎会所
ながさきかいしよ @@@LINK=長崎会所 長崎会所

長崎会所
ながさきかいしよ

江戸時代,長崎貿易に従事した商人の団体
最初5か所の糸割符 (いとわつぷ) 商人で組織され五箇所会所と称したが,1698年頃長崎会所となった。長崎奉行の監督下で白糸をはじめ商品全般にわたり長崎貿易を独占し,幕府に運上を納めた。長崎貿易の統制や市政の事務にも従事したが,幕末開港後,長崎貿易の停滞とともに衰退した。
長崎新令
ながさきしんれい @@@LINK=長崎新令 長崎新令

長崎新令
ながさきしんれい

海舶互市新例 (かいはくごししんれい)
長崎造船所
ながさきぞうせんじょ @@@LINK=長崎造船所 長崎造船所

長崎造船所
ながさきぞうせんじょ

明治政府の代表的官営工場の一つ
1857年に設立された幕府の長崎製鉄所が明治政府に引き継がれ,'71年工部省所管の長崎造船所となる。幕末〜明治初年横須賀造船所と並ぶ代表的造船所で,'87年三菱に払い下げられた。以後,わが国最大の民間造船所として発展を続けた。現在,三菱重工長崎造船所と改称
長崎高資
ながさきたかすけ @@@LINK=長崎高資 長崎高資

長崎高資
ながさきたかすけ

?〜1333
鎌倉末期の武将
執権北条高時のとき,父のあとを継いで内管領となり,幕政実権を握る。1326年高時が出家したのち,金沢貞顕を執権に擁立し失敗,ついで赤橋守時が執権となったが,高資の専断はやまず,御家人不信を招いた。正中の変(1324)のとき,後醍醐 (ごだいご) 天皇の廃位,護良 (もりよし) 親王の遠流,日野俊基・資朝 (すけとも) の死罪を主張。新田義貞の鎌倉攻めにあって自殺した。
長崎派
ながさきは @@@LINK=長崎派 長崎派

長崎派
ながさきは

江戸時代,長崎で育った画派の総称
(1)明・清の北宗画系の流派,(2)蘭学に随伴して入ってきた洋風画派,(3)1716年,長崎に来た伊孚九 (いふきゆう) に啓発された清朝の文人画派,(4)1731年来日の沈南蘋 (しんなんぴん) に教えられた清朝写生派,(5)黄檗 (おうばく) 僧の像を描く肖像画派,などがある。
長崎奉行
ながさきぶぎょう @@@LINK=長崎奉行 長崎奉行

長崎奉行
ながさきぶぎょう

江戸幕府の職名。長崎を管轄した遠国奉行
幕府直轄都市の長崎に置かれ,外交・貿易・司法事務や市政にあたった。1592年豊臣秀吉が寺沢広高を任じたのが最初。老中に属し旗本から選任された。定員は増減があったが,正徳年間(1711〜16)以後2人を置き,1年交替で勤務した。1808年,フェートン号事件で長崎奉行松平康英は責任をとって自刃した。
中里介山
なかざとかいざん @@@LINK=中里介山 中里介山

中里介山
なかざとかいざん

1885〜1944
明治末期〜昭和期の大衆作家
本名は弥之助。東京の生まれ。独学で小学校教員,ついで新聞記者となる。内村鑑三に私淑し,キリスト教社会主義の影響をうけ,日露戦争に際し反戦論を唱える。「都新聞」に1913〜41年の間,主人公机竜之助が活躍する未完の大長編小説『大菩薩峠』を連載。

中沢道二
なかざわどうに @@@LINK=中沢道二 中沢道二

中沢道二
なかざわどうに

1725〜1803
江戸中・後期の石門心学者
通称亀屋久兵衛。京都西陣の織職であったが,40歳を過ぎて手島堵庵に心学を学び,堵庵の命で関東に赴き,1779年江戸に参前舎を開いた。平易な事例をもって道話を講じ,関東心学の普及に貢献した。著書に門人の編集した『道二翁道話』がある。

長篠の戦い
ながしののたたかい @@@LINK=長篠の戦い 長篠の戦い

長篠の戦い
ながしののたたかい

1575年,三河国(愛知県)南設楽 (みなみしだら) 郡長篠で織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼を破った戦い
武田勝頼軍が長篠城を攻め,来援の信長・家康軍と戦う。連合軍は戦場に馬防柵をつくり,3000挺の鉄砲で装備した歩兵隊を用い,武田方の伝統ある騎馬隊に壊滅的な打撃を与え,以後武田氏は衰えた。新兵器鉄砲を利用した画期的な戦い。
長島一揆
ながしまいっき @@@LINK=長島一揆 長島一揆

長島一揆
ながしまいっき

安土桃山時代,伊勢国長島でおこった本願寺信徒の一揆
木曽川河口のデルタ地帯長島の本願寺信徒は,本願寺11世顕如の命令で織田信長に抵抗。信長は1571・'73・'74年の3度の攻撃により男女多数の信徒を殺し,信徒は石山本願寺に逃げた。東海地方の一向一揆はこれにより鎮定された。
中島俊子
なかじまとしこ @@@LINK=中島俊子 中島俊子

中島俊子
なかじまとしこ

岸田俊子
中島信行
なかじまのぶゆき @@@LINK=中島信行 中島信行

中島信行
なかじまのぶゆき

1846〜99
幕末・明治時代の政治家
土佐藩出身。幕末,尊王攘夷運動に参加し,海援隊・陸援隊を指導。維新政府に出仕し,神奈川県令・元老院議官などを歴任。自由民権運動で活躍し,1881年自由党結成に参加,副総理となる。'87年保安条例で東京を追放されたが,'90年第1回総選挙で当選,初代衆議院議長をつとめた。

中先代の乱
なかせんだいのらん @@@LINK=中先代の乱 中先代の乱

中先代の乱
なかせんだいのらん

1335年,北条高時の子時行が建武政権に反抗した事件
鎌倉幕府滅亡(1333)後,復活の機をねらっていた北条氏残党の諏訪頼重らは,中先代(時行)を擁して信濃に挙兵し,鎌倉に足利直義 (ただよし) を攻めたが,東下した足利尊氏に討たれて敗北。乱後尊氏は朝廷からの帰京命令に従わず,関東にとどまり,南北朝内乱端緒となった。
中山道
なかせんどう @@@LINK=中山道 中山道

中山道
なかせんどう

江戸時代,江戸板橋から木曽を経て近江草津に至る街道。五街道
「中仙道」とも書く。江戸板橋から近江守山まで67宿を経て,近江の草津で東海道に合流する。東海道の裏街道として重要で,各宿駅に50人50頭の人馬が常備され,碓氷 (うすい) ・木曽福島の関所が設けられた。幕末,和宮降嫁の行列など要人の通行が目だった。参勤交代で利用した大名は前田家をはじめ約30家。
中曽根康弘内閣
なかそねやすひろないかく @@@LINK=中曽根康弘内閣 中曽根康弘内閣

中曽根康弘内閣
なかそねやすひろないかく

中曽根康弘(1918〜  )を首班とする自由民主党内閣(1982.11〜87.11)
〔第1次〈1982.11〜83.12〉〕1983年に訪韓,全斗煥大統領と会談して「日韓新時代」を表明し,次いで訪米して「日本列島不沈空母化」構想を提起した。〔第2次〈1983.12〜86.7〉〕新自由クラブと連立を組み,「戦後政治の総決算」を表明。内政では行財政改革で総務庁発足と電電・専売両公社民営化法案を成立させ,教育改革を掲げて臨時教育審議会を発足させた。〔第3次〈1986.7〜87.11〉〕衆参同日選挙での自民党圧勝を受けて成立。閣議で防衛費のGNP(国民総生産)1%枠撤廃を決定した。'87年国鉄の分割・民営化を実施し,JR6社等が発足。売上税導入を図ったが,世論の反発が強く,売上税法案を撤回した。
永田善吉
ながたぜんきち @@@LINK=永田善吉 永田善吉

永田善吉
ながたぜんきち

亜欧堂田善 (あおうどうでんぜん)
永田鉄山
ながたてつざん @@@LINK=永田鉄山 永田鉄山

永田鉄山
ながたてつざん

1884〜1935
昭和初期の軍人
陸軍中将。長野県の生まれ。陸軍省軍務局長として,統制派の中心人物。1934年皇道派の教育総監真崎甚三郎を罷免させた張本人と目され,翌'35年白昼皇道派の相沢三郎中佐に陸軍省内で刺殺された。

中務省
なかつかさしょう @@@LINK=中務省 中務省

中務省
なかつかさしょう

律令官制の八省の一つ
太政官の左弁官に属し,天皇に侍従し,詔勅・上表・国史・天文・暦・女官人事・考叙・位記・諸国の戸籍・租調帳・僧尼名簿などをつかさどった。管轄下に中宮職のほか左右大舎人・図書・内蔵・縫殿・陰陽の6寮と画工・内薬・内礼の3司があった。
長塚節
ながつかたかし @@@LINK=長塚節 長塚節

長塚節
ながつかたかし

1879〜1915
明治時代の歌人・小説家
茨城県の生まれ。水戸中学中退後正岡子規の門に入り,冴 (さ) えと気品のある万葉調写生の歌を詠み,アララギ派の代表となる。代表歌集に『鍼 (はり) の如く』。また長編小説『土』は貧農の生活を精細に描いたものとして有名。

長門探題
ながとたんだい @@@LINK=長門探題 長門探題

長門探題
ながとたんだい

鎌倉幕府の地方職制
中国探題・長門周防 (すおう) 探題ともいう。蒙古来襲に対する防衛強化のために,1276年北条氏一門の宗頼 (むねより) を長門守護として派遣したのに始まる。'89年北条実政が周防守護を兼ね,この後,長門・周防両国守護を兼任して,他国の守護以上の強大な権限を与えられた。1333年元弘の変に際し,探題北条時直は京都六波羅を応援しようとしたが,少弐・島津氏の軍にくだり滅亡した。
中臣氏
なかとみうじ @@@LINK=中臣氏 中臣氏

中臣氏
なかとみうじ

古代の中央豪族
姓 (かばね) は連 (むらじ) 。忌部氏 (いんべうじ) とともに大和政権の神事・祭祀をつかさどった。物部 (もののべ) 氏とともに仏教受容問題で蘇我氏と対立。鎌足 (かまたり) が大化の改新で活躍し,669年危篤の時,天智天皇から藤原姓を賜った。以後鎌足の子孫は藤原氏を称したが,本系はいぜん中臣を称し,代々神祇官・伊勢神官などに任じられた。
中臣鎌足
なかとみのかまたり @@@LINK=中臣鎌足 中臣鎌足

中臣鎌足
なかとみのかまたり

藤原鎌足
長野
ながの @@@LINK=長野 長野

長野
ながの

長野県北部,長野盆地中央にある県庁所在地
百済 (くだら) 伝来と伝えられる阿弥陀如来本尊とする善光寺が7世紀にでき,中世に至って,その門前町として発展した。江戸時代まで善光寺町と呼ばれ,北信濃政治・経済の中心となる。1897年市制施行。
中大兄皇子
なかのおおえのおうじ @@@LINK=中大兄皇子 中大兄皇子

中大兄皇子
なかのおおえのおうじ

天智 (てんじ) 天皇
長浜
ながはま @@@LINK=長浜 長浜

長浜
ながはま

滋賀県北東部,琵琶湖東岸にある都市
古くより港町として栄えたが,1573年織田信長は浅井氏を滅ぼし,豊臣秀吉に与えた。'74年秀吉が今浜を長浜と改称,城下町とした。1943年市制施行。
中浜万次郎
なかはままんじろう @@@LINK=中浜万次郎 中浜万次郎

中浜万次郎
なかはままんじろう

1827〜98
江戸末期の幕臣・開成学校教授
ジョン万次郎ともいう。土佐(高知県)中浜村の漁師の子。1841年出漁中遭難しアメリカ船に救われ,アメリカで教育をうけ,'51年帰国。長崎で尋問を受けたのち,土佐藩の召しかかえとなる。ペリー来航に際し幕府に仕え,通訳・翻訳・軍艦操練所教授・鯨漁御用などをつとめ,新知識の移入に貢献した。'60年幕府遣米使節に随行。明治維新後は開成学校(開成所後身)の教授となった。

中原氏
なかはらうじ @@@LINK=中原氏 中原氏

中原氏
なかはらうじ

平安時代以来の明経 (みようぎよう) 道の博士家
清原氏と並ぶ明経道の家で,明法道・天文などをも家学とした。鎌倉時代には法律関係で鎌倉幕政に参画した。室町中期から押小路氏と称し,明治時代に至り男爵となった。
中原親能
なかはらちかよし @@@LINK=中原親能 中原親能

中原親能
なかはらちかよし

1143〜1208
鎌倉初期の政治家
大江広元の兄。源頼朝に招かれて鎌倉に下り,草創期の幕政参画。1184年公文所設置の際,その寄人 (よりゆうど) となり,のち京都守護・鎮西奉行となる。頼朝死後頼家・実朝 (さねとも) にも仕え,六波羅在任中京都で死んだ。

中原章賢
なかはらのりかた @@@LINK=中原章賢 中原章賢

中原章賢
なかはらのりかた

生没年不詳
鎌倉末期・南北朝時代の武将
出家して是円房道昭と称した。明法家。建武政権の雑訴決断所職員に用いられ,また足利尊氏の諮問に対し,1336年弟の真恵とともに建武式目17条を答申した。
仲間
なかま @@@LINK=仲間 仲間

仲間
なかま

江戸時代,商工業者の同業者団体
独自の法をつくり,営業権の独占をはった。幕府に公認されたものを株仲間という。
中上川彦次郎
なかみがわひこじろう @@@LINK=中上川彦次郎 中上川彦次郎
なかがみがわひこじろう @@@LINK=中上川彦次郎 中上川彦次郎

中上川彦次郎
なかみがわひこじろう

1854〜1901
明治時代の実業家
福沢諭吉の甥。豊前(大分県)中津出身。慶応義塾卒業後,イギリスに留学。1891年三井に入り,同社の大改革を行い三井財閥の基礎を確立した。

中上川彦次郎
なかがみがわひこじろう

なかみがわひこじろう
那珂通世
なかみちよ @@@LINK=那珂通世 那珂通世

那珂通世
なかみちよ

1851〜1908
明治時代の東洋史学者
陸奥(岩手県)の生まれ。慶応義塾卒業後,東京高等師範学校教授・東大講師となる。古代日本・中国・朝鮮史の比較研究から『日本上古年代考』で神武紀元を後世の作為と論証。また蒙古文『元朝秘史』を訳注して『成吉思汗 (ジンギスカン) 実録』を発表した。

中村座
なかむらざ @@@LINK=中村座 中村座

中村座
なかむらざ

江戸の歌舞伎劇場。幕府公許の江戸三座の最古
1624年猿若勘三郎(初代中村勘三郎)により中橋南地(現在の日本橋付近)に猿若座が創設され,のち中村座と呼ばれた。1893年焼失。
中村大尉事件
なかむらたいいじけん @@@LINK=中村大尉事件 中村大尉事件

中村大尉事件
なかむらたいいじけん

1931年,中村震太郎陸軍大尉ほか1名が,中国東北部の興安嶺地方で殺された事件
軍事探偵で身分をかくしての満州旅行中を地方軍閥軍に殺された。万宝山事件とあわせて治安維持のための満州占領の必要性を強調しようと,軍部はそのを大々的に宣伝した。
中村正直
なかむらまさなお @@@LINK=中村正直 中村正直

中村正直
なかむらまさなお

1832〜91
明治時代の教育者・啓蒙家
号は敬宇 (けいう) 。幕臣出身。江戸の生まれ。昌平坂学問所に学び,イギリスに留学。帰国後,私塾同人社を開き,明六社創立に参画。のち訓盲啞院を設け,東大教授・女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)校長を兼ねた。著書訳書『西国立志編』(スマイルズ)・『自由之理』(ミル)など。

長持形石棺
ながもちがたせっかん @@@LINK=長持形石棺 長持形石棺

長持形石棺
ながもちがたせっかん

石棺の一種
古墳時代中期に多い。
長屋王の変
ながやおうのへん @@@LINK=長屋王の変 長屋王の変

長屋王の変
ながやおうのへん

奈良前期,天武天皇で,高市 (たけち) 皇子の第1皇子である長屋王(684〜729)が謀反の疑いで自殺させられた事件
長屋王は聖武天皇即位とともに左大臣となり藤原氏に対抗する勢力となった。729年,王は左道(邪道)を学び国家を傾けようとしているという密告により兵士邸宅を囲まれ,聖武天皇の命で妻子とともに自殺。光明子立后をはかる藤原氏の陰謀犠牲になったと考えられる。
中山忠光
なかやまただみつ @@@LINK=中山忠光 中山忠光

中山忠光
なかやまただみつ

1845〜64
幕末の尊攘派公卿
忠能 (ただやす) の子。尊王攘夷運動に加わり,1863年官位を辞して下関で外国船砲撃事件に参加。ついで吉村寅太郎らと大和で天誅組の変をおこしたが敗北。翌年長州藩保守派に暗殺された。

中山忠能
なかやまただやす @@@LINK=中山忠能 中山忠能

中山忠能
なかやまただやす

1809〜88
幕末・維新期の公卿
明治天皇の外祖父。安藤信正の公武合体運動に加わり岩倉具視らと和宮 (かずのみや) 降嫁に尽力し,尊攘派志士に弾劾 (だんがい) される。のち討幕派となり,討幕の密勅案を奏上。王政復古とともに議定となった。
中山みき
なかやまみき @@@LINK=中山みき 中山みき

中山みき
なかやまみき

1798〜1887
幕末〜明治中期の宗教家。天理教教祖
大和国三昧田村(奈良県天理市)の地主の娘。1810年中山家に嫁ぐ。41歳のとき神がかりし,夫の死後60歳ごろから安産の神・救済の生神として農民から信じられ,主神を天理王命と称した。著書に『おふでさき』。

長柄豊碕宮
ながらとよさきのみや @@@LINK=長柄豊碕宮 長柄豊碕宮

長柄豊碕宮
ながらとよさきのみや

難波 (なにわ)
流造
ながれづくり @@@LINK=流造 流造

流造
ながれづくり

神明造から発展した神社建築の一様式
切妻造平入りで正面の屋根を長くのばし,一つの流れにふいているのでこの名がある。京都市賀茂御祖 (みおや) 神社(下社)本殿が代表的。平安時代にできたといわれ,神社建築の大部分がこの形式である。
投銀
なげがね @@@LINK=投銀 投銀

投銀
なげがね

江戸初期,朱印船貿易全盛期に日本の豪商海外貿易船に貸し付けた資金
抛銀」とも書く。きわめて投機的で,船舶船荷担保に融資し,借入者は海上遭難の場合返済義務がなく,そのかわり利率は3.5割から11割の高利であった。1635年日本船の渡航禁止後はポルトガル人・中国人に対する投銀が増加したが,鎖国により回収不可能となり,日本商人は大打撃をうけた。
名子
なご @@@LINK=名子 名子

名子
なご

封建社会において,半奴隷的に使役された隷属農民
所従・下人・被官・わきのなどと身分的に同じもの。地域により呼称が異なる。中世には土豪や領主の支配下にあり,中世後期,農民の階層分化が進むと,上昇して独立する者とともに,近世まで残った者もあった。本百姓に隷属し,のちしだいに独立した。
名越光時
なごえみつとき @@@LINK=名越光時 名越光時

名越光時
なごえみつとき

生没年不詳
鎌倉時代の武将
北条光時ともいう。朝時 (ともとき) の長男で北条義時の。1244年九条(藤原)頼経が将軍職を子の頼嗣 (よりつぐ) に譲り,'46年北条経時が執権を弟時頼に譲るに及んで,頼経とはかって執権時頼を除こうとした。計画は露見し,頼経は京都に送還,光時は伊豆に流された。
奴国
なこく @@@LINK=奴国 奴国
ぬこく @@@LINK=奴国 奴国

奴国
なこく

後漢書東夷伝にみえる倭の一小国家
紀元前後,博多湾付近にあった。57年,後漢の光武帝が国王に印綬を与えたが,江戸時代に博多湾内の志賀島 (しかのしま) で発見された「漢委奴国王」の金印がそれだとされる。『魏志』倭人伝によると3世紀前半邪馬台国に服属していた。

奴国
ぬこく

なこく
名古屋
なごや @@@LINK=名古屋 名古屋

名古屋
なごや

愛知県西部,伊勢湾に面した県庁所在地で,近世以来尾張藩の城下町として発展
1610年徳川家康がその子義直と清洲城に入り,名古屋を城地と定め,加藤清正ら諸大名に分担させて築城。'16年義直がこの城に移ってから城下町として繁栄した。明治時代以後は中京工業地帯の中核をなす商工業都市として発展。1889年市制施行,1935年には100万都市となった。第二次世界大戦中の戦災市街の大部分を焼失したが,戦後復興。
名護屋
なごや @@@LINK=名護屋 名護屋

名護屋
なごや

佐賀県北西部,東松浦半島先端の鎮西町の一地区
古くから大陸交通上の要地として発展。豊臣秀吉は朝鮮出兵に際し,西国諸大名に命じてここに築城し,基地とした。城は江戸初期にとりこわされた。
名古屋玄医
なごやげんい @@@LINK=名古屋玄医 名古屋玄医

名古屋玄医
なごやげんい

1628〜96
江戸前期の医学者
京都の人で,明の喩嘉言 (ゆかげん) の著『傷寒尚論』を読んで医学を志した。当時の医学の空理空論を攻撃し,臨床実験を尊重,後漢の医学復古を唱え古医方の祖となった。著書に『医方問余』『丹水子』など。

名古屋事件
なごやじけん @@@LINK=名古屋事件 名古屋事件

名古屋事件
なごやじけん

1884(明治17)年におこった自由民権運動の激化事件の一つ
名古屋の自由党左派の久野幸太郎らが政府転覆のため挙兵を計画したが発覚。資金調達のための強盗や巡査殺害なども行っていたので,参加者は死刑・無期懲役などの刑に処せられた。
名古屋城
なごやじょう @@@LINK=名古屋城 名古屋城

名古屋城
なごやじょう

名古屋市中区にある江戸時代の代表的城郭
平城。1521年ごろ今川氏が那古野城を築き,'34年織田信長が支配したが,のち清洲城に移ったため廃城となった。1610年徳川家康が加藤清正ら西南諸大名に命じ築城した。以来明治維新に至るまで御三家の一つ尾張徳川氏の居城となった。天守閣棟上の金の鯱 (しやちほこ) は有名。邸宅式の城郭建築の代表的遺構であったが,第二次世界大戦中の戦災で大部分を焼失。戦後,鉄筋コンクリートで再建された。
梨本集
なしもとしゅう @@@LINK=梨本集 梨本集

梨本集
なしもとしゅう

江戸中期,戸田茂睡の歌論書
1700年刊。3巻5冊。中世から近世にかけて行われた二条派歌学を批判し,古今伝授思想や制禁の詞 (ことば) がいかに無意味かを論難・説明したもの。従来の妄見を打破したことが功績と認められている。
ナショナリズム
nationalism @@@LINK=ナショナリズム ナショナリズム

ナショナリズム
nationalism

民族主義
名代部
なしろべ @@@LINK=名代部 名代部

名代部
なしろべ

名代・御名代 (みなしろ) ともいう。大化以前の大王家の私有民。➡ 子代・名代

なだ @@@LINK=灘 灘


なだ

兵庫県南東部,神戸市から西宮市にかけての臨海地で,江戸時代以来の酒造産地
武庫川と生田川にはさまれ,古くは「灘五郷」と呼ばれた。江戸前期に伊丹・池田から酒造法が伝えられ,播磨摂津の良質米,良質の水(宮水と呼ばれる),丹波杜氏 (とうじ) の技術が,大坂・江戸への船便樽廻船)の良さと重なって発達。灘酒として今日も愛飲される。
鉈彫
なたぼり @@@LINK=鉈彫 鉈彫

鉈彫
なたぼり

彫刻の一型式
丸のみ彫りともいう。鉈で彫ったような粗い目が残っている。平安初期〜中期にかけて東国に多い様式。代表例に神奈川県弘明寺 (ぐみようじ) の『十一面観音像』など。
ナチス
Nazis @@@LINK=ナチス ナチス

ナチス
Nazis

「国家(国民)社会主義ドイツ労働者党」の通称
1919年成立。大ドイツ国家の建設・ヴェルサイユ条約破棄・反民主・反個人・反ユダヤ・反共産など25カ条の綱領のもとに,'21年ヒトラーが党首となった。'32年第一党に躍進し,一党独裁のもとで対外侵略・大ドイツ主義(ナチズム)実現に突進。第二次世界大戦でナチス‐ドイツは敗れナチスは禁止された。
長束正家
なつかまさいえ @@@LINK=長束正家 長束正家

長束正家
なつかまさいえ

?〜1600
安土桃山時代の武将。豊臣家五奉行の一人
近江(滋賀県)の人。財政にすぐれ,検地奉行として太閤検地に活躍。1595年近江水口城主となった。豊臣秀吉の死後,石田三成らと豊臣政権存続をはかり,関ケ原の戦い(1600)で西軍に参加,敗れて自決した。

夏島貝塚
なつしまかいづか @@@LINK=夏島貝塚 夏島貝塚

夏島貝塚
なつしまかいづか

神奈川県横須賀市夏島町にある縄文時代早期の貝塚
貝層三つを含む層から縄文時代早期の各型式の土器が層位的に出土。最下層から出土した貝殻のC14年代測定では,9240±500B.Pの値が出て,縄文時代の年代論議を引き起こした。
夏目漱石
なつめそうせき @@@LINK=夏目漱石 夏目漱石

夏目漱石
なつめそうせき

1867〜1916
明治・大正時代の小説家。森鷗外と並ぶ文豪
本名は金之助。江戸の生まれ。東大英文科卒業後,松山中学・五高などの教師を経てイギリスに留学。東大講師ののち,東京朝日新聞に入社し作家活動に専念。自然主義にくみせず,近代的個人主義の立場から人間の心理を追求した。代表作に『吾輩は猫である』『草枕』『三四郎』『それから』『門』『行人』『こころ』『道草』『明暗』など。初期は余裕派と称せられた。

NATO
ナトー @@@LINK=NATO NATO

NATO
ナトー

North Atlantic Treaty Organization(北大西洋条約機構)の略称。1949年,北大西洋条約に基づいて成立した西ヨーロッパ集団防衛機構
イギリス・フランス・ベネルクス3国の西ヨーロッパ軍事同盟にアメリカ・カナダなど7カ国が加わり,計12カ国で発足。ソ連圏に対抗して,北大西洋地域の安全と福祉のため相互の軍事的協力・集団防衛を約した。冷戦終結後は,新たな役割を探りつつある。'55年西ドイツ,'82年スペイン,'99年ハンガリー・チェコ・ポーランドが加盟し,加盟国は現在19カ国。ブリュッセルに本部を置く。
七三一部隊
ななさんいちぶたい @@@LINK=七三一部隊 七三一部隊

七三一部隊
ななさんいちぶたい

細菌戦の研究・遂行のため,日本陸軍が1933年に創設した特殊部隊
関東軍防疫給水部ともいう。部隊長の軍医中将石井四郎の名をとり石井部隊と通称された。ハルビン市南方に建設された本部では,ペスト・赤痢・コレラ・チフスなどの細菌の研究がすすめられ,中国人・ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って生体実験が行われた。
難波
なにわ @@@LINK=難波 難波

難波
なにわ

現在の大阪地方の旧称
古くから海上交通および西国と中央を結ぶ要衝として栄え,仁徳天皇高津宮,大化の改新に際し孝徳天皇難波長柄豊碕宮 (ながらとよさきのみや) ,奈良時代に聖武天皇の難波宮が造営された。律令制では国司に代わって摂津職 (せつつしき) を置いたが793年廃され,国司が置かれた。中世,蓮如 (れんによ) が道場(石山坊,のち石山本願寺)をたて,その寺内町近世大坂の母体となった。
難波豊碕宮
なにわとよさきのみや @@@LINK=難波豊碕宮 難波豊碕宮

難波豊碕宮
なにわとよさきのみや

難波
難波宮
なにわのみや @@@LINK=難波宮 難波宮

難波宮
なにわのみや

奈良時代聖武天皇のとき難波に造営された
藤原広嗣の(740)後,744年難波宮を都にしたが,翌年平城京にもどった。戦後発掘で,大阪市中央区法円坂町付近に宮址があり,聖武天皇の後期難波宮,それ以前の孝徳天皇難波長柄豊碕宮と考えられる前期難波宮の遺構が発見された。
名主
みょうしゅ @@@LINK=名主 名主
なぬし @@@LINK=名主 名主

名主
みょうしゅ

平安後期〜中世において,荘園・国衙 (こくが) 領の年貢・公事 (くじ) の対象とされた名田 (みようでん) の所有者
平安中期の田堵 (たと) についで現れ,みずから農業経営を行うと同時に一部の名田を作人などに耕作させた地主的存在。農民の階層分化に伴い,武士化して荘官となる者もあり,また作人・下人なども名主職を得て名主化する者もいた。鎌倉中期以降,名主の地位は一種の得分権となり,相伝・譲与・売買の対象となった。しかし,名主単位の賦課という荘園的支配体制は,太閤検地によって廃止されるまで存続した。

名主
なぬし

江戸時代,村方三役(地方三役 (じかたさんやく) )の筆頭
関西の庄屋にあたる。村の責任者で郡代・代官の命をうけ,年貢割当て・宗門改・触の伝達などの村政一般を管掌。その地位は世襲からしだいに一代限りとなり,選挙・推薦で定め,代官がこれを任命した。また町方では町名主がいた。
菜畑遺跡
なばたけいせき @@@LINK=菜畑遺跡 菜畑遺跡

菜畑遺跡
なばたけいせき

佐賀県唐津市にある縄文時代晩期〜弥生時代前期の稲作遺跡
1980〜81年の調査で,縄文時代晩期から弥生時代前期の水田跡・住居跡・墳墓などが発見された。多量に出土した遺物には炭化米のほかアワ・ソバ・アズキ・オオムギなどもあり,稲作とともに畑作も行われていることがわかった。住居跡は弥生時代前期のものが8棟,漆製品や農工具を主とする多量の木製品も出土した。
鍋島直正
なべしまなおまさ @@@LINK=鍋島直正 鍋島直正

鍋島直正
なべしまなおまさ

1814〜71
幕末の肥前藩主
号は閑叟 (かんそう) 。1830年襲殖産興業政策を行い,兵制改革・反射炉建設・大砲鋳造・蘭学奨励・種痘の施行などに尽力。藩政改革に成功し,同藩の政治的発言権を強めた。明治新政府では議定・開拓使長官などを歴任した。

生麦事件
なまむぎじけん @@@LINK=生麦事件 生麦事件

生麦事件
なまむぎじけん

幕末,薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件
1862年,島津久光が江戸から京都への帰途,横浜付近の生麦村で騎馬のイギリス人4名が行列を乱したとの理由で3名を殺傷した。イギリスは幕府と薩摩藩に犯人の処罰と賠償金の支払いを要求し,幕府はこれに応じたが,当時最高潮攘夷運動を背景に薩摩藩はこれを拒否したため,翌年7月薩英戦争がおこった。同年11月和議が成立し,薩摩藩は賠償金を支払った。
並木宗輔
なみきそうすけ @@@LINK=並木宗輔 並木宗輔

並木宗輔
なみきそうすけ

1695〜1751
江戸中期の浄瑠璃作者
大坂の人。豊竹座の座付作者となり活躍。一時竹本座に転じたが,晩年再び豊竹座にもどった。紀海音 (きのかいおん) ・竹田出雲・松田文耕堂と並び浄瑠璃四天王の一人に数えられた。代表作に『双蝶々曲輪日記 (ふたつちようちようくるわにつき) 』など世話物のほか,竹田出雲との合作の『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など。

納屋衆
なやしゅう @@@LINK=納屋衆 納屋衆

納屋衆
なやしゅう

中世末,港町貿易倉庫業者
海産物を収蔵するため海岸に建てた倉庫を納屋,その持ち主を納屋衆といった。商業・貿易・倉庫貸しをする豪商たちで,堺の市政を指導した会合衆 (えごうしゆう) には彼らが多かった。納屋助左衛門は有名。
納屋助左衛門
なやすけざえもん @@@LINK=納屋助左衛門 納屋助左衛門

納屋助左衛門
なやすけざえもん

生没年不詳
安土桃山時代の貿易商人
堺の納屋衆。天正年間(1573〜92)から海外貿易従事。1593年ルソンに渡航し,呂宋 (ルソン) 助左衛門と呼ばれた。奢侈により豊臣秀吉に罰せられて没落したが,1607年カンボジアに渡航し,日本からの貿易商の管理を国王から委嘱された。
納屋物
なやもの @@@LINK=納屋物 納屋物

納屋物
なやもの

江戸時代,一般商人によって集荷・売買された商品
蔵物・舶来物に対する語。生産地から荷積問屋に集められ,主として大坂の荷受問屋を経て市場に出まわったが,商品生産の発展で増大。その取引には,(1)荷主の独自の発送,(2)問屋の注文に応ずる荷主の発送,(3)問屋の生産地出張による仕入れ,の三つの場合があった。
名寄帳
なよせちょう @@@LINK=名寄帳 名寄帳

名寄帳
なよせちょう

耕地所有者または耕作者別に記載された土地台帳で,年貢割当ての際の基礎帳簿
中世では,荘園領主が検注帳とは別に名主 (みようしゆ) ごとに田畑の広さや種類・年貢・公事 (くじ) を記載した帳簿をさす。江戸時代には耕作農民を登録した検地帳に対し,年貢納入者を示すため,検地帳をもとに耕地所有者の石高・反別を耕地ごとに集計し記載した。
奈良
なら @@@LINK=奈良 奈良

奈良
なら

奈良県最北部にある県庁所在地。710年から784年までの都
奈良時代には乃楽・寧楽・平城などと書いたが平安時代に奈良の字に固定。元明天皇の平城京造営に始まり,以後7代74年間首都として繁栄した。784年,山背国長岡京に遷都後,荒廃して田畑と化したが,のち東大寺・興福寺・春日神社の門前町として発達。中世には興福寺・東大寺の支配下にあって商工業が発達し,市がたち,興福寺一乗院・大乗院や東大寺・春日神社を本所とする多くの座が結成された。江戸時代には天領となり奈良奉行が置かれた。1898年市制施行。国際的観光都市として発展。
奈良晒
ならさらし @@@LINK=奈良晒 奈良晒

奈良晒
ならさらし

江戸時代,奈良を中心に生産された高級麻織物
1611年徳川家康の朱印をうけ,幕府の保護奨励により急速に発展。東北諸藩から原料青苧 (あおそ) を仕入れ,マニュファクチュア経営を行った。享保年間(1716〜36)以降しだいに衰え,明治時代以後衰退した。
奈良時代
ならじだい @@@LINK=奈良時代 奈良時代

奈良時代
ならじだい

政治史上,710年の平城京遷都から784年の長岡京遷都に至るまでの時代
一般的には794年の平安京遷都までを含める。藤原不比等の活躍,長屋王の変と光明子の立后・聖武天皇の時代,橘諸兄 (もろえ) の台頭と藤原広嗣の乱,藤原仲麻呂の進出と橘奈良麻呂の変,道鏡の台頭と仲麻呂の乱,道鏡の失脚,と政局は目まぐるしく変動したが,聖武天皇の天平時代(729〜749)に最も繁栄した。律令制がよく行われた時代であり,仏教が政治に大きく影響した。東北地方の蝦夷 (えみし) ,西南の隼人 (はやと) を征討・服属させ,また遣唐使派遣による唐文化の移入,造寺・造仏,国史・地誌編修などの天平文化が興隆した。一方,律令制度下における公民の負担は重く,逃亡する公民が少なくなかった。この中で律令制度の基盤をなす公地制は三世一身法(723)・墾田永年私財法(743)によってくずれ,その後私有地としての荘園が成立・発展することになった。
奈良奉行
ならぶぎょう @@@LINK=奈良奉行 奈良奉行

奈良奉行
ならぶぎょう

江戸幕府の職名。奈良に置かれた遠国奉行
1613年設置。老中に直属し,京都所司代の指揮をうけ,奈良の市政および寺社支配にあたった。
奈良仏教
ならぶっきょう @@@LINK=奈良仏教 奈良仏教

奈良仏教
ならぶっきょう

奈良時代の鎮護国家のための仏教
聖武天皇は,政治の行きづまりを打開するために仏教を利用しようとし,国分寺・東大寺創建。奈良の都が仏教の中心地となり,東大寺・興福寺・薬師寺大安寺唐招提寺などの寺が建てられた。これらの寺では国家の安泰を祈禱し,仏教の学問研究が盛んで,学団が組織され,南都六宗が成立し,経論があちこちの写経所で写された。教義は,仏性のあるものと,ないものとに区別し,無仏性のものは救済の対象外に置かれた。行基・鑑真のような高僧も現れたが,後期になると道鏡のように政治に関係する僧も現れ,政教混同の弊害もおこった。
奈良麻呂の変
ならまろのへん @@@LINK=奈良麻呂の変 奈良麻呂の変

奈良麻呂の変
ならまろのへん

橘奈良麻呂の変
奈良屋茂左衛門
ならやもざえもん @@@LINK=奈良屋茂左衛門 奈良屋茂左衛門

奈良屋茂左衛門
ならやもざえもん

江戸時代の豪商。代々,茂左衛門を襲名した
〔4代目(?〜1714)〕 江戸深川の材木商。日光東照宮社殿修理などで巨利を得,1代で急成長した。〔5代目(1695〜1725)〕 通称奈良茂。40万両に及ぶ初代の遺産で豪遊,紀文(紀国屋文左衛門)と並び称された。江戸町人気質の代表的人物
成金
なりきん @@@LINK=成金 成金

成金
なりきん

第一次世界大戦中の好況で,投資によってにわかに富を蓄えた者
会社合計資本高は1914年に2.5億円であったが,大戦景気で '17年15億円,'19年60億円に急増し,空前の投機熱がおこり,成金が続出した。特に船舶不足から海運業が繁栄し,数多くの船成金が誕生した。多くは戦後恐慌で没落した。
成安道頓
なりやすどうとん @@@LINK=成安道頓 成安道頓

成安道頓
なりやすどうとん

1533〜1615
安土桃山時代の土木建築家
俗に安井道頓ともいう。河内(大阪府)の人。豊臣秀吉に仕え,大坂城築城従事。1612年大坂旧梅津川の川すじを広げようとして工事に着手したが,大坂夏ので戦死した。のち一族の手で工事は続行され,完成した。道頓堀と呼ばれている。従来,道頓は安井氏と考えられていたが,成安氏の誤まりと判明
成良親王
なりよししんのう @@@LINK=成良親王 成良親王

成良親王
なりよししんのう

1326〜44
南北朝時代の皇族
後醍醐 (ごだいご) 天皇の皇子。建武の新政のとき,足利直義 (ただよし) に奉ぜられて鎌倉へ下る。1335年中先代の乱で,直義とともに敗れて西走し帰京。光明天皇の皇太子となったが,後醍醐天皇が吉野に南朝を立てたので廃された。

成島柳北
なるしまりゅうほく @@@LINK=成島柳北 成島柳北

成島柳北
なるしまりゅうほく

1837〜84
幕末・明治前期の新聞記者・漢詩人
本名惟弘 (これひろ) 。将軍家代々の侍講の家に生まれ,儒学・洋学に通じ,将軍家定・家茂に経学を講じた。1865年より外国奉行・会計院副総裁などを歴任。1872年外遊し,1874年以降は『朝野新聞』社長として,藩閥政府攻撃の論陣を張り,また文明開化を風刺した『柳橋新誌』を著し文名をはせた。

成瀬仁蔵
なるせじんぞう @@@LINK=成瀬仁蔵 成瀬仁蔵

成瀬仁蔵
なるせじんぞう

1858〜1919
明治・大正時代の教育家
周防(山口県)の生まれ。山口県教員養成所卒。キリスト教を信仰。1890年アメリカに留学し,'94年帰国後,1901年東京目白に日本女子大学校を創立。女子教育に一生をささげた。

鳴滝塾
なるたきじゅく @@@LINK=鳴滝塾 鳴滝塾

鳴滝塾
なるたきじゅく

江戸後期,オランダ商館医シーボルトが長崎郊外の鳴滝に開いた診療所兼私塾
1824年長崎奉行の許可を得て,診療とともに医学および自然学一般を教授。近代科学の理論と方法の直接指導という点で効果が大きく,全国から集まった門人57人中から高野長英・高良斎 (こうりようさい) ・伊東玄朴らの俊秀輩出し,洋学の発展に貢献した。
名和長年
なわながとし @@@LINK=名和長年 名和長年

名和長年
なわながとし

?〜1336
南北朝時代の武将
伯耆 (ほうき) 国(鳥取県)の豪族。1333年後醍醐 (ごだいご) 天皇を隠岐より船上山 (せんじようざん) に迎えて挙兵。六波羅探題攻略に功をたて,建武新政府の記録所・武者所の寄人 (よりゆうど) ,因幡 (いなば) (鳥取県)・伯耆の守護となる。'36年,九州から入京した足利尊氏を迎え討って三条猪隈 (いのくま) で戦死した。

南画
なんが @@@LINK=南画 南画

南画
なんが

「南宗画」の略。中国絵画における北宗画とならぶ二大様式
明末に画院峻厳・枯淡な画風を北宗画というのに対して,柔軟な画風を南宗画と呼んだ。
南海道
なんかいどう @@@LINK=南海道 南海道

南海道
なんかいどう

律令制における五畿七道の一つ
現在の和歌山県・淡路島と四国全土をいう。紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の6カ国。
南海路
なんかいろ @@@LINK=南海路 南海路

南海路
なんかいろ

江戸時代江戸大坂間の定期航路
江戸開府・参勤交代の制などで一大消費地化した江戸は,周辺地域の産業未発達で,上方からの物資供給に依存したため,この航路が顕著な発達をとげ,菱垣廻船樽廻船などの定期船が就航した。
南学派
なんがくは @@@LINK=南学派 南学派

南学派
なんがくは

海南学派
南紀派
なんきは @@@LINK=南紀派 南紀派

南紀派
なんきは

幕末将軍継嗣問題のとき,紀伊藩主の徳川慶福 (よしとみ) (家茂 (いえもち) )を推し,一橋派に対抗した一派
紀伊派・紀州派ともいう。継嗣の決定にあたっては血統尊重を主張し,譜代大名幕政を担当するという立場をとった。その中心は井伊直弼 (なおすけ) で,その大老就任によって強硬策を展開した。
南極観測
なんきょくかんそく @@@LINK=南極観測 南極観測

南極観測
なんきょくかんそく

南極における国際共同観測
国際地球観測年の事業の一環として行われ,日本も参加し,1957年昭和基地・みずほ基地をつくった。'63〜64年と中断したが,再開された。越冬しての観測が行われている。
南京虐殺事件
ナンキンぎゃくさつじけん @@@LINK=南京虐殺事件 南京虐殺事件

南京虐殺事件
ナンキンぎゃくさつじけん

1937年,日中戦争で日本軍が南京を占領する際引き起こした略奪暴行事件
南京事件ともいう。1937年12月から翌年2月初めまで,中国国民政府の首都南京を,柳川平助中将の第10軍と松井石根大将の上海派遣軍とが占領する際に大規模な捕虜虐殺,放火,略奪,婦女暴行が行われた。この事件は日本国内では知らされず,戦後極東国際軍事裁判で明らかにされた。被害者の実数は数万人から40数万人まで諸説ある。
南京事件
ナンキンじけん @@@LINK=南京事件 南京事件

南京事件
ナンキンじけん

1927年,北伐軍が南京に入り,列国領事館を襲撃した事件
中国革命の途上,北伐軍が南京に入り,列国の領事館を襲撃したため,イギリス・アメリカ軍艦が発砲,日本陸戦隊が南京に上陸して北伐軍と衝突した。
南京政府
ナンキンせいふ @@@LINK=南京政府 南京政府

南京政府
ナンキンせいふ

1940年,汪兆銘 (おうちようめい) が日本と結び中国南京に樹立した政権
汪政権あるいは新国民政府ともいう。1940年3月南京に各地の日本の傀儡政権を統合して成立させた汪兆銘の政権。同年11月日華基本条約を結んで承認し,重慶拠点に抗日戦を展開する中国国民政府と対峙させた。
南家
なんけ @@@LINK=南家 南家

南家
なんけ

藤原四家の一つ
藤原不比等の長男武智麻呂が祖。武智麻呂の2男仲麻呂は孝謙天皇のをうけ,全盛を誇ったが,764年道鏡の排斥に失敗して敗死。その後,家運が傾き,平安時代に入ると北家に抑えられた。
南条文雄
なんじょうぶんゆう @@@LINK=南条文雄 南条文雄

南条文雄
なんじょうぶんゆう

1849〜1927
明治・大正時代の仏教学者
美濃(岐阜県)の生まれ。真宗東本願寺派僧侶。維新時は大垣藩僧兵隊に選抜され,1876年イギリスへ留学。オクスフォード大学で梵語を修め,帰国後東大講師・大谷大学長などを歴任した。仏典研究の先駆者著書に『梵学講義』など。

南進政策
なんしんせいさく @@@LINK=南進政策 南進政策

南進政策
なんしんせいさく

日本の勢力を東南アジアへ拡大しようとする海軍主導の政策で,満州華北をめざす陸軍主導の北進政策に対していう
長い間北進が日本の基本的政略であったが,日中戦争の停滞や第二次世界大戦の開始を機に,南方の石油・ゴム・ボーキサイトなどの戦略物資獲得と,作戦基地の確保との観点から,大東亜共栄圏構想・仏印進駐・日ソ中立条約など,南進論が強まった。1941年の帝国国策遂行要領で決定的となり,太平洋戦争に突入した。
南禅寺
なんぜんじ @@@LINK=南禅寺 南禅寺

南禅寺
なんぜんじ

京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の本山
鎌倉末期に亀山天皇が創建,無関普門 (むかんふもん) が開創。1334年五山第1位となり,'86年には京都五山・鎌倉五山の上に置かれ禅宗最高の寺格を与えられた。火災のため一時衰えたが,江戸初期に金地院崇伝らによって再興された。
南総里見八犬伝
なんそうさとみはっけんでん @@@LINK=南総里見八犬伝 南総里見八犬伝

南総里見八犬伝
なんそうさとみはっけんでん

江戸後期,滝沢馬琴の読本 (よみほん)
1814〜42年刊。98巻106冊。安房 (あわ) (千葉県)の名家里見氏が猛犬八房 (やつふさ) と伏姫から生まれた英傑八犬士の力で再興するという伝奇長編小説。勧善懲悪をテーマに,中国の『水滸伝 (すいこでん) 』『三国志』を参考にし,27年も要して完成した馬琴晩年の力作
難太平記
なんたいへいき @@@LINK=難太平記 難太平記

難太平記
なんたいへいき

室町前期,今川了俊(貞世)の著した史書
1402年成立。1巻。23条。今川氏の家系・歴史を記したもので,南北朝内乱期に九州平定に努力しながらも報いられなかった了俊の立場から,『太平記』の誤りを訂正。書名はそのことに由来する。足利尊氏の挙兵以来の今川氏の功績を述べるなど,子孫のために残した家訓一種とも思われる。
南朝
なんちょう @@@LINK=南朝 南朝

南朝
なんちょう

南北朝時代,吉野を中心に畿南地方にあった大覚寺統の朝廷
吉野朝ともいう。1336年足利尊氏が入京し持明院統の光明天皇を擁立すると,後醍醐 (ごだいご) 天皇は神器を奉じて吉野にのがれ,以来後村上・長慶天皇を経て '92年後亀山天皇の南北朝合体(北朝の後小松天皇に譲位)まで,吉野・賀名生 (あのう) ・住吉などにあって,京都の北朝に対抗した。
南都七大寺
なんとしちだいじ @@@LINK=南都七大寺 南都七大寺

南都七大寺
なんとしちだいじ

古代以来,奈良とその付近にあり,南都六宗の中心となった七寺の総称
東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺をいう。法隆寺を除き,唐招提寺を入れることもある。
南都北嶺
なんとほくれい @@@LINK=南都北嶺 南都北嶺

南都北嶺
なんとほくれい

興福寺と比叡山延暦寺の総称
平安後期に両寺の僧兵が朝廷にしばしば強訴した。鎌倉時代浄土宗をはじめとする新仏教が成立すると,両寺の僧は旧仏教の擁護につとめ,新仏教を弾圧した。新仏教が民衆を救う宗教的実践を重んじたのに対して,南都北嶺の僧は朝廷の保護を得て,仏教の学問的研究を重んじた。
南都六宗
なんとろくしゅう @@@LINK=南都六宗 南都六宗

南都六宗
なんとろくしゅう

奈良時代,奈良の都におこった仏教の六つの学派
「なんとりくしゅう」とも読む。三論・成実 (じようじつ) ・法相 (ほつそう) ・倶舎 (ぐしや) ・華厳 (けごん) ・律の6宗をいう。「宗」ははじめ「衆」とも書いたように,仏教の哲学的研究の団体であり,後世の宗派と違い,一つの寺院の中にいくつもの衆(宗)があった。興福寺は法相に,東大寺は華厳に,唐招提寺は律に重きを置いた。
難波大助
なんばだいすけ @@@LINK=難波大助 難波大助

難波大助
なんばだいすけ

1898〜1924
大正時代の無政府主義者
山口県の生まれ。1923年虎の門事件をおこし,翌'24年死刑となる。
南蛮寺
なんばんじ @@@LINK=南蛮寺 南蛮寺

南蛮寺
なんばんじ

キリシタンの教会堂の俗称
切支丹寺ともいう。1551年山口に建立された大道寺が最初。オルガンチノが設計し '75年から3年がかりで完成した京都の南蛮寺は有名で,和洋折衷の木造三階建。キリシタンの波及とともに各地に建てられ,'81年には全国で200か所にものぼったが,民家仏寺を転用したものが多い。
南蛮人
なんばんじん @@@LINK=南蛮人 南蛮人

南蛮人
なんばんじん

室町時代以降,日本に渡来したポルトガル人などヨーロッパ人の呼称
元来,四夷思想(東夷・西戎 (せいじゆう) ・南蛮・北狄 (ほくてき) )により周辺の異民族を野蛮視した中国人が南方の野蛮人を呼んだ呼称。日本では,室町末期からシャム・ルソン・ジャワなど南方貿易が始まると,南方を経由して来航したポルトガル人・スペイン人・イタリア人などを呼ぶようになった。
南蛮船
なんばんせん @@@LINK=南蛮船 南蛮船

南蛮船
なんばんせん

南方から来た船
ふつう16世紀中ごろから鎖国までの間,南蛮貿易のために来日したポルトガル・スペインの船をいう。1575年ころまでは「ナウ」と称する大型船(500〜1000トンくらい)。その後300〜450トンの小型船となり,さらに1618年以後は小型の「ガレウタ」が使われた。南蛮屛風画題となる。
南蛮屛風
なんばんびょうぶ @@@LINK=南蛮屛風 南蛮屛風

南蛮屛風
なんばんびょうぶ

安土桃山〜江戸時代初期,南蛮人やその風俗などを描いた屛風
画材は,(1)キリシタン教会堂,(2)使節行列,(3)南蛮船,(4)貿易の状況などが多い。狩野派画家によって,岩絵具鉱物から製する顔料)で描かれ,金箔を押した豪華な濃絵 (だみえ) 。主として近畿廻船問屋や仏教寺院に保存され,神戸市立南蛮美術館に多く収蔵する。
南蛮文化
なんばんぶんか @@@LINK=南蛮文化 南蛮文化

南蛮文化
なんばんぶんか

16世紀中期以後の約100年間に,キリシタン宣教師・貿易商によって伝えられた西洋文化
南ヨーロッパ(ポルトガル・スペイン・イタリア)の宗教文化。精神文化ではキリスト教が伝来し,日本人は未知の唯一神信仰や一夫一婦制の道徳に接した。イエズス会はキリシタン版の刊行,医学・天文暦学・芸術などの移植につとめた。物質文化では鉄砲をはじめ造船航海測量鉱山の諸技術が伝来し,生活・風俗への影響も大きかった。
南蛮貿易
なんばんぼうえき @@@LINK=南蛮貿易 南蛮貿易

南蛮貿易
なんばんぼうえき

16世紀中期から鎖国までの約100年間行われた南蛮人(ポルトガル人・スペイン人)との貿易
ポルトガルが中心で,1543年から来航,マカオを根拠地として日本と中国・南方との中継貿易を行う。スペインは '84年から来航,マニラを根拠地とした。貿易とキリスト教布教の一体化が特色で,九州の諸大名は富強を目的として南蛮船を歓迎,貿易港として平戸・長崎・豊後府内(大分)が栄えた。輸入品は中国産の生糸・絹織物が主で,ほかに鉄砲・火薬・鹿皮・鉄・など。輸出品は銀・刀剣・漆器・海産物など。
南部氏
なんぶし @@@LINK=南部氏 南部氏

南部氏
なんぶし

中世〜近世,奥州の大名
甲斐源氏の出。光行は源頼朝の奥州征討に功をたて,八戸に住み南部氏を称す。以後室町時代を通じ勢力を保つ。信直 (のぶなお) は豊臣秀吉に従い10万石を領し,子利直は盛岡城を築き,関ケ原の戦いで徳川方に属し,のち20万石を領有。戊辰 (ぼしん) 戦争(1868〜69)で奥羽越列藩同盟に加わり13万石に減封されたが,明治維新後伯爵となった。
南部塗
なんぶぬり @@@LINK=南部塗 南部塗

南部塗
なんぶぬり

東北地方の南部領(岩手県地方)で生産された漆器
椀 (わん) 類を主とし,内部を朱塗,外部を黒漆塗にし,外部に赤・黄・緑などの色漆で草花などの絵をかき,金箔を押したもの。南部椀・秀衡 (ひでひら) 椀などといわれる。
南部仏印進駐
なんぶふついんしんちゅう @@@LINK=南部仏印進駐 南部仏印進駐

南部仏印進駐
なんぶふついんしんちゅう

1941年7月,日本軍によって行われた南部フランス領インドシナ占領
大東亜共栄圏の自給自足ブロック建設をめざし,まず1940年9月,第2次近衛文麿内閣は北部仏印に進駐した。さらに日独伊三国同盟日ソ中立条約によって,南北両面作戦を南進政策に統一した上,'41年7月,第3次近衛内閣は南部仏印に進駐。アメリカと全面的に対立するに至った。
南北朝時代
なんぼくちょうじだい @@@LINK=南北朝時代 南北朝時代

南北朝時代
なんぼくちょうじだい

1336年足利尊氏が建武政権に反し,持明院統の光明天皇を擁立してから'92年足利義満のときの南北朝合体までの時代
後醍醐 (ごだいご) 天皇が吉野に移って開いた南朝(後醍醐・後村上・長慶・後亀山の4代)と,尊氏が擁立した北朝(光明・崇光・後光厳・後円融・後小松の5代)の両統が57年間対立した。前期の10余年は北朝方がもっぱら南朝を攻撃し,中期の10余年は幕府の内紛(観応の擾乱)を利用して南朝が活躍,後期30年間は3代将軍義満による幕府権力の確立した時期。この間荘園制の崩壊による貴族・寺社の没落,郷村制の発達,守護領国制の形成などがあり,社会経済史上注目すべき時代であった。
南北朝正閏問題
なんぼくちょうせいじゅんもんだい @@@LINK=南北朝正閏問題 南北朝正閏問題

南北朝正閏問題
なんぼくちょうせいじゅんもんだい

南朝と北朝とのいずれが正統であるかという論争
江戸時代から南朝正統論は『大日本史』などによって唱えられた。明治時代になると南朝・北朝正統論,両朝対立論などがでて,国定教科書も南北朝対立の扱いをした。それを1911年国会で問題化。翌年文部省は南朝正統論により教科書を改訂した。
南北朝の合体
なんぼくちょうのがったい @@@LINK=南北朝の合体 南北朝の合体

南北朝の合体
なんぼくちょうのがったい

室町前期の1392年,南朝・北朝両朝廷の統一をいう
3代将軍足利義満が南朝側に合体を申し入れるまでに数度の交渉が行われたがまとまらず,1392年南朝の後亀山天皇が京都に帰り,譲位の形式で北朝の後小松天皇に神器を授け,半世紀に及ぶ南北朝の対立は終わった。合体の条件は両統迭立 (てつりつ) するということであったが実行されず,以後持明院統(北朝)が皇位を継承した。
南浦文之
なんぽぶんし @@@LINK=南浦文之 南浦文之

南浦文之
なんぽぶんし

1555〜1620
安土桃山〜江戸時代初期の禅僧
文之玄昌 (ぶんしげんしょう) ともいう。日向(宮崎県)の人。禅宗・朱子学を学び,薩摩(鹿児島県)の島津義弘に招かれ儒書を講じた。薩南学派に属した。また海外貿易のための外交文書の作成にあたった。著書に『南浦文集』『鉄炮記』など。
南洋群島
なんようぐんとう @@@LINK=南洋群島 南洋群島

南洋群島
なんようぐんとう

第一次世界大戦後,日本の委任統治領となった赤道以北に散在するマリアナ・パラオ・カロリン・マーシャルの諸群島
第一次世界大戦で日本がドイツより占領。1919年ヴェルサイユ条約で国際連盟から日本の委任統治領となり,南洋庁を設置,さらに南洋拓殖会社を設置して産業開発を行う。その後アメリカに対する軍事拠点として重視されたが,第二次世界大戦後,'47年国際連合の決議によりアメリカの信託統治領となった。現在では北マリアナ連邦マーシャル諸島共和国ミクロネシア連邦,パラオ共和国として独立している。
新潟
にいがた @@@LINK=新潟 新潟

新潟
にいがた

新潟県中央部,信濃川河口にある県庁所在地。近世,日本海岸の港町として発展した
647年渟足 (ぬたり) が置かれたころに始まり,戦国時代上杉謙信が港を築き新潟と呼んだ。1616年以来長岡藩が支配し,江戸廻米の寄港地として繁栄。1843年天領となり,新潟奉行が置かれた。'59年安政の五カ国条約により開港予定地となり,'68年開港。'89年市制施行。日本海沿岸最大の都市となる。
新島襄
にいじまじょう @@@LINK=新島襄 新島襄

新島襄
にいじまじょう

1843〜90
明治前期の宗教家・教育家
上野 (こうずけ) (群馬県)安中藩出身。幕末に脱藩し,箱館から密航し渡米。アマースト大学で理学,アンドバー神学校で神学を修め,1874年宣教師として帰国した。翌 '75年キリスト教主義の同志社(英学校)を設立。官学功利・主知主義に対し,在野的なキリスト教的自由主義教育を目ざし,門下から徳富蘇峰・安部磯雄らを輩出した。

二・一ゼネスト
に・いちゼネスト @@@LINK=二・一ゼネスト 二・一ゼネスト

二・一ゼネスト
に・いちゼネスト

1947年,不発に終わった戦後最大のストライキ
敗戦後の激しいインフレによる労働者の不満を背景とし,ベースアップを要求する国鉄全逓など官公庁系労組は全日本産業別労働組合会議(産別会議)・日本労働組合総同盟総同盟)と全国労働組合共同闘争委員会(30組合,600万人)を結成吉田茂内閣打倒を要求して,2月1日ゼネスト決行を宣言したが,1月31日のマッカーサーの中止命令で挫折,労働運動も一時衰退した。アメリカの対日対策もこのころから転換し始めた。
新嘗祭
にいなめさい @@@LINK=新嘗祭 新嘗祭

新嘗祭
にいなめさい

稲の収穫を祝い,神に感謝し,来たるべき年の豊穣を祈願する儀式
「しんじょうさい」とも読む。天皇がその年の新穀を神に供えて,みずからも食するもので,11月の下の卯の日に宮中で行われた。もと大嘗祭 (だいじようさい) と区別がつかなかったが,奈良時代,宮中の儀式となるに及んで区別された。明治時代に11月23日に固定し,戦後は勤労感謝の日となった。
二階堂氏
にかいどうし @@@LINK=二階堂氏 二階堂氏

二階堂氏
にかいどうし

鎌倉・室町両幕府に仕え,行政面で活躍した家
藤原南家の一流。行政が源頼朝に仕え1184年公文所寄人 (よりゆうど) ・政所 (まんどころ) 次官)となり,鎌倉二階堂に住み二階堂氏を称した。子行光より代々政所執事(次官相当官)を世襲し,また引付衆にもなった。建武の新政には雑訴決断所に出仕し,一族の中原章賢・真恵兄弟は足利尊氏に建武式目を答申した。室町初期,幕府の政所執事(長官)となったが,のち伊勢氏に代わった。
二科会
にかかい @@@LINK=二科会 二科会

二科会
にかかい

大正・昭和期の洋画を中心とする在野美術団体
文展洋画部に一科(旧派)・二科(新派)の分設を要求して拒否された有島生馬 (いくま) ・石井柏亭らが,1914年に独立の在野団体を組織。公募展を開き当時の革新的傾向を結集した。'30年独立美術協会,'36年一水会が分離し,戦時下の圧迫で '44年解散。第二次世界大戦後,'45年東郷青児らが再建し現在に至る。
二官八省
にかんはっしょう @@@LINK=二官八省 二官八省

二官八省
にかんはっしょう

律令制における中央行政組織
二官とは神祇官 (じんぎかん) と太政官 (だいじようかん) 。八省は太政官所属の左弁官の中務 (なかつかさ) ・式部・治部・民部の4省と,右弁官の兵部 (ひようぶ) ・刑部 (ぎようぶ) ・大蔵宮内の4省をいう。八省は各政務を分担し,省の下に職 (しき) ・寮・司が所属した。
握槌
にぎりづち
hand axe @@@LINK=握槌 握槌

握槌
にぎりづち
hand axe

旧石器時代石器
たたく・割る・切る・削るなど万能の敲打 (こうだ) 器。三角形の石で,握るかをつけて使用した。
ニクソン‐ショック @@@LINK=ニクソンショック ニクソンショック

ニクソン‐ショック

アメリカ大統領ニクソンの行った2つの衝撃的な政策
1971年7月の,それまで封じ込め政策をとっていた中華人民共和国への訪中計画,および同年8月の金・ドル交換停止を含む新経済政策の発表のこと。
尼港事件
にこうじけん @@@LINK=尼港事件 尼港事件

尼港事件
にこうじけん

1920(大正9)年,シベリア出兵中,日本軍とソ連パルチザンとの間におこった紛争
ニコライエフスク事件ともいう。シベリア出兵でニコライエフスク(尼港)を占領していた日本軍はパルチザン(非正規軍)に包囲されていったん降伏し,奇襲反撃に出たが再び敗れ,日本人居留民・将兵ら推定700余人が殺害され,122名が捕虜となった。その後日本援軍の侵攻を聞いたパルチザンは市中を焼き払い捕虜全員を殺害して撤退した。日本は,賠償を要求し北樺太 (からふと) を占領したが,1925年日ソ国交回復とともに撤兵した。
2個師団増設問題
にこしだんぞうせつもんだい @@@LINK=2個師団増設問題 2個師団増設問題

2個師団増設問題
にこしだんぞうせつもんだい

1912年,第2次西園寺公望 (きんもち) 内閣倒閣の原因となった,陸軍軍備拡張をめぐる政治問題
1910年の韓国併合後,陸軍は朝鮮防衛の名目で2個師団増設を要求していたが,'12年西園寺内閣に拒否されると陸相上原勇作は帷幄 (いあく) 上奏単独辞職し,陸軍は後任陸相を出さなかったので内閣は倒れた。
にごりえ

にごりえ

明治中期,樋口一葉の短編小説
1895年『文芸倶楽部』に発表。銘酒 (めいしゆ) 屋の酌婦お力と,落ちぶれた昔なじみの男源七とが最後に情死する。人情機微を精細に描く。
西周
にしあまね @@@LINK=西周 西周

西周
にしあまね

1829〜97
明治時代の啓蒙思想家
石見(島根県)津和野藩医の家に生まれる。蘭学を修め,蕃書調所に出仕。1862年津田真道らとオランダに留学,法学・哲学・経済学を研究し,帰国後,開成所の教授となる。'70年明治新政府の兵部省に入り,以後陸軍省,文部省,宮内省などの官僚を歴任。軍人勅諭を起草し軍人精神の確立に貢献。他方,明六社にも参加し,西洋哲学の紹介につとめた。

西川光二郎
にしかわこうじろう @@@LINK=西川光二郎 西川光二郎

西川光二郎
にしかわこうじろう

1876〜1940
明治時代の社会主義者
名は「みつじろう」ともいう。兵庫県の生まれ。キリスト教に入信し,札幌農学校・東京専門学校で学ぶ。1901年社会民主党の結成に参加。'03年平民社に入り,『平民新聞』の編集にあたった。幸徳秋水の直接行動論に反対,大逆事件をとして転向した。
西川如見
にしかわじょけん @@@LINK=西川如見 西川如見

西川如見
にしかわじょけん

1648〜1724
江戸前・中期の天文・地理学者
長崎の生糸鑑定の地役人の家に生まれ,通事(詞)のかたわら儒学・暦数天文を学んだ。地理・経済にも長じ,儒教的自然観に基づきながら,実証主義的立場を展開した。『町人囊 (ぶくろ) 』『百姓囊』は町人・百姓の心得や教訓随筆にまとめたもの。また『華夷通商考』によって鎖国後の海外の事情を最も早く紹介した。
西川祐信
にしかわすけのぶ @@@LINK=西川祐信 西川祐信

西川祐信
にしかわすけのぶ

1671〜1750
江戸中期の浮世絵師
京都の人。狩野派・土佐派を学び,さらに菱川師宣 (もろのぶ) の画風をとり入れて美人画に長じ,京坂浮世絵界の第一人者となった。代表作に『役者口三味線』『絵本浅香山』など。

錦絵
にしきえ @@@LINK=錦絵 錦絵

錦絵
にしきえ

多色摺 (ずり) の浮世絵版画
初め丹絵 (たんえ) という墨摺に筆彩色した色彩版画が現れ(元禄〜正徳ころ),色を多くした紅絵に進んだが,その後紅摺絵という色摺版画が考案された。明和(1764〜72)のころ錦絵という華麗な多色摺が完成し,浮世絵に画期を与えた。鈴木春信は錦絵の効果を利用して他の追随を許さない独特の版画を描いた。
錦織部
にしごりべ @@@LINK=錦織部 錦織部

錦織部
にしごりべ

古代,品部 (ともべ) の一つ
錦の織物などの生産にあたった。
西陣
にしじん @@@LINK=西陣 西陣

西陣
にしじん

京都市北西部,上京・北両区にわたる一帯で,西陣織の産地
平安時代以来の機業地。応仁の乱(1467〜77)で一時四散し,乱後西軍陣地あと(西陣)に復興。以来高級絹織物業地として全国に知られたが,零細・家内工業的経営が多い。
西陣織
にしじんおり @@@LINK=西陣織 西陣織

西陣織
にしじんおり

京都市西陣で産出される高級絹織物
平安京に織部司 (おりべのつかさ) があり,鎌倉初期にその織手が大舎人 (おおとねり) 座を組織。応仁の乱(1467〜77)で京都を逃れていた織手が,西陣の地に戻って生産を再開し,現在に至る。明の織法をとり入れ,繻子 (しゆす) ・金襴・緞子 (どんす) などの高級織物をつくる。
西田幾多郎
にしだきたろう @@@LINK=西田幾多郎 西田幾多郎

西田幾多郎
にしだきたろう

1870〜1945
明治〜昭和期の哲学者
石川県の生まれ。東大卒。中学校教諭を経て,旧制四高(現金沢大学)・学習院教授などを歴任,1913年京大教授となる。もっぱら坐禅・読書・思索に没頭し,処女作『善の研究』(1911)で,根本思想を確立。ドイツ観念論の影響のうえに東洋的色彩の濃い観念論哲学である西田哲学をつくり上げた。1940年文化勲章を受章。

仁科芳雄
にしなよしお @@@LINK=仁科芳雄 仁科芳雄

仁科芳雄
にしなよしお

1890〜1951
大正・昭和期の物理学者
岡山県の生まれ。東大卒。東大大学院で長岡半太郎に学び,その後渡欧し,コペンハーゲン大学のボーア教授に学ぶ。理化学研究所員(のち所長)として仁科研究室を主宰。量子力学・原子核・宇宙線などの研究に従事し,これらの分野の開拓者となる。1946年文化勲章受章。

西市
にしのいち @@@LINK=西市 西市

西市
にしのいち

古代東市とともに置かれた官営市場。
西原借款
にしはらしゃっかん @@@LINK=西原借款 西原借款

西原借款
にしはらしゃっかん

1917〜18(大正6〜7)年にかけて,寺内正毅内閣が,中国の段祺瑞 (だんきずい) 政権に対して与えた借款
中国の反革命勢力を援助することで日本の優位を確立しようとして,民間人西原亀三を仲介として実施。交通銀行・鉄道・参戦借款など総額1億4500万円を,興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行から無担保で貸し付け,その大半は回収不能。この借款は,中国の混乱を助長するものとして内外の強い非難をあびた。
西本願寺
にしほんがんじ @@@LINK=西本願寺 西本願寺

西本願寺
にしほんがんじ

京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の本山
1591年,11世顕如 (けんによ) の次子准如 (じゆんによ) が豊臣秀吉の援助により再興。のち教如(顕如の長子)の東本願寺と真宗を二分し,現在に至る。大書院・唐門・飛雲閣は桃山建築の代表的遺構として名高い。
西廻り航路
にしまわりこうろ @@@LINK=西廻り航路 西廻り航路

西廻り航路
にしまわりこうろ

江戸時代,日本海沿岸から西に進み,下関瀬戸内海を経て大坂に至る航路
寛文年間(1661〜73)加賀藩が下関経由で大坂へ廻米したのに始まり,1671年河村瑞賢が出羽最上地方の幕府米を西廻りで廻送するため西廻り航路を整備してから発達した。北前船就航。これにより従来の敦賀〜小浜琵琶湖大津〜京都を通る廻米は衰退。日本の沿岸航路が完成し,大坂・京都・江戸の三都を中心とする全国市場の成立を可能にした。この経済社会の発展を基盤に,上方中心の元禄文化が興隆した。
西村茂樹
にしむらしげき @@@LINK=西村茂樹 西村茂樹

西村茂樹
にしむらしげき

1828〜1902
明治時代の教育家・道徳思想家
下総(千葉県)佐倉藩出身。儒学・蘭学を修め,明治新政府では文部省に出仕し,また明六社創立にも参加。1876年東京修身学社を設立し,'87年日本弘道会に拡大させた。『日本道徳論』を刊行,皇室中心の国民道徳を提唱し,国粋主義先駆をなした。

西山宗因
にしやまそういん @@@LINK=西山宗因 西山宗因

西山宗因
にしやまそういん

1605〜82
江戸前期の連歌・俳諧師談林派の始祖
名は豊一 (とよかず) 。号は西翁・梅翁。もと肥後(熊本県)八代 (やつしろ) 藩士。16歳のころから京にのぼり連歌を学んだ。主家没落後上京し,里村昌琢 (しようたく) らに師事し修業に励み,のち宗匠(師匠)となった。晩年は古風な貞門派を排して,自由・軽妙・清新な談林派俳諧をおこした。その句風は著書『宗因千句』『談林(西翁)十百韻 (とつぴやくいん) 』などで知ることができる。

二十一カ条の要求
にじゅういっかじょうのようきゅう @@@LINK=二十一カ条の要求 二十一カ条の要求

二十一カ条の要求
にじゅういっかじょうのようきゅう

第一次世界大戦中の1915年,日本政府(第2次大隈重信内閣)が中国袁世凱 (えんせいがい) 政府に提出した要求
大戦が始まると日本は日英同盟名目のもとに参戦したが,それはイギリスの参戦要請の範囲をこえ中国の中立を侵犯するものであった。中国は占領地からの日本軍の撤退を要求したが,日本は逆に5号 二十一カ条からなる要求をつきつけた。その内容は,(1)山東省のドイツの権益の処分。竜口と膠済間の鉄道敷設権の日本への許与,(2)南満州・東部内蒙古に関して,旅順・大連租借期限ならびに南満・安奉両鉄道の期限の99か年延長。この地域での日本人の優位性,(3)漢冶萍 (かんやひよう) 公司の日華合弁,(4)中国沿岸各地の他国への譲与または貸与の禁止,(5)日本人の軍人顧問の設置,警察の日華合同,兵器廠の設立,武昌・九江など5鉄道の敷設権などを要求した。これはたちまち国際問題化し中国国内では反日排日の運動がおこった。日本政府は最後通牒を発して(5)号をのぞき一部修正し5月9日これを受諾させた。中国人民はこの日を「国恥記念日」とし排日運動を激化させた。
二十四組問屋
にじゅうよくみどいや @@@LINK=二十四組問屋 二十四組問屋

二十四組問屋
にじゅうよくみどいや

江戸時代,大坂における江戸積問屋の組合
17世紀末に江戸の十組問屋とほぼ同じころ結成。最初10組,のち増加し24組となり,1784年に株仲間として公認された。大坂から江戸への積荷を独占し,菱垣廻船で輸送。江戸十組問屋との間に積荷の種類や船荷損失の負担を協定した。1841年天保の改革で解散させられたが,'51年再興し幕末に至った。
二十六聖人殉教
にじゅうろくせいじんじゅんきょう @@@LINK=二十六聖人殉教 二十六聖人殉教

二十六聖人殉教
にじゅうろくせいじんじゅんきょう

安土桃山時代,日本最初のキリシタンの殉教
1587年の豊臣秀吉のバテレン追放令後もフランシスコ派は積極的な布教活動を続けていたが,'96年サン‐フェリペ号事件がおこり近畿地方のフランシスコ派宣教師・日本人信徒ら26人が捕らえられ,洛中引き回しのうえ長崎に送られ,翌'97年処刑された。1862年彼らは,ローマ教皇により全員聖人に列せられた。現在その遺跡地に記念碑が建っている。
二条河原落書
にじょうがわらのらくしょ @@@LINK=二条河原落書 二条河原落書

二条河原落書
にじょうがわらのらくしょ

1334(建武元)年8月,京都二条河原に立てられた落書
建武の新政当時の混乱した世相を鋭く風刺し,新政を批判している。『建武年間記』におさめられ,「此比都ニハヤル物夜討強盗謀綸旨 (にせりんじ) ……」に始まり,成り上り武士の見苦しいありさま,公武寄合政権の無方針,論功行賞の不当など,当時の政治と世相を知る貴重な史料である。作者は不明。
二条家
にじょうけ @@@LINK=二条家 二条家

二条家
にじょうけ

①中世〜近世,五摂家の一つ
②鎌倉時代以来の歌学の家
鎌倉中期,九条道家の子良実 (よしざね) が,二条京極に住み二条と称して九条家から分立。良実は関白となり,以後交互に摂関に任ぜられた。この流では二条良基が有名。
藤原定家の孫為氏を祖とし,冷泉・京極家と対立。伝統を重んじ,歌風は温雅平淡で,歌壇の中心をなした。
二上山
にじょうさん @@@LINK=二上山 二上山
ふたがみやま @@@LINK=二上山 二上山

二上山
にじょうさん

大阪府と奈良県との境の金剛山地北端に位置する山
「ふたがみやま」とも読む。雄岳・雌岳2峰に分かれる。雄岳の頂上には大津皇子の墓と伝えられる墓所がある。平安時代,この山の落日は,阿弥陀来迎の印象を与えたという。

二上山
ふたがみやま

にじょうさん
二条城
にじょうじょう @@@LINK=二条城 二条城

二条城
にじょうじょう

京都市中京区にある江戸初期の平城
1603年徳川家康が二条堀河に創建。'26年大整備され,大広間・白書院など大規模な書院造と狩野探幽らの大障壁画を残す。徳川慶喜 (よしのぶ) の大政奉還(1867年)もここで決定された。
二条良基
にじょうよしもと @@@LINK=二条良基 二条良基

二条良基
にじょうよしもと

1320〜88
南北朝時代の公卿・連歌作者
初め後醍醐 (ごだいご) 天皇,のち北朝に仕え,摂政・関白となる。和歌を学び,連歌をよくし,1356年師の救済 (ぐさい) とともに『菟玖波 (つくば) 集』を撰し,'72年『応安新式』を定め,『筑波問答』など多くの連歌論書を著し連歌の興隆につとめた。また和歌の奥旨を論じた『愚問賢註』や『近来風体 (ふうてい) 抄』などの歌論書もある。

似絵
にせえ @@@LINK=似絵 似絵

似絵
にせえ

平安末期〜鎌倉初期にかけて隆盛をみた写実的な大和絵肖像画
当時の偉人・宗祖崇拝の傾向がこの隆盛を生んだ。写実的・記録的要素が強く,代表的画家に『源頼朝像』『平重盛像』を描いたと伝えられる藤原隆信と子の信実らがいる。鎌倉中期,禅僧の肖像画の頂相 (ちんそう) が盛んになり,似絵は衰えた。
偐紫田舎源氏
にせむらさきいなかげんじ @@@LINK=偐紫田舎源氏 偐紫田舎源氏

偐紫田舎源氏
にせむらさきいなかげんじ

江戸後期,柳亭種彦の合巻 (ごうかん) 物
1829〜42年刊。40編。『源氏物語』の草双紙式翻案。時代を室町に移して翻案,細川・山名両氏の抗争を背景に,足利将軍家の御家騒動と重宝の紛失・探索によって筋を発展させ,趣向の複雑化を企画。しかし,天保の改革で将軍徳川家斉の生活を描出したとの疑いから絶版処分をうけた。
日印平和条約
にちいんへいわじょうやく @@@LINK=日印平和条約 日印平和条約

日印平和条約
にちいんへいわじょうやく

第二次世界大戦後,日本とインドとの間で結ばれた講和条約
1952年6月9日,東京で調印。インドはサンフランシスコ平和条約のアメリカによる沖縄の信託統治原案に不満で講和会議に参加しなかったため,単独平和条約締結。インドは賠償請求権を放棄した。
日英通商航海条約
にちえいつうしょうこうかいじょうやく @@@LINK=日英通商航海条約 日英通商航海条約

日英通商航海条約
にちえいつうしょうこうかいじょうやく

1894(明治27)年,日本とイギリスとの間に,旧条約(安政条約)を改正して結ばれた条約
駐英公使青木周蔵とイギリス外相キンバリーがロンドンで調印。内容は,(1)関税自主権の部分的回復,(2)日本内地の開放,(3)領事裁判権の撤廃などを規定。1899年から実施された。日本が法権を回復した最初の条約で,条約改正実現の第一歩となる。アメリカなどの諸国と同様の条約に調印。外相は陸奥宗光。
日英同盟
にちえいどうめい @@@LINK=日英同盟 日英同盟

日英同盟
にちえいどうめい

日本とイギリスが,1902(明治35)年以降3回にわたって結んだ同盟協約
1902年,ロシアの南下政策に対して,イギリスの中国における,日本の中国・韓国における利益擁護のための相互援助と,締約国の一方が交戦のときには他の締約国は中立を守ることなどを約した。日露戦争の推移により,'05年に改訂して,日本の韓国保護権を確認し適用範囲をインドにまで拡大した。しかし戦後の日露接近があり,むしろ対ドイツ政策として '11年の改訂でアメリカを適用範囲外とすることが確認された。第一次世界大戦に日本はこの条約を名目に参戦し,戦後,日本とイギリス・アメリカとの対立が表面化する中で,'21年ワシントン会議で調印の四カ国条約の発効により'23年破棄された。
日元貿易
にちげんぼうえき @@@LINK=日元貿易 日元貿易

日元貿易
にちげんぼうえき

中世,日本と中国の元との間に行われた貿易
私貿易が行われていたが,1267年,元の世祖からの牒状が屈辱的なものであったため鎌倉幕府返牒を出さず使者を追い帰した。その後も正式の国交は開かれず,ついに元は'74・'81年の両度に来襲した(元寇 (げんこう) )。鎌倉末期に建長寺船が,南北朝時代足利尊氏天竜寺船を元に派遣している。禅僧往来水墨画茶器などがもたらされた。
日像
にちぞう @@@LINK=日像 日像

日像
にちぞう

1269〜1342
鎌倉末期・南北朝時代の日蓮宗の僧
竜華院と号す。下総(千葉県)の人。1293年日蓮宗で初めて京都に布教し,町衆の帰依を得たが,比叡山の迫害をうけ追放された。のち許され京都に妙顕寺を建立した。

日独伊三国同盟
にちどくいさんごくどうめい @@@LINK=日独伊三国同盟 日独伊三国同盟

日独伊三国同盟
にちどくいさんごくどうめい

第二次世界大戦下,日本・ドイツ・イタリアの3国間で結ばれた同盟
1940(昭和15)年9月,ベルリンで調印。内容は,アジアおよびヨーロッパにおける3国の指導的地位の確認,大戦不参加国(ソ連を除く)からの攻撃に対する政治・経済・軍事各方面での相互援助などを約した。第三国(具体的にはアメリカ)からの攻撃に対して相互援助を協定。第2次近衛内閣が,松岡洋右 (ようすけ) 外相に交渉させて締結した。しかしこの結果,アメリカはくず鉄鉄鋼の対日輸出禁止の措置をとり,日米関係は緊迫化した。
日独伊防共協定
にちどくいぼうきょうきょうてい @@@LINK=日独伊防共協定 日独伊防共協定

日独伊防共協定
にちどくいぼうきょうきょうてい

1937年,共産勢力に対抗して結ばれた日本・ドイツ・イタリア3国間の協定
日独防共協定にイタリアを加え,英仏に対する枢軸体制強化を図った。
日独防共協定
にちどくぼうきょうきょうてい @@@LINK=日独防共協定 日独防共協定

日独防共協定
にちどくぼうきょうきょうてい

1936(昭和11)年11月,共産勢力に対抗して結ばれた日本・ドイツ両国間の協定(〜'45)
ベルリンで調印。内容は,コミンテルン活動に関する情報交換と活動家の弾圧,防衛措置の協議と協力,両国官憲の協力など。ほかにソ連を仮想敵国とする秘密協定がある。
日仏協約
にちふつきょうやく @@@LINK=日仏協約 日仏協約

日仏協約
にちふつきょうやく

1907年,日本とフランスとの間で結ばれたアジアに関する条約
清国の独立と領土保全に同意し,アジアにおける相互の地位・領土の尊重を約した。1905年の第2次日英同盟,'07年の日露協約とあいまって,アジアにおけるドイツに対する包囲網を構成する。日本側では日露戦争中の対外借款をフランスの金融市場に有利に転換することを期待した。
日米安全保障条約
にちべいあんぜんほしょうじょうやく @@@LINK=日米安全保障条約 日米安全保障条約

日米安全保障条約
にちべいあんぜんほしょうじょうやく

1951年9月8日,日本とアメリカとの間で結ばれた,アメリカ軍の日本駐留を認めた条約
サンフランシスコ平和条約調印と同日,日本全権吉田茂首相とアメリカ全権アチソンがサンフランシスコで調印。翌1952年4月発効。内容は,アメリカ軍は(1)極東の平和維持に必要なとき,(2)日本政府の要請があって日本国内の大きい内乱を鎮圧するとき,(3)日本に外部から武力攻撃のあったとき,出動できる。(4)期限はなく,(5)破棄には,アメリカの承認が必要,(6)細目は,日米行政協定で決定,という不平等・片務的なもので,その承認をめぐって社会党左右に分裂した。
日米行政協定
にちべいぎょうせいきょうてい @@@LINK=日米行政協定 日米行政協定

日米行政協定
にちべいぎょうせいきょうてい

1952年2月,日本・アメリカ両国間で結ばれた,アメリカ軍駐留に関する協定
日米安全保障条約第3条に基づき,在日アメリカ軍の配備を規律する条件を定めるため締結。全文29条。安全保障条約とともに4月28日に発効。内容は基地施設,経費分担,裁判管轄権などで,日米合同委員会を紛争処理機関として設置した。アメリカ軍人に対し治外法権を認めるなど,不平等性がある。日米新安保条約とともに,日米地位協定が調印され,日米行政協定の内容がこれに継承された。しかし,行政協定は両国政府だけの責任で締結されたのに対し,地位協定は両国議会の承認手続を経て批准書の交換が行われた。
日米交渉
にちべいこうしょう @@@LINK=日米交渉 日米交渉

日米交渉
にちべいこうしょう

1941年,太平洋戦争直前の日本とアメリカの国交調整交渉
日本軍の大陸撤退を条件に満州国の承認,日米通商関係の正常化などの交渉が駐米大使野村吉三郎とハル国務長官の間で始められた。しかし訪独の帰途日ソ中立条約を締結した松岡洋右 (ようすけ) 外相は対中国政策の全面承認を主張した。そのため第2次近衛文麿内閣は総辞職し松岡を更迭したが,日本軍の南部仏印進駐はアメリカ側を硬化させた。つぎの東条英機内閣は来栖 (くるす) 三郎を野村の補佐に送って交渉を再開したが,11月26日,ハル‐ノートが手渡され,交渉は決裂し開戦となった。
日米修好通商条約
にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく @@@LINK=日米修好通商条約 日米修好通商条約

日米修好通商条約
にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく

1858(安政5)年,江戸幕府がアメリカとの間に結んだ通商条約。安政の五カ国条約の最初
内容は,外交代表・領事の交換,神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と,開港場における外国人の居留・借地・建物購入の許可,江戸・大坂の開市,自由貿易の原則確立,関税協定,通貨の規定,領事裁判権などを含む14条からなる。関税自主権がなく,領事裁判権を与え,最恵国条款を認めるなどの不平等条約であった。幕府はついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ。これにより貿易が開始されたが,国内経済が混乱し,尊王攘夷運動が激化した。
日米新安全保障条約
にちべいしんあんぜんほしょうじょうやく @@@LINK=日米新安全保障条約 日米新安全保障条約

日米新安全保障条約
にちべいしんあんぜんほしょうじょうやく

1960年1月岸信介内閣により新しく日米間に締結され,6月23日発効した安全保障条約
全10条。正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」という。1951年に調印した旧安保条約は米駐留軍に日本防衛の義務がない片務的なもので,条約の有効期限は明示されていないという問題点をもっていた。新安保条約は日本の防衛力増強の義務をうたい,日米相互共同防衛の義務が明確にされた。また,交換公文で核兵器の持ち込みと領域外出動への基地使用は,日米両国の事前協議の対象とすることが決められた。期間は10年間とされたが,その後は現在まで自動延長されている。なお,安保条約の運用について,'97年に日米政府間で「日本有事」や「周辺事態」に対処するため「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)が合意された。最初の合意は'78年であったが,冷戦の終結によって戦略環境が変化したため,日米安保体制を「再定義」する必要が生じ,新しいガイドラインが策定された。改定された新ガイドラインでは「日本有事」に対処するために自衛隊と米軍が「共同作戦計画」を,「周辺事態」に対処するために日米両政府が「相互協力計画」の検討を平素から行うとしている。新ガイドラインでは,日米安保体制における日本の軍事分担が単に日本防衛のみならず,「周辺地域」における米軍の軍事行動に対する兵站 (へいたん) 支援,情報支援に拡大した。
日米紳士協約
にちべいしんしきょうやく @@@LINK=日米紳士協約 日米紳士協約

日米紳士協約
にちべいしんしきょうやく

1907年から翌年にかけて日米両国間でかわされた,日本人のアメリカ合衆国への移民を制限した覚書
日露戦争後,日米間に対立が生じ,アメリカで日本人移民の排斥運動がおこったことに対し,外相林董 (ただす) がアメリカ駐日大使オブライエンと対米移民の制限を約した。
日米相互防衛援助協定
にちべいそうごぼうえいえんじょきょうてい @@@LINK=日米相互防衛援助協定 日米相互防衛援助協定

日米相互防衛援助協定
にちべいそうごぼうえいえんじょきょうてい

MSA(エム・エス・エー)協定
日米通商航海条約廃棄
にちべいつうしょうこうかいじょうやくはいき @@@LINK=日米通商航海条約廃棄 日米通商航海条約廃棄

日米通商航海条約廃棄
にちべいつうしょうこうかいじょうやくはいき

アメリカが中国の国民党政府支持を明確にするため,1939年日本に日米通商航海条約廃棄を通告し,翌40年に失効したこと
日米通商航海条約とは,幕末日米修好通商条約を改正し治外法権を撤廃した条約と,小村寿太郎外相の時に関税自主権を回復した条約のことで,これらの廃棄により,日本は石油・ゴム・ボーキサイトなどの戦略物資の輸入が困難となり,南方進出でそれらを獲得しようとはかった。
日米和親条約
にちべいわしんじょうやく @@@LINK=日米和親条約 日米和親条約

日米和親条約
にちべいわしんじょうやく

1854(安政元)年,江戸幕府がアメリカとの間に結んだ条約
神奈川条約ともいう。1854年に再度来航したペリーが,武力を背景に神奈川で幕府と交渉し,調印。その内容は,下田・箱館の開港,漂流民の救助,寄港船への燃料食糧などの供給,片務的な最恵国条項,領事の日本駐在など12条からなる。貿易の規定はないが,日本開国の第一歩となり,幕府はついで同様の条約をイギリス・ロシア・オランダと締結した。
日満議定書
にちまんぎていしょ @@@LINK=日満議定書 日満議定書

日満議定書
にちまんぎていしょ

1932(昭和7)年9月,日本の満州国承認に際し,日満両国間で結ばれた協定
満州国を独立国として確認し,満州国内における日本の従来の特殊権益の尊重と,日満共同防衛のための日本軍隊の駐屯とを定めたもの。斎藤実内閣は,リットン調査団の報告以前に既成事実をつくりあげることをねらいとした。
日満支経済ブロック
にちまんしけいざいブロック @@@LINK=日満支経済ブロック 日満支経済ブロック

日満支経済ブロック
にちまんしけいざいブロック

昭和戦前期,日本・満州国中華民国を中心に経済共同体を建設しようとするプラン
満州事変(1931〜33)以来,日本の対満投資額や満州移民が急激にふえ,世界恐慌('29)後のブロック経済の構想に刺激されて,日中戦争勃発後,アジアのブロック経済建設が計画された。'40年,日満支経済建設要綱が決定され,日本植民地・占領地に戦時統制の機構整備・重要物資開発・軍需工業発展をめざしたが,プランは実現されなかった。
日明貿易
にちみんぼうえき @@@LINK=日明貿易 日明貿易

日明貿易
にちみんぼうえき

室町時代,日本ととの間で行われた勘合船による貿易
明国の倭寇禁圧要求と室町幕府の貿易の益追求が背景。1401年足利義満の朝貢使派遣で始まり,'04年より朝貢勘合船形式となる。義持のとき一時中絶('11〜31)したが,'32年義教 (よしのり) が再開,1547年に終わる。輸出品は刀剣硫黄など,輸入品は銅銭,のち生糸・絹織物など。明文化移植に貢献した。
日蘭交渉
にちらんこうしょう @@@LINK=日蘭交渉 日蘭交渉

日蘭交渉
にちらんこうしょう

1940年から翌年にかけて,日本がオランダと進めた通商交渉
戦争拡大の準備のため,石油・ゴムなどのオランダ領東インド蘭印産出戦略物資を確保する必要に迫られて交渉したが,松岡洋右 (ようすけ) 外相の大東亜共栄圏声明や日ソ中立条約により交渉は決裂。連合国側に立った蘭印は石油協定停止・対日資産凍結で日本を牽制した。
日蓮
にちれん @@@LINK=日蓮 日蓮

日蓮
にちれん

1222〜82
鎌倉時代の。日蓮宗の開祖
安房 (あわ) 国(千葉県)に生まれ,比叡山・奈良・高野山など旧仏教寺院に遊学修行し,1253年法華宗を開く。その立場は『法華経』の題目を唱えることによってのみ救われるとし,盛んに他宗攻撃を行い,迫害にも屈せず,『立正安国論』を幕府に献じ,国難を予言したので伊豆佐渡に流された。のち許されて,甲斐身延 (みのぶ) 山にこもり,武蔵の池上(現東京都大田区)で没した。ほかに『開目鈔』『観心本尊鈔』などの著書がある。
日蓮宗
にちれんしゅう @@@LINK=日蓮宗 日蓮宗

日蓮宗
にちれんしゅう

鎌倉中期,日蓮によって開かれた仏教の一派
法華宗ともいう。『法華経』の題目(南無妙法蓮華経)を唱えることにより救いを得られると説き,1253年安房 (あわ) (千葉県)清澄 (きよすみ) 山において開かれた。日蓮はこの教えを国教にすべしと主張し,他を排撃したため,政教両界から迫害をうけた。彼の遺骨を葬った身延 (みのぶ) 山久遠寺 (くおんじ) を中心に,地方武士・都市商人の間に宗勢を強め,天文法華の乱(1536)などで一時衰えたが,江戸時代に入り回復。現代の創価学会なども日蓮宗から出たものである。
日露協約
にちろきょうやく @@@LINK=日露協約 日露協約

日露協約
にちろきょうやく

日露戦争(1904〜05)後,4次にわたって結ばれた日本とロシアとの間の秘密協定
日露戦争後,イギリスアメリカの満州に対する経済的進出に対抗するために日本とロシアが接近し,1907年日露協約を結び,両国は,日本の南満州,ロシアの北満州における利益を相互に承認し,日本の韓国に対する,ロシアの外蒙古に対する政治的関係に特殊権益を認めた。'10・'12・'16年に改訂されたが,'17年のロシア革命によってソビエト政府が協定を公表し,破棄した。
日露戦争
にちろせんそう @@@LINK=日露戦争 日露戦争

日露戦争
にちろせんそう

1904(明治37)年,日本とロシアが朝鮮・満州支配をめぐる対立からおこした戦争(〜'05)
三国干渉後,ロシアは中国から満州における権益を得,北清事変後は,日本の満州撤兵要求を実行せず,満州の支配のみならず韓国進出の野心を示したので,日本と激しく対立した。日本は日英同盟('02)によるイギリスの支持を背景に,'04年2月仁川沖の奇襲で戦争開始。日本軍は有利に戦いをすすめ '05年3月奉天会戦で大勝,海軍も日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅した。しかし,日本は軍事・財政的に戦争遂行能力が限界に達し,ロシアでは '05年1月,血の日曜日事件がおこり,国内の危機が急迫した。日本を援助したアメリカ・イギリスも一方の決定的勝利による満州独占をおそれ,アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介で,同年9月ポーツマス条約が締結された。これにより,日本は韓国を保護国化し,南満州を勢力範囲とした。しかし,死者10万余人,戦費は約20億円を要したが,賠償金は得られず,民衆の不満は日比谷焼打ち事件などをひきおこした。
日露和親条約
にちろわしんじょうやく @@@LINK=日露和親条約 日露和親条約

日露和親条約
にちろわしんじょうやく

1854年,江戸幕府ロシアとの間に結ばれた条約
下田条約ともいう。使節プゥチャーチン下田締結日米和親条約とほぼ同じ内容であるが,下田・箱館・長崎開港を定め,択捉 (えとろふ) ・得 (うるつぷ) 両島間を日露国境とし,樺太 (からふと) を両国人の雑居地として境界を定めなかった。
日華基本条約
にっかきほんじょうやく @@@LINK=日華基本条約 日華基本条約

日華基本条約
にっかきほんじょうやく

日中戦争中の1940年,日本と汪兆銘 (おうちようめい) (南京政府・新国民政府)政権との間に結ばれた条約
日中両国の反共共同防衛をたてまえとし,日本軍の華北駐兵権・艦船駐海権などを規定し,条約成立とともに日本は汪政権を中国の正統政権として承認した。イギリス・アメリカはこれに反対し,中国民衆も反感を強めた。
日華平和条約
にっかへいわじょうやく @@@LINK=日華平和条約 日華平和条約

日華平和条約
にっかへいわじょうやく

第二次世界大戦後,日本と中華民国(台湾政府)との間で結ばれた講和条約
1952年4月28日調印。中国の代表政権について,イギリスとアメリカの意見が一致せず,サンフランシスコ講和会議に中国は招請されなかった。アメリカは国民政府との講和を希望し,吉田茂内閣は全権河田烈を台北に派遣し調印した。'72年日中共同声明を出した直後,政府はこの条約の消滅を明言した。
日韓基本条約
にっかんきほんじょうやく @@@LINK=日韓基本条約 日韓基本条約

日韓基本条約
にっかんきほんじょうやく

1965年6月22日に調印された日本と大韓民国間の条約
1952年に交渉開始以来14年間,数回にわたり各内閣が交渉を続け,第1次佐藤栄作内閣椎名悦三郎外相のとき東京で調印。基本条約のほか,漁業協定,請求権・経済協力協定(池田勇人内閣のとき,無償3億ドル,有償2億ドルと決定),在日韓国人の法的地位・待遇協定,文化協定の4協定を結んだ。これにより韓国併合条約などの旧条約が失効し,大韓民国政府を朝鮮にある唯一の合法的な政府と確認した。
日韓協約
にっかんきょうやく @@@LINK=日韓協約 日韓協約

日韓協約
にっかんきょうやく

日露戦争から韓国併合までに3度にわたって締結して,日本の韓国支配を強めた協約
〔第1次〕1904年8月調印。日本政府推薦の人物を韓国政府の財政・外交顧問とすることと重要外交案件の日本政府との事前協議とを認めさせた。
〔第2次〕'05年11月調印。韓国保護条約。
〔第3次〕'07年7月調印。ハーグ密使事件が契機となる。韓国軍隊を解散させ,韓国の内政権を統監の指導監督下に置き,東洋拓殖会社('08)などの設立により経済的支配を進めた。このような植民地政策は韓国人民の反日感情を高めた。
日韓併合
にっかんへいごう @@@LINK=日韓併合 日韓併合

日韓併合
にっかんへいごう

韓国併合
日記文学
にっきぶんがく @@@LINK=日記文学 日記文学

日記文学
にっきぶんがく

平安中期以降,かな文字で書かれた回想風・自伝風の記録文学
主として女性の手になる。『土佐日記』に始まり『蜻蛉 (かげろう) 日記』『和泉式部 (いずみしきぶ) 日記』『紫式部日記』『更級 (さらしな) 日記』『讃岐典侍 (さぬきのすけ) 日記』などが有名。鎌倉時代の『十六夜 (いざよい) 日記』などをに中世的な紀行文学に受け継がれていく。
日光
にっこう @@@LINK=日光 日光

日光
にっこう

栃木県北西部にある観光都市。東照宮の門前町として発展した
古来神仏習合・山岳信仰場の地として知られ,奈良末期に勝道上人によって開かれた。1617年徳川家康の神廟が建てられて以来日光奉行管轄下に門前町として繁栄。東照宮・大猷(家光の廟)・輪王寺・二荒山 (ふたらさん) 神社などがある。江戸時代,将軍諸大名参詣が絶えず,大いににぎわった。1954年市制を施行。1999年,二荒山神社など2社1寺と境内地,周辺地帯は世界遺産に登録された。
日光・月光菩薩像
にっこう・がっこうぼさつぞう @@@LINK=日光・月光菩薩像 日光・月光菩薩像

日光・月光菩薩像
にっこう・がっこうぼさつぞう

薬師如来脇侍 (わきじ) の像
本尊とともに薬師三尊となる。向かって左が月光,右が日光菩薩である。像容は一定しない。代表作に薬師寺金堂の『薬師三尊像』(白鳳文化金銅像),東大寺法華(三月)堂の『不空羂索 (ふくうけんじやく) 観音像』の脇侍(天平文化塑像)など。
日光東照宮
にっこうとうしょうぐう @@@LINK=日光東照宮 日光東照宮

日光東照宮
にっこうとうしょうぐう

栃木県日光市山内 (さんない) にある神社。祭神は徳川家康。
日光道中
にっこうどうちゅう @@@LINK=日光道中 日光道中

日光道中
にっこうどうちゅう

江戸時代江戸日本橋〜日光間の街道。五街道の一つ
日光街道ともいう。23宿。江戸日本橋から宇都宮までは奥州道中と重複した。各宿駅には25人・25頭の人馬が常備され,参勤に利用した大名は6家。日光東照宮の参詣道として重視された。
日光奉行
にっこうぶぎょう @@@LINK=日光奉行 日光奉行

日光奉行
にっこうぶぎょう

江戸幕府の職名。日光に置かれた遠国 (おんごく) 奉行
老中の支配に属し,徳川家康を祭る日光山東照宮を守衛し管理した。日光の市政や上野 (こうずけ) ・下野 (しもつけ) 2国の公事訴訟もつかさどった。定員2名。旗本が任じられた。
日産コンツェルン
にっさんコンツェルン @@@LINK=日産コンツェルン 日産コンツェルン

日産コンツェルン
にっさんコンツェルン

昭和初期,鮎川義介(1880〜1967)の日本産業を中心に結成された最大の新興財閥
1928年久原鉱業を譲りうけた鮎川は日本産業に改組。持株会社として,満州事変後の軍需インフレの中で重化学工業の分野に経営を広げ,満州への進出をはかった。第二次世界大戦後,財閥解体により解散したが,日立・日産などの構成企業はそれぞれ独立し再建された。
日親
にっしん @@@LINK=日親 日親

日親
にっしん

1407〜88
室町中期の日蓮宗の僧
上総 (かずさ) (千葉県)の人。1439年『立正治国論』によって幕府に諫言したため,将軍足利義教 (よしのり) に投獄され,熱せられた鍋をかぶせられるなどの拷問をうけたが屈せず,折伏 (しやくぶく) につとめ,教勢拡大にがあった。俗に鍋冠 (なべかぶり) 上人という。著書に『折伏正義抄』など。
日新館
にっしんかん @@@LINK=日新館 日新館

日新館
にっしんかん

江戸時代,会津藩の藩校
寛文年間(1661〜73),藩主保科正之が設立。初め稽古堂と称したが,1799年5代松平容頌 (かたのぶ) が日新館と改称。士庶の別なく入学させ,また1842年開版局を特設し出版事業も活発であった。
日清修好条規
にっしんしゅうこうじょうき @@@LINK=日清修好条規 日清修好条規

日清修好条規
にっしんしゅうこうじょうき

1871(明治4)年7月,日本と清国との間で結ばれた最初の条約
日本の開国後,日清間の交流が盛んになり,日本側から発議。伊達宗城 (だてむねなり) と李鴻章の両代表が天津で調印。内容は両国の修好と相互援助,両国民の貿易許可,領事裁判権の相互承認などで,最初の対等条約。日清戦争まで適用された。
日新真事誌
にっしんしんじし @@@LINK=日新真事誌 日新真事誌

日新真事誌
にっしんしんじし

1872年,イギリス人ブラックにより東京で発行された邦字新聞
外国人という治外法権の立場から遠慮なく日本の内情を報道・批判した。特に民撰議院設立の世論を擁護したため,'75年政府はブラックを左院へ雇い入れて新聞社経営から離脱させ,外国人が邦字新聞の所有者・社主となることを禁じた。これにより同新聞は衰退し,同年265号をもって廃刊。
日清戦争
にっしんせんそう @@@LINK=日清戦争 日清戦争

日清戦争
にっしんせんそう

1894〜95(明治27〜28)年,日本と清国が朝鮮支配をめぐって戦った戦争
明治政府の朝鮮に対する積極政策は征韓論に始まり,1875年の江華島事件後に結ばれた日朝修好条規によって朝鮮を開国させた。'84年の甲申事変で日清両国の対立が激化したために天津条約を結んで,両国軍の撤兵が実現したが,その後,甲午農民戦争がおこり清国が朝鮮政府の要請により出兵すると,それに応じて日本も出兵。日本の朝鮮内政改革の提案を清国に拒否され,両国軍は漢城(現ソウル)・牙山で対立し,ついに '94年7月25日豊島 (ほうとう) 沖で衝突がおこり,8月1日日本は清国に宣戦布告した。日本軍は黄海海戦で大勝し,大連・旅順・威海衛を占領,翌'95年4月,両国の間で下関条約が締結された。死者1万7000人,戦費約2億円にのぼったが,遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲や賠償金2億両 (テール) (約3億1000万円)などを得た。
日宋貿易
にっそうぼうえき @@@LINK=日宋貿易 日宋貿易

日宋貿易
にっそうぼうえき

平安中期〜鎌倉中期,日本と宋との間に行われた私貿易
894年遣唐使の廃止後,中国との国交はとだえたが,中国商船は宋に代わってからも引き続き来航し,私貿易は盛んとなった。12世紀後半,平清盛は日宋貿易の利に着目し,貿易の拡大をはかるため,瀬戸内海航路を整備し,大輪田泊 (おおわだのとまり) を修築したので,渡来する宋商船がふえた。金・硫黄・刀剣・漆器などを輸出し,絹織物・香料・陶器・書籍・銅銭などを輸入。特に宋銭は日本の貨幣流通を促進した。
日ソ基本条約
にっソきほんじょうやく @@@LINK=日ソ基本条約 日ソ基本条約

日ソ基本条約
にっソきほんじょうやく

1925年1月,北京で調印されたソ連と日本との国交樹立のための条約
シベリア出兵でのびていたが,いわゆる幣原 (しではら) 外交の線で促進され,44回の交渉ののちようやく締結した。外交領事関係の確立,ポーツマス条約効力の確認,平和友好関係の維持,内政不干渉などを規定
日ソ共同宣言
にっソきょうどうせんげん @@@LINK=日ソ共同宣言 日ソ共同宣言

日ソ共同宣言
にっソきょうどうせんげん

1956年10月19日に調印された第二次世界大戦についての日本・ソ連両国間の戦争終結宣言
ソ連はサンフランシスコ平和条約に調印しなかったので,鳩山一郎首相がモスクワに行き,ブルガーニン首相との間で調印。戦争状態の終結,外交関係の回復,日本の国際連合加盟の支持,賠償請求権の相互放棄など10項を規定。この直後,日本の国連への加盟が実現した。ただし,北方領土問題は未解決で,平和条約はまだ結ばれていない。
日ソ漁業条約
にっソぎょぎょうじょうやく @@@LINK=日ソ漁業条約 日ソ漁業条約

日ソ漁業条約
にっソぎょぎょうじょうやく

オホーツク海・ベーリング海を含む北西太平洋での漁業権に関する日本・ソ連両国間の条約
①1928年,モスクワ調印された条約。有効期間8年を過ぎた'36年以後1年ごとに条約延長の暫定協定を結び,'44年には効力5年の条約に調印したが,日本の敗戦で無効になった。
②1956年5月,河野一郎とソ連代表イシコフは,漁業資源保護のため,サケ・マス漁獲量の交渉を行う日ソ漁業委員会の設置について同意し調印。200カイリ元年である'77年の日ソ漁業暫定協定成立まで,この条約に基づき日ソ漁業交渉が行われた。
日ソ中立条約
にっソちゅうりつじょうやく @@@LINK=日ソ中立条約 日ソ中立条約

日ソ中立条約
にっソちゅうりつじょうやく

1941年4月13日,日本とソ連との間に結ばれた中立条約
日本側代表松岡洋右 (ようすけ) 外相と建川美次 (たてかわよしつぐ) 駐ソ大使,ソ連側モロトフ外相がモスクワで調印。両国の平和友好と相互不可侵,第三国との戦争の際の他方の中立維持などを定めた。有効期間5年。これによりソ連は対ドイツ戦に備え,日本は南進政策をとった。'45年2月ヤルタ協定により対日参戦を決めたソ連は,4月に条約不延長を通告,8月8日に宣戦した。
新田氏
にったし @@@LINK=新田氏 新田氏

新田氏
にったし

鎌倉・南北朝時代,上野 (こうずけ) 国(群馬県)の豪族
清和源氏の一流。源義家の孫義重が上野新田郡に土着して新田氏を称した。代々鎌倉幕府に従い,一族は新田郡を中心に各地に繁栄。1333年元弘の変に義貞は初め幕府方に属したが途中より後醍醐 (ごだいご) 天皇に応じ,鎌倉に攻め入り北条氏を滅ぼした。建武の新政以後足利氏と対立し,南朝方の中心として奮戦。一族の多くも南朝方として戦い滅亡した。
新田義興
にったよしおき @@@LINK=新田義興 新田義興

新田義興
にったよしおき

1331〜58
南北朝時代の武将
義貞の子。父の死後,新田氏の中心となり南朝方に属し,足利尊氏・直義 (ただよし) 兄弟の分裂に乗じ,弟義宗とともに鎌倉を攻め足利基氏を追放して占領したが,のち尊氏と戦って敗れ越後にのがれる。1358年畠山国清に武蔵に誘い出され刺殺された。

新田義貞
にったよしさだ @@@LINK=新田義貞 新田義貞

新田義貞
にったよしさだ

1301〜38
鎌倉末期・南北朝時代の武将
朝氏の子。1333年元弘の変に,初め幕府方で千早城を攻めたが,途中上野 (こうずけ) 国(群馬県)に帰って挙兵。鎌倉を攻め北条氏を滅ぼした。建武の新政で武者所の頭人となる。足利尊氏と対立,南朝方武士の中心として戦ったが,'35年箱根竹の下で敗れ,翌'36年皇太子恒良 (つねよし) 親王を奉じ北陸に下り,'38年藤島(福井市)の戦いで戦死した。

日窒コンツェルン
にっちつコンツェルン @@@LINK=日窒コンツェルン 日窒コンツェルン

日窒コンツェルン
にっちつコンツェルン

昭和初期,野口遵 (したがう) (1873〜1944)の日本窒素を持株会社とした新興財閥
野口は,1906年曽木電気を設立し,'08年日本窒素肥料と改称。全国の硫安生産の40%を独占し国内で日窒の基礎を固めた。'26年から朝鮮に進出し,'36年には資本金2億8000万円にも及ぶ電気化学工業コンツェルンに発展し,'43年水豊ダムを鴨緑江に完成。第二次世界大戦後の'50年解散,新日本窒素肥料と旭化成に分離した。
日中共同声明
にっちゅうきょうどうせいめい @@@LINK=日中共同声明 日中共同声明

日中共同声明
にっちゅうきょうどうせいめい

1972年9月29日,日本と中国との間で調印された,両国の戦争状態終結と国交正常化を宣言した声明
田中角栄首相が中国を訪問し,中国の周恩来首相とともに日中共同声明に調印して国交を回復。中華人民共和国政府を中国の唯一の政府として認めたので,1952年に結んだ日華平和条約は破棄された。中国は対日戦争の賠償請求権を放棄し,外交関係は樹立された。
日中戦争
にっちゅうせんそう @@@LINK=日中戦争 日中戦争

日中戦争
にっちゅうせんそう

1937年の盧溝橋事件を機に本格化した日本軍の中国侵略
1931年の満州事変以後,中国の抗日の気運は強く日本の軍部は武力をもって華北分離工作を進めた。'37年7月盧溝橋 (ろこうきよう) 事件がおこると,近衛文麿内閣は,北支事変と呼称し,現地解決・不拡大方針を表明したが,宣戦布告のないまま日本軍は北京から上海・南京・広東へと戦線を拡大して全面戦争に突入。これに伴い呼称は支那事変へと変化した。中国側は,第二次国共合作を成立させ,国民政府も南京陥落後は重慶に拠点を移し,抗日戦を展開。'38年1月の近衛声明で「国民政府を対手とせず」と,和平交渉をみずから断ち切り,同年後半,主要都市はほとんど日本軍の手におちた。'41年まで小規模な侵攻作戦が続き,長期持久戦の様相を呈したので,日本軍は '40年和平工作として汪兆銘 (おうちようめい) 傀儡 (かいらい) 政権を樹立させた。この間,日本国内の人員・兵器・軍需品消耗による国民生活の犠牲の中で,政府は新体制運動を展開した。'41年12月太平洋戦争開戦ののちも30個師団を中国本土に投入し,重慶侵攻作戦などを計画したが,共産党を中心とする八路軍・新四軍の抗戦が強く,各地に解放地区が成立。日本軍は制空権を失い,補給は続かず侵攻地域の確保ができず,点と線を守るにとどまった。'45年8月ポツダム宣言受諾に伴い,日本軍は国民政府に降伏した。
日中民間貿易協定
にっちゅうみんかんぼうえききょうてい @@@LINK=日中民間貿易協定 日中民間貿易協定

日中民間貿易協定
にっちゅうみんかんぼうえききょうてい

1952年,日本と中華人民共和国との間に結ばれた民間貿易協定
日本社会党議員の帆足計 (ほあしけい) ・高良とみらが,モスクワから北京に入り,第1回の民間貿易協定を締結。'56年に通商代表部設立も認められたが貿易は不振であった。
日朝修好条規
にっちょうしゅうこうじょうき @@@LINK=日朝修好条規 日朝修好条規

日朝修好条規
にっちょうしゅうこうじょうき

1876(明治9)年,日本と朝鮮との間で結ばれた条約
江華条約ともいう。江華島事件後,日本政府は黒田清隆・井上馨らを朝鮮に派遣して,交渉のうえ調印させた。朝鮮と清国との宗属関係の否定,釜山・元山 (げんざん) ・仁川 (じんせん) の開港,日本側の領事裁判権などを規定。また付属貿易協定では無関税特権を獲得した。日本優位の不平等条約で,日本の大陸進出の第一歩をなす。
日朝貿易
にっちょうぼうえき @@@LINK=日朝貿易 日朝貿易

日朝貿易
にっちょうぼうえき

室町時代,日本と李氏朝鮮との間で行われた貿易
勘合貿易と同じように通信符印をおした)により,対馬宗氏が仲介して貿易。輸出品は銅・硫黄南海産物,輸入品は綿布・書籍など。
日展
にってん @@@LINK=日展 日展

日展
にってん

「日本美術展覧会」の略称で,1946年から開催されている日本画・洋画・彫刻・工芸・書の展覧会
戦前の帝展を継承,1947年までは文部省主催であったが,'48年には日本芸術院主催となり,同年書が加えられた。'49年からは日展運営会の共催となったが官展臭が問題となり,'58年芸術院から分離した。作品傾向としては保守的作風が強い。
入唐求法巡礼行記
にっとうぐほうじゅんれいこうき @@@LINK=入唐求法巡礼行記 入唐求法巡礼行記

入唐求法巡礼行記
にっとうぐほうじゅんれいこうき

平安前期,円仁の在唐日記
4巻。838年に入唐して以来在唐約10年の仏教関係の記事をはじめ,遣唐使や留学生の動静,唐の政治・社会・経済・文化の全般にわたっての見聞が記録されている。日唐関係,仏教関係の重要な史料。
新渡戸稲造
にとべいなぞう @@@LINK=新渡戸稲造 新渡戸稲造

新渡戸稲造
にとべいなぞう

1862〜1933
明治〜昭和初期の教育家
陸奥(岩手県)の生まれ。東京外国語学校から札幌農学校を経て,アメリカに留学。帰国後,京大教授・一高校長・東京女子大初代校長などを歴任し,1919〜26年には国際連盟事務局次長として国際親善につとめた。英文著書『武士道』は有名。

蜷川氏
にながわし @@@LINK=蜷川氏 蜷川氏

蜷川氏
にながわし

室町幕府の政所 (まんどころ) 代をつとめた家
始祖大田親直は源頼朝に従い,越中国(富山県)新川郡蜷川に住み蜷川氏を称す。のち親朝 (ちかとも) は足利尊氏に仕え,政所執事(長官)伊勢氏と縁を結び伊勢氏に仕える。その孫親当 (ちかまさ) は和漢にすぐれ,政所代となり,以後代々政所代をつとめて幕政にたずさわった。職掌的立場から,親元・親孝・親俊らは日記その他多くの文書・記録を残し,室町幕府研究の好史料となる。
瓊瓊杵尊
ににぎのみこと @@@LINK=瓊瓊杵尊 瓊瓊杵尊

瓊瓊杵尊
ににぎのみこと

記紀神話にみえる天照大神 (あまてらすおおみかみ) の孫
「邇邇芸命」(『古事記』)とも書く。日本統治のために三種の神器を奉じて高天原から日向国高千穂峰に降臨した。木花之開耶姫 (このはなのさくやひめ) を娶 (めと) り,彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと) を生む。神武天皇曽孫にあたるという。
二・二六事件
に・にろくじけん @@@LINK=二・二六事件 二・二六事件

二・二六事件
に・にろくじけん

1936(昭和11)年2月26日,東京でおこった陸軍皇道派青年将校によるクーデタ事件
陸軍部内の統制派・皇道派の対立抗争のもとで,皇道派青年将校は北一輝の影響をうけ,直接行動による国家改造を企図。歩兵第1・第2・近衛歩兵第3各連隊1400余名が出動。首相官邸・警視庁など数か所を襲い,斎藤実 (まこと) 内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎教育総監らを殺害,鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。戒厳令が布告され戒厳司令部が設置された。当初は蹶起部隊と呼ばれたが,天皇は激怒し,反乱軍と規定して鎮圧した。首謀17名とともに北一輝・西田税も処刑。これを機に統制派による粛軍が行われ,皇道派を一掃し,その結果岡田啓介内閣が倒れ,広田弘毅内閣が成立。軍部は政治的発言力を強化した。
二宮尊徳
にのみやそんとく @@@LINK=二宮尊徳 二宮尊徳

二宮尊徳
にのみやそんとく

1787〜1856
江戸後・末期の農政家
通称金次郎。相模(神奈川県)の人。少年期に父母を失い,苦学して学業に励み,没落した一家を再興。徹底した倹約実践家で,また神・儒・仏に基づく報徳精神を説いた。小田原藩桜町領の農村復興に成功して認められ,のち普請役格の幕臣となる。以後常陸 (ひたち) (茨城県)その他各地の農村復興に尽力。彼の弟子たちにより報徳社運動が全国的に展開された。主著に『報徳記』など

日本
にほん @@@LINK=日本 日本

日本
にほん

明治後期の代表的日刊新聞(1889〜1914)
1889年に陸羯南 (くがかつなん) が谷干城 (たにたてき) らの支援を得て創刊。陸のもとに三宅雪嶺・長谷川如是閑 (によぜかん) らが藩閥政治を批判しつつ,日本主義の論陣を張った。大正期に入って廃刊となる。
日本逸史
にほんいっし @@@LINK=日本逸史 日本逸史

日本逸史
にほんいっし

江戸中期の歴史書
1692年成稿,1724年刊。40巻。京都下賀茂社の鴨祐之 (かものすけゆき) の編。『日本後紀』が散逸したのを原形に復そうとし,792〜833年の史実を諸書からとり,出所を注記し,編年体で編修した。
日本永代蔵
にほんえいたいぐら @@@LINK=日本永代蔵 日本永代蔵

日本永代蔵
にほんえいたいぐら

江戸中期,井原西鶴の浮世草子
正しくは「にっぽんえいたいぐら」と読む。1688年刊。6巻6冊。副題「大福新長者教」。「世に銭程面白き物はなし」(巻4)と作中で言っているが,資産家が没落していくことへの警告,勤勉・節倹・才智によって金銭を獲得しそれを増大させる話など,町人の経済生活における種々相を描出。三井など実在人物をモデルにした話も多く,『世間胸算用』とともに,西鶴町人物の代表作の一つとされる。
日本往生極楽記
にほんおうじょうごくらくき @@@LINK=日本往生極楽記 日本往生極楽記

日本往生極楽記
にほんおうじょうごくらくき

平安中期,慶滋保胤 (よししげのやすたね) の著した往生伝
寛和年間(985〜987)の成立。1巻。聖徳太子以下45人の極楽往生をとげたと信じられた人びとの事を集録した。日本の往生伝中最初のもので,浄土教信仰の広まりを反映している。
日本海海戦
にほんかいかいせん @@@LINK=日本海海戦 日本海海戦

日本海海戦
にほんかいかいせん

1905年5月27〜28日,日本海で行われた日露戦争中最大の海戦
ロシアは日本海軍を制圧するためバルチック艦隊をウラジヴォストークに向けて出発させたが,東郷平八郎の率いる連合艦隊はこれを対馬沖で迎えうち撃破。この海戦をきっかけに講和が成立した。
日本開化小史
にほんかいかしょうし @@@LINK=日本開化小史 日本開化小史

日本開化小史
にほんかいかしょうし

明治前期,田口卯吉の歴史書
1877〜82年刊。6巻。ギゾー・バックルらの文明史学理論を学び,新井白石の『読史余論』などを参考にして,古代から明治維新までの日本の歴史を,経済と文化の関係に力点を置いて述べた。日本史学上の画期的業績の一つ。
日本外史
にほんがいし @@@LINK=日本外史 日本外史

日本外史
にほんがいし

江戸後期,頼山陽 (らいざんよう) の歴史書
1827年成立,'36〜37年刊。全22巻。源・平両氏の興亡から徳川氏に至るまでの武家興亡の歴史を『史記』の体裁にならって漢文で記述。史書としては必ずしも正確ではないが,尊王思想で一貫し,のちの尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。
日本改造法案大綱
にほんかいぞうほうあんたいこう @@@LINK=日本改造法案大綱 日本改造法案大綱

日本改造法案大綱
にほんかいぞうほうあんたいこう

大正時代,北一輝の著書
1919年刊。天皇の大権の強調,憲法の停止,議会の解散,私有財産の制限,銀行・貿易工業の国家管理など,右翼革命思想のうちヨーロッパのファシズム思想に最も近い。昭和期の軍部・右翼に大きな影響を与えた。
日本学士院
にほんがくしいん @@@LINK=日本学士院 日本学士院

日本学士院
にほんがくしいん

学問上すぐれた功績のある科学者を顕彰し優遇するための栄誉機関
戦前からの帝国学士院が,1947年に改称された。一時,日本学術会議に付属したが,会員選定方法が問題になり,'56年日本学士院法で独立,文部省の所管となる。人文科学・自然科学の2部門より構成。定数150名,終身制で年金が支給される。
日本学術会議
にほんがくじゅつかいぎ @@@LINK=日本学術会議 日本学術会議

日本学術会議
にほんがくじゅつかいぎ

日本の科学者の国内外に対する最高代表機関
1949年発足,'48年の日本学術会議法により,日本学術振興会・日本学士院などを統合。学術の発達と国民生活への反映を目標とし,政府への勧告・答申により,科学技術行政に大きな影響を与える。7部門,会員210名よりなり,任期は3年。'56年日本学士院が分離独立した。
日本勧業銀行
にほんかんぎょうぎんこう @@@LINK=日本勧業銀行 日本勧業銀行

日本勧業銀行
にほんかんぎょうぎんこう

1897(明治30)年,農工業の改良発達のため設立された特殊銀行
おもに勧業債券発行により資金を調達し,不動産を抵当に長期貸付けを行う。最初殖産興業,のち農業・中小企業の救済機関としての役割を果たし,第二次世界大戦後は普通銀行になり,1971年第一銀行と合併して,第一勧業銀行となった。
日本共産党
にほんきょうさんとう @@@LINK=日本共産党 日本共産党

日本共産党
にほんきょうさんとう

現代の革新政党の一つ
1922(大正11)年,コミンテルン主催の極東民族大会ののち,東京で利彦・山川均・荒畑寒村・徳田球一らを中心に秘密のうちに創設。天皇制の廃止を含むブルジョア革命を当面の目標にした。'23年には早くも第1次検挙事件があり,「27年テーゼ」「32年テーゼ」と国際的な指導もあって,党活動は続けられたが,数々の大量検挙・弾圧(小林多喜二・野呂栄太郎らの虐殺)により,'35年には活動不能となった。第二次世界大戦後,'45年政治犯徳田・志賀義雄らの出獄とともに再建。'50年占領軍の指令で幹部追放が行われ,一時分裂したが,'55年7月,第6回全国協議会で統一再出発した。
日本協同党
にほんきょうどうとう @@@LINK=日本協同党 日本協同党

日本協同党
にほんきょうどうとう

1945年12月に結成された労使協調の中道政党(〜'46)
船田中ら20数名で結党。委員長は山本実彦。1946年4月の総選挙で14名の当選者を出したが,同年5月,吉田茂内閣の成立に際し,日向 (ひゆうが) 民主党・日本農本党と合同,協同民主党を結成した。
日本基督教会
にほんキリストきょうかい @@@LINK=日本基督教会 日本基督教会

日本基督教会
にほんキリストきょうかい

明治〜昭和期,日本におけるプロテスタント系の有力教派
1872年アメリカ人宣教師ブラウンらが中心になり,横浜に日本基督公会(日本で最初のプロテスタント教会)を設立。'77年日本長老公会などと合同して日本基督一致教会を組織し,'90年日本基督教会と改称。穏健なカヴァン主義をとる。1941年に他の諸教派とともに日本基督教団に統合した。のち旧日本基督教会系の一部が離脱し,'51年新たに日本基督教会を結成
日本紀略
にほんきりゃく @@@LINK=日本紀略 日本紀略

日本紀略
にほんきりゃく

平安末期に成立した歴史書
『編年紀略』ともいう。34巻。成立年・著者不詳。神代は『日本書紀』そのまま,神武から光孝までの各天皇は六国史の抄略,宇多天皇以後後一条天皇までは『新国史』や『外記日記』などに基づき編集されている。六国史の欠逸を補う重要史料。
日本銀行
にほんぎんこう @@@LINK=日本銀行 日本銀行

日本銀行
にほんぎんこう

日本の中央銀行
大蔵卿松方正義の建議により,1882年日本銀行条例により設立。'85年より兌換 (だかん) 券を発行。初めは貨幣制度混乱を改革することを主眼としたが,のちには国庫金の取扱いや普通銀行の金融業務の統制にあたり,日本資本主義の発展に大きな役割を果たした。1942年日本銀行法により管理通貨制度を確立し,政府への従属を強めたが,第二次世界大戦後,政策委員会を設け,独立した。金融の中心として国民経済上でもその占める地位は重い。
日本芸術院
にほんげいじゅついん @@@LINK=日本芸術院 日本芸術院

日本芸術院
にほんげいじゅついん

芸術上すぐれた功績のある芸術家を優遇するための栄誉機関
1937年帝国芸術院として発足。第二次世界大戦後,'47年日本芸術院と改称。美術・文芸・音楽演劇舞踊の3部門からなり,文部大臣任命の終身会員で構成。年1回,日本芸術院賞・恩賜賞の選考授与を行う。
日本憲法見込案
にほんけんぽうみこみあん @@@LINK=日本憲法見込案 日本憲法見込案

日本憲法見込案
にほんけんぽうみこみあん

明治前期,立志社私擬憲法
1880年11月国会期成同盟第2回大会で憲法草案の起草が決議されたが,期成同盟本部の「憲法見込案」は否決され,翌'81年立志社片岡健吉を審査委員に,坂本南海男・植木枝盛らを起草委員に選び,同年10月ころ「日本憲法見込案」がつくられた。一院制をとり,主権在民説をとっていたが,官憲から危険視され新聞にも公表されなかった。
日本後紀
にほんこうき @@@LINK=日本後紀 日本後紀

日本後紀
にほんこうき

平安前期の歴史書。六国史の第3番目
840年完成。40巻。嵯峨天皇の勅命により藤原冬嗣・緒嗣 (おつぐ) らが819年から編集に着手。『続日本紀』のあとをうけ,桓武天皇から淳和天皇までの4代792〜833年を編年体で著した。現存10巻。
日本興業銀行
にほんこうぎょうぎんこう @@@LINK=日本興業銀行 日本興業銀行

日本興業銀行
にほんこうぎょうぎんこう

明治政府の産業振興策によって設立された特殊銀行
日清戦争後,近代産業が発達するにしたがい産業資本の需要が高まったので,1900年公布の日本興業銀行法に基づき'02年設立。動産を担保にして事業資金の貸付け(特に長期の工業資金)を行い,外資導入にもつとめ,第一次世界大戦後の財政の不況時には救済資金の貸出しを行い,日中戦争期は軍需融資の中心機関となった。第二次世界大戦後,'50年普通銀行として再発足,'52年長期信用銀行法により長期金融の専門銀行に転換。
日本国見在書目録
にほんこくげんざいしょもくろく @@@LINK=日本国見在書目録 日本国見在書目録

日本国見在書目録
にほんこくげんざいしょもくろく

平安前期,日本最古の漢籍目録
890年ころ成立。1巻。宇多天皇のにより藤原佐世 (すけよ) がその当時日本に存在した漢籍1579部を,40部門に分け1万6790巻にわたって収録したもの。抄本が現存する。
日本国憲法
にほんこくけんぽう @@@LINK=日本国憲法 日本国憲法

日本国憲法
にほんこくけんぽう

1946(昭和21)年11月3日公布,翌'47年5月3日から施行された現行の憲法
1945年ポツダム宣言の受諾に伴い,日本の民主化・非軍事化は方向づけられたが,GHQの指示に基づき,同年10月幣原喜重郎 (しではらきじゆうろう) 首相は,松本烝治 (じようじ) ・金森徳次郎らに命じ,憲法改正に着手した。民間側でも,高野岩三郎・尾崎行雄らが草案を発表した。政府はGHQの助言をうけ,草案を作成し,'46年6月大日本帝国憲法の改正という手続きで第90臨時国会に提出。特に主権在民の項を明確にして可決された。前文と11章103条からなり,国民主権,象徴天皇制,戦争放棄,基本的人権の尊重などを規定した。
日本国憲按
にほんこっけんあん @@@LINK=日本国憲按 日本国憲按

日本国憲按
にほんこっけんあん

1876〜80年,元老院で3次にわたり作成された憲法草案で,日本最初の官撰憲法案
1876年,明治天皇が有栖川宮熾仁 (ありすがわのみやたるひと) に起案を命じ,議官柳原前光・中島信行らが作成。この官撰憲法草案は大権内閣主義・二院制で,絶大な議会権限を認めたため,岩倉具視らの不満を買い,'80年の修正「国憲草案」も拒否され,廃案となった。
日本三代実録
にほんさんだいじつろく @@@LINK=日本三代実録 日本三代実録

日本三代実録
にほんさんだいじつろく

平安前期の歴史書。六国史の第6番目
901年完成。50巻。892年宇多天皇の勅命により,藤原時平・源能有 (よしあり) ・菅原道真らが編集。『日本文徳天皇実録』のあと清和・陽成・光孝の3代30年間(858〜887)を編年体で著した。
日本資本主義発達史講座
にほんしほんしゅぎはったつしこうざ @@@LINK=日本資本主義発達史講座 日本資本主義発達史講座

日本資本主義発達史講座
にほんしほんしゅぎはったつしこうざ

昭和初期,1932〜33年にかけて刊行された経済史書。全7巻。
日本資本主義論争
にほんしほんしゅぎろんそう @@@LINK=日本資本主義論争 日本資本主義論争

日本資本主義論争
にほんしほんしゅぎろんそう

1927〜37年にかけて昭和初期のマルクス主義理論家の間で,日本資本主義の性格をめぐっておこった論争
日本共産党主流派と左派社会民主主義者との革命戦略論争に始まり,講座派と労農派に分かれ明治維新の本質,日本農業の封建性,天皇制をめぐって論じ,きたるべき革命の性格を論争した。両派の理論家が検挙され中断したが,第二次世界大戦後再び展開された。
日本社会主義同盟
にほんしゃかいしゅぎどうめい @@@LINK=日本社会主義同盟 日本社会主義同盟

日本社会主義同盟
にほんしゃかいしゅぎどうめい

1920(大正9)年結成された社会主義運動と労働組合運動の統一組織(〜'21)
山川均・堺利彦らが参加。機関誌『社会主義』を発刊し,加盟者は3000人に及んだが,翌1921年アナーキズムとボルシェビズム論争による内部分裂と,弾圧により解散した。
日本社会党
にほんしゃかいとう @@@LINK=日本社会党 日本社会党

日本社会党
にほんしゃかいとう

①1906(明治39)年結成された最初の合法的社会主義政党(〜'07)
②第二次世界大戦後結成された社会民主主義政党
堺利彦・片山潜らが西園寺公望 (きんもち) 内閣成立に乗じ結党。普選運動や市電値上げ反対・足尾銅山争議などの支援を行う。翌1907年禁止。
1945年11月2日,戦前の無産政党を統一結集して成立。'47年第一党となり日本民主党・国民協同党とともに片山哲内閣を組織。つぎの芦田均内閣でも与党であったが,昭和電工疑獄事件などで大衆の支持を失った。'51年サンフランシスコ平和条約への批准賛否をめぐり左右両派に分裂し,'55年再統一。護憲運動・原水禁運動などで活躍。'60年右派の一部は脱党して民主社会党('69年民社党)を結成。野党第一党ではあるが党勢は横ばいを続け,党内では路線の対立もみられた。'94年委員長村山富市が首班となり連立内閣を組閣。リベラル新党をめざし,'96年社会民主党と改称。しかし,55年体制の崩壊以降,民主党などの新党が誕生する中での状況は厳しいものがある。
日本自由党
にほんじゆうとう @@@LINK=日本自由党 日本自由党

日本自由党
にほんじゆうとう

①第二次世界大戦後,旧立憲政友会系議員を中心に結成された自由主義的保守政党(1945〜48)
②1953年11月,自由党分党派三木武吉・河野一郎らが中心となり結成した保守政党(〜'54)
1945年11月9日結党。総裁は鳩山一郎。鳩山の公職追放後,吉田茂が総裁となり,日本進歩党と連立して,第1次吉田茂内閣を成立させた。'48年3月15日,日本民主党を脱党した幣原 (しではら) 喜重郎らと合同し民主自由党を結成した。
自由党分党派は鳩山一郎をはじめ大部分が復党したが,三木ら8名が残留し結党。翌'54年11月解党し,反吉田の線で日本改進党と同調して日本民主党を結成した。
日本主義
にほんしゅぎ @@@LINK=日本主義 日本主義

日本主義
にほんしゅぎ

明治中期,日清戦争後に井上哲次郎・高山樗牛 (ちよぎゆう) らが中心となって唱道した主義
この思想は,海外進出を唱え,君民一体・国祖崇拝など伝統を重視する国家主義で,1897年設立の大日本協会の機関誌『日本主義』と雑誌『太陽』に発表された。
日本書紀
にほんしょき @@@LINK=日本書紀 日本書紀

日本書紀
にほんしょき

奈良時代の歴史書。六国史の第1番目
もと『日本紀』といい,平安初期から『日本書紀』と称した。本文30巻,付録系図1巻(現存せず)。舎人 (とねり) 親王・太安万侶 (おおのやすまろ) らが編集にあたった。編纂の始期は不明であるが,720年完成。漢文編年体で,神代から持統天皇に至る天皇中心の国家の成立の歴史を記述しているが,特に神代巻にはかなりの作為や潤色がみられる。古代史研究の重要史料。
日本書紀纂疏
にほんしょきさんそ @@@LINK=日本書紀纂疏 日本書紀纂疏

日本書紀纂疏
にほんしょきさんそ

室町時代,一条兼良 (かねよし) の『日本書紀』神代巻の注釈書
8巻。鎌倉・室町期に勃興した神道論の影響をうけ,仏教儒教思想を加味した両部神道立場にたった詳細な注釈。考証的学問価値より神道論的色彩が濃い。
日本書紀通証
にほんしょきつうしょう @@@LINK=日本書紀通証 日本書紀通証

日本書紀通証
にほんしょきつうしょう

江戸中期,国学者谷川士清 (ことすが) の『日本書紀』全巻の注釈書
1762年刊。35巻。神道的立場を脱却し得てはいないが,広く諸説を集め,近世の書紀研究の先駆をなすもの。
日本女子大学
にほんじょしだいがく @@@LINK=日本女子大学 日本女子大学

日本女子大学
にほんじょしだいがく

東京都文京区目白台にある私立女子大学
1901年,成瀬仁蔵が女子教育機関として創立。女子を人間として教育すること,人間生活を律する普遍的真理として,「信念徹底・自発創生・共同奉仕」をめざした。'48年専門学校から新制大学となる。
日本人
にほんじん @@@LINK=日本人 日本人

日本人
にほんじん

明治時代,政教社の機関誌
1888年に創刊。1907年『日本及日本人』と改題。三宅雪嶺・志賀重昂 (しげたか) らが欧化主義に対して国粋主義主張。『国民之友』と並んで日本思想界に大きな影響を与えた。
日本進歩党
にほんしんぽとう @@@LINK=日本進歩党 日本進歩党

日本進歩党
にほんしんぽとう

1945年11月,旧立憲民政党系議員を中心として結成された保守政党(〜'47)
総裁は町田忠治。反共・国体護持・民本主義を掲げる。町田の公職追放後,幣原 (しではら) 喜重郎が総裁となる。幣原内閣・第1次吉田茂内閣の与党。1947年3月解党後,日本民主党に再編された。
日本神話
にほんしんわ @@@LINK=日本神話 日本神話

日本神話
にほんしんわ

おもに『古事記』『日本書紀』の神代の巻にある物語
断片的には『風土記』や『古語拾遺』などにもある。古代天皇制の権威を高めるために6〜8世紀に宮廷でまとめられ構成されたもの。民間伝承も利用されているが,政治的な神話体系となっている。伊弉諾 (いざなぎ) (伊邪那岐)・伊弉冉 (いざなみ) (伊邪那美)尊の国生み・神生みや天岩戸 (あまのいわと) 神話を含んだ高天原 (たかまがはら) 神話は,天皇の祖神とされる天照大神 (あまてらすおおみかみ) を中心とし,朝廷の伴造 (とものみやつこ) 系氏族の祖神が活躍する天上の物語。つぎの出雲神話は素戔嗚尊 (すさのおのみこと) (須佐之男命)と大国主命 (おおくにぬしのみこと) の支配する地上の物語で,民間伝承(ヤマタノオロチ退治やイナバの白兎)を含むが国譲りの伏線となっている。日向神話は天照大神の孫瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) (邇邇芸命)が日向の高千穂峰に降臨(天孫降臨)し,つづいて3代の物語で,海宮遊幸や海幸彦(隼人の祖先)が山幸彦(天皇の祖先)に降伏する物語などがある。そして神武天皇の物語が続く。日本神話の研究は,戦前は大きな制約を受けた。その自由な研究は戦後になって始められ,文化人類学などにより,外国神話との比較や系統が論じられるようになった。高天原神話は北アジア的な,日向神話は東南アジア的な要素が濃いといわれている。本来の神話としての分析や,政治的に構成された形成・構造については今後の研究がまたれる。
日本政記
にほんせいき @@@LINK=日本政記 日本政記

日本政記
にほんせいき

江戸後期,頼山陽の歴史書
山陽死後の1845年刊。16巻。神武天皇から後陽成天皇に至る漢文体の編年史で,政権の治乱興亡を記述し論評したもの。山陽晩年の代表作
日本製鋼所
にほんせいこうしょ @@@LINK=日本製鋼所 日本製鋼所

日本製鋼所
にほんせいこうしょ

1907(明治40)年,イギリスの資本を導入して室蘭につくられた最初の民間兵器工場
従来日本に軍需品を供給してきたイギリスのアームストロングおよびビッカーズ両社と三井系資本の北海道炭鉱汽船が提携し,共同出資により資本金1500万円で設立。大口径の軍艦砲はほとんどここで製作された。
日本赤十字社
にほんせきじゅうじしゃ @@@LINK=日本赤十字社 日本赤十字社

日本赤十字社
にほんせきじゅうじしゃ

1864年のジュネーヴ条約(赤十字条約)に基づき,傷病者の救済・治療などにあたる国際的な社会事業団体
1877年の西南戦争の際,佐野常民 (つねたみ) らが組織した博愛社に始まり,'86年赤十字条約に加盟,翌年現名称になる。佐野が初代社長。戦時中軍部の統制下,戦時衛生勤務につき軍事的性格の強いものであった。第二次世界大戦後は,人道的見地から災害救護・医療などの社会福祉事業を行う。
日本大衆党
にほんたいしゅうとう @@@LINK=日本大衆党 日本大衆党

日本大衆党
にほんたいしゅうとう

昭和初期の中間派無産政党(1928〜30)
1928年12月,日本労農党を中心に右派の日本農民党,労農派の無産大衆党など7党合同により結成された。紛糾がたえず,結局は労農派がはじき出され,'29年6月には委員長麻生久,書記長河野密で体制を固め,合同前の日本労農党とかわらなくなった。'30年7月全国大衆党へ発展した。
日本鉄道会社
にほんてつどうがいしゃ @@@LINK=日本鉄道会社 日本鉄道会社

日本鉄道会社
にほんてつどうがいしゃ

明治時代,日本最初の民間鉄道会社
1881年旧諸侯・公卿らの金禄公債を資本として創立し,東北線や高崎線を建設。営業成績は良好で私鉄建設の先鞭となる。1906年鉄道国有法により政府に買収された。
日本道徳論
にほんどうとくろん @@@LINK=日本道徳論 日本道徳論

日本道徳論
にほんどうとくろん

明治時代,西村茂樹の著書
1887年刊。東大での講演をまとめたもの。欧化政策を憂い東西道徳を比較しつつ,日本道徳を基軸に,儒教や西洋道徳の長所をとり入れた新国民道徳を提唱国粋主義立場が貫かれている。
日本農民組合
にほんのうみんくみあい @@@LINK=日本農民組合 日本農民組合

日本農民組合
にほんのうみんくみあい

略称「日農」。①1922年4月,賀川豊彦・杉山元治郎 (もとじろう) らが中心となり結成された最初の全国的農民組織
②1931年1月結成された農民運動右派の全国組織
③1946年2月結成された農民組合の全国的統一組織
各地の小作人組合の統一,小作人の地位向上をめざす。しだいに急進化し小作争議を指導。1926・'27年再度分裂したが,'28年右派を除き統一,全国農民組合となる。
平野力三を中心に,全日本農民組合と日本農民組合総同盟が合同し成立。1932年分裂し,以後平野派だけが存続したが'41年解散。
第二次世界大戦後の農民運動の中心であったが,農地改革が進むと沈滞。1949年以後分裂と混乱を重ね,'58年再統一が行われ全日本農民組合連合会を結成した。
日本農民党
にほんのうみんとう @@@LINK=日本農民党 日本農民党

日本農民党
にほんのうみんとう

昭和初期の無産政党の一つ(1926〜28)
日本農民組合を脱した右派の山梨県連合会を中心として,1926年結成された地方政党。幹事長平野力三。党勢ふるわず,'28年日本労農党・無産大衆党と合同して日本大衆党を結成した。
日本之下層社会
にほんのかそうしゃかい @@@LINK=日本之下層社会 日本之下層社会

日本之下層社会
にほんのかそうしゃかい

明治中期の都市下層社会に関する横山源之助の著書
1899年刊。日清戦争後の貧民・職人・労働者・小作人の生活を,みずからの足とで綿密に調査した貴重な資料。貧困と下積みが,戦前型の日本の労働者の運命であった点を鋭くついている。明治中期の労働事情を知るうえで重要視される。
日本橋魚市
にほんばしうおいち @@@LINK=日本橋魚市 日本橋魚市

日本橋魚市
にほんばしうおいち

江戸時代,江戸日本橋の魚市場
16世紀末の徳川家康の江戸入府とともに開設といわれ,幕府御用とともに江戸市民の需要に応じた。大坂雑喉場 (ざこば) と並ぶ魚市場。1923年の関東大震災後,築地魚市場中央卸売市場)に統合された。
日本万国博覧会
にほんばんこくはくらんかい @@@LINK=日本万国博覧会 日本万国博覧会

日本万国博覧会
にほんばんこくはくらんかい

1970年3〜9月,大阪府吹田市千里丘陵で開かれた万国博覧会
略称EXPO'70。万国博覧会は,1928年の国際博覧会条約(パリ条約)によるもの。大阪万博の統一テーマは「人類の進歩と調和」。
日本美術院
にほんびじゅついん @@@LINK=日本美術院 日本美術院

日本美術院
にほんびじゅついん

明治後期に設立し今日に至る美術団体
1898年,岡倉天心が東京美術学校の校長の職を辞して創立,橋本雅邦らが参加。日本画の革新を目ざし,横山大観・下村観山・菱田春草らの俊英が腕をきそい,展覧会(院展)を開き,在野派として文展に対立した。一時,解消して文展に参加したが,1914年大観らが中心となって再興し洋画・彫塑部も設けられたが,'61年以後は日本画のみとなり,現在に至る。
日本プロレタリア文芸連盟
にほんプロレタリアぶんげいれんめい @@@LINK=日本プロレタリア文芸連盟 日本プロレタリア文芸連盟

日本プロレタリア文芸連盟
にほんプロレタリアぶんげいれんめい

1925年12月結成された反資本主義的芸術家の共同戦線団体
略称「プロ連」。『解放』『文芸市場』『文党』『原始』その他の同人を結集して成立。しかし,翌1926年アナーキズムなどの反マルクス主義的要素を排除して,「日本プロレタリア芸術連盟」(プロ芸)に再組織された。
日本平民党
にほんへいみんとう @@@LINK=日本平民党 日本平民党

日本平民党
にほんへいみんとう

明治時代に成立した日本最初の合法的社会主義政党
桂太郎内閣に代わって自由主義的な西園寺公望 (きんもち) 内閣が成立すると,1906年1月,西川光二郎らは日本平民党,堺利彦らは日本社会党の結社届を出し,共に受理され,2月日本社会党第1回大会で合同した。翌'07年2月,日本社会党が結社禁止とされたのち,片山潜らが日本平民党の結社届を提出したが禁止された。
日本町
にほんまち @@@LINK=日本町 日本町

日本町
にほんまち

16〜17世紀,東南アジアにつくられた日本人居留町
朱印船貿易の隆盛時に多数の日本人が東南アジア各地に渡航・定住し,自治をもち日本風に生活できる町を形成。コーチ・ルソン・シャム・カンボジアに散在し,マニラ・アユタヤなどが著名。鎖国後,人員の補充も絶え自然消滅した。
日本民主党
にほんみんしゅとう @@@LINK=日本民主党 日本民主党

日本民主党
にほんみんしゅとう

①1947年3月,日本進歩党を中核として結成された政党(〜'50)
②1954年11月,吉田茂内閣に反対する日本改進党・日本自由党・自由党新党が合同して結成した保守政党(〜'55)
総裁は芦田均。片山哲内閣に7閣僚をおくり,その後芦田内閣を組織したが昭和電工疑獄で分解した。
総裁は鳩山一郎。左右社会党と連携し,'54年12月に鳩山一郎内閣を成立させる。その後,2次にわたり鳩山一郎内閣を組閣。1955年11月,自由党と保守合同して自由民主党を結成した。
日本文徳天皇実録
にほんもんとくてんのうじつろく @@@LINK=日本文徳天皇実録 日本文徳天皇実録

日本文徳天皇実録
にほんもんとくてんのうじつろく

平安前期の歴史書。六国史の第5番目
『文徳実録』。879年完成。10巻。清和天皇の勅命により藤原基経らが編纂した。『続日本後紀』につぎ,文徳天皇1代850年より858年までの編年体の史書。
日本幽囚記
にほんゆうしゅうき @@@LINK=日本幽囚記 日本幽囚記

日本幽囚記
にほんゆうしゅうき

ロシアの海軍中佐ゴローウニンの日本における捕囚生活記録
1816年刊行。ゴローウニンは'11年千島の国後 (くなしり) 島で捕らえられて箱館・松前に2年4か月監禁されたが,'13年,高田屋嘉兵衛尽力で釈放された。世界各国語に翻訳され,日本では '25年に青地林宗らによって『遭厄 (そうやく) 日本紀事』として訳述された。
日本郵船会社
にほんゆうせんがいしゃ @@@LINK=日本郵船会社 日本郵船会社

日本郵船会社
にほんゆうせんがいしゃ

日本の代表的海運会社
1885年,郵便汽船三菱会社共同運輸会社合併によって創設当初近海航路に活躍したが,'93年頃より外国航路を開拓。日露戦争・第一次世界大戦を経て急速に発展し,国際海運界に重きをなした。太平洋戦争大打撃をうけたが立ち直り,世界有数の海運会社となる。
日本郵便蒸気船会社
にほんゆうびんじょうきせんがいしゃ @@@LINK=日本郵便蒸気船会社 日本郵便蒸気船会社

日本郵便蒸気船会社
にほんゆうびんじょうきせんがいしゃ

明治初期に設立された半官半民の海運会社
郵便蒸気船会社・帝国郵便蒸気船会社ともいう。1872年大蔵省と為替会社(特に三井)の資本により設立。東京〜大阪,石巻〜函館,沖縄航路に従事したが '75年解散。所有船舶のうち,12隻は三菱に払い下げられた。
日本霊異記
にほんりょういき @@@LINK=日本霊異記 日本霊異記

日本霊異記
にほんりょういき

平安前期,日本最古の仏教説話集
正しくは『日本国現報善悪霊異記』という。822年ころ成立。全3巻。奈良の薬師寺の僧景戒 (けいかい) の編著。仏教思想に基づく因果応報の説話が多い。唱導文芸で,『今昔物語集』などの説話文学の源流をなす。
日本労働組合総同盟
にほんろうどうくみあいそうどうめい @@@LINK=日本労働組合総同盟 日本労働組合総同盟

日本労働組合総同盟
にほんろうどうくみあいそうどうめい

1946年8月,戦前の友愛会および日本労働総同盟系を中心に結成された労働組合の全国組織
略称「総同盟」。第二次世界大戦の敗戦直後,単一の労組連合会を組織しようとしたが,共産党の全日本産業別労働組合会議(産別会議)に対して先手をうって結成。会長松岡駒吉,組合員86万人。1950年高野実の総主事就任とともに,左派が日本労働組合総評議会(総評)結成へと動いたので,右派の大阪・埼玉の府県連合会などが中心となって ‘51年再建。'54年全日本労働組合会議(全労会議)に加盟し,さらに ‘64年全日本労働総同盟(同盟)を結成,'87年解散し,日本労働組合総連合(連合)に発展。
日本労働組合総評議会
にほんろうどうくみあいそうひょうぎかい @@@LINK=日本労働組合総評議会 日本労働組合総評議会

日本労働組合総評議会
にほんろうどうくみあいそうひょうぎかい

略称「総評」。①1931年4月結成された労働組合の全国組織(〜'34)
②1950年7月11日結成された日本最大の労働組合の全国組織
日本労働組合評議会の系統を受け継ぎ,組合員5000名。内部的対立から1934年11月解散した。
全日本産業別労働組合会議(産別会議)の中で,その極左的動向に反対する民主化同盟を中心に,日教組・国労・炭労など29単産,300万人の組合員で結成。'54年右派勢力は脱退して全日本労働組合会議(全労会議)を結成した。連合の結成により,'89年に解散。
日本労働組合評議会
にほんろうどうくみあいひょうぎかい @@@LINK=日本労働組合評議会 日本労働組合評議会

日本労働組合評議会
にほんろうどうくみあいひょうぎかい

1925年5月結成された左翼労働組合最初の全国組織(〜'28)
略称「評議会」。日本労働総同盟分裂の際,左派組合により結成。共産党の影響をうけ,共同印刷・日本楽器など大小数百の争議を指導した。その後運動が観念的となり停滞し,1928年三・一五事件で弾圧をうけ,4月に解散を命じられた。同年12月日本労働組合全国協議会として再建
日本労働総同盟
にほんろうどうそうどうめい @@@LINK=日本労働総同盟 日本労働総同盟

日本労働総同盟
にほんろうどうそうどうめい

1921(大正10)年結成された,戦前の代表的労働組合の全国組織(〜'40)
友愛会の後身。第一次世界大戦後の恐慌のもとで労働農民運動に新風を吹き込んだが,1923年の共産党弾圧事件ののち,松岡駒吉・西尾末広らの右派が勢力を得,改良主義的・議会主義的傾向が強まり,'25年の第1次分裂で左派は日本労働組合評議会(評議会)を結成。その後,単一無産政党結成問題その他でも,労働組合主義を貫き一貫して左派を排除した。'36年全国労働組合同盟と合同し全日本労働総同盟と改称。'40年解散した。
日本労農党
にほんろうのうとう @@@LINK=日本労農党 日本労農党

日本労農党
にほんろうのうとう

昭和初期の中間派無産政党(1926〜28)
1926年労働農民党を脱党した中間派を中心に結成。幹部には三輪寿壮・麻生久・浅沼稲次郎らがいる。日本労働組合同盟・全日本農民組合を配下とし,対華非干渉運動・電灯料値下げ運動その他の現実政策をめざしたが成果は少なかった。'28年12月小政党を糾合し日本大衆党に発展。'30年全国大衆党,さらに '31年労農党と合同して全国労農大衆党となった。
二毛作
にもうさく @@@LINK=二毛作 二毛作

二毛作
にもうさく

同一耕地で同一年内に2回主要作物を収穫する生産方法(表作=米,裏作=麦・大豆など)
山陽近畿などの先進地域では平安中期に始まり,鎌倉時代に普及し室町時代には関東にも及んだ。しかし,寒冷地域では進まず,東北・北海道などでは現在も一毛作である。
ニュー‐ディール政策
ニュー‐ディールせいさく
New Deal @@@LINK=ニューディール政策 ニューディール政策

ニュー‐ディール政策
ニュー‐ディールせいさく
New Deal

1933〜40年,アメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領が,世界恐慌克服のために実施した一連の強力革新政策
「新規まきなおし」の意。経済上の自由放任を抑え,政府が経済に大きく介入し,農民・労働者の福祉増進政策などがとられ,NIRA(全国産業復興法)・AAA(農業調整法)などが立法化された。特に TVAテネシー川流域開発公社)は有名である。
女御
にょうご @@@LINK=女御 女御

女御
にょうご

天皇の後宮の職名の一つ。天皇の寝所に侍す。位は皇后・中宮につぐ
初め位が低かったがしだいに上がり,平安中期には女御から皇后への昇進が慣例となった。
女房装束
にょうぼうしょうぞく @@@LINK=女房装束 女房装束

女房装束
にょうぼうしょうぞく

平安時代以降,宮廷に奉仕した女房の朝服。俗称を十二単 (じゆうにひとえ) という
晴の装束(儀式などのとき着用)と略服とがある。晴の装束は,袴・単・五衣 (いつつぎぬ) ・打衣・表着 (うわぎ) ・裳・唐衣からなり,略服は唐衣と裳の代わりに小袿 (こうちぎ) を着用した。
女房奉書
にょうぼうほうしょ @@@LINK=女房奉書 女房奉書

女房奉書
にょうぼうほうしょ

奉書形式の文書の一つ
竪紙または折紙に,天皇側近の女房が天皇の勅旨を奉じて,仮名書き・女消息文体でつくる。書き方は雁行 (がんこう) ・散らし書き。鎌倉時代に始まり,室町時代に最も権威をもち明治初期まで使用された。
人形浄瑠璃
にんぎょうじょうるり @@@LINK=人形浄瑠璃 人形浄瑠璃

人形浄瑠璃
にんぎょうじょうるり

江戸時代に栄えた,浄瑠璃に合わせて人形をあやつる日本独特の芸能
傀儡子 (くぐつ) と浄瑠璃が結合して成立。元禄時代(1688〜1704),竹本義太夫・近松門左衛門らが出て舞台芸術として完成,全盛期をむかえたが,明和(1764〜72)ころより衰微し歌舞伎に圧倒された。明治時代以後,文楽座を中心にして興行したが,現在は重要無形文化財として保存されている。人形が3人遣 (つか) いになったのは享保(1716〜36)末ころからのこと。また各地に義太夫節以外の曲によって残存している。
忍性
にんしょう @@@LINK=忍性 忍性

忍性
にんしょう

1217〜1303
鎌倉時代の律宗の僧
号は良観。大和の人。叡尊に師事し,その社会事業を受け継ぐ。初め西大寺に住し,貧民病人を助けたが,ハンセン病者救済施設として奈良に北山十八間戸を営んだ。のち鎌倉に下り,北条長時に迎えられて極楽寺に住し戒律を広めるとともに,貧民救済や道路・橋・井戸などの構築を行った。

人情本
にんじょうぼん @@@LINK=人情本 人情本

人情本
にんじょうぼん

江戸後期の男女の情愛を描写した小説
別名中本 (ちゆうほん) 。19世紀初期から明治初期まで続いた。風俗小説の洒落本から派生し,主として男女の情愛を写実的に描写した。代表作に為永春水の『春色梅児誉美 (しゆんしよくうめごよみ) 』など。天保の改革で風俗を乱すと処罰の対象とされた。
人足寄場
にんそくよせば @@@LINK=人足寄場 人足寄場

人足寄場
にんそくよせば

江戸中期,無宿者や引取人のない刑期満了者の収容施設
1790年,老中松平定信が寛政の改革一環として江戸石川島に設置。大工などの手職をつけ,土工などで得た賃銭を与えて,6年後に出所,正業につかせた。ほかに常陸 (ひたち) ・箱館にも設置した。
忍冬唐草文
にんとうからくさもん @@@LINK=忍冬唐草文 忍冬唐草文

忍冬唐草文
にんとうからくさもん

唐草文様
仁徳天皇
にんとくてんのう @@@LINK=仁徳天皇 仁徳天皇

仁徳天皇
にんとくてんのう

生没年不詳
5世紀前半の天皇
名は大鷦鷯尊 (おおささぎのみこと) ,応神天皇の皇子。『宋書』倭国伝の倭の五王の一人讃または珍に比定される。人民の苦しみを見て,租税を免除し民生安定をはかったという話が記紀に伝えられている。大阪府堺市にある世界最大の大山(大仙陵)古墳は,仁徳天皇の陵墓と伝えられる。

仁和寺
にんなじ @@@LINK=仁和寺 仁和寺

仁和寺
にんなじ

京都市右京区にある真言宗御室 (おむろ) 派の総本山
光孝天皇の勅願をついで,子の宇多天皇が888年に建立。のち宇多天皇は出家後同寺に入り「御室御所」と称し,以後代々法親王が入住した。堂塔のうち本堂・御影堂は紫宸殿・清涼殿の移築で,寛永年間(1624〜44)の建築である。
人別改帳
にんべつあらためちょう @@@LINK=人別改帳 人別改帳

人別改帳
にんべつあらためちょう

人別改江戸時代人口戸籍調査)の帳簿
17世紀以降,宗門改帳と合作された。
寧波
ニンポー @@@LINK=寧波 寧波

寧波
ニンポー

中国浙江 (せつこう) 省東部にある貿易港
唐代から明州と呼ばれ,日本からの遣唐船の発着港。宋代(平安中期)以後市舶司 (しはくし) が置かれ,対日貿易の門戸として繁栄した。明代(室町時代)になると,勘合貿易船の入港地と定められ,江戸時代にも寧波船は長崎に来航した。
寧波の乱
ニンポーのらん @@@LINK=寧波の乱 寧波の乱

寧波の乱
ニンポーのらん

1523年,中国寧波でおこった大内氏と細川氏との争い
応仁の乱(1467〜77)後勘合貿易の利権をめぐり,博多商人と結ぶ大内氏と堺商人と結ぶ細川氏が対立。寧波で,細川氏に無効の勘合でだし抜かれた大内氏の船の一行が,細川氏の船を焼打ちした。のち幕府・大内氏は明に釈明し,大内氏が勘合船特権を得,日明貿易を独占した。
額田王
ぬかたのおおきみ @@@LINK=額田王 額田王

額田王
ぬかたのおおきみ

生没年不詳
7世紀後期の女流万葉歌人
大海人 (おおあま) 皇子(天武天皇)の寵愛をうけ十市 (とおち) 皇女を生み,のち天智天皇に召された。豊かな情感性に富む歌風で,初期万葉を代表する歌人。
抜荷
ぬけに @@@LINK=抜荷 抜荷

抜荷
ぬけに

江戸時代の密貿易
鎖国時代,長崎会所の手を経ない貿易は厳罰に処せられたがひそかに行われた。幕末,薩摩・長州藩の武器購入も抜荷であった。また藩の専売制を破って商品を藩の領外に持ち出すことも抜荷といった。
抜け参り
ぬけまいり @@@LINK=抜け参り 抜け参り

抜け参り
ぬけまいり

家人に告げず,無銭寺社,特に伊勢神宮に参詣すること。江戸時代に盛ん。
奴国
なこく @@@LINK=奴国 奴国
ぬこく @@@LINK=奴国 奴国

奴国
なこく

後漢書東夷伝にみえる倭の一小国家
紀元前後,博多湾付近にあった。57年,後漢の光武帝が国王に印綬を与えたが,江戸時代に博多湾内の志賀島 (しかのしま) で発見された「漢委奴国王」の金印がそれだとされる。『魏志』倭人伝によると3世紀前半邪馬台国に服属していた。

奴国
ぬこく

なこく
渟足柵
ぬたりのさく @@@LINK=渟足柵 渟足柵

渟足柵
ぬたりのさく

大化の改新後,蝦夷 (えみし) 征討の前進基地として越後国に置かれた城柵
大化の改新直後の647年,信濃川右岸に設置。現在の新潟市沼垂 (ぬつたり) 付近と推定される。廃止の時期は不詳。

ぬの @@@LINK=布 布


ぬの

奴婢
ぬひ @@@LINK=奴婢 奴婢

奴婢
ぬひ

古代における賤民の一種
奴は男子,婢は女子の奴隷を意味した。律令制では公奴婢 (くぬひ) と私奴婢があり,いずれも家族生活を許されず,売買・譲渡の対象となった。口分田は良民の3分の1を給された。法的には延喜年間(901〜923)に廃止された。
塗屋造
ぬりやづくり @@@LINK=塗屋造 塗屋造

塗屋造
ぬりやづくり

家屋の外周を土で塗りこめる建築様式
土蔵造りの一種江戸時代の享保期(1716〜36)以後,防火上から江戸で発達した。屋根瓦葺にする。
根刈
ねがり @@@LINK=根刈 根刈

根刈
ねがり

を収穫するとき,鉄鎌で根もとから刈りとる方法
それ以前は,稲のだけを石包丁で刈りとる穂首刈が普通。古墳時代からを使用して根刈が行われるようになり,鎌倉時代に一般化した。
根来一揆
ねごろいっき @@@LINK=根来一揆 根来一揆

根来一揆
ねごろいっき

安土桃山時代根来寺僧兵を中心とした根来衆の一揆
戦国時代,鉄砲伝来後,根来衆は鉄砲の製造を行い,その勢力は大きかった。1570年石山合戦が始まると,本願寺に味方して織田信長と戦ったが,'77年降伏。のち '84年小牧・長久手戦いでは豊臣秀吉に抗戦し,'85年秀吉の攻撃をうけて全滅した。
根来寺
ねごろじ @@@LINK=根来寺 根来寺

根来寺
ねごろじ

和歌山県那賀郡岩出町にある新義真言宗の総本山
正しくは大伝法院,根来寺は通称。1130年覚鑁 (かくばん) が高野山に創建したが,彼の死後根来に移る。最盛期には一山の諸堂坊舎2700余宇という。南北朝時代から僧兵の勢力が強く,戦国時代には鉄砲の製造を行っていた。1585年豊臣秀吉に攻められ焼失したが,慶長年間(1596〜1615)に再興された。
根来塗
ねごろぬり @@@LINK=根来塗 根来塗

根来塗
ねごろぬり

朱あるいは朱と黒で塗りわけた漆器の呼称
鎌倉時代,紀州根来寺の僧の手によってつくられたという。寺院の仏器・調度の類で,形は簡素である。
ネルー
Pandit Jawaharlal Nehru @@@LINK=ネルー ネルー

ネルー
Pandit Jawaharlal Nehru

1889〜1964
インドの政治家
インド独立後の最初の首相。ケンブリッジ大学卒。第一次世界大戦中から独立運動に参加,国民会議派の指導者となる。1947年独立後,首相兼外相に就任。'54年中国の周恩来と平和五原則を確認し,'55年アジア‐アフリカ会議(バンドン会議)を主導するなど国際政治に活躍した。
年官・年爵
ねんかん・ねんしゃく @@@LINK=年官・年爵 年官・年爵

年官・年爵
ねんかん・ねんしゃく

平安時代に行われた一種の売官制度
年給ともいう。天皇皇族公卿などに毎年一定数の官職位階を与えるべき者を推薦させ,その任料・叙料を推薦者の所得とした制度。官職については年官,位階については年爵という。10世紀ごろから制度化し,律令政治の衰微拍車をかけた。
年季売
ねんきうり @@@LINK=年季売 年季売

年季売
ねんきうり

中世〜近世における,年限を定めた土地用益権の売買で,年限がくれば所有者にもどった
田畑永代売買禁止令でも,年季売は認められたので,困窮農民はこの形式で米・銭を得た。
年季奉公人
ねんきほうこうにん @@@LINK=年季奉公人 年季奉公人

年季奉公人
ねんきほうこうにん

一定期間,主家に住みこんでその家業に従事した奉公人
江戸時代に武家豪商豪農の家に普及。幕府は初め10年期を限度としたが,1698(元禄11)年互いに納得すれば譜代も許した。しかししだいに短年期になった。
年給
ねんきゅう @@@LINK=年給 年給

年給
ねんきゅう

平安時代に行われた一種の売官制度。
年貢
ねんぐ @@@LINK=年貢 年貢

年貢
ねんぐ

毎年の貢納物の意で,田地にかかる租税
10世紀以降班田収授が行われなくなると,公領・荘園では租・調・庸に代わって年貢・公事 (くじ) ・夫役を課した。年貢は田地に課せられ,米を主とする現物納が原則であったが,鎌倉中期から銭納も始まり,室町時代に年貢の呼称が一般化し,また分銭 (ぶんせん) (銭納)・分米 (ぶんまい) (米納)ともいった。江戸時代には,本途物成 (ほんとものなり) (荘園の年貢に相当)・小物成(公事に相当)を総称し,現物納が原則であった。明治時代以降,地租・租税が公に用いられ,年貢は地主への小作料の別称となった。
年爵
ねんしゃく @@@LINK=年爵 年爵

年爵
ねんしゃく

平安時代に行われた一種の売官制度。➡ 年官・年爵
年中行事
ねんじゅうぎょうじ @@@LINK=年中行事 年中行事

年中行事
ねんじゅうぎょうじ

毎年定まったときに決まった形で行われた行事
宮中や貴族の行事は平安中期に発達。賀茂祭・盂蘭盆 (うらぼん) ・節会など神事・仏事・政務に関するものがきわめて多かった。鎌倉に武家政権が誕生すると,評定始・犬追物 (いぬおうもの) など武家独自の行事もあらわれた。民間の行事は,門松・七夕など全国的なものもあるが,地方差により多様に行われている。
年中行事絵巻
ねんじゅうぎょうじえまき @@@LINK=年中行事絵巻 年中行事絵巻

年中行事絵巻
ねんじゅうぎょうじえまき

平安末期の絵巻物
12世紀後半の成立。60巻。後白河院の命で常盤光長らが描いたといわれ,平安時代の宮中の儀式,民間の行事,風俗などさまざまな行事が描かれている。数次の火災で焼失し,現在住吉如慶 (すみよしじよけい) らが模写した17巻,その他2巻の模本が残っている。平安後期の宮廷行事・都市生活を知る貴重な風俗史資料。
粘土槨
ねんどかく @@@LINK=粘土槨 粘土槨

粘土槨
ねんどかく

古墳の内部に石室を設けず,木棺を埋めて,その周囲を粘土でおおったもの
前期の古墳に多い。
念仏
ねんぶつ @@@LINK=念仏 念仏

念仏
ねんぶつ

仏を念ずる義,転じて仏の名号を唱えること
対象の仏は限定されないが,浄土教の発展以来,「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀仏を念ずることをさすようになった。
念仏踊
ねんぶつおどり @@@LINK=念仏踊 念仏踊

念仏踊
ねんぶつおどり

仏教歌謡や念仏を唱えながら鉦 (かね) ・鼓・拍子に合わせて踊り歩くこと
踊念仏ともいう。元来信仰を得て自然に踊りだしたものであるが,やがて儀礼化した。空也の鉢叩 (はちたたき) 念仏がその最初といわれ,鎌倉後期の一遍もこれを行った。歌舞伎踊の元祖出雲阿国 (おくに) もこれから出発したとされている。

のう @@@LINK=能 能


のう

室町時代に大成された演劇
謡・舞・囃子から構成される総合芸術で,日本最初の演劇形態。雑芸 (ぞうげい) を含んだ平安時代の猿楽から,鎌倉時代に猿楽の能が,田楽 (でんがく) から田楽の能がおこる。室町時代初めごろ,春日神社奉仕の大和猿楽の四座の一つ結崎 (ゆうさき) 座の観阿弥が田楽師一忠・女曲舞 (おんなくせまい) 師乙鶴から学び総合し,子世阿弥がそれに「幽玄」を加え大成した。足利・徳川将軍家が式楽として保護。出し物は脇能(神物)・修羅物など5種350番。現在,観世・宝生 (ほうしよう) ・金剛・喜多・金春 (こんぱる) の各流がある。
能阿弥
のうあみ @@@LINK=能阿弥 能阿弥

能阿弥
のうあみ

1397〜1471
室町中期の画家。東山流茶道の
名は真能 (しんのう) 。足利義教 (よしのり) ・義政に仕え,幕府所蔵の書画骨董の管理をつかさどる。特に水墨画に長じ阿弥派の祖。茶道では書院飾りの法式を考案し,台子 (だいす) 飾り様式を定めた。東山流は禅宗風に小笠原流礼法を加えた貴族向き流派で,三阿弥で完成され,千利休に吸収された。また立花 (りつか) も巧みで,作庭や連歌にも活躍した。

農学
のうがく @@@LINK=農学 農学

農学
のうがく

農業の学問的研究
封建社会では農業は経済の根幹であり,ことに江戸時代,武家社会にとっては農民からの年貢その他の税が最も重要な財源であったため農学の発達を促進した。代表的農書に,江戸初期の『清良記』,江戸中期の宮崎安貞の『農業全書』,江戸後期の大蔵永常の『農具便利論』『広益国産考』,佐藤信淵の『農政本論』など。
農業基本法
のうぎょうきほんほう @@@LINK=農業基本法 農業基本法

農業基本法
のうぎょうきほんほう

1961年に制定された,農業の近代化合理化をめざす農政の基本的構想を示した法律
この法律は,折からの高度成長を背景に,農業生産の転換を図るとともに,農家戸数の減少の中で残存農家の経営規模を拡大して自立経営の定着をめざし,産業としての農業の確立をねらったものであった。しかし,米をはじめとする農産物の過剰問題や地価高騰,若年労働力の流出兼業農家急増などによって,規模拡大や自立経営の育成は進まず,基本法農政は破綻した。'99年7月,GATTウルグアイラウンド合意を受けて,新農業基本法(食料・農業・農村基本法)が成立した。
農業恐慌
のうぎょうきょうこう @@@LINK=農業恐慌 農業恐慌

農業恐慌
のうぎょうきょうこう

昭和初期の農業部門における恐慌
1929年にアメリカで始まった世界恐慌の影響で昭和恐慌がおこったが,特に農村では主要作物である米との価格が暴落し,農家経済が破綻した。'31年には東北地方が大飢饉となり,欠食児童や女子の身売り青田売りなどが社会問題化した。地主の土地取上げに対する小作争議も激増した。
農業全書
のうぎょうぜんしょ @@@LINK=農業全書 農業全書

農業全書
のうぎょうぜんしょ

江戸中期,福岡藩士宮崎安貞の農書
1697年刊。11巻。中国明代の『農政全書』の影響もあるが,主として先進地畿内諸国の巡歴見聞の総合であり,わが国最初の体系的農業技術書として広く流布した。また文字を解さない一般百姓にも理解しやすいように,絵図を多く用いている。近世農業・経済史資料として重要。付録1巻は貝原楽軒の著。
農具便利論
のうぐべんりろん @@@LINK=農具便利論 農具便利論

農具便利論
のうぐべんりろん

江戸後期,大蔵永常 (ながつね) の農業技術書
1822年刊。3巻。全国各地の農具を綿密に調査し,農具の種類・形態・機能を分類,その利害得失を記述した。
農工銀行
のうこうぎんこう @@@LINK=農工銀行 農工銀行

農工銀行
のうこうぎんこう

明治時代,地方の農工業育成を目的として設立された金融機関
1896年制定の農工銀行法に基づき,'98〜1900年にかけて北海道を除く各府県に設立。不動産を抵当に中小農民に資金を供給したが,'20年代に日本勧業銀行に合併された。
直衣
のうし @@@LINK=直衣 直衣

直衣
のうし

平安時代以来の貴族の平常服
形は衣冠・束帯の袍 (ほう) と同じ。正装と異なって官位相当の色以外の重ね色を用いたことから雑袍ともいう。のち礼装に準じ,三位以上の公卿と大臣の子は直衣のままで参内が許された。
農事試験場
のうじしけんじょう @@@LINK=農事試験場 農事試験場

農事試験場
のうじしけんじょう

明治中期,農事に関する試験・研究を行う官立機関
1893年東京に設置。主要農作物の品種改良,肥料管理,土壌・気象・病虫害・農具などに関して試験・研究を行い,日本農業の発展に貢献した。また '90年代以降,道府県立の農事試験場が設立された。
農商務省
のうしょうむしょう @@@LINK=農商務省 農商務省

農商務省
のうしょうむしょう

明治・大正時代,農林・商工に関連する中央行政官庁
松方正義らの意見により,1881年内務省・大蔵省・工部省の農商工管掌事務を統合して設置し,農務・商務・工務などの局を置いた。'85年内閣制度制定にあたり,若干の改変があり,1925年農林省と商工省に二分された。
農政本論
のうせいほんろん @@@LINK=農政本論 農政本論

農政本論
のうせいほんろん

江戸後期,佐藤信淵 (のぶひろ) の農業政策書
1829年成立。9巻。農事を詳述して農政の心得,救民・富国などの方策を論じたもの。
納銭方
のうせんかた @@@LINK=納銭方 納銭方

納銭方
のうせんかた

室町幕府の財政方の一職名
有力な土倉・酒屋業者の一団が,納銭方一衆として土倉役・酒屋役の徴収や保管支出をつかさどり,幕府の財政権を握った。
農地委員会
のうちいいんかい @@@LINK=農地委員会 農地委員会

農地委員会
のうちいいんかい

第二次世界大戦後,農村民主化政策として行われた農地改革の実行機関
1938年制定の農地調整法で設けられたが,'46年2月の第1次農地改革では農地委員小作自作地主の3階層から各5名公選して委員会を構成,同年11月の第2次改革では,選挙により小作5・地主3・自作2の委員を選出し,委員会の計画に従って,国家が農地を強制的に買い上げて農民に売り渡すこととなった。しかし委員会に地主の参加を認めたことは農地改革を不徹底なものとする要因ともなった。'51年農業委員会統合
農地改革
のうちかいかく @@@LINK=農地改革 農地改革

農地改革
のうちかいかく

1945年,GHQ命令で着手された寄生地主制を否定する農地の民主的改革(〜'50)
1945年農地調整法改正による第1次改革の際,日本政府の案では地主側に有利であったので対日理事会の勧告に基づき,'46年自作農創設特別措置法と改正農地調整法の2法により第2次改革が行われた。その内容は,(1)不在地主の全貸付地,在村地主の貸付地1町歩を除いてすべてを国が買収し原則として小作農に売り渡す,(2)小作料の金納化,などで,これにより小作地は改正前の46.8%から13.0%に減少し,寄生地主制はいちおう一掃された。しかし,林地改革は,皇室御料林が国有林となったのみで,山林は解放されず不徹底に終わった。のち'61年農業基本法の成立で小農切り捨て,'65年農地補償法で,旧地主側に有利に展開している。
農地調整法
のうちちょうせいほう @@@LINK=農地調整法 農地調整法

農地調整法
のうちちょうせいほう

1938年国家総動員法とともに公布された,地主・小作関係調整のための法律
戦時統制の一環として農業生産力増進のため利用された。第二次世界大戦後,1946年改正され,自作農創設特別措置法とともに農地改革の基本法となる。
農奴制
のうどせい @@@LINK=農奴制 農奴制

農奴制
のうどせい

マルクス主義による社会構成上の一概念で,封建制度下における生産関係をいう
マルクス主義の唯物史観では,自己保有地をもつ農民(農奴)を生産関係の基盤とし,領主が人格的に農奴を支配することによって成り立つ社会が封建社会であると考える。元来封建制度は,主従制度と恩給制度が結合した人間関係であるとする法制史的な把握が一般的であったが,奴隷制を基盤とする古代社会に続いて農奴制を基軸とする封建社会が成長し,その矛盾から資本制生産様式が成長して近代資本主義社会へと移行するという社会構成全体を把握するマルクス主義的理解が盛んとなるにつれて研究されるに至った。そのために,日本における農奴制の始期についても,荘園制の成立期,鎌倉時代の地頭領主制の成長期,南北朝時代,あるいは太閤検地などと学説が分かれ,いまだに一致していない。これは,農奴のあり方を日本のどの時代の農民の存在形態に求めるかという具体的な研究に際して,概念の把握の混乱がみられることにも原因がある。一般に農奴とは,土地・家族を保有するが領主に隷属して移動の自由をもたない農民と理解されている。
農兵
のうへい @@@LINK=農兵 農兵

農兵
のうへい

江戸末期,正規の封建武士団を補助するため農民を徴集して兵士としたもの
領内の治安維持や沿岸警備にあたった。幕府では江川太郎左衛門の発議で1849年に,ついで土佐・長州・水戸・佐倉などの諸藩でも実施。多くは徴募して鉄砲隊に組織された。
農本主義
のうほんしゅぎ @@@LINK=農本主義 農本主義

農本主義
のうほんしゅぎ

国家経済の上から農業を重んじる思想
明治初期,松方正義らが商工業の発展から取り残された農業の助成を主張。1898年地租増徴の可否が論じられ,谷干城 (たにたてき) が農本主義の立場から田口卯吉論争。その後農本主義は資本主義の発展の中で繰り返し出現した。
農民一揆
のうみんいっき @@@LINK=農民一揆 農民一揆

農民一揆
のうみんいっき

明治前期の農民運動
明治政府の成立後も農民の負担は江戸時代と変わらず,そのうえ激動の不安が加わり,世直し一揆が頻発した。のち徴兵令・学制・地租改正などの政府の施策が農民に重い負担となったので,これらに反対するスローガンを掲げた農民一揆が続発した。ことに1876年には茨城県や東海四県に地租改正反対の大一揆がおきたので,政府は弾圧を加えるとともに,翌年地租の税率を引き下げた。
農民労働党
のうみんろうどうとう @@@LINK=農民労働党 農民労働党

農民労働党
のうみんろうどうとう

大正末期の無産政党
1925年6月,日本農民組合から労働団体に単一無産政党樹立の呼びかけが行われ,その準備の過程日本労働総同盟日本労働組合評議会左右対立が激しく,ようやく12月農民労働党を結成した。書記長は浅沼稲次郎。しかし若槻礼次郎内閣により直ちに解散・結社の禁止を命じられた。
能面
のうめん @@@LINK=能面 能面

能面
のうめん

能楽に用いられる仮面
神・男・女・狂・鬼に大別,さらに曲名・作者名・表情により90種以上の名がある。写実をさけ,喜怒哀楽どれにも通じる中間表情,幽玄で,独立して芸術的価値は高い。東山時代に完成し,桃山期に形式分化された。
乃木希典
のぎまれすけ @@@LINK=乃木希典 乃木希典

乃木希典
のぎまれすけ

1849〜1912
明治時代の軍人
陸軍大将。長州藩出身。藩校明倫館に学び,戊辰 (ぼしん) 戦争・西南戦争に参加。1886年,ドイツに留学し軍制・戦術を研究。日清戦争では歩兵第1旅団長として旅順攻略。'96年台湾総督就任。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻略に成功。のち学習院長などを歴任し,明治天皇崩御に際して妻静子とともに殉死した。国民的英雄として伝説を残す。

野口英世
のぐちひでよ @@@LINK=野口英世 野口英世

野口英世
のぐちひでよ

1876〜1928
明治〜昭和初期の細菌学者
福島県の貧農の家に生まれ,ほとんど独学で医学を修め,伝染病研究所に入所。1900年渡米しロックフェラー医学研究所助手となる。'11年スピロヘータ純粋培養に成功して世界的名声を得,狂犬病・痘瘡・小児麻痺の研究にも業績をあげた。のちアフリカに渡り黄熱病病原体の研究中に感染死した。

野田
のだ @@@LINK=野田 野田

野田
のだ

千葉県北西部,江戸川沿岸にある都市。江戸時代以来の醬油産地
中世,足利成氏 (しげうじ) の家臣野田右馬介の支配地。江戸初期から醬油醸造を開始した。江戸への水運が良く,近江商人進出で発展。近代に入り,1927〜28年の216日に及ぶ野田醬油労組のストライキは有名。'50年に市制施行。
後鑑
のちかがみ @@@LINK=後鑑 後鑑

後鑑
のちかがみ

江戸末期,幕命により成島良譲 (なるしまりようじよう) が編集した室町幕府関係の史書
1853年完成。本編347巻,付録20巻。『本朝通鑑』『徳川実紀』に続く江戸幕府の修史事業で,『吾妻鏡』の体裁にならい,1331〜1597年に至る間の室町幕府関係の史料を編年体に編纂したもの。
ノックス満鉄中立論
ノックスまんてつちゅうりつろん @@@LINK=ノックス満鉄中立論 ノックス満鉄中立論

ノックス満鉄中立論
ノックスまんてつちゅうりつろん

1909年,アメリカ国務長官ノックス(1853〜1921)が英・日・・露・独・清6カ国に提案した満州の鉄道管理案
アメリカの満州進出をめざし,満州の全鉄道を清国に返還し,列国の管理下に置こうとするもの。日・露・英・仏の反対にあい実現しなかった。
野中兼山
のなかけんざん @@@LINK=野中兼山 野中兼山

野中兼山
のなかけんざん

1615〜63
江戸前期の儒学者・政治家
海南学派の谷時中に学んだ。土佐(高知県)藩家老野中直継の養子となり,のち家老として27年間在任。新田開発,河川港湾の整備,茶・紙・漆の専売など殖産興業政策を行った。

野々村仁清
ののむらにんせい @@@LINK=野々村仁清 野々村仁清

野々村仁清
ののむらにんせい

生没年不詳
江戸前期の陶工
通称清右衛門 (せいえもん) 。丹波(京都府)野々村に生まれ,京都仁和寺前で製陶に従事作風は典雅優美で蒔絵 (まきえ) の趣を応用して色絵陶器を創作した。国宝『色絵藤花文 (ふじはなもん) 茶壺』などが代表作で,京焼のといわれる。
ノビスパン

ノビスパン

スペイン領のメキシコ(1522〜1822)
徳川家康は平和通商を奨励し,1610年田中勝介を派遣した。また伊達政宗 (だてまさむね) のをうけた支倉常長 (はせくらつねなが) もこの地を経てヨーロッパに渡った。
信長記
しんちょうき @@@LINK=信長記 信長記
のぶながき @@@LINK=信長記 信長記

信長記
しんちょうき

江戸初期,小瀬甫庵 (ほあん) による織田信長伝記
「のぶながき」とも読む。1622年。15巻。信長の生涯の履歴を追い,事件に従って記した。太田資房 (すけふさ) (牛一 (ぎゆういち) )の『信長公記』をもととし,教訓的視点が強く,史料的価値は低いが,近世初期の史論としてみるべきものがある。

信長記
のぶながき

しんちょうき
信長公記
しんちょうこうき @@@LINK=信長公記 信長公記
のぶながこうき @@@LINK=信長公記 信長公記

信長公記
しんちょうこうき

安土桃山時代,太田資房 (すけふさ) (牛一)の著した織田信長の伝記
「のぶながこうき」とも読む。別名『安土記』。1600年ころ完成。16巻。信長に仕えて戦功のあった太田資房が,信長の入洛以前を首巻とし,1568年から'82年本能寺のまで1年1巻,月日をおって信長の事歴を記述した好史料。

信長公記
のぶながこうき

しんちょうこうき
延売買
のべばいばい @@@LINK=延売買 延売買

延売買
のべばいばい

商品の受け渡し後,一定の期間をおいて代金の決済を行う取引法
江戸中期以降,信用制度が確立してから盛んとなったが,投機的性格強い。米・油・綿・肥料などで特に発達した。
ノーベル賞
ノーベルしょう @@@LINK=ノーベル賞 ノーベル賞

ノーベル賞
ノーベルしょう

スウェーデンの化学者で,ダイナマイト発明者ノーベル(1833〜96)の遺言によって1896年に設けられた賞
毎年,物理学・化学・医学および生理学・文学・平和事業に貢献した人に贈られる。日本人では物理学賞を湯川秀樹(1949),朝永振一郎('65),江崎玲於奈 (れおな) ('73),文学賞を川端康成('68),大江健三郎('94),平和賞を佐藤栄作('74),化学賞を福井謙一('81),白川英樹('00),医学・生理学賞を利根川進('87)がそれぞれ受賞した。
野見宿禰
のみのすくね @@@LINK=野見宿禰 野見宿禰

野見宿禰
のみのすくね

記紀による伝承上の人物
土師 (はじ) 連の始祖とされる。垂仁天皇の皇后が死んだとき,殉葬する人のかわりに埴輪をつくるよう建言したという。
野村吉三郎
のむらきちさぶろう @@@LINK=野村吉三郎 野村吉三郎

野村吉三郎
のむらきちさぶろう

1877〜1964
昭和期の軍人・外交官
海軍大将。和歌山県の生まれ。第一次世界大戦中,駐在武官としてアメリカで勤務。1939年阿部信行内閣の外相として中国問題でアメリカの駐日大使グルー会談。'40年駐米特命全権大使として日米交渉にあたったが,決裂し太平洋戦争に突入した。第二次世界大戦後,参議院議員などを歴任した。

野村望東尼
のむらもとに @@@LINK=野村望東尼 野村望東尼

野村望東尼
のむらもとに

1806〜67
江戸末期の女流歌人・勤王家
名はもと。福岡藩士野村貞貫の妻,死別後剃髪。和歌を大隈言道 (ことみち) に学んだ。平野国臣 (くにおみ) ・高杉晋作ら志士を援助したため,1865年捕らえられ,玄界灘の姫島に流されたが,翌年救出された。著書に歌集『向陵集』『姫島日記』など。
ノモンハン事件
ノモンハンじけん @@@LINK=ノモンハン事件 ノモンハン事件

ノモンハン事件
ノモンハンじけん

1939(昭和14)年,満州国とモンゴルの国境ノモンハン付近でおこった日本・ソ連両軍の衝突事件
ハルハ河事件ともいう。ノモンハン地域の不明確な国境線をめぐって日本とモンゴルが対立し,1939年5月,日本軍は軍事行動を開始。モンゴル側を援助するソ連軍と対戦し,日本の関東軍はソ連機械化部隊により壊滅的な打撃を受け,死傷者約2万人余。この結果,9月に停戦協定が成立し,以後日本は対ソ戦開始に慎重となり,陸軍の機械化に努力した。
祝詞
のりと @@@LINK=祝詞 祝詞

祝詞
のりと

神を祭るとき,神に告げる言葉
祝詞・寿詞 (よごと) ・祓詞 (はらいことば) などの総称。成立は奈良時代以前といわれ万葉仮名を用いた独特の文体・用語。平安時代の『延喜式』には祈年祭以下の諸祭の祝詞を27編おさめる。天皇即位後の大嘗祭には中臣氏が寿詞を奏上するならわしであった。
義良親王
のりよししんのう @@@LINK=義良親王 義良親王

義良親王
のりよししんのう

後村上天皇
ノルマントン号事件
ノルマントンごうじけん @@@LINK=ノルマントン号事件 ノルマントン号事件

ノルマントン号事件
ノルマントンごうじけん

明治中期,条約改正要求の国民運動を誘発した海難事件
1886年10月24日,イギリス貨物船ノルマントン号が紀州沖で難破,船長以下イギリス船員は全員ボートで避難したが,日本人乗客25名全員が水死した。神戸のイギリス領事裁判は船長を無罪としたので,国民の憤りが高まり,告訴によって再審の結果,禁錮3か月の有罪となった。しかし死亡した日本人乗客に対する賠償金は皆無であり,この事件を契機に領事裁判権撤廃要求が高揚した。
野呂栄太郎
のろえいたろう @@@LINK=野呂栄太郎 野呂栄太郎

野呂栄太郎
のろえいたろう

1900〜34
昭和初期のマルクス主義理論家
北海道の生まれ。慶大卒。1927年卒論に『日本資本主義発達史』を書く。'32年『日本資本主義発達史講座』の編集にあたり,講座派の中心となる。共産党員として ‘32年より地下に潜行。'33年逮捕され,拷問のため翌年品川警察署で死去した。

野呂元丈
のろげんじょう @@@LINK=野呂元丈 野呂元丈

野呂元丈
のろげんじょう

1693〜1761
江戸中期の本草学者・医者で,蘭学発達の先駆者
伊勢(三重県)の人。京都に出て,医学を山脇玄修,儒学を並河天民 (てんみん) ,本草学を稲生若水に学んだ。1720年幕府の命で薬草採集に各地を行脚 (あんぎや) 。のち幕府の医官となり青木昆陽とともにオランダ語を学び,日本最初の西洋本草学書『阿蘭陀 (オランダ) 本草和解』12巻を著した。

売位・売官
ばいい・ばいかん @@@LINK=売位・売官 売位・売官

売位・売官
ばいい・ばいかん

律令制下,私財を納めた者に位階や官職を与えること
奈良時代からすでに行われたが,律令体制の破綻に伴い,平安中期に制度化された。私財は朝廷の儀式寺社の造営費などにあてられ,年官や成功 (じようごう) ・重任 (ちようにん) などが行われた。この結果,位階・官職の権威は低下し,国政の乱れる原因にもなった。
俳諧
はいかい @@@LINK=俳諧 俳諧

俳諧
はいかい

室町末期,連歌から生じた五・七・五,17文字の短詩
室町末期,山崎宗鑑・荒木田守武らによって洒落・滑稽を主とする俳諧連歌が派生。江戸初期,松永貞徳の貞門派,ついで西山宗因の談林派,元禄期(1688〜1704)の松尾芭蕉の蕉風がおこり芸術として高められたが,このころは前句付 (まえくづけ) または発句 (ほつく) と呼ばれた。その後盛衰を経て天明期(1781〜89)の与謝蕪村,化政期(1804〜30)の小林一茶らが注目されるが,以後明治時代まで低俗に流れ,明治期に正岡子規・高浜虚子らの俳諧革新運動がおこり,俳句と呼ばれるようになった。
配給制度
はいきゅうせいど @@@LINK=配給制度 配給制度

配給制度
はいきゅうせいど

日中戦争より太平洋戦争,さらに第二次世界大戦後の物資不足に対して実施された統制割当て制度
国家総動員法などにより,生活必需物資(衣料・米・野菜・魚・炭など)は切符制・配給制だったが,一般に「ヤミ」が横行し公定価格は守られなかった。
売券
ばいけん @@@LINK=売券 売券

売券
ばいけん

土地・家屋などの財物の売却証文
沽券 (こけん) ・沽却 (こきやく) 状・売券状ともいう。平安初期までは所定官衙の売買許可書が必要であったが,しだいに売買当事者間で作成されるようになった。売主は売却物に関する一切の文書を引き渡して権利の移転を示した。
廃娼運動
はいしょううんどう @@@LINK=廃娼運動 廃娼運動

廃娼運動
はいしょううんどう

明治〜昭和期,主としてキリスト教団体によって行われた公娼廃止運動
1872年の娼妓解放令で実際に廃娼されたのは2・3の県にとどまったので,婦人矯風会や救世軍を中心に廃娼運動が展開された。1930年末には26府県に廃娼同盟会が生まれ,廃娼法案は毎年くり返し議会に提出された。第二次世界大戦後,'46年GHQが公娼制度廃止の通達を出したが,終戦直後の社会的混乱の中で「必要悪」の名の下に存続。やがて,女性代議士を中心に廃止運動が活発化。 '56年売春防止法が制定され,'58年公娼制度は全廃された。
梅松論
ばいしょうろん @@@LINK=梅松論 梅松論

梅松論
ばいしょうろん

南北朝時代の歴史物語
1349年ころ成立。2巻。著者不詳。足利尊氏・直義 (ただよし) 兄弟が室町幕府を創立する経過から新田義貞の死までを述べた戦記。南朝の『太平記』に対抗し,武家立場から足利政権の正統性を強調し,将軍の隆盛を祝す。粗い散文で書かれているが,批判的精神にあふれ,史料価値も高い。尊氏側近の武将によって著されたものであろう。
陪臣
ばいしん @@@LINK=陪臣 陪臣

陪臣
ばいしん

江戸時代,直参 (じきさん) に対応する武士の階層
間接の家臣」の意で,又者 (またもの) ・又家来 (またげらい) ともいう。諸大名の家臣は石高1万石以上でも将軍に対しては陪臣となった。当時100石につき2〜2人半程度の陪臣をもつのが原則であった。
裴 世清
はいせいせい @@@LINK=裴+世清 裴+世清

裴 世清
はいせいせい

生没年不詳
7世紀初めに来日したの使節
608年,遣隋使小野妹子 (いもこ) の帰国の際,隋の煬帝 (ようだい) の命で来日。同年再び隋に派遣された妹子とともに帰国した。のち唐朝にも仕えた。
陪冢
ばいちょう @@@LINK=陪冢 陪冢

陪冢
ばいちょう

大形古墳(主墳)の傍らに造られた小古墳
陪塚ともいう。近親者や従臣,あるいは副葬品を葬ったといわれる。大山 (だいせん) 古墳などの大前方後円墳では,数基または十数基の陪冢が馬蹄形にとりまいている。
廃刀令
はいとうれい @@@LINK=廃刀令 廃刀令

廃刀令
はいとうれい

1876年,明治政府が軍人・警察官以外の帯刀を禁止した法令
苗字帯刀を武士特権とした士族たちの中には,廃刀令を不満とした者が多く,神風連などの原因となった。
排日移民法
はいにちいみんほう @@@LINK=排日移民法 排日移民法

排日移民法
はいにちいみんほう

大正時代アメリカが日本人の移民の入国を禁止しようとして制定した法律
1924年,太平洋沿岸のアメリカ諸州では,特に日露戦争後,激増した日本人労働者の渡米を制限しようとし,カリフォルニア州議会にを発した排日法が連邦議会でも通過した。これによって明治末期に締結された日米紳士協約は廃棄されることとなった。
排日運動
はいにちうんどう @@@LINK=排日運動 排日運動

排日運動
はいにちうんどう

①大正・昭和期,日本の大陸進出に反対する中国の民族運動
1915(大正4)年,日本の二十一カ条要求受諾を国辱とする中国国民の間におこり,'19年の五・四運動で爆発。大正期〜昭和初期はおもに日貨排斥(日本商品ボイコット)運動。五・三〇事件を経て,'31年の満州事変以来中国共産党が中心となり,'36年の西安事件後の国共合作成立により,抗日民族統一戦線にまとまる。
移民問題についてのアメリカとの政治問題。
廃藩置県
はいはんちけん @@@LINK=廃藩置県 廃藩置県

廃藩置県
はいはんちけん

1871(明治4)年7月,全国の藩を廃止して県を設けた政治的変革
第2の王政復古ともいう。版籍奉還後も封建的藩体制は実質的に存続していたのでこれを廃絶するため,西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが政府の中枢を固め,薩摩・長州・土佐3藩の軍隊の力(御親兵)を背景に廃藩置県を断行した。これにより府藩県三治制は廃され,東京・大阪・京都の3府と302県(のち72県)が成立した。旧藩主は東京在住を命じられ,新たに中央から府・県知事(県令)が任命され,薩長藩閥政権による中央集権体制が完成した。
誹風柳多留
はいふうやなぎだる @@@LINK=誹風柳多留 誹風柳多留

誹風柳多留
はいふうやなぎだる

江戸中・後期順次発刊された川柳
「俳風柳樽」とも書く。1765年初編刊。1838年167編で終刊。初代柄井 (からい) 川柳(24編まで)から5世川柳までの投句を板行した『川柳評万句合 (まんくあわせ) 』の中から数万句を収録。初編から23編までの編者呉陵軒可有 (ごりようけんかゆう) で,初代川柳生存中の24編までにこの小文芸の本質は出つくした観があり,以後狂句調になり,文学性を失った。江戸庶民の生態を知るのに好適な史料
廃仏毀釈
はいぶつきしゃく @@@LINK=廃仏毀釈 廃仏毀釈

廃仏毀釈
はいぶつきしゃく

明治初年,1868年の神仏分離令の実施などによりおこった寺院・仏像・仏具などの破壊運動
平田派国学者や,従来僧侶に圧倒されて不満を持っていた神官らが先頭に立ち,旧弊打破の風潮と結びついて全国的に極端な廃仏運動が展開された。
灰屋紹益
はいやじょうえき @@@LINK=灰屋紹益 灰屋紹益

灰屋紹益
はいやじょうえき

?〜1691
江戸前期の京都の町衆
本阿弥光悦の一門で,茶の湯・歌・蹴鞠 (けまり) などの各種芸能に通じ,その随筆『にぎはひ草』は近世初期の随筆文学としてすぐれている。

羽織袴
はおりはかま @@@LINK=羽織袴 羽織袴

羽織袴
はおりはかま

江戸時代の武士礼服
しだいに民間にも広まった。
破戒
はかい @@@LINK=破戒 破戒

破戒
はかい

明治後期,島崎藤村の長編小説
1906年刊。信州(長野県)の被差別部落民出身の小学校教師瀬川丑松が,近代的自我に目ざめ,ついに父の戒めを破りその出生を告白するまでの苦悩を描く。これによって藤村の作家的地歩は確立し,日本自然主義文学運動が発足した。
破壊活動防止法
はかいかつどうぼうしほう @@@LINK=破壊活動防止法 破壊活動防止法

破壊活動防止法
はかいかつどうぼうしほう

1952年7月21日公布された,サンフランシスコ平和条約('51)後の治安立法
略称「破防法」。1952年4月講和条約発効とともに,占領法規である団体等規正令や占領目的阻害行為処罰令など一連の治安立法が失効するので,それに代わるものとして制定された。公安調査庁の調査に基づき,暴力主義的破壊活動を行った団体に対する解散・活動制限などの処分を公安審査委員会が行う。また公安調査官に大きな権限を与え,政治的目的をもった刑法上の犯罪に対しては加重的規定を設け,より重く処罰するもの。知識人や労働組合の猛烈な反対にあったが成立した。
葉隠
はがくれ @@@LINK=葉隠 葉隠

葉隠
はがくれ

江戸中期の武士道書
『葉隠論語』・『鍋島論語』ともいう。1716年成立。11巻。肥前藩士山本常朝 (つねとも) の口述を門人田代陳基 (つらもと) が筆録したもの。「武士道は死ぬことと見つけたり」に始まる忠節・封建倫理観に貫かれている。
博多
はかた @@@LINK=博多 博多

博多
はかた

福岡市東半部,那珂川以東の港・商業地区
現在の福岡市博多区にあたる。古くは那津 (なのつ) と呼ばれ,三津 (さんしん) の一つに数えられた。律令時代,大宰府の外港として大陸との交通の要地として栄え,日宋貿易・勘合貿易の根拠地となり,室町時代大内氏の支配下に博多商人が活躍した。戦国時代には12人の年行事により自治が行われ,一時豊臣秀吉の直轄地となったが,江戸時代は商業都市として発展した。
博多織
はかたおり @@@LINK=博多織 博多織

博多織
はかたおり

福岡県福岡市で生産される絹織物
16世紀中ごろの天文年間(1532〜55)に博多の人満田彦三郎が,中国の広東 (カントン) 織を習い,天正年間(1573〜92)に帯地を織ったという。横うねのあるかたい地合が特色。江戸末期にかけて全国各地に流行し,現在に至る。
馬韓
ばかん @@@LINK=馬韓 馬韓

馬韓
ばかん

古代,朝鮮半島南西部にあった部族集団
辰韓・弁韓とともに三韓の一つ。2〜3世紀ころ54国に分かれ,4世紀半ば統合されて百済 (くだら) となった。
萩の乱
はぎのらん @@@LINK=萩の乱 萩の乱

萩の乱
はぎのらん

1876(明治9)年,山口県の不平士族が前参議前原一誠を擁して萩でおこした反乱
熊本の神風連の乱,福岡の秋月の乱に呼応して蜂起した前原は士族仲間での徳望も高く,政府にとってはかなりの脅威であったが,海陸からの政府軍の攻撃により約1週間で鎮圧された。